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カテゴリー「芥川龍之介」の704件の記事

2022/05/13

泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版(「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿と夥しく異なるという驚愕の事実が判明した) / 附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」

 

[やぶちゃん注:泉鏡花の芥川龍之介の葬儀で本人によって読まれた自死の三日後、谷中斎場にて昭和二(一九二七)年七月二十七日午後三時から行われた葬儀で、先輩総代として第一番に本人によって読まれた弔辞である。以下に示したものは、その自筆原稿で、一九九二年河出書房新社刊の鷺唯雄編著になる「年表作家読本 芥川龍之介」に載った画像で、それを元に電子化した。なお、パブリック・ドメインの著作物を平面的にそのまま写した画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の見解である。岩波の「鏡花全集」巻二十八(一九四二年刊)と校合したが、驚くべきことに、句読点以外(現行より遙かに多く打たれてあり、句点と読点の相違も数多ある)では、現行、知られているそれとは、異様に激しい異同があることが判明した。以下に示す。下線は重大な異同と私が思うものに附した。

①原稿標題はあくまで「弔辞」であるのに、現行では「芥川龍之介氏を弔ふ」となっている。

原稿冒頭「玲瓏明哲」が現行では「玲瓏(れいろう)、明透(めいてつ)」と書き変えられてある。

③原稿の「其の文」が、現行では「その文」と「其」がひらがなになっている。

原稿「名玉、文界に輝ける君よ。」が、現行では「名玉山海(めいぎよくさんかい)を照(て)せる君(きみ)よ。」と激しく異なっている。

⑤現行のものは最後の一文のみを改行してあるが、原稿では全部で三段落が形成されてあり、行頭の字空けはどの段落にも存在しない。

原稿の「巨星天に在り」の前に、現行ではこの前に「倏忽(たちまち)にして」とある。

⑦同前の箇所で「在り」は、現行では、ひらがなで「あり」となっている。

原稿では「異彩を」とある部分が、現行では「光(ひかり)を」となっている。

原稿の「密林」が現行では「翰林(かんりん)」となっている。

原稿の「敷きて」が現行では「曳(ひ)きて」となっている。

⑪原稿の「とこしなへ」が現行では「永久(とこしなへ)」と漢字になっている。

⑫原稿の「手を取りて」が現行では「手(て)をとりて」となっている。

⑬原稿の次の「其の容を」が現行では「その容(かたち)」と「其」がひらがなになっている。

⑭同前で次の「其の聲を」が現行では「その聲(こゑ)を」となっている。

原稿の「秋悲しく」が現行では「秋深(あきふか)く」となっている。

⑯原稿の「其の靣影」が現行では「面影(おもかげ)」だけで「其の」を外してある。

⑰原稿の「代うべくは」が現行では「代(か)ゆべくは」となっている。

⑱原稿の「いふものぞ」が現行では「言(い)ふものぞ」と漢字になっている。

原稿の「令郞」が現行では「遺兒(ゐじ)」と書き変えられてある。

⑳最後の一文終辞「辭」(ことば)「つたなきを羞」(は)「ぢつゝ、謹」(つゝしん)「で微衷」(びちう)「をのぶ。」は現行では、段落を成していない。

岩波「鏡花全集」では編者によるクレジットは『昭和二年八月』となっている。

その㉑から、後に本「弔辞」が雑誌に収録されるに際して、鏡花自身が大幅に書き換えたものであると推察出来る。しかし、弔辞とは作品ではない。あくまで一回性のものである。書き変えられる謂われは、明らかな誤字以外はあってはならないものと私は考える。恐らく多くの芥川龍之介及び泉鏡花の愛読者は、書き変えられた弔辞が芥川龍之介の葬儀の場で読まれたと思っているはずだ。これはどうしても言っておかねばならぬと感じた。なお、弔辞原本には当然の如くルビは全くない。以下でも、それに従った。]

 

Kyoukaryunosuke

 

 

   弔辞

 

玲瓏明哲、其の文、その質、名玉、文界を輝ける君よ。溽暑蒸濁の夏を背きて、冷々然として獨り凉しく逝きたまひぬ。

巨星、天にあり、異彩を密林に敷きて、とこしなへに消えず。然りとは雖も、生前手をとりて親しかりし時だに、其の容を見みるに飽かず、其の聲を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何せむ。おもひ、秋悲しく、露は淚の如し。月を見て其の靣影に代うべくは、誰かまた哀別離苦をいふものぞ。

高き靈よ、須臾の間も還れ。地に、君にあこがるゝもの、愛らしく賢き令郞たちと、溫優貞淑なる令夫人とのみにあらざるなり。辭つたなきを羞ぢつゝ、謹で微衷をのぶ。

 

 昭和二年七月二十七日

             泉鏡太郞

 

 

●参考(「鏡花全集」巻二十八所収の「弔詞」パートの「芥川龍之介氏を弔ふ」。編者によるクレジットが昭和二(一九二七)年八月として標題下方にある。ルビにある踊り字は正字化した)

 

 芥川龍之介(あくたがはりうのすけ)氏(し)を弔(とむら)ふ

 

 玲瓏(れいろう)、明透(めいてつ)、その文(ぶん)、その質(しつ)、名玉山海(めいぎよくさんかい)を照(て)らせる君(きみ)よ。溽暑蒸濁(じよくしよじようだく)の夏(なつ)を背(そむ)きて、冷々然(れいれいぜん)として獨(ひと)り涼(すゞ)しく逝(ゆ)きたまひぬ。倏忽(たちまち)にして巨星(きよせい)天(てん)に在(あ)り。光(ひかり)を翰林(かんりんりん)に曳(ひ)きて永久(とこしなへ)に消(き)えず。然(しか)りとは雖(いへど)も、生前(せいぜん)手(て)をとりて親(した)しかりし時(とき)だに、その容(かたち)を見(み)るに飽(あ)かず、その聲(こゑ)を聞(き)くをたらずとせし、われら、君(きみ)なき今(いま)を奈何(いかん)せむ。おもひ秋(あき)深(ふか)く、露(つゆ)は淚(なみだ)の如(ごと)し。月(つき)を見(み)て、面影(おもかげ)に代(か)ゆべくは、誰(たれ)かまた哀別離苦(あいべつりく)を言(い)ふものぞ。高(たか)き靈(れい)よ、須臾(しばらく)の間(あひだ)も還(かへ)れ、地(ち)に。君(きみ)にあこがるゝもの、愛(あい)らしく賢(かしこ)き遺兒(ゐじ)たちと、温優貞淑(をんいうていしゆく)なる令夫人(れいふじん)とのみにあらざるなり。

 辭(ことば)つたなきを羞(は)ぢつゝ、謹(つゝしん)で微衷(びちう)をのぶ。

2022/04/28

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 憂欝なる庭」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

      林泉雜稿

 

 一 憂欝なる庭

 

 春になつてから庭を毀《こは》すことが最初の引越しの準備であるのに、一日づつ延期してゐるうちに芽生えが彼處此處に靑い頭を擡げ、一日づつ叡山苔の綠が伸びて行き、飛石のまはりに美しい綠を埋めてしまうた。樹や飛石、石手洗なども國の庭へ搬ばねばならなかつたが、芽の出揃うた鮮かさにはどうしても壞す氣にならなかつた。愛情といはうか、執着と言つたらいいのか、ともかく自分は一日づつ延期しながらも、早く庭の物の始末をつけたい氣持を苛立たした。隅の方にある離亭も取毀して送らねばならなかつたが、大工や人夫の入亂れる有樣、切角の芽先を踏みにじられることを思うて見ても、直ぐ取毀ちの仕事にかかる氣を挫かれ勝ちだつた。國の方の庭にこの離亭を移すと、國の俳人が月に一囘ある筈の運座の句會に此離亭をつかふことになつてゐた。大工等もその事で人を仲に入れて問合せて來たりしてゐるものの、氣乘りのしない幾らか悒欝になつた自分は、春雨の美しく霽(あが)つた叡山苔の鮮かさに見惚れながら、すぐ運送の手順に取懸かれさうもなかつた。

 自分は茲二年ばかりの間に「庭」を考へることに、憂欝の情を取除けることができなかつた。或時は自分の生涯の行手を立塞がれるやうな氣になり、或時はさういふ考へを持つときに、何か後戾りをする暗みの交つた氣持を經驗するのだ。愛する樹樹や、石のすべてが何か煩さく頭につき纏うて、夜眠つてゐても其眠りをさまたげられるやうで不快だつた。自分は心神の安逸を願ふときには努めて草木庭園のことを考へないやうにしてゐた。自分は頭の痛む午後や、變に昂奮してゐる時などに、石や草木の幻のやうなものに取つかれ、腦に描く空想を一層手强く締めつけられて來るのだつた。夢にうなされ晝は晝で疲れ、草木や石はそれぞれに何か宿命や因緣めいた姿で纏ひつき、鋭い尖つた枝枝が弱つた神經に障つてくることも珍しくなかつた。自分はかういふ境涯から離れたい爲に、つとめて自然の中に、庭庭のまはりに近寄らないようにしてゐた。

 併し自分のさういふ息苦しい思ひの中でも、習慣になつてゐるのか何時の間にか庭の中に出て、樹や石を愛し弄ぶの情を制することができなかつた。頭の痛むなかに仲びて尖端を觸れて來る樹樹の姿は、一層親密な運命的な勢力を自分の肉體の中にも揮ひ、自分は傷ついた氣持で殆ど引摺られるやうな狀態で、これらの樹木や石に對ふより外はなかつた。。かういふ珍しい氣持はあり得るものであらうか。

[やぶちゃん注:「叡山苔」ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophytaミズニラ綱イワヒバ目イワヒバ科 Selaginellaceaeイワヒバ属イワヒバ亜属StachygynandrumクラマゴケSelaginella remotifolia の異名。標準和名の漢字表記は「鞍馬苔」であるが、この叡山苔の他にも「愛宕苔」「瓔珞苔」の異名がある。当該ウィキによれば、『時に栽培されることがあ』り、『単体での鑑賞価値には乏しいが、土の表面を覆うのに苔を育てるのと同じ』ように扱え、『普通の苔より枝葉がはっきりしていて』、『模様のようになるところがおもしろい。栽培は難しくない』とある。但し、『近縁種に姿のよく似た種が多く、クラマゴケという名称はそれらの総称としても使われる』とあるので、本種に限定することは出来ない。類似する近縁種はリンク先を参照されたい。]

 

  二 「童子」の庭

 

  自分が此家に越してから八年ばかりになり、三人の愛兒を得、その一人を最初に亡くしたのも此家だつた。自分の亡兒を想ふの情は五篇の小說と一册の詩集になるまで哀切を極めたものだつたが、併し誠の愛情には未だ觸れるに遠いやうな心持だつた。自分は「童子」といふ小說の中に可憐な一人の童が、夕方打水をした門のあたりに佇んで、つくづく表札の文字を讀むあたりから書き始め、時を經て、「後の日の童子」といふ作の中には、到底何物にも較べがたい自分の每日の物思ひの中に、何時の間にか生きて一人の童子となつた彼を描いて、殆ど書き疲れ飽きることはなかつた。亡兒の事を書くことはそれ自らが、愛情の外のもので無いため、書くことに依つて濃かな愛情のきめを感じるのだつた。

  自分は二十篇餘りになる詩をつくり、寧ろ綿綿たる支那風な哀切を盡したのも、その亡兒への心殘りの切なることを示したものだつた。亡兒と「庭」との關係の深さは「庭」 へ抱いて立つた亡兒の悌は何時の間にか竹の中や枇杷の下かげ、或は離亭の竹緣のあたりにも絕えず目に映り、自分を呼び、自分に笑ひかけ、自分に邪氣なく話しかけ、最後に自分の心を搔きむしる悲哀を與へるものだつた。或日の自分は埒もなく疊を搔きながら死兒を慕ふの情に堪へなかつたのである。

 さういふ「庭」は自然に自分の考へをも育てる何者かであり、その何者かを自ら掃き淸めることは喜びに違ひなかつた。自分はさまざまな樹木や色色な花の咲く下草、亡兒の通ふ小さい徑への心遣りをする爲、冷たい動かぬ飛石を打ち、其處に自身で心を待設《まちまう》けるところの淺猿《あさま》しい人生の「父親」の相貌を持つてゐた。單なる樹木は樹木でなく「子供」に關係した宿緣的なものだつた。庭を掃淸めることは彼ヘの心づくし、彼への供物、彼へのいとしい愛情、彼への淸い現世的な德と良心の現れだつた。自分は老いて用なき人のやうに庭に立ち、石を濡らし樹樹の蟲を捕除《とりのぞ》いたりするのだつた。事實自分の妙に空想的になつた頭の内部には、それらの庭の光景は亡き愛兒の逍(さま)よふ園生《そのふ》のやうに思はれ、杖を曳いた一人の童子を何時も描かない譯にはゆかなかつた。自分の悲むで鶴の如く叫ぶ詩の凡ては每日その一二枚あてづつの原稿紙に書かれて行き、自分が初めて詩の中に分身を見、詩中に慟哭したのも稀な經驗だつた。

 その詩や小說の中にある自分の悲哀とても、本當の突き詰めた氣持の中では到底さういう藝術的な表現では訣して滿足されるものではなかつた。藝術の樣式は遂に藝術以外のものでないところに、未練深い現世的な自分の愛慕が低迷してゐた。

 自分が天上の星を見直し或は考へ直したのも、その悲哀の絕頂にゐた頃だつた。深い彎曲された層の中にある生涯的な悲哀は、每日自分に思ふさま殆ど人間の悲哀性の隅へまで苦苦《にがにが》しく交涉し、「烟《けぶ》れる私」をつくり上げるのだつた。顏の色の益益惡くなつた自分は決して笑ふといふことを、何物かに掠め奪はれてゐたも同樣の空しさで、自ら烟れる如き凄しい顏容をしてゐた。

[やぶちゃん注:「愛情」は底本では(ここ)傍点「●」である。

「その一人を最初に亡くした」室生犀星は大正八(一九一九)年十月に田端に移り、二年後の大正十年五月に長男豹太郎が生まれたが、翌年の六月に豹太郎は亡くなってしまった。その年の十二月に京文社から刊行した「忘春詩集」は事実上、亡児への追悼作品集であった。

「童子」大正十二年一月に京文社から刊行した作品集「萬花鏡」に亡児を題材した小説「童子」があるが、ここに書いたのと同じシークエンスは冒頭や作中にはない。寧ろ、私は前の「忘春詩集」に収録された詩「童子」が思い出される。国立国会図書館デジタルコレクションに同詩集があり、当該詩篇はここ。ややスレがあって読み難いので、以下に電子化しておく。

   *

 

童 子

 

やや秋めける夕方どき

わが家の門べに童子(わらべ)ひとりたたづめり。

 

行厨(うちかひ)かつぎいたく草疲れ

わが名前ある表札を幾たびか讀みつつ

去らんとはせず

その小さき影ちぢまり

わが部屋の疊に沁みきゆることなし。

 

かくて夜ごとに來り

夜ごとに年とれる童子とはなり

さびしが我が慰めとはなりつつ……

 

   *

この「行厨(うちかひ)」とは背負子型になった弁当箱で、「草疲れ」は「くたびれ」と読む。

「後の日の童子」は大正一二(一九二三)年二月号『女性』に初出された小説であるが、上記の詩篇「童子」のシークエンスが冒頭に配されてある(同作は「青空文庫」のこちらで読める。但し、新字新仮名)のだが、或いはその辺りを作者自身が混同したものかとも思われる。そうだとしても、そこには寧ろ、未だ癒えぬ豹太郎への彼の感懐が読者にもしみじみと沁み渡ってくるような気がする。]

 

 三 季節の痴情

 

 自分は決して値の高い植木や石を購うた譯ではなかつた。寧ろ若木を育てた位で、高價な大物は植ゑなかつた。些し許りの詩の稿料や他の小使錢を四季折折に使つた外は、殆ど餘財を傾けることはしなかつた。貧しいその日暮しの中から集めたものだから、賣ることになれば端錢にもならなかつた。と言つて此儘他人に讓り渡す氣にもなれなかつた。何故かといへば自分の愛園だといふ名目にしては餘りに貧しい木石の類だつた。せめて相應の石一つくらゐでもあればいいが、雜石をつかつた庭を他人に手渡すことは、末代までの名折であり、さういふ恥を殘すよりも一草一石の端にまでも原形無きまでに取毀《とりこは》すことが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の自分の氣持だつた。

 若し愛してくれる人があれば、この儘讓り渡してもいいと考へたこともあるが、後に殘ることを考へると憂欝になり、矢張り壞すことに心を訣めるのだつた。それが自分の一つの德義でもあり良心でもなければならなかつた。自分を訪ねたことのある人人の眼に殘つてゐる小さな庭、庭らしい風致の中にある自分が、それ以上にその人人へ呼びかける必要はなかつた。潔く取毀《とりこぼ》つて又新しく移らなければならない――。

 自分が此庭を考へたことの最も烈しかつたのは、震災後一年を故鄕の山河に起居してゐる時であつたらう、その時は庭なぞいらない氣持だつたが、安つぽい鄕里の貸家には砂礫が土に雜つてゐて、何を植ゑても根をおろすことがなかつた。柔かい黑土のある東京の庭を思ひ出したのは寧ろ不思議な思ひ掛けない切ない氣待だつた。自分は家の者に何かの序に季節ごとに庭の話を繰り返しては話出し、殆ど見るに耐へない庭があれ程心に殘つてゐることは、意想外な氣持であつた。

 歸京して見た昔の庭は庭のままだつたけれど、愛情は昔に倍してゐると言つてよかつた。彼等は穩かだつたし又靜かさは一入《ひとしほ》深かつた。自分の最初に氣のついたことは庭の全面に漂ふ憂愁の情だつた。主人なくして過した一年の間に、彼等は茫茫たる十年の歲月を負うてゐる荒涼を持つてゐた。それは人間的な愛情だと言つていい位の靜かな重い荒れ樣だつた。自分が彼らの間に立つたときに自分を締めつけるものの多くを感じ、囁くものの哀切を經驗するのだつた。自分は僅かな一草の芽生えの中にも自分が六七年近く愛した情痴を感じた。全く庭を愛することも、文に淫することも凡て情痴に近いものだつた。さう言つても解り兼ねるかも知れぬが、實際人間同士の情痴以上の、重いものに心を壓せられることは愛する女以上の痴情に似たものだつた。自分が彼等の世界に住むことに頭を痛め心を暗くしたのも、それらが最早苦痛に近い樂しみであることも、やはり淸淨であるために憂欝になる情痴の表れに違ひなかつた。

[やぶちゃん注:犀星は大正一二(一九二三)年の関東大震災に田端で被災直後の十月に一家をあげて金沢に引き揚げ、上本多町川御亭(かみほんだまちかわおちん)三十一番地に落ち着いた。大正十四年十月には金沢市小立野(こだつの)にある曹洞宗の天徳院(被災後にここに滞在していた)の境内に土地を購入し、庭作りに熱中したりしていた。]

 

 四 田端の里

 

 自分は殆ど庭の中に隈なきまでに飛石を打ち、矢竹を植ゑ、小さい池を掘り、鄕里の磧にある石を搬び、庭は漸く形をつくつて行つたが、間もなく鄕里にも庭をつくりかけた關係上、鄕里の方にも庭木を送らなければならなかつた。さまざまな煩雜さに疲れた自分は一層此庭を壞し、庭のない貸家に引移りたい望みを持つやうになつてゐた。何故かといへば恣《ほしいまま》に庭のある家に居ればそれに頭をつかふことは當然なことであるから、一層庭のないところに行けば諦めもするし、樹や石を弄ぶことも自然なくなるであらう、さういふ考へで何處かに荷物の全部を預け一家こぞつて旅行に出る計畫をたてたのであつた。併し自分の執着はすぐに庭を毀す決心はしてゐても實行は益益遲れがちになつてゐた。

 自分が此田端に移つてから既《も》う十年になるが、「江戶砂子」にある生薑《しやうが》の名所である田端の村里は文字通りの田舍めいた靑靑しい生薑の畑と畑の續いた土地だつた。根津の町へ出て藍染川となる上流は田端の下臺《しただい》にあつたが、音無瀨川《おとなせがは》と呼ばれてゐた。名に負ふ煤と芥の淀み合ふ音の無い小川であつたが、それでも今の谷田橋《やたばし》附近は大根や生薑の洗ひ場になつてゐて女等の脛も見られる「江戸砂子」の風俗と俤《おもかげ》とを昔懷かしく殘してゐた。今の神明町車庫前あたりから上富士《かみふじ》への坂の中途迄、秋風の頃はざわめく黍畑《きびばたけ》や里芋の畑の段段の勾配をつくり、森や林も處處に圓い丘をつくつて見えてゐた。小川や淸水の湧く涼しい林もあつたが、今は待合や小料理屋が町家《まちや》を形づくり、昔の武藏野の風情は殆ど何處にも跡をとどめてゐなかつた。

 それでも音無瀨川の溝石の仄《ほの》ぐらい濕りには、晚春初秋の宵などに蛙の啼く聲も聞かないではなかつたが、若い椎の植木畑や生薑の畑には昔のやうな螢の飛び交ふ微《かすか》な光りさえ見られなかつた。十年の間に變つたものは單にこれらの郊外的な風致や町の姿ばかりではなく、兒を失ひ悲むだ自分には溝川のほとりを散步しながらゐる姿は昔のやうだつたが、もう子供が二人も生長してゐた。

 植木屋の多い田端の地主らも時勢と金利の關係から、植木屋は賣減《うりべ》らしにして何時の間にか貸家を建て、新建《しんだち》の小路をつくり、殆ど空地は見られない程だつた。秋口には涼しい高い木に啼く蟲の類も減つたばかりでなく春先の鶯が啼く朝なぞは年に一日か二日くらゐに過ぎなくなつた。以前は何處からともなく春を告げる鶯の聲を聞くのは、每朝の快いならひであつた。生溫かい雨の霽(あが)つた朝の食卓についてゐて、鶯を聞かない朝はなかつた。それだのに今年は鶯を聞かなかつたといふ年も近年になつてから折折に聞くやうになつてゐた。

[やぶちゃん注:「矢竹」狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica を指す。ウィキの「ヤダケ」によれば、『タケ(竹)と付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため』、『笹に分類される(大型のササ類)』。『種名は矢の材料となること』に由来し、『本州以西原産で四国・九州にも分布する』。『根茎は地中を横に這い、その先から粗毛のある皮を持った円筒形で中空の茎(桿)が直立。茎径は』五~十五ミリメートルで、『茎上部の節から各』一『本の枝を出し』、『分枝する。節は隆起が少なく、節間が長いので矢を作るのに適す。竹の皮は節間ほどの長さがあるため、見える稈の表面は僅かである』。『夏に緑色の花が咲く』。『昔は矢軸の材料として特に武家の屋敷に良く植えられた』。別名は「ヘラダケ」「シノベ」「ヤジノ」「シノメ」等、とある。

「江戶砂子」菊岡沾涼(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年:金工で俳人。伊賀上野の生まれ。本姓は飯束であるが、養子となって菊岡姓となった。名は房行。江戸神田に住んだ。俳諧を芳賀一晶(はがいっしょう)・内藤露沾に学び、点者となった。地誌・考証などの著述でよく知られる。私は彼の怪奇談集「諸國里人談」をこちらで全電子化注を終わっている)が享保一七(一七三二)年に板行した江戸地誌。江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げて解説し、約二十の略図も付す。これはベスト・セラーとなり、同じ著者で「續江戶砂子」が二年後に上梓されている(内容は正編の補遺)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の巻之五の「豊島郡麻布」のパート内のここの右頁七行目に、

   *

 

 五 記錄

 

 自分の家や庭の客となる人人は、矢竹の茂りと音とを賞めてくれたが矢竹は庭一面に這出して相應の風致を形作つてゐた。一年の間に主人を三人まで持つた秋といふ女中も、自分の家を出ると不幸續きの暮しをして今では行方が分らず、彼女が風呂敷に包んで買つて來た小さい沈丁花は、六年の間に自分の背丈を越えるまで伸びてゐた。次ぎに來た女中の里である茨城の草加在の珍しい木賊《とくさ》の株も、庭の一隅に固く組み合うて、年年殖えて美しくなる一方だつた。彼女は自家から暇を取るとカフエの女になり、これも亦行方が分らなかつた。

 季節折折の子供の病氣の時の看護の女、植木屋が入代《いれかは》つてゐたそれぞれの記憶、國の母や兄、老俳友などの泊つたことのある離亭、飼猫や飼鳥の山雀《やまがら》、或時は仕事に疲れて卒倒しかけたことのある庭の奧、さういふ小さな覺えは一つとして「庭」を離れたものではなかつた。「庭」は彼らしい人生觀めいた記錄的なものを持ち、それらが今庭を壞さうとしてゐる自分に小癪なほど敍情詩めいた詠嘆の心を移さうとするのだつた。殆ど隅隅にまで手の觸れないところの無い庭土は、それに手をつけた日の記憶的な位置を今更らしく思ひ出させた。

 この家に來て自分の仕事をした數は、文字通り枚擧に暇が無いくらゐだつた。詩集「高麗の花」や「田舍の花」「亡春詩集」を書き、「童子」「嘆き」「押し花」「人生」「我こと人のこと」「わが世」等で亡兒に對する嘆きの限りを綴つたものである。その他數十篇の小說物語の類は自分でも覺えてゐない夥しい數だつた。どこの雜誌に出たかも分らず、それを搜し出すこともできないで散逸された小品隨筆の類は、殆ど數限りのない位だつた。さういふ反古《ほご》同樣の仕事に注いだ自分の制作的な情熱を考へるだけでも、自分は何か目當てもなく茫然とし、その情熱の費消によつて十年は命を縮めてゐると言つてよかつた。それすら自分には何一つ殘つてゐないことを考へると、情熱を賣買した天壽の制裁の空恐ろしさを思はない譯にはゆかなかつた。

 自分は第一流の文人である自信はあり實力もあるのだが、併し自分の書いたものか秋風の下に吹晒《ふきさら》され、しかも殘らないことを考へることは苦しかつた。自分にさへ其行衞の判らない原稿のことや雜誌のことを思ふだけでも陰鬱になり息窒《いきづま》る思ひだつた。その頃に書いたものの心の持ち方の低さ、氣持の張りの足りなさを考へると訂正削除の朱筆は動かしてゐても、自分の文章や意嚮《いかう》の拙劣さを犇犇と感じられるのであつた。或は却《かへつ》て原稿が散逸された方がよかつたかも知れない。惡文十年の罪を失した宜い機會であるかも知れぬ。唯自分はそれらに注いだ取り返しのつかぬ情熱の濫費だけは何と言つても一生の過失だつた。どういふ時にもよい仕事をすることは、永い安心を形づけるものであり、朝朝の寢ざめを淸くするものであるが、いい加減な仕事をした者の末路は自分で氣の付く時は、もう遲いに違ひない、併しその遲い時期に踏止まることも亦肝要なことに違ひなかつた。

 

 六 別れ

 

 自分は或日、まる一日外出をする機會があり、その間に植木屋に命じて樹木の幾株かを荷造りさせて、國へ送るのであつたが、幸ひ自分の歸宅したのは夜に入つてからだつたから、其樹木を拔いた跡は見ないで濟んだのである。次の日にも外出の折を見て飛石を拔き又次の目にも石を搬ばせるやうに命じて置いて何時も夜になつてから歸宅するのだつた。雨戶を開けることがないので、庭の模樣は分らなかつた。寢床で想像する淋しい庭のありさまは誰かを怨みたい氣持だつた。

 築庭造園は財を滅ぼし、人心に曲折ある皺を疊み込み、極度に淸潔を愛する者になることは事實である。自然に叛逆することは、自然を模倣すると同樣な叛逆だつた。彼は「庭」を造らうとしながら實は「自然」を造らうとするものらしかつた。そこに何か突詰めると淺ましい人間風な考へがないでもなかつた。それだから面白いといふ築庭的な標準は、自分には既《も》う亡びかかつてゐる考へであつた。それなら自分は後の半生を何に費したらいいだらうか?――自分の如きものの才能は何に向つて努力すべきだらうか、かういふ消極的な問題を自分の中に持出して、自分は荒れた破壞された庭の中を步いて見たが、何か永い間に疲れたものが拔け切つたやうな、それこそ精神的な或平和をさへ感じるのであつた。その感じは自分を一層孤獨な立場に勇敢に押出してくれ何よりも平穩と濶達とを與へて吳れた。小さな風流的な跼蹐《きよくせき》[やぶちゃん注:身の置き場所もない思いをすること。]から立ち上つた自分の行手は、寧ろ廣廣とした光景の中に數奇《すき》ある人生的な庭園を展いて見せてゐた。自分はその庭園を見ることに泉のごとき勇敢を感じた。自分はそれ故今は眼の前で此小さな「庭」の壞されることを希望し、過去の庭園に靜かに手を伸べてその姿に別れを告げるのであつた。

 

 七 曇天的な思想

 

 何時か自分は「過去の庭園」を物してから、庭を壞し離亭を取毀したが、いまは一草一木も無くなり、明るい空地になつて了うた。自分の氣持は爽快になり頭は輕くなつた。矢竹も掘り盡したが筍が處處に餘勢を示し、垣根に添うて殘つてゐる。

 自分は庭を壞して見て埋られた飛石は勿論、凡そ石といふ石の數の多いのに驚いた位である。雜石をあしらひ急仕立に自分の氣持を紛らはしたその折折の、自分の氣持の低さには熟熟(つくづく)呆れるばかりだつた。庭などといふものは決して間に合せの石や樹を植ゑて置くものではない。それは必ず棄てなければならぬ時期があるからである。周到な注意と懇切な愛好の下に、生涯それらの木石に心を寄せるほどのものを選ぶべきであつて、いい加減な選擇は嚴格に退けるべきであつた。

 自分は庭を壞しても決して淋しい思ひはしないばかりか、何か前途に最つと好い庭がありさうに思へるからである。庭はそれ自身が東洋の建築としつくり色を融け合せて生きてゐるもので、決して庭だけで生きてゐるものではない、東洋の寂しい建築と其精神とに彼は其姿を背景とせねばならぬ。建築の淋しい哀愁を劬(いたは)るものは、女人のやうに優雅な、しかも健康な「庭」でなければならぬ。誠に美しい庭に立つことは我我の愛する女人と半夜を物語ることと、どれだけも隔たつてゐるものではない。

 自分は梅雨曇りが廣がつてゐる中に、每日のやうに其美しい曇天を眺入つてゐた。その中に壞された庭を少時思ふに適した。折折の低い雲、蒼い空をも眺め、どうやら自分がこれから後にめぐり會ふべき、石や木、庭のありさまなども好《よ》き想像のうちに描くことができた。そして自分は半年ばかり極端に質素な、往昔の文人が試みた旅行のやうなものを實行するために、家具を友人の家に預け、永年の埃や垢を洗はうとするのである。文人の榮華の醒めた不況の時に昔の生活を抛《なげう》つことは、自分の好みにもあひ、今はその「時」を得てゐるからである。それ故自分は曇天の中に美しさを知ることも、人一倍の熱情を感じるからである。

 自分のやうな人間は何かしら「心」で飜弄(いぢ)る物の要《い》る種類の人間である。詩や詩情をいぢることにも倦きてゐないが、同樣に戀愛にも未だ飽きてゐない。戀愛的な雰圍氣は決して女人の間にばかりあるものではなく、それの正確な精神は凡ゆるものの美しさを詳かに眺め取入れることであらう、曇天も陶器も又女人もその内の重《おも》なるものであらう。

 荒土になつた庭の上に、杏の實が、今年もあかあかと梅雨曇りの中に熟れてゐる。此の杏は家に附いてゐる樹であるが、每年春は支那風な花を見せ、何時も今頃の季節には美しい實を見せてゐた。今日も机の上から見る朱と黃とを交ぜた杏の實は、堪へがたい程美しい。自分も家の者もこれを取らうとはせず、此儘次ぎに越して來る人の眼を樂しますであらう。

 杏は國の方にも今頃は熟れて輝いてゐるが、東京では滅多に見られない。何時か小石川の或裏町で見かけたことがあるが、その美しさ豐さは莫大な印象だつた。子供の時にその種子を石で磨つて穴を開け、笛のやうに吹いたことを覺えてゐる。「杏の笛」と言ふと幼い詩情を感じることが夥しい。今も鄕里の童子はその「杏の笛」を吹くことを忘れないであらう。

 矢竹は國の庭へも送つたが、根は庭ぢうに這ひ亂れてゐた。森川町(もりかはちやう)の秋聲氏からの使ひにも數株を分けたが、使ひの植木屋はかういふ美しい竹は植木屋も持つてゐないと褒めてゐた。自分もさういふ褒言葉を喜ぶものである。初め辻堂の中村氏に約束をしたが、辻堂までの車を仕立てることは困難だつた。中村氏の庭を訪れた秋聲氏との間に竹の話が出たものらしかつた。

 自分は初め此矢竹を靑山といふ禪客から讓り受けたものである。今度は色色手分けして頒けたが、雨が多く分け切れなかつた。關口町の佐藤君からの植木屋も、漸つと今朝になつて分けた竹を掘りに來た。ともあれ自分は後二日で半年の旅行に出るのだが、あとを亂したくないので土の穴や掘り返しを埋めさせてゐて、微妙な哀愁を感じた。多くの秋と冬の夜、これらの竹の葉擦れの音を聽いたが、春の深いころと晚秋の頃とが一番葉ずれの音がよかつた。皮を剝いで膏《あぶら》で拭いた幹は靑く沈んだ好い色をしてゐた。芥川君は此竹のある方を何時も「窓の穴」と言つてゐた。同君の庭にも竹があつたが二三日續いて庭を掃いて見て、氣持がよかつたといふ話も耳に殘つてゐる。――

 震災の時にも上野あたりからの灰が吹かれて、葉の上に白く埃をためたが、さういふ思ひ出も却却《なかなか》忘れられなかつた。自分は每年筍が出ると、古竹を粗い簾に編ませ、それを煤の垂れる軒に吊るして置いたが、野趣があつて粗雜な感じではあつたが好きだつた。

[やぶちゃん注:「辻堂の中村君」作家・評論家の中村武羅夫(むらお)。]

 

 八 壽齡

 

 この春母の危篤の報を得て遙遙と歸國して行つたが、母は七十八の高齡の中で死生の間を往來してゐた。自分は母が二三日のうちに絕命するであらうと思ひ、人として數奇な彼女の生涯と運命とに就て、絕えず頭をつかひ兎も角も死ぬことを氣の毒に思ひ、自分も出來るだけの藥餌の祕術を盡すやうに努力するのであつた。彼女を支配した運命はその晚年に物質的な苦衷を與へず、自足と平安とをのみ溫かに惠んでゐた。自分は父の死の前後が斯樣に平安で無かつたことを考へ、いぢらしい父への思ひ遣りを切ない氣持で顧みない譯に行かなかつた。

 四五日の後に母は急性肺炎の症狀から完全に救はれ、運命の惰勢は再び母を安逸な生活の中に取殘すもののやうだつた。彼女は粥を啜り魚の肉を食べ潑溂として餘生を盛り返し

て來た。自分は七十八年も生延びた彼女の止みがたい生活力が、その餘勢の上で舞ひ澄む獨樂《こま》のやうに停《とどま》ることを知らないのを恐ろしく思うた。血色を取り戾した一老母の戰ひは遂に現世的生活へまで再び呼戾《よびもど》され、暴威を揮ふ時は揮ふ苛酷な運命さへ、母の前ではその暗澹たる翼ををさめてゐると自分は思うたが、さういふ母を見ることは別な意味で壯烈な氣がしないでもなかつた。

 母を圍繞《ゐねう》する人人及び古い昔の彼女の知合《しりあひ》の悉くは、母が今度死ぬであらう豫測と天與の壽齡とに、寧ろその長命と平安とを祝福して、自分に一一その由を傳へて挨拶を交すのであつた。自分も母の壽命の終るの近きを思ひ、働く能力を缺いた人間は訣して六十以上は生きる必要の無いといふ、漠然とした通俗的な槪念を得たのだつた。六十以上生きるといふことは死を期待され、死を祝福されるのみで、死を激しく傷み悲しまれることは尠《すくな》いことらしかつた。ことに田舍の人人の率直な言葉は一つとして死を哀傷する情を披瀝せずに、不足のない死を、或は死そのものに利子的な計算を敢てすることにより、恰《あたか》も當然訪れるべき死の遲きを皮肉るやうなものだつた。

 母は自分に決して今度は生き延びたくなかつた事、唯ひたすらにお詣りがしたかつた事、再《ま》た御身らに厄介になることが心苦しい事などを、取盡《とりつ》した靜かな生活の中から物語るのであつた。自分は何よりも運命がまだ彼女を犯さなかつたことに就て、ひそかに運命の力が近代に至つて次第に稀薄になつてゐるやうに思はれてならなかつた。そして病室の窓の外にある執拗な一塊の殘雪は、北に面した杏の古い根にしがみつき、世は春であるのに凝り固り却却消えようとしなかつた。殘雪と運命、さういふ昔の文章世界の寄稿家の物するやうなことを考へ、我が尊敬すべき運命ヘの超越者、自分の母親を熟熟見守るのだつた。

[やぶちゃん注:「母」ここで彼が語っているのは彼の養母ハツである。犀星は明治二二(一八八九)年八月一日、金沢市裏千日町に生まれた。加賀藩足軽頭であった小畠弥左衛門吉種(当時六十四歳)と、小畠家の女中ハル(同三十四歳)との間に私生児として生まれた。世間の評判を嫌った父は、生れたこに名もつけず、生後間もなく、生家近くの雨宝院(真言宗)の住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに貰い子として引き取られ、ハツの私生児として「照道」の名で戸籍に届出された。住職の室生家に正式に養子として入ったのは、七歳の時で、この時、室生照道を名乗ることとなった。犀星は私生児で、実の両親の顔を見ることもなかった。この赤井ハツは気の弱い住職を尻に敷いて朝から大酒を飲み、子供たち(貰い子は犀星を含めて四人であった)を理由もなく折檻し、「馬方ハツ」の異名をとるほどの、当時はかなり強烈な恐ろしい女丈夫であったという(所持する昭和四二(一九六七)年新潮社刊『日本詩人全集』第十五巻「室生犀星」の年譜に拠った)。ハツはこの後の昭和四(一九二九)年四月に永眠した。]

 

 九 邦樂座

 

 久振りで仕事も一先片づいて、冬がこひを施した樹樹の蓆を解いて見たが、彼らは藁の溫さの中に既に春の支度を終へてゐた。何か酸味を帶びた匂が自《おのづか》ら立つ埃とともに、自分の胸を妙に惱ましく壓してゐた。自分は少時《しばらく》日の當る土の上に踞んでゐたが、昨日邦樂座の玄關の段の上から辷《はづ》れ落ち、背中を打つた重い痛みが斯ういふ明るい日ざしの中で餘計に感じられた。

 何時か雨上りの電車道で轉んで危く轢かれようとしたが、さういふ不慮の出來事の起るときは、頭がひどく疲れてゐる時に違ひなかつた。健全だと思うてゐる頭腦も刺戟のある映畫見物の後には、每時《いつ》も烈しい疲勞を心身に感じてゐた。目まぐるしい電車道に立竦んで、少時頭の働きを待つやうな狀態になる時は、頭腦の働きよりも車や往來の烈しさが迅速に感じられるのだつた。或晚自動車から下り立つた自分は初めて帽子を冠つてゐないことを知り、自動車を見返るともう明るい街巷の中に紛れ込んでゐた。自分は帽子を冠らないで步く、無態な頭に何か締りの無いことを感じた。一昨日も邦樂座で危く頭を打てば或はそれきり腦貧血を起したかも知れなかつた。人間の命を落すやうなことがどれだけ自然に何等の注意力の無い時に起り、それが却つて偶然に救はれてゐることがあるかも知れなかつた。

  庭の中は眩しい春の日當りで一盃になり、竹の葉の上にあぶらを注いだやうな一面の光だつた。自分は自然の美しさを感じ、その自然がもう自分の心身にカツチリと塡つてゐる人生的な或事件でさへあるやうな氣がし、自ら感情的な此事件を懷しむの情に耐へなかつた。かういふ物の考へ方をする自分には、最早花や樹の美しさよりも自分の考へに思ひ耽る美しさが、どれだけ事件的なことを搬ぶかも知れなかつた。自分は身に沁みて人の死を感じ、その死を自ら企てた人のことも斯ういふ春光の下で餘計に沁沁感じられた。現世の美しさを深く感じることは死ぬことに於て、一層美しく見えることに違ひなかつた。現世に執着するほど死にたくなる念ひを深めることは、よき魂をもつた人間の最後の希望にちがひない――生活、金、死、女、そして目前に迫る何かの芽生えの狀態に、折折氣を取られながら殊勝に少時靜かにしてゐたが、昨日の背中のいたみは鈍重に徐ろに自分に影響してゐた。女達の華かに立つた光つた階段から墜ちた自分は、單に階段から落ちたばかりではなかつた。或はその時に當然不幸な運命の逆襲に遭ふべき自分が、その又運命の端に繫がつて怪我をしなかつたのかも知れなかつた。邦樂座の大玄關から自分は死の何丁目かヘ送られる筈はないと思うたものの、自分は常に新鮮な運命に立向ふ用意をせねばならないと考へるのだつた。それは自分ばかりではない、凡ゆる人間がいつもその準備に就かなければならない事だつた。何時どういふ不安と不詳事が待ち構へてゐるかも分らないからだ。誰がその不慮事の前に立ち得ることができよう。――

[やぶちゃん注:「邦樂座」現在の「丸の内ピカデリー」の前身の劇場。]

 

 十 短册揮毫

 

 自分のところへも每月短册や色紙の揮毫を迫る人が多く、氣の進まぬ時は一方ならぬ憂欝をすら感じてゐる。平常何も知らぬ人に自分の惡筆を献上することは、最早自分には神經的に嫌厭《けんえん》を感じてゐる位である。千葉縣の某と云ふ人なぞは先に短册を送り到《つ》けて置いて、每月揮毫の督促を根氣よく殆ど一年間續けて行うてゐた。その最後に短册返送を迫ることは勿論、或は謝儀を送るとか云ひ子供でも宥《なだ》め賺《すか》すやうであつた。併し自分は怒りを嚙み潰してゐた。かうなると脅迫的なものに近いやうである。

 自分は短册色紙の送り付けは其儘卽座に返還してゐる。今後奈何なる意味に於ても揮毫はしないことにした。その爲自分のやうな惡筆の品定めされる後代の憂を除きたいと考へてゐる。併乍ら自ら進んで書きたい時があれば、惡筆を天下に揮ふことの自信も無いではない。欲しきは私に取つて何事も勇躍だけである。

 

 十一 「自敍傳」

 

 自分は此頃もう一度今のうちに書いて置きたいと考へ、自敍傳小說を書き始めた。自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した。それは言ふまでもなく詩的雜念の支配を受け、センチメンタリズムの洗禮を受けたからである。自分は噓を交ぜた、いい加減の美しさで揑ねた餅菓子のやうなものを造り上げ、それで自分は自敍傳を完成した如き氣持でゐたが、此頃の自分にはその噓が苛責的に影響し、苦痛の感情を伴うて來たのである。自分は暇を見て書き直した上、少しも文學的乃至詩的移入のない自傳の制作に從はなければならず、事實その仕事に打込んでゐた。

 自敍傳は作家の最初に書くものでなければ、相應の仕事をした後期の仕事でなければならない。その仕事は何處までも成年後の彼の見た「生ひ立ちの記」でなければならず、峻烈な自分自身への批評に代るべきものでもあらう。

[やぶちゃん注:「自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した」大正八(一九一九)年に『中央公論』に発表した「幼年時代」であろう。小説家としては処女作である。]

 

 十二 「大槻傳藏」の上演

 

 帝國ホテルで自分の作「大槻傳藏」の道化座の公演を見て色色感心した。僕の戯作は幸か不幸か未だ公演されたことはなかつた。又自作が劇評家等の筆端に觸れたことも極めて斟いことだつた。自分はこれらの戯作が作集や叢書にさへ未だ談判を受けたことすら無いのを、大した不名譽に思つてゐないものである。それに據つて自信を逆挨《ぎやくね》ぢにする程稺拙《ちせつ》の心を有たない僕は、今度自作の公演を見に行く氣持の張方は、少少悲觀的でもあり又眞向からの自信では可成餘裕を持つてゐた。

 「大槻傳藏」は自作の中では唯一つの時代劇でもあり、或程度までの用意はしてある作品である。その公演を見て「大槻傳藏」が歌舞伎や帝劇で上演されないことを不思議に思ふ位、成功してゐた。道化座は無名の劇團であり大槻傳藏を演じた市川米左衞門氏は、その道の通でない自分には新しい名前である。玄人らしいところはあつたが自分には好印象を與へた。自作の場合大抵役者を貶《けな》すことがその批評の眼目であり條件である世の中で、自分は或程度までの滿足を以て見物した。かういふ自分を素人として笑ふものがあれば、それは物の素直さをわきまへない人人であらう。――自分は此劇を見物してゐる間、絕えず漫然として劇を書いてゐた自分が振顧《ふりかへり》みられた。必然性無き會話の受け渡しも目前で諷刺された位だ。自分は一層努めねばならぬ事、氣持の張方を少しも弛めてはならぬ事を忠告されたやうなものであつた。これは自作が最初に上演されたためであらう。

[やぶちゃん注:「大槻傳藏」人物としての彼は元禄一五(一七〇二)年生まれで寛延元(一七四八)年に自害した、江戸中期の加賀藩の家臣。諱は朝元。所謂、「加賀騒動」の中心人物である。第六代藩主前田吉徳に起用され、権勢を揮ったが、延享二(一七四五)年に吉徳が急死すると、反対派によって排斥され、五箇山に幽閉、配所で自死した。この事件は藩主後嗣紛争も絡んで、陰惨な諸説を生み、後世、色々と脚色された。犀星の同題の戯曲は読んだこともなく、調べても、よく知らなかった。悪しからず。]

 

 十三 茶摘

 

 自分の家の庭は廣くはなかつたが、茶畠が少し殘つてゐて季節には茶摘みもしたものだつた。李の樹の下に蓆を敷いて母は煙草盆を持出し、まだ小さかつた妹は茶を用意したりした。自分も茶摘みの手傳ひをしたが、一時間も同じい事を繰返す仕事には直ぐ退屈をし、風のある目は摘んだ茶の新葉が吹かれてよい匂ひがした。

 茶の根には古い去年の茶の實がこぼれ、僅な枯葉の間に蕗の芽が扭《ねぢ》れて出てゐた。母は退屈しないで丹念に摘んでゐたが、自分の摘む芽の中に古葉さへ雜つてゐて、臺所でそれ蒸しては莚の上でしごいてゐる姉から小言が出た。臺所は湯氣で一杯だつた。姉と雇の婆さんとが忙しく立働いてゐた。自分は茶といふものに恐怖を感じる程、摘むことに飽飽してしまつた。かういふ時に必ず誰か近くの母の友達が表から聲をかけ、母はうつ向いたまま返事をしてゐる記憶があつた。又定《きま》つて强い風が出るやうな日が多かつた。

 蒸された茶は餅のやうな柔らかい凝固になり、揉まれると鮮かな靑い色を沁み出してゐた。その莚を乾かしたあと、四五日といふものは矢張り茶の芽の匂ひがし、その匂ひは庭へ出ると直ぐに感じられた。二番茶を摘むころは日の當りが暑かつた。じりじりと汗を搔く母を見ることは、氣苦勞できらひだつた。

 

 十四 朝飯

 

 或初夏に伊豆の下田の旅籠屋に泊つて、その庭に桃に交る僅な綠の芽立を見たことが忘れられなかつた。それは優しい人情的と溫かみのある綠だつた。自分は朝飯の時にその風景の何ものかを、その膳の向うについた春のおひたしと一緖に嚙み味うたやうな氣がした。それに烟りながらに罩《こ》めてゐた雨は、此暖國にある早い些かの若綠の艶を深くしてゐた。自分が靑い梅の實に朝燒けのやうに流れてゐる茜色を覗き見たのも、此旅籠屋で初めて發見したやうな氣持だつた。何か棄石《すていし》を取圍む鋭い尖つた芽の擴がり、それらの葉が一樣にとかげのやうな光を見せる日光の直射に、自分は眼に靑い薄い膜のやうなものを絕えず感じるのだつた。

 自分は午後から晴れた庭土の上に、若木の綠をうつらうつら見惚れながら、さういふ風景に意識を集中され、餘りに永い間茫然としてゐる自分の中に何か白痴めいたものを感じ出し、靜かさが呼ぶ不安を一心に感じ恐いやうな氣がした。餘りに靜かなときに人間は知らずに命を落すものかも知れないやうな氣がした。さういふ不安は反對に益益自分を靜かにし、自分にハガネのやうな鈍い光を感じさせてゐた。

[やぶちゃん注:ここでの太字は底本では傍点「﹅」である。

「罩めてゐた」ニュアンスとしては、霧のような細かな雨が景色を覆うように、濃淡を変化させながらも、たちこめているさまを言っている。

「棄石」日本の庭園で主たる要となる石ではなく、風趣を添えるために所々に配した石を言う。]

 

 十五 童話

 

 自分は凡ゆる童話に僞瞞を感じてゐた。それ故、童話を書かうといふ氣が起らず、また子供等に自ら童話を書きつづつて見せる氣もなかつた。童話といふものは卽座に作爲され同時に亡びていいものかも知れなかつた。ストリンドベルヒも童話を書いてゐるが、自分には性質の上からも童話は書けさうもなかつた。

 支那のお伽話も自分は大仕掛で好かなかつた。自分はどういふ話をしていいか、それらの話がどうしたら子供たちに喜び迎へられるかを考へると、しまひに憂欝になる外はなかつた。これは自分が作家であるための選擇上の苦衷に違ひない。作家は最後まで子供への讀物を選べないのが本當かも知れない。假令選擇はしても自分の物にして、子供等に薦めたかつた。いい加減な話を子供に說くことは何よりの僞瞞だつた。

 自分は童話の國のことは知らないが、よい子供は自身彼のものであるべき童話を作るべきであり、我我の示す必要のないものであるかも知れなかつた。童話が作家の煙草錢だつた時代はもう過ぎたらうが、自分はさういふ作家が朗かな高い美しい氣持で、童話を作つて書くことに尊敬を持つてゐる。さういふ作家の優しい愛情の中に我我は子女を連れ込みたい希望を持つが、さういふ作家は果して天下に幾人ゐるだらうか。さういふ秀れた作家を自分で見出すことができるだらうか。現世の卑俗な一作家たる自分にもその雅量を披瀝することができる作家を見ることがあらうか。――自分はそれを疑ひ、その疑ふことに依つて憂欝を感じてならないのだ。朗かであるべき童話の國に入るさへ、自分は並並ならぬ現世的な止み難い憂欝の情に先立たれてゐる。

[やぶちゃん注:「ストリンドベルヒも童話を書いてゐる」「令嬢ジュリー」や「死の舞踏」は私の偏愛する戯曲であるが、童話は不学にして知らなかった。サイト「福娘童話集」の「海の落ちたピアノ ヨハン・アウグスト・ストリンドベリの童話」を読んだ。彼らしい翳のある掌篇で、いい。]

 

 十六 童謠

 

 自分の子供はやはり北原白秋、西條八十氏等の童謠を唄ひ、母親自身もそれを敎へてゐるが、自分は童謠を書いた經驗がないので默つて聽いてゐる外はなかつた。兩氏以外の「コドモノクニ」の童謠をも唄うてゐるのであるが、中には到底自分の如き詩人を以て任ずる家庭に、鳥渡《ちよつと》聞き遁しがたい劣つた作品もないでもなかつた。併しそれに交涉することは自分の敢てしない方針であつた。

 自分の經驗では北原氏西條氏、または稀に百田宗治氏等の童謠が娘によつて唄はれることに、その作家等に知遇を得てゐる關係上、決して惡い氣持になることはなかつた、北原氏、百田氏などは時時子供等にも接する機會があるので、餘計に親しさを彼女の方で持つらしかつた。ともあれ童謠の作家等に望みたいのは、かういふ子供の世界から見た童謠詩人の人格化が、我我の家庭にまで行き亘る關係もあり、大雜誌には少し位樂なものを書いても、子供雜誌の場合は充分によい作品を發表されるやうにされたい。自分も漫然として童話などを書き棄てた既往の惡業を思ひ返すと、それを讀む小さい人人へ良くない事をしたやうに思はれてならない。何事も藝道の影響が子供へまで感化して行くことを考へると自分の如きは童話や童謠の淸淨の世界へは、罪多く邪念深いために行けないやうな氣がした。

 

 十七 輕井澤

 

 

    一 蟲の聲

 

 今年くらゐ諸諸の蟲の聲を聽いたことがない。まだ宵の口の程に啼くのや、淺い夜半に啼くのや、眞夜中に啼くのや夜明け方に啼き始めるのや樣樣な蟲がある。宵の口は賑やかに烈しく淺い夜には稍落着いて低めに、眞夜中には少少澁みのある嗄《しやが》れた聲がしてゐる。明け方には聽えるか聽えぬかくらゐに低く物佗しい。

 それらの蟲の聲の變つてゐることは言ふまでもないが、每年涼宵に聞く筈のこれらの蟲の音が、年齡の落着きとともに我物になるほど身を以て聽き入れられるのは、聽き落さずに心も次第に落着いて用意されて來てゐるからであらう。我我は今日《けふ》眺めたものは又明日どれほど新鮮に眺められるかも知れない。彼らは變らないが我我は日日に變つてゐるからであらう。來年は最つと今年よりも多く蟲を聽くことができよう。

 

    二 螢

 

 日が暮れてから散步に出ようとすると、乾いた豆畑の畝の上に何やら光るものを見たが、隣の燈火が映る露ではないかとも思うた。よく見ると明滅する螢火だつた。海拔二千七百尺の高原では螢のからだは米粒くらゐな小ささだつた。光にも乏しく淺間の熔岩の砂利屑の乾いたのに、取縋《とりすが》つて光つてゐる有樣は憐れ深かつた。

[やぶちゃん注:私は、この時、犀星が「飯田蛇笏 靈芝 昭和二年(三十三句) Ⅱ たましひのたとへば秋のほたるかな」の句を想起していたことは間違いないと思っている。

「二千七百尺」約八百十八メートル。例えば、軽井沢駅は標高九百四十メートル、犀星や龍之介が散歩した軽井沢町追分の国道十八号線沿道路は標高千三メートル、二人の定宿であった「鶴屋旅館」(現在は「つるや」は平仮名表記)九百七十メートルである。]

 

    三 夜の道

 

 今朝道端を步きながら晝顏の花を久濶《ひさしぶ》りで眺め、しまひに蹲んでじつくりと見恍《みと》れた。美しさ憐れさは無類にしをらしかつた。感傷的になつてゐる自分は此頃氣持にのしかかるものを多分に感じてゐた。昨夜Sの書いたAの追悼文をよんで、暗い山間の道ばたを考へ乍ら反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた。

 家へかへると、啼き出したきりぎりすは一夜每に數をふやして、雨の中を通り拔ける程だつた。自分は懷中電燈できりぎりすの啼いてゐる豆の葉を照し、その靑い翼をひろげて無心に啼き續けてゐる姿を見て故もなく感心した。

[やぶちゃん注:「昨夜Sの書いたAの追悼文」これは、間違いなく、萩原朔太郎が雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号に書いた「芥川龍之介の死」である。何故、断言出来るか?――ここで犀星は、そうでなくても、龍之介との思い出の残るこの軽井沢――龍之介が欠損した時空間のここで、ひどく「感傷的になつてゐる」のであり、さらに「此頃」、「氣持に」、何か「のしかかるものを多分に感じ」ているメランコリックな状態にあったのであり、そんな中、「昨夜」、犀星自身が登場し、彼が朔太郎と龍之介に対して強烈な一語を吐き、そこで朔太郎が田端の坂の上に呆然と立ち尽くした龍之介の影に手を振る――そうして、それが、作者と龍之介とが逢った最後であったと記す――「Sの書いたAの追悼文をよんで」、思わず堪え切れなくなり、「暗い山間の道ばたを考へ乍ら」、「反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた」と述懐していると読めるからである。いや! 芥川龍之介を愛した室生犀星が、これほど強いパッションを受け得る、優れた芥川龍之介の追悼文というものは、萩原朔太郎のそれをおいて、ない、と私は断言出来るからである(地名が気になる方のために、グーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。中央下方に「つるや旅館」、その北北東に愛宕神社に向かって上る道が「愛宕山通り」である)。

 

    四 旅びと

 

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかは心やすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

 

          (芥川龍之介氏遺作)

 

 

    旅びとにおくれる

 

  旅びとはあはれあはれ

  ひと聲もなき

  山ざとに「白桃や

  莟うるめる枝の反り」

 

    註。「山吹や」は芭蕉の句。

    「白桃や」は芥川君の句。

    これらは朗讀風にくちずさ

    まば一入あはれをおぼゆ。

[やぶちゃん注:各詩の後の添え辞は底本とは異なり、一行空けとし、ブラウザでの不具合を考えて、位置を上げ、後者のの「註」はベタ一行であるのを、行分けして添えた。

 前者の最後に鍵括弧で添えた句は芭蕉のもので、

   山吹や笠に揷すべき枝の形

で、元禄四(一六九一)年、江戸赤坂の庵にて、芭蕉四十七歳の作である。岩波旧全集の後記によると、元版全集には文末に「(大正十一年五月)」とあるとする。とすれば、前の一篇は龍之介満三十歳の作である。この詩は自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された「東北・北海道・新潟」に以下のように公にされた。但し、これは犀星が仰々しく掲げた「遺作」ではなく、リンク先を読んで頂く判るが、予定されたものであり、たまたま自死後に公開されたに過ぎない。脱稿は六月二十一日。ただ、この前日、彼は確信犯の遺作「或阿呆の一生」の決定稿を秘かに書き終えているから、広角的視野で見れば、確かに遺作と言えるのである。

   *

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかはこころやすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

   *

 一方、後者は室生犀星の前者への相聞歌である。私の「龍氏詩篇 室生犀星」の「二、旅びとに寄せてうたへる」を参照されたい。犀星が言うように、この、

  白桃や莟うるめる枝の反り

は、生前、龍之介が捨てに捨てて厳選した七十七句を収録する「澄江堂句集」(没後に私家版として四十九日法要の香典返しとして配られた)にも採られてある(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)。]

 

    五 命令者

 

 雨上りの道路を自分は五つになる女の子供と一緖に散步してゐた。彼女は洗はれて美しい砂の洲になつてゐる處を自分に踏んではならぬと嚴然として命令するのだ。そして彼女自身もそこだけ步かなかつた。披女の美しいものを愛し保護する氣持を自分は認め、愉快な畏敬の念をさへ抱くのだつた。併乍ら自轉車や他の散步する人人は、それらの白砂の宮殿の上に惜氣もなく靴や下駄の跡を殘して行くのだつた。併乍ら彼女は父親である自分にのみ苛酷な程、その命令を散步の終へるまで自分に守らせるのであつた。自分はあらゆる柔順なる父親の如くその命令に唯唯《ゐゐ》として服してゐた。

 

    六 山脈の骨格

 

 軒も朽ち、板戶は風雨に曝されて年輪を露《む》き出してゐる、峠の上の村落だつた。風雨も多年の間には煤のやうに黑ずむらしく、此村落は暗い夕立雲の下にあつた。石も人の顏も黑ずんで見えた。自分はとある石の上に腰をおろした。

 信越の山脈が聳えて眼の前にある。-併し自分は茫乎《ばうこ》とそれらを打眺めた。自分はこれらの山脈が自分の滅亡後に猶聳えてゐることを考へると平和な落着いた氣持になれた。彼らの骨格が信じられるのだ。

[やぶちゃん注:「茫乎」ぼんやりと摑みどころのないさま。]

2022/04/02

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 扉(タイトル)・序・「天上の梯子」

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持する「ウェッジ文庫」(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 電子化は私の偏愛する芥川龍之介関連に特化した本書の「澄江堂雜記」パートから開始したが、他の部分は原本の最初に戻って電子化する(他にも龍之介関連の文章は本書に散在するが、それだけを先に抜いて電子化注するのは、室生犀星に対して失礼と存ずれば、以下では既にこのブログ・カテゴリ「室生犀星」で終わった「澄江堂雜記」まで冒頭からの順列で電子化する。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。何時も通り、原本の読み(ルビ)は( )で示したが、本書は殆んどルビがなく、若い読者の中には読みや意味で途惑う向きもあろうとも思われることから、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。

 但し、私は室生犀星については、正直、芥川龍之介と関連のある事績にしか知識がない。されば、龍之介関連に箇所で気になる部分には注するが、その他の非芥川龍之介関連の随筆・評論には、私が躓いたところ、及び、よほど気になった部分以外には注を附さないこととする。私は注で拘って本文から脱線する傾向が強く、読者によっては五月蠅いだけの駄文となろうかとも思われるからである。【二〇二二年四月一日 藪野直史】

 

 

  天馬の脚

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションは、残念ながら、外装が損壊したためであろう、修理されて館内用のそれに作り替えらえてしまっており、原表紙ではない。幸いにして、K. Kojima氏のサイト「室生犀星書籍博物館」のこちらで、小さな画像であるが、本書原本の函及び表紙を見ることが出来る。孰れも上記の書名が太枠罫に毛筆で記されている題簽を視認される。この題簽の揮毫者は、目録の末尾から、芥川龍之介の主治医にして友人であった、田端に住んでいた、龍之介の遺体の検死者にして死亡診断書も書いた医師で俳人でもあった下島勲(俳号・空谷)であることが判る(私の下島勲「芥川龍之介氏のこと」や、『小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」』を参照されたい)。さればこそ、本書には、どこを開いても、芥川龍之介の遺香が、仄かに漂っていると言えるのである。]

  

Tennmanoasi

 

[やぶちゃん注:扉。毛筆。室生自身の筆か。国立国会図書館デジタルコレクションではここだが、国立国会図書館の蔵印・内交印(内務省検閲済印)]・「納本」印が捺されてあり、あたかも検死解剖台のような様相を呈していて、とても画像として挙げられる代物ではない。そこで、所持する「ウェッジ文庫」版の目録の後に挿入されてある原本から加工補正したと推定されるページを画像で取り込み、裏の写り込みその他を補正・清拭して掲げた。なお、文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品等の写真には著作権は発生しないと規定しており、この同文庫のそれも、写真で撮ったものを補正・清拭ものと推定されるから著作権侵害にはならない。]

 

 

 

 

 自分は最近隨筆ばかり書いて暮してゐた。隨筆も小說や詩と同樣に苦しい作品であることを經驗し、文章に自分の心境身邊の雰圍氣を沁み込ませることも、容易な仕事ではなかつた。自分は此隨筆的な愛すべき境致にゐて、靜かに自分を鍛へることに喜びを感じてゐた。

 自分は自ら好む閑文字と倶に文藝評論や映畫の時評をも試み、これまでの隨筆的佶屈《きつくつ》を蹶破つて出た明るい感じを經驗してゐた。「天馬の脚」と題したのも、そ

の明るさを表象したものに過ぎない。[やぶちゃん注:「閑文字」「かんもんじ」或いは「かんもじ」と読み、「無駄な字句や言葉」、「無用の文章」の意。「蹶破つて」敢えて読むならば、「ふみやぶつて」であるが、迫力がない。「蹴破つて」で「けりやぶつて」「けやぶって」なら最も腑に落ちる。しかし「蹶」に「ける」の意味はない。或いは犀星の誤字か慣用語なのかも知れない。]

 原稿は當然破棄すべきものを捨てて、自分の氣に入つたものだけを本集にをさめた。林泉的閑文字の中にも後日の集に讓つたものも尠《すくな》くない、主として「天馬の脚」には何か自分の變りかけてゐる、氣持の中に光る鋭いギザギザなものを蒐めたものである。[やぶちゃん注:「林泉的閑文字」「林泉」は隠棲の地として選ばれるような場所を指す。悠々自適晴耕雨読といった感じで勝手気儘に書いた自分の文章を謙遜して表現したもの。]

 

              著   者

 

[やぶちゃん注:この後に「天馬の脚目錄」が続くが、それは総ての電子化注を終えた後に回す。

 以下はパート標題。]

 

 

   天上の梯子

 

 

 一 純文藝的な存在

 

 現代に於て純文藝的な作品のみで、一作家が生活を支へることは最早危險なことに違ひない。詩人が頑固に詩作ばかりで生計を爲すことは、最早現今に於ては不可能のことにされてゐるやうに、凡ゆる文藝の士もまた純粹な藝術的表現でのみ、その牢乎《らうこ》[やぶちゃん注:しっかりしているさま。ゆるぎないさま。]たる藝術的潔癖を手賴ることは危險に近い努力であらう。一作家の氣魂にまで割り込んで行くところの熱と愛とをもつ讀者は、殆ど文藝的な忠實な使徒以外には求められず、多くは興味本位のものを要求しそれを愛讀するに至るであらう。

 自分のごときは天下に百萬の讀者を持つものではないが、併し猶百騎の讀者を信じることに於て人後に落ちるものではない、俊英と愛慕との百騎はそれ自身後代ヘの續きを意味し、百萬の蜉蝣《かげらふ》はそれ自體何時しか散り易きものの常として散り失せるであらう。誠を愛し讀み味ふことは、却却(なかなか)讀者に求められるものではない。併も今日のごとく讀者が右往左往する時代に、何人が彼らの心臟的讀物たることを期し得よう。誠に淸節であり得た讀者は一作家にどれだけも無いやうに、又その讀者の烈しい淸節さは陰乍《かげなが》らよく努める作家らの轡《くつわ》を嘸でて、なほ溫恭の陣頭へ送り込むことは昔と渝《かは》りはないのだ。

 併しかういふ大衆化の時勢に於てこそ、純文藝的な作品の透明を持することが出來、嚴しき朝暮の霜を人人に思はしめるであらう。純文藝風なものの存在の危ない時にこそ、その輝かしい烈しいものを叩きあげることが出來、詩錢を得ざる詩もなほ後代を信じることが出來るのだ。自分の如く何事にも融通の利かない作風すら此儘押し上げることにより、役立たない才能を役立てることにより後代を信じることが出來るであらう。益益純文藝的な、寧ろ頑固なまでの薀奧《うんわう》[やぶちゃん注:「うんおう」の連声(れんじょう)。教義・学問・技芸などの最も奥深いところ。奥義に同じ。]を刺し貫いた古代と新代との續きにかがり[やぶちゃん注:「縢り」。布の裁ち目などがほつれないように縫い糸やしつけ糸でからげることからの喩え。]、胡魔化し捩ぢ伏せて純粹なものに取り縋《すが》ることにより、我我の存在が決して輕蔑できない處にまで、行くところに行き着く氣槪と勇勵とを併せ感じるであらう。純文藝的なものの呼吸づかひのヤサシさ、そのきめの細かさ、粗大に優れた量積、「時」を抱きしめてゐる雄雄しい姿を人人は見るであらう。仕事場にゐる彼を見直し彼の仕事場にある「時代」の新しい面容を見ることが出來るであらう。

 我我が大衆に割り込むことの不可能な才能を信じ、我我の過去の文學が大衆をどういふ風に育てたかを思ふ時に、我我の文學に大衆は間もなく踵《きびす》を返すことを信じて疑はない。また我我の純文藝の立場にまで彼らを引き戾すことは、我我の古代のよき藝術がいつもそれに力があつたやうに、決して不思議な徒勞な現象ではない。我我はツルゲエネフの過去から既にその用意があり、それを迎へるに寧ろ微笑《うすわら》ひながら談《はな》し得るであらう。

 

 二 文藝の士

 

 紅葉、露伴や漱石、藤村なども文藝の士ではあるが、各發句や詩情を述べるに遂に一代の大名を爲してゐる。西鶴も亦俳諧をよくし、芥川や久米三汀も亦發句道の達人である。齋藤茂吉の隨筆も亦自ら風格ある重厚な文章を爲し、古くは虛子も亦數編の小說を書いてゐる。

 自分は文人的好みを普遍的に叙說する時文家《じぶんか》の徒ではないが、歌人俳人が小說を書くことや小說家が發句和歌を物することは、各《おのおの》その道の難きを知り自らその道の苦衷を慮る上に於て、我我文藝の士のみが感じる或親愛さへ念ふものである。これらを以て直に文人墨客趣味とは云はない、藝術の士はその分野の分けがたき雜草をも分け入り、岐路の微妙を大悟することは當然といへば當然過ぎることであらう。徒らに俳詩人のみが詩俳諧の殿堂に弓箭を番《つが》へることは、小說家がなほ小說の宮殿に己れを護るの頑愚と一般である。凡《あら》ゆる藝術の士は又凡ゆる藝術の諸道に通じ、それの作者たることに遠慮は要らないと同樣、それらの作品を齎《もたら》すことに據つて美事な文藝の士たることは恥ではない。又別の意味で文藝の士の資格たるや歌俳諧の秘術を露くことも其一つではなからうか。[やぶちゃん注:「時文家」現代文学評論家或いは「文人的好みを普遍的に叙說する」というところまで裾野を広げるならば(狭義の文人の辺縁や外延まで及ぶとなら)、寧ろ、社会評論家も含むことになる。]

 小說家であり得て生涯小說を物してゐるのも惡いことではないが、なほ一藝に秀でるは一層作者たるの所以を手厚くするやうである。秋聲に句道の志あり、鏡花に小唄や發句の閑境を窺ひ見られるからである。一代の文藝の士の諸道になほ一見識を持つことは、輓近漸く廢れて、荒野に花を見ることなきは詩情漸く地に墜ちようとするに似てゐる。とは云へ强《あなが》ち文人趣味無き文人をなみする譯ではないが、荒涼たる人生の記述者にも此詩情あることは我我一讀者としても望むところである。

 自分の如きは詩人ではあり幼にして文藝的生ひ立ちの朝暮には、和歌や發句や詩の道に己れを學ぶ機會を與へられ、長ずるに之らの精神を感じてゐながら遂に忘却の時をさへ强ひられたが、今にして顧るに之らの文藝的苗代《なはしろ》の時代に學び得たるものが、蓊鬱《をううつ》[やぶちゃん注:元は「草木が盛んに茂るさま」で、そうした様態の喩え。]として胸裡に蟠《わだかま》るの幸福は、徒らに作者たるのみの面目を持するの徒にくらべ、遙に喜びであるに違ひない。詩情は得難く法度に卽《つ》かざるの嘆きは、遂に今日では自分に繰返す要がないやうである。

 今、五十代の人人は多くは漢籍詩史により明治中期の、しかも明治人として最後の文人的資質の典型人として殘つてゐるが、彼ら以後今四十代に近からんとする人人には、明治人としての平淺粗笨《へいせんそほん》[やぶちゃん注:「粗笨」は大まかでぞんざいなこと。]の時勢的惡夢の時永く、文人的好尙の時を經ないでゐる。しかも時勢とは用なき之らの漢籍詩史の埒外《らちがい》の敎育は第三期の今の二十代の靑年には、殆ど視目に觸れる事なく用無き徒事《あだごと》として忘れられてゐる。況やその道の士にして顧ることなき文藝的枝葉の成果は、今後益益滅び行くであらう。自分が又一讀書家として、彼ら文藝的達人の徒が己れの城砦《じやうさい》にのみ籠るの域を出て廣き諸道の光彩を手に取り詠ずることを望むのは、荒唐の世に背く譯ではなく、荒唐の世に處するの素志であることを說きたいからである。[やぶちゃん注:「徒事」は「とじ」「ただごと」とも読める。]

 

 三 文人趣味への反逆

 

 あらゆる文人墨客の趣味は、當代にあつては一つの心境上に試用される洗練や彫琢の類ではない。その趣味が社交的な隱遁生活者の一つの資格であり得た時代、爲人《ひととなり》としての嚥《の》み込みによつて煩雜な時代の相貌に嘲笑しかける卑怯な「思ひ上り」であつた時代、何事も文人趣味に己れのみよしと決定したいい加減な心境者の時代はもう過ぎた。凡ゆる文人趣味の表面的な爲人振りである誤謬は、遂にそれらの淸閑と目された精神的高揚の中には、何等の霸氣もなく徒らに沈んだ退屈そのものだといふよりも、何よりもその趣味は當代にあつては完成されざる「心境上の疾患」であるといふ冷笑をさへ浴びせられるのも、いい加減な風流才子の輩出が起因してゐた。

 あらゆる風流意識や傳統保持者の持つ「古い黃金」を粉碎してみて存外瓦石を發見することが多かつたのは、彼らの持つ心境が一時的のものであり、氣質的のものでないことに原因してゐた。隱遁それ自身の隱れ蓑だった風流意識は、我我が幾たびも之をたたき破ることによつて、誠の心境者、戰國時代風な心境者を形づくることに、己れを鞭打ち練磨を怠らせなかつたものだつた。凡ゆる文明の中にある寧ろ戰鬪的な思想をすら、その心境上の背景に抑制してゐる一種の寂靜な心境、しかも橫からも縱からも打ち込む隙間もない四方に鏡をもつ境涯にゐてこそ、初めて心境の達眼者たることも得、また風流者の資格をも得るものであらう。些《わづか》の茶事造園の著書によりながら、また些の睨みをそなへる自信に媚びることによる今日の鼠輩が、風流を單なる文字面の淺慮な解釋によつて斬り捨てることは、彼自身の名譽を重んじることによつて自ら口を襟《つぐ》むべきことであらう。風流はそれ自身個個の氣質がもつ凡ゆる藝術的な分野を領し得るところの、それぞれの達人者によつて名づけられる名稱であり、一つの辭書的な解釋による單なる風流でないことが分つて來た今の時代には、何人も風流人であり得る譯だ。これを嘲り笑ふことは彼自身の淺薄さを我我に暴露するものに外ならない。

 我我はもはや「古い黃金」の中身に欺かれず、またそれを欲しようともしない。唯我我の求めるものは中身もまた輝くところの「古い黃金」の心境であるものに限るのだ。風流が單なる風流意識の封建的な埒の外に、あらゆる世相を抱へ込むことを怠らない限り、初めて完成されるのだ。いい加減な枯淡思想は一種の胡魔化しを吹き込むことによつて、もう亡びてゐることは事實である。我我が輕蔑されて來たこれらの明快な悒欝《いふうつ》[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。但し、「憂鬱」の歴史的仮名遣は「いううつ」である。]を拒絕した意識の下では、もはや何人の前にも「風流」そのものがなほ一時逃れのものでなく、我我の生涯を圍饒《いねう》する鋭い新鮮な一つの「今日の思想」であることに心付くであらう。

 

 四 僕の文藝的危機

 

 自分の熟《つくづく》熟この頃おもふことは樂な仕事をしてはならぬといふことである。樂な仕事それ自身三枚書けば三枚分だけだらけ、五枚書けば五枚分だけだらける習慣が永い間に恐ろしい病疾になるからだ。樂な友人交際には何の緊張もなくダラけ切つてしまふのだ。自分は不惑の年齡にゆきあうて又思ふことは、もう最後に緊め付け打ち込まねばならぬと云ふことである。もう一度立ち直らねばならぬ事、いま立たねば飢ゑかつゑてしまふ事、それは絕對に取返しのつかない大飢饉である事、結局は絕對に取返しのつかない大飢饉である事、結局妻子や一門を嘆かすことの前に私自身が是が非でも力一杯で打《ぶ》つかつていかねばならぬ事、力一杯で打ち込むことは必ずもう一度立つことを意味するであらう。根《こん》の限り揮ひ立たねばならぬ。樂なものは一枚でも書いてはならぬことである。それはどういふ意味に於ても必要であり、自分の死物狂ひを正氣まで引き戾し勉强させるであらう。

 芥川君の死は自分の何物かを蹶散《けち》らした。彼は彼の風流の假面を肉のついた儘、引《ひつ》ぺがしたのだつた。彼は僕のごとき者を其末期《まつご》に於ては輕蔑したであらう。自分は漸く友の溫容の中に一すぢ烈しい輕蔑を感じることに依つて、一層この友に親しみを感じた。自分は自分自身に役立たせるために此友の死をも攝取せねばならぬ。何と云つても彼が作の上にないもの、僕自身が勝手に考へ耽るものを僕の中に惹き入れることに據つて彼自身を閻魔の廳から引き摺り出さねばならぬのだ。彼自身が持つ僕への微かな輕蔑の情を彼自身の爪によつて、自分の諸《もろもろ》の仕事に據つて取り消させることが出來るであらう。彼の死を僕の或文藝的の危期から立つことに依り、劃然としきることが出來るであらう。

 彼の長髮瘦軀は實際自分には樣樣な場所に見えた。自動車のドアから下りようとする彼、動坂の埃と煙の中から出て來る彼、田端の垣根と垣根の間を步く彼、そして僕の彼から取り戾すことは此一つの輕蔑の思念だつた。

 

 五 時代の經驗

 

 或日自分のところに支那の古硯を商ふ男が來て、掘出し物の古い壺を見せてくれ、自分はそれらの壺を人目には氣永に丹念に捻《ひね》り𢌞して眺めてゐた。其座に來合せてゐた一靑年は、時折自分と陶器とを見較べゐたが、硯を商ふ男が歸ると、一靑年は徐《おもむろ》に自分に對《むか》うて質《ただ》すがごとく云ふのであつた。

「あなたが陶器を見たり硯に息を吹きかけてゐられるのを見てゐると、僕らの氣持とは全然異つてゐるやうに思はれるのです。あなたはああいふ硯や陶器を見ることは愉快なんですか。」

「君はどうです。」

「僕には解らないんです。併し今の僕らの氣持はああいふ陶器なぞに絕對に好意を持ちません。」

 自分は此靑年が歸つたあと、靑年が硯や陶器を見て興味の起らない氣持に同感することが出來、彼の人生には死んだ表情をしか見られない硯や陶器に就ては、絕對に必要の無い路傍の瓦石の類と同じであらう。詩や小說への熱情を持ち、凡ゆる新しい時代の氣持を嚙み分けようとする年若い彼に取つて、古陶の精神や硯の石質に就て思ひを碎くことは、愚昧なる戯事でなければ骨董屋の手すさびとしか見えなかつたであらう。自分がそれを捻り𢌞してゐる時に、彼は靑年らしく自分を恐らく輕蔑した氣持で見てゐたかも知れない。さういふ靜寂さは靑年に取つて息塞《いきづま》る退屈なものであり、充分に輕蔑すべき事柄であつたかも知れない。

 靑年には古い物質から新しい物を考へようとする氣持、秀れた古さの中に必然に身ごもる新しさの潜《ひそ》みが、彼の短い生涯からは見えよう筈がなかつた。凡ゆる新しい時代の呼吸づかひを生活しようとする劇しい氣質の中にある彼には、古代の背景と光とをもつ新しさよりも目前の新しさがどういふ新しさでも其形をもつて居ればよかつた。新しさのもつ危機、新しさのもつ輕佻と淺薄とさへも彼らは屢屢忘れ勝ちな程の新時代の靑年だつた。併も靑年の人生にはさういふ古さを引摺る生ぬるい必要はなかつたのだ。

 自分は性質として凡ゆる古代を渴愛した。古代の精髓の中にある新鮮を汲むことを熱望した。陶器にせよ硯にせよ文學にせよ、それらの古色蒼然の中からは百代に光茫を搖曳する新鮮を見極めることによつて、嚴格無雙の「古代」の額緣の中にある新しさを發見しなければならなかつた。これは永い生涯を經驗したもののみが讀み分けられる特異な新しさではなかつたか、我我の生涯へまで彼らが來なければ見られぬ「古代」の姿ではなかつたか。

 人間はそれ自身生きることの深い層をたたむことによつて、彼自身の存在を明かにすることは云ふまでもない。靑年と自分との分岐點、自分と彼との、存在の距離には、自分としては生き得た光茫とともにあることも、軈《やが》て彼もまた生き得て後に初めて今日の自分を理解することであらう。

 

 六 生活的な流浪

 

 自分は此頃物を書く時には机のわきに一物を置くことさへ、神經的な煩しさを感じ、もう絕對に書物や茶器を手元に置かないことにしてゐる。一帖の原稿紙に鋭い冬の寒氣の揮ふ中に坐つて居れば、心足りるやうな思ひがしてゐる。自分のやうな表面的にも落着いた生活をしてゐるものは、年年歲歲その生活の古い枝葉が組み合ひ鳥渡《ちよつと》引越すにしても並大抵の苦勞ではない。石を起し樹を移し代へるだけでも自分には重荷である。陶器や書物、器物なども年年に殖えて數を增し、生活は複雜な層を作るばかりである。さういふ通俗的な複雜さは彌《いや》が上にも自分を憂鬱にし、身動きの出來ないやうな退嬰的な狀態に置き、心に固い物質的な感覺ばかりをこだはらせ、それらの古い由緖をもつ物質の中に坐つてゐると、神經の疲勞は日に增して重く苛立たしく募つてくる許りである。自分は身輕に立ち上るためにそれらの生活を、身悶えしながら其鎖を斷ち切らうとしてゐる。

 自分は此春になつて荷物を引纏めて何處かの知人の許に預け、幾つかの行李とトランクを携へたまま、一家を擧げて漂然と旅に出ることを考へてゐる。半年くらゐ流浪の暮しをしたら心も自由になり、身輕な朝夕を送ることができよう。今のままでは落着くだけ落つく危險さが感じられてならぬ。最初信州へ行き二三ケ月を山の中で暮し、故鄕へ𢌞り其處でしばらく遊び、京都で二三ケ月をくらした上で、歸鄕して來たら少しは氣持に廣さができ、佶屈と憂鬱さから解き放たれるやうになるだらう。さういふ長期の旅行には一家をあげて流れ步くのが、生活の重みを感じられていい。自分一人で旅へ出るよりも一家とともに行くのが、何か自分の意嚮《いかう》とぴつたりしてゐて氣の張り方も感じられる。尠くとも土地土地の人情を感じるにしても、一家の生活から沁み出してくるものから感じるのが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の物を的確に思ひ當て搜ぐることが出來るのだ。

 誠の意嚮は物質的な固い氣持から放れるだけでよい。四五年の生活的な埃や垢から立ち上るだけでも少しは氣持の淸淨と新鮮とを感じられるだらう。どういふ家庭でも三年目くらゐにその生活を新鮮な方に引寄せる必要がある。又どういふ家庭でも三年目くらゐにそれ自身に或轉期を醗酵させることも有勝ちのことだ。倦怠を叩き破ることも左ういふ時に勇敢に進まなければ、その機會を外す怖れがある。自分の一家を擧げて流浪しようとする氣持の根ざしも、その機會をうまく自分の氣持に添はせる爲に外ならない、――そして又新しい自分を親しみ合せることに喜びと努力とを感じたいのだ。

 

 七 詩錢と稿料

 

 自分は今までに詩や文を賣つて不安ながら今目の生活を支へてゐる。。僅か一枚の詩稿でも需《もとめ》に應じて金に換へてゐるが、詩の稿料の場合はどうかすると微《かす》か乍ら感傷的な氣持になり、成可く有用な家事につかふことにしてゐる。年少詩を志して上京した自分は、まだ此幼い王國に遊行した日の種種な憂苦を忘れることが出來なかつた。この私に何時も絕えず良心の刺戟があつたからであらう。

 自分は三十歲まで詩錢や原稿料を取ることが出來なかつた。併も自分には其等の不平や呪咀の經驗を持たなかつた。自分は父の遺產を僅かづつ取り出して暮してゐたからである。その頃の大抵の詩人は詩の稿料を取ることが出來なかつたのも殆ど當然だつた。自分は詩の稿料に相應の金を求めるのも、天下に恥ぢる事無き今日までの「我々」への感謝の氣持があるからだ。曾て或日詩錢を得て一羽の鶯を飼うてゐたが、春暖の候に佐藤春夫が來てその話を聞いて、甚だ不機嫌な顏付をして恰も鶯を飼ふ自分が贅澤のやうな口調だつた。併し自分は間もなく彼が他の小鳥を飼養してゐるのを見て、夫子自ら辯無きことを思うた程であつた。四五年の後に彼が果してその小鳥が、偶々「鶯」だつた爲に、自分に攻勢的態度を取つたのではないかと思ひ付いた。そのころ自分は既に「鶯」の境涯を卒業してゐたばかりでなく、凡ゆる小鳥を飼ふ氣持の中に烈しい寂莫の情を感じ出してゐたからである。さういふ安價なその爲に烈しい寂莫の想ひは到底自分には我慢のできる程度のものでは無かつた。

 自分は三十歲後に小說を書いて漸つと生計上の一人前の資格を得たが、同時に小說を書き出してから、その仕事から人間が次第に出來上つてゆくことを感じた。詩に遊ぶこと十五年だつたが小說を書いて二三年の間に、どれだけ自分は人になれたかも知れなかつた。作の上の苦衷は自ら自分を新しく組立てるに忙しい程だつた。自分が人前に立つことの出來る所以は、凡下の微笑裡に悠然と自分を疊み得ることも、小說を學んだための餘光を浴びたからであらう。小說學の途に就かない前の自分は依然として草花詩人の群の中に、聞くに耐へない囈言《たわごと》を綴り乍ら或は一生を終つたかも知れなかつた。自分の如きは元より學園に友無く又その榮光をさへ負はないものであるが、それ故に「人に」ならうとする氣持の烈しい中に立つたものかも知れない。さういふ意味で小說學は物質的といふより寧ろ「人に」なるための鞭や笞《しもと》の熾烈さを、自分のごときぼんくらの腦漿にひびき立てて打ち卸されるものの一つであらう。

 不思議なことには自分は未だに原稿料について、それを得ることに或謙遜を感じてゐる。これは狡猾な言葉で無い意味で自分の中にある或物質的センチメンタリズムである。それ故にこそ自分は時に原稿料のことにケチ臭く奮鬪するのである。穩やかな交涉の中にそれらの取引を了することは、同時に仕事の幸福さを思ひ益益それに昂じてはならぬと思ふ程である。併乍らそれらの期日の相違に反射される不愉快な氣持で、殘酷な文人墨客的平靜の努力に敢て就かなければならぬことは何たる文人墨客的不幸さであらう。さういふ時に自分に取つて美しい謙遜の情は消え失せるのが常である。

 

 八 第一流の打込み

 

 心境小說に就て餘り人人は最《も》う云はないやうである。併も私自身にはどういふ意味にも心境小說の存在を捩ぢ上げ驅逐することができない、――心境小說はそれ自身どういふ非難の中に立ち辣み乍らも、益益自身を掘り下げ磨き上げ、次から次へと新鮮な彼自身の役目を發見することに據つて、僕の場合には依然として存在するであらう。心境小說の病根は寫眞を引き伸したやうな日記的生活の腐肉を抉ることにより、漸く人人に飽かれもし沒落もしたのであらう。

 凡ゆる藝術は優秀な作家的心境を外にして立ち得るものではない。唯その心境にまで達し得ないもの、既に腐肉的心境の墮勢を綴ることによつて下り坂のものは、到底救ひ得ないものであらう。そして又沒落したものは既にさういふ種類のものであつたらう。それらの心境の練磨や進步や度外れの勇躍に對しては、我我は非難の劍を取つて袈裟がけに斬り下す必要はないやうである。唯、恐るべきことは書きよいために心境小說をかくことは飽迄我我の中から退治しなければならぬ。心境へ這入ることは容易なことであつて、同時にその縹渺を手摑みにすることはその道の達人でなければ、出來ない仕事である。我我にしろ彼らにせよ、危い日記的陷穽《かんせい》と寫眞引伸し的の境涯を完全に蹶散《けちら》し蹈み破ることの把握の大きさにより、私は私の心境的小說を示し又彼らにも承認させねばならぬ。寫眞引仲し的小說の壁を衝《つ》き拔けることは、云ふごとくして行はれざる至難の道であり、同時に我我の鳥渡した油斷してゐる間に小說自身がそれを搬《はこ》ぶからである。三四行ばかりの引伸し的描寫自身の運びが恐ろしい日記的引伸しの機運を與へ、それの弛みが全篇に物憂い疲勞を漂はすからだ。心境小說にはそれらの危險を油斷なく虱潰しにしてゆくことによつて、光榮ある存在をその將來に於て益益物語るであらう。

 或意味に於て心境小說は第一流の切迫的な打込みを要し、又第一流の新鮮な文章以前の文章の素朴を要するであらう。彼らに肝要なものは最早あらゆる藝術的要素の最高のものありと凡《あら》ゆるうまさ氣高さ、その比類のない濁らぬ禀性《ひんせい》から出發すべき條件を忘れてはならない。日記引伸し的作者の心境が既に我我のいふ心境のかたちさへ保つてゐない如く、我我の溫順の情を有つてさへそれらを振顧る必要はない。我我の心境にある埃や瓦や石やブリキや當用日記や生活ボロが騷然と入り交つてゐても、それらの上になほ不斷にきりつとしてゐるものや、眞面目な一杯の力や、每日幾らかづつ良くなるやうに心掛ける努力あつてこそ、我我の心境は人前に怖ぢず又彼らに匹敵し、次第に良くなつて行くであらう。

 

 九 「巖(いはほ)」

 

 自分は機會があつて昨年中に文學者に接見することが多かつた。そして島崎藤村氏にも或會合で度度お會ひした。自分は藤村氏の端正すぎる文藝的身構に或恐怖と誤解とを有《もつ》つてゐたことを、卽座に逐《お》ひ出すことが出來て仕合せだつた。凡ゆる老大家のもつところの又優れた人人のもつ「巖」を藤村氏は有つて居られた。秋聲、臼鳥の二氏も亦その「巖」に手をかけられてゐるが、藤村氏には就中それが强く感じられた。自分のこの見方を朗らかに藤村氏に達し得たことは、私自身に快適な心持であつた。

 自分も亦「巖」を戀してゐると云つたら人人は嗤《わら》ふだらう。自分はむしろ「巖」に壓迫されて呻吟することもよいが、自分の見た「巖」は瞬間的に何ともいへずよい氣持であつた。自分の文學的小學時代に「島崎藤村」といふ名前は實に遙かに高い處にあつた。「春」や「破戒」を讀んだ自分はまだ人生への方向さへ分らなかつた。しかも「島崎藤村」とは自分の生涯の中で、それと膝を交へて語ることの機會の無いことは覺悟してゐた。そして漸く昨今「島崎藤村」と膝を交へ、話すことができたのは、自分の年少にして熱烈な文學的希望めいたものを、何等の面倒や辭令無くして叶へられたと同樣の喜ばしさだつた。誰かの言草ではないが、手におへねえ餓鬼の手柄だつた。自分は白哲童顏の「島崎藤村」を一瞥した時に、他の言葉は知らず直ちに「島崎藤村」を理解するに十分間を要しなかつた程だつた。十年間「島崎藤村」を讀んだものとしては當然の事であらう。

 自分は不惑の年になり色色の機會あるごとに、文壇の諸君子の風咳に接したい熱望をもつてゐる。その樂しい最初の十分間に自分は行き會ふだけのものを用意し、大抵人見知りや厭な氣持にならずにゐたいものである。自分はかういふ用意のできる時を持つために話をしなかつた人人に、會うて又敎へられるところを攝らねばならない。

 

 十 作家生活の不安

 

 輓近雜誌の廢刊や世上の不況から、作家は一荐《ひとしき》りのやうな收入を得るに困難であり、同時にこれらの不景氣は心ある文人をして昔の「破垣《やれがき》を結ぶ」氣持の烈しさヘ追ひ戾されたことは實際である。眼光自らその「時代」の落着いた美の中に住むことに慣れて、より良き作家はかういふ時に徐ろに立つであらう。

 一圓本流行はそれらの標的になるべき作家を網羅したものの、さういふ印稅は作家を一年半位しか休息させないことを考へると、大して稅務署まで騷ぐ必要はなからう。當然酬いらるべき作家の「もの」だつたものが、年月を經て作家の手に落ちて來たものに過ぎないであらう。何も改造社や新潮社春陽堂の仕事ばかりでなく、作家と和合半ばした共同事業のそれであると云つてもよい位、彼らに酬いらるべきものば酬いられたと云つてよいであらう。風雨の永い歲月の間に一年くらゐの休息は精神勞役に近い仕事にたづさはる者には、當然酬いられてよいことであらう。自分はこれらの印稅的現象は大して作家を樂にさせないと思うてゐる。不況の時代は一層その底を洗ふとしても、我我は既にその用意が出來てゐるとしか云へない。

 我我は約(つつま)しやかな破垣を結ぶことにより、生活の幅をちぢめることにより、その底に物凄い昔の苦行的な自身に再會することにより、決して良くなつても萎え凋むことはなからう。圓本に漏れるものは或者は猶十年後の圓本を超越してまでも、一行二行の苦節を守ることに精神するであらう。我我は遂に百萬の讀者を失うても、我我の子女は靜に夕方の涼しい蔭をつくる楡の木の下で、我我の「靑い汗」を慈《いつく》しみ讀み耽るであらう。我我や我我の友は遂にさういふ誠の一人か二人かの讀者を後代に選み出して、安らかに眠りに就くであらう。安んぜよ、我我と我我の友よ。

 

 十一 一本の映畫

 

 自分は何時か生涯のうちに一本の映畫を自分で監督し乍ら製作したい考へを持つてゐる。自分は最早文學の力を用ひず映畫の表現により、總《あら》ゆる自分の自叙傳的なものの曾て自分に取つて失ふことの出來ない光景、過去の幽靈、または既に剝落されたその時代の經過的な文明、さういふ自己を表現することは最早文學に於て陳套であり、又敢て先人の道を踏むに耐へない思ひがするからである。

 映畫はあらゆる文學に淸新な肉づけを爲し、又映畫自身のサイコロヂイを文學に寄與することに依つて、我我は我我の自叙傳的な受難と數奇と情熱とを完全に把握し描寫することができるであらう。文章に表せない我我の情操的なエエテル、千九百十年代の淺草の糜亂した韻律、その瞬間的な經過、結局音樂的な表出による我我の悲哀化は美事に製作され完成されるであらう。我我はその影靑き世界に充分に號泣もし又少しも妥協することなき命運への反逆、惡を蹶落《けおと》すところのサルベーシヨン・ハンターズ風な立場を獲得することが出來るであらう。誠に自分は今は映畫が單なる他山の石や形式ではなく、既に自分に役立つ藝術上の一樣式だつたことを發見し、今後の自分が奈何に映畫を自分の内外に生かすかと言ふことに就いて、自分は今日もこの選ばれた生涯の中に「一本の映畫」を考へ耽つてゐる。[やぶちゃん注:「サルベーシヨン・ハンターズ」一九二五年(本邦での公開は同年(大正十四年)十月)のアメリカ映画“The Salvation Hunters ”。邦訳題は「救ひを求むる人々」。ジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督デビュー作。詳細は邦文サイト「MOVIE WALKER PRESS」のこちらを参照。]

 

 十二 フリイドリヒ・ニイチエ

 

 自分は或不機嫌な朝に山の頂を彷徨してゐる風體の惡い男を一氣に蹶落した。彼は殆ど抵抗することも無く千仭《せんじん》の谷間に逆さまに墜落して行つた。

 自分は彼のゐた後を叮嚀に見𢌞つたけれど、鳶色の反古紙一枚殘されてゐなかつた。自分は自分の疳癪を起したことをさへ遂に後悔した。餘りに永い間擅《ほしいまま》に自分の中に巢喰ひ、餘りに永い間自分に影響を殘さうとしてゐた彼を、自分は谷の上から慘酷な目附で見下ろしてゐた。自分は寧ろ耶蘇に溫かい愛情を感じた。縱令《たとひ》同じ噓吐き同志であるにせよ、彼程完全に我我の中にその傲岸の泥足をもつて、猛猛しく居直ってゐた男はなかつた。爾《なんぢ》、フリイドリヒ・ニイチエ!

 

 十三 東洋の眞實

 

 あらゆる西洋の作家はその晚年に至つて或宗敎を完成し表現した。彼らは均しく宗敎風な觀念に美と愛とを感じてゐた。トルストイ、ドストエフスキイは云はずもあれ、ルツソオ、ストリンドベリイ、ヴエルレエヌ、――併乍ら東洋の諸詩人は宗敎よりも一層手厚い眞實を自然や人情の中に求めてゐた。芭蕉や元義《もとよし》、西行や蕪村、子規や龍之介、彼等は眞實を搜ね求めるために、或は生涯妻を求めず、又永い間病褥《びやうじよく》にあり乍ら天地の幽遠に思を馳せることを怠らなかつた。[やぶちゃん注:「元義」江戸後期の歌人・国学者平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)のことであろう。岡山藩中老池田憲成家臣平尾長春の子。弟に家督を譲り、国学研究に没頭、天保三(一八三二)年に脱藩、自由な身分となって古典籍の抄録・研究に努めた。美作(みまさか)飯岡に「楯之舎塾」を開き、国学の傍ら、万葉調の和歌を門人に指導した。飲酒と好色の癖、甚だしく、破滅的な人生を送ったが、その鮮烈な歌風は近代になって評価され、特異な人間像とともに脚光を浴びるに至り、近代短歌に影響を与えた人物でもある。]

 詩人芥川龍之介の求め喘いでゐたものも、眞實以外の人生ではなかつた。また正宗白鳥があれ程永い間人間の荒凉の中にうろついてゐるのも、結局眞實を的確に握り締める以外彼の誠の欲望は無かつた。西洋の諸詩人が均しく宗敎の觀念へ辷り込むのも、彼らの本質的な寧ろ血液的な傳統にまで逆流するに外ならない現象だつた。チントレットやダ・ヴインチ、ルウべンスやマンテニア、ミレーの昔から彼らの中に交流してゐる宗敎だつた。[やぶちゃん注:「チントレット」イタリア・ルネサンス期の画家でドラマティクな宗教画を多く描いたティントレット(Tintoretto 一五一八年~一五九四年)。「マンテニア」やはり宗教画が多い同期の画家・版画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna 一四三一年 ~一五〇六年)。細部の凄絶なリアリズム描出で知られる。]

 東洋の寂しい諦めは鳥羽僧正の戲𤲿をして、七百年の昔の高雅な諷刺や嘲笑に變貌させ、芭蕉をして眞實の中に微かな宗敎の炎を仰がしめたことは事實であるが、それらは眞實の掟以外、斷じて宗敎的な基督敎的憂欝を帶びるものではなかつた。唯彼らには何か知ら佛敎的な法悅の微風の中にゐることは否めなかつたが、併乍ら子規や龍之介の時代には――殊に龍之介は一切を自己の中に叩き込んでゐた。自己の中に整理されない人生をも彼は苦虫を嚙み潰して耐へてゐた。彼を喜ばしめたものは啻《ただ》に藝術の止むなき一途あるのみだつた。彼は最後まで正直な藝道の使徒でありペテロだつた。わが正宗白鳥は、最後まで下駄ばきのまま人生の殿堂に詣でいそしみ、露骨に眞實を訪れることは昨日と何等の渝《かは》りは無かつた。彼白鳥の如く寂しくその道を丹念に步き求める人があらうか? 風流韻事を憎惡しながら何と彼は空寂な氣持で押切る詩人だつたらうか?――

 

 十四 ドラクロア

 

 自分は烈しい寒さの中に窓外を過ぎる鐵の蹄の音を聞いてゐた。自分は書き物をしながら時時ちらりとそれらの馬上の者を見過してゐたが、自分は書き物に夢中となりそれらの者を折折忘れてゐた。彼らは自分を呼び出さうとするのか? 鐵の蹄の音は殆ど絕え間もなく石の上を敲いて過ぎてゐた。自分は其時初めて獅子の群を、若いドラクロアの姿を鬣《たてがみ》のかげに眼に入れたのだつた。靑い獅子の上に跨る若いドラクロア、自分自身の中に既に失ひかけてゐるドラクロア風な情熱、自分はペンを擱《お》いて窓外を四顧した。天氣は既に暗澹たる雲の中に凄じく亂れかけてゐた。わがドラクロアはその雲間を目がけて馳り續けてゐるのであらう。鐵蹄に似た音は自分の机のほとりにまで入り亂れてゐた。自分は激しい身震ひを感じながら、ドラクロアの大册を埃の中から引摺り出した。そして「靑い獅子」を搜りはじめた。自分は永い間この獅子の姿を忘れてゐたからだつた。

 

 十五 賣文生活

 

 自分が賣文の嘆きを綴るのも亦久しいものである。自分は何時此嘆きから釋放されるかは疑問であるが、恐らく生涯同じい嘆息と喘ぎとを續け乍ら、些か壯烈な思ひがしないでもないやうである。燃え殘りの熱情に鞭打つものの無慘さは、遂に心神の疲勞以外何物も殘さないであらう。人はみじめに最後まで生活するものであらば、自分もその慘めな一役の道化を演じてゐるに過ぎない。

 芭蕉や萬葉の諸詩人は決して賣文の嘆きを繰り返してはゐない。或は芭蕉も拙劣な句撰の嘆きを同じうしたかも分らぬ。唯それはそれとして彼は彼の生活の内外に煩はされるところが無かつたかも知れぬ。彼の詩人としての潔癖と高踏風な布置は、その賣文生括に觸れた一句をさへ示してないやうである。併も彼程生活の中には入つてゐるものは稀であると言つてよい。唯彼は日常些細の嘆きを己の魂に鍊《ね》り込んごゐたに過ぎないやうである。波の嘆きは彼の詩の中にのみ喘いでゐたであらう。彼は彼の生活的困窮をさへ彼の詩の中へ追ひ込み、しかも彼は莞爾たる溫姿のうちに、言無きがごとく淸風面《おもて》を過ぎるが如き面持でゐたであらう。[やぶちゃん注:「溫姿」私は見たことがない熟語である。「温顔」(穏やかな、温かみのある顔つきのこと)と同義でとる。]

 併乍ら後代の蕪村には生活苦は犇犇《ひしひし》として逼《せま》つてゐたらしい。百年の後には自ら世相も又元祿の悠長を夢見られなかつたことは勿論であらうが、蕪村は自ら𤲿と句との卷を作り之を賣つてゐた。その詩句も生活苦に直面したものも少數ではない。 芭蕉がその魂魄の中に溶解しつくした生活苦すら、天明の時代には許されなかつたのであらう。

 自分の賣文の嗟嘆はこれらの諸詩人に較べては、或は贅澤の沙汰かも知れぬ。時勢は既に賣文の嘆きをすら嘆かして置かないやうになるかも知れぬ。併も今は自分に殘るものは此嘆き以外の物ではないのである。古來の支那の諸詩人は皆同じく斗酒の中に醉吟を擅にした。併し彼らも亦生活苦の域を脫する事ができなかつた。ヴエルレエヌも亦一章の詩を書肆に賣つてゐたことは、彼の賣文的嗟嘆に據らずとも容易に想像することが出來よう。最早我我に一途あるものはあらゆる疲弊盡したる賣文の徒も、猶あらゆる慘忍なる編輯者とともにその喝采の慘忍たる光榮の道を進まねばならぬ。又あらゆる我我廢馬的心神に甦る「天馬」の美しい脚なみを調練せねばならぬ。斯くて我我の嘆きは次第に消失するであらう。[やぶちゃん注:このコーダに於いて本随筆集の標題の意味が明らかにされる。]

 

 十六 ミケランゼロ

 

 自分らは何時も目に見えぬ無數の惡魔と戰うてゐる。此惡魔の中には借金取も戀敵も又生活苦も雜つてゐる。夜半に目覺めて描くところはミケランゼロの壁畫と變りのない地獄の中に、常に顚倒してゐる自身の呻吟のみである。惡魔は外に低迷してゐるものでなく、遂に無慘にも「我」の中で暴風のやうに荒れ狂うてゐた。

 惡魔は百本の足を持つて自分を趁《お》うてゐる。夢の中で犬に嚙付かれたやうに惡魔はもはや自分を離れようとはしない。自分は彼と追ひくらをしながら暮してゐるやうなものである。ミケランゼロは又その莊嚴なる貧窮の中に自分の錯覺するところのものを日夜夢見たであらうか。自分も亦地獄篇の中に喘ぐところの現世の我である。

 

 十七 時なき人

 

 この頃自分はよく「時」に關係のない淸爽な人間にたびたび出會し、その人と話を交す氣持になることがある。その人は自分の記億の中にももう無くなつてゐる人だが、無くなつてゐるといふ事實が一層記億に新しかつた。自分はかつて「時」の人であつた彼が「時」の境域を拒絕してから、一倍彼を熱慕するに耐へなかつた。

 「時」の人だつた彼へ書くその追憶文を自分は諸所から求められた。しかし時を拒んだ彼へ送る追憶の文は墓下にある彼を騷騷しくするために、自分は一切書かなかつた。しかし自分は殆ど每日氣持の中で追悼文を書いてゐたといつてよい。精神で書き疲れてゐた自分は彼への活字の文は書かなかつた。

 自分は常に一介の賣文の徒だつた。時を拒んだ人へは、自分はその業を休んで謹んでゐたのである。正直な靴屋は昔その童話の國の同じ兄弟の死に遭うては、王者の靴をさへ縫はなかつた。今人《きんじん》である自分が時なき人への恭愼《きようしん》の情を護るためには、その文をも暫く封ずべきであつた。尠くとも性利發ならざる自分の信ずるところは、その愚直なる一途の謹愼あるのみであつた。

 時なき人は現世の自分の前に無言のまま佇んで、「時」を持つ自分を愍《あはれ》むに近かつた。自分もその「時」の煩しさ辛さを感じながらも、仕方なしに彼の前に躊躇しながら佇んでゐた。時なき人は何時かは鞭を持つて自分を打つであらう。

 打て、然して君のなほ自分に敎へんとするところを示せよ。[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、これは無論、芥川龍之介へのそれである。]

 

 十八 雲

 

 自分は今年信州の高原に夏百目を送り、秋風を肌身に感じながら每日雲の去來を見て暮した。朝に湧き夕に散る片雲の去來は、容易に自分達人類の滅びた後にもなほその惡魔の如き形相を示すことを歇《や》めないであらう。彼はまさに「時」なき不斷なる惡魔だつた。

 自分は彼を數へるに數十の惡鬼の姿を想像し、又あらゆる知己朋有の面相を思ひ描いて見た。彼は優しい或女の顏をさへ浮ばせて見せた。あらゆる宮殿や高雅なる園庭をも、遙か下界の椅子の上に臥てゐる自分にひろげて見せた。自分の妻子や朋友の凡てがなくなつても、彼、漠漠たる片雲のみがこの世を領してゐることは疑ヘなかつた。彼は自分の死滅の靜寂さへも浮べてゐたからである。自分がかう考へてゐる中にも、山上の密雲はぎらぎら底光りを潜ませ、悠悠と或は奇峰や深淵や斷續を續けながら迫つてゐた。それを見てゐると自分は何か恐怖以上の恐怖を感じるのが常だつた。

 彼は時をも又何者をも持たなかつた。唯、その物凄い千古の形相は百萬の惡魔を日夜に駈り立てて靜かに仰臥してゐる自分を脅かした。自分はこの密雲のぎつしりした息苦しさを双肩に感じてゐた。

 

 十九 彼

 

 惡魔も持たない如く神も亦「時」を持ち合はさないであらう「時」を持つものは我我人間の外には無いのかも知れぬ。[やぶちゃん注:「持ち合はさないであらう」の後に句点がないのはママ。]

 

 二十 或平凡

 

「時」の無い國に曾て「時」を經驗した人人が、山吹や蓮の莖をお互の手に持ち合ひ乍ら坐つてゐた。自分は彼らに退屈かどうか、愉樂はあるかどうかを尋ねて見ようと心がけてゐたが、自分のこの考へは直ぐ彼らに見破られてしまふ不安の方が先立つので、默つて眺めてゐた。彼らは物憂く動いてゐたが、孰れもその動作に超時間的なゆつたりしたものを顯してゐた。

 自分は味氣なく笑ひかけて見たが、彼らは決して笑はうとはしなかつた。曾て笑つた人も笑はなかつた。彼らは皆一樣に眞面目な顏付をしてゐて、笑ふまいといふ努力などしてゐないやうであつた。

 自分は何時の間にか、これらの山吹の枝や蓮の莖を手に持つところの、彼等の中の一人に姿や形相を變へて、石の壇の上のやうなところに腰かけてゐた。自分は實際をかしくも又味氣ないこともなかつた。昏昏として半睡のやうな狀態が永く續いてゐるだけだつた。自分は他のものと話をしたい欲望も起らなければ、他の者の存在意識が少しも自分に影響しない不思議さが打ちつづくだけだつた。

 自分はその時やつと氣付いたことは物を食ひたい欲望の喪失されてゐる、干乾びた狀態だつた。その狀態に氣づいた時、自分は絕望的にさへ嘆息した。しかしもう自分は遲いやうに思はれた。もう自分はとうに山吹の枝を持ち、彼等の中に坐つてゐたから、――彼らの如く何も興味のない顏付で、苦り切ることもできず又燥《はしや》ぐこともできない、例の眞面目過ぎる狀態に壓せられてゐた。

 

[やぶちゃん注:最後に、この「天上の椅子」は前半はやや長めのアフォリズム集であるが、後半は強い散文詩体となり、しかもその内容は私の偏愛するツルゲーネフの「散文詩」を、確信犯で、強く意識して書かれてあると断言出来る。未読の方は、サイト一括版(中山省三郎譯)(私の注附き)、或いは、ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」の神西淸の訳、上田敏の訳、生田春月の訳なども完備しているので、是非、読まれたい。

2022/03/31

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 芥川龍之介氏を憶ふ

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。なお、向後、不詳の場合は、この最後の注は附さない。

 若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 芥川龍之介氏を憶ふ

 

 芥川君が亡くなつてから早一週年の忌日も間近くなつたが、自分は此偉大なる友を憶ふ氣持には、漸く鋭い熱情が、日を經る每に感じ出された。熱情は益益同君を純粹にも淸淨にもし、同君を友人とする自分の間に距離を感じさせるのである。その距離は現世に存在しない彼が持つ縱橫無盡な淸淨さであり、その淸淨さは無理にも現世《げんせい》に踠《もが》く自分を必然的に引離して行かうとするのだ。

 自分は此友の死後、窃かに[やぶちゃん注:底本は「窺かに」であるが、後の再録版「芥川竜之介の人と作」の上巻のこちらで確認し、特異的に訂した。]文章を丹念する誓を感じ、それを自ら生活の上に實行した。同君の死の影響を取入れ自分の中に漂はすことに、後世《こうせい》を托す氣持に自分はゐるのである。同君に見てもらひたいのは今日の自分であり、交友濃かだつたあの頃の自分の如き比例ではない。同君も今日の建て直された自分を見てくれたら、別な氣持で交際《つきあ》つてくれると思ふ。今日の自分は微かに同君が自分に不滿足を感じ、輕蔑すべきものを輕蔑してゐた氣持は解ると思ふ。友人同士は互ひに輕蔑すべきものを持ち合してゐることは、それを感じる時に其値を引摺り出すことができるのだ。芥川龍之介君は自分を輕蔑してゐた。かういふ事實は彼の中で遂に埋沒され、永く同君の死とともに抹殺された。併し自分はそれを掘り返して補ふのである。自分が文事に再び揮ひ立つことのできるのは、あの人の影響だと思うてゐる。佐藤春夫君に芥川君の死は役に立つたかと尋ねたら、彼は暫らく默つた後に役に立つたと低い聲で答へたが、自分はその時にも一種のセンチメンタリズムを感じた。自分は彼といふ一文人の死でなくとも、死は多くを敎へるものを持つてゐることを感じてゐる。

 芥川龍之介は理智と情熱とを混戰させてゐる人であつた。或はその旺盛な情熱が彼をああいふ死に誘うたのかも知れぬ。所詮自ら滅することは情熱の命令の後に行はれるからである。彼は死なうと考へながら「時」を延長させるだけ延長させた人である。晚年二年位は同君に取つて莫大な長年月だつたに違ひない。百年の歲月をも遂に同君に取つてその晚年には興昧のない無爲の歲月であつたらう。

 自分は芥川君に會ふ每に最初の五分間は每時《いつも》も壓迫を感じてゐた。芥川君の仕事や爲人《ひととなり》、偉さが自分に影響してゐた。自分はそれを完全に自分と同君との間に退治したのは、最近二年位の間だつた。それは同君が自分の書齋を訪ねて來る時に經驗し、又同君の書齋でも次第に退治することができたのである。かういふ心理上の壓迫感は靜かに料理され試練されるものである。同君は何時もずつと高いところにゐたことは疑へない。併しその高さを僕白身へまで引下ろすことはできないが、其處まで僕自身が行かなければならないのである。全く同君は自分に取つて苦しい友人であり、その苦しさは自分によい結果となり今までに影響して來たのである。

 

 芥川君の好む人物は半端者があり、他の人間と交際しにくい氣質を同君は能く容れるものを持つてゐた。槪ね孤獨を友とするやうな人格の中に、同君は何時も心ひそかに愛を感じてゐるらしかつた。他の人格の中に孤獨の巢を發見することは彼の藝術的な作用に外ならないのであらう。併乍ら同君はさういふ一面とまた眞實な一面とを持ち合せ、眞實で打《ぶ》つかる人間には眞實以外のものを見せなかつた。あの人の眞實性はその根本では情熱から動いてゐた。彼が晚年に若い詩人達に物質的にも眞實な好意を動かしてゐたことは、自發的なものが多かつた。

 自分と芥川君との交際は普通の動機からであつて、何も特筆すべきことはない。自分の子供が女子であり同君の子供は男子であるが、同じい聖學院の幼稚園に通うて、最初の間は往きも手をつないで一緖に登園するのであつた。自分はさういふ現世の情景に對しては詩人的であるよりも、寧ろ小說家風の立場に自分の考へを置く機會が多かつた。生前の同君と自分との戯談が生きた情景に變つて眼前にあるのだ。自分はさういふ小童少女の世界に感懷を交へることを些か逡巡するものであるが、併し顧みて現世に美を感じ出すことは人一倍の自分の努力でもある。

 自分は芥川君を億ひ出す機會を同じ田端に住んでゐる關係上、他の人と餘計に感じてゐた。或人は田端の驛の坂の上で、荷車が坂を登るのを芥川君が眺めてゐたと言ひ、さういふ些事が自分の胸に應える[やぶちゃん注:ママ。]ことが多かつた。三河島一帶の煙や煤で罩《こ》められた[やぶちゃん注:覆われた。]曇天の景色は、あの人の頭に永く殘つてゐたものに違ひない。同君が、好んで曇天の景色を描くことに妙を得てゐるのも、さういふ景色の中に永續きする動かない「景色のサネ」を抉り取つてゐたからであらう。

 震災の翌年の五月金澤へ來たときも、その勝れた景色には感心してゐた。併し有繫《さすが》に川料理ばかり食べさせる金澤では、料理は餘り褒めなかつた。ああいふ人でも淡泊な料理ばかりでは困るのであらう。食物はいつも自分は芥川君の二倍位は食べてゐた。輕井譯の宿屋でも芥川君は大抵オムレツと冬瓜の煮付けを食べてゐた。決してビフテキやスチユ[やぶちゃん注:シチューのこと。]は取らなかつた。隣室にゐて早寢をしてゐる自分は夜更けて後架に立つと、芥川君は濠濠たる煙草の煙のなかに、反り身になつて原稿に苦吟してゐた。そして自分が寢てゐると遠慮して雨戶を繰るのにも、靜かな心置きを用意してゐた。その濛濛たる煙の中に坐つてゐた芥川龍之介君は、決して自分の眼底を去らない苦吟の人芥川龍之介君であつた。

 

 去年の七月二十四日のお通夜明けに、椎の木の頂に夜の白むのと同時に啼き出した蟬の聲は、自分の現世のあらん限り忘られぬ凄じい蟬の聲だつた。自分は菊池、久米、佐佐木の三君と緣側の板の上に、通夜の人口の散じた後にも坐つてゐた。そして何日か芥川君が仕事をしてゐて、夜明けの蟬の聲を聞く程氣持のよいことはない。さう云つた言葉を端なく思ひ出した。疲勞と眼病に惱んでゐた自分を根本から動搖もさせ、靜肅にさせてたものは、鶴のやうな幽遠無類の蟬の聲だつた。今もなほ蟬の聲は自分の耳の遠くにある。

 自分は此友達の中からまだまだ攝取すべきものがあり、自は貪婪にそれに打《ぶ》つかつて行くべき筈であつた。かういふ精神的な陣營を感じ出す友達といふものは訣して、ざらにあるべきものではなかつた。話をしてゐても珍しい言葉に感激し、他人のどういふ部分にも正確な藝術的な氣持を以て見、それに共感する時は幼稚なほどの驚きをする、さういふ人は稀なものであつた。ああいふ驚き、驚いて喜ぶところ、露骨に志賀直哉氏をほめるところ、小穴隆一君を信ずる寧ろ不思議過ぎる友愛には、實に無類に善良な彼が立つてゐた。さういふ芥川龍之介君には微塵も渴《か》れない氣質が感じられた。

 晚年近くに書いた詩は詩人としても逈《はる》かに一流にまで飛び越えた彼がゐた。詩に睨みの利いた芥川君は、就中「旅びと」の叙情詩、「僕の瑞西から」の中の「ドストエフスキーの詩」なども、立派な出來榮えを示してゐた。實際芥川君は何よりも詩人だつたといふことは、何よりも詩人中の詩人だつたことを證明するものであつた。誠の詩人といふものの恐るべき「天火」を彼は搉《いだ》いてゐた。我我凡俗の詩人は最早「彼がどうして死んだか」などと念うてはならない。默つて暗夜に沒するその長髮瘠身《ちやうはつせきしん》の姿を見て居ればよい。その後姿は何と懷しい限りのものであるか、笑ひも感激もゴオルデンバツトも、鳥の手のやうな手も、半分かけた金齒も、そつくり彼は何時でも思ひ出させるものを持つてゐる……

 芥川君は或日、自分の家に來て芭蕉の「夏山に足駄《あしだ》を拜む首途《かどで》かな」といふ句を示し、この句には驚いたと言つた。北海道の旅行から歸つた就死前のことである。芭蕉の此句は修驗光明寺の句で、行者の履《はきもの》を拜む心を詠んだものである。ともあれ芥川君はさまざまな書物の中に、自分のそのころの心持の丈を搜つて見てゐたことが解る。「旅びと」の詩にも芭蕉の「山吹や笠にさすべき枝のなり」が詠み込まれ、ぢかに芭蕉を百讀してゐたものらしい。さういふ芥川君の沈着と高雅の情には心惹かれるのである。

 先日駒込慈眼寺に下島先生と打連れて墓參をしたが、風淸く穩かな日であつた。芥川君風にいふと、蟲の食つた老いた葉櫻のかげに「近代風景」を持つた靑年が一人、寺境の雜草を距てた釣堀の水を眺めてゐた。

     墓詣

       (塚も動け我が泣く聲は秋の風  芭蕉)

   江漢の塚も見ゆるや茨の中

 

[やぶちゃん注:ちょっと看過出来ないひどいミスを所持するウェッジ文庫(二〇一〇年刊)の「天馬の脚」に見つけてしまったので、ここに後注で終りの部分の注を纏める。

『「旅びと」の叙情詩』これは、以下の犀星の謂いから、結局、芥川龍之介の死直後に発表されたアフォリズム随想「東北・北海道・新潟」に無題で載る、

   *

 

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

   あはれ、あはれ、旅びとは

   いつかはこころやすらはん。

   垣ほを見れば「山吹や

   笠にさすべき枝のなり。」

 

   *

を指すと考えてよい。但し、個人的には、或いは犀星は、「旅びと」ではなく、最後に愛した片山廣子に捧げた旋頭歌「越びと」を暗に匂わせているのではないかと私は強く疑っている(リンク先は孰れも私のサイト版)。

『「僕の瑞西から」の中の「ドストエフスキーの詩」』表記に誤りがある。正しくは「僕の瑞威(スヰツツル)から」である。本書刊行の一年前の昭和三(一九二八)年二月一日発行の雑誌『驢馬』に「僕の瑞威から(遺稿)」として掲載された詩群の第八番目にある、「手」である。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を見られたい。

「搉《いだ》いてゐた」ここをウェッジ文庫版では「摧(くだ)いてゐた」とするのだがが(読みはウェイジの編者が附したもの)、これは漢字の誤謬に加えて、読みの屋上屋の大穴空きの家根を附けてしまったトンデモ・誤謬ルビを附してしまったものだ。落ち着いて考えれば、天火を砕いてしまっちゃうのは、ミューズの霊感は無くなっちまうさね。歴史的仮名遣採用の堅実な文庫なだけに、ちょっと痛過ぎるミスである。悲しい。

「夏山に足駄《あしだ》を拜む首途《かどで》かな」私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅9 黑羽光明寺行者堂 夏山に足駄を拜む首途哉   芭蕉』を見られたい。「山吹や笠にさすべき枝のなり」つまらぬ評釈だが、芥川龍之介に触れているので、私の「山吹や笠にさすべき枝の形 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)」をリンクさせておく。

「塚も動け我が泣く聲は秋の風」私の偏愛する句。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』を参照されたい。]

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 淸朗の人

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。

 若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 淸朗の人

 

 鵠沼へ行く前後から芥川君は餘り書畫骨董に趣味を持たなかつた。陶器のことでも興味を感じないと云ひ、實際面白くなささうな氣持らしかつた。お互ひの家庭の話が出ると、此頃妻がいとしくなつたと山手線の電車を待ち乍ら話してゐた。自分自身の生活でもそれが分るやうな氣もちで居ることがあるので、賛成して俱によい氣もちになつた事がある。

 

 何時か自分のところで芥川君がお時宜をして、顏をあげようとして黑い足袋が片方すぐ間近にあつたのを見て、顏色を變へて驚いたことがあつた。去年の六月ころだつたらう。あの時分神經衰弱がかなり酷かつたのかもしれぬ。新聞の記事などでよく「こたへる」と云つてゐた。

 

 歌舞伎座にあつた改造社の招待會の歸途、例に依つて一緖に出かけたが歸りも一緖の約束だつた。最後の幕を見て、下足を漸《や》つと受取つて出た自分は、芥川君の姿を見失うて却て宇野君が一人佇んでゐるのに行き會うた。其翌朝、芥川君は實は昨夜谷崎佐藤兩君に會ひ、帝國ホテルで一晚話し込んで今しがたその歸りだと云つて、どうも失敬したと態態《わざわざ》斷りに來たのである。芥川君はさういふ細かい氣づかひをする人である。

 

 自殺に就ては何時も藥品の話が出た。そして僕がその話の中では何時も芥川君よりも長生するやうなことになつてゐた。自分はからだの弱いものは長持ちする者だと言つたら、彼は反對に犀星は却却《なかなか》死なんよと快よささうに笑つてゐた。

 

 芥川君は生前自分の零細な作品にまで眼を通して、短い的確な批評を能くして勵まして吳れた。去年自分の「文藝春秋」に出した「神も知らない」といふ作品は或女性の自殺未遂を書いたものであるが、芥川君は此小說では女の中から這入つて書いた方がよかつた、最も女の中から書くことは難かしくもあり却却苦しいと批評して吳れた。自分は女から書くには分りかねることがあるといふと、それは分らんよと云つてゐた。六月の末のことで芥川君が世を辭す三週間程前である。

 

 芥川君の遺書を讀んで自分は立派だと思ひ、何處までも藝術の砦の中にゐる人だと思うた。自分は芥川君がそれほどまでの重大さに負けないで、目常の應酬や作品の精進につとめてゐたことは、凡夫の自分には及ばないところだと思うてゐる。胸に重大を疊んで平氣をよそうてゐてこそ、ああして落着いてゐられたのだとも思うてゐる。

 遺書にある平和は芥川君を圍繞《ゐねう》してゐたものと見える。自分は彼の死に驚き次ぎに感じたものは淸らかさであつた。何よりも淸らかさが自分を今も刺戟してゐる。

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 芥川君と僕

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 芥川君と僕

 

 漸《や》つと二度ばかり會つた芥川君から、發句の運座を卷くから來ないかと誘はれて、芥川君の家へ確か二度目くらゐに行つた。梅雨の霽れた爽かな一日であつた。卽題は夏羽織と梅雨ばれと其外の何かであつた。主人を初め久米、菊池の兩君や岡君江口、佐佐木君なども來てゐて、自分は久し振りで發句を作つた。その時にどういふ氣持か自分は久米君に題して時めく小說家としての彼をねぎらうた句を、夏羽織に事よせて作つたのだ。久米君はかういふ發句はいかんと云ふやうなことを云つたが、自分は引身《ひけみ》を感じた。何時か久米君にあの時の話をして談笑したいと今でも思つて居る。

 芥川や久米君は作家生活の物慣れた世間をずつと見通しが利いてゐる時分であるのに、自分はまだ何も分らぬ井蛙の野人であつた。自分のよしとしたことも却て人に不快を與へる程の、まづい稺拙な挨拶振りに過ぎなかつた。自分は夕方早めに歸つたが、明らかに彼らに在るものと、自分との間に非常な洗練のきめの違ふことを感じたが、どうも隔離を感じ過ぎ手の付け樣が無かつた。今から考へるとあの時分には久米君にしろ芥川君にしろ、自分とは格別な高さと聲望とに鍛へられた何物かを持つてゐた。その高さは根本的に爲人《ひととなり》を叩き上げ、斬り込む隙間もない手堅さであつた。あの時に自分は反感を有《も》たなかつたことは好いことであつた。自分はその後も芥川君とつきあひ、彼の難攻不落の城に入りながらどれだけ得をしたかも知れなかつた。自分は時に彼の高びしやな調子が彼自身では常識にまで漕ぎつけてゐることに、必然に微笑みを感じるのであつた。

 自分は芥川君とつきあふ樣になつてから、全く彼からの巧みな誘ひ出しに惹かれて、自分の中に眠つてゐたものを醒されたと云つてよい。彼は針の穴からも覗き込んで來てゐるに驚き、開いた戶からもやあと云つて這入つて來るのに驚いた。雜談の中からも色色聞くべきことが多かつた。自分は良友を持つてゐるけれど、自分を叩き上げるために要のある人は尠《すくな》い。それに自分は樂な交友ばかりしてゐたせゐか、頭の坐りが低かつたとも云へた。人間は樂な交友をしてゐたらしまひに馬鹿になるものだ。彼の云ふことは自分に取つて物珍らしいといふより、當然自分の感じもし考へてもしてゐることを、彼の言葉で話されると快い調和をさへ感じるのであつた。

 今から思ふと自分が小說の書き出しころに芥川君と早く知り合うてゐたら、最《も》つと得をしたらうと思うた。最後に書く自敍傳をさきに書いたりして、作家としての本道を取り違へたことが多かつた。全く小說といふものは餘程心が決つてゐて、人物ができてから書くものだといふことを此頃沁沁《しみじみ》感じてゐる。底のある如くして底のないものは小說であらう。

室生犀星 随筆集「天馬の脚」原本正規表現版 始動 / 澄江堂雜記 芥川龍之介氏の人と作

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持するウェッジ文庫(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 電子化は私の偏愛する芥川龍之介関連部分から開始し、原本の順列には従わない。

 以下の本書の「澄江堂雜記」パート、その冒頭の「芥川龍之介氏の人と作」から始めるが、実は本作は、昭和二(一九二七)年六月号の『新潮』に掲載されたものが初出で、私は既にその初出形を二〇一三年一月にサイト版でここに電子化してしている(但し、筑摩版全集類聚「芥川龍之介全集」別巻に載るものを恣意的に漢字を正字化したもの)ため、昨日、それを本随筆版で全面改稿しようと考えたのだが、やり始めるや、直きに初出から再録する際、有意な改変が行われていることに気づき、やめた。そこで、仕切り直して、「天馬の脚」版「芥川龍之介氏の人と作」として全くの零から電子化することとする。

 なお、室生犀星は、昭和一八(一九四三)年に、さらに「芥川龍之介氏の人と作」という上下二巻本を刊行しており、この「芥川龍之介氏の人と作」もそこに含まれてあるのだが、またまた、そこでは、改変に加えて独立・分離が行われている。これも国立国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来る(上巻がこちらで、下巻がこちら。孰れも目次頁で示した)。これは、満を持して芥川龍之介に特化して書いたものであるが、実際に見て戴くと判るが、上巻の中間以降は、室生の芥川龍之介の当該作への評を添えて、その作品を掲げるという、まあ、文字通りと言えば、文字通りの「芥川龍之介氏の人と作」という体(てい)のものである。こちらの犀星の評論部も後に抜粋して電子化したいとは思っているが、その目次を見て戴ければ判る通り、原「芥川龍之介氏の人と作」の後半は各作品評部に移行されて膨らまさせてあるものの、元の「芥川龍之介氏の人と作」の統一された共時的(初出時は芥川龍之介はまだ存命であった)総評感覚の鋭さが散漫になってしまった憾みがある。

 私がこの評論(特に初出)に拘るのは、昭和二(一九二七)年五月に書かれ、そうして、死の直前の芥川龍之介自身が読んだ、短いながらも、彼の数少ない心から信頼出来る盟友が書いた芥川龍之介論だったという点にある。サイト版初出の私の冒頭注で言ったように、『室生が『生前の芥川との最後の会見の際に感想を聞いたら、「その時殆聞えるか聞えないか位の独り言のような低い声で、ああいうものを書かなくてもよいのにと云つた」』』という言葉の重さを噛みしめながら、それでも、二度も改稿再録した室生に思い致す時、この作の原初出はある種、親友渾身の――彼の「生」を讃え励ますところの――芥川龍之介論であると言えるのである。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。

 さらに、若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。何時も通り、原本の読み(ルビ)は( )で示した。サイト版では注は殆んど附さなかったが、今回はその初出テクストと差別化するために、段落末に簡単に注を添えた。五月蠅ければ飛ばせばよい。以上の凡例はまずは本「澄江堂雜記」パート内の四篇全部に適用するが、後の電子化もそれにほぼ準ずる予定である。【二〇二二年三月三十一日 藪野直史】

 

 

 芥川龍之介氏の人と作

 

 

    一 彼、人

 

 芥川龍之介か佐藤春夫の孰方かの碎けた評論めいた人物印象を大部のものに書いて貰へないだらうか、左ういふ中村武羅夫氏からの依賴を聞いて、自分は佐藤春夫は萬年靑年であるし今鳥渡《ちよつと》書く氣がしないし適當とは思へない。芥川龍之介はまだ料理したことのない鯱《しやち》のやうなもので、自分の俎《まないた》に乘るかどうかは疑はしい。自分はむしろ秋聲先生に俎の上に乘つて戴かうと思ふのであるが、中村武羅夫は是非芥川龍之介論の方をと言ひ、自分もその氣になり引受けたのである。[やぶちゃん注:「中村武羅夫」は当時『新潮』の中心的編集者として活躍した評論家。プロレタリア運動を痛烈に批判し、大政翼賛会に自律的に参加、戦中の「日本文学報国会」設立の中心となった。敗戦後は戦争協力者として見る影もなくなった。]

 一體芥川龍之介論とは何の事だらう。自分は不意に演說を指摘されたやうにまごつく、――芥川龍之介といふ小說家を君は知つているかね、田端にゐるんだが會つたら面白いかも知れんよ、左う云うたのは今から十年前の萩原朔太郞であつた。此間詩集を送つたら手紙を吳れたが今度歸京したら會つて見たらどうかと、彼の故鄕前橋で私の最も親懇な萩原の口から、印刷にならない芥川龍之介といふ名前を初めて聞いたのである。併し私は彼の前に當時の意氣軒昂の槪を示し鳥渡《ちよつと》胸を反らし乍ら云つたものであつた。「小說家に態態《わざわざ》こちらから訪ねて行くのも不見識ではない

か、我我は左ういふことまでして交際をする必要がない。」萩原は當時既に谷崎潤一郞を知つてゐたし、何かの紛れにも能く此谷崎潤一郞といふ拓本のやうな名前の感じを、私の前に話してゐた矢先で少少私は胸くそもので小癪に障つてゐた。私はといへば交友に有名な男がなく其意味で萩原は既に一家の交詢的な周圍を有つて些か私に當つたものであつた。「一體小說家といふものは氣に食はん」私はともすると議論めいて來る彼の鋒先を避け乍ら、小說家といふものを目の敵にしてゐたので、芥川龍之介なぞに會ふもんかと思ふのであつた。[やぶちゃん注:「交詢」「詢」は「まこと」の意で、互いに交際を親密にすること。]

 自分が初めて芥川に會つたのは日夏歌之介の詩集の出版記念會であつた。圓卓の向うに自分は紹介された芥川の顏を見ると、直ぐ此種の端正な顏貌に好意よりむしろ容貌自身から來る引身《ひけみ》を、逆に何か苦手な氣の合はない人間のやうな氣がした。が、其歸り途に一緖に步き乍ら色色の話をすると、樂な親しみ易い打解けたところのある、寧ろ碎けた人のやうに思はれた。その翌日だつたか彼の書齋を背景にしてゐる彼を見て、處狹いまでの書物の埋積や談論の自在な彼を打眺めて、戯談《じやうだん》まじりの話をしながらも却て歸途にはそれにも拘らずひどく陰鬱な氣持であつた。今から思ふと自分は彼に抵抗する精神的武器がなかつたらしく、それが自分にあれば彼麼《あんな》に陰欝に考へ込まなかつたであらう。何を言つても自分はまだ市井破垣《しせいやれがき》を結ぶ[やぶちゃん注:在野人。処士。]の一詩人であつた。しかも一詩人の威力を打通すだけのものが自分の胴中を貫いてゐなかつた。それに幸か不幸か芥川は餘りにらくに自分の前であけすけに話してくれたのが、一際自分を陰氣にしたのだらうと思うてゐる。人間は時に屢屢自分以下のものには樂に碎けることを愉快に念ふものだが、彼の碎け方はその氣持の上で種類が違つてゐるやうだつた。對手を窮屈がらせない一種の座談に慣れることに據つて、爲されたそれのやうにも思はれた。當時の世間知らずであり文壇めくらであつた私が、彼と對坐しただけで遺憾ながら彼を自分以上のものであると云ふ、心からの承認では無かつたとは云へ、徐ろにその朧氣なものを感じたことは拒めなかつた。自分は春夫が最初谷崎潤一郞を嫉視した氣持を、今から思へば多分に雜《まじ》へてゐたのである。有名に對抗する故なき嫉視と憤怒に似たものを白面一介[やぶちゃん注:「はくめんいつかい」。色の白い若い取るに足らぬ男。]の彼に感じたことは、私のこれまでの生涯に於て北原白秋と同樣のものであつた。北原白秋に會つた最初は二十二歲だつただけに、羽根が立たぬやうな自分でもあつたからいいとしても、彼の場合には自分は最う二十九にもなつてゐたから、刺戟や壓迫などと云う生優しいものではなかつた。自らを鞭打つ激情に似たものを彼から感じたのだつた。自分は三四囘目に會つた時は「幼年時代」といふ小說をひそかに家にゐて、彼にその話をして見てくれるかどうかといふ意味を、恰もお世辭に似た心からでない曖昧な氣持で彼に述べたが、彼は一寸慌てたやうにいや僕の如きは何とか言ひ、すぐその話は素早くよそに逸れてしまつた。その時自分に應酬する彼が談偶偶《たまたま》小說に及んだことで、彼の面にかすかな迷惑らしいものが掠めたことを自分は感じた。(後に考ヘると彼の當惑らしい表情はだしぬけに云つた自分に感じたのは當然であつたが、その當惑の戶を敲きこはすことのできない自分だつたことにも氣がついてゐた。人間は時に屢屢自分を叩き上げるために對手の當惑の戶を叩きこはさなければならぬものだ。自分はあの時この友の當惑を紋め上げて置いたら、彼とは別な意味で種種のものを攝取(とりい)れできたらうと思うた。)[やぶちゃん注:犀星が龍之介に逢ったのは大正七(一九一八)年一月十三日日曜日に行われた日夏耿之介の処女詩集「転身の頌(しょう)]出版記念会(日本橋のフランス料理店「鴻の巣」で行われた。前年六月の「羅生門」出版記念会もここ)であった。]

 その後自分は彼をたづねたが最初に受けた印象は渝《かは》らなかつた。その日の都合でいい加減なことを云ふ男でないことが判つた。唯、彼の物の云ひ方に或高びしやがあり、それが彼の場合非常に自然に受取れるのが不思議である。おもに批評的になる話題にそれがあつた。――ずつと後、震災後金澤へ來た時に或老俳人の前で、彼は北枝[やぶちゃん注:蕉門十哲の一人で北陸蕉門の重鎮として知られる加賀の立花北枝。]の句のことなぞを土地柄であるとは云へ話し出したりした。後で私の畏敬する老俳人は芥川といふ人物に感心して、金澤へ度度人も來たが、あれほど若くてしつかりしてゐる男は初めてだと感服してゐた。自分はその時も紹介甲斐のある點で、彼の人物を釋明する必要がなかつた。しかも老俳人はまだ彼の一作をも讀破してゐなかつたのである。[やぶちゃん注:芥川龍之介の金沢行は大正一三(一九二四)年五月十五日から十九日まで。表向きの所用は龍之介が媒酌人を引き受けた友人の作家岡栄一郎の岡の親族と逢うためであった。この老俳人は、彼を歓待するために犀星が設けた発句会に同席した、当時の北陸俳壇の双璧と言われた桂井未翁・太田南圃の孰れかであろう。]

 自分に彼を紹介した萩原朔太郞が上京して田端に住むころには、却て芥川に萩原を紹介するやうな顚倒した位置と役目に私はゐた。萩原は芥川に會へば議論もするらしいが、私と萩原との趣味が一致しないやうに、芥川と私との生活振りは全然違つたものだつた。一緖に旅行してゐても私は晚は九時から十時に寢に就き、彼は夜中の二時三時といふのに煙草のけむりの中に起き上り何か書いてゐる。私が朝の散步から戾つて來て仕事に取り掛る頃は、彼は漸つとむづむづと床から起きるのであつた。彼は少く軟かい物を食ひ、私は多く固いものが好きだつた。彼は手當り次第に讀み私は嫌ひな物は一切讀まなかつた。彼は滅多に人見知りを露骨に色に現はさない東京人であるのに、私はがりがりした露はな田舍人の粗暴と人見知りとを持つてゐた。彼は話好きで夜更しを平氣で遣り私はその反對の方の人間であつた。彼は芭蕉を五年もさきに讀み上げ一と通り卒業してゐたが、私はやつと此二三年身を入れて讀み出す位だつた。唯一つ陶器だけは一步先きなくらゐで何事も私のよくつかふ文字であるが殘念乍ら先きに步いてゐた。全く殘念乍ら! 人は芥川龍之介の有名に反感はもつとしても、彼の人物にはさういふものを持つことはできぬであらうと今でも思うてゐる。

 

    二 文 人

 

 佐藤春夫は幾十編かの詩をその文學的靑年時代に有つてゐる。この頃では古調を帶びてゐて春夫自身も意識しながらその古き調べの中に折折文筆の塵や埃を避けてゐる。龍之介も亦春夫の場合と同じく數十句の發句を窃かに匣底に祕藏してゐる。龍之介の自ら元祿の古詞にならうてゐる所以のものは、單に古きしらべに從いてゐるのではなく、巍然《ぎぜん》たる[やぶちゃん注:高く抜きんでて。]元祿の流れを汲んでゐるのである。碧梧桐以後に幾度となく波瀾重疊した俳壇の諸公から見れば、彼の發句は一見陳套の嘲《そしり》を買ふかも知れない。今更ら蕉風に低迷しなくともよいではないかと、彼等の内の精英は云ふかも知れぬ。併乍ら龍之介のねらひは元祿諸家の古調や丈草去來のさびしをりを學んでゐるのでは無い。ただ叮寧に蕉風のねらひを今人の彼が心に宿してゐるだけである。彼は元祿人が引いた弓づるをその的を最《も》つと强く引いてゐるに過ぎない。

 今の文壇に文人の風格をもつてゐるものは永井荷風を別格としたら先づ漱石以來では芥川龍之介や志賀直哉であらう。そして又佐藤春夫もその俤を有つてゐる。併し芥川龍之介は何と言つても極めて自然な、ひとりでに文人の風格を築き上げてゐると言つてよい。彼が發句を詠み書畫骨董の鑑識を有つてゐると言ふだけで文人だといふのではない。心から文人の好みを持つてゐるからである。氣質が既に縹渺《へうべう》や古實や詩情を交ぜて宿してゐることだ。佐藤の文人的なものには新しさからあと戾りした氣もちがあるとすれば、芥川はその古さの中に新しさを搜る鋭い爪を有つてゐると言つた方が適切であらう。芥川の爪は時に閑暇を得るときに木の肌や人事の縹茫《へうばう》の中に搔き立てられてゐる。鷲や鷹の爪でなく、黑鷹のやうな精悍さを有ち合ってゐるやうである。[やぶちゃん注:「縹渺」現代仮名遣「ひょうびょう」。「広くはてしないさま」を言う形容動詞で、以下の並列対象とは、普通なら、噛み合わない。が、しかし、犀星は、確信犯で、そうした龍之介の内実にあるところの真の芸術家の持つところの「茫漠にして縹渺たる精神世界」の意で用いている。それは以下を読み進めるとお判り戴けるであろう。「縹茫」あまり一般的な熟語ではないが、「広くぼんやりしているさま」である。「黑鷹」先の「鷹」と区別しているからタカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis 辺りを指すか。]

 佐藤の詩が無用の長物だと言ふ詩壇の新鋭があるとしたら、龍之介の發句もまた無川の長物であるといふ俳壇の古武士があるだらう。彼らを思ふとき此無用の長物をも併せ思はねばならぬとしたら、また彼等が均しく藝術の士として後世の筆端に煩はされるとしたら、先づ此無用の長物も見遁さないであらう、彼等を見る上に之等の詩や發句は有益の文字であることを、後世の輩は感じるかも知れない。

 夏目漱石は完全な渾一された好箇の文人であつた。あらゆる意味での文人の心意氣や典型を有つてゐた。漱石を文人の外のものとして考へたくない程の、彼を論《あげつら》ふ上の必要の文人だつた。だが泡鳴を文人だといふことはできない。詩をも書いた彼を文人として曲指するに躊躇するのは、がらと質とに何か叛いた文人以外の氣持が混つてゐるからであつた。漱石の文人的なるものの感化は、また金釦を胸に飾つてゐたころの芥川にあつたのは當然のことである。又或は進んで漱石の感化裡に飛び込んでゐたかも知れない。併し彼はそのままでは決して頂戴はしなかつた。彼は彼らしく修正し補足したにちがひない、――その證據にはあれ程の大文人であつた漱石の發句は、折折光つたものを見せてはゐるものの、全幅に枯寂の俤を缺いてゐるばかりではなく、遺さなくともよい程の拙い句を殘してゐることを考へると、漱石は惡い句も棄てなかつたらしく思はれる。或は句集編纂者がでたらめに蒐集したのかも知れないが、ともあれ彼ほどの大家の發句として殘さずともよい句が可成りに多數に上つてゐるのは、漱石が棄てなかつたことに原因してゐる。あらゆる發句は粟てなければならない。心殘りなく棄てなければならない、――その意味で吾が龍之介は棄てることの名人であつた。或は彼は発句を棄ることに於てより多く名人であつたかも知れなかつた。彼の潔癖ときづものを厭ふ氣もちが左うさせたことは勿論であるが、何よりも彼は棄てることに於て元祿の芭蕉を學んだのかも知れぬ。[やぶちゃん注:犀星の漱石の俳句に対する見解は諸手を上げで賛同称賛するものである。私は彼の句の九十%は駄句と感じ、残りも採って、鞠するに当たらぬ凡句としか思えない。私は永遠に彼の選句集さえ作る気は、ない。]

 紅葉の句の拙いことは鏡花にまで影響してゐることは、彼等には巍然たる山脈の光茫を握つてゐないからであつた。漱石は子規時代の何人も其樣であつた如く、天明の豪邁な調子に乘り合うてゐた。子規が蕪村を出られず漱石が子規の間を彷徨してゐたことも爲方《せんかた》のないことであつた。何故彼等が一足飛びに元祿の豐饒な畑に種子を拾ひ得なかつたかと言へば、彼等の時勢が天明調以外に芭蕉の光輝すら幽かに漏れる夜半の明りほどにも、賴りない仄かなものであるらしかつたからだ。その時勢は芭蕉すらも月並といふ言葉の中にあしらはれてゐた時勢だからである。

 彼が何よりも元祿に心を向け其調べに從うたのは、古きに新しきを汲む心があつた爲であらう。漱石に於ける蕪村を芭蕉に補足してゐる彼は、その潔癖と苦澁と洗練との砦の中で、迥《はる》かに元祿の城を打眺めてゐた。それがいかにも彼らしい好みで又それ以外に彼の心が向ふとは想像もされないことである。彼の謂ふところの發句もまた全幅の藝術上の精髓だといふのも、彼の苦澁があつた後に初めて言ひ得る言葉であらう。

 併乍ら自分は全然彼の發句に異議なしに賛成するものではない。彼の好んでつかふ古調は時に發句に皮かぶりの古さをつけないことも無いではない。別離の句に、「霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉」の如き離愁は一應その氣もちは分りながらも菅笠の如きは、餘りに古きに從《つ》き過ぎ倣ひ過ぎるやうである。「しぐるゝや堀江の茶屋に客ひとり」の情景にしても、そのまま取入れられるにしても這入り過ぎてゐる調子ではないか。彼のねらふ縹渺は彼の凝りすぎる證據には「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の卽吟を彼は隨筆集に訂塗再考して「ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき」としてゐる。彼は三日後には原句を動かして打つて付け、付けては動かしてゐる。彼のいはゆるボオドレヱルの一行を認める所以は、彼の中では是認されなければならぬ一行でもあるのだ。併乍ら「尻立てゝ」の卽情卽景が「ひたすらに……」の後の句に添削され、原句の卽情の境を離れてゐることは彼と雖も首肯するであらう。[やぶちゃん注:「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の句については、私のサイトの初出版の冒頭の私の注を必ず参照されたい。]

  蝋梅や枝まばらなる時雨ぞら

  白梅や莟うるめる枝の反り

  茶畠に入日しづもる在所かな

  松風をうつつに聞くよ夏帽子

 彼は一槪に風流人でも俳人でもない。爐を去れば世上の埃や文壇諸公との應酬に遑なき匇忙《そうばう》[やぶちゃん注:甚だ忙しいこと。慌ただしいこと。]の男である。文壇の垢や埃の中に或時は好んでお饒舌をする男である。さういふ意味の文人臭を拔け上つた生の味の文人であらう。この意味で志賀直哉は最つと風流人であり文人の骨格をもつてゐるかも知れぬ。志賀の淸澹《せいたん》[やぶちゃん注:淡白にして無欲なこと。]は環境自身が補うてゐることも、ほぼ芥川と似てゐる。芥川が好んで曇天の美しさを見、枯れ葉の靜かさを詠むところの境致は又彼が小說の中にある「或夕暮」「或薄曇り……」のと好んで書くのと孰れも渝《かは》らない。

 彼が一句の發句にも藝術の大事を稱ふることは、細微なるものは最大のものを意味する點でロダンの說と一致してゐる。彼が此處に心を止めることは詩情を解する所以を表してゐる。すくなくとも芭蕉の詩情を狙ふ彼は自ら好んで古調の沈潜の中にゐるのは、彼の彼らしく又動かない彼自身を知つてゐるものであらう。

 

    三 流行とは

 

 芥川龍之介は不斷の流行を負うてゐることは佐藤春夫と同樣である。彼は宜い加減なものを書いてよいときにさへ、(若し恁《か》ふ云ふ言葉があれば、又假りに彼にさういふ機會があつたとしても)曾てその手綱を弛めたことがない。焦らずゆつくりと作家としての峠にゐる彼である。世に出たときにさへ谷崎潤一郞のやうな烈しい喝采を拍した[やぶちゃん注:ママ。普通は「喝采を博した」である。]譯ではない。少しづつの讀者を年年に緊めつけ年とともに數を殖してゆくやうな彼である。浮薄な讀者の間に忘られてゆくそれではなく、彼を讀むものはそのまま彼のまはりに何時までも群れ留つてゐる。「芋粥」から「玄鶴山房」まで餘り讀者は渝《かは》らないやうである。かういふ作家といふものは稀れにしか無い。これは彼の人德ではなく彼の堅め付け方が信じられてゐるからである。昨日の讀者は今日の讀者ではなく、讀者は作家の二倍くらゐの速力で進みもし先きにもゐるものだ。それを彼は知らん顏で踏まへ留めてゐることは、地味なしかも渝らない不斷の流行を擔うてゐる所以であらう。すくなくとも讀者の心に信じられてゐるからだ。

 佐藤春夫や里見弴の人氣には能く觀ればまだ浮いた人氣がないでもない。彼等は明るくて常に一種の、「華美」な雰圍氣の中にゐるからである。併乍ら志賀直哉や芥川龍之介や宮地嘉六や德田秋聲には浮いた人氣は消熄してゐる。それは人氣以上のもので人氣と名づけられない單にいい作家とだけ稱ふべきものかも知れぬ。――彼、芥川龍之介の場合はいい加減な作を作らない所以、彼の苦澁が彼を何時までも搖がせない。强ひて言へば小憎らしい不斷の流行を負ふに原因してゐるかも知れぬ。自分の如きは求められるままに濫亂の作を市に抛《なげう》つに急であつた爲に、今日の「我」をして悲しみを大ならしめた所以だが、人は志を更めるに恥を知るものではない。彼、龍之介の今日あるは又自分の大いに學ばねばならぬものだと思うてゐる。語を換へれば彼ばかりの場合でなく一國一城の各作家の弓矢や楯や兵法や築城には、それぞれに學びそれぞれに敎はらねばならぬものの多くを自分は感じてゐる。分けても彼の氣鋭は「羅生門」「芋粥」の時代から何時も同じい芥川龍之介の地盤を固めてゐる。未定稿のままの「大導寺信輔」を書いた頃から作を絕つてゐたものの、却て今年になつてからぐつと伸び上つてゐる。何時も燃えるやうな拍手喝采のそれではなく、何時も何か彼は讀者との間に信じられてゐるやうである。

 

    四 詩的精神

 

 詩にある文章や小說といふものに冷笑を感じてゐることは、久しい間の自分の偏屈な併も誠實な習慣であつた。詩のある小說とは美しくだらだらと宜い加減の文章の綾や折曲を綴り合うたものだとしたら、又世の批評家諸公の謂ふところのものであつたら、自分は彼等に根本的に詩を說明してかからなければならない手數と厄介さを感じるだけである。佐藤春夫が詩のある小說家だといふのは、彼の文章のつやであつたとしたら、佐藤もその詩のある文章といふ贋物の冠を返上するであらう。

 詩的なるものとは文章の表面ではなく、行と行との間字と字との間に、棚引く縹渺たる作者の呼吸づかひや氣魄や必逼的なものを言ふのだ。芥川の文章の中にいつも此標茫たる何物かがあるのは、諸君の悉知せらるるところであらう。志賀直哉は實に際どいところまで行くが、いつも淸らかで美しい。「暗夜行路」や「赤い帶」其他女中を書いたものにそれがある。併乍ら芥川の脈脈たる縹渺がない。芥川はいつも何か靑い煙を感じる程度の、彼自身の文章のやうな氣魄や肉體を有つてゐる。「枯野抄」の縹茫は今から彼自身が見ても、枯寂な一個の魂に對する詠嘆としか思はれないであらう。彼は充分な縹渺や枯寂を「枯野抄」では表し得なかつたと言つてよい。去來丈草の諸門弟を一々描いただけで、それだの彼のねらひが餘りに「その空氣」を表すに道具立が多かつたと言つても過言では無からう。併乍ら大正四年代に悠悠として「羅生門」を書き、越えて七年に枯寂な「枯野抄」を描かうとした彼の用意は並一と通りのものではない。彼は實に樂しみながら古實から新鮮を掘り當ててゐる。或は彼は彼自身樂しく書いてゐないと言ふかも知れぬ。何人も作者は苦吟するが故に愉しんでゐないと言ふのが眞實かも知れぬが、併し苦吟し乍ら愉しんでいないと言ふのが眞實かも知れぬが、併し苦吟し乍ら愉しんでゐないとは言へない。「藪の中」にすら彼自身愉しみ乍ら運命のはらわたを搔きさぐってゐる。彼の作の凡てがさうのやうに此作も橫縱から油斷のない手法で矢繼早に固めてゐる。然も此中の女の美しさは異狀なまでに感じられるのは、强ち物語の稍うがち過ぎたためでは無からう。

 何よりも彼は前人未到的な物語風なものに凝つたのも、彼の唯一の好みばかりでなく彼の聰明な文學的發足點であつたのであらう。そして此種の物語風な作品は不思議に今から思ふと、大正文壇の記錄的な作品の種類に這入つてゐる。再びああいふ種類の作品は我我に必要のない程度までの、それ程肝心な一小說體を爲してゐることは特記してよい。自然主義以來藝術的な物語風の小說としては、彼の諸作品は重きを爲すことは當然である。

 彼は最近物語風なものから脫けようとするほど、彼は彼の文學的過去に於て物語の作家であつた。どういふ作品も物語の範圍は出てゐない。それ故何時讀んでも退屈を感じない文字通りの小說的の効果を讀者は受け味ふことができるのだ。彼が可成り高踏的な作家であり乍らも、なほ通俗的な所以のものは一つには此物語風の姿を有つてゐることであり、話と筋とが透《とほ》つてゐるためであらう。そして此種の作品が後世の識者を問ふとしたら好箇の「記錄的な作品」として評價されるに違ひない。

 今の文壇で漱石鷗外のあとを繼ぐもの、彼ら以外の大家として殘るものは何人であるか分らない。併し我我の頭を去來するものは殘念乍ら芥川や志賀かその孰方かであらう。決して谷崎潤一郞ではない。谷崎は國寶的作家であらうが、漱石鷗外と併稱さるべきものではない。國家は稀れに取止めもない建築や器物に國寶の冠を與へると一般なものを、我我は谷崎潤一郞に感じることも無いでもない。しかも今は何となく大谷崎の大の字を與へられる作家は、芥川や志賀ではなく、實に大谷崎潤一郞だけである。併しながら漱石鷗外の後繼的氣分を我我の文學的爐邊にしばしば語られ釀すところのものは、龍之介と直哉とでなければならぬ。

 

    五 自分と彼

 

 谷崎潤一郞論の中で佐藤春夫は彼から文學的才能を蘇生させられ、培養させられたことを囘顧と感激とをもつて云つてゐる。自分も亦芥川龍之介から得たものは、意味は違つてゐても同樣のものであることを否めない。自分と彼とは僅か七八年くらゐの交際に過ぎない。しかも其間に自分は彼から種種なものを盜み又攝り入れたことは實際である。彼は殘念乍ら一步づつ先に步いてゐるからである。或は一步どころではなく十歩くらゐ先方を步いてゐたかも知れぬ。或は田舍生れの自分は田舍の辯で用途を滿してゐる牴牾《もど》かしさを、東京に生れた彼が東京辯で用を辯じてゐる速力の相違であつたかも知れぬ。

 萩原朔太郞が此間室生犀星論を三十枚ばかり書いて久濶を叙する意味で自分に示して吳れた。自分の市井生活の荒唐無稽を露骨なまでに曝き、「この頃の取澄した」自分を粉碎し又理解した文章であつた。その中に私と芥川とを批評して恁《か》ういふ意味のことを言つてゐる。「彼が芥川龍之介と知り合ひ彼等が均しく慇懃であるのは、兼て室生が欲してゐるところの敎養あり、典雅な人物に彼が行き會うたからである。彼自身の中に潜んでゐる當然典雅なるべき彼を築き上げたい夢想を、次第に彼は芥川を知つてから實顯し出したやうである。少くとも當然彼の中で睡つてゐて起きないものまでをも、芥川龍之介なる人物に刺戟されて搖り起されたと言つても過言ではなからう。」と云つてゐる。彼の言葉を藉《かり》れば敎養ある高雅の人物を私は永い間望んでゐた。そしてその人物に邂逅したことは彼の氣質からなる風雅なるものを、一層建て直したと言つてよいといふ論旨であつた。自分は萩原の言ふところに不賛成ではない。寧ろ彼は離れてゐる間にも彼の友である私を遠く注意深く睨んでゐることは、彼の唯一の友であるが故に賴母しい氣がしたくらゐである。

 菊池寬の言葉を籍れば芥川龍之介は人がいいさうである。彼に逢つたどういふ人も彼を惡く言ふことを聞いた事がない。會はない前から見れば會つてよかつたといふ懷しさを感じさせるらしい。そこが彼の人のいい、隱し立をしない人がらであるかも知れぬ。彼の上機嫌は彼を長廣舌にさせる事は暫らく擱《お》いても、彼は妙な人見知り氣取りや故意《わざ》とらしい氣障《きざ》からとくに卒業してゐることは實際である。人間が出來上ることは人見知りや氣取りの必要のないことであらう。しかも彼は皮肉でなく正直に言つてゐる。「僕は誰とでも或程度までは交際《つきあ》へるがその或程度までで又引歸して來る。」と彼らしい氣持の手堅さを見せてゐる。かういふところは人が善いのだか惡いのだか分らない。或は或意味で菊池寬の方がよほど彼よりも人がいいのかも知れぬ。

 一槪に萩原の所謂「典雅なる人物」との邂逅に依つて、自分の全幅が影響されてゐると言ふのや、彼に依つて初めて自分が搖り起された譯ではない。彼に據つてほんの少しづつ自分は彼のものを盜んだ丈である。彼の中にあるもので自分に取つて解らなかつたものが解るやうになつたことは、或意味で重大なことかも知れない。とにかく彼は却却《なかなか》の苦勞人である。しかも彼の苦勞人の所以のものは妙に垢じみた薄暗いそれではなく、明るい冬の朝のやうなそれである。彼は學問や經驗の上からも、自分とは全然反對であるが、しかも彼は經驗せずして經驗する程度のものを直覺する男である。彼は或意味で世間的に云へば恐るべき早熟だとも云へるのである。或は彼があれだけの才能を不良性のまま驅り立ててゐたら、どうにもならぬ人間になつたらうと思へる程である。麼《か》ういふことは禮を失するかも知れぬが、彼が不良の徒だとしたら才氣煥發で一世を震骸させるかも知れない。

 

    六 「玄鶴山房」の内容

 

 彼は最近「彼」第一第二「點鬼薄」「河童」「玄鶴山房」等を次つぎに發表した。そして批評家諸公の謂ふ神經衰弱でへとへとになつた彼を見直さした。今では神經衰弱もまた彼の一轉期だつた風に云ふかも知れない、――獨逸人は病氣をしない人間は莫迦だと云ふさうである。又古く長與善郞は餘りに健康で肥つた人間も莫迦だと言つたやうに覺えてゐる。

「玄鶴山房」には最近の彼が懷いてゐる憂欝な氣魂が沁み出てゐる。「玄鶴山房」には壓搾の美がある。出來得るだけ纏めつけた上に彼の好んで恍惚とする壓搾の美しさを彫つてゐる。木彫の美であるかも知れない。そして又甲野は種種な家庭から家庭へ渡り步く看護婦としての天職に苛酷なほど忠實であることが、時折その眼を上げて、徐ろに觀察の微妙をその女性らしい心に落してゐる。

「玄鶴山房」は在來の彼の物語であるよりも一層物語のさねに障つてゐるところの、彼の鋭い爪に據られ[やぶちゃん注:適切な読みが浮ばない。私はここは「抉」(えぐ)「られ」とあるべきところかと思うのだが。]彫られたしごとの一つである。自分はこれらの人生に各各一人づつの人間に美を感じた。玄鶴には玄鶴の美、甲野には甲野の美、お芳にはお芳の美、其他の人間にも美を會得した。これを「秋」と較べると幽かな新派哀愁とも云ふべきものが、最《も》う重疊された憂欝をたたんで「玄鶴」に聳立《しようりつ》してゐる。しかも色で云へば「玄鶴」は澁好みであると云つてよい。讀み終へて舌ざはりに殘るものは彼の澁好みであらう。

 小說は落筆前の材科で一度作者を苦しめるものであることは事實であるが、彼の場合時折息苦しい折疊をこころみてゐる時に、いつでも何か美がある。赤松月船もまた彼の論文の中にチラチラ光るものを感じると言つてゐるが、それは彼の文章の構成や結構が折りたたむ氣魄の一種ではないか。これは又彼から見遁してはならないものだ。此チラチラ光るものは要するに彼の質の冴えのやうなもので、永年彼が知らず織らず[やぶちゃん注:「識らず」の誤植。初出は「識」である。]の間に磨き上げたものだと思ふ。遺憾乍ら「河童」の中にチラチラ光るものがあれば、アートペエパアを捌くやうなそれであり、「玄鶴」の中にある冴鋭《ごえい》なるチラチラではない。「羅生門」の丹の剝げた柱にきりぎりすを點出した彼は、「秋」の宵口に電燈の球に止つてゐる蒼蠅を按配した。これは決してチラチラの中のものではない。彼はつひに「玄鶴」に甲野さんを按配するのは殆ど當然のことであつたらう。

 或批評家は「河童」を彼の智識的なる產物として批評した。また或月評家はこれを童話として品隲《ひんしつ》した[やぶちゃん注:品評した。世間的に分類した。]。また或批評家は彼でなければ書けぬものだと所斷した。孰れも當り孰れも當らないやうであつた。自分に言はすれば「河童」は彼の苦汁のやうなおもちや箱を彼が整理して見たまでのものであるやうな氣がする。或はさうでないかも知れぬ。併乍ら彼のおもちや箱は何時もああいふふうの品品に滿ち、ああいふふうのおもちやが一盃に詰つてゐることは噓ではない。――彼はさまざまな河童をならべ其等に迷ひ子札を一々克明に提げた。

 

    七 描寫に就て

 

 彼の文章に壓搾の美のあることは既に述べた。同時に材料もともに壓搾されてゐることも見遁されぬ。志賀は生のままの文章で行くが、彼の縹渺の趣を缺いてゐることも述べたとほりである。しかも里見のうがちは無く谷崎の壯大は窺へないかも知れないが、脈脈として糸吐く蠶の縹渺を含んでゐる。又凝り上ると峻嚴な、練るほどつやを吐く糸のやうである。樹で云へば常磐木の美であるかも知れぬ。隨筆集「點心」の中に彼は文藝上の作品では簡潔なる文體が長持ちのする所以を述べてゐる。彼は文章の荒糸だけを丹念に拔いてそれを統べたり編んだりしてゐる。大正十一年作の「トロツコ」には手堅い寫實的な、淡《あつ》さりした手法を用ひて効果を得てゐる。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が三字下げのポイント落ちであるが、前後を一行空けて、同ポイントで示した。]

 

或夕方、――それは二月の初旬だつた。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロツコの置いてある村外れへ行つた。トロツコは泥だらけになつた儘、薄明るい中に竝んでゐる。が、その外は何處を見ても、土工たちの姿は見えなかつた。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロツコを押した。トロツコは三人の力が揃ふと、突然ごろりと車輪をまはした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかつた。……(トロツコ。)

 

 此描寫の中に無駄は一字もない。或意味で寫實の奧を搔きさぐつてゐるやうなところがある。自分は世にいふ名文といふものは知らないが、恐らく名文といふものには此種に文章が名づけられてもいいものであらうと思つてゐる。此中に壯麗も見榮も氣取もない。あつさりと餘裕のある、まだ幾らでも書ける筆勢が見えるやうである。愛すべき小品「蜜柑」の中の「しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかゝつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい葦屋根や瓦屋根がごみくと狹苦しく建てこんで、……」[やぶちゃん注:以上の引用は底本ではポイント落ちであるが、同ポイントとした。以下でも同じ仕儀としたので、そちらでは略す。]の數行は、その布置が稺氣《ちき》[やぶちゃん注:子供っぽいこと。]の見えるまでに正直な、その上或る憂欝のある景色を描いてゐる。「トロツコ」の人生は活發な人生である。[やぶちゃん注:底本には句点が行末で組めなかったか、句点がないが、補った。]「蜜柑」も同樣に子女をあつかひ乍らも、人生の風雪は著早《いちはや》く「蜜柑」の少女を傷めてゐる。行文に一味の陰欝が窺はれるのもその爲であらう。併し乍ら「蜜柑」は大正八年の作であり或意味で「トロツコ」の淸澄簡潔には及ばない。

「子供の病氣」は彼の生活的な日錄のやうなものであるが、時に妙に思ひ上つた樣なところのある「保吉」物よりも私の愛讀するものである。これは彼の所謂素直物[やぶちゃん注:所謂私小説風の物の謂いであろう。]の一つであるかも知れない。彼の散文詩めいた物の中にも素直物が折折にある。「仕事は不相變捗どらなかつた。が、それは必しも子供の病氣のせゐばかりではなかつた。その中に、庭木を鳴らしながら、蒸暑い雨が降り出した。」夏の雨らしい大粒な景色が描かれてゐる、これは彼が發句に丹念してゐるために締付けられた文章と見るのは當を得てゐない、――自分は彼の大作よりも何故か寧ろ小品に近い物ばかり擧げてゐるやうであるが、これは自分の趣昧ばかりではなく彼の小品めいたものを愛讀するからである。

 彼を理智の冷徹な作家とすることも一評的であらうが、寧ろ人生には愛情のある作家であることは特記して置きたい。彼といふ人物や生活には人懷こいものがあるやうに、存外冷徹な理智者の彼に自分はその愛情の匂ひを嗅いでゐる。「お時儀」の中の人生は誰でも屢屢經驗するところのものであるが、汽車から降り立つ何時も宜《よ》く逢ふ女の人に、思はずひよいとお時儀をする彼は全く彼らしい人の善い氣輕な氣持を有つてゐる。それにこの作の中に愛情を有つ彼が愉快げに佇んでゐるのが行間に沁み出てゐる。「――お孃さんは今日の前に立つた。保吉は頭を擡げたまゝ、まともにお孃さんの顏を眺めた。お孃さんもぢつと彼の顏へ落着いた目を注いでゐる。二人は顏を見合せたなり、何ごともなしに行き違はうとした。」

「丁度その刹那だつた。彼は突然お孃さんの目に何か動搖に似たものを感じた。同時に又殆ど體中にお時儀をしたい衝動を感じた。」彼の謂ふところの簡潔と壓搾とが遺憾なく表現され、その折の氣もちが鮮鋭に透《とほ》つてゐる。彼は此お孃さんを可成り高びしやな、上から見卸すやうにしてゐながら、遂にお時儀をしたい衝動を感じてゐるところに、彼らしい氣もちが出てゐる。これだけに絞つて書くことは却却《なかなか》容易なことではない。

 彼の文章に型のあることは總《あら》ゆる作家に型のあると又同樣である。併乍ら彼の型は彼を苦しめはすれ樂にはさせてゐない。大槪の作家は樂樂と型に這入つて行くが、彼はいつも身悶えをしてその型に這入つて行く。しかも「玄鶴山房」あたりには、型の角がとれてゐた。内側から型にふくらみを付けたことは實際である。内容が文章の上へ出てゐる、――文章が下地になつてきらきらしてゐることに氣がつく。誰でもかうなるとは決まつてゐない。「彼等は竃に封印した後、薄汚い馬車に乘つて火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀の前に佇んだまゝ、彼等の馬車に目禮してゐた。重吉はちよつと狼狽し、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乘せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラアの枯れた道を走つてゐた。」又甲野といふ看護婦を描くのに彼は刺し徹すやうな數行を四の末端で結んでゐる。彼の簡潔の中に並並ならぬ深い用意のあることを感じる。「お鈴の聲は「離れ」に近い緣側から響いて來るらしかつた。甲野はこの聲を聞いた時、澄み渡つた鏡に向つたまゝ、初めてにやりと冷笑を洩らした。それからさも驚いたやうに「はい唯今」と返事をした。」彼の諸種の作品の内でこの數行の如き透徹冷嚴の旨(うま)みは、容易に見出せるものではない、殊に第二聯の逆手を打つた逆描の冴えは、他人は知らず自分の推賞したいところである。全く歷歷(ありあり)と目に見えるまでに描いてゐる。かういふ彼の中にあまさは微塵もなくぎりぎりに詰めてゐる。

 彼の描く人生の量や幅や深淺の程度は、いつも文章と喰ひちがいなく嵌り込み、食み出してゐるところは少しもない。「點鬼薄」は「點鬼簿」以外のものではなく、さながらの過去帳であり點鬼簿である。そのまま四六判の書物になり小穴隆一の裝幀を思ふほど、四六判へ辷つて[やぶちゃん注:「すべつて」と読むしかないが、今一つ、変な表現である。私は「辿つて」の誤りのような気がする。但し、初出も「辷」である。]行く作がらである。彼のどの作も金緣の額へではなく好ましい額ぶちへはまり込んでゐる。

 彼のどの作にも同じ種類の人生、同じい生活の再出は見られぬ。一作ごとに何等かの變化を全然異つた人生を表はすことに苦心してゐる。樂なものを後方に左うでない難しいものへ進んでゆくことは特記に値する。絕えず毛色の違つたものへの進展は、樂樂と書けさうなものを後𢌞しにさせてゐる。しかも彼は彼の自敍傳らしいものに殆ど手をつけてゐない。作家の最初に手を付けるものを彼は最後に𢌞してゐるのも、奧床しくないことはない。「就中恐る可きものは停滯だ。いや藝術の境に停滯といふことはない。進步しなければ必ず退步だ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかりを書く事だ。」[やぶちゃん注:ここは底本でも同ポイントであるが、「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行の『新潮』初出。後に作品集『點心』『梅・馬・鶯』に所収された)の六番目のアフォリズム中の一節である。リンク先は私の古いサイト版電子化注。]彼はさうも言ひ停滯の危險なことを警戒してゐる。藝術家の死に瀕してゐるものは同じ事ばかりを書く事であることを言つてゐる。

 彼のどの作も彼自身に取り又私だけの見方としては、何時も試みらしい作のやうに思へてならなかつた。絕えず材料の轉換に悶えてゐる彼には、作を透《とほ》してさへ其等の氣持がぢかに感じられてゐた。あらゆる作家の内で彼ほど描かれた小說の事がら以外に、彼の「藝術」を感じられる作家は殆ど稀なやうである。何か彼らしいものを(これは一種の文章がもつ人格的なものかも知れない。)自分はその小說以外に感じられてならなかつた。これは志賀の場合には感じられる氣魄的な文章のもつ靈魂みたいなものである。決して亡靈ではない。(文章の靈魂とは變な言葉であるが、さういふものが存在してゐるやうな氣がするのだ。他の何者にもそれがなくとも文章にはその靈魂がこもつてゐるやうに思ふ。)恐らく彼の文章は次第に「玄鶴山房」に見るがやうに、殆ど内容を盛るだけの用を爲すに停まり、在來の文章そのものの肉を避けて行くやうになるであらう。文章のすぢばかりを彼一流の氣魂で練り上げて行くやうになるに違ひない。

 彼の名文家でないことは述べたが、しかも彼は大正時代に於て文章が單なる文章の肉を必要としないところの、淸瘠《せいせき》の一文態を築き上げたこと、その一文態は在來の描寫が有《も》つ病的なほど過剩された文字の埋積から、完全に隔れた一新樣式を練り上げたことは認めてよいことである。あれだけの文章はただ簡勁だといふに片づけてはならぬ。あれだけのものを今日に於て築き上げたことは誰も氣付いてゐないやうである。しかも其等の文章は第三期新進諸君(同人雜誌)のために、最もよき踏臺となつてゐることを自分は注意して見てゐるものである。あらゆる文章の進んでゆく速度は恐らく十年目くらゐに或變化を與へてゐる。硯友社時代と獨步時代、そして大正時代との間に徵しても明らかである。今後十年近くの間に變化が起るとすればわが龍之介の壓搾の美も、彼らには可成りな健實な踏臺となるに違ひない。あらゆる藝術的なるものは次の時代の足つぎになることに存在するからである。

 此小論を書くにあたり諸家の高名を禍《わざはひ》したことは、作者の至らざるところであり、作者の至らざるところは文章の至らざるところである。豫めお佗びして置く。

            (昭和二年五月作)

2022/03/16

室生犀星 碓氷山上之月

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの室生犀星著「魚眠洞隨筆」(大正一四(一九二五)年六月新樹社刊)の「日錄」パートのここから始まる「碓氷山上之月」を視認して電子化した。

 傍点「﹅」は太字とした。なお、本文中に四ヶ所出る「妹」は活字は孰れも「妺」であるが、「妹」に代えた。

 注したいことがゴマンとあるのだが(無論、芥川龍之介と松村みね子=片山廣子に関わる部分で)、今回は急に思い立って仕儀であったので、躓いた箇所にのみ、語注を附すに留めた。

 

      碓 氷 山 上 之 月

 

  ぽつたりと百合ふくれゐる株の先

 その百合の花が一本に四つの花をもつてゐる。四つといふ數はきらひである。それゆえその一つを剪つてしまふ。ところが最う一本の百合にも四つの蕾がふくれてゐる。やはり剪ることにした。

 澄江堂はとなりの襖を隔てた部屋で、予は入口の方に室を撰んだ。窓の前に小さい池があつて噴水がのぼつてゐる。筧に穴をうがつてあるところから一間くらゐの水が輪のやうに池の面を敲いてゐる。まるで誰か小便をしてゐるやうで、見てゐるのが呼吸苦しくなる。……

 澄江堂と襖一重ではあとになつてお互ひ窮屈にならぬかと思ふ。澄江堂は君さへよければ關はぬといふ。しかし君にどうかといふ。なるべく隣室でない方がよいけれど、室がないからお互ひにがまんすることに仕やうといふことになつた。(大正十三年八月三日、七十九度)

        ×

 朝六時に起きる。散步してかへつて來ても澄江堂はまだ床にゐる。が、とくに眼をさましてゐるらしく起きて出てくる。……」

 「あゝよく寢た。……」

 と云ふ。よく寢たらしい顏附である。

 澄江堂はパンとミルクの朝飯だが、予はあたり前の朝のおぜんである。この宿に五十幾人かの避暑客はゐるがみんなパンとミルクの朝飯である。日本食は予ひとりくらゐださうである。パンとミルクで朝飯をたべると茶がうまく飮めない。も一つはパンとミルクで朝飯をすますと朝飯のかんじがしない。あれは朝寢坊のたべものだらうと考へた。

 「この宿にゐる間だけパンとミルクにして、家へかへると日本食ぢやないかな。」

 さういふと澄江堂はたいがいさうだらうと言つた。

 「けふたつちやんこが來るが、別の室をたのんで置いた。」

 「たつこちやんが來たらホテルヘ行つて飯を食はう。」

 たつちやんこを聞きちがへてたつこちやんと澄江堂はいふ。たつこちやんは少しをかしい。その辰ちやんは此間から予の鄕里の家で泊つてゐたのだが、予が輕井澤へ行くのと一日おくれて歸京するので、こゝヘ途中下車をして一泊することになつてゐるのである。

 「風蘭や暑さいざよふ石の肌はどうぢや。」

 澄江堂はいつの間にか予の田舍訛を覺てしまつた。が、また、「どうも上の句がしつくりしないな。」さう言いて、「石菖や暑さいざよふ……これもいかん。」と言つた。

 「藤棚や暑さいざよふ……これもいかん。」

 澄江堂は七へんばかり上の句をなほし、たばこをすぱすぱ喫つてゐる。「日盛りや暑さいざよふ……これもいかん。」と言つた。かれはいかんいかんを續けなりに言つた。

 午扱、堀辰雄君來る。そして家の方で、昨日朝子が乳を吐いて一日泣き通してゐたと言つた。又かと思ふ。心すぐ暗くなる。

 「消化不良だね、よく注意しないといけない。葉書でも出しときたまへ。そばにゐるやうに力になるものだよ。」

 澄江堂は濕布その他の手當の話などをした。

 晚、輕井澤ホテルヘ三人で行く。すぐ脇隣りに岩谷天狗のやうな西洋人がゐて、四合入の牛乳の甁を控ヘビールのやうにどくどく飮んでゐた。

 「あれをみんな飮むつもりか?――」

 予は尠なからず恐怖した。

 「君、ちやんと聞いてゐるよ、あつち向いてゐてもね。」

 澄江堂はしつしつといふやうな顏をる。……なるほど、田舍へ行つてから聲が大きくなつた矢先きだし、あわてて予は緘默した。

 西洋人は予らが食卓を離れるまでに完全に牛乳の四合入りを一滴あまさすに飮んでしまつた。予はいまさらに世界地圖に一覽を與へたやうな悠大な氣がした。

 喫煙室に坐つてゐるうち去年見た西洋人が泊つてゐないことに氣がついた。三人の子供に順繰りに本をよんで聞かせてゐた美しい異人の母親は來てゐなかつた。外へ出てから予は辰ちやん子に囁いた。

 「去年とはさぴしいやうだね。」

 「そんな氣がしますね。」(四日、七十六度)

        ×

 マンペイホテルヘ茶をのみに行つた。暗い木の茂みが橋の上をつつんでゐるところで、予は突然右の人差指がこの冬ぢゆう痺れてゐて、溫かくなつて癒つてゐたが二三日中に急にそのしびれが冷氣のために來てゐるのに氣づいた。

 「これが君、またしびれ出して……」

 さう言つて人差指をさし出すと、澄江堂はわつと言つて吃驚りした。

 「ああびつくりした。こりや――」

 葉のこまかい枝が夜ぞらに恩地君の版畫のやうに浮き出してゐる。「怕かつた――」と言つて吃驚したのぢやないと言つた。

 散步からかへつてから松村みね子さんが室の前を通つて、お寄りになる。去年おあひをしてから話をするやうになつてゐる。それもいつも輕井澤だけである。

 あとでお菓子を松村さんに持たせてやる。

 辰ちやん子歸京。(五日、七十五度)

        ×

 朝、あんまをとる。

 澄江堂は仕事をしてゐる。あるだけの戶を閉めきつてゐる。予は開けてゐるが反對である。それから予は晚は九時には床にはいるが、澄江堂はたいがい一時ごろ寢るらしく、起きてゐるのか寢てゐるのか分らないほど靜かである。

 松村さんから大きた栗饅頭六つ、紙に包んで女中にもたせて來る。手のひらくらゐある大きさである。澄江堂はその大きなのを一つ晝飯後にたべる。一たい食後にすぐ菓子をたべるのは胃によくないと言つたが、いつのまにか食べるやうになつた。予が國から持つて來た金玉糖を一つづつ食べるやうになつたのは、甘好きの澄江堂の風習がうつつてしまつたのらしい。

 楓と鬼齒朶のかげから朝日グラフの記者がひよつこり顏を出して、ぱちつと二人の寫眞を撮つた。――それから向ふの座敷にゐる兄妹と母親との一族の、その兄らしい少年が散步からかへつてくると、澄江堂をぱちつと撮つてゐた。そのおれいに罐詰の水蜜桃が澄江堂へと持つて來た。予を閉却するも甚だしい。が、水蜜桃だけは一つ食べた。[やぶちゃん注:「そのおれいに罐詰の水蜜桃が澄江堂へと持つて來た。」はママ。「そのおれいに罐詰の水蜜桃を澄江堂へと持つて來た。」の誤字か誤植であろう。「閉却」もママ。「閑却」の誤植であろう。]

 その少年の妹さんはべつぴんである。かの女はいたづらに椽側へ靴下の足を投け出してゐるのが、予の机の方から見えた。れいの「暑さいざよふ」敷石のまはりの芝をけふは手がけをかけた里女が刈つてゐる。その遠景にまつつぐに一とすぢの噴水が今日から上がつた。その芝と噴水との景色はよかつた。予はしきりにほめたが澄江堂は默つてゐた。しばらくしてから、

 「なるほど、いいな。」と言つた。

 そしてまた暫らくしてから「僕はちよつと睡るからね。」と言つて睡いかほをした。昨夜二時に起きて小用を達しに行つたら、かれの部屋のひらきが椽側の方へ二尺ばかり開いて、濛濛たる煙草のけむりの中に端然と坐つて仕事をしてゐた。予は默つて小用を達して睡つたのである。それゆえ[やぶちゃん注:ママ。]睡いのであらう。――

 二時間ほどすると洗面したやうにさつぱりした眼つきをして、

 「ああよく寢た。」

 と言つた。

 晝寢のできない予はこのああよくたは羨しかつた。睡たいときにはほろりと睡れるらしいからである。

 「ほんとによくねたよ。」

 

 

 夜、マンペイホテルヘ飯をたべに行く。樹の間透く電燈が美しい。食卓のもう一つ向ふの食卓にひとりの美人が家族に交つて坐つてゐた。笑ふと白い齒が揃つてそれが屈託なささうに淸潔な感じをさせた。

 一年間西洋人を見なかつた田含ぐらしの予の眼に、西洋人が珍らしかつた。一たい輕井澤は妙に上品振つてきらひである。しかし凉しいのは好きである。ことしは西洋人が見られるのが一つよけいな樂しみになつた。

 「谷崎君が好きかも知れない。」

 澄江堂はかう言つたが、予は春夫はどうだらうと言つた。そして予はまた、春夫は苦情なしにはここに居るまいと思つた。(六日、七十六度)

        ×

 朝起、冷たい雨を見た。

 椽さきの山百合が雨垂を含んでうなだれてゐる。家からの手紙に朝子乳吐くことと、東京から遊びにきてゐるひろちやんの耳の中へおできができた、多分、水泳のためであらう、なるべく早くかへれとあつた。予はまた心欝した。

 澄江堂起きてくる。――

 「夏に子供をあづかるのは考へものだ。」

 さう言つた。

なるほど考へものであると思つた。[やぶちゃん注:一字下げ無しはママ。誤植であろう。]

 二人で食事をするのは每度のことである。しかし予はまだ澄江堂が洗面をせずにゐることに注意を拂つた。が、かれは平然と箸の先きで木つつき鳥のやうに半熟の卵のからをこくめいに叩いて、その破れたところから剝ぎはじめた。洗面をせすに飯をくふつもりらしい。飯が終つた。

 「据風呂に犀星のゐる夜さむかな、はどうぢや。」

 「ひととほりはいいな。」

 かれの脊中は形よい小ぢんまりした肉をもつてゐる。ちよつと鮎の感じがあるなと思つた。かれは湯をあびながら、

 「けさ顏を洗ふのを忘れてしまつたよ。」

 さう言つて洗面した。「僕はちやんと知つてゐたんだが默つてゐたんだ。」さう予は言つた。

 午後、部屋にこもつて苦吟してゐるらしかつた。それが二三日前から烈しくなつたやうな氣がした。

 夕方、裏門きはの女中部屋の戶板に向ひ、立つたままで女中のお雪が泣いてゐた。――色も白く浴衣も白い名もお雪といふ此の女中は、どこかの小間使ひをしてゐたので能く料理番なぞに叱られると聞いてゐたが、可愛さうな氣がした。

 「さつき百合が泣いてゐた。……」

 「可哀さうにいぢめられるんだね。――」

 澄江堂と予とはこの女を百合と言つてゐたのである。百合は一日くらゐ客の間の世話を燒くと、つぎからつぎへと新手の客に代へられた。(七日、七十八度)

        ×

 雨になつて雷嗚がした。次第に烈しくなる。……いままで靜まり返つてゐた澄江子は何か叫びながら、玄關さきの應接間へ飛んで行つた。予は折柄、あんまをとつてゐたが、療治はもう終りかかつてゐたけれど、澄江堂が馳け出してから少し怕くなつた。それにまだ肩先きにあんまが薄暗く取りついてゐる。――

 「大丈夫か、あんまさん。」

 「ぴりぴりと來る奴はあぶなうござんすが、まだごろごろくらゐでは大したことはありません。」

 「だんだん烈しくなる。……」

 「しまひにぴしつと來ます。そいつは恐いが……」

 雷鳴が次第に近くなつた。雨は底ぢゆうに溜つた。池の水があふれた。

 「もう止すよ、君!」

 予はあんまを止めてもらつた。そして、「君はこの部屋にゐても大丈夫かね。」とさう尋ねた。

 「なあに雷くらゐは――」

 予は應接間へ行くために庭の雨の中を走つた。應接間には松村さん、そのお孃さんが、もう避難してゐた。澄江堂も神妙に椅子によりながら、酷いかみなりだなあと言つて、氣がついたやうに、

 「君、あんまはどうした。」

 「置いて來た。」

 予は椽側に泰然と坐つてゐた先刻のあんまさんの姿を、勇勇しく思ひ返した。

 「置いて來たは驚いた。……」

 松村さんもびつくりしたやうな顏をした。

 「かあいさうに――」さう言つて、女中にあんまさんをつれて來ておあげなさいと言ひつけられた。

 「あんまは大丈夫だと言つてゐましたよ。」

 「でもね、こんなに降つてゐるんですもの。」

 お孃さんもさういふ。が、かみなりはやまなかつた。稻光りがするごとに松村さんのお孃さんが、

 「おかあさま、大丈夫?――。」

 怕さうにさう言つた。

 晚、松村さん、お孃さん、大學へ行つてる坊ちやん、澄江堂の四人で散步をした。大學ヘ

行つてゐて坊ちやんはをかしいと予は松村さんに言つた。松村さんと予との間に風月論が出た。澄江堂は松村さんに議論を吹きかけた。松村さんは穩やかな人である。(八日、八十度)

        ×

 はじめ澄江堂と襖合せではおたがひに仕事の都合がわるくないかと思つたが、一しよにゐると澄江堂といふひとはよくできた人物だと思つた。却つて襖どなりでお茶にしやうかとこちらで言ふと、又、向ふから少し步かうかと言ひ、すこしも氣が置けなかつた。晚、予は予の規則をまもるために九時半には床へ這入つたが、澄江堂は應接室へ行つてかへつてくるのにも、靜かに雨戶をあけて歸つた。

 「また客か?――」

 さう寢床から聲をかけると、

 「眼がさめたのか。――」

 と言つた。

 「いや・まだ起きてゐたのだ。よくお客があるな。」

 澄江堂は間もなく仕事を初める。……予はねむるのである。こんな風に暮しが反對であつたが、そのもたれが無かつた夜中であつた。

 予が厠へ椽側づたひにゆくと、澄江堂が椽側にあるお湯を取りに出るのと一しよであつた。兩方でびつくりした。

 「わあ――」

 「ああびつくりした。」(九日、七十八度)

        ×

   秋ぜみの明るみ向いて啞かな[やぶちゃん注:「啞かな」は「わらふかな」と読む。]

  松村みね子さんが咋夜二階の段梯子をふみはづして、足のゆびを傷められたと女中が言つた。そこで一句、

   草かげでいなごがひとり微笑うた[やぶちゃん注:下句は「うすわらうた」か。]

 澄江子も和歌一首をしたゝめ、お見舞ひのかはりに持たせる。――晩、二人で松村さんの部屋へはじめて遊びにゆく。(十日、八十度)

        ×

 朝、散步してゐると美しい西洋人の姉妹が別莊道から下りて來た。二人とも樂譜を持つてゐる。ひとりは藍色で妹は純白な服を着てゐる。姉の肩つきは富士山によく似てゐた。えりくびは乳のやうに白かつた。

 

 この旅館の應接間は客がみんな食前とか食後には、よく出て來て椅子に坐つた。三年つづけて挨拶をしてゐたが、その五十がらみの人の好い顏の客が醫學博士であることや、白足袋でゴードを喫むのが齒科の先生であることや、毛糸のジヤケツを著てゐるのが千葉の地主であることや、三人のお孃さまをつれてきてゐるのが田端の地主であること、また每年のやうに演說會の事務を取りにくるのがレヴエヂヤトフに似てゐることや、朝から賑やかに若い妻君と出步いてゐるのが神奈川の金持ちであることや、その他の人人がみんな應接間へ坐つては休んでゐた。予は誰にも馴染みになれなかつた。[やぶちゃん注:「ゴード」不詳。「ゴルフ」のことか? はたまた、テニスの「コート」? 或いは葉巻の銘柄? 判らん! 「レヴエヂヤトフ」不詳。]

 

 齒科の先生は輕井澤の金棒引きで、土地と別莊をもつてゐた。そして談たまたま輕井澤のことに及ぶと、昂然として言つた。

 「輕井澤にはもう土地なんてありませんよ。」

 

 夕方、澄江堂と散步しに出て射的をした。かれは二つパツトを落した。予も同樣二つ落した。予は生れて鐵砲を手にもつたことが初めてであつた。

 「このつぎは五つの内四つまで落す自信はあるがなあ。――」

 この前さう言つた澄江子は、たつた二つしか落せなかつた。(十一日、八十度)

        ×

 朝子の帽子を二つ、マントのやうな毛糸編みのちやんちやんを二枚、レースを一丈、それだけを買つてかへりかけると、れいの裏門の女中部屋でまたお雪が唏いてゐた。予はすぐ神經質ですぐ對手に應へる顏の番頭を思ひ出した。每年の老番頭のかはりに新しく來た番頭であつた。老番頭の仕事はいくらか浮いて氣の毒であつた。時代はこの三千尺の山の上の旅館の上にまで、その餘勢をもつて訪づれてゐた。[やぶちゃん注:「唏いてゐた」「ないてゐた」と読んでいよう。「唏」は「なげく」「かなしむ」以外に「すすりなく」の意がある。]

 室へはいると澄江子はすぐ起きて出て、

 「ああよく寢た。」と又言つた。そして、

 「今夜は徹夜ぢや、すこし瘦せたかな。」

 と、その頰へ手を持つて行つた。予が來てからも少し瘦せたやうに思はれた。

 「お雪がまた泣いてゐたよ。」

 澄江堂は不愉快な顏をした。その不愉快さは次第に憐愍の表情に變化つた。戶板の方を向いてしくしくと泣いてゐるのが、予に鬪係のないことだけに哀れを催した。

 「ああいふぼんやりした顏といふものは憎み出したらきりもなく憎くなる顏立ちだが…」

 「さうだよ、だから可哀さうだよ。」

 澄江子はさう言つた。

 二人とも庭へ出た。澄江子はそこにある高い楓の木の枝移りにするすると木登りをはじめた。何か腹が立つたやうにである。

 

 晚、マンペイホテルヘ茶を飮みに行つた。

 食堂の電燈がいつもよりも數多く點れてゐて、音樂が夜色を縫うた植込みの中から起つてゐた。

 「何かあるんだな今晚は?――」

 「さうらしいね。」

 サロンに集つてくる人達ち[やぶちゃん注:ママ。]は、西洋人もさうだが、日本人もつくりが派手らしく見えた。肌を露(む)いた西洋人が食堂の方へでかけるときに、サロンにゐる日木人の娘や夫人にあいさつをして行く。……あれらはみな知り合ひと見えるな。しばらくして今喪はダンスがあるので、宮さまもおいでだといふことであつた。二人はぽつ然[やぶちゃん注:ママ。]として坐つてゐたが、不調和な空氣を感じた。

 「出やう。――」

 二人は同時にさう言つて、玄關わきの美しい西洋人の間をすりぬけた。

 「輕井澤では星が少し大きく見えるよ。」

 さう言へば星が大きく見えた。これまで氣がつかなかつた。――宿の應接間に松村さんが居られた。どちらへ?――マンペイへ行つて來ましたと予はこたへた。(十二日、八十度)

        ×

 二三日上らなかつた正面の噴水がけふから又上つた。刈つた芝が美しい。百合はみんな凋れて了つた。ばらばらと通り雨があつたあとに、全く秋の半ばのやうな凉風が吹いた。

 夕方から碓氷峠の上へ月を見に行かうといふことになり、松村さんとお孃さん、旅館の主人、澄江堂と予とが自動車に乘つた。峠へは登り道ばかりで、松村さんは少し蒼い顏をして、

 「恐うございますね。」と言つた。

 お孃さんは十七であるのに、お母さんにしつかり抱きついてゐた。自動車はげつくりとはずみを食ひながら、樹の間から見える月の山峽を登つて行つた。屛風に描き分けた峽の道を指呼の間に上るやうな氣がした。

 碓氷村は峠の頂に黑ずんだ屋根をならべ、その低い庇に四隅に紙房のある古風な切子燈籠を軒ごとに吊してあつた。けふは月遲れのうら盆の日である。

 「あの燈籠はいいなあ。――」

 自動車から下り立つた澄江堂は、仄暗い明りにやつと見分けられる家の中を覗き込みながら言つた。十二三の女の子がらんぷの下で何かの本を讀んでゐるのが、うす暗いので同じ家内でもずつと遠くのやうに見えた。

 「賴んだら吳れないかね。」

 燈籠の骨と紙とが四邊(あたり)の荒い風色と關係があるやうにも思はれた。暗さになれるとその燈籠を吊した庇の下に、何かの葉の硬い石菖のやうな草が磊落たる石の間に蓬蓬と茂つてゐた。

 熊野權現へ參詣した。

 松村さんもお孃さんも權親さまの石段の下で羽織を着た。見晴臺へ行くと、妙義山一帶の山脈が煤まみれのむら雲の中に、月の片曇りをあびながらどんより重疊してゐた。茫茫たる歲月を封じ込んでゐるやうで、むしろ騷騷しい挑んだ荒凉たる景色であつた。

 二三人の西洋人が七輪に炭火を起して、お茶をあたためながら、ベンチに同勢らしい二三の若い娘さんたちと何か話してゐた。こんな景色は繪よりも文章よりも音樂に近いかなあと澄江子が言つた。

 「そんなにおさむくはございませんね。」

 松村さんは羽織着のほつそりした姿で、旅館のあるじとさう話してゐる。――予はうちの朝子が乳を吐いたことや、ひろちやんの耳のおできや、けふ來た手紙でうちのものの乳にこりのできたことなどを思ひ浮べた。雲は北方へ吹きよせられ東方の山道が見えて來た。雲がないので刷いだ[やぶちゃん注:「はいだ」。]山峽は靜かであつた。

 「あれが暴れ出したら大變だな。」

 淺間山はこんもりと象のやうに跼んで[やぶちゃん注:「かがんで」。]、どこか遠方で鎖がつないであるやうな氣がした。煙は上州へながれてゐるので見えなかつた。輕井澤の町もすぐ眼の下に見えた。

 見晴臺から茶店へ行つた。黑い瘦せた猫が圍爐裏にゐたが、松村のお孃さんが呼んだのですぐその膝の上にあがつた。が、また思ひ返して圍爐裏のへりへ行つた。「あひにく力餅がみんなになりましてな。」無器用な口つきで、卒氣なく茶店の老人が言つた。すこしくらゐなら今から拵へると言つた。べつに食べたくもなかつたが待つことにした。――

 吹きぬけの山風が裏の山脈から通りすぎた。

 「お雪といふのはどんな女中でございますの。縹緻のいい子ですか?――」[やぶちゃん注:「縹緻」「きりやう」。「器量」に同じ。]

 「いや、あれとはちがひます。」

 れいの、お雪の話が出たのである。――旅館のあるじは、あのお雪はおしやべりで困る、それに沓掛のカフエにもゐたことがあると言つた。予の哀れは變らなかつた。お雪は白いゆかたを着け、すこしおしろいのある顏で、そして納戶に向いて泣いて居ればいい……さう思つて笑つた。

 餅をたべ茶をのんで、峠を下りはじめた。明るい脚光に浮き出された山中に多い白い蛾が紙きれのやうに片片として舞うてゐた。

 「かへりは少しもこはくはありませんかね。」

 松村さんがさう言つた。坦坦として辷つて行つたからである。

 「乘せてくれんか?」闇の中で、旅館のあるじの知り合ひらしいのが、これも月見のかヘりらしく道端から聲をかけたが、自動車は默つてしづかに辷つて行つた。(十三曰、八十度)

        ×

 昨日、けふ發つことにしておいたが、夕景近くなると名殘り惜しい氣がした。しかし子供のことが氣になつて仕方がなかつた。

 晚食後に疊の上に何か落ちてゐたので、觸つて見ると何かの骨であつた。

 「鯛のほねたたみにひろふ夜さむかなはどうぢや。」

 予はさう言つて澄江堂に示した。

 「なるほど、それはうまい!」

 十一時五十幾分だから夜はゆつくりひまがあつた。松村さん一族がお別れに散步いたしませう、來年までおあひできませんからと言つた。澄江子を加へ五人づれであつた。町の中をひと𢌞りした。

 「ことしは何かさびしいやうですね。」

 と、松村さんが言ふ。全く去年とくらべるとそんな氣がした。踏切りから裏通りの別莊の前通りへ出た。風月を樂しむといふ話が出た。テニスコートの通りへ出ると敎會堂からさんびかが起つてゐた。風は秋の十月くらゐの凉しさであつた。

 「お國に入らつしやるとお年を召すやうな氣がいたしませんか?――」

 松村さんがさう言つた。

 「ええ、それは、そんな氣もしますが……」

 散步から歸ると、遲いから見送りをおことわりした。澄江堂と例の應接間に居殘つた。十一時十分過ぎに車が來てみんなに別れた。(十四日、八十度)

2021/12/09

夏目漱石の「こゝろ」を芥川龍之介はどのように受容したのか?――迂遠なる予告――

私は夏目漱石の「こゝろ」についての考証に於いて、「人後に落ちない」という自信は相応に、ある。それはサイト版の各章にマニアックな「やぶちゃんの摑み」を附したサイト版の「心」初出版で、一つの見解を示したつもりではある。

先生の遺書(一)~(三十六) ―― (単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート)

先生の遺書(三十七)~(五十四) ―― (単行本「こゝろ」「中 兩親と私」相当パート)

先生の遺書(五十五)~(百十) ―― (単行本「こゝろ」「上 先生と遺書」相当パート)

他にも、それ以前に、サイト版の、

「こゝろ」マニアックス

や、

ブログ・カテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』

でも、探究を続けてきたし、さらに古くは、

藪野唯至作「こゝろ佚文」

などというトンデモ贋作も、ものしている。

しかし、それでも私の憂鬱は完成されていないのだ。

それは何故か? それはとりもなおさず、強力な親和性のある自死を選んだ、夏目漱石の最晩年の弟子である芥川龍之介が、その「こゝろ」をどう受容し、且つ、どのような差別化の中で、芥川龍之介が敢えて自死を選んだのかという、芥川龍之介に特化した謎が解明されていないからである。

言及した論文などは、正直、私は全く以って満足していない。それは概ね、漱石「こゝろ」サイドからの、インキ臭い総合的受容史に過ぎないからである。

私は――その禁足地に足を踏み入れずには――最早――居られないのである。

ここでは、詳細は語らないけれも、

「そのヒントは芥川龍之介の書簡と、それに対する年譜的事実が、一つの突破口になるのでなはないか?」

と考えている。

私は、

『それを、もうそろそろ、やらねばならぬ!』

という瀬戸際に来ていることに、数年前から、気づいていた。

何時になるかは、分らぬ。

しかし、これは私の「こゝろ」の集大成として、唯一、やり残しているものであると考えていることを、ここに告白しておく。――――

2021/09/10

最近とても嬉しかったことどもについて


つい先日、私が十年前に暴虎馮河で拙訳した小泉八雲の“Of a Promise Broken by Lafcadio Hearn”の「破られし約束」を、YouTube で朗読したいという若い方からの懇請を受けた。彼女は田部隆次氏の訳(リンク先は私の電子化注)と私の訳を比較され、朗読するに際し、私の訳を選ばれたのであった。

無論、ユビキタスをモットーとする私は、許諾した。

これは、私には、とても嬉しいことだった。

    ♡

そうして、今日は、私が、ネット上に電子化物がないことから、「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、先だって電子化した、放浪の俳人「乞食」井上井月の句集に添えた、

(正確には「井月の句集」で、芥川龍之介及び芥川家の主治医であり、芥川龍之介の検死の当事者でもあった下島勲の編になるものへの芥川龍之介の跋文である)に対して、井月の研究家の方から、私が上の電子化をしたことへの感謝のメールを頂戴した。

これもまた、偏愛する芥川龍之介に絡んで、私には、とても嬉しいことであった。

   ♡

私の自慰と思われるかも知れない、他者から見れば、たいしたことのないものと失笑を買っているかも知れない数多の私の電子化物が、僅か乍らも、ある人の琴線に、確かに触れていることを感じ、内心――「少しばかりは、生きていてよかったな」――と思うたのであった。

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