[やぶちゃん注:前回に引き続き、大和田建樹「散文韻文 雪月花」に載る今一つの鎌倉紀行、明治二七(一八九四)年八月の「汐なれごろも」の二年後の鎌倉遊覧記である「鎌倉の海」を電子化する。
底本は同じく早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の明治三〇(一八九七)年博文館刊行の「散文韻文 雪月花」のPDF版を視認して用いた。但し、句読点は底本では総てが句点であるため、適宜、読点への変更を施した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママであるが、草書の崩し字(「江(え)「於(お)」等)は再現していない。一部の語句について当該段落の後に改行して注を附した。]
鎌倉の海 明治三十九年八月
ことしもかまくらに遊ぶ事二十日になりぬ。明暮友となりたる波の聲、山の姿、砂の色、貝の光、わすれんとしてもわすられず。
宿りとするところは材木座光明寺の前、ゐながらにして鎌倉の海を一目に望むべく、向には靈山崎につゞきて江の島の浮べるあり、少し右にはなれて雲まに富士の資聳ゆるあり、それより長谷の村里、由井の松原、たゞ手にとる如く汝をへだてゝ打ちむかはるゝもおもしろきに、南の方には伊豆の大島さへ、晴れたる日には鯨のしほふく心地して向ひたてるよ。左の方に隣してつきいでし浦里は飯島とぞよぶなる。
[やぶちゃん注:思い出して戴きたい……
『私は其晩先生の宿を尋ねた。宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内にある別莊のやうな建物(たてもの)であつた。其處に住んでゐる人の先生の家族でない事も解つた。私が先生々々と呼び掛けるので、先生は苦笑ひをした。私はそれが年長者に對する私の口癖(くちくせ)だと云つて辯解した。私は此間の西洋人の事を聞いて見た。』……
無論、「こゝろ」で初めて「私」が「先生」の鎌倉での借家を訪ねたシーンである。この「廣い寺の境内」について、かつて私は私の初出版「心」のこの章のテクスト注で、現在の神奈川県鎌倉市材木座六―一七―一九にある天照山光明寺であるとし、『浄土宗関東大本山。本尊阿弥陀如来、開基北条経時、開山浄土宗三祖然阿良忠(ねんなりょうちゅう)。漱石がこの寺の奥にある貸し別荘にしばしば避暑したことは、全集の注を始め、多くの資料に示されている。鎌倉から逗子へ抜ける街道沿いにあり、材木座海岸に近い。鎌倉の繁華街からは最も遠い「邊鄙(へんぴ)」な位置にある』と注した。大和田氏はまさにそのすぐ近くに居るのである。]
朝とくおきて渚にいづれば、貝は打ちよせられて砂の上にあり。薄紅にて花の如きもの、眞白にして鳥の如きもの、帆立貝めきたるもの、月日貝らしきもの、ぬれたる色のうつくしさよ。子供は走りよりて拾はんとするに、波は來りて拾はせじとすまふ。
[やぶちゃん注:「月日貝」二枚貝綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科ツキヒガイ Amusium japonicum japonicum。殻長・殼高ともに一一センチメートル程度で本邦の普通の砂浜海岸に漂着する斧足類の貝殻としては大きい方に属する。幅は約二センチメートル。綺麗な円形を成し、膨らみは弱く、貝の表面は平滑で光沢がある。右殻が淡黄白色で左殻が赤紫色を呈するのを特徴とする。和名はこれを月と太陽に見立てた。
「すまふ」はハ行四段活用の動詞「争(すま)ふ」で抗う、反抗するの意。]
磯にひるがへる赤旗は海のあるゝをつげ、靑旗はなぎたるを知らすなり。今日も靑旗なりとてよろこぶ子供は、潮あびんとて勇むなるべし。朝けの煙こゝかしこにのぼりて、日影はやうやう我もとに來りぬ。白布の筒袖、麥はらの帽子、ものゝぐはよし、いざ汝とけふも戰はん。戰ひつかれては、磯にあがりて砂に臥し砂に座す、又たのし。子供は工兵となりて山を築けば、波また大擧し來りて一打に奪ひ去るもにくからず。
[やぶちゃん注:お気づき戴きたい……僕らの「こゝろ」の冒頭の、あの鎌倉材木座海岸の砂浜に、鮮やかな青旗が飜えるのを。……]
板を浮べて双の手に持てるは、およがんとする人、手を引きつれて舞踏しつゝあるは、波を飛びこす人、世にものおもひなしとほかゝる境界にやあらん。見る人も見らるゝ人も、罪なく慾なく又憂なし。
[やぶちゃん注:私は思い出す……私のブログ・カテゴリ何故か一番人気の「忘れ得ぬ人々」の巻頭に配した少女のことを……。ブログを始めて五日後に記した二〇〇五年七月十日の「忘れ得ぬ人々 1」を引用しておく。
*
不思議にその想い出はモノクロームだ。
僕は、はしかからやっと本復したばかりの痩せた体で、父や親戚の者達からはぐれて、海水浴客の間をおどおどとうろついていた。
突然、目の前に水着を着けた、よく焼けた活発そうな少女が立っていた。同年か一つ上か。彼女は鮮やかにきっぱりと「一緒に泳がない?」と僕に声をかけた。まだあの頃、純情で引っ込み思案だった僕にとって、この見知らぬ少女の誘いは言葉通り、七年の人生で初めての青天の霹靂だった(記憶がモノクロなのはその閃光のせいなのか)。
僕は手を捕られて、ずんずん海へ入った。泳ぎの苦手な僕は、時々不思議な微笑で振り返る少女に導かれるように、沖へと向かう。足が立たないところで、全く恐怖を感じずにいられたのは、生涯の中で、実はあの瞬間だけだったように思われる。
僕は攣りそうになる手足を必死に動かして、無様な犬掻きを繰り返して、かろうじて浮いていた。うねる波間に、彼女の笑顔が見えては隠れる。それは、今も鮮やかな映像。
遂にたっぷりと海水を飲み込んで咽せかえった時には、少女は僕の手を捕って、既に海岸へと向かって泳いでいた。ものの数メートルも泳ぐと、足は着いたのだった。上がった浜で、僕は自分の情けなさに、ただでさえ病み上がりの青白い顔を、一層青白くして突っ立ていたに違いない。
少女は「またね!」というと、人ごみの中へ、鮮やかに消えてゆく。一度だけ振り返った。その手を振る微笑、紺色のあの頃の安っぽい水着、濡れて額にはりついた黒髪、肌の小麦色、肩の種痘の痕……スローからストップモーション、そうしてホワイトフェードアウト……
小学校二年生、夏の日差しのハレーション。鎌倉、材木座海岸。一九六四年の七月。四一年前の記憶。
後年、「こゝろ」の上三を読んだ折、僕は強烈なフラッシュバックを起こした。
二丁程沖へ出ると、先生は後を振り返つて私に話し掛けた。廣い蒼い海の表面に浮いてゐるものは、其近所に私等二人より外になかつた。さうして強い太陽の光が、眼の屆く限り水と山とを照らしてゐた。私は自由と歡喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂つた。先生は又ぱたりと手足の運動を已めて仰向になつた儘浪の上に寐た。私も其眞似をした。青空の色がぎら/\と眼を射るやうに痛烈な色を私の顏に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな聲を出した。しばらくして海の中で起き上がる樣に姿勢を改めた先生は、「もう歸りませんか」と云つて私を促がした。比較的強い體質を有つた私は、もつと海の中で遊んでゐたかつた。然し先生から誘はれた時、私はすぐ「えゝ歸りませう」と快よく答へた。さうして二人で又元の路を濱邊へ引き返した。(夏目漱石「こゝろ」)
僕には、学生と先生を包み込む、この緩やかな海の「うねり」が確かに、見えるのだ。この海岸が、同じ鎌倉の材木座海岸であるという単純な事実からだけでは、なく。
カタストロフは、しかし、まだ待っていた。漫画家つげ義春の「海辺の叙景」だ。これは、語ってはなるまい。未見の方は、是非、ご覧あれ。僕の魂の致命傷が、如何に深いか、お分かりになるはずである。トラウマとしての妖精、無原罪のファム・ファータル、僕の忘れ得ぬ人々の一人。
→僕は著作権を犯してもその最終コマをここに示したい欲求を押え難いが、次のサイト(高田馬場つげ義春研究会内)の「つげ義春ラストシーン考2 第2回 生理的感覚としての音」で、小さいが、当該作品の最終コマを見るに留めよう。【2017年7月15日削除・追加:この時にリンクした記事が消失しているので、新たに『清水正氏のつげ義春評論―(2)「海辺の叙景」』をリンクさせることとした。最初に示されるのが見開きの最終コマである。】