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カテゴリー「芥川龍之介」の778件の記事

2023/01/29

下島勳「芥川君の日常」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和九(一九三四)年二月二十八日の午後六時二十五分から中央放送局(当時の日本放送協会(NHK)の放送時の呼称)『趣味講座』で口演放送されたものを活字化したものである。後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。太字は底本では傍点「◦」。一部に注を挿入した。]

 

芥 川 君 の 日 常

 

 三月一日即ち明日は、芥川龍之介君が生きておりますと、四十三年の誕生日に當りますので、これから彼が日常生活の一斷面についてのお話をして、その俤を偲びたいと思ひます。

 芥川君と私の關係でありますが、それは同じ田端に偶然住むやうになり、醫者としての私はその職務上から彼が帝大卒業の年ごろから懇意となつたのであります。

 初め芥川君を知つた時分の私は、まだ野狐の臭さ味など取れきれない頃で、今から考えるととかなり變物に見えなたこでありませう。勿論今でも變物にかはりはありませんが――併し若い新進の文學者には、かヘつて其變物が或は興味を惹いたのかも知れません。尤も私といふ人間も、文學や美術にはまんざら趣味のない方ではなかつたから、親子ほど年は違つてゐましたが、よく話も合ひますので、忽ちの間に懇親になつてしまひました。――實を申しますと當時私としましては、何となく理想の中で求めてゐた人にでも、偶然逢つたやうな心特ちがしたのであります。

 さて懇意の度が深まるに隨つてそろそろ讀書を勸めて來るのでした。それは西洋各國小說の代表的傑作といふものでした。尤も嫌ひでないから若干は勿論讀んでゐたのです。初めはマアこれを讀んでごらんなさい。――これも讀んでごらんなさい。――といふやうなことでしたが、これを是非お讀みなさいになり、遂にこれを讀む必要がありますにまで發展して來たのです。もともと下地は好きなり御意はよしで、つい三四牟ばかりの中に、――こう申しては變かも知れませんが、ルネツサンス後の代表的小說と稱せられる飜譯書のあらましは讀んだことになつたんださうです。だからマア西洋文學に對する槪念を摑むことの出來たのは、全く芥川君の指導によつたわけでありまして、卒直に申しますと芥川といふ人はもの好な人物で、この老人に先づある程度の基礎的新智識を吹きこみながら、當時の文壇殊に自分の新作を味あはせ、一面自分の話し相手としたり、批評の聽き手としたり――といつたやうなことになるのではないかと思はれぬことはありません。この點からいふと私の先生だつたり柔順な友人だつたこいふこととになると思ひます。併しこれがために自分の抱いてゐた硏究が中止になつてしまひました。が、そんなことは勿論犠牲にして悔いないほどのほんとの魂の幸福を得たわけであります。

[やぶちゃん注:「自分の抱いてゐた硏究」医師としてのそれか? 下島は俳人井上井月の研究家としても知られているが、「芥川龍之介終焉の前後」の私の冒頭注で述べたように、井月は芥川も好きな俳人であったし、下島の「井月の句集」には芥川龍之介の跋文を貰うなど、寧ろかなりの益を受けているから、「中止になつてしまひました」という謂いはとてものことに当たらないと私は思う。]

 芥川君は天才とはいはれるほど、非常に優れた頭腦の持主でありました。それは如何なる程度に良かつたか? 勿論創作家或が學者としての芥川君は既に定評がありますが、端的な謂はゆる頭の良い具體的事実、たとへぱ讀書の速度及び其態度、記憶力及び想像力、感受性の異常等々につきましても興味のあるお話がありますが、今はさういふことには全然觸れません。

 一體聰明をもつてきこへた然も江戶つ子の芥川君に、洒落氣と皮肉の伴なうのは不思議はありませんが、それでゐながらばかばかしいほど間の拔けたそそつかしいところもあり、またまた冷徹の理智家と評判の高かつた彼が、案外惡戲づきの茶目さんで、さながら子供のやうな一面のあつたことをご存じない方が多くはなからうかと思ひますので、今回は主としてこの方面の實例についてお話したいと思ひます。

 彼の處女出版卽ち羅生門が出ました大正六年九月のある晚のことです。私のところの碌でもない藏幅を見に來られて、座蒲團の上に落着かれたかと思ふ時分に、玄關で婦人の聲がしたのです。書生が飛び出して來意を尋ねますと『只今こちら樣へ髮の毛の長いお方がお出ではござりませぬか』と、さも氣まり惡さうにいふので、書生は勿論芥川氏のことだと合點し『何かご用ですか』と尋ねると、『失禮ですが莨[やぶちゃん注:「たばこ」。]のお錢を戴きませんので』と、もぢもぢしてゐたさうです。書生は早速それを取次いだので、狼狽した彼は玄關へ飛んで行つて代價を仕拂ひ、スマナイスマナイと云ひながら座敷へ戾り、『どうもこのごろ莨を買つて錢を拂はんことがチヨイチヨイあつて困る』といふから、私は『その替りおつりを取らんこともチヨイチヨイあるでせう』といつて笑つたことでありました。

 これは大正九年の春のことです。有樂座で畑中蓼坡、奧村博史君たちが、メーテルリンクの靑い鳥を演じたとき二人で見に行つての歸りでした。何でもキリストの話をしながら田端の庚申さまの邊まで來たと思ふころ急に話を中止してしまつた。そして懷ろへ手を差しこんで腰をひねりながら變な恰好をしてゐるのに氣はついたのですが、一足お先ヘ步き出してゐたので後から急ぎ足の彼は突然『今私が何をしてゐたか知つてゐますか』といふから、『下腹でも搔いてゐる恰好でしたよ』といふと、『實はね、下帶がはづれかゝつたから懷の方へたくし上げてゐたんです』といつてすましてゐました。キリストの話もそれ切りで、夜の十二時ごろお別れしたのでした。

[やぶちゃん注:この観劇は不詳(芥川龍之介の年譜に載らない)。「畑中蓼坡」(はたなかりょうは)は演出家・俳優で、後に映画監督となった。先に不詳としたが、当該ウィキによれば、確かに、大正九(一九二〇)年二月、『民衆座の水谷八重子主演、石井漠振付による』「青い鳥」の演出をしているから、これである。「奧村博史」は洋画家・工芸家で、平塚らいてうの夫である。舞台背景・装飾でも担当したものか。]

 それからこれは、大正十二年五月春陽會の第一回展覽會のときのことです。芥川、室生犀星、渡邊庫助などと同伴で見に行つたのですが、上野公園の入口即ち不忍よりの土堤に茂つてゐる、一寸八ッ手に似た葉の樹木を指して突然『この木の名を何といふのか當てゝみたまへ』ときた。皆面くらつて眼をパチクリやつてゐる。私もさて何の木かな――或は西洋種かも知れないぞと考へてゐるうちに『橡の木だよ。みんな田舍者のくせに駄目だね――ときた』[やぶちゃん注:「――ときた」は鍵括弧外であろう。]。一同啞然たりといつたかたちでありました。

[やぶちゃん注:「渡邊庫助」渡邊庫輔(くらすけ 明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)の誤記。作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。]

 マア斯ういつたやうなことが一寸得意だつたのです。だから、斯ういふやうなことを惡意に解釋した批評家などが、機智を弄するキザな技巧だ――などといつてましたやうですが、併し社會人の彼として斯んなことは、何の考へもない例の茶目式洒落に過ぎなかつたのです。

 これは大正十三年二月雨の降つた翌日でありました。足駄をはいた芥川君と當時牛込神樂坂の上の赤城神社の境内にある奧さんのお里の塚本家まで診察に行き、歸りに神樂坂の洋食屋で夕飯を食べてから、自動車で當時銀座にあつた書畫骨董の入札會などをやつてゐたポーザル[やぶちゃん注:ここの左ページ二行目。異様に印刷が小さいが、「ル」と判読した。]とかなんとかいふ處へ寄つて、落札してゐた俳畫の軸を受けとり、夕方から降り出し霙雪をくぐつて銀座の通りから電車に乘り、動坂停留場で下車するころは咫尺を辨ぜぬ東京では珍らしいほどの大吹雪となつてゐました。幸ひつい先の懇意な藥局へ飛びこんで傘を二木借り一本を芥川君に渡し、ホツとして行くこと六七步――私はふと鞄が手にないのに氣がついて、思はすアツと聲を出して振り向いたその刹那、何とも云はずにトンビの下からヅイと私の前ヘつき出しや。例のヅルさうな表情で、……註をするまでもなく電車へ置き忘れたのを後から持つて來てくれたのです。――傘を渡した時に出してくれるのが普通のやり口ですが、そこが彼の彼たるところで、私の一寸駭く樣子を見たかつたのです。まあ斯ういふ茶目さんでありました。――その翌日女中が足駄の交替に來ました。私も下駄のはき違へでは人後に落ちぬ名人ですが、この時は塚本さんを辭したとき先に外へ出た芥川君が間違へてゐるといふやうな彌次喜多を演じたものです。

[やぶちゃん注:「牛込神樂坂の上の赤城神社」現在の東京都新宿区赤城元町のここにある(グーグル・マップ・データ)。この当時、塚本家がここにあったことは、私は初めて知った。]

 これは大正十二年六月末の一寸暑い曰でありました。山本さん(有三)に新富座の中幕六代目の鏡獅子の見物に誘はれたので、田端の偶居に芥川君を待ち會せ、午後の五時ごろ動坂下から自動車を飛ばせ、新富座の左手二階の棧敷へ納まつたときは、仁左衞門の萱野三平が腹を切つて例の嗄聲をふり絞つてゐる所でした。

 鏡獅子は六代目得意中の得意の藝なので、勿論惡からう筈もなく、さすがの芥川君も、あの長い白頭の毛を振り廻すもの凄い獅子舞には非常に感心してゐるやうでした。その時分聊か仕舞の稽古をしてゐた私は、能樂の石橋[やぶちゃん注:「しやくきやう」。]から脫化したこの獅子舞の型が、鍛練された腰の力によつて始めてあの重たい白頭を自由に振ることが出來るさうだと知つやかぷりを囁いたところが、『腰の力――腰のちから』と、低く口ずさみながら、ぢつと見いつてゐたのが一寸滑稽に思はれもしました。

 幕が引かれると早速樂屋へ行き、山本さんの紹介で芥川君もこのとき初めて菊五郞に逢つたのです。

 湯を使つて上つて來た――當時十八貫[やぶちゃん注:六十七・五キログラム。]以上といはれた菊五郞は、次幕の阿鬼太郞作、人情一夕話の大工辰五郞の顏を作るべく、挨拶もそこそこにあの偉大なお臀を我等に向けて鏡の前へ胡坐を据ゑ、話し好きで有名なほどあつて、顏を彩りながらも色々の話をした。山本さんが彼の臀部や太腿に触れて見ろといふから、私は一寸さはつてその緊張度に駭いたりしました。

 この日の私は、餘り着たことのない昔流行つた縞絽の羽織を着て出かけたのですが、宅を出た頃から頻りに私の羽織に見とれてゐるらしい芥川君に氣がついた。

『どうもイイね――山本君。いま斯んなイイ柄ゆきのものは何處を探してもありやしない』

 などと云つていたが、谷田橋へ差しかゝつたころ、

『先生――甚だすまないが、この羽織を僕に吳れませんか?』

 といふのでした。私も突然のことで一寸まごついたが、それが冗談ではないらしいので――

『イヤお易い御用だ。早速進呈しませう。――これは大分前の流行品で、然も柄が若くて私のやうな老人にはもう一寸氣恥かしくなつたから滅多に着ないのだがちようど季節ものでもあり、芝居見といふのだから今日はひとつ精々若返つて着て來たのですよ。成るほどスタリといふ物はないといふが、とんだイイ貰ひ手にありついて、羽織も運がイイし第一私が仕合せだ』

 といつたところが、まるで兒童か何かのやうに喜んではしやぎきつたあの稚氣滿々の芥川君が、まだ私の眼の前に彷彿します。山本さんが若しこの話をお聽きになられたら、恐らく同じやうに感淚の新たなものがあらうと思はれます。

 羽織は翌朝早速お屆けしあ。縫ひなほされて非常によく似合ふ芥川君の着姿にも幾度か接したのであつた。が、今は遺物となつて同家に保存されてゐるのです。

 この返禮といふ意味かどうかは判らぬが兎に角、その年の暮に大彥で作らせた袴を一着贈られました。その奉書の包み紙に――

  たてまつるこれの袴は木綿ゆゑ絹の着ものにつけたまひそね

 といふ歌が書いてゐつ梵。當時これは面白いと思つてゐたのですが、粗忽な私は何處ヘどうしたのか行衞不明になつたので、甚だ殘念に思つてゐました。ところが、ほど經てふと押入れの反古籠の中から水引のかかつたままのそれを發見して、且つ駭き且つ喜んだことでありました。今は茶掛けの軸に仕立て袴とともに追憶の紀念となつてゐます。

      お も か げ

   なで肩の瘦せも縞絽の羽織かな

――といふ私の句があります。

 芥川君は私が鄕里の信州から送つてくる食ぺものなどを贈つたり、或は今田舍へ行くと松茸や栗の季節だ、天龍川の鮎はうまいなどと鄕里の噂でもすると、。いつでも機嫌がよろしくない、そして斯ういふのです。『あなたは故鄕があるから羨やましい。私には故鄕といふものがない。實に寂しい。よくあなたは故鄕から柿が來たとか何が來とか云つて物を下さるが、時として一種の反感さへ起きる』といふのです。『オヤ變だね、あなたは東京といふ立派な故鄕があるではありませんか』といふと、『イヤ東京は故鄕といふ感じが少しもない。東京などといふ處は決して故鄕とは思はれない。』と强くいふのでありました。

 芥川君は寂しがりやの人戀しやでありました。小穴隆一君なども藝術的理解のほか、このÅ人戀しさの話し相手が、あの親密な交友關係にまで發展したものと解するのが至當かと思はれます。自分の好きな客なら隨分忙しい時でもよく逢つたものです。我々もご家族の診察などすませて逢はずに歸らうとする時でさへ、忙しい中から聲を聽きつけて、マア三十分話して行けといふ、三四十分立つたから歸らうとすると、もう三十分とくる。こん度は原稿は明日の晩までに書けばイイから灯のつくまでとくる。そしてどんなに忙しくても僕は夕方書けないからといふのでありました。夜などこの三十分で隨分おそくまで更す[やぶちゃん注:「ふかす」。]ことがあつたのです。併し非常に忙しい時などは玄關へ面會謝絕の貼り紙を出したことは云ふまでもありません。またこの頃は非常に忙しいやうだからと遠慮して數日訪問しないと、暫く來なかつたが何か變つた事でも出來たのかなどと、一寸厭味に近いことさへ云ふのでありました。

 彼は一寸をかしいくらひ常に私を强いものにしてゐました。――その實特別强くも何ともない私を。尤も私が夢の中の怪物と格鬪した話をしたらそれをひどく感心して、菊池寬氏なんかにまで吹聽しらものです。ところが大正十五年の春私の娘が死んだとき、私が泣いたことに一種の味でも感じてゐたものとみえまして、翌年即ち自決の年の四月ごろ『先生あの時は中々結構でした。――あれでイイ』などと、まるで俳優のしぐさでも褒めてゐるやうなとをいふのでした。――平常强いと信じてゐる私の淚を見て氣の優しい芥川君が、 やはり自分と違つてゐない私を感じたとでもいふ意味だつたかも知れません。それは兎にかく、平常菊池は强いく强いといつてゐたが、彼が終焉の日や葬儀の日の菊池氏が聲淚ともにくだるといふあのありさまを何處からか眺めてゐて、『君中々結構だよ――それでイイ』など云つたと假定したら、果してどんなものでせう。

 私は震災前、何だか都會生活が厭やにもなりまた家事の都合もあつたので、鄕里へ引込まうかと思た[やぶちゃん注:ママ。]ことがありました。その時意中を打ちあけたところが非常なけんまくで『そんなことをしてくれては僕は勿論僕の一家が困る。それは是非思ひ止まつてください』と顏色を變へたものでした。家事上の都合もあるからと云ふと、『信州の一平民が東京へ移住出來ない理由がない』などと丸で暴君のやうな髙飛車をきめこんだことがあります。それが子供の死んだとき室生犀星君に、『先生はこん度こそ田舍へ引込まれるかも知れない』といつてゐたさうです、[やぶちゃん注:読点はママ。]ところが其後心氣も一轉し、また家事の都合も必ずしも私の故鄕を必要としないことになつたのですが、自決の年の三月頃かと思ひます。何かの話の切つかけからか忘れましたが、『先生は田舍が好きならもう引込まれても差支ヘがない』などといふてゐたのです。これはもう私が田舍へ引込をまぬといふことを承知してゐながら、一寸茶目氣分から漏らした言葉であらうと思ひますが、併しこの時分の茶目氣分には既に齒車式悲痛の匂ひがします。

 芥川君の莨好きもまた有名なものでしたが、かくいふ私も芥川君に一步も讓らん莨好きだつたのです。あるとき芥川君に僕も止めるから貴君も止めないかと勸めたことがありました。すると私が止めるなら止めてもイイといつてゐましたが、私も斷然止めるほどの勇氣が出ずに一年以上も過ごしました。併し私は非常な勇氣を奮つてとうとう[やぶちゃん注:ママ。]やめ同時にその話しをすると、とぼけたやうな顏をして、『僕は酒も飮まず他に大した嗜好もない。今莨をやめては何の樂しみもないから、これだけは許してください』と泣かんばかりに哀願するのでした。

 晚年の芥川君は、見やうによつては睡眠藥と莨の刺戟で創作をつづけてゐたといつても過言でないほどなので、無理とは知りながらも、あまりに喫し過ぎるのを見かねて忠告すると、『好きなものをやめるなんて慘酷だ。あなたは好きなものをやめたが、それは卑怯といふものだ』などと逆襲するのでした。

 また私が若いころある責任感から自殺しようとした秘話があつて、それには非常な興味と同情をもつてゐてくれましたが、晩年には『それは體力的に助かつたのです』などと言ひ、『若し其時死んでゐたらどうだつたでせう』などと冷淡な皮肉をいふやうになり、終には『實行しない自殺談なんか有難いものではない。恰も自殺しない厭世論と同じことだ。』などといふやうになつたのであります。つまり、あれほど惧れた犬さへこはくなくなり、あれほど尊敬した芭蕉の筆蹟を見ても感興を惹かないといふやうな悲しい狀態となつたのです。

 實は今夕斯ういふことには觸れないつもりでしたが、一寸觸れましたからこれだけのことを申したいのです。當時醫者として老友としてまた藝術及び藝術生活の理解者として、芥川君に對する苦衷が單に煙草や睡眠藥に止まらなかつたといふことを御諒察願ひたいのであります。

 ――時間も迫つてまいりましたから。明るい季節の趣味談を一つしてご免を被らうと存じます。

 今芥川家のお座敷の床に黃檗高泉の梅といふ字を書いた季節の茶掛が、漱石先生の風月相知の額と斜めに相對してかかつてをります。これはどんな茶室へ掛けても立派にをさまる品位ある中々イイ軸であります。この軸は大正八年の二月、ある靑年畫家が人から賴まれ私に買つてくれといつて持つて來たのですが、芥川君の懇望でお讓りしたものであります。それは芥川全集書翰篇二五一の私宛の手紙の末に『御話の高泉の書小生などの手にも入ものに候やこれまた伺上候』のそれであります。當時既に盛名の降々たる芥川君でありましたが、たかが、といつては高泉禪師に失禮ですが、『小生などの手に入るものに候や』といつてゐるところに其ウブさが知られるのであります。そして非常に安値に手にはいつたので、これまで非常に喜ばれたのであります。後にはこの道の趣味も中々發展されましたが、この高泉の軸は芥川君自身として掛物を買はれたイの一番卽ち最初のものでありまして、私には殊に印象の深いものであります。――ではこれで終りとします――。ご淸聽を感謝します。

  (昭和九・二・二八・午後六・二五・中央放送局趣味講座口演)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは下インデントでややポイント落ちであるが、引き上げた。

「黄檗高泉」(おうばくこうせん 一六三三年~元禄八(一六九五)年)は江戸前期の渡来禅僧。福建省生まれ。「高泉」は道号、法諱は「性潡」、別号に「雲外」「曇華道人」。隠元の法嗣慧門如沛(えもんじょはい)の法を嗣ぎ、隠元七十歳の賀に渡来した。塔頭法苑院に住し、金沢の献珠寺や、伏見の天王山仏国寺を開山、次いで、宇治黄檗山万福寺第五代住持となった。当該ウィキが編年体で詳しく書かれてある。この「梅」の掛物は私は見たことがない。

「漱石先生の風月相知の額」『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』に同書の写真を掲げてある。]

2023/01/28

下島勳「芥川龍之介終焉の前後」

 

[やぶちゃん注:本篇は『文藝春秋』昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』の「芥川龍之介追悼號」に寄稿されたもので、後の下島氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳(いさをし(いさおし) 明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年:芥川龍之介より二十二年上)は医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川家の主治医で、その友人でもあって、本文にある通り、芥川龍之介の末期を診たのも彼である。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房で奥附の住所が下島と同じであるから自費出版である)には芥川龍之介が「序」を寄せている(ブログで電子化済み)。自らも俳句をものし、「空谷」と号した。また、書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は、彼に託されたものであった。私は既に古くサイト版で下島氏の「芥川龍之介氏のこと」(昭和二(一九二七)年九月発行の『改造』の「芥川龍之介特輯」に初出。同前の随筆集に所収)を筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」別巻を底本に電子化している(新字。近々、正規表現に直す)。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。

 なお、芥川龍之介の自殺に用いた薬物については、私は一般に知られているジャールとヴェロナールではなく、青酸カリと考えており、少なくとも、下島だけは、その使用した致死薬物が何であったかが判っていた可能性が高いと思っている。それは、例えば、『小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」』に見られる、下島の対応が、「自殺」でも、「病死」でも、どちらでも構わないといった、医師として奇体な忖度を加えていることからも、激しく疑われるのである。

 

芥 川 龍 之 介 終 焉 の 前 後

 

 七月半ばから暑氣のために胃を病んでゐられる老人(父君)の診察に行つたのは、二十日のたしか午後四時少し過ぎごろであつ記。診榔を了つてから二階の應接間兼臨時の書齋へ這入と、内田百間氏が歸りがけとみえて椅子から離れたところであつた。内田氏を玄關に見送つて上つて來た芥川氏は、元氣ではあつたが、内田氏の何か一身上の問題をひどく案じてゐられた。又宇野浩二氏の病氣も案じてゐられた。

 私は直ぐお暇するつもりでゐたところ、『今日は先夜の敵討ちを是非するから』と云つて、猪鹿蝶の道具をサツサと並ぺはじめるのである。私は『昨夜寢不足してゐるから御免だ』と逃げを張つたが、仲々聽かばこそ、『今日は小穴にも全勝した。今日は誰にでも勝てる自信があるから逃がさない』と非常な勢ひで、もう親極めの割札をしてゐるのであつた。

 私は逃げ出すわけにも行かず、椅子から離れて机の脇の座蒲團の上に座を占めた。が、果せるかな、その物凄いほどの猛威に壓せられて、たちまちの間に三番立て續けに敗けてしまつた。氏は頗る大得意のニコニコもので、『今日は幾回やつても駄目です』と凉しい顏である。茶を持つて來てくださつた奧さんも笑はれたぐらゐであつた。私は、『どうも不思議だ、こん筈はない』と云へば、例の薄笑ひを漏らしながら、『どういふわけでせう』と皮肉な反問を浴びせるのである。

 『どうも斯うもない。憑きものの加減で頭がはつきりしてゐるからでせう』と云へば『然り、札がわかる』と云つて意氣軒昂である。私は電燈が灯つてから歸つたのであつた。

 それから一日置いて二十二日の午後三時半頃、老人の診察が了るか了らぬうちに伯母さんが出て來られて、『どうも二階のが胃が惡さうだから診てやつてくれ』と云つて、間もなく二階から下座敷へ引ぱつて來た。

 『何、昨日午後睡眠藥を飮んで晝寢をしてゐるところを、突然起されたんで例の腦性嘔吐をやつたんです。まるで關係もない雜誌の記者が來たと云つて、用事も無いのに起すんですから…………それだからまだ今日もフラフラしてゐます。ほかには何も故障はないのです』と不平たらたらである。

 そこで老人の枕を借用、そのまゝ仰臥の位置で一診した。(實は胃と腦の合劑の散藥は常に用ひられてゐたが、正式に診察するのはこゝ暫く振りであつた)その結果は外觀上それ程にも思つてゐなかつた肉體が、一般に衰弱してゐることで、殊に心臟の力も例の過敏であるべき筈の膝蓋腱反射も力が足らず、それに瞳孔も少し大きいやうに思つたので、これは睡眠藥の飮み過ぎに違ひない、あとで充分忠告の必要があると思つたのである。

 それから複製の長崎屛風を見せるから二階へ來いと云ふ。いつものやうにに階の圓卓子の上で屛風繪を見ながら、鵠沼へは何時行かれるかと聽くと、明日か明後日頃だと答へられた。そこで、餘り睡眠藥を濫用してはいけない、どうもそんにな症狀があるから充分氣をつけたまへ』と忠告すると、不愉快さうな苦笑を漏らして、『大丈夫です。大丈夫です』と云つてゐられた。

 そこへ小穴君がやつて求て雜談を始めたのであるが、――

『昨日の嘔吐は苦しかつた。胃に吐くものがないのに吐くのは實に苦しい』と頻りに訴ヘるのである。そこで我々の方では乾嘔と云つて苦しい理由を說明すると、乾嘔と云ふ言葉が妙だとでも思つたのか『乾嘔、乾嘔』と小兒のやうに口ずさんでゐた。

 それから小穴君が何のことからであつたか、生命と創作のことについて心細いことを云つたので、老人の冷水を浴びせたやうに覺えてゐる[やぶちゃん注:ママ。「の」は「に」であろう。]。だが、主人公は一向興味がない陰氣さうな顏をして、例の通り、後頭部を籐椅子の背に摺りつけて、左右前後に動かしてゐた。

 また改造八月號所載の『西方の人』と『東北、北海道、新潟』を讀めと云つて示された。そこで一應ざつと通讀したが、殊に『東北、北海道、新潟』は眞に駭くべき簡潔と、刺すやうな不思議な暗示の魅力とに、思はず感嘆の聲を發すると、さも滿足さうな表情を浮べるのであつた。

[やぶちゃん注:私のサイト版で「西方の人」はこちらで「正續完全版」で、「東北、北海道、新潟」は私のマニアックな推理頭注を添えて古くにここに公開してあるので未見の方は是非見られたい。]

 その日の氣温は華氏の九十度[やぶちゃん注:摂氏三十二・二度。但し、これは下島の記憶違いで、この昭和二(一九二七)年八月二十二日は華氏九十五度=摂氏三十五度であった。]といふ、本夏最高のレコードを示した實に暑苦しい日であつた。が唯暑苦しいばかりでなく、變に重苦しく寂しい厭な心持ちがした日であつた。

 私はそれから間もなくおいとまをした。梯子段の上まで送つて來て體がフラフラすると云ふから固く見送りを辭退したが仲々聽かない。いつもの通り玄關まで下りて來て、叮嚀にチヤンと手をついて送つてくれた。が、これが今生のお別れであつた。……

 歸宅して夕食を濟ませたが、どうも鵠沼行きが氣になり出した。そして下の四疊半の簞笥の前のバスケツトが變に氣に掛るのであつた。この日の朝、輕井澤に居られた室生犀星氏への手紙の端にも、たしか芥川氏の鵠沼行きのことを書いた筈である。

[やぶちゃん注:不審。「芥川龍之介書簡抄147 / 昭和二(一九二七)年七月(全)/芥川龍之介自死の月 三通」には、そのような犀星宛書簡はない(年月未詳書簡も調べた)。思うに、これは大正十五年の九月の鵠沼からの犀星宛書簡を、錯覚しているもののように感じられる。「芥川龍之介書簡抄137 / 大正一五・昭和元(一九二六)年九月(全) 九通」の一通目がそれではないか? 本文に「ちよつと東京にかへつたがまだ中々暑い今明日中に鵠沼へかへるつもり」とあることと、「二伸」にある『僕もこの間催眠藥をのみすぎ夜中に五十分も獨り語を云ひつづけたよし』というのが、医師としての下島の目に止まり易い内容であるからである。なお、下島が芥川龍之介の鵠沼行きを気にしているのは、後に理由が書かれている。漠然とした自殺の虞れなどによって気にしているのでは毛頭ないことをここで事前に述べておく。

 二十三日は午前に久保田万太郞氏が息耕一君を連れて診察に來られた。そして芥川氏のことを聽かれて答へたのか、私から云つたのか、多分明日あたり鵠沼へ行かれるだらうと云つたやうに覺えてゐる。

 夕食後兩國の花火見と云ふより、散步かたがた上野まで筆を買ひに行つた。十六曰の夜澄江堂で俳人室賀春城さんに久振りでお目にかゝつたとき、彼の有名な唐の魏徵の述懐、中原還逐鹿といふ詩を書いてくれとの依賴であつた。拙筆だからと辭退したが、是非と云ふのでお受けをした。その事を二十日に行つた時に話して、『妙な詩を好まれるものだ』と云ふと『イヤ、その心持ちは私によくわかる。あの人は靑年時代政治家志望だつたから』と云はれた。それから曾て聞いた話しであつたが、室賀氏は自分の幼時子守りをしてくれたことや、資性温厚篤實、後クリスチアンとなり、行商などして六十に近い今日まで獨身を守り、獻身謝恩に燃ゆるうちに、禪僧のやうなところのある、俳句の好きな一種の奇人だと賞揚し、是非それを書いて遣つてくれと云ふのだつた。そんなわけから、實は鵠沼に行つてしまはぬ前に一度見てもらつてからと思つたので、所藏の筆を檢べて見たが、役に立ちさうなのがない。そこで池の端の筆屋までいつたのである。

[やぶちゃん注:「室賀春城」芥川龍之介の幼い頃からの知人である室賀文武(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)の俳号。先般、電子化注した『室賀文武 「それからそれ」 (芥川龍之介知人の回想録・オリジナル注附き)』の注を参照されたい。

「魏徵」(五八〇年~六四三年)は初唐の詩人で政治家・学者。山東省出身。諫議大夫・檢校侍中・鄭國公に封ぜられ、直言を以って、皇帝太宗を補佐し、善政「貞観(じょうがん)の治」(六二七年~六四九年)に導いたことで知られる。不遇であったのが、抜擢を受け、朝廷で高位の役職に就いた唐室創業の功臣である。

「述懷」は魏徵の代表的詩篇で、その第一句が「中原還逐鹿」(中原 還(ま)た鹿を逐(お)ひ)で二句目に「投筆事戎軒」(筆を投じて 戎軒(じゆうけん)を事(こと)とす)と続く。但し、一句目を「中原初逐鹿」(中原 初めて 鹿を逐ひ)とする一本がある。詩篇全体は「詩詞世界 二千七百首詳註 碇豊長の漢詩」のこちらを見られたい。充分な語句注釈がなされてある(前注もその記載を参考にさせて貰った)。]

 筆を求め次手に福神漬を買ひ、廣小路の角の時計屋の前まで來ると、人混みの中から『先生!』と呼ぶ聲がする。よく見ると伊藤貴麿君ではないか。『ヤア暫く』『暑いですなあ』の挨拶が濟んで、これも聽かれたのか、或はこちらから云ひ出したのか兎に角、芥川氏は明日頃多分鵠沼へ行かれるだらうと話しした。伊東君は『大分御無沙汰をしてゐるから、ことによると明日頃お伺ひするかも知れぬ』と云ふてお別れした。

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(たかまろ 明治二六(一八九三)年~昭和四二(一九六七)年:芥川龍之介より一つ下)は児童文学者・翻訳家。大正十三(一九二四)年に新感覚派の『文藝時代』に参加したが、その後は児童文学界で活躍、その後は『文藝春秋』系の作家となり、少年向けの「西遊記」「三国志」「水滸伝」を始めとする中国文学の翻案物を得意とした。この年の正月、昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・伊藤貴麿宛の芥川龍之介書簡がこちらにある。下島は芥川を訪ねた彼と知り合いになったのであろう。言うまでもないが、ここで「明日頃お伺ひするかも知れぬ」というのは、芥川龍之介の家に伺うの意である。]

 二十四日は、未明から雨が降り出し久し振りに冷味を覺えながら、よい心持ちにまだ夢うつゝを辿つてゐた。すると、玄關の方で、確かに聞きなれた芥川のお伯母さんの聲がする。家内が出て應答の慌たゞしい聲の間に、變だとか、呼んでも答へがないなど響くので私はギヨツとして床の上に起き直つた。家内の取次ぎの終らぬうちに急ぎ注射の準備を命じ、臺所へ飛んで口を嗽[やぶちゃん注:「すす」。]ひでゐると、また老人の聲がする。いきなり手術衣を引かけるが早いか、鞄と傘を引たくるやうにして家を出た。

 近道の中坂へかゝると、雨の爲、赭土[やぶちゃん注:「あかつち」。]は意地惡く滑り加減になつてゐる。焦燥と腹だたしさの混迷境を辿つて、漸く轉がるやうに寢室の次の間一步這入るや、チラと蓬頭[やぶちゃん注:「ほうとう」。方々に伸びた髪。]蒼白の唯ならぬ貌が逆に映じた。――右手へ𢌞つて坐るもまたず聽診器を耳にはさんで寢衣の襟を搔きあげた。左の懷ろから西洋封筒入りの手紙がはねた。と、同時に左脇の奧さんが、ハツと叫んで手に取られた。遺書だなと思ひながら、直ぐ心尖部に聽診器をあてた。刹那、――微動、……素早くカンフル二筒を心臟部に注射した。そして更に聽診器を當てゝ見たがどうも音の感じがしない。尙、一筒を注射して置いて、眼孔を檢し、軀幹や下肢の方を檢べて見て、體温はあるが、最早全く絕望であることを知つた。そこで近親其他の方々に死の告知をすましたのは、午前七時を少し過ぎてゐた頃かと思ふ。

 死の告知がすむと、急に何とも云はれぬ空虛を感じたが、ふと枕元に置いてあるバイブルに眼が付いた。手に取つて無意識に開いてゐると、小穴隆一君を思ひ出した。そこで急いで義敏君(甥君)を煩はすことにした。

[やぶちゃん注:「義敏君(甥君)」芥川龍之介の実姉ヒサ(当時は西川ヒサ)と先夫葛巻義定(当時は離婚。但し、再婚相手の西川豊が自殺した後、ヒサと再々婚している)との間に生まれた葛巻義敏。]

 すると、伯母さんが何にか紙に包んだものを手にせられて『これは昨夜龍之介から、明朝になつたら先生に渡してくれと賴まれました』かう云ひながら手渡された。早速上包みを開いて見ると、短册に「自嘲。水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の一句が達筆に書いてあるではないか。――今は魂去つて呼べども應へぬ故人の顏と句を見較べてゐるちに嚴肅とユーモラスが入り乱れて、泣くにも泣かれぬ寂寞の感に打たれるのであつた。

 手續きの上にも菊池寬氏に來て貰はねばならぬ事情があるので、直ぐ文藝春秋社へ電話を掛けさせた。間もなく小穴君が來た。私がもう駄目だと告げたときの同君の顏は、何とも名狀し難い悲痛そのものだつた。

[やぶちゃん注:「手續きの上にも菊池寬氏に來て貰はねばならぬ事情がある」恐らくは、遺書(リンク先は私のサイト版「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)の中にあった全集について既に一度決まっていた新潮社との契約を全面破棄し、師漱石と同じ岩波書店と新たに契約するという、ちょっと大きな問題があったからであろうと私は考えている。

 そこで最後の面影を寫すべく、直ぐ畫架を椽近くの適所に据えた。雨は音をたてゝ降り出した。薄暗い室内に電氣の灯つてゐるのを氣づいたのはその時である。

[やぶちゃん注:小穴の描いたデス・マスクは、それを表紙カバーにした小穴隆一の「二つの繪 芥川龍之介の囘想」 の第一回に、そのカバーの画像を掲げてある。]

 私は私の職務の上から死因を探求しなけれぱならない。そこで先づ齋藤茂吉氏の睡眠劑の處方や、藥店から取つて來た包數や日數を計算して見たが、どうも腑に落ちない。そこで奧さんや義敏君に心當りをきいて見ると二階の机の上が怪しさうだ。直ぐ上つて檢べて見て、初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。

[やぶちゃん注:ここでその「眞因」を具体にさらっと書かないところの方が、よっぽど「怪しさう」じゃないか!?!

 電話は菊池氏が雜誌婦女界の講演に、水戶へ行つたことを報じて來た。で、近親の方々と相談の上直に法律上の手續を取ることにした。

 間もなく警察官が來る。檢案やら調査やらが始まる。諸方へ電報を打ち通知をする。その中に鎌倉から久米正雄、佐佐木茂索、菅忠雄の諸氏が驅けつける。菅氏は菊池氏の迎へに上野停車場へ行く。谷口喜作氏が來る、次で久保田万太郞、小島政次郞、犬養健、野上豊一郞、野上彌生子、香取秀眞の諸氏その他友人知己の方々が續々來る。また關係諸雜誌書店等の社長や社員の方々が來る。その中に菊池氏が漸くやつて來る。輕井澤から室生犀星氏が驅けつける。各新聞記者が押し寄せる。南部修太郞、北原大輔、齋藤茂吉、土屋文明、山本有三の諸氏が見える。新聞記者諸君に手記の發表をする。一方葬儀その他の協議も始まる。――といつたやうな混雜裡に、納棺を了つたのは翌二十四日午前二時頃であつた。

 附記したいのは、瀧野川警察署の司法主任畑警部
 補は、芥川氏の藝術及び人物に深い理解があるら
 しく、種々の點につき新説叮嚀であつた。殊に手
 記を讀まれるとき畑氏の眼には、たしか泪の露の
 一滴を宿してゐた。

                      (昭和二・八・五)

[やぶちゃん注:附記は底本通り、一字下げを行った。一行字数はブラウザの不具合が生ずるので、適当な字数で改行しておいた。最後のクレジットは下方インデントであるが、引き上げた。なお、一人だけ、私が今までのサイトやブログで注していない人物名が出ているので、それのみ注する。

「北原大輔」(明治二二(一八八五)年~昭和二六(一九五一)年)は日本画家。長野県生まれ。東京美術学校予科日本画科卒。下島勳の紹介で、芥川と面識を持った。龍之介も参加していた文人・財界人の「道閑会」にも加わっており、龍之介の大正一四(一九二五)年二月『中央公論』初出の「田端人」の掉尾に彼が挙げられ、寸評されてある(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)。]

久保田万太郞「年末」 (芥川龍之介の「年末の一日」についての随想)

 

[やぶちゃん注:本篇は「芥川龍之介硏究」(大正文學硏究會編・昭和一七(一九四二)年七月河出書房刊)の「思ひ出」パートに書き下ろしで収録された、芥川龍之介の晩年の印象的な逸品「年末の一日」(リンク先はの古い電子化)についての随想である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本当該部(リンクは冒頭ページ)に拠った。但し、所持する筑摩書房の『全集類聚』版「芥川龍之介全集」別巻に載る同篇(但し、新字)をOCRで読み込み、加工データとした。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。

 久保田万太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家・俳人。東京府東京市浅草区浅草田原町(現在の東京都台東区雷門)の袋物(足袋)製造販売を業とする「久保勘」という商屋に生まれた。浅草馬道(現在の花川戸)の市立浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)を卒業、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)に進んだ。この時、一級下に芥川龍之介がいた(三歳年下。但し、彼が芥川と親しく交遊するようになったのは、関東大震災以後とされる)が、明治三九(一九〇六)年の第四年次への進級試験で、数学の点が悪く、落第したため、中退し、慶應義塾普通部へ編入、三年を、もう一度、繰り返して留年した。次いで、慶應義塾大学予科へ進学、折しも同大文学科に森鷗外(顧問)や、永井荷風(教授)が招聘されたことが作家への道を選ばせたとされる。当初は『三田俳句会』で出会った岡本松浜について俳句を稽古し、上田敏を顧問とし、永井が主幹となって発刊された『三田文学』で、水上滝太郎を知る。その頃、松浜が東京を去ったことから、松浜を介し、松根東洋城に俳句を師事している。明治四四(一九一一)年、予科二年を経て文科本科に進み、小説「朝顔」・戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表し、『東京朝日新聞』の時評で、小宮豊隆が絶賛し、一躍、『三田』派(耽美派)の新進作家として世に文名を挙げることとなり、同年七月、『太陽』に「千野菊次郎」の筆名で応募した戯曲「プロローグ」が小山内薫の選に入ってもいる。また、この頃、島崎藤村を訪ねている。劇作では、『築地座』を経て、『文学座』の創立に参加し、新派・新劇・歌舞伎の脚色・演出と、多方面に活動を展開、後に『日本演劇協会』会長を務め、文壇・劇壇に重きを成した。小説・戯曲ともに、多くは浅草を舞台とし、江戸情緒を盛り込んだ情話で、長く人気を得た。また、文人俳句の親分的存在としても知られ、俳誌『春燈』を創刊、主宰している(以上は当該ウィキを元にした)。但し、私は彼の俳句を全く評価していない。]

 

年  末

 

 芥川君に「年末の一日」といふ作がある。年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへに出なかつた。墓掃除の女に訊いたりして、結句は分つたものの、そのときはもうあぐねつくし、疲れ返つてゐた。そのあとその連れとわかれ、一人とぼとぼした感じに田端まで歸り、墓地裏の、八幡坂まで達したとき、たまたまそこに、その坂を上りなやんでゐる胞衣會社の車をみ出した。自分のその萎えた氣もちを救ふため、無理から力を出し、ぐんぐんとその車のあとを押した……といふのがその作の筋である。

「北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下ろして來た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を嗚らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながらまるで僕自身と鬪ふやうに一心に箱車を押しつゞけて行つた……」

 そして、この作、かうした哀しい結尾をもつてゐる。

 十枚にもみたないであらう小品だがわたしの好きな作である。好きといふ意味はいつまでも心に殘つていとしい作である。大正十四年十二月の作だから、これを書いたあと、間もなく、かれは「點鬼簿」「玄鶴山房」を經て「河童」を書いたのである。そして、そのあと、かれは死んだのである。……ことによると、このとき、……すでにこの時それを意識してゐたかれだつたかも知れないのである。でなくつて、それは、「……鬪ふやうに一心に箱車を押しつゞける」かれのすがたはあまりに慘めである。曇つた空の下、ふきすさぶ風の中、どうしたら自分をはツきりつかむことが出來るか、どうしたらかれ自身その存在をたしかにすることが出來るか?……泣かうにももう泪の涸れた瀨戶の、空しい眼をあげてただ遠いゆくてをみまもるかれの頰のいかに蠟の如く冷めたかつたことよ……

 しかも、かれは、かれ自身この苦しみを飽くまではツきりさせようとした。飽くまでただしく傳へようとした。わたしはこれをその當時「新潮」の編輯をしてゐた佐々木千之[やぶちゃん注:「ちゆき」。]君に聞いた。その八幡坂を上りなやんでゐた車、かれの力のかぎりをつくしてそのあとを押した箱車の、その橫に廣いあと口に東京胞衣會社の數文字を書くまでに幾度その行を書きかへたか知れないのだつた。胞衣會社の箱車をえてはじめてかれはかれ自身納得したのである。……わたしはこれを聞いたとき、身うちの冷え切るのを感じた。

「どうです、暇なら出ませんか?」その「年末の一日」の中のかれはその新聞社の人にかういつてゐる。

……わたしはおもひ出した、しばくわたしもかれからかうしたことをいはれた。そして、しばしなかれとともにあてもなく散步したりした。

「どうです、おまんまを喰べに行きませんか?」

 あるときである、ふらりと、いつものやうにわたしはかれの書齋にすわつた。そしていつものやうに、一二時間、われわれは、とりとめなく饒舌りあつた。そのとき、突然、どんなことでも思ひついたやうにかれはいつた。

「さア……」

 わたしは躊躇した。

「行きませう、行きませう。……いいぢやありませんか、そのまんまで……」

……といふのは、そのとき、わたしはふだん着のまゝだつた。ふだん着の上に外套を引ツかけて出て來たわたしだつた。

「えゝ、ぢやア……」

 わたしといへどそのまゝわかれにくかつた。結局賛成して一しよに外へ出た。

 動坂へ出て電車に乘つた。上野で下りて池の端の或料理屋へ行つた。……こゝで「或」といふのはことさら名まヘをいはないのではない、忘れたのである。……正午をすこしすぎたばかりのかうした家のしづけさ……しぐれの暗さをもつたそのしづけさにつゝまれて、われわれは、がらんとした、何としても二人には廣すぎる感じの、しらじらした座敷の眞ん中に向ひ合つた。

 間もなく膳が運ばれた。わたしに猪口を取上げさせつつ、かれは、平野水のなかに食鹽を入れて飮んだ。再び、われわれは、とりとめなく饒舌りつゞけた。[やぶちゃん注:「平野水」炭酸水。天然に涌き出る水で、炭酸ガスを含み、商品として飲料に供せられた。兵庫県平野温泉から産出したところからの命名で、後の「三ツ矢サイダー」である。]

 とくに、なぜ、かうした例をこゝにもち出したかと讀者はあやしむかも知れない。しかもこの日のことは、嘗て一度、かれがつねに襟をかけた下着をもちひてゐた床しさをつたへるそもそもの立前にわたしは話してゐるのである。それを重ねて、いまさらのやうにまたわたしのかういふのは、それが矢つ張年末だつたからである。ともに新年のための仕事をすませたあとのことだつたからである。……その座敷の、一方だけあいた窓の、貼りかへたばかりの障子のそとに遠く見下された町々の、そこにすでに所狹く立てられた軒々の笹……それはいつになつてもなつかしいおもひで……春を待つ子供の時分のおもひでがさういつても愉(たの)しくわれわれの胸によみ返つてゐたのである。

 大正十三年の十二月である。……すなはち「年末の一日」を書いた前の年のことである。わたしはそれを思ふのである。……

 その家を出たあと、われわれは、ぶらぶら切通しの坂を上つた。古本屋を素見[やぶちゃん注:「ひやかし」。]したり靑木堂へよつたりした。靑木堂へよつたのは、わたしがそこの紅茶を東京でのうまい紅茶だといつたのに對して、かれは、いゝえ、それは紅茶ぢやアない、珈琲だ、あすこの珈琲は、東京でのうまい珈琲だと主張した、それぢやア試さうといつて、そこの、暗い階子段を上つたのである。[やぶちゃん注:「靑木堂」明治から大正期にかけて通寺町(現在の神楽坂六丁目)にあった食料品商。酒・洋菓子・煙草・西洋雑貨を手広く扱っていた。]

 かれの說を尊敬して、わたしは、珈琲を飮んだ。しかし、決してかれのいふほどのことはなかつた。いつも飮む紅茶のはうが數等上だつた。正直に、わたしは、それをかれにいつた。

「うん、今日のはあんまりうまくない。」

 素直にかれは肯定した。そしてもう、そんなことはどうでもいゝやうに、皿の上の菓子を、果敢にかれは征服して行つた。……わたしは、かれの、おもひの外なその健啖さにおどろいた。……とにかく、そのとき、その家を出てまだ一時間とたつてゐなかつたのである……

 靑木堂を出て追分のはうへまたあるいた。高等學校のまへの、わたしの知合の文房具屋へ入つた。わたしのした買物と一しよに、かれも、小穴隆一君の小さい妹のところヘもつて行くみやげものを買つた。そしてそこを出て右と左へわかれた。……わたしの記憶にもしあやまりがなければ、極月の暮迅い日は、そのときもう遠い方のあかりのいろを目立たしいものにしてゐた。

 が、それにしても、その强い食慾、あかるい心もち、こだはりのないとりなし。……いつ、どうして、どうしたつまづきから、かれは、それらのすべてを失つたのか?……わづか一年。……わづか一年の間にである。……[やぶちゃん注:以下、二行空け。]

 

 

 ……わたしは、今日、朝からこれを書いてうちにゐる。このごろのわたしとしてはめづらしいことである。なぜなら、このごろのわたしは、わたしのもつ一日の時間の大ていをいそがしく外でばかりくらしつゞけてゐるからである。わたしにかうした生活が、たとひ一時にもせよ、待つてゐようとはかれでもおそらく思はなかつたらう。わたしでも思はなかつた。人間といふ奴はいつどうなるか分らない。……といふことは、かれでもゝし、いまゝで生きてゐたら?……[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、久保田はこの執筆当時、『劇団文学座を結成』した後で、これより『新派、新劇、文学座の演出を数多く手がけ』、『明治座や有楽座』・『国民新劇場で』多くの芝居を『上演』、『他にも里見弴と親交を結び、脚色』・『演出を行』っていたが、この昭和一七(一九四二)年には、四『月から内閣情報局の斡旋にて満州国に滞在』したり、『日本文学報国会劇文学部幹事長となり、日比谷公会堂における日本文学報国会の発会式に劇文学部会長として宣誓を朗読』するなどの、大日本帝国の翼賛行動に奉仕し、遑がなかったのである。]

 外には雨がふつてゐる。落葉を濡らして止むけしきなくふりつゞけてゐる。……貼りかへた障子、表替をした疊、今年ももうあと一週間と殘つてゐない。

                   久 保 田 万 太 郞

2023/01/26

恒藤恭「旧友芥川龍之介」(全)原本準拠正規表現+藪野直史オリジナル電子化注一括版公開

新字体と旧字体(正字体)の混淆で、甚だ校正に手間取ったが、やっと公開に漕ぎつけることが出来た。

恒藤恭「旧友芥川龍之介」(全)原本準拠正規表現+藪野直史オリジナル電子化注(一括縦書PDF版・4.8MB弱・全198ページ)

校正中に発見した誤字は、ブログ版も、総て修正し、注も再検証した。どうぞ、御笑覧あれかし。

2023/01/21

室賀文武 「それからそれ」 (芥川龍之介知人の回想録・オリジナル注附き)

 

[やぶちゃん注:先にブログで電子化注した恒藤恭の「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介のことなど」の「三十一 室賀老人のこと」及び「三十三 室賀老人の俳句と短歌」「三十五 俳人としての芥川龍之介」で私は、彼が自殺を決意した後、「西方の人」の資料提供を求めて、室賀に逢って、室賀からキリスト教徒になることを強く勧められた事実から、或いは、どこかで自死を回避するためのキー・マンとして、室賀に縋った可能性を述べたが、そこで芥川龍之介と幼少期から自死直前まで親交のあった年長の室賀について注をした際、彼が芥川龍之介の実父新原敏三と同郷であることから、室賀の書いた文章があることを思い出したので、以下で電子化することとした。

 それは、昭和一〇(一九三五)年二月と三月に普及版(新書版)「芥川龍之介全集」の月報第四号と第五号に分載された「それからあれ」という一文である。初出原資料に当ることは出来ないので、新字新仮名の憾みはあるが、二〇一七年岩波文庫刊の石割透編「芥川追想」に載るそれを底本とする。読みは特に編者の追加注記がないことから、そのままに再現した(ちょっと五月蠅いぐらいある)。

 以下、室賀の事績について、既注のものを少し加工して、以下に掲げる。

 室賀文武(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年二月十三日:老衰で逝去)は、芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人で、後に俳人として号を春城と称した。山口県玖珂郡室木村(現在の山口県岩国市室の木町(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)の農家に生まれた。同郷であった芥川の実父敏三(彼は周防国玖珂郡生見村湯屋、現在の山口県岩国市美和町生見(いきみ)の生まれであった)を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだしかし、明治二八(一八九五)年頃には、現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と頻繁に逢っている。これは「西方の人」執筆のための参考にする目的が主であったものであろうとは思うが、私はその心の底には、自死回避の僅かな可能性をキリスト者であった彼に無意識に求めたものと考えている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇が読める。リンク先は芥川龍之介の書いた「序」の頭)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ四年も前の大正六年十月二十一日であるが、これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト注)「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、翌年の自死の年の一月には、芥川龍之介は執筆用に帝国ホテルに部屋を借りてそちらに泊まることがあったが、その折りには、『しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論した』とある。私は不思議なことに、この時、室賀を訪ねた龍之介のシークエンスを、実際に見たことがある錯覚を持っている。恐らく、若き日の冬の一夜、この龍之介の室賀への訪問を帝国ホテルから銀座まで歩いて踏査した経験があるからであろう。私の「芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通」で「大正一五(一九二六)年三月五日・田端発信・室賀文武宛」も電子化してある。なお、彼の「春城句集」の芥川龍之介の序文は未電子化のようなので、「三十一 室賀老人のこと」で電子化しておいた。]

 

 

   それからそれ

                           室賀文武

 

 

 周防の国の岩国川を、遡(さかのぼ)ること五、六里にして、山代に達す。山代とは、北は石見の国、東は安芸の国に隣接したる一区域の、五、六箇村の汎称(はんしょう)である。名は実(じつ)の賓(ひん)。山代は山代と称せらるる程(ほど)に、山嶽重畳、また重畳。そして、平地らしい平地は、殆(ほと)んど見当らないといってもいい程である。その山代地方から、維新の頃有名だった御用商人の山代屋和助が、呱々(ここ)の声を揚げたのである。が、その山代屋和助の他に、も一人卵の殼を割って、世に飛出した男がある。その男こそは、明治になって牛乳屋耕牧舎主人の、新原敏三その人である。然(しか)もその腰から、長男として登録されたる一人の嬰児(えいじ)こそ、彼(か)の芥川竜之介君だった。

[やぶちゃん注:「実(じつ)の賓(ひん)」字の古い通称か。「Stanford Digital Repository」の当該地区を含む戦前の地図「大竹」を見たが、見当たらない。但し、何となく親和性があるのは、「生見」の名が記された南西直近に「志(シツ)谷」があり(現在は「したに」と読んでいる)、また、生見川を遡って、東の尾根を越えたところに「賓田山」のように見えるピークの名がある。

「山代屋和助」(天保七(一八三六)年) - 明治五(一八七二)年)は陸軍省御用商人で、元は長州藩奇兵隊隊士であった。明治初期に起こった公金不正融資事件に関与し、割腹自殺したことで知られる。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「呱々の声を揚げた」「呱々」は 特に生まれてすぐの赤ん坊の泣き声で、赤子が生まれることを言う。]

 「俺が子にどうしてあんな子が出来たのであろうか」と、彼の父に不思議がられた程に、彼芥川君父子程、体格なり、性質なりを異にして居た者は、世に稀(まれ)であるといっても可い程である。要するに、彼はお母さん肖(に)である。そして、そのお母さんという方は、痩形のすらりとした、美人型の方だった。そのお母さんは、後には発狂されたけれども、まだ病の発(おこ)らなかった前には、極(ご)く淑(しと)やかで、それに読書きも相当に出来そうな、一見誰が目にも、閨秀(けいしゅう)の面影が漾(ただよ)うて居た。丁度(ちょうど)それが、芥川君そっくりといっても可い程だった。

 しかし私が、何故この様の事を詳しく知って居るのであるか、それは私が芥川君の当歳(とうさい)の頃から丸三年、彼のお父さんに仕えて、牛乳を搾(しぼ)ったり、また配達などをして居た関係からである。

[やぶちゃん注:「当歳」生まれたその年。]

 私は何を忘るる事が出来ても、芥川君の幼少の頃の澄み切った鮮やかな眼だけは忘るる事が出来ない。それは実に愛すべきものであった。彼の幼時に就(つ)いての私の知るところは、ただこの位のものである。しかし、彼が小中学時代の事になると、必ずや何か見るべき者があったに相違あるまい。が私はそれに先だって、故(ゆえ)あって彼の家を立去って了(しま)ったのであるから、何一つ知る筈(はず)がない。つまり私に取っては、その時代の事は、封じられたる一巻の巻物に過ぎない。

 因縁とでもいうのであるか、一旦離れた芥川君と私との機縁は、不思議にも、期せずして自ら繫(つな)がって来た。それは彼が新宿の牧場の往宅から、一高の何年かに通学時代だった。その時私は、なよなよとひょろ長い若竹の彼を、十何年振りかに見出した。そして彼より、兎(と)も角(かく)も二階へ上れと云わるるがままに、私は彼のあとについて二階へ上った。座に着くと、話は勿論(もちろん)文学談だった。そして彼は何をいわるるかと思った所が、「僕は夏目先生の宅へ往ける様になっては居るけれども、まだなかなか以(もつ)て往く訳(わけ)にはゆかない」と云わるるのであった。それを聞いて私は、何という気の弱い青年であろう、そんなに尻込みすべき要があるであろうか、と思ったけれども、それに対しては、敢(あえ)て追窮(ついきゅう)もしなかった。それから私は、自分の近什(きんじゅう)を七、八句書き並べて、彼の批判を仰いだ。すると、彼は一読の上、「この句は好(よ)いなア」と春雨の句を賞揚せられた。それには自分も喫驚した。何故かとなれば、実はその春雨の句は、変なことをいう様であるが、私の自信句であるにかかわらず、或(あ)る二、三の大家達の選に漏れた句である。然るに、三四郎としてはちゃきちゃきであったとは申せ、彼の目にとまった事は、実に意想外の感なき能(あた)わずであった。そこで私は、それ以来彼を、後世畏るべき三四郎視して、先生ともつかず、また友人ともつかず、無二の親しい関係が生じて来た次第であった。

[やぶちゃん注:「それは彼が新宿の牧場の往宅から、一高の何年かに通学時代だった」この室賀の芥川龍之介宅への訪問は年譜に記載がないが、「一高」生であることから、明治四三(一九一〇)年四月の一高進学から、大正二(一九一三)年七月一日の卒業までの閉区間となる。芥川龍之介は満十八から二十一歳、室賀は四十一以上である。

「僕は夏目先生の宅へ往ける様になっては居るけれども、まだなかなか以(もつ)て往く訳(わけ)にはゆかない」芥川龍之介が夏目漱石に初会するのは、東京帝大文科大学三年の大正四(一九一五)年十一月十八日のことで、漱石門下であった林原耕三(明治二〇(一八八七)年~昭和五十(一九七五)年:英文学者・俳人。福井県出身。旧姓は岡田。芥川より五つ年上)に伴われて、久米正雄とともに漱石山房を訪れている。

「近什」最近作った詩句文を言う。

「春雨の句」自身作であるから、当然、「春城句集」に収録されていると考えてよい。国立国会図書館デジタルコレクションのここにある八句の孰れかである。

   *

春雨や芹生の里の八つ下がり

春雨や晴なんとして日の見ゆる

糸芝に音もなく降る春の雨

小集を催す亭や春の雨

電車待つ男女の群や春の雨

春雨や蒲團剝れて申分

金堂の内陣暗し春の雨

春雨や芝居見にゆくすまゐ取

   *

頭に配した一句目か。個人的には私ごのみの叙景句である。「芹生」は歴史的仮名遣「せれふ(「せりふ」の音変化)、現代仮名遣「せりょう」、京都市左京区大原の西方に古くあった地名で歌枕である。大原川(高野川上流)西岸の野村・井出附近。「八つ下がり」午後二時を過ぎた頃である。また、芥川我鬼好みは最後の句のモンタージュも入りそうではある。]

 それから五、六年後の事であるが、私は私の分際、否技倆(ぎりょう)としては、赤面に値すべき程度のものではあったが、『春城句集』と名づくる、自選句集なるものを公にするに当って、芥川君に序文を依頼に及んだ所が、彼は快諾されて、私は日ならず彼の草稿を受取った。

[やぶちゃん注:『春城句集』(大正一〇(一九二一)年十一月十一日警醒社書店発行)の序は、最後に「大正六年十月廿一日」のクレジットがある。既に横須賀海軍兵学校の教授嘱託で、横須賀市汐入に下宿していた。当時は満二十五歳。]

 春天の二月になったばかりの、某日の事だった。私は芥川君から藪(やぶ)から棒に、「僕は結婚した」との通知に接した。それには、私も一寸面喰(ちよっとめんくら)った。しかし、心からの喜びを禁じ得なかった事も申すまでもない。私は、直ちに筆を取って、第一に極(きま)り文句の祝辞を書いてから、その次に、「不日(ふじつ)新夫人への初対面の為(た)めに参上いたします積(つも)りですが、就いては、其に先(さきだ)って新夫人の御顔を、早く拝見仕度(した)いのでありますから、新婚の御写真の御贈与を乞う。云々」――そしてその末尾に、俚謡(りよう)を二句附加えておいた。その俚謡は、

  啼くが鶯役目ぢやないかこちの花嫁をなぜ覗く

  二人揃うて梅見もよいが伊達の薄着はせぬがよい

というのであった。しかるに、私の希望は容(い)れられて、程なく大型の写真らしいものが、郵送されて来た。ところで、その写真を受取るや否や、私の考(かんがへ)は瞬間的に一変して、その写真を袋から取出して見る事を欲せなくなった。私の考の一変した理由は、私がもし新夫人と初対面前に、予備知識、即(すなわ)ち写真にてお顔を拝見して知って居るとなると、他日初対面の挨拶(あいさつ)を交わす際に、興味が――失礼な申分(もうしぶん)かも知れないが――半分以上殺(そが)がれて了うという、ただそれだけを恐れたばっかりの事だった。私はどんな事があろうとも、新夫人と初対面前には、一切拝見しない事に極めて了った。

[やぶちゃん注:「不日」日ならずして。近いうちに。]

 それから十日も経たない中(うち)に、私は短冊(たんざく)に祝句を揮毫(きごう)し、それと共に写真も持参して、夜分だったが、新夫人と初対面の挨拶を交わした。そしてまた家族の方々には、「お写真はここに持参して居りますが、実はまだ拝見しないのですよ」、と話した所が、お母さんが忽(たちま)ち目を丸くされて、「なぜ見ないのですか」と詰問(きつもん)に及ばれた。が、私はそれには笑って答えずに、二階へ上って了った。そして書斎へ這入(はい)って初めて、芥川君に向ってその写真をまだ見ない理由を説明し、且(か)つ持参のそれを初めて見参した。芥川君彼も、成程(なるほど)と首肯(うなず)かれて、「それは先に見て置かない方がいいな。」と、満足げににやりと笑われた。私もそれで大満足だった。

 その晩私は、十一時過(すぎ)まで話してまかった。その帰り際に、私は紙片を乞うて、

  野暮と知れどもつい長話立てば箒(ほうき)の立たぬうち

と、また戯(ざ)れ事を書きつけた、すると芥川君は送って下に降りながら、早速家族の方一同に向って御披露に及ばれたので、私は頗(すこぶ)る恐縮した。猶(なお)その上、先日呈した戯書も、「みんなが諳誦(あんしょう)して居るよ」と聞かされて、私は這々(はいはい)の体(てい)でまかった。

  鶏 頭 花 鳳 仙 花 鶏 蹴 合 ひ つ ゝ   春城

 私は曽(かつ)てこういう句をものして、芥川君に見て貰(もら)った事があった。すると、彼は「いけない」といって取られなかった。で私はその理由を質(ただ)すと、「僕は殺伐(さつばつ)の事を好まないからだ」との答だった。その程に彼は女性の様な、美(うる)わしい情愛の豊かな人だった。

 それから、夏夜彼と対談中の事だったが、いろいろな虫が座中に飛来すると、彼は白紙にそれをぐるぐると包んで、闇中に投(ほう)り出(だ)されたのを、私は幾度となく見て知って居る。そしていつの場合でも、彼は世の多くの人達がやる様に、憎々しげに叩(たた)きつけて殺して了うなどの残忍な振舞は、曽て一度も間違ってもされた事はなかった。しかしそれは彼が人間以外の生物に対する濃厚なる愛の現れであるが、もしそれが人類愛になると、更(さら)に更に濃厚の度の加わる事は、今更贅弁(ぜいべん)を要しないのである。

 或日(あるひ)の事だった。二階の書斎の隣の間に、彼の伯母さんが、感冒にかかって仰臥(ぎょうが)して居られた事があった。それを彼は下へ降り乍(なが)ら見舞われたのを、私は見て居たのだった。すると彼は自分の手を伯母さんの額に当て、熱度を計り、すぐその手を自分の額へ当てて熱度の高下(こうげ)を比較せらるるのだった。事はただそれだけの事であって、何の変哲もなく、世間一般の茶飯事に過ぎないのであるが、それを側で見て居た私に取っては、何となく美しく感ぜしめられた。しかもその一事は彼の金玉(きぎょく)の美辞麗句よりも、より以上の美しさを感ぜしめられたのだった。一寸した事すら斯(かく)の如き彼だったから、彼の死後に於ける彼の家族の方々の、殊に老人達の哀借の情の甚(はなは)だしき事ったら、一通や二通ではなかった。で、お母さん達の「竜ちゃんが優しくして呉(く)れたので」がはじまると、急にその話を転向せしむべきの要があった。なぜかとなれば、私は老人達の涙に、いつも釣込まれる事を恐れたからであった。

 

 哀れっぽい話の序(ついで)に、も一つ書いて見よう。しかし、其は私という一個人の事であるから、申訳(もうしわけ)の無い事を予(あらかじ)めお断りしておく。私は或晩彼にこういう事を話した。「私は御存じの如く孤独者である。けれども私の性分として、人様のお世話になる事は大嫌(だいきらい)である。たといそれが親兄弟であろうが、また親戚であろうが、もしくは朋友その他何人であろうとも、私は絶対的に援助だけは受けない覚悟を極めて居る。しかし、それにしても将来の事は予想が出来ないから、どんな貧困という鬼が、私を待ち受けて居るかも知れない。しかしそういう場合に対する、私の取るべき道は決まって居る。そしてそれは他でもない、私は多くの知人の迷惑を避くるが為めに、旅に出るまでである。そして、多少の物でもある程の物にて衣食し、それが尽きたら餓死する覚悟である。それには如何(いか)なる場合と雖(いえ)ども、私は絶対に乞食はせぬ。また自殺もせぬ積りである」と私は平素考えて居た通りの事を、さ程の重大事でも何でも無いかの様に、包まず隠さず前後の思慮もなく言って退(の)けた。私がこの話をする中に、彼の面色は幾度も変じた。――私はそう意識した――そして言畢ると、彼の声音(こわね)は急遽(にわか)におろおろ声と化した。そして彼は何を言わるるかと思ったところが、彼は、「そういう場合には僕にだけは知らせて下さい」といわるるのだった。が私は容易に諾(うん)といわなかった。で彼は一層激しく、「僕にだけは是非知らせて下さい」と追窮して已(や)まれなかったのだった。果は「誓って下さい。屹度(きつと)知らすと誓って下さい」と畳みかけて迫らるるその真剣さ。その意気込さ。それは実に意外だった。私は全く面喰ってしまった。私はとうとう根負けして、「では知らせます」と、遂に誓約した。ああ良友今はなし。

 最後に、彼対宗教――特に基督教だに就いて、芥川君と私との間にどういう交渉があったかをいささか述べて見たい。私は早くから彼に基督教の必要の事を、幾度となく繰返し繰返してすすめたのだった。が聴かれなかった。でまた或時は、恩師内村鑑三先生著の、『宗教と現世』という本を持って往って、彼に読ませた所が、それも「不可ない」といって返された。が私はそれにも懲りず、今度は三崎(みさき)会館に於ける、恩師の連続講演に誘って見た。がそれも彼は「暇が無い」との理由の下に応ぜられなかった。其所(そこ)で私は、これは急がず焦心(あせ)らずに、時期を俟(ま)つより他には仕方がない。それがのろくて却(かえ)って早道と考えて、それに決めた。そして自然に一任している中に、彼の文名はますます天下に高まった。同時にまた彼の肉体は日々に蠹(むし)ばまれて、早くも衰頽(すいたい)の微(きざし)さえほのめいて来た。多分それが為でもあろう、彼は次第に宗教に興味を感ぜらるる様になって来た。しかもそれが、死期に先だつ事一、二年前頃になると、殊に甚だしくなって来た。果せるかな、来るべき者は遂に来たのだった。

[やぶちゃん注:「三崎(みさき)会館」「東京三崎会館」。旧「バプテスト中央会館」のことで、現在の東京都千代田区神田三崎町一丁目にあった。米国北部バプテストが経営したキリスト教伝道と社会事業を一体的に推進した施設で、明治四一(一九〇八)年に「バプテスト中央会館」として設立し、その後、「東京三崎会館」に改名した。昭和一九(一九四四)年に会館が接収され、活動を終えた(当該ウィキに拠った)。]

 其は、大正十五年三月三日の事だった。私はその暁に、夢を見た。私は何所(どこ)かしらを歩いて居た。すると疲れ切った弱々しげな一匹の蜻蛉(かげろう)が、ふらふらと寄るべなげに、私の足元へ落ちて来た。で私は、その蜻蛉をどこか安全な場所へ移してやらんと見廻した所が、幸(さいわい)にも其所に一本の何かの大樹があったので手でつかんで移してやった。すると、今までは蜻蛉だったのが、いつしかそれが家鳩らしい者に化(かわ)って居た。仏はその家鳩が辛うじてではあったが、するすると大樹の梢(こずえ)高く昇って行ったのを見たのであるが、遂にその姿を見失った。申すまでもなく、それは昇天したのだった。で私はまたその昇天した家鳩の為めに、祈りをささげた。しかもその上また奇態の事には、その家鳩の脚には、手紙らしいものが結びつけてあったのであるが、家鳩はそれを地に落して行った。で私はそれを早速拾い取ったけれども、読みはしなかった。夢の由来はざっと斯(こん)なものだったが、それにしても非常に心持の好い夢だった。私はその晩、また彼の家の雛祭(ひなまつり)を見んが為めかたがた彼を訪問した。そしたら彼は、「いい所へ来て呉れられた、明晩だったら不在だったのであるが」といって迎えられ、直ちに書斎へ通された。そして座に着くと、彼は眼を輝(かが)やかしながら、「今晩君が来られた事は、実に不思議で堪(たま)らぬ。僕はどうしても奇蹟としか思われない。という次第はこうである。今日僕は聖公会出版の祈禱書を古本屋で買って来て、それを読んで見て、その内容の優(すぐ)れて居るのに感心して居た所へ、同じ日にまた聖○協賛会という封書が来た。でそれを見ると、頭文字の聖の字が一番に目について、はッと思った。しかしその封書は何か皇室に関する者であって、全然聖書とは無関係の者だったから何でも無い様なものの、それで居て、最初に一瞥(いちべつ)した瞬間に、はッと何かしら頭に来たのは不思議だった」。「それからまた僕は近ごろ聖書は最良の書である事に気附いたから、聖書を読んで見たいなアと思ったが、誰かに貸し失って今手元にはない。でそれを買い度(た)いなアと思って居た所へ、ひょっくり君が来られたのだから、これはどうしても奇蹟としか思えない」という様な言だった。私のその夢物語と、彼の魂を揺り動かした二、三の話とを切離して、全然没交渉の者として片附けて了う事は、出来ない様な気がしてならぬ。その晩私は芥川君から早速聖書を送って呉れとの依頼を受けて、その翌朝、直ちに彼に宛てて聖書を送った。私は其等の事の為めに大分面白くなったと思った。ここまで来ればもう一息だと思った。昔の本の中に、鎡基(じき)ありと雖ども時を待つに如(し)かずとある。味あるかな言やである。

[やぶちゃん注:「鎡基ありといえども、時を待つに如かず」「孟子」の「公孫丑章句上」にある一句。「齊人有言曰、『雖有智慧、不如乘勢、雖有鎡基、不如待時。』。」(齊人(せいひと)言へる有り。曰く、『智慧、有ありと雖も、勢ひに乘ずるに如かず。鎡基、有りと雖も、時を待つに如かず。』と。)。「鎡基」は畑を耕す農具のことを言う。人が個人個人で内包する真の実力の喩え。]

 それから幾月かの後の事だった。私は芥川君に、矢張(やはり)内村先生著の『感想十年』という本を貸与して、後日になって読後の所感を訊(き)いて見た。すると、彼の答はこうだった。「内村さんは実に偉い。明治の第一人者である」と大いに激賞され、更に言を継いで、「僕もなア、早くから内村さんに就いて学んでおくと好かったのだがなア」と大いに遺憾がられたのだった。それを聞いて、私もまた大いに遺憾がったのであった。それからまたその時だった様に思うが、彼は、「僕は今は聖書中に出ている奇蹟は悉(ことごと)く信ずる事が出来る」とさえ明言されたのだった。私もそれを聞いて、そう来なくてはならないとうなずきつつも非常な喜びを感じた。

 私が芥川君を最後に訪問したのは、彼の死に先だつ事十日前だった。――後に家族の方から聞かされた話であるが、同夜は或る近しい方の訪問されたのだったが、事に託(かこつ)けてそれを帰し、ただ私一人にだけ面談されたのだとの事だった。――その時も矢張基督教に就いて、互に熱心に語り合ったのだった。それからまた、彼は「僕は近頃「西方の人」というのを書いて、それを――社に送って置いたから、出たら見て呉れ」との頼みだった。そしてまたそれに附加えて、「実はそれを君に先に見て貰う積(つもり)だったが、日が無かったので、とうとう止めて了った」と云われたのだった。そしてその夜もまた例に由(よ)って例の如く、私は電車に乗り後れる事を気にしながら、話をいい加減に切上げてまかったのだった。が、が、それが彼と永別になろうとは、どうして知る事が出来よう。噫(ああ)。

[やぶちゃん注:この最後の面会は新全集の宮坂年譜によれば、昭和二(一九二七)年七月十四日頃とする。

』『「西方の人」というのを書いて、それを――社に送って置いた』「西方の人」及び「續西方の人」は自死後、昭和二年八月及び九月発行の『改造』に遺稿として掲載された。私の「西方の人(正續完全版)」を参照されたい。]

 芥川君の絶筆にして、出たら見て呉れと頼み置かれた「西方の人」は、彼の易簀(えきさく)後旬日(じゅんじつ)余にして、世に発表せられた。正直にいえば、私はそれには非常な期待をかけて居たので、一目が千秋(せんしゅう)の思いで待ちに待ちつつあったのだった。然るに、それを一読するに及んで、大いなる失望を感ぜざるを得なかったのだった。なぜか、それは彼の聖書に対する観点と、私の二十余年来信じ来った観点との間には、全然一致し難い、白と黒との相違を少(すくな)からず発見したからだった。というよりは寧(むし)ろ、私は彼の書かれた者の大半が、不可解だったからであるといって差支(さしつかえ)ない。従ってその不可解の理由は、天才と凡才との彼我(ひが)の相違、もしくは修養の如何(いかん)が、私をして彼の縄張(なわばり)内に、一歩も足を踏込むことを許さなかったのであるともいえる。要するに彼の作品は、一種の高等批評であるといえなかったならば、或(あるい)は超高等批評とでもいえるかも知れぬ。いずれにしても彼の観方は、空前の新(あた)らしい観方であるに相違あるまい。従って我々如き世紀違いの古い頭脳の、古い造作(ぞうさく)を改造しない以上は、容易に彼の説の受入れ難いのも当然である。その事に就いて何より好い証拠は、「それで可いのだ」といって、極新らしい現代人の中には、彼の説を支持さるる実例のある事を見ても判る。で私は、その事を附記して置いて、彼の説の当否、是非の判断は、畏るべき後世の人達に一任して、ここにこの稿を終る。

                            (昭和九年十一月十九日) 

 

    献芥川竜之介君之霊

  蹴つて飛ぶおのがむくろや夏嵐   春 城

  帷子に拭ひかねたる泪かな     同

 

[やぶちゃん注:本文の最後のクレジットは最終行一字上げ下インデントであるが、改行した。]

2023/01/18

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(三十)(標題に「二九」とあるのは誤り)・「旧友芥川龍之介」奥附 /「芥川龍之介書簡集」~了 + 恒藤恭「旧友芥川龍之介」全篇電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。最後なので、原書簡(「芥川龍之介書簡抄88 / 大正七(一九一八)年(三) 五通」の三通目)に附した私の注も一部を追加して示しておく。

 なお、標題に発信地を「田端」とあるのは誤りで、「每日海へはいつたり」で判る通り、「鎌倉」(発信地を「鎌倉町大町辻」と記す)である。

 さらに、これを恒藤恭が時系列を無視して、本章=本書の掉尾に置いた意図は判らない。単に、挿入し忘れたのを、現行の最後に追加で置いただけのようにも思える。特に意図を以って配したとは思えない。いや、或いは、恒藤は、この日常的なシークエンスをモンタージュしたそれに、逆に「時々僕が癇癪を起して、伯母や妻をどなりつける」けれど、「每日海へはいつたり、人と話しをしたりして、泰平に暮してゐる」として、「一家無事」と記した、なんだかんだ言っても、芥川龍之介の確かな幸福な一瞬間をここに見出だし、それを最後にさりげなく画像として配したと考えるべきなのかも知れない。ただ、結婚した後、龍之介が文に対して、急にぞんざいな口をきくという暴露的特異点の一通ではあり、私も、鎌倉発であることから、幾つか思いに浮ぶ彼の書簡の中の一つではあるのである。そうして、これは、実は、この内容が、遺稿「或阿呆の一生」の以下を直ちに無条件反射で想起させるものだからでもある(但し、そのロケーションは田端の自宅なのであるが)。

   *

 

       三 家

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰たれよりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歲の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

 

   *

因みに、芥川龍之介の妻文の「二十三年ののちに」(昭和二四(一九四九)年三月発行の『図書』所収。岩波文庫石割透編「芥川追想」で読める)には、『亡くなる年の前あたりに、何を思い出したか、急に「鎌倉を引きあげたのが一生の誤りであった。」といったことがあります。』とあるのである(太字は私が施した)。

 本篇を以って「芥川龍之介書簡集」は終わっており、これで底本「旧友芥川龍之介」の本文パートは終わっている。

 最後にを電子化しておいた。

 さても、これより、本書全篇の一括縦書ルビ版(PDF)の製造にとり掛かる。相当な時間がかかることは、御理解戴きたい。無論、その過程で発見したブログ版の誤字は、修正し、また、注も補正・追加する。

 

    二九(大正七年八月六日田端から京都へ)

 

 拜 啓

 こないだ東京へかへつたら、おやぢの所へ君の手紙が來てゐた。寫眞は今一枚もないから、燒き增して送る由。京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐたから、その催促だと思つた。所がうちへ帰つて見ると、妻が君の所へ出す筈の手紙を未に出さずにあると云ふ。封筒の上書きがしてないから、まだ出しちやいけないんだと思つたんださうだよ[やぶちゃん注:この「よ」は原初書簡には、ない。]。莫迦。してなきや、してないと云ふが好いや。こつちも[やぶちゃん注:原書簡は「は」。]忙しいから忘れたんだと云ふと、私莫迦よと、意氣地なく悲観してしまふ。そこで、この手紙を書く必要が出來た。そんな事情だから君にはまだお茶の御礼も何も云はなかつた訳だらう。甚恐縮する。奧さんによろしくお詫びを願ふ。僕等夫婦はずぼらで仕方がないのだ。寫眞もおやぢに至急燒き增しを賴んだから、その中に送るだらう。

 この頃は每日海へはいつたり、人と話しをしたりして、泰平に暮してゐる。一家無事。時々僕が癇癪を起して、伯母や妻をどなりつける丈。

 

   晝の月霍乱人の目ざしやな

 

    八月六日           龍

   井 川 樣

 

[やぶちゃん注:「寫眞」二月二日の芥川龍之介と塚本文の結婚式の写真と思われる。

「京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐた」これは二ヶ月前の六月五日、横須賀海軍機関学校の出張で広島県江田島の海軍兵学校参観に行った帰りに京都に滞在したことを言っている。但し、この時、龍之介は恒藤(井川)恭とは逢っていないと思われる。龍之介が鎌倉へ戻ったのは六月十日頃であるから、一月半近くも文は表書きのない手紙をそのままにしていたということになる。確かにちょっと唖然とするが、しかし、それ以上に、結婚した途端、「文ちやん」への言葉遣いがド荒くなるのは、かなり、興醒めである。「時々僕が肝癪を起して伯母や妻をどなりつける丈」とあるのは、龍之介の書簡の中でも、かなり知られた一文である。また、この時期、伯母フキが鎌倉に滞在していたことも判る。なお、この六日後の八月十二日に名作「奉敎人の死」(九月一日『三田文学』発表)を脱稿(私の偏愛する作品で、私はサイトとブログで、

奉教人の死〔岩波旧全集版〕

作品集『傀儡師』版「奉教人の死」

芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)ブログ版

同前やぶちゃん注 ブログ版

原典 斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」

を完備させてある)、翌十三日からは、かの「枯野抄」を起筆している(九月二十一日脱稿で、十月一日『新小説』発表。同じく偏愛する一篇で、

枯野抄〔岩波旧全集版〕

作品集『傀儡師』版「枯野抄」

本文+「枯野抄」やぶちゃんのオリジナル授業ノート(新版)PDF縦書版

同HTML横書版

を完備している)。

「霍乱」(かくらん:原書簡でも「乱」はママ)は現在の「日射病・熱中症」の類い。昼の月を「白目を剝き出した病人の目」に喩えたもの。この句はこの年の「我鬼窟句抄」に載っているから、旧作の使いまわしではない。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」参照。老婆心乍ら、「目ざし」は字余りでも「まなざし」と読んでいよう。

 以下、奥附。上部に本文は最小ポイントで「著者略歷」が載り(五行目の字空けはママ)、下方にやや縦長の罫線に囲まれて、書誌が載る。「著者」の姓名には「つねとう きよう」のルビがあるが、省略した。なんとなく見た目似せただけで、字のポイントの違いはブラウザの不具合が生じるので再現していない。]

 

 

 著 者 略 歷

大正五年兄弟法學部卒、

昭和十三年法學博士、京

大敎授、大阪商大學長を

經て現在大阪市立大學總

長、 著書「法の基本問

題」「法律の生命」「ハル

ムス法哲學槪論」その他

 

 

昭和二十四年八月一日 印刷

                  定 價 二 百 五 十 圓

昭和二十四年八月十日 發行

     ――――――――――――――――

  

  介       著  者   恒  藤   恭

  之            大阪市北區中之島三丁目三番地

  龍               朝日新聞大阪本社

  川       發 行 者     藤  原   惠

  芥            兵庫縣津名郡志筑町一五八九ノ一

  友                 株式會社井村印刷所

  旧       印 刷 者    井  村  雅  宥

     ――――――――――――――――

 發 行 所     大阪市中之島

                朝  日  新  聞  社

           東京都丸の内

              (電話北濱一三一、丸の内一三一)

 

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十九) (標題に「二八」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えており、カットもある本書簡は特異的にサイトの「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」で電子化注してある(書簡本文だけでよければ、ブログのプレ予告電子化のこちらで見られる)が、両方ともUnicode導入以前のWordで作ったため、漢字の正字化不全があるので、ここで、注を概ね含めて(恒藤恭の注などの不要と判断したものを除去し、一部を訂正・追加もした)総てを正規表現に直した原書簡を特異的に注で掲げておく(恒藤は文中の一部や最後を略してもいるからである)。中国へ『大阪毎日新聞社』特派員として向かう直前の書簡である。

 

    二八(大正十年三月八日 田端から京都へ)

 

 啓

 今この紙しかない。粗紙だが勘弁してくれ給へ。僕は本月中旬出発、三月程支那へ遊びに行つて來る。社命だから貧乏旅行だ。谷森君は死んだよ。余つ程前に死んだ。石田は頑健。藤岡には僕が出無精の爲会はない。成瀨は洋行した。洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ。厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないか。こちらでは皆輕蔑してゐる。改造の山本実彥に会ふ度に、君に書かせろと煽動してゐる。君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない。何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた。僕は通俗小說なぞ書けさうもない。しかし新聞社にもつと定見が出來たら、即、評判の可否に関らず、作家と作品とを尊重するやうになつたら、長篇は書きたいと思つてゐる。この頃益々東洋趣味にかぶれ、印譜を見たり、拓本を見たりする癖が出來て困る。小說は藝術の中でも一番俗なものだね。 (中略)

 奥さんによろしく。以上

    三月七日午後                龍 之 介

 

[やぶちゃん注:以下、特異的に原書簡を示し、注も附す 。岩波旧全集の「八六二」書簡を底本とした(新全集書簡番号は「929」)。

   *

大正十(一九二一)三月七日・消印八日・京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣・三月七日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

今この紙しかない 粗紙だが勘弁してくれ給へ 僕は本月中旬出發三月程支那へ遊びに行つて來る 社命だから 貧乏旅行だ谷森君は死んだよ 余つ程前に死んだ 石田は頑健 あいつは罵殺笑殺しても死にさうもない 藤岡には僕が出無精の爲會はない成瀨は洋行した 洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ 厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる 改造の山本實彥に會ふ度に君に書かせろと煽動してゐる君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない 何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた 僕は通俗小說なぞ書けさうもないしかし新聞社にもつと定見が出來たら即 評判の可否に關らず作家と作品とを尊重するやうになつたら長篇は書きたいと思つてゐる この頃益東洋趣味にかぶれ印譜を見たり拓本を見たりする癖が出來て困る小說は藝術の中でも一番俗なものだね

同志社論叢拜受渡支の汽車の中でよむ心算だ 京都も好いが久保正夫なぞが蟠つてゐると思ふといやになる あいつの獨乙語なぞを敎つてゐると云つたつて ヘルマン und ドロテアは誤譯ばかりぢやないか

奧さんによろしく 頓首

    三月七日午後                 龍 之 介

   恭   樣

 

   *

○やぶちゃん注

・「谷森」谷森饒男(たにもりにぎお 明治二四(一八九一)年~大正九(一九二〇)年八月二十五日)のこと。日本史学者。芥川・恒藤の一高時代の同級生。東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、「檢非違使を中心としたる平安時代の警察狀態」(私家版)等をものすが、夭折した。官報によれば、一高卒業時の席次は、首席の恒藤と次点の芥川に次いで三番であった。父は貴族院議員の谷森真男である。

・「石田」は石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年)のこと。歴史学者・東洋学者で、芥川・恒藤の一高時代の同級生。

・「藤岡」は藤岡蔵六(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)のこと。哲学者。ドイツ留学中にヘルマン・コーエン(Hermann Cohen 一八四二年~一九一八年:ドイツのユダヤ人哲学者で、新カント派マールブルク学派の創設者の一人。時に「十九世紀で最も重要なユダヤ人哲学者」ともされる)の「純粹認識の論理」を翻訳して注目されたが、先輩であった和辻哲郎の批判を受け、後々まで不遇をかこった。甲南高等学校教授。芥川・恒藤の一高時代の友人。

・「成瀨」成瀬正一(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)は仏文学者。横浜市生まれ。成瀬正恭(「十五(じゅうご)銀行」頭取)の長男で裕福であった。芥川・井川(恒藤)の一高時代の同級生で、東京帝大も芥川と同じ英文学科に進み、第三次・第四次『新思潮』に参加した。大正五(一九一六)年八月にアメリカに留学(芥川は「出帆」(リンク先は「青空文庫」(新字新仮名))と題した作品にその船出の様を描いている)するが、失望、ヨーロッパに渡り、帰国後は十八~十九世紀のフランス文学研究に勤しんだ。

・「厨川白村」(くりやがわはくそん 明治一三(一八八〇)年~大正一二 (一九二三)年)は英文学者・評論家。当時は京都帝大英文科教授であった。この頃、成瀬は彼に傾倒していたらしい。因みに、大正七(一九一八)年六月二日頃、芥川龍之介は出張した際に途中下車した京都で、彼と面会している。しかし、この部分、私はちょっと意味を取りかねている。「厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる」という部分がそれで、これは或いは、先行する恒藤恭(京都帝大卒で、当時は同志社大学法学部教授であったが、この翌大正十一年には京都帝大経済学部助教授となっている)からの書簡の中に、成瀬の厨川白村論が評判だ、といった伝文があったのに対して、批判したもので――「厨川白村」について成瀬が書いた「論文なぞ」は「仕方がない」ほど評価しようがないもの「ぢやないか」、「こちらでは」、「皆」、彼のその論文を「輕蔑してゐる」ぜ、というニュアンスを私は感じる。「こちら」は京都に対する東京の謂いであり、ごく自然に以上のような意味でとれるからである。無論、そうではなく、芥川龍之介が実は厨川白村自身を評価していなかったというコンセプトとして読むことも可能であるが、厨川は京都帝大の前任者上田敏と同じく、日本における最初にして中心的なイェイツの紹介者であり、アイルランド文学の研究者を輩出するといった功績を考えるに、芥川がまるで評価していなかったというのは、ちょっと考え難い気がするのである。因みに、成瀬は芥川にとっては、所詮、プチブルのお坊ちゃんであり、他の書簡でも、彼をチャラかしたり、厳しい評を加えたりする記載がかなり多く、『新思潮』の同人で友人でもあったが、私は、芥川は彼を文学者としては、一貫して評価してはいなかったように捉えている。但し、碌な才能もない癖に、洋行する彼に、芥川の軽蔑と嫉妬が、綯い交ぜになった心理が、この裏にはあるような気がすることも言い添えておく。

・「山本實彦」(明治一八(一八八五)年~昭和二七(一九五二)年)は当時の大阪毎日新聞社社長であり、芥川も御用達の改造社の創設者である。後の大正一五(一九二六)年に『現代日本文學全集』(全六十三巻)の刊行を開始、円本ブームの火付け役ともなった人物で、芥川龍之介とは自死する直前まで(同全集の強行日程の宣伝部隊に芥川は里見弴と一緒に駆り出されている)いろいろと縁が深かった。

・「何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた」今回、冒頭に掲げた松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」を見たところ、これは恒藤恭の論考「世界民の愉悅と悲哀」であることが判った。この二ヶ月後の大正一〇(一九二一) 年六月一日発行の『改造』に発表されている。

・「同志社論叢」柴田隆行編「L・フォイエルバッハ日本語文献目録」(PDF)によれば、丁度この頃、恒藤は、ドイツの哲学者で「青年ヘーゲル」派の代表的な存在であるルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach 一八〇四年~一八七二年)の著作の翻訳を行っている。例えば、「哲學の改革に關する問題」(大正一〇(一九二一)年岩波書店刊のプレハーノフ「マルクス主義の根本命題」所収)、「哲學の改革に關するテーゼ」(大正一二(一九二三)年『同志社論叢』の「マルクス主義の根本問題」巻末)や、「哲學の始點」(昭和二(一九二七)年『大調和』六月号)がそれである。芥川が彼から贈呈された論文も、フォイエルバッハ、若しくは、マルクス主義関連の翻訳か論文であったと考えてよい。

・「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は翻訳家・評論家。芥川・恒藤の一高時代の後輩。京都の第三高等学校講師。デンマークの詩人イェンス・ヨハンネス・ヨルゲンセン(Jens Johannes Jorgensen 一八六六年 ~一九五六年)の「聖フランシス」の訳(大正五(一九一六)年新潮社刊)や、トルストイ「人はどれだけの土地を要するか 外三篇」(大正六(一九一七)年新潮社刊)の訳等がある。

・「ヘルマン und ドロテア」大正七(一九一八)年に新潮社から刊行されたギョオテ(ゲーテ)著・久保正夫訳「ヘルマンとドロテア」を指している。大正九(一九二〇)年にはゲーテの「親和力」(新潮社)も訳しており、久保正夫の訳した本は芥川好みのラインナップではあるが、芥川には、余程、我慢がならない拙い訳であったようだ。

   *]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十八) (標題に「二七」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、総てそちらで注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。

 なお、以下のクレジットは四月二十八日の誤りである。原書簡は「芥川龍之介書簡抄96 / 大正九(一九二〇)年(一) 三通」の三通目で電子化注してある。さらに、前の書簡(大正七(一九一八)年三月十一日)から実に二年も飛んでいる点も特異点である。

 

    二七(大正九年四月二十七日 田端から京都へ)

 

 啓

 手紙及雜誌難有う。君の論文は門外漢にも面白くよめた。法律哲学と云ふものはあんなものとは思はなかつた。正体がわかつたら大に敬服した。外の論文はちよいちよい引繰り返して見た。[やぶちゃん注:原書簡では句点なしで「がとても讀む氣は出なかつた」と続く。]

 本がまだ屆かない由、日本の郵便制度は甚しく僕を悩ませる。君のも入れると二十册送つた本の中、先方へ屆かないのが既に四册出來た訳だ 郵便局は盜人の巢窟のやうな氣がして頗不安だ。二、三日中に今度は書留め小包で御送りする。

 素戔嗚の尊なんか感心しちやいかん。第一君の估券[やぶちゃん注:ママ。「沽券」が正しい。]に関る。それより四月号の中央公論に書いた「秋」と云ふ小說を讀んでくれ給へ。この方は五、六行を除いて、あとは大抵書けてゐると云ふ自信がある。但しスサノオも廿三回位から持直すつもりでゐる。さうしたら褒めてくれ給へ。去る二十一日僕の弟の母[やぶちゃん注:実母フクの妹で新原敏三の後妻に入ったフユ。芥川龍之介からは叔母に当たる。]が腹膜炎でなくなつた。それやこれやでスサノオの尊は書き出す時からやつつけ仕事だつたのだ。去年は親父[やぶちゃん注:実父新原敏三。]に死なれ、今年は叔母に死なれ、僕も大分うき世の苦勞を積んだわけだ。どうも同志社なぞには倉田百三氏に感服する人が多かりさうな氣がする。違つたら御免。この間藏六[やぶちゃん注:藤岡蔵六。一高時代の二人の級友。]が感服してゐるのを見たら、ふとそんな氣がしたのだ。赤ん坊は比呂志とつけた[やぶちゃん注:長男。四月十日出生。就学年を上げるために三月三十日生まれで出生届を出している。]。菊池を Godfather にしたのだ。[やぶちゃん注:原書簡ではここに「赤ん坊が出來ると人間は妙に腰が据るね」とあるのをカットしている。]赤ん坊の出來ない内は一人前の人間ぢやないね。經驗の上では片羽の人間だね。大きな男の子で、目方は今月十日生れだが、もう一貫三百目ある。今ふと思ひ出したから書くが、この前君が東京へ來た時一しよに「鉢の木」で飯を食つたらう。(中略)[やぶちゃん注:略部分は原書簡参照。]久保正夫の講師は好いね。世の中はさう云ふものだ。さう云ふものだから腹を立てる必要はない。同時にさう云ふものだと云つて諦め切る必要もなささうだ。僕はこの頃になつてやつと active serenity の境に達しかけてゐる。もう少し成佛すると、好い小說も書けるし、人間も向上するのだが、遺憾ながらまだ其処まで行かない。相不変女には好く惚れる。惚れてゐないと寂しいのだね。惚れながらつくづく考へる事は、惚れる本能が煩惱即菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと、向上即墮落の因緣だと云ふ事だよ。理屈で云へば平凡だが、しみじみさう思ひ当る所まで行くと。妙に自分を大切にする氣が出て來る。実際惚れるばかりでなく、人間の欲望は皆殺人劍活人劍だ。菊池は追々藝術家を廃業してソオシアリストの店を出しさうだ。元來さう云ふ人間なんだから仕方がないと思つてゐる。但しこの仕方がないと云ふ意味は実に困つてゐると云ふ次第ぢやない。当に然る可しと云ふ事だよ。むやみに長くなつたから、この辺で切り上げる。

 

       近 作 二 三

   白桃は沾(うる)み緋桃は煙りけり

   晝見ゆる星うらうらと霞かな

   春の夜や小暗き風呂に沈み居る

 

 奧さんに――と云ふより雅子さんと云ふ方が親しい氣がするが――によろしく。

                   さやうなら

     四月廿七日        一人の子の父

     二人の子の父樣

                 座 右

 

 二 伸

 僕の信用し難き人間を報告する(但し作物その他には相当に敬意を表する事もないではないが)(以下略)[やぶちゃん注:恒藤恭が略した部分は原書簡参照。「福田德三、賀川豐彥 堺枯川、生田長江 倉田百三 和田三造 鈴木文治」と七人をフル・ネームで挙げており、武者小路は「實際ソオシアリストも人亂しだ 武者小路」「実篤なぞは其處へ行くと嬉しい氣がするが」、その「御弟子は皆嫌ひ」とブチかましている。]

 

[やぶちゃん注:「さようなら」は「よろしく。」の後に二十三字明けで、同行にあるが、改行した。原書簡では「――によろしく さやうなら」である。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十七) (標題に「二六」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、概ねてそちらで注でリンクを示し(一通はちょっと別な形で電子化してある)、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    二六(大正大正七年三月十一日 田端から京都へ)

 

 拜 啓

 御祝の品難有う。今日東京へ歸つて拜見した。

 うちはやつと見つかつたが、引越すのは多分今月廿日頃になるだらうと思ふ。鎌倉でも、橋[やぶちゃん注:原書簡は橋名の「亂橋」(みだればし)となっている。後注参照。]と停車場との中間にある寂しい通りだ。間數(まかず)は八疊二間、六疊一間、四疊二間、湯殿、台所と云ふのだから少し廣すぎる。が、蓮池があつて、芭蕉があつて、一寸周囲は風流だ。もし東京へ來る序ででもあつたら寄つてくれ給へ。番地その他はまだ僕も知らない。いづれ引越しの時通知する。

 例の通り薄給の身だから、これからも財政は少し辛(つら)いかも知れないと思つてゐる。兎に角人間は二十五を越すと、生活を間題にするやうになると云ふよりは、物質の力を意識し出すやうになるのだ。だから、金も欲しいが、欲しがつてもとれさうもないから、別に儲ける算段もしないでゐる。

 学校の方はいゝ加減にしてゐるから、本をよむ暇は大分ある。この頃ハムレットを讀んで大に感心した。その前にはメジュア、フオアメジユア[やぶちゃん注:原書簡では「メジユア フオアメジユア」。恒藤の転写ミスであろう。]を讀んでやつぱり感心した。僕の学校は一体クラシックスに事を缺かない丈が便利だ。バイロンのケインなんぞは初版がある。古ぼけた本をよんでゐるのは甚いゝ。その代り沙翁のあとで独訳のハムスンを読んだから妙な氣がした。新しいものもちよいちよい瞥見してゐる。あんまり面白いものも出なさうだね。

 その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない。谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ。さうして平安朝小說を書くさうだ。僕は今度はゆつくり寺めぐりがしたいと思つてゐる。

 あとは後便にゆづる。

 末ながら雅子樣によろしく

 別封は前に書いたが出さずにしまつたものだ。以上

    三月十一日                 龍

 

[やぶちゃん注:原書簡は「芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通」の八通目で電子化注してある。諸注してあるが、ここでは以下を補足しておく。

「橋」文中注で示した「亂橋」は固有名詞であり、私はこれを外してしまった恒藤恭には、鎌倉の郷土史を手掛けている私としては、甚だ不満である。鎌倉市材木座二丁目のここ(グーグル・マップ・データ)にある。鎌倉名数の一つである「鎌倉十橋」の一つで、材木座の日蓮宗妙長寺の門前から少し海岸寄りにある橋(グーグル・マップ・データ)であったが、道路上は、現在、ほぼ暗渠化している。但し、上流部には小流が確認出来、現在は欄干様の後代のそれが、上下流の部分が配されてあり、よすがを残し、碑もある(後の二つのリンクは孰れもストリートビュー画像)。芥川が、それほど知られていないこの橋名を出しているのは、彼の尊敬する泉鏡花の初期作品「星あかり」が、この妙長寺や乱橋をロケーションとしているからと推察する。「星あかり」は明治三一(一八九八)年八月発行の『太陽』に「みだれ橋」の標題で発表され、後の明治三十六年一月に春陽堂から刊行された作品集「田每(たごと)かゞみ」に収録した際、「星あかり」と改題されている。私は昨年、この偏愛する一篇を正規表現PDF縦書版でマニアックな注を附して公開してあるので、是非、読まれたい。芥川好みのドッペルゲンガーらしき怪異も描かれており、恒藤恭が読んでいたかどうかは判らないが、芥川の確信犯の仕儀と心得る。なお、上記の地図の北の横須賀線の踏切の向こう側に「辻薬師堂」(正しくは「辻の薬師」)があるが、その鉄道を挟んだ西側に芥川龍之介の新婚の新居はあった(当時の鎌倉町大町字(あざ)辻の小山別邸の離れの建物を借り受けたもの)。本書簡から八日後の三月二十九日、芥川龍之介はここに転居している。宮坂年譜によれば、『当初は伯母フキも同居したが、翌月中旬には田端に帰る。フキは、以後も時々鎌倉を訪れた』とある。場所は現在の鎌倉市材木座一丁目の元八幡(鶴岡八幡宮の元宮である由比若宮)の南東直近のこの中央附近である(グーグル・マップ・データ)。既に述べたが、私の父方の実家は北西二百メートル余りの直近にある。この「辻」というのは、鎌倉時代にここに「車大路」と「小町大路」との辻があったことに由来する。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座」の「長善寺」(この雑誌発刊時には横須賀線敷設のために、この廃寺となっているので、この項立て自体はおかしい)の項を見られたい。

「その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない」新全集の宮坂年譜によれば、この四月は三月から書き始めていた「地獄變」(五月一日(後者は二日)から二十二日まで『大阪毎日新聞』及び前記の系列新聞である『東京日日新聞』に連載)が、海軍機関学校の公務の多忙と重なり、脱稿が下旬まで延び、『精神的疲労は重く、月末には診察を受けている』という有様であった。但し、「出張」と言っており、これは五月三十日に出発した広島の江田島海軍兵学校参観を指すので、この時には具体な出張日程が示されていなかったものと思われる。先行する『恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その30) /「三十 京都の竹」』が、その出張後の京都訪問を指す。そのために電子化注した「芥川龍之介 京都日記 (正規表現・オリジナル注釈版)」も参照されたい。但し、この時、恒藤と逢ったかどうかは、確認出来なかった

「谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ。さうして平安朝小說を書くさうだ」谷崎がこの時期に京都に転居した事実はなく。「平安朝小說」というのも、この時期、それらしいものはないように思う。]

2023/01/17

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十五)+(二十六) (標題に「二四」及び「二五」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、総てそちらで注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する(但し、ここは特異的に次の書簡とカップリングする)。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。本ブログ版では、本文丸括弧表記と区別するため、ルビは上付き丸括弧で示した。]

 

    二四(大正七年一月十九日 鎌倉から京都へ)

 

 女の名は

   加茂江(カモエ)(下加茂を記念するなら、これにし給へ)

   紫 乃(シノ)(子)

   さざれ(昔の物語にあり復活していゝ名と思ふ)

   茉 莉(マリ)(子)

   糸 井(イトヰ)(僕の友人の細君の名 珍しい名だが感じがいゝから)

 これで女の名は種ぎれ。男の名は

   治 安

   樓 蘭(二つとも德川時代のジヤン、ロオランの飜訳。一寸興味があるから書いた)              

   哲(テツ)。士朗。(この俳人の名はすきだ)

   俊(シユン)。山彥。(原始的詩歌情調があるぜ)

   眞 澄(マスミ)(男女兼用出來さうだ)

 そんなものだね。

 書けと云ふから書いたが、なる可くはその中にない名をつけて欲しい。この中の名をつけられると、何だかその子供の運命に僕が交渉を持つやうな氣がして空恐しいから。

 僕は來月に結婚する。結婚前とは思へない平靜な氣でゐる。何だか結婚と云ふ事が一のビズネスのやうな氣がして仕方がない。

 僕は子供が生れたら記念すべき人の名をつける。僕は伯母に負つてゐる所が多いから、女だつたら富貴子、男だつたら富貴彥とか何とかつけるつもりだ。或は伯母彥もいいと思つてゐる。そのあとはいい加減にやつつけて行く。夏目さんが申年に生まれた第六子に伸六とつけたのは大に我意を得てゐる。実は伯母彥と云ふ名が今からつけたくつて仕方がないんだ。

 この頃は原稿を皆断つてのんきに本をよんでゐる。英國の二流所の作者の名を大分覚えた。

 

   爪とらむその鋏かせ宵の春

   ひきとむる素袍の袖や春の夜

   燈台の油ぬるむや夜半の春

   葛を練る箸のあがきや宵の春

   春の夜の人參湯や吹いて飮む

 

この間運座で作つた句を五つ錄してやめる。

 

                         龍

  二伸、奧さんによろしく。產月は何時だい。今月かね。

 

[やぶちゃん注:原書簡は「芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通」の二通目。次の書簡を参照。]

 

    二五(大正七年二月十五日 鎌倉から京都へ)

 

 御長男の生まれたのを祝す。御母子の健康を祈りながら

 

   春寒く鶴を夢みて產みにけむ

 

    二月十五日               芥 川 龍 之 介

 

[やぶちゃん注:因みに、恒藤恭の子は大正七年二月十五日、長男が生まれ、名は「信一」と命名されている。しかし、二年後の大正九年七月二日に亡くなった通知が齎されて(逝去は六月二十二日で、死因は疫痢であった)、芥川の家族中がショックを受けている(「芥川龍之介書簡抄98 / 大正九(一九二〇)年(三) 恒藤恭・雅子宛(彼らの長男信一の逝去を悼む書簡)」を参照)。芥川龍之介の案を採用しなかったことは、芥川龍之介にとって幸いであったと断ずることが出来る。何故なら、芥川は、こうした後の偶発的な不幸な状況に対して強い因果を想起する、関係妄想を持ち易い性格であるからである(事実、芥川龍之介が縁談の仲介を世話したり(小穴隆一の場合がそれ)、媒酌人を務めた、縁談や結婚が後に上手く行かなかったり、離婚となるケース(岡栄一郎の場合がそれ)等に於いて、それが強く認められる)。

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