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カテゴリー「芥川龍之介」の680件の記事

2021/01/23

奥州ばなし 影の病

 

     影の病

 

 北勇治と云し人、外よりかへりて、我《わが》居間の戶をひらきてみれば、机におしかゝりて、人、有《あり》。

『誰《たれ》ならん、わが留守にしも、かく、たてこめて、なれがほに、ふるまふは。あやしきこと。』

と、しばし見ゐたるに、髮の結《ゆひ》やう、衣類・帶にゐたるまで、我《われ》、常に着しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、

『寸分、たがはじ。』

と思はれたり。

 餘り、ふしぎに思はるゝ故、

『おもてを、見ばや。』

と、

「つかつか」

と、あゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり。

 家内《かない》に、その由をかたりしかば、母は、物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより、勇治、病氣《びやうき》つきて、其年の内に、死《しし》たり。

 是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり。

 これや、いはゆる影の病《やまひ》なるべし。

 祖父・父の、此《この》病にて死《し》せしこと、母や家來は、しるといへども、餘り忌《い》みじきこと故、主《あるじ》には、かたらで有《あり》し故、しらざりしなり。

 勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり。

 只野家、遠き親類の娘なりし。【解、云《いはく》、離魂病は、そのものに見えて、人には、見えず。「本草綱目」の說、及《および》、羅貫中が書《かけ》るものなどにあるも、みな、これなり。俗(よ)には、その人のかたちの、ふたりに見ゆるを、かたへの人の見る、と、いへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云《いふ》。】

 

[やぶちゃん注:最後の二つの注は底本に孰れも『頭註』と記す。孰れも馬琴(既に述べた通り、「解」(かい)はこの写本を成した馬琴の本名)のものしたもので、五月蠅くこそあれ、要らぬお世話で、読みたくもない。しかし、書いてあるからには注はする。なお、本篇は実は「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の私の注で、一度、電子化している。しかし、今回は零から始めてある。

 標題は「かげのやまひ」。恐らくは真葛の文章中、最も広く知られている一篇の一つではないかと思われる。かく言う私も実は真葛を知ったのはこの話からであるからである。教えて呉れたのは芥川龍之介である。龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」の中である(リンク先は私の二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクストである)。その「呪詛及奇病」の「3 影の病」がそれである。

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

或いは、これがその「椒圖志異」の最後の記事のようにも見えるが、それは判らない。今回、この一篇を紹介するに際して、「芥川龍之介がドッペルゲンガーを見たことが自殺の原因だ」とするネット上の糞都市伝説(そんな単純なもんじゃないよ! 彼の自死は!)を払拭すべく、ちょっと手間取ったが、

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』

をこの記事の前にブログにアップしておいた。そちらも是非、読まれたい。

「影の病」「離魂病」「二重身」「復体」「離人症」(但し、精神医学用語としての「離人症」の場合は見当識喪失や漠然とした現実感喪失などの精神変調などまで広く含まれる)とも呼ぶが、近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。それでも私は、この「影の病い」が和語としては最も優れていると思う。但し、広義のそれらは、ある同じ人物が同時に全く別の場所(その場所が複数の場合も含む)に姿を現わす現象を指すこともあり、自分が見るのではなく、第三者(これも複数の場合を含む)が目撃するケースもかく呼ばれる。なお、私は、「離魂病」というと、個人的にはポジティヴなハッピー・エンドの唐代伝奇である陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」を、まず、思い出す人種である。「離魂記」は、私の「無門關 三十五 倩女離魂」で、原文・訓読・現代語訳を行っているので、是非、読まれたい。

 さて、やや迂遠にあるが、日本の民俗社会にとっての「影」から考察しよう。平凡社「世界大百科事典」の斎藤正二氏の「影」の解説の「かげと日本人」によれば(ピリオド・コンマを、句読点或いは中黒に代え、書名の《 》を「 」に代えた)、『〈かげ〉ということばは、日本人によって久しく二元論的な使いかたをされてきた。太陽や月の光線 lightray も〈かげ〉であり、それが不透明体に遮られたときに生じる暗い部分 shadowshade もまた〈かげ〉である。そればかりか、外光のもとに知覚される人物や物体の形姿 shapefigure も〈かげ〉であれば、水面や鏡にうつる映像 reflection も〈かげ〉であり、そのほか、なべて目には見えるが実体のない幻影imagephantom も』、『また』、『〈かげ〉と呼ばれた。そして、これらから派生して、人間のおもかげ visagelooks や肖像 portrait を〈かげ〉と呼び、そのひとが他人に与える威光や恩恵や庇護のはたらきをも〈おかげ〉の名で呼ぶようになり、一方、暗闇darkness や薄くらがり twilight や陰翳 nuance まで〈かげ〉の意味概念のなかに周延せしめるようになった。このように、まったく正反対の事象や意味内容が〈かげ〉の一語のもとに包括されたのでは、日本語を学ぼうとする外国人研究者たちは困惑を余儀なくされるに相違ない』。『なぜ〈かげ〉の語がこのような両義性をもつようになったかという理由を明らかにすることはむずかしいが、古代日本人の宇宙観』、乃至、『世界観が〈天と地〉〈陽と陰〉〈明と暗〉〈顕と幽〉〈生と死〉などの〈二元論〉的で』、『かつ』、『相互に切り離しがたい〈対(つい)概念〉を基本にして構築されてあったところに、さしあたり、解明の糸口を見いだすほかないであろう。記紀神話には案外なほど』、『中国神話や中国古代思想からの影響因子が多く、冒頭の〈天地開闢神話〉からして「淮南子(えなんじ)」俶真訓・天文訓などを借用してつくりあげられたものであり、最小限、古代律令知識人官僚の思考方式のなかには』、『中国の陰陽五行説が』、『かなり十分に学習=享受されていたと判断して大過ない。しかし、そのように知識階級が懸命になって摂取した先進文明国の〈二元論〉哲学とは別に、いうならば日本列島住民固有の〈民族宗教〉レベルでの素朴な実在論思考のなかでも、日があらわれれば日光(ひかげ)となり、日がかくれれば日影(ひかげ)となる、という二分類の方式は伝承されていたと判断される。語源的にも、light のほうのカゲは〈日気(カゲ)ノ義〉(大槻文彦「言海」)とされ、shade darkness を意味するヒカゲは』「祝詞(のりと)」に〈『日隠処とみゆかくるゝを略(ハブ)き約(ツ)ゞめてかけると云(イフ)なり〉(谷川士清「和訓栞(わくんのしおり)」)とされている。語源説明にはつねに多少とも』、『こじつけの伴うのは避けがたいが、原始民族が天文・自然に対して畏怖の念を抱き、そこから出発して自分たちなりの世界認識や人生解釈をおこなっていたことを考えれば、〈かげ〉の原義が〈日気〉〈日隠〉の両様に用いられていたと聞いても驚くには当たらない。むしろ、これによって古代日本民衆の二元論的思考の断片を透視しうるくらいである』。『〈かげ〉は、古代日本民衆にとって、太陽そのものであり、目に見える実在世界であり、豊かな生命力であった。しかも一方、〈かげ〉は、永遠の暗黒であり、目に見えない心霊世界であり、ものみなを冷たいところへ引き込む死であった。権力を駆使し、物質欲に燃える支配者は〈かげの強い人〉であり、一方、存在価値を無視され今にも死にそうな民衆は〈かげの薄い人〉であり、さらに冷たい幽闇世界へ旅立っていった人間はひとしなみに〈かげの人〉であった。当然、ひとりの個人についても、鮮烈で具体的な部分は〈かげ〉と呼ばれる一方、隠戴されて知られざる部分もまた〈かげ〉と呼ばれる。とりわけ、肉体から遊離してさまよう霊魂は、〈かげ〉そのものであった。そのような遊離魂を〈かげ〉と呼んだ用法は「日本書紀」「万葉集」に幾つも見当たる。近世になってから「一夜船」「奥州波奈志」』(!!!)『「曾呂利話」などの民間説話集に記載されている幾つかの〈影の病〉は、当時でも、離魂病の別称で呼ばれる奇疾とされたが、奇病扱いしたのは、それはおそらく近世社会全体が合理的思惟に目覚めたというだけのことで、古代・中世をとおして〈離魂説話〉や〈分身説話〉はごくふつうにおこなわれていた(ただし、こちらのほうには唐代伝奇小説からの影響因子が濃厚にうかがわれるが)のであり、現在でさえ、〈影膳〉の遺風のなかにその痕跡が残存されている』。『ついでに、〈影膳〉について補足すると、旅行、就役、従軍などにより不在となっている家人のために、留守の人たちが一家だんらんして食事するさい、その不在の人のぶんの膳部をととのえる習俗をいい、日本民俗学では〈陰膳〉と表記する。民俗学の解釈では、不在家族も同じものを食べることにより』、『連帯意識を持続しようという念願が込められている点を重視しており、それも誤っていないと思われるが、〈かげ〉のもともとの用法ということになれば、やはり霊魂、遊離魂のほうを重視すべきであろう。もっとも、〈かげ〉をずばり死霊・怨霊の意に用いている例も多く、関東地方の民間説話〈影取の池〉などは、ある女が子どもを殺されて投身自殺した池のそばを、なにも知らずに通行する人の影が水に映るやいなや、池の主にとられて死ぬので、とうとう』、『その女を神にまつったという。同じ〈かげ〉でも、〈影法師〉となると、からっとして明るく、もはや霊魂世界とすら関係を持たない。この場合の〈かげ〉は、たとえば「市井雑談集」に、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者にむかい、道心坊が〈此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也と語る〉と説明したと記載されてあるとおり、むしろ、ユーモラスな物理学現象としてとらえられる。〈影絵〉もまたユーモラスな遊びである。古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい、日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった』とある。

 さてもそこを押さえた上で、ウィキの「ドッペルゲンガー」を見よう。『ドッペルゲンガー現象は、古くから神話・伝説・迷信などで語られ、肉体から霊魂が分離・実体化したものとされた』。『この二重身の出現は、その人物の「死の前兆」と信じられた』(注釈に『死期が近い人物がドッペルゲンガーを見ることが多いために、「ドッペルゲンガーを見ると死期が近い」という伝承が生まれたとも考えられる』とする)。十八世紀末から二十世紀に『かけて流行したゴシック小説作家たちにとって、死や災難の前兆であるドッペルゲンガーは魅力的な題材であり、自己の罪悪感の投影として描かれることもあった』。『ドッペルゲンガーの特徴として』は、『ドッペルゲンガー』である方の『人物は周囲の人間と会話をしない』・『本人に関係のある場所に出現する』・『ドアの開け閉めが出来る』・『忽然と消える』・『ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ』『等があげられる』。『同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象、という意味の用語ではバイロケーション』(Bilocation:超常現象用語。同一人が同時に複数の場所で目撃される現象、或いは、その現象を自ら発現させる能力の呼称)『と重なるところがあるが、バイロケーションのほうは自分の意思でそれを行う能力、というニュアンスが強い』。『つまりドッペルゲンガーの』場合は、『本人の意思とは無関係におきている、というニュアンスを含んでいる』ことが圧倒的多数である。『アメリカ合衆国第』十六『代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシアのエカテリーナ』Ⅱ『世、日本の芥川龍之介などの著名人が、自身のドッペルゲンガーを見たという記録も残されている』。十九『世紀のフランス人のエミリー・サジェ』(Émilie Sagée:女性で教師であった)『はドッペルゲンガーの実例として有名で』、『同時に』四十『人以上もの人々によって』彼女の『ドッペルゲンガーが目撃されたといわれる』。『同様に、本人が本人の分身に遭遇した例ではないが、古代の哲学者ピタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されたという』。『医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は』「autoscopy」(オトスコピー:「auto-+「‎-scopy」:自動鏡像視認)、『日本語で「自己像幻視」と呼ばれる。 自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える』。『現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)』(この単語は心霊学用語で「幽体離脱」を示す語として有名)『と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は』、『友好的なものより』、『敵対的なことのほうが多い』(これは解離性同一性障害(旧多重人格障害)によく見られる)。『例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。この脳の領域は、ボディー』・『イメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり』、『患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある』。『しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものと』、『つかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである』。以下、「作品中のドッペルゲンガー」では、ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の詩篇、ドイツの多才な作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)の「大晦日の夜の冒険」(一八一五年)、イギリスの作家アルフレッド・ノイズ(Alfred Noise)の「深夜特急」、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(一八三九年)、イングランドのラファエル前派の画家で詩や小説も書いたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの水彩画「How They Met Themselves」(「彼らはどのようにして彼らに出逢ったか」。一八六〇年~一八六四年作)、短編「手と魂」(Hand and Soul:一八五〇年)、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像』」(一八九〇年)、ドイツの幻想作家ハンス・ハインツ・エーヴェルス(Hanns Heinz Ewers)の「プラーグの大学生」(一九一三年)、ドストエフスキーの「分身」(一八四六年)、ジグムント・フロイトが書いた病跡学的考証と独自の夢解釈理論の傑作であるドイツ人作家ヴィルヘルム・イエンセン(Wilhelm Jensen)作の「グラディーヴァ」(Gradiva:一九〇三年:特異的に、自分ではなくて他者のドッペルゲンガー幻想を抱く青年の物語である)を取り上げて分析した「W・イエンセンの小説『グラディーヴァ』に見られる妄想と夢」(Der Wahn und die Träume in W. Jensens „Gradiva“:一九〇七年)、パリ生まれのアメリカ人作家ジュリアン・グリーン(Julien Green)の「地上の旅人」(一九二七年)、既に本ブログ記事の前で示した芥川龍之介の「二つの手紙」(大正六(一九一七)年)、ドイツの作家ハンス・ヘニー・ヤーン(Hans Henny Jahnn 一八九四年~一九五八年)の「鉛の夜」(一九五六年)、梶井基次郎の「泥濘」(大正一四(一九二五)年。リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)及びそれを発展させた「Kの昇天」(大正一五(一九二六)年。リンク先は私の古い電子テクスト)をドッペルゲンガーを扱った作品として挙げている。さてもこれらを見ながら、私が驚いたのは、私自身が極めてドッペルゲンガー物の偏愛者であることに、今更乍ら、判ったからである。実にここに出ている作品は殆んど総てを読んでいるからなのである。フロイトのそれなどは、彼の芸術論の中ではピカ一に面白いものである。因みに、このウィキ、下方に『上段の項目「歴史と事例」の北勇治のドッペルゲンガーの話は杉浦日向子の漫画作品『百物語』上巻の「其ノ十六・影を見た男の話」でとりあげられている』とあるのだが(因みにこの日向子さんの漫画も持っている)、上段の「歴史と事例」に「北勇治」の話なんか出てないぜ? この記事を書いた人物は、この「奥州ばなし」の本篇を「歴史と事例」に記したつもりで、うっかりしているだけらしい。情けない。上記の作品記載がまめによく拾っているのに、残念な瑕疵だね。以下、モノローグ。――私はウィキペディアの記者だが、直さないよ。先年、ある出来事で、甚だ不快を覚えて以来、誤字・誤表現や、致命的な誤り以外には手を加えないことにしているからね。誰か僕のこの記事を見たら、直しといてやんな。ウィキペディアは自己の制作物はリンク出来ないからね。アホ臭――

「北勇治」不詳。

「あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり」ここが本話のキモの部分である。この隙間はごくごく細くなくてはいけない! 北勇治のドッペルゲンガーは後ろ姿のまま、紙のように薄くなって(!)この隙間を……しゅうっつ……と抜けて行ってしまったのである……

「是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり」この事実は、ごくごく主人には内密にされていた以上、現実の可能性を考えるならば、心因性ではなく、何らかの遺伝的な脳障害(最後には絶命に至る重篤なそれである)の家系であったことが一つ疑われるとは言えるようには思う。

「忌《い》みじき」違和感がない。真葛! 最高!

「勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり」真葛の女らしい配慮を見よ!

「只野家、遠き親類の娘なりし」この未亡人が只野(真葛)綾(子)の夫の只野家の、遠い親類の娘であったというのである。その未亡人からの直接の聴き取りであろう。嘘臭さがここでダメ押しで払拭されるのである。短いが、優れた怪奇譚として仕上がっている。

「本草綱目」これは探し出すのに往生した! まず、巻十一の「草之一」の「人參」の「根」の「附方」の中にある以下に違いない!

   *

離魂異疾【有人臥則覺身外有身、一樣無別、但不語。蓋人臥則魂歸於肝、此由肝虛邪襲、魂不歸舍、病名曰離魂。】[やぶちゃん注:下略。]

(離魂異疾【人、有り、臥すときは、則ち、身の外に、身、有ることを覺ゆ。一樣にて、別(わか)ち無し。但、語らず。蓋し、人、臥すときは、則ち、魂、肝に歸す。此れ、肝虛に由りて、邪、襲ひて、魂、舍に歸らず。病、名づけて、「離魂」と曰ふ。】)

   *

「羅貫中が書《かけ》るものなどにある」羅貫中(生没年未詳)は元末・明初の小説家。太原(山西省)の人。号は湖海散人。知られたものでは「三国志演義」「隋唐演義」「平妖伝」などがあり、「水滸伝」も編者或いは作者の一人であるともされる。私は一作も読んだことがないので判らない。馬琴は彼の作品群を偏愛しており、特に「平妖伝」には深く傾倒し、二十回本を元に「三遂平妖伝国字評」を記しているが、それなら、それと書くであろう。判らぬ。識者の御教授を乞う。

『そは、「搜神記」にしるせしが如し』先の「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の本文頭に出る「搜神後記」(六朝時代の名詩人陶淵明撰とされるが、後代の偽作である)の誤りのように私には思われる。そちらを読まれたい。注で原文も示しておいた。

「ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし」これは何かの皮肉を掛けているようだが、よく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近。

「只野大膳」ウィキの「只野真葛」によれば、寛政九(一七九七)年三五歳の綾子は『仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の』只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称は只野伊賀)と『再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村』(なりむら)『の世子松千代の守り役をいったん仰せつかったが』、寛政八(一七九六)年八月の『斉村の夭逝により守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷』(こりょうしょうみん)『(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより』、『平助は、源四郎元輔』(次男。長庵元保がいるが、このウィキには彼の名を出すものの、その後の事蹟が記されていない。底本の鈴木氏の解説によれば、この長男は実は早逝しているのである)『の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の

       身はいたづらに消えんとすらん

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられて』おり、一旦、『江戸に招き寄せた家族も急遽』、『仙台に帰している。したがって行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた』とある。

 

 なお、ここに至って、実は国立国会図書館デジタルコレクションに正字正仮名版の本作「奥州ばなし」が、二つ、あるのを発見した。一つは、

「麗女小說集 德川時代女流文學集 下」のここから(標題は「奥州波奈志」で作者名は「只野綾女」と本名で出す)

で編著者は荒木田麗女で、与謝野晶子の纂訂、冨山房大正四(一九一五)年刊である。荒木田麗女(れいじょ 享保一七(一七三二)年~文化三(一八〇六)年:或いは単に「麗」とも)は江戸中期の女流文学者で、実父は伊勢神宮内宮の神職荒木田武遠(たけとお)。十三歳で叔父の外宮御師(おんし)であった荒木田武遇(たけとも)の養女となった。詳しくはウィキの「荒木田麗女」を参照されたい。しかし、何故、彼女の小説集の最後に、真葛の本作一つだけが載っているのか、実は――判らない。晶子の解題には何も書かれていないからなのである。これは異様な感じがする。まさに怪奇談である。今一つは、

「女流文學全集 第三卷」のここから

で、編者は古谷知新(ふるやともよし)、文芸書院大正八(一九一九)年刊である。孰れも総ルビに近いのであるが(後者は割注が本当に割注になっていいて、それにはルビがない)、総ルビというのが、寧ろ、気に入らない。孰れも親本が明記されていないからである。この何とも怪しい編集になる晶子の、或いは古谷氏の読みが、押し付けられる可能性が高いと言える(私の《 》の読みも私の推定に過ぎぬのだが)。しかも、後者の読みが前者を元にしている可能性も排除は出来ない。とすれば、この読みを信奉するわけにはゆかないのである。本篇は後、六篇を残すのみである。私は以上のそれを参考には一切しないことに決めた。私の自己責任で最後まで、ゆく。

 

 にしても、私は、これを以って、稀有の才媛只野眞葛と、稀有の芸術家ソロモン芥川龍之介と、そうして、最後に真に龍之介が愛した、やはり、稀有の才媛シヴァ片山廣子の三人をコラボレーションすることが出来たと感じている。……真葛の死から百九十六年……龍之介の死から九十四年……廣子の死から六十四年……三人の笑みが、私には見える……

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作品には、明確にドッペルゲンガー(ドイツ語:Doppelgänger:二十身/自己像幻視/離魂病)を扱ったものとしては、「二つの手紙」(大正六(一九一七)年九月発行雑誌『黒潮』初出)と「影」(大正九(一九二〇)年九月発行『改造』初出)がある(リンク先は孰れも「青空文庫」。新字新仮名)二作があり、言及では「路上」(『大阪毎日新聞』大正八(一九一九)年六月から八月まで三十六回連載。未完。リンク先は同前)の「十六」に(引用は独自に岩波旧全集に拠った)、

   *

 俊助はかう云ふ問答を聞きながら、妙な事を一つ發見した。それは花房(はなぶさ)の聲や態度が、不思議な位(くらゐ)藤澤に酷似してゐると云ふ事だつた。もし離魂病(りこんべう)と云ふものがあるとしたならば、花房は正に藤澤の離魂體(ドツペルゲンゲル)とも見るべき人間だつた。が、どちらが正體でどちらが影法師だか、その邊の際どい消息になると、まだ俊助にははつきりと見定めをつける事がむづかしかつた。だから彼は花房の饒舌つてゐる間も、時々胸の赤薔薇を氣にしている藤澤を偸(ぬす)み見ずにはゐられなかつた。

   *

とあり、また、自己告白体の遺作(但し、「一 レエン・コオト」のみは死の前月六月一日発行の雑誌『大調和』に発表済み)の「齒車」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 まだ?」で小説執筆のために借りているホテルの部屋に戻った「僕」は、新らしい小説にとりかかっていたが、

   *

 けれども僕は四五分の後(のち)、電話に向はなければならなかつた。電話は何度返事をしても、唯何か曖昧(あいまい)な言葉を繰り返して傳へるばかりだつた。が、それは兎も角もモオルと聞えたのに違ひなかつた。僕はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]電話を離れ、もう一度部屋の中を步き出した。しかしモオルと云ふ言葉だけは妙に氣になつてならなかつた。

 「モオル――Mole………

 モオルは鼴鼠(もぐらもち)と云ふ英語だつた。この聯想も僕には愉快ではなかつた。が、僕は二三秒の後、Mole la mort に綴り直(なほ)した。ラ・モオルは、――死と云ふ佛蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姊の夫に迫(せま)つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の爲に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前(まへ)に立ち、まともに僕の影と向(むか)ひ合つた。僕の影も勿論微笑(びしやう)してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第(だい)二の僕のことを思ひ出した。第(だい)二の僕、――獨逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亞米利加の映畫俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、當惑したことを覺えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚(かたあし)の飜譯家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に來るのかも知れなかつた。若し又僕に來たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ歸つて行つた。

   *

とある。因みに、彼がかなり以前からドッペルゲンガーに強い関心を抱いていたらしいことは、龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」(しょうずしい:リンク先は私が二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクスト)の「呪詛及奇病」の「3 影の病」で、

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

とあることから見ても判然とするのである。

 さて、ネット上には、「芥川龍之介が自殺した原因は彼が自分のドッペルゲンガーを見たからである」などという無責任極まりない非科学的な糞都市伝説が横行している(龍之介がドッペルゲンガーを見たと感じたのは事実であるが、それは晩年とは限らない。但し、晩年に限るならば、そういう体験に漠然とした自身の死や致命的な災厄が近いという感じを持ったこと(これは洋の東西を問わず、民俗社会でよく普通に言われることである。私は三十代の頃に一度だけ、行きつけだった鎌倉のドイツ料理店の女主人から、「あなたと同じ顔をした同じ名前のセールスマンが、先日、来たよ」と言われてゾッとしたことがある)は「齒車」の一節から看取は出来る)。而して、そこでは大概、「ある座談会で芥川龍之介が自分のドッペルゲンガーを見たと言っている」と記してあり、その「ある座談会」という謂いに胡散臭いものを感じられる向きもあろうかと思われる。実はこのネタ元はウィキの「ドッペルゲンガー」の記載で(但し、これは河合隼雄「コンプレックス」(岩波新書・一九七一年十二月)のp.51を原拠としている。私は刊行当時に買って読み所持するはずであるが、流石に中三の時のもので書庫の底に沈んで発掘出来なかった)、多くの野次馬連中はそれを無批判に手軽に転用しているに過ぎない(縦覧した限りでは、この糞都市伝説を記しながらも、以下に示す原拠を正確に語っているのは、たった一件のみであった。

 しかし、小説「齒車」に出現した「僕」の語るそれは、芥川龍之介自身が実体験であることを語っている活字物が存在するのである。「活字物」としたのは、彼の書いたものではなく、ウィキに記す通り、「座談会」記録であるからである。

 これは、自死する丁度二ヶ月前の、昭和二(一九二七)年五月二十四日に旧制新潟高等学校で講演(演題「ポオの一面」)を行った後の夕刻、宿泊先であった篠田旅館で行われた座談会の席上での他者による記録である。現在は岩波の新全集の第二十四巻に「芥川龍之介氏の座談」として掲載されているが、私は所持していない(新全集の新字体採用を嫌ったからであるが、この巻は買う必要があったのに、在勤していた高校の図書館にあったそれで済ませてしまった。この巻だけは未購入を甚だ後悔している)。しかし、この座談記録はもっと以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(一九六九年岩波書店刊)に収録されている。「芥川龍之介氏の座談」自体は勉誠出版「芥川龍之介作品事典」(平成一二(二〇〇〇)年刊)の奥山文幸氏の解説によれば、初出は雑誌『藝術現代』(昭和二(一九二七)年八月発行)で、記事の起筆者は恐らくは出席し、発言もしている精神科医式場隆三郎(明治三一(一八九八)年~昭和四〇(一九六五)年:新潟県中蒲原郡生まれ。。新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)卒業。新潟医科大学にて昭和四(一九二九)年に医学博士。多くの作家・芸術家らと交流を持ち、病跡学も手掛け、文化人としても知られる)と推定している。出席者は発言している長谷川一男(私は事蹟未詳。しかし問いや、発言から見て、相当な芥川龍之介のファンであると同時にかなりの文学通である。「ケタ平」は笑っちゃうけれど)・八田三喜(はったみき 明治六(一八七三)年~昭和三七(一九六二)年:当時の新潟高等学校校長。芥川龍之介の東京府第三中学校時代の同校校長であり、彼からこの講演要請があり、恩師のそれに快く答えたものである。しかし、龍之介は改造社の「現代日本文学全集」の宣伝講演旅行(里見弴と同社宣伝班と五月十三日に出発、講演終了は五月二十一日。新潟着はその翌日)からの帰途で、かなり疲弊していた)・式場隆三郎・伴純(生没年未詳だが、坂口安吾(新潟市生まれ)の「風と光と二十の私と」に、『今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ』(「ちくま文庫」版全集によった)とある人物と断定してよい。ウィキの「新潟新聞」に、大正一四(一九二五)年、当時の社員の『親友の弁護士で『改造』に文章を発表していた伴純』『が編集主事となった』とあり、これらの情報から、この座談会に出席しているのは彼だとほぼ断定出来るように思われる)の他に、『発言はないが、出席者として掲載されているのが、井深圭太郎、中川孝、安藤宅也、羽鳥芳雄』(奥山氏解説)とある。問題は長谷川一男と伴純で、没年が判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。

 なお、上記のような次第で、新全集版との校合は出来ない。しかし、初めて芥川龍之介の「ドッペル・ゲンゲル」の発言がったあったとして広く知られるようになったもので、正字である点で、相応の価値があると考えている。

 底本は先に示した葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に拠ったが、そちらでは、「新潟の座談會」となっているものの、題名は同じく示した「芥川龍之介作品事典」での、初出誌のそれと思われるものに代えた。個人の話が二行以上に亙る場合は、底本では二行目以降は一字下げになっているが、無視した。踊り字「〱」は正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。禁欲的に注を附した。

 なお、底本では葛巻氏が注する中で、『その「講演」は大変力のこもったもので、盛況であったらしいが、それに比較して、この「座談」会での彼は、主催者側も案外と思ったのでないかと思う程、元気がなく、憂鬱そうな彼が出て来ている。少くも、この「記録」に残った限りでは、註に「(皆な暫く沈黙。)」となっている暗い話題に、話が発展しがちであったらしい。――只、これは新潟から家族宛の便りにも、「をととひの夜新潟着。八田さんにいろいろ御厄介になる。」とある様に、この十数年前の恩師八田校長が、いろいろこの「座談」会の中でも、彼の気を引き立てる様に話を持って行こうとしているが、――これは編者のみではなく、この深い心づかいがなかったなら、彼は青森から、羽越線の列車をたどって、中学時代の校長八田三喜氏が、いまは校長をしている新潟高等学校迄、わざわざ「講演」をしに行かなかったに違いない。――又、帰京後、彼の言葉として、編者はこの事を聞かせられた様にも記憶する。なお、これは余事ながら、この北海道講演旅行中の彼は、青函連絡線で、乗船の際履きかえた上草履のままで、函館の往来で気づいたり、――時計をどこかに置き忘れるかと思うと、つれの里見弴氏の伴れ人を驚かそうとして、樺太長官夫人の寝台の真上の船窓をいきなり外からこじ明けて、首をつっこんでしまったり、いろいろ彼の、ふだんの家庭での一面も発揮している。(これは、里見弦氏の「追憶」に詳しい。)編者はいま、それらを想い出している。同時に、「羽越線の中で作る……」と書かれた、「山吹」の詩と一しょに。-―』と記しておられる。最後の部分は私の芥川龍之介「東北・北海道・新潟」を見られたいが、そこの私の冒頭注が異様に偏執的であるのは、この直後の行動に芥川龍之介のある重大な秘密が隠されていると私が考えているからである。それは……それ……私の注のリンク先を見られれば……よろしい……

 

 芥川龍之介氏の座談

 

長谷川 「河童」と「玄鶴山房」とどちらがお好きですか。

芥川 兩方好きです。(間)貴方はどつちが好きです。

長谷川 「玄鶴山房」です。あの調子でお進みになるのかと思つてゐたら「河童」が出たので驚きました。これからどうお進みになるのです。

芥川 僕は兩方へ進むつもりです。

長谷川 「點鬼簿」からすぐ「玄鶴山房」でしたか。

芥川 いゝえ。あの間に「春の夜」、「彼」、「彼(第二)」などありますよ。

式場 「河童」には何かリアルがあつたのですか。

芥川 ありません。[やぶちゃん注:以下の改行はママ。]

「玄鶴山房」は看護婦にきいた話です。「春の夜」もさうです。「玄鶴山房」であんなに惡く書いて了つたので何處かで恨んでゐるでせう。

長谷川 先生は何時か『人間』か何かに「お律とその子ら」と云ふ小說をお書きになりましたね。

芥川 書きました。『中央公論』です。

長谷川 あれは如何なさいました。單行本にもお入れになりませんね。

芥川 書き直さうと思つて、そのまゝになつてゐます。

長谷川 「俊寬」も單行本にお入れになりませんね。

芥川 あれも書き直さうと思つて書いたのが『文藝春秋』に載つた奴です。それも完成出來なくつてあのまゝになつてゐます。

長谷川 「春」はお續けにならないのですか。

芥川 そんなことはありません。然しどうなりますか。

長谷川 「邪宗門」も未完でせう。

芥川 (微笑)あれはたうとう駄目でした。書き直さうと思つてゐるのや、先をつゞけられなくなつたのが、こんなに(手で厚さを示しつゝ)あるんです。書き直しは案外骨が折れますね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。一字下げのままである。]

 夏目先生は書き直しなどする努力で新しいものを書けといつていられましたが、書き直しは全く大變ですね。

長谷川 「羅生門」をお書きになつたのはおいくつの時でした。

芥川 さあ二十三四でしたかね。[やぶちゃん注:満二十三の時である。]

長谷川 あれから少しも手をお加へにならないのですか。

芥川 えゝ加へません。書くのは書いたが何處でも出して吳れませんでね。方々賴んで步いたけれど駄目でした。やうやう『帝國文學』に載つたのでしたが、それを賴みに行つたのは靑木健作君の家でした。小石川で日は暮れる、雨は降る、犬には吠えられる、それに家が見つからず、全く心細かつたです。やうやう靑木君の家を見つけたんですが、引越した許りで取りこんでゐたので玄關で渡して來ました。始めは原稿料などを貰ふことよりも活字になることが嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「靑木健作」(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年)であろう。山口県都濃(つの)郡(現在の周南市)生まれ。小説家・俳人。東京帝国大学哲学科を卒。明治四三(一九一〇)年に「虻」を夏目漱石に賞賛され、「お絹」「錆たる鍬」などを発表した。この座談当時は法政大学教授。]

長谷川 初めて原稿料をお貰ひになつたのは「虱」でしたか。[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年五月発行の雑誌『希望』に発表。「鼻」が『新思潮』(第四次。同年二月十五日発行の創刊号に発表)に載って以来、初めての依頼原稿であった。龍之介満二十四歳。]

芥川 さうです。あれで參拾錢貰ひました。[やぶちゃん注:これは原稿一枚の稿料単位額を指す。「虱」は原稿用紙十二枚で三円六十銭であった。以下、改行はママ。]

 志賀さんの「淸兵衞と瓢簞」も參拾錢だつたといふ事です。あの頃は今のやうに書いたものがすぐ印刷になるといふわけには行かなかつたやうです。[やぶちゃん注:志賀直哉の「淸兵衞と瓢簞」は大正二(一九一三)年一月一日発行の『讀賣新聞』に発表された。この時、志賀は満二十九歳で、同月には初の短編集「留女」(るめ)を刊行。後にこの集は夏目漱石に賞賛された。]

長谷川 雜誌が少かつたのでせうか。

芥川 いや相當にあつたのです。たゞ編輯者が中々出して吳れぬのです。

長谷川 初めて『中央公論』へお書きになつたのは何でした。

芥川 「手巾」でした。『中央公論』へ出たものゝあれの原稿料は九拾錢でした。とても澤山貰つたやうな氣がして嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「手巾」(はんけち)は同じ大正五年十月一日発行の同誌に発表された。]

長谷川 久保田万太郞さんは先生の一年上[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]

芥川 いや二年先輩です。その上が後藤末雄君です。

八田 後藤君は今どうしてゐるね。

芥川 慶應で博士論文を書いてゐます。

八田 僕はいつか東京で遇つて一緖に夕飯を食べた事があるが、その頃もう文壇を離れてあゝいふ學究生活へ入らうとしてゐた頃と見えて、文壇て厭な奴ばかりゐるといつてこぼしてゐたね。

作川 さうでせう。今でもさういつてます。先日も東洋文庫で一寸逢ひました。勿論文壇だつていゝ所ではありませんがね。

長谷川 赤木ケタ平といふ人はどうしてゐます。

芥川 ケタ平といつちや氣の毒だな。は、は、は、(笑) コウ平といふのですよ。池崎忠孝のペンネエムですよ。今、大阪でメリヤス屋をやつてゐます。

長谷川 先生の飯田蛇笏のことを書いた中に出て來ますね。

芥川 えゝ久米の通俗小說で「赤光」といふのがあるでせう。あれは赤木の父の事を書いたのです。

長谷川 ではあの息子といふのが赤木氏ですか。

芥川 さうです。今でも發作的に時々何か書きたくなるさうですが、久しく筆を執らないと臆病になつて中々書けないものださうです。先日も仙臺で木下杢太郞君と遇つて話したんですが、木下君など文壇に遠ざかつてゐるので、下らない批評家に惡口を云はれても書く氣がなくなるらしいのですね。赤木は實に實に雄辯な男でした。あんな能辯の男は他に知りませんね。久米の戀愛事件の時なども、久米に『ガンペキの如く毅然として居れ』と云ふんです。その『ガンペキ』が盛んに出るが何の事か解らんので訊いたら『岩の壁さ』と答へたので笑つた事がありました。

長谷川 恆藤さんも雄辯家ださうですね。

芥川 いやあれは雄辯といふものではないのです。物を言ふ時理路整然としやべる丈けなのです。

長谷川 佐藤春夫さんは先生より早い人ですか。

芥川 あの男は十一二からものを書き出してゐますから書き出しは僕よりずつと早いです。佐藤は僕にもつとくだけろといつてゐます。喋舌るやうにしてどんどん書けといふのです。例へば港ヘ船が入るのを描寫するのに三十枚は書けるといふのです。その佐藤が田山花袋氏にもつとくだけていゝと云はれてゐるのですから、上には上がありますね。

長谷川 『改造』では谷崎氏と議論がお盛んですね。

芥川 二人で共謀して『改造』から原稿料をとつてゐるといふ評判ですよ。は、は、は、(笑)谷崎君は一番議論しやすい先輩なのと、近頃の谷崎君の書くものに不滿を持つてゐるのであんな議論をつゞけてゐるのです。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 世界で日本の文壇ほど文學者が色々書く所はないのです。僕など去年は仕事をしないしないと云はれてゐるが六つも書いてゐるのです。もう僕も百篇ばかり小說をかきました。ゴオグなど繪を描いたのは三年ださうですからね。

式場 さうです。一番盛んに描いたのはアール・サンレミイですからね。死んだオーヴルは二三ヶ月しかゐなかつたやうですね。

芥川 あの一度死にかけた時にかつぎ込まれた玉突屋でゴオグが寐せられた玉突臺が今も殘つてゐるさうですね。

式場 オーヴルのですか。

芥川 えゝ。齋藤茂吉君がさういつてましたよ。その玉突臺で平氣で今も玉を突いてゐるさうで、毛唐は隨分呑氣だと齋藤君は笑つてゐました。齋藤君はゴオグの病氣はメニヤだといつてましたがどうなんです。[やぶちゃん注:「メニヤ」偏執病。パラノイア(Paranoia)。内因性精神病の一病態。偏執的になり、妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序は保たれているものを指す。妄想の内容には血統・発明・宗教・嫉妬・恋愛・心気などが含まれ、持続し、発展する。判りやすく言うと、高機能型の妄想症であるが、少なくとも本邦では最近は病名として殆んど使用されないようである。因みに、フロイトは「精神分析学入門」でパラノイアは医師に対してラポートの状態を形成し得ないから、精神分析療法では治療は出来ない、と投げている。]

式揚 中々議論が多いのです。それは私の仕事の一部なのですが、といふ說が一番有力のやうです。何しろ癲癎の遺傳は濃厚にあるのですから。リーゼなどと云ふ人はクライストが記載してゐる癲癎の一異型に當てはまるといつてゐますが、ヤスパースは早發性癡呆だといつてますし、麻痺性癡呆だといつてゐる人もあるのです。[やぶちゃん注:「リーゼ」不詳。「クライスト」ドイツの精神科医カール・クライスト(Karl Kleist 一八七九年~一九六〇年) であろう。「早發性癡呆」現在の統合失調症。「麻痺性癡呆」脳が梅毒スピロヘータに侵された様態を指す語。梅毒にかかって数年から数十年をかけて後に発症する。知能に障害が出現し、末期には痴呆状態となる。「進行麻痺」「脳梅毒」と同義。]

芥川 さうですか。ストリントベルヒは何だつたんです。

式揚 パラノイアだといつてゐる人がありますが。

芥川 モオパツサンは立派な麻痺性癡呆だつたさうですね。

式場 さうです、病症日記が出てゐます。

芥川 ニイチエも精神病でしたね。

式場 えゝ。天才には隨分あります。

芥川 さうすると精神病など豫防どころか大いに養成すべきですね。齋藤君も自分は早發性癡呆になりさうでなど云つてました、ロンブローゾの說はおかしいですね。[やぶちゃん注:「齋藤」斎藤茂吉。]

八田 いや、ロンブローゾの說は天才は狂人に過ぎぬからつまらぬといふのではないだらう。

芥川 島田淸次郞など齋藤君に云はせると「地上」に既に早發性癡呆の症狀が現はれてゐるといつてますがね。[やぶちゃん注:「島田淸次郞」(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)小説家。石川の生まれ。大正八(一九一九)年に刊行した長編小説「地上」がベストセラーとなったが、統合失調症を病み、異常行動を起こして保養院に収容された。統合失調症の方は回復したとも伝えられるものの、結核と栄養失調に苦しみ、しかも執筆を継続したが、肺尖カタルが悪化して療養中に病死した。]

伴 僕はもつと先きからだと思ひます。金澤にゐる頃僕は時々逢つたのですが、大言壯語して何百枚書いたと意張つてゐたものです。それが十五六の少年なんで變な氣がしてゐました。私はあの頃から病氣が始まつたのだと思ふのです。

芥川 然し解りませんよ。彼の作が二三百年後にはどういふ眼で見られるかは。今の若い作家で、兎も角あれ丈け書ける人は少いと思ふですね。正宗白鳥氏が『改造』に書いてゐますが今度活動になつた「我もし王者たりせば」のフランソア・ヴョンは、十五世紀の人ですがひどい犯罪者で何年に死んだかも解らん程の男ですが今は大變な人氣で、硏究の本も出てゐるんですからね。[やぶちゃん注:「我もし王者たりせば」邦題は「我れ若し王者なりせば」(原題:The Beloved Rogue)が正しい。一九二七年公開のアメリカの無声映画。十五世紀フランスの盗賊にして詩人であったフランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以降)の生涯に基づいたもの。主演は名優ジョン・バリモア(John Barrymore 一八八二年~一九四二年)。次の改行はママ。]

然し彼が認められるまでは、三世紀もかゝつてゐます。あらゆるものを認めたアナトール・フランスまでが認めなかつたのですから、時世によつて人間の運命など變るものですね。例へば今の十人殺しとかをやる罪人も戰國時代に生れたら、どんな武將となつたか知れないし、藝術上の天 才も戰國時代などに生れたら、隨分みじめなものでせうからね。そして、さういふ天才が戰國時代に埋れてゐなかつたとは云ひ切れませんからね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 天才には隨分悲慘な最後を違げた人も多いですね。

長谷川 スウフトなどもさうだつたのでせう。「ガリバー旅行記」を書いた……。

芥川 さうです。スウフトには凄い話があります。冬の曇つた日、窓からしきりに外を眺めてゐるのださうです。『何を見てゐる』のかと家人が聞くと、一本の枯木を指しながら、『俺もあの木の樣に頭から先きに參つて了ふのだ』と云つたさうです。兎に角天才を側から凝望してゐるうちはいゝが、自ら天才になるのは悲慘ですね。その點で菊池の「屋上の狂人」などはうそですね。(皆笑ふ)夏目先生も被害妄想や幻聽があつたさうです。夏目先生はよく塀の外で誰か惡口を云つてゐると云つて怒鳴つたり、ランプを火鉢へ投り込んだりした事があるさうです。[やぶちゃん注:「スウィフトには凄い話があります。冬の曇つた日、……」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「人間らしさ」』を参照されたい。「夏目先生も被害妄想や幻聽があつた」私は夏目漱石はイギリス留学中に重度の強迫神経症に罹患したと今は思っている(嘗ては関係妄想傾向の強い統合失調症を疑ったが)。]

式場 高濱虛子が書いてゐますね。

芥川 さうです。然しもつと色々の事があつたのです。夏目先生のさういふ方面が全く傳はらないのは惜しい事です。それで近い中にさういふ方面の先生を詳しく書いた本が出る筈ですが、兎も角先生の性格には病的な所があつたのは事實ですね。或時、音樂會へ行つて隣の席にゐる毛唐の女に向つて、―― Are you wood ? ――眞面目な顏をして訊かれた事があつたさうです。

八田 然し精神病の本を頂むと、その症狀がどれも自分にもあるやうな氣がしますよ。

芥川 僕なども精神病の本を讀むと自分を疑つて來ますね。それで齋藤君にあまり讀むなと云はれました。一體ノーマルといふ事はどういふ事なんでせう。

式揚 さあ、それが判つきり云ひ切れないのですね。ブレークなども子供から幻視があつたのです。

芥川 昔の赤不動の繪なども空想だけでは描けないと思ふのです。誰かにそれらの畫家はさうしたものを見たと思ふんです。

式揚 僕もブレークに幻視がなければ、あの繪は描けなかつたと思ひます。「虱の幽靈」などといふ繪も自分で見て描いたといつてますね。[やぶちゃん注:「虱の幽靈」The Ghost of a Flea。ウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の一八一九年から一八二〇年の作。親友の占星術師ジョン・ヴァーリー(John Varley)に頼まれ、降霊会のために描かれた。左手にはドングリの実で作られた杯、右手には植物の棘を持つ。サイト「MUSEY」のこちらで見られる。]

芥川 さうです。

式場 ドペル・ゲンゲルの經驗がおありですか。

芥川 あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現はれました。

八田 然し二重人格といふのは人の錯覺でせう。或はうつかりしてゐて人違ひをするのぢやないですか。

芥川 さういつて了へば一番解決がつき易いですがね。中々さう云ひ切れない事があるのです。或人の話で、自分の部屋へ入つたらちやんと机に向つてゐる第二の自分が立ち上つて出て行つたので、母に話したらいやな顏をしたさうです。そして間もなくその人は死んださうです。その家は代々さうして二重人格が現はれては人が死ぬんださうです。

式場 ドペル・ゲンゲルは死の前兆だと云はれるので僕も出たのでひやひやしましたよ。

八田 さうですか。西洋にもあるんですか。

式揚 あります。そして矢張り不吉な事とされてゐるのです。ドストエフスキーの有名な小說があります。[やぶちゃん注:「ドストエフスキーの有名な小說」「分身」(Двойник)(「二重人格」とも訳される)。中編小説。一八四六年『祖国雑記』第二号に発表された。「貧しき人々」で文壇に華々しくデビューしたドストエフスキーの第二作目。]

芥川 ゲエテも現はれたといつてます。自分の馬に乘つて行くのをゲエテは見たさうです。[やぶちゃん注:私の偏愛するサイト「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」を参照されたい。そこに、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が、一七七一年頃、『ある日、フリーデリケ』(フリーデリケ・エリザベス・ブリオン(Friederike Elisabeth Brion 一七五二年~一八一三年:牧師の娘であった)『という女性と別れた』(但し、ゲーテの方から関係を断ち切った)『ショックで意気消沈して馬で帰る途中、ゲーテは馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、『実際の目ではなく、心の目で見たというのだが、その男は着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿になぜか心が穏やかになって、このことはまもなく忘れてしまった』しかし、八『年後、ゲーテがその同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、これとは別な時、『ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったままゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒがゲーテが通りで見たのと同じ服を着てそこにいた。友人は急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだという』とある。後者はドッペルゲンガーとしても特異なケースである。]

式揚 「靑い塔の中のストリントベルヒ」といふ本だつたかにもストリントベルヒの二重人格の事が書いてあつたやうです。バルコニーに現はれて帽子をとつて下を通る人に挨拶したんださうですが、事實その時ストリントベルヒは机に向つてゐたさうです。[やぶちゃん注:「靑い塔の中のストリントベルヒ」スウェーデンの劇作家・小説家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg  一八四九年~一九一二年日)晩年六十代の折りに恋人となった(四十一歳年下)スゥエーデンの画家で女優のフアンニイ・ヨハンナ・マリア・フアルクネル(Fanny Johanna Maria Falkner 一八九〇年~一九六三年)が一九一一年頃に書いたストリンドベリの回想録「青い塔の中のストリンドベリ」(邦訳「ストリンドベルクの最後の恋」秦豊吉(東京帝国大学法科大学独法科卒。翻訳家であると同時に実業家でもあり、日本初のヌード・ショー「額縁ショー」の生みの親としてとみに知られる)訳・大正一三(一九二四)年)のこと。]

芥川 齋藤君の話だと幻覺と錯覺と區別のつかぬ事があるさうですね。

式揚 時々判斷に困る事があります。

芥川 錯覺など面白い現象ですね。

式場 私は錯覺の一部分を調べたのですが、子供が一番少く、次はノーマルな成人で、精神病者は一番大きかつたです。頭のいゝ人や想像力の豐かな人ほど大きいと云つてゐる人があるのですがね。

芥川 さうでせうなあ。精神病者は最も進んだ人間だと云つていゝですね。(皆な暫く沈獸。)

長谷川 改造社の宜傳旅行に出られたんですか。

芥川 えゝ。北海道まで行つて來ました。靑森で里見君と別れて來ました。

長谷川 小學生全集も大變でせうね。[やぶちゃん注:「小學生全集」サイト「古本 海ねこ」のこちら(初級用。上級用はこちら)に写真入りで詳しい解説がある。それを見ると、龍之介の死の翌年の刊であるが、「小學生全集初級用 第十六卷 日本文藝童話集・下」に龍之介「杜子春」が収録されてある。]

芥川 あれは菊池の仕事ですよ。僕はそれを助けてゐるに過ぎないのです。

長谷川 菊池さんは創作を書かれませんね。

芥川 さうですね。事業家になつたんです。

式場 大變御邪魔をしました。ではこれで失禮します。(昭和二年五月廿四日夕 篠田旅館にて)

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。最後の署名は「長谷川」と「式場」の合成かも知れない。]

(附記。速記した譯ではなく、あとで記憶をたどつて書いたので間違つてゐる所もあると思ひます。芥川氏並びに出席された方の御寬恕を乞ふ次第です。――H・S生記)

 

2020/11/27

片山廣子の「自制心がなくなつて」つい示してしまった「不愉快な詩」について

例の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅴ】大正一四(一九二四)年六月二十四日附」書簡にある、

『先だつて非常に不愉快な気分の時に自制心がなくなつて不愉快な詩をおめにかけた事をすまなく思つてをります自分の気持がどんなであつてもそのためにあなたのお気持まで不愉快にする必要はなかつたのですが、ただその時わたくしは支那人になりたいとさへおもふほどに悲観してゐたのでした
わたくしほどに自尊心のつよい人間が支那人になる事を祈つたと想像して御らんになつてあの不愉快な詩をおゆるし下さい ちひさいお子さんがたにおめにかゝつた時にあなたのおぐしの一すぢもあのお子さんがたのためには全世界よりも大切なものだとしみじみおもひました
さうおもひながらあなたのお心持をいためるやうなあんな詩を考へた事はわたくしもよほどめちやな人間です
すべて流していただけるものなら流していただきたいとおもひます』

と廣子が記している――謎の悪魔のような――不謹慎な「詩」――のことであるが、実は私は何んとなく、その「詩」なるものが判るような気がしているである。ただ、何の物理的根拠もないものだから、新版の注でも、一切、語らなかった。向後も語る気は、ない。

ヒントだけ示しておく。

私のブログ記事『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』がそのヒントである――

「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版公開

四年足らずもの間の懸案であった「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版を遂に「心朽窩旧館」に公開した。今年の電子化テクストの最後の特異点である。

――因みに――血圧は――教え子の忠告と降圧剤の効果絶大! 今朝は平均128/86まで落ちついた。早朝でここまで低いのは嘗てない。

精神的に片山廣子と芥川龍之介と教え子に救われた気がしている。

お読みあれかし!

2020/11/25

新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを書き上げた

三年越しの懸案であった「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」の公開された同書簡類の新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを、先程、完成させた。これをHTMLにするのがまた一苦労だが、今年中には完成させて公開する。死んでも死に切れんからな――

2020/07/22

芥川龍之介 「續晉明集」讀後 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)

[やぶちゃん注:本篇は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』と題して掲載されたもので、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の題で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。同書の解説者勝峯晉風(しんぷう)氏も校訂者遠藤蓼花(れうくわ(りょうか))氏も跋文らしきものを記した河東碧梧桐氏さえも、これには微苦笑せざを得なかったに相違あるまい。いや、それが実に、いい、のである。

 底本は岩波書店版旧全集第七巻(一九七八年刊)を用いた。発句や前書部分はブラウザでの不具合を考え、底本よりずっと上に引き上げてある。

 なお、これは現在、ブログで進行中の柴田宵曲の「俳諧随筆 蕉門の人々」の現在準備中の「丈草」の章の注のために、これ、どうしても必要となったため、急遽、電子化したものである。されば、語注等は附していない。一箇所だけ注しておくなら、「五老井主人」(ごらうせいしゆじん(ごろうせいしゅじん))は森川許六の別号である。将来的には注を追記として附したいとは思っている。]

 

  「續晉明集」讀後

 

 「續晉明集」一卷は勝峯晉風氏の解說と遠藤蓼花氏の校訂とを加へた几董句稿の第二編である。(古今書院出版)僕はこの書を讀んでゐるうちにかういふ文章を發見した。發見といふのは大袈裟かも知れない。現に勝峯氏も解說のうちにちやんとその件を引用してゐるが僕の心もちからいへば、正に發見にちがひなかつた。

 『僧丈草は蕉門十哲の一人なり。而して句々秀逸を見ず。蓋この序文においては群を出づといふべし。支考許六に及ばざるものなり。』(原文は漢文である。)

 僕はこの文章に逢著した時、發見の感をなしたといつた。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拜した餘り、晉明と號した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まないであらう。が、丈艸を輕蔑してゐたことは一層その面目を明らかにするものといはなければならぬ。

 許六はその「自得發明の辨」にかう云ふ大氣焰を吐いてゐる――「第二年の追善、深川はせを庵に述べたり。予自畫の像を書せたる故に、その前書をして、

  鬢の霜無言の時の姿かな

とせし也。(中略)誰一人秀たる句も見えず。さてさてはかなきこころざしにてあはれなり。

  なき人の裾をつかめば納豆かな  嵐 雪

 師の追善にかやうのたわけを盡くす嵐雪が俳諧も世におこなはれて口すぎをする、世上面白からぬことなり。」(下略)

 これは大氣焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶ふの句に光焰を放つたものはなかつたのであらうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問はず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤なるものである。いや、僕の所信によれば、寧ろ許六の悼亡よりも深處の生命を捉へたものである。

   芭蕉翁の墳にまうでてわが病身をおもふ。

  陽炎や墓よりそとにすむばかり

 尤も許六も丈艸を輕蔑してゐたわけではない。

 「丈艸が器よし。花實ともに大方相應せり。」

とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といひ、其角を「器きはめてよし」といつたのを思ふと、甚だ重んじなかつたといはなければならぬ。けれども丈艸の句を檢すれば、その如何にも澄徹した句境は其角の大才と比べて見ても、おのづから別乾坤を打開してゐる。

  大原や蝶の出て舞ふおぼろ月

  春雨やぬけ出たままの夜着の穴

  木枕の垢や伊吹にのこる雪(前書略)

  谷風や靑田を𢌞る庵の客

  町中の山や五月の上り雲(美濃の關にて)

  小屛風に山里すずし腹の上

  夜明まで雨吹く中や二つ星

  蜻蛉の來ては蠅とる笠の中(旅中)

  病人と撞木に寢たる夜寒かな

  鷄頭の晝をうつすやぬり枕

  屋根葺の海をふりむく時雨かな

  榾の火や曉がたの五六尺

 手當り次第に拔いて見ても丈艸の句はかういふ風に波瀾老成の妙を得てゐる。たとへば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この殘雪の美しさは誰か丈艸の外に捉へ得たであらう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と稱してゐる。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と稱してゐる。

 「續晉明集」の俳諧史料上の價値は既にこの書の本文の終に河東碧梧桐氏もいひ及んでゐる。しかしそれは俳諧史家以外に或は興味を與へないかも知れない。が、几董の面目――天明の俳人の多い中にも正に蕪村の衣鉢を傳へた一人の藝術家の面目は歷々とこの書に露はれてゐる。これは僕等俳諧を愛し俳諧を作るものにとつては會心の事といはなければならぬ。卽ち「續晉明集」を同好の士にすすめる所以である。 (一三・七・一四)

 

2020/07/17

ブログ1,390,000アクセス突破記念 芥川龍之介「Karl Schatzmeyer と自分」(未定稿)/「ERNST MÜLERと自分」(未定稿) / ■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収「Karl Schatzmeyer と自分」後半部 附・藪野直史注

 

[やぶちゃん注:以下は、新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年刊。写真版。私は現物を見たことがない)を底本とした「Karl Schatzmeyer と自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記を参考にして正字化したものである。実は、後者は、その「編者註」で葛巻氏が冒頭、

   《部分引用開始》

『これは「Karl Schatzmeyer と自分」、「Ernst Müllerと自分」と云う二つの原稿を、編者の手で編集し直したものである。その二つの原稿は、何処かへ発表するつもりであったのか、「芥川龍之介」と云う署名がされて、二つとも、「カル シヤマイエル」、「エルンスト ミー」と、その横文字の名前のわきに、わざわざ振り仮名までふられている原稿である。が、その内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど回じで、――これらの先後して、(いずれかが書き直しのつもりで)書かれた原稿のいずれが「清書」とも、また最初のものとも、筆蹟その他等からも、一切わからない。(編者は唯比較的に読みやすく書かれた方の原稿「カル シヤマイエルと自分」の方を採って、絶えず「エルンスト ミーと自分」と引合せながら、編者独自の採択を行った。――それらの両原稿ともに、これだけの範囲内でも、いずれも完全なかたちとして残されていなく、欠けた部分を他で補わなければならなかったが、いまは一々それらを註しなかった。それらはどこまでも編者の編と云う点に拠った。しかし、句読点その他の一切の加筆や削滅は行わなかった。ただこれらの原稿は或時代の彼の原稿の書き方のため、読点を用いない一字アケの非常に多い文章で、――他との均合い上、如何かとは思われたが、編者はそれらの原型を敢て保存することにした。』[やぶちゃん注:以下略。この『編者註』はかなりの分量があり、葛巻氏による原稿が書かれた経緯や内容への推理・考察が記されてある。それでも不充分であったものか、末尾にもさらに追記風に『編者註』が加えられてもいる。その考察の中には非常に興味深いもの(後の芥川龍之介の晩年に書かれた私の偏愛する「彼 第二」(芥川が参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあり、龍之介とも友人となり、非常に親しかったアイルランド人新聞記者トーマス・ジョーンズ(Thomas Jones 一八九〇年~一九二三年:芥川が彼と知り合ったのは、まさに本未定稿が書かれたと推定される大正五年の年初前後と推定されている)を主人公とするもの。リンク先の私の電子化の注を参照されたい。彼のことは他にも「上海游記」の「二 第一瞥(上)」「三 第一瞥(中)」や、「北京日記抄」の「二 辜鴻銘先生」にも出、芥川龍之介の大正八(一八一九)年の日記「我鬼窟日錄」でも二人の緊密さがよく判る(孰れも私のオリジナル全電子化注。特に最初の注では教え子が上海の彼の墓を探索して呉れた結果が必見である))との強い連関性である。私もそれ――即ち、ドイツ人 Karl Schatzmeyer 或いは Ernst Müller とは、このアイルランド人 Thomas Jones がモデルではないかという示唆――を支持するものである。そもそもこの時期に芥川龍之介がドイツ人青年と親しかった事実は少しも見当たらないのである)も含まれてある。紹介したいところだが、葛巻氏の著作権は存続しているので、詳しくは葛巻氏の原本を読まれたい。]

   《部分引用終了》

述べおられるところの、甚だ復元とは言えない不審点を多く感ずる〈作品断片〉なのである。以上の葛巻氏の謂いからお判り戴けるものと思うが、「Ernst Müller」或いは「エルンスト ミー」或いは「エルンスト」或いは「ミユラアー」の名は葛巻氏のそれには一切出現しない。即ち、葛巻氏は「Ernst Müllerと自分」という未定稿原稿の《Ernst Müller》なる人物を《Karl Schatzmeyer》に置き換えて両原稿を恣意的にカップリングした、しかも『欠けた部分を他』の原稿断片らしきもので『補』い、しかもその補った『他』の正体を一切『註しな』い状態でそれを行った、と述べておられるわけで、まさにそれは葛巻氏自身が図らずも述べてられる通り、『それらはどこまでも編者の編』、則ち、芥川龍之介原作を用いた葛巻氏の手になる、葛巻氏のみの確信犯で作り上げられた、にも拘わらず「芥川龍之介未定稿」の一つと名打った結合改作物であると言うことになるのである。しかも、基礎底本とした新全集第二十二巻の「未定稿」には、本篇とは別に「芥川龍之介資料集・図版1・2」底本の「ERNST MÜLLERと自分」という別な未定稿がちゃんと載るのである。

 その「ERNST MÜLLERと自分」(当該新全集の「後記」では、推測で、「ERNST MÜLERと自分」の方は『中に「欧州の大戦乱が勃発」と記されていることなどから』、大正五(一九一六)年頃に執筆されたものであろうとし、「Karl Schatzmeyer と自分」よりも十三篇も前(同巻は編年構成である)に配されてある)は同様の仕儀で、故あって、この最後に電子化する。最初に言っておくが、少なくとも「新全集」の「Karl Schatzmeyer と自分」と「ERNST MÜLLERと自分」を読み比べても、またそれぞれの「後記」を読んでみても、現存する両原稿のそれは葛巻氏の言うような『内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど同じ』ものなどではないのである。

 立ち戻って、当該新全集の「後記」によれば、この「Karl Schatzmeyer と自分」の方は推定で大正五~六年頃に執筆されたものであろうとある。大正五~六年は東京帝国大学卒業から海軍機関学校嘱託教官時代である。

 本文冒頭の「Karl Schatzmeyer」へのルビは基礎底本でも「芥川龍之介未定稿集」でも「カルル シヤツマイエル」であるが、ここは葛巻氏の『註』にある表記法をそのままに用いた。読点なしの字空けは散在するのは基礎底本のママである。

 適宜、当該語句を含む各段落末に注を挿入した。

 なお、本電子化は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1,390,000アクセスを突破した記念として公開する【2020717日 藪野直史】]

 

   Karl Schatzmeyer と自分

 

 成瀨が自分を Karl Schatzmeyer(カル シヤマイエル)に紹介してからもう三年になる。何でも成瀨の伯父さんが伯林にゐた時、この男の親父(おやぢ)に世話になつたとか何んとか云ふので、先、伯父さんが成瀨に紹介し、それから又 成瀨が自分に紹介してくれたのである。

[やぶちゃん注:「伯林」ベルリン。]

 自分の記憶に誤がないとすれば、始めて遇つたのは十一月の末である。成瀨から電話で 今夜シヤマイエルと云ふ男が遊びに來るが遇つて見ないかと云つて來た。勿論 こつちの獨乙語は人並みに遇つて見ようなどと云へた義理のものではない。しかし自分は前から、その男が浮世繪の蒐集をしてゐるとか、源氏物語の插繪を自分で描(か)きたがつてゐるとか云ふやうな事を、ちよいちよい耳にはさんでゐた。さう云ふ人間なら、天氣と基督敎の事ばかり話してゐる宣敎師などとは違つて、話の種に困るやうな事は先 なからう。それに一人だと いくら何でも 聊たぢろぐが 成瀨の二人なら高等學校の時に習つた獨乙會話篇の文句を代り代り饒舌つても どうにか胡麻化せるに違ひない。自分はかう考へたから 早速承知の旨を答へてやつた。

[やぶちゃん注:「たぢろぐ」室町時代まではかく表記したので誤りではない。]

 日が暮れてから 成瀨の家へ行つて見ると先方はもう餘程 前から來てゐるものと見えて、暖爐(カミン)の前へ椅子を据ゑながら 和漢名畫選を膝の上にひろげて、友の落ちさうになる紙卷を口に啣ヘたり指にはさんだり 大に持てあつかつてゐる。成瀨は又 ひとりで太刀打ちをつづけるのに内心可成辟易してゐたらしい。それは自分が扉をあけてはいると、さも助かつたやうな顏をして 急に元氣よく語尾變化の怪しい獨乙語で 自分を紹介してくれたのでも、知れるのである。シヤツマイエルは自分の顏を見ると、紙卷を灰皿の中へ抛りこんで 勢よく椅子から立ち上りながら、[やぶちゃん注:参考底本にはここに『七字欠』とあり、葛巻編の「未定稿集」では『数字分欠』とある。]とか何とか云つて 手をのばした。

[やぶちゃん注:「暖爐(カミン)」Kamin。ドイツ語で「壁に取り付けた暖炉」のことを指す。

「大に」「おほいに」。]

 自分も仕方がないから 學校で敎はつた通り、

 「お目にかかれて大變愉快です」と云ひながら、向うの手を握つた。雀斑のある 大きな白い手である。自分はその時 はじめてこの男をよく見る事が出來た。

[やぶちゃん注:「雀斑」「そばかす」。]

 先第一に眼を惹くのは この男の鼻である。華奢な鼻柱が始はまつすぐに上から下りて來たが 途中で 氣が變つて ちよいと又元來た上の方を顧眄したとでも形容したらよからう。先の方が抓んで持上げたやうに上を向いてゐる。かう云ふ鼻は いくら西洋人でも 到庭滑稽の感を免れない。自分は之を見ると、昔讀本(リイダア)か何かで讀んだ事のある ナポレオンが鼻の上を向いた男ばかり集めて近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した。シヤツマイエルは正にこの近衞兵になる資格のある男である。しかし遺憾ながら 體格が餘りよくない。尤も 背だけは普通の日本人よりも少し高いが 胸が狹くつて、瘦せてゐる所が 自分によく似てゐる。自分は椅子をひきよせて腰をかけながら私の同病相憐れんだ。シヤツマイエルは 瘦せてゐる癖に 昂然と頭をあげて 自分と成瀨とを等分に見比べながら 例の雀斑のある手をもみ合せてゐるのである。

[やぶちゃん注:「顧眄」(こべん)は振り返って見ること。「眄」は「見回す」・「横目で見る」の意。]

 

 それからぽつぽつ會話をやりはじめた。それも「あなたは麥酒が好きですか」と云ふやうな事から 話し出すより外に仕方がない。元來自分は西洋人と話をする時には その前に必とつときの文句を拵へて置く。さうして話をする時には それを小出しの金のやうに少しづつ出して使ふのである。だから一時間位は、どうにでも融通をつける事が出來る。――しばらくして自分はそのとつときの文句の中から、シユウインドの畫はどうだと云ふやうな事を云つた。

[やぶちゃん注:「シユウインド」葛巻版では『シンド』。不詳。ドイツ・ロマン主義時代の画家となると、カール・シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg 一八〇八年~一八八五年)臭い感じはするが、彼はロマン主義ではなく、小市民的日常の観察に立った「ビーダーマイヤー」(Biedermeier)時代を代表する作家である。]

 すると、シヤシヤツマイエルは 上を向いた鼻を一層上を向けて 何か大に辯じ出した。卓勵風發と云ふ語は こんな時に使ふにちがひない。それも始めの中こそ シュウィンドの浪漫主義はオオベルレンデルに比べてどうとかだから 好箇の並行線をどうとかすると云ふやうな事だと思つたが、少し經つともう誰の事を何と云つてゐるのだか一向判然しなくなつた。シユウインド Oberlaender Stuck Klinger などと云ふ名が無暗に出る。自分と成瀨とは わかつたやうな顏をして、首をふりながら聞いてゐた。勿論 話の大部分はわからないが、どうもシユウインドの惡口を云つてゐるらしい。そこでシヤツマイエルが口をつぐむと、自分は「至極同感に思ふ シユウインドの畫は自分も好まない」と云つた。すると先方は人が好ささうに笑ひながら Ja と云つて、何度も合點をして見せる。自分は反つて 恐縮した。

[やぶちゃん注:「卓勵風發」正しくは「踔厲風發」で「たくれいふうはつ」と読む。議論などが他に優れて鋭く、風が吹くように勢いよく口から出ることを指す。「踔厲」は「卓絕嚴厲」の略。

「オオベルレンデル」次のアダム・アドルフ・オーベルレンダーのことであろうか。

Oberlaender」葛巻版では『Oberländer』。これはドイツの風刺漫画作家・イラストレーターのアダム・アドルフ・オーベルレンダー(Adam Adolf Oberländer 一八四五年~一九二三年) と考えてよい。

Stuck」ドイツの画家・版画家・彫刻家・建築家のフランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck 一八六三年~一九二八年)。一八九五年からミュンヘン美術院の教授となり、教え子にはパウル・クレーやワシリー・カンディンスキーがいる。

Klinger」ドイツの画家・版画家・彫刻家で、独特の幻想的な作風で知られ、シュルレアリスムの先駆者とも言われるマックス・クリンガー(Max Klinger 一八五七年~一九二〇年)。私の好きな作家である。

Ja」ドイツ語で「はい」「yes」に当たる「ヤー」。]

 所が自分のこの答は大に成瀨を發奮させたと見えて、今度は成瀨の方から突然千萬人と雖も我往かんと云ふ調子で「エドガア・アラン・ポオの作品を君はどう思ふ」と訊(き)き出した。シユウインドとポオとどう云ふ關係があるのか それは成瀨に訊いて見なければわからない。シヤッツマイエルも聊 話題の急變したのに勝手が違つたやうであつたが、すぐにまあ卓勵風發をやり出した。今度は Kubin と云ふ名が時々出る。すると成瀨は大に景氣づいて、自分のやうに首をふつて聞いてゐるばかりでなく 何とか短い返事を加へ出した。尤も成瀨の獨乙語はシヤッツマイエルのよりも自分にわからない これはその時ちよいと感心したが 後で聞いて見たら その前の目にカビンの插畫を入れた Aurelia と云ふ本の獨譯が成瀨の所へ屆いてゐたので、それでどうにか話を合せて行けたのである。

[やぶちゃん注:「Kubin」「カビン」葛巻版では後者は『クビン』。ボヘミア生れのオーストリアの画家アルフレード・レオポルド・イジドール・クービン(Alfred Leopold Isidor Kubin 一八七七年~一九五九年)。マックス・クリンガー、ゴヤ、ビアズリーの影響を受け、独自の幻想的世界を描いた。ポー・ホフマン・ネルヴァル・カフカ・トラークルなどの錚錚たる幻想作家の作品の挿絵を描いた。キリコやクレーに影響を与えた。やはり私の好きな作家で、彼自身が書いた “Die andere SeiteEin phantastischer Roman (一九〇八年発表。私は法政大学出版一九七一年刊の野村太郎氏訳「対極 デーモンの幻想」で読んだ)は私が殊の外偏愛する幻想怪奇小説(無論、挿絵も彼)である。

Aurelia」フランスのロマン主義詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval 一八〇八~一八五五年)の遺作の幻想小説。原題は“Aurélia ou le rêve et la vie” (「オーレリア、或いは夢と人生」。一八五五年作)。クービンのイラスト入りのドイツ語訳は一九一〇年刊。

 以上で参考底本の新全集の「Karl Schatzmeyer と自分」は終わっている。冒頭からここまでは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」とは一部の助詞の違いや表記の違い、空白部に読点がより打たれてあることなどの外は、有意な異同は認められない。ところが、葛巻版は――この後が――行空けもなく――普通に改行して佗上記の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の分量の二倍以上も続いている――のである。

 前注で示したように、葛巻氏は「ERNST MÜLLERと自分」と「Karl Schatzmeyer と自分」とを、カップリングして辻褄の合うように恣意的に操作を加えていることは間違いない。

 しかし、これが――単なる恣意的な葛巻氏の掟破りの自分勝手な断片合成或いは葛巻氏の創作挿入でないとするなら――或いは、現在は既に失われた芥川龍之介の今一つの幻の未定稿の余香を残すものであるとするなら――これを無視する訳には当然、行かない。しかもこれは「芥川龍之介未定稿集」に芥川龍之介のそれらと同資格で以って所収・並置されているものなのであって、葛巻義敏の作ではない(編したのは自分であるとおっしゃってはいるが、それを葛巻の著作権や編集権が発生するものとするには明らかに無理がある)。

 そこで、現存する「Karl Schatzmeyer と自分」は以上に示したので、以下では、参考として葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」の、上記部分に続いている箇所を総て示しておくこととする。なお、これが葛巻の編集権(連結したという断片素材の実物を示さず、また、恣意的に繋げたにも拘わらず、「芥川龍之介未定稿」の一つとする場合には、それは最早「編集」とは言えず、「改竄」である)なるものを侵すとするなら、それ以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」自体が芥川龍之介の未定稿集を詐称して改竄したものを出版した点をこそ、まず問題とせねばならぬこととなる。

 

    *   *   *

 

■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の上記パートに続く後半部分

[やぶちゃん注:以上のような経緯のある非常に問題のあるものであるので、少し迷ったが、同じように注を附した。なお、葛巻氏は本篇末の註で、『この時代の』芥川龍之介の『原稿の書き方――読点なしに、一枡を一字分だけあけることを含んでいる。――に就いては既に前』(当該書の別な前の作品での註を指す)『に註したが、その他の用字や用語についても、この時代にはまだ、「訳」(「訣」字でなく)、「可成(かなり)」、「不思儀」、「小供」、「之(これ)」、「饒舌る」、「はひる」、その他等々後年の彼の表現とは違うものを混用していることも、一言註して置きたい。(それらは、一つの例として、強いてここでは改めなかった。草稿であり、一未定稿と云う意味からも。)』と述べておられる。そのままに以下に電子化し、ママ注記も一部の除いて打たなかった。なお、底本のルビは総て採った。これは、底本凡例に於いて『本文のルビは総て芥川が附けたものである』と述べているからである(但し、実は私はこの断言にやや疑問を抱いてはいる)。]

 

 それから 一週間ほど後に成瀨と二人で 始めて 彼を訪問した。その時の事は 比較的よく覺えてゐる。彼はその頃 四谷北伊賀町の或しもた家の二階に 下宿してゐた。八疊と四疊半と二間つづきで 兩方とも床の間はない。安普請ではあるが、新しいだけが取柄であらう。その八疊のまん中に 大きな机を据ゑて 机の前に輪轉椅子が一つ置いてある。あと外(ほか)には豐國や國芳の役者繪を一々ピンで叮嚀にとめた 銀色の黑く燒けた、二枚折りの古屛風が一つ、――黃大津の壁側にならべてある、籐の肘掛椅子が二つに 背の低い書棚が三つばかり ――外には、何の裝飾もない。

[やぶちゃん注:「四谷北伊賀町」現在の新宿区四谷三栄町(よつやさんえいちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「黃大津」「きおほつ」。壁土の一種。黄色の埴(へなつち)に牡蠣灰(かきばい)と籾莎(もみすさ:稲藁を二センチメートル程度の大きさに刻んで揉み解したもの)を混ぜたもので、上塗りに用いる。]

 

 シヤツマイエルは、何時も この八疊に陣取つてゐる。

 その時も 自分たちがはいつて來るのを見ると、人が善ささうに 鼻の先へ皺をよせて笑ひながら 何でも「Guten Morgen」位な事を云つて 少しきまりが惡さうに手を出した。雀斑のある、大きな白い手である。

[やぶちゃん注:「Guten Morgen」「グーテン・モルゲン」。ドイツ語で(以下略す)「おはよう」。]

 

 自分たちは この手を握りながら 高等學校で習つた、日獨會話篇のとほり Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ? とか何とか云つて 出たらめな 挨拶をした。

[やぶちゃん注:「Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ?」「ヴィ・ゲーツ・イーネン、ヘェアァ・シャッツマイヤー?」。「シャッツマイヤーさん、お元気ですか?」。]

 

 それから 籐椅子に腰を下して 所謂會話を始めた。――この男が、浮世繪の蒐集をしてゐる事は 前にも書いたが、この時、はじめて 彼が日本に來てから 蒐集した 浮世繪を 見せてもらつた。

 日本へ來てゐる西洋人で、浮世繪を難有がらない者はないが、それは 御多分に洩れず、――廣重の江戶名所が 六七枚に、國芳の、「見立提灯藏」が揃つてゐる外には 皆、碌なものではなかつた。

[やぶちゃん注:「見立提灯藏」「みたてちやうちんぐら」。歌川国芳の大判錦絵で十一枚揃い。弘化4(一八四七)年から翌嘉永元年にかけて制作された、様々な美人の姿を「仮名手本忠臣蔵」の各段の著名な場面に見立てたもの。参照した「立命館大学所蔵貴重書アーカイブ」のこちらを見られたい。]

 

 中には、六圓で買つたと云ふ北齋は、新しい複製でさへ あつた。それにもかかはらず 彼は、この不二がどうだとか、この海の藍がどうだとか さも感心したらしい 批評をつけ加へた。

 特に、その批評の中で 刀をさしたり 上下(かみしも)をつけたりしてゐる人物が出て來ると、彼は 必 Heldenと云ふ語(ことば)をつかふ。無理もない 事には、――ちがひなかつたが、團七九郞兵衞と左平次との二人立ちを Zwei kämpfende Helden(二人の鬪へる英雄)と呼んだ時には 到頭、自分は たまらなくなつて、吹き出してしまつた。彼が 妙な顏をして、吃りながら「何が可笑しい」と云つたのを思ひ出すと、自分は 今でも 恐縮する位である。

[やぶちゃん注:「Helden」「Zwei kämpfende Helden」「ツァイ・カンプフンダ・ヘルデン」。

「團七九郞兵衞と左平次」「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ:延享二(一七四五)年大坂竹本座初演。作者は初代並木千柳・三好松洛・初代竹田小出雲の合作)」の「七段目「長町裏」(通称「泥場」)の段であろうが、「左平次」は「義平次」の誤り。団七九郎兵衛が義父義平次を惨殺する下りである。詳しくはウィキの「夏祭浪花鑑」を参照されたい。]

 

 しかし、彼の浮世繪評は 曖味であつたが、その知識と云ふ點になると、日本にゐて日本の事を知らない自分たちよりは 遙かに、確な所があつた。國貞が生れたのは千八百何年で 死んだのが何年だから、豐國を襲名した何年は、丁度 何歲の時だらうなどと云ふ。さうかと思ふと、寫樂は能役者だつたとか 豐國は道樂をしたとか云ふ。その時も 歌川といふ名の系譜のやうな事を 根氣よく述べ立てた。かう云ふと、さも 衒學的な人間のやうに聞えるが、それは 決してさうではな[やぶちゃん注:ここには葛巻氏が脱字と判断して補った『〔く〕』が入っている。]、この男が喋るのは ただ神經質で、話と話との間がとぎれるのを ひどく氣にするのである。

 その上、どうかすると 彼には時々 吃るくせがあつた。現に成瀨の所で 獨乙の繪の話か何かになつて Kubin がどうとかしたと云つてゐる中に KKKK-と吃り始めた。そのクビンが一つうまく云へると 後は今まで吃つて遲れた時間を 取返す氣なのかと思ふ程 早口で辯じつづけた。さうなると 獨乙語の未熟な人間なのだから 愈 何が何だかわからなくなる。自分は 例の上を向いた鼻の下で 薄い唇が痙攣的に動くのを眺めながら 今更のやうに南蠻鴃舌と云ふ成語を思ひ出した。

[やぶちゃん注:「南蛮鴃舌」「なんばんげきぜつ」と読む。五月蠅いだけで意味の通じない外国語を卑しめて言った卑称語。「孟子」の「滕文公(とうぶんこう)上」による。「鴃舌」は鳥のモズの鳴き声を指す。]

 

 神經的な自分は 今でも その吃る時小供のやうに赤い顏をするのを見て 妙にこの男を氣の毒に思つた事を覺えてゐる。もしこの男にかう云ふ癖がなかつたら 自分との交情はもつと疎遠になつたのにちがひない。――

 德川時代の寂びた色彩を眺めながら その絵の說明を獨乙語で聞かされた時の不思儀な心もちを 今でもはつきり 自分は覺えてゐる。洋服の膝の上へ 自分たちは 過去の空氣の中に 何十年を寂びつくした江戸錦繪をひろげながらそれらを聞いてゐたのである。

 かうやつて 怪しい會話をつづけてゐる間にやがて晝飯の時刻になつた。食事は階下の六疊でするのである。

 二階を下りて見ると もう ちやぶ臺の上に茶碗と箸とが自分たちを待つてゐる。そのまん中には 赤と金とによい程の時代がついた九谷燒の德利さへあつた。これはシヤツマイエルが 古道具屋をあさつて買つて來たものだと云ふ。自分たちは その德利の酒をのみながら 膳の上の酢の物をつついた。伯林にゐた時から持つたとか云ふので 彼は箸が自由に使へる。坐るのには勿論 困らない。

「剌身と澤庵ととろろを除けば 何でも食べられる。」

 かう云ひながら 彼は得意さうに 例の上を向いた鼻を 一層上へむけて 自分たちの顏を見𢌞した。

「これからあなたの所へ日本の事を ききに來ませうか」 かう云つて自分たちは 笑つた。

「ええ 來て下さい。その代り獨乙の事はあなた方の方がよく知つてゐませう。私は獨乙の事をききます。獨乙の今の作家の事を。知らなくとも 私よりあなた方の方が 彼等に同情のある事はたしかでせう。……」

 その日の訪問は こんな事で完つた。それから一月ばかりたつて 今度は自分一人で行つて見ると この獨乙人は――銘仙の綿入れに 大嶋の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管で煙草をふかしながら 端然とその輪轉椅子に腰を落着けてゐたのだから 奇拔である。さう云ふ異樣ななりをしながら その朱羅宇の煙草を持ちかへて 自分に 雀斑のある 犬きな白い手をひろげて出す。勿論 握手をしろと云ふ合圖である。

[やぶちゃん注:「完つた」「おはつた」。

「朱羅宇」「しゆらう」。朱色をした、煙管(キセル)の火皿(ざら)と吸い口とを繋ぐ竹の管のこと。古くラオス産の竹を使ったことから「羅宇」と当てて書く。]

 

 この時 彼がはいてゐる黑繻子の足袋が十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話も 着物も一反では足りない 二反かかつたと云ふ事も聞いた。見ると成程、唯でさヘ一反では覺束ない所を その裾が又 べらぼうに長く出來てゐる。話を よく聞いて見ると 之(これ)は浮世繪の中に出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく 特別 彼が仕立てさせたものであつた。

[やぶちゃん注:「黑繻子」「くろおしゆす(くろしゅす)」。「繻子」は精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。

「十三文半」凡そ三十センチメートル前後か。]

 

 その日も又、この男の口から 獨乙語で浮世繪の說明を 刻み煙草の煙りと一しよに 長々と聞かせられた。自分は 理由のない輕蔑から それらの說明を輕蔑してゐたが 併し亦 妙な興昧もあつた。彼はその時 浮世繪の裝飾的特質と云ふ事を しきりに說明してゐたが さて 實際に、浮世繪を 室内の裝飾に使ふと云ふ段になると 少からず當惑した。どうも額へ入れて 壁ヘつるすのは 不調和だと云ふやうな議論だつたと思ふ。自分は勿論、日本間へ輪轉椅子を置いてその上へ銘仙のお引きずりを前で 腰をかけてゐる彼に 調和不調和の問題を論ずる資格など あるまいと(不法にも)その時は 思つてゐた。さうして 豐國や國芳の役者繪を一一ピンで 叮嚀に この色の變つた 銀の古屛風に 貼りつけてあるのも、その調和不調和の考へから 來てゐるのだらうと思つた。――さうして 亦、この古屛風を後(うしろ)にして 輸轉椅子に お引きずりの銘仙の 綿入れを着て 早口に喋りつづけてゐる この異樣ななりをした外國人と――不思儀にも、自分がこんなにも早く(何時の間にか、)親しくならうと云ふ事などは 夢にも考へなかつた。――しかし 不思儀にも 間もなく シヤツマイエルと自分とは 親しい間がらとなつて行つた。――この日は 歸りにハムズンの獨譯を二三册 借りて歸つた。

[やぶちゃん注:太字「不法」は底本では傍点「ヽ」。

「お引きずり」「御引き摺り」。着物の裾を引きずるように着ること

「ハムズン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)のことか。後の一九二〇年、作品「土の恵み」でノーベル文学賞を受賞したが、ナチスを支持し続けたため、戦後、名誉は失墜した。]

 

 四度目には――さう一一 會つた時の事を 全部 書立てなくとも善い。唯 自分はこの男と自分との交涉を 多少 ここに小說めかしく 書きつければ 好いと思つてゐる。

 彼と自分とは又、東京中を 當てもなしに 足にまかせて 步き𢌞つた。――淺草の觀音堂のまはりを鳩に豆をやりながら 根氣よく半日ばかり 散步した事もある。[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔二字分缺〕』が入る。]から電車で 永代まで行つて 永代から一錢蒸氣で吾妻橋へ來て 吾妻橋から步いて向島へ行つて 長命寺の櫻餅を、晝飯代りに食つた事もある。中でも一番 記憶に殘つてゐるのは、一しよに銀座の松下へ行つた歸りに 何かの道順で 白粉の匂のする 狹い 裏通りを拔けた時のことである。

[やぶちゃん注:「永代」永代橋(えいたいばし)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「吾妻橋」ここ

「長命寺」現在の東京都墨田区向島にある天台宗宝寿山遍照院長命寺。「長命寺桜もち」で知られる。

「銀座の松下」後述からは料理店らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 狹い往來の兩側には、みがきこんだ格子戶の中に 御神燈がぶら下つてゐたり、水を打つた三和土(たたき)の上に盛鹽がしてあつたり 白い菊の花が活けてあつたりした。すると シヤツマイエルがこれを見つけて、この町にはどんな階級の人間が往んでゐるかと訊(き)くから、自分は無造作に藝者だと敎へてやつた。所が この答がシヤツマイエルの好奇心を動かしたと見えて、彼はそれ以來 女さへ通れば 自分に「あれは藝者か?」と 尋ねた。勿論 獨乙語で尋ねるのだから、彼は先方の女には 何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で 「藝者か?」ときく。それには 自分は、少からず 弱らされた。――彼は亦 何かの話の序から Madame Chrysanthèmeを思だすとも云つた。それはその「お菊さん」のやうな人を、紹介してくれと云つたのか どうか知らないが――自分は、いま以て 白い菊の花と、ロティと、この獨乙人とが、一しよになつて 思ひ出される。……

[やぶちゃん注:「Madame Chrysanthème」「マダーム・クリザンテーム」。フランス海軍士官で、世界各地を航海して訪れた土地を題材にした小説や紀行文をものした作家ピエール・ロティ(Pierre Loti:本名ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー Louis Marie-Julien Viaud 一八五〇年~一九二三年)が一八八七年に発表した小説。邦訳は専ら「お菊さん」。]

 

 彼を訪ねると、机の上に 妙な火入れ見たいなものが 出してある。元來は 杯洗か何か[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の欠字註『〔に〕』が入る。]使はれたものに[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔ちがひ〕』が入る。]ない。彼は机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出して こちらへよこして、日本語で、「ドウダ?」と云つて、すすめてくれる。それから 銘仙の襟を、かき合せて 今度は獨乙語で、「大學は 面白いか?」とくる。この二つは 前の手を出すのと 一般で 天氣の如何にかかはらず、やらない事はない。さうして、自分が「日本の大學位 退屈な所はなからう」と答ヘると、「獨乙の大學も同じだ」と こたへる。さもなければ「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ。どつちがほんたうなのか 未(いまだ)に わからない。

[やぶちゃん注:「杯洗」(はいせん)は酒席で一つの盃を複数で使い回す際に用いる、盃を洗うためのやや大振りの器。

「抽匡」「抽斗」或いは「抽筐」の芥川龍之介の誤字であろう。「ひきだし」。]

 

 彼の所へ行くのは 唯、漫然と饒舌(しやべ)りに行つた事もあれば、本のわからない所を聞きに行つた事もあつた。どちらか と云へば、大抵 前の場合の方が多い。後の場合でも、自體が根氣のいい男だから、彼は 繰返し 繰返し 敎へてくれるが、その親切氣には 今でも感謝してゐるが その繰返す度に せき込んで來て、無暗と口が早くなるには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落着いて話してゐても、碌に向うの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから、さうなつて來ると 愈 何を云つてゐるのだか わからなくなつてしまふ。唯、神經的に唇の動いてゐるのを、見つめてゐるしかない。また、こつちから、喋るにも 中々骨が折れた。何しろ 高等學校の時に習つた日獨會話篇を應用するより 仕方がないのだから、第一 噓をつく事になる。ほんたうの事を云はうとすると、その語(ことば)さへも、なかなか 見つからない。話題は 重に 文學の話とか、美術の話とかであつたが、一度 ケスの話か何かをした序(ついで)に 彼と戰爭論をはじめてしまつたのも、元をただせば、全く これに崇られた お蔭らしい。――

[やぶちゃん注:「ケス」不詳。後で示す「ERNST MÜLLERと自分」のこれと類似した箇所では『ケルネル』とある。これは或いは、ドイツの劇作家で詩人であったカール・テオドール・ケルナー(Karl Theodor Körner 一七九一年~一八一三年)のことではないかと考える。戯曲「ツリニー」(Zriny :一八一二年) により文名を確立し、対ナポレオン解放戦争の愛国詩人として活躍、義勇軍に加わって戦死した。死後、父親の手によって編纂された詩集「琴と剣」(Leyer und Schwert :一八一四年刊) は熱狂的に迎えられた、と「ブリタニカ国際大百科事典」にある人物である。]

 

 獨乙人と云へば、必ず 麥酒よりも 人と喧嘩をする事の方が それ以上に好きだと思つてゐた自分には、このシヤツマイエルと云ふ男が、獨乙帝國の カイゼルの臣民の 一人だと思ふと、どうも 少し 矛盾が感ぜられて ならなかつた。――何しろ 喋り出すと、加速度で口の早くなる男だから、その喋つてゐる事の全部が全部 わかつた譯ではないが――シヤツマイエルは 元来 戰爭と云ふものが嫌ひらしく、例の 朱羅宇の煙管で 自分の膝をたたきながら むきになつて 辯じ出した。(この時の事は 可成、はつきりと覺えてゐる。)元來、戰爭と云ふものが 嫌ひらしく、戰爭と云ふ言葉を聞くと 顏をしかめて 例の鼻を上へ向けて、「トルストイが云つてゐる通り」と云つて、「自分もさう思ふ」と 答へる。それから、さも 人を莫迦にしたやうに 鼻を一層、上へ向けて「死ニタイカ アナタハ?」と 來る。自分が nein とこたへたのは 勿論である。すると、彼は「私モ死ニタクナイ」と云つて それから 妙な身ぶりをした。遺憾ながら自分は、之(これ)を妙な身ぶりと云ふより外に仕方がない。强ひて說明すれば 兩足を少し前へ出してちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとか云つて シヤツマイエルの非戰論に反對した。すると、彼は 急に むきになつて 何度も「トルストイが云つてゐる通り 自分もさう思ふ」を繰返しながら、あの朱羅宇の煙管を、恰も「さう思ふ」の代表者であるかの如く 自分の服の前へつきつけると 二三囘ふりまはして見せて、滔々と 自說を 辯じ出した。今も云つた通り 加速度に口が早くなつて行くのだから 何を云つてゐるのだか その全部はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に、並べ立て出したのは 確かであるらしい。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 別にこれと云つて 大した主張がある訳でも 何でもないのだから 自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく 參つてしまつた。それを見て 彼が例の鼻を 意地惡く 自分の顏の側へ持つて來て、「主戰論者が さう容易に 降參していいのか?」と云つたのを思出すと 今で心 少し忌々しい。…… それから 暫くして、歐洲の犬戰亂が 勃發してしまつたから つまり われわれの戰爭論が 惡讖に なつてしまつたのである。――あの開戰の號外の出た日 自分は彼に誘はれて、松下へ食事をしに行つて その歸りに あの狹い裏通りを通つた事は 既に 書いた通りである。

[やぶちゃん注:「nein」「ナイン」。「いいえ」。

「娓々」「びび」と読み、飽きずに続けるさま、くどくどしいさまを言う。

「惡讖」「あくしん」と読み、「悪い不吉な予言」の意。

 なお、この後は底本自体が一行空けになっているので、ここでは二行空けておく。]

 

 彼と自分との關係は、日本と獨乙とが 戰爭をはじめるやうになつてから 或緊張したものになつた。或日、突然やつて來て、「暇かね?」と云ふから、「うん 少ししかけた仕事があるけれど、まあ 上つて行くさ」と云ふと「なに 又來てもいい」と 彼は云つた。

「いや 手がはなせないやうな仕事なら 僕の事だから さう云つて斷るが、さうではないから上つて話してゆき給へと云ふのだ。」

 これには 噓があつた。實際 仕事は手をはなしたくない性質のものだつた。が 何か 何時ものやうに ぶつきらぼうに 斷はる氣になれなかつたのである。

[やぶちゃん注:「斷はる」はママ。なお、末尾には『・・・』が打たれてあるが、これは葛巻氏が底本の他の断片でよくやる癖なので除去した。]

 

    *   *   *

 

[やぶちゃん注:以下は、先の「Karl Schatzmeyer と自分」と同じく新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」を底本とした「ERNST MÜLLERと自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記等を参考にして正字化したものである。字空けに就いては葛巻版に照らして変更を加えた箇所があり、そこは注記してある。

 各仕儀は以上の電子化注に従ったが、前に注したものは省略した。表記違いでも、前の参考文で比較して示したものもダブらせることはしていない。なお、本文冒頭の「Erst Muller」のルビを示した読み表記部分は、基礎底本では「エルンスト ミユラア」であるが、ここのみは葛巻氏の註にあるそれを用いた。]

 

    ERNST MÜLLERと自分

 

 自分が Erst Muller(エルンスト ミー)と近づきになつてから もう四年になる 始は 成瀨の紹介で會つた。その時 どんな事を話したか 今ではまるで覺えてゐない。二度目に會つたのは 自分が始めてこの獨乙人の下宿を訪問した時である。たしか半日ばかり話して 歸りに獨譯のハムスンを二三册借りて來たかと思ふ。三度目は――さう一一 會つた時の事を 書き立てる必要はない。自分は唯 この男と自分との交情を 幾分か小說らしく話しさへすればいいのである。

 ミユラアは その頃 上野櫻木町の或しもた家に下宿してゐた。六疊と四疊半と二間つづきで 安普請ながら 家は可成新しい。六疊のまん中には 大きな机があつて 机の前に輪轉倚子が一つ置いてある。あとは銀の色が黑く燒けた二枚折の古屛風と 籐の肘掛倚子が二つあるばかりで 外に別段これと云ふ裝飾もない。屛風には 過去の空氣の中から堀り出された豐國や國芳の役者繪が 一一に叮嚀にピンでとめてある。これは 額緣に入れて 壁へぶらさげるのが不調和だと云ふ考からであらう――ミユラアは何時でもこの屛風を後にして 端然と尻をセセツシオン式の輪轉倚子の上に落着けてゐた。

[やぶちゃん注:「上野櫻木町の或しもた家」「上野櫻木町」は現在の桜木町ではないので注意。寛永寺を中心とした、現在の上野桜木地区である。ところが、先に示した葛巻版「Karl Schatzmeyer と自分」では、ここが『四谷北伊賀町の或しもた家』と、南西に五・八キロメートルも離れた方向違いの地名になっているのである。これは「新全集」が拠った原稿(画像)以外にそう記した葛巻が見た全く別の原稿の存在を強く感じさせるものである。葛巻が統合編集するに当たって地所を変更するの必要性が全く存在しないからである(私は例えばモデルかも知れぬトマス・ジョーンズとの絡みでそうした可能性を考えて調べたが、ジョーンズの住んだ幾つかの場所とは一致しないから、その線はないと思う)。

 

 それも唯 落着けてゐるだけなら 特筆する必要は少しもない。所がこの男は 秩父銘仙の綿入れに 大島の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管を口に啣へながら 右の膝の上へ左の膝をのせて大納りに納つてゐるのだから奇拔である。始めてたづねた時に 自分は彼のはいてゐる黑繻子の足袋が 十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話を聞いた。それから 着物も一反では足りなくつて 二反かかつたと云ふから 見ると成程 唯でさヘ一反では覺束ないと思ふ所へ 裾が又べらぼうに長く出來上つてゐる。よくよく聞いて見ると 之は浮世繪の中へ出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく特別に彼が仕立てさせたものであつた。

 ミユラアは かう云ふ異樣ななりをしながら 自分が行くと 必その朱羅宇の煙艸を持ちかへて[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔五字欠〕』と入っている。]とか何とか 世にも不精な挨拶をする。さうして それと同時に 自分の眼の前へ 雀斑(そばかす)のある 細い手をひろげて出す 勿論 握手をしろと云ふ合圖である が 自分は面倒臭いから 未嘗 一度握つた[やぶちゃん注:ママ。]事はない それでも 行きさへすれば 必ひろげて出す。自分が握らないと云ふ事を考へるより 手の出る方が先なのであらう。

 行くと 自分は何時でも 籐の肘掛倚子にかけさせられた。机の上には の[やぶちゃん注:字空けママ。]妙な火入れが出てゐる。何でも元來は杯洗か何かにちがひない。ミユラアは机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出してその火入れと一しよに 日本語で「ドウダ」と云ひながら すすめてくれる。それから 秩父銘仙の襟をかき合せて 今度は獨乙語で「大學は面白いか」と來る。この二つも 前の手を出すのと一般で 天氣模樣に變らず やらない事はない。さうして 自分が「日本の大學位 退屈な(ラングワイリヒ)所はなからう」と云ふと 「獨乙の大學も退屈だ」と云ふ。さもなければ 「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ どつちがほんとうなのだか 未にわからない。

[やぶちゃん注:「退屈な(ラングワイリヒ)」三文字に対するルビ。Langweilig。]

 

 話題には 一番文學上の問題が上つた。ミユラアは自體根氣のいい男だから 自分が何か質問でもすると 繰返し繰返し敎へてくれる。その親切氣には 今でも感謝してゐるが 繰返す度に せきこんで來て 無暗に口が早くなるのには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落ついて話してゐても 碌に向ふの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから さうなつて來ると 愈 誰の事を何と云つてゐるのだか それさへもわからない。自分は ミユラアの唇がめまぐるしく動き出すと 何時でも南蠻𩾷舌と云ふ成語を 今更のやうに思ひ出しながら あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた。

[やぶちゃん注:「さうなつて來ると 愈」底本では「さうなつて來ると」で行末で「愈」が次行一字目であるが、違和感があるので、葛巻版に従い、一字空けた。

「あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた」も「あつけにとられて」で行末で次行が頭から「唯……」とあるのだが、どうも生理的におかしい感じがするので、特異的に一字空けた。]

 

 鼻と云へば この男の鼻は 實際 人が眺めるばかりでなく、當人が眺めるのにも 甚都合よく出來上つてゐた。華奢(きやしや)な鼻柱が 始は素直に上から下りて來たが 途中で不意に氣が變つて 又元來た上の方を 眄一眄したとでも 形容したらいいのだらう。先の方が まるで抓(つま)んで持上げたやうに 上を向いてゐる。いくら西洋人でもかう云ふ鼻は 餘り上品に見えるものではない。自分はこの鼻を見てゐると よく ナポレオンか誰かが 鼻の上を向いた男ばかり集めて 近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した 兎に角 三十何才かの獨乙人にしては 氣の毒な鼻である。

 ミユラアは 鼻こそ近衞兵になる資格があるが 體格は甚振はない 瘦せてゐて 胸の狹い所が自分によく似てゐる 獨乙人と云へば 必麥酒がすきで 人と喧嘩をする事が それより猶すきな人間のやうに思つてゐた自分は この男が獨乙帝國の臣民だと思ふと どうも矛盾の感があつた。――自分がケルネルの話か何かした序(ついで)に ミユラアと戰爭論をはじめたのも 元をただせば 全くこの矛盾の感に崇られたおかげである。

 その時の事は 今でも可成覺えてゐる ミユラアは 戰爭と云ふと さも人を莫迦にしたやうな顏をして 例の鼻を一層上へむけながら 日本語で「死ニタイカ アナタハ」は來た。自分が nein と答へたのは 勿論である。すると 彼は 「私モ死ニタクナイ」と云つて それから妙な身ぶりをした。遺憾ながら 自分は 之を妙な身ぶりと云ふより仕方が外にない。强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して ちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとかと云つて ミユラアの非戰論に反對した。すると 彼は急にむきになつて何度も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔六字欠〕』と入っている。葛巻版では『「トルストイが云つてゐる通り 自分もそう思ふ」』となっている。]を繰返しながら あの朱羅宇の煙管を恰も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔三字欠〕』と入っている。葛巻版では『「そう思ふ」』となっている。]の代表者であるかの如く 自分の眼の前へつきつけて 滔々と自說を辯じ出した。何しろ殆 加速度で口が早くなつて行くのだから 詳しい事はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に並べ立てた事だけは確である。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 今も云つた通りミユラアの體格が獨乙帝國の臣民たるべく餘りに貧弱な所から起つたので 別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない。だから自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく參つてしまつた。それを見て ミユラアが例の鼻を意氣惡く 自分の顏の側へ持つて來ながら 主戰論者がさう容易に 降參してもいいのか と云つたのを思ひ出すと 今でも少し忌々しい……

 それから 暫くして 歐洲の大戰亂が勃發した。つまり 戰爭論が 惡讖になつたのである。――あの開戰の號外が出た日 自分はミユラアに誘はれて 松下へ食事をしに行つた さうしてその歸りに 二人で 銀座の裏通りを散步した。狹い往來の兩側には みがきこんだ格子戶の中に御神燈がぶら下つてゐたり 水を打つた三和土の上に盛鹽がしてあつたりする。するとミユラアがそれを見て この町にはどんな階級の人間が住んでゐると訊(き)くから 自分は無造作に藝者だと敎ヘてやつた。所がこの答がミユラアの好奇心を動かしたと見えて 彼はそれ以來 女さへ通れば 自分にあれは藝者かと尋ねる 勿論 獨乙語で尋ねるのだから 彼は先方の女には何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で「藝者か」と云ふ 自分は少からず弱らされた。――ミユラ

[やぶちゃん注:以上で底本は断ち切れている。

「强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して」同前改行で葛巻版に従って字空けを施した。

「別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない」の「訳」の字体は葛巻版の当該相当部に従った。

「降參してもいいのか」の後の字空けは読み易さから補った。]

 

2020/04/11

芥川龍之介「白 □旧全集版及び■作品集『三つの寶』版二種」再校閲+作品集『三つの寶』佐藤春夫の序文と小穴隆一の跋文を挿入


芥川龍之介の「白 □旧全集版及び■作品集『三つの寶』版二種」に昨日、小穴隆一の二葉の挿絵を挿入、また本日、半日かけて全面的に厳密に再校閲して誤りを正し、さらに作品集『三つの寶』に載る佐藤春夫の序文と小穴隆一の跋文を恣意的に「作品集『三つの寶』版」の前後に挿入した。特に佐藤のそれは実にしみじみとして、良い。以下に示す(画像は雰囲気を味わって戴くためのもので、本文の前半のみの原本(復刻本)の部分画像である)。

   *

Takaihenotegami
 

他界へのハガキ 

 芥川君
 君の立派な書物が出來上る。君はこの本の出るのを樂しみにしてゐたといふではないか。君はなぜ、せめては、この本の出るまで待つてはゐなかつたのだ。さうして又なぜ、ここへ君自身のペンで序文を書かなかつたのだ。君が自分で書かないばかりに、僕にこんな氣の利かないことを書かれて了(しま)ふぢやないか。だが、僕だつて困るのだよ。君の遺族や小穴(をあな)君などがそれを求めるけれど、君の本を飾れるやうなことが僕に書けるものか。でも僕はこの本のためにたつた一つだけは手柄をしたよ。それはね、これの校了の校正刷を讀んでゐて誤植を一つ發見して直(なほ)して置いた事だ。尤もその手柄と、こんなことを卷頭に書いて君の美しい本をきたなくする罪とでは、差引にならないかも知れない。口惜しかつたら出て來て不足を云ひたまへ。それともこの文章を僕は今夜枕もとへ置いて置くから、これで惡かつたら、どう書いたがいいか、來て一つそれを僕に敎へてくれたまへ。ヸリヤム・ブレイクの兄弟がヰリヤムに對してしたやうに。君はもう我々には用はないかも知れないけれど、僕は一ぺん君に逢ひたいと思つてゐる。逢つて話したい。でも、僕の方からはさう手輕(てが)るには――君がやつたやうに思ひ切つては君のところへ出かけられない。だから君から一度來てもら度(た)いと思ふ――夢にでも現(うつつ)にでも。君の嫌(きらひ)だった犬は寢室には入れないで置くから。犬と言へば君は、犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね。それを君が書きながら一瞬間、君が僕のことを思つてくれた記錄があるやうで、僕にはそれがへんにうれしい。ハガキだからけふはこれだけ。そのうち君に宛ててもつと長く書かうよ。
  下界では昭和二年十月十日の夜      佐 藤 春 夫

2019/12/30

芥川龍之介 長への命 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本篇は「長(とこしな)への命(いのち)」と読み、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の掉尾に載る「長への命」の漢字表記を参考にしつつも、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「長への命」(但し、漢字は新字表記)を底本とした。しかし、同新全集の「後記」によれば、本篇は明治四一(一九〇八)年二月二十八日発行の回覧雑誌『碧潮』第三号所収であり、これは葛巻が配置した小学校時代ではなく(そもそもが葛巻自身が末尾に『(明治四十年頃、「くづれ」の署名で。回覧雑誌『碧潮』第三号)』と記しているように、彼は既に明治三八年三月に江東小学校を卒業し、翌月四月に三中に入学しているのである)、東京府立第三中学校三年次のものである。葛巻氏もそれは判っていて、後注で『このお伽噺は、必しも小学校時代のものとは云えないかもしれない。――しかし、その「日の出界」、「お伽一家」』(『お伽一束』が正しく、また、これは別回覧誌ではなく、『日の出界』の臨時号の名である)『(小学校時代)にはじまる、一連の回覧雑誌中の一例(サムプル)』(「例」のみのルビ)『として、ここに掲げる』という苦しい弁解をされている。しかし、これは同書のパート立てを全く逸脱していて納得出来ないし、流れとして、これをここへ持って来たいという意図は、まあ、判るとは言えるものの、だったなら、初めっから、逆編年形式とか、時代別などをしなければよかったではないかと私は思う。それぞれに注を附しておけば事足りることではないか。こういう妙なところに、葛巻氏が芥川龍之介の原稿を小出しに、しかも恣意的にちらつかせては、出そうか出すまいか、と、何やら思案されているような姿が私には垣間見えてしまうのである。

 以上、漢字を「未定稿集」に主に従って正字で示した以外(「竒」などのように新全集の方が正しい字体で記している箇所もある)、葛巻氏の整序(第一段落末の句点打ち等)を施した部分も含めて文字列(字空けや改行)は完全に新全集版に基づいたもので示した。

 なお、故あって、本電子化を以って2019年の最後の私の仕儀とする。……では……よいお年を――

 

   長への命

 

        

 愚なる國王ありき 如何にもして長への命を得むと思ひて 多くの從者(ズサ)を召しつれつ 遠く東方の諸國に不老の泉を求めぬ

[やぶちゃん注:「一」は「未定稿集」にはなく、後で「二」と出るので不審ではあった。

「ズサ」のルビは「未定稿集」にはない。]

 行き行きてアゼンスの市近く來りし時遂に一行はとある山かげの岩に不老の泉の銀の如く湧き出るを見出しぬ 王喜ぶこと不斜 自ら馬より下りて之を掬へば 竒しや 白髯雛面の老爺は忽ち綠髮紅顏の壯夫となンぬ 王歡喜して云ふ「嬉しき哉 我は長の命のうま酒を得たり」

[やぶちゃん注:「岩」「未定稿集」では『岩〔窟〕』と補正注を添えてあるが、ここは、いらぬお世話であると私は思う。

「不斜」「なのめならず」。

「掬へば」「すくへば」。

「竒しや」「あやしや」。「未定稿集」は「竒」が「奇」である。

「雛面」はママ。「未定稿集」は『皺面』とする。確かに「雛面」ではおかしく、葛巻氏のの断りなしの補正は正しいかとは思う。]

        

 春風秋雨億萬々年 逐に地球永遠に眠るべき――生命(イノチ)あるものの悉く亡ぶべき――時は來りぬ 然も愚なる國王は未死す不能也

 月明なる夜 彼は枯骨の岡に立ちて氷河をかくるヒマラヤの絕嶺をのぞみ白雪に掩はるゝヨーロツパの大陸を眺め月に澄みたる蒼空の無窮を仰ぎ長く嘆じて云ふ「あゝ長の命は苦しかりき」

[やぶちゃん注:「あゝ長の命は苦しかりき」「未定稿集」では『あゝ 長の命は苦しかりき』と字空けが入る。

「ヨーロツパ」は「未定稿集」では『ヨーロッパ』である。]

 

[やぶちゃん注:「アゼンス」ギリシャの首都アテネ(Athens)の英語読み。但し、この「國王」がどの時代の人物で、彼にモデルがあるやなしやも判らぬ。識者の御教授を乞う。

 さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の本篇の解説で坂本昌樹氏は(なお、そこで当時の芥川龍之介を『中学四年』とされているが、これは三年の誤りである)、『典型的な不老不死譚を逆手にとった作品構成の巧妙さが、後の芥川独特の機知を既に彷彿させている。無為な不老長寿に対する否定的発想は、二年後の「義仲論」』(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版。冒頭に初出書誌を示してある)『に於ける木曽義仲の評価「彼の一生は短けれども彼の教訓は長かりき」』(「三 最後」の最終段落の一節)『を連想させる。徒らな「長への命」を懐疑し、短いながらも充実した義仲の「男らしき生涯」を肯定する志向に、当時の芥川の関心の一面を窺うことも可能かもしれない』と述べておられる。同感であるが、寧ろ、芥川龍之介自身の最期を考えると、これは、また、酷く皮肉な一篇ともなっているということに気づくではないか。]

芥川龍之介 春の夕べ 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「春の夕べ」の漢字表記を参考にし、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「春の夕べ」(藤沢文書館蔵。恐らくは葛巻義敏旧蔵品。但し、漢字は新字表記)の明治三六(一九〇三)年二月発行の回覧雑誌『日の出界』臨時発行号の『お伽一束』に基づいて構成表記し直したものである。則ち、漢字を「未定稿集」に従って正字で示した以外、葛巻氏の整序した部分も含めて文字列(字空けや改行)は新全集版に基づいたものである。

 本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年)頃、「芥川龍雨」の署名で。回覧雑誌「お伽一家」)』とするが、「家」は誤判読であろう。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科一年次の満十歳の終り(芥川龍之介は三月一日生まれ)であった。

 やや讀み難いが、躓く部分については後注を施した。]

 

   春の夕べ

 

「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」

と今日學校でをそわつた唱歌をうたいながら樂しげに 步んできた二人の少年

「ねー重ちやん今日の「かすみてみヽゆる」んとこねー大へんむづかしかつたね」

「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時

「一寸をたづね申します」

と見苦しき老僧は こしをかゞめてといかけた

「あの○○町の方へ行くのはどういつたらよろしいのでしよう」

「エ あの○○町なの こゝをまつすぐにいつて この橫丁から三番目の橫丁をはいると つきあたりがそうよ」

と美ちやんは丁寧に指さしてをしへた老僧は

「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々

とくりかへしてさししめされた方がくへ とぼとぼと步んで行つた

 

[やぶちゃん注:一読、芥川龍之介が心から尊敬して交わった先達の文豪泉鏡花の小説の冒頭のように見まごう。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同作品の篠崎美生子(みおこ)氏の解説でも、『会話文を多量に含むやわらなか文体には、泉鏡花の影響があることが想像される。「愛読書の印象」』(大正九(一九二〇)年八月『文藝倶樂部』初出)『によれば、芥川は「中学へ入学前から(中略)鏡花氏の「風流線」を愛読していた」とのことであるが、初期文章の段階で、既にさまざな文体が試みられていることは注目に値しよう』と述べておられる。さて、以下、表記上の問題点及び「未定稿集」との違いについて述べる。

・冒頭の「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」は、まず、歴史的仮名遣の誤りは総てママ。なお、「ヽ」であって「ゝ」ではない点に注意されたい。「チュてん」とでも言うべきか、通常はカタカナの繰り返しにしか用いない記号である。「未定稿集」では『にーをー』と長音符である。私は正直、そっちの方が、唱歌を歌っているのであるからには違和感がない。実際、長音符使用は今回纏めて行った初期の文章に散見するからでもある。以下の何箇所かも葛巻氏のそうするように、長音符の方がいいだが、ここは皆、新全集に従った。この唱歌、歌詞を整序してみると、「あさひに」「にほふ山の櫻の」「かすみてみゆる」「さくらのはなの」である。しかし、完全にこれに一致するものは私は知らない。但し、知られた「さくらさくら」又は「さくら」(日本古謡とされるが、実際には幕末に江戸で子供用の箏の手ほどきの一曲として作られたもので、作者は不明)の歌詞と単語と表現が酷似しているから、恐らく、芥川龍之介が仮想の鏡花的幻想小説世界へのトバ口として、それを少し弄った架空のもののように私には思われる。もし、完全一致する歌詞があるとなれば、御教授願いたい。

・「をそわつた」「未定稿集」も新全集もママ。

・『「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時』の鍵括弧閉じるがないのはママ。「未定稿集」は「むづかしかつたよ」で鍵括弧を閉じ、しかもそこで改行している。葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。「さくらのはゝなの」は「未定稿集」では「さくらのはーなの」である。

・「いをゝと」前に徴して見るに芥川龍之介は「いをーと」としたつもりかもしれぬ。「言はうと」の意の誤記或いは訛りである。「未定稿集」も新全集もママ。

・「よろしいのでしよう」の「しよう」は「未定稿集」も新全集もママ。

・『「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々』の鍵括弧閉じるがないのはママ。前と合わせて、これは落としたというより、芥川龍之介は確信犯でそう表記したのであると私は思う。「未定稿集」鍵括弧を閉じてある。やはり葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。

 「芥川龍之介未定稿集」が「全集」の中に晴れて正当に組み込まれることがなく、今に至るまで一種の鬼っ子のような扱われ方がされ、しかも総じて芥川龍之介研究者の間で葛巻氏の評判があまり芳しくないのは、彼が芥川龍之介の未定稿や原稿断片を小出しにして発表したことや、さらにはそれらを恣意的に結合したり、断りなしに書き変えたりしたからである。しかし本篇については以上のように原本と比べて見ると、全体に「未定稿集」版の葛巻氏の操作は、本篇を読むに躓かぬようにという配慮をされての手入れと言え、概ね納得出来る操作であるとは言える。寧ろ、近年の勝手な機械的な漢字の新字化や、歴史的仮名遣の現代仮名遣への変換に比べれば、私は殆んど罪がないものであるとも言おう。

 泉鏡花や夏目漱石や森鷗外ばかりではない――既に鷗外を物理的に読めない高校生は甚だ多い――芥川龍之介の正字正仮名の作品をさえ――若者たちの多くが物理的に読めなくなってしまう――「こんなもん、読めるわけねえじゃん」とほくそ笑んで言い出すのも――そう遠くないように思われる。高校の国語で「こゝろ」や「舞姫」はおろか――「羅生門」も読まずに卒業して最高学府へ進学する若者が、これからカリキュラム上から、事実、生れてくるのだ――私はそら恐ろしい気が、今、確かにしている。

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