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カテゴリー「芥川龍之介」の694件の記事

2021/09/10

最近とても嬉しかったことどもについて


つい先日、私が十年前に暴虎馮河で拙訳した小泉八雲の“Of a Promise Broken by Lafcadio Hearn”の「破られし約束」を、YouTube で朗読したいという若い方からの懇請を受けた。彼女は田部隆次氏の訳(リンク先は私の電子化注)と私の訳を比較され、朗読するに際し、私の訳を選ばれたのであった。

無論、ユビキタスをモットーとする私は、許諾した。

これは、私には、とても嬉しいことだった。

    ♡

そうして、今日は、私が、ネット上に電子化物がないことから、「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、先だって電子化した、放浪の俳人「乞食」井上井月の句集に添えた、

(正確には「井月の句集」で、芥川龍之介及び芥川家の主治医であり、芥川龍之介の検死の当事者でもあった下島勲の編になるものへの芥川龍之介の跋文である)に対して、井月の研究家の方から、私が上の電子化をしたことへの感謝のメールを頂戴した。

これもまた、偏愛する芥川龍之介に絡んで、私には、とても嬉しいことであった。

   ♡

私の自慰と思われるかも知れない、他者から見れば、たいしたことのないものと失笑を買っているかも知れない数多の私の電子化物が、僅か乍らも、ある人の琴線に、確かに触れていることを感じ、内心――「少しばかりは、生きていてよかったな」――と思うたのであった。

2021/08/10

芥川龍之介「鸚鵡 ――大震覺え書の一つ―― 」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(8)――追加――

 

[やぶちゃん注:作成意図は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。これを以って「芥川龍之介書簡抄」のインターミッションは終わりとする。

 本作は大正十二年十月五日発行の『サンデー每日』に掲載された(単行本には未収録)。

 底本は岩波旧全集を用いた。但し、加工データとして「青空文庫」の新字旧仮名版を使用させて貰った。太字は底本では傍点「ヽ」。]

 

 鸚  鵡

     ――大震覺え書の一つ――

 

 これは御覽の通り覺え書に過ぎない。覺え書を覺え書のまま發表するのは時閒の餘裕に乏しい爲である。或は又その外にも氣持の餘裕に乏しい爲である。しかし覺え書のまま發表することに多少は意味のない譯でもない。大正十二年九月十四日記。

 

 本所橫網町(よこあみちやう)に住める一中節の師匠。名は鐘大夫(かねだいふ)。年は六十三歲。十七歲の孫娘と二人暮らしなり。

 家は地震にも潰れざりしかど、忽ち近隣に出火あり。孫娘と共に兩國に走る。攜へしものは鸚鵡(あうむ)の籠かごのみ。鸚鵡の名は五郞。背は鼠色、腹は桃色。藝は錺屋(かざりや)の槌(つち)の音と「ナアル」(成程の略)といふ言葉とを眞似るだけなり。

 兩國より人形町(にんぎやうちやう)へ出(い)づる間にいつか孫娘と離れ離れになる。心配なれども探してゐる暇なし。往來の人波。荷物の山。カナリヤの籠を持ちし女を見る。待合の女將かと思はるる服裝。「こちとらに似たものもあると思ひました」といふ。その位の餘裕はあるものと見ゆ。

 鎧橋(よろひばし)に出づ。町の片側は火事なり。その側(がは)に面せるに顏、燒くるかと思ふほど熱かりし由。又何か落つると思へば、電線を被(おほ)ほへる鉛管(えんくわん)の火熱の爲に熔け落つるなり。この邊(へん)より一層人に押され、度たび鸚鵡の籠も潰つぶれずやと思ふ。鸚鵡は始終狂ひまはりて已まず。

 丸の内に出づれば日比谷の空に火事の煙の揚がるを見る。警視廳、帝劇などの燒け居りしならん。やつと楠(くすのき)の銅像のほとりに至る。芝の上に坐りしかど、孫娘のことが氣にかかりてならず。大聲に孫娘の名を呼びつつ、避難民の間を探しまはる。日暮(ひぐれ)。遂に松のかげに橫たはる。隣りは店員數人をつれたる株屋。空は火事の煙の爲、どちらを見てもまつ赤なり。鸚鵡、突然「ナアル」といふ。

 翌日も丸の内一帶より日比谷迄まで、孫娘を探しまはる。「人形町なり兩國なりへ引つ返さうといふ氣は出ませんでした」といふ。午ごろより饑渴(きかつ)を覺ゆること切なり。やむを得ず日比谷の池の水を飮む。孫娘は遂に見つからず。夜は又丸の内の芝の上に橫はる。鸚鵡の籠を枕べに置きつつ、人に盜まれはせぬかと思ふ。日比谷の池の家鴨を食くらへる避難民を見たればなり。空にはなほ火事の明りを見る。

 三日は孫娘を斷念し、新宿の甥を尋ねんとす。櫻田より半藏門に出づるに、新宿も亦燒けたりと聞き、谷中の檀那寺を手賴らばやと思ふ。饑渴愈(いよいよ)甚だし。「五郞を殺すのは厭ですが、おちたら食はうと思ひました」といふ。九段上へ出づる途中、役所の小使らしきものにやつと玄米一合餘りを貰ひ、生のまま嚙み碎きて食す。又つらつら考へれば、鸚鵡の籠を提げたるまま、檀那寺の世話にはなられぬやうなり。卽ち鸚鵡に玄米の殘りを食はせ、九段上の濠端よりこれを放つ。薄暮、谷中の檀那寺に至る。和尙、親切に幾日でもゐろといふ。

 五日の朝、僕の家に來たる。未だ孫娘の行く方(へ)を知らずといふ。意氣な平生(へいせい)のお師匠さんとは思はれぬほど憔悴し居たり。

 附記。新宿の甥の家は燒けざりし由。孫娘は其處に避難し居りし由。

芥川龍之介「古書の燒失を惜しむ」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(7)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 

 古書の燒失を惜しむ

 

 今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に殘念に思ふ。表慶館に陳列されてゐた陶器類は殆ど破損したといふことであるが、その他にも損害は多いにちがひない。然し古美術品のことは暫らく措き古書のことを考へると黑川家の藏書も燒け、安田家の藏書も燒け大學の圖書館の藏書も燒けたのは取り返しのつかない損害だらう。商賣人でも村幸(むらかう)とか淺倉屋とか吉吉(よしきち)だとかいふのが燒けたからその方の罹害も多いにちがひない。個人の藏書は兎も角も大學圖書館の藏書の燒かれたことは何んといつても大學の手落ちである。圖書館の位置が火災の原因になりやすい醫科大學の藥品のあるところと接近してゐるのも宜敷くない。休日などには圖書館に小使位しか居ないのも宜しくない、(その爲めに今度のやうな火災にもどういふ本が貴重かがわからず、從つて貴重な本を出すことも出來なかつたらしい。)書庫そのものゝ構造のゾンザイなのも宜敷くない。それよりももつと突き詰めたことをいへば、大學が古書を高閣に束(つか)ねるばかりで古書の覆刻を盛んにしなかつたのも宜敷くない。徒らに材料を他に示すことを惜んで竟にその材料を烏有(ういう)に歸せしめた學者の罪は鼓(こ)を鳴らして攻むべきである。大野洒竹の一生の苦心に成つた洒竹文庫の燒け失うせた丈だけでも殘念で堪らぬ。「八九間雨柳(はつくけんやなぎ)」といふ士朗の編んだ俳書などは勝峯晋風(かつみねしんぷう)氏の文庫と天下に二册しかなかつたやうに記憶してゐるが、それも今は一册になつてしまつた譯だ。

 

芥川龍之介「震災の文藝に與ふる影響」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(6)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 震災の文藝に與ふる影響

 

 大地震の災害は戰爭や何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に與へる影響はさほど根深くはないであらう。すくなくとも、作家の人生觀を一變することなどはないであらう。もし、何か影響があるとすれば、かういふことはいはれるかも知れぬ。

 災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動搖を與へた。我我ははげしい愛や、憎しみや、憐みや、不安を經驗した。在來、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新に加はるやうになるかも知れない。勿論もちろんその感情の波を起伏させる段取りには大地震や火事を使ふのである。事實はどうなるかわからぬが、さういふ可能性はありさうである。

 また大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景をきはめるだらう。そのために我我は在來のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か樂みを求めるだらう。すくなくとも、さういふ傾向の人は更にそれを强めるであらう。つまり、亂世に出合つた支那の詩人などの隱棲の風流を樂しんだと似たことが起りさうに思ふのである。これも事實として豫言は出來ぬが、可能性はずゐぶんありさうに思ふ。

 前の傾向は多數へ訴へる小說をうむことになりさうだし、後の傾向は少數に訴へる小說をうむことになる筈である。卽ち兩者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと斷言しがたい。

 

芥川龍之介「廢都東京」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(5)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 廢 都 東 京

 

 加藤武雄樣。東京を弔ふの文を作れと云ふ仰せは正に拜承しました。又おひきうけしたことも事實であります。しかしいざ書かうとなると、匇忙の際でもあり、どうも氣乘りがしませんから、この手紙で御免を蒙りたいと思ひます。

 應仁の亂か何かに遇つた人の歌に、「汝(な)も知るや都は野べの夕雲雀揚るを見ても落つる淚は」と云ふのがあります。丸の内の燒け跡を步いた時にはざつとああ云ふ氣がしました。水木京太氏などは銀座を通ると、ぽろぽろ淚が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな氣もちなしにと云ふ斷り書があるのですが)けれども僕は「落つる淚は」と云ふ氣がしたきり、實際は淚を落さずにすみました。その外不謹愼の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事實であります。

 「落つる淚は」と云ふ氣のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した爲であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふ訣ぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に餘り愛惜を持たずにゐました。と云つても僕を江戶趣味の徒と速斷してはいけません、僕は知りもせぬ江戶の昔に依依戀戀とする爲には餘りに散文的に出來てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の步いた東京なのです。銀座に柳の植つてゐた、汁粉屋の代りにカフエの殖ふえない、もつと一體に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麥稈帽はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失うせたのですから、同じ東京とは云ふものの、何處か折り合へない感じを與へられてゐました。それが今焦土に變つたのです。僕はこの急劇な變化の前に俗惡な東京を思ひ出しました。が、俗惡な東京を惜しむ氣もちは、――いや、丸の内の燒け跡を步いた時には惜しむ氣もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその邊はぼんやりしてゐます。僕はもう俗惡な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな氣がしますから。つまり一番確かなのは「落つる淚は」と云ふ氣のしたことです。僕の東京を弔ふ氣もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる淚は」、――これだけではいけないでせうか?

 何だかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうか惡しからず御赦し下さい。僕はこの手紙を書いて了ふと、僕の家に充滿した燒け出されの親戚故舊と玄米の夕飯を食ふのです。それから提燈に蠟燭をともして、夜警の詰所へ出かけるのです。以上。

 

芥川龍之介「東京人」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(4)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 東 京 人

 

 東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでゐる僕は未だ嘗て愛鄕心なるものに同情を感じた覺えはない。又同情を感じないことを得意としてゐたのも確かである。

 元來愛鄕心なるものは、縣人會の世話にもならず、舊藩主の厄介にもならない限り、云はば無用の長物である。東京を愛するのもこの例に洩れない。兎角東京東京と難有さうに騷ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舍者ものに限つたことである。――さう僕は確信してゐた。

 すると大地震のあつた翌日、大彥[やぶちゃん注:「だいひこ」。「芥川龍之介書簡抄115 / 大正一二(一九二三)年(一) 四通」で既出既注。]の野口君に遇つた時である。僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダアを中になどと云ふと、或は氣樂さうに聞えるかも知れない。しかし東京の大火の煙は田端の空さへ濁らせてゐる。野口君もけふは元祿袖の紗の羽織などは着用してゐない。何だか火事頭巾の如きものに雲龍の刺つ子[やぶちゃん注:「さしつこ」。刺し子に同じ。厚手の綿布を重ね合わせて、一面に細かく刺し縫いをしたもの。消防服・柔道・剣道の稽古着などに用いる。]と云ふ出立ちである。僕はその時話の次手にもう續續罹災民は東京を去つてゐると云ふ話をした。

 「そりやあなた、お國者はみんな歸つてしまふでせう。――」

 野口君は言下にかう云つた。

 「その代りに江戶つ兒だけは殘りますよ。」

 僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心强さを感じた。それは君の服裝の爲か、空を濁らせた煙の爲か、或は又僕自身も大地震に悸えてゐた爲か、その邊の消息ははつきりしない。しかし兎に角その瞬間、僕も何か愛鄕心に似た、勇ましい氣のしたのは事實である。やはり僕の心の底には幾分か僕の輕蔑してゐた江戶つ兒の感情が殘つてゐるらしい。

 

芥川龍之介「大震に際せる感想」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(3)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 大震に際せる感想

 

 地震のことを書けと云ふ雜誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に應じ難ければ、思ひつきたること二三を記しるしてやむべし。幸ひに孟浪を咎むること勿なかれ。[やぶちゃん注:「まうらう(もうろう)」。とりとめのないこと・いいかげんなこと。]

 この大震を天譴と思へとは澁澤子爵の云ふところなり。誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙むる所以、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以なるべし、されど我は[やぶちゃん注:漠然とした不特定多数の一人称。]妻子を殺し、彼は家すら燒かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、――當世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。

 自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。猛火は仁人と潑皮を分たず。自然の眼には人間も蚤のみも選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は眞實なり。のみならず人間の中なる自然も、人間の中なる人間に愛憐を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり[やぶちゃん注:「くらはしめたり」。]。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獸の如く人肉を食ひしやも知るべからず。[やぶちゃん注:「潑皮」(はつぴ)は「無頼の者・ならず者・愚連隊・不良」の意。「トウルゲネフの散文詩」「自然」であろう。私の古い電子化である「ツルゲーネフ 散文詩 中山省三郎譯」を参照されたい。私のブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」で中山氏のものも含めて、他の訳者のもの三種でも読める。

 日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の慘は恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂るることなければなり。鶴と家鴨とを食へるが故に、東京市民を獸心なりと云ふは、――惹いては[やぶちゃん注:「ひいては」。]一切人間を禽獸と選ぶことなしと云ふは、畢竟意氣地なきセンテイメンタリズムのみ。

 自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事實を輕蔑すべからず。人間たる尊嚴を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尙餘力あらば、風景を愛し、藝術を愛し、萬般の學問を愛すべし。

 誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは兩脚の疵、殆ど兩脚を中斷せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の聲を擧ぐる能はず。唯姉弟の家を燒かれ、數人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絕望すべからず。絕望は死と暗黑とへの門なり。

 同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中學生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。僕のこの言を倣す[やぶちゃん注:「なす」。]所以は、澁澤子爵の一言より、滔滔と何でもしやべり得る僕の才力を示さんが爲なり。されどかならずしもその爲のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以來の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。

 

芥川龍之介「大震日錄」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(2)――

 

[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]

 

 大 震 日 錄

 

 八月二十五日。

 一游亭と鎌倉より歸る。久米、田中、菅、成瀨、武川など停車場へ見送りに來る。一時ごろ新橋着。直ちに一游亭とタクシイを驅り、聖路加病院に入院中の遠藤古原草を見舞ふ。古原草は病殆ど癒え、油畫具など弄び居たり。風間直得[やぶちゃん注:「かざまなほえ」明治301897)年生まれで没年不詳。東京出身の俳人。本名は山本直得。河東碧梧桐門下で「ルビ俳句」の提唱者として知られる。]と落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服裝等、淸楚甚だ愛すべきものあり。一時間の後のち、再びタクシイを驅りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端へ歸る。

 八月二十九日

 暑氣甚だし。再び鐮倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮より惡寒。檢溫器を用ふれば八度六分の熱あり。下島先生の來診を乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母、妻、兒等、皆多少風邪の氣味あり。

 八月三十一日。

 病聊か快きを覺ゆ。床上「澀江抽齋」を讀む。嘗て小說「芋粥」を艸さうせし時、「殆ど全く」なる語を用ひ、久米に笑はれたる記憶あり。今「抽齋」を讀めば、鷗外先生も亦また「殆ど全く」の語を用ふ。一笑を禁ずる能はず。

 九月一日。

 午ごろ茶の間にパンと牛乳を喫し了り、將に茶を飮まんとすれば、忽ち大震の來るあり。母と共に屋外に出づ。妻は二階に眠れる多加志を救ひに去り、伯母は又梯子段のもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既にして妻と伯母と多加志を抱いて屋外に出づれば、更に又父と比呂志とのあらざるを知る。婢しづを、再び屋内に入り、倉皇[やぶちゃん注:「さうくわう」。慌ただしく。]比呂志を抱いて出づ。父亦庭を囘つて出づ。この間家大いに動き、步行甚だ自由ならず。屋瓦の亂墜するもの十餘。大震漸く靜まれば、風あり、面を吹いて過ぐ。土臭殆ど噎ばん[やぶちゃん注:「むせばん」。]と欲す。父と屋をの内外を見れば、被害は屋瓦の墜ちたると石燈籠の倒れたるのみ。

 圓月堂、見舞ひに來きたる。泰然自若じじやくたる如き顏をしてゐれども、多少は驚いたのに違ひなし。病を力つとめて圓月堂[やぶちゃん注:不詳。後で芥川家の親戚回りなども頼んでいるから龍之介御用達の使い勝手のよい人物らしく、最後には龍之介の代わりに自警団の徹宵警戒の役もかって出ている。]と近隣に住する諸君を見舞ふ。途上、神明町の狹斜を過ぐれば、人家の倒壞せるもの數軒を數ふ。また月見橋のほとりに立ち、遙かに東京の天を望めば、天、泥土の色を帶び、焔煙の四方に飛騰する見る。歸宅後、電燈の點じ難く、食糧の乏しきを告げんことを惧れ、蠟燭米穀蔬菜罐詰の類を買ひ集めしむ。

 夜また圓月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災愈猛に、一望大いなる熔鑛爐を見るが如し。田端、日暮里、渡邊町等の人人、路上に椅子を据ゑ疊を敷き、屋外に眠らとするもの少からず。歸宅後、大震の再び至らざるべきを說き、家人を皆屋内に眠らしむ。電燈、瓦斯共に用をなさず、時に二階の戶を開けば、天色常に燃ゆるが如く紅なり。

 この日、下島先生の夫人、單身大震中の藥局に入り、藥劑の棚の倒れんとするを支ふ。爲めに出火の患ひなきを得たり。膽勇、僕などの及ぶところにあらず。夫人は渋江抽斎の夫人いほ女の生れ變りか何かなるべし。[やぶちゃん注:「いほ女」は「澀江抽齋」の最後の四人目の妻五百(いほ)。抽斎が襲われそうになった折り、湯に浸かっていた五百は腰巻一つ身に著つけただけの裸体で、口に懐剣を銜えて夫の前に立ち、三人の狼藉者を追い払った賢婦烈女であった。「青空文庫」の「渋江抽斎」の「その六十」と「その六十一」を読まれたい。]

 九月二日。

 東京の天、未だ煙に蔽はれ、灰燼の時に庭前に墜つるを見る。圓月堂に請ひ、牛込、芝等の親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又橫濱竝びに湘南地方全滅の報あり。鎌倉に止まれる知友を思ひ、心頻りに安からず。薄暮圓月堂の歸り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土と化せりと云ふ。姉の家、弟の家、共に全燒し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。

 この日、避難民の田端を經へて飛鳥山に向ふもの、陸續として絕えず。田端も亦延燒せんことを惧れ、妻は兒等の衣をバスケツトに收め、僕は漱石先生の書一軸を風呂敷に包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾素より窮まりなしとは云へ、存外又あきらめることも容易なるが如し。夜に入りて發熱三十九度。時に○○○○○○○○あり[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は、『不逞』『鮮人暴動の噂か』とする。]。僕は頭重うして立つ能はず。圓月堂、僕の代りに徹宵警戒の任に當る。脇差を橫たへ、木刀を提さげ[やぶちゃん注:「ひつさげ」。]たる狀、彼自身宛然たる○○○○なり[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は、『不逞鮮人か』とする。]。

芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――

 

[やぶちゃん注:現在進行中の「芥川龍之介書簡抄」は大正一二(一九二三)年に突入しているが、書簡自体の興味深いものや面白いものが私の感覚では有意に少ない感じがしている。しかし、この年は関東大震災が襲った年である。しかし、そのカタストロフを伝えるに足る書簡は一つの短いもの(採用しない)を除いて皆無と言ってもよい(無論、芥川龍之介自身が被災者であったのだから、それは無理もないことではある)。しかし、芥川龍之介は、当時の惨状を綴った「大震雜記」と「大震日錄」等を翌月に発表しており、これらをそこに宛がうと、書簡の貧しさが補えると考えた。そこで、それをここに挟むこととする。

 底本は岩波旧全集に拠った。但し、「青空文庫」のこちらにある新字正仮名の「大正十二年九月一日の大震に際して」(これは私も所持している「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集」第四巻(昭和四六(一九七一)年筑摩書房刊)にあるもので、上記の「大震雜記」(大正十二年十月一日発行『中央公論』初出)と「大震日錄」(同クレジットの『女性』初出)と、以下、「大震災に際せる感想」(同クレジットの『改造』初出)、「東京人」(初出未詳。後の随筆集「百艸」(大正一三(一九二四)年九月新潮社刊)にここに記した前後の作品とともに収録)、「魔都」(大正十二年十月六日発行『文章俱樂部』初出)、「震災の文藝に與ふる影響」(初出未詳。同前で「百艸」に収録)、「古書の燒失を惜しむ」という、別々に発表された、震災関連の芥川龍之介のドキュメント・随想を、どういう訳か、一纏めにしてしまって(「百艸」にセットで載るから判らぬでもないが)、連続した一作品のように掲げてあるもので、私はちょっと奇異な感じを持つものではある)を加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。但し、私は本来の発表のように三作品を別々に正字正仮名で電子化する

 「芥川龍之介書簡抄」のインターミッション的な仕儀であるので、原則、必要最小限の注に留めた。]

 

  大 震 雜 記

 

       

 

 大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行ゆき、平野屋別莊の客となつた。僕等の座敷の軒先はずつと藤棚になつてゐる。その又藤棚の葉の間にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架の窓から裏庭を見ると、八重やへの山吹も花をつけてゐる。

    山吹を指さすや日向ひなたの撞木杖 一游亭

    (註に曰、一游亭は撞木杖をついてゐる。)

 その上又珍らしいことは小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競つてゐる。

    葉を枯れて蓮と咲ける花あやめ   一游亭

 藤、山吹、菖蒲と數へてくると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に發狂の氣味のあるのは疑ひ難い事實である。僕は爾來人の顏さへ見れば、「天變地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も眞に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寬が弱氣になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。

 僕等の東京に歸つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。

 「あの時は義理にも反對したかつたけれど、實際君の豫言は中つたね。」

 久米も今は僕の豫言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白狀しても好い。――實は僕も僕の豫言を餘り信用しなかつたのだよ。

 

       

 

 「濱町河岸の舟の中に居ります。櫻川三孝。」

 これは吉原の燒け跡にあつた無數の貼紙の一つである。「舟の中に居ります」と云ふのは眞面目に書いた文句かも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行の中に秋風の舟を家と賴んだ幇間の姿を髣髴した。江戶作者の寫した吉原は永久に還つては來ないであらう。が、兎に角今日と雖も、かう云ふ貼り紙に洒脫の氣を示した幇間のゐたことは確かである。

 

       

 

 大地震のやつと靜まつた後、屋外に避難した人人は急に人懷しさを感じ出したらしい。向う三軒兩隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡邊町、田端、神明町、――殆ど至る處に見受けられたものである。殊に田端のポプラア倶樂部の芝生に難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアの戰いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何にも樂しさうに打ち解とけてゐた。

 これは夙にクライストが「地震」の中に描ゑがいた現象である。いや、クライストはその上に地震後の興奮が靜まるが早いか、もう一度平生の恩怨が徐ろに目ざめて來る恐しささへ描いた。するとポプラア倶樂部の芝生に難を避けてゐた人人もいつ何時(なんどき)隣の肺病患者を驅逐しようと試みたり、或は又向うの奧さんの私行を吹聽して步かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。

 

       

 

 僕も今度は御多分に洩もれず、燒死した死骸を澤山見た。その澤山の死骸のうち最も記憶に殘つてゐるのは、淺草仲店の收容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸も炎に燒かれた顏は目鼻もわからぬほどまつ黑だつた。が、湯帷子[やぶちゃん注:本来は湯に入る際に着た「ゆかたびら」であるが、ここは、そこから轉じた「ゆかた」と訓じていよう。焼死遺体の着ているものだから「浴衣」の字を使うのを憚ったのであろう。]を着た體や瘦せ細つた手足などには少しも燒け爛れた痕はなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ爲ばかりではない。燒死した死骸は誰も云ふやうに大抵手足を縮ちぢめてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣か、燒け殘つたメリンスの布團の上にちやんと足を伸してゐた。手も亦覺悟を極めたやうに湯帷子の胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶えた死骸ではない。靜かに宿命を迎へた死骸である。もし顏さへ焦げずにゐたら、きつと蒼ざめた脣には微笑に似たものが浮んでゐたであらう。

 僕はこの死骸をもの哀れに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の燒けたのでせう」と云つた。成程さう云はれて見れば、案外そんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の爲に小說じみた僕の氣もちの破壞されたことを憎むばかりである。

 

       

 

 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寬はこの資格に乏しい。

 戒嚴令の布かれた後、僕は卷煙草を啣へたまま、菊池と雜談を交換してゐた。尤も雜談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は『不逞鮮人の暴動か』と推定している。]。すると菊池は眉を擧げながら、「譃だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや譃だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手にもう一度、何なんでも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は『不逞鮮人か』と推定している。当然、次の伏字もそれ。]。菊池は今度は眉を擧げると、「譃さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも譃か」と忽ち自說(?)を撤囘した。

 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし萬一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顏つきを裝はねばならぬものである。けれども野蠻なる菊池寬は信じもしなければ信じる眞似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警團の一員たる僕は菊池の爲に惜しまざるを得ない。

 尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。

 

       

 

 僕は丸の内の燒け跡を通つた。此處を通るのは二度目である。この前來た時には馬場先の濠に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覺えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには藥硏なりに石垣の崩れた處がある。崩れた土は丹のやうに赤い。崩れぬ土手は靑芝の上に不相變松をうねらせてゐる。其處にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は醉興に泳いでゐる訣ではあるまい。しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描ゑがいた水浴の油畫か何かのやうに見えた、今日もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層平和に見えた位である。

 僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり步みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の聲が起つた。歌は「懷しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に聲を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。

 藝術は生活の過剩ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剩である。僕等は人間たる尊嚴の爲に生活の過剩を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剩を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剩をあらしめるとは生活を豐富にすることである。

 僕は丸の内の燒け跡を通つた。けれども僕の目に觸れたのは猛火も亦燒き難い何ものかだつた。

2021/07/22

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 「井月句集」の跋

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房)に「跋」として掲げられ、後、作品集「點心」「梅・馬・鶯」に表記の題で収録された。

 底本は岩波旧全集に拠った。

 本電子化は現在進行中の「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、行った。されば、注は附さない。この公開後に公開する「芥川龍之介書簡抄103 / 大正九(一九二〇)年(八)」を参照されたい。私は井月の生涯と俳句を偏愛する人間である。彼の漂泊の人生について、詳しくはウィキの「井上井月」がよい。龍之介のこの跋文についても言及されており、編者であった下島が芥川龍之介の主治医であった縁から、この跋文は『芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』が、芥川がここで「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」を『井月の最高傑作と称揚しているが、皮肉にも』、『この俳句は井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』とあることは明記しておく必要がある。また、一ヶ所、「適く」は「ゆく」と読む。後日、語注を追加しようとは思っている。]

 

  「井月句集」の跋

 

 空谷下島先生の「井月の句集」が出るさうである。何しろ井月は草廬さへ結ばず、乞食をしてゐたと云ふのだから、その句を一々集めると云ふ事は、それ自身容易な業ではない。私はまづ編者の根氣に、敬服せざるを得ないものである。

 井月の句集を開いて見ると、惡句も決して少なくはない。天明の遺音は既に絕え、明治の新調は未起らなかつた時代は、彼にも薰習を及ぼしたのである。しかし山嶽の高さを云ふものは、最高峰の高さを計らなければならぬ。井月は時代に曳きずられながらも、古俳諧の大道は忘れなかつた。「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」以下、集中に散見する彼の佳句は、この間の消息を語るものである。しかも亦彼の書技は、「幻住庵の記」等に至ると、入神と稱するをも妨げない。私は第二に烱眼の編者が、この巨鱗を網にした事を愉快に思はずにはゐられないのである。

 が、私の編者に負ふ所は、これのみに盡きてゐるのではない。昔天竺の鹿頭梵志は、善く髑髏を觀察し、手を以て之を擊つては、死の因緣を明らかにした。たとへば「是男子なり。衆病集つて百節酸痛し、命終を取る。是人死して三惡趣に墮つ」の類である。しかし世尊が試みに、優陀延比丘の髑髏を與へて見たら、彼は唯茫然として、「男に非ず女に非ず。亦生を見ず。亦斷を見ず。亦同胞往來するを見ず。」と、殆答へる所を知らなかつた。無余涅槃に入つてゐた比丘は、「無終無始、亦生死無く、亦八方上下適くべき所無し」だつた爲、梵志の神識も及ばなかつたのである。これは優陀延に限つた事ではない。井月の髑髏を擊たせて見ても、梵志はやはり喟然として、止むより外はなかつたであらう。このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があつたと云ふ事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある。編者は井月の句と共に、井月を傳して謬らなかつた。私が最後に感謝したいのは、この一事に存するのである。

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