[やぶちゃん注:現在進行中の「蘆江怪談集」の注に必要となったため、電子化注した。
本篇の初出は、大正六(一九一七)年九月一日発行の雑誌『黑潮』に掲載され、後の第二作品集「煙草と惡魔」(新潮社『新進作家叢書』第八編・大正六年十一月十日発行)に所収された。なお、当時の芥川龍之介は満二十五歳で、海軍機関学校の英語教官時代であり、横須賀に下宿していた。
底本は旧岩波版『芥川龍之介全集』の「第一卷」(一九七七年刊)を使用した。なお、加工データとして「青空文庫」の新字新仮名の同作のテキスト・ファイル(入力:j.utiyama氏/校正:かとうかおり氏)を、ここからダウン・ロードして使用させて頂いた。ここに御礼申し上げる。本篇はごく一部を除き、ルビがない。若い読者が躓くかも知れないと思う箇所には、《 》で私の推定の読みを歴史的仮名遣で挿入した。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字とした。傍点「﹅」は太字に代えた。注は、一部を所持する筑摩書房『筑摩全集類聚』版「芥川龍之介全集」第一巻(昭和四六(一九七一)年三月刊)を参考にしようとしたが、既に注が古びており、『不詳』が多くて、殆んど使い物にならない。概ね、ネットを駆使して施した。]
二つの手紙
或機會で、予は下に揭げる二つの手紙を手に入れた。一つは本年二月中旬、もう一つは三月上旬、――警察署長の許へ、郵稅先拂ひで送られたものである。それをここへ揭げる理由は、手紙自身が說明するであらう。[やぶちゃん注:「郵稅先拂ひ」郵便料金を受取人が支払う方法。この仕儀自体が、相手の精神状態を疑わせる伏線である。]
第一の手紙
――警察署長閣下、
先ず何よりも先に、閣下は私の正氣だと云ふ事を御信じ下さい。これ私があらゆる神聖なものに誓つて、保證致します。ですから、どうか私の精神に異常がないと云ふ事を、御信じ下さい。さもないと、私がこの手紙を閣下に差上げる事が、全く無意味になる惧があるのでございます。その位なら、私は何を苦しんで、こんな長い手紙を書きませう。
閣下、私はこれを書く前に、ずゐぶん躊躇致しました。何故かと申しますと、これを書く以上、私は私一家の祕密をも、閣下の前に暴露しなければならないからでございます。勿論それは、私の名譽にとつて、可成大きな損害に相違ございません。しかし事情はこれを書かなければ、もう一刻の存在も苦痛な程、切迫して參りました。こゝで私は、遂に斷乎たる處置を執る事に、致したのでございます。
さう云ふ必要に迫られて、これを書いた私が、どうして、狂人扱ひをされて、默つて居られませう。私はもう一度、こゝに改めてお願ひ致します。閣下、どうか私の正氣だと云ふ事を御信用下さい。さうして、この手紙を御面倒ながら、御一讀下さい。これは私が、私と私の妻との名譽を賭して、書いたものでございますから。
かやうな事を、くどく書きつづけるのは、繁忙な職務を御鞅掌になる閣下にとつて、餘りに御迷惑を顧みない仕方かも知れません。しかし、私の下に申上げようとする事實の性質上、閣下が私の正氣だと云ふ事を御信用になるのは、どうしても必要でございます。さもなければ、どうしてこの超自然な事實を、御承認になる事が出來ませう。どうして、この創造的精力の奇怪な作用を、可能視なさる事が出來ませう。それほど、私が閣下の御留意を請ひたいと思ふ事實には不可思議な性質が加はつてゐるのでございます。ですから、私は以上のお願ひを敢て致しました。猶これから書く事も、或は冗漫の譏《そしり》を免れないものかも知れません。しかし、これは一方では私の精神に異狀がないと云ふ事を證明すると同時に、又一方ではかう云ふ事實も古來決して絕無ではなかつたと云ふ事をお耳に入れるために、幾分の必要がありはしないかと、思はれるのでございます。
[やぶちゃん注:「御鞅掌」「ごあうしやう(ごおうしょう)」。「鞅掌」は「忙しく立ち働いて暇(いとま)がないこと」を言う。]
歷史上、最も著名な實例の一つは、恐らくカテリナ女帝に現われたものでございませう。それから又、ゲエテに現れた現象も、やはりそれに劣らず著名なものでございます。が、これらは、餘り人口に膾炙しすぎて居りますから、こゝにはわざと申上げません。私は、それより二三の權威ある實例によつて、出來る丈手短に、この神祕の事實の性質を御說明申したいと思ひます。まづ Dr. Werner の與へてゐる實例から、始めませう。彼によりますと、ルウドウイツヒスブルクの Ratzel と云ふ寶石商は、或夜街の角をまがる拍子に、自分と寸分もちがはない男と、ばつたり顏を合せたさうでございます。その男は、後《のち》間もなく、木樵りが檞《かし》の木を伐り倒すのに手を借して、その木の下に壓《あつ/お》されて歿《な》くなりました。これによく似てゐるのは、ロストツクで數學の敎授をしてゐた Becker に起つた實例でございませう。ベツカアは或夜五六人の友人と、神學上の議論をして、引用書が必要になつたものでございますから、それをとりに獨りで自分の書齋へ參りました。すると、彼以外の彼自身が、いつも彼のかける椅子に腰をかけて、何か本を讀んでゐるではございませんか。ベツカアは驚きながら、その人物の肩ごしに、讀んでゐる本を一瞥致しました。本はバイブルで、その人物の右手の指は「爾《なんぢ》の墓を用意せよ。爾は死すべければなり」と云ふ章を指さして居ります。ベツカアは友人のゐる部屋へ歸つて來て、一同に自分の死の近づいた事を話しました。そさして、その語《ことば》通り、翌日の午後六時に、靜《しづか》に息をひきとりました。
[やぶちゃん注:「カテリナ女帝」十八世紀に最も権力を握ったロシア皇帝エカチェリーナⅡ世(アレクセーエヴナ Екатерина II Алексеевна(ラテン文字転写:Yekaterina II Alekseyevna) 一七二九年~一七九六年/在位:一七六二年~一七九六年)。彼女の事績は当該ウィキを参照されたいが、ネットの初期以来、よく見る「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」によれば、彼女は、『ある夜、エカテリーナが寝室で休んでいると、召使がエカテリーナが王座の間に入って行くのを見たと言ってきた。本人が自分で調べにいくと、幽霊のような自分の分身が静かに王座に座っていたという。エカテリーナは』、『急いで』、『衛兵に』、『その分身に銃を放つよう』、『命令した。果たして弾が当ったのかどうかは語られていないが、その後』、『まもなくエカテリーナ本人は亡くなってしまった』とある。
「ゲエテ」ドイツの文豪にして博物学者・政治家でもあったヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)。同じく「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」によれば、彼は、『ある日、フリーデリケという女性と別れたショックで』、『意気消沈して馬で帰る途中』、『馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、「『実際の目ではなく、心の目で見た』」『というのだが、その男は』、『着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿に』、『なぜか』、『心が穏やかになって、このことは』、『まもなく忘れてしまった』。八『年後、ゲーテが』、『その同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、『別のとき、ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったまま』、『ゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒが』、『ゲーテが通りで見たのと同じ服を着て』、『そこにいた。友人は』。「『急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだ』」と言ったという逸話がある。
「Dr. Werner」『筑摩全集類聚』版には、『ヴェルナー博士について未詳。したがって以下に挙げられている実例とか書簡についても未詳。芥川の仮構とも考えられる。』とあるのだが、ネット検索で、「飯田橋文学会」公式サイト内の「芥川龍之介全集を読む」で、アラビア語通訳・翻訳家でエジプトのカイロ生まれのマイサラ・アフィーフィー氏の記事に、以上の引用を示され、かく『説明であったが、調べているうちに、同じ作品に芥川が出した「自然の暗黒面」という書籍を見つけた。それは、Catherine Croweという著者が書いた「The Night Side of Nature」』(「自然界の暗黒面」。後で本文でも全く同じに訳している)『というタイトルで』、一八五二年(嘉永四年~嘉永五年相当)に、『ロンドン』で『刊行された本であった。著作権が切れているのでグーグルブックスでダウンロードできる。僕は実際』、『ダウンロードし、全部ではないが、ところどころに目を通しみたら、芥川は』、『ヴェルナー博士や以下に挙げられていた実例とか書簡とか書籍とか』の『全てを、その本から引用していたようだ』と記しておられる。この同書は“The Project Gutenberg eBook”で“The Night-Side of Nature, by Catherine Crowe”として電子化されている。自動翻訳でも、以下に記される事例が、総て、十分に読める。作者はイギリスの女流作家キャサリン・アン・クロウ(旧姓はスティーブンス)(Catherine Ann Crowe 一八〇三年~一八七六年)が一八四八年にロンドンで刊行した超自然的現象を蒐集した作品である。「Dr. Werner」はそこに七回言及されているが、事績は不詳。
「ルウドウイツヒスブルク」ルートヴィヒスブルク(Ludwigsburg)はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のルートヴィヒスブルク郡に属する市。シュトゥットガルト内市街の北約 十三キロメートルに位置し、「シュトゥットガルト地域」(一九九二年までは「ミットレラー・ネッカー地域」)及び「シュトゥットガルト大都市圏」に含まれ、本市はルートヴィヒスブルク郡の郡庁所在地であり、同郡最大の都市である、と当該ウィキにあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「Ratzel」ラッツェル。
「ロストツク」ロストック(Rostock)は、当該ウィキによれば、『ドイツ連邦共和国北部』の『メクレンブルク=フォアポンメルン州の』『バルト海に面する港湾都市で、中世のハンザ同盟の中心都市』であり、『旧東ドイツ最大の港湾都市であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「Becker」ベッカー。]
これで見ると、Doppelgaenger の出現は、死を豫告するやうに思はれます。が、必ずしもさうばかりとは限りません。Dr. Werner は、デイレニウス夫人と云ふ女が、六歲になる自分の息子と夫の妹と三人で、黑い着物を着た第二の彼女自身を見た時に、何も變事の起らなかつた事を記錄してゐます。これは又、さう云ふ現象が、第三者の眼にも映じると云ふ、實例になりませう。Stilling 敎授が擧げてゐるトリツプリンと云ふワイマアルの役人の實例や、彼の知つてゐる某M夫人の實例も、やはり、この部類に屬すべきものではございませんか。
[やぶちゃん注:「Doppelgaenger」ドッペルゲンガー(ドイツ語。正しくは現行では“Doppelgänger”と綴る)。当該ウィキによれば、『自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象で』、『自分とそっくりの姿をした分身』、『第』二『の自我、生霊』(いきりょう)の類(たぐい)を指す。『同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現』わ『す現象を指すこともあ』り、『第三者が目撃する』ケースも『含む』。心霊学やオカルトの中では『超常現象のひとつとして扱われる』とある。詳しくは、そちらを見られたいが、私のブログ記事で、この三年間、常に私の記事の内、アクセス・ランキングが常に上位にある、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を、是非、読まれたい。巷には、芥川龍之介の自死を、これに求めるとする憶説が蔓延している。
「デイレニウス夫人と云ふ女」前掲英文先に“a lady named Dillenius”とあるケース。
「Stilling 敎授」作家でゲーテの弟子にして、さまざまな教授職を経たヨハン・ハインリヒ・ユング(Johann Heinrich Jung 一七四〇年~一八一七年)。彼は両親の姓を重ねてJung-Stillingとも名乗った。
「Stilling 敎授が擧げてゐるトリツプリンと云ふワイマアル」(Weimar:音写は「ヴァイマー」が近い。ドイツ・テューリンゲン州の都市で、ここ。主要な歴史的文化都市の一つ)「の役人の實例」前掲英文書に“Stilling relates that a government-officer, of the name of Triplin, in Weimar, on going to his office to fetch a paper of importance, saw his own likeness sitting there, with the deed before him. Alarmed, he returned home, and desired his maid to go there and fetch the paper she would find on the table. The maid saw the same form, and imagined that her master had gone by another road, and got there before her. His mind seems to have preceded his body.”とあるのを指す。
「彼の知つてゐる某M夫人」同前で“There are numerous examples of similar phenomena to be met with. Professor Stilling relates that he heard from the son of a Madame M——, that his mother, having sent her maid up stairs on an errand, the woman came running down in a great fright, saying that her mistress was sitting above, in her arm-chair, looking precisely as she had left her below. The lady went up stairs, and saw herself as described by the woman, very shortly after which she died.”とあるのを指す。]
更に進んで、第三者のみに現れたドツペルゲンゲルの例を尋ねますと、これもまた決して稀ではございません。現に Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たさうでございます。次いで、ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲツテインゲンにゐる息子の姿を、自分の書齋で見たと云ふ事實に、確かな證明を與へて居ります。その外、「幽靈の性質に關する探究」の著者が擧げて居りますカムパアランドのカアクリントン敎會區で、七歲の少女がその父の二重人格を見たと云ふ實例や「自然の暗黑面」の著者が擧げて居りますH某と云ふ科學者で藝術家だつた男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云ふ實例などを數へましたら、恐らくそれは、夥しい數に上る事でございませう。
[やぶちゃん注:「Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たさうでございます」先に掲げた英文書に載るが、“Dr. Werner relates that Professor Happach had an elderly maid-servant, who was in the habit of coming every morning to call him, and on entering the room, which he generally heard her do, she usually looked at a clock which stood under the mirror. One morning, she entered so softly, that, though he saw her, he did not hear her foot. She went, as was her custom, to the clock, and came to his bedside, but suddenly turned round and left the room. He called after her, but she not answering, he jumped out of bed and pursued her. He could not see her, however, till he reached her room, where he found her fast asleep in bed. Subsequently, the same thing occurred frequently with this woman.”であって、ウェルナー教授「自身」ではなく、彼がHappach教授の使用人の話を又聞きしたものである。
「ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲツテインゲンにゐる息子の姿を、自分の書齋で見たと云ふ事實に、確かな證明を與へて居ります」同前で、“A president of the supreme court, in Ulm, named Pfizer, attests the truth of the following case: A gentleman, holding an official situation, had a son at Göttingen, who wrote home to his father, requesting him to send him, without delay, a certain book, which he required to aid him in preparing a dissertation he was engaged in. The father answered that he had sought but could not find the work in question. Shortly afterward, the latter had been taking a book from his shelves, when, on turning round, he beheld, to his amazement, his son just in the act of stretching up his hand toward one on a high shelf in another part of the room. “Hallo!” he exclaimed, supposing it to be the young man himself, but the figure disappeared; and, on examining the shelf, the father found there the book that was required, which he immediately forwarded to Göttingen; but before it could arrive there, he received a letter from his son, describing the exact spot where it was to be found.”が、その話である。
「幽靈の性質に關する探究」前掲書の中に“The author of a work entitled “An Inquiry into the Nature of Ghosts,” who adopts the illusion theory, relates the following story, as one he can vouch for, though not permitted to give the names of the parties:—”とあって、““Miss ——, at the age of seven years, being in a field not far from her father’s house, in the parish of Kirklinton, in Cumberland, saw what she thought was her father in the field, at a time that he was in bed, from which he had not been removed for a considerable period. There were in the field also, at the same moment, George Little, and John, his fellow-servant. One of these cried out, ‘Go to your father, miss!’ She turned round, and the figure had disappeared. On returning home, she said, ‘Where is my father?’ The mother answered, ‘In bed, to be sure, child!’—out of which he had not been.””がそれ。「カムパアランドのカアクリントン敎會區」現在のイギリスのカンブリア州カーライル地区カークリントン(グーグル・マップ・データ)であろう。
『「自然の暗黑面」の著者が擧げて居りますH某と云ふ科學者で藝術家だつた男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云ふ實例』先のそれで、““On the evening of the 12th of March, 1792,” says Mr. H——, an artist, and a man of science, “I had been reading in the ‘Philosophical Transactions,’ and retired to my room somewhat fatigued, but not inclined to sleep. It was a bright moonlight night and I had extinguished my candle and was sitting on the side of the bed, deliberately taking off my clothes, when I was amazed to behold the visible appearance of my half-uncle, Mr. R. Robertson, standing before me; and, at the same instant, I heard the words, ‘Twice will be sufficient!’ The face was so distinct that I actually saw the pock-pits. His dress seemed to be made of a strong twilled sort of sackcloth, and of the same dingy color. It was more like a woman’s dress than a man’s—resembling a petticoat, the neck-band close to the chin, and the garment covering the whole person, so that I saw neither hands nor feet. While the figure stood there, I twisted my fingers till they cracked, that I might be sure I was awake.”が、それ。]
私はさし當り、これ以上實例を列擧して、貴重なる閣下の時間を浪費おさせ申さうとは致しますまい。唯《ただ》、閣下は、これらが皆疑ふ可らざる事實だと云ふ事を、御承知下さればよろしうございます。さもないと、或は私の申上げようとする事が、全然とりとめのない、馬鹿げた事のやうに思召すかも知れません。何故かと申しますと、私も、私自身のドツペルゲンゲルに苦しまされてゐるものだからでございます。さうして、その事に關して、聊《いささか》閣下にお願ひの筋があるからでございます。
私は私自身のドツペルゲンゲルと書きました。が、詳しく云へば、私及《および》私の妻のドツペルゲンゲルと申さなくてはなりません。私は當區――町――丁目――番地居住、佐々木信一郞と申すものでございます。年齡は三十五歲、職業は東京帝國文科大學哲學科卒業後、引續き今日まで、私立――大學の倫理及英語の敎師を致して居ります。妻ふさ子は、丁度四年以前に、私と結婚致しました。當年二十七歲になりますが、子供はまだ一人もございません。こゝで私が特に閣下の御注意を促したいのは、妻にヒステリカルな素質があると云ふ事でございます。これは結婚前後が最も甚しく、一時は私とさへ殆ど語《ことば》を交へない程、憂欝になつた事もございましたが、近年は發作も極めて稀になり、氣象も以前に比べれば、餘程快活になつて參りました。所が、昨年の秋から又精神に何か動搖が起つたらしく、この頃では何かと異常な言動を發して、私を窘《くるし》める事も少くはございません。唯、私が何故《なにゆゑ》妻のヒステリイを力說するか、それはこの奇怪な現象に對する私自身の說明と、或關係があるからで、その說明については、いづれ後で詳しく申上る事に致しませう。
さて、私及私の妻に現れたドツペルゲンゲルの事實は、どんなものかと申しますと、大體に於てこれまでに三度ございました。今それを一つづゝ私の日記を參考として、出來るだけ正確に、こゝへ記載して御覽に入れませう。
第一は、昨年十一月七日、時刻は略《ほぼ》午後九時と九時三十分との間でございます。當日私は妻と二人で、有樂座の慈善演藝會へ參りました。打明けた御話をすれば、その會の切符は、それを賣りつけられた私の友人夫婦が何かの都合で行かれなくなつたために、私たちの方へ親切にもまはしてくれたのです。演藝會そのものの事は、別にくだくだしく申上げる必要はございません。また實際音曲《おんぎよく》にも踊《をどり》にも興味のない私は、云はゞ妻のために行つたやうなものでございますから、プログラムの大半は徒《いたづら》に私の退屈を增させるばかりでございました。從つて、申上げようと思つたと致しましても、全然その材料を缺《か》いてゐるやうな始末でございます。ただ、私の記憶によりますと、仲入りの前は、寬永御前仕合と申す講談でございました。當時の私の思量に、異常な何ものかを期待する、準備的な心もちがありはしないかと云ふ懸念は、寬永御前仕合の講談を聞いたと云ふこの一事でも一掃されは致しますまいか。
[やぶちゃん注:「昨年」本作の最後には、脱稿を大正六(一九一七)年八月十日とする。機械的にそれに即すなら、大正五年となる。
「有樂座」明治四一(一九〇八)年に、現在の東京数寄屋橋附近の、ここ(グーグル・マップ・データ)に出来た西洋風(初の全席椅子席)の高等演芸場有楽座のことで、当時の日本の新劇運動のメッカであった。因みに、ここは旧南町奉行所跡で、明治になって裁判所、次に陸軍練兵場となった、その跡地でもある。大正九(一九二〇)年に帝劇に合併されたが、大正十二年の関東大震災で焼失するまで、この地にあった。
「寬永御前仕合と申す講談」江戸時代の寛永年間に将軍徳川家光の御前で行われたという設定で語られている架空の御前試合の講談で、史実ではない。『筑摩全集類聚』版注には、『有楽座はこの頃』確かに『慈善演芸会が催されていたが、このような講談は演じられていない』とあった。]
私は、仲入りに廊下へ出ると、すぐに妻を一人殘して、小用を足しに參りました。申上げるまでもなく、その時分には、もう𢌞りの狹い廊下が、人で一ぱいになつて居ります。私はその人の間を縫ひながら、便所から歸つて參りましたが、あの弧狀になつてゐる廊下が、玄關の前へ出る所で、豫期した通り私の視線は、向うの廊下の壁によりかゝるやうにして立つてゐる、妻の姿に落ちました。妻は、明《あかる》い電燈の光がまぶしいやうに、つゝましく伏眼《ふしめ》になりながら、私の方へ橫顏を向けて、靜《しづか》に立つてゐるのでございます。が、それに別に不思議はございません。私が私の視覺の、同時にまた私の理性の主權を、殆ど刹那に粉碎しようとする恐ろしい瞬間にぶつかつたのは、私の視線が、偶然――と申すよりは、人間の知力を超越した、ある隱微な原因によつて、その妻の傍《かたはら》に、こちらを後《うしろ》にして立つてゐる、一人の男の姿に注がれた時でございました。
閣下、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。
第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴を穿いて居りました。さうしてまた、第一の私と、同じ姿勢を裝つて居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顏も亦、私と同じだつた事でございませう。私はその時の私の心もちを、何と形容していゝかわかりません。私の周圍には大ぜいの人間が、しつきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、晝のやうな光を放つて居ります。云はゞ私の前後左右には、神祕と兩立し難《がた》い一切の條件が、備《そなは》つてゐたとでも申しませうか。さうして私は實に、そう云ふ外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕《さくがく》は、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかつたなら、私は恐らく大聲をあげて、周圍の注意をこの奇怪な幻影に惹《ひ》かうとした事でございませう。
しかし、妻の視線は、幸《さいはひ》にも私の視線と合《がつ》しました。さうして、それと殆ど同時に、第二の私は丁度硝子《ガラス》に龜裂の入るやうな早さで、見る間《ま》に私の眼界から消え去つてしまひました。私は、夢遊病患者のやうに、茫然として妻に近づきました。が、妻には、第二の私が眼に映じなかつたのでございませう。私が側へ參りますと、妻はいつもの調子で、「長かつたわね」と申しました。それから、私の顏を見て、今度はおづおづ「どうかして」と尋ねました。私の顏色は確《たしか》に、灰のやうになつてゐたのに相違ございません。私は冷汗を拭ひながら、私の見た超自然な現象を、妻に打明けようかどうかと迷ひました。が、心配さうな妻の顏を見ては、どうして、これが打明けられませう。私はその時、この上《うへ》妻に心配させないために、一切第二の私に關しては、口を噤《つぐ》まうと決心したのでございます。
[やぶちゃん注:「夢遊病患者」『筑摩全集類聚』版本文には、この『夢遊病患者』(同書は新字)には『ソムナンビユウル』とある。底本の「後記」には、ここに、そんなルビのある、或いは、あったとする書誌が記されいない。おまけに『筑摩全集類聚』版では、これに注があって、『Somnambule(英)』として、夢遊病疾患の説明が載るが、この綴りの単語は英語ではなく、ドイツ語である。正しい音写は「ソォムナンブーレ」か。『筑摩全集類聚』版は岩波旧全集版を底本としいるはずだが、おかしい。実は『筑摩全集類聚』版編者が以下の後に出る本文に唐突に出る『ソムナンビユウル』という語を、前のここのルビに前倒しで移したと考えられる。まあ、欧語の、この単語を知らぬ圧倒的多数の読者のことを考えれば、そうした方が、遙かに親切ではあるとは言えるけれども。]
閣下、もし妻が私を愛してゐなかつたなら、さうしてまた私が妻を愛してゐなかつたなら、どうして私にかう云ふ決心が出來ませう。私は斷言致します。私たちは、今日まで眞底から、互に愛し合つて居りました。しかし世間はそれを認めてくれません。閣下、世間は妻が私を愛してゐる事を認めてくれません。それは恐しい事でございます。恥づべき事でございます。私としては、私が妻を愛してゐる事を否定されるより、どのくらい屈辱に價《あたひ》するかわかりません。しかも世間は、一步を進めて、私の妻の貞操をさへ疑ひつゝあるのでございます。――
私は感情の激昂に驅《か》られて、思はず筆を岐路《きろ》に入れたやうでございます。
[やぶちゃん注:「岐路」「脇道(わきみち)」の意。]
さて、私はその夜以來、一種の不安に襲はれはじめました。それは前に揭げました實例通り、ドツペルゲンゲルの出現は、屢々《しばしば》當事者の死を豫告するからでございます。しかし、その不安の中にも、一月ばかりの日數《につすう》は、何事もなく過ぎてしまひました。さうして、その中に年が改まりました。私は勿論、あの第二の私を忘れた譯ではございません。が、月日の經つのに從つて、私の恐怖なり不安なりは、次第に柔らげられて參りました。いや、時には、實際、すべてを幻覺(ハルシネエシヨン)と云ふ名で片づけてしまはふとした事さへございます。
[やぶちゃん注:「幻覺(ハルシネエシヨン)」hallucination(英語)。]
すると、恰《あたか》も私のその油斷を戒めでもするやうに、第二の私は、再び私の前に現れました。
これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日私は學校に居りますと、突然舊友の一人が訪ねて參りましたので、幸《さいはひ》午後からは授業の時間もございませんから、一しよに學校を出て、駿河臺下のあるカツフエへ飯を食ひに參りました。駿河臺下には、御承知の通りあの四つ辻の近くに、大時計が一つございます。私は電車を下りる時に、ふとその時計の針が、十二時十五分を指してゐたのに氣がつきました。その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもつた、鉛のやうな空を後にして、ぢつと動かずにいるのが、何となく恐しいやうな氣がしたのでございます。或は事によるとこれも、あの前兆だつたかも知れません。私は突然この恐しさに襲はれたので、大時計を見た眼を何氣なく、電車の線路一つへだてた中西屋の前の停留場へ落しました。すると、その赤い柱の前には、私と私の妻とが肩を並べながら、睦《むつま》しさうに立つてゐたではございませんか。
[やぶちゃん注:「駿河臺下」「四つ辻」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「中西屋」『筑摩全集類聚』版注に『駿河台にあった洋書洋品店』とある。]
妻は黑いコオトに、焦茶の絹の襟卷をして居りました。さうして鼠色のオオヴア・コオトに黑のソフトをかぶつてゐる私に、第二の私に、何か話しかけてゐるやうに見えました。閣下、その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴア・コオトに、黑のソフトをかぶつてゐたのでございます。私はこの二つの幻影を、如何に恐怖に充ちた眼で、眺めましたらう。如何に憎惡に燃えた心で、眺めましたらう。殊に、妻の眼が第二の私の顏を、甘えるやうに見てゐるのを知つた時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底當時の私の位置を、再現するだけの勇氣がございません。私は思はず、友人の肘をとらえたなり、放心したやうに往來へ立ちすくんでしまひました。その時、外濠線《そとぼりせん》の電車が、駿河臺の方から、坂を下りて來て、けたたましい音を立てながら、私の目の前をふさいだのは、全く神明の冥助とでも云ふものでございませう。私たちは丁度、外濠線の線路を、向うへ突切らうとしてゐた所なのでございます。
[やぶちゃん注:「外濠線」「外堀線」とも言った。東京の皇居の外濠に沿って走っていた路面電車線の名称。明治三七(一九〇四)年、東京電気鉄道が敷設した御茶ノ水から土橋までの線路が最初。]
電車は勿論、すぐに私たちの前を通りぬけました。しかしその後で、私の視線を遮《さへぎ》つたのは、唯《ただ》中西屋の前にある赤い柱ばかりでございました。二つの幻影は、電車のかげになつた刹那に、どこかへ見えなくなつてしまつたのでございます。私は、妙な顏をしてゐる友人を促して、可笑《をか》しくもない事を可笑しさうに笑ひながら、わざと大股に步き出しました。その友人が、後に私が發狂したと云ふ噂を立てたのも、當時の私の異常な行動を考へれば、滿更無理な事ではございません。しかし、私の發狂の原因を、私の妻の不品行にあるとするに至つては、好んで私を侮辱したものと思はれます。私は、最近にその友人への絕交狀を送りました。
私は、事實を記すのに忙しい餘り、その時の妻が、妻の二重人格にすぎない事を證明致さなかつたやうに思ひます。當時の正午前後、妻は確《たしか》に外出致しませんでした。これは、妻自身はもとより、私の宅で召使つてゐる下女も、さう申して居る事でございます。又、その前日から、頭痛がすると申して、とかくふさぎ勝ちでゐた妻が、俄《にはか》に外出する筈もございません。して見ますと、この場合、私の眼に映じた妻の姿は、ドツペルゲンゲルでなくて、何でございませう。私は、妻が私に外出の有無を問はれて、眼を大きくしながら、「いゝえ」と云つた顏を、今でもありありと覺えて居ります。もし世間の云ふように、妻が私を欺いているのなら、あゝ云ふ、子供のやうな無邪氣な顏は、決して出來るものではございません。
私が第二の私の客觀的存在を信ずる前に、私の精神狀態を疑つたのは、勿論の事でございます。しかし、私の頭腦は少しも混亂して居りません。安眠も出來ます。勉强も出來ます。成程、二度目に第二の私を見て以來、稍《やや》ともすると、ものに驚き易くなつて居りますが、これはあの奇怪な現象に接した結果であつて、斷じて原因ではございません。私はどうしても、この存在以外の存在を信じなければならないやうになつたのでございます。
しかし、私は、その時も妻には、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]、あの幻影の事を話さずにしまひました。もし運命が許したら、私は今日《こんにち》までもやはり口を噤んで居りましたろう。が、執拗な第二の私は、三度私の前にその姿を現しました。これは前週の火曜日、卽《すなはち》二月十三日の午後七時前後の事でございます。私はその時、妻に一切を打明けなければならないやうな羽目《はめ》になつてしまひました。これもさうする外に、私たちの不幸を輕くする手段が、なかつたのですから、仕方がございません。が、この事は後で又、申上げる事に致しませう。
その日、丁度宿直に當つてゐた私は、放課後間もなく、はげしい胃痙攣に惱まされたので、早速校醫の忠告通り、車で宅へ歸る事に致しました。所が午頃《ひるごろ》からふり出した雨に風が加はつて、宅の近くへ參りました時には、たゝきつけるやうな吹き降りでございます。私は門の前で匇々《そうそう》車賃《くるまちん》を拂つて、雨の中を大急ぎで玄關まで駈けて參りました。玄關の格子には、いつもの通り、内から釘がさしてございます。が、私には外からでも釘が拔けますから、すぐに格子をあけて、中へはいりました。大方《おほかた》雨の音にまぎれて、格子のあく音が聞えなかつたのでございましょう。奧からは誰も出て參りません。私は靴をぬいで、帽子とオオヴア・コオトとを折釘《をれくぎ》にかけて、玄關から一間置いた向うにある、書齋の唐紙をあけました。これは茶の間へ行く間に、敎科書其他のはいつている手提鞄を、そこへ置いて行くのが習慣になつてゐるからでございます。
すると、私の眼の前には、たちまち意外な光景が現れました。北向きの窓の前にある机と、その前にある輪轉椅子《りんてんいす》と、さうしてそれらを圍んでゐる書棚とには、勿論何の變化もございません。しかし、こちらに橫をむけて、その机の側に立つてゐた女と、輪轉椅子に腰をかけてゐた男とは、一體誰だつたでございませう。閣下、私はこの時、第二の私と第二の私の妻とを、咫尺《しせき》の間に見たのでございます。私は當時の恐しい印象を忘れようとしても、忘れる事は出來ません。私の立つてゐる閾《しきゐ》の上からは、机に向つて竝《なら》んでいる二人の橫顏が見えました。窓から來るつめたい光をうけて、その顏は二つとも銳い明暗を作つて居ります。さうして、その顏の前にある、黃いろい絹の笠をかけた電燈が、私の眼には殆どまつ黑に映りました。しかも、何と云ふ皮肉でございませう。彼等は、私がこの奇怪な現象を記錄して置いた、私の日記を讀んでゐるのでございます。これは机の上に開いてある本の形で、すぐにそれがわかりました。
私はこの光景を一瞥すると同時に、私自身にもわからない叫び聲が、自(おのづか)ら私の唇を衝《つ》いて出たやうな記憶がございます。また、その叫び聲につれて、二人の幻影が同時に私の方を見たやうな記憶もございます。もし彼等が幻影でなかつたなら、私はその一人たる妻からでも、當時の私の容子《ようす》を話して貰ふ事が出來たでございませう。しかし勿論それは不可能な事でございます。唯《ただ》、確かに覺えてゐるのは、その時私がはげしい眩暈《めまひ》を感じたと云ふ事よりほかに、全く何もございません。私はその儘、そこに倒れて、失神してしまつたのでございます。その物音に驚いて、妻が茶の間から駈けつけて來た時には、あの呪ふべき幻影ももう消えてゐたのでございませう。妻は私をその書齋へ寢かして、早速氷囊《ひようなう》を額へのせてくれました。
私が正氣にかへつたのは、それから三十分ばかり後の事でございます。妻は、私が失神から醒めたのを見ると、突然聲を立てゝ泣き出しました。この頃の私の言動が、どうも妻の腑に落ちないと申すのでございます。「何かあなたは疑つていらつしやるのでせう。さうでせう。それなら、何故《なぜ》さうと打明けてくださらないのです。」妻はかう申して、私を責めました。世間が、妻の貞操を疑つてゐると云ふ事は、閣下も御承知の筈でございます。それはその時既に、私の耳へはいつて居りました。恐らくは妻も亦、誰からと云ふ事なく、この恐しい噂を聞いてゐたのでございませう。私は妻の語が、私もさう云ふ疑《うたがひ》を持つてはゐはしないかと云ふ掛念《けねん》で、ふるえてゐるのを感じました。妻は、私のあらゆる異常な言動が、皆その疑から來たものと思つてゐるらしいのでございます。この上私が沈默を守るとすればそれは徒《いたづら》に妻を窘《くるし》める事になるよりほかはございません。そこで、私は、額にのせた氷囊が落ちないやうに、靜《しづか》に顏を妻の方へ向けながら、低い聲で「許してくれ。己《おれ》はお前に隱して置いた事がある。」と申しました。さうしてそれから、第二の私が三度まで私の眼を遮《さへぎ》つた話を、出來るだけ詳しく話しました。「世間の噂も、己の考へでは、誰か第二の己が第二のお前と一しよにいるのを見て、それから捏造したものらしい。己は固くお前を信じている。その代りお前も己を信じてくれ。」私はその後で、かう力を入れてつけ加へました。しかし、妻は、弱い女の身として、世間の疑《うたがひ》の的になると云ふ事が、如何にも切ないのでございませう。或は又、ドツペルゲンゲルと云ふ現象が、その疑を解くためには餘りに異常すぎたせいもあるのに相違ございません。妻は私の枕もとで、何時《いつ》までも啜《すす》り上げて泣いて居ります。
そこで私は、前に揭げた種々の實例を擧げて、如何にドつペルゲンゲルの存在が可能かと云ふ事を、諄々《じゆんじゆん》として妻に說いて聞かせました。閣下、妻のやうにヒステリカルな素質のある女には、殊にかう云ふ奇怪な現象が起り易いのでございます。その例もやはり、記錄に乏しくはございません。例へば著名なソムナンビユウルの Auguste Muller などは、屢々その二重人格を示したと云ふ事です。但《ただし》さう云ふ場合には、その夢遊病患者(ソムナンビユウル)の意志によつて、ドツペルゲンゲルが現れるのでございますから、その意志が少しもない妻の場合には、當てはまらないと云ふ非難もございませう。又一步を讓つて、それで妻の二重人格が說明出來るにしても、私のそれは出來ないと云ふ疑問が起るかも知れません。しかしこれ等は、決して解釋に苦むほど困難な問題ではございません。何故かと申しますと、自分以外の人間の二重人格を現す能力も、時には持つてゐるものがある事は、やはり疑ひ難《がた》い事實でございます。フランツ・フオン・バアデルが Dr. Werner に與えました手紙によりますと、エツカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持つてゐると、公言したさうでございます。して見ますれば、第二の疑問は、第一の疑問と同じく、妻がそれを意志したかどうかと云ふ事になつてしまふ譯でございませう。所で、意志の有無と申す事は、存外不確《ふたしか》なものでございますまいか。成程、妻はドツペルゲンゲルを現さうとは、意志しなかつたのに相違ございません。しかし、私の事は始終念頭にあつたでございませう。或は私とどこかへ一しよに行く事を、望んで居つたかも知れません。これが妻のやうな素質を持つてゐるものに、ドツペルゲンゲルの出現を意志したと、同じやうな結果を齎《もたら》すと云ふ事は、考へられない事でございませか。少くとも私はさうありさうな事だと存じます。まして、私の妻のやうな實例も、二三外に散見してゐるではございませんか。
私はかう云ふやうな事を申して、妻を慰めました。妻もやつと得心が行つたのでございませう。それからは、「唯あなたがお氣の毒ね」と申して、ぢつと私の顏を見つめたきり、淚を乾かしてしまひました。
[やぶちゃん注:「フランツ・フオン・バアデルが Dr. Werner に與えました手紙によりますと、エツカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持つてゐると、公言したさうでございます。」これも先に掲げた英文書に載るが、“Franz von Baader says, in a letter to Dr. Kerner, that Eckartshausen, shortly before his death, assured him that he possessed the power of making a person’s double or wraith appear, while his body lay elsewhere in a state of trance or catalepsy. He added that the experiment might be dangerous, if care were not taken to prevent intercepting the rapport of the ethereal form with the material one.”とあって、「Dr. Werner」ではなく、「Dr. Kerner」の誤りである。]
閣下、私の二重人格が私に現れた、今日までの經過は、大體右のやうなものでございます。私は、それを、妻と私との間の祕密として、今日まで誰にも洩らしませんでした。しかし今はもう、その時ではございません。世間は公然、私を嘲《あざけ》り始めました。そうしてまた、私の妻を憎み始めました。現にこの頃では、妻の不品行を諷《ふう》した俚謠《りえう》をうたつて、私の宅の前を通るものさへございます。私として、どうして、それを默視する事が出來ませう。
しかし、私が閣下にかう云ふ事を御訴へ致すのは、單に私たち夫妻に無理由な侮辱が加へられるからばかりではございません。さう云ふ侮辱を耐へ忍ぶ結果、妻のヒステリイが、益《ますます》昂進する傾《かたむき》があるからでございます。ヒステリイが益昂進すれば、ドツペルゲンゲルの出現も或はより頻繁になるかも知れません。さうすれば、妻の貞操に對する世間の疑《うたがひ》は、更に甚しくなる事でございませう。私はこのデイレムマをどうして脫したらいゝか、わかりません。
閣下、かう云ふ事情の下《もと》にある私にとつては、閣下の御保護《ごほご》に依賴するのが、最後の、さうして又唯一の活路でございます。どうか私の申上げた事を御《お》信じ下さい。さうして、殘酷な世間の迫害に苦しんでゐる、私たち夫妻に御同情下さい。私の同僚の一人は故《ことさら》に大きな聲を出して、新聞に出てゐる姦通事件を、私の前で喋々《てふてふ》して聞かせました。私の先輩の一人は、私に手紙をよこして、妻の不品行を諷《ふう》すると同時に、それとなく離婚を勸めてくれました。それから又、私の敎えてゐる學生は、私の講義を眞面目に聽かなくなつたばかりでなく、私の敎室の黑板に、私と妻とのカリカテユアを描《ゑが》いて、その下に「めでたしめでたし」と書いて置きました。しかし、それらは皆、多少なりとも私と交涉のある人々でございますが、この頃では、赤の他人の癖に、思ひもよらない侮辱を加へるものも、決して少くはございません。或者は、無名のはがきをよこして、妻を禽獸に比しました。或者は、宅の黑塀へ學生以上の手腕を揮《ふる》つて、如何《いかが》はしい畫《ゑ》と文句とを書きました。さうして更に大膽なる或者は、私の庭内へ忍びこんで、妻と私とが夕飯を認《したた》めてゐる所を、窺《うかが》ひに參りました。閣下、これが人間らしい行《おこなひ》でございませうか。
私は閣下に、これだけの事を申上げたい爲に、この手紙を書きました。私たち夫妻を凌辱し、脅迫する世間に對して、官憲は如何なる處置をとる可きものか、それは勿論閣下の問題で、私の問題ではございません。が、私は、賢明なる閣下が、必ず私たち夫妻の爲に、閣下の權能を最《もつとも》適當に行使せられる事を確信して居ります。どうか昭代《せうだい》をして、不祥の名を負わせないように、閣下の御職務を御完《おまつた》うし下さい。
[やぶちゃん注:「昭代をして、不祥の名を負わせない」「昭代」は「よく治まっていて、栄えている世の中・太平の世」の意で、『筑摩全集類聚』版注には、『あきらかに治』ってい『る太平な時代に悪い評判を与えないこと』とあった。]
猶、御質問の筋があれば、私は何時《いつ》でも御署《おんしよ》まで出頭致します。ではこれで、筆を擱《お》く事に致しませう。
第二の手紙
――警察署長閣下、
閣下の怠慢は、私たち夫妻の上に、最後の不幸を齎《もたら》しました。私の妻は、昨日突然失踪したぎり、未《いまだ》にどうなつたかわかりません。私は危《あやぶ》みます。妻は世間の壓迫に耐へ兼ねて、自殺したのではございますまいか。
世間は遂に、無辜《むこ》の人を殺しました。さうして閣下自身も、その惡《にく》む可き幇助者《ほうじよしや》の一人になられたのでございます。
私は今日限り、當區に居住する事を止めるつもりでございます。無爲無能なる閣下の警察の下《もと》に、この上どうして安んじてゐる事が出來ませう。
閣下、私は一昨日《いつさくじつ》、學校も辭職しました。今後の私は、全力を擧げて、超自然的現象の硏究に從事するつもりでございます。閣下は恐らく、一般世人と同樣、私のこの計畫を冷笑なさる事でせう。しかし一警察署長の身を以て、超自然的なる一切を否定するのは、恥づべき事ではございますまいか。
閣下は先《まづ》、人間が如何に知る所の少ないかを御考へになるべきでせう。たとへば、閣下の使用せられる刑事の中にさへ、閣下の夢にも御存知にならない傳染病を持つてゐるものが、大勢居ります。殊にそれが、接吻によつて、迅速に傳染すると云ふ事實は、私以外に殆《ほとんど》一人も知つてゐるものはございません。この例は、優に閣下の傲慢なる世界觀を破壞するに足りませう。……
* * * *
それから、先は、殆《ほとんど》意味をなさない、哲學じみた事が、長々と書いてある。これは不必要だから、こゝには省く事にした。 (大正六年八月十日)
[やぶちゃん注:この手紙主は、明らかに閉鎖系の強力な妄想体系(内部では完全に自己完結して矛盾がない)を構成している精神疾患で、不安や恐怖の影響を強く受けており、「他人が常に自分を批判している」という根強い固着型の被害妄想を抱くところの「妄想性パーソナリティ障害」の一種である「パラノイア(paranoia)」である。フロイトが「ラポートが起こらない」として治療不能と匙を投げた、あれ、である。]