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カテゴリー「芥川龍之介」の685件の記事

2021/07/22

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 「井月句集」の跋

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」のに「跋」として掲げられ、後、作品集「點心」「梅・馬・鶯」に表記の題で収録された。

 底本は岩波旧全集に拠った。

 本電子化は現在進行中の「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、行った。されば、注は附さない。この公開後に公開する「芥川龍之介書簡抄103 / 大正九(一九二〇)年(八)」を参照されたい。私は井月の生涯と俳句を偏愛する人間である。彼の漂泊の人生について、詳しくはウィキの「井上井月」がよい。龍之介のこの跋文についても言及されており、編者であった下島が芥川龍之介の主治医であった縁から、この跋文は『芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』が、芥川がここで「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」を『井月の最高傑作と称揚しているが、皮肉にも』、『この俳句は井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』とあることは明記しておく必要がある。また、一ヶ所、「適く」は「ゆく」と読む。後日、語注を追加しようとは思っている。]

 

  「井月句集」の跋

 

 空谷下島先生の「井月の句集」が出るさうである。何しろ井月は草廬さへ結ばず、乞食をしてゐたと云ふのだから、その句を一々集めると云ふ事は、それ自身容易な業ではない。私はまづ編者の根氣に、敬服せざるを得ないものである。

 井月の句集を開いて見ると、惡句も決して少なくはない。天明の遺音は既に絕え、明治の新調は未起らなかつた時代は、彼にも蒸習を及ぼしたのである。しかし山嶽の高さを云ふものは、最高峰の高さを計らなければならぬ。井月は時代に曳きずられながらも、古俳諧の大道は忘れなかつた。「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」以下、集中に散見する彼の佳句は、この間の消息を語るものである。しかも亦彼の書技は、「幻住庵の記」等に至ると、入神と稱するをも妨げない。私は第二に烱眼の編者が、この巨鱗を網にした事を愉快に思はずにはゐられないのである。

 が、私の編者に負ふ所は、これのみに盡きてゐるのではない。昔天竺の鹿頭梵志は、善く髑髏を觀察し、手を以て之を擊つては、死の因緣を明らかにした。たとへば「是男子なり。衆病集つて百節酸痛し、命終を取る。是人死して三惡趣に墮つ」の類である。しかし世尊が試みに、優陀延比丘の髑髏を與へて見たら、彼は唯茫然として、「男に非ず女に非ず。亦生を見ず。亦斷を見ず。亦同胞往來するを見ず。」と、殆答へる所を知らなかつた。無余涅槃に入つてゐた比丘は、「無終無始、亦生死無く、亦八方上下適くべき所無し」だつた焉、梵志の紳識も及ばなかつたのである。これは優陀延に限つた事ではない。井月の髑髏を擊たせて見ても、梵志はやはり明然として、止むより外はなかつたであらう。このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があつたと云ふ事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある。編者は井月の句と共に、井月を傅して謬らなかつた。私が最後に感謝したいのは、この一事に存するのである。

2021/04/20

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 私の文壇に出るまで

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年八月発行の『文藝俱樂部』に「私の文壇に出るまで」の標題を大見出しとして、「文壇諸家立志物語()」の副題で掲載され、初出誌では、『初めは歷史家を志望』との見出しが付されてあると、底本(以下)の後記にある。

 芥川龍之介は、この年の五月二十三日に、処女作品集「羅生門」(阿蘭陀書房)を刊行している。

 底本は一九七七年岩波書店刊の旧「芥川龍之介全集」第一巻を用いた。

 原本では傍点が「・」(人名・作家名)と「△」(書名・作品名)の二種が用いられているが、前者を下線で、後者を太字で示すことにした。また非常に多くのルビが振られてあるが、特に読みが振れるもの、難読と思われるもののみに附すこととした。「私」は途中で一箇所「わたし」と振られてあるので「わたし」で通読してよい。「德富蘆花」の「富」はママである。

 ブログで書簡を抄出して注釈を行っているうちに、本篇がネット上で電子化されていないことに気づいたので、急遽、行った。従って、注は附さない。]

 

  私の文壇に出るまで

 

 私は十位の時から、英語と漢學を習つた。高等小學の三年から第三中學に入つた。恰度上級には後藤末雄久保田萬太郞の兩氏があつた。私は大層溫和(おとな)しかつた。そして書くことは好きであつたけれども、五年の時に唯一度學校の雜誌に『義仲論』といふ論文を出したきりで、將來は歷史家にならうと思つてゐた。私が中學を卒業した年から、無試驗入學が始まつて、第一高等學校の英文科に入學した。その時分には、もう歷史をやるといふ志望は放擲してしまつた。それでは作家にならうといふ考があつたかといふと、さうではなかつた。まあどうかして英文學者にでもならうといふつもりでゐた。そして讀書をした。高等學校の三年間は、さうして過ぎた。その間にはまだ久米松岡成瀨菊池達と親しくしてはゐなかつた。

 大學一年の時、豐島だの、山宮だの、久米だので第三次の『新思潮』をやつた。その時短篇を初めて書いた。それは題を『老年』にといふのであつた。雜誌は一年ならずして廢(よ)した。三年になつてから、『新思潮』の次を出した。それから小說を書き出して、今日(こんにち)まで作家になるとも、ならないともつかずに小說を書いて來た。まづ本街道は右の通りである。

 少し脇道に入つて、私のこれまで讀んだものなどに就いて話せば、小學時代、私の近所に貸本屋(かしぼんや)があつて、高い棚に講釋の本などが竝んでゐたが、私はそれを端から端まですつかり讀み盡してしまつた。さういふものから導かれて、一番最初に『八犬傳』を漬み、讀いて『西遊記』、『水滸傳』、馬琴のもの、三馬のもの、一九のもの、近松のものを讀み初めた。德富蘆花の『思ひ出の記』や、『自然と人生』は、高等小學一年の時に讀んだ。その中で『自然と人生』は幾らか影響を受けたやうに思つた。中學時代には漢詩を可成り讀み、小說では泉鏡花のものに沒頭して、その悉くを讀んだ。その他夏目さんのもの、さんのものも大抵皆讀んでゐる。中學から高等學校時代にかけて、德川時代の淨瑠璃や小說を讀んだ。その時分から近松の中に出て來る色男、文化文政の色男といふものに對する同情は、決してもつことが出來なかつた。次には西洋のものを色々讀み始めた。當時の自然主義運動によつて日本に流行したツルゲネーフイブセンモウパツサンなどを出鱈目に讀み獵(あさ)つた。高等學校を卒業して大學に入つてからは、支那の小說に轉じて、『珠邨談怪』や、『新齋諧』や、『西廂記』、『琵琶記』などを無闇と讀んだ。又日本の作家のものでは、志賀直哉氏の『留女』をよく讀み、武者小路氏のものも殆ど全部讀んだと思ふ。殊にロマンローランの『ジヤン・クリストフ』には甚(ひど)く感動させられて、途中でやめるのが惜しくて、大學の講義を聽きに行かなかつたことがよくあつた。しかし、私は遂に藤村の詩だとか、『天地有情』といつたやうな日本の詩からは、何等の影響をも受けないでしまつた。かうして、今迄のところでは、甚(はなは)だ平凡な一介の讀書子として來た。それ以外に何にもありはしない。ただ夏目先生の許ヘ一年ばかり行つてゐるうちに、芸術上の訓練ばかりでなく、人生としての訓練を叩き起されたと云ふ氣がする。

 

2021/03/29

旧電子テクスト(初版は十六年前公開)の芥川龍之介「或阿呆の一生」(未定稿附き)の全面校訂終了

芥川龍之介の「或阿呆の一生」(未定稿附き)は十六年前に電子化し、今まで四度修正や改訂を行ったが、それでも長くポイント表示・正字不全・未ルビ化など、かなりの不満な部分が残っていたので、今朝、全面校訂を行った。これで、まずは、よかろうと思う。不審な点があれば、御指摘下されば、恩幸これに過ぎたるはない。なお、何時かは芥川龍之介には悪いが、彼の冒頭の遺言の懇請を退け、オリジナルな全注釈をしたいと考えてはいる。

2021/03/28

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト縦書版・PDF) 公開


芥川龍之介「孤獨地獄」(正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附)の「サイト縦書版・PDF」を公開した。

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト横書版) 公開

芥川龍之介「孤獨地獄」(正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附)の「サイト横書版」を公開した。字のポイントを三倍にしてあるので、大型のディスプレイを使用されている方にはブログよりも読み易いと思う。

2021/03/27

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:「鼻」の発表の二ヶ月後の大正五(一九一六)年四月発行の『新思潮』初出で、大見出し「紺珠十篇」(この総標題については「紺珠」という総表題で随想的小品を十篇並べるつもりだったということと、そうした一篇として別に「父」(リンク先は私の古い電子テクスト)があることが、初出後記で判明する。私の本文注の最後に示しておいた)のもとに「孤獨地獄」の標題で掲載され(目次は「孤獨地獄(小品)」)、後の第一作品集「羅生門」(大正六年五月二十三日阿蘭陀書房刊)及びその後の春陽堂の「新興文芸叢書第八篇」として刊行された短篇集「鼻」(十三篇所収だが、「西郷隆盛」を除いて総て「羅生門」既収で芥川龍之介の作品集には数えられていない)に収録された。

 因みに、これを私が始めて読んだのは、大学四年の一九七八年十月に入手した(父の知人の伝手で岩波書店本社で社員の方から一割引きで買った。裸でスズラン・テープで六巻ずつ縛られていて、神保町から中目黒まで素手でぶら下げて帰った。三日間、両手の指が血行不良で腫れ上がったのを思い出す)「芥川龍之介全集」を、その日から一月ほどかけて通読したその時だった。当時の私の日記にも本篇を読んで異様に感動した記載がある。

 本文の底本は、その旧全集一九七七年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第一巻を使用した。但し、「青空文庫」版の新字正仮名版を加工データとして使用した(但し、この電子テクストには看過できない複数の問題点がある)。当該親本は作品集「鼻」のそれである。一読、非常な不審を感ずるのは、ルビで、如何にも不要な箇所に多く附されてあり、逆にあった方がよいと思われる人名や書名及び語などに振られていない点である。また、先行する同語に振られずに、後になってひょくり振られてあったりする。これは如何にも芥川龍之介らしからぬものである。私は初出の『新思潮』を見たことがないのだが、或いはこのルビは印刷を頼んだ印刷所の校正者によって勝手に附されたものではないかとも疑っている。そうしたことは、近年まで、かなり長い間、行われてきたことを多くの方は知るまい。丁寧に原稿に自分でルビを振っていた大作家は泉鏡花辺りで終わってしまい、「えッツ!?!」と思うような近現代の著名な作家も特定のケースを除いてルビを振ることはそんなに多くはなかったのである(詩歌の場合は別)。だいたいからして、あなた方は、ごく最近まで、ルビには拗音や促音を小さく表記印刷することはなかったことさえもご存知ないであろう。嘘だと思うなら、御自身の持っている、写植印刷が主になる三十年以上前の活版の出版物を見られるがいい。「本当だ!」と吃驚されるであろう。草稿のそれは岩波書店の新全集版(一九九七年刊)第二十一巻を参考底本として、恣意的に漢字を正字化して示した。踊り字「〱」は正字化した。

 本文・草稿ともに注をオリジナルに附した。【二〇二一年三月二十八日 藪野直史】]

 

 孤 獨 地 獄

 

 この話を自分は母(はゝ)から聞いた。母はそれを自分の大叔父(おほをぢ)から聞いたと云つてゐる。話の眞僞(しんぎ)は知らない。唯大叔父自身の性行(せいかう)から推して、かう云ふ事も隨分ありさうだと思ふだけである。

 大叔父は所謂大通の一人で、幕末(ばくまつ)の藝人や文人の間に知己(ちき)の數が多かつた。河竹默阿彌、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目團十郞、宇治紫文、都千中、乾坤坊良齋などの人々(ひとびと)である。中でも默阿彌は、「江戶櫻淸水淸玄」で紀國屋文左衞門を書(か)くのに、この大叔父を粉本(ふんぽん)にした。物故(ぶつこ)してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽號(あだな)された事があるから、今(いま)でも名だけは聞いてゐる人(ひと)があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤(つとう)が或時吉原の玉屋で、一人の僧侶(そうりよ)と近づきになつた。本鄕界隈の或禪寺の住職で、名は禪超(ぜんてう)と云つたさうである。それがやはり嫖客(へうかく)となつて、玉屋の錦木と云ふ華魁に馴染(なじ)んでゐた。勿論、肉食妻帶が僧侶に禁(きん)ぜられてゐた時分の事であるから、表向(おもてむ)きはどこまでも出家ではない。黃八丈の着物に黑羽二重の紋付(もんつき)と云ふ拵へで人には醫者(いしや)だと號してゐる。――それと偶然近づきになつた。

 偶然と云ふのは燈籠時分の或夜(あるよ)、玉屋の二階で、津藤が厠(かはや)へ行つた歸りしなに何氣なく廊下(らうか)を通ると、欄干にもたれながら、月(つき)を見てゐる男があつた。坊主頭の、どちらかと云へば背(せい)の低(ひく)い、瘦ぎすな男である。津藤は、月(つき)あかりで、これを出入の太鼓醫者竹内(ちくない)だと思つた。そこで、通(とほ)りすぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張(ひつぱ)つた。驚いてふり向く所を、笑(わら)つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると、反つて此方(こつち)が驚いた。坊主頭と云ふ事を除(のぞ)いたら、竹内(ちくない)と似てゐる所などは一つもない。――相手(あひて)は額(ひたひ)の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。眼(め)の大きく見えるのは、肉(にく)の落ちてゐるからであらう。左の頰にある大きな黑子(ほくろ)は、その時でもはつきり見(み)えた。その上顴骨が高い。――これだけの顏(かほ)かたちが、とぎれとぎれに、慌(あはたゞ)しく津藤の眼にはいつた。

「何か御用かな。」その坊主(ばうず)は腹を立てたやうな聲(こゑ)でかう云つた。いくらか酒氣も帶びてゐるらしい。

 前に書くのを忘れたが、その時津藤には藝者(げいしや)が一人に幇間(ほうかん)が一人ついてゐた。この手合は津藤(つとう)にあやまらせて、それを默(だま)つて見てゐるわけには行かない。そこで幇間が、津藤に代(かは)つて、その客に疎忽の詑(わび)をした。さうしてその間に、津藤は藝者をつれて、匇々(さうさう)自分の座敷へ歸つて來た。いくら大通(だいつう)でも間が惡(わる)かつたものと見える。坊主の方では、幇間(ほうかん)から間違の仔細をきくと、すぐに機嫌を直して大笑(おほわら)ひをしたさうである。その坊主が禪超(ぜんてう)だつた事は云ふまでもない。

 その後で、津藤が菓子の臺(だい)を持たせて、向ふへ詑びにやる。向うでも氣(き)の毒(どく)がつて、わざわざ禮に來る。それから二人の交情が結(むす)ばれた。尤も結ばれたと云つても、玉屋の二階で遇(あ)ふだけで、互に往來(わうらい)はしなかつたらしい。津藤は酒(さけ)を一滴も飮まないが、禪超は寧、大酒家(たいしゆか)である。それからどちらかと云ふと、禪超の方が持物(もちもの)に贅をつくしてゐる。最後に女色(ぢよしよく)に沈湎するのも、やはり禪超(ぜんてう)の方が甚しい。津藤自身が、これをどちらが出家(しゆつけ)だか解らないと批評した。――大兵肥滿で、容貌(ようばう)の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまも)りと云ふ姿で、平素は好(この)んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。

 或日津藤が禪超に遇ふと、禪超は錦木(にしきゞ)のしかけを羽織(はお)つて、三味線をひいてゐた。日頃から血色(けつしよく)の惡い男であるが、今日は殊(こと)によくない。眼も充血してゐる。彈力のない皮膚が時々口許で痙攣(けいれん)する。津藤はすぐに何か心配(しんぱい)があるのではないかと思つた。自分(じぶん)のやうなものでも相談相手(さうだんあひて)になれるなら是非させて頂(いたゞ)きたい――さう云ふ口吻を洩(も)らして見たが、別にこれと云つて打明ける事もないらしい。唯、何時(いつ)もよりも口數が少くなつて、ややもすると談柄(だんぺい)を失(しつ)しがちである。そこで津藤は、これを嫖客(へうかく)のかかりやすい倦怠(アンニユイ)だと解釋した。酒色を恣にしてゐる人間(にんげん)がかかつた倦怠は、酒色で癒(なほ)る筈がない。かう云ふはめから、二人は何時(いつ)になくしんみりした話をした。すると禪超(ぜんてう)は急に何か思(おも)ひ出したやうな容子で、こんな事(こと)を云つたさうである。

 佛說によると、地獄(ぢごく)にもさまざまあるが、凡(およそ)先(ま)づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ事が出來(でき)るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄と云(い)ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……

 最後の句は、津藤(つとう)の耳にはいらなかつた。禪超が又三味線の調子(てうし)を合せながら、低い聲で云(い)つたからである。――それ以來(いらい)、禪超は玉屋へ來なくなつた。誰も、この放蕩(はうたう)三昧(まい)の禪僧がそれからどうなつたか、知(し)つてゐる者はない。唯その日禪超は、錦木(にしきゞ)の許へ金剛經の疏抄を一册忘れて行(い)つた。津藤が後年零落して、下總の寒川(さむかは)へ閑居(かんきよ)した時に常に机上にあつた書籍(しよせき)の一つはこの疏抄である。津藤はその表紙(へうし)の裏へ「堇野や露に氣のつく年四十」と、自作(じさく)の句を書き加(くは)へた。その本は今では殘(のこ)つてゐない。句ももう覺えてゐる人は一人もなからう。

 安政四年頃の話である。母(はゝ)は地獄と云ふ語の興味(きようみ)で、この話を覺えてゐたものらしい。

 一日の大部分を書齋で暮(くら)してゐる自分は、生活の上から云つて、自分(じぶん)の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交涉な世界(せかい)に住んでゐる人間(にんげん)である。又興味の上から云つても、自分は德川時代(とくがはじだい)の戲作や浮世繪に、特殊な興味を持(も)つてゐる者ではない。しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

                  ――五年二月――

 

[やぶちゃん注:「母」芥川龍之介の養母である芥川儔(トモ)(安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)。

「自分の大叔父」儔の母は旧姓細木(さいき)で名を須賀と言ったが、彼女はかの森鷗外の史伝「細木香以」(大正六(一九一七)年九月十九日から同年十月十三日まで『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載)に書かれた、幕末の俳人・商人で通人として知られた細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)の実の姉であった。ウィキの「細木香以」によれば、細木の『家は新橋山城町にある酒屋で姓は源、氏は細木、店の名は摂津国屋(つのくにや)』(香以は家を継いでから藤次郎を名乗ったことから「津國屋藤次郞」を約めて「津藤(つとう)」となったのである)『である。香以の祖父・伊兵衛の代から蔵造りの店に直し、山城河岸を代表する豪商となった。父の竜池が家を継ぐと』、『酒店を閉じて』、『大名(加賀藩・米沢藩・広島藩など)の用達を専業とする。竜池は秦星池』(はたせいち)『に書を』、『初代彌生庵雛丸(やよいあんひなまる)に『狂歌を習い、雛亀と称し、晩年には桃の本鶴廬』、『また』、『源仙と号』した。『俳諧をたしなみ、仙塢』(せんう)『と号した。竜池は劇場・妓楼に出入りし』、『戯作者の為永春水と交遊したので』、「梅暦」のなかで「津藤」』(つとう)『の名で登場し、俳優や文人のパトロンとして記憶された。この父の気性や趣味が香以に受け継がれたと考えられる』。『経を北静盧』(きたせいろ 江戸中期の民間学者)に、『書を松本董斎に学』んだ。天保九(一八三八)年』、十七『歳になった頃から料理屋や船宿に出入りし』、『芸者に』馴染みが『でき、新宿や品川の妓楼に遊ぶようになる』。天保一三(一八四二)年『頃から』、『継母の郷に預けられ』、『放蕩が激しくなったことにより、父から勘当されかけたこともある』という。安政三(一八五六)年九月、父『竜池が病死し、手代たちの反対を押し切る形で』、『本家を香以が継ぐことにな』った。『文人、俳優、俳諧師、狂言作者と交わり』、『豪遊の限りを尽くし、元禄時代の紀伊國屋文左衛門と比較されるほどであったが』、安政六(一八五九)年頃から『身代が傾き』始め、文久二(一八六二)年には『店を継母に譲り、自分は隠居して浅草馬道』(うまみち)『の猿寺』(教善院さる寺。現存しない。現在の浅草寺の東北直近の角にあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「今戸箕輪浅草絵図」で確認出来る)『の境内に居を移した』。『その後は仕送りと狂歌の判者、市村座の作者を職業として暮らす』。文久三(一八六三)年から、『下総国千葉郡寒川に移り』、慶応二(一八六六)年まで住んだが、明治元(一八六八)年に山城河岸の店は閉じられ、その二年後に香以は病死した。『行年四十九。法名は梅誉香以居士。先祖代々の墓がある駒込の願行寺に葬られ』た。ここで龍之介が記している通り、『香以によって後援されていた人としては仮名垣魯文』、九『世市川團十郎、河竹黙阿弥、瀬川如皐、条野採菊らがいる。魯文の弟子であった野崎左文は、「幕末動乱の頃、ともかくも戯作者として職を失わず、かろうじて命脈を伝え得たのはまったく香以のような後援者のおかげである」と評している』。『芥川龍之介の母は、香以の姪にあたる』とある。なお、森鷗外は「細木香以」の「十四」の末尾で龍之介の親戚であることを述べているが、翌大正七年の一月一日の『帝国文学』に同作への追記補記を記し、来訪した芥川龍之介と交わした談話から得たことを前半で記しているが、『香以の氏細木は、正しくは「さいき」と訓むのださうである。倂し「ほそき」と呼ぶ人も多いので、細木氏自らも「ほそき」と稱したことがあるさうである』とあり、龍之介の言として、『香以には姊があつた。其婿が山王町の書肆伊三郞である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送るつた』。『伊三郞の女』(むすめ)『を儔(とも)と云つた。儔は芥川氏に適』(ゆ/おもむ)『いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤獨地獄」の一篇がある。其材料は龍之介さんが母に聞いたものださうである。此事は龍之介さんがわたくしを訪ふに先だつて小島政二郞』(まさじろう:龍之介より二歳年下。)『さんがわたくしに報じてくれた』とある。小島は芥川龍之介が信頼していた同世代作家の友人であるが(当時は慶応義塾大学在学中であったが、『三田文学』に文芸評論を書いて有力な新人として認められていた。鷗外が大正五年十一月に同誌に発表した当代の作家たちの作品を評論した「オオソグラフイ」(「オーソグラフィー」(orthography)は「社会的に認められている字の綴り方・正書法」の意)を高く評価したが、この鷗外の謂いからはそれ以前に鷗外に近侍していたということになる)、しかし、彼が始めて龍之介を訪ねたのは、慶応卒業間近の大正七年二月三日(塚本文と結婚式を挙げた翌日)であったから、これは文壇作家の誰彼からの聞き伝えであって、龍之介から小島が直接聴いたものではない。既に文壇情報屋としての小島の厭な側面が私には感じられる。ともかくも、この小島経由の鷗外の語りから、少なくともこの頃、芥川龍之介は芥川儔(トモ)を養母ではなく、実母であると周囲に語っていたと思われることが判る。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「芥川家」のコラム「森鷗外に答える」によれば、『狂人だったとされる実母』(養父芥川道章の妹(新原(にいはら))フク)『のことがここでは隠されていたことになろう。文壇では実母のことは余り知られていなかったととってもよいであろう。後に』「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子化。芥川龍之介の作品でも私は三本指の一つ挙げる名品と思う)『で実母のことを明らかにした時、かなり強い告白性あったことになる』とある。また、その前に鷗外の後の「觀潮樓閑話(その二)」(『帝国文学』大正七(一九一八)年一月発行)から先のウィキのような抜粋でないものを引用して、『「芥川氏いはく。香以には姉があつた。其婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送つた。伊三郎の女』(むすめ)『を儔と云つた。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である」』とある。以下、人物については、複数の辞書やウィキペディアを総合的に参考にした。人名については煩瑣になるだけなので、歴史的仮名遣は省略した。

「大通」(だいつう)は、江戸時代に遊里・遊芸などの方面の事情によく通じている人物を指した。

「河竹默阿彌」(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)は歌舞伎作者。江戸生まれ。本名は吉村新七。五代目鶴屋南北に入門し、天保一四(一八四三)年に二代目河竹新七を襲名後、四代目市川小団次のために生世話(きぜわ)物(歌舞伎の世話物の中でも写実的傾向の著しい内容・演出を持った作品群。文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)以降の江戸歌舞伎で発達した)を書いた。維新後は九代目市川団十郎のために活歴(かつれき)物(歌舞伎で従来の時代立役物の荒唐無稽を排して史実を重んじ、歴史上の風俗を再現しようとする演出様式。明治初期から中期にかけて、この団十郎らが主唱した)を、五代目尾上菊五郎のために散切(ざんぎり)物(歌舞伎世話狂言の一種で、明治初期の散切り頭・洋服姿などの新風俗を取り入れたもの。明治五(一八七二)年から同三十年代まで作られ、まさに黙阿弥の「島鵆月白波 (しまちどりつきのしらなみ) 」などが代表作)などの作品を提供した。明治一四(一八八一)年に引退して後に「黙阿弥」を名乗った。時代物・世話物・所作事と幅広かったが、本領は生世話物にあった。代表作は「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみぢうつのやたうげ)」「靑砥稿花紅彩畫(あをとざうしはなのにしきゑ)」など。

「柳下亭種員」(りゅうかていたねかず 文化四(一八〇七)年~安政五(一八五八)年)は戯作者。特に合巻(ごうかん:江戸後期の文化年間(一八〇四年~一八一八年)以後に流行した草双紙の一種。それ以前の黄表紙などが五丁一冊であったものを、数冊合わせて一冊とし、長いものは数十冊にも及んだ。内容は教訓・怪談・敵討・情話・古典の翻案など多方面に亙り、子女のみならず、大人の読み物としても歓迎された。流行作者には柳亭種彦・曲亭馬琴・山東京伝らがいる)作者として活躍した。その実伝は諸説があって定説をみないが、元板倉藩士の出とも、江戸京橋の葉茶屋坂本屋に生まれたとも、また、小間物屋或いは古書商であったともされる。戯作界に入り、弘化元(一八四四)年から合巻に手を染める一方書肆を営んで坂本屋新七という。「白縫譚」(初編から三十八編)、「兒雷也豪傑譚」(十二編から三十九編)など、長編合巻を得意とし、いろいろと趣向を凝らすのには巧みであったが、独創性に乏しく、他人の作の嗣ぎ編を作るのに長じたと評される。

「善哉庵永機」(ぜんざいあん えいき 文政五(一八二二)年~明治二六 (一八九三)年)は俳人。「芭蕉全集」を編集したことで知られる。其角堂とも号し、細木香以との交遊も深かった。

「同冬映」筑摩全集類聚版脚注では、『同じく幕末の俳人』とする。論文等を確認してみたが、この龍之介の「同」というのは「善哉庵永機」と同じ「善哉庵」ではないように思われる。同一の深川湖十系の俳人ではあるが、「同」はそれこそ類聚版の注にある「同じく俳人の」の意でとっておく。

「九代目團十郞」歌舞伎役者九代目市川團十郞(天保九(一八三八)年~明治三六(一九〇三)年)。本名は堀越秀(ほりこし ひでし)。屋号は成田屋。俳句も好み、俳号に紫扇・團州などがある。五代目尾上菊五郎・初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定し、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また、歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常は彼のことのみを指す。

「宇治紫文」(うじ しぶん)は一中節(いっちゅうぶし:浄瑠璃の一種。初代都太夫一中(慶安三(一六五〇)年~享保九(一七二四)年)が元禄から宝永頃(一六八八年~一七一一年)かにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時、勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指した。三味線は中棹を用い、全体的に上品、かつ、温雅・重厚を以てその特徴とする。当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人に広く愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、再び主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている)の三味線方の名跡。初代宇治紫文(寛政三(一七九一)年~安政五(一八五八)年)は、本名、勝田権左衛門。通称は雄輔。江戸浅草材木町の名主。一中節菅野派の家元二代目菅野序遊の門下であったが、後に都派に転じ、都一閑斎と名乗る。嘉永二(一八四九)年に「宇治紫文斎」と名乗って宇治派を樹立した。数十曲の新曲を残している。一方、二代目宇治紫文(文政四(一八二一)年~明治一二(一八七九)年)は初代の実子で名を福太郎と言った。最初は初代宇治紫鳳を名乗ったが、安政六(一八五九)年に二代目紫文を襲名。明治八(一八七五)年五月に隠居し、宇治閑斎翁を名乗った。細木香以は安政六年頃から左前になっているから、まず、ここは初代のことと考えてよい。

「都千中」(みやこ せんちゅう ?~明和二(一七六五)年頃)は一中節都派の太夫。都秀太夫千中とも。都三中の弟子か。享保(一七一六年~一七三六年)末頃から宝暦七(一七五七)年頃まで活躍した。享保一九(一七三一)年の春、江戸中村座で語った「夕霞淺間岳(ゆふがすみあさまがたけ)」が大当たりし、当時、江戸の市中で「鼠の糞と夕霞の歌本のない家はない」とまで言われた。この他、元文元(一七三六)年に「家櫻」、宝暦元(一七五一)年に「賤機(しづはた)」など多くの曲を語った。宝暦七年頃から舞台出演をやめ、男芸者になった。江戸においての一中節は、千中没後、殆んど劇場出演はなくなり、座敷浄瑠璃として吉原に残るのみとなった。

「乾坤坊良齋」(けんこんぼうりょうさい 明和六(一七六九)年~万延元(一八六〇)年)は講釈師。江戸生まれ。通称、梅沢屋良助。家業の貸本屋から初代三笑亭可楽の門に入って落語家菅良助(かんりょうすけ)となり、後、講釈師に転じた。創作も得意で、「笠森お仙」「切られ与三郎」などの講談を残し、合巻も手掛けている。

「江戶櫻淸水淸玄」(えどざくらしみづせいげん)はその名で安政五(一八五八)年に板行した黙阿弥の草双紙であるが、これは師の鶴屋南北の原作になるもので、一般にはそれを歌舞伎の世話物とした、通称「黑手組の助六」、本外題「黑手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)」として知られるものである。初演は安政五年三月江戸市村座であった。

「粉本」ここは素材・材料の意。

「物故してから、もう彼是五十年になる」正確には四十六年。

「山城河岸」(やましろがし)現在の東京都中央区銀座六・七丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)相当。

「吉原の玉屋」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原江戸町一丁目にあった妓楼。楼主は玉屋山三郎』とある。現在の東京都台東区千束四丁目

「本鄕」現在の文京区本郷。寺が多く、特定出来ない。

「禪超」不詳。

「嫖客(へうかく)」現代仮名遣「ひょうかく」。花柳界で芸者買いなどをして遊ぶ客のこと。

「錦木」源氏名。「ADAEC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の夢中舎松泰(しょうたい)の「遊女銘々傳」(書中の最新の年記は第六冊にあり、慶応二(一八六六)年十一月)に、玉屋の筆頭に「錦木」の名が見え、錦木太夫が寛文(一六六一年~一六七三年)年中、江戸町二丁目の玉屋長左衛門抱えの錦木が、船頭と男伊達(おとこだて)との斬り合いの喧嘩を鎮めたことが載るが、これは彼女のずっと先代である。

「黃八丈」黄色地に茶・鳶色などで縞や格子柄を織り出した絹織物。初め、八丈島で織られたことから、この名がある。

「燈籠時分」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原仲之町で旧暦七月一日より晦日まで茶屋に』は『燈籠を掲げ』たとある。

「太鼓醫者」筑摩全集類聚版脚注に、『医者の風体』(ふうてい)『をしている太皷もち』とある。

「顴骨」(正しくは「けんこつ」であるが、現行でも慣用読みで「くわんこつ(かんこつ)」と読んでおり、芥川も後者で読んでいよう。頰骨 (きょうこつ/ほおぼね)。頰(ほお)の隆起を成す骨。眼窩の底部外方の一対の骨。

「幇間(ほうかん)」読みはママ。歴史的仮名遣は「はうかん」が正しい。「幇」は「助ける」の意で、宴席などで客の機嫌をとり、酒宴の興を助けるのを職業とする男。太鼓持ち。男芸者。

「手合」(てあひ(てあい))は、ここではやや軽蔑していう「この類(たぐ)いの連中」の意。

「寧」「むしろ」。

「沈湎」沈み溺れること。特に、酒色に耽って荒(すさ)んだ生活を送ることを言う。

「大兵肥滿」(たいひやうひまん(たいひょうひまん))は、体格が太く、逞しく、肥え太っていること。

「五分月代」(ごぶさかやき)は、剃り上げておくべき月代の部分が五分(一・五センチメートル)ほども伸びてしまっていること。

「懸守(かけまも)り」神仏の護符を入れて身につける守袋。通常は筒形の容器の外側を錦の裂(きれ)で包み、その両端に紐や鎖をつけ、胸の前に下がるように作る。魔除けや災厄除けのため、神聖なものや神秘的な威力のあるものを身につける習慣は世界的に広く行われているが、特にこれを首にかけるという形式は、他の場所につけるよりも、一層そのものを尊び、これに対する強い信頼の心を表わしていると考えられる。護符以外のものでも、特に貴重なものや丁重に取り扱う必要のあるものを持ち運ぶ時、例えば、貴重な書類や大事な人の遺骨などは日本では古くから首にかけて歩く習慣が平安の時代からあった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「めくら縞」縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。織り紺。青縞。盲地。

「白木(しろき)」通一丁目、藝材の東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店(後の二つは駿河町の「越後屋」と、大伝馬町の「大丸屋」)の一つである白木屋。後の「東急百貨店日本橋店」の前身に当たる。

「三尺」筑摩全集類聚版脚注に、『白木屋で売り出した柔小紋』(やわらかこもん:細かい模様を白抜きして単色で染めた日本の型染めの一つで、特に江戸小紋と呼ばれたそれであろう)『の三尺帯』。三尺帯は長さが反物用の鯨尺で約三尺(鯨尺のそれは曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分(約三十八センチメートル)を一尺とするので、一・一四メートル)ある一重(ひとえ)廻しの帯。

をしめてゐたと云ふ男である。

「しかけ」「仕掛け」。打掛(うちか)けの別称。江戸の遊里で用いられた用語であるが、遊女の着る小袖類を指していうこともあった。

「談柄(だんぺい)」元は僧侶が正式な談話の際に手に持つ払子(ほっす)の意であったが、転じて「話の種・話題」の意となった。

「倦怠(アンニユイ)」ennui。フランス語。

「恣に」「ほしいままに」。

「根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ」先般、電子化注した『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の詳注を参照されたい。その電子化がこの電子テクスト注の呼び水となったものである。

「孤獨地獄」孤地獄とも言う特異な地獄。この地獄は通常の地獄のように地下にあるのではなく、現世の山間・広野・樹下・空中などに忽然と孤立して散在して出現する地獄とされる。文字通りの現在地獄ということである。

「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄」「其」はママである。現行の電子化物では恐らく総てが「地獄」となっている。しかしこれは「其獄」でも正しい(後掲する引用を参照)。ただ「其」でも誤読することはない。仏典を検索しても、この文字列にぴったり当てはまるものはない。困っていろいろと検索を重ねたところ、サイト「蓮花寺佛教研究所」公式サイト内のこちらにある、『蓮花寺佛教研究所紀要第八号』(二〇〇〇年発行か。PDF)に乾英次郎氏の論文「芥川龍之介における仏教的〈地獄〉表象──原家旧蔵品との関りから――」の中に答えがあった。その「一 芥川・仏教・〈地獄〉」の中で本「孤獨地獄」を採り上げて考察される中で、この「佛說によると」以下の段落を総て引かれた上で、

   《引用開始》

 この中に「仏説」が引かれているが、芥川が「孤独地獄」を執筆するに際して、仏典に直接あたったとは考えにくい。清水康次が既に指摘しているが、上記の記述は、校註国文叢書『今昔物語』上巻(池辺義象編、博文館、大正四・七)所収「本朝付仏法」巻一(日本への仏教渡来・流布史)の「行基菩薩仏法を学び人を導く語」の注釈を参照したものと思しい。芥川の仏教的〈地獄〉観を規定する文章だと思われるので、全文を引用する。

[やぶちゃん注:以下、原本では全体が二字下げ。]

地獄 地獄界をいふ、獄は囚にして罪人を守りて罪室を出でしめざる也、この獄地下にある故にかくいふ

「婆沙論」に瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄といへり、地獄に三種あり、一に根本地獄二に近辺地獄三に孤独地獄これなり、根本地獄とは等活、黒縄、衆合、号叫、大号叫、炎熱、極熱、無間の八大地獄也、近辺地獄に四あり煻煨増屍糞増鋒刃増、烈河増、これなりこの四一大地獄の四方何れにもあり故に一大地獄に十六増の近辺地獄八大地獄百二十八増の近辺地獄あり、これに根本の八を合して総計百三十六地獄をなす、孤独地獄とは山問曠野樹下空中に忽然として現はるゝ地獄也。

 孤独地獄あるいは孤地獄・独地獄については、玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』巻一七二の中に「瞻部洲下有人地獄。瞻部洲上亦有邊地獄。及獨地獄或在谷中。或在山上。或在曠野。或在空中。於餘三洲唯有邊地獄獨地獄無大地獄」とある。ここには「樹間」という言葉が見えないが、『妙法蓮華経玄賛』巻一七二三では「即是山問曠野樹下空中」という句が揃って出て来る。地獄のある場所について、校註国文叢書『今昔物語』では「瞻部洲下過五百踰繕那乃有「其」獄」となっているが「孤獨地獄」では「「南」欧部洲下過五百瞳繕那乃有「地」獄」となっている。単なる誤写と考えるのが妥当であろうが、たとえば『往生要集』では八大地獄が「南瞻部洲下」にあるとしているので、芥川は前掲の注釈文以外にも〈地獄〉に関する情報源を持っていた可能性はある。

 芥川が「孤独地獄」を発表したのは、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』にある鼻の長い僧侶の逸話に取材した「鼻」(『新思潮』大正五・三)を夏目漱石に賞賛され、一気に文壇の脚光を浴びたのと同時期である。芥川が新進作家として歩み出すスタート地点に、〈地獄〉というモチーフは既に存在していたのである。

   《引用終了》

とある。恐らく、乾氏は「其獄」が「地獄」に書き変えられてしまったテクストを見られたのであろう。だいたいからして、昭和四三(一九六八)年筑摩書房発行の「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」を底本とする 「青空文庫」版も「地獄」となってしまっており、岩波の旧全集をもとにしているはずの昭和四六(一九七一)年発行の「筑摩全集類聚」版も、あろうことか、「地獄」となってしまっているのである。しかも、筑摩全集類聚版脚注では出典を「倶舎論」(くしゃろん:インド仏教で最も著名な大徳世親菩薩の代表作。「阿毘達磨倶舎論」)とする)。さてもそこで、「具舎論」を調べたが、完全文字列一致はなかった。そこでダメ押しで「大正蔵検索」で「五百踰繕那」のワード検索したところが、「翻譯名義集」(宋代の梵漢辞典。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの)の一節として、

   *

獄故婆沙云贍部洲下過五百踰繕那乃有其獄

   *

と「南」を除き、しかも「其獄」のそれが、確かにあることが確認出来たのである。されば、勝手に誰もが書き変えてしまった「其獄」は、それでいいのだと私は確信したのである。因みに、乾氏の論文は非常に興味深い内容であるから、是非、全部を読まれんことを強くお薦めする。さて、一応、訓読しておくと、

   *

南瞻部洲(なんせんぶしう)下(か)、五百踰繕那(ゆぜんな)を過ぎて、乃(すなは)ち、其の獄、有り。

   *

で、「南瞻部洲」はサンスクリット語「ジャンブー・ドゥヴィーパ」の音写。閻浮提(えんぶだい)・閻浮洲・南閻浮提・穢洲・勝金洲などの漢訳語がある。本来は古代インドの宇宙説において世界の中心とされている須弥山 (しゅみせん) の南方に位置する大陸で、四大洲(他に東勝身洲=弗婆提(ほつばだい)・西牛貨洲(さいごけしゅう)=瞿陀尼(くだに)・北倶盧洲(ほくくるしゅう)=鬱単越(うったんおつ)がある)の一つ。北に広く南に狭い地形で縦横七千由旬 (ゆじゅん:古代インドにおける長さの単位サンスクリット語「ヨージャナ」の漢音写。ここに出る「踰繕那」は別表記。本来は「軛(くびき)に(牛を)つける」の意で、牛に車をつけて一日引かせる行程を指した。一由旬は約十二・十六・二十四キロメートルに相当するという各説がある) あるとされる。インドの地形に基づいて考えられたものだったが、後に仏教でこの人間界(現実世界)全体を指すようになった。閻浮提には大国が十六、中国が五百、小国が十万あるとされ、仏縁に恵まれていることに於いてはこの洲が第一であるとされる。「五百踰繕那」先の換算で六千から一万二千キロメートルに相当する。

「境界(きやうかい)」「青空文庫」版も筑摩全集類聚版も「きやうがい」。私は清音がいい。響きから「境涯」という私の嫌いな熟語がちらつき、不必要なニュアンスを与えていやな感じがするからである。物理的な時空間の位置存在世界が、ひいては自身の現存在意識総てが、瞬時にしてそのまま地獄に変容(メタモルフォーゼ(ドイツ語:Metamorphose)するのである。

「山間曠野樹下空中」筑摩全集類聚版脚注は『「倶舎論頌疏一〇」に見られる句』とするが(「倶舎論頌疏」は平安時代の円暉の撰になる「倶舎論」の要旨を解釈したもの)、私の調べた限りでは、同書第十にはその文字列はない。そこで、この文字列をやはり「大正蔵検索」で調べると、「阿毘達磨順正理論」(これは衆賢(サンガバドラ:紀元後五世紀頃のインドで活躍した学僧)の著した「倶舎雹論」(くしゃばくろん)と呼ばれる「倶舎論」へ反駁した仏教教理書である)

   *

孤地獄。或二一。各別業招。或近江河。山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

とあるのが、最も近く、次に「佛頂尊勝陀羅尼經敎跡義記」の、

   *

諸餘孤露地獄別業招者。或近江河山間曠野。

   *

や、「一切經音義」の、

   *

地獄 梵云、捺落迦、此云、苦器、亦云、不可樂、亦云、非行非法行處也。或在山間曠野空中。今言地獄者在大地之下也。

   *

や、「祕密漫荼羅十住心論」の、

   *

餘孤地獄。或多二一各別業招。或近江河山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

「唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……」これは精神医学書の強い抑鬱状態の教科書的表現の言い換えだとしても納得出来る内容である。「境界」と言う禪超の表現を重視するならば、自分と、自分のいる時空間や対象との乖離が起こっている病的なものとしてあるとするならば、統合失調症や重い強迫神経症なども想起される。なお、底本の後記によれば、「しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、」の後には初出と「羅生門」には、続けて、

   *

(かう云つて禪超は口元の筋肉(きんにく)を引きつらせながら、泣くやうな顏をして笑(わら)つた。)

   *

とあると記す。

「金剛經」「金剛般若經」。正式には「金剛般若波羅蜜經」。大乗仏教の最初期の経典群の総称。これを名のる経典は数多く漢訳されて、「大正新脩(しんしゅう)大蔵経」に収められているものだけでも四十二経もあり、サンスクリット本やチベット語訳もかなり揃っている。大乗仏教の第一声を告げる経として、もっとも重要な経であるが、以後、次々と作られ、次第に増幅されて、最大のものは玄奘が訳した「大般若波羅蜜多経」は全六百巻に及ぶ。これはあらゆる経典中、最大のものである。一切の実体と実体的思想との否定を謳う「空(くう)」の思想を拠り所とする般若の知慧を説き、六波羅蜜の実践を推し進める内容を持つ。なお、密教が拠ったところの「理趣(般若)經」は、かなり後代になって書かれたものであり、また「金剛(般若)經」は禅の関係で流布し、「般若心經」は浄土教と日蓮宗を除く仏教全般に於いて広く愛誦され、書写も盛んであり、現在、最もよく知られるものとしてある。

「疏抄」(そせう(そしょう))は注釈したものの抄本。

「下總の寒川(さむかは)」現在の千葉県千葉市中央区寒川町

「堇野や露に氣のつく年四十」「堇野」は「すみれの」。森鷗外の「細木香以」の「十」には文久元(一八六一)年(先に示した通り、文久二年には店を継母に譲って、隠居した山城河岸没落の年)の香以四十の年の一句として、相似句、

 年四十露に氣の附く花野哉

が載る。私は「堇野や」の方が上手いと思う。

「安政四年」一八五七年。

「しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである」この最後のクレジット(大正五(一九一六)年二月)が正しいとすれば、芥川龍之介は執筆時、未だ満二十三歳である。しかし、この最後の如何にもにも見える憂鬱な告解は、二年前の大正三年秋の龍之介の初恋であった吉田彌生との外的な要因による破局が根には、ある。さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の稲田智恵子氏の解説では、『この末尾に注目して芥川自身の孤独感を解題しようとするものが目立つ。しかし今後の研究ではあくまでテキストの中の「自分」として、作者と切り離して読みをしめすべきであろう』などと述べておられるが、勝手なテキスト論が「こゝろ」の学生と靜を結婚させるような場外乱闘に及ぶを見るに、私はそうした作者のディスクール(言説)であることを恣意的に乖離させて読むなどということは、到底、許されるものではないと考える人種である。大流行りのテクスト論は、究極において、遂に「小説にテーマなどない」、「文言を記号として捉えて自由に読み換え、読み終えた後に感想と展開を仮想構築して各自が勝手に楽しめばよい」という無謀にして不毛な文学論に堕すものとしか考えていない。さればこそ、私は、というより、後の芥川龍之介の自死に至る過程を知っている我々は、この「檣(ほばしら)の二つに折れた船」(「或阿呆の一生」。リンク先は私の草稿附き電子テクスト)のように彷徨う若き魂の告解に、いわく言い難い不吉な予言の響きを聴かざるを得ないのではないか? 芥川龍之介の残り後半生の十二年は、まさにしく、境界の迷宮を裏道を走りめぐるような「孤獨地獄」の中にあったと言えるように私には感ぜられるのである。

「――五年二月――「底本の後記によれば、『文末に日付、初出になし。初出は文末に行を改めて小字で一文がある』あって、以下の芥川龍之介の附記が示されてある。

   *

とうから、小說を書く外に、暇を見てかう云う小品を少しづゝ書いて行かうと思つてゐた。さうしてその數が幾つかになつたら發表するつもりでゐた。今、それを一つ切話して出すのは、全く紙數の都合からである。

   *

とある。]

 

 

草稿

 

[やぶちゃん注:以下、「孤獨地獄」の草稿を示す。底本は一九九七年刊の岩波の新全集「芥川龍之介全集」の第二十一巻に所収されているそれを(六種の断片で続いておらず、書き換え部分もある)、上記公開定稿を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。標題はない。纏まった部分の変わるところで「*」を挟んで前後を空けた。] 

 

 これは大叔父が母に話し 母が更に又自分に話した 或平凡な事實を書いて見たものである。

 大叔父は所謂大通の一人で 九代目團十郞 宇治紫文 都千中 乾坤坊良齋などの藝人から 默阿彌 春水 種員 永機 是眞 芳年などの文人や畫工とも 知己の間柄だつた男である。梅曆の中に出て來る千葉の藤兵エと云ふ人物は、春水がこの犬叔父を模型(モデル)にした。默阿彌の「江戶櫻淸水淸玄」の中の紀國屋文左エ門も やはりこの大叔父を書いたものだとか聞いてゐる。物故してから彼是もう五十年にはなるであらう。生前 今紀文と綽號(あだな)された事があるから 今でも少しは知つてゐる人があるかも知れない。――姓は細木名は藤次郞 俳名は香以 通稱は山岸河岸の津藤である

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜、玉屋の二階で、厠へ行つた歸りしなに、何氣なく廊下を通ると、欄干によりかかりながら、月を見てゐる男が眼に止つた。坊主頭に黃八丈の着物を着た 醫者と云ふ拵への男である。津藤はその橫顏を見て、これを出入の太鼓醫者竹内だと思つた。そこで通りしなに 手をのばして ちよいとその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を笑つてやらうと思つたからである。津藤にはその時封間が一人に 藝者が一人ついてゐた。さうして二人にはその男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐた。そればかりではない。封間にはその男の誰だと云ふ事さへよくわかってゐた。そこで津藤がその男の耳を引張らうとした時に、慌てて袖を引かうとしたが、もう間に合はない。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると反て此方が驚いた。竹内とは似もつかない男である。左の頰にある大きな黑子は、その時でもはつきり見えた。額の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。色は女のやうに白い。――これだけの顏かたちが 月にそむいてゐながらも 慌しく津藤の眼にはいつた。云ふまでもなく この時耳を引張られた坊主が

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき) 名は藤次郞 俳名は香以、通稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜 吉原の玉屋の二階で 厠へ行つた歸りに 藝者を一人封間をつれて廊下を通ると欄干によりかかり

 

こで通りしなに 手をのばして ちよいその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時、津藤には、藝者が一人に、封間が一人ついてゐた。始めからこの二人には その男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐる。それ所ではない。封間はその男が何處の誰だと云ふ事までちやんと心得てゐる。そこで 津藤がその男の耳を引張らうとするのを見て、二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 津藤には その時 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は 始から その男が竹内でないと云ふ事を知つてゐた。だから 津藤が耳を引張りさうにするのを見て二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。……向ふが驚けば 津藤も驚いた。ふり向いた坊主の顏を見ると、竹内とは似もつかない男である。津藤が驚けば坊主も驚いた。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ち□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]いとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時 津藤には 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は始めからその男が竹内でない事を知つてゐた。だから津藤が耳を引張りさうにするのを見て 二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。向ふが驚けば津藤も驚いた。耳を引張られてふり向いた坊主が 竹内とは似もつかない男だつたからである。

 

[やぶちゃん注:「是眞」漆工芸家・絵師・日本画家柴田是真(ぜしん 文化四(一八〇七)年~明治二四(一八九一)年))であろう。名は順蔵、是真は号。日本の漆工分野において、近世から近代への橋渡しの役割を果たした名工である。

「梅曆」戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年:本名は佐々木貞高)の代表作の人情本「春色梅兒譽美」(しゅんしょくうめごよみ)の略称。天保三(一八三二)年から翌年にかけて刊行された。柳川重信・柳川重山画。美男子の丹次郎と女たちとの三角関係を描いた人情本の代表的作品とされる。参照した当該ウィキに梗概がある。登場人物のところに、『千葉の藤兵衛』として、『通い客(春水の遊び仲間であり』、『通人として知られた津藤こと豪商の摂津国屋藤兵衛がモデル)』とある。摂津国屋藤兵衛は細木香以の別通称の一つ。]

2021/01/23

奥州ばなし 影の病

 

     影の病

 

 北勇治と云し人、外よりかへりて、我《わが》居間の戶をひらきてみれば、机におしかゝりて、人、有《あり》。

『誰《たれ》ならん、わが留守にしも、かく、たてこめて、なれがほに、ふるまふは。あやしきこと。』

と、しばし見ゐたるに、髮の結《ゆひ》やう、衣類・帶にゐたるまで、我《われ》、常に着しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、

『寸分、たがはじ。』

と思はれたり。

 餘り、ふしぎに思はるゝ故、

『おもてを、見ばや。』

と、

「つかつか」

と、あゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり。

 家内《かない》に、その由をかたりしかば、母は、物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより、勇治、病氣《びやうき》つきて、其年の内に、死《しし》たり。

 是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり。

 これや、いはゆる影の病《やまひ》なるべし。

 祖父・父の、此《この》病にて死《し》せしこと、母や家來は、しるといへども、餘り忌《い》みじきこと故、主《あるじ》には、かたらで有《あり》し故、しらざりしなり。

 勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり。

 只野家、遠き親類の娘なりし。【解、云《いはく》、離魂病は、そのものに見えて、人には、見えず。「本草綱目」の說、及《および》、羅貫中が書《かけ》るものなどにあるも、みな、これなり。俗(よ)には、その人のかたちの、ふたりに見ゆるを、かたへの人の見る、と、いへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云《いふ》。】

 

[やぶちゃん注:最後の二つの注は底本に孰れも『頭註』と記す。孰れも馬琴(既に述べた通り、「解」(かい)はこの写本を成した馬琴の本名)のものしたもので、五月蠅くこそあれ、要らぬお世話で、読みたくもない。しかし、書いてあるからには注はする。なお、本篇は実は「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の私の注で、一度、電子化している。しかし、今回は零から始めてある。

 標題は「かげのやまひ」。恐らくは真葛の文章中、最も広く知られている一篇の一つではないかと思われる。かく言う私も実は真葛を知ったのはこの話からであるからである。教えて呉れたのは芥川龍之介である。龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」の中である(リンク先は私の二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクストである)。その「呪詛及奇病」の「3 影の病」がそれである。

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

或いは、これがその「椒圖志異」の最後の記事のようにも見えるが、それは判らない。今回、この一篇を紹介するに際して、「芥川龍之介がドッペルゲンガーを見たことが自殺の原因だ」とするネット上の糞都市伝説(そんな単純なもんじゃないよ! 彼の自死は!)を払拭すべく、ちょっと手間取ったが、

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』

をこの記事の前にブログにアップしておいた。そちらも是非、読まれたい。

「影の病」「離魂病」「二重身」「復体」「離人症」(但し、精神医学用語としての「離人症」の場合は見当識喪失や漠然とした現実感喪失などの精神変調などまで広く含まれる)とも呼ぶが、近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。それでも私は、この「影の病い」が和語としては最も優れていると思う。但し、広義のそれらは、ある同じ人物が同時に全く別の場所(その場所が複数の場合も含む)に姿を現わす現象を指すこともあり、自分が見るのではなく、第三者(これも複数の場合を含む)が目撃するケースもかく呼ばれる。なお、私は、「離魂病」というと、個人的にはポジティヴなハッピー・エンドの唐代伝奇である陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」を、まず、思い出す人種である。「離魂記」は、私の「無門關 三十五 倩女離魂」で、原文・訓読・現代語訳を行っているので、是非、読まれたい。

 さて、やや迂遠にあるが、日本の民俗社会にとっての「影」から考察しよう。平凡社「世界大百科事典」の斎藤正二氏の「影」の解説の「かげと日本人」によれば(ピリオド・コンマを、句読点或いは中黒に代え、書名の《 》を「 」に代えた)、『〈かげ〉ということばは、日本人によって久しく二元論的な使いかたをされてきた。太陽や月の光線 lightray も〈かげ〉であり、それが不透明体に遮られたときに生じる暗い部分 shadowshade もまた〈かげ〉である。そればかりか、外光のもとに知覚される人物や物体の形姿 shapefigure も〈かげ〉であれば、水面や鏡にうつる映像 reflection も〈かげ〉であり、そのほか、なべて目には見えるが実体のない幻影imagephantom も』、『また』、『〈かげ〉と呼ばれた。そして、これらから派生して、人間のおもかげ visagelooks や肖像 portrait を〈かげ〉と呼び、そのひとが他人に与える威光や恩恵や庇護のはたらきをも〈おかげ〉の名で呼ぶようになり、一方、暗闇darkness や薄くらがり twilight や陰翳 nuance まで〈かげ〉の意味概念のなかに周延せしめるようになった。このように、まったく正反対の事象や意味内容が〈かげ〉の一語のもとに包括されたのでは、日本語を学ぼうとする外国人研究者たちは困惑を余儀なくされるに相違ない』。『なぜ〈かげ〉の語がこのような両義性をもつようになったかという理由を明らかにすることはむずかしいが、古代日本人の宇宙観』、乃至、『世界観が〈天と地〉〈陽と陰〉〈明と暗〉〈顕と幽〉〈生と死〉などの〈二元論〉的で』、『かつ』、『相互に切り離しがたい〈対(つい)概念〉を基本にして構築されてあったところに、さしあたり、解明の糸口を見いだすほかないであろう。記紀神話には案外なほど』、『中国神話や中国古代思想からの影響因子が多く、冒頭の〈天地開闢神話〉からして「淮南子(えなんじ)」俶真訓・天文訓などを借用してつくりあげられたものであり、最小限、古代律令知識人官僚の思考方式のなかには』、『中国の陰陽五行説が』、『かなり十分に学習=享受されていたと判断して大過ない。しかし、そのように知識階級が懸命になって摂取した先進文明国の〈二元論〉哲学とは別に、いうならば日本列島住民固有の〈民族宗教〉レベルでの素朴な実在論思考のなかでも、日があらわれれば日光(ひかげ)となり、日がかくれれば日影(ひかげ)となる、という二分類の方式は伝承されていたと判断される。語源的にも、light のほうのカゲは〈日気(カゲ)ノ義〉(大槻文彦「言海」)とされ、shade darkness を意味するヒカゲは』「祝詞(のりと)」に〈『日隠処とみゆかくるゝを略(ハブ)き約(ツ)ゞめてかけると云(イフ)なり〉(谷川士清「和訓栞(わくんのしおり)」)とされている。語源説明にはつねに多少とも』、『こじつけの伴うのは避けがたいが、原始民族が天文・自然に対して畏怖の念を抱き、そこから出発して自分たちなりの世界認識や人生解釈をおこなっていたことを考えれば、〈かげ〉の原義が〈日気〉〈日隠〉の両様に用いられていたと聞いても驚くには当たらない。むしろ、これによって古代日本民衆の二元論的思考の断片を透視しうるくらいである』。『〈かげ〉は、古代日本民衆にとって、太陽そのものであり、目に見える実在世界であり、豊かな生命力であった。しかも一方、〈かげ〉は、永遠の暗黒であり、目に見えない心霊世界であり、ものみなを冷たいところへ引き込む死であった。権力を駆使し、物質欲に燃える支配者は〈かげの強い人〉であり、一方、存在価値を無視され今にも死にそうな民衆は〈かげの薄い人〉であり、さらに冷たい幽闇世界へ旅立っていった人間はひとしなみに〈かげの人〉であった。当然、ひとりの個人についても、鮮烈で具体的な部分は〈かげ〉と呼ばれる一方、隠戴されて知られざる部分もまた〈かげ〉と呼ばれる。とりわけ、肉体から遊離してさまよう霊魂は、〈かげ〉そのものであった。そのような遊離魂を〈かげ〉と呼んだ用法は「日本書紀」「万葉集」に幾つも見当たる。近世になってから「一夜船」「奥州波奈志」』(!!!)『「曾呂利話」などの民間説話集に記載されている幾つかの〈影の病〉は、当時でも、離魂病の別称で呼ばれる奇疾とされたが、奇病扱いしたのは、それはおそらく近世社会全体が合理的思惟に目覚めたというだけのことで、古代・中世をとおして〈離魂説話〉や〈分身説話〉はごくふつうにおこなわれていた(ただし、こちらのほうには唐代伝奇小説からの影響因子が濃厚にうかがわれるが)のであり、現在でさえ、〈影膳〉の遺風のなかにその痕跡が残存されている』。『ついでに、〈影膳〉について補足すると、旅行、就役、従軍などにより不在となっている家人のために、留守の人たちが一家だんらんして食事するさい、その不在の人のぶんの膳部をととのえる習俗をいい、日本民俗学では〈陰膳〉と表記する。民俗学の解釈では、不在家族も同じものを食べることにより』、『連帯意識を持続しようという念願が込められている点を重視しており、それも誤っていないと思われるが、〈かげ〉のもともとの用法ということになれば、やはり霊魂、遊離魂のほうを重視すべきであろう。もっとも、〈かげ〉をずばり死霊・怨霊の意に用いている例も多く、関東地方の民間説話〈影取の池〉などは、ある女が子どもを殺されて投身自殺した池のそばを、なにも知らずに通行する人の影が水に映るやいなや、池の主にとられて死ぬので、とうとう』、『その女を神にまつったという。同じ〈かげ〉でも、〈影法師〉となると、からっとして明るく、もはや霊魂世界とすら関係を持たない。この場合の〈かげ〉は、たとえば「市井雑談集」に、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者にむかい、道心坊が〈此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也と語る〉と説明したと記載されてあるとおり、むしろ、ユーモラスな物理学現象としてとらえられる。〈影絵〉もまたユーモラスな遊びである。古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい、日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった』とある。

 さてもそこを押さえた上で、ウィキの「ドッペルゲンガー」を見よう。『ドッペルゲンガー現象は、古くから神話・伝説・迷信などで語られ、肉体から霊魂が分離・実体化したものとされた』。『この二重身の出現は、その人物の「死の前兆」と信じられた』(注釈に『死期が近い人物がドッペルゲンガーを見ることが多いために、「ドッペルゲンガーを見ると死期が近い」という伝承が生まれたとも考えられる』とする)。十八世紀末から二十世紀に『かけて流行したゴシック小説作家たちにとって、死や災難の前兆であるドッペルゲンガーは魅力的な題材であり、自己の罪悪感の投影として描かれることもあった』。『ドッペルゲンガーの特徴として』は、『ドッペルゲンガー』である方の『人物は周囲の人間と会話をしない』・『本人に関係のある場所に出現する』・『ドアの開け閉めが出来る』・『忽然と消える』・『ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ』『等があげられる』。『同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象、という意味の用語ではバイロケーション』(Bilocation:超常現象用語。同一人が同時に複数の場所で目撃される現象、或いは、その現象を自ら発現させる能力の呼称)『と重なるところがあるが、バイロケーションのほうは自分の意思でそれを行う能力、というニュアンスが強い』。『つまりドッペルゲンガーの』場合は、『本人の意思とは無関係におきている、というニュアンスを含んでいる』ことが圧倒的多数である。『アメリカ合衆国第』十六『代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシアのエカテリーナ』Ⅱ『世、日本の芥川龍之介などの著名人が、自身のドッペルゲンガーを見たという記録も残されている』。十九『世紀のフランス人のエミリー・サジェ』(Émilie Sagée:女性で教師であった)『はドッペルゲンガーの実例として有名で』、『同時に』四十『人以上もの人々によって』彼女の『ドッペルゲンガーが目撃されたといわれる』。『同様に、本人が本人の分身に遭遇した例ではないが、古代の哲学者ピタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されたという』。『医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は』「autoscopy」(オトスコピー:「auto-+「‎-scopy」:自動鏡像視認)、『日本語で「自己像幻視」と呼ばれる。 自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える』。『現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)』(この単語は心霊学用語で「幽体離脱」を示す語として有名)『と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は』、『友好的なものより』、『敵対的なことのほうが多い』(これは解離性同一性障害(旧多重人格障害)によく見られる)。『例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。この脳の領域は、ボディー』・『イメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり』、『患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある』。『しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものと』、『つかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである』。以下、「作品中のドッペルゲンガー」では、ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の詩篇、ドイツの多才な作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)の「大晦日の夜の冒険」(一八一五年)、イギリスの作家アルフレッド・ノイズ(Alfred Noise)の「深夜特急」、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(一八三九年)、イングランドのラファエル前派の画家で詩や小説も書いたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの水彩画「How They Met Themselves」(「彼らはどのようにして彼らに出逢ったか」。一八六〇年~一八六四年作)、短編「手と魂」(Hand and Soul:一八五〇年)、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像』」(一八九〇年)、ドイツの幻想作家ハンス・ハインツ・エーヴェルス(Hanns Heinz Ewers)の「プラーグの大学生」(一九一三年)、ドストエフスキーの「分身」(一八四六年)、ジグムント・フロイトが書いた病跡学的考証と独自の夢解釈理論の傑作であるドイツ人作家ヴィルヘルム・イエンセン(Wilhelm Jensen)作の「グラディーヴァ」(Gradiva:一九〇三年:特異的に、自分ではなくて他者のドッペルゲンガー幻想を抱く青年の物語である)を取り上げて分析した「W・イエンセンの小説『グラディーヴァ』に見られる妄想と夢」(Der Wahn und die Träume in W. Jensens „Gradiva“:一九〇七年)、パリ生まれのアメリカ人作家ジュリアン・グリーン(Julien Green)の「地上の旅人」(一九二七年)、既に本ブログ記事の前で示した芥川龍之介の「二つの手紙」(大正六(一九一七)年)、ドイツの作家ハンス・ヘニー・ヤーン(Hans Henny Jahnn 一八九四年~一九五八年)の「鉛の夜」(一九五六年)、梶井基次郎の「泥濘」(大正一四(一九二五)年。リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)及びそれを発展させた「Kの昇天」(大正一五(一九二六)年。リンク先は私の古い電子テクスト)をドッペルゲンガーを扱った作品として挙げている。さてもこれらを見ながら、私が驚いたのは、私自身が極めてドッペルゲンガー物の偏愛者であることに、今更乍ら、判ったからである。実にここに出ている作品は殆んど総てを読んでいるからなのである。フロイトのそれなどは、彼の芸術論の中ではピカ一に面白いものである。因みに、このウィキ、下方に『上段の項目「歴史と事例」の北勇治のドッペルゲンガーの話は杉浦日向子の漫画作品『百物語』上巻の「其ノ十六・影を見た男の話」でとりあげられている』とあるのだが(因みにこの日向子さんの漫画も持っている)、上段の「歴史と事例」に「北勇治」の話なんか出てないぜ? この記事を書いた人物は、この「奥州ばなし」の本篇を「歴史と事例」に記したつもりで、うっかりしているだけらしい。情けない。上記の作品記載がまめによく拾っているのに、残念な瑕疵だね。以下、モノローグ。――私はウィキペディアの記者だが、直さないよ。先年、ある出来事で、甚だ不快を覚えて以来、誤字・誤表現や、致命的な誤り以外には手を加えないことにしているからね。誰か僕のこの記事を見たら、直しといてやんな。ウィキペディアは自己の制作物はリンク出来ないからね。アホ臭――

「北勇治」不詳。

「あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり」ここが本話のキモの部分である。この隙間はごくごく細くなくてはいけない! 北勇治のドッペルゲンガーは後ろ姿のまま、紙のように薄くなって(!)この隙間を……しゅうっつ……と抜けて行ってしまったのである……

「是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり」この事実は、ごくごく主人には内密にされていた以上、現実の可能性を考えるならば、心因性ではなく、何らかの遺伝的な脳障害(最後には絶命に至る重篤なそれである)の家系であったことが一つ疑われるとは言えるようには思う。

「忌《い》みじき」違和感がない。真葛! 最高!

「勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり」真葛の女らしい配慮を見よ!

「只野家、遠き親類の娘なりし」この未亡人が只野(真葛)綾(子)の夫の只野家の、遠い親類の娘であったというのである。その未亡人からの直接の聴き取りであろう。嘘臭さがここでダメ押しで払拭されるのである。短いが、優れた怪奇譚として仕上がっている。

「本草綱目」これは探し出すのに往生した! まず、巻十一の「草之一」の「人參」の「根」の「附方」の中にある以下に違いない!

   *

離魂異疾【有人臥則覺身外有身、一樣無別、但不語。蓋人臥則魂歸於肝、此由肝虛邪襲、魂不歸舍、病名曰離魂。】[やぶちゃん注:下略。]

(離魂異疾【人、有り、臥すときは、則ち、身の外に、身、有ることを覺ゆ。一樣にて、別(わか)ち無し。但、語らず。蓋し、人、臥すときは、則ち、魂、肝に歸す。此れ、肝虛に由りて、邪、襲ひて、魂、舍に歸らず。病、名づけて、「離魂」と曰ふ。】)

   *

「羅貫中が書《かけ》るものなどにある」羅貫中(生没年未詳)は元末・明初の小説家。太原(山西省)の人。号は湖海散人。知られたものでは「三国志演義」「隋唐演義」「平妖伝」などがあり、「水滸伝」も編者或いは作者の一人であるともされる。私は一作も読んだことがないので判らない。馬琴は彼の作品群を偏愛しており、特に「平妖伝」には深く傾倒し、二十回本を元に「三遂平妖伝国字評」を記しているが、それなら、それと書くであろう。判らぬ。識者の御教授を乞う。

『そは、「搜神記」にしるせしが如し』先の「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の本文頭に出る「搜神後記」(六朝時代の名詩人陶淵明撰とされるが、後代の偽作である)の誤りのように私には思われる。そちらを読まれたい。注で原文も示しておいた。

「ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし」これは何かの皮肉を掛けているようだが、よく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近。

「只野大膳」ウィキの「只野真葛」によれば、寛政九(一七九七)年三五歳の綾子は『仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の』只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称は只野伊賀)と『再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村』(なりむら)『の世子松千代の守り役をいったん仰せつかったが』、寛政八(一七九六)年八月の『斉村の夭逝により守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷』(こりょうしょうみん)『(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより』、『平助は、源四郎元輔』(次男。長庵元保がいるが、このウィキには彼の名を出すものの、その後の事蹟が記されていない。底本の鈴木氏の解説によれば、この長男は実は早逝しているのである)『の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の

       身はいたづらに消えんとすらん

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられて』おり、一旦、『江戸に招き寄せた家族も急遽』、『仙台に帰している。したがって行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた』とある。

 

 なお、ここに至って、実は国立国会図書館デジタルコレクションに正字正仮名版の本作「奥州ばなし」が、二つ、あるのを発見した。一つは、

「麗女小說集 德川時代女流文學集 下」のここから(標題は「奥州波奈志」で作者名は「只野綾女」と本名で出す)

で編著者は荒木田麗女で、与謝野晶子の纂訂、冨山房大正四(一九一五)年刊である。荒木田麗女(れいじょ 享保一七(一七三二)年~文化三(一八〇六)年:或いは単に「麗」とも)は江戸中期の女流文学者で、実父は伊勢神宮内宮の神職荒木田武遠(たけとお)。十三歳で叔父の外宮御師(おんし)であった荒木田武遇(たけとも)の養女となった。詳しくはウィキの「荒木田麗女」を参照されたい。しかし、何故、彼女の小説集の最後に、真葛の本作一つだけが載っているのか、実は――判らない。晶子の解題には何も書かれていないからなのである。これは異様な感じがする。まさに怪奇談である。今一つは、

「女流文學全集 第三卷」のここから

で、編者は古谷知新(ふるやともよし)、文芸書院大正八(一九一九)年刊である。孰れも総ルビに近いのであるが(後者は割注が本当に割注になっていいて、それにはルビがない)、総ルビというのが、寧ろ、気に入らない。孰れも親本が明記されていないからである。この何とも怪しい編集になる晶子の、或いは古谷氏の読みが、押し付けられる可能性が高いと言える(私の《 》の読みも私の推定に過ぎぬのだが)。しかも、後者の読みが前者を元にしている可能性も排除は出来ない。とすれば、この読みを信奉するわけにはゆかないのである。本篇は後、六篇を残すのみである。私は以上のそれを参考には一切しないことに決めた。私の自己責任で最後まで、ゆく。

 

 にしても、私は、これを以って、稀有の才媛只野眞葛と、稀有の芸術家ソロモン芥川龍之介と、そうして、最後に真に龍之介が愛した、やはり、稀有の才媛シヴァ片山廣子の三人をコラボレーションすることが出来たと感じている。……真葛の死から百九十六年……龍之介の死から九十四年……廣子の死から六十四年……三人の笑みが、私には見える……

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作品には、明確にドッペルゲンガー(ドイツ語:Doppelgänger:二十身/自己像幻視/離魂病)を扱ったものとしては、「二つの手紙」(大正六(一九一七)年九月発行雑誌『黒潮』初出)と「影」(大正九(一九二〇)年九月発行『改造』初出)がある(リンク先は孰れも「青空文庫」。新字新仮名)二作があり、言及では「路上」(『大阪毎日新聞』大正八(一九一九)年六月から八月まで三十六回連載。未完。リンク先は同前)の「十六」に(引用は独自に岩波旧全集に拠った)、

   *

 俊助はかう云ふ問答を聞きながら、妙な事を一つ發見した。それは花房(はなぶさ)の聲や態度が、不思議な位(くらゐ)藤澤に酷似してゐると云ふ事だつた。もし離魂病(りこんべう)と云ふものがあるとしたならば、花房は正に藤澤の離魂體(ドツペルゲンゲル)とも見るべき人間だつた。が、どちらが正體でどちらが影法師だか、その邊の際どい消息になると、まだ俊助にははつきりと見定めをつける事がむづかしかつた。だから彼は花房の饒舌つてゐる間も、時々胸の赤薔薇を氣にしている藤澤を偸(ぬす)み見ずにはゐられなかつた。

   *

とあり、また、自己告白体の遺作(但し、「一 レエン・コオト」のみは死の前月六月一日発行の雑誌『大調和』に発表済み)の「齒車」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 まだ?」で小説執筆のために借りているホテルの部屋に戻った「僕」は、新らしい小説にとりかかっていたが、

   *

 けれども僕は四五分の後(のち)、電話に向はなければならなかつた。電話は何度返事をしても、唯何か曖昧(あいまい)な言葉を繰り返して傳へるばかりだつた。が、それは兎も角もモオルと聞えたのに違ひなかつた。僕はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]電話を離れ、もう一度部屋の中を步き出した。しかしモオルと云ふ言葉だけは妙に氣になつてならなかつた。

 「モオル――Mole………

 モオルは鼴鼠(もぐらもち)と云ふ英語だつた。この聯想も僕には愉快ではなかつた。が、僕は二三秒の後、Mole la mort に綴り直(なほ)した。ラ・モオルは、――死と云ふ佛蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姊の夫に迫(せま)つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の爲に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前(まへ)に立ち、まともに僕の影と向(むか)ひ合つた。僕の影も勿論微笑(びしやう)してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第(だい)二の僕のことを思ひ出した。第(だい)二の僕、――獨逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亞米利加の映畫俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、當惑したことを覺えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚(かたあし)の飜譯家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に來るのかも知れなかつた。若し又僕に來たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ歸つて行つた。

   *

とある。因みに、彼がかなり以前からドッペルゲンガーに強い関心を抱いていたらしいことは、龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」(しょうずしい:リンク先は私が二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクスト)の「呪詛及奇病」の「3 影の病」で、

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

とあることから見ても判然とするのである。

 さて、ネット上には、「芥川龍之介が自殺した原因は彼が自分のドッペルゲンガーを見たからである」などという無責任極まりない非科学的な糞都市伝説が横行している(龍之介がドッペルゲンガーを見たと感じたのは事実であるが、それは晩年とは限らない。但し、晩年に限るならば、そういう体験に漠然とした自身の死や致命的な災厄が近いという感じを持ったこと(これは洋の東西を問わず、民俗社会でよく普通に言われることである。私は三十代の頃に一度だけ、行きつけだった鎌倉のドイツ料理店の女主人から、「あなたと同じ顔をした同じ名前のセールスマンが、先日、来たよ」と言われてゾッとしたことがある)は「齒車」の一節から看取は出来る)。而して、そこでは大概、「ある座談会で芥川龍之介が自分のドッペルゲンガーを見たと言っている」と記してあり、その「ある座談会」という謂いに胡散臭いものを感じられる向きもあろうかと思われる。実はこのネタ元はウィキの「ドッペルゲンガー」の記載で(但し、これは河合隼雄「コンプレックス」(岩波新書・一九七一年十二月)のp.51を原拠としている。私は刊行当時に買って読み所持するはずであるが、流石に中三の時のもので書庫の底に沈んで発掘出来なかった)、多くの野次馬連中はそれを無批判に手軽に転用しているに過ぎない(縦覧した限りでは、この糞都市伝説を記しながらも、以下に示す原拠を正確に語っているのは、たった一件のみであった。

 しかし、小説「齒車」に出現した「僕」の語るそれは、芥川龍之介自身が実体験であることを語っている活字物が存在するのである。「活字物」としたのは、彼の書いたものではなく、ウィキに記す通り、「座談会」記録であるからである。

 これは、自死する丁度二ヶ月前の、昭和二(一九二七)年五月二十四日に旧制新潟高等学校で講演(演題「ポオの一面」)を行った後の夕刻、宿泊先であった篠田旅館で行われた座談会の席上での他者による記録である。現在は岩波の新全集の第二十四巻に「芥川龍之介氏の座談」として掲載されているが、私は所持していない(新全集の新字体採用を嫌ったからであるが、この巻は買う必要があったのに、在勤していた高校の図書館にあったそれで済ませてしまった。この巻だけは未購入を甚だ後悔している)。しかし、この座談記録はもっと以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(一九六九年岩波書店刊)に収録されている。「芥川龍之介氏の座談」自体は勉誠出版「芥川龍之介作品事典」(平成一二(二〇〇〇)年刊)の奥山文幸氏の解説によれば、初出は雑誌『藝術現代』(昭和二(一九二七)年八月発行)で、記事の起筆者は恐らくは出席し、発言もしている精神科医式場隆三郎(明治三一(一八九八)年~昭和四〇(一九六五)年:新潟県中蒲原郡生まれ。。新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)卒業。新潟医科大学にて昭和四(一九二九)年に医学博士。多くの作家・芸術家らと交流を持ち、病跡学も手掛け、文化人としても知られる)と推定している。出席者は発言している長谷川一男(私は事蹟未詳。しかし問いや、発言から見て、相当な芥川龍之介のファンであると同時にかなりの文学通である。「ケタ平」は笑っちゃうけれど)・八田三喜(はったみき 明治六(一八七三)年~昭和三七(一九六二)年:当時の新潟高等学校校長。芥川龍之介の東京府第三中学校時代の同校校長であり、彼からこの講演要請があり、恩師のそれに快く答えたものである。しかし、龍之介は改造社の「現代日本文学全集」の宣伝講演旅行(里見弴と同社宣伝班と五月十三日に出発、講演終了は五月二十一日。新潟着はその翌日)からの帰途で、かなり疲弊していた)・式場隆三郎・伴純(生没年未詳だが、坂口安吾(新潟市生まれ)の「風と光と二十の私と」に、『今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ』(「ちくま文庫」版全集によった)とある人物と断定してよい。ウィキの「新潟新聞」に、大正一四(一九二五)年、当時の社員の『親友の弁護士で『改造』に文章を発表していた伴純』『が編集主事となった』とあり、これらの情報から、この座談会に出席しているのは彼だとほぼ断定出来るように思われる)の他に、『発言はないが、出席者として掲載されているのが、井深圭太郎、中川孝、安藤宅也、羽鳥芳雄』(奥山氏解説)とある。問題は長谷川一男と伴純で、没年が判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。

 なお、上記のような次第で、新全集版との校合は出来ない。しかし、初めて芥川龍之介の「ドッペル・ゲンゲル」の発言がったあったとして広く知られるようになったもので、正字である点で、相応の価値があると考えている。

 底本は先に示した葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に拠ったが、そちらでは、「新潟の座談會」となっているものの、題名は同じく示した「芥川龍之介作品事典」での、初出誌のそれと思われるものに代えた。個人の話が二行以上に亙る場合は、底本では二行目以降は一字下げになっているが、無視した。踊り字「〱」は正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。禁欲的に注を附した。

 なお、底本では葛巻氏が注する中で、『その「講演」は大変力のこもったもので、盛況であったらしいが、それに比較して、この「座談」会での彼は、主催者側も案外と思ったのでないかと思う程、元気がなく、憂鬱そうな彼が出て来ている。少くも、この「記録」に残った限りでは、註に「(皆な暫く沈黙。)」となっている暗い話題に、話が発展しがちであったらしい。――只、これは新潟から家族宛の便りにも、「をととひの夜新潟着。八田さんにいろいろ御厄介になる。」とある様に、この十数年前の恩師八田校長が、いろいろこの「座談」会の中でも、彼の気を引き立てる様に話を持って行こうとしているが、――これは編者のみではなく、この深い心づかいがなかったなら、彼は青森から、羽越線の列車をたどって、中学時代の校長八田三喜氏が、いまは校長をしている新潟高等学校迄、わざわざ「講演」をしに行かなかったに違いない。――又、帰京後、彼の言葉として、編者はこの事を聞かせられた様にも記憶する。なお、これは余事ながら、この北海道講演旅行中の彼は、青函連絡線で、乗船の際履きかえた上草履のままで、函館の往来で気づいたり、――時計をどこかに置き忘れるかと思うと、つれの里見弴氏の伴れ人を驚かそうとして、樺太長官夫人の寝台の真上の船窓をいきなり外からこじ明けて、首をつっこんでしまったり、いろいろ彼の、ふだんの家庭での一面も発揮している。(これは、里見弦氏の「追憶」に詳しい。)編者はいま、それらを想い出している。同時に、「羽越線の中で作る……」と書かれた、「山吹」の詩と一しょに。-―』と記しておられる。最後の部分は私の芥川龍之介「東北・北海道・新潟」を見られたいが、そこの私の冒頭注が異様に偏執的であるのは、この直後の行動に芥川龍之介のある重大な秘密が隠されていると私が考えているからである。それは……それ……私の注のリンク先を見られれば……よろしい……

 

 芥川龍之介氏の座談

 

長谷川 「河童」と「玄鶴山房」とどちらがお好きですか。

芥川 兩方好きです。(間)貴方はどつちが好きです。

長谷川 「玄鶴山房」です。あの調子でお進みになるのかと思つてゐたら「河童」が出たので驚きました。これからどうお進みになるのです。

芥川 僕は兩方へ進むつもりです。

長谷川 「點鬼簿」からすぐ「玄鶴山房」でしたか。

芥川 いゝえ。あの間に「春の夜」、「彼」、「彼(第二)」などありますよ。

式場 「河童」には何かリアルがあつたのですか。

芥川 ありません。[やぶちゃん注:以下の改行はママ。]

「玄鶴山房」は看護婦にきいた話です。「春の夜」もさうです。「玄鶴山房」であんなに惡く書いて了つたので何處かで恨んでゐるでせう。

長谷川 先生は何時か『人間』か何かに「お律とその子ら」と云ふ小說をお書きになりましたね。

芥川 書きました。『中央公論』です。

長谷川 あれは如何なさいました。單行本にもお入れになりませんね。

芥川 書き直さうと思つて、そのまゝになつてゐます。

長谷川 「俊寬」も單行本にお入れになりませんね。

芥川 あれも書き直さうと思つて書いたのが『文藝春秋』に載つた奴です。それも完成出來なくつてあのまゝになつてゐます。

長谷川 「春」はお續けにならないのですか。

芥川 そんなことはありません。然しどうなりますか。

長谷川 「邪宗門」も未完でせう。

芥川 (微笑)あれはたうとう駄目でした。書き直さうと思つてゐるのや、先をつゞけられなくなつたのが、こんなに(手で厚さを示しつゝ)あるんです。書き直しは案外骨が折れますね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。一字下げのままである。]

 夏目先生は書き直しなどする努力で新しいものを書けといつていられましたが、書き直しは全く大變ですね。

長谷川 「羅生門」をお書きになつたのはおいくつの時でした。

芥川 さあ二十三四でしたかね。[やぶちゃん注:満二十三の時である。]

長谷川 あれから少しも手をお加へにならないのですか。

芥川 えゝ加へません。書くのは書いたが何處でも出して吳れませんでね。方々賴んで步いたけれど駄目でした。やうやう『帝國文學』に載つたのでしたが、それを賴みに行つたのは靑木健作君の家でした。小石川で日は暮れる、雨は降る、犬には吠えられる、それに家が見つからず、全く心細かつたです。やうやう靑木君の家を見つけたんですが、引越した許りで取りこんでゐたので玄關で渡して來ました。始めは原稿料などを貰ふことよりも活字になることが嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「靑木健作」(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年)であろう。山口県都濃(つの)郡(現在の周南市)生まれ。小説家・俳人。東京帝国大学哲学科を卒。明治四三(一九一〇)年に「虻」を夏目漱石に賞賛され、「お絹」「錆たる鍬」などを発表した。この座談当時は法政大学教授。]

長谷川 初めて原稿料をお貰ひになつたのは「虱」でしたか。[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年五月発行の雑誌『希望』に発表。「鼻」が『新思潮』(第四次。同年二月十五日発行の創刊号に発表)に載って以来、初めての依頼原稿であった。龍之介満二十四歳。]

芥川 さうです。あれで參拾錢貰ひました。[やぶちゃん注:これは原稿一枚の稿料単位額を指す。「虱」は原稿用紙十二枚で三円六十銭であった。以下、改行はママ。]

 志賀さんの「淸兵衞と瓢簞」も參拾錢だつたといふ事です。あの頃は今のやうに書いたものがすぐ印刷になるといふわけには行かなかつたやうです。[やぶちゃん注:志賀直哉の「淸兵衞と瓢簞」は大正二(一九一三)年一月一日発行の『讀賣新聞』に発表された。この時、志賀は満二十九歳で、同月には初の短編集「留女」(るめ)を刊行。後にこの集は夏目漱石に賞賛された。]

長谷川 雜誌が少かつたのでせうか。

芥川 いや相當にあつたのです。たゞ編輯者が中々出して吳れぬのです。

長谷川 初めて『中央公論』へお書きになつたのは何でした。

芥川 「手巾」でした。『中央公論』へ出たものゝあれの原稿料は九拾錢でした。とても澤山貰つたやうな氣がして嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「手巾」(はんけち)は同じ大正五年十月一日発行の同誌に発表された。]

長谷川 久保田万太郞さんは先生の一年上[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]

芥川 いや二年先輩です。その上が後藤末雄君です。

八田 後藤君は今どうしてゐるね。

芥川 慶應で博士論文を書いてゐます。

八田 僕はいつか東京で遇つて一緖に夕飯を食べた事があるが、その頃もう文壇を離れてあゝいふ學究生活へ入らうとしてゐた頃と見えて、文壇て厭な奴ばかりゐるといつてこぼしてゐたね。

作川 さうでせう。今でもさういつてます。先日も東洋文庫で一寸逢ひました。勿論文壇だつていゝ所ではありませんがね。

長谷川 赤木ケタ平といふ人はどうしてゐます。

芥川 ケタ平といつちや氣の毒だな。は、は、は、(笑) コウ平といふのですよ。池崎忠孝のペンネエムですよ。今、大阪でメリヤス屋をやつてゐます。

長谷川 先生の飯田蛇笏のことを書いた中に出て來ますね。

芥川 えゝ久米の通俗小說で「赤光」といふのがあるでせう。あれは赤木の父の事を書いたのです。

長谷川 ではあの息子といふのが赤木氏ですか。

芥川 さうです。今でも發作的に時々何か書きたくなるさうですが、久しく筆を執らないと臆病になつて中々書けないものださうです。先日も仙臺で木下杢太郞君と遇つて話したんですが、木下君など文壇に遠ざかつてゐるので、下らない批評家に惡口を云はれても書く氣がなくなるらしいのですね。赤木は實に實に雄辯な男でした。あんな能辯の男は他に知りませんね。久米の戀愛事件の時なども、久米に『ガンペキの如く毅然として居れ』と云ふんです。その『ガンペキ』が盛んに出るが何の事か解らんので訊いたら『岩の壁さ』と答へたので笑つた事がありました。

長谷川 恆藤さんも雄辯家ださうですね。

芥川 いやあれは雄辯といふものではないのです。物を言ふ時理路整然としやべる丈けなのです。

長谷川 佐藤春夫さんは先生より早い人ですか。

芥川 あの男は十一二からものを書き出してゐますから書き出しは僕よりずつと早いです。佐藤は僕にもつとくだけろといつてゐます。喋舌るやうにしてどんどん書けといふのです。例へば港ヘ船が入るのを描寫するのに三十枚は書けるといふのです。その佐藤が田山花袋氏にもつとくだけていゝと云はれてゐるのですから、上には上がありますね。

長谷川 『改造』では谷崎氏と議論がお盛んですね。

芥川 二人で共謀して『改造』から原稿料をとつてゐるといふ評判ですよ。は、は、は、(笑)谷崎君は一番議論しやすい先輩なのと、近頃の谷崎君の書くものに不滿を持つてゐるのであんな議論をつゞけてゐるのです。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 世界で日本の文壇ほど文學者が色々書く所はないのです。僕など去年は仕事をしないしないと云はれてゐるが六つも書いてゐるのです。もう僕も百篇ばかり小說をかきました。ゴオグなど繪を描いたのは三年ださうですからね。

式場 さうです。一番盛んに描いたのはアール・サンレミイですからね。死んだオーヴルは二三ヶ月しかゐなかつたやうですね。

芥川 あの一度死にかけた時にかつぎ込まれた玉突屋でゴオグが寐せられた玉突臺が今も殘つてゐるさうですね。

式場 オーヴルのですか。

芥川 えゝ。齋藤茂吉君がさういつてましたよ。その玉突臺で平氣で今も玉を突いてゐるさうで、毛唐は隨分呑氣だと齋藤君は笑つてゐました。齋藤君はゴオグの病氣はメニヤだといつてましたがどうなんです。[やぶちゃん注:「メニヤ」偏執病。パラノイア(Paranoia)。内因性精神病の一病態。偏執的になり、妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序は保たれているものを指す。妄想の内容には血統・発明・宗教・嫉妬・恋愛・心気などが含まれ、持続し、発展する。判りやすく言うと、高機能型の妄想症であるが、少なくとも本邦では最近は病名として殆んど使用されないようである。因みに、フロイトは「精神分析学入門」でパラノイアは医師に対してラポートの状態を形成し得ないから、精神分析療法では治療は出来ない、と投げている。]

式揚 中々議論が多いのです。それは私の仕事の一部なのですが、といふ說が一番有力のやうです。何しろ癲癎の遺傳は濃厚にあるのですから。リーゼなどと云ふ人はクライストが記載してゐる癲癎の一異型に當てはまるといつてゐますが、ヤスパースは早發性癡呆だといつてますし、麻痺性癡呆だといつてゐる人もあるのです。[やぶちゃん注:「リーゼ」不詳。「クライスト」ドイツの精神科医カール・クライスト(Karl Kleist 一八七九年~一九六〇年) であろう。「早發性癡呆」現在の統合失調症。「麻痺性癡呆」脳が梅毒スピロヘータに侵された様態を指す語。梅毒にかかって数年から数十年をかけて後に発症する。知能に障害が出現し、末期には痴呆状態となる。「進行麻痺」「脳梅毒」と同義。]

芥川 さうですか。ストリントベルヒは何だつたんです。

式揚 パラノイアだといつてゐる人がありますが。

芥川 モオパツサンは立派な麻痺性癡呆だつたさうですね。

式場 さうです、病症日記が出てゐます。

芥川 ニイチエも精神病でしたね。

式場 えゝ。天才には隨分あります。

芥川 さうすると精神病など豫防どころか大いに養成すべきですね。齋藤君も自分は早發性癡呆になりさうでなど云つてました、ロンブローゾの說はおかしいですね。[やぶちゃん注:「齋藤」斎藤茂吉。]

八田 いや、ロンブローゾの說は天才は狂人に過ぎぬからつまらぬといふのではないだらう。

芥川 島田淸次郞など齋藤君に云はせると「地上」に既に早發性癡呆の症狀が現はれてゐるといつてますがね。[やぶちゃん注:「島田淸次郞」(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)小説家。石川の生まれ。大正八(一九一九)年に刊行した長編小説「地上」がベストセラーとなったが、統合失調症を病み、異常行動を起こして保養院に収容された。統合失調症の方は回復したとも伝えられるものの、結核と栄養失調に苦しみ、しかも執筆を継続したが、肺尖カタルが悪化して療養中に病死した。]

伴 僕はもつと先きからだと思ひます。金澤にゐる頃僕は時々逢つたのですが、大言壯語して何百枚書いたと意張つてゐたものです。それが十五六の少年なんで變な氣がしてゐました。私はあの頃から病氣が始まつたのだと思ふのです。

芥川 然し解りませんよ。彼の作が二三百年後にはどういふ眼で見られるかは。今の若い作家で、兎も角あれ丈け書ける人は少いと思ふですね。正宗白鳥氏が『改造』に書いてゐますが今度活動になつた「我もし王者たりせば」のフランソア・ヴョンは、十五世紀の人ですがひどい犯罪者で何年に死んだかも解らん程の男ですが今は大變な人氣で、硏究の本も出てゐるんですからね。[やぶちゃん注:「我もし王者たりせば」邦題は「我れ若し王者なりせば」(原題:The Beloved Rogue)が正しい。一九二七年公開のアメリカの無声映画。十五世紀フランスの盗賊にして詩人であったフランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以降)の生涯に基づいたもの。主演は名優ジョン・バリモア(John Barrymore 一八八二年~一九四二年)。次の改行はママ。]

然し彼が認められるまでは、三世紀もかゝつてゐます。あらゆるものを認めたアナトール・フランスまでが認めなかつたのですから、時世によつて人間の運命など變るものですね。例へば今の十人殺しとかをやる罪人も戰國時代に生れたら、どんな武將となつたか知れないし、藝術上の天 才も戰國時代などに生れたら、隨分みじめなものでせうからね。そして、さういふ天才が戰國時代に埋れてゐなかつたとは云ひ切れませんからね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 天才には隨分悲慘な最後を違げた人も多いですね。

長谷川 スウフトなどもさうだつたのでせう。「ガリバー旅行記」を書いた……。

芥川 さうです。スウフトには凄い話があります。冬の曇つた日、窓からしきりに外を眺めてゐるのださうです。『何を見てゐる』のかと家人が聞くと、一本の枯木を指しながら、『俺もあの木の樣に頭から先きに參つて了ふのだ』と云つたさうです。兎に角天才を側から凝望してゐるうちはいゝが、自ら天才になるのは悲慘ですね。その點で菊池の「屋上の狂人」などはうそですね。(皆笑ふ)夏目先生も被害妄想や幻聽があつたさうです。夏目先生はよく塀の外で誰か惡口を云つてゐると云つて怒鳴つたり、ランプを火鉢へ投り込んだりした事があるさうです。[やぶちゃん注:「スウィフトには凄い話があります。冬の曇つた日、……」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「人間らしさ」』を参照されたい。「夏目先生も被害妄想や幻聽があつた」私は夏目漱石はイギリス留学中に重度の強迫神経症に罹患したと今は思っている(嘗ては関係妄想傾向の強い統合失調症を疑ったが)。]

式場 高濱虛子が書いてゐますね。

芥川 さうです。然しもつと色々の事があつたのです。夏目先生のさういふ方面が全く傳はらないのは惜しい事です。それで近い中にさういふ方面の先生を詳しく書いた本が出る筈ですが、兎も角先生の性格には病的な所があつたのは事實ですね。或時、音樂會へ行つて隣の席にゐる毛唐の女に向つて、―― Are you wood ? ――眞面目な顏をして訊かれた事があつたさうです。

八田 然し精神病の本を頂むと、その症狀がどれも自分にもあるやうな氣がしますよ。

芥川 僕なども精神病の本を讀むと自分を疑つて來ますね。それで齋藤君にあまり讀むなと云はれました。一體ノーマルといふ事はどういふ事なんでせう。

式揚 さあ、それが判つきり云ひ切れないのですね。ブレークなども子供から幻視があつたのです。

芥川 昔の赤不動の繪なども空想だけでは描けないと思ふのです。誰かにそれらの畫家はさうしたものを見たと思ふんです。

式揚 僕もブレークに幻視がなければ、あの繪は描けなかつたと思ひます。「虱の幽靈」などといふ繪も自分で見て描いたといつてますね。[やぶちゃん注:「虱の幽靈」The Ghost of a Flea。ウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の一八一九年から一八二〇年の作。親友の占星術師ジョン・ヴァーリー(John Varley)に頼まれ、降霊会のために描かれた。左手にはドングリの実で作られた杯、右手には植物の棘を持つ。サイト「MUSEY」のこちらで見られる。]

芥川 さうです。

式場 ドペル・ゲンゲルの經驗がおありですか。

芥川 あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現はれました。

八田 然し二重人格といふのは人の錯覺でせう。或はうつかりしてゐて人違ひをするのぢやないですか。

芥川 さういつて了へば一番解決がつき易いですがね。中々さう云ひ切れない事があるのです。或人の話で、自分の部屋へ入つたらちやんと机に向つてゐる第二の自分が立ち上つて出て行つたので、母に話したらいやな顏をしたさうです。そして間もなくその人は死んださうです。その家は代々さうして二重人格が現はれては人が死ぬんださうです。

式場 ドペル・ゲンゲルは死の前兆だと云はれるので僕も出たのでひやひやしましたよ。

八田 さうですか。西洋にもあるんですか。

式揚 あります。そして矢張り不吉な事とされてゐるのです。ドストエフスキーの有名な小說があります。[やぶちゃん注:「ドストエフスキーの有名な小說」「分身」(Двойник)(「二重人格」とも訳される)。中編小説。一八四六年『祖国雑記』第二号に発表された。「貧しき人々」で文壇に華々しくデビューしたドストエフスキーの第二作目。]

芥川 ゲエテも現はれたといつてます。自分の馬に乘つて行くのをゲエテは見たさうです。[やぶちゃん注:私の偏愛するサイト「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」を参照されたい。そこに、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が、一七七一年頃、『ある日、フリーデリケ』(フリーデリケ・エリザベス・ブリオン(Friederike Elisabeth Brion 一七五二年~一八一三年:牧師の娘であった)『という女性と別れた』(但し、ゲーテの方から関係を断ち切った)『ショックで意気消沈して馬で帰る途中、ゲーテは馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、『実際の目ではなく、心の目で見たというのだが、その男は着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿になぜか心が穏やかになって、このことはまもなく忘れてしまった』しかし、八『年後、ゲーテがその同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、これとは別な時、『ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったままゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒがゲーテが通りで見たのと同じ服を着てそこにいた。友人は急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだという』とある。後者はドッペルゲンガーとしても特異なケースである。]

式揚 「靑い塔の中のストリントベルヒ」といふ本だつたかにもストリントベルヒの二重人格の事が書いてあつたやうです。バルコニーに現はれて帽子をとつて下を通る人に挨拶したんださうですが、事實その時ストリントベルヒは机に向つてゐたさうです。[やぶちゃん注:「靑い塔の中のストリントベルヒ」スウェーデンの劇作家・小説家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg  一八四九年~一九一二年日)晩年六十代の折りに恋人となった(四十一歳年下)スゥエーデンの画家で女優のフアンニイ・ヨハンナ・マリア・フアルクネル(Fanny Johanna Maria Falkner 一八九〇年~一九六三年)が一九一一年頃に書いたストリンドベリの回想録「青い塔の中のストリンドベリ」(邦訳「ストリンドベルクの最後の恋」秦豊吉(東京帝国大学法科大学独法科卒。翻訳家であると同時に実業家でもあり、日本初のヌード・ショー「額縁ショー」の生みの親としてとみに知られる)訳・大正一三(一九二四)年)のこと。]

芥川 齋藤君の話だと幻覺と錯覺と區別のつかぬ事があるさうですね。

式揚 時々判斷に困る事があります。

芥川 錯覺など面白い現象ですね。

式場 私は錯覺の一部分を調べたのですが、子供が一番少く、次はノーマルな成人で、精神病者は一番大きかつたです。頭のいゝ人や想像力の豐かな人ほど大きいと云つてゐる人があるのですがね。

芥川 さうでせうなあ。精神病者は最も進んだ人間だと云つていゝですね。(皆な暫く沈獸。)

長谷川 改造社の宜傳旅行に出られたんですか。

芥川 えゝ。北海道まで行つて來ました。靑森で里見君と別れて來ました。

長谷川 小學生全集も大變でせうね。[やぶちゃん注:「小學生全集」サイト「古本 海ねこ」のこちら(初級用。上級用はこちら)に写真入りで詳しい解説がある。それを見ると、龍之介の死の翌年の刊であるが、「小學生全集初級用 第十六卷 日本文藝童話集・下」に龍之介「杜子春」が収録されてある。]

芥川 あれは菊池の仕事ですよ。僕はそれを助けてゐるに過ぎないのです。

長谷川 菊池さんは創作を書かれませんね。

芥川 さうですね。事業家になつたんです。

式場 大變御邪魔をしました。ではこれで失禮します。(昭和二年五月廿四日夕 篠田旅館にて)

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。最後の署名は「長谷川」と「式場」の合成かも知れない。]

(附記。速記した譯ではなく、あとで記憶をたどつて書いたので間違つてゐる所もあると思ひます。芥川氏並びに出席された方の御寬恕を乞ふ次第です。――H・S生記)

 

2020/11/27

片山廣子の「自制心がなくなつて」つい示してしまった「不愉快な詩」について

例の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅴ】大正一四(一九二四)年六月二十四日附」書簡にある、

『先だつて非常に不愉快な気分の時に自制心がなくなつて不愉快な詩をおめにかけた事をすまなく思つてをります自分の気持がどんなであつてもそのためにあなたのお気持まで不愉快にする必要はなかつたのですが、ただその時わたくしは支那人になりたいとさへおもふほどに悲観してゐたのでした
わたくしほどに自尊心のつよい人間が支那人になる事を祈つたと想像して御らんになつてあの不愉快な詩をおゆるし下さい ちひさいお子さんがたにおめにかゝつた時にあなたのおぐしの一すぢもあのお子さんがたのためには全世界よりも大切なものだとしみじみおもひました
さうおもひながらあなたのお心持をいためるやうなあんな詩を考へた事はわたくしもよほどめちやな人間です
すべて流していただけるものなら流していただきたいとおもひます』

と廣子が記している――謎の悪魔のような――不謹慎な「詩」――のことであるが、実は私は何んとなく、その「詩」なるものが判るような気がしているである。ただ、何の物理的根拠もないものだから、新版の注でも、一切、語らなかった。向後も語る気は、ない。

ヒントだけ示しておく。

私のブログ記事『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』がそのヒントである――

「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版公開

四年足らずもの間の懸案であった「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版を遂に「心朽窩旧館」に公開した。今年の電子化テクストの最後の特異点である。

――因みに――血圧は――教え子の忠告と降圧剤の効果絶大! 今朝は平均128/86まで落ちついた。早朝でここまで低いのは嘗てない。

精神的に片山廣子と芥川龍之介と教え子に救われた気がしている。

お読みあれかし!

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