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カテゴリー「芥川龍之介」の799件の記事

2024/02/08

芥川龍之介 二つの手紙 (オリジナル強力詳注附き)

[やぶちゃん注:現在進行中の「蘆江怪談集」の注に必要となったため、電子化注した。

 本篇の初出は、大正六(一九一七)年九月一日発行の雑誌『黑潮』に掲載され、後の第二作品集「煙草と惡魔」(新潮社『新進作家叢書』第八編・大正六年十一月十日発行)に所収された。なお、当時の芥川龍之介は満二十五歳で、海軍機関学校の英語教官時代であり、横須賀に下宿していた。

 底本は旧岩波版『芥川龍之介全集』の「第一卷」(一九七七年刊)を使用した。なお、加工データとして「青空文庫」の新字新仮名の同作のテキスト・ファイル(入力:j.utiyama氏/校正:かとうかおり氏)を、ここからダウン・ロードして使用させて頂いた。ここに御礼申し上げる。本篇はごく一部を除き、ルビがない。若い読者が躓くかも知れないと思う箇所には、《 》で私の推定の読みを歴史的仮名遣で挿入した。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字とした。傍点「﹅」は太字に代えた。注は、一部を所持する筑摩書房『筑摩全集類聚』版「芥川龍之介全集」第一巻(昭和四六(一九七一)年三月刊)を参考にしようとしたが、既に注が古びており、『不詳』が多くて、殆んど使い物にならない。概ね、ネットを駆使して施した。]

 

 

 二つの手紙

 

 

 或機會で、予は下に揭げる二つの手紙を手に入れた。一つは本年二月中旬、もう一つは三月上旬、――警察署長の許へ、郵稅先拂ひで送られたものである。それをここへ揭げる理由は、手紙自身が說明するであらう。[やぶちゃん注:「郵稅先拂ひ」郵便料金を受取人が支払う方法。この仕儀自体が、相手の精神状態を疑わせる伏線である。]

 

      第一の手紙

 

 ――警察署長閣下、

 先ず何よりも先に、閣下は私の正氣だと云ふ事を御信じ下さい。これ私があらゆる神聖なものに誓つて、保證致します。ですから、どうか私の精神に異常がないと云ふ事を、御信じ下さい。さもないと、私がこの手紙を閣下に差上げる事が、全く無意味になる惧があるのでございます。その位なら、私は何を苦しんで、こんな長い手紙を書きませう。

 閣下、私はこれを書く前に、ずゐぶん躊躇致しました。何故かと申しますと、これを書く以上、私は私一家の祕密をも、閣下の前に暴露しなければならないからでございます。勿論それは、私の名譽にとつて、可成大きな損害に相違ございません。しかし事情はこれを書かなければ、もう一刻の存在も苦痛な程、切迫して參りました。こゝで私は、遂に斷乎たる處置を執る事に、致したのでございます。

 さう云ふ必要に迫られて、これを書いた私が、どうして、狂人扱ひをされて、默つて居られませう。私はもう一度、こゝに改めてお願ひ致します。閣下、どうか私の正氣だと云ふ事を御信用下さい。さうして、この手紙を御面倒ながら、御一讀下さい。これは私が、私と私の妻との名譽を賭して、書いたものでございますから。

 かやうな事を、くどく書きつづけるのは、繁忙な職務を御鞅掌になる閣下にとつて、餘りに御迷惑を顧みない仕方かも知れません。しかし、私の下に申上げようとする事實の性質上、閣下が私の正氣だと云ふ事を御信用になるのは、どうしても必要でございます。さもなければ、どうしてこの超自然な事實を、御承認になる事が出來ませう。どうして、この創造的精力の奇怪な作用を、可能視なさる事が出來ませう。それほど、私が閣下の御留意を請ひたいと思ふ事實には不可思議な性質が加はつてゐるのでございます。ですから、私は以上のお願ひを敢て致しました。猶これから書く事も、或は冗漫の譏《そしり》を免れないものかも知れません。しかし、これは一方では私の精神に異狀がないと云ふ事を證明すると同時に、又一方ではかう云ふ事實も古來決して絕無ではなかつたと云ふ事をお耳に入れるために、幾分の必要がありはしないかと、思はれるのでございます。

[やぶちゃん注:「御鞅掌」「ごあうしやう(ごおうしょう)」。「鞅掌」は「忙しく立ち働いて暇(いとま)がないこと」を言う。]

 歷史上、最も著名な實例の一つは、恐らくカテリナ女帝に現われたものでございませう。それから又、ゲエテに現れた現象も、やはりそれに劣らず著名なものでございます。が、これらは、餘り人口に膾炙しすぎて居りますから、こゝにはわざと申上げません。私は、それより二三の權威ある實例によつて、出來る丈手短に、この神祕の事實の性質を御說明申したいと思ひます。まづ Dr. Werner の與へてゐる實例から、始めませう。彼によりますと、ルウドウイツヒスブルクの Ratzel と云ふ寶石商は、或夜街の角をまがる拍子に、自分と寸分もちがはない男と、ばつたり顏を合せたさうでございます。その男は、後《のち》間もなく、木樵りが檞《かし》の木を伐り倒すのに手を借して、その木の下に壓《あつ/お》されて歿《な》くなりました。これによく似てゐるのは、ロストツクで數學の敎授をしてゐた Becker に起つた實例でございませう。ベツカアは或夜五六人の友人と、神學上の議論をして、引用書が必要になつたものでございますから、それをとりに獨りで自分の書齋へ參りました。すると、彼以外の彼自身が、いつも彼のかける椅子に腰をかけて、何か本を讀んでゐるではございませんか。ベツカアは驚きながら、その人物の肩ごしに、讀んでゐる本を一瞥致しました。本はバイブルで、その人物の右手の指は「爾《なんぢ》の墓を用意せよ。爾は死すべければなり」と云ふ章を指さして居ります。ベツカアは友人のゐる部屋へ歸つて來て、一同に自分の死の近づいた事を話しました。そさして、その語《ことば》通り、翌日の午後六時に、靜《しづか》に息をひきとりました。

[やぶちゃん注:「カテリナ女帝」十八世紀に最も権力を握ったロシア皇帝エカチェリーナⅡ世(アレクセーエヴナ Екатерина II Алексеевна(ラテン文字転写:Yekaterina II Alekseyevna)  一七二九年~一七九六年/在位:一七六二年~一七九六年)。彼女の事績は当該ウィキを参照されたいが、ネットの初期以来、よく見る「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」によれば、彼女は、『ある夜、エカテリーナが寝室で休んでいると、召使がエカテリーナが王座の間に入って行くのを見たと言ってきた。本人が自分で調べにいくと、幽霊のような自分の分身が静かに王座に座っていたという。エカテリーナは』、『急いで』、『衛兵に』、『その分身に銃を放つよう』、『命令した。果たして弾が当ったのかどうかは語られていないが、その後』、『まもなくエカテリーナ本人は亡くなってしまった』とある。

「ゲエテ」ドイツの文豪にして博物学者・政治家でもあったヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)。同じく「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」によれば、彼は、『ある日、フリーデリケという女性と別れたショックで』、『意気消沈して馬で帰る途中』、『馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、「『実際の目ではなく、心の目で見た』」『というのだが、その男は』、『着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿に』、『なぜか』、『心が穏やかになって、このことは』、『まもなく忘れてしまった』。八『年後、ゲーテが』、『その同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、『別のとき、ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったまま』、『ゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒが』、『ゲーテが通りで見たのと同じ服を着て』、『そこにいた。友人は』。「『急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだ』」と言ったという逸話がある。

Dr. Werner」『筑摩全集類聚』版には、『ヴェルナー博士について未詳。したがって以下に挙げられている実例とか書簡についても未詳。芥川の仮構とも考えられる。』とあるのだが、ネット検索で、「飯田橋文学会」公式サイト内の「芥川龍之介全集を読む」で、アラビア語通訳・翻訳家でエジプトのカイロ生まれのマイサラ・アフィーフィー氏の記事に、以上の引用を示され、かく『説明であったが、調べているうちに、同じ作品に芥川が出した「自然の暗黒面」という書籍を見つけた。それは、Catherine Croweという著者が書いた「The Night Side of Nature」』(「自然界の暗黒面」。後で本文でも全く同じに訳している)『というタイトルで』、一八五二年(嘉永四年~嘉永五年相当)に、『ロンドン』で『刊行された本であった。著作権が切れているのでグーグルブックスでダウンロードできる。僕は実際』、『ダウンロードし、全部ではないが、ところどころに目を通しみたら、芥川は』、『ヴェルナー博士や以下に挙げられていた実例とか書簡とか書籍とか』の『全てを、その本から引用していたようだ』と記しておられる。この同書は“The Project Gutenberg eBook”で“The Night-Side of Nature, by Catherine Croweとして電子化されている。自動翻訳でも、以下に記される事例が、総て、十分に読める。作者はイギリスの女流作家キャサリン・アン・クロウ(旧姓はスティーブンス)(Catherine Ann Crowe 一八〇三年~一八七六年)が一八四八年にロンドンで刊行した超自然的現象を蒐集した作品である。「Dr. Werner」はそこに七回言及されているが、事績は不詳。

「ルウドウイツヒスブルク」ルートヴィヒスブルク(Ludwigsburg)はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のルートヴィヒスブルク郡に属する市。シュトゥットガルト内市街の北約 十三キロメートルに位置し、「シュトゥットガルト地域」(一九九二年までは「ミットレラー・ネッカー地域」)及び「シュトゥットガルト大都市圏」に含まれ、本市はルートヴィヒスブルク郡の郡庁所在地であり、同郡最大の都市である、と当該ウィキにあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Ratzel」ラッツェル。

「ロストツク」ロストック(Rostock)は、当該ウィキによれば、『ドイツ連邦共和国北部』の『メクレンブルク=フォアポンメルン州の』『バルト海に面する港湾都市で、中世のハンザ同盟の中心都市』であり、『旧東ドイツ最大の港湾都市であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Becker」ベッカー。]

 これで見ると、Doppelgaenger の出現は、死を豫告するやうに思はれます。が、必ずしもさうばかりとは限りません。Dr. Werner は、デイレニウス夫人と云ふ女が、六歲になる自分の息子と夫の妹と三人で、黑い着物を着た第二の彼女自身を見た時に、何も變事の起らなかつた事を記錄してゐます。これは又、さう云ふ現象が、第三者の眼にも映じると云ふ、實例になりませう。Stilling 敎授が擧げてゐるトリツプリンと云ふワイマアルの役人の實例や、彼の知つてゐる某M夫人の實例も、やはり、この部類に屬すべきものではございませんか。

[やぶちゃん注:「Doppelgaenger」ドッペルゲンガー(ドイツ語。正しくは現行では“Doppelgänger”と綴る)。当該ウィキによれば、『自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象で』、『自分とそっくりの姿をした分身』、『第』二『の自我、生霊』(いきりょう)の類(たぐい)を指す。『同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現』わ『す現象を指すこともあ』り、『第三者が目撃する』ケースも『含む』。心霊学やオカルトの中では『超常現象のひとつとして扱われる』とある。詳しくは、そちらを見られたいが、私のブログ記事で、この三年間、常に私の記事の内、アクセス・ランキングが常に上位にある、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を、是非、読まれたい。巷には、芥川龍之介の自死を、これに求めるとする憶説が蔓延している。

「デイレニウス夫人と云ふ女」前掲英文先に“a lady named Dillenius”とあるケース。

Stilling 敎授」作家でゲーテの弟子にして、さまざまな教授職を経たヨハン・ハインリヒ・ユング(Johann Heinrich Jung 一七四〇年~一八一七年)。彼は両親の姓を重ねてJung-Stillingとも名乗った。

Stilling 敎授が擧げてゐるトリツプリンと云ふワイマアル」(Weimar:音写は「ヴァイマー」が近い。ドイツ・テューリンゲン州の都市で、ここ。主要な歴史的文化都市の一つ)「の役人の實例」前掲英文書に“Stilling relates that a government-officer, of the name of Triplin, in Weimar, on going to his office to fetch a paper of importance, saw his own likeness sitting there, with the deed before him. Alarmed, he returned home, and desired his maid to go there and fetch the paper she would find on the table. The maid saw the same form, and imagined that her master had gone by another road, and got there before her. His mind seems to have preceded his body.”とあるのを指す。

「彼の知つてゐる某M夫人」同前で“There are numerous examples of similar phenomena to be met with. Professor Stilling relates that he heard from the son of a Madame M⁠——, that his mother, having sent her maid up stairs on an errand, the woman came running down in a great fright, saying that her mistress was sitting above, in her arm-chair, looking precisely as she had left her below. The lady went up stairs, and saw herself as described by the woman, very shortly after which she died.”とあるのを指す。]

 更に進んで、第三者のみに現れたドツペルゲンゲルの例を尋ねますと、これもまた決して稀ではございません。現に Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たさうでございます。次いで、ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲツテインゲンにゐる息子の姿を、自分の書齋で見たと云ふ事實に、確かな證明を與へて居ります。その外、「幽靈の性質に關する探究」の著者が擧げて居りますカムパアランドのカアクリントン敎會區で、七歲の少女がその父の二重人格を見たと云ふ實例や「自然の暗黑面」の著者が擧げて居りますH某と云ふ科學者で藝術家だつた男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云ふ實例などを數へましたら、恐らくそれは、夥しい數に上る事でございませう。

[やぶちゃん注:「Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たさうでございます」先に掲げた英文書に載るが、“Dr. Werner relates that Professor Happach had an elderly maid-servant, who was in the habit of coming every morning to call him, and on entering the room, which he generally heard her do, she usually looked at a clock which stood under the mirror. One morning, she entered so softly, that, though he saw her, he did not hear her foot. She went, as was her custom, to the clock, and came to his bedside, but suddenly turned round and left the room. He called after her, but she not answering, he jumped out of bed and pursued her. He could not see her, however, till he reached her room, where he found her fast asleep in bed. Subsequently, the same thing occurred frequently with this woman.”であって、ウェルナー教授「自身」ではなく、彼がHappach教授の使用人の話を又聞きしたものである。

「ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲツテインゲンにゐる息子の姿を、自分の書齋で見たと云ふ事實に、確かな證明を與へて居ります」同前で、“A president of the supreme court, in Ulm, named Pfizer, attests the truth of the following case: A gentleman, holding an official situation, had a son at Göttingen, who wrote home to his father, requesting him to send him, without delay, a certain book, which he required to aid him in preparing a dissertation he was engaged in. The father answered that he had sought but could not find the work in question. Shortly afterward, the latter had been taking a book from his shelves, when, on turning round, he beheld, to his amazement, his son just in the act of stretching up his hand toward one on a high shelf in another part of the room. “Hallo!” he exclaimed, supposing it to be the young man himself, but the figure disappeared; and, on examining the shelf, the father found there the book that was required, which he immediately forwarded to Göttingen; but before it could arrive there, he received a letter from his son, describing the exact spot where it was to be found.”が、その話である。

「幽靈の性質に關する探究」前掲書の中に“The author of a work entitled “An Inquiry into the Nature of Ghosts,” who adopts the illusion theory, relates the following story, as one he can vouch for, though not permitted to give the names of the parties:—”とあって、““Miss ——, at the age of seven years, being in a field not far from her father’s house, in the parish of Kirklinton, in Cumberland, saw what she thought was her father in the field, at a time that he was in bed, from which he had not been removed for a considerable period. There were in the field also, at the same moment, George Little, and John, his fellow-servant. One of these cried out, ‘Go to your father, miss!’ She turned round, and the figure had disappeared. On returning home, she said, ‘Where is my father?’ The mother answered, ‘In bed, to be sure, child!’—out of which he had not been.””がそれ。「カムパアランドのカアクリントン敎會區」現在のイギリスのカンブリア州カーライル地区カークリントン(グーグル・マップ・データ)であろう。

『「自然の暗黑面」の著者が擧げて居りますH某と云ふ科學者で藝術家だつた男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云ふ實例』先のそれで、““On the evening of the 12th of March, 1792,” says Mr. H⁠——, an artist, and a man of science, “I had been reading in the ‘Philosophical Transactions,’ and retired to my room somewhat fatigued, but not inclined to sleep. It was a bright moonlight night and I had extinguished my candle and was sitting on the side of the bed, deliberately taking off my clothes, when I was amazed to behold the visible appearance of my half-uncle, Mr. R. Robertson, standing before me; and, at the same instant, I heard the words, Twice will be sufficient!’ The face was so distinct that I actually saw the pock-pits. His dress seemed to be made of a strong twilled sort of sackcloth, and of the same dingy color. It was more like a woman’s dress than a man’s—resembling a petticoat, the neck-band close to the chin, and the garment covering the whole person, so that I saw neither hands nor feet. While the figure stood there, I twisted my fingers till they cracked, that I might be sure I was awake.”が、それ。]

 私はさし當り、これ以上實例を列擧して、貴重なる閣下の時間を浪費おさせ申さうとは致しますまい。唯《ただ》、閣下は、これらが皆疑ふ可らざる事實だと云ふ事を、御承知下さればよろしうございます。さもないと、或は私の申上げようとする事が、全然とりとめのない、馬鹿げた事のやうに思召すかも知れません。何故かと申しますと、私も、私自身のドツペルゲンゲルに苦しまされてゐるものだからでございます。さうして、その事に關して、聊《いささか》閣下にお願ひの筋があるからでございます。

 私は私自身のドツペルゲンゲルと書きました。が、詳しく云へば、私及《および》私の妻のドツペルゲンゲルと申さなくてはなりません。私は當區――町――丁目――番地居住、佐々木信一郞と申すものでございます。年齡は三十五歲、職業は東京帝國文科大學哲學科卒業後、引續き今日まで、私立――大學の倫理及英語の敎師を致して居ります。妻ふさ子は、丁度四年以前に、私と結婚致しました。當年二十七歲になりますが、子供はまだ一人もございません。こゝで私が特に閣下の御注意を促したいのは、妻にヒステリカルな素質があると云ふ事でございます。これは結婚前後が最も甚しく、一時は私とさへ殆ど語《ことば》を交へない程、憂欝になつた事もございましたが、近年は發作も極めて稀になり、氣象も以前に比べれば、餘程快活になつて參りました。所が、昨年の秋から又精神に何か動搖が起つたらしく、この頃では何かと異常な言動を發して、私を窘《くるし》める事も少くはございません。唯、私が何故《なにゆゑ》妻のヒステリイを力說するか、それはこの奇怪な現象に對する私自身の說明と、或關係があるからで、その說明については、いづれ後で詳しく申上る事に致しませう。

 さて、私及私の妻に現れたドツペルゲンゲルの事實は、どんなものかと申しますと、大體に於てこれまでに三度ございました。今それを一つづゝ私の日記を參考として、出來るだけ正確に、こゝへ記載して御覽に入れませう。

 第一は、昨年十一月七日、時刻は略《ほぼ》午後九時と九時三十分との間でございます。當日私は妻と二人で、有樂座の慈善演藝會へ參りました。打明けた御話をすれば、その會の切符は、それを賣りつけられた私の友人夫婦が何かの都合で行かれなくなつたために、私たちの方へ親切にもまはしてくれたのです。演藝會そのものの事は、別にくだくだしく申上げる必要はございません。また實際音曲《おんぎよく》にも踊《をどり》にも興味のない私は、云はゞ妻のために行つたやうなものでございますから、プログラムの大半は徒《いたづら》に私の退屈を增させるばかりでございました。從つて、申上げようと思つたと致しましても、全然その材料を缺《か》いてゐるやうな始末でございます。ただ、私の記憶によりますと、仲入りの前は、寬永御前仕合と申す講談でございました。當時の私の思量に、異常な何ものかを期待する、準備的な心もちがありはしないかと云ふ懸念は、寬永御前仕合の講談を聞いたと云ふこの一事でも一掃されは致しますまいか。

[やぶちゃん注:「昨年」本作の最後には、脱稿を大正六(一九一七)年八月十日とする。機械的にそれに即すなら、大正五年となる。

「有樂座」明治四一(一九〇八)年に、現在の東京数寄屋橋附近の、ここ(グーグル・マップ・データ)に出来た西洋風(初の全席椅子席)の高等演芸場有楽座のことで、当時の日本の新劇運動のメッカであった。因みに、ここは旧南町奉行所跡で、明治になって裁判所、次に陸軍練兵場となった、その跡地でもある。大正九(一九二〇)年に帝劇に合併されたが、大正十二年の関東大震災で焼失するまで、この地にあった。

「寬永御前仕合と申す講談」江戸時代の寛永年間に将軍徳川家光の御前で行われたという設定で語られている架空の御前試合の講談で、史実ではない。『筑摩全集類聚』版注には、『有楽座はこの頃』確かに『慈善演芸会が催されていたが、このような講談は演じられていない』とあった。]

 私は、仲入りに廊下へ出ると、すぐに妻を一人殘して、小用を足しに參りました。申上げるまでもなく、その時分には、もう𢌞りの狹い廊下が、人で一ぱいになつて居ります。私はその人の間を縫ひながら、便所から歸つて參りましたが、あの弧狀になつてゐる廊下が、玄關の前へ出る所で、豫期した通り私の視線は、向うの廊下の壁によりかゝるやうにして立つてゐる、妻の姿に落ちました。妻は、明《あかる》い電燈の光がまぶしいやうに、つゝましく伏眼《ふしめ》になりながら、私の方へ橫顏を向けて、靜《しづか》に立つてゐるのでございます。が、それに別に不思議はございません。私が私の視覺の、同時にまた私の理性の主權を、殆ど刹那に粉碎しようとする恐ろしい瞬間にぶつかつたのは、私の視線が、偶然――と申すよりは、人間の知力を超越した、ある隱微な原因によつて、その妻の傍《かたはら》に、こちらを後《うしろ》にして立つてゐる、一人の男の姿に注がれた時でございました。

 閣下、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。

 第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴を穿いて居りました。さうしてまた、第一の私と、同じ姿勢を裝つて居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顏も亦、私と同じだつた事でございませう。私はその時の私の心もちを、何と形容していゝかわかりません。私の周圍には大ぜいの人間が、しつきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、晝のやうな光を放つて居ります。云はゞ私の前後左右には、神祕と兩立し難《がた》い一切の條件が、備《そなは》つてゐたとでも申しませうか。さうして私は實に、そう云ふ外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕《さくがく》は、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかつたなら、私は恐らく大聲をあげて、周圍の注意をこの奇怪な幻影に惹《ひ》かうとした事でございませう。

 しかし、妻の視線は、幸《さいはひ》にも私の視線と合《がつ》しました。さうして、それと殆ど同時に、第二の私は丁度硝子《ガラス》に龜裂の入るやうな早さで、見る間《ま》に私の眼界から消え去つてしまひました。私は、夢遊病患者のやうに、茫然として妻に近づきました。が、妻には、第二の私が眼に映じなかつたのでございませう。私が側へ參りますと、妻はいつもの調子で、「長かつたわね」と申しました。それから、私の顏を見て、今度はおづおづ「どうかして」と尋ねました。私の顏色は確《たしか》に、灰のやうになつてゐたのに相違ございません。私は冷汗を拭ひながら、私の見た超自然な現象を、妻に打明けようかどうかと迷ひました。が、心配さうな妻の顏を見ては、どうして、これが打明けられませう。私はその時、この上《うへ》妻に心配させないために、一切第二の私に關しては、口を噤《つぐ》まうと決心したのでございます。

[やぶちゃん注:「夢遊病患者」『筑摩全集類聚』版本文には、この『夢遊病患者』(同書は新字)には『ソムナンビユウル』とある。底本の「後記」には、ここに、そんなルビのある、或いは、あったとする書誌が記されいない。おまけに『筑摩全集類聚』版では、これに注があって、『Somnambule(英)』として、夢遊病疾患の説明が載るが、この綴りの単語は英語ではなく、ドイツ語である。正しい音写は「ソォムナンブーレ」か。『筑摩全集類聚』版は岩波旧全集版を底本としいるはずだが、おかしい。実は『筑摩全集類聚』版編者が以下の後に出る本文に唐突に出る『ソムナンビユウル』という語を、前のここのルビに前倒しで移したと考えられる。まあ、欧語の、この単語を知らぬ圧倒的多数の読者のことを考えれば、そうした方が、遙かに親切ではあるとは言えるけれども。]

 閣下、もし妻が私を愛してゐなかつたなら、さうしてまた私が妻を愛してゐなかつたなら、どうして私にかう云ふ決心が出來ませう。私は斷言致します。私たちは、今日まで眞底から、互に愛し合つて居りました。しかし世間はそれを認めてくれません。閣下、世間は妻が私を愛してゐる事を認めてくれません。それは恐しい事でございます。恥づべき事でございます。私としては、私が妻を愛してゐる事を否定されるより、どのくらい屈辱に價《あたひ》するかわかりません。しかも世間は、一步を進めて、私の妻の貞操をさへ疑ひつゝあるのでございます。――

 私は感情の激昂に驅《か》られて、思はず筆を岐路《きろ》に入れたやうでございます。

[やぶちゃん注:「岐路」「脇道(わきみち)」の意。]

 さて、私はその夜以來、一種の不安に襲はれはじめました。それは前に揭げました實例通り、ドツペルゲンゲルの出現は、屢々《しばしば》當事者の死を豫告するからでございます。しかし、その不安の中にも、一月ばかりの日數《につすう》は、何事もなく過ぎてしまひました。さうして、その中に年が改まりました。私は勿論、あの第二の私を忘れた譯ではございません。が、月日の經つのに從つて、私の恐怖なり不安なりは、次第に柔らげられて參りました。いや、時には、實際、すべてを幻覺(ハルシネエシヨン)と云ふ名で片づけてしまはふとした事さへございます。

[やぶちゃん注:「幻覺(ハルシネエシヨン)」hallucination(英語)。]

 すると、恰《あたか》も私のその油斷を戒めでもするやうに、第二の私は、再び私の前に現れました。

 これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日私は學校に居りますと、突然舊友の一人が訪ねて參りましたので、幸《さいはひ》午後からは授業の時間もございませんから、一しよに學校を出て、駿河臺下のあるカツフエへ飯を食ひに參りました。駿河臺下には、御承知の通りあの四つ辻の近くに、大時計が一つございます。私は電車を下りる時に、ふとその時計の針が、十二時十五分を指してゐたのに氣がつきました。その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもつた、鉛のやうな空を後にして、ぢつと動かずにいるのが、何となく恐しいやうな氣がしたのでございます。或は事によるとこれも、あの前兆だつたかも知れません。私は突然この恐しさに襲はれたので、大時計を見た眼を何氣なく、電車の線路一つへだてた中西屋の前の停留場へ落しました。すると、その赤い柱の前には、私と私の妻とが肩を並べながら、睦《むつま》しさうに立つてゐたではございませんか。

[やぶちゃん注:「駿河臺下」「四つ辻」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中西屋」『筑摩全集類聚』版注に『駿河台にあった洋書洋品店』とある。]

 妻は黑いコオトに、焦茶の絹の襟卷をして居りました。さうして鼠色のオオヴア・コオトに黑のソフトをかぶつてゐる私に、第二の私に、何か話しかけてゐるやうに見えました。閣下、その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴア・コオトに、黑のソフトをかぶつてゐたのでございます。私はこの二つの幻影を、如何に恐怖に充ちた眼で、眺めましたらう。如何に憎惡に燃えた心で、眺めましたらう。殊に、妻の眼が第二の私の顏を、甘えるやうに見てゐるのを知つた時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底當時の私の位置を、再現するだけの勇氣がございません。私は思はず、友人の肘をとらえたなり、放心したやうに往來へ立ちすくんでしまひました。その時、外濠線《そとぼりせん》の電車が、駿河臺の方から、坂を下りて來て、けたたましい音を立てながら、私の目の前をふさいだのは、全く神明の冥助とでも云ふものでございませう。私たちは丁度、外濠線の線路を、向うへ突切らうとしてゐた所なのでございます。

[やぶちゃん注:「外濠線」「外堀線」とも言った。東京の皇居の外濠に沿って走っていた路面電車線の名称。明治三七(一九〇四)年、東京電気鉄道が敷設した御茶ノ水から土橋までの線路が最初。]

 電車は勿論、すぐに私たちの前を通りぬけました。しかしその後で、私の視線を遮《さへぎ》つたのは、唯《ただ》中西屋の前にある赤い柱ばかりでございました。二つの幻影は、電車のかげになつた刹那に、どこかへ見えなくなつてしまつたのでございます。私は、妙な顏をしてゐる友人を促して、可笑《をか》しくもない事を可笑しさうに笑ひながら、わざと大股に步き出しました。その友人が、後に私が發狂したと云ふ噂を立てたのも、當時の私の異常な行動を考へれば、滿更無理な事ではございません。しかし、私の發狂の原因を、私の妻の不品行にあるとするに至つては、好んで私を侮辱したものと思はれます。私は、最近にその友人への絕交狀を送りました。

 私は、事實を記すのに忙しい餘り、その時の妻が、妻の二重人格にすぎない事を證明致さなかつたやうに思ひます。當時の正午前後、妻は確《たしか》に外出致しませんでした。これは、妻自身はもとより、私の宅で召使つてゐる下女も、さう申して居る事でございます。又、その前日から、頭痛がすると申して、とかくふさぎ勝ちでゐた妻が、俄《にはか》に外出する筈もございません。して見ますと、この場合、私の眼に映じた妻の姿は、ドツペルゲンゲルでなくて、何でございませう。私は、妻が私に外出の有無を問はれて、眼を大きくしながら、「いゝえ」と云つた顏を、今でもありありと覺えて居ります。もし世間の云ふように、妻が私を欺いているのなら、あゝ云ふ、子供のやうな無邪氣な顏は、決して出來るものではございません。

 私が第二の私の客觀的存在を信ずる前に、私の精神狀態を疑つたのは、勿論の事でございます。しかし、私の頭腦は少しも混亂して居りません。安眠も出來ます。勉强も出來ます。成程、二度目に第二の私を見て以來、稍《やや》ともすると、ものに驚き易くなつて居りますが、これはあの奇怪な現象に接した結果であつて、斷じて原因ではございません。私はどうしても、この存在以外の存在を信じなければならないやうになつたのでございます。

 しかし、私は、その時も妻には、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]、あの幻影の事を話さずにしまひました。もし運命が許したら、私は今日《こんにち》までもやはり口を噤んで居りましたろう。が、執拗な第二の私は、三度私の前にその姿を現しました。これは前週の火曜日、卽《すなはち》二月十三日の午後七時前後の事でございます。私はその時、妻に一切を打明けなければならないやうな羽目《はめ》になつてしまひました。これもさうする外に、私たちの不幸を輕くする手段が、なかつたのですから、仕方がございません。が、この事は後で又、申上げる事に致しませう。

 その日、丁度宿直に當つてゐた私は、放課後間もなく、はげしい胃痙攣に惱まされたので、早速校醫の忠告通り、車で宅へ歸る事に致しました。所が午頃《ひるごろ》からふり出した雨に風が加はつて、宅の近くへ參りました時には、たゝきつけるやうな吹き降りでございます。私は門の前で匇々《そうそう》車賃《くるまちん》を拂つて、雨の中を大急ぎで玄關まで駈けて參りました。玄關の格子には、いつもの通り、内から釘がさしてございます。が、私には外からでも釘が拔けますから、すぐに格子をあけて、中へはいりました。大方《おほかた》雨の音にまぎれて、格子のあく音が聞えなかつたのでございましょう。奧からは誰も出て參りません。私は靴をぬいで、帽子とオオヴア・コオトとを折釘《をれくぎ》にかけて、玄關から一間置いた向うにある、書齋の唐紙をあけました。これは茶の間へ行く間に、敎科書其他のはいつている手提鞄を、そこへ置いて行くのが習慣になつてゐるからでございます。

 すると、私の眼の前には、たちまち意外な光景が現れました。北向きの窓の前にある机と、その前にある輪轉椅子《りんてんいす》と、さうしてそれらを圍んでゐる書棚とには、勿論何の變化もございません。しかし、こちらに橫をむけて、その机の側に立つてゐた女と、輪轉椅子に腰をかけてゐた男とは、一體誰だつたでございませう。閣下、私はこの時、第二の私と第二の私の妻とを、咫尺《しせき》の間に見たのでございます。私は當時の恐しい印象を忘れようとしても、忘れる事は出來ません。私の立つてゐる閾《しきゐ》の上からは、机に向つて竝《なら》んでいる二人の橫顏が見えました。窓から來るつめたい光をうけて、その顏は二つとも銳い明暗を作つて居ります。さうして、その顏の前にある、黃いろい絹の笠をかけた電燈が、私の眼には殆どまつ黑に映りました。しかも、何と云ふ皮肉でございませう。彼等は、私がこの奇怪な現象を記錄して置いた、私の日記を讀んでゐるのでございます。これは机の上に開いてある本の形で、すぐにそれがわかりました。

 私はこの光景を一瞥すると同時に、私自身にもわからない叫び聲が、自(おのづか)ら私の唇を衝《つ》いて出たやうな記憶がございます。また、その叫び聲につれて、二人の幻影が同時に私の方を見たやうな記憶もございます。もし彼等が幻影でなかつたなら、私はその一人たる妻からでも、當時の私の容子《ようす》を話して貰ふ事が出來たでございませう。しかし勿論それは不可能な事でございます。唯《ただ》、確かに覺えてゐるのは、その時私がはげしい眩暈《めまひ》を感じたと云ふ事よりほかに、全く何もございません。私はその儘、そこに倒れて、失神してしまつたのでございます。その物音に驚いて、妻が茶の間から駈けつけて來た時には、あの呪ふべき幻影ももう消えてゐたのでございませう。妻は私をその書齋へ寢かして、早速氷囊《ひようなう》を額へのせてくれました。

 私が正氣にかへつたのは、それから三十分ばかり後の事でございます。妻は、私が失神から醒めたのを見ると、突然聲を立てゝ泣き出しました。この頃の私の言動が、どうも妻の腑に落ちないと申すのでございます。「何かあなたは疑つていらつしやるのでせう。さうでせう。それなら、何故《なぜ》さうと打明けてくださらないのです。」妻はかう申して、私を責めました。世間が、妻の貞操を疑つてゐると云ふ事は、閣下も御承知の筈でございます。それはその時既に、私の耳へはいつて居りました。恐らくは妻も亦、誰からと云ふ事なく、この恐しい噂を聞いてゐたのでございませう。私は妻の語が、私もさう云ふ疑《うたがひ》を持つてはゐはしないかと云ふ掛念《けねん》で、ふるえてゐるのを感じました。妻は、私のあらゆる異常な言動が、皆その疑から來たものと思つてゐるらしいのでございます。この上私が沈默を守るとすればそれは徒《いたづら》に妻を窘《くるし》める事になるよりほかはございません。そこで、私は、額にのせた氷囊が落ちないやうに、靜《しづか》に顏を妻の方へ向けながら、低い聲で「許してくれ。己《おれ》はお前に隱して置いた事がある。」と申しました。さうしてそれから、第二の私が三度まで私の眼を遮《さへぎ》つた話を、出來るだけ詳しく話しました。「世間の噂も、己の考へでは、誰か第二の己が第二のお前と一しよにいるのを見て、それから捏造したものらしい。己は固くお前を信じている。その代りお前も己を信じてくれ。」私はその後で、かう力を入れてつけ加へました。しかし、妻は、弱い女の身として、世間の疑《うたがひ》の的になると云ふ事が、如何にも切ないのでございませう。或は又、ドツペルゲンゲルと云ふ現象が、その疑を解くためには餘りに異常すぎたせいもあるのに相違ございません。妻は私の枕もとで、何時《いつ》までも啜《すす》り上げて泣いて居ります。

 そこで私は、前に揭げた種々の實例を擧げて、如何にドつペルゲンゲルの存在が可能かと云ふ事を、諄々《じゆんじゆん》として妻に說いて聞かせました。閣下、妻のやうにヒステリカルな素質のある女には、殊にかう云ふ奇怪な現象が起り易いのでございます。その例もやはり、記錄に乏しくはございません。例へば著名なソムナンビユウルの Auguste Muller などは、屢々その二重人格を示したと云ふ事です。但《ただし》さう云ふ場合には、その夢遊病患者(ソムナンビユウル)の意志によつて、ドツペルゲンゲルが現れるのでございますから、その意志が少しもない妻の場合には、當てはまらないと云ふ非難もございませう。又一步を讓つて、それで妻の二重人格が說明出來るにしても、私のそれは出來ないと云ふ疑問が起るかも知れません。しかしこれ等は、決して解釋に苦むほど困難な問題ではございません。何故かと申しますと、自分以外の人間の二重人格を現す能力も、時には持つてゐるものがある事は、やはり疑ひ難《がた》い事實でございます。フランツ・フオン・バアデルが Dr. Werner に與えました手紙によりますと、エツカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持つてゐると、公言したさうでございます。して見ますれば、第二の疑問は、第一の疑問と同じく、妻がそれを意志したかどうかと云ふ事になつてしまふ譯でございませう。所で、意志の有無と申す事は、存外不確《ふたしか》なものでございますまいか。成程、妻はドツペルゲンゲルを現さうとは、意志しなかつたのに相違ございません。しかし、私の事は始終念頭にあつたでございませう。或は私とどこかへ一しよに行く事を、望んで居つたかも知れません。これが妻のやうな素質を持つてゐるものに、ドツペルゲンゲルの出現を意志したと、同じやうな結果を齎《もたら》すと云ふ事は、考へられない事でございませか。少くとも私はさうありさうな事だと存じます。まして、私の妻のやうな實例も、二三外に散見してゐるではございませんか。

 私はかう云ふやうな事を申して、妻を慰めました。妻もやつと得心が行つたのでございませう。それからは、「唯あなたがお氣の毒ね」と申して、ぢつと私の顏を見つめたきり、淚を乾かしてしまひました。

[やぶちゃん注:「フランツ・フオン・バアデルが Dr. Werner に與えました手紙によりますと、エツカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持つてゐると、公言したさうでございます。」これも先に掲げた英文書に載るが、“Franz von Baader says, in a letter to Dr. Kerner, that Eckartshausen, shortly before his death, assured him that he possessed the power of making a person’s double or wraith appear, while his body lay elsewhere in a state of trance or catalepsy. He added that the experiment might be dangerous, if care were not taken to prevent intercepting the rapport of the ethereal form with the material one.”とあって、Dr. Werner」ではなく、「Dr. Kerner」の誤りである。]

 閣下、私の二重人格が私に現れた、今日までの經過は、大體右のやうなものでございます。私は、それを、妻と私との間の祕密として、今日まで誰にも洩らしませんでした。しかし今はもう、その時ではございません。世間は公然、私を嘲《あざけ》り始めました。そうしてまた、私の妻を憎み始めました。現にこの頃では、妻の不品行を諷《ふう》した俚謠《りえう》をうたつて、私の宅の前を通るものさへございます。私として、どうして、それを默視する事が出來ませう。

 しかし、私が閣下にかう云ふ事を御訴へ致すのは、單に私たち夫妻に無理由な侮辱が加へられるからばかりではございません。さう云ふ侮辱を耐へ忍ぶ結果、妻のヒステリイが、益《ますます》昂進する傾《かたむき》があるからでございます。ヒステリイが益昂進すれば、ドツペルゲンゲルの出現も或はより頻繁になるかも知れません。さうすれば、妻の貞操に對する世間の疑《うたがひ》は、更に甚しくなる事でございませう。私はこのデイレムマをどうして脫したらいゝか、わかりません。

 閣下、かう云ふ事情の下《もと》にある私にとつては、閣下の御保護《ごほご》に依賴するのが、最後の、さうして又唯一の活路でございます。どうか私の申上げた事を御《お》信じ下さい。さうして、殘酷な世間の迫害に苦しんでゐる、私たち夫妻に御同情下さい。私の同僚の一人は故《ことさら》に大きな聲を出して、新聞に出てゐる姦通事件を、私の前で喋々《てふてふ》して聞かせました。私の先輩の一人は、私に手紙をよこして、妻の不品行を諷《ふう》すると同時に、それとなく離婚を勸めてくれました。それから又、私の敎えてゐる學生は、私の講義を眞面目に聽かなくなつたばかりでなく、私の敎室の黑板に、私と妻とのカリカテユアを描《ゑが》いて、その下に「めでたしめでたし」と書いて置きました。しかし、それらは皆、多少なりとも私と交涉のある人々でございますが、この頃では、赤の他人の癖に、思ひもよらない侮辱を加へるものも、決して少くはございません。或者は、無名のはがきをよこして、妻を禽獸に比しました。或者は、宅の黑塀へ學生以上の手腕を揮《ふる》つて、如何《いかが》はしい畫《ゑ》と文句とを書きました。さうして更に大膽なる或者は、私の庭内へ忍びこんで、妻と私とが夕飯を認《したた》めてゐる所を、窺《うかが》ひに參りました。閣下、これが人間らしい行《おこなひ》でございませうか。

 私は閣下に、これだけの事を申上げたい爲に、この手紙を書きました。私たち夫妻を凌辱し、脅迫する世間に對して、官憲は如何なる處置をとる可きものか、それは勿論閣下の問題で、私の問題ではございません。が、私は、賢明なる閣下が、必ず私たち夫妻の爲に、閣下の權能を最《もつとも》適當に行使せられる事を確信して居ります。どうか昭代《せうだい》をして、不祥の名を負わせないように、閣下の御職務を御完《おまつた》うし下さい。

[やぶちゃん注:「昭代をして、不祥の名を負わせない」「昭代」は「よく治まっていて、栄えている世の中・太平の世」の意で、『筑摩全集類聚』版注には、『あきらかに治』ってい『る太平な時代に悪い評判を与えないこと』とあった。]

 猶、御質問の筋があれば、私は何時《いつ》でも御署《おんしよ》まで出頭致します。ではこれで、筆を擱《お》く事に致しませう。

 

       第二の手紙

 

 ――警察署長閣下、

 閣下の怠慢は、私たち夫妻の上に、最後の不幸を齎《もたら》しました。私の妻は、昨日突然失踪したぎり、未《いまだ》にどうなつたかわかりません。私は危《あやぶ》みます。妻は世間の壓迫に耐へ兼ねて、自殺したのではございますまいか。

 世間は遂に、無辜《むこ》の人を殺しました。さうして閣下自身も、その惡《にく》む可き幇助者《ほうじよしや》の一人になられたのでございます。

 私は今日限り、當區に居住する事を止めるつもりでございます。無爲無能なる閣下の警察の下《もと》に、この上どうして安んじてゐる事が出來ませう。

 閣下、私は一昨日《いつさくじつ》、學校も辭職しました。今後の私は、全力を擧げて、超自然的現象の硏究に從事するつもりでございます。閣下は恐らく、一般世人と同樣、私のこの計畫を冷笑なさる事でせう。しかし一警察署長の身を以て、超自然的なる一切を否定するのは、恥づべき事ではございますまいか。

 閣下は先《まづ》、人間が如何に知る所の少ないかを御考へになるべきでせう。たとへば、閣下の使用せられる刑事の中にさへ、閣下の夢にも御存知にならない傳染病を持つてゐるものが、大勢居ります。殊にそれが、接吻によつて、迅速に傳染すると云ふ事實は、私以外に殆《ほとんど》一人も知つてゐるものはございません。この例は、優に閣下の傲慢なる世界觀を破壞するに足りませう。……

 

         *    *    *    *

 

 それから、先は、殆《ほとんど》意味をなさない、哲學じみた事が、長々と書いてある。これは不必要だから、こゝには省く事にした。 (大正六年八月十日)

[やぶちゃん注:この手紙主は、明らかに閉鎖系の強力な妄想体系(内部では完全に自己完結して矛盾がない)を構成している精神疾患で、不安や恐怖の影響を強く受けており、「他人が常に自分を批判している」という根強い固着型の被害妄想を抱くところの「妄想性パーソナリティ障害」の一種である「パラノイア(paranoia)」である。フロイトが「ラポートが起こらない」として治療不能と匙を投げた、あれ、である。]

2023/06/23

サイト開設十八年記念(三日フライング)松村みね子名義/片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」全面改訂

サイト開設十八年記念として、三日、フライングして、私の偏愛する一篇、松村みね子名義の片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」の正字不全の修正とルビ化をし、全面的に書き変えた。なお、その私のそれへのオリジナルなブログでの注記『松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」イニシャル同定及び聊かの注記』も、一部、追加したので見られたい。

2023/06/08

佐藤春夫譯「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」正規表現版・オリジナル注記附始動 / 箱題箋・表紙題箋・扉・本扉標題・献辞・薄少君悼夫句・「楚小志」引用句・「ただ若き日を惜め」杜秋娘

[やぶちゃん注:「支那厯朝名媛詩鈔 車塵集」は昭和四(一九二九)年九月十五日武蔵野書院刊で、裝釘は芥川龍之介晩年の盟友小穴隆一である。

 実は私は、このブログ・カテゴリ「佐藤春夫」を創始した最初に、「ただ若き日を惜め 杜秋娘作 佐藤春夫訳」と、「春ぞなかなかに悲しき 朱淑眞作 佐藤春夫訳」を講談社文芸文庫一九九四年刊佐藤春夫「車塵集 ほるとがる文」を用いて、甚だ不全な形で公開しているのだが、その不全性に直後から嫌気がさし、また、後には、同カテゴリで佐藤春夫の未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』等の電子化注にすっかり熱中してしまい、放置していたこともずっと忘れてしまっていた。今回、以下の訳詩集原本を視認出来るようになったので、仕切り直して行うこととした。但し、その不全な二篇は同カテゴリの初回と二回目であるので、削除せず、自戒の思いを含めて、残すこととした。

 本文の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本(リンク先は標題ページ)を以って視認する。

 可能な限り、原本通りに電子化するが、本書の一部のひらがな文字は草書の崩し字で活字印刷されており、これはUnicodeでも表示出来ないため、通常のひらがなに直した。踊り字「〱」は生理的に受けつけないので、正字化した。ストイックに注を附す。なお、本文の各詩篇は、標題がポイントが大きく、漢詩と作者が有意(漢詩よりはポイント大)に小さく、本文は中くらいという感じなのだが、少なくとも漢詩は読み難くなるだけなので、それらのポイント違いは必ずしも再現しないこととした。]

 

支那厯朝

     車塵集 佐藤春夫譯著

名媛詩鈔

 

[やぶちゃん注:箱題箋。但し、底本は表紙が補修されているため、原本自体の画像がない。しかし、幸いにしてmurasakinoyukari氏の「武蔵野書院のブログ」(『武蔵野書院』は原本の出版社)の「佐藤春夫譯著 『車塵集』」原本紹介記事に原本にあった箱(そこに『上製函入り本』とある)と、次の本体の原表紙の写真を見ることが出来たため、その画像を視認して、題箋を起こした。「支那厯朝」「名媛詩鈔」は底本では二行割注風に支那厯朝「車塵集 佐藤春夫譯著」の上にある。次も同じ。]

 

支那厯朝

     車塵集 佐藤春夫譯著

名媛詩鈔

 

[やぶちゃん注:原本表紙題箋。同様の理由で、同じくmurasakinoyukari氏の「武蔵野書院のブログ」(『武蔵野書院』は原本の出版社)の「佐藤春夫譯著 『車塵集』」原本紹介記事に拠った。単体画像はここ。]

 

            譯 詩 集

 

[やぶちゃん注:底本の(見返しかも知れない)。]

 

支那厯朝名媛詩鈔

 車 塵 集 佐藤春夫譯著

 

[やぶちゃん注:底本の本扉標題。前に薄紙が挟まれてある。小穴の二つの鳥籠が背景。先のmurasakinoyukari氏の「武蔵野書院のブログ」(『武蔵野書院』は原本の出版社)の「佐藤春夫譯著 『車塵集』」原本紹介記事の単体画像はここ。]

 

            芥川龍之介が

            よき靈に捧ぐ

 

[やぶちゃん注:以上のページを捲った左ページにある献辞。]

 

            濁 世 何 曾 頃 刻 光

            人 間 眞 壽 有 文 章

                 薄 少 君 悼 夫 句

 

[やぶちゃん注:献辞ページの裏にある。「薄少君」は明代の学者で詩人の沈承の才媛の妻の名。若くして亡くなり、それを悼んで、夫は百首の詩を読んだ。その中の第三十四の冒頭の二句であるが、「維基文庫」の「情史類略」の「薄少君」で確認したところ、一句目の「曾」は「爭」であり、国立国会図書館デジタルコレクションの『和漢比較文学』(一九九二年十月発行)の小林徹行氏の論文「『車塵集』考」のここ以下によれば、原詩は「濁世(ぢよくせ) 何ぞ曾(かつ)て頃刻(けいこく)の光あらん 人間(じんかん) 眞(まこと)に壽(ひさ)しく文章有り」と訓読され、『訳者の加筆は明白である』とされている(以下、中国語の辞としての「爭」と「曾」の互換性の考証がなされてあるが、略す)。ともかくも、盟友芥川龍之介への悼辞として佐藤が手を加えて、『「この穢れた世の中では、しばらくの間もしばらくの間輝くことも難しい。しかし、君がこの世に残しした文は永遠不滅だ」と詠じて』芥川龍之介の『霊前に捧げた佐藤の意図を理解すべきであろう』と述べておられる。私も、その見解に賛同するものである(太字は私が附した)。

 なお、この後には、中国文学者で與謝野晶子門下の歌人でもあった奥野信太郎の「序文」(本文開始ページをリンクした)があるが、彼の著作権は継続中(昭和四三(一九六八)年没)であるので、電子化しない。]

 

     東 塵 集

 

[やぶちゃん注:序文の終わった左ページの本格本文の開始部分の標題。]

 

            美 人 香 骨

            化 作 車 塵

               「楚 小 志」

 

[やぶちゃん注:直前の標題ページの裏に記載された、本訳詩集の題の由来となった詩句。「美人の香骨 化して車塵と作(な)る」。知られた古代の銭塘の美妓蘇小小を詠んだものらしい。「楚小志」は明の銭希言撰。]

 

 

  ただ若き日を惜め

            勸 君 莫 惜 金 縷 衣

            勸 君 須 惜 少 年 時

            花 開 堪 折 直 須 折

            莫 待 無 花 空 折 枝

                  杜 秋 娘

 

綾にしき何をか惜しむ

惜しめただ君若き日を

いざや折れ花よかりせば

ためらはば折りて花なし

 

[やぶちゃん注:底本ではここ。原作者について「車塵集」には、末尾に無署名乍ら佐藤自身の筆になる「原作者の事その他」という後書があり、そこに各詩人の解説があるので、引いておく(「原作者の事その他」については、無論、再度、ちゃんと全文を電子化する。なお、この解説には一切ルビがないので、私が読み難いと判断した読みを推定で歴史的仮名遣で振った。その際、所持する講談社文芸文庫一九九四年刊佐藤春夫「車塵集 ほるとがる文」で編者によって振り仮名が振られているので、それも参考にした。句点や一部の有意な一字空けはママ。次以降では、この注記を略し、詩の後に※で挟んで示す。底本では作者名のみが解説の上に抜きん出て、その一字下から文が始まる形で、以下は、例えば、この組み方である。

    ※

杜秋娘  西曆七世紀初頭。 唐。 もと金陵の娼家の女。 年十五の時、大官李錡(りき)の妾となった。 常に好んで金縷曲(きんるきよく)――靑春を惜しむ歌を唱へて愛人に酒盞(しゆさん)を酭めた。 ここに譯出したものが今に傳はつてゐるが、「莫情」「須惜」「堪折」「須折」「空折」 など疊韻のなかに豪宕(がうたう)な響があるといふのが定評である。 李錡(りき)が後に亂を起して滅びた後、彼女は召されて宮廷に入り憲宗のために寵せられた。その薨去の後、帝の第三子穆宗(ぼくそう)が卽位し、彼女を皇子の傅姆(ふぼ)に命じた。 その養育した皇子は壯年になつて漳王(しやうわう)に封ぜられたが、漳王が姦人のために謀られ罪を得て廢削せられるに及んで彼女は暇を賜うて故鄕に歸つた。 偶〻杜牧が金陵の地に來てこの數奇にも不遇な生涯の終りにある彼女を見て憫れむのあまり杜秋娘詩を賦したが、それは樊川(はんせん)集第一卷に見られる。

    ※

 この小伝については、疑問があるので簡単に注しておく。なお、標題の「惜め」はママである。本文冒頭から、どうということはないが、僅かな躓きがあるのは、ちょっと作者の校正のいい加減さが透けて見えるようで、やや残念ではある。

・「酭めた」というのは、私は実は不遜にも誤字ではないかと疑っている。「酭」(音「ユウ」)という字は「報いる」の意で、とても読めない所持する大修館書店の「廣漢和辭典」にも載らない字である(だのに講談社文芸文庫にはルビが振られていないのは頗る不審である)。ところが、ここに、よく似た字体で「酳」(音イン)があり、これは「すすめた」と読めるのである。大方の御批判を俟つ。

・「豪宕」気持ちが大きく、細かいことに拘らず、思うがままに振る舞うこと。「豪放」に同じ。

・「傅姆」乳母。

 以下、原詩の題を添えて、通常の私の訓読を示す(以降も同じ形で注せずに注の最後に示す)。

   *

 金縷(きんる)の衣(ころも)

君(きみ)に勸む 惜(を)しむ莫(な)かれ 金縷(きんる)の衣

君勸む 須(すべか)らく惜しむべし 少年の時(とき)

花 開きて 折(を)るに堪へなば 直ちに須(すべか)らく折るべし

花 無きを待ちて 空(むな)しく枝を折る莫かれ

   *]

2023/05/18

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「河童忌」 / 下島勳著「芥川龍之介の回想」よりの抜粋電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和・一四・七』とクレジットのみがあり、初出は不明。後に、この下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)の本文末に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。本篇はここから。一部のみ注をした。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 本編は底本の最終本文で、この後に刊行当時、郷里伊那で病床にあった勳氏の代わりに、勳氏の甥で養子となった英文学者・翻訳家であった下島連(むらじ)氏(一九八六年没)が書かれた「あとがき」があるが、筆者は著作権存続中であり、また、特に電子化しなければならない芥川龍之介関連の記載もないので、リンクに留める。而して、本書の抜粋電子化注は、これを以って終わる。]

 

河 童 忌

 

 七月二十四日は芥川龍之介君の十三回忌だ。昨夜から曇つてゐるのだつたが、午前八時ごろからぼつりぽつりと降つて來た。芥川氏の靈前にと思つて自作トマトの風呂敷包みを提げて早めに新宿まで出ると中々の降りとなつた。會は田端の自笑軒ときまつてゐて午後六時からだから、まづ北原大輔君を訪ねて見ると、久し振りなので大歡迎、ご馳走になりながら陶談、畫談などに思はず時間も忘れ、たうとう四時半ごろになつてしまつた。

 雨は上つたが曇天のいやがうへに蒸し暑い。北原氏のところを辭して芥川家へ行き、佛敎前へトマトを供へ線香を上げて奥さんと話してゐると小島政二郞君夫婦が見え、次いで佐佐木茂索夫婦が來る。同時に香瀧さんが見える。少し後れて自笑粁へ出かけるともう二十人ばかり座に就いてゐた。

 芥川忌は初めのうちは大分盛んだつたが、年が立つに隨つて段々出席者の數も減じ、こゝ、五六年は三十人前後になつてしまつた。併し實をいへばこの三十人は切つても切れない因綠の人たちばかりで、ほんとに芥川忌らしいなりかしい聲や顏ばかりになつてしまつた(尤も芥川賞の人たちが殖えてくる)。

 出席者は大槪おなじみの筈だつたが、谷口喜作君の隣りに座を占めてゐる、日に燒けたやうな黑い顏をした瘦せてひねこびた爺さんがお辭儀をするから、返禮はしたものの誰であるか思ひ出せなかつた。久米正雄君の呼びかけで小澤碧童君といふことが訣《わか》り大笑ひしたのだつた。同君は初めのうちは出席したのだが、その後全く出たことがないので、逢ふ機會がなかつたので見違へたのだつた。

 座の右隣が永見德太郞君で、故人の長崎での話などした。私は震災當時彼の束京の第二號が、三味線を抱へて澄江堂へ避難して來て玄關で逢つた話をしたら、頭を叩いて笑つてた。

 左隣は宇野浩二君で、君と初めて澄江堂で逢つたときは若い美男だつたが、よく禿げてまたよく瘦せたものだといつて笑つた。そのとき芥川君の紹介に、これは宇野で中々「ヒステリー」の硏究家だ、といつたことを覺えてゐるかと、いふとよく知つてゐるといつてすましてゐた。

 字野君は、知人に「エンボリー」に罹つて長く寢てゐる男があるが、「エンボリー」とは何のことかというふから、その說明をした。

 

    芥川君の十三回忌

   紫陽花の雨むしあつき佛間かな

(昭和・一四・七) 

[やぶちゃん注:「自笑軒」田端の芥川龍之介の自宅近くにあった会席料理屋「天然自笑軒」。芥川龍之介は文との結婚披露宴をここで行っている。

「北原大輔」「古織部の角鉢」で既出既注

「香瀧さん」不詳だが、思うに、これは龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生の上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)のことではなかろうか。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。龍之介の「學校友だち」では巻頭に、『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小說にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある人物である。

「エンボリー」embolism(英語)の略。塞栓症。血栓が血管に詰まった状態。特に下肢に生じた血栓が肺に移動して発症する肺塞栓症が知られ、外に脳梗塞や心筋梗塞なども同じ状態で起こる。私の昔の教え子の女性も、若くしてこれで亡くなった。]

2023/05/17

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「秋時雨 ――鏡花泉先生の追憶――」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報』(岩波書店が同年十月から刊行を始め、翌年八月に完結した没後七年目の第二次普及版『芥川龍之介全集』(全十巻)の『月報』(恐らくは第一回配本のそれ)とあるのが初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。本篇はここから。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 今回、本篇に先立って、芥川龍之介が幼年期より愛読者であり、売れっ子作家になってからも最も尊崇し、その全集参訂者にも名を連ねた泉鏡花に関わって、

芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集の特色

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集に就いて

芥川龍之介書簡抄159 追加 大正一四(一九二四)年三月十二日 泉鏡花宛

を電子化注したが、龍之介は、生前、鏡花を敬して語らずという礼法を守り、随筆などには彼を語った物は殆んどない。しかし、以上の鏡花作品に就いての語りを読むに、私は、芥川は直弟子を自認していた夏目漱石よりも、寧ろ、本邦の数少ない幻想文学の巨匠として、遙かにその小説群を尊敬もし、また、真似出来ない名匠として捉えていたものと考えている。私自身、泉鏡花を偏愛しているが、上に掲げた鏡花という作家の文学史的立ち位置の解析は、全集慫慂宣伝という割引をしても、なお、今現在から見ても、正鵠を射ており、未だに古びていないものと思われる。

 以下は、晩年の芥川龍之介と泉鏡花の点景を含んだ、鏡花追悼の一篇で(昭和一四(一九三九)年九月七日に癌性肺腫瘍のため満六十五歳で亡くなった)、同年九月に書かれ、『文藝春秋』に載ったものである。]

 

秋 時 雨

 

          鏡 花 泉 先 生 の 追 憶

 九月七日に泉鏡花さんがなくなられた。享年六十七ださうである。十日の午後三時から芝の靑松寺《せいしようじ》で告別式が行はれるといふので、私は少し用をたしてから出向いたのだが、時間が早かつたので、歌舞伎座や明治座の旗の飜つてゐる寺の門前に佇んでゐると、文士らしい人や男女の俳優らしい人たちも少しは見えて來た。

 この日は二百二十日の厄日の影響とでもいふのか、ザツと驟雨が來るかと思ふとケロリと止んで日が輝き、また忽ち降つてくるといふ反覆常なき厄介な天候で、傘の用意はしてゐながら、電車の乘り替へ用たしの途《みち》すがら、幾度濡れたことであらう。

 定刻には少し早いがかまはぬといふので、我々は一般告別禮拜者のトツプを切つたわけだつた。まづ本堂正面靈柩の前に進んでで型の如く恭しく燒香を了《をは》り、くびすを返して左側整列のご婦人がた右側整列の男のかたがたに一禮しつゝ退場したのだが、多數のうちから僅かに德田秋聲翁、佐藤春夫氏、久保田万太郞氏、室生犀生氏など、よく知ってゐる人たちのほんの二三の顏だけが朧げな老眼に映じただけだつた。寺門を出るとまたパラパラと雨が降つて來た。

 泉鏡花さんには大正八九年ごろ道觀會のをりに芥川龍之介君の書齋で始めてお目に懸つた。この時の會場は田端西臺の鹿島さんのお宅だったので、澄江堂から三人打連れ、話しながら参會したのだった。

[やぶちゃん注:「道觀會」不詳。中産階級の文化サロンのようなものであろう。

「鹿島さん」田端文士村に居住していた芥川のパトロンでもあった鹿島組(現在の鹿島建設)副社長鹿島龍蔵であろう。]

 鏡花さんの噂さは、豫《かね》て聊かながら聞知《ぶんち》してはゐたが、さてお逢ひして見ると全くもつて純眞そのもの――否や、何とも言へぬ珍無類の存在だといふことを知つた。あの時代色の濃い洒落た莨入《たばこい》れの筒から、中ぼそのの銀張りを引き拔いて靜かに莨を詰め、火を點ずるやスツと一つ深く吸ふかと見れば吸殼ははや吐月峯《とげつぽう》の中に落される、クルツと指先に廻轉された煙草は、小指でぽんと拔かれた筒の中へ忽ちにして納まるといふ器用な手さばきはさながら落語家などの演ずる通人そのまゝだ。

[やぶちゃん注:「吐月峯」煙草盆に入れてある灰吹き用の竹の筒を言う語。室町時代の連歌師宗長(そうちょう)は十八歳で出家した後も、今川義忠に近侍し、書記役のようなことを務め、合戦などにも、度々、従軍していたが、義忠戦死の後、今川家を離れ、上洛し、一休宗純に参禅、また、宗祇に師事して連歌を修行した。その後、駿河国安倍郡長田村(現在の静岡市駿河区丸子(まりこ))に柴屋寺(さいおくじ)を開き、山の峰から月の出る景観の美しさを愛して、この地の山を「吐月峰」と命名したとされる。その吐月峰に産する竹が、灰吹き用の竹筒に最も適し、宗長はここで製する竹筒に「吐月峰」と産地の銘を初めて刻したと伝えられ、後、これが煙草盆の灰吹きとして広く世に用いられるようになってから、「吐月峰」は灰吹きの代名詞となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 少しアルコール利き出してからの話し振りは、聊か舌もつれの混《この》じた氣せはしい切迫調で勿論、普通の雄辯などとは甚だ緣遠いのかも知れぬが、陰翳濃まやかな抑揚自在の奇言百出、言葉の綾のもつれの面白味など如何な苦蟲黨《にがむしたう》も顎《あご》を解かずにはゐられまい。然も手振り身ぶりの妙趣に至つては、恐らく職業話し家《か》などの遠く及ばぬ自然さだからたまらない。

 この時の會はたしか拾人ぐらゐだと思ふのだが、その十人が十入誰れひとり臍《へそ》をよらぬ者とてなくあの小杉放庵君の如き斯ういふ不思議な眞人《しんじん》は我々繪かき仲間のうちには藥にしたくも見當らない。洵《まこと》に得がたい國寶だ……などと感嘆の叫びを擧げたほどだ。兎《と》にまれこの時の道觀會は、全く鏡花先生の一人舞臺だつたのである。

[やぶちゃん注:「臍をよらぬ」「撚臍」で「へそをよる」と読む、一種の隠語で「甚しく笑ふこと」で、「おなかの皮を撚(ひね)る」と言うのに同じ。

「眞人」「超俗的で、真理を悟って人格が完成された人」の意。]

 酒は餘り强い方ではないらしいが、時々――戴くなら熱いところを……などといひながら、ご機嫌の餘り大醉されたので、芥川君香取秀眞君並びに老生と三人が、交るがはる肩にかけて動坂まで送り出したのだつた。途すがら、もつれる舌を舐めずつて――吉原へ行かう……などとおつしやるのだつた。漸《やうや》くにして自動車に乘せ、運轉手にはよくお宅を敎へてやつたのだつたが、後に聞けぱ、神樂坂の懇意な藝者屋とかに車をつけさせ、明けてから歸宅されたといふことである。

 鏡花全集の出來るころ、いま泉さんが歸つたところだといふ澄江堂をお訪ねした。芥川君の曰く――泉さんが來て僕に全集の序文を書いてくれといふのだが僕は先生やうな先輩の全集へ序文など書けない……といつてことわつた。然るにどう考へてもほかに賴みたい人がないから、是非書いてくれといふので、たうとうことわり切れずに引受けて實はよわつてゐるところだと言つてゐた。あの序文は當時有名なもので、泉さんも大さう喜んでゐられたさうである。

[やぶちゃん注:「序文」芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)を指す。]

 芥川君のおつ夜のとき、控へ室に充てられた竹村の座敷で、曾て芥川君が修善寺の某溶館の二階に滯在中、泉さんご夫婦が見えられ、下の離れ座敷でご夫婦差し向ひのところを竊《ひそ》かに寫生し、畫の上に「鏡花先生蝶々喃々之圖」と題した珍畫を郵送してくれた。

 これはペンで描いた非常に面白い傑作なので大切に祕藏してゐたのだが、ふと泉さんに見せたい氣がしたので、早速取り寄せてご覽に入れた。果せるかな忽ち珍妙な相恰現はれ、これはこれは……と三度ほど頭を叩いて見入つてゐられたが、これに戴かせて下さいますか……と言はれたので一寸ドギマギした。何れある機會に……とうまく逃げたのだつたが、その機會がなかつたので、いまだに手箱の底に收めてある。

[やぶちゃん注:この二段落、下島が鏡花の所望に応じなかった後悔のドギマギが生じたからか、文章がおかしい。なお、その絵は、『芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二五)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)』の、これである。なお、この戯画には初稿があり、それも『芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」』で見られる。]

 私のところに紅紫山人の――

 

   瓢と財布春の別れを對し泣く

 

   ――といふ句を曾いた扇面がある。この話をしたら是非見たいと言つてゐられたが、これもお眼に懸ける機會がなかつた。序《ついで》ながら泉さんは、先師江葉山人の筆蹟に接するときにはまづ口と手を淸め恭しく禮拜してから觀られるのが常ださうである。一見洒々落々たるうちに謂ゆる――三尺離れて師の影を踏まず、といふ儒敎的敬虔さ義理堅さを持つてゐられたといふことは、何といふ尊いことではあるまいか。

 猶私は泉さんの短册を一點所藏してゐる。それは――

 

   紫のつゝしとなりぬ薄月夜

 

といふ鏡花さんらしい名句で、「その筆蹟も甚だ見事である。これは室生犀星から割愛されたもので、いまは芥川君の畫とともに、私のためには感慨深い遺品となつた。

[やぶちゃん注:以上の句は「紫の映山紅(つゝじ)となりぬ夕月夜」である。私の「泉鏡花句集」の「春」の部を参照されたい。]

 

     靈前に捧ぐ

   白しろと尾花の雨の寒からじ

(昭和一四・九・文藝春秋)

芥川龍之介書簡抄159 追加 大正一四(一九二四)年三月十二日 泉鏡花宛

 

大正一四(一九二四)年三月十二日田端発信・消印十三日・麹町區下六番町廿六 泉鏡太郞樣・三月十二日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

朶雲邦誦仕候開口の拙文御よろこび下され忝く存候 何度試みても四六駢麗体の評論のやうなものしか書けず、今更あゝ言ふもののむづかしきを知りし次第、垢ぬけのせぬ所はいくへにも御用捨下され度候、御言葉に甘へ、味噌に似たものを申上げ候へばあの中野に白鶴の云々より先を書き居候時は少々逆上の気味にて眶のうちに異狀を生じ候 目下仕事やら何やらにて閉口致し居り候へどもいづれ拝眉仕る可くまづ御礼まで如斯に御坐候 頓首

  附錄に一句御披露申し候間御一笑下され度候 置酒と前書して、

   明星のちろりにひびけほととぎす

    十二日夜半          龍 之 介

   泉 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:「開口の拙文」先ほど公開した「芥川龍之介 鏡花全集目錄開口」を指す。そちらの冒頭注で記した通り、その文章は二ヶ月後の大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告に載るのだが、この十一前の同年三月一日の夜、編者を務めた春陽堂版『鏡花全集』の出版記念会が芝紅葉館で行われており、芥川龍之介も出席している(八十余名出席。新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。そこで事前に鏡花にその広告文が披露されたのであろう。同年譜によれば、この三月上旬は『病気がちの上』、仲人を務めた作家『岡栄一郎夫妻の離婚話』、義弟『塚本八州の喀血などが重な』り、『仕事が詰り、面会日を中止して、原稿執筆に追われる』とあった。恐らくは、小説「春」の執筆に難渋していたことを指すのであろう。

「朶雲奉誦」(だうんはうじゆ)の「朶雲」は唐の軍長官であった韋陟(いちょく) は五色に彩られた書簡箋を常用し、本文は侍妾に書かせ、署名だけを自分でして、自ら「陟の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ」と言ったという「唐書」「韋陟伝」の故事から、他人を敬って、その手紙をいう語。従ってこの四字熟語は返信にのみ用いる。

「四六駢麗体」ママ。「四六駢儷体(體)」が正しい。小学館「日本国語大辞典」によれば、「駢儷」は「語句を対にして並べること」を指す語で、『漢文の文体の一つ。主に四字・六字の句を基本として対句』『を用いる華美な文体。漢・魏に起こり、六朝から唐にかけて流行し、韓愈・柳宗元が提唱した古文運動が定着するまでは、文章の主流であった。日本では、奈良・平安時代に盛んに用いられた。駢文。四六文。四六駢儷文』とある。李白の「春夜宴桃李園序」(春夜、桃李園に宴ずるの序)の授業で説明したぜ。

「眶」「まぶた」。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集に就いて

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月五日及び翌六日附の『東京日日新聞』に掲載されたもの。

 底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。総ルビであるが(なお、新聞物はもとより、雑誌発表作品でも、校正者が勝手に振るのが当たり前の時代であったから、それに従うのは、かなり危険ではあることを言い添えておく。岩波版芥川龍之介全集の元版に編集者として加わった堀辰雄は編集会議で全集を、総て、ルビ無しでと主張したが、退けられている)、一部に限った。踊字「〱」は正字化した。]

 

 鏡花全集に就いて

 

       

 

 「鏡花全集」の出づるにあたり、僕も參訂者の資格を離れた一批評家として言を立てれば、第一に鏡花先生の作品は屢(しばしば)議論を含んでゐる。これは天下の鏡花贔屓(びいき)には或ひは異端の說かも知れない。しかし先生の作品は、――殊に先生の長篇は大抵或議論を含んでゐる。「風流線」、「通夜物語」、「婦系圖」、――篇々皆然りと言つても好(よ)い。その又議論は大部分詩的正義に立つた倫理觀である。この倫理觀を捉へ得ぬ讀者は徒らに先生の作品に江戶傳來の侠氣のみを見出だすであらう。けれども僕の信ずる所によれば、この倫理觀は先生の作品を全(ぜん)硯友社の現實主義的作品の外(そと)に立たせるものである。のみならず又硯友社以後の自然主義的作品の外にも立たせるものである。

 たとへば尾崎紅葉の「多情多恨」や「金色夜叉」を先生の作品とくらべて見るがよい。前者は或ひは措辭の上に後者のプロトタイプを持つてゐるであらう。しかし先生の倫理觀に至つては全然紅葉の知らざる所である。自然主義の先生と相容れなかつたのもやはり措辭の爲ばかりではない。現に自然主義的文壇は小栗風葉氏の作品にさへ自然主義のレツテルを貼り、更にまた永井荷風氏の作品にもおなじレツテルを貼らうとした。しかも畢(つひ)に先生の作品を同臭味(どうしうみ)のものとしなかつたのは、この詩的圓光を帶びた先生の倫理觀に堪へなかつたのである。

 

       

 

 この倫理觀の夙(つと)に先生の作品を色づけてゐたことは、「貧民俱樂部(ひんみんくらぶ)」(これは今度はじめて集に入つた初期の作品の一つである。)の一篇に現れてゐる。「貧民俱樂部」の女主人公お丹(たん)の說破(せつは)する所によれば、慈善は必ずしも善ではない。その貴族富豪の徒(と)に自己弁護の機會を吳ふるかぎり、斷じて惡といはなければならぬ。貧民はたとひ饑(う)ゑるにしても、結束して慈善を却(しりぞ)ける所に未來の幸福を見出だす筈である。かういふ倫理觀の僕に興味のあるのはひとり上記の理由によるのみではない。これは明治廿何年かの先生の倫理觀たるにとどまらず、同時にまた大正何年かのプロレタリアの倫理觀ではないであらうか?………

 のみならずこの倫理觀は先生の愛する超自然的存在、――自靈や妖怪にも及んでゐる。尤も先生の初期の作品は必ずしも惡靈を避けなかつた譚ではない。「湯女(ゆな)の魂(たましひ)」の蝙蝠(かはほり)の如きはこの惡靈(あくれい)の尤なるものである。しかしその後の超自然的存在はいつか倫理的に向上した。「深沙大王(しんじやだいわう)」の禿げ佛(ぼとけ)、「草迷宮」の惡左衞門等はいづれも神祕の薄明りの中にわれわれの善惡を裁いてゐる。彼等の手にする罪業(ざいごふ)の秤(はかり)は如何なる倫理學にも依るものではない。たゞわれわれの心情に訴へる詩的正義に依るばかりである。それにもかゝはらず――といふよりも寧ろその爲に彼れ等は他に類を見ない、美しい威嚴を具へ出した。「天守物語」はかういふ作品の最も完成した一つである。われわれの文學は「今昔物語」以來、超自然的存在に乏しい譯ではない。且また近世にも「雨月物語」等の佳作のあることは事實である。けれども謠曲の後(のち)シテ以外に誰(たれ)がこの美しい威嚴を彼れ等の上に與へたであらうか?

 第二に先生の作品は獨特の措辭に富んでゐる。これは多言するを待たないかも知れない。たゞ僕の信ずる所によれば、先生の文章は世間一般の獨特とするよりも獨特である。先生のやうに一編の作品のうちに口語を用ひ、文語を用ひ、漢詩漢文の語を用ひ、更にまた名詞等を用ふる作家は明治大正の間にないばかりではない。若し他に匹(ひつ)を求めるとすれば、恐らくは謠曲を獨造(どくざう)した室町時代の天才だけであらう。この特色もまた先生をあらゆる文壇的陣營の外に立たせることになつたのは勿論である。第三に――第三以下を論ずることは紙面の都合上見合せなければならぬ。

 しかし上に述べた兩特色だけでも優に先生を殺すに足るものである。異を却け同を愛することは文壇も世間と變りはない。敢然と一代の風潮にさからふからには、たとひ命に別條はないにもせよ、われわれの文壇的存在は危ふいものと覺悟しなければならぬ。けれども畢に文壇は先生を殺すことに失敗した。「鏡花全集」十五卷は先生の勝利を示すものである。これは天下の鏡花贔屓の意を强(つよ)うする所以(ゆゑん)ばかりではない。詩的正義を信ぜざること、僕の如き冷血漢も大いに意を强うする所以である。卽ちこの惡文を草し、僕の一家言(かげん)を公(おほやけ)にすることにした。若しそれ先生の作品を論じてプロレタリアの倫理觀などに及んだ爲に先生の苦笑を買ふとすれば、「本是山中人、愛說山中話」――先生の寬容を待つ外はない。(修善寺にて)

 

[やぶちゃん注:「文壇は先生を殺すことに失敗した」筑摩書房全集類聚版『芥川龍之介全集』第五巻のこの部分の脚注に、『自然主義全盛時代、鏡花は逗子に住み、窮乏に耐えて、浪漫的神秘的作風を堅持し、大正期に至って後進に慕われた』とある。

「本是山中人、愛說山中話」これにはルビはない。訓読すると、「本(もと)是(こ)れ 山中(さいちゆう)の人(ひと)」「說(と)くことを愛す 山中の話(わ)」で、これは宋の禅僧で詩人でもあった蒙庵岳の「鼓山蒙庵岳禪師四首」の一首「本是山中人 愛說山中話 五月賣松風 人間恐無價」が原拠である。芥川龍之介はこの二句を甚だ遺愛した。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集の特色

 

[やぶちゃん注:先に電子化注した「芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)」と同じく、大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告ページに他の参訂者は五人連名中に初出されたもの。底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。]

 

 鏡花全集の特色

 

 一 作品 泉先生の作品は小說、戲曲、隨筆の三方面に亙り、何れも天下無双の光彩を放つてゐる事は贅言するを待たないであらう。其取材構想は或は市井任俠の譚を捉へ、或は深山幻怪の事に及び、或は閨閤子女の情を寫し、あらゆる自然、あらゆる人生、あらゆる社會相を網羅してゐる。其又筆致行文は絢爛と蒼古とを併せ俱へ、殆ど日本語の達し得る最高の表現と稱しても好い。加之颯爽たる理想主義的人生觀は到る處に光芒を露し、如何に此偉大な藝術家の背後に偉大な思想家があるかを示してゐる。卽ち「鏡花全集」十五卷は明治大正の文藝のみならず、日本文藝の建造した一大金字塔と言はなければならぬ。

 二 編輯 編輯は泉先生自身之に從ひ、小山内薰、谷崎潤一郞、里見弴、水上瀧太郞、久保田萬太郞、芥川龍之介の諸氏が參訂の任に從つてゐる。泉先生の著作年月は三十餘年の久しきに亙つてゐるから、作品の敷も五百餘篇に及び、新聞雜誌に揭載された儘、單行本にならぬものは甚だ多い。泉先生の編輯方針はそれ等の斷簡零墨をも一つ殘らず集めた上、全體を小說、戲曲、隨筆の三方面に分ち、各方面それぞれ年代順に作品を排列する計畫である。卽ち「鏡花全集」十五卷は天才泉先生の精進の跡を示すのみならず、近代日本文藝史の最も光彩陸離たる一頁を造るものと言はなければならぬ。

 三 校正並びに印刷の體裁 校正並びに印刷の體裁等は小村雪岱、濱野英二の兩氏之に當り、職業的義務心を超越した獻身的情熱を注いでゐる。兩氏とも泉先生に親炙する事多年、先生の人格藝術に至大の尊敬を抱いてゐるから、坊間行はれる「全集もの」の校正並びに印刷の體裁とは自ら同日の談ではない。卽ち「鏡花全集」十五卷は字字魯魚の誤を脫し、行行珠璣の觀を具へた萬古の定本と言はなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:「閨閤」「けいかふ」(けいこう)は「閨房」と同じく「寝所」の意だが、特に「女子の居間」。転じて「女子」の意で、以下の「子女」との畳語。

「濱野英二」(生没年未詳)は編集者。早稲田大学英文科卒。明治四三(一九一〇)年に雑誌『金と銀』(後に『象徴』に受け継がれた)を鈴木十郎・牧野信一らと創刊した。泉鏡花の崇拝者で、後、この春陽堂版『鏡花全集』の編纂の中心的立場に立っていた(以上は岩波新全集の「人名解説索引」に拠った)。

「行行珠璣」「ぎやうぎやうしゆき」「珠璣」まるい玉(ぎょく)と角ばった玉。大小様々な美玉で、宝玉のような美しい文章を指す。]

芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告ページに他の参訂者(校訂にに加わった者)は五人連名中に初出されたもの。底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。

 注は若い読者を考え、難読なもののみに限って、読み、又は、意味を添えた。]

 

 鏡花全集目錄開口

 

 鏡花泉先生は古今に獨步する文宗なり。先生が俊爽の才、美人を寫して化を奪ふや、太眞閣前、牡丹に芬芬の香を發し、先生が淸超の思、神鬼を描いて妙に入るや、鄒湛宅外、楊柳に啾啾の聲を生ずるは已に天下の傳稱する所、我等亦多言するを須ひずと雖も、其の明治大正の文藝に羅曼主義の大道を打開し、艶は巫山の雨意よりも濃に、壯は易水の風色よりも烈なる鏡花世界を現出したるは啻に一代の壯擧たるのみならず、又實に百世に炳焉たる東西藝苑の盛觀と言ふ可し。

 先生作る所の小說戲曲隨筆等、長短錯落として五百餘篇。經には江戶三百年の風流を吞却して、萬變自ら寸心に溢れ、緯には海東六十州の人情を曲盡して、一息忽ち千載に通ず。眞に是れ無縫天上の錦衣。古は先生の胸中に輳つて藍玉愈溫潤に、新は先生の筆下より發して蚌珠益粲然たり。加之先生の識見、直ちに本來の性情より出で、夙に泰西輓近の思想を道破せるもの尠からず。其の邪を罵り、俗を嗤ふや、一片氷雪の氣天外より來り、我等の眉宇を撲たんとするの槪あり。試みに先生等身の著作を以て佛蘭西羅曼主義の諸大家に比せんか、質は擎天七寶の柱、メリメエの巧を凌駕す可く、量は拔地無憂の樹、バルザツクの大に肩隨す可し。先生の業亦偉いなる哉。

 先生の業の偉いなるは固より先生の天質に出づ。然りと雖も、其一半は兀兀三十餘年の間、文學三昧に精進したる先生の勇猛に歸せざる可からず。言ふを休めよ、騷人淸閑多しと。瘦容豈詩魔の爲のみならんや。往昔自然主義新に興り、流俗の之に雷同するや、塵霧屢高鳥を悲しましめ、泥沙頻に老龍を困しましむ。先生此逆境に立ちて、隻手羅曼主義の頽瀾を支へ、孤節紅葉山人の衣鉢を守る。轗軻不遇の情、獨往大步の意、俱に想見するに堪へたりと言ふ可し。我等皆心織筆耕の徒、市に良驥の長鳴を聞いて知己を誇るものに非ずと雖も、野に白鶴の迥飛を望んで壯志を鼔せること幾囘なるを知らず。一朝天風妖氛を拂ひ海内の文章先生に落つ。噫、噓、先生の業、何ぞ千萬の愁無くして成らんや。我等手を額に加へて鏡花樓上の慶雲を見る。欣懷破顏を禁ず可からずと雖も、眼底又淚無き能はざるものあり。

 先生今「鏡花全集」十五卷を編し、巨靈神斧の痕を殘さんとするに當り、我等知を先生に辱うするもの敢て謭劣の才を以て參訂校對の事に從ふ。微力其任に堪へずと雖も、當代の人目を聳動したる雄篇鉅作は問ふを待たず、洽く江湖に散佚せる萬顆の零玉細珠を集め、一も遺漏無からんことを期せり。先生が獨造の別乾坤、恐らくは是より完からん乎。古人曰「欲窮千里眼更上一層樓」と。博雅の君子亦「鏡花全集」を得て後、先生が日光晶徹の文、哀歡双双人生を照らして、春水欄前に虛碧を漾はせ、春水雲外に亂靑を疊める未曾有の壯觀を恣にす可し。若し夫れ其大略を知らんと欲せば、「鏡花全集」十五卷の目錄、悉載せて此文後に在り。仰ぎ願くは瀏覽を賜へ。

   大正十四年三月

 

[やぶちゃん注:「鏡花全集」泉鏡花数え五十三歳の大正一四(一九一五)年七月から刊行が始まり、昭和二(一九二七)年七月(奇しくも芥川龍之介自死の月であった。芥川の葬儀では鏡花が先輩総代として第一番に本人によって弔辞を読んでいる。私の『泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版(「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿と夥しく異なるという驚愕の事実が判明した) / 附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」』(ブログ版)を参照。PDF縦書サイト版もある。鏡花の自筆年譜のそこには、『七月、期に遲るゝこと八ケ月にして「全集」成る。この集のために、一方ならぬ厚意に預りし、芥川龍之介氏の二十四日の通夜の書齋に、鐵瓶を掛けたるまゝの夏冷き火鉢の傍に、其の月の配本第十五卷、蔽を拂はれたりしを視て、思はず淚さしぐみぬ。』と記されてある)に最終巻が配本された。全十五巻で、参訂者は小山内薫・谷崎潤一郎・里見弴・水上龍太郎・久保田万太郎、そして、芥川龍之介であった。

「太眞」かの玄宗の美妃楊貴妃の道号。

「鄒湛」(すうたん ?~二九九年頃)は西晋の官僚・文人。当該ウィキによれば、『若くして才能と学問で名を知られ、魏に仕えて通事郎・太学博士を歴任し』、『生前に書かれた詩や時事を論じた』二十五『首は、当時』、甚だ『重んじられた』とある。

「宅外、楊柳に啾啾の聲を生ずる」鄒湛の詩篇と思われるが、簡体字などを用い、いくら調べても、彼の詩篇に当たることは出来なかった。識者の御教示を乞うものである。

「濃に」「こまやかに」。

「啻に」「ただに」。

「炳焉」「へいえん」。明らかなさま。著しいさま。

たる東西藝苑の盛觀と言ふ可し。

「緯」「ゐ」。

「藍玉愈溫潤に」「らんぎよく。いよいよ、をんじゆんに」。

「蚌珠益粲然たり」「ばうしゆ、ますます、さんぜんたり。」。「蚌珠」は淡水産の斧足綱イシガイ目イシガイ科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata から採れる真珠。

「加之」「しかのみならず」。

「夙に」「つとに」。

「輓近」「ばんきん」。最近。

「擎天」「けいてん」。ここは、全世界の文芸を支えるところの貴重な存在の意。

「偉いなる哉」「おほいなるかな」。

「兀兀」「こつこつ」。凝っと腰を据えて物事に専心するさま。絶えず努めるさま。

「屢」「しばしば」。

「頻に」「しきりに」。

「困しましむ」「くるしましむ」。

「隻手」「せきしゆ」。(ただ先生お一人が、しかも)片手で。

「頽瀾」「たいらん」。波頭の崩れ落ちてゆく波。ここはロマン主義の衰退を指す。

「心織筆耕の徒」「しんしきひつかうのと」。ここは、「文学を活計とする者ども」の意。

「良驥」「りやうき」。千里を走る駿馬。転じて才能のある人物を指す漢語。

「白鶴」「はくかく」。同前。

「迥飛」「くゑいひ」(けいひ)。遙かに空高く舞い飛ぶこと。

「鼔せる」「こせる」。

「妖氛」「えうふん」(ようふん)。禍いを及ぼす悪しき気。妖気。

「海内」「かいだい」。

「噫」「ああ」。

「噓」「きよ」。感動詞的用法。長い溜息をつくことを意味する。

「辱うするもの」「かたじけなうする」。

「謭劣」「せんれつ」。あさはかで、劣っていること。

「校對」「かうつい」。校正。

「聳動」「しようどう」。恐れ、動揺すること。

「鉅作」「くさく」。傑作。

「洽く」「あまねく」。

「萬顆」「ばんくわ」。

「別乾坤」「べつけんこん」。

「完からん乎」「まつたからんか」。

「欲窮千里眼更上一層樓」。私も好きな、漢文の教科書にも載る、盛唐の詩人王之渙の五絶「登鸛雀樓」の著名な転・結句。通常、「眼」は「目」である。

   *

 登鸛雀樓

白日依山盡

黃河入海流

欲窮千里目

更上一層樓

  鸛雀樓(くわんじやくらう)に登る

 白日(はくじつ) 山に依りて 盡き

 黃河 海に入りて 流る

 千里の目(め)を窮めんと欲して

 更に上(のぼ)る 一層樓

   *

この「一層樓」を「一層の樓」と訓ずるのは、私は嫌いである。

「哀歡双双」哀しみと歓びとが二つながらともに。

「虛碧」「へききよ」。本来は「晴れ渡った青空」を指すが、ここは前後から春の水の流や淵の奥深い碧(あお)いそれを指す。

「漾はせ」「ただよはせ」。

「恣に」「ほしいままに」。

「瀏覽」「りうらん」(りゅうらん)。「くまなく目を通すこと」が第一義だが、ここは別に、「他人を敬って、その人の著作を閲覧すること」を言った謙遜表現。]

2023/05/11

宇野浩二 「龍介の天上」 / 異本底本二ヴァージョン同時電子化

 

[やぶちゃん注:以下は、宇野浩二(明治二四(一八九一)年~昭和三六(一九六一)年)が後に盟友となる芥川龍之介と知り合った(大正八(一九一九)年七月二十八日、江口渙の「赤い矢帆」出版記念会で龍之介は発起人の一人で、宇野は江口と旧知であった。当時、宇野二十八歳、龍之介二十七歳)、その僅か三ヶ月後の大正八年十一月に発表した童話「龍介の天上」(「りゆうすけのてんじやう」)の異本底本二ヴァージョンである。ネット上では電子化されていない模様である。

 増田周子(ちかこ)氏の「宇野浩二童話目録」(『千里山文學論集』五十一巻所収・関西大学大学院文学研究科院生協議会出版・一九九四年三月発行・「関西大学学術リポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード可能)によれば、本作は雑誌『解放』の大正八年十一月一日発行)第一巻第六号に載ったものが初出であるが、その初出には、「付記」があって、

   *

右はオランダ國の詩人、ラメエ、デタの著すところ「日本童話集」の中から、飜譯したものである。デタは幾多の詩集及び小說集の著者だと聞いてゐるが自分はまだそれ等を讀む機會を得ない。一はそれ等の英譯書がないからでもある。こゝに揭げた「龍介の天上」原名「鼻」は先に揭げた英譯書からの重譯で、所々固有名詞などは讀者の頭に入りよいやうにとの老婆心から、譯者が任意に變へたところもあることを斷つておく。尙デタの右の書物の中には、此の外色々興味の深い小說があるが、その中[やぶちゃん注:「うち」。]時々譯して讀者の淸鑑に資するつもりである。(譯者)

   *

とあった(原雑誌を私は確認出来ないが、以上の引用は正しく歴史的仮名遣で記されてあるので、初出「付記」に近づけるため、恣意的に漢字を正字化した)。

 さて。まず、

■第一番目のヴァージョンの底本は、童話の体裁をしっかり保持した、

国立国会図書館デジタルコレクションの宇野浩二の本篇を書名とした単行本童話集『龍介の天上』(敗戦後の昭和二一(一九四六弘文社)の正字正仮名の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちら(リンク先は本文開始冒頭。挿絵が左ページにある。但し、この挿絵は最終シークエンスのものである。標題ページは前のここ

を使用した。

 太字は底本では傍点「﹅」である。漢数字を除いて総てにルビ(但し、これを一般に「総ルビ」と称する)附されてあるが、五月蠅いだけなので、示した方が躓かないと判断した箇所にのみ、読みを附した。踊り字「〲」(ルビにのみある)は生理的に嫌いなので正字で示した。

 なお、一部、改行かどうかが物理的に判断出来ない箇所が一箇所あり、それは前後の表現様式から改行し、地の文内で改行しているにも関わらず、次行で一字空けがない箇所一箇所は、不自然なだけであるから、私の判断で一字下げを行った。また、直接話法の一箇所が文末に句読点等がなかったが、ここは句点よりも以前のシークエンスに徵して、口の中での唱えであっても、「!」であるべきでところと私は判断し、それらは特に注を入れぬが、底本と比べて戴ければ、判る。而して、この一番目の改行と、三番目の「!」は、電子化終了後に発見した以下に示した宇野の全集所載の、初出直後に書き変えたもので確認することが出來、私の判断した改行と「!」とになっていることが確認出来た。但し、二つめの改行はそちらでは、改行せずに続けているのであるが、私は底本の童話集を読んだ子どもたちの立場に立って、それに従わずに一字空け改行のままとして変更しないこととした。

 ところが、以上を電子化した後に、改めて国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、表記と内容が異なるものを(正字正仮名の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらに見出した。それが、

■第二番とした電子化ヴァージョンは『宇野浩二全集』第九巻(昭和四五(一九六九)年中央公論社刊)の正字正仮名の同名異稿

である。こちらは、第一ヴァージョンとは異なり、ルビが殆んどなく、漢字表記を格段に多く、表現にも異同が有意に見られ、特にコーダが異なる別ヴァージョンなのである。これは、同全集の「あとがき」によれば、大正九年一月聚英閣刊の単行本『海の夢山の夢』(他の資料で調べたところ、宇野の別な童話集の一冊で、一月十八日発行であるから、本篇初出から一月半後のことである)を底本としているとあるが、ルビが殆んどない点で、底本通りではないだろう。この状態では子供は読めないからである。いや、実は、これは童話の形を借りた、実際には、秘かに大人の読者をターゲットとして書かれたものであることが判然としてくるであろう。本ヴァージョンは、結末部分が大きく異なる点で、無視出来ないものであり、実は、時期的に見て、これこそが、或いは本篇の初出形に最も近い内容である可能性が高いと思われるので、煩を厭わず、後に続けて電子化した。

   *

 さて。実はいろいろと述べたいこと(種明かし)はあるのだが、読み始めると、まんず、芥川龍之介好き(宇野浩二ではない)の方なら、この話、何だか、モヤモヤしてくるに決まってる。……それらについては、二種のテクストを示した後、一番、最後に種明かしをすることと致そう。……まずは、まず、童話を、お楽しみあれかし!

 

 

■単行本童話集『龍介の天上』(昭和二一(一九四六)年弘文社刊)所収版

 

     

 

        

 今は昔、あるところに、龍介といふ、大へんいたづらずきな男がすんでゐました。

 龍介は、兩親には早く死にわかれたのですが、わづかながら財產を殘されましたので、別にこれといふしごともせずに、年中あそんでくらしてゐました。ですから、なほのこと、いたづらすることばかり考へてゐました。

 けれども、毎日のことですから、しまひにはそのいたづらの種もつきてしまひまして、なにもすることがなくて、退屈で退屈でこまつてゐました。

 ところが、ある日のこと、龍介は何かいたづらの種はないかと思つて、押入の中をかきさがしてゐますと、ふと片すみにへんな小箱があるのが目に止まりましたので、明けて見ますと、中に古ぼけた小さなつちがはひつてゐました。

「何だらう?」と思つて、しばらく首をかしげてゐましたが、やがて龍介は思はず膝をたたいて、

「これはいいものが見つかつた!」と喜びました。

 それは彼の父の金助(きんすけ)が死ぬときに、

「この中には小さなつちがはひつてゐる。これは家(うち)の大事な寶(たから)だからむやみに人に見せてはいけない。またお前もこれは一生に一度しか使つてはならないよ。だが、とにかく、その使ひ方を敎へておかう……」

 といつて、金助がせつめいするには、これはまことふしぎなつちで、たれか人に向つてこれを振りながら、こちらの思ふ高さになるまで、

「あの人の鼻高くなれ!」

 ととなへると、その人の鼻がいくらでも高くなるし、また

「その人の鼻低くなれ!」

 といふと、その人の鼻がいくらでもつちを振つてゐる間(あひだ)は低くなるといふのでした。

 龍介は、今それを思ひ出しますと、根がいたづらずきな上に、每日退屈でこまつてゐた時ですから、

「どうせ、人間は生身のからだだ。いつなんどき死ぬかも知れないのだから、さつそく使つてやらう。」

 と、かう思ひ立ました。

 ちやうど、その翌日が村のお祭で、鎭守のけいだいに芝居がかかりましたので、彼はそつとその小づちふところにして、何食はぬ顏をして、けんぶつに出かけました。

 見ると、龍介のすぐそばのせきに、おともの女中を三四人もつれた、それはそれはきれいな娘が、同じやうに見物に來てゐました。

 これは、きつとよほどよい家(うち)の娘にちがひないとは、たれが見ても思はれました。

 そこで、「同じためすなら、こんな娘に一つためしてやらう。」と思ひつきましたので、龍介はそつとふところから例の小づちを取り出しまして、誰(たれ)にも氣がつかれぬやうに、

「この娘の鼻高くなれ!」

 と口の中でとなへて見ました。

 すると、思つたとほり、そのきれいな娘の鼻が、見る見るうちに高くなつて行きました。

 面白いので、龍介はてうしに乘つて、いつまでも小づちを振りながら、

「この娘の鼻もつとのびろ、もつとのびろ!」

 と口の中でとなへつづけました。ところが、娘の鼻は、ずんずんのびて行つて、たうとう向ふの舞臺の背景につかへてしまひました。

 當人(たうにん)の娘はいふまでもありませんが、大ぜいの見物人も、みなみな目を見はつて、

「おやおや、あの肉の柱(はしら)のやうなものは、あれは一たいなんだらう?」

 と口々(くちぐち)にさけびながら、よく見ますと、その柱の根もとが、きれいな娘の鼻なのですから、びつくりしてしまひました。

 そのうちに、舞臺でしばゐをしてゐた役者たちも、しばゐが出來なくなつたものですから、さわぎ出しました。

 しかし、どうにも手のつけやうがありません。

 そのうちに、娘の家(うち)に知らせにゆく者なぞがありしたので、家(うち)からはお醫者やら、人足(にんそく)やらがかけつけて來ました。さうして、やつとのことで、まるで神輿(みこし)をかつぐほどの人數(にんず)で、大の男が大(おほ)ぜいよつて、その鼻をかついで娘を家(いへ)へつれてかへることになりました。[やぶちゃん注:「人足」はこの場合、この豪家に、常時、雇われている、主に荷物の運搬や普請などの力仕事に従事している人夫を指すのであろう。]

 いつの間(ま)にか、それを聞きつたへてあつまつて來た人人(ひとびと)で、娘のとほる道すぢは、けが人が出來(でき)るほどのさわぎでした。

 娘ははづかしいやら、苦しいやらで、氣をうしなつてしまひました。

 やがて、やうやうのことで娘を家(うち)につれて歸りましたが、門(もん)をくぐるのにも、げんくわんを通るのにも、なかなかてまが取れました。それに、今までのやうに、四疊半(でふはん)の部屋では、鼻だけでもはひりきれませんので、幾間(いくま)も部屋をあけはなして、やうやうのことで橫向きに娘をねかしました。

 それから、村の醫者はいふにおよばず、方々(はうばう)の村々、遠方の町々から、呼べるだけのお醫者を呼んで、なんとかちれうをしてくれと賴みましたが、どの醫者もどの醫者も、

「こんなふしぎな病氣は、今まで話にも聞いたことがありません。どんな本を見ても、こんな病氣のことは出てゐません。いくらお禮をいただいても、私どもに手の下(くだ)しやうがありません。」

 といひました。

 さういふわけで、どうにも手のつけやうがなく、家中(うちぢゆう)の者はただうろうろとしてゐるばかりでした。

 兩親はいふにおよばず、あつまつて來たしんるゐの人たちも、途方にくれて、泣いてゐるばかりでした。

 そのうちに、氣つけぐすりだけはきゝましたので、きぜつしてゐた娘はやつと正氣にかへりましたが、そのために、娘はなほのこと、はづかしいのと、苦しいのとで、一晩ぢゆう泣きつづけました。

 すると、その翌朝(よくあさ)のことでした。おもての通(とほり)を、

「どんななんびやうでも、ちれうするまじなひ! まじなひ!」

 と呼びながら、りつぱな房(ふさ)のついた、そのくせ小さな、古ぼけたつちをふりながら、通る男がありましたので、なんでもためしに呼んで見ようといふので、さつそくその男をむかへました。

 その男とは、いふまでもなく、いたづら者の龍介であります。

 龍介はさつそく病室に通されますと、しさいらしく病人をしんさつするまねをしてから、

「これはめづらしい病氣です。が、御安心なさい。きつと私(わたくし)がなほして上げます。」

 と、いかにもえらさうにいひました。

「なほりますか?」

 と娘の親は、うれしさに、とび立つやうな聲を上げて、

「もしなほりましたら、娘はあなたにさし上げませう。また、あなたがおひとり身なら、どうぞ娘のむこになつて下さい。そして、この家(うち)の後(あと)をとつて下さい!」といひました。

 そこで、龍介はもつたいをつけて、長い間、口の中ででたらめおまじなひのやうなことを唱(とな)へてから、れいの小づちを手に持つて、それをうやうやしくふりながら、口の中で人には聞えぬやうに、

「この娘の鼻低くなれ、低くなれ!」

 といひますと、さしもの長い鼻が、しだいしだいに低くなつて、わけなくもとの通りになりました。

 娘はいふまでもなく、兩親の喜びは口でいへないほどでした。

 そこで約束どほり、龍介はその娘のむこになって、まんまとその家の若主人(わかしゆじん)となることになりました。

 で、さつそく、今まで、娘の鼻のために、ぶツ通しにあけてあつた部屋を式場にして、そこに赤いまうせんをしくやら、床の間に花をいけるやら、金びやうぶを立てるやら、大さわぎをして、めでたいこんれいの式をあげました。

 

        

 

 さて、なにをいふにも、龍介はその家(うち)の一人娘の命(いのち)の親(おや)のやうな者ですから、一家(か)の人人(ひとびと)に大へん大事にされましたので、今までよりももつともつときらくな身分になりました。それとともに、からだがますますひまになりましたので、性來(しやうらい)のいたづらずきな龍介には、まつたくもつてこいの身分なのでした。

 それにこの家(うち)は、近在(きんざい)での、第一番の物持(ものもち)でしたから、したいはうだいのことが出來るわけで、又どんなことをしても、けつして誰(たれ)もしかるものはありませんでした。

 それといふのも、みな死んだ父の金助がのこしてくれた、あの寶の小づちのおかげだと思ふと、龍介はつくつく父の金助をありがたいと思ひました。

 が、また、一生に一度しか使つてはいけないといふゆゐごんを思ひ出しますと、ふふくでなりませんでした。もう自分が生きてゐるうちに、あれが使へないのかと思ふと、なんだか使つてしまつたのを、後悔するやうな氣にさへなりました。[やぶちゃん注:「ゆゐごん」戦前には、この歴史的仮名遣が通用していたが、現在は歴史的仮名遣としても「ゆいごん」が正しいとされている。]

 それにしても、いくらしたいはうだいのいたづら出來る身分なつたとはいひながら、すぐそのいたづらの種がつきてしまひましたので、また前のやうな退屈な日を送らねばならなくなりました。

 秋とはいひながら、じこうはまだ夏のとほりで、朝から家(うち)の中が暑くてたまりませんので、龍介は、庭のふんすゐのそばの草原にねころんで、凉(すゞ)しい風に吹かれてゐました。[やぶちゃん注:「ふんすゐ」これも敗戦前は、かく書かれることが圧倒的であったが、中国音韻の研究が進んで、現在は「噴水」の歴史的仮名遣は「ふんすい」でよい。]

 やがて、晝飯もそこへはこばせて、腹ばひになつてそれを食べてしまひますと、又ごろりとあふむけになつて、なにか面白いいたづらをすることがないか、と、しきりに考へてゐました。

 さうして、ぼんやりとして、高い、靑い空を見上げたり、また低く目をおとして、すぐ自分の鼻のさきをながめたりしてゐますと、ふとこの自分の鼻がれいの小づちでどのくらゐのびるものか、ためして見たくなりました。

 さう思ひたつと、龍介は、

「一生に一度しか使つてはならぬ。」

 といふ死んだ父のゆゐごんも何も忘れてしまひました。

 ちやうど、晝休みのじぶんで、家の者たちはみんな晝ねをしてゐるやうでしたから、

龍介はそつと自分で小づちを持ち出して來まして、またもとのところで仰向けになつて寢ころびながら、

「おれの鼻高くなれ、高くなれ!」

 かう口の中でとなへながら、少しも休まずに、大いそぎで小づちをふりはじめました。

 すると、鼻はだんだんのびて行つて、見る見るうちに、たうとう雲の中(なか)まで入つて行きましたが、てうしに乘つた龍介は、それでもなほ止(や)めないで、

「もつとのびろ、もつとのびろ!」

 と、いつまでもいつまでも、小づちをふつてゐました。

 そのうちに、眠氣(ねむけ)がさして來て、うとうとしながらも、やつぱり少しも小づちをふる手を止(や)めないで、むちゆうで、

「もつとのびろ、もつとのびろ!」といつてゐました。

 と、とつぜん、遠くの鼻のさきの方(はう)が、ちくりちくりと痛むのを覺えましたので、龍介はびつくりして、目をさましました。

 龍介は急にあわて出して、

「俺の鼻ちぢまれ、ちぢまれ!」

 と、となへながら、あらためて大いそぎで、小づちをふりはじめました。が、もう、その時は、いつの間にか、誰(たれ)が見つけるともなく見つけて、家(うち)の人人(ひとびと)も、村の人人も、さてはよその村の人人も、思ひ思ひに一かたまりになつて、このふしぎなありさまを眺めてさわぎ出しました。

 龍介は、それと知ると、きまりが惡いやら、何やらでますますあわてて、むちゆうで小づちをふりまはしましたが、遠くの方の鼻のさきの痛さは、少しもなほらないばかりでなく、ふしぎなことには、小づちをふつて、

「ちぢまれ、ちぢまれ!」

 といふ度(たび)に、だんだん自分のからだが、地べたをはなれて、持ちあがつてゆくのです。

 これは一たいどうしたわけかといふと、龍介の鼻はいつの間にか天までとどいてゐたので、それが天の川の川上の、たなばた川(がは)といふ川をつきぬけたのです。すると、ちやどそのたなばた川で、橋をかける工事中だったので、とつぜん川の中からぬツと突き出て來た、ゑたいのしれない柱に、人々は一時(じ)はびつくりしましたが、天國の人人は、地上の龍介よりはもつといたづらずきと見えて、これはさいはひ橋ぐひにいいといふので、にはかにそれに穴をあけてよこげたをさしこんだのでした。

 龍介が遠くの鼻のさきに痛みをおぼえて、目をさましたのは、その時でした。

 ですから、いくら「俺の鼻短くなれ!」と叫んだところが、なるほど鼻は短くなつて行くのですが、さきを止められたものですから、からだの方が持ち上げられて行くわけなのでした。

 けれども、如何(いか)にりこうな龍介も、そんなこととは知りませんから、ますますあわてて、

「おれの鼻短くなれ、短くなれ!」

 とさけびながら、やたらに小づちをふりましたが、さうすればさうする程、からだがだんだん上にあがつて行くのでした。

 そのうちに、にはかに空がくもつて來て、ぴかぴかと電(おなづま)が光つて、雷(かみなり)がなりはじめたかと思ふと、たちまち、さつと夕立がふつて來ました。その中を龍介のからだは、ばたばたと手足をはんもんさせながら、上へ上へと上(あが)つて行きましたが、さつきからあまり小づちをふりつづけてゐましたので、手がしびれて來ました上に、夕立にはげしく打(う)たれたために、その手が次第に冷たくかじかんでしまつたものですから、たうとう天まで行(ゆ)かないうちに、小づちをおとしてしまひました。[やぶちゃん注:最後の「小づち」の「づち」は傍点がないのは、ママ。]

 ですから、龍介は、いまだに雨が降つても、風が吹いても、雷が鳴つても、天にもとどかず、地にも落ちず、雲の中に宙(ちう)ぶらりになつてゐるさうです。

 

 

■『宇野浩二全集』第九巻(昭和四五(一九六九)年中央公論社刊)の所収版

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。ルビは完全に採用した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部、物理的に改行かどうかが判らない部分は、私の判断で改行した箇所がある。特にそれは指示しない。]

 

 龍介の天上

 

        

 

 今は昔、あるところに、龍介といふ、大變いたづら好な男が住んでゐました。彼は、兩親には早く死に別れたのですが、僅ながら財產を殘されましたので、別にこれといふ仕事もせずに、年中遊んで暮らしてゐました。ですから、尙のこと、いたづらすることばかり考へてゐました。けれども、毎日のことですから、終(つひ)にはそのいたづらの種も盡きてしまつて、何もすることがなくて、退屈で退屈で困つてゐました。

 ところが、或日のこと、龍介は何かいたづらの種はないかと思つて、押入の中を搔き探してゐますと、ふと片隅に變な小箱があるのが目に止りましたので、開けて見ますと、中に古ぼけた小さな槌が入つてゐました。

「何だらう?」と思つて、暫く首を傾(かし)げてゐましたが、やがて龍介は思はず膝を叩いて、「これはいゝものが目付(めつ)かつた!」と喜びました。それは彼の父の金助が死ぬ時に、

「この中には小さな槌がはひつてゐる。これは家(うち)の大事な寶だから無暗に人に見せてはいけない。又お前もこれは一生に一度しか使つてはならないよ。だが、兎に角、その使ひ方を敎へておかう……」と言つて、金助が說明するには、これは誠不思議な槌で、誰か人に向つて、これを振りながら、こちらの思ふ高さになるまで、「あの人の鼻高くなれ!」と唱へると、その人の鼻がいくらでも高くなるし、又「その人の鼻低くなれ!」といふと、いくらでも槌を振つてゐる間は低くなると言ふのでした。

 龍介は今それを思ひ出しますと、根がいたづら好きな上に、每日退屈で困つてゐた時ですから、「どうせ、人間は生身のからだだ。いつ何時死ぬかも知れないのだから、早速使つてやらう。」と斯う思ひ立ました。で、丁度、その翌日が村のお祭で、鎭守の境内に芝居が掛りましたので、彼はそつとその小槌をふところにして、何食はぬ顏をして、見物に出かけました。

 見ると、龍介のすぐ傍(そば)の桝に、お供の女中を三四人も連れた、それはそれは奇麗な娘さんが、同じく見物に來てゐました。これは、屹度餘程よい衆の娘に違ひないとは、誰が見ても思はれました。そこで、同じ試すなら、こんな娘に一つ試してやらう、斯う思ひつきましたので、龍介はそつと懷から例の小槌を取り出しまして、誰にも氣がつかれぬやうに、それを振りながら、

「この娘の鼻高くなれ!」と口の中で唱へて見ました。すると、案の定、その奇麗な娘の鼻が、見る見るうちに高くなつて行きました。面白いので、龍介は調子に乘つて、いつ迄も小槌を振りながら、「この娘の鼻もつと延びろ、もつと延びろ!」と口の中で唱へつゞけましたところが、娘の鼻は、ずんずん延びて行つて、到頭向うの舞臺の背景に迄つかへてしまひました。

 當人の娘は言ふ迄もありませんが、おほ勢の見物人も、みなみな目を見張つて、

「おやおや、あの肉の柱のやうなものは、あれは一體なんだらう!」と口々に叫びながら、よく見ますと、その柱の根元が、奇麗な娘の鼻なのですから、吃驚(びつくり)してしまひました。そのうちに、舞臺で芝居をしてゐた役者たちも、芝居が出來なくなつたものですから、騷ぎ出しました。

 しかし、どうにも手の附けやうがありません。そのうちに、娘の家に知らせに行く者なぞがありしたので、家からはお醫者やら、人足(にんそく)やらが駈けつけて來ました。そして、やつとのことで、まるで神輿をかつぐ程の人數で、大の男がおほ勢寄つて、その鼻をかついで、娘を家へ連れて歸ることになりました。いつの間にか、それを聞き傳へて集つて來た人々で、娘の通る道筋は、怪我人が出來るほどの騷でした。娘は恥しいやら、苦しいやらで、氣を失つてしまひました。

 やがて、漸くのことで娘を家に連れて歸りましたが、門をぐゞるのにも、玄關を通るのにも、中々手間が取れました。それに、今迄のやうに、四疊半の居間では、鼻だけでもはひり切れませんので、幾間も部屋を明け放して、漸うのことで橫向きに娘を臥(ね)かしました。それから、村の醫者は言ふに及ばず、方々の村々、遠方の町々から、呼べるだけのお醫者を呼んで、何とか治療をしてくれと賴みましたが、どの醫者もどの醫者も、

「こんな不思議な病氣は、今まで話にも聞いたことがありません。どんな本を見ても、こんな病氣のことは出てゐません。とても、いくらお禮をいたゞいても、私(わたし)どもに手の下(くだ)しやうがありません。」と言ひました。

 さういふ譯で、どうにも手の附けやうがなく、家中(うちぢゆう)の者は唯うろうろとしてゐるばかりでした。兩親は言ふに及ばず、集つて來た親類の人たちも、途方に暮れて、泣いてゐるばかりでした。そのうちに、氣附藥だけはきゝましたので、氣絕してゐた娘はやつと正氣にかへりましたが、そのために娘は尙のこと、恥かしいのと苦しいのとで、一晩ぢゆう泣きつゞけました。

 すると、その翌朝(よくてう)のことでした。表の通を、「どんな難病でも、治療するまじなひ! まじなひ!」と呼びながら、立派な房のついた、その癖小さな、古ぼけた槌を振りながら、通る男がありましたので、何でも試しに呼んで見ようといふので、早速その男を迎へました。

 その男とは、言ふ迄もなく、いたづら者の龍介であります。龍介は早速病室に通されますと、仔細らしく病人を診察する眞似をしてから、

「これは珍しい病氣です。が、御安心なさい。屹度私がなほして上げます」と、如何にも自信ありげに、言ひますと、

「なほりますか?」と娘の親は、嬉しさに、飛び立つやうな聲を上げて、「もしなほりましたら、娘はあなたにさし上げませう。また、あなたがお獨り身なら、どうぞ娘の婿になつて下さい。そしてこの家(いへ)の後(あと)をとつて下さい!」と言ひました。

 そこで、龍介は勿體をつけて、長い間、口の中で出鱈目のおまじなひのやうなことを唱へてから、さて例の小槌を手に持つて、それを恭々しく振りながら、口の中で聞えぬやうに、

「この娘の鼻低くなれ、低くなれ!」と言ひますと、さしもの長い鼻が、次第々々に低くなつて、難なく元の通りになりました。

 娘はいふ迄もなく、兩親の喜びは口で言へないほどでした。そこで約束通り、龍介はその娘の婿になって、まんまとその家の若主人となることになりました。で、早速、今まで、娘の鼻のために、ぶツ通しに開(あ)けてあつた部屋を式場にして、そこに赤い毛氈を敷くやら、床の間に花を活けるやら、金屛風を立てるやら、大騷ぎをして、目出たい婚禮の式を擧げました。まづは、めでたし、めでたし。

 

        

 

 さて、何を言ふにも、龍介はその家(うち)の一人娘の命の親のやうな者ですから、一家の人々に大へん大事にされましたので、今迄よりももつともつと氣樂な身分になりました。それと共に、からだが益々暇になりましたので、性來のいたづら好な龍介には、まつたくもつてこいの身分なのでした。

 それに、この家は近在での、第一番の物持でしたから、したい放題のことが出來るわけで、又どんなことをしても、決して誰も叱る者はありませんでした。それといふのも、みな死んだ父の金助が殘してくれた、あの寶の小槌のお蔭だと思ふと、龍介はつくづく父の金助を有難いと思ひました。が、また、一生に一度しか使つてはいけないといふ遺言を思ひ出しますと、不服でなりませんでした。もう自分が生きてゐるうちに、あれが使へないのかと思ふと、何だか使つてしまつたのを、後悔するやうな氣にさへなりました。それにしても、いくらしたい放題のことが出來る身分とは言ひながら、直(すぐ)もうするいたづらの種が盡きてしまつて、又以前のやうな退屈な日を送らねばならなくなりました。

 或秋の始めのことでした。秋とはいひながら、時候はまだ夏のとほりで、朝から家の中が暑くてたまりませんので、龍介は庭の噴水の傍の草原に寢轉んで、涼しい風に吹かれてゐました。やがて、晝飯もそこへ運ばせて、腹這ひになつてそれを食べてしまふと、又ごろりと仰向けになつて、何か面白いことがないか、と頻(しきり)に考へてゐました。

 さうして、ぼんやりとして、高い、靑い空を見上げたり、又低く目を落して、すぐ自分の鼻の尖(さき)を眺めたりしてゐますと、ふとこの自分の鼻が例の小槌でどの位延びるものか、試して見たくなりました。さう思ひ立つと、龍介は、「一生に一度しか使つてはならぬ」といふ、死んだ父の遺言も何も忘れてしまひました。丁度、晝休みの時分で、家の者たちは皆晝寢をしてゐるやうでしたから、彼はそつと自分で小槌を持ち出して來まして、また元の所で仰向けになつて寢轉びながら、

「俺の鼻高くなれ、高くなれ!」

 斯う口の中で唱へながら、少しも休まずに、大いそぎで小槌を振り始めました。すると、鼻はだんだん延びて行つて、見る見るうちに、到頭雲の中まで入つて行きましたが、調子に乘つた龍介は、それでも尙止(と)めないで、

「もつと延びろ、もつと延びろ!」と、いつ迄もいつ迄も、小槌を振つてゐました。そのうちに眠氣がさして來て、うとうとしながらも、やつぱし少しも小槌を振る手を止めないで、夢中で「もつと延びろ、もつと延びろ!」と言つてゐました。と、突然、遠くの鼻の尖の方が、ちくりちくりと痛むのを覺えましたので、龍介はびつくりして、目を醒しました。

 龍介は急にあわて出して、

「俺の鼻縮まれ、縮まれ!」と唱へながら、改めて大急ぎで、小槌を振り始めました。が、もう、其時は、いつの間にか、誰が目付(めつ)けるともなく目付けて、家の人々も、村の人々も、さてはよその村の人々も、思ひ思ひに一團になつて、この不思議な有樣を眺めて騷ぎ出しました。龍介は、それと知ると、氣まりが惡いやら、何やらで、益々あわてゝ、夢中で小槌を振り𢌞しましたが、遠くの方の鼻の尖の痛さは、少しもなほらないばかりでなく、不思議なことには、小槌を振つて、「縮まれ、縮まれ!」と言ふ度に、だんだん自分のからだが、地面を離れて、持ち上つて行くのです。

 これは一體どうした譯かと言ふと、龍介の鼻はいつの間にか天までとゞいてゐたので、それが天の川の川上の、あくた川といふ川を突き拔けたのです。すると、丁度そのあくた川で、橋を架ける工事中だったので、突然川の中からぬツと突き出て來た、異樣な柱に、人々は一時は吃驚しましたが、天國の人々は、地上の龍介よりは更にいたづら好と見えて、これはさいはひ橋杭にいゝといふので、俄にそれに穴をあけて橫桁をさし込んだのでした。

 龍介が遠くの鼻の尖に痛みを覺えて、目を醒ましたのは、その時で、それからいくら「俺の鼻短くなれ!」と叫んだところが、なる程鼻は短くなつて行くのですが、尖を止められたものですから、からだの方が持ち上つて行くわけなのです。

 けれども、如何に利口な龍介も、そんなこととは知りませんから、益々あわてゝ、「俺の鼻短くなれ、短くなれ!」と叫びながら、矢鱈に小槌を振りましたが、さうすればさうする程からだが段々上に上(あが)つて行くのでした。

 そのうちに、俄に空が曇つて來て、ぴかぴかと電(いなづま)が光つて、雷が鳴り始めたかと思ふと、忽、さつと夕立が降つて來ました。その中を龍介のからだは、ぱたぱたと手足を煩悶させながら、上へ上へと上つて行きましたが、さつきから餘り小槌を振りつゞけてゐましたので、手がしびれて來ました上に、夕立に激しく打たれたために、次第に冷たく凍(かじ)かんでしまつたものですから、到頭天まで行かない小槌をおとしてしまひました。(その後(のち)、その小槌を拾つたのは、大黑といふ大へん肥つた男だともいひますし、又一說には、心王羅漢とかいふ、これも大へん肥つた男が、實はそつと拾つて持つてゐるといふことです。)[やぶちゃん注:「ぱたぱた」はガンマ補正をかけて、周囲のそれらと比較した結果、濁点ではなく、半濁点と判断した。また、最後の丸括弧部分は第一ヴァージョンにはない。]

 餘談はさておき、ですから、龍介はいまだに雨が降つても、風が吹いても、雷が鳴つても、天にもとゞかず、地にも落ちず、雲の中に宙ぶらりになつてゐるさうです。(今では又、彼はすつかりをさまつてしまつて、俺は雲を起し、風を吹かす、傀儡師だと言つて、威張つてゐるとも言ひます。)[やぶちゃん注:最後の丸括弧部分も第一ヴァージョンにはない。]

 けれども、下界の人々はそんなことは知りませんから、龍介は天上したのだと思つてゐます。めでたし、めでたし。[やぶちゃん注:この最終段落も第一ヴァージョンにはない。]

 

[やぶちゃん注:再度示すと、本篇を宇野浩二が発表したのは大正八(一九一九)年十一月である。

 而して、芥川「鼻」は、大正五(一九一六)年二月十五日に『新思潮』に発表され、それが夏目漱石(本名は夏目である)の激賞を受けて、華々しく文壇にデビューしたことも御存知の通りである。「鼻」を含む芥川龍之介の処女作品集『羅生門』の刊行は大正六(一九一七)年五月(阿蘭陀書房)刊である。

 私は古くに、宇野の盟友芥川龍之介を追懐した力作である「芥川龍之介」を、ブログ・カテゴリ『宇野浩二「芥川龍之介」』で七十七分割で電子注し、直後にサイト版として、それらをブラッシュ・アップして、上巻一括及び下巻一括とに二分割して公開しているが、ブログ分割版の「宇野浩二 芥川龍之介 六」で、宇野自身が、この「龍介の天上」について述べているので読まれたいが、冒頭注で宇野が述べた初出の付記にある、『オランダ國の詩人、ラメエ、デタの著すところ「日本童話集」』という原拠は、「デタ」「ラメエ」=「出鱈目」であり、本篇は、宇野浩二の確信犯の芥川龍之介に対する、かなり露骨にして辛辣なカリカチャライズされた童話仕立てにした揶揄(からか)いの小品なのであり、宇野自身が以上の「六」で、『私はこの童話を作ってから、自分ながら、これはちょっとおもしろいと思ったので、その二三の友だちに話すと、そのなかで廣津と鍋井克之が、それはおもしろいから、童話の雑誌に出さないで、普通の雑誌に出したら、といった。それで、鍋井が顧問のようになっていた、解放社[註―この解放社の社長は鍋井や私と中学の同窓であった]から出している「解放」に出すことにした。それで、私は、ふと、思いついて、この童話の主人公を龍介という名にし、『龍介の天上』という題にし、ついでに、『たなばた川』を『あくた川』とかえる事にした。これは、いうまでもなく、芥川の出世作『鼻』をおもいだし、芥川をからかってみたくなったのである。』とあるのである。「六」の最後に以下のようにある。

   *

 ところが、この『龍介の天上』が発表されてからまもなく、あう人あう人が、私にちかいうちに、『宇野浩二撲滅号』という雑誌が出るそうである、そうして、その音頭取〔おんどとり〕は芥川龍之介だそうである、そうして、その雑誌は、「文章世界」だとか、「新潮」だとか、「秀才文壇」だとか、つたえる人によって、まちまちであった。私は、当時三十九歳の青年であったが、そんな事はまったく信じられなかった。ところが、改造社の社長であった、山本実彦さえ、その頃のある日、その事をつたえながら、「しつかりやりなさい、私はできるだけ後押ししますから、」といったが、「もしそんな事があったら、まだ無名の僕が得しますから、……が、そんなこと噓ですよ、」と、私は、いった。

 そうして、それは、私がいったとおり、まったくの流言であった。

 さて、私がはじめて芥川と顔をあわしたのは、大正九年の、たしか、七月頃、江口 渙の短篇集『赤い矢帆』の出版記念会が、万世橋の二階の「みかど」という西洋料理店であった。(この「みかど」はその頃の文学者の会合のよく行〔おこな〕われたところである。)この会の発起人であり世話役であったのは、たしか、芥川である。芥川は、その前の前の年(つまり、大正六年)の六月に開かれた、自分の『羅生門』の出版記念会、江口の世話あったので、その礼のつもりであったのだ。芥川にはこういう物堅い実に謹直なところがあった。これは芥川の友人たちにとって忘れがたい美徳であった。(これを書きながら、またまた、私情をのべると、私は涙ぐむのである。私の目から涙がながれるのである。ああ、芥川は、よい人であった、感情のこまかい人であった。深切な男であった。昨日も、廣津がいった。芥川が死んだ時だけは悲しかった、あの朝、銀座であった、吉井 勇も、やはり、悲しい、といった、と。)

 さて、その『赤い矢帆』の会では、長いテエブルの向う前に人びとが腰をかけた、江口が正座に、江口の右横に芥川が、江口のむかいに廣津が、廣津の左横に私が、それぞれ、席についていた。そのテエプルにむかいあって腰かけていた人たちは、おもいおもいに、雑談をしていた。といって、話をするのは、となり同士か、せいぜい一つおいた隣の人であった。私は、そういう会になれていなかったので、たいてい、となりの廣津とばかり、話をしていた。と、突然、むこう側の三人目の席の方から、

「宇野君、……僕が君を撲滅する主唱者になるって噂があったんだってね、おどろいたよ、僕は、それを聞いて……」と、芥川が、いった。

「……もし、それが、本当だったら、君なら、相手にとって、不足はないよ、」と私がこたえた。

 これが、つまり、私が芥川とはじめて逢った時の思い出である。

   *

とあるのである。ここには、事実の時制との決定的齟齬がある。これは、宇野の記憶違い、或いは、病的な(後述)記憶齟齬があると考えてよい。

 ともかくも、この露骨な宇野の行為を、寧ろ、芥川龍之介は好意的に捉え、以降、逆に宇野浩二と非常に懇意となり、芥川の最晩年、宇野が重い精神疾患を発症した際にも(後に脳梅毒によるものと判明している。宇野が入院している最中に芥川龍之介は自殺しているが、後に固定治癒している。私が「固定」と添えている理由は、発症以前と、治癒の後の彼の文体に、かなり激しい変異が見られると考えているからである)、率先して、彼の入院や、家族への気配りをしていることも、よく知られている。

 このかなりキツい小説を読みながら、私は、後の二人の固い友情の形成を、正直。羨ましく思うのである。

 また、第二ヴァージョンの「大黑といふ大へん肥つた男」「心王羅漢とかいふ、これも大へん肥つた男」というのも、恐らく特定人物のカリカチャーで、例えば、芥川作品の御用達であった『中央公論』の編集長の滝田樗陰とか、『大阪毎日新聞』社学芸部部長で、芥川龍之介を社員として招聘した詩人薄田泣菫などを想起するが、これは私の思いつきに過ぎず、「小槌」を持っている肥った作家となれば、芥川龍之介のライバル谷崎潤一郎なども浮かぶ。

 なお、本篇には、発表時期が以上の二つの間に当たる時期の、昭和七(一九三二)年十月に刊行された宇野の童話集『海こえ山こえ』 (春陽堂・『少年文庫』第十一)の中に、「長鼻天つく」という標題に変えた、別ヴァージョンが。今一つ、ある。ただ、その内容は、ほぼ、先に掲げた、「■単行本童話集『龍介の天上』(昭和二一(一九四六)年弘文社刊)所収版」と同じで、最後に、『何(なに)といたづらのばつは恐(おそ)ろしいではありませんか。』(太字は原本では傍点「﹅」)と添えてあるもので、私には、電子化する食指が全く動かない。幸い、これは、国立国会図書館デジタルコレクションで、『ログインなしで閲覧可能』の『インターネット公開(保護期間満了)』であり(当該篇はここから)、誰もが視認出来るので、見られたい。宇野は芥川龍之介の自死後、病気から恢復した、推定で、遅くとも、昭和五、六年頃に(この時期、宇野は盛んに童話を書いている。当該ウィキを参照されたい)、芥川龍之介を辛辣に弄った初出形を、せめても、自殺を決意していながら、最後まで自分を労わって呉れた龍之介との、出逢いの思い出の形見として、ソフトに変容させ(標題の変更が明らかにそれを意味していると私は思う)、書き直しをしていたことが判然とするのである。

 最後に。龍介は娘を貰って結婚しているが、芥川龍之介は、この前年の大正七年二月二日に文と婚姻している。しかし、私は龍介が、騙して女を手に入れているのが、妙に、気になるのである。無論、これは偶然なのだが、実は、この大正八年の九月、芥川龍之介は、秀しげ子と深い不倫関係に堕ちていることが、真っ先に想起されたからである。]

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