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カテゴリー「南方熊楠」の139件の記事

2021/03/07

南方熊楠を触発させて「四神と十二獸について」を書かせた八木奘三郎の論考「四神の十二肖屬との古𤲿」

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「「四神と十二獸について」を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った、八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古畫」である。「肖屬」(せうぞく(しょうぞく))とは「見える姿として象形された諸像」の意であろう。

 筆者八木奘三郎(慶応二(一八六六)年~昭和一七(一九四二)年:南方熊楠より一つ年上)は考古学者。江戸青山(現在の東京都港区青山北町)で丹波国篠山藩(現在の京都府内)藩士の子として生まれた。明治二四(一八九一)年、帝国大学理科大学人類学教室に、標本取り扱い係として雇用され、坪井正五郎や若林勝邦らから教示を受けた。明治二七(一八九四)年、千葉県香取市の阿玉台(あたまだい)貝塚を発掘調査したが、この時、同貝塚から出土した縄文土器(阿玉台式土器)が、茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚出土の縄文土器とは同じ形式だが、東京都品川から大田区にかけての大森貝塚出土の土器とは異なる形式であることに気づき、阿玉台・陸平(おかだいら)両貝塚の土器と、大森貝塚の土器との形式的な違いを、年代差によるものであると結論し、八木は大森貝塚の土器の方が年代的に古く、阿玉台が新しいとする編年を考えたが、その後の研究では順序が逆であることが判明している。しかし、「考古学黎明期であったこの時期に、この見解を導きだしたのは非凡である」という考古学者江坂輝彌による評価がある。明治三五(一九〇二)年、台湾に渡り、台湾総督府学務課に勤務し、大正二(一九一三)年には朝鮮半島に渡り、李王家博物館・旅順博物館・南満州鉄道に勤務した。昭和一一(一九三六)年に帰国して阿佐ヶ谷に住んだ。縄文時代だけでなく、朝鮮半島の古代遺物や古墳時代に関しても、多くの研究業績があり、徳富蘇峰と交流があった(以上は当該ウィキに拠った)。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。なお、八木氏の表記は南方熊楠と似て、句点が甚だ少ない。また、頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。傍点「●」は太字に代えた。引用の一部には不審があったため、原本等を確認して訂した箇所があるが、特にそれは指摘していない。初出と対応させれば、自ずとそれはお判り戴けることと思う。]

 

   ○四神と十二肖屬との古𤲿

           八木奘三耶

[やぶちゃん注:以下の序辞は底本では全体が一字下げである。]

 左の一篇は予が滿洲歴史地理學會の發會式に際して講演せしものなり、固より咄嵯の記述なるが上に資料乏しきを以て其詳細を盡すこと能はざれ共之を棄るは又鶏肋の感なきにあらず、因て本誌に掲げて看者の一粲に供せり、若し多少益する所あれば幸甚なり。

[やぶちゃん注:「鶏肋」「後漢書」楊修伝による故事成句。鶏の肋(あばら)骨には食べるほどの肉はないが、捨てるには惜しいところから、「たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの」の喩え。「一粲」は「いつさん(いっさん)」。「粲」は「白い歯を出して笑うこと」。一笑。謙辞。]

 予は本日四神と十二肖屬との古書に就て述んとする考へなるが、元來此二者は俱に支那に發源して更に近隣諸國に移りし風習なれば、其本源を知るには是非とも同國の上代に溯りて硏究せざるを得ず、因て先づ四神と十二肖屬との起源、及び其ものゝ意義、幷に用途等に就て大體の要點を述べ、次に實物上の種類變化等をも說ん[やぶちゃん注:「とかん」と訓じておく。]と欲す。

 

    (一) 四神の名稱と意義

 支那にて四神と稱するは、玄武、朱雀、靑龍、白虎の四者にして、之を天地四方に配屬せしものなり、而して朱雀の赤き雀、靑龍の靑き龍、白虎の白き虎たることは此文字上にて既に明かなれども、玄武の文字は不明なり、而も右は「和漢名數」[やぶちゃん注:貝原益軒編の和漢の命数集成。但し、ここで引かれいるのは、その続編(上田元周重編)で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらPDF)の17コマ目の左頁の「○四神相應の地」に出る。]に朱子の語を引て。

 玄武謂龜蛇、位住北方故日ㇾ玄、身有鱗甲、故曰ㇾ武。

とあれば、其身體に甲冑の如き鱗甲ある爲め斯く名けたる譯にして、他の鳥獸名とは異るを知る可し、而して何故四神に⑴龜蛇、⑵雀、⑶龍、⑷虎の四者を表せしやと云ふに、斯は天體の星形に象れりとの說やり、今其一例を曰んに。

 伊藤東涯の制度通に。[やぶちゃん注:「制度通」は中国の制度の沿革及び、それに対応するところの本邦の制度との関係を各項別に記述した歴史書。儒学者伊藤仁斎の長男であった儒学者伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)の著。成立は享保九(一七二四)年。]

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]

蒼龍、朱雀、白虎、玄武ヲ四神相應ト云テ四方ニカクノゴトヰ鬼神ノ象アリト思フハ謨リナリ、本二十八宿ノ星象(卽ち形狀なり)ヨリ起ル、王者ハ天ニ體シテ行フニヨリテ、旗常ニコノ紋ヲ繪ガヰテ四方ノ星象ニカタドル、角・氐・房・心・箕・[やぶちゃん注:中黒はママ。]ノ七宿ソノ並ビヤウ龍ノ如シ、斗・牛・女・虛・危・室・壁ノ七宿ジノ並ビヤウ蛇ノ龜ヲマトフガ如シ、奎[やぶちゃん注:「けい」。]・婁・胃・昴[やぶちゃん注:「ぼう」。]・※・觜・參ノ七宿ソノ並ビヤウ虎ノ形ノ如シ、井・鬼・柳・星・張・翼・軫[やぶちゃん注:「しん」。]ノ七宿ソノ並ビヤウ短尾ノ鳥ノ如シ、是ヲ四方ノ色ニ配シテ蒼龍、朱雀、白虎、玄武ト云ナリ、ソノ詳ナルヿ[やぶちゃん注:「事(こと)」の約物。]爾雅釋天ノ疏ニアリ、云、四方皆有七宿、各成一形、東龍形、西方成虎形、皆南乄[やぶちゃん注:「シテ」の約物。]ㇾ首而北ㇾ足、南方成鳥形、北方成龜形皆西ㇾ首而東ㇾ尾。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「已」+(下)「十」。「畢」の異体字。]

とあり、以て四神の由來と首尾の方向とを知る可し、然れども四神の名稱は漢以前の書に見へざれば、同代に此稱呼ありしや否やは明かならず、又其起源も初めより四者一時に生ぜしや否や判然せず、爾雅には春爲蒼天、夏爲朱明、秋爲白藏、冬爲玄英、とありて、此書は世に周公の作と稱すれば一見周初已に四季を四色に配せし事あり、隨て四神の四色も甚だ古く、又祖其起源(四神の)も周代に在らんかと思はるれども、其實爾雅は漢初の作ならんと云ふ說ありて、之を周初とは斷ず可からず、又尙書以下の書を按ずるに、五行の水・火・木・金・土を中央及び四方に配し、又木・火・金・水を東・西・南・北・春・夏・秋・冬に當てしことは書經、樂記・管子以下の書に見ゆれども、靑・赤・黑白の色を曰はず、唯だ周禮に方位と色とを記せし例あり、然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨て爾雅の如きも、其漢初に出しことは略ぼ推測するに足る可く、又色と方位、色と四神名との起源も彼の漢代に在ることを察するに足る可し、而して四神の圖象も亦多くは僥代の器物上に創まれり[やぶちゃん注:「はじまれり」。]、但し秦瓦[やぶちゃん注:「しんぐわ(しんが)」。]と稱する瓦當[やぶちゃん注:「ぐわたう(がとう)」。軒丸瓦(のきまるがわら)の先端の円形又は半円形の部分。文様のある面。]中に四神を配せし例[やぶちゃん注:「れい」。]金石索に見ゆ、去れ共此もの果して秦代なりや、又右の圖が四神に相違なきや、是等の點甚だ疑はしき爲め今採らず、又史記の始皇本紀に

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

始皇推終始五德之傳、以爲周得火德、秦代ㇾ周、德從所ㇾ不ㇾ勝、方今水德之始ナリ(中略)衣服、旌旗、節旗皆上ㇾ黑。

と記すれば水德と黑、水と北方との關係上方位と色彩との結合は已に泰代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明にする必要あり、又假令右が秦代に在ること疑ひなしとするも、猶周代の分は不明なり、故に予は其確實と信ずる點に從ひて漢代と云へり。

    (二) 十二支の起源と右の意義

 次に十二支の起源と其意義とを曰んに、斯は十干と相伴隨せること常なれば、便宜上二者併せ說くことゝなす可し。干支の原委を說て遺憾なしと云ふ書は世上多から

ざるが如し、而も予の知る所にては「淵海子平」[やぶちゃん注:現行の占いの四柱推命の元である宋の徐子平暦(九六〇年~一二七九年)撰になる算命学的易学書。]の記事尤も細密なるを覺ゆるにより先づ之を擧ぐ可し。

 同書「論天干地支所ㇾ出」の章に曰く。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

ルニ、奸詐生、妖怪出、黃帝時有蚩尤神、擾亂、當是之時、黃帝甚憂民之苦、遂戰蚩尤於涿鹿之野、流血百里、不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之。不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之、黃帝於ㇾ是齋戒、築ㇾ壇祀ㇾ天、方ニシテㇾ丘禮スㇾ地、天乃降十干、十二支、帝乃將十干ノ圓、布天形、十二支地形、始以ㇾ干爲天、支爲ㇾ地、合光仰職門、放ㇾ之、然後乃ムル也、自後有大撓氏、爲後人憂ㇾ之曰、嗟吁黃帝乃聖人ナリ、尙不ㇾ能ㇾ治二其惡煞一、萬一後世見ㇾ炎、被ラバㇾ苦、將何奈乎セントスル、遂に將天干十二支、分配シテスト六十甲子云。[やぶちゃん注:「布」「しきて」か。]

 此書の記事によれば十干、十二支は天降物の如くなれども、是等は彼の河圖洛書[やぶちゃん注:「かとらくしよ」。古代中国に於ける伝説上の瑞祥とされる河図(かと)と洛書(らくしょ)という超自然的現象を総称したもの。「河」は黄河、「洛」は洛水を表す。易の八卦や洪範九疇の起源とされている。]と同樣信するに足らず、又其起源を黃帝とするは支那事物起源の通弊なれば採る可からず、而も十干を天圓と云ひ、十二支を地方と稱することは他書の謂はざる處にして、稍や面白き點なり、何となれば十二支を地方に表せし例は漢代の古鏡と璧の一種及び其記事等に往々散見すればなり、併し孰れにしても此干支の論は採る可からず、寧ろ事物起源に擧ぐる所却て正しかる可し、同書に曰く。

[やぶちゃん注:以下同前。]

甲子。世本日、大撓造ルト甲子、呂氏春秋曰、黃帝師大撓、黃帝内傳曰、帝既斬蚩尤、命ジテ大撓甲子、正ㇾ時、「月分章句醫曰、大撓探五行之情、占斗剛ㇾ建、於ㇾ是始作甲乙、以、謂之幹、作子丑一[やぶちゃん注:底本は「ㇾ」。後文から誤りと断じて訂した。]、謂之支、支幹相配シテ以成二六旬

 此記事の圓文は別に論するの價値なしと雖も、月介章句に「作甲乙、以名ㇾ曰、作子丑」と云ふ語は頗る正確なるが如し、何となれば十干の數は元來十進法にして十位を整敎とすれば、日數に當てし名に相違なく又十二支の數は一年十二ケ月より來れるにより十二敷と定まれるに相違なし、而して月令に「占斗剛所ㇾ建、於ㇾ是始作甲子以名ㇾ曰、作子丑以名ㇾ月」とあるによれば、一旬卽ち十日の數も、一年十二ケ月の數も俱に北斗の劍先が運行する工合によりて命名せしが如くに思はれ、又十二支は月の出が大抵三日目より見ゆるにより(二日目より見ゆる事もあれど)其日より數へて十四日迄を十二に當て、滿月の十五日は盈虛の中心に置きし樣にも思はるれども、元來支那の天文曆數等に就ては予輩門外漢の容易く知り得ざる點あり、隨て其孰を孰れとも決し得ざれ共、何にせよ十干が日數より出で、十二支が月數より生ぜしことは略ぼ推測し得らる可く、又彼の淵海子平に十干を天圓に出で、十二支を地方に出ると云ふ事は、其起源說としては的中せざることを知る可し。(但し應用の古きは事實なり)

 次に十二支に十二獸名を當てしことは彼の事物起源に事始を引て。

 黃帝立子丑十二辰以名ㇾ月、又以十二名獸一屬ㇾ之。

とあれども、之は支那人側の解釋にて、實は印度の十二名獸が支那に移りて彼の十二支と結合せるが如し、斯は宿曜經なぞに記載しあれども、巳に我邦人の言明せし文章あれば、次に之を述ることゝなす可し。

 山岡俊明の類聚名物考に曰く。

[やぶちゃん注:以下同前。]

飜譯名義集に、「此十二支爲中渠之達觀也、と見ヘたり、經には鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鷄・狗・猪の文字を用ゐ、此十二物は大權の聖者にして、年・月・日・時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度す」と說けり、此の十二獸の名を支那にて古く用ゐ居たる子丑等の字に配當したるを以て我國にて、ねうしの訓を充てたるなり。

山岡の說は當時に於て卓見と謂ふ可く、彼の鼠、牛以下の獸名は確に印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せしことは疑ひなかる可きも、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより、右は後に說くことゝして以下五行の起源と配置とを一言す可し。

    (三) 五行の起源

 支那に於ける五行の記載は書の洪範に見ゆる文を以て始と爲す、然れども其實由來の古きことは二典に五嶽を置き、五歲に一度巡狩し、又五典、五常を敎へ、五刑を備へ、其他五瑞、五玉を班ち、五岐を修むるなど云へる事は皆な五行の思想を示すものなり、又居所に四門を設け、國に四岳を置くが如きも、皆な五數より來るものにて、中央の己れも其數に加はる事は明かなり、已に二典時代に斯る思想の見ゆる以上は假令五行の名なしと雖も其實ありしことは疑ひなく、隨て洪範にも箕子が「我聞在昔(ムカシ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。以下の二箇所も同じ。]、※陻(フサ)洪水、汨(ミダ)其五行、(天帝)乃震怒」[やぶちゃん注:「※」―「魚」+「糸」。]云々と云へるならん、巳に支那最古の文章と稱せらるゝ二典(近來此文章を若く見る人あり、未だ其詳細を聞かざれども別に確證ありとも思はれず、且つ現存の他書を二典已前に當る次第にもあらざれば其最古たる點は動かざるなり)以下に五行思想の現はるゝ以上は今假に其起源を知ること能はざれども、年代の悠久なる點は疑ふ可からず[やぶちゃん注:ここ、行末改ページで句読点なし。]從て支那の漢民族は、天地・四方・上下・大小凡てのものに此の五行を配當して喜び居れり、例せば天に五星を置き、地に五嶽を設け、人に五倫を備へ、河に五色の河を置き、爵に五等を設け、罪に五逆を定むるが如く數ヘ來れば、殆んど際限なく、先づ天地萬物を此五行上にて律せんとする形迹を示せり、而して何故斯く五數を重んぜしやと云ふに、其起源は恐らく手指の數より來れるならん、此事は人類學上の硏究に涉れば絃には別に述べざる可きも、古く漢民族の用ひ居たる事物配合の數は甞て重野博士[やぶちゃん注:漢学者・歴史家で、日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学の泰斗にして日本最初の文学博士の一人である重野安繹(やすつぐ 文政一〇(一八二七)年~明治四三(一九一〇)年)か。]が結繩時代の遺風ならんと云はれしこと有り、乃ち彼の書經以下に見へたる、十二牧、九州、九族、八卦、七政、五行、三才なぞ云へる數は果して太古結繩の遺風に基くや否やを知らざれども、之を人類學上より見れば或は然らんかとも思はれ、又陰陽の二者は日月より來り三才は夫婦子供若くは祖父子より來り、五行は手指の五本より來りて、其後右の意義に哲學上の髙尙なる論說を當て箝め[やぶちゃん注:「はめ」。]、以て時代精神に隨伴せしむるに至りしものならんと考ふ、然れども斯る事物の配合數は印度にもあり[やぶちゃん注:行末改ページで句読点なし。]例せば彌陀に三尊あり、佛に三寶あり、法身に三身あり又塔に五輪ありて地水火風空を表し、如來に四天王ありて四隅を守り、其他國に五天竺あり、天人に五衰あり、殊に天體には五星・七曜・九星・十二宮・二十八宿の類ありて、殆んど支那と一致せる點あるを見る、是等は世界民族閒に起る隅然の暗合もあらんが其特種の類に至りては決して右の如く斷ずること能はず、殊に天文學上の事柄、原素上の種類等に至りては必ずや一の本源地ありて夫れより四方に傳派せしに相違なし、但し此天文學上の一致は新城博士[やぶちゃん注:天文学者・中国学者で理学博士であった新城新蔵(しんじょうしんぞう 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)であろう。京都帝国大学総長で名誉教授。専門は宇宙物理学と中国古代暦術というハイブリッドな研究者であった。]の說によるに春秋戰國の頃支那より印度に渡り、更に中央亞細亞に傳播せしならんとの事なるが、予輩考吉學上の硏究結果によるも、支那と其の西南部諸國との交通は豫想外に古きにより、同氏と似よりの結論に達することは敢て難事にあらざる可し。

    (四) 四神と十二肖屬との遺品

 以上干支五行の說は極めて大略なれども、支那の事物硏究上には頗る有用なるに依り參考の爲め申述し次第なり、次に實物上に就て曰んに、支那に於て、四神、十二支を物體上に現はせしは碑石以下諸種の品にあれ共、其古くして且つ多きは鑑鏡の類なるが如し、此鏡の論は他日別に詳說す可きに依り、本日は單に其中の四神と十二支とのみを曰んに、支那の鏡鑑は人文の大に發達せし漢代の作品甚だ精巧にして、且つ最古に屬するが如し、而して其數も割合に多ければ當時の思想を窺ふには便宜ある次第なるが、今是等の品を見るに方形のもの絕無にして必ず之を圓形に造りしは一に天圓に象りしに相違なし、世には秦の方鏡を報じ、又漢の方鏡として其圖を揭ぐるものあれども信ずるこ[やぶちゃん注:ママ。「に」の誤植であろう。]足らず、當時は凡て圓形と見て可なり、而して古書によるに鏡は初め月に象りしとか或は日に象りしとか云へど、其背面の紋樣より考ふれば天圓と見るが穩當なる可し、去れば地方は多く鈕の周圍に示して天の地を覆ふ有樣を示せり、又其紋様なる四神十二支の如きは最初星形にて表せしにより、世人は之を乳と呼びて星と解せざれども、其實右は星を現はせしに相違なく、隨て四神は俗に四乳鏡と稱する四星を以て之を表し、中央の鈕を加へて五行の意味を明にせし實例多く之れ有り、其他七曜・九曜等も見へ、中には工人が無意義の數を示せし類もあれど、大抵は規則正しく之を現せり、而して十二支は初め鈕の周圍に十二個の乳を置しが、後には右に滿足せずして文字を加へ、更に一轉して帶外に十二肖屬を示すに至れり、此風は四神も亦同樣にて星外に圖象を示し、又乳と併せ圖せし例もあり、次に是等の四神と十二肖屬とを墳墓の棺槨[やぶちゃん注:「くわんくわく(かんかく)」。遺体を納める柩(ひつぎ)。]に書き、或は後者を人體形に變化し始めたるは何時頃なりやと云ふに、其起源は不明なれども、周代は諸侯、大夫の棺に雲氣を書𤲿くのみにて他の圖容なければ無論其風の行はれざりしを知る可く、漢に至て四神の描寫を初めたるが如し。

 漢書董賢傳に日く。

[やぶちゃん注:以下、同前。]

董賢自殺伏ㇾ辜、死後父恭不ㇾ悔ㇾ過、乃復以硃砂𤲿棺四時之色、左蒼龍、右白虎、上著金銀日月、玉衣、珠璧

 董賢は前漢哀帝の臣にて、大司馬衞將軍の職に昇りしものなれば、四神を棺表に𤲿くことは古く前漢時代に行はれしことを知るに足れり[やぶちゃん注:董賢の生涯については当該ウィキを読まれたい。]、然れども當時の遺品は世に傳はらず、其今日に知られたる類は多く六朝以後の例なるにより、右の盛行せしは恐らく後漢より三國時代に在らんか、蓋し支那の古墳沿革は他日別に說く可きも、其六朝時代に屬する壁書の古墳は今日朝鮮の大同江兩岸又は扶餘地方、猶古き分は鴨綠江岸の通溝、卽ち高勾麗の舊都等に存在せり因て右の大略を曰んに、是等の古墳中、石槨内面の構造蛇腹式屋根形のものには往々四神の像あり、今其小地名を擧んか、大同江岸の分には平安南道の江西及び鶴林面、具池洞、梅山里、延東里、又は平讓の北方處々に在り、扶餘地方は僅に一個所に過ぎざれ共、猶將來發見の見込なしとせず、面して是等は朝鮮の三國時代、卽ち高勾麗、百濟、新羅等割據の時代にして支那は六朝頃に當れば、常時此國に右の風習盛行せしことは明かなり、猶右の中には支那の唐代卽ち新羅統一時代に屬するものもあれば、爾後連續せし有樣なるも、其の四神形は高麗に入りて壁𤲿に迹を絕ち、專ら石棺彫刻の上に遺風を留めたり。

 以上述るが如く、支那にて棺面に四神を𤲿くことは前漢に始り、而して後漢書にも、木棺の表面に「鳥、黿[やぶちゃん注:「げん」。鼈に同じい。]、龍、虎」を書くことを記するにより、爾後漸次に發達し來りし迹を知れども.、其遺品の存否は不明なり、唯だ實物上にては鏡鑑に其類多く、又作柄の大にして且つ着色の鮮麗、運筆の奇拔なるは六朝時代に屬する古墳壁𤲿の外、他に見ること能はざるなり。

 次に十二肖屬は四神と同樣鏡背に表示せし例最も古く、次は石棺彫刻の類なれども、之を人體形に𤲿きたるは支那の起源明かならず、併し朝鮮にては新羅統一時代に行はれしにより、唐代の盛行は略ぼ推測するに足れり只だ其已前に在りや無しやは今日未だ決定し居らざるなり、去れ共此時代に至りては朝鮮の文化も非常に進み、且つ交通頻繁となりて、唐風模倣の流行甚だしかりしにより、或は彼の風と新羅の風とは時期に大差なかりしやも圖られざるなり、若し然りとせば十二支の人體化は一に唐代に在りと謂ふも不可なかる可し、但し四神と十二支とは星形時代に於ては別に前後の隔りなきも、之を古墳に表せし點より見れば大差あり、卽ち四神描寫の時代には未だ十二肖屬の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]世に現はれず、反之て[やぶちゃん注:「これにはんして」。]十二肖屬の行はれし頃は四神の風漸次衰へたるが如し、但し此十二肖屬の人體化は最初首丈を鳥獸形に示し、身體のみを人間風となせしが、髙麗卽ち五代以後に至りては、此全部を人間形となし、冠上の中央前立の邊に舊鳥獸形を表することゝなせり、今實例を擧げて之を日はゞ、朝鮮の慶州地方に存する王陵若くは金庾信の墓に存する腰石の浮彫り、又は墓中より出る小形の彫刻坐像は凡て前者に屬し、又開城附近に存する王陵の壁書及び石棺彫刻の分は後者に屬せり[やぶちゃん注:「金庾信」(キムユシン 五九五年~六七三年)は三国時代の新羅の将軍で新羅の朝鮮半島統一に最大の貢献をした人物として知られる。]、猶此十肖屬を墓側に立てし例は日本にもあり、卽ち奈良の元明天皇陵より出し七疋狐と稱するものは其類にて、本來は十二支の殘石なれども全部完備し居らざりしと、又偶ま狐に類する兎、狗の類殘れる爲め斯く傳稱せしものゝ如し、併し是等は人間風に立ち又は坐せし點のみが眞物と誤る譯にて手足と面貌とは猶ほ舊形を失はざるなり、去れば人體化の例としては確に古式を示すものにて、其類は未だ他國に見ること能はず[やぶちゃん注:読点なし。]故に學問上に取りてに實に得難き好資料と稱するを得可し。

    (五) 結 論

 以上述るが如く干支と四神とは支那の漢族間に發生し、其或ものは印度の古傳と結合せしも、本源は一に天體より出るが如く、又後世流れて各般の事物に應用せられし類には遂に人間化せしもあり、然れ共四神は龜蛇虎鳥の形體を變ずること能はず、十干は名稱以外に鎚化せず、單に十二支のみ數傳せしが、其源に溯れば文字以外の表示としては四神と十二支とは初め星形を用ひられ、後に鳥獸及び虫形と變ぜしなり、而して此類の智識が最初支那より印度に傳はれるや否やは、今俄に決すること能はざれども、其十二支に鼠、牛、虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば、其實例は夙に漢鏡に見ゆるにより、由來甚だ古きを知る可く、又其ものゝ日本、朝鮮等に流傳して種々變化し行く狀態を見れば、單に藝術上の巧拙を知る外に、思想上の異同と、應用上の如何とを知る媒[やぶちゃん注:「なかだち」。]ともなれば、其硏究上大に興味あるものと、云ふ可し。

  已上は大略なれども本題の起源、沿革等を述べ盡せるにより、本日は之にて終結とす可し。

 附言 講演の際は種々の材料を示せしも本誌には皆な之を省略せり。

[やぶちゃん注:最後の附言は、底本では全体が一字下げで二行に渡る。]

2021/03/02

南方熊楠 厠神(PDF縦書ルビ版) 公開

「南方隨筆」底本の「厠神」のPDF縦書ルビ版を、サイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神

 

[やぶちゃん注:「厠神」(かはやがみ)は大正三(一九一四)年五月発行の『人類學雜誌』二十九巻五号初出(リンク先は「J-STAGE」のPDF)。冒頭に出る、熊楠が触発された出口米吉氏の方の論考「厠神」はこれに先立って既に電子化してあるので、まずはそちらを読まれたい。

 本篇は、素人の私がさっと見ても、漢籍や経典引用の部分にはかなりの不審があり、ちょっと調べただけで多くは漢字の誤字であることが判った。一部は当該原文を探して確認し、或いはそれと並行して初出及び平凡社「選集」と対照し、正しい字を補ったり、訂したりしたが、それをいちいち指示するのは五月蠅いだけなので、原則、それらは注していない(かなりひどい。数十ヶ所に及んでいる。「人彘」を「人厠」と誤植したのを見た時は全身が脱力した)。但し、本篇は漢文原文の引用が訓点無しで、ごっそりと挿入されており、後注で読むとなると、読者自身が甚だ面倒に感じられると思うたので、特異的に当該漢文の後に訓読文を太字で挿入した。訓読には訓読されている「選集」を参考にはしたが、従えない読みが多く、私の我流で読んだ部分が殆んどである。本文のみに挑戦されたければ、太字を抜かして読まれればよい(但し、経文のそれは一部の漢字がかなり難読である)。訓読でも難解或いは意味不明な部分は後に注してある。書誌データの一部も「選集」で訂してある(これも特に指示はしていない)。

 

      厠       神

 

 自分の抄錄中より出口君の所輯(二九卷一號)を補はんに、君が玉手襁より引かれし、流行眼病を厠神に祈ること今も紀州にあり、田邊々には、眼病流行の際厠前に線香を焚き兩側に小き赤旗を樹て[やぶちゃん注:「たてて」。]祈り、又家内の人數程小き赤旗を作り厠壁に插し祈れば、かの病に罹らずと云ふ、厠神盲目なる故其爲に厠を掃除すれば神悅ぶ、孕婦[やぶちゃん注:「はらみめ」。]屢ば手づから掃除すれば美貌の子を生むと傳ふ、諸經要集卷八下、福田經云、佛自攝宿命所行、昔我前生爲婆羅奈國、近大道邊安設圊厠、國中人衆得輕安者莫不感義、緣此功德世々淸淨、累劫行道穢汚不汙、金色晃昱塵垢不著、食自消化無便利之患[やぶちゃん注:「『福田經』に云はく、『佛、自(みづ)から宿命の行(ぎやう)ずる所を說(と)くらく、「昔、我、前生(ぜんしやう)に婆羅奈(はらな)國の爲めに、大道の邊(ほとり)に近く、圊厠(せいし)[やぶちゃん注:「圊」も厠に同じい。]を安じ設(まう)く。國中の人衆、輕安を得る者、義に感ぜざる莫し。此の功德に緣りて、世々、淸淨なり。劫(こう)を累(かさ)ねて、道(だう)を行(ぎやう)じ、穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず、金色(こんじき)、晃昱(くわいく)として塵垢(ぢんこう)も著かず、食、自(おのづ)から消化し、便利の患(わづらひ)無し」と。』。]、是は厠を立て公衆に便せし福報を述たるなれど、由來除糞人を極て卑めし印度にも不淨の掃除を必要とせしは、賢愚經に、除糞人尼提出家を許され得道せし事、除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に[やぶちゃん注:「つねに」。]胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり、四十年計り前和歌山で聞しは、厠神一手で大便、他の一手で小便を受く、如し[やぶちゃん注:「もし」。]人、厠中に唾吐けば不得已[やぶちゃん注:「やむをえず」。]口もて之を受く、故に厠中に唾吐けば神怒ると、又傳ふ、厠神盲[やぶちゃん注:「めしひ」。]にして人に見らるゝを忌めば、厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべしと、是れ、其作法出口君が上の四一頁に引ける朝鮮の風に同じ[やぶちゃん注:「四一頁」は「三一頁」(初出4コマ目)の誤りではないか。しかし、空咳することは書かれておらず、物理的に必ずしも必要でない燈を灯すのは中国の風俗として出、朝鮮ではない。]、毘尼母經に、若上厠去時、應先取籌草至戶前、三彈指作聲、若人非人、令得覺知[やぶちゃん注:「若(も)し、厠に上り去(ゆ)く時は、應(まさ)に籌草(ちうさう)を取りて戶前に至り、三たび彈指(だんし)して聲を作(な)すべし。若し、人にても、非人にても、覺知するを得せしむ。」。]と有れば印度にも古く厠に入る前聲を發して人と鬼神に知しむる敎有りし也、雜譬喩經[やぶちゃん注:「ざつひゆきやう」。]に有一比丘、不彈指來、大小便臢汙中鬼面上、魔鬼大恚、欲殺沙門云々、[やぶちゃん注:「一比丘、有り。彈指して來たらず、大小便、中鬼の面上を臢汙(さんを)す。魔鬼、大いに恚(いか)りて、沙門を殺さんと欲すと云々。」。]大灌頂神呪經に厠溷中鬼[やぶちゃん注:「しこんちゆうき」。厠に巣食う悪鬼の名。「溷」も「厠」に同じい。]を載せ、卷七に噉人屎尿鬼[やぶちゃん注:「たんじんしにねうき」。同前の類いで、「人の屎(くそ)や尿(いばり)を好んで噉(くら)う鬼」の意。]を載す、正法念處經十六に、男若女、慳嫉覆心、以不淨食、誑諸出家沙門道士、言是淸淨、令其信用而便食之、或時復以非處應食、施淨行人、數爲此業、復敎他人、令行誑惑、不行布施、不持禁戒、不近善友、不順正法、樂以不淨而持與人、如是惡人、身壞命終、生惡道中、受于㖉托餓鬼、(魏言食唾)爲飢渴火、常燒其身、于不淨處、若壁若地、以求人唾、食之活命、餘一切食、生不得食、乃至惡業、不盡不壞不朽、故不得脫云々、若生人中、貧窮下賤、多病消瘦、鼻齆膿爛、生除厠家、或于僧中、乞求殘食、以自濟命[やぶちゃん注:「男、若しくは、女にして、慳嫉(けんしつ)もて心を覆(ふさ)ぎ、不淨食を以つて、諸出家・沙門・道士を誑(あざむ)き、『是れ、淸淨なり』と言ひて、其れ、信用せしめて、便(すなは)ち、之れを食はしめ、或る時は、復た、應に食ふべき處に非ざるものを以つて、淨行(じやうぎやう)の人に施し、數(しばし)ば此の業(おこなひ)を爲し、復た、他人をして、誑惑(きやうわく)を行ひせしめ、布施を行はせず、禁戒を持させず、善友に近づかせず、正法(しやうほふ)に順はざらしめ、不淨を以つて人に與ふを持つて樂しむ。是(かく)のごとき惡人は、身、壞(く)え、命、終らば、惡道の中(うち)に生じ、托餓鬼(きたがき)(魏にて「唾(つば)を食(の)むこと」を言ふ[やぶちゃん注:「托」の注。])の身を受く。飢渴の火の爲めに、常に其の身を燒かれ、不淨の處、壁、若しくは、地にありて、以つて人の唾を求め、之れを食みて命を活(い)かす。餘(ほか)の一切の食は、生(しやう)、食らふを得ず。乃(すなは)ち、惡業に至りて、盡きず、壞(く)えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若(も)し、人中に生まるるも、貧窮にして下賤、多病にして消(おとろ)へ瘦せ、鼻、齆(ふさが)り、膿み爛れ、除厠(くみとり)の家に生まれ、或いは僧中に、殘食(ざんぱん)を乞ひ求め、以つて自(みづ)から、命を濟(たす)くのみ。」。]と云ひ、如此衆生、貪嫉覆心、或爲沙門、破所受戒、而被法服、自遊衆落、諂誑求財、言爲病者、隨病供給、竟不施與、便自食之、爲乞求故、嚴飾衣服、遍諸城邑、廣求所須、不施病者、以上因緣云々、生阿毘遮羅(疾行)餓鬼之中、受鬼神已、于不淨處、噉食不淨、常患飢渴、自燒其身、若有衆生、行不淨者、如是餓鬼、則多惱之、自現其身、爲作怖畏、而求人便、或示惡夢、令其恐怖、遊行冢間、樂近死屍、其身火燃、煙炎俱起、若見世間疫病流行、死亡者衆、心則喜悅、若有惡咒、喚之則來、能爲衆生、爲不饒益、其行迅疾、一念能走百千由旬、是故名爲疾行餓鬼、凡世愚人、所共供養、咸皆號之、以爲大力神通夜叉、如是種々、爲人殃禍、令人怖畏、乃至惡業不盡不壞不朽、故不脫得云々、若生人中、生呪師家、屬諸鬼神、守鬼神廟、[やぶちゃん注:「此くのごとき衆生、貪嫉もて心を覆ぎ、或いは沙門と爲るも、受くる所の戒を破り、而して法服を被(かぶ)りて、自(みづ)から衆落に遊び、諂(おもね)り誑(あざむ)きて財を求め、『病者の爲めに、病に隨ひて、供給す』と言ひて、竟(つひ)に施與せず、便(すなは)ち、自(みづ)から之れを食らふ。乞ひ求めんが爲め故に、衣服を嚴飾(ごんしよく)し、諸城邑(しよじやういう)を遍(めぐ)りて、廣く須(もと)めらるるを求め、病者に施さず、以上の緣に因りて云々」。「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびしやらがき)に生まれ、鬼身を受け已(をは)りて、不淨の處にて、不淨を噉ひ食ひ、常に飢渴に患(くるし)み、自(みづ)から其の身を燒く、若し、衆生の不淨を行ずる者有れば、是のごとき餓鬼、則ち、多く、之れを惱まし、自(みづ)から其の身を現じ、爲めに怖畏を作(な)して、而して人の便(すき)を求(うかが)ひ、或いは惡夢を示し、其れを恐怖せしめ、冢(つか)[やぶちゃん注:墓場。]の間を遊行しては、死屍に近(したし)むを樂しみ、其の身は火と燃え、煙・炎、俱(とも)に起こる。若し、世間に疫病流行し、死亡せる者の衆(おほ)きを見れば、心、則ち、喜悅す。若し、惡咒有りて、之れを喚(よ)べば、則ち、來たり、能く衆生の爲めに不饒益(ふねうやく)[やぶちゃん注:無慈悲な災厄。]を爲す。その行くや、迅疾にして、一たぴ念ずれば、能く百千由旬(ゆじゆん)[やぶちゃん注:凡そ八百八十万キロメートル。]を走る。是の故に名づけて疾行餓鬼(しつかうがき)となす、凡そ世の愚人、共に供養され、咸(あまね)く、皆、之れを號(とな)へ、以つて大力神通夜叉(だいりきじんづうやしや)と爲す。是のごとく、種々(しゆじゆ)に人に殃禍(わざはひ)を爲し、人をして怖畏せしむ。乃(すなは)ち、惡業は至り、盡きず、壞えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若し、人中に生まるるも、呪師の家に生まれ、諸鬼神に屬して、鬼神の廟を守る。」。]斯る食不淨惡鬼を祀るより、自然厠神の觀念を生ぜしやらん、劉宋譯彌沙塞五分律廿七に有一比丘、在不應小便處小便、鬼神捉其男根、牽至屛處、語言大德應在此處小便[やぶちゃん注:「一比丘有り。應(まさ)に小便をすべからざる處に小便す。鬼神、其の男根を捉へ、牽きて屛處(へいしよ)[やぶちゃん注:仕切られた場所。]に至り、語りて言はく、『大德、應に此の處に在りて小便すべし。』と。」。]、これは厠神にあらず、僧が厠外に放尿したるをその處の鬼神が戒めたる也、增壹阿含經四四に、佛未來彌勒佛の世界を記す、鷄頭城中有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、常伺人民寢寐後、除去穢惡諸不淨者、又以香汁而灑其地、極爲香淨[やぶちゃん注:「鷄頭城の中(うち)に羅刹鬼あり。名づけて葉華(えふくわ)と曰ふ。行なふ所、法に順ひ、正敎(しやうぎやう)に違(たが)はず。常に人民の寢寐(しんび)したる後(のち)を伺ひ、穢惡(ゑを)したる諸不淨の者を除け去り、又、香汁を以つて其の地に灑(そそ)ぎ、極めて香淨と爲す。」。]これは好意もて人糞を掃除する鬼神也、印度の咒法中厠に關する者有り、例せば不空譯大藥叉女歡喜母並愛子成就法に、得貴人歡喜、取彼人門下土、以唾和作丸、加持一百八遍置於厠中、彼人必相敬順歡喜、[やぶちゃん注:「貴人の歡喜(くわんぎ)を得んとせば、彼(か)の人の門の下の土を取り、唾を以つて和(あ)へて丸(ぐわん)と作(な)し、加持すること、一百八遍し、厠の中(うち)に置かば、彼の人、必ず、相ひ敬順し、歡喜せん。」。]支那にも、厠中に祕法を行ひし例、明の祝穆の事類全書續集十に郭璞素與桓彜友善、每造之或値璞在婦間便入、璞曰、卿來他處自可徑前、但不可厠上相尋耳、必客主有殃、彜後因醉詣璞、正逢在厠、掩而觀之、見璞裸身被髮銜刀設醊、璞見彜撫心大驚曰、吾每囑卿勿來、反更如是、非但禍吾、卿亦不免矣、璞終受王敦之禍、彜亦死蘇峻之難、[やぶちゃん注:「郭璞(かくはく)、素(も)とは桓彜(くわんい)と友として善(よろ)し。每(つね)に之れに造(いた)り、或いは、璞、婦の間に在るに値(あ)ふも、便(すなは)ち、入る。璞曰く、『卿の他處(よそ)より來たる時は、自(おのづ)から徑(すぐ)に前(すす)むべし。但し、厠の上のみは相ひ尋ぬべからず。必ず、客・主に殃(わざはひ)あらん』と。彜、後、醉ふに因つて、璞を詣(たづ)ぬ。正(まさ)に厠に在るに逢ふ。掩(かく)れて之れを觀るに、璞、裸身・被髮して、刀を銜(くは)へ、醊(てつ)を設くるを見る。璞、彜を見て、心(むね)を撫(う)ちて、大きに驚きて曰はく、『吾、每に卿に『來たる勿れ』と囑(しよく)せるに、反つて更に是のごとし。但(ただ)、吾に禍(わざはひ)あるのみに非ず。卿も亦、免れざらん。』と。璞は終(つひ)に王敦(わうとん)の禍(くわ)を受け、彜も亦、蘇峻(そしゆん)の難に死す。」。]醊は字典に祭酹[やぶちゃん注:「さいらい」。「酹」は神を祀るに際して地面に酒を注ぐことを指す。]なりと見ゆれば、厠中に神酒を供えて[やぶちゃん注:ママ。]祀り行ひし也、甲陽軍鑑に、武田信玄每に軍謀を厠中に運らせしと有る如く、祕處では有り、且つ臭穢にして本主神外の鬼神忌みて近づかざるより、密法を修むるに便とせしならん、普明王經に、阿群佛法に歸し比丘となり、王一たび之を見んと望むも此比丘眼睛耀射にして當たり難きを以て、王之を厠中に請じ見る事有り、書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて[やぶちゃん注:「まかちて」。初出にルビ有り]。相問ふを得ずと有る如し、糞穢を以て邪視を破る事は、かつて本誌に述たり[やぶちゃん注:明治四二(一九〇九)年五月発行の『東京人類學雜誌』二百七十九号で、初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」。後の「小兒と魔除」(リンク先は私のPDF一括版)。冒頭から「屎」を名に持つ人名リストがバーンと出る。]、無能勝三藏が譯せる穢蹟金剛說神通大滿陀羅尼法術靈要門經には、佛涅槃に入て諸天大衆皆來て供養せるも、螺髻梵王[やぶちゃん注:「らけいぼんわう」。]のみ來らず、千萬の天女に圍繞されて相娛樂す諸大衆その我慢を惡み、百千衆呪仙をして往て取り來らしむるに、梵王種々不淨を以て城塹(じやうざん)となし、諸仙各々犯咒(咒破らるゝ事)されて死す、復た無量の金剛衆をして往かしむるも七日迄取り得ず、如來大遍知力もて其左心より不壞金剛[やぶちゃん注:「ふゑこんがう」。]を化出[やぶちゃん注:「けしゆつ」。]し、不壞金剛往て梵王所を指させば、種々穢物變じて大地となり、螺髻梵王發心して如來所に至ると有り、梵王糞穢もて呪仙を破りし也、酉陽雜俎十四、厠鬼の名は頊天竺[やぶちゃん注:「ぎよくてんじく」。](一曰笙[やぶちゃん注:これは「いつにいはく「しやう」。で一書では「天竺」ではなく「天笙」とするの意。])上の八三頁[やぶちゃん注:ここは「選集」では「『人類学雑誌』二九巻二号の八三頁」とされてある。残念ながら、当該ページは「J-STAGE」では読めないので誰の論文かも判らない。]に淵鑑類凾より引れし厠神狀如大猪と云る話は、支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪[やぶちゃん注:ここは豚(ブタ)のこと。前の「大猪」も「大きな豚」であって野猪(イノシシ)のことではないので注意。]を畜て糞を食しむる風有りしに基くなるべく、漢書に、賈姬如厠、有野彘、入厠中、[やぶちゃん注:「賈姬(かき)、厠へ如(ゆ)く。野彘(やてい/ゐのしし)あり。厠の中に入れり。」。]又呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事有り、事類全書續十に、侍御史錢義方居常樂第、夜如厠、忽見蓬頭靑衣者數尺來逼、義方曰、汝非郭登、曰然、餘乃厠神每月出巡、(續玄怪錄)、[やぶちゃん注:「侍御史の錢義方、常樂第に居(を)り。夜、厠に如(ゆ)くに、忽ち、蓬頭・靑衣の者、長(たけ)數尺なるが、來たりて逼(せま)るを見る。義方曰はく、『汝は郭登にあらずや。』と。曰く、『然り。余は、乃(すなは)ち厠神なり。每月、出でて巡る』と。」。]類函厠の條に晉書陶侃甞如厠、見一人朱衣介幘劒履、曰以君長者、故來相報、若後當爲公矦、侃至八州都督、又庾翼鎭荊州、如厠見一物、頭如方相、兩眼大有光、翼擊之入地、因病而薨、[やぶちゃん注:「陶侃(とうかん)、甞つて厠に如(ゆ)き、一人の、朱衣にして、介幘(かいさく)をかぶり、劒をはき、履(くつ)をはけるものを見たり。曰く、『君、長者なるを以つて、故に來たりて相ひ報ず。君、後に當(まさ)に公侯たるべし。』と。侃、八州の都督に至れり。又、庾翼(ゆよく)、荊州に鎭(ちん)たり。厠に如(ゆ)き、一物(いちぶつ)を見る。頭は方相(はうさう)のごとく、兩眼、大いに、光、有り。翼、之れを擊てば、地に入れり。因りて病みて薨ず。」。]是れ人死して厠神となり、厠中に吉凶を告る神有り、又人を驚かす鬼物有りとせる也、類凾卷十七と二五八に歲時記と異錄傳を引て厠の女神の傳を載す、文差や[やぶちゃん注:「やや」。]相異なるを以て綜合して記さんに、廬陵歐明從賈客、道經彭澤湖、每以舟中所有、投湖中爲禮、後復過湖、忽有一人著禪衣乘馬、來候明云、是靑湖君使也、靑湖君感君有禮、故邀君、必有重遺、君皆勿取、但求如願、明既見靑湖君、乃求如願、如願者靑湖君之神婢也、靑湖君不得已、呼如願送明去、明將如願歸、所願卽得、數年大富、後正旦如願晚起、明醉撻之、走入糞壤中不見、今人、正旦以繩繫偶人、投糞壤中、云令願以此、[やぶちゃん注:「廬陵の歐明(わうめい)、賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]に從ひ、道に彭澤湖(はうたくこ)を經(とほ)るに、每(つね)に舟中に有る所のものを以つて、湖中に投じて禮と爲す。後、復た、湖を過ぐるに、忽ち、一人(いちにん)有り、禪衣(ぜんえ)を著(き)て馬に乘り、來たって明に候(つか)へて曰く、『是(これ)は靑湖君が使ひなり。靑湖君、君の禮あるに感じ、故に君を邀(むか)ふ。必ず、重き遺(おくりもの)有らんも、君、皆、取る勿れ。但(ただ)、如願(じよぐわん)のみ、求めよ。』と、明、既に靑湖君に見(まみ)え、乃(すなは)ち、如願を求む。如願とは靑湖君の神婢なり。靑湖君、已むを得ず、如願を呼び、明を送り去らしむ。明は如願を將(つ)れ歸るに、願ふ所あらば、卽ち得(え)、數年にして、大いに富めり。後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走りて入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり。」。]淸湖君、一に靑洪君に作る、事類全書前集六には有商人過靑湖見淸湖君云々[やぶちゃん注:「商人有りて靑湖を過ぐるに、淸湖君に見ゆ云々」。]とせり、予幼かりし時亡母つねに語りしは、厠を輕んずるは禮に非ず、昔し泉州の飯(めし)と呼ぶ富家は、其祖先が元旦雪隱の踏板に飯三粒落たるを見、戴いて食ひしより打ち續き幸運を得て大に繁昌に及べりと、平賀鳩溪實記卷一三井八郞右衞門源内へ對面の事の條、源内の詞に、「是の三井家は誠に日本一の金持にして、鴻池抔よりも名譽の家筋也云々、凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」と有る飯氏なるべし、是れも厠を敬せしより其神幸運を與えし[やぶちゃん注:ママ。]とせしならん、倭漢三才圖會八一に白澤圖云、厠惟精名倚(上の三〇頁出口君が引きしには「停衣と名づく」とあり[やぶちゃん注:出口米吉「厠神」の初出の2コマ目(私の電子化はこちら)。正確には『白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ』である。])、著靑衣持白杖、知其名呼之者除、不知其名呼之則死、又云築室三年不居其中、見人則掩面、見之有福、居家必用云、厠神姓廓名登、是庭天飛騎大殺將軍、不可觸犯、能賜災福、[やぶちゃん注:以上は後注で同書の「厠」の項の全部を示す。]鬼神其名を人に知れて敗亡せし諸例は、「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり[やぶちゃん注:これは後の「續南方隨筆」で総括された「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節。後注参照。]、廓登卽ち上に引る事類全書の郭登なるべし、厠神人を見て面を掩ふは日本で厠神に見らるゝを忌むと云ふに近きも、其面を見れば福有りと云ふは此邊で傳ふる所に反せり、熊野の或部分には今も厠を至極淸淨にし、四壁に棚を設け干瓢椎茸麪粉[やぶちゃん注:「むぎこ」。]氷豆腐等の食物及び挽臼等を置き貯へ、上に玉萄黍、蕃椒[やぶちゃん注:「たうがらし」。]等を懸下す、其體、一見のみでは不淨處と信ぜられず、予夜分始て之に入り、自ら夢裡に有るかと疑ひ、燈を携へて見廻り又身體諸部を撚り[やぶちゃん注:「ひねり」。]驗[やぶちゃん注:「けみ」。]せし程也、後ち其邊の人來る每に子細を尋ぬるも耻ると見えて一向然る事無しと答ふ、去年酒井忠一子に此事を語りしに、日向とかにも斯る風有る地方有り、古え厠を殊の外に重んぜし遺俗と聞りと話されつ、件の熊野山村の俗語に放蕩息子を罵りて、汝は親の雪隱に糞垂るべき者に非ずと云ふを攷ふれば、酒井子の言の如く厠を家の重要部と尊ぶ土俗も存せしにや、定めて彼諸村には多少厠神崇拜の遺風も傳はり居る事なるべければ再度自ら往て調査せんと欲す、序に言ふ、南洋のツイトンガ島民は、死人の魂が諸神に食れ竟れば[やぶちゃん注:「くはれをはれば」。]得脫すと信じ、島中最も重んぜらるゝ人の葬禮後、貴族の男六十人十四夜續けて死人の墓に大便し其人々の妻女來て之を取除く、是れ死人の魂諸神に食れて淨化し盡されたるを表す、又速かに得脫するを促がす者ならんとは椿事也(Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872)、又同卷三〇五頁に、新西蘭[やぶちゃん注:ニュージーランド。]の人、死して樂土に行ざる魂は糞と蠅を常食とすと云ひ、曾て此世なる幼兒を育てん迚樂土より還る婦人、途中其親族の死靈が住る村を通るに彼輩之に人糞を食へと迫る、其亡父の靈獨り之を制禦し、クマラ根二本を與えて[やぶちゃん注:ママ。]遁れ去らしむるに、惡靈二個なほ追來るを件の二根を抛て[やぶちゃん注:「なげうちて」。]遮り歸りし話有りと載たり、其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘[やぶちゃん注:「くろみかづら」。]と湯津爪櫛[やぶちゃん注:「ゆつつまぐし」。]を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂[やぶちゃん注:「よもつひらさか」。]に到り玉へえるに似たり、新西蘭の神話葬儀が糞に緣有る事如斯なれば必ず厠神に關する譚も行はれし事と察すれど、予の筆記不備にして只今其詳を知るに由無し。

 

 追 記

 種々の物を用て追ふ者を妨げし譚は日本と新西蘭の外にもあり、支那には梁の慧皎[やぶちゃん注:「ゑかう」。]の高僧傳八に、劉宋の釋玄暢北虜滅法の際平城より逃れ、路經幽冀、南轉將至孟津、唯手把一束楊枝一扼葱葉、虜騎逐追、將欲及之、乃以楊枝擊沙、沙起天闇、人馬不能前、有頃沙息、騎已復至、於是投身河中、唯以葱葉内鼻孔中、通氣度水、以八月一日〔元嘉二十二年〕達于揚州、[やぶちゃん注:「路(みち)に幽・冀を經(へ)、南に轉じて將に孟津に至らんとす。唯、手には一束の楊枝と、一扼(やく)の葱葉(ねぎ)とを把(も)てるのみ。虜騎、逐追(ちくつい)して、將に之れに及ばんとす。乃(すなは)ち、楊枝を以つて沙を擊つに、沙、起りて、天、闇(くら)み、人馬、前(すす)む能はず。頃(しばら)く有りて、沙、息(や)み、騎、已に復た至る。是に於いて身を河中に投じ、唯、葱葉を以つて鼻孔の中(うち)に内(い)れ、氣を通じて、水を度(わた)る。八月一日〔元嘉二十二年[やぶちゃん注:南北朝時代の劉宋の文帝の時代の年号。ユリウス暦四四五年。]〕を以つて揚州に達す。」。]歐州には希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り、スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼[やぶちゃん注:「トール」のこと。]に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え[やぶちゃん注:「さえ」。遮(さえぎ)り。]童子脫するを得と有り (Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869,vol,ii,pp.276-274)、蘇格蘭[やぶちゃん注:スコットランド。]、印度等にも似たる譚有りて Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443 に委細載せたり。

     (大正三年五月、人類第二十九卷)

 

[やぶちゃん注:「厠神」「ブリタニカ国際大百科事典」の「厠神」から引いておく(コンマをピリオドに代えた)。『便所の神のことで、便所神、雪隠 (せっちん) 神、おへや神などとも呼ばれている。厠とは便所のことで、その語源については、川の上あるいは川のほとりに設けられた川屋にあるとする説が有力である。その祀り方は地方によって異なり、便所をいつも清浄にして灯明をあげたり、人形を祀り』、『花を供えたり、小さな神棚を設けたり、新設するときに』は、『甕の下に人形を埋めたり,大病になった』際には、『願を掛けて』、『花や酒を供えたりする。また、お産とも関係が深く、妊婦が美しい子の誕生を祈願して厠を清めたり、臨月に便所にお参りをし』、『お産が軽くすむように祈願したりするが、これは排便の様子が』、『お産の様子に類似するところから生じた類感呪術の一種と思われる。関東地方には赤子の初外出に便所参りをする風習がある』。

「諸經要集」唐の律宗 (南山宗) の僧道世(?~六八三年)著。全二十巻。仏教の典籍の中から,特に善悪の行為と、それに対する報いについて抜き出し、三十部に分類して整理したもの。仏教文献を検索するのに便利な書物で、同じ著者に依る同じ範疇に属する書物に、かなり知られた「法苑珠林』(全百巻)がある。なお、以下に出る経典類は煩瑣なだけなので、注しない。

「婆羅奈(はらな)國」古代インドの王国。「ワーラーナシ」の漢音写で、別称「カーシー国」。マガダ国の西、コーサラ国の北にあり、現在のワーラーナシ(バラナシ・ヴァラナシ)(グーグル・マップ・データ)を中心とした地方。釈尊が成道後、波羅奈国の鹿野苑 (サールナート) で初めて五比丘に説法をしたことで知られ、アショーカ王がこれを記念して二石柱を建立している。

「穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず」重語表現になっているが、ようは「一点の穢れも成さず」の意であろう。

「晃昱(くわいく)」(こういく)は明らかな光を発して輝くさま。「選集」は『晃々』とするが、経典類を検索したところ、「南方隨筆」の通りで正しいものを見出すことが出来た。

「除糞人」便器・便槽の糞尿を始末することを生業とする人々。

「除糞人尼提出家を許され得道せし事」芥川龍之介が(大正一四(一九二五)年九月発行の『文藝春秋』に発表した短篇「尼提(にだい)」に描かれている。「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字新仮名)。

「除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり」「大蔵経DB」の当該経典「仏說除恐災患經」から見出せた。以下。一部の漢字を正字化した。

   *

時有衆女。欲供養塔。便共相率。掃除塔地。時有狗糞。汚穢塔地。有一女人。手撮除棄。復有一女。見其以手除地狗糞。便唾笑之曰。汝手以汚不可復近。彼女逆罵。汝弊婬物。水洗我手。便可得淨。佛天人師。敬意無已。手除不淨。已便澡手。遶塔求願。今掃塔地。汚穢得除。令我來世勞垢消滅淸淨無穢。時諸女人。掃塔地者。今此會中。諸女人是。爾時掃地。願滅塵勞。服甘露味。爾時以手。除狗糞女。今柰女是。爾時發願。不與汚穢會。所生淸淨。以是福報。不因胞胎臭穢之處。毎因花生。

   *

そこで原版本の当該部も確認したが、「奈女」ではなく、「柰女」であった。但し、異体字なので問題はない。ウィキの「アンバパーリー」(彼女のことである。生没年は不詳)によれば、『アームラパーリー』とも。漢音写は『菴摩羅、菴没羅など多数』あり、漢訳では『㮈女、柰女、非浄護など』があり、『釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の』一人とする。『ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリー』、則ち、『マンゴー林の番人の子といわれるようになった。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』。『釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した』。「長老尼偈註」に『よれば、出家し』、『高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる』。「テーリーガーター」では、『彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に阿難が誡めのために偈を説いて』おり、「大般涅槃経」では、『リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈尊を招待している。公子らがその招待を譲り受けんと乞うも』、『彼女は譲らなかったという。その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。後の天竺五精舎の』一『つ菴羅樹園精舎である。この件は諸文献に通じるエピソードである』。南伝「マハーヴァッガ」では、『彼女の美貌により』、『ますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという』。「雑阿含経」及び「長部註」に『よると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈尊は弟子』衆に、『その美貌で心が揺れないよう』、『四念処を説いたとある』。「㮈女祇域因縁経」では、『彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって』十五『歳の時に』七『人の王が求婚したが』、『すべて断った』といい、須漫と波曇と称した二人の娘も『彼女と同じように』、『各々』、『樹華より生まれたという。彼女と二女は共に』五百『人の女性を率いていたが、釈尊の説法を聞いて出家し』、『悟りを得たという』とある。さて、この「胞胎」とは、母胎内で胎児を包んでいる胞衣 (えな) を指し、胎生のことで、 胎生は「輪廻の迷い」を繰り返すことであることに注意。だから、そこからではなく、香良き清浄なる花から彼女たちは生まれたのである。

「厠中に唾吐けば神怒る」これは私もよく聴いた風俗であるが、この場合は、理由がよく判らない。或いは、唾は便ではなく、しかも眉唾などで知られる(一般には狐狸などが人を化かすに際しては、その人物の眉の本数を数えて知ることが必須条件とするというが、私はどうもあまりそれを信じていない)が、唾にはある種の生臭さがあり、それを妖魔が嫌うのではないかと私は考えており、厠神が元は鬼神であったという熊楠の挙げる例を考えるとなら、陰気である汚物である大便でも小便でもない、しかも腥い人間の体液(汚物ではない陽の生気に属するもの)だから、嫌悪し、怒るのではないかと考えたことを言い添えておく。

「厠神盲にして人に見らるゝを忌めば」物の怪・鬼神は先に見られる(見切られる)ことで、相手に負けるというのは民俗社会のお約束ごとである。ただ、ここで「厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべし」というのは、目が見えなくても、光は感ずるのかとも思う。

「籌草(ちうさう)」不詳。当初は物理的に尻の後始末をする竹箆(たけべら)や拭き取る草かと思ったが、それは当たり前のことで書くべきことではないから違う。「籌」は占いに用いる竹製の算木を指すことが多いから、何らかの呪具のようにも思われる。

「彈指(だんし)」爪弾(つまはじ)きをすること。呪的には音を出して邪気を払う仕草として知られるが、ここは本来のそれが善神たる厠神となるとともに変容し、相手に「姿をお現わしになられませぬように」と事前の注意を促すという意に変化しているのかも知れない。

「非人」厠神以外の鬼神・神仏、果ては、物の怪。

「臢汙(さんを)」穢すこと。

「慳嫉(けんしつ)」自分の利益のためだけの物惜しみと嫉妬心。

「㖉托餓鬼」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道」に、「食唾(じきた)餓鬼」を載せ、まさにこの原文を訳した通りに、『男、若し』く『は』、『女が』、『慳嫉で心を覆い、不浄の食を以て諸の出家の沙門・道士を誑かして、「この食は清浄であります。信用してください。」と言い、これを食べさせる。或いはまた浄行人に非所(食べる場所ではない)で施して食わせる。此の業』(ごう)『を数々造り、また他人にも教えて誑惑を行う。布施を行わず、禁戒を持たず、善友に近づかず、正法に順ぜず、不浄を楽しみ、さらに人にも教える。このような悪人は身壊れて命終し、悪道の中に生まれ、食唾餓鬼の身を受ける。常に其の身を焼かれる。不浄の処に於いて、壁、若しは地で、人の唾を求めて食べて自活する。余の一切の食は悉く食べることができない。悪業が尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して苦を受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『食唾(じきた)、僧侶や出家者に、不浄な食物を清浄だと偽って施した者がなる。人が吐いた唾しか食べられない』とする。

「衆落」人々の集団。「聚落」「集落」に同じ。

「嚴飾」立派に飾ること。相応の上流階級の者たちをも信用させて布施を得るためである。

「諸城邑(しよじやういう)」それぞれの地方の城壁に囲まれた首都及びその周辺を領する諸侯・大夫の領地・封土。

「廣く須(もと)めらるるを求め」あらゆる求め得ることの出来るものはその総てを貪欲に求め。

「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびらがき)」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道二」の「疾行餓鬼」に、同じくここを訳した如く、『此の衆生は貪嫉で心を覆い、若し沙門と為れば破戒するが、されども法服を着て集落に遊び、諂誑して財を求めて「病者には病に随って供給すべし。」と言いながら結局自分は施しを与えず、自ら之を食べる。乞求の為に衣服を飾り、諸の城邑を巡り、広く施を求め、病者には施さない。この因縁を以て身壊れて命終し、悪道に堕ち、疾行鬼の身を受ける』。『不浄の処に於いて不浄を食し、常に飢渇に患わされ、其の身を焼かれる。若しは』、ある『衆生が不浄を行うなら、この餓鬼はすぐにこの者を多く悩ます。其の身を自ら現して怖畏を与える。人の便りを求め、或いは悪夢を示し、恐怖を与える。塚の間を遊行し、死屍に楽近し、其の身は燃え盛って火炎が起こり、若し世間に疫病が流行して死亡者が出るならすぐに心が喜悦する。若しは悪呪が有って召喚されるなら直ぐにやって来て、衆生によく不利益になること』なす。『其の動作は迅疾で、一念でよく百千由旬を至る。この故に「疾行餓鬼」と名』づ『けられる。凡世の愚人の供養する所。咸いは皆之を「大力神通夜叉である」と号す。このように人に種種の災禍をもたらす。悪業は尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して 、苦を受ける。若し人に生まれるなら呪師の家に生まれて諸の鬼神に属し 、鬼神の廟を守る。余』、『業』(ごう)『を以ての故』に、こ『のような報いを受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『疾行(しっこう)、僧の身で遊興に浸り、病者に与えるべき飲食物を自分で喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし』、『屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た場所に、一瞬で駆けつける』とある。

「呪師」この場合は狭義の魔神・淫祠邪教を崇める邪悪極まりない呪われた呪術師の限定。

「劉宋譯彌沙塞五分律」(みしやそくごぶりつ(みしゃそくごぶりつ))は南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)の建国直後に仏陀什(ぶっだじゅう)・竺道生(じくどうしょう)らによって訳された(四二二年から四二三年)「彌沙塞部和醯五分律」(みしゃそくぶわけいごぶりつ)。仏教教団(サンガ)を正しく維持運営してゆくために必要な教団規則と運営法を記した一つ。

「大德」個人的には上田秋成の「雨月物語 卷之五」の名作「靑頭巾(あをづきん)」(リンク先は私の古い電子化。私の高校教師時代の授業ノート及びオリジナルの現代語訳もある)以来、私は「だいとこ」としか読まない。

「羅刹鬼」羅刹天(らせつてん)は仏教の天部の一つである十二天に属する西南の護法善神。単に「羅刹」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、『羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王』(ねいりちおう/にりちおう)。『破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指す時もある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える』。『ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたもので』、『その起源は』『アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた』。「ラーマーヤナ」では、『クヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ね』、『バラモン・ヒンズー教では』、『人を惑わし』、『食らう魔物として描かれることが多い』が、『仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようにな』り、『十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる』。『中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった』。十『世紀の延暦寺の僧』で、本邦の浄土教の祖である源信の「往生要集」は、『その凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている』。一般に『羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラークシャサ、ラークシャス、ラクシャーサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また』、『羅刹女といえば』、「法華経」の「陀羅尼品」に『説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに』「孔雀経」では』七十二もの『羅刹女の名前が列記されている』とある。

「葉華(えふくわ)」竺法護(じくほうご 二三一年~三〇八年?:西晋の僧。遊牧民であった月氏(げっし)の出身。西域諸国を巡遊して経典を収集し、般若思想の仏典を中心に漢訳した。月氏菩薩・敦煌菩薩とも称された)の訳になる「彌勒下生經」(みろくげしょうきょう)にも「是時翅頭城中、有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、每向人民寝寐之後、除去穢惡不浄者、常以香汁而灑其地極爲香淨」(是の時、翅頭城の中に羅刹鬼有り。名を葉華と曰ふ。所行、法に順ひ、正教違はず、每(つね)に人民に向きて、寝寐の後、穢惡不淨の者を除け去り、常に香汁を以つて其地に灑ぎ、極めて香淨と爲す)とほぼ同じようにあり、この方が熊楠が引く「增壹阿含經」より古い漢訳と思われる。

「祝穆の事類全書續集」、南宋の学者祝穆(しゅくぼく 生没年不詳:彼の曾祖父祝確は朱熹の母方の祖父で、祝穆自身も朱熹に学んだ)類書で正しくは正篇は「古今事文類聚」で「續集」の他に「後集」「外集」もある。「中國哲學書電子化計劃」で影印本で当該部の「戒厠上相尋」(厠の上に相ひ尋ぬることを戒む)が読める。

「郭璞(かくはく)」空想地誌で魯迅も耽読した「山海經(せんがいきょう)」の最古の注釈で知られる西晋・東晋の文学者にして卜占家として有名であった郭璞(二七六年~三二四年)。河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)の人。文才と卜占術により、建国間もなかった東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や「捜神記」などの志怪小説においては、超人的な予言者や妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通じたのみならず、古典にも造詣が深く、「山海経」の他にも「爾雅」などに注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」・「江賦」などが代表作として残る。参照した当該ウィキによれば、低い家柄に生まれ、『訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から』「青囊中書」という『書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、いにしえの』漢の「易経」の専門家『京房』(けいぼう)や三国時代の占い師として有名な管輅(かんろ)をも『凌ぐほどであったという』。後続同士の内乱である「八王の乱」によって『中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によると、江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという』。『江南に来た郭璞は、その後、司馬睿』(えい)『(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となり、その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も受けるに至った』。『東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子司馬紹(後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった』政治家温嶠(おんきょう)や庾亮(ゆりょう)『らと同等の待遇を受けた』。しかし、三二四年、司馬睿から大将軍の地位を賜った『王敦』(おうとん)が『反乱を企て、郭璞に』、『その成否を占わせたところ』が、『「成る無し」の結果がでた。占いを命じた王敦は、『かねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていたので』、その『結果に激怒し』、『郭璞を処刑した。享年』四十九。「王敦の乱」が『平定されると、弘農郡太守を追贈され、子の郭驁』(かくごう)『が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った』。

「桓彜(くわんい)」(二七六年~三二八年)は西晋末から東晋初期の官僚・政治家。譙国竜亢県(現在の安徽省蚌埠市懐遠県)の人。東晋の朝廷の運営や地方の統治で活躍したが、「蘇峻の乱で討死した。当該ウィキによれば、貧しい家柄の出であったが、『朗らかで早くから盛名を得』、『道徳的秩序や物事の本質を見極めることに長け、幼少の頃から』、『才は抜きん出ていた』という。『西晋に仕え、兗州』(えんしゅう)『の主簿』から、三〇一年三月には『斉王司馬冏』(けい)『の挙兵に赴き、騎都尉に任じられた』。その後、当時、安東将軍であった『司馬睿から逡遒』(しゅんしゅう)『県令に任じられ』、三一一年十二月には『江南に渡り』、既に『丞相』となっていた『司馬睿に仕えた』。その後、『丞相中兵属・中書郎・尚書吏部郎を歴任、朝廷内で名声を高め』、『河北から温嶠がやってくると、王導・周顗』(しゅうぎ)・『謝鯤・庾亮らとともに親交を結んだ』。『大将軍王敦が権力を握ると、桓彝は病と称して職を辞したが。後の『皇帝司馬紹から散騎常侍に任じられ、王敦討伐の密謀に参画した。王敦の乱平定後、万年県男に封じられた』。『丹陽尹温嶠の推薦を受け、司馬紹自ら詔勅を発して宣城内史に任じられた。桓彝は宣城を治める任に堪えられないと上疏した』ものの、『しばらくして、宣城内史就任を承諾した。郡内に善政を敷き、百姓らに親しまれた』。三二七年十二月、『冠軍将軍蘇峻が朝廷に対し、反乱を起こした。桓彝は兵を率いて建康に赴こうとした。長史裨恵』(ひけい)『は、宣城郡の兵は』少ない上に脆弱な上、『民は動揺しやす』かった『ため、備えを解いて』、『反乱が終わるのを待つことを勧めた』が、『桓彝は』色を変え、「『君主に無礼をする者には、たとえ、相手が強い鷹鸇(ようせん:「鸇」はハイタカ又はハヤブサ)で、自分が弱い鳥雀(うじゃく)であったとしても、これを追い払うべきものである』と言いうではないか。今、社稷に危機が迫っているのに、義を無くして、くつろぎ楽しんでおれようか」と怒り、『将軍朱綽』(しゅしゃく)『を遣わし、蕪湖で蘇峻軍を破った。桓彝は蕪湖に進んで屯した。蘇峻軍の将韓晃は桓彝を破り、宣城に進攻した。桓彝は広徳に退いた。韓晃は周囲の諸県を掠奪して帰還した』。三二八年五月、『桓彝は建康が陥落したと聞き、涙を流して歎き悲しみ、涇県に進んで屯した。この頃、州郡の多くが蘇峻に降伏していた。裨恵は蘇峻に使いを送り、友好を結んで災いを避けるように説いた。桓彝は「私は国から厚恩を受けており、義のために死ぬつもりだ。恥を忍んで、逆臣と通ずる』ことなど思いもよらぬ。『たとえ揃わずとも、私の考えに変わりはない」と断った。桓彝は将軍兪縦に蘭石を守らせた。蘇峻は韓晃に攻撃させた。兪縦は敗れ』、激戦の『末』、『討ち取られた』。『韓晃は宣城を攻めた。援軍はなく、韓晃軍は「桓彝が降伏すれば、礼をもって優遇する」と降伏を呼びかけた。将兵の多くは、偽りの降伏をして後々の機会を待つように勧めた。桓彝は従わず、抗戦の意志を変えなかった』。六月、『宣城は陥落、桓彝は韓晃に討ち取られた。享年』五十三。『蘇峻の乱平定後、廷尉を追贈され、簡と諡され』、『咸安年間に太常に改贈された』とある。『幼少から庾亮とは親交があり、雅で上品であったため』、『周顗に重用された。周顗は』、「彼の人品高潔なさまと言ったら、「思わず笑う人がいるに違いない」とまで嘆いたという。『江南に渡った際、桓彝は司馬睿の朝廷が微弱であるのを見て、軍諮祭酒周顗に「私は中原の混乱を避け、安全を求めて来たというのに、こんなに弱々しくては、どうして事を成すことができようか!」と憂いと懼れのため』、『楽しめずにいた。軍諮祭酒王導のもとを訪れ、ともに世事のことについて語り合った。その後、周顗に「管夷吾(管仲)を見た。もう憂うことなどないぞ」と喜んだ』という。(以下は本エピソードの訳)『占術者の郭璞と親交を結んでいた。桓彝はいつも郭璞の妻がいる間にやってきた。郭璞は妻に「卿が他所から来られたら、小道の前で迎えるように。ただし、廁に入っているときは様子を探らなければだめだ。必ず客や私に災いが有るだろう」と告げた。桓彝が酔って郭璞の家にやってきて、廁で郭璞と会ってしまった。郭璞は裸になって髪を振り乱し、刀を咥えて祭壇を設けた。郭璞は桓彝を見て、心をなだめつつ』、『大いに驚き』、『「あなたと私は友ではあるが、今、来てはいけなかった。もう少し遅ければ、このようにはならなかった!』 『災いは私だけでなく、あなたも免れないだろう。これは天が成したことで、誰に罪があろうか」と言った。郭璞は王敦の乱で、桓彝は蘇峻の乱でいずれも殺害された』とある。さても、これは注に「晋書」の巻七十二の「郭璞」からとするのだが、例えば、中文サイトのこちらで、そちらの部分を読めるのだが、その禁忌の戒め部分は婦人に郭璞は妻に言ったように書き分けられてはいないし、私自身「戒」とする以上、これは郭璞が桓彝に禁忌として言ったとしか読まなかったし、読めないのである。ともかくもこのシークエンスは――郭璞が――誰にも見られないようにして――厠の中で厠の神を祀る秘密の儀式を行っていた――この秘儀が人に見られた場合には――祭祀をしている自分だけでなく――それを見てしまった人間にも災いが齎される――と言っているということである(そもそもが、この戒を妻に言った場合には、覗き見するのは、妻の可能性が志怪小説なら非常に高くなる気がするから、そうした意味からも、先の訳は、ちょっと変であると私は思う)。最後に言っておくと、桓彝が戦死するのは郭璞が殺された四年後のことであった。郭璞の予言は見かけ上は当たっていたようには見えないこともない。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡下野(おばたしもつけ)が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「阿群」一応、「あぐん」と読んでおくが、どのような由来を持つ僧侶かは全く不詳。

「眼睛耀射にして當たり難きを以て」その目の瞳の輝き照射する眼光が眩しく鋭いために、直接に対面して向き合うことが出来にくいことから。

「書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて、相問ふを得ずと有る」「南方熊楠 小兒と魔除 (4)」の私の注で「日本書紀」の当該箇所の原文及び訓読を電子化してある。

「無能勝三藏」「能く勝れるもの無き三藏法師」の意で、玄奘(げんじょう 六〇二年~六六四年)の尊称の一つ。

「螺髻梵王」以下は梵天の伝承の一つか。

「呪仙」ありとある呪術呪文・仙術法を駆使して。

「城塹」城壁と塹壕。

「如來」この場合は涅槃を経て成った「釋迦如來」のことのようである。

「不壞金剛」本来は「極めて堅固で決して壊れないこと・志を堅く守って変えないこと」で仏の身体について言った語とされる。「金剛」は金石(きんせき)の中で最も硬いダイヤモンド、或いは金又は鉄鋼石であるが、ここは釈迦如来の体内から遣わした金剛力士として仏身の変化の一部とされてある。

「酉陽雜俎十四、厠鬼の名は……」巻十四「諾皋記上」の『「太真科經」說』で始まる一節に、

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厠鬼名頊天竺【一曰笙。】。(厠の鬼は「頊天竺(ぎよくてんぢく)」と名づく【一つに「笙」と曰ふ。】。

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とある。私が面白く思ったのは、それに続けて、

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語忘、敬遺、二鬼名、婦人臨產呼之、不害人。長三寸三分、上下烏衣。(「語忘と「敬遺」とは、二鬼の名なり。婦人の產に臨むに、之れを呼ばば、人を害せず。長(た)け三寸三分、上下(かみしも)は烏衣(うい[やぶちゃん注:黒い着物。])たり。)

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ことである。熊楠も言っているように排泄と出産及び厠は親和性が強いのである。

「淵鑑類凾」(底本では「凾」と「函」が混用されている。統一する必要はないのでそのまま電子化してある)は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。巻三百五十の「厠一」の一節に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこの最後から視認し、一部の漢字は正字化した)、

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紀聞曰宣城太守刁緬初爲玉門軍使有厠神形見狀如大猪遍體皆有眼出入溷中游行院内緬時不在官吏兵卒見者千餘人如是數日緬歸祭以祈福厠神乃滅旬日遷伊州刺史歷官至翰林左將軍 語林曰石崇厠常有十餘婢列皆佳麗藻飾置甲煎沈香無不畢具又與新衣客多不能著王敦爲將軍年少往脫故衣著新衣氣色傲然羣婢謂曰此客必能作賊 世說曰王大將軍敦初尙主如厠見漆箱中盛乾棗本以塞鼻王謂厠上下果食遂至盡既還婢擎金澡盤盛水琉璃碗盛澡豆敦自倒著水中而飮之謂之乾飯羣婢掩口而笑之葆光錄曰台州有民姓王常祭厠神一日至其所見著黃女子云某台州人也君聞螻蟻言否民曰不聞遂懷中取小合子以指㸃少膏如口脂塗民右耳下戒之曰或見蟻子側耳聆之必有所得民明旦見柱礎下羣蟻紛紜聽之果聞相語移穴去暖處傍有問之何故云其下有寶甚寒住不安民伺蟻出訖尋之獲白金十錠

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これは後学の方のために写し置いただけで、よく意味が判らぬのだが、ここに出る王敦って、さっき出た郭璞を殺した彼か? 何か、因縁っぽい!

「支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪を畜て糞を食しむる風有りし」これはかなり知られた話である。家屋の厠の下が豚舎になっていて、人糞を豚が餌にしていたのである。実は便所を意味する「溷」或いは「圂」とはもともとは「豚小屋」の意である。「豕」+「囗」の会意で、「説文」に「囗に從ひ、豕の囗中に在るに象る」とあり、「囲いに豚がいる」という字で、「囲いに豚を飼い、また、その傍らで用を足しては人糞を豚の餌とする」ことを見する。「溷」は排泄で「水が濁る」の意と、「豢」が「家畜」という意に通ずる。畑の肥料ばかりではなかったのだ! 驚く勿れ! 嘗ては、瀬戸内海の食用マガキの養殖場では、中型船で人糞を肥料として大々的に撒いていたのだ。我々の幼少の頃の生牡蠣は俺たちの糞で育ったのだ!

「賈姬」前漢の第六代皇帝景帝が寵愛した邯鄲の出の賈姫(趙敬粛王劉彭祖と中山靖王劉勝の生母)。ウィキの「郅都」(しつと:景帝時代の酷吏として知られる)によれば、景帝が彼女を伴って、上林苑へ狩りに出かけ、郅都も同伴した。時に、賈姫が厠で用を足した折りに、突然、野生の猪が彼女がいる厠に猛進した。景帝はこれを見て、郅都に目配せしたが、郅都は助けに行こうとしなかったので、景帝は自ら武器を取って、助けに行こうとした。すると郅都は景帝の前に平伏して言った。「側室が失われようとも、陛下には数多の側室が御座います。しかし、陛下はたったお一人であります。陛下の身に何かあった時には、漢の宗廟や御生母の竇(とう)太后はどうなされますか?」と直言した。景帝は行くのを止め、やがて猪は厠から出て来て、森林に立ち去ったという。幸い賈姫は無事だった。景帝の生母の竇太后はこれを聞いて彼に金百斤を与え、また、これ以来、郅都は天子や竇太后の信頼が絶大となり、重用された、とある。

「呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事」「呂后」呂雉(りょち 紀元前二四一年~紀元前一八〇年)。恵帝の母。中国で「三大悪女」として唐の武則天(則天武后)・清の西太后とともに名が挙げられる。高祖の没後、彼女の子である恵帝が即位して間もなく、呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子斉王劉肥や趙王劉如意の殺害を企てた。斉王の暗殺は恵帝によって失敗したものの、趙王を謀殺、その生母戚夫人を奴隷に落として両手両足を切断した上、両目を刳り抜いた上に、薬を用いて耳と声帯を潰し、その後、便所に置いて「人彘」(人豚(ひとぶた))と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていたと史書にはある(ウィキの「呂雉」に拠った)。

「郭登」中国伝来で本邦でも厠神の一名として知られた。ウィキの「加牟波理入道」(かんばりにゅうどう)によれば、『鳥山石燕の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」に載る『日本の妖怪、および日本各地の厠(便所)の俗信に見られる妖怪。同画集では、『厠に現れる妖怪として口から鳥を吐く入道姿で描かれ、解説文には以下のようにあり、大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れないと述べられて』ある。所持する同画集(一九九二年国書刊行会刊「鳥山石燕  画図百鬼夜行」の原画図)により電子化した。仮名遣いは総てママである。

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  加牟波理入道(かんばりにうどう)

大晦日の夜厠(かはや)にゆきてがんばり入道郭公(ほとゝきす)と唱(とな)ふれば妖怪(よふかひ)を見ざるよし世俗(せぞく)のしる所也もろこしにては厠神(かはやかみ)の名を郭登(くはくとう)といへりこれ遊天飛騎大殺(ゆうてんひきだいさつ)將軍とて人に禍福(くはふく)をあたふと云郭登(くはくとう)郭公(かつこう)同日(どうじつ)の談(だん)なるべし

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同書解説に、この郭登は実在する明の武将とする。郭登(一四〇三年~一四七二年)である。実在した郭登については九州大学中国文学会二〇一七年十二月発行の『中国文学論集』所収の井口千雪氏の論文『明朝勲戚武定侯郭氏と文学 「諸葛の如き」定襄伯郭登PDF)が詳細を極めるが、彼が何故、厠神とされるかの記載は、残念ながらなく、不明である。ウィキの引用を続ける。『兵庫県姫路地方では、大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と』三『回唱えると、人間の生首が落ちてくるといい、これを褄に包んで部屋に持ち帰って灯りにかざして見ると、黄金になっていたという話もある』。松浦静山の「甲子夜話」にも『これと似た話で、丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭は』、『たちまち』、『小判に変わると記述されている』(私は「甲子夜話」の電子化注を行っているが(全部所持してはいる)、調べたところ「甲子夜話第三篇」にあるという情報は得たものの、探し得ていない。見つけたら、電子化し、ここにリンクを張る)。『一方で、この呪文が禍をもたらすこともあるといい、江戸時代の辞書』「諺苑」では、『大晦日に「がんばり入道ほととぎす」の言葉を思い出すのは不吉とされる』とあるという。『加牟波理入道とホトトギスの関連については、文政時代の風俗百科事典』「喜遊笑覧」に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くと不祥事が起きるとの俗信が由来で、子供が大晦日に厠で「がつはり入道ほととぎす」とまじないを唱えるとの記述があり(「がつはり」は「がんばり」の訛り)』、『中国の六朝時代の書』「荊楚歳時記」にも』同様に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くのは不吉と述べられている』。『また、ホトトギスの漢字表記のひとつ・郭公(かっこう)が中国の便所の神・郭登(かくとう)に通じるとの指摘もある』。『岡山県の一部では、加牟波理入道の俗信が見越し入道と混同されており、厠で見越し入道が人を脅かすといい、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ホトトギス」と唱えると見越し入道が現れるなどといわれている』。『中国の巨人状の妖怪「山都」が日本に伝わり、厠神(便所の神)と混同された結果、この妖怪の伝承が発祥したとの説もある』(「山都」については、私の古い電子化注寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」にある「みこし入道 山都」を参照されたい)。『十返舎一九による読本』「列国怪談聞書帖」には『「がんばり入道」と題した以下の話がある』。『大和国(現・奈良県)で、淫楽に取りつかれた男が、一族の者に性癖を諌められたために剃髪して山中の小屋におり、白目をむいて女たちを見張るので、「眼張(がんばり)入道」とあだ名されていた』。『あるとき』、『入道の留守中に盗賊が小屋に忍び込むと、入道にさらわれた娘が閉じ込められていた。盗賊は娘を哀れんで』、『家から連れ出そうとしたところ、入道が帰って来て』、『娘を帰すまいとしたので、盗賊は入道を殺し、娘を親元に帰した』。『以来、白い着物姿の入道の霊が娘の家に現れるようになった。親が娘を隠すと、入道は娘を捜して村中の家、馬屋、便所を狂い歩き、村人たちを恐れさせた』。『しかしある晩、入道は犬に噛み殺されてしまった。夜が明けると、そこには白い着物をまとったキツネが死んでいた。人々は笑い、キツネが入道を真似た挙句に呆気ない最期を遂げたと言い合ったという』とある。

「陶侃(とうかん)」(二五九年~三三四年)は東晋初期の名将。鄱陽 (江西省) の人。荊州刺史として先に出た司馬睿の命を受けて流民集団杜弢 (ととう)の討伐に当たった。一旦、広州刺史に左遷されたが、後に再び荊州刺史となって。「蘇峻の乱」の平定に功があった。東晋最大の州鎮の統帥として大きな勢力を持ち、長沙郡公となり、在任のまま没した。彼をどうしても注したかったのは、彼の曾孫が、かの名詩人陶淵明であるからである。

「介幘(かいさく)」髻(もとどり)を覆い隠して髪を包むのに附けた頭巾。

「庾翼(ゆよく)」(三〇五年~三四五年)は東晋前期の政治家・武将・書家。潁川郡鄢陵県(現在の河南省許昌市鄢陵県)の出身。当該ウィキによれば、『風儀に優れ、幼くして経綸大略に通ずると評され』、『後に南蛮校尉・南郡太守・輔国将軍と叙任し』、三四〇年、『都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西将軍・』荊州刺史となり、『武昌に鎮した。庾翼は領地の地方都にまで軍令を行き届かせ、数年の内に官府の庫や人民たちの財までも充実させるなど』、『良政を敷いた』ことから、『黄河以南の地の人民から支持を得たという』。三四三年、『後趙の汝南郡太守である戴開が数千人を伴って投降してきた事を機に、庾翼も北伐の大志を抱くようになり、前燕の慕容皝と前涼の張駿に使者を送って期が来れば同調して起兵するよう求めた。またこれに伴って領内での賦役を強化するようになり、広州の海道の人を百姓として徒民させた』。『康帝(司馬岳)に庾翼は北伐を上表し、加えて鎮を対後趙の最前線である襄陽へと移すことへの許可を求め、承認も得ぬうちから六州から牛や驢馬を徴発し始めていたが』、『朝廷に却下され、続いて安陸への移鎮を求めるも』、『これも却下された。これらの行動を車騎参軍の孫綽に諌められるも』、『聞く耳』を『持たず、夏口へと勝手に軍団を移動させて再度襄陽への移鎮を上表すると、実兄の庾冰や桓温、譙王司馬無忌らの賛成によって襄陽への移鎮が承認され、都督征討諸軍事(後に征西将軍・南蛮校尉も追加)となり、庾翼の代わりに庾冰が武昌へと移り、後任に入った』。三四四年、『庾翼は桓宣に後趙に占拠されていた樊城の攻略を命じたが、桓宣は丹水の戦いで後趙の李羆の前に大敗を喫し、これに激怒した庾翼は桓宣を建威将軍に降格した上で峴山へと左遷した。同年中に成漢討伐に周撫と曹璩を向かわせたが、江陽で李桓に敗れた。また』、十一月に『庾冰が亡くなると』、『長子の庾方之に襄陽の守備を任せて夏口へと移り、庾冰の領兵を自らの指揮下に置き、朝廷からは江州・豫州刺史に任じられたが』、『豫州刺史は辞退し、替わりに楽郷への移鎮の許可を要求したが朝廷に拒否された』。三四五年、『背中の疽からにわかに発病して七月』『に亡くなった。享年』四十一であった。『朝廷より車騎将軍を追贈され、諡号は粛とされた。亡くなった際の官途は持節・都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事・江州刺史・征西将軍・都亭侯。死に際して庾翼自身は次子である庾爰之を後継に望んだが、宰相何充は荊州の戦略的重要性から能力のある人間が当たるべき職務であるとして桓温を後任に据え、庾翼の持っていた強大な軍権をほぼそのまま桓温に引き継がせた』とある。悪性の腫瘍で亡くなったというのは、厠神を撃ったそれと親和性は感じられる。『東晋国内では書家としても著名であり「故史従事帖」などの作がある。草隷に優れ、当時においては王羲之と並ぶほどの人気があったという』。『桓温については若年』の時から『目を掛けており、明帝(司馬紹)に桓温を推挙する際に「若くして武略を知るので特別な職を与えるべき」「いずれ国の艱難を救う」と評した』という。

「方相(はうさう)」方相氏。本来は中国周代の官名。宮中にあって年末の大切な追儺 (ついな)の節会に於いて、悪鬼を追い払う役を担当した。黄金の四つ目の仮面を被り、黒い衣に朱の裳 を着し、矛と盾を持って、内裏の四方の門を回っては鬼を追い出した。グーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

「歲時記」六朝時代(二二二年~五八九年)の荊楚(現在の湖北・湖南省)地方の年中行事や風俗を記録した梁の宗懍(そうりん)の撰になる「荊楚歳時記」か。六世紀半ば頃の成立。

「異錄傳」不詳。前蜀(九〇七年~九二五年)の杜光庭撰の志怪小説集「錄異記」か。但し、以下の話は東晋の政治家・文人干宝(?~三三六年)の知られた志怪小説集「搜神記」に後半を除くと、概ね同型話で載るものである。

「廬陵」江西省。

「歐明(わうめい)」不詳。

「彭澤湖(はうたくこ)」現在の江西省にある鄱陽(はよう)湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禪衣(ぜんえ)」僧衣でよい。

「靑湖君」「搜神記」では「靑洪君」。

「如願(じよぐわん)」語としては「願い事が叶う」の意。

「婢」侍女。

「後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走り入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり」この部分は「搜神記」にはなく、「神婢」の「如願」が「厠神」らしきものになった由来譚として形成されてある。しかし、何故に元旦に如願が寝坊したのかが、明らかでなく、後の風俗として、何故、繩で傀儡を縛り、肥溜めの中に投じ、「願いの通りにならしめよ」と呪文するようになったのかといった、核心部分が、孰れも上手く繋がらず、そこにこそ超自然の因果を感じさせはするものの、私にはやはり、竹で鼻を括ったような納得出来ない不快感が感じられる。酔ってやってはならないことを成してしまい、幸福が永遠に去るというのは、神話に於ける禁忌システムの発動ではあるのだが。

「平賀鳩溪實記」「鳩溪」は平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)の号。竹窓櫟齋(ちくそうれきさい)なる不詳の人物による天明八(一七八八)年頃に書かれた源内の実録伝奇風の読物。その「卷一」の「三井八郞右衞門源内へ對面の事」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(写本。標題は「平賀實記」)から読める。遊女白糸を請け出して三井八郎右衛門(かの三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名)に恩を売ったとったことが書かれている。但し、本書は実録性が疑われている。自制的には三井家四代目当主代三井高美(たかよし 正徳五(一七一五)年~天明二(一七八二)年)となろう。熊楠の引用はここの左頁五行目からで、重大な箇所「凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」ここの右頁の三~四行目に現われるが、ネット上では「泉州岸和田」の「飯の彌三郞」は如何なる人物か具体的には書かれているものが見当たらない。【202133日追記】私の各種のテクスト注に対して、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「平賀鳩溪實記」や南方熊楠の表記に問題があり、この当時は(後述する)「食野」(めしの)であったと御指摘を受けた。ウィキの「食野家」(めしのけ)によれば、食野家は、江戸『中期から幕末にかけて和泉国日根郡佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。 屋号は「和泉屋」。同じく同地で栄えた唐金家(からかねけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『食野家の出自は、楠木正成の子孫の大饗(おおあえ)氏。初代正久のときに武士から廻船業に乗り出したとされている』。「食野家系譜」などの『資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する』十七『世紀後半には』、百『隻近い船を所有して全国市場に進出するなど』、『大いに発展した。大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった。』。『摂津国西成郡春日出新田(現在の大阪市此花区春日出中)を入手し、さらに西道頓堀川付近、幸町や南堀江一帯に家屋倉庫を所有したほか、本拠である佐野村では豪壮な邸宅と海岸沿いの道路の両側に「いろは四十八蔵」と呼ばれた大小数十の倉庫群が建てられるなど、現在の泉佐野駅から浜側一帯が貝塚寺内や岸和田城下を凌ぐ「佐野町場(さのまちば)」として栄える中心的存在となった。岸和田藩では藩札の札元に任命されるなど、唐金家とともに同藩の財政を支える上で重要な役割を果していた』。宝暦一一(一七六一)年には『鴻池家、三井家、加島屋など』の『名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け』、文化三 (一八〇六)年には『三井家とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米を命じられた。大名貸しでは岸和田藩はもちろん』、『尾張徳川家・紀州徳川家など』、実に『全国の約』三十『藩に』四百『万両ともいわれる多額の資金を用立てた』。しかし、『その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより』、『一気に没落に至り、同家は同地に現存していない。屋敷跡は』弘化元・二(一八四五)年に『佐野村が買収し、現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。また』、『いろは四十八蔵も海岸筋に』八『棟が現存している』。『末裔にプロサッカー選手の食野亮太郎がいる』。『食野家の当時の発展ぶりを示すエピソードが多数残されている』。例えば、『地元の盆踊り(佐野くどき)では「加賀国の銭屋五兵衛か和泉のメシか」と唄われて』おり、『大名貸しをしていた紀州藩では、参勤交代の往復に紀州公が食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌で「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」と唄われた』。また、『食野の当主(佐太郎を世襲)が、にわか雨で雨宿りした紀州公の家来』一千『人を』、『とりあえず』、飯櫃(めしびつ)『に残っていた冷や飯でまかなったことから、「佐太郎」は冷や飯の代名詞とされ、川柳に「佐太郎を三度いただく居候」や「佐太郎は茶金の上に腰を掛け」など唄われた』という。また、『井原西鶴の』「日本永代蔵」には、『唐金家とともにモデルとなったといわれている。(同作品中に』は『食野家の所有する千石船「大通丸」をもじった「神通丸」が登場する』。『上方落語「莨(たばこ)の火」に、気前のいいお大尽「食(めし)の旦那」として実名登場する』とある。また、T氏は、「国文学研究資料館(歴史資料)和泉国日根郡佐野村食野家文書」(大永二(一五二二)年~明治四二(一九〇九)年)の書誌データも紹介して下さった。それを見ると、『佐野村は現泉佐野市の北西端に位置し、北は大阪湾に面する大村で』、『和泉九カ浦の中で最も繁栄し』、『特に食野家と唐金家は廻船業と大名貸で財をなしたことで有名である。食野家の初代多右衛門正久は、大饗二郎左衛門正虎から分かれ、故があって大饗の姓を食と改め、武を捨てて商家となったと伝えられている』。「食野」はこの文書の初期のそれにあっては、「めし」・「食」であって、本文書群の中では元禄から享保(一六八八~一七三四年)頃から「食野」となっている。『食野家の存在を示す最も古い文書は売券』(ばいけん・うりけん:売り渡し証文。沽券)で、天正一五(一五八七)年八月附のもので、売却先を『「めし左太郎」』と記し、元和四(一六一八)年五月28日附のそれでは、『十良大夫』なる人物が『屋敷地を』『「めし二良左衛門尉」に売却していることなどから、天正年間から佐野に住居し、土地集積を行っていたことがわかる。食野家は』十七『世紀後半には全国市場に進出して活躍するが、その活動資金がどのように蓄積されたかについては未詳である。全盛期の主業は廻船業と大名貸で、この富を背景にして』、享保七(一七二二)年に『大坂春日出新田を入手し、さらに西道頓堀付近、幸町、堀江一帯にわたって家屋倉庫を所有している。本拠である佐野においても』、『富を象徴する豪壮な邸宅と海岸に沿う道路の両側に「いろは四十八蔵」を建てた』。『一方で』、『岸和田藩との関係も密接で、藩札の札元に任命されているし、藩財政を支える上で重要な役割を果している。幕末になると食野家は廻船業の停滞と、大名貸の焦げ付きが原因となって急速に衰退する』とある。則ち、同家は姓として、戦国末期には「めし」を、元禄頃からは「食野」を使ったことが判る。T氏は他にも、泉佐野市立中央図書館の「いずみさのなんでも百科」の「食野家」と、「新庄デジタルアーカイブ」内の「諸国家業じまん」番付表の画像を紹介して下さった。前者には、『本家は幼名佐太郎、次郎左衛門を襲名。分家は吉左衛門を名乗り』、『食野家は楠木氏の子孫で室町時代中頃にはすでに佐野に住んでいた』らしく、『大饗(おおあえ)氏を名乗ってい』『たが、初代正久のときに』『食を名乗り、武士を捨て』、『廻船業に乗り出し』たとし、『食の姓はいつしか 通りがいい食野に変わっていったようで』、『江戸時代中期の』宝暦一一(一七六一)年には『鴻池、三井、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け、後期の』文化三(一八〇六)年には『三井とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米』(かいまい:米価引き上げなどの目的から幕府・諸藩が大名や市中の商人に米の買いつけを命じたこと。また、その米。幕府や藩自身が買い取る場合もあった)『を命じられるほどで』、『食野家の当時の発展ぶりは「加賀の銭屋か和泉のメシか」といわれるほどで、佐野くどきにも数々のエピソードが唄いこまれてい』るとある。後者の「諸国家業じまん」番付表では、東の大関(当時は横綱はないので最高位)に「三井八郎右ヱ門」が、西の大関に「飯野佐太郎」と記されてあるのが見られる。いつも乍ら、T氏に心より感謝申し上げるものである。

「倭漢三才圖會八一に白澤圖云、……」同書の「厠」の項を所持する原本から以下に訓読して示す。「【音 】」の実際の漢字が欠字なのは総て同じ。一部の読みや送り仮名は私が推定で附した。字の大小は項目の「廁」以外は無視した。

   *

かはや      圂【音 】 溷【音 】

 せつちん    圊【音 】 偃【音 】

【音差】     和名「加波夜」。

         俗云雪隱

ツアヽ

「說文」に徐氏が云はく、「廁、古へ之れを『清』と謂ふ。言ふこころは、其の不潔、常に當に清く之れを除くべきを以つてなり。

「白澤圖」に云はく、「厠の精を倚(い)と名づく。靑衣を著(き)、白き杖を持つ。其の名を知りて之れを呼べば、除く[やぶちゃん注:姿を隠す。]。其の名を知らずして之れを呼べば、則ち、[やぶちゃん注:声に出して呼んでしまったその人間は。]死す。又、云はく、室を築けば[やぶちゃん注:新築した家の廁には。]、三年、其の中に居らず。人を見るときは、則ち、面(おもて)を掩(おほ)ひ、之れを見れば、福、有り。」と。

「居家必用」に云はく、「厠の神【姓は】、廓、【名は】、登、是れ、『庭天飛騎大殺將軍』なり。觸れ犯(おか)すべからず。能く灾福(さいふく)[やぶちゃん注:「灾」は「災」の異体字。]を賜ふ。」と。

「五雜爼」に云はく、「今、大江[やぶちゃん注:長江。]より北の人家、復た厠を作らず。但し、江南は廁を作りて、皆、以つて、農夫と[やぶちゃん注:人糞を。]交易すればなり。江北には水田無き故、糞、用いる所、無し。其れ、地上に乾くを、然るの後(のち)、土に和して、以って田に漑(そゝ)ぐ。京師(みやこ)には、則ち、溝の中に停(とゞ)めて、春を俟(ま)ちて後(のち)、之れを發(あば)き、日中に暴(さら)す。其の穢氣(をき)、近づくべからず。」と。

   *

『「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり』既に注した通り、これは後の「續南方隨筆」(本書(五月刊)と同じ大正一五(一九二六)年十一月に同じ岡書院から出版)の中で単発初出などを総括した「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節にある「呼名の靈」で、これは『鄕土硏究』三号の一五八頁に載る桜井秀氏の論考「呼名の靈」に対する熊楠お得意の触発された追加論考である。これは半世界的に神話・伝説に典型的に見られる「言上(ことあ)げ」の先に名指したものが勝つタイプの先手必勝型の「名指し」=「見切り」型のそれについての事例である。私は本書の電子化注の後に「續南方隨筆」に取り掛かる予定である(何時になるか判らぬが)。今、読まれたい方は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、「万葉文庫」のこちらで一九七一平凡社刊「南方熊楠全集第二巻」の新字新仮名に変えた電子化本文が読める。

「酒井忠一子」「子」は子爵の意。伊勢崎藩九代藩主で子爵酒井忠彰の子(次男以下)。生没年未詳。

「ツイトンガ島」南太平洋に浮かぶ約百七十の島群からなるトンガ王国(グーグル・マップ・データ)。イギリス連邦加盟国の一つ。オセアニアのうちポリネシアに属し、サモアの南、フィジーの東に位置し、首都のヌクアロファは最大の島トンガタプ島にある。サイト「ポリネシアの神話・伝説」の「トンガの島々と人々の起源(トンガ)」によれば、本来、この「ツイ・トンガ」とは『トンガの聖なる人々の系譜』を意味するという。その興味深い創世神話がリンク先に記されているので、是非、読まれたい。

「得脫」生死の境を脱して永遠の神の世界の存在となること。仏教用語の転用。

「Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872」ドイツの心理学者・人類学者フランツ・テオドール・ワイツ(Franz Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)と、ドイツの地理学者ゲオルク・コーネリアス・カール・ガーランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)の共著になる‘Anthropologie der Naturvölker’ (「原始人人類学」。全六巻で実際の著者はワイツ。一八五九~年一八六四年刊。第五・六巻をガーランドがワイツの死後に編集したもの)の第六巻‘Die Völker der Südsee. 3. Abt. Die Polynesier, Melanesier, Australier und Tasmanier.’(「南洋の人々」第三部[やぶちゃん注:これは第五巻からの続いたものである。]「ポリネシア人・メラネシア人・オーストラリア人・タスマニア人」)。ドイツ語が読める方は、‘Internet archive’のこちらで同六巻の全原本がある(一八七二年版)

「クマラ」。南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方原産地とされる、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属サツマイモ Ipomoea batatas の南洋一帯での呼称。当該ウィキによれば、例えば、ニュージーランドへは十『世紀頃に伝播し、「クマラ」(kumara)の名称で広く消費されている。西洋人の来航前に』、『既にポリネシア域内では広く栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている』とある。

「其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘と湯津爪櫛を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂に到り玉へえるに似たり」私の好きな「呪的逃走(呪物投擲逃走)」システムの起動を示す、本邦の神話の最初の出現である。「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(18) 神道の發達(Ⅰ)」の私の注で訓読文を示してあるので、是非、読まれたい。また、本神話や熊楠の以下に挙げるような西洋の類型譚については、福島秋穗氏の論文「記紀に載録された呪物投擲逃走譚について」(『国文学研究』一九七九年十月発行。「早稲田大学リポジトリ」のこちらPDFでダウウ・ロード出来る)が優れている。必読!

梁の慧皎の高僧傳」中国南朝梁の僧慧皎(四九七年~五五四年)の撰になるした中国への伝来以来、後漢(西暦六七年)から梁の西暦五一九年までの四百五十三年間に及ぶ期間の高僧二百五十七名及び附伝する二百四十三名から成る壮大な伝記である。高僧の伝記を集めたもの。「梁高僧傳」「梁傳」とも呼ぶ。全十四巻。五一九年成立。当該ウィキによれば、『慧皎以前にも、梁の宝唱撰の「名僧伝」のように数種の僧伝が既に存在していたが、慧皎は、それら先行する類書の編集方針に満足できず、自ら新たに「高僧伝」を撰しようと思い立ったと、巻末に収められる自序において述べている。具体的には、「名僧伝」等は、世間で有名な僧、あるいは著名な僧の伝記を集めている。しかし、仏教の教えの観点から言えば、たとえ無名であっても、すぐれた僧、高僧は居る筈である。そういった僧の伝記が失われてしまうのを恐れて、「高僧伝」という名を立て、また、その観点から見て相応しいと判断した僧の伝記を収録した、と述べている』。以下の当該部は、「中國哲學書電子化計劃」のここから影印本で原本が読める。第八卷の「齊蜀齊后山釋玄暢」である。

「劉宋」南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)。

「釋玄暢」北方の著名な高僧玄高の弟子で、師に従って平城に行くが、ここある通ように北魏の太武帝が仏教を弾圧して、滅法を行った際には劉宋に逃げ込んでいる。彼は三論・華厳に通じており、「法華文句」の中にも、その名が見える(以上は信頼出来る複数の仏教論文に拠った)。

「幽」幽州。漢代に設置されたそれは現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市を中心とする地域に当たる。

「冀」冀州(きしゅう)。現在の山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)など、七つの省市に分属する附近。

「孟津」河南省洛陽市孟津県(もうしんけん)附近(グーグル・マップ・データ)。黄河右岸。

「揚州」中国古代のそれは「九州」の一つで、淮河南岸から南シナ海沿岸までの地方が想定されているが、理化し易いのは、隋代以降の州で、現在の江蘇省揚州市(グーグル・マップ・データ)に相当する。

「希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り」この話、非常に惹かれるのだが、その話を知らない。先の福島氏の論文にもぴったりくるものを見出せない。

「スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え童子脫するを得と有り」同前。なお、セイヨウサンザシについては、呪的効果が知られ、例えば、吸血鬼を滅ぼすために胸に打ち込む杭は同種である必要がある。

「Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869, vol. ii, pp. 273-274」イギリスの牧師で作家・地理学者としても知られたヘンリー・ファンショー・トーザー(一八二九年~一九一六年)の「トルコ高地の研究」。‘Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。

「Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443」スコットランドの民俗学者ウィリアム・アレクサンダー・クローストン(一八四三年~一八九六年)の「知られた話群と虚構」。Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。]

2021/02/26

出口米吉「厠神」(南方熊楠「厠神」を触発させた原論考)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「厠神」(かはやがみ)を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第二十九巻一号)に載った、出口米吉氏の「厠神」である。在野の民俗学研究者であった出口米吉については、私の『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』の冒頭注を参照されたい。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。【 】は底本では二行割注。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。]

 

    ○厠 神

              出 口 米 吉

 故坪井博士の「陸前名取郡地方に於ける見聞」【本誌二六七號[やぶちゃん注:「本誌」と言っているが、先行する『東京人類學雜誌』である。明治四一(一九〇八)年六月二十日発行で、知られた筆者民俗学者坪井正五郎である。「J-STAGE」のこちらで原本画像PDF)で見られる。以下の出口の引用は「三二五」ページ上段中央からの部分(PDF3コマ目)。]】の中に「休息中(道祖神社にて)畑中の便所へ行きましたが、其所で妙な物を見ました。便所内の妙な物とは、片隅に釣つた棚に並べて有る數個の土人形で有ります。これは閑所神(かんじよがみ)と云ふものださうで、仙臺地方の古風の家では、皆閑所即便所に置くと云ふ事であります。土人形は玩具と同じ樣に見えますが、特別に作られたものとの事で、其形には座つたのや、立つたのや、子供を背負つたの等の種類が有りまして、何れも女の樣に見受けられます。人形が直に神を表すのか、人形を神に供へるのか、多く置くのは何の故か、其邊の事は一向分りませんが、要するに便所を護る意味を以て置かれる樣子で有ります」とあり。便所の片隅に棚を設け、每日朔竪[やぶちゃん注:「ついたち」と訓じておく。]に燈明を其上に點じて厠神を祀ることは、作州津山にて行はると聞けり。大阪附近にては、便所内にて線香を立て、燈明を奉る所もありと云ふ。

 厠神を祀ることは、我國に於て古代より行はれたることありや否や明ならず。平田翁の玉手襁[やぶちゃん注:「たまだすき」。平田篤胤の主著の一つ「玉襷」。]八にては「厠を掌[やぶちゃん注:「つかさどり」]給ふ神の名は、古書に此者厠神と載傳たる文は無れど、世に卜家の神道また橘家の神道など傳ふる人々の說に、埴山毘賣神[やぶちゃん注:「はにやすひめのかみ」。]と水波能賣神[やぶちゃん注:「みづはのひめかみ」。]なりと云ふは、實に然も有べく覺ゆ。其は此二神は土神水神にて(世に井戸神とカウカ神と同じと云は水神の坐す故なるべし)伊弉那美神の御屎と御尿に成坐ればなり」と云へり。

 酣中淸話[やぶちゃん注:「かんちゆうせいわ」。江戸後期の小島知足の随筆。]上に曰く「今ノ世ニ後架神(コウカカミ)ト云フハ、白氏六帖ニ續幽怪錄ヲ引テ、厠神每月六巡トアリ。又柳宗元が文ヲ引テ厠鬼ト出セリ。皆ソノ事ナリ。サレド委シク知レガタキニ、玉燭寳典ニ劉升ガ異苑ヲ引テ、紫女本人家妾、爲大婦(シウトメ)所ㇾ妒、正月十五日感激而死、故世人作其形於厠、迎ㇾ之咒云、子胥【云是其夫】不在、曹夫以行【云是其姑】小姑可ㇾ出【南方多婦人爲ㇾ姑】トアリ。又俗云厠溷(カハヤ)之間、必須淸淨、然後能降紫女トモアリ。又白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ。雜五行書ヲ引タ後帝トアリテ、ソノ下ニ異苑ヲ引テ、陶偘如ㇾ厠、見ㇾ人自稱後帝、着單衣平上幘、謂ㇾ偘曰、君莫ㇾ說貴不ㇾ可ㇾ言、將後帝之靈馮紫姑見ㇾ女言也。ナド云フコトモ見エタリ。西土ニテモ古昔ハ專云ヒシコトニゾ有ケル。」

 靜軒痴談[やぶちゃん注:明治八(一八七五)年刊の寺門静軒の随筆。]二に曰く「佛家ニテ厠ノ神ヲ鳥瑟沙摩(ウスシヤマ)明王トイフ。不勤ノ化身ナリト云。佛說ニ修羅ト梵天帝釋ト戰ヒシ時、修羅ガ不動明王へ援ヲ乞フ。爾時帝釋ハカリ思フニ、佛ハ甚タ臭氣ヲキラヘバ、穢ヲ用テ防クベシト、糞ヲ以タ城ヲ築キイダセリ。明王少モ不潔ヲ忌ズ、其城ヲ一時ニ食ヒ盡シタリ。故ヲ以テ烏瑟沙摩明王ヲ厠ノ神トナスト云」と。玉手襁八には「俗には佛家の鳥芻瑟摩(ウスシマ)明王と云ふ物を厠の神なりと云ふは、密宗より出たる說なるが、谷川士淸も云る如く、謨りにて、信るに足らず。殊に此明王の穢をさけず功をなす由を記せる穢跡金剛法禁百變法門經、穢跡金剛說法術靈要門と云ふ物ありて、一切經に收めたれど、唐土の僧が玄家法術說をぬすみて僞作せること疑なき物なるをや。こは寂照堂谷響集[やぶちゃん注:運敞(うんしょう)著で元禄四(一六九一)年自序の仏教説話集。]にも早く其辯ありと所ㇾ思たり」と辨せり。

 厠神に對する祈願につきては、玉手襁八には、俗に流行目病は厠神に治癒を祈り、常に厠の穴に唾すれば眼を病むと云ひ、亦女は日々に厠を掃き淨めて、晦日每に燈明を献れば、腰より下の病を憂ひずと云ふといヘり。大阪持明院の本堂のほとりに厠ありて、其内に入りて離緣を祈れば必らず緣切れると云ひ、洛東淸水寺の本堂と奧の院との間にも同樣の厠あり、是は厠二個所並び建て、其一方の内には離緣を祈り、又一方に緣結びを祈るに功驗ありと傳ふるよし浪華百事談七に見ゆ。獄屋に入る者が厠室を祭りたることは類聚名物考に云へり。アイヌは厠神(ミンダルカムイ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]に人知れず咒咀の言葉を捧げて、人を殺すと本志[やぶちゃん注:「誌」の誤植か誤字。]二八卷六號吉田氏の文に記されたり[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年六月十日発行の『人類學會雜誌』の吉田巖の論考「アイヌの卜筮禁厭」。「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)の「三二七」ページ(14コマ目)に現われる。]。

 我國にて除夜燈を厠に點して厠神を祀ることは、支那より移りし風習なるべし。鹽尻十四に「世說故事苑[やぶちゃん注:江戸後期の大阪生玉真蔵院住職であった子登の類書。]云、異聞總錄云、京師風俗、每除夜、必明燈於厨厠等所、謂之照虛㲞[やぶちゃん注:「虛㲞」意味不明。]。趙林再といふもの。婢に命じて此燈を燃させけるが、此燈を見るに、麻油にして髮に塗に佳と思ひて、これを竊に陰し[やぶちゃん注:「かくし」。]、桐油を易て厠にともしけり。然して彼婢夜分に厠に行き、戶を排き見れば、長三尺五寸斗の婦人、披髮絳居[やぶちゃん注:後半、意味不明。]にして出で、小き箱に謳色所衣を盛て、携壁[やぶちゃん注:隔ての壁のことか。]の角にたゝずみ、衣を摺み[やぶちゃん注:「たたみ」か。「摑み」辺りでないと意味が判らぬ。]けるを、婢見て驚き叫ぶ。家内の人々往て見れば早失けり。此時油を易ふ者大に叫び、地に倒るゝ。衆人湯劑を以て扶還[やぶちゃん注:「たすけかへり」。]、甦即語曰、我輙桐膏易、以鬼之爲一ㇾ所ㇾ擊甚苦と云々」と云へり。昔は轉宅の時にも之を祀りしと見え、類聚雜要抄二に「康平六年[やぶちゃん注:一〇六三年。]七月三日壬寅内大臣(師實)移御花山院。(略)同移徙作法、(略)入ㇾ宅、明旦祀諸神、(諸神者門、戸、井、竃、堂、庭、厠等也)以甑内盛五穀祀ㇾ之、三日亦祀、以童女擊水火、炊釜内五穀祀ㇾ之、御移徙之後、三日之内(略)不ㇾ上ㇾ厠(下略)と云へり。

 

2021/02/24

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注(PDF縦書版)公開

『「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注』PDF縦書版をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:標題は「ペルーこくにへうちやくせるにほんじん」と読む。初出は大正元(一九一二)年十月発行の『人類學雜誌』第二十八巻十号で、初出は「J-Stage」のこちらで原雑誌のそれを読むことが出来る。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのここからである。これは「南方隨筆」の先の論文などが載る『東京人類學雜誌』が正しいのではないかと思われる方がいるかも知れぬので言っておくと、『東京人類學雜誌』は明治四四(一九一一)年に会誌名を『人類學雜誌』と改めており、編集方針も大きく変わっていた。]

 

      秘魯國に漂著せる日本人

 

 英譯 Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164 に、東西南半球間過去の交通を論じ、「日本と支那より西北亞米利加に漂著せる人あり。又米國の貨品が布哇[やぶちゃん注:「ハワイ」。]に漂著せる例あり。然れども南半球に至りては、高緯度に有て風と潮流が西より南米大陸に向ひ、赤道近くに隨ひ、風潮並びに南米より東方に赴き去り、凡て東半球と南米間に人類の彼此往來ありし確證實例なし。たゞ民俗相似の點多きより推して、曾て斯る交通有たるを知るのみ」と述たり。

[やぶちゃん注:「Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164」ドイツの地理学者・生物学者フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:当時、隆盛であった社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖でもある)の「民族学」(Völkerkunde:全三巻。一八八五年)の第一巻の英訳本。当該英訳原本を‘Internet archive’で読め、当該箇所はこちら(左ページ)である。

 以下の段落は底本では全体が一字下げである。]

 未開の民が、風と潮流に逆うて弘まり行きし例あるは、第二板「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁に、多島海人[やぶちゃん注:ポリネシア人。]、古へ航海に長じ、其邊の風と潮流主として東よりすれども、時に西よりする事有るを利用し、印度洋島より發程して、遂に遠く多島海諸島に移住せる由を言へり。Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv. に、南太平洋に太古今よりも遙かに島數多かりしが、漸々海底に沈みし由を論じ、多島海人が往昔航海術に長ぜる記述に及ぼし、人間が東半球より西半球に弘まりしは、第一に多島海より南米に移りて秘魯中米等の開化を建立し、第二に大西洋を經て西印度中米「ブラジル」等に及ぼし、第三に「ベーリング」海峽及び北太平洋諸島より北米に入りし者の如しと說きたり。

[やぶちゃん注:『「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁』一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家、航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。これもやはり、‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。

「Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv.」スコットランド生まれのカナダの考古学者・民族学者・作家ダニエル・ウィルソン(一八一六年~一八九二年)の「先史時代の人間」。一八六二年刊。原本は、やはり‘Internet archive’のこちらで読める。

 以下、本文位置へ戻る。]

 今東半球の赤道以北よりすら、甞て南米に漂著せる人の絕無ならざるを證する爲に、予の日記の一節を略ぼ原文の儘寫し出す事次の如し。

 明治二十六年七月十一日夕、龍動市「クラパム」區「トレマドク」街二十八番館主美津田(みつた)瀧次郞氏を訪ふ。此月六日、皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)の婚儀行列を見ん迚、「ビシヨプスゲイト」街、橫濱正金銀行支店に往し時相識と成し也。此人武州の產、四十餘歲、壯快なる氣質、足藝を業とし、每度水晶宮等にて演じ、今は活計豐足すと見ゆ。近日西班牙に赴き興行の後歸朝すべしと云ふ。子二人、實子は既に歸朝、養子のみ留り在り、其人日本料理を調へ饗せらる。主人明治四年十一月本邦出立支那印度等に旅する事數年、歸朝して三年間京濱間に興行し、再び北米を經て歐州各國より英國に來り、三年前より今の家に住すと云々。旅行中見聞の種々の奇談を聞く。西印度諸島等の事、大抵予が三四年前親く見し所に合り、氏秘魯國に住しは明治八年十二月にて、六週間計り留りし内奇事有り。平田某次郞と云ふ人、七十餘歲と見え、其甥三十餘と見えたり。此老人字は書けども、本朝の言語多く忘却しぬ。美津田氏一行本邦人十四人有て、每日話し相手に成し故、後には九分迄本邦の語を能する[やぶちゃん注:「よくする」。]に及び、此物彼品を日本にて何と言りや抔問たり。兵庫邊の海にて、風に遭ひ漂流しつ。卅一人乘たる船中三人死し、他は安全にて秘魯に著せり。甥なる男當時十一歲なりし。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。南方熊楠は明治一九(一八八六)年十二月二十二日に横浜港より渡米し(満十九歳)、六年後の一八九二(明治二十五)年九月にイギリスに渡った。この年には科学雑誌『ネイチャー』(NATURE)十月五日号に初めて論文‘The Constellations of the Far East’(「極東の星座」)を、同十月十二日号には‘Early Chinese Observations on Colour Adaptations’(「動物の保護色に関する中国人による先駆的観察」)を寄稿している。

「龍動」ロンドン」。

『「クラパム」區』Clapham。クラパム。南ロンドンの広域地区名。

「トレマドク」底本は「トレマドリ」。初出で訂した。Tremadoc。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に「トレマドック通り」がある。

「美津田(みつた)瀧次郞」ルビは底本では「みつだ」とあるが、初出及び「選集」は「みつた」であり、「南方熊楠 履歴書(その5) ロンドンにて(1)」(私の五年前の電子化注)でも「みつた」とルビするので特異的に訂した。そこで私は美津田瀧次郎(嘉永二(一八四九)年?~?)は足芸(あしげい:仰向いて寝て挙げた足だけで樽や盥などを回したりする曲芸)を得意としたサーカス芸人で、「南方熊楠コレクション」(河出文庫)の注によれば、南方熊楠の明治二六(一八九三)年『七月の日記に「美津田滝次郎を訪、色々の奇談をきく」とあるように、しばしば親交を結んだという注した後、本篇のこの前後を初出で電子化している。

『皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)』後のウィンザー朝初代君主イギリス国王ジョージⅤ世(George V 全名:ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート:George Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)。一八九三年七月六日にメアリー・オブ・テック(Mary of Teck 一八六七年~一九五三年:現女王エリザベスⅡ世の祖母)と結婚した。

「ビシヨプスゲイト」Bishopsgate。ロンドンのビショップスゲート地区。この通り

「橫濱正金」(しやうかね(しょうかね))「銀行支店」明治一三(一八八〇)年に「国立銀行条例」に基づいて設立された貿易金融専門銀行。資本金三百万円の三分の一は政府の出資。明治三〇(一八九七)年には「横浜正金銀行条例」により特殊銀行に改組され、「日露戦争」以後、満蒙で植民地銀行の役割も果たした。世界各地に支店を置き、昭和に入って政府の為替統制機関となった。ロンドン支店は明治一六(一八八四)年十二月一日開業。

「水晶宮」The Crystal Palace。原型は一八五一年にロンドンのハイド・パークで開かれた「第一回万国博覧会」の会場として建てられた建造物。造園家・建築家であったジョセフ・パクストン(Joseph Paxton  一八〇三年~一八六五年)の設計になり、鉄骨とガラスで作られた巨大な建物で、プレハブ建築物の先駆ともされる。パクストンの設計では長さ約五百六十三メートル、幅約百二十四メートルのであった(「水晶宮」という名称はイギリスの雑誌『パンチ』(PUNCH)御用達の投稿者であった劇作家で作家のダグラス・ウィリアム・ジェロルド(Douglas William Jerrold)が名づけた)。参考にしたウィキの「水晶宮」によれば、『万博終了後は一度解体されたものの』、一八五四年には『ロンドン南郊シデナムの丘において、さらに大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデン、コンサート・ホール、植物園、博物館、美術館、催事場などが入居した複合施設となり、多くの来客を集めていた』。しかし、一八七〇『年代頃から人気に陰りが見え始め』、一九〇九『年に破産し』、『その後は政府に買い取られ、第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用され、戦後』に『一般公開が再開されたが』、一九三六年十一月に『火事で全焼して』再建されなかったとある。

「活計豐足す」「かつけいほうそくす」。生活は満ち足りている。

「明治四年十一月」本邦では明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで太陰太陽暦(旧暦)を採用していたため、西暦とはズレが生じる。熊楠が換算している可能性は限りなく低いから、この月は旧暦十二月一日はグレゴリオ暦では一八七一年十二月十二日で、晦日(この年は小の月で十一月二十九日)は一八七二年一月九日である。

「平田某次郞」「某」はママ。こんな名は聴いたことがない。熊楠は正確な名をその場では聴いたが、覚えていなかったから、かく記したものかも知れない。]

 其後他は盡く歿し、二人のみ殘り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮し、甥は可なり奇麗なる古着商を營み居れりと。老人も、以前は手工を營みし由、健全長壽の相有て、西班牙人を妻れりと[やぶちゃん注:「めとれりと」。]、其乘來りし船は、美津田氏一行が著せし三年前迄、公園に由來を記して列し有りしが、遂に朽失せぬ。美津田氏一行出立に臨み、醵金して彼人に與へ、且つ手書して履歷を記せしめ、後桑港[やぶちゃん注:「サンフランシスコ」。]に著するに及び、領事館へ出せしに、秘魯政府に照會の上送還せしむべしと也。以後の事を聞き及ばずと云ふ。一行「リマ」市を立ち離るゝ時、老人も送り來り、名殘惜げに手巾を振り廻し居りしと、美津田氏ら桑港に著せし時、在留の邦人纔に三人、領事柳谷と云ふ人親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]旅館へ來訪されたり云々。

[やぶちゃん注:「醵金」「きよきん(きょきん)」。ある目的のために金を出し合うこと。

「領事柳谷」在サンフランシスコ日本領事館の開設は明治三(一八七〇)年の秋で、明治九(一八七六)年に最初の日本人領事柳谷謙太郎が着任している(その間はアメリカ人が代理を務めた。以上は「在サンフランシスコ日本国総領事館」公式サイト内の歴史記載に拠った)。

 以下の一段落は、底本では全体が一字半下げでポイント落ち。]

 美津田氏は、質直不文の人なれど[やぶちゃん注:「ど」は底本は「ば」であるが、初出で訂した。]、假名付の小說を能く讀みたり、其談話は一に記憶より出し故に、誤謬も多少有るべきと同時に、虛構潤色を加ること無しと知らる。又予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覺ゆるは、件の老人に歸國を勸めしに、最初中々承引せず。吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ずと言ひしとか。

[やぶちゃん注:「質直」「しつちよく(しっちょく)」は地味で真面目なさま。質朴。

「不文」正規の日本の教育を殆んど受けていなということ。

「吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ず」平田老人のこの言葉、何か私は頭が下がる思いがする。

 以下、本文に戻る。]

 件の美津田氏は、その後二子(共に養子也。日記右の文に一人は實子とせるは謬り也。)俱に違背して重き家累を生じ、自ら[やぶちゃん注:「おのづから」。]歸朝するを得ず。更に「もと」と名づくる一女(邦人と英婦の間種、芳紀十五六、中々の美人也)を養ひ、龍動に二三年留り居[やぶちゃん注:「をり」。]、予も一二囘訪しが、其後の事を知らず。右の日記に書留めたる外にも、種々平田父子の事を聞きたるも、予只今記憶惡く成て、一筆を留めざるは遺憾甚し。近頃柳田國男氏に問合せしに、柳谷謙太郞氏明治九年十月九日より十六年三月三十一日迄、桑港領事として留任せりと答へらる。因て考るに、美津田氏一行、九年正月中「リマ」を出立し、諸方を興行し廻り、其年十月後桑港に著きたるならん。「ブラジル」「アルゼンチン」等に到りし話も聞きたれば、斯く思はるゝ也。

[やぶちゃん注:南方熊楠は事実関係をしかり確認している。

「家累」(かるい)は家族内の悩み事。「違背」とあるから、犯罪に近い非行を働いてしまったものか。]

 序に述ぶ、右の日記二十六年七月二十二日の條に「美津田氏宅にて玉村仲吉(ちうきち)に面會す。埼玉縣邊[やぶちゃん注:「あたり」。]の人。少時足藝師の子分と成り、外遊中病で置去られ、阿弗利加沿岸の地諸所多く流寓、十七年の間、或は金剛石[やぶちゃん注:「ダイヤモンド」。]坑に働き、又「ペンキ」塗り抔を業とせし由、「ズールー」の戰爭に英軍に從ひ出で、賞牌三つ計り受用すと。予も其一を見たり。白蟻の大窠等の事話さる。日本語全く忘れしを、近頃日本人と往復し、少しく話す樣に成れりと。龍動の西南區に英人を妻とし棲み二年有りと也」と有り。所謂「ズールー」の戰爭は、明治十二年の事にて、「ナポレオン」三世の唯一子、廿三歲にて此軍中蠻民に襲はれ犬死せり。當時從軍の玉村氏廿歲計りの事と察せらる。日本人が早く南阿の軍に加はり、多少の功有りしも珍しければ附記す。明治二十四年頃、予西印度に在りし時京都の長谷川長次郞とて、十七八歲の足藝師、肺病にて「ジヤマイカ」島の病院にて單身呻吟し居たりし。斯る事猶ほ多からん。

         (大正元年十月人類二八卷)

[やぶちゃん注:「金剛石」ダイヤモンド。

『「ズールー」の戰爭』英語‘Anglo-Zulu War’は一八七九年にイギリス帝国と南部アフリカのズールー王国(インド洋の沿岸部に十九世紀に南アフリカ東海岸部に建国された君主国。十九世紀初め、ズールー族の王となったシャカが軍事組織と武器を改革し、周辺の部族を次々と統合して、一八二四年にはポート・ナタール(現在のダーバン)のイギリス人入植者と友好関係を結んで、鉄砲を入手し、それを使って、さらに王国の版図を広げた。一八二八年には異母弟のディンガネがシャカを殺して王位に就き、さらに領土の拡大を図った)との間で戦われた戦争。この戦争は幾つかの血生臭い戦闘と、南アフリカに於ける植民地支配の画期となったことで知られる。イギリス植民地当局の思惑により、本国政府の意向から離れて開戦したものの、英国軍は緒戦の「イサンドルワナの戦い」で、槍と盾が主兵装で火器を殆んど持たなかったズールー軍に大敗を喫し、思わぬ苦戦を強いられた。その後、帝国各地から大規模な増援部隊が送り込まれ、「ウルンディの戦い」で近代兵器を用いたイギリス軍が王都ウルンディを陥落させ、勝利し、ズールー国家の独立は失われた(以上はウィキの「ズールー戦争」に拠った)。

「大窠」(だいくわ(だいか))は大きな巣のこと。

『「ナポレオン」三世の唯一子』父ナポレオンⅢ世の嫡出子でフランス第二帝政時代の皇太子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(Napoléon Eugène Louis Bonaparte 一八五六年~一八七九年)。父ナポレオンⅢ世に溺愛されたという。「普仏」戦争の初期、フランス軍が各地で劣勢となり、ナポレオンⅢ世は捕虜となり、一八七〇年九月二日から四日までの二日間だけ、彼が表面上の政務を取り仕切ったが、その四日、パリで民衆の暴動が起こり、九月六日にイギリスへ亡命した。イギリスでは砲兵学校に入学し、好成績で卒業、ヴィクトリア女王に愛称の「ルル」で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどであった。イギリスへの恩返しとして「ズールー戦争」に従軍、ズールー族の襲撃を受けて戦死した。子はなく、ナポレオンⅢ世の直系は絶えた(以上は彼のウィキに拠った)。

「明治二十四年」一九〇一年。

「長谷川長次郞」詳細事績不詳。]

2021/02/15

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語(異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)――オリジナル電子化注一括縦書PDF版公開

南方熊楠の「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」のオリジナル電子化注一括縦書PDF版を公開した。

2021/02/13

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 8 / 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:以下の段落は前の「7」の補足で、底本では全体が一字下げとなっている。]

 吾邦の高僧、海外に名を馳せ乍ら、本國に知られざる例少なからず、之例[やぶちゃん注:「たとへば」。]、慈覺大師入唐求法巡禮行記に見えたる、日本國靈仙三藏如き、中々の學僧にて、淳和帝より學資を賜はりしが、支那にて毒殺され、異國の緇徒[やぶちゃん注:「しと」。僧衆の意。]その跡を弔ひしのみ、其詳傳は傳らず、茅亭客話(五代詩話卷八に引)に、瓦屋和尙、名能光、日本國人也、嗣洞山悟本禪師、天復年初入蜀、僞永泰軍節度使鹿虔扆、捨碧雞坊宅、爲禪院居之、至孟蜀長興年末遷化、時齒一百六十三、此僧德望高かりしのみならず、海外で二百歲近く迄長生とは、偏えに日本の面目也、迥か[やぶちゃん注:「はるか」。]降て十七世紀の初めに伊太利の旅行家「ピエトロ、デラ、ヷレ」が波斯國イスパハンで逢し日本の碩學、「ピエトロ、バオリノ、キベ」(木部か)如き、自在に拉丁語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]を使い、道を求てローマに留學したりと(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 492)、

[やぶちゃん注:「慈覺大師入唐求法巡禮行記」「につたうぐほふじゆんれいかうき(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」と読む(「法」は通常の歴史的仮名遣「はふ」であるが、仏教用語に限っては「ほふ」と読むのを通例としている)。最後に実施された遣唐使(承和五(八三八)年出発、翌年到着。この後、寛平六(八九四)年に、かの菅原道真を大使とし、絵巻で知られる紀長谷雄を副使とする遣唐使が立案されたが、唐国内の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議によって停止となった。その後、大使の任は解かれなかったが(但し、道真は失脚し、延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)に失意のうちに大宰府で没した)、その十三年後の九〇七年に唐が滅亡したため、遣唐使はそこで名実ともに廃止となった)における入唐請益僧(にっとうしょうやくそう:「更に教えを請う」の意で、本邦で既にそれぞれの学業を規定通りに身につけたとされる僧が、その業を深め、疑問を解決するために短期に留学する場合に用いられた呼称)であった慈覚大師円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年:下野国生まれ。出自は壬生氏。最澄に師事した天台僧で、後に「山門派」の祖となった。仁寿四(八五四)年六十一歳で第三代天台座主となった)の出発(当時、四十五歳)から帰国に至る九年六ヶ月に亙る日記。これより前の承和三年・四年と二回の渡航に失敗した後、承和五年六月十三日に博多津を出港した日から記し始め、博多津に到着して鴻臚館に入り(承和十四(八四七)年九月十九日の条)、朝廷から円仁を無事連れ帰ってきた新羅商人たちへの十分な報酬を命じた太政官符が発せられた同年十二月十四日で日記は終わっている。その間の波乱万丈の一部始終は彼のウィキを参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正一五(一九二六)年東洋文庫刊の写本本文(影印)全四冊と活字本の解説一冊が視認出来る。

「日本國靈仙三藏」平安前期の法相宗の僧霊仙(りょうせん 天平宝字三(七五九)年?~天長四(八二七)年?)。日本で唯一の三蔵法師(「三蔵法師」とは名前ではなく、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶を指す一般名詞で、後には転じて「訳経僧」を指すようになった)。当該ウィキによれば、『出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される』。『興福寺で学んだ後』、延暦二三(八〇四)年に第十八次『遣唐使の一人として入唐した』。『同期に最澄・空海・橘逸勢らがいる。長安で学び』、八一〇年には『醴泉寺(れいせんじ)にて、カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受』(経典を漢訳する際に梵語の口述を漢文で筆記する係の者)や『訳語(をさ)』(漢語・漢字に置き換える係。現代の翻訳に相当する)『を務めた』。八一一年に『「三蔵法師」の号を与えられ』た。『時の唐の皇帝・憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて、大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって、日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移』った。八二五年には『淳和天皇』(じゅんなてんのう:在位:弘仁一四(八二三)年~天長一〇(八三三)年。桓武天皇第七皇子)『から渤海の僧・貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利や経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に、阿波国の稲千束を支給するよう計らった。その後』、八二八年(中唐末期。本邦は天長五年)までの『間に没したようで、一説によれば』、『霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから』、『死ぬまで』、『日本の地を踏むことはなかった』。八四〇年に『霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧・霊仙の最期の様子を聞いている。また』、承和五(八三八)年に『円行・常暁が入唐した際には、霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという』とある。

「緇徒」「緇」は黒い色で墨染めの衣で「僧侶」の意となる。

「茅亭客話」(ぼうていかくわ:現代仮名遣)宋の黄休復の撰になる、五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもの。全十巻。私の「怪奇談集」「老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)」がある。その三巻(「漢籍リポジトリ」の完全電子データ)の「勾居士」に、

   *

勾居士名令𤣥蜀都人也宗嗣張平雲有學人問答隨機應響著火蓮集無相寶山論法印傳况道雜言百餘篇有敬禮瓦屋和尚塔偈曰大空無盡刼成塵𤣥步孤高物外人日本國來尋彼岸洞山林下過迷津流流法乳誰無分了了教知我最親一百六十三嵗後方於此塔葬全身瓦屋和尚名能光日本國人也嗣洞山悟本禪師天復年初入蜀僞永泰軍節度使禄䖍扆捨碧雞坊宅為禪院居之至孟蜀長興年末遷化時齒一百六十三故有是句

   *

とある(リンク先では影印本も見られる)。当該部のみの訓読を試みる(字体は熊楠のそれに従った)。

   *

瓦屋(ぐわをく)和尙、名は能光(のうくわう)、日本國の人なり。洞山悟本禪師を嗣ぐ。天復の年初、蜀に入る。僞(ぎ)永泰軍節度使鹿虔扆(ろくけんい)、碧雞坊(へきけいばう)の宅を捨(ほどこ)し、禪院として之(ここ)に居(きよ)せしむ。孟蜀(まうしよく)の長興(ちやうこう)年末に至りて遷化(せんげ)す。時に齒(よはひ)一百六十三なり。

   *

もし「能光」が正式な日本名の俗名であったなら「よしみつ」と読める。日本ではあり得ないが、中国での名乗りであるから、あり得ないとは言えない気がする。「天復」は唐の昭宗の治世に用いられた元号(九〇一年~九〇四年)。「僞永泰軍節度使鹿虔扆」唐滅亡後の五代まで及んだ官人で詩人のようである。「永泰軍節度使」は五代の旧唐の南を治めた官名であるから、その上の「僞」というのは甚だ不審であったので、調べてみると、「古今詞話七」(影印本。「中國哲學書電子化計劃」)の「鹿虔扆」を見ると、「鹿爲永泰節度使」とあった。鹿爲永泰節度使」とあった。何のことはない、「鹿、永泰節度使たり」じゃあねえか。阿呆臭! 「碧雞坊」鹿虔扆の所有していた道観の僧坊か或いは彼の別邸か? 「捨(ほどこ)し」喜捨し。「孟蜀」五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した後蜀(こうしょく 九三四年~九六五年)の別称国名。「長興」は五代の二番目の王朝であった後唐の明宗李嗣源(しげん)の治世に用いられた元号。九三〇年~九三三年。

「五代詩話」清の王阮亭の原編で、鄭方坤の刪補になる一七四八年序の詩話集成。

 以下、表記は本文レベルに戻る。冒頭の字下げがないのはママ。]

 

之を要するに、段氏決して全く虛構して酉陽雜俎を著したるに非ず、又況んや上に引ける葉限の物語は、往古南支那土俗の特色を寫せる點多く、之を談りし人の姓名迄も明記したれば、其里俗古話學上の價値は、優に、近時歐米又本邦に持囃さるゝ仙姑譚、御伽草紙が、多く後人任意の文飾脚色を加え含めるに駕する者と知るべし、

[やぶちゃん注:「持囃さるゝ」「もてはやさるる」。

「仙姑譚」女性の仙人の話群。なお、中国の代表的な女仙で、「八仙」(中国では仙人は実在の人物と考えられている)の唯一の女仙に何仙姑(か せんこ)がいる。因みにこの「八仙」が七福神の起源とする説があり、とすれば、弁天の原型ということにもなろう。

「駕する」他を凌(しの)ぐ。

 さて。以下は全体が一字下げで「附記」を除いて、本文は本篇のそれよりもポイント落ちである。しかし、これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」への附記ではなく、先に同じ『東京人類学雑誌』に載せた論考「本邦に於ける動物崇拜」(リンク先は私のPDF一括版)の追加記事である。本来なら、「南方随筆」として纏めた際には、それをその記事の後ろに配すべきものであった。私の以上の一括版やブログ版の最後では、そのように処理しておいた。さらに、熊楠が追加した「橘南谿の西遊記卷一」の「榎木の大虵(だいじや)」は、私のお節介で「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)」の注で既にして電子化してある(PDF版も同じ)ので、一切の注を必要としないのである。

 

 附記 人類學會雜誌二九一號に、予が載せたり野槌に似たる事、橘南谿の西遊記卷一に出づ、其略に云く、肥後の五日町、求摩川[やぶちゃん注:初出では「求麻川」とする。]端の大なる榎木の空洞に、年久しく大蛇住り、時々出で現はるゝを見れば病むとて、木の下を通る者必ず低頭す、太さ二三尺、總身白く、長さ纔に三尺餘、譬へば[やぶちゃん注:初出では「譬ば」である。]犬の足無き如く、又芋蟲に似たり、土俗之を一寸坊蛇と云ふ、[やぶちゃん注:初出では「下略、」とし、下方二字上げで「(完)」(これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」の論考の「完」の意)とする。]

    (明治四十四年三月、人類第二六卷)

 

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7

 

予現に參考書を缺くを以て、歐州「シンダレラ」物語の最古きは、何時代に記されたるを詳かにせず、隨て、此譚の早く筆せられしは、東西孰れに在るを斷ずる能はずと雖も、兎に角、千餘年前に成し酉陽雜俎に、此特色ある「シンダレラ」物語を書付たる、唐の太常卿、段成式の注意深かりしを感謝する者也、この人相國文昌の子、詩名高く、宏學博物、殆ど張華「プリニウス」の流也、(尉遲樞の南楚新聞に、今より千四十八年前、咸通四年六月、卒せる後、其靈書を友人溫庭因筠に贈る由載たり)、平素好んで書を藏し、又下問を耻ず[やぶちゃん注:「はぢず」。]、天上天下、方内方外の異譚奇事を錄して、酉陽雜俎二十卷、續集十卷を撰せり、唐代の事物、是れに據て初て見るべき者頗る多し、然るに楊愼の丹鉛總錄卷五、段成式好張虛大之言、其著酉陽雜俎、亦似郭子橫洞冥記、唐人杜陽雜編全構虛誑、殊無一實也[やぶちゃん注:「中國哲學書電子化計劃」の原本影印本の当該部を確認し、一部の漢字の誤りを訂した。]と評し、江村北海も亦雜俎を丸啌[やぶちゃん注:「まるうそ」。]也と排せり、こは後世支那人が、書籍の穿鑿のみに腐心して、實際に迂なると、吾邦の儒者が、世界の廣き事を知らざる僻言[やぶちゃん注:「まるうそ」に応じて「ひがごと」と読んでおく。]にて、成る程段氏の記述に怪異の事多きも、是れ却つて、當時唐土に行はれたる迷信、錯誤の實況を直筆せる者なれば、其頃支那に於る一汎人智の程度を察するに最も便利有る事、歐州にも、遠く「アリストテレス」「プリニウス」より、中頃天主敎諸大德を歷て、近く「ゲスネル」「アルドロヷンヅス」に至る迄、牛屍を埋れば蜜蜂に化し、人の脊髓死して蛇となり、露[やぶちゃん注:「つゆ」。]海に入て眞珠と變じ、航魚(タコフネ)[やぶちゃん注:底本は「タコウネ」。初出は「タコフ子」(「子」は「ネ」の漢字型表記)。初出に従い、「子」をカタカナ表示した。]を見れば凶事有り、印魚(コバンフネ)[やぶちゃん注:底本は「コバンネ」。初出は「コバンフ子」(「子」は「ネ」の漢字型表記)。初出に従い、同前の仕儀で示した。]は訴訟事件を長引かし、印度の象は每度龍と鬪て相討ちて果る、其外、人魚山男抔、呆れ返つた事共を飽く迄夥く書連ねたるに異ならず、段氏が智識を求る用意極て周到なりしは、卷十八に、諸外國の植物を載せたるに、啻に記文の詳きのみならず、多くは其本國名稱を添たり、紫鉚の眞臘名勒佉(ラツク)、波斯棗[やぶちゃん注:「ペルシアなつめ」。]のペルシア名窟莽(クルマ)、偏桃の波斯名婆淡(バダム)、無花果のペルシア名阿駔(アンジル)、拂林名底珍(「アラビヤ」名テイン)等也(De Candolle, ‘Origin of Cultivated Plants,’ 1890, passim.)、從來「エゴノキ」に宛てたる齊墩果如き、其記載の正確なるが上え[やぶちゃん注:ママ。]、雜俎に波斯名齊墩、拂林名齊虛[やぶちゃん注:「虛」は「選集」では「虛」に「厂」を懸けた字。]と擧げたるはペルシア語 seitun ヘブリウ語 sait に恰當[やぶちゃん注:「かふたう(こうとう)」。相当。]すれば、實は「オリヴ」樹の事也(明治四十年十二月、東洋學藝雜誌、拙文「オリヴ」樹の漢名に出)、其卷十九に見ゆる、梁の延香園の異園の如き、詳細の記載、明かに「コムソウダケ」の或種を眼前に想見せしむ、(予の “The Earliest Mention of Dictyophora,”  Nature, vol. 1, 1894) 其驗仙書、與威喜芝相類と云るは、偶ま、以て、支那の古道士輩が、自然に、窒素分多き菌類の、畜肉と等く滋養分に富るを覺て[やぶちゃん注:「さとりて」。]、之を嗜み重んじ、隨て菌類に就て智識廣かりしを、諒するに足れり(仙書に、上帝肉芝を某仙に賜ふと有るは、紀州抔に多き Fistulina hepatica ならん、形色牛肉に酷似し、且つ鮮血樣の紅液を瀝る[やぶちゃん注:「たれる」。]故、英語に牛肉蔬(ヴエジタブルビーフステーキ)と呼ぶ)同卷に見ゆる、昆明池水網藻の記は、支那人が歐人に前て[やぶちゃん注:「さきだちて」。]、「アミミドロ」(英語 waler Net)を識りしを證す、(予の ‘The Earliest Mention of Hydrodictyon,’ Nature, vol. lxx, 1904)、又松下見林の異稱日本傳卷上にも引る如く、雜俎三に[やぶちゃん注:以下の引用は「酉陽雑爼」及び「異称日本伝」を閲するに脱字があったので特異的に訂しておいた。]、國初、僧云玄奘往五印取經、西域敬之、成式見倭國僧金剛三昧、言甞至中天、寺中多畫玄奘麻屩及匙筯、以綵雲乘之、蓋西域所無者、每至齋日、輙膜拜焉と有り、見林之を評して、眞如親王羅越にて遷化し給ひけるを、師鍊賛して曰、自推古、至今七百歲、學者之事西遊也以千百數、而跂印度者、只如一人而已、蓋不考金剛三昧事也と言り、件の千餘年前に渡天の壯行を遂げたる日本僧は、其姓名すら本國に傳存せざれども、吾邦曾て斯る偉人を出せしを知り得るは、一に親しく之に遇せし話を、雜俎に載たる段氏の賜物也(予の ‘The Discovery of Japan,’ Nature, vol. lxvii, p. 611, 1903 參照)、

[やぶちゃん注:「太常卿」「たいじやうけい」。天子の宗廟の祭礼を職掌とした。

「張華」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)。彼の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻はよく知られる。

「プリニウス」古代ローマの将軍で博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二三年~七九年)。大百科全書「博物誌」三十七巻を編み、古代科学知識を集大成した。ベスビオ火山噴火の際、調査に行き、遭難死した。甥の政治家ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus 六二年頃~一一四年頃)と区別して「大プリニウス」と呼ばれる。

「尉遲樞の南楚新聞」底本は「南楚紀聞」であるが、調べたところ、誤字であることが判ったので、特異的に訂した。「尉遲樞」(生没年未詳)は晩唐の人で、この「新聞」とは「風聞」の意で、そうした南楚の風聞を記した随筆。完本は伝わらないようであるが、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで引用文の集成が読め、そこに「太平廣記」卷三百五十一からとして、

   *

○段成式

太常卿段成式、相國文昌子也、與舉子溫庭筠親善、咸通四年六月卒。庭筠居閒輦下、是歲十一月十三曰冬至、大雪、凌晨有扣門者、僕夫視之、乃隔扉授一竹筒、云、「段少常送書來。」庭筠初謂誤、發筒獲書、其上無字、開之、乃成式手札也。庭筠大驚、馳出戶、其人已滅矣。乃焚香再拜而讀、但不諭其理。辭曰、「慟發幽門、哀歸短數、平生已矣、後世何云。況複男紫悲黃、女靑懼綠、杜陵分絕、武子成卷君。自是井障流鸚、庭鐘舞鵠、交昆之故、永斷私情、慨慷所深、力占難盡。不具、荊州牧段成式頓首。」。自後寂無所聞。書云卷君字、字書所無、以意讀之、當作群字耳。溫段二家、皆傳其本。子安節、前沂王傅、乃庭筠婿也、自說之。

   *

とある。

「咸通四年」唐末期の八六三年。

「溫庭筠」(おんていいん 八一七年?~八六六年?)は晩唐の知られた詩人。娘は段成式の子の段安節の妻となり、宰相であった温彦博(びんはく)の末裔に当たる。晩唐を代表する詩人の一人で、同時代の妖艶にして唯美的な詩風で知られる李商隠(八一二年又は八一三年~八五八年)とともに「温・李」と並び称される。優れた才人であったが、彼のウィキによれば、『試験場で隣席の者のために詩を作ってやったり、遊里を飲み歩いて警官と喧嘩をしたりするなど、軽率な行為が多く、科挙には』結局、『及第出来なかった。宰相の令狐綯』(れいことう)『の家に寄食したが、令狐綯を馬鹿にしたので追い出された』。八五九年頃、『特に召し出されて試験を受けたが、長安で任官を待つ間、微行していた宣宗に会い、天子と知らずにからかったので、随県の県尉に流された。襄州刺史の徐商に招かれ、幕下に入ったこともあるが、満足せず、辞職して江東の地方を放浪し、最期は零落して死んだ』。『詩風は六朝時代の宮体詩に近く、同年代の李商隠に比べてやや退廃的。また、温庭筠の性格も相まって少々』、『軽薄な美しさがある。李商隠と共に、宋代初期の西崑体に強く影響を残している』。現在、「温飛卿詩集」九巻が残る、とある。

「楊愼の丹鉛總錄卷五、……」(一四八八年~一五五九年)は明の学者・文学者。一五一一 年に進士に及第して翰林修撰となった。後に世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について帝に反対したため激怒を買い、平民として雲南永昌衛に流され、約三十五年間を配所で過して、没した。神童の呼び名高く、十二歳の時に書いた「古戦場文」は人を驚かし、詩は政治家で詩壇の大物として一時期を作った李東陽に認められた。博学で、雲南にあって奔放な生活を送りながらも、多くの著述を残した。その研究は詩・戯曲・小説を含め甚だ多方面に亙るが、特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料となっている。著作は「升庵全集」全八十一巻に収められている。以下、訓読しておく。

   *

段成式、虛大の言を張るを好む。其の著「酉陽雜俎」、亦、郭子橫が「洞冥記」、唐人の「杜陽雜編」に似て、全く虛誑(きよきやう)を構へ、殊(とりわ)け、一つの實(じつ)も無きなり。

   *

この『郭子橫が「洞冥記」』は後漢の郭憲の撰になる道教系の志怪小説集。「杜陽雜編」は晩唐末期の進士蘇鶚(そがく)の撰になる伝奇小説集。

「江村北海」(えむらほっかい 正徳三(一七一三)年~天明八(一七八八)年)は江戸中期の儒者・漢詩人。彼のウィキによれば、福井藩の儒者伊藤竜洲の第二子であったが、『明石藩士であり母の兄にあたる河村家で生まれ、そこで養育された。はじめ学問には無関心だったが、北海の俳諧を見た梁田蛻巖に激励され』、『勉学に専念。父の友人である丹後宮津藩の儒者・江村毅庵の養子となる。藩主・青山幸道は北海に吏才があることに気づき』、『次第に重用』された。宝暦八(一七五八)年、『美濃郡上藩に移封の際、病を理由に辞任を願ったが許されず』、『郡上に同行』している。宝暦十三年には『許されて京都に帰ったが、その後も時々郡上に行』って『教授し、または藩の諮問に応じた』。安永四(一七七五)年、『幸道が隠居したのを機会に致仕し、京都の室町に対梢館を建て隠居』した。

「實際に迂なる」現実の事実に疎いこと。

「段氏の記述に怪異の事多きも、是れ却つて、當時唐土に行はれたる迷信、錯誤の實況を直筆せる者なれば、其頃支那に於る一汎人智の程度を察するに最も便利有る」私は「酉陽雜俎」の愛読者であり、博物学的民俗学的観点から熊楠に完全に同感である。

「ゲスネル」スイスの博物学者で書誌学者コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner 一五一六年~一五六五年)。医学・神学を始めとしてあらゆる分野に亙って博覧強記で、古典語を含めた多言語に通じ、それを活用して業績をあげた碩学。著書「動物誌」全五巻 (一五五一年~一五五八年)は、近代動物学の先駆けとされ、植物学にも長じた。また、書誌学の基礎を築いたとされる「世界書誌」(一五四五年~一五五五年)を著わし、「書誌学の父」とも呼ばれる。当該ウィキによれば、『世界的な博物学者である南方熊楠はゲスナーに感銘を受け』、『北米時代の日記に「吾れ欲くは日本のゲスネルとならん」と記している』とあるのは、熊楠ファンの間では有名なエピソードである。

「アルドロヷンヅス」イタリアの博物学者ウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi 一五二二年~一六〇五年)はである。「Aldrovandus」という名を用いることもある。、ボローニャ大学で医学と哲学を教授した。研究対象は多岐に渡り、昆虫・動物・植物・科学一般などあらゆる分野に精通した。ゲスナーの「動物誌」を参考にした「怪物誌」(Monstrorum historia)はそのモンストルム・ワールドの強烈な一冊である。

「航魚(タコウネ)」頭足綱八腕形上目タコ目アオイガイ上科アオイガイ科アオイガイ属タコブネ Argonauta hians の美しい貝殻様の卵保護の殻を成形する♀(♂は作らない)の異名。私はビーチ・コーミングで採取した三個を持っている。但し、同種は太平洋及び日本海の暖海域に分布するので、ここでは、西洋の古博物書を含むので、他に似た殻をやはり♀のみが持ち、分布も広汎(全世界の熱帯・暖海域。太平洋・インド洋・大西洋・地中海)の表層に棲息するアオイガイ属アオイガイ Argonauta argo も挙げておく必要がある。但し、以下のこれを「見れば凶事有り」という伝承は私は寡聞にして知らない。原拠が何か、非常に興味があるところだ。なお、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子」(ブログ版)や、サイト版の「栗氏千蟲譜 巻十(全) 栗本丹洲」の最後のそれ(画像多数。まず、失望させないと自負する)や、「和漢三才圖會卷第四十七 介貝部【蚌類 蛤類 螺類】」の「貝鮹(かひたこ たこふね)」もよろしければ、読まれたい。

「印魚(コバンフネ)」条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属 Echeneis のコバンザメ類のことであるが、「フネ」は不審。前の「タコフネ」に引かれて熊楠が誤った可能性が高い気がする。或いは紀州で「サメ」を「フネ」と呼ぶのだろうか?(形が舟に似てはいるけれど) 私の「栗本丹洲 魚譜 白のコバンザメ」を参照されたい。以下、「印魚」「は訴訟事件を長引かし」については、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 2魚類」(一九九四年平凡社刊)の「コバンザメ」の項の「博物誌」の最後に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『この魚をもっていると、裁判に勝つことができるという俗信がある。これは裁判を長びかせれば、結局勝つことができるという考えによるらしい(谷津直秀《動物分類表》)』(引用書は一九一四年刊)とある。これは、少し意味が判りにくいが、要はコバンザメのその吸着力を以って裁判相手から決して離れないで訴訟闘争を続けることで勝つという覚悟の意味が元であろうと私は解釈している(他意味があるとなれば、是非、お教え戴きたい)。私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(3)」も参照されたい。

「印度の象は每度龍と鬪て相討ちて果る」これも原拠が判らない。但し、インドでは蛇或いは大蛇が象の天敵とされてはいる。大蛇(ナーガ)は中国では龍とは成ったが、これも原拠が知りたいところ。

「段氏が智識を求る用意極て周到なりしは、卷十八に、諸外國の植物を載せたるに」「酉陽雜俎」の「卷十八」は「廣動植物之三」。

「紫鉚の眞臘名勒佉(ラツク)」「紫鉚」は「しりう(しりゅう)」と読んでおく。同字の音はネットで調べると、一応、呉音が「ル」で、漢音が「リュウ(リウ)」である。納得のゆく読みだが、しかし、所持する「東洋文庫」(一九九四年刊)の今井与志雄氏の訳注の中では「鉚」に『こう』とルビされておられ、また、サイト「和漢薬・生薬の読み方」のこちらでは『紫鉚(しきょう)』である。しかし現代の拼音では「liǔ」で、これは「リ(ォ)ウ」であるからして、私は最初の読みでゆく。さても「紫鉚」とは、マメ目マメ科マメ亜科インゲン連ブテア属ハナモツヤクノキ Butea monosperma (紫鉚樹・紫柳)或いは同じく紫鉚樹・馬鹿花と漢字表記する同属の別種 Butea suberecta を指す(これは植物では最も信頼のおけるサイト「跡見群芳譜」のこちらに拠った)。ブテア属はインドから東南アジアにかけて広く分布する。最初に示したハナモツヤクノキは、当該属のウィキによれば、『ラックカイガラムシの宿主としてしられる。ラックカイガラムシの分泌する樹脂を採取して、花没薬(はなもつやく)という生薬や染色の臙脂に用いられる』とある。虫体被覆物質と虫体内色素の両方を利用する Lac に代表されるラックカイガラムシ科 Kerriidae については、解説が非常に面倒なので、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」の私の注を参照して戴きたい。今村氏の「酉陽雑俎」の訳によれば、カンボジア(原本では「眞臘國」)に産出し、現地では『勒佉(ローキア)と呼んでいる』。『子(み)を結ばない』が、『濃霧、露および雨が樹の枝々にかかってぬらすと、その樹から、すぐ紫』鉚(原本自体で段成式が字を誤っている)『が出る』とある。まさにラックカイガラムシの体を覆う樹脂状の物質で、精製して塗料・接着剤などに現在も普通に用いられているところの「ラック」のことである。

「波斯棗のペルシア名窟莽(クルマ)」私は本文内で「ペルシアなつめ」と当て読みしたが、今村氏は「ペルシア『そう』」と読んでおられ、「窟莽」には「くつもう」とルビされる。訳によれば、『形は、バナナに似てい』て、『花に二つの甲があり、徐々に開花する。裂け目に十余、種子の房があ』って、『核が熟するとき、朱氏は黒である。形は乾した棗(なつめ)に似ている。味は甘く』、『食用になる』とあって、今井氏はこの「窟莽」について、『ナツメヤシ』『のペルシア名という』と注されておられる。ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera である。実はデーツ(Date)と呼ばれ、北アフリカや中東では現在も主要な食品の一つである。

「偏桃の波斯名婆淡(バダム)」「偏桃」はバラ目バラ科モモ亜科サクラ属ヘントウ Amygdalus dulcis で、ご存知、種子の殻を取り除いた仁の部分が生の「アーモンド」である。

「無花果のペルシア名阿駔(アンジル)」底本は「駔」の(つくり)が「貝」であるが、中文ウィキの「無花果」によって特異的に訂した。バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica 同ウィキにはペルシャ語のラテン文字表記で「anjir」と確かに出る。「酉陽雑俎」では第十八巻の最後に「阿驛」として登場する。

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阿驛、波斯國呼爲阿馹拂林呼爲底珍。樹長丈四五、枝葉繁茂。葉有五出、似椑卑麻。無花而實、實赤色、類椑卑子、味似甘柿、一月一熟。

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但し、今村氏の注で、「阿驛」については、『案ずるに、『本草綱目』三一「果」部「夷果類」の「無花果」』に『引』かれる『「阿駔」』と字注され、訳注では、その漢字表記について『新ペルシア語で、無花果を示す語は、anjir であるが、中国語の転写は、それとは無関係で、ペルシア語のより古い段階、中世ペルシア語とかかわりがあるらしい』と解説しておられる(今村氏の解説はもっと詳しい(もっと複雑である)ので、より詳しくは必ず引用書を参照されたい)。その「拂林」(アラビア)「名」が「底珍」「テイン」であるという点についても、今村は詳しい注を附しておられ、『アラビア語』では『tin, tine, rina』とある。

「De Candolle, ‘Origin of Cultivated Plants,’ 1890, passim.」フランス系のスイスの植物学者アルフォンス・ルイス・ピエール・ピラム・ドゥ・カンドール(Alphonse Louis Pierre Pyrame de Candolle 一八〇六年~一八九三年)。「国際藻類・菌類・植物命名規約」(ICBN)の制定に功績があった。この原本は一八八二年に刊行されたフランス語で書かれた「Origine des plantes cultivées 」(「栽培植物の起原」)である。

「エゴノキ」ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属エゴノキ Styrax japonica 。本邦で全国の雑木林に多く見られる落葉小高木であるが、果皮に有毒なエゴサポニンを多く含むことはあまり知られているとは思われない。それから果汁を絞ったりしたら、飲むどころか、触っただけでも炎症を起こすぞ(溶血作用もあるという)! 当該ウィキによれば、『「齊墩果」が漢名とされる場合があるが、これは本来はオリーブの漢名であ』り、『現代中国語では「野茉莉」と呼ぶ』とある。

「齊墩果」(さいとんくわ)「如き、其記載の正確なるが上え、雜俎に波斯名齊墩、拂林名齊虛[やぶちゃん注:「虛」は「選集」では「虛」に「厂」を懸けた字。ここで「※」としておく。]と擧げたる」これは、やはり、第十八にある、

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齊暾樹、出波斯國。亦出拂林國、拂林呼爲齊※【音「湯」兮「反」。】。樹長二三丈、皮靑白、花似柚、極芳香。子似楊桃、五月熟。西域人壓爲油以煮餅果、如中國之用巨勝也。

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である。この記載を見ても判る通り、これは明らかに、シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea である。

ペルシア語 seitun ヘブリウ語」(ヘブライ語に同じい)「sait」今村氏の「齊暾樹」の注に「齊暾」は『オリーヴ』で、『ペルシア語の zeitum の転写である』とされた後、熊楠が以下で挙げる、論文を引かれて詳述されておられる。その今村氏の熊楠の以下の論文の引用部を恣意的に正字化して以下に示しておく。

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其邊[やぶちゃん注:今村氏によって『東羅馬帝国の亜細亜領』とある。]の諸氏がオリーヴを呼ぶ名に、齊暾に合ひ又は近き者多し。ヘブリウの Sait 又は Zeit、波斯の Seitun、アラビヤの Zaitun、土耳其人[やぶちゃん注:「トルコじん」。]及びクリメヤ脫脫[やぶちゃん注:意味不明。クリミア半島に勢力を持った元のチンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配して興亡した遊牧政権の言語、或いはタタール語ということか?] Seitun、アラビアの Jit、ヒンスクニ[やぶちゃん注:ヒンズークスのことだろう。]の Zeitun 等なり……[やぶちゃん注:このは今村氏の中略であることを、サイト「私設万葉文庫」こちら(ここで当該論文は一応(表示文字に不全があるが)読める)で確認した。]因みに言ふ。古アラビヤ人はジェルサレムをオリーヴに因んで齊暾邑 Aaituni-yah と呼び、又、七八世紀の頃より、支那の泉州をも齊暾と呼り、當時の唐人が泉州府を楚桐城 Tseu-tung-ching と綽名せしをオリーヴのアラビヤ名と混じての事也

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『明治四十年』(一九〇七年)『十二月、東洋學藝雜誌、拙文「オリヴ」樹の漢名』こう表記しているが、国立国会図書館の書誌データの「目次」(本文画像は閲覧出来ないので御注意あれ)を見る限りでは、「オリーヴ樹の漢名」である。

「其卷十九」「酉陽雑俎」のそれは「廣動植之四」で「草類」が続く。

「梁の延香園の異園」梁の第二代皇帝簡文帝蕭綱(五〇三年~五五一年:武帝蕭衍の三男。土嚢を身体の上に積まれて圧殺された)の作った庭園名らしい。以下は、著者段成式の自分の屋敷の竹林を手入れしていたところ、不思議な菌(きのこ)が生えてきたことを記した後に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認した)、

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又、梁簡文延香園、大同十年、竹林吐一芝、長八寸、頭蓋似雞頭實、黑色。其柄似藕柄、内通幹空【一曰柄幹通空】、皮質皆純白、根下微紅。雞頭實處似竹節、脫之又得脫也。自節處別生一重、如結網羅、四面同【一曰周】、可五六寸、圓繞周匝、以罩柄上、相遠不相著也。其似結網衆目、輕巧可愛、其柄又得脫也。驗仙書、與威喜芝相類。

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と出るのを指す。今村氏の訳文を参考に訓読してみる。

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又、梁の簡文が延香園にて、大同十年[やぶちゃん注:五四四年。]、竹林、一つの芝(くさびら)を吐(はきい)だす。長(たけ)八寸、頭の蓋(かさ)は雞頭の實に似て、黑色たり。其の柄、藕(ぐう)[やぶちゃん注:蓮根。]の柄に似、内は幹に通じ、空(くう)たり【一つに曰はく、「柄幹は通空たり。」】。皮質、皆、純白にして、根の下、微かに紅(あか)し。雞頭の實のやうなる處は、竹の節に似て、之れを脫(は)がせば、又、脫(は)がすを得るなり[やぶちゃん注:同じようなものを剝さなくてはならない。]。節の處より、別に一重(ひとえ)のもの生ぜしに、網羅(まうら)を結べるがごときにて、四面、同じくして【一つに曰はく「周(まは)り」。】、五、六寸ばかり、圓(まる)く繞(ねう)して周匝(しうせう)し[やぶちゃん注:丸く纏わってぐるりと取り囲み。]、以つて柄の上を罩(おほ)ひて、相ひ遠(はな)れて相ひ著(つ)かざるなり。其れ、結べる網の衆(おほ)くの目に似て、輕く巧(たくみ)なること、愛すべく、其れ、柄と又(とも)に脫(は)がし得たりしなり。仙書を驗(けみ)するに、「威喜芝(いきし)」と相ひ類(たぐひ)せり。

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「仙書」は道教の仙術書。その代表作は以下にも語られる晋代の葛洪(二八三年~三四三年)の著「抱朴子」(ほうぼくし)である。「威喜芝」については、今村氏が、『案ずるに、『抱朴子』内篇一一「仙薬」でいう木威喜芝であろう。同書によると、「そもそも木芝とは、松柏(はく)の脂がしずんで地に入り、千年たつと茯苓(ぶくりょう)にかわる。茯苓が一万年たつと、その上に小さな木が生ずる。形は蓮(はす)の花に似ている。名づけて木威喜芝という。夜、みると、光がある。持つと、たいへん滑らかである。焼いてももえない。これを身に帯びると武器をよける。雞につけて、他の雞を十二羽まぜ、一緒に籠にいれて、十二歩離れたところから箭(や)を十二本射ると、他の雞はみな傷つくが、威喜芝をつけたのは、ついに傷つかないのである」。それであろう』とある。文中で「木」を外して「威喜芝」と言っているのは所持する原本でも確認した。これは恐らく、「霊芝」(レイシ Ganoderma lucidum )に代表される菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属 Ganoderma の茸類の仲間であろうとは推定される。なお、「森林微生物管理研究グループ」サイト内の「キヌガサタケとスッポンタケ」にここを簡略記載した記事が載る(脱字を補った)。

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 特異な形のため記録に残っている。唐代の随筆集である酉陽雑俎には、「梁の簡文帝の延香園では、大同十年(五四四年)、竹林からきのこが出た。長さは八寸、頭の傘は鶏頭に似て黒く、その柄は中空であった。皮質はみなとても白く、根の下は、わずかに紅色だった。鶏頭の実のところは竹の節に似ている。節のところから、別に一重に網のような物が生えていた。四面は周囲が五、六寸ばかり、円形にぐるりととりまき、柄の上にかぶさって、互いに付着していない。それは網の目を結ぶのに似ていて、軽く巧妙なことは愛らしく、柄とともにはずすことができた。」とあり、割合正確な描写をしている。著者の段成式は、竹林の手入れをして、病気で枯れた竹を伐ったところ、三年後(八三八年)の秋に枯根からキヌガサタケが発生した。高さは一尺余で、昼頃には黒ずんでしおれてしまったという。

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これは間違いなく、菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科キヌガサタケ属キヌガサタケ Phallus indusiatus である。私は偶然、京都嵐山の竹林を散歩している最中に実見した。まことに妖艶で美しいものであった。しかし、当初、――「熊楠にしてどうしたものか? 彼は『「コムソウダケ」の或種』と言っているが?」と甚だ腑に落ちなかったのだが? 菌蕈綱ハラタケ目フウセンタケ科フウセンタケ属ショウゲンジ Cortinarius caperatus という茸の異名として「コムソウ(ダケ)」が一般に知られていたからである。――しかし、以下の、「“The Earliest Mention of Dictyophora,”  Nature, vol. 1, 1894」(題は「デイクティオフォラ属に関する最古の言及」)については、幸いにして、「Internet archive」のこちらで原文を読むことが出来(左ページ右段の中央)、さらに私は邦訳された「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊)を持っていることから、苦労せずに熊楠の記している内容を理解出来た。しかも、そこでは、まさにこの「酉陽雑俎」を英訳して、これは「コムソウダケ」世界最古の記録ではないか? と述べているのである。而してやおら、Dictyophora」を調べると、キヌガサタケのシノニムに Dictyophora indusiata があったのであった。

「仙書に、上帝肉芝を某仙に賜ふと有る」出典不詳。「抱朴子」に無論「肉芝」は出るが、こうした内容は記されていない。

「Fistulina hepatica」真正担子菌綱ハラタケ目カンゾウタケ(肝臓茸)科カンゾウタケ属カンゾウタケ Fistulina hepatica である。当該ウィキによれば、『全世界に広く分布し、欧米では広く食用にされている。アメリカなどでは"Beefsteak Fungus"・「貧者のビーフステーキ」、フランスでは「牛の舌」(Langue de boeuf)と呼ばれている』。『梅雨期と秋に、スダジイ、マテバシイなど(欧米ではオークや栗の木、オーストラリアではユーカリ)の根元に生え、褐色腐朽を引き起こす。傘は舌状から扇型で、表面は微細な粒状で色は赤く、肝臓のように見える。裏はスポンジ状の管孔が密生し、この内面に胞子を形成する。他のヒダナシタケ類と異なり、この管孔はチューブ状に一本ずつ分離している』。『カンゾウタケ科に属するキノコは、世界中で数種類しかない小規模なグループを形成している。現在、カンゾウタケ属は本種を含む』八『種が命名されている』。本種は『近年の分子系統解析において』、同科の『ヌルデタケ』属 Porodisculus 『やスエヒロタケ科』Schizophyllaceae『の菌類と近縁であることが示されている』。『肉は、霜降り肉のような独特の色合いを呈しているうえ赤い液汁を含み、英名のBeefsteak Fungusの名の通りである。生ではわずかに酸味があるが、管孔を取った上で、生のまま、またはゆでて刺身や味噌汁にしたり、炒めて食べたりする』とある。

「ヴエジタブルビーフステーキ」Vegetable beefsteak。英文ウィキの「Fistulina hepaticaには「beefsteak fungus, also known as beefsteak polypore, ox tongue, or tongue mushroom」の異名が並ぶが、英文サイトのこちらには、「The Vegetable Beefsteak. The Beefsteak Mushroom. Fistulina Hepaticaがしっかりあった(太字は私が附した)。

「昆明池水網藻の記」「酉陽雑俎」の巻十九には、「昆明池」二箇所で出て、水草と水藻が語られてある。二つ並べて示す。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認した(前者がここ、後者がここ)。ここで熊楠が問題にしているのは後者であるが、私はヒシが大好きなので、敢えて挙げた。

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芰、一名水栗。一名薢茩。漢武昆明池中有浮根菱、根出水上、葉淪沒波下、亦曰靑水芰。玄都有菱碧色、狀如雞飛、名翻雞芰,仙人鳧伯子常採之。

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 芰(し)、一名、水栗(すいりつ)。一名、薢茩(かいこう)。漢の武が昆明池中に浮根菱(ふこんりやう)有り。根、水上に出で、葉、波下に淪沒す。亦、「靑水芰」と曰ふ。玄都に菱の碧色なる有り、狀(かたち)、雞の飛ぶがごとし。名づけて「翻雞芰」、仙人鳧伯子(ふはくし)、常に之れを採れり。

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水網藻、漢武昆明池中有水網藻、枝橫側水上、長八九尺、有似網目。鳧鴨入此草中、皆不得出、因名之。

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 水網藻(すいまうさう)。漢の武が昆明池中に水網藻有り、枝、水上に橫側(わうそく)し[やぶちゃん注:水面に突き出して水面上に広く広がっていて。]、長さ、八、九尺[やぶちゃん注:唐代の一尺は31.1㎝であるから、約2.49~2.80m。]にして、網の目に似たる有り。鳧鴨(のがも)、此の草中に入れば、皆、出づるを得ずと。因りて之之れに名づく。

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「アミミドロ」(英語 waler Net)」網深泥。緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目アミミドロ科アミミドロ属 Hydrodictyon 。種は当該ウィキによれば、Hydrodictyon africanumHydrodictyon indicumHydrodictyon patenaeformeHydrodictyon reticulatum の四種を挙げるものの、本文内では『種の同定にはやや疑問があるようである』と記す。以下、同ウィキから引用する。『淡水性の藻類で、網の目のような形をしている』。『大きいものは全体で30cmにもなり、淡水藻では大型の部類に属する。全体は細長い袋状で、五角形か六角形の網目構造からなっている。つまり、金網を円筒形の袋の形につなげたような形である。その長さは1cm足らずのものから前述のように大きなものまで様々である。ただし大きいものは全体の形が壊れてしまっている場合も多い。固着のための構造はなく、浅い水域で浮遊するか、何かに引っ掛かって固まっているだけである。色は鮮やかな黄緑』。『網目の各々の辺が1個の細胞からなっている。個々の細胞は円柱形。それぞれが当初は単核であるが、成長に伴って次第に多核になる』。『その姿に特にまとまりが感じられないこと、あまりに大きいことから、この藻類はアオミドロなどと同じように簡単ながらも』、『多細胞藻類であるように見えるが、実は違っている。アオミドロなど多細胞藻類は細胞分裂によって細胞を増やしながら、全体が成長して行くのであるが、アミミドロの場合、小さい藻体も大きい藻体も細胞数は変わらず、個々の細胞の大きさが異なるだけである。成長は、細胞それぞれが大きくなるだけであり、したがって、小さい藻体では網の目も細かく、大きい藻体では網の目は粗い』。『つまり、この藻類は非常に大柄ながら、クンショウモ』(アミミドロ科クンショウモ属 Pediastrum )『やボルボックス』(緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科ボルボックス属 Volvox )『と同様に、細胞群体である。群体全体の細胞数は一定で、細胞数が増えるのではなく、細胞が育つことだけで成長する。ただし、大きくなる間に破れるようにして藻体の形がくずれることがある。網が破れても細胞の壊れていない部分は生きているから、群体全体の形を止めない場合もままある』。『なお、細胞群体のことを別名を定数群体と言う。これは、群体を構成する細胞の数が一定(たいていは2の階乗、群体ができる時の細胞分裂回数による)なためであるが、アミミドロの場合、細胞数は約2万個で必ずしも一定しない』。『主として無性生殖で増える。暖かい時期には、大きく成長した群体において、細胞内がすべて鞭毛を持つ遊走子に分かれる。遊走子は泳ぎ回る余裕がないぐらい密生し、細胞内側の表面に並ぶ。やがてそれらが群体を構成する細胞に変わり、網目を形成する。やがて細胞壁が壊れると、新しい群体が放出される。つまり、親群体の個々の細胞から、それぞれ新しい群体が作られる。群体が円筒形をしているのは、もとの細胞の形を反映したものである』。『有性生殖は細胞内に多数の配偶子が形成され、それが泳ぎ出して接合することで行われる。配偶子は先端に2本の等長の鞭毛を持つ、同型配偶子である。接合子は発芽するとポリエドラ』(polyedra:藻類の生活環上の特定形態期の名)『となり、その内部に多数の遊走子を形成し、それが網状の群体を作る。接合核は発芽時に減数分裂を行う』。『ごく浅い、富栄養な水域に生育する。水田にもよく見られる。その他、河川のよどみのごく浅いところなどにも出現する』。『特に役に立つ場面はない。迷惑することもほとんどない。まれに増え過ぎて水路の邪魔になったり、金魚などの養魚場で増えて、小魚が藻体の網の目に引っ掛かって死ぬ、などという話がある程度である』。『アミミドロは細胞群体を形成することや、その繁殖法がクンショウモと同じで、これらは同じ群に属する』。『従来はクロロコックム目』Chlorococcales『とすることが多かったが、現在では、遺伝子解析などからヨコワミドロ目』Sphaeropleales『に分類されることが分かっている』とある。

「The Earliest Mention of Hydrodictyon,’ Nature, vol. lxx, 1904」標題は「アミミドロ属に関する最古の言及」。Internet archive」のこちらで原文が読める(左ページの左下段から)。見ると、先の「ネイチャー」への投稿と同じく、「酉陽雑俎」の「水網藻」のの英訳を示して、現在のアミミドロの生態を誇張して描写したものと思われるとし(但し、「長八九尺」という寸法は巨大に過ぎると退けている)、これはアミミドロに関する最古の記述であろうと記している。

「松下見林」(まつしたけんりん 寛永一四(一六三七)年~元禄一六(一七〇四)年)江戸前期の医師で儒者・国学者。本姓は橘、名は秀明・慶摂。大坂の医師松下見朴の養子。儒医古林見宜(けんぎ)に学び、京で医業の傍ら、「三代実録」を校訂し、ここに出る「異称日本伝」の外、「公事根源集釈」「習医規格」などを著わしている。後年、讃岐高松藩主松平頼常に仕えた。

「異稱日本傳」外交史書。全三巻。元禄元(一六八八)年に書き上げ、同七年に板行された。中国や朝鮮の歴史書から、日本関係の記事を抜粋し、これに見林が考証と批評を加えたもの。外交関係史としては日本初の試みである。国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧』」のここが当該部。「酉陽雑俎」の巻三「貝編」(ばいへん:仏教経典のこと。貝多羅樹(ばいたらじゅ:現在ではインドのそれは単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科パルミラヤシ属オウギヤシ Borassus flabellifer に同定されている)の葉に経典を書写したものの意である)訓読を試みる。

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國[やぶちゃん注:唐。]の初め、僧玄奘、五印[やぶちゃん注:天竺を東西南北と中に分けた五天竺全部でインドのこと。]に往きて經を取(もと)めたり。西域、之れを敬す。成式[やぶちゃん注:著者の自称。]、倭國の僧金剛三昧(こんがうざんまい)[やぶちゃん注:熊楠が述べる如く、現在も、この名の日本人僧が誰だったのか、全く判っていない。]に見(まみ)ゆるに、言はく、「甞(かつ)て中天[やぶちゃん注:上記の中天竺。中部インド。]に至りしに、寺中、多く、玄奘が麻の屩(くつ)及び匙(さじ)[やぶちゃん注:「異称日本伝」では「カイ」とルビ。]・筯(はし)[やぶちゃん注:音は「チヨ(チョ)」。箸。]、綵雲(さいうん)を以つて之れを乘せて畫(ゑが)けり。蓋し、西域には無き所の者なればなり。齋日(さいじつ)の至る每に、輙(すなは)ち、膜拜(もはい)す。」と。

   *

最後の「膜拜」は「跪いて両手を挙げて礼をすること」を指す。仏教に於ける最高無条件の礼式である。

「眞如親王」澁澤龍彥最後の名作で知られる高岳親王(たかおか 延暦一八(七九九)年~?(貞観七(八六五)年とも元慶五(八八一)年ともされるが不明))、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、「薬子の変に」より廃された。後に復権して四品となるが、出家し、僧侶とななったその法名が「眞如」であり、空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)の十大弟子の一人となり、仏法を求めて六十四という老齢で入唐を決意、貞観六(八六四)年に長安に到着して在唐三十余年になる留学僧円載の手配により、西明寺に迎えられた。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(「会昌の廃仏」)の影響により、仏教は衰退の極みにあったことから、親王は長安で優れた師を得ることが出来なかった。そこで、遂に天竺行を決意し、貞観七(八六五)年、皇帝の勅許を得て、従者三名とともに、広州より海路、天竺を目指して出発したが、その後、消息を絶った。なお、在原業平は甥に当たる。

「羅越」羅越国はマレー半島の南端にあったと推定されている国。ここで元慶五年に亡くなったというのは、「日本三代実録」の元慶五年十月十三日の条にある、当時、在唐していた留学僧中瓘(ちゅうかん)らの報告によるものである(前の注とここは概ね当該人物のウィキに拠った)。

「師鍊」不詳。「自推古、至今七百歲」という時代がまた訳が判らない。松下見林はどこかで空海が高岳親王の天竺行を讃嘆したという、トンデモ記事を読んだものか? にしても「七百歲」が合わない。空海は親王在日中に遷化しており、彼も看取っている。【同日夜削除・訂正追記】いつも御指摘を頂くT氏よりメールを頂戴し、私のトンデモない誤りであることが判った(「師鍊」とあるのを「師」のみで誤認した致命的なもの)。これは、鎌倉後期から南北朝時代にかけての臨済僧で五山文学の代表者の一人である虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)のこと。元亨二(一三二二)年に白河済北庵で優れた仏教史の史書「元亨釈書」を著したが、そのこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの永禄元(一五五八)年の写本の当該箇所の画像。左頁の後ろから三行目以下)に、この叙述が出ることを御指摘戴いた。いつも乍ら、T氏に心より御礼申し上げるものである。

「自推古、至今七百歲、學者之事西遊也以千百數、而跂印度者、只如一人而已。蓋不考金剛三昧事也」「推古より今に至るまで七百歲。學者の西遊を事(こと)とするや、千百を以つて數ふ。而れども、印度に跂(つまだちてむか)ふ者は、只、一人のみのごとし」。と、けだし、金剛三昧のことを考えざりしなり」

「‘The Discovery of Japan,’ Nature, vol. lxvii, p. 611, 1903」「日本の発見」。Internet archive」のこちらで原本が読め、その第二段落後半に以上の「酉陽雑俎」の内容が短く記されてある。]

2021/02/10

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。] 

 「ペドロソ」の葡萄牙里談、第二十四頗る之れに似たり、云く、鰥夫[やぶちゃん注:「やもめ」。]あり、三女を有せるが長女次女は衣裳飾りのみし、季女[やぶちゃん注:「すゑむすめ」。]は好んで厨事を務めけるを、兩姉嘲て竈猫[やぶちゃん注:「かまどねこ」。]と呼り[やぶちゃん注:「よべり」。]、一日、其父一魚を獲、季女に料理を命ぜしに、季女其魚の色黃に美なるを愛し、父に乞て之を自分の室に置き、水中に養ふ、夜に及び、魚女に向ひ、吾を井に放てと言しかば、起て之を井に投ず、翌日季女魚見んとて井に近くに[やぶちゃん注:「ちかづくに」。]、魚「娘子井に來れ」と連呼す、女大に惧れて去る、次日、二姉宴會に趣ける不在中、季女復た井に近けば、魚呼ぶ事昨日の如し、因て進で井に入しに、魚女の手を牽て[やぶちゃん注:「ひきて」。]、金玉の殿に導き、無比の美服を着、一雙の金履を踏せ[やぶちゃん注:「はかせ」。]、輅車[やぶちゃん注:「ろしや」。大きな車。]に乘て宴會に趨かしむ[やぶちゃん注:「おもむかしむ」。]、戒めて曰く、必ず二姉に先つて退き、此所に來て衣飾を脫せよと、宴會に趣くに及び、滿堂季女の美を驚嘆せざる無し、宴竟り[やぶちゃん注:「をはり」。]急ぎ去らんとせしに、履一を落し王に拾はる、王廼ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]國中に令し、此履の本主を娶ん[やぶちゃん注:「めとらん」。]といふ、季女家に還つて、井中の王殿に上り、衣を脫せる時、魚來て問ふ可き事有れば、今宵又來れと云ふ、二姉還りて、季女の厨事に急がしきを見、其日宴會で、無上の美人、金履を落し、王其持主を娶んと熱望する由を語る、又言く、吾等是より王宮に詣り、彼履を試みんに、一人の足必ず之を合ふ可ければ、后と爲し事必定也、爾時[やぶちゃん注:「そのとき」。]厨猫に一新衣を遣さんと、二姉出行くを見て、季女井に到るに、魚忽ち、「汝吾妻たるべし」と勸むる事甚だ力めければ[やぶちゃん注:「つとめければ」。]、遂に從ひぬ、其時魚即ち化して人となり言く、吾は當國王の子、久しく呪封されて此井に在り、吾れ今日、汝が履を落せるより、吾父令して履主を娶らんと望むを知る、汝直ちに王宮に趣き、妾既に婚を君の子に約せりと言へり、季女、井を出で家に入れば、二姉還りて、二人の足如何にするも彼履に適せざりしと嘆き、季女吾も行て試んと言ふを聞き、大に之を嘲る、季女王宮に詣り、履を試るに、合ふて寸分を差え[やぶちゃん注:ママ。「たがえ」。]ざりければ、王之を娶んと言ふ、季女因て王子の告げし儘に答て、之を辭せしに、王驚喜措く所を知ず、百官を遣して井より王子を迎へ、竈猫女を娶らしめければ、兩姉羨み嫉み、恐言[やぶちゃん注:ママ。「怨言」の誤りではないか?]を放て罰せらる、其後、王子父に嗣で立ち、竈猫は后たりと、按ずるに、古今魚類を崇め神とせる民族多し(F. Schultze, ‘Fetichism,’ trans., New York, 1885, p.79; Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol.ii, pp.118-122; Leo Frobenius, ‘The Childhood of Man,’ 1909, p.243  Seqq.) 例せば、鯉神變有り、山湖を飛越え、鱧[やぶちゃん注:「やつめうなぎ」。]夜北斗に朝し、之を殺さば罪を益す[やぶちゃん注:「ます」。増す。]等、支那に靈魚の談多し(淵鑑類凾卷四四一[やぶちゃん注:底本は「四四二」であるが、「選集」は「四四一」とし、原本を確かめたところ、後者が正しいので、特異的に訂した。])、本邦で魚を崇めし遺俗に就ては、本誌二八八及び二九一號を見よ[やぶちゃん注:これは既に既に電子化したもので、前者が山中笑の「本邦に於ける動物崇拜」であり、後者がそれを受けて熊楠が書いた「本邦に於ける動物崇拜」である。]、又古え鮪、鰹、目黑[やぶちゃん注:「めぐろ」。ウルメイワシの異名。節分に魔除けとして鰯を掲げることを想起せよ。]、鯛、鮒、「ヲコゼ」、「コノシロ」、鯖(玄同放言卷三)、鎌足(カマス)房前(ハゼ)(石野廣通著繪そら言)等、魚に資れる[やぶちゃん注:「よれる」。]人名多く、神佛が特種の魚を好惡する傳說頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]少なからざるは、今日迄蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]、愛爾蘭[やぶちゃん注:「アイルランド」。]に、地方に隨て魚を食ふに好惡ある(Gomme, op.cit., p. 290)に同く、古え「トテミズム」盛んなりし遺風と見ゆ、古歐州及び印度の諸神、魚形なりし例多く Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ p.329 seqq. に出づ、古埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]に、魚神「レミ」あり、又鰻鱺[やぶちゃん注:「うなぎ」。]等諸魚を神とし、(Budge, ‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol. i, p.303; vol.ii, p.382)、日神「ラア」は二魚「アブツ」「アント」を使ふ、(‘The Book of the Dead,’ trans. Budge, 1898, p. 4)、古カルデア人、無智にて禽獸と別無かりしを、智神「エア」、晝間のみ海を出で、上陸して、言語、農工、書畫萬般を敎えたり、此神は魚形也、其前後にも、斯る魚形神出で、民を開導せる事、佛敎に一佛・二佛有るが如し(Maspero, ‘The Dawn of civilization,’ London, 1894, p. 565, &c; Boscawen, ‘The First of Empires,’ 1903, pp. 67―68)而して、魚屬其他動物の骨を尊敬する民族屢ば有るは Frazaer, op.cit., pp.118―20, 122.  seqq. に其論有り、去ば雜俎、葉限、魚骨に祈て福を得し話は、支那南部に、舊く斯る崇拜迷信行れたる痕跡ならん歟、履を手懸りとして美女を求むる話は、「ストラボン」(耶蘇と殆ど同時)の書に出づ、西曆紀元前六百年頃の名妓「ロドペ」浴する間に、鷲其履を捉み去り、メムフヰスの王の前に落せしを、王拾つて、其履の美にして小さきに惚込み、履主を搜索して、遂にロドペを娶れりとなり。

[やぶちゃん注:『「ペドロソ」の葡萄牙里談』「5」で既出既注。

「第二十四」「Internet archive」の英訳版(ロンドン・一八八二年)の「XXIV. THE MAIDEN AND THE FISH.」

「F.Schultze, ‘Fetichism,’ trans., New York, 1885, p.79」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」で既出既注であるが、再掲すると、ドイツの哲学者フリッツ・シュッエ(Fritz Schultze 一八四六年~一九〇八年)の書いた「呪物崇拝」の一節。「Internet archive」で原本が見られる。ここ(右ページ左の中央)。直ぐ後にはミクロネシアでのウナギ崇拝の記事も続いている。

「Frazer, ‘The Golden Bough,’」イギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」(The Golden Bough)。私の愛読書の一つである。

「Leo Frobenius, ‘The Childhood of Man,’ 1909, p.243  Seqq.」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」で既出既注。

「鱧」漢籍のそれであるから、これはハモではなく、脊椎動物亜門無顎上綱(円口類=無顎類) 頭甲綱ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科 Petromyzontidaeに属する生物であるヤツメウナギ類である。体制が似ているために「ウナギ」の呼称がつくものの、生物学的には、タクソン上、魚上綱に含まれないため、魚ではないという見解があるが、では、その習性から、魚に付着して体液を吸引する魚類寄生虫とするのも、私には馴染まない気がする。複数種が知られるが、本邦の場合は食用有益種としては同科ヤツメウナギ目 Petromyzontiforme のカワヤツメ(ヤツメウナギ)Lampetra japonica 及びスナヤツメ Lethenteron reissneri である。両者はともに中国北部にも分布するので、これらに比定しても構わないだろうが、ヤツメウナギ類は実に世界で三科十属三十八種がいる(中国・日本に分布しない種も含む)ので、中国のそれは、他の種も含まれると考えた方が無難である。ヤツメウナギ類はウナギ類のレプトセファロス(Leptocephalus)同様に、幼生が成魚と大きく異なった形態をしており、アンモシーテス(Ammocoetes)と呼ばれる。幼生は目が皮下に埋没していて、無眼に見え(但し、負の走光性を示すので感覚器としては機能していると思われる)、口吻もロート状又は頭巾状(成魚は吸着吸引に特化した吸盤状)で、川床の泥中に四年間程(ある記載では一~七年と幅が広い)、底棲している。変態後(変態後は開眼する)は海に下り、魚類に吸着して体液を吸う(ヤツメウナギ目には降河しない種がおり、彼等は産卵まで餌を全くとらないという)、二~三年後(スナヤツメではこの期間が短く半年程度であるらしい)に産卵のために、再び、川に遡上する。その際にはもう摂餌をせず、目も消化管とともに退化してしまい、体長もアンモシーテス期より逆に小さくなるとも言う。再び盲(めし)い、飲まず食わずで身を細らせての皮つるみ、そして死――ドラキュラのごとく忌み嫌われる彼等も確かな生物の厳粛な営みの中にいる(後半のアンモシーテス幼生とライフ・サイクルについては幾つかの記載を総合的に参照した)。私の古い電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「鱧 やつめうなき」の項を参照されたいが、そこで李時珍の「本草綱目」を引いて、

   *

頭の斑點、七つ有り、北斗の象(かたち)を作(な)す。夜は、則ち、首を仰(あをむ)け、北に向ひて、北斗に朝す自然の禮、有る故、字、「禮」の省(はぶ)くに从(したが)ふ。蛇と氣を通じて、色、黑く、北方の魚なる故、「玄」・「黑」・「烏」の諸名有り。

   *

という、辛気臭い載道的生態行動解釈が載る。ヤツメウナギは体側の目のやや後方に七つの鰓孔を持つところから命名されているが、鰓孔は後部に向って体に平行に等間隔で開いており、北斗星の形などにはなっていないから、数の相同を牽強付会したに過ぎない。私は八目鰻を親しく観察したことはないから、確証を持っては言えないが、このような実際の生態行動はないであろう。北斗星は中国では古来より時刻・季節の推移を予兆する星として重要視され、後に道教の北斗神君などとして神格化され、寿命・禍福を司るものとして信仰された。また、この「朝す」とは「拜む・礼拝する」の意である。則ち、「八目鰻は夜になると、首を仰向けにして、常に北に向け、神聖な北斗神君のシンボルであるところの北斗星を『禮』拝し、自然の『礼』をとり行うが故に、その漢字は『禮』を省略して(「示」を「魚」に換えて)『鱧』という字に造るのである」というトンデモない意味なのである。なお、中国語では「大鰻(おおうなぎ)」の意が第一義にある。

「淵鑑類凾卷四四一」同書は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「中國哲學書電子化計劃」の四百四十一巻の「魚一」にごっそり書いてあるが、よく見ると、「鯉最爲魚中之主形既可愛又能神變乃至飛越山湖所以琴髙乘之」とあり、「雅俗稽言曰鱧俗呼烏魚又名火柴頭頭戴七星夜禮北斗道家謂之水厭忌食之養生家亦忌其膽臘月收取隂乾遇喉急痺少許㸃之卽愈白小銀魚也小於麵條鰣魚初夏有餘月無故謂之」とあるのが、熊楠のネタ元であることが判る。

「古え鮪、鰹、目黑、鯛、鮒、「ヲコゼ」、「コノシロ」、鯖(玄同放言卷三)」曲亭馬琴の随筆で琴嶺(馬琴の長男)・渡辺崋山画。文政元(一八一八)年から同三(一八二〇)年刊。天然・人事・動植物について和漢の書から引用して考証を加えたもの。「玄同」は「無差別」の意。当該部は巻三上の「第廿九」の「人事」にある「姓名稱奈謂」の一節。「KuroNetくずし字認識ビューア」のここの左頁二行目の「鯨」から始まる魚名を名前に持つ〈人名魚尽くし〉の箇所。以上を視認して訓読し、電子化する。表題は底本では囲み罫であるが、[ ]で挟み、目立つように太字にし、且つ、改行した。【 】は割注。一部に句読点・記号を添え、また、変更もした。なお、本来ならば、「鯖」までの引用で十分なのだが、今少し、魚類関連のものが続くので、このパートの最後まで電子化しておいた。

   *

[鯨【クジラ】]には、同名多かり。大伴の連(むらじ)鯨、【「書紀」廿三。舒明紀。】河内の直(きみ)鯨、【同廿七。天智紀。】民の直(きみ)鯨、【同廿八。天武紀。】廬(いほ)井の連(むらじ)鯨、【同紀。】粟田の朝臣鯨、【「續日本後紀」。十六。】大伴の宿祢鯨、【同―一一。】刑部造眞鯨(をさかべのみやつこまくじら)、【「三代實錄」七。淸和紀。】。

[鮪【シビ】]も亦三人あり。八口(やく)の采女鮪女(しびめ)、【「書紀」廿三。舒明紀。】物部の朴(えの)井の連鮪、【同廿五。齊明紀。】」吉士小鮪(きしこしび)、【同廿七。天智紀。】この他、「萬葉集」第十六に、土師(はじ)の宿祢水通(みゆき)、字(あさな)は志婢(しひ)麻呂、といふ者(ひと)見えたり、この志婢(しひ)も、鮪(しび)の假名にはあらぬか。考べし。

[堅魚【カツヲ】]をもて、名とせしは、石上(いそのかみ)の朝臣勝雄(かつを)、【「續紀」十一。聖武紀。】河原の毗登(ひと)堅魚、【同卅。孝謙後紀。】縣犬養(あがたいぬかい)の宿祢堅魚麻呂、【同卅七。桓武紀。】安倍の朝臣堅魚、【「殘缺後紀」廿二。嵯峨天皇紀。】大伴の宿祢雄(を)堅魚、【又、小堅魚に作る。「殘缺後紀」廿二。】伴(とも)の宿祢眞(ま)堅魚、【「類聚國史」九十九。天長中の人なり。】」この他、豐岡の宿祢眞黑(まくろ)麻呂、【「續後紀」二。】この眞黑麻呂の眞黑も、目黑(まくろ)堅魚の事ならんか。目黑堅魚の名目は、「東鑑」に見えたり。

[鯛]をもて、名とせしものは、凡(おほち)の直(きみ)鯛、【續紀廿九。孝謙後紀。】大中臣の朝臣鯛取、【「殘缺後紀」十七。平城天皇紀。】安倍の朝臣鯛繼(つぐ)、【「續後紀」七。】髙道の宿祢鯛釣、【同八。】この他、鯛身の命(みこと)、【「姓氏錄」十八。】小鯛王、【「萬葉集」十六。】又、仁明天皇嘉祥二年、十一月廿日、賣買家地の劵書(けんしよ)に、秦(はだ)の忌寸(いみき)鯛女【「好古目錄」上卷。】あり。

[鯽魚【フナ】]にも、亦、同名あり、吉備の品遲部(ひちべ)の雄鯽(をふな)、【「書紀」十。應神紀。】難波玉造部(つくりべ)の鯽魚女、【同十五。欽明紀。】鴨の朝臣子鯽(こふな)。【「續紀」十八。孝謙紀。】

[鰧【をこし】[やぶちゃん注:オコゼのこと。]]にも、亦。同名あり。物部尾輿(をこし)、【「書紀」十九。欽明紀。】蘇我の臣(おみ)興志(をこし)、【同廿五。孝德紀。】尾張の宿祢乎己志(をこし)、【「續紀」四。元明紀。】大神(おほみわ)の朝臣興志(をこし)、【同六、同紀。】凡(おほち)の連(むらじ)男事志(をこし)、【同九。元正紀。】これらの名すべて「䲍(をこし)」の假字(かな)なり。

[鯯魚【このしろ】]にも、亦、同名あり。鹽屋の鯯魚(このしろ)、【「書紀」廿五。孝德紀。分注に云はく、「鯯魚(このしろ)は、此に云ふ「挙能之盧(このしろ)」[やぶちゃん注:実際に魚の「コノシロ」にこの漢字四字を当てる。]。】堺部の宿祢鯯魚(このしろ)。【同廿九、天武紀。】」

[鯖【さば】]にも、亦、二人あり。紀の朝臣鯖(さば)麻呂、【「續紀」卅八。桓武紀。】田口の朝臣佐波主(さはぬし)、【「續後紀」四。】この他、林の宿禰娑婆(さば)【「殘缺後紀」五。桓武紀。】あり、こは娑婆國の娑婆なるべし。

 この餘(よ)、魚をもて名とせしもの、衆夥(あまた)なり。枚挙(かぞへあぐる)に遑(いとま)あらず。按ずるに、魚は陰中(いんちう)の陽(やう)なり。こゝをもて、むかし、百官の名に、多く取れるなるべし。

 「蠡海集(れいかいしふ)」[やぶちゃん注:宋の王逵(おうき)著。天文・地理・人身・庶物・暦数・気候・鬼神・事義類に分類した雑考。]に【庶物類。】曰はく、『水族(すいぞく)は、乃ち、陰中の陽なり。何を以つて其の然を[やぶちゃん注:「しかるを」。]知るか』云々(しかしか)、『魚、乃ち、陰物にして、陽氣を得ること多し。故に腹内、脬(はく)[やぶちゃん注:浮袋。]を生ず。是れを以つて、能く浮き躍(おど)る[やぶちゃん注:ママ。]。魚の目は、晝夜、瞑(ねふ)らず。因りて、其の、陰物、爲(たれ)ども、陽を得ること、多き者なるを知るなり』といへり。この「小」をもて「大」に譬(たとへ)ば、人主(みかど)は陽なり、庶民(たみ)は陰なり、百官(もゝのつかさ)は陰中の陽なり、之加(くはふるに)、諸魚、天神御子(あまつかみのみこ)に仕(つかへ)奉りし故事(ふること)あり。「古事記」【上卷。】に、天津日髙日子番能迩迩藝命(あまつひたかひこほのににぎのみこと)、天降(あまくだり)まして、竺紫(つくし)の日向之髙千穗(たかちほ)之久布流多氣(くふるのため)に座(ゐま)せしとき、底度久御魂(そことくみたま)、都夫多都御魂(つづたつみたま)、沫佐久御魂(あはさくみたま)等(たち)、猨田毗古古命(さるたひこのみこと)を送(おくり)て、還(かへ)り到(いた)る條下(くだり)に云はく、『乃(すなは)ち、悉(ことごと)く鰭廣物(はたのひろもの)・鰭挾物(はたのさもの)を追聚(よびつど)へて、以(も)て問へらく、「汝(いまし)は天神御子(あまつかみのみこ)に仕(つか)へ奉(まつ)らんや」と言ふ時に、諸(もろもろ)の魚(うを)、皆、「仕へ奉らん」と白(まう)すの中(なか)に』云々(しかしか)、後生(のち)の人臣、名(な)を鱗介(いろくづ)に取るものゝ多かりしも、これらに緣(より)ての事なるべし。

 又、按ずるに、同書【上卷。】に、大穴牟遲神(おほなむちのかみ)、欺(あざむか)れて、八十神(やそのかみ)に燒(やか)れ給ふ段に云はく、『神産巢日(かむみむすひ)之命(みこと)、時に乃ち、黑貝(いかひ)と蛤貝比賣命(おほかひひめのみこと)とに告(の)り訓(をし)て[やぶちゃん注:ママ。]作活(いけらしたまふ)』云云(しかしか)といへり。鱗介(いろくづ)をもて、名とすること、はやく、こゝに見えたり。

 又、按ずるに、都の宿祢腹赤【「類聚國史」九十九。弘仁十四年正月叙位。】と、粟(あは)の宿祢鱒(ます)麻呂【「三代實錄」六。】とは、その名を等類(とうるい)とせんか。一説に『「腹赤(はらか)」は「鱒(ます)」なり』と、いへり。今、俗は、「鮏(さけ)」の子を「腹赤子(はらゝこ)」といふなり。又、一説に、『「腹赤(はらか)」は地の名なり。肥後の國玉名の郡、長渚(ながはま)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]に、「腹赤濱(はらかはま)」あり。この海濱にて漁取(すなと)る魚を、「久尓倍(くにべ)」[やぶちゃん注:ニベのことではないか?。]といふ。「腹赤」は、卽(すなは)ち、「久尓倍(くにべ)」の事なり。その濱によりて、名を得たり』と、いへり。いまだ孰(いづれ)か是(よき)を、しらず。「江家次第」、【卷之一。元日節會。】腹赤の奏の條下(くだり)を考ふべし。

   *

「鎌足(カマス)房前(ハゼ)(石野廣通著繪そら言)」石野廣通(ひろみち 享保三(一七一八)年~寛政一二(一八〇〇)年)は旗本で歌人・国学者。本姓は中原。家禄三百石。従五位下・遠江守。「繪(ゑ)そら言(ごと)」寛政九(一七九七)年頃に成ったかなりくだけた調子の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読め、当該部はここ(左ページ八行目から。直前で藤原鎌足を出しておいて、

   *

「御存の通り愚臣が名はかますにて、むかし魚の名を付事がはやり物のやうににて、君の御骨折らせ打亡されし入鹿なども海豚といふ魚の名を付、鮪の大臣なども魚の名、蘇我の赤兄なども赤鱝といふ魚の名、鹽屋の連鯯(齊明御宇の頃の人)そのゝち廬井造(天武の御宇の人)、又愚臣が孫の房前などもふさゝきにてはなく、房はほう前はぜんにてはぜといふが實の義、すなはち鯊の名なるをとなへ誤れり、此外にも魚の名付たる人あまた也、もろこしにても伯魚といひ鯉といひ玄孫を禮鮒といふ、祝鮀といふも魚の名也、魚の名付侍る事大䳡鷯尊(仁德天皇)[やぶちゃん注:「䳡鷯」はミソサザイを指す。]木兎宿禰(武内)隼別王子(人德の弟)飯豐も(人德の曾孫)鳥の名也、其外、數々こゝにいひたつるに及ばず、臣が名をかますと申證據は足の字はそくともすうとも兩音にて、論語にも足恭をすうきやうとよむがが如く、足はすうの音にて鎌足と書ても鎌子と書てもかますなるを、子の字もつねに申金子などのすといふには心付ずして、鎌足一名は鎌子とぼへ大系圖などには大職冠鎌たり一名鎌子としるせり、入鹿退治の時かまをもつて打たるゆゑ名付て淨瑠璃にも大津眞島を宿禰兼道が鎌をもつては向ふ思ひ入、これは百姓すがたにやつして居れば相應によく取合せてつくりたれど、それがし何故帶劒を用ひずにも子麿等と同時劒をもつて入鹿をきることたしかにしるせり、其鎌をおさめた所を鎌倉山といふなふなどとよひかげんなうそを取つけいひなす義に候と申さるれば、しへいの大臣尊公にはしかなれども、後代までおろそかにはいはず、名武峰にある所の御像が明應七年にやぶれたる時も、國家に變ある時はいにしへより御廟鳴動し、御像やぶれさくるなどゝあがめ申さるゝ、誠に御本望の至り也、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

てな感じで、何となくこの人、博識なんだろうが、どうも好きになれない文章だ。

「Gomme, op.cit., p. 290」前に出たイギリスの民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の一九〇八年の著作「歴史科学としての民間伝承」。ずっと後の版だが、「Internet archive」の原本のここで読める(左ページ)。

「Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ p.329 seqq.」「Gubernatis」はイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。この「動物に関する神話学」は「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が読める

『魚神「レミ」』「Budge, ‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol. i, p.303; vol.ii, p.382」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年:古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた)の原本の当該部は「Internet archive」で見られ、第一巻がこちらの右ページで、英文の「レミ」の綴りは「Remi」で、舌から六行目の頭にヒエログリフ(hieroglyph)が記され、そこにスズキ目ベラ亜目カワスズメ科 Cichlidae カワスズメ(ティラピア:Tilapia)を表わすそれが記されてあり、英文では「the Fish-god」とある。後者の第二巻のそれは同書の最後の部分で、「382」ではなく、「383」ページの一行目末から三行目にかけてに、

   *

The Phagrus, or eel, was worshipped in Upper Egypt, and mummied eels have been found in small, sepulchral boxes.

   *

と書かれてある。「Phagrus」とはスズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属ヨーロッパマダイ Pagrus pagrus である。しかし、この英文には、正直、ちょっと驚いた。ミイラ化されたウナギが墓の中の箱から発見されているとあるのである。これはもう、確かに神さまだわ!

「‘The Book of the Dead,’ trans. Budge, 1898, p. 4」Internet archive」の原本のここ。太陽神ラー(英文綴りは「Rā」)が使役する魚として「Ȧbțu」及び「Ȧnt」が記されてある。

「古カルデア人」ウィキの「カルデア」によれば、カルデア(Chaldea・Chaldæa)はメソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称で、紀元前十世紀以降に『この地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族はカルデア人と呼ばれるようになった。カルデア人は紀元前』七『世紀に新バビロニア王国を建国した』。『短命に終わったバビロン第』十一『王朝』(紀元前六世紀)『を、歴史家は慣習的にカルデア王朝、カルデア帝国、あるいは新バビロニア王国と呼ぶ。と言っても、この王朝の歴代の支配者のうち、カルデア人であると分かっているのは最初の』四『人だけである。最後の支配者ナボニドゥス(そしてその息子であった摂政ベルシャザル)の出自ははっきりしていないが、一説にはアッシリア出身とも言われる』。『カルデア人が定住した地域はバビロニア南部にあり、主にユーフラテス川の東岸沿いにあった。カルデアという名は一般にメソポタミア南部全域を指す言葉として使われるようになったが、本来のカルデアは実のところ、ユーフラテス川とチグリス川の堆積物によってメソポタミア南東端に形成された、この』二『つの川の流れに沿った長さ約』六百四十四キロメートル、幅およそ百六十一キロメートルに『広がる広大な平原であった』。『ヘブライ聖書ではカルデア人を指して』「カスディム」『という言葉が用いられており、七十人訳聖書ではこれをカルデア人と翻訳している。アブラハムの出身地もカスディムのウルと書かれている』。『古代ギリシア人がカルデア人』(カルダイオス)『と呼んだのは、バビロニアがアケメネス朝ペルシアの支配を受ける前のバビロニアの支配階級であった。現在ではカルデア人がバビロニアの最初の定住民であったとは考えられていないが、ヘレニズム期の歴史家シケリアのディオドロスは、カルデア人を最古のバビロニア人とした。古代世界においてカルデア人は天文学・占星術を発達させていたことで高名であり、「カルデア人の知恵」とは天文学・占星術のことであった』。『占星術を司るバビロニアの知識階級『乃至、『祭司階級を』単に『カルデア人と呼ぶようにもなった』。『カルデア人が使用した言語はアッカド語のバビロニア方言であった。これはアッシリア・アッカド語と同じセム語であるが、発音と文字に若干』、『変わったところがある。後期にはアッカド語のバビロニア方言もアッシリア方言も話されなくなり、メソポタミア中でアラム語がこれに取って代わった。アラム語は今日までイラクとその周辺国のアッシリア人と呼ばれるキリスト教徒(アッシリア東方教会やカルデア・カトリック教会』『の信徒)の母語であり続けている(アッシリア現代アラム語、カルデア現代アラム語)』とある。

「一佛・二佛」通常は釈迦如来と弥勒菩薩を指す。千仏という謂いもあり、これは過去・現在・未来の三劫 にそれぞれ現れるという千人の仏で、特に現在の賢劫の千人の仏を指し、釈迦はその四番目の仏とされる。

「Maspero, ‘The Dawn of civilization,’ London, 1894, p. 565」フランスの考古学者ガストン・カミーユ・シャルル・マスペロ(Gaston Camile Charles Maspero 一八四六年~一九一六年)。一八六九年から高等研究実習院でエジプト語を講義し、一八七四年にはコレージュ・ド・フランス(Collège de France:国立フランス教授機関)で、ロゼッタ・ストーン解読やヒエログリフ解明で知られる「古代エジプト学の父」ジャン=フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion 一七九〇年~一八三二年)の後継の地位に就いた。一八八〇年にエジプトへ派遣され、オギュスト・マリエット(Auguste-Ferdinand-François Mariette 一八二一年~一八八一年)の後を継いで、エジプト考古学庁最高責任者となった。また、政府の委託でカイロ考古学研究所を設立したことでも知られる。カイロ博物館の第二代館長でもあった(以上は彼のウィキに拠った)。当外原本は刊行年が異なるが(1897年)、ここでよかろう。カルデア人の記載が続き、尾鰭を持った半人半魚の二体の神像画が示されており、次の「566の十行目に「Ea」の神名を確認出来る。

「Boscawen, ‘The First of Empires,’ 1903, pp. 67―68)」筆者はアッシリア学者ウィリアム・セイント・チャド・ボスコーウェン(William Saint Chad Boscawen 一八五四年~一九一三年)。Internet archive」で原本が見られ、当該箇所はここ。左ページ下方から「Ea」の記載が始まる。

『「ストラボン」(耶蘇と殆ど同時)の書』古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者ストラボン(ラテン語文字転写:Strabo 紀元前六四か六三年~紀元後二四年頃の書いた全十七巻から成るギリシャ語で書かれた「地理誌」(同前:Geōgraphik:ゲオグラフィカ)であろう。この大著は当時の古代ローマ人の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。

『西曆紀元前六百年頃の名妓「ロドペ」浴する間に、鷲其履を捉み去り、メムフヰスの王の前に落せしを、王拾つて、其履の美にして小さきに惚込み、履主を搜索して、遂にロドペを娶れりとなり』「履物」の「履物と文化」の「西洋」の項に以下のようにある。「ロドペ」の伝承もさること乍ら、全体に本篇との親和性の高い内容なので、前の部分も含めて引く(コンマは読点に代えた)。

   《引用開始》

 片方の履物にまつわる多くの伝承がギリシア文化圏にはある。トゥキュディデスは、プラタイアイの兵士の一隊が片方のみはだしで城塞(じようさい)から脱出したことを伝え(《戦史》第3巻22章)、女怪ゴルゴンを退治したペルセウスはサンダルを片方しかはいておらず、片方のサンダルの男に注意せよとの神託を受けていたイオルコス王ペリアスの前に現れたイアソンはそのままの格好であったために、金羊皮を求めて旅に出ることになる。J. G.フレーザーは《金枝篇》で、はだしの右足を犠牲獣の皮の上に置いて行われるギリシアの宗教儀礼に言及しているが、履物の片方だけをはいたいわば異形の姿と、神の加護あるいは神意の顕現という観念には強い関連のあることが予想される。なお、ヘロドトスによれば、ペルセウス崇拝はエジプトにも及んでおり、ケンミスなる町にはその神殿があるが、ペルセウスはしばしばここを訪れ片方のサンダルを残していくという。そして、このサンダルの出現はエジプトの繁栄を約する吉兆であると信じられている(《歴史》第2巻91節)。

 またヒュギヌスによれば、ヘルメスには次のような伝説がある。すなわちヘルメスは美神アフロディテに恋したが拒まれ、これを哀れんだゼウスが鷲に変じてアフロディテのサンダルの片方を盗んで彼に与えたため愛はかなえられた。同趣向の伝説はストラボンも伝えており、鷲に盗まれたロドペ Rhodopē のサンダルの片方がエジプト王プサンメティコスの胸の上に落ち、王はその持主を国中に捜し求めたという。いずれも履物と愛の成就、後者はさらに身元確認の主題が結びついている点で、シンデレラの〈ガラスの靴〉などとの共通性や、履物の性的な象徴性を示唆しており興味深い。なお、履物が身元の証明の手だてとなる例はテセウスの伝説にも見られ、上記ペルセウス、ヘルメスはともに有翼のサンダルの持主として知られる。

   《引用終了》

熊楠の表記する「メムフヰスの王」は、この引用によれば、エジプト第二十六王朝初代ファラオ(在位:紀元前六六四年~紀元前六一〇年)のプサメティコス(「プサムテク」とも表記)Ⅰ世のことであろう。]

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