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カテゴリー「詩歌俳諧俳句」の321件の記事

2024/05/19

ブログ二百十六万アクセス突破記念 故父藪野豊昭所蔵 川路柳虹詩集「波」(初版・限定五百部・並製版) 藪野直史全電子化注(注©) PDFルビ附縦書一括版公開

『ブログ二百十六万アクセス突破記念 故父藪野豊昭所蔵 川路柳虹詩集「波」(初版・限定五百部・並製版) 藪野直史全電子化注(注©) PDFルビ附縦書一括版』(1.71MB)を「心朽窩新館」に公開した。画像は、ブログ版画像へのリンクとした。

2024/05/17

故藪野豊昭所蔵 川路柳虹詩集「波」(初版・限定五百部・並製) / 川路柳虹の詩「火の頌歌」・深沢幸雄画・「あとがき」・奥附 / 川路柳虹詩集「波」電子化注~了

[やぶちゃん注:必ず、第一回の電子化の冒頭の私の注を読まれたい。

 本詩篇は━━この詩集の発行された十日後に生まれた私には━━恰も━━私に対して語れた詩篇のような━━気がした…………

 


Hinohomeuta

 

 火 の 頌 歌

 

[やぶちゃん注:「火の頌歌」の標題独立ページ(左ページ。ケント紙印刷挿入綴じ込み)の画像(経年劣化でヤケているため、補正を加えた)。深沢幸雄画には、右下方に『Y.K』の手書きサインがある。この原本のページは、劣化汚損(シミ)が少し見えるので、トリミングの後、清拭補正をした。やや「頌歌」は一般には「じゆか(じゅか)」で、所謂、「オード」(ode)。崇高な主題を、多く人や事物などに呼びかける形式で歌う、自由形式の叙情詩。「しようか(しょうか)」とも読み、「頌賦」(しょうふ)とも言う(個人的には「頌」の別音で「コウ」で読みたくなるのだが)。但し、川路は本文で「頌歌」に「ほめうた」とルビをしているので、ここも「ひのほめうた」と読むべきであろう。さて、この像は、一見、複数の臂を持っているように見えたことから、私はヒンドゥー教の女神ドゥルガー(ラテン文字転写:Durgā)ではないかと思ったのだが、第一連に「破壊と創造の神湿婆(シバ)」と出るので、インドの神シヴァ(Śiva)と知れた。「リグ・ヴェーダ」等のヴェーダ文献では「ルドラ」の名で知られる。ルドラは暴風神の一面のほか、理由なく家畜などに害をなす恐ろしい神であった。それ故、「パシュパティ」(家畜の主)・「シヴァ」(優和なもの)・「マハーデーヴァ」(偉大な神)などの名で宥められた。ブラフマー・ヴィシュヌと並び、ヒンドゥー教の三大神の一神で、「世界を破壊する神」として、恐ろしい一面を残す。インド各地で崇拝されていたさまざまな女神が、パールヴァティー・ウマー・ドゥルガー・カーリーなどの名で、シヴァの配偶神となった。身体に灰を塗り、蛇を首に巻き、髪の毛を乱した苦行者の姿で現れるが、インド各地の数多くの寺院では、女陰の上に立つ男根の形の像(リンガ)の姿で礼拝されている。以上は、主文を山川出版社「山川 世界史小辞典」に拠ったが、そこにあるイラストが、よく一致する。また、当該ウィキの『ナタラージャ(英語版)として踊っているシヴァ。チョーラ朝時代の物。ロサンゼルス・カウンティ美術館。』とキャプションがあるカラー画像もよく符合する。]

 

 

    火 の 頌 歌

 

     

 

わたしは想ふ、あの巨きな祭壇を、

廻(めぐ)る焰の渦にとり捲かれた

破壊と創造の神湿婆(シバ)を。

[やぶちゃん注:この一行目には「を、」の後に「]」のようなものが見えるが、これは植字の際の枠が出っ張ったものと断じて、無視した。]

 

生命の火を、

力の火を、

無数の手の仕業(しわざ)を。

 

その源(みなもと)を、

そのたゆまぬ動きを、

その跳躍を、

その怒(いかり)を、

その歓喜(よろこび)を。

 

おまへは火の肉身、

おまへは火の所業、

おまへは火の頌歌(ほめうた)。

 

おお、内在の焰よ、

わたしの生れぬ以前から

わたしの墓場で朽ち果てる未来(ゆくすえ)まで、

泉のやうに湧きいでる

不可思臓の持続よ。

暴虐の㮙伽(リンガ)よ。

逞しい不屈の

死を征服する力よ。

混沌の中に交って

生命の種子を求める

淸純な血液の種族よ。

想像の力で羽搏きながら、

いつも眼に見える世界を創(つく)ってゆく、

あの雲のやうな自由と、

あの汗のやうな必然とで、

生みいだし、生みいだし、

また砕(こわ)し、うち砕し、

停ることを知らない神湿婆(シバ)よ。

おまへの智慧はどこから来(く)る!

この世界の巧みな構造を、

寸分も違(たが)はぬ秩序と変化を

おまへ自身の肉体に包蔵して

おまへは人間に君臨する。

原子の秘密を解(さと)った人間が

その猾(さか)しらな手で地球を砕さうとも、

おまへの破壊はまだ止むまい、

おまへの創造はまだ止むまい。

[やぶちゃん注:「おまへの智慧はどこから来(く)る!」の「来」は底本では「米」であるが、「来」の異体字には「米」はないから、誤植と断じ、特異的に訂した。]

 

      

 

この世にひとりの嬰児(あかご)が生れた、

神に祝福された生命(いのち)で

声をかぎりに泣きながら。

 

世界に一つの霊(たましひ)が增えた、

加へられた一つの霊(たましひ)よ。

だが、その生命(いのち)は

この人間の世界では

ただ一つの数(かず)にすぎない。

羊水のなかから投げ出された

その「一つ」よ、孤独な生命よ。

血と粘液に染まった花の莟よ。

兩親(ふたおや)は貧しくて、

ふたりの作った分身に対して

ただ悲み惱んでゐる。

おまへの運命の始りが

歓びと涙で充されながら

おまへの吸う乳房の

そのゆたかな含らみのなかに

この世界を呪ふ種子(たね)が播かれてゐる。

 

呪はれた生命よ、━━地上の。だが、

おまへは生きてゆく、

おまへの眼とおまへの手が

いつか自(みづか)らを作ってゆくまで。

その「自ら」を知る理性と本能が

ふたたび妖はしい愛の華を開かす。

それこそ内に潜んだ永遠の

湿婆(シバ)の焰の戯れだ、因果だ。

悲劇がそこから生れる━━

幾代(いくだい)も同じ人間の悲劇が。

[やぶちゃん注:「妖はしい」以下の「」の第二連に出るルビに従い、「まよはしい」と訓じておく。]

 

だが、その戯れは正しい、

それは火の所業だ、

われら心つつましく

その火を讃(たた)へよう。

湿婆(シバ)よ、

おまへの所業に繫(つなが)る宇宙こそ

みんな戯れだ、(大きな)鱒の戯れだ!

 

      

 

燦爛とした星々(ほしぼし)の光りに

人問の愛のとどかぬところで

宇宙はその構図を展(ひろ)げている。

その下で燃えつづける

焰よ、湿婆(シバ)の祭壇よ。

吾ら与へるものも、

また亨(う)くるものも、

この世界ではひとしき所有だ。

劃り立つ岩々の黑い影、

夜の階黑をいや深くする森、

その森の重(かさな)る中の銀灰色の祠堂(しどう)よ、

この存在のおぼろかな中にも

ひとしい「影」として立つ吾ら。

[やぶちゃん注:「劃り立つ」「くぎりたつ」と訓じておく。]

 

まことに所有は影でしかない、

わたしたちは何を有(も)つのか!

わたしたちのこの世にもってきたものは

火葬場で焼かれる肉体、蛆蟲の餌(えさ)となる骨、

わづかな一握の友と埃(ほこり)だけ。

ああ無にひとしい存在よ、

現象は妖(まよ)はしか虛偽(いつわり)か、

今日(きよう)在って明日(あす)は消え去るもの、

輝かしい色と光りに充されながら、

ただ「時」のなかにうごめく陽炎(かげらう)━━

だが、その「影」にのみ頼る吾ら、

その影をまこと美しとおもひ、

まことの所有と信じあひつつ

それと抱きそれと苦しむ吾ら。

そのなかに湿婆よ、

おまへだけが「時」から「時」へと

無際限の力で生きつづける。

焼け爛(ただ)れた朱色(しゆいろ)に輝く

㮙伽よ、生々の立体よ。

尽くるなき神の戯れの激しさに

湧き立つ溶邇(ヨーニ)の泉は水沫(しぶき)をあげ、

おまへの多手はそこから

死滅しても、死滅しても、

あとから、後から生みいだす

創造の秘密を摑む。

ああ、湿婆よ、おまへだけが有(も)つのだ。

[やぶちゃん注:底本では、この「35」ページは「死滅しても、死滅しても、」から、以下の「あらゆる「影」を、湿婆よ!」までであるが、印刷時にこのページだけが、通常より、三字分下って印刷されてしまっている。版組みの誤りであるから、無視した。

「溶邇(ヨーニ)」「ヨニ」とも。サンスクリット語(ラテン文字転写:yoni)。女性生殖器、また、子宮を指す。]

 

      

 

さらば破壊せよ。

この誤ったに世界を。

湿婆よ、その多手をあげて

破壊せよ、錯誤の一切を。

在るものを、死を、悪を、偽りを、

偏(かたよ)った無益な富を、機構を、

あらゆる「影」を、湿婆よ!

おお、円満の智慧、梵(ブラフマ)よ、

おまへの光りはいまどこにある!

手を携えて躍る毘湿奴(バイシユヌ)よ、

おまへの清明はいまどこにあるか!

雲に蔽はれた月夜(つきよ)、

遠くへわたる空の浮蛾(かげろう)、

その微かな羽搏きの生(いのち)よ、

そのほの明るみよ。

哀れな人間の哀訴と屈從と夢よ、

いたづらな虛(むな)しいものへの憧れよ。

[やぶちゃん注:「梵(ブラフマ)」ブラフマン(ラテン文字転写:Brahman)は、本来は、インドのバラモン教思想で説かれる宇宙の根本原理。もとは『聖典「ベーダ」の言葉』、及び、『それが持つ呪力』を意味した。自己の主体的原理である「アートマン」と対比的にも用いられ、この場合、「ブラフマン」と「アートマン」は合一する(「梵我一如」)とされる。そこから転じて、シバやビシュヌとともに、ヒンドゥー教の最高神。後に、前二者にとって代わられ、仏教に取り入れられて、「梵天」となった(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「毘湿奴(バイシユヌ)」ビシュヌ神(同前:Viṣṇu)。漢訳では「毘瑟笯」「毘紐」などとも表記する。ヒンドゥー教に於いて、破壊の神シバと並ぶ最も有力な神格で、持続の役を負う。元来は太陽神で、「天界を三歩で歩く」と言われ、「愛の神」として、信者に平等に恩恵を与え、クリシュナ・ブッダなど十種の化身を現じて、人類を救済するとされる。ブラフマン(梵天)・シバとともに三神一体をなし、神像では正面にブラフマン、右にビシュヌ、左にシバを配す(同前)。]

 

巧みな蜂の巣の技術よ、文明よ、

空そそる巨石の層楼、

地下這ひめぐる黃金蟲の鉄道、

一瞬に地球を廻る蟋蟀(ばつた)のジエツト機よ、

だが吾らの幸福はそこにはないのだ。

彩織りなす光りと影よ。

去れ、去れ、忌はしい諸々(もろもろ)の影よ、

ただ意味を加へよ、この世界に。

建て直せ一切を!

すべての消え去る映像のあとに!

この世界を、不動の実在にまで!

[やぶちゃん注:「蟋蟀(ばつた)」一般には、この漢字は、広義には、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloideaに属するコオロギ類を指示し、「しつしゆ(しっしゅ)/こほろぎ」と読む。時に「きりぎりす」(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis で、青森県から岡山県に棲息するとするヒガシキリギリス Gampsocleis mikado 及び、近畿地方から九州地方を棲息域とするニシキリギリス Gampsocleis buergeri の二種に分ける考え方が一般的である)と読む場合もあるが、私は支持出来ない。通常、コオロギを「バッタ」と読むことは、極めて異例であるが、川路はそのようにルビを振っている。古典文学研究では、「蟋蟀」はコオロギであると私は信ずるものである。より詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」、及び、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」の私の注を参照されたい。]

 

われらの所有は誰のものか、

われらの所有を神に還せよ。

すべての人間の生きる

まことに生きる力の源に!

 

火よ、淸淨にして虛無なる、

虛無にしでまことの実在なる

火よ、面(おもて)を輝かして跳る湿婆(しば)よ、

内在の㮙伽(リンガ)よ、破壊の手に、

創造の恍惚に、燃え上(あが)れ、焰よ、焰よ!

                   (一九四七年)

 

 

[やぶちゃん注:「湿婆(シバ)」は底本では、ルビが「しげ」となっている。誤植と断じ、特異的に訂した。

 以下、川路による「あとがき」。]

 

 

    

 前集「無為の設計」を出してから早くも十年近い月日がたつた。この詩集は終戦後にかかれた作品のなかから選まれた二篇である。このあとにかかれたものと、この二篇とは詩の性格が異るので一冊にまとめ難いため、まづ、先きにこの二篇を離して出すことにした。私の今の詩境はむしろこののちの作品にあるのだが、それはなほ推敲中なので他日に発表を待つことにする。

 この二篇は概して言へば私の作品としては浪漫的なものに属する。「波」はかつて戦後に出た或る小雑誌に発表したものだが数年かかつて推敲し、いくたの行を改删した。「火の頌歌」は全く未発表の作であるが創作後これも推敵改删を経て一年前に完成したものである。「波」に現はれた内容の一部はすでに「勝利」「歩む人」等に現はれてゐる生命の神秘観であり、「火の頌歌」はそれを印度教の思想の中に見出した生命根元の礼讃である。「波」と「火の頌歌」は前集に収めた「雲のうた」を加へて私の三部作の形になつた。

 昭和三十一年十二月            著 者

 

[やぶちゃん注:「無為の設計」昭和二二(一九四七)年三月冨岳本社刊の詩集「無爲の設計」。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、全篇が視認出来る。

『「波」はかつて戦後に出た或る小雑誌に発表したもの』調べたところ、竹井出版発行の雑誌『文藝大學』(二巻二号・昭和二三(一九四八)年二月発行)に掲載されている。

「改删」(かいさく)は「改削」に同じ。語句などを改めたり、除いたりして、文章を直すこと。

「勝利」詩集書名。大正七(一九一八)年曙光詩社刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、原本詩集が視認出来る。

「歩む人」詩集書名。大正一一(一九二二)年大鐙閣刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、原本詩集が視認出来る。

「雲のうた」詩集「無為の設計」巻頭に配された詩。同前で、ここから。]

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附(カラー)。一行字数を現物と一致させた。]

 

Namiokuzuke

 

   詩集 「波」 五百部 限定版 • 著者 川路柳虹 •

   昭和參拾貳年貳月伍日  •  印刷發行  •  發行所   

   東京都中野區大和町貳七四番他 • 西  東  社

   發賣東京都千代田區神田神保町壹之七十字屋書店

   特製本 • 深澤幸雄・腐蝕鋼駈原画入・頒價壹

   千貳百圓  • 拾部限定 • 不許複製

                 並製頒價壹百貳拾圓

 

2024/05/16

ブログ2,160,000アクセス突破記念 故藪野豊昭所蔵 川路柳虹詩集「波」(初版・限定五百部・並製)始動 / 表紙・背・扉標題・「内容」(目次)・深沢幸雄画「波」・川路柳虹の詩「波」

[やぶちゃん注:毎日、亡き父の遺品整理に追われている。父は、あまり本を持っていなかった(これは異常な愛書家である私から見てという意味であって、まあ、通常家庭の父親の書籍量としては多い方ではある)。半分はシュールレアリスム関連の芸術書(父は、よく、旅で宿帳を書く際、「職業欄」に『シュールレアリスト』と書くのを常としていた)、後は、戦後直ぐにのめり込んだ反戦運動(父は戦中は愛国少年で、鎌倉最年少の陸軍航空通信特攻隊として、竹竿の先に模擬地雷をつけて、模擬戦車(木製)の下に飛び込む練習に明け暮れた。敗戦後、百八十度、思想転換をし、日本共産党に入党、「うたごえ運動」の一員となっていた)関連の書籍が大半を占める(特異点としては、鮎の「ドブ釣り」(=毛鉤釣り)の事務局長をやっていた関係上、鮎絡みの本が多い)。画家として認めてくれて、終生、私淑した瀧口修造の単行本の半分、みすず書房の『コレクション 瀧口修造』(全十四冊)、青土社の『アンリ・ミショー全集』(全四冊)等も私が買って贈ったものである。恐らく、蔵書の三分の一ほどは、私経由である。そんな中に、父が昭和三十年代に買った本の中に、川路柳虹詩集「波」(昭和三二(一九五七)年二月五日発行・西東社刊・並製・五百部限定版)があるのを、一昨日、見つけた。

 この詩集の発行日は、私が生まれる十日前に当たる。当時、父母は荏柄天神の敷地にあった貸家の二階におり、画家を目指しつつ、有名な鎌倉駅前の知られた鎌倉彫の主人の弟子となっていた。母は、頼朝の墓の横にあった「頼朝茶屋」で女中をしていた。大学一年の時、訪ねてみたところ、まだ、当時の女店主が現役でやっておられ、私が名乗ると、非常に喜ばれて、お茶と団子を出して呉れた。その時、「私が最初に、『あんた、妊娠してるんじゃないの?』と声を掛けたのよ!」とおっしゃったのを、今もよく覚えている。

 詩人で美術評論家でもあった川路柳虹(明治二一(一八八八)年~昭和三四(一九五九)年)については、サイト「ネットミュージアム兵庫文学館」のこちらのページを見られたい。私は、彼の詩集は所持しておらず、二十代の頃、数冊のアンソロジーで読んだに過ぎない。ブログを始めた翌年の二〇〇七年十一月三日に、『僕の非在の玄室の碑銘に。』という前置きを添えて、詩「秋」を電子化しているだけである。この詩集の詩篇も初めて読んだ。

 この詩集「波」刊行時、川路柳虹は満六十八歳で、この出版の翌年、この詩集『波』及び過去の業績により、彼は芸術院賞を受賞している。

 されば、父の供養代わりとして、この詩集を電子化することとする。それ以外に、私の誕生と強い共時性を持っていることも、何か、偶然でないような気がしたからでもある。現行、この詩集(長詩二篇)を電子化したものは、ネット上には見当たらない。

 なお、本書は目次に当たる『内容』の最後に『装幀及び裝置』として、版画家・銅版画家深沢幸雄(大正一三(一九二四)年~平成二九(二〇一七)年)の名が掲げられてある。父の古い書簡や記録の中に、実は、深沢幸雄氏からの手紙や彼の名があるのを確認した。父は私が生まれてしばらくして、鎌倉彫の修行を終え、エッチングを始めている。されば、この前後に深沢氏と知り合って、この詩集も、或いは、川路氏の詩よりも、深沢氏絡みで、購入したものであったのかも知れない。しかし、今回、この詩篇「波」を電子化して玩味してみたところ、その内容が、父の生きざまや、常日頃、語っていた彼の「人生のポリシー」と異様に似ていることを、強く感じたのも事実である。この詩篇には、確かに――父が――いる――のである。

 さて、問題は――この表紙、及び、「内容」の次の次のページの挿絵「波」、詩「波」の次の詩「火の頌歌」の標題ページの下に配された挿絵の三点をどうするか?――であった。無論、深沢氏の著作権は継続している。しかし、当該原本を販売やオークションに出しているものを調べると、例えば、古書店「書肆田髙」のこちらには、本書の特製本(十部限定)版の販売ページ(既に売切)には、表紙の深沢幸雄氏の版画と推定される表紙絵や、「内容」(目次相当)を開いた次の見開き左ページにある、やはり深沢氏の名を印刷明記した版画の画像がある。「メルカリ」のここには、限定私家版(と「帯」にあるが、これは私が所持するものと同じ五百部版)の表紙の写真があり、その六枚目には、上記深沢氏氏名は印刷明記された版画の画像がある。これらが、深沢氏への著作権を払って画像を載せているとは、まず、思われない。使用許諾の断りも一切ない。謂わば、著作権の存続している人物の挿絵等が含まれていても、その書籍を販売する目的で商品画像として、著作権存続物を対象著作権満了書籍の画像の一部込みで示すことには、許容されていると判断される(但し、これには、若干の著作権に於いての疑問が感じられは。する。例えば、萩原朔太郎の「猫町」(リンク先は私の古い横書サイト版)には、素敵な川上澄生(著作権存続)の挿絵があるが、それを一部たりとも画像として出しているネット上の「猫町」は、古書販売の原本表紙の画像しか存在しないからである)。ともかくも、以上の現状から、深沢氏の版画を配した表紙・背・裏表紙(白紙)、「内容」の後に配されている深沢氏明記の挿絵、詩「火の頌歌」の標題ページの下に配された挿絵(Y.Kと読めるサインが右下方にある)を画像で挿入することとした。それは、以下の「内容」の最後に『装幀及び裝置』とあるのが、深沢氏の版画等も総て『裝置』として川路が認識していることが、私が深沢氏の作品を挿入してよいという判断の強い味方になると考えている。則ち、深沢氏の絵は、詩篇を総合芸術的に豊かにするためのものであり、それらの絵も、川路柳虹の本詩集「波」の芸術的「装置」として存在し、川路名義の詩集としてソリッドなモンタージュの一部であると、川路自身が全体を認識しているからである。これは、深沢氏の絵を「不可分な自己の詩集の身体の一部」と捉えていることに他ならないのであって、絵をカットすること自体、川路は敢然として拒否するもの、と私は思うのである。但し、万一、深沢氏の著作権者から指摘があれば、それらの画を、総てブラックで、マスキングして、処理するつもりでは、ある。

 本詩集は、本文は長詩である詩篇「波」と「火の頌歌」の二篇のみで、最後に「あとがき」が載る。戦後の出版であるが、概ね漢字は新字であるが、時に正字が混交している(例えば、「靑」と「青」が混在している。これは川路の原稿は恐らく「靑」のつもりで書いていたが、植字工が、二種あるそれを、区別せずに用いていて、組んでしまった可能性が高いと私は思う)。それらは忠実にUnicodeで可能な範囲で電子化した。歴史的仮名遣と現代仮名遣も混交しており、拗音・促音もなっていたり、なってなかったりする。特に注意して、そのままで載せてある。基本、五月蠅くなるので、特にママ注記は附さない(誤植と考えられるものは別)。また、二字分ダッシュ「――」は、明らかにざっくりと太く黒い「━━」となっているので、罫線文字で、その通りに見えるように処理した。注は、長詩なので、ストイックに選び、連の切れたところに挿入した。

 因みに、このブログ版を奥附まで、総て終わった後(本回と次回で完結させる積りである)には、縦書一括PDF版(ルビ附)を作成する予定でいる。

 なお、この始動は、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体は、その前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが、昨日、夕刻、2,160,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二四年五月十六日 藪野直史】]

 

Namihyousi

 

川 路 柳 虹 詩 集

 

                    東 京 西 東 社

 

[やぶちゃん注:画像(カラー)は表紙。]

 

 

Namise

 

   波        川 路 柳 虹 詩 集

 

[やぶちゃん注:画像(カラー)は背。]

 

 

Namitobira

 

[やぶちゃん注:画像(カラー)は扉。]

 

詩 集

 

 

 

 

 

 

 

Naminaiyou

 

     内  容

 

 波

 

 火の頌歌

 

 あとがき

 

 裝幀及び裝置   深沢 幸雄

 

[やぶちゃん注:画像(モノクローム。これは補正を加えた)は左ページ。目次相当。但し、リーダと漢字ノンブルは略した。]

 

   波

Namihukasawahanga

             深 沢 幸 雄 画

 

[やぶちゃん注:画像(カラー)は左ページ。ケント紙に印刷挿入綴じ込みされてある。左上方の画題「波」、右下方の画家の姓名と「画」は印刷。

 以下、詩篇「波」全篇。]

 

 

      

 

    一

 

ひろびろとした天の星座、

わたしはおまへの何であるかを知らない。

漆黑(しつこく)の塗板(ぬりいた)にちりばめた数かずの宝石、

瞬きながら速くここの海に

光りを曳く星たちよ。

音も立てない波は従順に

星たちの姿を揺さぶりながら

すこしづつ 彼方(かなた)へ、彼方(かなた)へと動いて行く。

夜(よる)の海は靜かに睡る

愛(いと)しい嬰児(あかご)のやうだ。

この世界に棲むあらゆるものの寝息が

いま二すぢの香煙となって

遠いあの天(てん)へと昇る。

[やぶちゃん注:パート標題「」であるが、実は次のパートは「Ⅱ」となっている。しかし、この「」は「Ⅰ」の横組みではなく、漢数字のゴシックの「一」である。無論、川路は原稿には「Ⅰ」と書いたであろうから、これは植字工の誤植で、校正係も気がつかなかったことになるか。川路は最終校正を行っていないはずはないだろうが、余りにあり得ないだけに、うっかり見落とした可能性もあろう。ともかくも、結果して、イタい誤りではある。]

 

しづかに、だが、はっきりと

何か囁いてゐる波よ、

声をひそめて

おまへの語る言葉を 私は聞かう、

波よ、語つておくれ、

吾らの「在る」意味を━━

生きてゐる、動いてゐる

ひと時も休まず、そして

何ごともないやうな

「時」の、「実在」のこころを。

 

天のどこかが裂けて

征矢のやうに流星が堕ちる。

━━(見知らぬ遠い世界の破片が)

だが、この広い海では ただ、

一すぢの光りにすぎない。

蒼ざめて消え去る星よ、

おまへの隕石がどこかで

大きな穴を地球に穿たうと、

この世界はただ安らかに鼾(いびき)を立ててゐる。

夜、ひそかな祭壇、

星座は宛(さなが)ら高い薔薇窻(ローズ)の色硝子、

その光の下で

誰もゐないこの海の大伽藍の

ひつそりとしに内陣に

ただ「声」だけが訪れる。

波よ、おまへの囁いてゐるその響が、

おなじやうなその旋律が、誦経(ずきよう)のやうに、

え知らぬ一つづきの声に聴かれる。

[やぶちゃん注:「薔薇窻(ローズ)」これは、ゴシック教会建築などのファサードにバラの花のような形で作られた円窓。教会の精緻な大きいステンド。グラス(Stained glass)は、英語で別に“Rose window”とも呼ばれる。英文ウィキの「Rose window」を見られたい。]

 

わたしは懺悔をしようと思はぬ、

わたしには罪とか、贖(あがなひ)とかは解(わか)らない。

この広大な海の上では

さういふ小さな名詞などは

どこかに消えてしまふだらう。

人間世界に犯した一人の

罪も、或ひはおのれ孤りの心の

反逆や、過失や、無智も、

どこかに消えて終ふ。

吾らの観念といふ不熟な果実(くだもの)は

この波に浮く小さな泡沫(あわ)にすぎない。

波は秘(ひそ)かなひびきを

すこしづつ高める、

波は星を戴いたまんまで

遠い陸地を目ざしてうごく。

永い「夜」はただ黙つてゐる、

苦しいばかりの吐息を

その胸に匿しながら。

[やぶちゃん注:「孤り」「ひとり」。

「終ふ」「しまふ」。]

 

わたしは眼を閉ぢる、

声にとつて、見えることは迷はしだ。

波よ、夜(よる)のなかで光る波よ、

さながら生きてゐる獣(けもの)のやうに、

おまへの姿はうねりながら

すこしづつ背丈(せたけ)を伸ばし

一(いち)やうな足どりで飜る。

死から不死へ、

不死から死へ、

転生しつづける存在よ、

わたしの閉ぢた眼(まなこ)は

ただ幻影としておまへを記憶する。

もしか不意にわたしが

このままここの海に落ち込んだとしても、

おまへの姿はやつぱり

消えない一つの波だ、実在だ。そして

おまへの歌ふ声だけが

永続をさながらに。

しかし、わたしは不幸にも

ただ「知らう」としてゐるのだ、

おまへのうねりが杜絕えずつづく、その

永達と変化の意味を 在ることの心を、その確かさを。

[やぶちゃん注:「杜絕えず」「とだえず」。]

 

    Ⅱ

 

かずかずの追憶が影絵のやうに

閉ぢたわたしの瞳にうつる━━

晴やかな海、

瑠璃紺の浜辺、

軽装の少年水夫が

猿(ましら)のやうに帆桁にのぼつて、

帆綱を結び、また切る。

傾いた帆は風を胎(はら)んで

船は水沫(しぶき)をあげ、海へ踊り込む。

帆を掲(あ)げた船よ、勇ましい青春よ、

おまへは何の不信ももたずに

晴れやかな風に微笑(ほほえ)んで

ただ動く海を突つ切る。

 

空がいつか曇つて、

海は鈍(にば)み、波は吼える。

ぴしぴしと鞭打つ風のしはぶき、

三角の紙片(かみきれ)を千切(ちぎ)つた

白いたくさんの帽子が光る。

暗い雲の渦卷━━

垂れさがる大きな魔の翼、盛り上る龍巻(たつまき)、

波は激しく身慄ひしながら

憑(つ)かれたもののやうにただ突き進む。

その激しい懐(ふところ)のなかで

揺さぶられてゐる可憐な船よ。

五月から真冬(まふゆ)のどん底に落ちたやうな

悲しさと驚きに漂泊してゐた

わたしの遠い青春!

 

ぼろぼろになつた船が港へ入(はい)る、

港は安らかな老後のやうに

鈍い秋の陽を浴びて平和だ。

波よ、おまへは嵐などまるで忘れて

無口(むくち)な女のやうにしづかに

意味のない調べで岸を吻(な)める。

昨日(きのう)あつたことを、

あのすさまじい現象を

けろりと忘れてゐる不遜な自然よ、

おまへの残虐に傷いた魂と肉体は

玩ばれた怨みを復讐する術(すべ)もなく

ただ疲労にうつけてゐる。

ちぎれた帆綱に光る秋の陽(ひ)、

一切の破滅のあとに残るこの無為。

 

だが、忘れてゐた意識が蘇る。

生きてゐたといふ意識が、

少しでもある生命(いのち)の温みが

わたしの眼を正しい位置に還す。

破れた船を繕ひ、

新しい出発へと、

新しい航海へと、

希望が薄闇のなかで花をひらく。

    *

いのちとは何だ!

生きてゐるものの不可思議よ!

それは与へられたもので

また絕えず作りいだすものだ!

目的も定めず、終焉(をはり)もなく、

自然が休まない時間に在るやうに、

死と欲望のせめぎを乘り越えて

絕えず前へ前へとすすむ

波よ、おまへこそ生命(いのち)だ、

いのち宛らだ!

[やぶちゃん注:「宛ら」「さながら」。前に出た。]

 

激しい突進で岩に砕け、

散つた水沫(みなわ)はまたもとの海へ還る、

不変の精子、永遠の精液、

そして絕えざる情慾に燃えながら、

淸潔な童貞に生きる、

おまへは処女の羞(はじら)ひとと靑年の夢との

組み交はす不所の組識、朽ちざる細胞、

翼のない不死鳥、力の内在する磁極。

波よ、おまへの動きのただ中にあつて、

おまへの解らなさを解かうと

風は絕えず鞭ち羽搏く。

おお、限りない侮蔑よ、限りない残虐!

しかし、その侮蔑は飛沫となつて空(そら)に還る。

おまへはただ怒り、吼え、応(こた)へ、叫喚し、

いつかまた巧みに不明へと逃れる。

[やぶちゃん注:「羞(はじら)ひとと」はママ。後の「と」は衍字。

「組識」ママ。以下の「細胞」から、明らかに「組織」とあるべきところで、イタい誤植である。]

 

ああ、知の聡明も摧ける、だが

撓(た)はんではならない努力よ。

わたしたちの知るこの世界は

ただ現象と経験との場(ば)にすぎない。

そして不断の時間にかかはる

律動と秩序の世界だ。

宇宙をつくるものの内部を

その意味を、価へを、

吾らに知らすものは何もないのか!

在るものの凡てに從順に、

眼かくしされた世界に生きてゐる吾ら!

波よ、私たちはおまへと同じ息のなかで、

高い しとどかない天をのぞみながら

生き、また死ぬのか!

 

自然も営み、産み、働く。

なにものへの奉仕でもない自(みづか)らの為めに!

波よ、あまりに解り切つてゐて

すこしも解らないこの生きてゐることの謎よ!

どんな手探りで摑まうと解けない意味!

「夜」は深まり、苦悩は重(かさ)なる。

おお、星よ、仁愕光る彼方の実往!

ひとり吾らの知りうる境を乗り超えて、

対数表の煩さい数字を乗りこえて、

あの不可知がなんときれいに光る!

 

         Ⅲ

 

摑まう! みづからの腕を。

捉へよう! みづからの脈膊を。

いのちは「知る」ものではなかつた!

生命(いのち)はただ捉へればよいのだ!

おまへの内にあるすべてが

彼処(かしこ)にあるものと同じだと、

捉へたところに万物が生きるのだ!

 

波よ、だがあの向うの島から

もう夜明けが訪れはしないか。

おまへの一向(ひたむき)な步みが

あの岸ヘ、碧の浜辺へと近づくとき!

 

なにものか、大きな鳥がすぎる、

爽眛の空を斜めに

羽搏く翼に朝の嵐を呼んで、

高く、高く、翼は廻旋する━━

さながら一切を征服する身構えに。

ああ荒鷲よ、陸地を離れて、

おまへは大望を果すといふ風(ふう)に、

波を目がけて突進し、下向し、

また高く、雲のなかへと姿消す。

[やぶちゃん注:「爽眛」(さうまい(そうまい))は「夜明け・暁(あかつき)」。「爽」は「明るい」(その場合は「曙」)、「昧」は「暗い」(その場合は「暁」)の意。]

 

自由が勝利を歌ふその翼よ!

おまへの意慾は周囲を顧みず、

意志の悲劇をすこしも知らない。

ただひた向きに行動する征服の力よ!

しかし、波は永遠に低いこの海にあつて、

絕えず步む一つの生きもの。

荒鷲の死屍(しかばね)が山の岩角に曝されても

波は死なない、波はまだ動いている。

波は動いたまま朝を呼ぶ━━

勝利を知らない捷利に醉つて、

おのづからに来る光明を、

おのづからに生む朝(あした)を、

その不断の滑らかな背(そびら)にうけて……

 

もう星々(ほしぼし)の光りがうすれて、

力ない光芒が空から消える、

ああ日々(ひび)の繰返(くりかへ)し━━

だが、夜明(よあけ)はいつ見でも何といふ希望、

そして、なんといふ新しさだ。

私たちの眼の曇りが晴れて

潔(いさぎよ)い砂浜が光りだす。

漂ふ霧の薄い面紗(ブヱル)を透して

おまへは薔薇いろに燃えてくる!

おお、波よ、不死の継続よ、

輝やかなアドニスの瞳に

うつる下界の青空。

或はよみがへる病後の爽やかさ、

また少年の淨らかな情慾よ、勃起よ、

ふたたび味はふ青春の快味よ。

見よ、太陽の矢が無数に

おまへの飜る裸身の背中を突き刺す。

鱶と鰐鮫が ふかい海底から

小気味よく躍り出す。

美に慄ふ眼(まなこ)が、危さを愛するやうに、

輝きのなかに凡てを把握しようとする力よ。

陰影や、罪悪、卑少や、消え失せる無力よ!

みづからの欲求の激しさに身慄ひする

吾れと吾が身に驚く美への志向に、

その瑞(みづ)みづしさに、若さに、

吾ら雄々しく、いつも、裸形(らぎやう)であれ!

[やぶちゃん注:「面紗(ブヱル)」「めんさ・めんしや(めんしゃ)」と読み、女性が顔をおおう薄絹のこと。「ベール」。“veil”は音写すると、「ヴェール」。

「アドニス」(ラテン文字転写:Adonis)はギリシア神話で、女神アフロディテに愛された美青年。狩りでイノシシに突き殺された時、その血からアネモネが、女神の涙からバラが生じたとされる。]

 

朝だ、新しい出発だ、

わたしたちは凡てを新鮮に見るのだ。

わたしの胸にある不可知は子供のやうに、

いま、この光りのなかに眼をあける。

おなじ世界だ、しかし異(ちが)つた朝だ。

永達を造型してゆく、酸素のやうな

いつも新鮮な「時間」よ。

波よ、おまへの言葉は

あの暗闇のなかから拔け出て

ふたたび行動の世界に歌ひ出す!

わたしたちはただ観ることで生きよう!

「観ること」はやがて「創り出す」ことだ!

おまへといつしよに思考をいつも

新しく原始から始めよう!

それは激しい「継続」なのだ、常に、

生きまた死につつ始るのだ!

波よ、おまへのしとやかな步調に、

高まりどよもすりズムに、

わたしも裸身となって

この爽やかな朝の嵐に立たう!

波よ 不断の浪よ 永続の波よ、

破壞の波よ 力の波よ。

石のやうな建設を企てず、

流動のうちに創りいだす波よ、

轟きわたる勝利を 霊(たましひ)の電波を

潮(うしほ)となっておなじ響に、また言葉に、

世界のあらゆる果まで呼びかける波よ、

永劫回帰の波よ 波よ 波よ 波よ 波よ!

                 (一九四七年)

[やぶちゃん注:「りズム」はママ。誤植。]

2023/05/15

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「俳人井月」 《警告――芥川龍之介関連随筆に非ず――》

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報』(岩波書店が同年十月から刊行を始め、翌年八月に完結した没後七年目の第二次普及版『芥川龍之介全集』(全十巻)の『月報』(恐らくは第一回配本のそれ)とあるのが初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいる)。本篇はここから。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 なお、私は底本全部を電子化する意志は全くない。特に芥川龍之介がダシの如く使われている随想は興味がない。本篇の前にある、まず、「墨病」は、下島と室生犀星との関係を述べたもので、最後にちょろっと芥川龍之介が出てくるが、電子化の食指は全く動かない。その後に続く「淺草と私」「書話」「素はだかの畫人」の三篇も芥川龍之介とは関係のないものであり、以上の四篇は向後も電子化する気はない。

 では、以下の「俳人井月」は芥川龍之介が出るかというと、実は、やっぱり最後に、ちょろちょろっと、二度、出るだけ、である。但し、下島は井上井月の研究家であり、大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房)の「跋」を芥川龍之介は書いており、その出版を龍之介は後押しもしている。龍之介の跋文は私の『《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 「井月句集」の跋』で電子化しているので見られたい。

 芥川も愛した俳人で、「乞食井月」の異名で呼ばれる井上井月(文政五(一八二二)年?~明治二〇(一八八七)年)は信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた、私も熱愛する奇狂俳人である。ウィキの「井上井月」によれば、『井月は自身の句集は残さなかったが、伊那谷の各地に発句の書き付けを残していた。伊那谷出身の医師であり、自らも年少時に井月を見知っていた下島勲(俳号:空谷)は、井月作品の収集を思い立ち、伊那谷に居住していた実弟の下島五老に調査を依頼。そして』、この翌大正一〇(一九二一)年に「井月の句集」を出版している。『本書の巻頭には、高浜虚子から贈られた「丈高き男なりけん木枯らしに」の一句が添えられて』おり、『この句が松尾芭蕉』の「野ざらし紀行」の発句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」を『踏まえている点から、虚子が井月を芭蕉と比較していたことが分かる』とあり、『また、下島が芥川龍之介の主治医であった縁から』、「井月の句集」の『跋文は芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』。但し、芥川が『井月の最高傑作と称揚している』「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」の句は、『皮肉にも』、『井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』ともある(これは国立国会図書館デジタルコレクションの「井月全集」の「後記」の「三」で具体に書かれてある。前の「二」の誤伝群のここの左ページ下段最後から二句目がそれ)。さらに、昭和五(一九三〇)年十月には、『下島勲・高津才次郎編集による』「井月全集」(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。白帝書房刊)が出版され、「井月の句集」に『掲載された虚子らの「井月賛」俳句と、芥川の序文は』、『この全集にも再掲され、井月の評価を高める役割を果たした。また、本全集には、井月が残した日記も収録されている』とある。同ウィキには下島が描いた井上井月の肖像(大正一〇(一九二一)年作)の画像も載る。

 こういう因縁から、私は以下の「俳人井月」は私の偏愛する俳人に就いての文章として、電子化することとする。されば、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」ではなく、同カテゴリ「詩歌俳諧俳句」に収納することとする。

 本篇は最後の附記により、昭和六(一九三一)年九月八日の午後七時三十分から、ラジオの中央放送局(東京中央放送局(JOAK)は現在のNHK東京のこと)の「趣味講座」で口演されたもので、その原稿を、恐らくは下島が活字にしたものかと思われる。]

 

俳 人 井 月

 

 内藤鳴雪翁が――秋凉し惟然の後に惟然あり。と咏まれた俳人井月は、現今ではもはや俳壇や文壇の方々には、――アアあの乞食井月か……と、ご合點の行くほど有名になつてゐるやうですが、一般の方々には、――井月なんて一向聞ゐ[やぶちゃん注:ママ。]たこともない俳人だとおつしやるに相違ありません。それは勿論ご尤なことでありまして、去る大正十年かれの句集がまだ出來ない以前にありましては、井月が多年住んでゐた信州でも――と申したいが。實は彼の第二の故鄕でもあり、また現在墳墓の地であります上伊那の人でさえ、それも六十歲前後の特別な人ででもなければ覺えてゐる人が少ないといふほど、名もない埋もれた俳人だつたのであります。

 私は云はば淺からぬ因緣やらから、鄕里に散亂してゐゐ彼の俳句を拾ひ集めまして、――一寸お斷りしておきますことは、かれ井月は元李.自分の俳句の抄錄や手控へを作つておくといふやうな、氣の利いた人物ではありませんので、云はば至る處で咏み放し書きはなしておいたものの中の遺つてゐるものを拾ひ集めまして、去る大正十年の十月に、甚だ不完全ながら初めての彼の句集を作り、世の同好者にお頒けしたやうなわけだつたのであります。

 ところが案外なことには、この乞食井月が順頗る評判になつてまゐりましたばかりでなく、それが動機となつて非常に熱心な硏究家が現れるといふやうなわけで、(その硏究者は伊那高等女學校敎諭の高津才次郞といふ人であります)その結果として昨年十月彼の全集が出來たのであります。普通ならば彼井月も定めし地下に瞑するであらうなどと月並を申すところでありますが、この井月といふ人物は、元來自分を立てたり己れを現はす、即ち名聞といふことを嫌つた傾向の人物であるらしいのですから、――世の中にはいらざるおせつかいをする者もあるものだと、あの無愛嬌面をふくらませてゐるかも知れません。況やマイクロホンを通して彼を談《かた》るといふことなどは、最も不本意であらうと思ひますが、實は斯ういふグロテスクな人物であればこそお話の種ともなり、またその價値もあるのではなからうかと思ひます。

 これから彼の傳記と生活狀態のあらましと、それから彼の藝術卽ち俳句についてザツと述べてみたいと存じます。尤も傳記などと申しますと一寸大げさに聞えますが。實は信州へ入つてからのことが幾分訣《わか》る[やぶちゃん注:「訣」には「別れる」の意しかない。以下、同じ。]だけで、その他は全く不明な風來坊でありますから、遺憾ながらその點は世話がありません。

 井月が越後の國長岡の出身であるといふことは、ある記錄と古老の傳說によりまして確かなやうであります。が、長岡のどういふ處に生れ、どういふそだちをしたものであるかなどといふことは全く不明であります。それでありながら、彼が家を出た動機について一二の傳說が傳へられてゐます。一體生れもそだちも訣らやうな人物に、小說じみた出奔說など勿論眉つばものと云はねばなりません。ただ彼の學文の廣さと深さ、筆蹟の見ごとさなどから考ヘただけでも、相當な敎養あるそだちをした人物に相違なからうと推定されます。

 信濃へはいつてからの最も古い文獻は嘉永五年[やぶちゃん注:一八五二年。徳川家慶(翌年死去)の治世。]で、善光寺大勸進の役人吉村隼人といふ人のお母さんの追弔句がそれであります。試みに逆算すると三十一歲の時になります。それから第二の故鄕としてまた墳墓の地となつた伊那の峽《やまかひ》へ現はれたのは、確實ではありませんが、安政[やぶちゃん注:嘉永の次で元年は一八五五年で、安政は七年まで。]へはいつてからといふことになつてをります。

 信濃へ這入る以前の足跡は彼の遺句と、越後獅子と題する彼が諸國行脚中處々で接した俳人の句を一句づつ書きとめておいて、伊那で版にした小册子によつて確かに窺ひ知ることが出來るばかりであります。それは奥羽から兩毛地方、江戶及び江戶附近、それから東海道沿國、伊勢路、京都、大阪、近畿地方、須磨明石あたりまでの足跡であります。

 そして三十年ちかくも信州殊に伊那の地を放浪して、明治十九年の舊師走、べ伊那村の路傍で行きだをれ[やぶちゃん注:ママ。]になり、戶板に載せられて順送りに送られ、彼の入籍の家即ち上伊那郡都美篶村《みすずむら》[やぶちゃん注:現在の長野県伊那市美篶(グーグル・マップ・データ)。]太田窪[やぶちゃん注:現行の地名は美篶六道原(ろくどうはら)。]の鹽原家へ運びこまれ、そこの納屋で翌二十年三月十日旧暦二月二十六日に死んだのであります。年齢は六十六歲といふことが確かめられました。[やぶちゃん注:今も井月の墓は現存する。グーグル・マップ・データのここ。サイド・パネルの写真も参照されたい。いかにも井月に相応しい摩耗し苔むした墓である。]

――妻持ちしこともありしを着そ始め。といふ彼の句があります。この句から考へますと、どうも若年のころ一度は妻帶したことかあるやうに思へます。

 爰で彼の容貌を一寸申してみませう。勿論寫眞も何も殘してゐない人物ですから、私の幼少時代の印象をそのまま申しあげるまでであります。彼は瘦せてはゐましたが、骨格の逞しい、身長は私の父と比較して五尺六七寸[やぶちゃん注:一・七〇~一・七二メートル。]ぐらゐあつたらうかと思ひます。高濱虛子氏が――丈け高き男なりけん木枯に。と咏まれましたが、――勿論これは身の丈が高いといふ意味ではなく、思想や行ひの高邁を表現した句でありますが、偶然にも彼は丈高き體格の持主であつたのであります。そして頭の禿げた髯も眉毛もうつすらとした質《たち》でありました。眼は切れ長なトロリとした少し斜視の傾きを持ち、何かものを見詰る時は、一寸凄い光りがありました。鼻も口も可成り大がかりで、どうも私は故大隈侯爵と石黑子爵のお顏を見るとよく井月を思ひ出しましたから、何處か似てゐたに違ゐ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]ありません。顏面は無表情の赤銅色で、丸で彫刻のやうな感じでありました。

[やぶちゃん注:「私の幼少時代の印象」下島勳氏は明治三年八月二十五日(一八七〇年九月二十日)長野県伊那郡原村(現在の駒ヶ根市)の生まれであるから、井月の亡くなった時でも、既に満十六である(但し、後で下島は、井月の最晩年には接触していないことを記す)。]

 さて井月の生活狀態はどうかと申しますとこれは全く一處不住の浮浪生活でありまして、例の伊那節で有名な信州伊那の峽を彼處《かしこ》に一泊此處に二泊、氣に入れば三四泊、五六泊も敢て辭するところではありません。また隨所で晝寢もすれば野宿もする。といつたやうな――マア恐る可き行きあたりばつたりといふやつだつたのであります。

 井月の立ち寄る家は大既一定してゐたやうであります。それは何處でもマア名望家或は資產家といつたやうな謂ゆる智識階級または特に俳諧に趣味のあるやうな處でありました。併し如何に名望家資產家でも、俳臭のない處や、吝嗇の家や、イヤに迷惑がる家などには決して立ち寄らなんだらしいのです。そしてグルグルと𢌞つて步いたのであります。

 その風態は全然あなた任せでありますから、丸でおこもさん[やぶちゃん注:「お薦さん」。乞食。]のやうな風態で來ることもあれば、また時には比較的小ざつぱりした身なりをして來ることもありました。

 特に一言しておきたいのは、袴だけは、どんなに汚れてゐても、裾がち切れてゐても、着けてゐたといふことがらであります。――袴着た乞食まよう[やぶちゃん注:ママ。]十六夜。といふ田村甚四郞といふ人の句がありますが、正にその通りだつたに違ゐありません。要するに、人の着せてくれるものを着てゐたのであります、尤もこれは着物に限つたことではありません。食物でも何んでも自分から强て請ひを受けるといふやうなことはなかつたらしいのです。併し彼の好物の酒だけは、さぞ飮みたさうな樣子ぐらゐはしたに相違ありますまい。ここで一寸申上ておくことは、井月を別名乞食井月或は虱井月といつてゐました。斯ういふ生活には虱は勿論つきもので珍らしくありませんが、何處でもこれには惱まされたものに違ゐありませんません[やぶちゃん注:ママ。衍字であろう。]。私の家でも井月の衣類を燒いたり煮たりしたことがありました。私はある夏天龍川の磧の柳の蔭で、石の上に虱を並べて眺めてゐる井月を見たことがありますが、人が立つて見てゐるとも感じぬらしいのでした。マア良寬和尙と同じやうに虱と遊んでゐたのです。どうも虱井月の名は確かに當つてゐると思ひますが、乞食はどんなものかと考へさせられます。なぜと云ふに、井月といふ人物は、譬へ饑餓に迫つても寒氣に身をつんざかれるやうな場合でも、滅多に頭を下げ腰をかがめて人から憐みを請うといふやうな人物でなかつたことは、事實らしいからであります。鄕里あたりでは、酒が好きだからといふので飮せてやり、お腹が空いてゐるだらうと食物を與へ[やぶちゃん注:「食物」の間には半角以上の空隙があるので「食べ物」の脱字の可能性がある。]、寒むからうといつて着せてやつたまでのことで、彼が物を强て請ふたといふやうなことは聞いたことがありません。のみならず、貰つたものを人に與へて平氣だつたのです。その例を一つ擧げてみませうなら私の祖母が寒からうといふので、古い綿入羽織をなほし着せてやつたのですが、三四日の後道で逢つたが、その羽織を着てゐないのです。そこで祖母がたづねたら、乞食が寒むさうだから吳れてやつたと平氣なので、祖母もあきれたさうであります。こんな一例だけでも本質的には乞食どころか、彼の魂は殉敎考者とか聖者とかいつたやうな香氣がすると思ひます。

 私の知つた頃即ち明治十年頃から十五六年頃までは、古ぼはた竹行李と汚れた風呂敷包みを振り分けにして、時々瓢簞を腰にぶらさげてトボトボと鈍い步調で多いてゐたものです。而も減多に餘所見をしないのが特色でありました。晚年の井月を私は知りませんが、餘ほどなおこもさん姿に成り果てたさうであります。伊那へ初めて現れた頃は、恰も尾羽打ちからしたお芝居の浪人といつた風體であつたとのことですから、何だか紙芝居でも見るやうな幻影を感じもします。

 井月は風體が風體ですから犬がほえつく咬みつくで、これには閉口したらしいです。また樣子が樣子ですから惡太郞が動《やや》もすれば石をなげつける、後をつけて惡戲をするで、これにも甚だ苦しめられたらしいです。良寬和尙はよく子供とオハジキや隱れんぼなどをして遊んだものださうですが、井月は犬と子供は大苦手だつたやうであります。

 彼の嗜好は酒でありました。酒仙といつて支那で名づけた仙人がありますが、井月ぐらゐ酒仙の俤《おもかげ》のピツタリした人間を私はいまだ見たことが知りません。特別の場合のほか滅多に錢のある筈もないのに、多少とも常に醉ふことの出來たのは、何といつても彼の美德の然らしめたお蔭げと云はねばなりません。私はあまり酒を好みませんが、井月と酒――こればかりは無くてはならぬもののやうに思へてなりません。

 彼は元來非常な沈默家で、口をきいても低音でよく聽かぬと何を云ふのか我々には訣らないのです。また洒を飮んでもさし亢奮の樣子も見えず多辯になるでもなく、唯グズグズヒヨロヒヨロの度が加はるぐらゐなことでありました。一體井月は醉つてゐるのか醒めてゐるのか、恐らく誰にも區別はつかなんだであらうと思ひます。我々にも訣る井月の言葉で有名なのが一つありました。それは千兩千兩といふのです。これは謝詞、賀詞、感嘆詞、として使用するばかりか、今日は、さようならの挨拶にまで使用する事さヘあるといふ重寶な言葉でした。この千爾で一つエピソードがあります。ある人が道で井月に行逢ひ、何處へ行くかと訊ねたところ、高遠の市へ行くといつたさうです。そこである人が、一文も持たずに市に行つてどうすると戯れたところ、――一文の錢がなくても心せい月。といつたさうであります。少し出來過ぎてゐますが、事實だ。さうでありまして、彼の面目躍如たるものがあります。

 彼の無慾恬淡など今更申上る必要のないほど先刻ご推察であります。またこんな風貌でありながら相當の禮儀を守り、――尤も無用の虛禮などには頓着しなかつたさうですが、場合によつては寧ろ固過ぎるところさえ[やぶちゃん注:ママ。]あつたといふことです。性質は極めて温厚柔順、恰も老牛といつた感じで、全然無抵抗の域にまで達してゐたらしく思はれます。それは曾て爭つたことや怒つたといふところなど見たことも聞いたこともないといふのが事實になつてゐます。それでゐて人並以上の親切心や人情味があつたればこそ、現に生きてゐる老婦人などの中にも、虱や寢小便の厭やな思ひ出も打忘れて、アアいふ人がほんとの聖人といふものでせうといつて、今更ら井月をなつかしんでゐる人が、一人や二人ではありません。

 まづザツと斯んな人物でありましたから、その生活の反映として、技巧も覇氣もない即ち綿入でない[やぶちゃん注:事実を膨らました作りものではないことを言うか。]中々面白い奇行逸話が澤山ありますが、時間がありませんからお話することが出來ません。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「井月全集」の、ここから、実に二十三ページに亙って三十七条もの「奇行逸話」の項(その内、「私」とあるのは下島が実際に記憶している事実に基づいて記したものであると考えられる)がある。事実、非常に興味深いものである。

 それから彼の俳句でありますが、その數は約一千五百句ほどあります。多作の一茶に較べたら七分の一か八分の一に過ぎまいが、既に亡失したものも可成あらうと思ひますから、決して少ない方ではありますまい。

 井月一の俳句にはどんな作があり、またどんな特色があるかといふ問題でありますが、これは中々複雜な問題で簡單に申述べるわけにはまいりません。

 唯今日はご參考までに秋の作の中から、數句のご披露に止めおきます。[やぶちゃん注:一字下げがないが、誤植と断じて(改ページであることから)、下げた。なお、以下の句は、底本では総てが同じところで終わる均等割付となっている。]

 

   初秋や分別つかぬ鳶の顏

   大事がる馬の尾筒や秋の風

   蓮の實の飛びさうになる西日かな

   小流れに上る魚あり稻の花

   鬼灯の色にゆるむや畑の繩

   蜻蛉のとまりたがるや水の泡

   落栗の座を定めるや窪たまり

   はらはらと木の葉まじりや渡り鳥

 

 新聞や雜誌で見ました句評の一二を簡單に述べてご參考に供します。評者の名まへは差控へますが何れも權威ある有名な方々です。

 或る俳人は、萬葉以後、實朝、宗武、元義、曙覽、良寬等が出たやうに、全俳壇を風靡してゐた天保の俗調の中から、然もまだ子規及び其-派の明治新俳句の生れない前に、井月が直に巴蕉七部集ヘ深くつき入り、或は蕪村のやうな寫生句を吐いたといふのは、何としても不思議なことである。だから井月は子規の前驅をしてゐる俳人といつて差支がない、といふのです。

 また或る有名な文士で且つ俳人は、――化政天保以後の俳壇の最髙の圓座へ、即ち一茶と同列の圓座へ手をとつて据えるべき俳人である、と云ひ、蒼虬、卓池、梅室などに比べて逈《はる》かに芭蕉の幽遠に迫り漾ひが深いと云ひ、また井月は素直な發想を試み、一茶は好んで人生即ち小說道に特色を發揮してゐる。一茶は睨んでゐるのに、井月は眺めながら聽かうとしてゐる。ここに二つの翼の方向の違ひが出來、自然、兩翼を形ち作ることになつた云々と云ひ、井月の俳句は淸澄のうちに雅純を含み、殆ど完成された大俳人の俤がある、といつてゐます。

 次手ながら彼の書につき内田魯庵翁は、芭蕉とりウマイと云つてゐると芥川氏から聞きましたが、これは明らかに褒め過ぎであります。併しながら、井月硏究者の高津氏は、硏究動機の第一印象を彼の筆蹟の美に歸してゐるくらゐでありますし、私の父などはよく――姿を見ると、乞食だが、書を見ると御公卿さんだといつてゐました。私は勿論近代稀に見る高雅な書品であると信じてゐます。芥川龍之介氏は、あの井月句集の有名な跋文で、井月を印度の優陀延比丘になぞらへてゐられますが、これは遉《さす》がの井月も一寸微苦笑を禁ずることが出來なからうと存じます。

 最後に、彼はあの幕末から明治初年の極惡い時代に、飽くまで妥協しない理想生活を遂げようとしただけに、勢ひ數奇を極めた乞食生活――虱生活に陷り、あの悲慘ともみえる終末を餘儀なくせざるを得ないハメになつたのであらうと思ひます。或る人が――若し井月をして元祿ならずともせめて化政天保にでもあらしめたら、も少し人間らしい生活が出來たであらう、などと申したこともありましたが、ほんとのことを申しますれば、元祿の已惟然路通ならずとも、芭蕉を始め丈草あたりでさえ[やぶちゃん注:ママ。]、ある意味においてはやはり乞食といつて差支なからうと思ひますから、この道に深く魂を打ちこむ限り、少くも過去の世にありましては、アアいふやうな或は類似の生活に終るのが自然であらうと存じます。私は芭蕉の俳道は詮ずるに、生活の上からはまさしく乞食道であると信じてゐます。――成り金どころか金氣《かねつけ》には頗る緣の遠い餘ほど難儀な道だといふよりほかはありますまい。芭蕉は遇然にも――この道や行く人なしに秋の暮れ。といつてをります。井月は、――この道の神ぞと拜め翁の日。と申してゐます。

 私は珍らしく純眞無垢な、そして芭蕉の思想の實踐者として、正風掉尾のいとも不思議な俳人井月の俤を、聊かながら皆樣にお傳へいたしまして、このお話を了らせて頂ます。さようなら……

(昭和六・九・八・午後七・三〇・中央放送局趣味講座口演) 

2020/09/16

直江木導句集 水の音 PDF縦書版公開

芭蕉最晩年の愛弟子直江木導の死後の句集「水の音」をオリジナル電子化注でPDF縦書版としてサイト版として公開した。私の2020年の電子化注の特異点と言える。

少し疲れた。

2020/09/10

「丈草發句集」(正字正仮名・縦書・PDF版) 公開

本日早朝より、丸一日かけて、「丈草發句集」を正字正仮名の縦書PDFで、先程、公開した。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊の藤井紫影校訂「名家俳句集」の「丈草發句集」パートを使用した。恐らく、完全に電子化され、ストイック乍ら、注を附した内藤丈草の発句集としては、ネット上で最初のものとなったはずである。孤独な境涯の丈草は、今こそ、復権せねばならない、と私は切に願っている。


2020/05/20

「惟然坊句集」をサイト版で公開(縦書版もあるよ!)

昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊の「名家俳句集」に載る「惟然坊句集」を全電子化して、サイト版として公開した。

HTML横書版

HTML縦書版(最近はグーグル・クロームやエッジでも見られます)

の二種を用意した。ストイックにオリジナルの注も附してある。晩年の芭蕉が溺愛した、口語・破格テンコ盛り、妻子を捨てたアウトローのぶっ飛びの句群を味わっていただきたい。

2019/02/03

白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附

[やぶちゃん注:原文は昭和三九(一九六四)年集英社刊田中克己著「漢詩大系 第十二巻 白楽天」のそれに概ね従った(一部の漢字を正式な繁体字に代えた)。訓読は私が本詩篇に出逢った高校二年の時の衝撃的印象記憶に残るものに従っており、田中氏の訓読とは字空けを含み、かなり異なる。また、本詩篇は完全に一つに繋がったものであるが、読み易さを考えて。私の考えるシークエンスごとに一行を空けてある。後に附したものは、私が二十代の終りに授業用に作ったオリジナルな全篇の訳である。これは現在電子化注をしている「和漢三才図会」の「比翼鳥」のために急遽電子化したものである。] 

 

 長恨歌   白居易

漢皇重色思傾國

御宇多年求不得

楊家有女初長成

養在深閨人未識

天生麗質難自棄

一朝選在君王側

囘眸一笑百媚生

六宮粉黛無顏色

 

春寒賜浴華淸池

溫泉水滑洗凝脂

侍兒扶起嬌無力

始是新承恩澤時

雲鬢花顏金步搖

芙蓉帳暖度春宵

春宵苦短日高起

從此君王不早朝

 

承歡侍宴無

春從春遊夜專夜

後宮佳麗三千人

三千寵愛在一身

金屋粧成嬌侍夜

玉樓宴罷醉和春

姊妹弟兄皆列士

可憐光彩生門

遂令天下父母心

不重生男重生女

 

驪宮高處入靑雲

仙樂風飄處處聞

緩歌慢舞凝絲竹

盡日君王看不足

漁陽鼙鼓動地來

驚破霓裳羽衣曲

 

九重城闕煙塵生

千乘萬騎西南行

翠華搖搖行復止

西出門百餘里

六軍不發無奈何

宛轉蛾眉馬前死

花鈿委地無人收

翠翹金雀玉搔頭

君王掩面救不得

囘看血淚相和流

 

黃埃散漫風蕭索

雲棧縈紆登劍閣

峨嵋山下少人行

旌旗無光日色薄

蜀江水碧蜀山靑

聖主朝朝暮暮情

行宮見月傷心色

夜雨聞鈴腸斷聲

 

天旋日轉𢌞龍馭

到此躊躇不能去

馬嵬坡下泥土中

不見玉顏空死處

君臣相顧盡霑衣

東望都門信馬歸

 

歸來池苑皆依舊

太液芙蓉未央柳

芙蓉如面柳如眉

對此如何不淚垂

春風桃李花開夜

秋雨梧桐葉落時

西宮南苑多秋草

宮葉滿階紅不掃

梨園弟子白髮新

椒房阿監靑娥老

夕殿螢飛思悄然

孤燈挑盡未成眠

遲遲鐘鼓初長夜

耿耿星河欲曙天

鴛鴦瓦冷霜華重

翡翠衾寒誰與共

悠悠生死別經年

魂魄不曾來入夢

 

臨邛道士鴻都客

能以精誠致魂魄

爲感君王輾轉思

遂敎方士慇懃覓

排空馭氣奔如電

升天入地求之徧

上窮碧落下黃泉

兩處茫茫皆不見

忽聞海上有仙山

山在虛無縹緲

樓閣玲瓏五雲起

其中綽約多仙子

中有一人字太眞

雪膚花貌參差是

 

金闕西廂叩玉扃

轉敎小玉報雙成

聞道漢家天子使

九華帳裏夢魂驚

攬衣推枕起徘徊

珠箔銀屛邐迤開

雲鬢半偏新睡覺

花冠不整下堂來

風吹仙袂飄颻舉

猶似霓裳羽衣舞

玉容寂寞淚闌干

梨花一枝春帶雨

含情凝睇謝君王

一別音容兩渺茫

昭陽殿裏恩愛

蓬萊宮中日月長

囘頭下望人寰處

不見長安見塵霧

唯將舊物表深情

鈿合金釵寄將去

釵留一股合一扇

釵擘黃金合分鈿

心似金鈿堅

天上人閒會相見

 

臨別慇懃重寄詞

詞中有誓兩心知

七月七日長生殿

夜半無人私語時

在天願作比翼鳥

在地願爲連理枝

天長地久有時盡

此恨綿綿無 

 

●「長恨歌」オリジナル訓読 

 

 長恨歌   白居易

漢皇 色(いろ)を重んじ 傾國を思ふ

御宇(ぎよう) 多年求むれども 得ず

楊家に女(ぢよ)有り 初めて長成し

養はれて深閨(しんけい)に在り 人 未だ識らず

天生の麗質 自(おのづか)ら棄て難く

一朝 選ばれて 君王の側に在り

眸(ひとみ)を囘(めぐ)らして一笑すれば 百媚生じ

六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい) 顏色なし 

 

春寒うして 浴を賜ふ 華淸(かせい)の池

溫泉 水 滑かにして 凝脂(ぎようし)を洗ふ

侍兒 扶(たす)け起すに 嬌(きやう)として力なく

始めて是れ 新たに恩澤(おんたく)を承(う)くる時

雲鬢(うんびん) 花顏(くわがん) 金步搖(きんぽえう)

芙蓉(ふよう)の帳(とばり) 暖かにして春宵を度(わた)る

春宵 苦(はなは)だ短くして 日高くして起き

此れより 君王(くんのう) 早朝(さうてう)せず 

 

歡(くわん)を承(う)け 宴(えん)に侍して 閒暇(かんか)なく

春は春の遊びに從ひ 夜(よ)は夜を專(もつぱ)らにす

後宮の佳麗 三千人

三千の寵愛 一身にあり

金屋(きんをく) 粧(よそほ)ひ成つて 嬌として 夜に侍し

玉樓 宴(えん)罷(や)んで 酔ひて 春に和す

姊妹弟兄(しまいていけい) 皆 土(ど)を列(つら)ね

憐(あは)れむべし 光彩 門(もんこ)に生ずるを

遂に 天下の父母の心をして

男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ 

 

驪宮(りきゆう) 高き處 靑雲に入り

仙樂 風に飄(ひるが)へりて 處處(しよしよ)に聞ゆ

緩歌(くわんか) 慢舞(まんぶ) 絲竹(しちく)を凝(こら)し

盡日(じんじつ) 君王 看れども足らず

漁陽の鼙鼓(へいこ) 地を動かして來たり

驚破(きやうは)す 霓裳羽衣(げいしやううい)の曲 

 

九重(きうちよう)の城闕(じやうけつ) 煙塵(えんじん)生じ

千乘 萬騎(ばんき) 西南に行く

翠華(すゐくわ) 搖搖(えうえう) 行きては復(ま)た止(とど)まり

西のかた 都門を出づること 百餘里

六軍(りくぐん) 發せず 奈何(いかん)ともする無し

宛轉(ゑんてん)たる蛾眉 馬前に死す

花鈿(くわでん) 地に委(す)てられ 人の收むる無く

翠翹(すゐげう) 金雀 玉搔頭(ぎよくさうとう)

君主 面(おもて)を掩(おほ)ひて 救ひ得ず

囘看(くわいかん)すれば 血淚(けつるゐ) 相ひ和して流る 

 

黃埃(くわうあい) 散漫 風 蕭索(せうさく)

雲棧(うんさん) 縈紆(えいう) 劍閣を登る

蛾媚山下 人の行くこと 少(まれ)に

旌旗(せいき) 光り無く 日色 薄し

蜀江 水 碧(みどり)にして 蜀山 靑し

聖主 朝朝暮暮(てうてうぼぼ)の情

行宮(あんぐう)に月を見れば 心を傷ましむるの色

夜雨(やう)に鈴を聞けば 腸(はらわた)を斷つるの聲(おと) 

 

天 旋(めぐ)り 日 轉じて 龍馭(りゆうぎよ)を𢌞(めぐ)らす

此(ここ)に致りて 躊躇して 去る能はず

馬嵬坡下(ばくわいはか) 泥土の中(うち)

玉顏を見ず 空しく死せし處

君臣 相ひ顧みて 盡(ことごと)く衣(ころも)を霑(うるほ)し

東のかた 都門を望み 馬に信(まか)せて歸る 

 

歸り來たれば 池苑(ちゑん) 皆 舊に依(よ)る

太液(たいえき)の芙蓉(ふよう) 未央(びあう)の柳

芙蓉は面(おもて)のごとく 柳は眉(まゆ)のごとし

此れに對して 如何(いかん)ぞ 淚 垂れざらん

春風(しゆんぷう) 桃李(たうり) 花開くの夜(よ)

秋雨(しうう) 梧桐(ごとう) 葉落つるの時

西宮(せいきゆう) 南苑 秋草 多く

宮葉(きゆうえふ) 階(きざはし)に滿つれども 紅(こう) 掃(はら)はず

梨園の弟子(ていし) 白髪新たに

椒房(せうばう)の阿監(あかん) 靑娥(せいが)老ゆ

夕殿(せきでん) 螢 飛んで 思ひ 悄然(せうぜん)

孤燈 挑(かか)げ盡くして 未だ眠りを成さず

遲遲たる鐘鼓(しようこ) 初めて 長き夜

耿耿(かうかう)たる星河 曙(あ)けんと欲(す)る天

鴛鴦(ゑんあう)の瓦 冷ややかにして 霜華(さうくわ)重く

翡翠(ひすゐ)の衾(しとね) 寒うして誰(たれ)とか共にせん

悠悠たる生死 別れて年を經たり

魂魄 曾て來たりて夢に入らず 

 

臨邛(りんきよう)の道士 鴻都(こうと)の客(きやく)

能(よ)く精誠(せいせい)を以つて 魂魄を致す

君王 展轉(てんてん)の思ひに感ずるが爲(ため)に

遂に 方士をして慇懃(いんぎん)に覓(もと)めしむ

空(くう)を排(はい)し 氣に馭(ぎよ)して 奔(はし)ること 電(いなづま)のごとく

天に升(のぼ)り 地に入りて 之れを求むること 遍(あまね)し

上(かみ)は碧落(へきらく)を窮め 下(しも)は黃泉(こうせん)

両處 茫茫(ばうばう)として 皆 見えず

忽(たちま)ち聞く 「海上に仙山有り

山は虛無縹緲(きよむへうべう)の閒(かん)に在り」 と

「樓閣 玲瓏(れいろう)として 五雲 起こり

 其の中(うち) 綽約(しやくやく)として 仙子(せんし)多し

 中に 一人(ひとり)有り 字(あざな)は太眞(たいしん)

 雪の膚(はだへ) 花の貌(かんばせ) 參差(しんし)として是れなり」と 

 

金闕(きんけつ) 西廂(せいしやう) 玉扁(ぎよくけい)を叩き

轉じて小玉(せうぎよく)をして 雙成(さうせい)に報(ほう)ぜしむ

聞道(きくなら)く 漢家(かんけ)天子の使ひなりと

九華帳裏(きうくわちやうり) 夢魂(むこん) 驚く

衣(ころも)を攬(と)り 枕を推(お)し 起(た)ちて徘徊す

珠箔(しゆはく) 銀屛(ぎんぺい) 邐迤(りい)として開く

雲鬢(うんびん) 半ば偏(かたむ)きて 新たに睡りより覺(さ)む

花冠(くわくわん)整へず 堂より下(くだ)り來たる

風は仙袂(せんべい)を吹きて 飄颻(へうえう)として舉がり

猶ほ 霓裳羽衣の舞(まひ)に似たり

玉容(ぎよくよう) 寂寞(せきばく) 淚 闌干(らんかん)

梨花(りか) 一枝(いっし) 春 雨を帶ぶ

情(じやう)を含み 睇(てい)を凝らし 君主に謝す

一別 音容 兩(ふた)つながら 渺茫(べうばう)

昭陽殿裏(せうやうでんり) 恩愛 

蓬萊宮中(ほうらいきゆうちゆう) 日月(じつげつ) 長し

頭(かうべ)を囘(めぐ)らし 下(しも) 人寰(じんくわん)を望む處

長安を見ず 塵霧を見る

唯だ 舊物(きうぶつ)を將(も)つて深情を表はす と

鈿合(でんがふ) 金釵(きんさ) 寄せ將(も)ち去らしむ

釵(さ)は一股(いつこ)を留(とど)め 合(がふ)は一扇(いつせん)

釵は黃金(わうごん)を擘(さ)き 合は鈿(でん)を分かつ

但(た)だ心をして 金鈿(きんでん)の堅きに似しむれば

天上 人閒(じんかん) 會(かなら)ず相ひ見(まみ)えん 

 

別れに臨みて 慇懃(いんぎん)に重ねて 詞(ことば)を寄す

詞中(しちゆう) 誓ひ有り 兩心のみ 知る

七月七日(しちぐわつなぬか) 長生殿

夜半 人無く 私語(しご)の時

 「天に在りては 願はくは比翼の鳥と作(な)り

  地に在りては 願はくは連理(れんり)の枝(えだ)と爲(な)らん」と

天長く 地久しきも 時有りて 盡(つ)く

此の恨みは 綿綿として ゆるの期(とき) 無からん

 

 

「長恨歌」私訳

 

  長恨歌 

漢の帝(みかど)は色好みで、絶世の美女を求めて止まぬ。

帝の地位に就いてからというもの、ずっと求め続けたけれども、得られない。

さて。ここに楊家の娘がいた。成年になったばかり。

奥深い部屋で、大事大事に育てられてきたので、世間ではその器量は知られていなかった。

しかし、天生の美貌、そのまま打ち捨てられてはおかれない。

ある日、特に選ばれて、帝に召し出された。

瞳をめぐらして、ちょっと微笑(ほほえ)めば、ありとある魅力が生まれ、

後宮(こうきゅう)のあまたの美女も色褪(いろあ)せて見えるほど。

 

春まだ寒い頃、帝から華清池に入ることを許された。

温泉の湯は、白くむっちりとした肌を、滑らかにつたっていく。

上がろうとして、お付きの者が助け起こすと、のぼせて、なよなよと、力もない。

さあ、支度整い、帝の愛を受けるときがきた。

豊かな美しい髪、花のかんばせ、揺れる黄金のかんざし。

蓮の花を縫い取ったカーテンの中は、暖かだ……春の宵は過ぎてゆく……。

ああ、春の宵はひどく短い。帝はやっと昼になってお起きになる。

これより、帝は早朝の政務をおやめになった。

 

帝のお呼びで、うたげのお供。一人になれる暇もない。

春は春で物見遊山にお連れになり、夜は夜で貴妃一人をご寵愛。

後宮には三千人の美人。

その三千人分のご寵愛を、貴妃がすっかり独り占め。

立派な御殿は綺麗に飾られ、艶っぽく帝の夜にお付合い。

美しい高殿の宴会が終われば、その酔い姿がこれまた、まるで春に溶け込んでしまいそう。

貴妃の一族は、皆、諸候に取り立てられ、領地を得る。

ああ、うらやましい! 家の栄えぶり!

遂にこの世の親に、「男なんぞ役にも立たぬ、

 女を産んで玉の輿(こし)、女の子をこそもうけよう。」と思わせるようになったほど。

 

雲にそびえる華清宮、うたげも今や最高潮。

仙界の楽のそれかと思わせる、妙(たえ)なる音(ね)が風に乗ってそこここに聞こえ、

静かでゆったりとした歌や舞い、見事に響き合う管弦の音(ね)。

帝は、日がな一日見ていても、飽きることを知らない。

……しかし……漁陽の辺りから……攻め太鼓の低い音が……大地を揺り動かして聞こえてくる……。

……それが……折りから舞っていた……霓裳羽衣の曲を……断ち切った…………。

 

都の城門には、もうもうたる土ぼこり。

落ちのびる帝の長い行列は、西南の蜀を目指して行く。

帝の旗を付けた車は、ゆらゆら揺れて、ちょっと行っては、じき、止まる。

城門を出でて、西へほどなく、

帝の直属の兵たちは、貴妃の断罪を求め、一歩たりとも動かなくなった。

……もはや、どうしようもない。

美しい眉の美人は、帝の車を引く馬の前で、死んだ。

美しい花鈿は、地に捨てられて、拾う者もなく、

ああ、それだけではない、数多(あまた)の美しい髪飾り……。

帝は正視できず、面を覆うばかり……。

振り返る帝の頬を、血の交じった涙がつたってゆく……。

埃交じりの風がさびしく、

蜀の桟道は雲の中に登って行くように険しい。

峨嵋山の下、行く人もなく、

行列の旗も色褪せて、日の光も薄い。

蜀の川の水は、どこまでも緑に、蜀の山々は、どこまでも青い。

ああ、推して知るべし、朝な夕な貴妃を思う帝の心。

行宮(あんぐう)に月を見ても、心(こころ)傷つき、

夜の雨に鈴の音(ね)を聞いても、はらわたが断ち切れるような悲しみを覚える。

 

天が巡り、地が転じ、世情が一変して、帝の車は長安へ。

途中この地に至って、歩み進まず、立ち去ることも、出来ぬ。

馬嵬坡(ばかいは)の、泥土の中、

もはや、あの白玉のような美顔の貴妃は見えぬ……むざむざと死んでいった場所……。

君臣は互いに顔を見合わせては、皆、涙で衣(ころも)を濡らす。

帝は、東のかた、長安を望み見ながら、ただ馬の歩むにまかせて、とぼとぼと帰ってゆく。

都に戻れば、宮中の池も庭も、もとのまま。

太液池の蓮の花、未央宮の柳も、あいも変わらぬ美しさ。

その蓮の花は貴妃の顔に似て、その柳の葉は、あの人の眉のよう。

この景色に向かって、どうして涙を流さずにいられようか。

春風(はるかぜ)吹く、桃や李(すもも)の花咲くのどかな夕べも、

秋雨(あきさめ)降る、梧桐(あおぎり)の葉の寂しく散る時も、哀しみは尽きず、

上皇の御座所、西の宮殿、南の御苑は、秋ともなれば、草深く、

宮殿の木の葉は、階段(きざはし)に満ちて、紅(くれない)。訪ねる人もなく、それを掃き清める者も、いない。

梨園の音楽所で玄宗に楽曲を教わった若き楽士たちも、白髪が鬢(びん)に見え初(そ)め、

かつて皇后の御殿の女官長であった若き女房も、いまはすでに年老いてしまった。

夕暮れの御殿に飛ぶ蛍を見ては、心は淋しさにうちひしがれ、

ただひとつの燈火の芯(しん)を、掻(か)き上げ尽くし、それが消えた後(あと)も、まだ眠りにつくことが、できぬ。

時を知らせる鐘や太鼓の音(おと)も、いかにも遅く思われて、夜長(よなが)を感じ始める、秋。

銀河は淡く輝いているが、はや、夜も明けようとしている空。

屋根の鴛鴦(おしどり)をかたどった瓦も、冷ややかに、霜を置いて重たげに見え、

翡翠(かわせみ)の雌雄(つがい)が仲よく縫い取りされた夜着(よぎ)は冷たく、ただ一人寝の淋しさを、かこつ、ばかり。

生きている者と死んだ人とは、果てしなく遠く隔たり、別れて長く、年を経た。

貴妃の魂が玄宗の夢にも入って来ぬのは、まことに、淋しい限り。

 

蜀の臨邛(りんきょう)の道士が、長安に旅人として来ていた。

不思議な精神力で、よく魂を招くことが出来るという。

おそばの者は、玄宗の毎夜の煩悶に、同情し、

ついにこの方術の行者(ぎょうじゃ)に、貴妃の魂を心をこめて尋ねさせることとなった。

方士は、風を押し開き、雲霧に乗り、電光の如く奔り、

天に登り、地に入って、あまねく、捜した。

上は青空の奥まで、下は黄泉の国まで尋ねたが、

どちらも、果てしなくぼんやり遠く霞んで、貴妃の霊は見えぬ。

ふと聞いた。「東海の彼方に仙山がある。

 その山は、この世を超えた、物影一つ見えない、虚(むな)しい、この世から果てしなく遠い所にある」と。

「林立する高殿は玉の如く輝き、五色の雲が湧いている。

 その中に、たおやかな仙女が沢山いる。

 中に一人、字(あざな)を太真(たいしん)と呼ぶものがおり、

 雪の肌(はだえ)、花のかんばせ、まずは、この者らしい。」と。

 

道士は仙山に至り、黄金の闕のある宮殿の西の袖(そで)部屋に行き、白玉の閂(かんぬき)を叩いて案内を乞うた。

もと呉王夫差の女であった小玉(しょうぎょく)から、もと西王母の侍女であった雙成(そうせい)にと、次々に取りつがれ、太真のもとへと告げられた。

太真は「漢の朝廷の帝のお使い」と聞いて、沢山の花模様のある幄(とばり)の内で見ていた夢も驚き醒め、

紗(うすぎぬ)の衣を打ちかけて裾(すそ)をつまみ、枕を押しやって立ち上がり、「どうしよう」と戸惑って部屋を歩く。

玉の簾(すだれ)や銀の屏風が、連なって折れ曲がり、押し開かれ、ついに彼女が現われた。

雲のように豊かな黒髪は半ば傾き、今やっと眠りから醒めた風(ふう)。

花の冠も整わぬまま、広間から降りて来る。

風が衣のそでに吹いて、ひらひらと挙がり、

やはり、生前に舞った霓裳羽衣の舞の手ぶりに、それは似ていた。

その美しい顔は、寂しげで、涙は、止めどなく、はらはらと、こぼれる。

喩(たと)うれば、一枝(ひとえだ)の梨の花が春雨に濡れているよう。

太真は情をこめた目で、凝(じ)っと見つめ、帝の厚いお情けを謝して、言った。

「一たびお別れ申してより、お言葉もお顔も、果てしなく遠いものとなり、

 昭陽殿であなた様から頂いた恩愛も絶え、

 この蓬莱の宮中では仙境のことゆえ、月日は永遠。

 振り返って下方の人の世を遠く望んでも、

 長安は見えず、ただ塵と霧。

 思い出の品で、せつない私の思いをお示しすることしかできません。

 この青貝(あおがい)を鏤(ちりば)めた香盒(こうごう)と、金のかんざしを、お使いの者に預け、持って行って頂きまする。

 かんざしは黄金(きん)も二つに裂き、香盒は青貝の飾りも半分に外(はず)して。

 ただ、お互いを思う心を黄金や青貝の如く、堅く変わらぬものにしている限り、

 天上と人の世を超え、きっと私たちはお会いすることが出来ましょう。」と。

 

別れぎわに、懇(ねんご)ろに歌をことづける。

そこには二人だけが知っている秘密の誓いが……。

「七月七日(しちがつなぬか)、長生殿、

 夜更け、二人きりの語らいの時、

 『天にあっては願わくは比翼(ひよく)の鳥となり、

  地にあっては願わくは連理(れんり)の枝(えだ)となりましょう。』と。

――天地は永く続くとはいえ、いつかは、必ず、消え去ってしまう――

――しかし――この恨みは――永遠に――尽きることはない――

 

 

2018/11/19

絶望

私は、後、唯一人だけ、村上昭夫の詩を全電子化するのだけを、楽しみにして生きてきた……しかし、遂に来たるTPPの発効によって、その切なる夢は無惨に潰えることとなった……これは実に私の今年の最後の最大最悪の事件となるのだ…………

2018/09/26

鮎川信夫 「死んだ男」 附 藪野直史 授業ノート(追記附)

 
 

死んだ男   鮎川信夫

 

たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

――これがすべての始まりである。

 

遠い昨日……

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、

ゆがんだ顔をもてあましたり

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。

「実際は、影も形もない?」

――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

 

Mよ、昨日のひややかな青空が

剃刀の刃にいつまでも残っているね。

だがぼくは、何時何処で

きみを見失ったのか忘れてしまったよ。

短かかった黄金時代――

活字の置き換えや神様ごっこ――

「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

 

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、

「淋しさの中に落葉がふる」

その声は人影へ、そして街へ、

黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

 

埋葬の日は、言葉もなく

立会う者もなかった。

憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。

空にむかって眼をあげ

きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。

「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

Mよ、地下に眠るMよ、

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

 

   *

「鮎川信夫詩集」(昭和三〇(一九五五)年荒地出版社刊)より。

鮎川信夫(大正九(一九二〇)年~昭和六一(一九八六)年)本名は上村隆一。東京生まれ。早稲田大学英文科中退。昭和一二(一九三七)年、中桐雅夫編集の詩誌『LUNA』、翌年には村野四郎らの『新領土』に参加、昭和一四(一九三九)年森川義信らと詩誌『荒地』を創刊した。諸和一七(一九四二)年十月に青山の近衛歩兵第四連隊に入隊、翌年、スマトラに出征したが、マラリアや結核を発症、昭和十九年五月、傷病兵となって送還され、福井県の傷痍軍人療養所に入所、昭和二〇(一九四五)年四月、外泊先の岐阜県から退所願いを出し、福井県大野郡石徹白村で終戦を迎えている。翌年、詩誌『新詩派』『純粋詩』に参加、昭和二二(一九四七)年、第二次『荒地』を創刊した。同年に発表された本詩「死んだ男」は戦後詩の出発点と称されている。昭和二六(一九五一)年には田村隆一・黒田三郎らを同人とし、年間アンソロジー『荒地詩集』を創刊、戦後現代詩を作品と詩論の両面にわたってリードする地位を決定的なものとした。詩作品の他にも多くの翻訳・詩論・評論・随筆がある。平凡社「マイペディア」及びウィキの「鮎川信夫を参考にした)。

 

【鮎川信夫「死んだ男」 藪野直史 授業ノート】

 

●第一連

◆「遺言執行人」=作者=死んだ友人M(に代表される戦死(第三連)していった人々)の代わりに生きる《役目》を与えられてしまった「ぼく」

◎《戦後》という時代を《遺言執行人》として生きることを自らに課した詩人の登場

★何故「遺言執行人」なのか?

*「遺言執行人」は「遺言配達人」でも「遺言告知人」でもないことに気づかせる。果敢に「執行」するのである。

《モノクロームのサスペンス映画のオープニングのように「遺言執行人」のシルエットが見え始める印象的な映像的処理》

 

●第二連

・回想~戦前

◆「遠い昨日」=(第三連)つい「昨日」であったにも拘わらず「遠い昨日」である「短かかった黄金時代」=(第四連)しかし、同時にある意味では戦後の「今日」に、飴のように延びきって続いてしまっている「昨日」でもある

・「ゆがんだ顔をもてあます(こと)」

┃ 並列(等価)

・「手紙の封筒を裏返すようなこと」

◎ニヒリズム(虚無主義)を気取った文学青年の知的で、アンニュイ(倦怠)に満ちたデカダン(退廃的)な雰囲気の醸成

《心内の映像もカメラをやや傾かせて撮るのがよい》

☆「手紙の封筒を裏返すようなこと」とは何か?

*実際の封筒(横開きの開口部が大きいものを使用)を何人かの生徒に渡し、自由にやらせてみる。《実演させる》

*ただ封筒の裏(裏書き部)返す生徒には、その意味を聴き、それが「ゆがんだ顔をもてあます(こと)」と同属性を持つ意味を聴く(経験的には「住所・名前を見るため」「その手紙の内容が恋人からの最後の手紙であるから」「知人の訃報」等。但し、私が正答と考えるそれを躊躇なく行う生徒もいる)。

・「手紙の封筒を裏返すようなこと」の「ようなこと」とは、それが、普通でないことであり、尋常でない「ような」ヘンな「こと」なのではないか?

   ↓ とすれば

・ただ封筒を表から裏に「裏返す」ことではないのではないか?

   ↓ とすれば答えは一つ

袋状の封筒の内側を外側にひっくり返す、反転させること

   ↓ さればこその

「実際は、影も、形もない?」(Mの台詞)

=現実や人間社会なんて、内も外もない「空っぽ」なもの

=存在自体の空虚さ

=アンニュイでデカダンなニヒリスティクな〈当時の〉雰囲気

   ↓ しかしそれは、「今」に響き合う

・「――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった」~現在への意識転換

   ↓

『「死にそこなっ」た〈戦後〉の自分のこの空虚感の予言だったのだ』という認識

 

●第三連

◆「昨日のひややかな青空」~Mと共にあった作者の思い出の象徴的イメージ

 クールな(存在の空虚さを孕んだ)詩的な感覚世界

 (その頃からぼくらの心情はいつだって感傷的な)「秋だった」(第四連)

*「剃刀の刃」から連想する語句を生徒に挙げさせ、その属性を記す。例えば、

「自殺」~デカダンな議論にしばしば登場

「鋭い」~詩人の持ちがちな「反」社会性・「非」社会性。人生そのものへの批判的な「抉るような」「鋭敏な」感覚

「傷つける・切り裂く」~自己の或いは人の心を

「危険」~無謀な感性

    ↓

 《青春の属性》

◎「活字の置き換え」

 ~戦前のモダニズム・ダダイズム風の詩的実験や制作上の試み

*西脇順三郎・北園克衛・高橋新吉・萩原恭次郎等の作例を示す。

◎「神様ごっこ」

 ~詩人としてミューズから霊感を受けたような天才気取りの競い合い

《詩的絶対者然とした者たちの果てしない議論のシークエンス》

    ↓ それが

★「僕たちの古い処方箋だった」

『一時の気休めとして用意(処方)された、前時代的な効き目のない古くさい慰戯に過ぎなかったんだよ。』(これはMの亡霊の台詞か?)

☆「ぼく」が「M」を「見失ってしまった」のはなぜか?

①(彼らの過去時制で考えると)時代(ファシズム・戦争への傾斜)の渦へと巻き込まれて行き、その中で自分さえも見失ってしまったからか?

②(詩作時の現時制で考えると)現在(戦後)の作者の意識の中で、Mの存在が同一化してしまっているからか?

*私は②でとる。そうすることで、この詩は真に〈話者の重層化〉(話し手が、Mでもあり、作者でもある)が行われ、「遺言執行人」としての「ぼく」の存在も同時に明確となるからである。

 

●第四連

◆「いつも季節は秋だった」

 Mや「ぼく」の青春期を覆う時代の色調

   ↓

 決定的にうそ寒く、淋しく、暗い。

   ↓ しかも

 戦前・戦中(「黒い鉛の道」)の「昨日も」、戦後の「今日も」(変わりはしない)

*この詩句は直ちにヴェルレーヌの「秋の歌」の詩を想起させ、当該詩篇の冒頭にはランボーの詩篇の一部が引かれており、彼らの悲劇的な同性愛関係とその決裂を考え合わせると、Mと「ぼく」との間に同性愛的な意識関係があったと仮定することは無理がないと考えている。

・「淋しさの中を落葉がふる」(Mの詩篇か? 作者のそれか? はたまた彼らの意識の中の共通したヴェルレーヌでありランボーでもあるような寂しいミューズか?)

   ↓ 衰滅を比喩する「秋」

◆戦争と絶望と死、そして戦後という荒れ果てた地(現実+精神)への道は永久に「淋しさの中を落葉がふる」「道」であった

《この連は一見すると最もリアリスティクな二人の町を行く映像が相応しい》

 

●第五連

◆戦没死したMの埋葬=「ぼく」の想像の中の心象風景《イメージ・フィルム》

・「憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった」=全否定で表現された絶対の沈黙・絶対の孤独=感情という中途半端なものが、一切、かき消えた無感動・無表情~虚無感

・「空に向かって」あげられたMの視線

 ~ここでは『戦争において死にそこなったもののすべては、はっきりとみつめかえされて』いる(長田弘評)

★「さよなら、太陽も海も信ずるにたりない」

「太陽」~人間の儚い「希望」?

「海」~生命の根源としての無限の包容力をもった広大無辺とされる「愛」のようなもの?

   ↓

  全否定

  ↓

 現実への深い懐疑・絶対の強烈な絶望

*この言葉はMのみのものか?

 「遺言執行人」としての「ぼく」の言葉でもあることは言を俟たぬ

★「Mの傷口」が作者の「胸の」傷口でもあるとすれば?(Mと作者との一体化からそう考えるのが自然)

 過去(主に第二連以降)~死者「M」に代表される者の思い(胸の傷=心傷(トラウマ))

    ↓ が直ちに

 現在(主に第一連)~生き残った自分に代表される者の思い

    ↓ であるとすれば、それはやはり直ちに

 未来へと投げかけられる

    ↓ 命題であり、だからこそ「ぼく」=「M」は言う

「これがすべての始まりである。」

 

*本詩篇全体を包んでいる徹底した陰鬱な気分は、戦争体験者の、回復し難い「生の意識」の喪失感と、戦後の虚構に満ちた〈平和〉社会への違和感・拒絶感の表明でもあろう。

 

【二〇一八年九月二十六日附記】

 授業(私が最初にこれを授業したのは一九八〇年の柏陽高校の三年生に対してで、その後、最低でも二回はやったと記憶する。暗く難解だという理由で、教科書の載っていても、やらない国語教師は多かった。国語教師は現代詩の授業を苦手とする者が実は非常に多い。現代詩好きの国語教師であればあるほど、逆にやらない傾向さえある。感性重視派のそうした現代詩を偏愛する人々ほど、普遍的な解釈や分析を生理的に甚だ嫌うからである)では意識的に「M」が誰であるかを語らなかった。それは本詩篇を生徒が個人的な感傷に還元して処理してしまうことを避けたいと思ったからである。

 この「M」は鮎川信夫の親友で詩人の森川義信である。大正七(一九一八)年十月十一日に香川県三豊郡栗井村本庄で生まれ、香川県立三豊中学時代に「鈴しのぶ」のペン・ネームで文芸投稿誌『若草』(宝文館発行)や西條八十主宰の詩誌『臘人形』(両誌は後に詩誌『詩研究』に統合された)に投稿、早稲田第二高等学院英文科に入学(十四年十二月中退)した昭和一二(一九三七)年に中桐雅夫の編集していた『LUNA』に参加して筆名を「山川章」と改名、中桐・鮎川信夫を知り、昭和十四年には鮎川の主宰した第一次『荒地』に参加したが、昭和一六(一九四一)年四月に丸亀歩兵連隊に入隊、翌昭和一七(一九四二)年八月十三日、ビルマのミートキーナで戦病死した。享年二十五、未だ満二十三歳であった。

 私の古い電子化に森川義信詩集 ちゃ版」(二〇〇五年一月七日公開。底本は昭和五二(一九七七)年国文社刊の鮎川信夫編「森川義信詩集」)があり、青空文庫」現在二十四詩篇公開てい

 鮎川の本詩篇「死んだ男」は、実はそれら、森川の詩篇を読むことで、森川の詩想を確信犯で裏打ちした作品であることが判る。例えば、彼の(引用は私の上記詩集から。但し、今回、森川が敗戦前に亡くなっていることから、現在の私のポリシーに従い、恣意的に漢字を概ね正字化して示した)「衢路」(「くろ」。「岐(わか)れ道」の意)、

   *

 

 衢路

 

友よ覺えてゐるだらうか

靑いネクタイを輕く卷いた船乘りのやうに

さんざめく街をさまよふた夜の事を――

鳩羽色のペンキの香りがかつたね

二人は オレンジの波に搖られたね

お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?

友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ

窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを

昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ

それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが

ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も

友よ お前は知らないだろ?

ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて

今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて

猶太人のやうにほつつき步いてゐる事を

だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて

ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ

そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは

かぐはしい昨日の唄聲ではなかつたのだ

ああ それは――昨日の窓から溢れるものは

踏みにじられた花束の惡臭だつたのだ

やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ

ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま

小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする

いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする

ボードレエルよ ボードレエルよ と

ああ 力の限りぼくの心は手をふるのだつたが

――又仕方なく昏迷の中を一人步かうとする

 

   *

のシチュエーションや全体のダルな雰囲気(十六行目の「かげ」及び十七行目の太字「はつ」は底本では「丶」点)、或いは、「衢にて」(「ちまたにて」と訓じておく。意味は先の「衢路」に同じい。全体の雰囲気からはより広義の「街路」「街中」でもよいと思う)、

   *

 

 衢にて

 

翳に埋れ

翳に支へられ

その階段はどこへ果ててゐるのか

はかなさに立ちあがり

いくたび踏んでみたことだらう

ものいはず濡れた肩や

失はれたいのちの群をこえ

けんめいに

あふれる時間をたどりたかつた

あてもない步みの

遲速のままに

どぶどろの秩序をすぎ

もはや

美しいままに欺かれ

うつくしいままに奪はれてゐた

しかし最後の

膝に耐え

こみあげる背をふせ

はげしく若さをうちくだいて

未完の忘却のなかから

なほ

何かを信じようとしてゐた

 

   *

の冒頭部、或いは、森川の代表作の一篇である「勾配」、

   *

 

 勾配

 

非望のきはみ

非望のいのち

はげしく一つのものに向つて

誰がこの階段をおりていつたか

時空をこえて屹立する地平をのぞんで

そこに立てば

かきむしるやうに悲風はつんざき

季節はすでに終りであつた

たかだかと欲望の精神に

はたして時は

噴水や花を象眼し

光彩の地平をもちあげたか

淸純なものばかりを打ちくだいて

なにゆえにここまで來たのか

だがきみよ

きびしく勾配に根をささへ

ふとした流れの凹みから雜草のかげから

いくつもの道ははじまつてゐるのだ

 

   *

は、既にして詩篇全体が、本「死んだ男」との激しい親和性を持っていることが判る(「ゆえ」はママ)。

 但し、これはインスパイアなどという、なまっちょろいものでは決して、ない。

 元に戻り給え、本「死んだ男」は既にして詩人鮎川信夫と詩人にして盟友の森川義信のハイブリッドな産物なのであるから――
 
 

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