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カテゴリー「南方熊楠」の141件の記事

2021/03/14

南方熊楠「四神と十二獸について」(オリジナル詳細注附)の縦書PDルビ版公開版・2.3MB・28頁) 

同前の南方熊楠「四神と十二獸について」(オリジナル詳細注附)の縦書PDルビ版もサイトの「心朽窩旧館」に公開した(2.3MB・28頁)。 

「南方隨筆」底本 四神と十二獸について オリジナル詳細注附

 

[やぶちゃん注:本篇初出は大正八(一九一九)年八月二十五日発行の『人類學雜誌』第三十四卷八号。初出は「J-STAGE」のこちらで原本画像(PDF)で見られる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像を視認した。冒頭にある通り、熊楠は大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った考古学者八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古𤲿」に触発されてこれを書いた。リンク先は私が先立って電子化したその論考である(同じく「J-STAGE」のこちらで初出原本画像PDF)が読め、私はそれを視認した)。まずは、そちらを先に読んで戴きたい。八木奘三郎の事蹟についても、私のブログ電子化の冒頭注を見られたい。

 初出及び平凡社「選集」と校合し、不審な箇所は訂した。それはただ五月蠅くなるだけなので、原則、注していない(例えば冒頭の「未聞」の「末聞」や「條々と」の「條々を」など。更に「未」(ひつじ)とあるべきところが致命的に多く「未」となっていたりするのである)。他にも漢籍などの引用で不審な箇所は可能な場合は漢籍原本を調べ、訂したが、これも、同前の理由で、原則、注していない(例えば冒頭の「淵鑑類函四四〇」の引用中の「玄武」は「元武」となっており、「其色黑、故曰玄元龜、有甲能捍禦」も読点位置を含め、一読不審であったため、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで確認して総て訂した)。底本画像と比較されたい。頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。また、漢文引用部は概ね読点のみの返り点もない白文であり、読み難いので、後に書き下してある「選集」のそれを参考にしつつ、我流で書き下して項末或いは段落末に挿入し、後を一行空けた。珍しく踊り字「〲」(古文引用)が出るが、正字に直した。]

 

 人類學雜誌三四卷六號に出たる、八木君の「四神と十二肖屬の古𤲿」を拜讀して大に未聞を聞きしを厚謝す。其中に就て予に分かり難き條々といささか氣付いたる事共を列ねて、八木君及び讀者諸彥の高敎を乞ひ參考にも供せんとす。[やぶちゃん注:「諸彥」は「しよげん」(しょげん)。「彦」は「優れた男性」の意。多くの優れた人。諸氏。]

一、一八三頁下段に、玄武の文字を釋して和漢名數より朱子の語を孫引して、「玄武謂龜蛇、位住北方。故日玄、身有鱗甲、故曰武とあれば云々」と述べらる。按ずるに淵鑑類函四四〇に、緯略曰、玄武卽龜之異名、龜水族也、水屬北、其色黑、故曰玄、龜有甲能捍禦、故曰武。世人不知、乃以玄武爲龜蛇二物。この緯略てふ書、何時誰が作りしか知らねど、其先後に引る書共の時代から推すに朱子より古く筆せられし者の如し。兎に角一說なるに付き爰に擧ぐ。

[やぶちゃん注:「玄武謂龜蛇……」「玄武とは龜蛇を謂ふ。位、北方に住す。故に玄と曰ふ。身に鱗甲有り。故に武と曰ふ」。

「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。

「緯略曰……」「『緯略』に曰はく、『玄武、卽ち、龜の異名。龜、水族なり。水は北に屬し、其の色、黑、故に玄と曰ふ。龜、甲有り、能(よ)く捍禦(かんぎよ)[やぶちゃん注:守り防ぐこと。]す。故に武と曰ふ。世人、知らず。乃(すなは)ち玄武を以つて龜と蛇の二物と爲す。』と。」。熊楠が不詳とする「緯略」南宋の文人高似孫(こうじそん)の撰になる、恐らくは経書の目録であるが、現存しない。]

二、一八四頁下段に曰く、「又尙書以下の書を按ずるに、五行の水火木金土を中央及び四方に配し、又木火金水を東西南北春夏秋冬に當し事は書經樂記管子以下の書に見ゆれども靑赤黑白の色を曰はず、ただ周禮に方位と色とを記せし例あり。然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨って爾雅の如きも其漢初に出し事は略ぼ推測するに足るべく、又色と方位、色と四神名との起源も、彼の漢代に在る事を察するに足るべし、中略、又始皇本紀に云々と記すれば、水德と黑、水と北方との關係上、方位と色彩の結合は已に秦代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明かにする必要有り、又假令右が秦代に在る事疑ひ無しとするも、猶周代の分は不明也、故に、予は其確實と信ずる點に從ひて漢代といえり」と。

 八木君の此文中予をして疑ひを抱かしむる者少なからず。先づ君の所謂樂記が禮記中に在る者ならば君の言は謬れり。禮記の樂記第十九に五行とか木火土金水とか云ふ事少しも見えず。扨禮記の月令第六に、孟春六月、天子居靑陽左个、乘鸞路、駕蒼龍、載靑旂、衣靑衣、服蒼玉云々、大史謁之天子曰、某日立春、盛德在木云々。天子親帥三公九卿諸侯大夫以迎春於東郊」孟夏之月、天子居明堂左个、乘朱路、駕赤騮、載赤旂、衣朱衣、服赤玉云々、大史謁天子曰、某日立夏、盛德在火云々。天子云々迎夏於南郊」次に中央土、其日戊巳、其帝黃帝云々、其から孟秋之月は天子、駕白輅、載白旂、衣白衣、服白玉、立秋の日、秋を西郊に迎ふ、孟冬之月、天子居玄堂左个、乘玄路、駕鐵驪、載玄旂、衣黑衣、服玄玉。立冬盛德在水、天子冬迎於北郊といふ風に、五行を、春夏中央秋冬の五時や東南中央西北の五方や靑赤黃白黑の五色に當て配れり。呂氏春秋は史記に呂不韋作十二紀八覽六論二十餘萬言、號曰呂氏春秋と有り。其十二紀は、孟春紀仲春紀季春紀といふ體に、每紀先づ十二月の月令を載せ、之に次ぐに他の四篇を以てし、紀每に五篇、但し季冬紀のみは六篇より成る故、六十一篇で十二紀を成す。此の呂氏の月令を通覽するに全く禮記の月令に基いて述し者の如く、殊に五行五時五方五色の配當は文字に些少の差ひ[やぶちゃん注:「ちがひ」。]有るのみ大要は相同じ。是れ周代既に方位の配當有りし證據に非ずや。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、一八四頁上段に八木君は「四神の名稱は漢以前の書に見えざれば同(周?)代にこの稱呼有りしや否やは明かならず」と云れたれど、禮記の發端、曲禮上第一既に行くに朱鳥を前にして玄武を後にす、靑龍を左にして白虎を右にすと有り。是等は唯だそんな動物を𤲿いた旗を立た迄で之を四方の神としたるに非じと謂ふ人も有んが、次文に招搖(北斗第七星也)在上急繕其怒と有れば、件の四動物を北斗と等しく、神像としたるや疑ひ無し。但し禮記も呂氏春秋も亦漢儒の作る所といはゞば其れ迄なれど、果して左樣の說も有る者にや、大方の高敎を竢つ[やぶちゃん注:「まつ」。「俟つ」に同じい。]。

[やぶちゃん注:「孟春の月……」以下は各所を切り張り引用したものであるが、面倒なので、一括して訓読して示す。熊楠の挿入もそのままにしておく。

   *

『孟春の月、天子は靑陽の左个(さか)[やぶちゃん注:この「个」は部位・位置を指す。]に居(を)り、鸞路(らんろ)[やぶちゃん注:天子の乗る車の名。以下、同一箇所は同じ。]に乘り、蒼龍を駕し、靑旂(せいき)[やぶちゃん注:青い旗。]を載(た)て、靑衣を衣(き)、蒼玉を服(ぶく)し』云々。『大史、之れを天子に謁(つ)げて曰く、「某日[やぶちゃん注:暦によって移動するのでかく言った。その年の当該の日の意と考えればよい。]立春、盛德、木に在り。」と』云々。『天子、自(みづ)から三公・九卿・諸侯・大夫を帥(ひきい)て、以て春を東郊に迎ふ』、『孟夏の月、天子は明堂の左个に在り、朱路に乘り、赤騮(せきりゆう)[やぶちゃん注:「騮」は栗毛の駿馬。]を駕し、赤旂を載て、朱衣を衣、赤玉を服し』云々。『大史、之れを天子に謁げて曰く、「某日立夏、盛德、火に在り。」と』云々。『天子』云々、『夏を南郊に迎ふ』、次に『中央は土なり。其の日は戊巳(ぼし/つちのとみ)[やぶちゃん注:現行の干支の組み合わせでは存在しないが、古代にはあったものか。]、その帝は黃帝、云々」、其から、『孟秋の月は、天子、白輅(はくらく)[やぶちゃん注:「輅」は天子の車。]を駕し、白旂を載て、白衣を衣、白玉を服し、立秋の日、秋を西郊に迎ふ』、『孟冬(まうとう)[やぶちゃん注:初冬の陰暦十月。]の月、天子は玄堂の左个に在(あ)り、玄路に乘り、鐵驪(てつり)[やぶちゃん注:「驪」は黒毛の馬。]を駕し、玄旂を載て、黑衣を衣、玄玉を服す。立冬、盛德、水に在り。天子、冬を北郊に迎ふ』。

   *

「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう:現代仮名遣)戦国末の秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書。紀元前二三九年完成。天文暦学・音楽理論・農学理論などの論説が多く見られ、自然科学史上、重要な書物とされる。

「呂不韋……」「呂不韋は十二紀・八覽・六論の二十餘萬言を作り、號(なづ)けて『呂氏春秋』と曰(い)ふ。」。

「招搖(北斗第七星也)在上急繕其怒」「招搖(しやうやう)上に在り、急(かた)く其の怒りを繕(つよ)くす。」。「招搖」は星の名。]

 

 予は支那書を讀むことを廢して既に二十年、今迨んでは[やぶちゃん注:「およんでは」。]何の知る所も無し。然れども纔かに記臆に存する處に據るも、なほ多少の言ふべき者無きに非ず。因て記臆に基づき座右の書を搜つて一二を述んに、左傳襄公二十八年蛇乘龍[やぶちゃん注:「蛇、龍に乘る。」。]、集解に蛇玄武之宿、虛危之星、龍歲星、歲星木也、木爲靑龍、失次出虛危下、爲蛇乘也。爰に見る龍は、東方の星宿ならで木星なれど、虛危の星を蛇とせるは史記天官書に北宮玄武虛危[やぶちゃん注:「北宮は玄武にして虛危なり。」。]といえると同樣、周代既に蛇を以て北方の神玄武の標識としたる也。又墨子貴義篇に、子墨子北之齊、遇日者、日者曰、帝、以今日、殺黑龍於北方、而先生之色黑、不可以北、子墨子不聽、遂北至淄水、不遂而反焉。日者曰、我謂先生不可以北、子墨子曰、南之人不得北、北之人、不得南、其色有黑者、有白者、何故皆不遂、且帝以甲乙殺靑龍於中於東方、以丙丁赤龍殺於南方、以庚辛殺白龍於西方、以壬癸殺黑龍於北方、以戊巳殺黃龍於中方、若以子惟言、則是禁天下之行者也。墨子の時代は確かならねど孟子や荀子に其說を載たれば此二子より前の人と見ゆ。亦以て周代既に五行に因める十干を五方位と五色とに配當せる說行れたるを知るべし。尤も、是迚も左傳も墨子も漢儒の假作と云ば詮方無し。然る上は予は左樣の見を抱く人に向て、全體今に在て漢以前の事實を觀るべき支那書は何に何なるやを示されん事を乞うの外無し。

[やぶちゃん注:末尾の八木の論考への不満は私も電子化している最中に激しく感じた。快哉!

「集解」晋の杜預の「春秋左氏伝」の注解書「春秋經傳集解」。

「蛇玄武之宿……」「蛇は、玄武の宿(しゆく)、虛危[やぶちゃん注:星宿の固有名の一つ。]の星なり。龍は歲星にして、歲星は木(もく)なり。木は靑龍と爲す。次(やどり)を失ひて虛危の下に出で、蛇の乘るところと爲すなり。」。

「子墨子……」「子墨子(しぼくし)、北して齊(せい)に之(ゆ)き日者(につしや)[やぶちゃん注:天文現象を用いた占術師。]に遇(あ)ふ。日者曰く、『帝、今日を以て、黑龍を北方に殺す。而るに先生の色、黑し。以て、北すべからず。』と。子墨子、聽かずして遂に北して淄水(しすい)に至り、遂(と)げずして反(かへ)る。日者曰く、『我、「先生、以て北すべからず」と謂へり。』と。子墨子曰く、『南の人、北することを得ずんば、北の人、南することを得ず。其れ、色は、黑き者有り、白き者有り。何の故にか、皆、遂げざらんや。且つ、帝は甲乙[やぶちゃん注:当該の日。]を以て靑龍を東方に殺し、丙丁を以て赤龍を南方に殺し、庚辛を以て白龍を西方に殺し、壬癸を以て黑龍を北方に殺し、戊己を以て黃龍を中方(ちゆうはう)に殺す。若(も)し、子の言を用ふれば、則ち、是れ、天下の行く者を禁ずるなり。』と。」。]

 

三、一八六頁に、八木君は「十二支に十二獸名を當し事は、彼の事物紀原に事始を引て、黃帝は立子丑十二辰以名月、又以十二名、獸屬之[やぶちゃん注:八木氏の論考では『黃帝立子丑十二辰以名ㇾ月、又以十二名獸ㇾ之』で南方の引用は不全な上に読点位置がおかしい。「子(ね)・丑(うし)十二辰を立てて、以つて、月を名づけ、又、十二の名の獸を以て、之れに屬(しよく)す」。]とあれども、これは支那人側の解釋にて、實は印度の十二獸が支那に移りてかの十二支と結合せるがごとし」と言わる。所謂印度の十二獸の事は次の(四)の條に論ずべし。今は唯だ支那の十二獸に就て言んに、一九一一年版エンサイクロペジア、ブリタンニカ、二八卷、九九五頁にクラーク女史は、支那で日の黃道を十二に分かち、十二獸に資て[やぶちゃん注:「よつて」。]之に名け順次日の進行に逆らふて進む者とせるは、特種奇異の組織で、支那自國に起こりしや疑ひ無しと有るは尤もながら、是は十二支の支那固有なるを言し迄にて、十二獸を十二支に當る[やぶちゃん注:「あつる」。]の支那固有なるを言たるに非ず。然れども十二獸を十二支に當るも亦實に支那固有の者と見ゆ。古今要覽稿五三一に、「凡そ十二辰に生物を配當せしは、王充論衡に初めて見えたれども、淮南子[やぶちゃん注:「抱朴子」の誤り。後注参照。]に山中未日稱主人者羊也といひ、莊子に未甞爲牧而牂生於奧と云るを、釋文に西南隅未地と云れば、羊を以て未に配當せしもその由來古し」とあり。錢綺曰く十二辰亦由列宿而定、如周時星紀、中有牛宿、故丑中屬牛、而今則牛宿在子宮、不在丑宮矣、周時元※1[やぶちゃん注:「※1」=「亻」+「号」。]中有虛宿、※2[やぶちゃん注:「※2」=「木」+「号」。]爲耗名、鼠能耗物、故子屬鼠、而今依月初宮法推之、則虛宿在亥宮、不在子宮矣。娶訾又名豕韋、故亥屬豬、今依古法則娶訾不爲亥宮、而爲戌宮(竹添氏の左氏會箋卷十四頁五六)。以て十二獸を十二支に當るは周時に始りしを知るに足る。

[やぶちゃん注:「一九一一年版エンサイクロペジア、ブリタンニカ、二八卷、九九五頁」一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家で航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。‘Chinese Zodiac signs.’がそれ。

「クラーク女史」上記の原本同巻の冒頭の筆者一覧に、アグネス・メアリー・クラーク(AGNES MARY CLERKE)という名で本項「Zodiac.」の執筆者として載る。彼女は当該ウィキによれば、一八四二年生まれで一九〇七年に亡くなったイギリスの天文学・天文学史についての著述を行った女性作家とあり、『アイルランド』『生まれ』で、『ロンドンで没した』。『早くから天文学に興味を持ち』、十五『歳の時には天文学について書くようになった。クラークの一家は』一八六一年に『ダブリン』、一八六三年に『クィーンズタウンに移り、数年後にクラークはイタリアを訪れ』、一八七七年まで『イタリアに留まった。主にフィレンツェの公共図書館で学び、作家となる準備をし』、一八七七年に『ロンドンに移った』。『最初の重要な作品であるCopernicus in Italy(『イタリア時代のコペルニクス』)はエジンバラ・レヴュー誌に』一八七七年に『掲載され』たが、それ以前の一八五五年に『出版されたA Popular History of Astronomy during the Nineteenth Century』(「十九世紀の天文学史」)』で有名になった。クラークは天文学者ではなかったが、天文学研究についての解説に秀でていた』。一八八八年には『ケープ天文台の所長デービッド・ギル夫妻の招きで』三『ヶ月も天文台に留まり、当時は新しい天文学の分野となった天体分光学についての知識を得た』。一八九二年には「英国天文協会」(British Astronomical Association)の会員となり、『英国天文協会の会合や王立天文学会の会合に参加した』。一九〇三年には『王立天文学会の名誉会員に選ばれた』。『月のクラーク・クレータは彼女の名に因んで命名された』ものであるとある。

「十二獸を十二支に當るも亦實に支那固有の者と見ゆ」私もそう思う。

「古今要覽稿」江戸後期の類書。五百六十巻。幕命により屋代弘賢が編集。文政四年から天保十三年(一八二一年から一八四二年)にかけて成立した。自然・社会・人文の諸事項を分類し、その起源・歴史などを古今の文献を挙げて考証・解説したもの。「五三一」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認できる。上段末から下段冒頭にかけてである。

「王充論衡」「論衡(ろんこう)は後漢の文人で思想家の王充(二七年~一世紀末頃)が著した全三十巻八十五篇(その内の一篇は篇名のみ残って散佚)から成る自伝的思想書。実証主義の立場に立った自然主義論・天論・人間論や史観など多岐多様な事柄を説き、一方で、非合理的な先哲伝承や陰陽五行説・民俗的災異説を迷信論として徹底的に批判している。

「山中未日稱主人者羊也」この底本原文は「山中末日稱主人者半也」で訓読不能なほど致命的な誤字である。さらに屋代弘賢のとんでもない誤りがあって、これは「淮南子」にはなく、「抱朴子」の「内篇」の「登涉」に出現するものであることが、中文サイトを縦覧するうちに明らかとなった。「選集」にはその誤りを示す注もなく、ネット上の本篇の抜粋などでも、無批判に誤りを受け入れているものばかりで、総て「淮南子」を出典としている為体(ていたらく)である。私はこれだけでもこの電子化注をしている甲斐があったと思ったものである。「抱朴子」の当該部は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを見られたい。山中の超常現象を解説した中に出る。所持する訓読本で訂した(「抱朴子」は私の愛読書である)。「山中」は南方熊楠の添えたもの。「未(ひつじ)の日に、主人と稱する者は、羊なり。」で、原本では因みにその後にセットで「稱吏者、獐也」(吏と稱する者は、獐(のろ)なり。)とある。

「莊子に未甞爲牧而牂生於奧と云る」「莊子」の「徐無鬼篇 第二十四」に出る。子綦(しき)が我が子(こ)の歅(いん)に宇宙の無為自然の不可知の絶対原理を語る中に出る(「荘子(そうじ)」は私が唯一、大学時代に徹底的に読み込んだ、数少ない漢籍の一つである)。

   *

未だ甞つて牧を爲さざるに、而も牂(めひつじ)は奧(おう)に生ず。

   *

「奧」は熊楠が添える通り、「西南隅未地」(西南の隅の未(ひつじ)の地)の意。「私はこれまで、牧畜などしたこともないのに、いつの間にか、不思議なことに、屋敷の西南の隅の未の方角の土地に、雌の羊が現われた。」の意。

「錢綺」(一七九八年~?)清代の学者。著書に「左傳札記」(「續修四庫全書」に収める。調べたところ、熊楠の引用はこの「春秋左氏伝」の注釈書であった。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここを見られたい。右の活字は信用してはいけない。機械的な翻字で誤りが多い)・「東都事略校勘記」・「南明書」がある。

「十二辰亦由列宿而定……」「十二辰も亦、列宿に由りて定まる。周の時の『星紀』のごときは、中に牛宿有り。故に丑は中の牛に屬(ぞく)す。而れども、今は、則ち、牛宿は子(ね)の宮(きゆう)に在(あ)りて、丑の宮に在らず。周の時、元※(「※1」=「亻」+「号」。「選集」では読みを『きよう』と振る。恐らくは「きょう」で「げんきょう」であろう。意味不明。星宿の細部名か占い卦の一つの呼び名か?)は、中に虛宿あり。※(「※2」=「木」+「号」。読み・意味(推定)は同前)は耗(まう)[やぶちゃん注:]の名となす。鼠は、能く物を耗(へら)す。故に子は鼠に屬す。丑は牛に屬す。而して今は、月の初めの交宮(かうきゆう)の法[やぶちゃん注:意味不明。星占法に於いて星宿の宮(きゅう)が旧暦の月の初めに交差(円形に配置した際の対の十二支か?)するように捉えて行われた儀式をでも指すか?]に依りて之れを推せば、則ち、虛宿は亥宮に在りて、子宮には在らず。娶訾(しゆし)は又、豕韋(しゐ)とも名づく。故に亥は豬に屬す。今は古法に依りて、則ち、娶訾を亥宮と爲さずして戌宮と爲す。」。

「竹添氏『左氏會箋』」元外交官にして漢学者の竹添進一郎(天保一三(一八四二)年~大正六(一九一七)年:「甲申政変」の折りには朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した)「春秋左氏伝」の箋注本。明治三七(一九〇四)年明治講学会刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来るが、私は探す気になれない。悪しからず。]

 

四 前條の始めに引ける八木君の文の續きに曰く「こは宿曜經[やぶちゃん注:「すくえうきやう」。]抔に記載しあれども云々、山岡俊明の類聚名物考に曰く、「飜譯名義集に此十二支法、爲中乘之達觀也と見えたり、經には鼠牛虎兎龍蛇馬羊猿鷄狗猪の字を用ひ、此十二物は大權の聖者にして、年月日時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度すと說けり、此十二獸の名を支那にて古く用居たる[やぶちゃん注:「もちひをりたる」。]子丑等の字に配當したるを以て、我國にてねうしの訓を充たるなり[やぶちゃん注:「あてたるなり」。]」山岡の說は當時に於て卓見と謂べく、彼の鼠牛以下の獸名は確かに印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せし事は疑ひ無るべきも[やぶちゃん注:「なかるべきも」。]、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより五行の起源の論に移る」と(以上八木君の文)。相違なく疑ひ無かるべき由言て、扨猶硏究の餘地ありと云るゝ程故、一九一頁の結論にも「而して此類の智識が最初支那より印度に傳れるや否やは今俄に決する事能はざれども、其十二支に鼠牛虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば云々」と、結局支那より印度に傳へしや、印度より支那へ傳へしや、どちらとも片付けずに終られたるは、頗る物足らぬ心地ぞする。

[やぶちゃん注:最後の部分は私も強い不満を抱いた箇所である。

「宿曜經」唐代に、印度の二十八宿七曜などを述べた選訳書。「文殊師利菩薩及諸仙所說吉凶時日善惡宿曜經』が正式の書名で、中国密教の完成に努めた僧不空の訳になる。上下二巻。訳を史瑤が編し、それを楊景風が改めて、諸所に註記したものが、中唐初期の七六四年に完成した。基は印度の占星術で使われる暦学と占星法の書「ナクシャトラ」で、七曜・十二宮・二十八宿の関係によって一生の運命や一日の吉凶を判断する方法を説いたもの。地本邦へは平安初期に伝わり、「宿曜道」(すくようどう) の根本となった。

「山岡俊明の類聚名物考」「俊明」は「浚明」とも書き、「まつあけ」と読む。「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻六の「天文部六」の「雜」の内の大項目「十干 十二支」の冒頭にある「刑德」中に出る(右ページ下段の四行目)。

「飜譯名義集」(ほんやくみやうぎしふ)は宋代に書かれた梵漢辞典。七巻本と二十巻本がある。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの。

「爲中乘之達觀也」「中乘の達觀と爲すなり」。]

 

 予は全く印度古今の曆象天文方位に就て學びし事無れど、種々讀書の際注意せしに、印度に十二支も無ければ、十二獸を十二支に充る事も無き樣也。フムボルトの論說に、印度墨西哥[やぶちゃん注:「メキシコ」。]共に、古く蛇や管や劇刀や日の迹や、犬の尾や家等の名を曆日に配當する由見え、其事頗る支那の十二獸を日に配當するに似たれど、印度墨西哥に右等の物名を方位に配せしを聞ず。又印度の二十七宿の名の内、支那十二獸の或る物に偶合せる有れど、偶合せぬ者の方多ければ、本と同源より出でたりと惟はれず。類聚名物考に略說されたる十二動物のことは、大集經卷廿四に出づ。其文難解又冗長の處少なからねば、佛敎大辭彙二、頁一六〇〇に載せたる撮要文を本經に照らし多少校訂して爰に出す。曰く、「閻浮提外東方海中の琉璃山に蛇馬羊住み、南方海中の玻黎山[やぶちゃん注:「はりさん」。]に猴鷄犬住み、西方海中の銀山に猪鼠牛住む、北方海中の金山に師子兎龍住み、東方の樹神南方の火神西方の風神北方の水神、何れも一羅刹女と共に各五百眷屬を有し、各自に三獸を供養す、其一々の獸は窟内に住み聲聞慈を修し[やぶちゃん注:「しやうもん、じを、じゆし」。]、晝夜常に閻浮提内を行き、人天に恭敬さる、曾て過去佛に於て深重願を發し一日一夜常に一獸をして遊行敎化し、餘の十一獸は安住修慈し周りて[やぶちゃん注:「めぐりて」。]復た始めしむ、七月一日鼠初めて遊行し、聲聞乘を以て一切鼠身衆生を敎化し、惡業を離れ善事を勸修せしむ、是の如く次第して十三日に至り鼠復た遊行す、斯て十二月を盡し十二歲に至り、亦復た是の如し、是故に此土多く功德有り、乃至畜獸も亦能く敎化し無上菩提の道を演說す下略」。件の大集經は東晉の代に北凉に入し天竺僧曇無讖譯せる所と、此僧涅槃等の經を携へて罽賓[やぶちゃん注:「けいひん」。北印度のカシミール地方若しくはガンダーラ地方にあったとされる国。]に之しに[やぶちゃん注:「ゆきしに」。]、彼國多く小乘を學び大乘を信ぜず、因て流轉して北凉に來たれり(高僧傳二)。小乘徒の大乘を信ぜざるは、主として大乘の所說が小乘ほど純ならず、動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば佛在世後の事共を書き加え[やぶちゃん注:ママ。]たるに由る。されば大集經所說の十二獸の如きも、クラーク女史が、西曆六世紀に印度の天文家が支那二十八宿を參照して印度の二十七或は二十八宿を定めたりと言る如く(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、二八卷、九九六頁)、印度如くは[やぶちゃん注:「もしくは」。]其近邊にて印度と支那との兩說を混合して作り出せりと惟はる。先づ大集經の十二獸には印度に多く產し、其經文に頻りに見ゆる犀象孔雀鸚鵡等を入れず、其十一獸は印度にも支那にも生ずる者なるは暗合としては餘りに過分ならずや。又此十二獸を印度に起て支那に傳えし[やぶちゃん注:ママ。]者とせんには、從來支那の十二支に恰好適應すべきを豫知して、其十二分の十一なる多數迄も支那に產する動物を選定せる印度人の神智に驚かざるを得ず。其よりも眞面目に攷ふるに、須彌は四寶より成るてふ經說に據て四海中の四寶山を作り、山每に三獸で四山に十二獸住むと立たるにて、虎無くて獅子有るは、故らに[やぶちゃん注:「ことさらに」。]印度臭く匂はさん迚、支那になき獸を採たる事、虎の代りに蒙古で豹、墨西哥で豹に近きオセロツトを入れたるに等し(ボーンス文庫本、プレスコツト墨西哥征服史三卷。三七六―七頁の注)扨支那の十二支と本來別流の者たる樣見せんため、支那で北にある鼠が印度で西、支那で南にある馬が印度で東ちう[やぶちゃん注:ママ。]風に捩り[やぶちゃん注:「もぢり」。]置き乍ら、十二獸を供養する樹神は東、火神は南、風神は西、水神は北に居るとせるは、支那特有の五行說に東木南火西金北水と定めたるに基きし馬脚を露はす。要するに大集經の十二獸は、支那の五行や十二支を聞及べる印度若くは印度と支那の道中に在し[やぶちゃん注:「ありし」。]或る國の人が作出せる事疑ひ無し。又摩訶止觀に載たる三十六禽は、寅に狸豹虎、戌に狗狼豺[やぶちゃん注:「うまいぬ」。]抔と、十二獸の獸一每に類似の動物二を添え[やぶちゃん注:ママ。]、十二を三倍して卅六禽とせり。密敎の星曼陀羅抔に出るを見て印度產の樣思ふ人も有んが、卅六てふ多數中に、獅子如き支那に無き者一つもなきが不審と云迄も無く、止觀の本文既に寅卯辰の九獸は東方木に、巳午未の九獸は南方火に屬す抔と、支那特有の五行說を述べ、自ら[やぶちゃん注:「おのづから」。]三十六禽は支那出來たるを立證せり。凡そ十二獸といふ事委陀[やぶちゃん注:「ヴェーダ」。]等の梵典にも、佛在世を距る[やぶちゃん注:「へだつる」。]こと遠からざる時編まれたる佛經等にも見えず。八木君がいへる宿曜經は大集經より三百餘年後れて譯されし者なれば、支那の思想を加え[やぶちゃん注:ママ。]し事一層多かるべく、且つ只今座右に之無きを以て爰に論ずるに及ばず。

 三と四の條に述たる理由をもって、予は十二獸を十二支に當るは支那國有の法にて、其周[やぶちゃん注:紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年。抄出も底本も「同時」であるが、「選集」を採った。]時に始まり、其思想後年支那以外に傳はり佛經に載らるゝに及びしも、決して支那以外に起りて支那に入りし者ならずと斷ずる也。

[やぶちゃん注:私は熊楠の結論に無条件で賛同する。

「フムボルト」ドイツ(プロイセン王国)の博物学者・地理学者にして近代地理学の祖とさるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt 一七六九年~一八五九年)。出典不明。

「管」「かん」で「笛」の意であろう。

「大集經」「大方等大集經」(だいほうどうだいじっきょう:現代仮名遣)。中期大乗仏教経典の一つ。釈迦が十方の仏菩薩を集めて大乗の法を説いたもので、「空(くう)」の思想に加えて、密教的要素が濃厚なもの。

「佛敎大辭彙」大正三(一九一四)年に龍谷大学が刊行した仏教語彙辞典。

「エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、二八卷、九九六頁」既出既注。原本はここ

「オセロツト」食肉目ネコ亜目ネコ科オセロット属オセロット Leopardus pardalis 。当該ウィキによれば、『同じ地域に生息する』ヤマネコ類と『類似した外観をもつが、オセロットの体長は』六十五~百二十センチメートル、尾の長さは二十七~六十一センチメートル、体重九~十六キログラムあって、それらとは相対的に『大型である。体毛は短く、四肢は頑丈。黒い斑紋で縁取られたオレンジ色の斑紋(梅花紋)。種小名 pardalis は「ヒョウ」の意。地色は灰白色や黄色、濃褐色など個体によってさまざまで、体前方から後方に向かって黒く縁取られた斑が並んでいる。虹彩は褐色』。『主に南アメリカの熱帯雨林に生息しているが、メキシコやアメリカ・テキサス州の一部にも分布しており、草原や人間の集落近くに姿を現すこともある』。『夜行性で』、『その行動範囲は非常に広い。普段は単独で行動し、他の個体と出会うのは通常は交尾のためだけである。ただし、樹上や深い茂みの中で休息をとる日中は』、『まれに他の個体と場所を共有することもある。繁殖期については初夏と冬である、定まっていない、などの説がある。妊娠期間は約』七十『日で、一度の出産で』一~四『子を産む』。『他のネコ科の動物と異なり』、『泳ぎが上手く』、『樹上生活に適応しており』、『木登りも行うが、大抵は地上を行動圏としている。自身よりはるかに』小型の動物(サル・ヘビ・齧歯類・鳥類などを『捕食する』。『非常に鋭い視力を持つが、獲物を追跡するのに臭いを辿ることが研究によって判明している』。『毛皮は非常に高価なものとされ、また』、『人に慣れやすく』、『今なおヤマネコの中でペットとして最も人気のある種類であるため、乱獲が続』き、『多くの国で絶滅危惧種に指定されている』とある。

「ボーンス文庫本、プレスコツト墨西哥征服史」アメリカの歴史家で特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が一八四三年刊行したもの(The History of the Conquest of Mexico:「メキシコの征服の歴史」)。文庫名のそれは不詳。

「摩訶止觀」隋代の仏教書。全十巻。智顗(ちぎ)の教説を弟子の灌頂(かんじょう)が筆録したもの。五九四年成立。「天台三大部」の一つ。天台宗の修行法である観心を体系的に説いたもの。「天台摩訶止観」「天台止観」「止観」とも呼ぶ。

「委陀」「ヴェーダ」とは「知識」の意。インド最古の文献で、バラモン教の根本聖典を指す。起源は、アーリア民族の自然賛美の詩篇群で、紀元前一二〇〇年から紀元前五〇〇年の成立と推定され、リグ・サーマ・ヤジュル・アタルベの四ベーダ(祭式上の区別)から成る。内容上からジュニャーナカーンダ(哲学的宗教的思索部門)とカルマカーンダ(施祭部門)の二つに大別される。]

 

五 序でに述ぶ。五雜俎一五に、眞武卽玄武也、朱雀靑龍白虎爲四方之神、宋避諱改爲眞武、後因掘地得龜蛇、遂建廟以鎭北方、至今香火殆遍天下、而朱雀等神絕無崇奉者、此理之不可曉。琅邪代醉編二九に眞仙通鑑載、宋道君問林靈素、願見眞武聖像、靈素曰、容臣同張淨虛天師奉請、乃宿殿致齋、於正午時、黑雲蔽日、大雷霹靂、火光中見蒼龜巨蛇塞於殿下云々。是等には見えねど古來玄武を畫くに、必ず蛇が龜を纏ひ舌を出して見詰る體を以てす。予惟ふにこは蛇と龜と交わる相なるべし。博物志四に大腰無雄、龜鼉類也、無雄與蛇通氣則孕、細腰無雌蜂類也。これはジガ蜂が蜘蛛抔を其穴に引入れ卵を產付[やぶちゃん注:「うみつけ」。]するを見て、此蟲雌なく他の蟲を養ひ子とすと誤解し、又龜の生殖器は一寸見えぬ故、斯く甲裝したる者のいかに交尾すべきと思案に盡きて、龜に雄無く蛇と氣を通じて孕むと信じたる也。類函四四〇に化書曰、牝牡之道龜龜[やぶちゃん注:初出・底本は「龜々」であるが、「々」は中国にはない記号であるので好ましくないので正字化した。]相顧神交也、龜雖與蛇合、亦有以神交者。是は龜に牝牡あれども其交るは身を合さず、相顧み見た斗りで事濟み、蛇と交る時は身を合し若しくは眼で視合ふて事成るとす。本草網目四五、時珍曰龜雌雄尾交、亦與蛇匹、或云大腰に無雄者謬也と有て、明代既に龜雌雄有り、尾裏の生殖器を重ね交はるを知れるも、なほ舊說に泥んで[やぶちゃん注:「なづんで」。]亦蛇とも交ると信ぜり。龜のドイツ名 Schildkröte が被甲蟾蜍の義なる如く、凡て爬蟲共の面貌一般に相似る故、支那人龜を蛇頭龍頸抔形容し龜、蛇至て近き者と見、扨こそ龜長於蛇の辨も有りしなれ(莊子天下篇)。此龜蛇と交てふ謬說久しく支那人の心に浸潤せしは、五雜俎八に、今人以妻外淫者、其夫目爲烏龜、蓋龜不能交、而縱牝者與蛇交也と見るにて知らる。古歐州人も此二物を好淫とせしにや、アポロが龜となり蛇と化て王女ドルオペを犯す譚有り。七年前の夏、予の宅に龜を飼し池邊の垣下より、一蛇舌を出し頻りに龜に近づかんとするを予竹竿もて撲殺せし事あり。其何の爲たりしを知るに由なきも、蛇と龜多き地には蛇が龜を纏ひにかゝる位の事絕無と謂ふ可らず。支那に攝龜又鴦龜とて腹甲橫折して能く自ら開闔[やぶちゃん注:「かいかふ」。開閉。]し、蛇を見れば忽ち之を啖う龜ある由本草網目に出づ。予北米東南部の松林で數ば[やぶちゃん注:「しばしば」。]見たるクーター(箱龜)は腹甲折半して前後自在に動き、敵に遇へば全く首尾四肢を甲内に閉て間隙無し。明治十八年[やぶちゃん注:一八八五年。熊楠十八歳。]頃斯樣の龜を八重山島より東京へ持來り飼るを見し事あり。後ち英國學士會員ブーランゼー氏に質せしに、箱龜の種族一ならざれど悉く西半球の產也、米國の航客抔米國又墨西哥や中米地方の箱龜を八重山島に遺せし者なるべしと答へられたり。然れどもコロンブスの新世界發見より九百數十年前、陶弘景が鴦小龜也、處々有之、狹小而長尾、甲は占吉凶、正相反龜と述べ、新世界發見より五百數十年前、韓保昇が攝龜腹小、中心橫折、能自開闔、好食蛇也と言るを稽ふるに[やぶちゃん注:「かんがふるに」、]、西半球の者と種屬を同じくせざる迄も、一種の箱龜好んで蛇を食ふ者が支那に產する事疑を容れず。ユリノ木抔、長距離を隔てゝ米國東部と支那内地に產する例有れば、西半球に限ると惟はれたる箱龜が支那にも產すれば迚怪しむに足らず。果して然らば、龜が蛇と鬪ふて之を殺し食ふ處を畫きて、嚴寒劾殺[やぶちゃん注:「がいさつ」。罪を暴き訴えて殺すこと。]の北方の神を表示せるが玄武の本義ならん(說苑十九に孔子曰、南者生育之鄕、北者殺伐之域)[やぶちゃん注:「孔子曰く、『南は生育の鄕(がう)、北は殺伐の域なり。』と。」。]。予曾て小蛇又蜥蜴を殺して自宅の龜に與えしに[やぶちゃん注:ママ。]、忽ち食ひ了りし事なり。支那の攝龜に限らず、龜が蛇を殺し食ふ例は少なからじ。扨蛇が龜に食れ爭ふ内龜を纏ひ荐に[やぶちゃん注:「しきりに」。]舌を出す、其態、淫念熾盛にして之と交る如くなるより、之を陰陽和合子孫蕃殖の相として、四神の内玄武獨り永く亨祀[やぶちゃん注:「きやうし」。滞りなく祀ること。]されたる也。死殺を司どる北方の神を子孫蕃殖の神とは受け難き樣なれど、子生るゝと同時に親死するは原始生物の通規で、類函十六に引る尙書大傳に冬中也、物方藏於中、故曰北方冬也、陽盛則吁舒萬物、而養之于外、陰盛則呼吸萬物、而藏之于内、故曰、呼吸者陰陽之交接、萬物之始終也と云るは一理有り。新西蘭[やぶちゃん注:ニュージーランド。]土人は男女根は人命を壞る[やぶちゃん注:「やぶる」。]とし(Elsdon Best, “Maori Beliefs concerning the Human Organs of Generation,” Man, vol. xiv., no.8, pp. 132-133, 1914)、印度人はシヴァ神を幸福尊者と稱す。死は生を新たに始め破壞者實に再創者たれば也(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、廿五卷一六二頁)。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻十五「事部三」の一節。

「眞武卽玄武也……」「眞武は、卽ち、玄武なり。朱雀・靑龍・白虎と與(とも)に四方の神たり。宋に、諱(いみな)を避け、改めて眞武と爲す。後に地を掘りて龜蛇(きじや)を得るに因つて、遂に廟を建て、以つて北方を鎭(しづ)む。今に至るまで、香火、殆んど、天下に遍(あまね)し。而して朱雀等の神は、絕えて崇奉する者、無し。此れ、理(ことわり)の曉(さと)るべからざるものなり。」。

「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の張鼎思の類書。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。

「眞仙通鑑載……」『「眞仙通鑑」に載せて、『宋の道君、林靈素を問(たづ)ね、眞武の聖像を見んことを願ふ。靈素曰く、「臣の張淨虛天師と同(とも)に奉請するを容(ゆる)せ。」と。乃(すなは)ち殿に宿し、齋(さい)を致す。正午の時に於いて、黑雲、日を蔽(おほ)ひ、大雷、霹靂して、火光の中に蒼龜・巨蛇の殿下を塞ぐを見ると云々』。親本の「眞仙通鑑」は元代の道士趙道一の編纂した道教の神々の伝記集「歷世眞仙體道通鑑」。歴代の神仙・道家の活動を諸書より集めて述べたもので、儒・仏・道の三教の伝説を取り込んで、僧や儒者も一緒くたにして「神仙」に仕立ててしまっているトンデモ本である。

「博物志」三国時代魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻を指す。以下は巻四の一節。

「大腰無雄……」「大腰(だいよう)は雄(をす)無し。龜(き)・鼉(だ)の類(るゐ)なり。雄、無くして、蛇と氣を通ずれば、則ち、孕む。細腰(さいよう)は雌(めす)無し。蜂の類なり」。実はこれには続きがある。「取桑蟲、則阜螽子呪而成子詩云、螟蛉有子螺臝負之是也。」(桑蟲(くはご)[やぶちゃん注:青虫。]を取り、則ち、螽子(いなご)阜(ふ)して[やぶちゃん注:岡に埋めて。]呪して、子を成す。「詩」に云ふ、「螟蛉 子 有り 螺臝(すがる) 之れを負ふ」は、是れなり。)で、最後のそれは「詩経」の「小雅」にある「小宛」(しょうえん)の第三章に出る一節であり、これよって、間違いなく、「細腰」がヂガバチを指していることを証明されるのである。「大腰」が如何なる生物なのか判らぬ。「龜・鼉」は広義のカメ類と鰐(ワニ)の類いとなれば、幻獣としての巨大ガメか巨大ワニか。因みに、この文の前には「兔舐毫望月而孕、口中吐子。舊有此說、餘目所未見也」とある。

「ジガ蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini に属するジガバチ類で、世界では、ジガバチ属 Ammophila・エレモノフィラ属 Eremnophila・エレモカレス属 Eremochares・ホップラムモフィラ属 Hoplammophila・パラパサムモフィラ属 Parapsammophila・ポダロニア属 Podalonia の六属で約三百種を数える。「ファーブル昆虫記」でよく知られる通り、典型的な「狩り蜂」であり、総ての種が「狩り」を行う。当該ウィキによれば、『狩りは幼虫の食糧確保のために行なわれ』、『地面に穴を掘って巣(幼虫室と呼ぶ)を作った後、幼虫の食料にする獲物を捕らえて毒針で毒を注入する。獲物は全く動かなくなるが、これは神経を麻痺させてあるだけで、殺してはいない(死ぬと肉が腐って幼虫の餌とならなくなる)。その後、巣穴に獲物を運び入れ、卵を一つ(種によっては複数)産み付ける。雌は幼虫室を閉じて出ていき、二度と戻らない』。『幼虫は獲物の体の上で孵化し、獲物を殺して腐敗を起こすことのないよう、生命維持に影響を及ぼさない部位から順番に獲物を食べていく。獲物を食べ』尽くして、『巣穴と同じくらいの大きさまで成長すると、繭を作って蛹になり』、十『日ほどで羽化』し、『巣穴を出る』。『幼虫の食料として、ジガバチ属はアオムシを捕るが、これに対し』、同じアナバチ科 Sphecidae で似た形態や生態を持つものの、現行の分類学上はジガバチ亜科Ammophilinae ではないSceliphrinae 亜科 Sceliphrini Sceliphron 属はクモ類を狩るので(例えば、本邦に南関東以南で既に侵入外来種として確認されて確認されているアメリカ原産のアメリカジガバチ Sceliphron caementarium はオニグモの仲間を狩る)、南方熊楠の謂いは必ずしも誤っているとは言えない。『非社会性で』『群れは作らない』とある。なお、本邦産のジガバチ属 Ammophila は三種で、各地に初夏から晩秋まで普通に見られるのは、サトジガバAmmophila sabulosa nipponica・ヤマジガバチAmmophila infest 及び、大型の本州以南に分布する南方系の種で脚が黄赤色を呈し、翅も褐色を帯びる美しいが、分布が限られる、フジジガバチ Ammophila atripes japonica が、また、ホップランモフィラ属 Hoplammophila の山地性種である、ミカドジガバチHoplammophila aemulans の棲息が知られている。ジガバチの和名は「似我蜂」で、これは巣穴の掘削時と閉塞時に、胸部の飛翔筋の振動を頭部に伝えて、それで土壌を砕いたり、突き固めるが、その際に発生する音に由来し、虫を捕まえて穴に埋めた後、それに向かって「似我、似我」(我に似よ、我に似よ)と呪文しているのだ、という伝承に基づく。「ジガ、ジガ」と唱えたあと、埋めた虫が、後日、蜂の姿となって、地中より出現してきたように考えたことに由るものである。

「化書」南唐の譚峭撰の道教系の道学書。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで、明の陳継儒校訂で新井白蛾再校になる寶暦一〇(一七六〇)年刊本のここで当該部「道化巻第一」の「神交」が視認出来る(訓点附)。

「化書曰……」「化書(かしよ)」に曰く、『牝牡(ひんと)の道(だう)、龜と龜と相ひ顧みれば、神、交(まじは)ればなり』と。龜は蛇と合すと雖も、亦、以て、神交する者有り。」。

「時珍曰……」「時珍曰はく、『龜の雌雄は尾にて交はり、亦、蛇と匹(むつ)む。或いは、「大腰に雄無し」と云ふは謬(あやま)りなり。』」。

「龜のドイツ名 Schildkrote」シルト・クレーテ。女性名詞。カメ。スッポン。「Schild」は「被甲」=「楯」、「Krote」は「蟾蜍」=「ヒキガエル」の意(「厚かましい小娘」の意もある。

「龜長於蛇」「龜は蛇より長し」。荘子の友人で詭弁的命題の達人であった恵子(けいし)のそれの一つ。但し、このパラドクスは荘子の思想の根本概念の方便の一つでもある。

「今人以妻外淫者……」「今人(きんじん)、妻の外淫する者を以つて、其の夫を目(もく)して烏龜(うき)と爲す。蓋し、龜は交はる能はざれば、而して、牝なる者、蛇と交はるを縱(ゆる)すなり。」。「烏龜」は現代では臭亀(カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属 Mauremys reevesii )さす。

「アポロが龜となり蛇と化して王女ドルオペを犯す譚あり」にゃべ氏のサイト「10ちゃんねる (* ̄ー ̄)y-~~~~」の「アポロンの恋人(ギリシャ神話54)」の「ドリュオペ」によれば、『彼女が山の中で父の家畜の番をしていたが、山の妖精たちと仲良くなり』、『一緒に遊んでいた時』、『それを見て、アポロンが彼女たちの中に亀の姿で近づく。彼女たちが、それをボールのようにして遊んでいたときに、ドリュオペの膝の上に乗った。その時、アポロンは本性を現して、蛇の姿となって』、『彼女の膝を割って入り』、『犯してしまったという。これは完全にレイプである』。『ただし、彼女にはまた「神ヘルメス」と交わって「牧神パン」の母となったという言い伝えもある』とあった。

「攝龜」(せつき)「鴦龜」(わうき)「本草綱目」の「攝龜」は巻四十五の「介之一 龜鱉類」の以下(そこに異名として「鴦龜」も載る)。

   *

攝龜【「蜀本草」。】

釋名 呷蛇龜【「日華」作夾蛇。】陵龜【郭璞。】鴦龜【陶弘景。】蠳龜【「抱朴子」。】恭曰、「鴦龜腹折見蛇、則呷而食之。故楚人呼呷蛇龜。江東呼陵龜。居丘陵也。」。時珍曰、「既以呷蛇得名、則攝亦蛇音之轉而、『蠳』亦『鴦』音之轉也。」。

集解 弘景曰、「鴦小龜也。處處有之、狹小而長尾。用卜吉凶、正與龜相反。」。保昇曰、「攝龜腹小中心橫折、能自開闔。好食蛇也。」。

肉 氣味 甘寒、有毒。詵曰、「此物噉蛇肉、不可食。殻亦不堪用。」。

主治 生研塗撲損筋脉傷【士良。】生搗罯蛇傷。以其食蛇也。【陶弘景。】

尾 主治 佩之辟蛇。蛇咬則刮末傅之。便愈。【「抱朴子」。】

甲 主治 人咬瘡潰爛燒灰傅之。【時珍、出「摘玄」。】

   *

攝龜【「蜀本草」。】

釋名 呷蛇龜(かふだき)【「日華」は「夾蛇」に作る。】陵龜【郭璞(かくはく)。】鴦龜【陶弘景。】蠳龜(やうだ)【「抱朴子」。】恭曰く、「鴦龜は、腹、折りて蛇を見るときは、則ち、呷(かふ)して[やぶちゃん注:「コウ!」と啼いて。]之れを食ふ。故、楚人(そひと)、「呷蛇龜」と呼ぶ。江東、「陵龜」と呼ぶ。丘陵に居すればなり。」と。時珍曰く、「既に『呷蛇』を以つて名を得れば、則ち、攝は亦、「蛇」の音の轉にして、『蠳』は亦、『鴦』の音の轉なり。」と。

集解 弘景曰く、「鴦は小龜なり。處處(しよしよ)に、之れ、有り。狹小にして、長き尾。用ひて吉凶を卜(うらな)ふ。正に龜と相ひ反す。」と。保昇曰く、「攝龜、腹、小にして、中心、橫折(わうせつ)し、能く自(みづか)ら開闔(かいかふ)す。蛇を好みて食ふなり。」と。

肉 氣味 甘、寒。毒、有り。詵(せん)曰く、「此の物、蛇肉を噉(くら)ふ。食ふべからず。殻も亦、用ふるに堪へず。」と。

主治 生(なま)にて研(けず)りて、撲損・筋脉傷に塗る【士良。】。生にて搗(つ)きて蛇傷を罯(おほ)ふ。其れ、蛇を食ふを以つてなり。【陶弘景。】

 主治 之れを佩(お)ぶれば、蛇を辟(さ)く。蛇、咬めば、則ち、刮(けず)り、末(まつ)にして、之れを傅(つ)く。便(すなは)ち愈ゆ。【「抱朴子」。】

甲 主治 人の咬み瘡(きず)・潰爛には、燒き灰にして、之れを傅之く。【時珍、「摘玄」に出づ。】

   *

「開闔」は「開閉」、「罯」は「覆う」の意。「狹小にして、長き尾。用ひて吉凶を卜(うらな)ふ。正に龜と相ひ反す」というのは、前者の形態が通常の亀とは反対であることを言っているのであろう。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「こかめ 攝龜」も参照されたい。「本草綱目」の引用部は以下。

   *

「本綱」に、『攝龜、小龜なり。處處の丘陵に居る。狹小にして、長き尾、腹、小さく、中心、橫に折れて、能く自ら開闔す。蛇を見るときは、則ち、呷(かふ)して之れを食ふ。故に、此の肉、食ふべからず【甲は亦、用ふるに堪へず。】。

   *

私はそこで、同定候補の一例と思われるものを挙げて、イシガメ科マルガメ属Cyclemysの仲間、又は同属のノコヘリマルガメCyclemys dentata としつつも『但し、この種が腹甲を開閉できるタイプであるかどうかは確認していない』としている。十四年前の私の古い電子注で、「あの忙しかった頃にこんなに真面目に考証をしていたのか」とびっくりした。

「クーター(箱龜)」カメ目潜頸亜目リクガメ上科ヌマガメ科ヌマガメ亜科アメリカハコガメ属カロリナハコガメ errapene carolina のこと。アメリカハコガメ属中の最大種で最大甲長は二十一・六センチメートル。背甲はドーム状に盛り上がる。「ハコガメ」(箱亀)の名の通り、頭部と四肢を甲羅に引き入れた後、腹甲を折り曲げ、箱の様に完全に蓋をすることが出来る。但し、分類学上、注意しなくてはいけないのは、これは真正のリクガメ上科イシガメ科ハコガメ(箱亀)属 Cuora とは縁も所縁もない全くの別種であることである。そもそもが真正のハコガメ属は新大陸には全く棲息しない。というか、インド北東部・バングラデシュ・ミャンマー・カンボジア・タイ・ラオス・ベトナム・インドネシア・シンガポール・ブルネイ・フィリピン・中国南部・台湾・日本(石垣島・西表島)にのみ分布する。以下の熊楠の疑問は正しい。恐らくは「ブーランゼー氏」の言うような気まぐれの移入繁殖なんぞではなく、分類学上、縁が甚だ遠い以上、平行進化の結果と考えるのが妥当である。熊楠が後で言っているのもそれである。

「ブーランゼー氏」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」にも出るが、イギリスの動物学者を調べてみたが、不詳。両生類・爬虫類に詳しい人物のようではある。

「コロンブスの新世界發見」クリストファー・コロンブス(イタリア語:Cristoforo Colombo/英語:Christopher Columbus 一四五一年頃~一五〇六年:イタリアのジェノヴァ出身とされる、元は奴隷商人。大航海時代に於いてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。彼の実績により彼の子孫はスペイン貴族に列せられた)がバハマのサン・サルバドル島に上陸した一四九二年十月十二日を「コロンブスによるアメリカ大陸の発見と」呼ぶ(但し、コロンブスは自身が上陸した場所はインドであると誤認しており、新大陸を発見したという認識は全くなかったのでこの謂いは甚だ正しくない。事実上、アメリカ大陸が新大陸であるという事実を発見したのはイタリアの地理学者・天文学者であったアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci 一四五四年~一五一二年)で、彼は一四九七年から一五〇二年まで三度に亙ってスペイン・ポルトガルの船に同乗し、大西洋を横断し、一五〇三年頃、調査の結果をまとめた「新世界」(アメリゴがフィレンツェのメディチ家に報告した書簡体のもので、しかも、アメリゴ自身の原本は存在しない)の中で、大西洋を横断した先にあるのはインドでもアジアでもなく、全く異なる新大陸であることを指摘したのが正確な「アメリカ大陸」発見であった)。

「陶弘景」(四五六年~五三六年)明の李時珍の「本草綱目」に頻繁に引用される六朝時代の医師にして博物学者。道教茅山派の開祖でもあった。隠棲後は華陽隠居と称し、晩年には華陽真逸と名乗った。当該ウィキによれば、『眉目秀麗にして博学多才で詩や琴棋書画を嗜み、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通した。山林に隠棲し』、『フィールド』・『ワークを中心に本草学を研究し』、『今日の漢方医学の骨子を築いた。また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた』。『丹陽郡秣陵県(現在の江蘇省南京市江寧区)の人で、南朝の士大夫の出身。祖父の陶隆は王府参軍、父の陶貞宝は孝昌県令を務めた。幼少より極めて聡明で』、忽ちにして『書法を得、万巻の書を読破し』、十『歳のときに葛洪の』「神仙伝」に『感化され』、『道教に傾倒』、十五『歳にして』「尋山志」を』『著したという』二十『歳の頃、南斉の高帝に招聘され』、『左衛殿中将軍を任じられると』、『諸王の侍講(教育係)となり』、『武帝のときまで仕えた』、三十『歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学び』、三十六で『職を辞し』、四九二年、『茅山(南京付近の山・当時は句曲山といった)に弟子ととも隠遁した』。「南史」には『陶弘景が致仕したとき皇帝の肝いりで盛大な送別会が催されたことが伝えられている』。四九九年には『三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒し』た。『王朝が交替すると』、『梁の武帝は陶弘景の才知を頼り、元号の選定をはじめ』、『吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため』、『武帝と頻繁に書簡を交わしたので「山中宰相」と人々に呼ばれるようになる。年を負う毎に名声が高まり』、『王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった』かの「文選」の『編者として知られる昭明太子も教えを受けたひとりである』。『多岐に』亙る『著述を著し』、『その数』、四十四『冊に上った』。『陶弘景は前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書』「神農本草経」を整理して五〇〇年頃に「本草経集注(ほんぞうきょうしっちゅう)」を『著した。この中で薬物の数を』七百三十『種類と従来の』二『倍とした。また』、『薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。漢方医学における薬学の祖とも呼ばれ、いまなお』、『この分類法は使われている。唐代に蘇敬らが勅命により』「新修本草」を刊行しているが、これも実は「本草経集注」の内容を網羅的に継承して増補した内容のものであった。『道教の一派である上清派を継承し』、『茅山派を開いた。著書』「真誥」(しんこう:霊媒師楊羲に降りた真人が口授した教えを筆写したものを、弘景が後に編纂した上清派の経典)は『上清派の歴史や教義を記述した重要な文献となっている。仙道の聖地である茅山に入り、弟子とともに道館「華陽館」を建て』、『多くの門弟を育て』て、『優れた道士を輩出した』。書は、『王羲之や鍾繇』(しょうよう)『に師法し』、『淡雅な書風だった。陶弘景が書したとされる「瘞鶴銘」』(えいかくめい:「瘞鶴」とは「鶴を埋める」の意)『の碑文は後世に評価が高く』、『その革新的な書法に啓発された書家は数多い。とりわけ』、『北宋の黄庭堅は大きな影響を受け、独特のリズムを持つ革新的な書法を完成させた。また』、『梁武帝と書簡の中で書論を交わしているが、この書論は唐代になって張彦遠の』「法書要録」に収められ』て、『王羲之の書を最高位とする後世の評価を決定づけることになった』とある。

「九百數十年前」寧ろ、一千年前と言ってよかった。

「韓保昇」五代の後蜀(九三四年~九六五年)の学者(翰林學士)で本草家。「蜀本草」の著者(全二十巻であったが、原本は散佚した)。

「ユリノ木」モクレン目モクレン科ユリノキ亜科ユリノキ属ユリノキ Liriodendron tulipifera当該ウィキによれば、標準和名の意味は「百合の木」であるが、種小名 tulipifera は「チューリップ(のような花)をつける」の意であり、別名に「ハンテンボク」(半纏木:葉の形が半纏に似ることから)・「レンゲボク(蓮華木:花が蓮の花を思わせることから)・チューリップツリー(同じく花がチューリップを思わせることから。種小名と同じ発想)などとも呼ぶ。そこでは『北アメリカ中部原産』とするものの、二『種のみが知られ、北アメリカと中国に隔離分布する』とあり、シナユリノキ Liriodendron chinense は、『中国の長江以南やベトナムに自生する。花はユリノキより小さめで緑色。千葉県内などで栽培例がある。近年ではユリノキとの交配種も栽培される』とあった。

「西半球に限ると惟われたる箱龜が支那にも產すればとて怪しむに足らず」既に述べた通り、同じハコガメを和名の一部に持ち、その形態はよく似ているが、全くの縁の遠い別種である。

「說苑」「ぜいえん」(現代仮名遣)と読む。前漢の劉向(りゅうきょう)の撰、乃至は編になる故事・説話集。「漢書」の「楚元王伝」の中の「劉向伝」によれば、上古から漢代に至るまでの多くの書物から天子を戒めるに足る逸話を採録し、時の成帝を諫めるべく上奏されたものとある。

「龜が蛇を殺し食う例は少なからじ」カメには雑食性の種も多くあり、そうした中・大型のカメがヘビを食うことはあり得ないことではない。但し、それが「少なくない」と言えるかどうかは疑問である。寧ろ、大型のヘビが小さなカメや子ガメを丸呑みするケースの方が遙かに多いはずである。

「尙書大傳」(しょうしょたいでん:現代仮名遣)原本は漢の伏勝の撰になる「書経」お注釈書。

「冬中也……」「冬は中(うち)なり。物、方(まさ)に中に藏(をさ)む。故に曰く、北方は冬なり。陽、盛んなれば、萬物を吁舒(くじよ)して、これを外に養ふ。陰、盛んなれば、萬物を呼吸して、これを内に藏(をさ)む。故に曰く、『呼吸は陰陽の交接にして、萬物の始終なり』と。」「吁舒」は生命や存在を驚くべく永く保つことか。

「男女根」男女の生殖器。

「Elsdon Best」ニュージーランド生まれ。ニュージーランドのマオリの研究に重要な貢献をした民族学者エルズドン・ベスト(一八五六年~一九三一年)。

「“Maori Beliefs concerning the Human Organs of Generation,” Man,vol.xiv,no.8,pp.132-133,1914」「人間の生殖器官に関するマオリの信仰」。「ええっ!」とびっくりしたが、英文サイト「zenodo」の「66. Maori Beliefs Concerning the Human Organs of Generation」とあるこちらから当該部分がバッチり(!)ターゲットでPDFでダウン・ロードできるッツ!!

「印度人はシヴァ神を幸福尊者と稱す。死は生を新たに始め破壞者實に再創者たれば也(エンサイクロペヂア、ブリタンニカ、十一板、廿五卷一六二頁)」例によって‘Internet archive’のこちらで原本当該部が見られる。]

 

 因みに言ふ、世間に舌を出すを、猥褻の意に取る人多きも、西蔵人[やぶちゃん注:チベットじん。]などは然らず、舌を出すを敬禮の作法とす(Sven Hedin, ‘Trans-Himalaya,’ vol. i, p.lxvcix, 1909)。是れ本と親愛を表するに起り、親愛の極は男女歡會の際に存するは言ふを俟たず。扨古今東西蛇を陰相となす例到る處に多し(Westropp and Wake, ‘Ancient Symbol Worship,’ 2nd ed., New York, 1875, passim)。觀佛三昧海經卷八に佛告阿難、我昔初成道時、伽耶城邊、住煕連河側、時有五尼犍、共領七百五十弟子、自稱得道、來至我所、以自身根、燒身七匝云々、卽作此語、我無欲故、身根如此、如自在天云々、時世尊告諸尼犍、汝等不知如來身分云々、今當爲汝少現身分、爾時世尊自空而下、卽於地上、化作四水、如四大海、四海之中、有須彌山、佛在山下、正身仰臥、放金色光云々、徐出馬藏、遶山匝、如金蓮花、花々相次、上至梵世。尼犍[やぶちゃん注:「にけん」。]が其根を以て自身を七匝[やぶちゃん注:「さふ」。現代仮名遣「そう」。仏語に「右繞三匝」(うにょうさんそう)があり、これは右回りに対象物の周囲を三度繞(めぐ)って対象者への敬意を表わす礼法があるが、ここは自身を崇するために自分の男根をにょっきりと伸ばして自身の身に七度もうねうねと繞らせたのである。]せしに、佛は其根を伸して須彌大山を七匝し、更に寶蓮花を現して之を蔽ふを見て、尼犍輩降伏出家せりと云ふ(蓮花を女根の標識とする事 Westropp and Wake に見ゆ)。この七匝の一件は、もと根を蛇に擬したる事疑ひ無し。蛇を婬事の標識とする理由は多々有るべきも、其舌を出して頻りに歡を求むるの狀有るも、亦其一大理由なるべし。知れ切た事の樣乍ら、東西の學者此說を出だせる有るを聞かず。由て爰に記して、其參考に供す。又因みに言ふ、交會の際口を接する動物は、蛇に限らず。類函四二三に、俗云、鴛交頸而感、烏傳涎而孕[やぶちゃん注:「俗に云ふ、『鴛(ゑん/をしどり)は頸を交へて感じ、烏(からす)は涎(よだれ)を傳へて孕む』と」。]。プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴をもつて交はる故に、其卵を食ふ婦人は口より產すと傳ふ。アリストテレス之を駁して、鴉も鳩も同樣雌雄好愛して口を接するを誤認せる也と言へりと載す。(紀州東牟婁郡請川村邊で孕婦鳩の巢を見れば難產す、鳩は口より子を產む故といふも、雌雄の鳩屢ば接口するより謬り來れる也)烏が相愛して口を接するは予も見たり。又予の宅に今も四十疋許り龜を飼るが、情欲發する時、雌雄見て啄き合ふ。其交會は泥水中でするらしく、唯一度陸上で會ふを見し事有るのみ。上に引る化書に牝牡之道龜龜[やぶちゃん注:前と同じ処理をした。]相顧神交と有るも尤もなる處有り。古え[やぶちゃん注:ママ。]支那人、烏が口を接するを見るの多きより嗚[やぶちゃん注:「を」。]の字を以てキツスを表す。康煕字典嗚の字に此義有るを言ず。思ふに佛經に此事多きより譯經者が用ひ始めたる者か。例せば根本說一切有部毘奈耶に鄔陀夷、覩彼童女、顏容姿媚、遂起染心、卽摩觸彼身、嗚唼其口、四分律藏に時有比丘尼、在白衣家内住、見他夫主、共婦嗚口、捫摸身體、捉捺乳、佛說目連問戒律中五百輕重事經下に聚落中、三歲の小兒抱嗚口、犯何事、答犯墮、外典にも賈充妻郭氏酷妒、有男兒名黎民、生載周、充自外還、乳母抱兒在中庭、兒見充喜踊、充就乳母手中嗚之、郭遙望見、謂充愛乳母、卽殺之、兒悲思啼泣、不飮他乳遂死、郭後終無子(世說惑溺篇)。是れ晉朝既に小兒や婦女を愛して之に接口する風有りし也。又說郛三一所收玄池說林に云く、狐之相媚必先吕。注に、以口相接、是れは吾邦の笑本に「跡は無言で口と口」[やぶちゃん注:底本「口と口」は三字分「✕」で伏字。「選集」を参考に復元した以下同じ。]抔と有る口と口を合せ作れる者、康煕字典に見へねど[やぶちゃん注:ママ。]、その音クと記臆す。斯る簡單なる字有るに氣付かず、接吻抔六かしく譯せしは遺憾也。明治十九年赤峰瀨一郞氏が桑港の景物を誇張して吹聽せし世界之大不思議とか云る書に、歐米人のキッス[やぶちゃん注:三字伏字。]は唇を專らとし日本人のは舌を主とすと有りし樣[やぶちゃん注:「やう」。]覺ゆるが、ルキアノスの妓女對話に、妓女レエナ富家の婦人メギラと對食の次第を述る内、希臘には男女親暱[やぶちゃん注:「しんじつ」。「親昵」とも書く。「昵懇」に同じい。]の際に限り日本流に嗚口[やぶちゃん注:「をこう」。]せしを徵すべき句有り。調査せば猶多々例有るべし。アラビア人波斯[やぶちゃん注:ペルシア。]人等亦然りしは千一夜譚の處々に散見す。印度にはカマ經[やぶちゃん注:「カーマ・スートラ」のこと。]に嗚す[やぶちゃん注:「をす」。]べき箇所八を擧ぐ。其第七は其唇[やぶちゃん注:二字伏字。]、第八は口内[やぶちゃん注:二字伏字。]とあれば、所謂歐米日本の兩流を兼行ふ也(‘Le Kama Soutra,’ tran. E. Lamairesse, Paris, 1891, p. 41)。最後に述ぶ、歐米人の書に、日本人本來キツスを知ずと云事屢ば見るが、是程大きな間違ひは有るまじ。其古く文章に見える一二を擧げんに德川幕府の初世に成る醒睡笑に、「兒[やぶちゃん注:「ちご」。]と寢[やぶちゃん注:「いね」。]たるに、法師口を吸ふ[やぶちゃん注:四字伏字。]迚如何有りけん、齒を一つ吸拔きたり」。足利氏の時編まれたる犬筑波集戀部に「首をのべたる曙の空」「きぬぎぬに大若衆と口吸[やぶちゃん注:二字伏字。「くちすひ」。]て」。御伽草子は當時兒女の普く玩讀せし物なるに、其中の物草太郞、妻と爲すべき女を辻取りせんと淸水の大門に立つに十七八歲の美女來る。太郞見て爰にこそ吾北の方は出來ぬれ、天晴疾く近づけかし、抱き付ん、口をも吸[やぶちゃん注:四字伏字。「すは」]ばやと思ひて待居たり。女太郞に捉へられて、「離せかし網の糸目の繁ければ、此手を離れ物語せん」太郞返歌に「何かこの、あみの糸目は繁くとも、口を吸[やぶちゃん注:三字伏字。「すは」。]せよ手をば釋さん[やぶちゃん注:「ゆるさん」。]」とあり。以て當時、情人と別るゝに嗚し、戲れに强て嗚するの風、今日の歐米同然本邦にも行れしを知るべし。鎌倉霸府[やぶちゃん注:初出も「選集」もママ。]の代に成りし東北院職人歌合に巫女「君と我、口を寄せてぞねまほしき、鼓も腹も打ち敲きつつ」。其より前、平安朝の書、今昔物語一九に、大江定基愛する所の美婦死せる其屍を葬らず、抱き臥して日を經る内口を吸けるに、女の口より惡臭出しに發起して遂に出家せりとあり。

  (大正八年八月人類、三四卷)

[やぶちゃん注:「Sven Hedin, ‘Trans-Himalaya,’ vol. i, p.lxvcix, 1909」中央アジア探検で知られたスウェーデンの地理学者スヴェン・アンデシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の一九〇九年刊の「トランス・ヒマラヤ――チベットでの発見と冒険」(Trans-Himalaya :Discoveries and Adventures in Tibet)。書名は、彼が、発見したヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈の名。「lxvcix」は「選集」の表記で、底本は「p.i. xvcix」であるが、前者はローマ数字としておかしく、後者の後半は「99」相当であるが、「Internet archive」で二〇一〇年版他を見てもよく判らない。但し、同版の「182」ページ六行目に礼儀としての舌を出すお辞儀が登場している。「カワイ肝油ドロップ」のサイト内の山崎怜奈氏の「よみきかせ」の「世界の挨拶の秘密」の冒頭の「チベットに行ったら、舌をぺろっと出して挨拶をしよう!」に(引用に際し、文中の「?」「!」の後に字空けを施した)、『チベットに行くと、子どもも大人も関係なく、みんな舌をぺろっと出して挨拶をします。日本人の常識からすると「からかわれるのかしら…」なんて思ってしまいますよね? ですが、チベットで舌を出すのはその反対の意味! 舌を出すのは、相手への敬いの気持ちを表しているんです。また、チベットには古くからの言い伝えで、悪魔には角があり、舌が黒いと言われています。なので、自分が悪魔でない証明として、帽子をとって角がないこと、そして、舌を出して舌が黒くないことを相手に見せるようになったと言われています。日本人の常識からする真逆なんですね~。チベット旅行の際は、舌をぺろっと出して挨拶しましょう!』とあった。しかし、少なくとも、この内容は熊楠が言うような男女の性的なそれが由来ではない(起源の考証はしないが、この引用の方が私は腑に落ちる)。

「Westropp and Wake, ‘Ancient Symbol Worship,’ 2nd ed., New York, 1875, passim」アイルランドの考古学者ホッダー・ミッチェル・ウェストロップ(Hodder Michael Westropp 一八二〇年~一八八四年)とアメリカのジャーナリストであったアレクサンダー・ワイルダーAlexander Wilder 一八二三年~一九〇八年)及び熊楠は記していないが、民俗学者(或いは人類学者)チャールス・スタニランド(Charles Staniland Wake 一八三五年~一九一〇年)の共著になる「古代の象徴崇拝」。‘Internet archive’のこちらで原本が読める。末尾の「passim」(パッシム)はラテン語で「散らされた」の意で、副詞で「引用書物の諸所に」の意。

「觀佛三昧海經」全十巻。「觀佛三昧經」とも呼ぶ。サンスクリット語やチベット語訳はなく、仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)による漢訳のみが現存する。仏涅槃後の衆生のために釈尊の色身(しきしん)の観想、大慈悲に満ちた仏心と仏の生涯の諸場面への念想、仏像の観察、さらに過去七仏・十方仏の念仏等を説く。観仏三昧によって釈尊を中心とした諸仏との見仏を実現しようとするもの。その「観仏」の背景には「般若経」や「華厳経」の思想、唯心や如来蔵の思想が窺われる(「新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。

「佛告阿難……」「佛(ほとけ)、阿難に告ぐ。我、昔、初めて成道(じやうだう)せし時、伽耶城(がやじやう)の邊(あた)り、煕連河(きれんが)の側(ほとり)に住む。時に五(いつ)たりの尼犍(にけん)有り。共に七百五十の弟子を領ず。自(みづか)ら『道を得たり』と稱し、來たりて我が所に至り、自身の根(こん)[やぶちゃん注:男根。]を以つて、身(み)を七匝(ひちさう)繞(ねう)すと云々」、「卽ち、此の語を作(な)す。『我、欲、無きが故に、身根、此(か)くのごとく、自在なること、天のごとし』と云々」、「時に世尊、諸尼犍に告げて、『汝等(なんぢら)は如來の身(しん)の分(ぶん)を知らず』と云々」、「『今、當(まさ)に汝が爲めに、少しく身の分を現はすべし』と。爾(そ)の時、世尊、空より下(くだ)り、卽ち、地上に於いて化(け)して四水(しすい)となるに、四大海(しだいかい)のごとく、四海の中(うち)に須彌山(しゆみせん)有り、佛は山下に在りて、身を正しうして仰臥し、金色(きんじき)の光りを放つと云々」、「徐(おもむ)ろに馬藏(めざう)[やぶちゃん注:仏・菩薩の体内に貫入して渦を巻いている内蔵された男根のことと思われる。]を出だして、山を遶(めぐ)ること七匝、金蓮花のごとく、花々は相ひ次(つ)いで、上(のぼ)りて、梵世(ぼんせ)に至る」。訓読にかなり苦しんだが、概ねこれで間違ってはいないと思う。以下に語注する。

・「伽耶城」インドのマカダ国の都城。現在、インド北東部ビハール州の州都パトナの南約百キロメートルのところにあるガヤー県(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の県都ガヤーに相当する。

・「煕連河」釈迦が涅槃の前に最後の沐浴をしたとされるヒラニヤヴァティ河。跋提河(ばつだいが)とも呼ぶ。クシナガラの東一キロメートルほどの位置と多くの記載があるのだが、判らない。この中央附近に仏教寺院が集中しているのでこの辺りか。しかし川は見当たらない。

・「尼犍」ゴータマ・ブッダ在世当時に活躍していた六人の代表的なインドの自由思想家たちを「六師外道」(ろくしげどう)と呼び、道徳否定論を説いたプーラナ・カッサパ、七種の要素を以って人間の個体の成立を説いたパクダ・カッチャーヤナ、輪廻の生存は無因無縁であるとして決定論を説いたマッカリ・ゴーサーラ、唯物論を主張したアジタ・ケーサカンバラ、可知論を唱えたサンジャヤ・ベーラッティプッタ、ジャイナ教の祖師であるニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)がいるが、この最後の人物(或いはその信者集団)がここに出る人物のように見える。ウィキの「六師外道」によれば、『マハーヴィーラ』は『ニガンタ・ナータプッタ』とも称し、漢訳で『尼乾陀若提子』、本名はヴァルダマーナで、『ジャイナ教の開祖』であり、『相対主義、苦行主義、要素実在説』をとった人物とあり、『サンジャヤの懐疑論が実践の役に立たないことを反省し、知識の問題に関しては相対主義(不定主義)の立場を取り、一方的な判断を排した』。『宇宙は世界と非世界からなり、世界は霊魂(ジーヴァ)・物質(プドガラ)・運動の条件(ダルマ)・静止の条件(アダルマ)・虚空(アーカーシャ)の五実体または時間(カーラ)を加えた六実体からなると』し、『宇宙はこれらの実体から構成され、太古よりあるとして、創造神は想定しない』とする。『霊魂は永遠不滅の実体であり、行為の主体として行為の果報を受けるため、家を離れて乞食・苦行の生活を行って』、業(ごう)の『汚れを離れ、本来の霊魂が持つ上昇性を取り戻し、世界を脱して』、『その頂上にある非世界を目指し、生きながら涅槃に達することを目指す』。『全ての邪悪を避け、浄化し、祝福せよ』という立場をとったらしい。彼の詳しい当該ウィキもある。参照されたい。

「プリニウスの博物志」古代ローマの博物学者・政治家(ローマ帝国の属州総督)・軍人。であったガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二三年~七九年:ヴェスヴィオ火山の大噴火の観測と被災者の救助の目的で近くの町に向かい、そこで罹災して亡くなった。文人で政治家の養子の男子と区別するために子の方を「小プリニウス」、父(養父)の彼を「大プリニウス」と称することが通行している)が著した博物学大全(Naturalis Historia)。全三十七巻。地理学・天文学・動植物学・鉱物学など、あらゆる学問分野についての知識に関して記述している。数多くの先行書を参照しており、必ずしも本人が見聞・検証した事柄だけではなく、怪獣・巨人・狼人間などの非科学的な内容も多く含まれているが、非常に面白い。古くから知られていたが、特にルネサンス期の十五世紀に活版印刷で刊行されて以来、ヨーロッパの知識人たちに愛読・引用されてきた博物学の古典である。科学史・技術史上の貴重な記述を含むほか、芸術作品についての記述は古代ローマ芸術についての資料として美術史上でも珍重された。また、後代の幻想文学にも大きな影響を与えた。私は雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)を所持している程度にはファンである。ここで熊楠が言っているのは、第十巻「一五」の「33」のワタリガラス(スズメ目カラス科カラス属ワタリガラス Corvus corax :ユーラシア大陸全域と北米大陸に分布し、本邦では北海道で冬の渡り鳥として例年観察される)。の記載の一節である。上記の訳本からその「33」の総て引く(久しぶりに役に立った。四万六千円強もしたのだから、これくらいの引用はしたいもんだ。「注」は訳注である)。

   《引用開始》

 ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを異に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。しかしアリストテレスは、エジプトのトキについてと同様、ワタリガラスについてもそんなことは嘘だ、だが問題の接嘴[やぶちゃん注:「せつし」。](よく見かけることだが)は、ハトがよくやるように、接吻の一種だ、と言っている。ワタリガラスは自分たちが前兆で伝えることの意味を知っている唯一の鳥であるように思える。というのは、メドゥスの客が殺されたとき、ペロポンネソスとアッティカにいたワタリガラスはみんな飛び去ったから。彼らが喉がつまったかのように声を呑み込むような鳴き方をするときは、それはとくに凶兆だ。

 注1 メドゥスはメディアの息子、メディア人にその名を与えたとされる。

   《引用終了》

さて、アリストテレスの反駁であるが、岩波の「アリストテレス全集」の動物学パートの三巻分は所持している。調べてみたところ、見つけた。これは「動物発生学」(一九六九年刊の「アリストテレス全集」第九巻所収。島崎三郎訳)の第六章の冒頭部の一節である。〔 〕は訳者による補足である(これも電子化注で役立ったのは久しぶり!)。

   《引用開始》

 鳥類の発生についても事態は同様である。すなわち、「オオガラスとイビスは口で交わり、四足類のイタチ口で子を産む」という人々があるからである。これらは、現にアナクサゴラスやその他の自然学者たちのうちの或る人々も述べているところであるが、あまりに単純で軽率な説である。鳥類について見ると、人々が推理〔三段論法〕によって誤った結論に達してしまうのは〔次の点が根拠になっている〕。すなわち、オオガラスの交尾はめったに見られないが、互いに嘴で交わることはしばしば見られ、これはカラスの類の鳥ならみなすることであって、飼い馴らされたコクマルガラスを見ればよく分かる。これと同じことをハトの類もするが、彼らは明らかに交尾もするので、そのためにこんな話は起こりようがなかったのである。カラスの類は少産の〔卵を少ししか産まぬ〕動物に属するから、好色ではないが、彼らも交尾するところをすでに観察されている。しかし、精液がいかにして栄養分と同じように、何でも入ってくるものを調理する胃を通って子宮に達するのか、ということを人々が推論してみないのはおかしい。しかも、これらの鳥類にも子宮があるし、卵〔巣〕は下帯〔横隔膜〕のそばに見られるのである。また、イタチにも、他の四足類と同じ様式の子宮がある。とすると、この子宮から口までどうやって胎児は進むのであろうか。しかし、イタチがその他の裂足類[やぶちゃん注:中略。]と同様に、まるで小さい子を産み、しばしばその子を口にくわえて運ぶということが、こんな見解を作り出した所以なのである。

   《引用終了》

ここに出る「オオガラス」については、訳注があり、『日本ではワタリガラス Corvus corax 』(斜体でないのはママ。以下も同じ)とあるので問題ない。さらに、「イビス」については、『「動物誌」第九巻第二十七章』『によると、エジプト産の鳥で、白いのと黒いのがあり、白いのはIbis religiosa, 黒いのはI. falcinellus(=igneus)とされる。いずれも日本のトキに近い鳥である』とある。「コクマルガラス」は、Corvus monedula とされる。これはカラス属ニシコクマルガラスで、分布は北アフリカからヨーロッパのほぼ全域・イラン・北西インド及びシベリアと広範囲に及ぶものの、本邦ではたった二例が北海道で記録されただけの迷鳥である。

「紀州東牟婁郡請川村」底本の初出も「淸川」であるが、そのような名の地名は牟婁郡にはなく、「選集」の「請川」で調べると、牟婁郡にあったので、それを採った。位置は「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」 にある「和歌山県東牟婁郡請川村」(うけがわむら)で旧村域が確認出来る(現在は田辺市。熊野本宮大社の南方直近。懐かしいな)。

「支那人、烏が口を接するを見るの多きより嗚の字を以てキツスを表す」大修館書店の「廣漢和辭典」には「接吻」の意は載らない。所持する「岩波中国語辞典」にも、ない。ネットの中日辞書にも、そんな用法は載っていない。ところが、中文サイト内の殷登國氏の「打開中國接吻史:嗚、嗚、做了個呂字,指的是同一件事?」という文章にキスとしての「嗚」の字の用法が載り、しかも、熊楠が引いている漢籍や仏典と同じものも掲げられてあった! 而して熊楠が示した文言小説集「世説新語」での用法によって、魏晋南北朝(一八四年~五八九年)の南朝宋(四二〇年~四七九年)の時代には一般的に使用されていたことは確実で、もっと古い時代に既に俗語としては盛んに使用されいた可能性がすこぶる高い感じがする。

「根本說一切有部毘奈耶」「こんぽんせついっさいうぶびなや」(現代仮名遣)と読む仏教経典。全五十巻。唐の七〇三年(初唐末期)に義浄によって漢訳された。部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に、教訓物語を挿入した大部なもの。

「鄔陀夷……」「鄔陀夷(うだい)、彼(か)の童女の顔容姿(がんやうし)の媚(こび)を覩(み)て、遂に染心(ぜんしん)[やぶちゃん注:煩悩に穢れた心。ここは性欲。]を起こし、卽ち、彼(か)の身(み)を摩觸(ましよく)し[やぶちゃん注:撫で触り。]、その口を嗚唼(をしやう)す」。「鄔陀夷」不詳。釈迦の弟子の一人で「勧導第一」と称された人物がいるが、この話では、ちょっと違うように思われる。当該ウィキによれば、『仏典には』この「鄔陀夷」『ウダーイの名前が非常に多く登場し、似た名前もあるので混同しやすい』として、別な三名を挙げてある。「唼」には「すする・ついばむ」の意がある。

「四分律藏」仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律(戒律)。十誦律・五分律・摩訶僧祇律とともに「四大広律」と呼ばれる。この四分律は、これら中国及び日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、殆んどが、この四分律に依拠している。

「時有比丘尼……」「時に比丘尼有り。白衣(びやくえ)の家内に住みて在り。他(そと)に夫主(あるじ)を見るに、婦(をんな)と共に口を嗚(を)し、身體(からだ)を捫摸(もんばく)し[やぶちゃん注:撫でさすり。]、乳(ち)を捉(つか)み捺(お)す」。

「佛說目連問戒律中五百輕重事經」単に「五百問」と通称される。戒律関連の仏典の一つ。

「聚落中……」「聚落(じゆらく)の中(うち)にて、三歳の小兒を抱きて、口を嗚(を)す。『何ごとを犯せるか。』と。答へて、『堕を犯せり』と。」

「外典」「げてん」。古くは「げでん」。世間に行なわれる仏教以外の典籍を指す。

「賈充妻郭氏酷妒……」最後に「世說惑溺篇」とある通り、この「世說」は「世說新語」(せせつしんご)の本来の書名。南北朝時代の南朝宋の臨川王劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集。「宋史」(一三四五年完成)の「芸文志」に所収される際に「世説新語」の称が現れた。「世説新書」とも呼ばれる。私が好きな小説集の一つである。引用は「惑溺篇」の初めの方に載る。訓読する。

   *

 賈充(かじゆう)[やぶちゃん注:賈充(二一七年~二八二年)は三国時代の魏から西晋にかけての武将・政治家。字は公閭(こうりょ)。妻に李婉・郭槐(宜城君)、子に賈黎民(れいみん)、娘に賈荃(せん)(司馬攸(しゅう)の妃)・賈濬(しゅん)・賈南風(西晋の第二代恵帝の皇后)・賈午(韓寿の妻)がいる。この郭氏賈南風の生母である。]の妻[やぶちゃん注:私の所持するものでは「後妻」とある。]郭氏、酷(はなは)だ妒(と)なり[やぶちゃん注:嫉妬深かった。]。男兒あり、名は黎民、生れて載周(さいしう)なり[やぶちゃん注:その時、丁度、満一歳であった。]。充、外より還るに、乳母(うば)、兒(こ)を抱(いだ)きて中庭に在り。兒、充を見て喜踊(きよう)す[やぶちゃん注:はしゃいだ。]。充、乳母の手の中に就(つ)きて之れを嗚(を)す。郭、遙かに望み見(み)て、『充は乳母を愛せり』と謂(おも)ひ、卽ち、之れを殺す。兒、悲思啼泣(ひしていきふ)して、他(ほか)の乳(ち)を飮まず、遂に死せり。郭、後、終(つひ)に、子、無し。

   *

「說郛三一所収玄池說林」「說郛」(せっぷ:現代仮名遣)は元末明初の陶宗儀による漢籍叢書。巻数は元は百巻であったらしい。様々な時代の書物を含むが、特に宋・元の著作が多く集められており、他には見えない筆記小説や元代の貴重な書籍を含む。題名は揚雄「法言」問神篇の『大いなるかな、天地の萬物の郭たるや、五經の衆說の郛たるや』(「郛」は「町の周りを囲む城壁」の意)に由来する。「玄池說林」は恐らく志怪小説的な随筆のように思われる。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF)の「説郛」の72コマ目で佚文が読める。

「狐之相媚必先吕」「以口相接」「相ひ媚(こび)るに、必ず、先づ、吕(りよ/ろ)たり【口を以つて相ひ接すなり。】。」。この「吕」は「呂」の異体字であり、古代の竹管で作った楽律を調整する器具(管の長さによって音の高さを定めて低音の管から数えて奇数の六つの管を「律」、偶数の六つの管を「吕」と称したのであって、熊楠の言うような「接吻」を即物的に意味する「口」と「口」の意ではなく、思うに、女に化けた狐がまぐわう際に挙げる高い声(本邦なら狐は「かうかう」という高音の声を発する)を指しているように私は思う。Higonosuke氏のブログ「黌門客」の「富士崎放江『褻語』」でこれを問題にしておられ(注記号は除去したので、注はリンク先を見られたい)、

   《引用開始》

 阿辻哲次『タブーの漢字学』(講談社学術文庫2013,もと講談社現代新書)は、「『也』を『女陰』という意味で、文章の中で実際に使っている例はまったく残っていない」(p.77)、「『女陰』という意味を表すために『也』を使った例は実際には存在しない」(p.78)と書いたうえで、『日本霊異記』下巻第十八に、「門構えに也」字をかかる意味で使った例があることに言及しているが、すくなくとも江戸期の書物のなかに、「也」を単独で「女陰」の義に用いたものがあるという事実は面白い。

 実は、阿辻先生も書かれているのだが、『説文解字』巻十二には、「女陰也象形」とある。従って源内の使用例は、説文学の浸透に因るものでもあろうか。

 次に、「呂の字」(p.62)。短いので全文を引く。[やぶちゃん注:以下引用部を「*」で挟んだ。]

   *

 『玄池説林』という支那の本に「狐の相媚るや必ず先づ呂す」とある。狐は淫獣で、交尾期が来ると頗る性慾放肆の態を為すといわれている。「呂す」は即ち口と口を接する義で、接吻のことである。外国からキツスという語が渡来した時、かかる簡単で、しかも要領を得ている一字名があるのに、ことさらにむつかしい接吻などという文字を選んだ当時の漢学者の気が知れぬと、世界的博識家紀州の南方熊楠先生が話された。ただし呂という字は『康煕字典』にないが、音はクであろうと附言されたが、『字源』にはリヨ・ロとある。

   *

 「呂」などというありふれた字が『康煕字典』にない筈はない。念のため確認してみると、「丑集上 口部」四畫のところに出ている。熊楠ほどの人物がそれに気づかなかったというのは、どうにも解しがたい。

 そも『玄池説林』は、抜書としてではあるが、『説郛』巻第三十一に収めてある。逸書とおぼしく、熊楠もこの「説郛本」を見たのであろう。早稲田大図書館蔵書の当該箇所を確認すると、「狐之相媚也必先呂」[やぶちゃん注:私が見る限り、それは「」であって「呂」ではない。上の「口」の第一画が下に少し下に延びているが、それは下方の「口」と同じであり、「呂」のような中間部での四画目ではない。甚だ不審である。とあり、「以口相接」なる割注も見える。

 これによれば、『玄池説林』中の「呂」字というのは、正確には、「口」を上下に重ねた形と知れる。確かに、「呂」字が「口」を上下に重ねた形で書かれることは珍しくなく、いやむしろ、活字でも手書き字でも当り前のようによくあることで、偶々手許にある『大廣益會玉篇』(澤存堂本、叢書「古代字書輯刊」に収める)をひもとくと、「呂」字は「呂」部にあり、「口」を上下に重ねた形で出ているし、江守賢治『解説字体辞典【普及版】』(三省堂1998)は、「口」を上下に重ねた形を「伝統的な楷書の形」とし、「呂」を「康煕字典の字体」(p.640)とする。

 したがって、『玄池説林』中の字を、放江が「呂」だと「誤認」したのは已むをえないことである。

 しかし、熊楠はそれとは別の字を想定していたのではないか。「音はクであろう」と述べた根拠が分らないが、『玄池説林』中の字は、態々「以口相接」という割注を附する以上、これは戯字であると考えられ、「呂」とは区別されるべきではないか。

   《引用終了》

私はHigonosuke氏の見解に反論もしたくない代わりに、賛同もする気はない。読者の判断にお任せする。

「明治十九年赤峰瀨一郞氏が桑港の景物を誇張して吹聽せし世界之大不思議とか云る書」書名がなかなか検索に掛からないので、著者名赤峰瀬一郎(生没年未詳)で限定してみて、訳が分かった。熊楠も「とか云る書」と言っているのに気づくべきであった。これは書名が大きく異なり、「米國今不審議」が正しい(「不思議」ではなく「不審議」である)。明一九(一八八六)年十月實學會会英學校刊で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。その「第五國風短歌」の章の「國風二章」の一節に以下のように出る。短歌評釈は底本では、全体が二字下げであるが、引き上げた。草書崩しの表記が多いが、総てひらがなで示した。踊り字は正字化した。

   *

口すふて別れむ夜半のつれなさを

    わすれやはするけふの寺ゆき

この歌の意味をさとるには西洋接吻(くちすひ)の風俗をよく知らざる可らず

日本にては男女の仲にても餘程意味深長なる交際の塲合に到らざれば中々口をすふ事をせず且つ口を吻ふても舌をいだして接吻するは日本の風俗なる由なれども西洋にては然らずして男と女は抱きあひ或は差しよりて只唇を互に着(つ)けあはせて頰に接吻するなり

又しばしば男抔は一人が他入の額或は頰を吻ふて親愛の情を表す事あり

又羅馬法王の如きは足の指(ゆび)を英國女王は手の指を椅子に坐しながら人の吻はすると云ふ

かく接吻の禮式は西洋の社會にて欠くべからざる物なり特に女等が集會する時は其内心にては水火の如く敵對之者たりとも陽には此禮義を正しく行ふわ[やぶちゃん注:ママ。]常なり

然し通例は只手をひくのみなり若し又入中にて男が親子或は姊妹にあらね他人の妻女と接吻する時は、忽ち惡しき名高く成るは世の習慣なれば人々よく注意すれども妻と妻、處女と處女の會合に接吻の行るゝは中々盛なる者なり

扨この歌の心は昨夜逢ひみて別れし折に口をすひし其別れぎはのつれなさも今はお寺にゆき戀人に逢ふと思へばことごとくわするゝことかなと云ふ義なり

   *

なお、調べてみると、この人物、「米國政教之内幕」などというものもものしており、また、「データベース『えひめの記憶』」にある「愛媛県史 学問・宗教」(昭和六〇(一九八五)年発行)の「第二編 宗教」の「第四章 キリスト教」の「第三節 プロテスタント(新教)諸教会」の「2 旧組合教会」の記載中に、プロテスタントの』『伝道が定着し』、『教会が最も早く設立された』『今治で』は『連日』、『多くの求道者がきたり、聖書を研究して講話を聴き、その中には洗礼を受けたいと願い出る者もあ』って、明治『一一年五月』、『有志約三〇名が集まって「愛隣社」なるものを結成し』、『求道に努めた。そこで、組合教会内国伝道会社は、赤峰瀬一郎を』今治に『派遣し』、『約二か月滞在させた』とある人物が、同一人物である可能性もあるように思われる。

「ルキアノスの妓女對話」「ルキアノス」(一二〇年乃至一二五年頃~一八〇年以後)はギリシャ語で執筆したアッシリア人風刺作家。恐らくは「遊女の対話」などと訳されているものがそれらしいが、私は読んだことがない。

「カマ經」古代インドの性愛論書(カーマ・シャーストラ)で、推定で凡そ四世紀から五世紀にかけて成立した作品とされ、現存するものとしては最古の経典。エロい私は高校時代に読んだ。

「‘Le Kama Soutra,’ tran. E. Lamairesse, Paris, 1891, p. 41」ピエール=ウージェーヌ・ラマレス(Pierre-Eugène Lamairesse 一八一七年~一八九八年:フランスの土木及び鉱山技師で、一八六〇年から一八六六年にかけてインドに於いてダムや灌漑プロジェクトの建設を担当した一方、古代インドの作品に興味を持ち、それらをフランス語に翻訳したことで最もよく知られている)による既刊の英訳・仏訳に基づく二番目のフランス語訳版「カーマ・スートラ」である。フランス語原本の当該ページは‘Internet archive’のこちら

「醒睡笑」落語家の元祖とも言われる戦国から江戸前期の浄土宗西山派の僧で茶人・文人でもあった安楽庵策伝(天文二三(一五五四)年~寛永一九(一六四二)年)が著した、戦国時代の笑話・奇談集。全八巻。元和九(一六二三)年成立。写本(広本)と版本(略本・狭本)があり、前者には千三十九話、後者には三百十一話の小咄(こばなし)を収める。跋文によると、当初は譜代大名で下総関宿藩初代藩主板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)の所望によって策伝が噺しをしたに過ぎなかったが、それがあまりにも面白かったため、草子にするように重宗に勧められて作ったものとあり、寛永五(一六二八)年三月十七日に重宗に進呈されている。本書は「落語の教科書」とも称され、高い評価を受けている。引用は、巻之六の一節だが、大事なオチが切られてしまっている(熊楠らしい意地悪な確信犯である)。鈴木棠三校訂岩波文庫版(一九八六年刊)を恣意的に正字化して示す。

   *

「兒といねたるに、法師の口をすふとて、如何ありけん、齒を一つすひ拔きたり。膽をつぶし、暇(いとま)ごひまでもなく、遁(に)げて歸り、靜かに火をとぼし見れば、麥飯にてぞ候ひける。ふたしなみなお[やぶちゃん注:ママ。]兒(ちご)のありさまや。

   *

この「ふたしなみ」は「不嗜み」(「ぶたしなみ」とも読むが、その場合は「無嗜み」とも書く)で「心得のないこと・普段の用意や心掛けが足りないこと」を言う。

「犬筑波集」(いぬつくばしゅう:現代仮名遣)は室町後期の俳諧集。山崎宗鑑編。享禄(一五二八年~一五三二年)の末から天文(一五三二年~一五五五年)初年前後の成立かとされる。卑俗で滑稽な表現を打ち出し、俳諧が連歌から独立する契機となった書で、「俳諧連歌抄」「新撰犬筑波集」とも呼ばれる。引用は所持する「新潮日本古典集成」(昭和六三(一九八八)年刊。木村・井口校注)では(一九五・一九六番)、

   *

 首を延べたる明(あけ)ぼのの空

きぬぎぬに大若俗と口吸ひて

   *

とある。頭注に、訳して『首をのばしたのである。空も明け方になって。――それは実のところ、朝の別れに大若衆に接吻をしようとして。』とされ、『朝、何かのことで首を延ばしているのを、相手が自分よりも背丈が高い大若衆なので、伸び上がり首をのばして別れの接吻をしている姿に見立てた面白さ。背丈を逆にした趣向。』と評釈されてある。

「御伽草子」「中の物草太郞」御伽草子は本来は単一の作品(集)を表わす固有名詞ではなく、室町時代を中心に栄え、江戸初期には「御伽物語」や「新おとぎ」など「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された。「御伽草子」の名で呼ばれるようになったのは十八世紀前期、概ね、享保年間(一七一六年~一七三六年)に大坂の板元渋川清右衛門がこれらを集めて、「御伽文庫」又は「御伽草子」と称して二十三編を刊行してからのことであった。但し、これも十七世紀半ばに、彩色方法が異なるだけで、全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本であったのだが、元々「御伽草紙」の語が渋川版の商標のようなものであったことから、当初はこの二十三種のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの二十三種に類する物語をも指すように変化した(ウィキの「御伽草子」に拠った)。その一篇である「物草太郞」は当該ウィキを読まれたい。大学の時、必修の「日本文学演習(近世)」の一つで、一年間付き合った結果、この話は生涯続くひどいアレルギとなった。同じ演習でも「雨月物語」の「菊花の約」の一年間はとても楽しかったのに。岩波大系本(昭和三三(一九五八)年刊・市古貞次校注)によれば、女の歌「離せかし網」(あみ)「の糸目」(いとめ)「の繁ければ」「此手を離れ物語せん」の「網目」について、『網の糸と糸との間のすきま。ここは網にかかっているように厳重に逃げ出すすきがないことと、人目が多いことをかけている。はなして下さい。網の糸目がつまっていて逃げ出すすきがないので、そうして人が多勢みているので、どうか手をはなして下さい。あなたの手を離れて(はなしてもらって自由になって)、お話をしましょう』とある。

「東北院職人歌合」総勢十名の職人たちを左右に番(つが)えて、経師(きょうじ:表具師)を判者として「月」と「恋」を題に和歌を詠み競わせた職人歌合絵の現存最古の作。参照したジャパンサーチ」のこちらによれば(絵巻の画像も視認出来る)、伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう 永仁五(一三七二)年~正平三(一四五六)年)筆とされる奥書によれば、花園院(永仁五(一二九七)年~貞和四(一三四八)年)『周辺で制作されたという。もとは京都の門跡寺院曼殊院(まんしゅいん)に伝来した。鎌倉時代の初め』、建保二(一二一四)年の秋の頃、『京都にある藤原氏ゆかりの寺、東北院の念仏会』『に集まった職人たちが、貴族にならって歌合をしたという設定の歌合絵で』、『職人たちが左右に分かれて「月」と「恋」の歌を詠み、経師(表具や)が判者となって、歌の勝ち負けを決める歌合が描かれてい』る。『左右それぞれが向き合って座るように描かれているのは、伝統的な歌合絵の形式にならってい』るものの、『登場するのはみやびな貴族たちではなく、医師に陰陽師』、鍛冶屋と『大工、刀磨(とぎ)師と鋳物』『師、巫女』『と博打打ち、海人と行商人の計』十『人の職人たち』で、『身ぐるみはがれた博打打ちの哀れな姿など、当時の風俗をリアルに写して』おり、『詠まれている歌の内容も、お笑いやパロディ満載』で、『絵と同様、当時の職人たちの風俗や心情を伝えて』いる。例えば、『博打打ちの恋の歌』「我こひ(恋)はかたおくれなるすぐろくのわれても人にあはんとぞおもふ」と『百人一首にもある崇徳院の有名な』「瀨をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」の『パロディ』となっている。』『それに対する年老いた巫女の歌は』「君とわれくちをよせてぞねまほしき皷(つづみ)もはらもうちたゝきつゝなん」と、『もはや、すさまじい世界』が展開しているとある。

「今昔物語一九に、大江定基愛する所の美婦死せる其屍を葬らず、抱き臥して日を經る内口を吸けるに、女の口より惡臭出しに發起して遂に出家せりとあり」「大江定基」は出家して寂昭(じゃくしょう 応和二(九六二)年頃?~長元七(一〇三四)年:「寂照」とも表記)を名乗った平安中期の天台僧。参議大江斉光(ただみつ)の子。因みに、彼の出家の最初の動機は「今昔物語集」(巻第十九 參河守大江定基出家語(參河守大江の定基出家の語(こと))第二)や「宇治拾遺物語」(卷第四 七 三川の入道(にうだう)遁世の事)などで知られるが、愛する妻が死んでも、愛(いと)おしさのあまり、葬送せず、その亡骸の口を吸っていたが、遂に遺体が腐り出し、そのおぞましい腐臭に泣く泣く葬ったとする話である。後者は私の「雨月物語 青頭巾  授業ノート」で電子化しているので参照されたい。]

2021/03/07

南方熊楠を触発させて「四神と十二獸について」を書かせた八木奘三郎の論考「四神の十二肖屬との古𤲿」

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「「四神と十二獸について」を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った、八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古𤲿」である。「肖屬」(せうぞく(しょうぞく))とは「見える姿として象形された諸像」の意であろう。

 筆者八木奘三郎(慶応二(一八六六)年~昭和一七(一九四二)年:南方熊楠より一つ年上)は考古学者。江戸青山(現在の東京都港区青山北町)で丹波国篠山藩(現在の京都府内)藩士の子として生まれた。明治二四(一八九一)年、帝国大学理科大学人類学教室に、標本取り扱い係として雇用され、坪井正五郎や若林勝邦らから教示を受けた。明治二七(一八九四)年、千葉県香取市の阿玉台(あたまだい)貝塚を発掘調査したが、この時、同貝塚から出土した縄文土器(阿玉台式土器)が、茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚出土の縄文土器とは同じ形式だが、東京都品川から大田区にかけての大森貝塚出土の土器とは異なる形式であることに気づき、阿玉台・陸平(おかだいら)両貝塚の土器と、大森貝塚の土器との形式的な違いを、年代差によるものであると結論し、八木は大森貝塚の土器の方が年代的に古く、阿玉台が新しいとする編年を考えたが、その後の研究では順序が逆であることが判明している。しかし、「考古学黎明期であったこの時期に、この見解を導きだしたのは非凡である」という考古学者江坂輝彌による評価がある。明治三五(一九〇二)年、台湾に渡り、台湾総督府学務課に勤務し、大正二(一九一三)年には朝鮮半島に渡り、李王家博物館・旅順博物館・南満州鉄道に勤務した。昭和一一(一九三六)年に帰国して阿佐ヶ谷に住んだ。縄文時代だけでなく、朝鮮半島の古代遺物や古墳時代に関しても、多くの研究業績があり、徳富蘇峰と交流があった(以上は当該ウィキに拠った)。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。なお、八木氏の表記は南方熊楠と似て、句点が甚だ少ない。また、頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。傍点「●」は太字に代えた。引用の一部には不審があったため、原本等を確認して訂した箇所があるが、特にそれは指摘していない。初出と対応させれば、自ずとそれはお判り戴けることと思う。]

 

   ○四神と十二肖屬との古𤲿

           八木奘三耶

[やぶちゃん注:以下の序辞は底本では全体が一字下げである。]

 左の一篇は予が滿洲歴史地理學會の發會式に際して講演せしものなり、固より咄嵯の記述なるが上に資料乏しきを以て其詳細を盡すこと能はざれ共之を棄るは又鶏肋の感なきにあらず、因て本誌に掲げて看者の一粲に供せり、若し多少益する所あれば幸甚なり。

[やぶちゃん注:「鶏肋」「後漢書」楊修伝による故事成句。鶏の肋(あばら)骨には食べるほどの肉はないが、捨てるには惜しいところから、「たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの」の喩え。「一粲」は「いつさん(いっさん)」。「粲」は「白い歯を出して笑うこと」。一笑。謙辞。]

 予は本日四神と十二肖屬との古書に就て述んとする考へなるが、元來此二者は俱に支那に發源して更に近隣諸國に移りし風習なれば、其本源を知るには是非とも同國の上代に溯りて硏究せざるを得ず、因て先づ四神と十二肖屬との起源、及び其ものゝ意義、幷に用途等に就て大體の要點を述べ、次に實物上の種類變化等をも說ん[やぶちゃん注:「とかん」と訓じておく。]と欲す。

 

    (一) 四神の名稱と意義

 支那にて四神と稱するは、玄武、朱雀、靑龍、白虎の四者にして、之を天地四方に配屬せしものなり、而して朱雀の赤き雀、靑龍の靑き龍、白虎の白き虎たることは此文字上にて既に明かなれども、玄武の文字は不明なり、而も右は「和漢名數」[やぶちゃん注:貝原益軒編の和漢の命数集成。但し、ここで引かれいるのは、その続編(上田元周重編)で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらPDF)の17コマ目の左頁の「○四神相應の地」に出る。]に朱子の語を引て。

 玄武謂龜蛇、位住北方故日ㇾ玄、身有鱗甲、故曰ㇾ武。

とあれば、其身體に甲冑の如き鱗甲ある爲め斯く名けたる譯にして、他の鳥獸名とは異るを知る可し、而して何故四神に⑴龜蛇、⑵雀、⑶龍、⑷虎の四者を表せしやと云ふに、斯は天體の星形に象れりとの說やり、今其一例を曰んに。

 伊藤東涯の制度通に。[やぶちゃん注:「制度通」は中国の制度の沿革及び、それに対応するところの本邦の制度との関係を各項別に記述した歴史書。儒学者伊藤仁斎の長男であった儒学者伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)の著。成立は享保九(一七二四)年。]

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]

蒼龍、朱雀、白虎、玄武ヲ四神相應ト云テ四方ニカクノゴトヰ鬼神ノ象アリト思フハ謨リナリ、本二十八宿ノ星象(卽ち形狀なり)ヨリ起ル、王者ハ天ニ體シテ行フニヨリテ、旗常ニコノ紋ヲ繪ガヰテ四方ノ星象ニカタドル、角・氐・房・心・箕・[やぶちゃん注:中黒はママ。]ノ七宿ソノ並ビヤウ龍ノ如シ、斗・牛・女・虛・危・室・壁ノ七宿ジノ並ビヤウ蛇ノ龜ヲマトフガ如シ、奎[やぶちゃん注:「けい」。]・婁・胃・昴[やぶちゃん注:「ぼう」。]・※・觜・參ノ七宿ソノ並ビヤウ虎ノ形ノ如シ、井・鬼・柳・星・張・翼・軫[やぶちゃん注:「しん」。]ノ七宿ソノ並ビヤウ短尾ノ鳥ノ如シ、是ヲ四方ノ色ニ配シテ蒼龍、朱雀、白虎、玄武ト云ナリ、ソノ詳ナルヿ[やぶちゃん注:「事(こと)」の約物。]爾雅釋天ノ疏ニアリ、云、四方皆有七宿、各成一形、東龍形、西方成虎形、皆南乄[やぶちゃん注:「シテ」の約物。]ㇾ首而北ㇾ足、南方成鳥形、北方成龜形皆西ㇾ首而東ㇾ尾。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「已」+(下)「十」。「畢」の異体字。]

とあり、以て四神の由來と首尾の方向とを知る可し、然れども四神の名稱は漢以前の書に見へざれば、同代に此稱呼ありしや否やは明かならず、又其起源も初めより四者一時に生ぜしや否や判然せず、爾雅には春爲蒼天、夏爲朱明、秋爲白藏、冬爲玄英、とありて、此書は世に周公の作と稱すれば一見周初已に四季を四色に配せし事あり、隨て四神の四色も甚だ古く、又祖其起源(四神の)も周代に在らんかと思はるれども、其實爾雅は漢初の作ならんと云ふ說ありて、之を周初とは斷ず可からず、又尙書以下の書を按ずるに、五行の水・火・木・金・土を中央及び四方に配し、又木・火・金・水を東・西・南・北・春・夏・秋・冬に當てしことは書經、樂記・管子以下の書に見ゆれども、靑・赤・黑白の色を曰はず、唯だ周禮に方位と色とを記せし例あり、然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨て爾雅の如きも、其漢初に出しことは略ぼ推測するに足る可く、又色と方位、色と四神名との起源も彼の漢代に在ることを察するに足る可し、而して四神の圖象も亦多くは僥代の器物上に創まれり[やぶちゃん注:「はじまれり」。]、但し秦瓦[やぶちゃん注:「しんぐわ(しんが)」。]と稱する瓦當[やぶちゃん注:「ぐわたう(がとう)」。軒丸瓦(のきまるがわら)の先端の円形又は半円形の部分。文様のある面。]中に四神を配せし例[やぶちゃん注:「れい」。]金石索に見ゆ、去れ共此もの果して秦代なりや、又右の圖が四神に相違なきや、是等の點甚だ疑はしき爲め今採らず、又史記の始皇本紀に

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

始皇推終始五德之傳、以爲周得火德、秦代ㇾ周、德從所ㇾ不ㇾ勝、方今水德之始ナリ(中略)衣服、旌旗、節旗皆上ㇾ黑。

と記すれば水德と黑、水と北方との關係上方位と色彩との結合は已に泰代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明にする必要あり、又假令右が秦代に在ること疑ひなしとするも、猶周代の分は不明なり、故に予は其確實と信ずる點に從ひて漢代と云へり。

    (二) 十二支の起源と右の意義

 次に十二支の起源と其意義とを曰んに、斯は十干と相伴隨せること常なれば、便宜上二者併せ說くことゝなす可し。干支の原委を說て遺憾なしと云ふ書は世上多から

ざるが如し、而も予の知る所にては「淵海子平」[やぶちゃん注:現行の占いの四柱推命の元である宋の徐子平暦(九六〇年~一二七九年)撰になる算命学的易学書。]の記事尤も細密なるを覺ゆるにより先づ之を擧ぐ可し。

 同書「論天干地支所ㇾ出」の章に曰く。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

ルニ、奸詐生、妖怪出、黃帝時有蚩尤神、擾亂、當是之時、黃帝甚憂民之苦、遂戰蚩尤於涿鹿之野、流血百里、不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之。不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之、黃帝於ㇾ是齋戒、築ㇾ壇祀ㇾ天、方ニシテㇾ丘禮スㇾ地、天乃降十干、十二支、帝乃將十干ノ圓、布天形、十二支地形、始以ㇾ干爲天、支爲ㇾ地、合光仰職門、放ㇾ之、然後乃ムル也、自後有大撓氏、爲後人憂ㇾ之曰、嗟吁黃帝乃聖人ナリ、尙不ㇾ能ㇾ治二其惡煞一、萬一後世見ㇾ炎、被ラバㇾ苦、將何奈乎セントスル、遂に將天干十二支、分配シテスト六十甲子云。[やぶちゃん注:「布」「しきて」か。]

 此書の記事によれば十干、十二支は天降物の如くなれども、是等は彼の河圖洛書[やぶちゃん注:「かとらくしよ」。古代中国に於ける伝説上の瑞祥とされる河図(かと)と洛書(らくしょ)という超自然的現象を総称したもの。「河」は黄河、「洛」は洛水を表す。易の八卦や洪範九疇の起源とされている。]と同樣信するに足らず、又其起源を黃帝とするは支那事物起源の通弊なれば採る可からず、而も十干を天圓と云ひ、十二支を地方と稱することは他書の謂はざる處にして、稍や面白き點なり、何となれば十二支を地方に表せし例は漢代の古鏡と璧の一種及び其記事等に往々散見すればなり、併し孰れにしても此干支の論は採る可からず、寧ろ事物起源に擧ぐる所却て正しかる可し、同書に曰く。

[やぶちゃん注:以下同前。]

甲子。世本日、大撓造ルト甲子、呂氏春秋曰、黃帝師大撓、黃帝内傳曰、帝既斬蚩尤、命ジテ大撓甲子、正ㇾ時、「月分章句醫曰、大撓探五行之情、占斗剛ㇾ建、於ㇾ是始作甲乙、以、謂之幹、作子丑一[やぶちゃん注:底本は「ㇾ」。後文から誤りと断じて訂した。]、謂之支、支幹相配シテ以成二六旬

 此記事の圓文は別に論するの價値なしと雖も、月介章句に「作甲乙、以名ㇾ曰、作子丑」と云ふ語は頗る正確なるが如し、何となれば十干の數は元來十進法にして十位を整敎とすれば、日數に當てし名に相違なく又十二支の數は一年十二ケ月より來れるにより十二敷と定まれるに相違なし、而して月令に「占斗剛所ㇾ建、於ㇾ是始作甲子以名ㇾ曰、作子丑以名ㇾ月」とあるによれば、一旬卽ち十日の數も、一年十二ケ月の數も俱に北斗の劍先が運行する工合によりて命名せしが如くに思はれ、又十二支は月の出が大抵三日目より見ゆるにより(二日目より見ゆる事もあれど)其日より數へて十四日迄を十二に當て、滿月の十五日は盈虛の中心に置きし樣にも思はるれども、元來支那の天文曆數等に就ては予輩門外漢の容易く知り得ざる點あり、隨て其孰を孰れとも決し得ざれ共、何にせよ十干が日數より出で、十二支が月數より生ぜしことは略ぼ推測し得らる可く、又彼の淵海子平に十干を天圓に出で、十二支を地方に出ると云ふ事は、其起源說としては的中せざることを知る可し。(但し應用の古きは事實なり)

 次に十二支に十二獸名を當てしことは彼の事物起源に事始を引て。

 黃帝立子丑十二辰以名ㇾ月、又以十二名獸ㇾ之。

とあれども、之は支那人側の解釋にて、實は印度の十二名獸が支那に移りて彼の十二支と結合せるが如し、斯は宿曜經なぞに記載しあれども、巳に我邦人の言明せし文章あれば、次に之を述ることゝなす可し。

 山岡俊明の類聚名物考に曰く。

[やぶちゃん注:以下同前。]

飜譯名義集に、「此十二支爲中渠之達觀也、と見ヘたり、經には鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鷄・狗・猪の文字を用ゐ、此十二物は大權の聖者にして、年・月・日・時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度す」と說けり、此の十二獸の名を支那にて古く用ゐ居たる子丑等の字に配當したるを以て我國にて、ねうしの訓を充てたるなり。

山岡の說は當時に於て卓見と謂ふ可く、彼の鼠、牛以下の獸名は確に印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せしことは疑ひなかる可きも、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより、右は後に說くことゝして以下五行の起源と配置とを一言す可し。

    (三) 五行の起源

 支那に於ける五行の記載は書の洪範に見ゆる文を以て始と爲す、然れども其實由來の古きことは二典に五嶽を置き、五歲に一度巡狩し、又五典、五常を敎へ、五刑を備へ、其他五瑞、五玉を班ち、五岐を修むるなど云へる事は皆な五行の思想を示すものなり、又居所に四門を設け、國に四岳を置くが如きも、皆な五數より來るものにて、中央の己れも其數に加はる事は明かなり、已に二典時代に斯る思想の見ゆる以上は假令五行の名なしと雖も其實ありしことは疑ひなく、隨て洪範にも箕子が「我聞在昔(ムカシ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。以下の二箇所も同じ。]、※陻(フサ)洪水、汨(ミダ)其五行、(天帝)乃震怒」[やぶちゃん注:「※」―「魚」+「糸」。]云々と云へるならん、巳に支那最古の文章と稱せらるゝ二典(近來此文章を若く見る人あり、未だ其詳細を聞かざれども別に確證ありとも思はれず、且つ現存の他書を二典已前に當る次第にもあらざれば其最古たる點は動かざるなり)以下に五行思想の現はるゝ以上は今假に其起源を知ること能はざれども、年代の悠久なる點は疑ふ可からず[やぶちゃん注:ここ、行末改ページで句読点なし。]從て支那の漢民族は、天地・四方・上下・大小凡てのものに此の五行を配當して喜び居れり、例せば天に五星を置き、地に五嶽を設け、人に五倫を備へ、河に五色の河を置き、爵に五等を設け、罪に五逆を定むるが如く數ヘ來れば、殆んど際限なく、先づ天地萬物を此五行上にて律せんとする形迹を示せり、而して何故斯く五數を重んぜしやと云ふに、其起源は恐らく手指の數より來れるならん、此事は人類學上の硏究に涉れば絃には別に述べざる可きも、古く漢民族の用ひ居たる事物配合の數は甞て重野博士[やぶちゃん注:漢学者・歴史家で、日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学の泰斗にして日本最初の文学博士の一人である重野安繹(やすつぐ 文政一〇(一八二七)年~明治四三(一九一〇)年)か。]が結繩時代の遺風ならんと云はれしこと有り、乃ち彼の書經以下に見へたる、十二牧、九州、九族、八卦、七政、五行、三才なぞ云へる數は果して太古結繩の遺風に基くや否やを知らざれども、之を人類學上より見れば或は然らんかとも思はれ、又陰陽の二者は日月より來り三才は夫婦子供若くは祖父子より來り、五行は手指の五本より來りて、其後右の意義に哲學上の髙尙なる論說を當て箝め[やぶちゃん注:「はめ」。]、以て時代精神に隨伴せしむるに至りしものならんと考ふ、然れども斯る事物の配合數は印度にもあり[やぶちゃん注:行末改ページで句読点なし。]例せば彌陀に三尊あり、佛に三寶あり、法身に三身あり又塔に五輪ありて地水火風空を表し、如來に四天王ありて四隅を守り、其他國に五天竺あり、天人に五衰あり、殊に天體には五星・七曜・九星・十二宮・二十八宿の類ありて、殆んど支那と一致せる點あるを見る、是等は世界民族閒に起る隅然の暗合もあらんが其特種の類に至りては決して右の如く斷ずること能はず、殊に天文學上の事柄、原素上の種類等に至りては必ずや一の本源地ありて夫れより四方に傳派せしに相違なし、但し此天文學上の一致は新城博士[やぶちゃん注:天文学者・中国学者で理学博士であった新城新蔵(しんじょうしんぞう 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)であろう。京都帝国大学総長で名誉教授。専門は宇宙物理学と中国古代暦術というハイブリッドな研究者であった。]の說によるに春秋戰國の頃支那より印度に渡り、更に中央亞細亞に傳播せしならんとの事なるが、予輩考吉學上の硏究結果によるも、支那と其の西南部諸國との交通は豫想外に古きにより、同氏と似よりの結論に達することは敢て難事にあらざる可し。

    (四) 四神と十二肖屬との遺品

 以上干支五行の說は極めて大略なれども、支那の事物硏究上には頗る有用なるに依り參考の爲め申述し次第なり、次に實物上に就て曰んに、支那に於て、四神、十二支を物體上に現はせしは碑石以下諸種の品にあれ共、其古くして且つ多きは鑑鏡の類なるが如し、此鏡の論は他日別に詳說す可きに依り、本日は單に其中の四神と十二支とのみを曰んに、支那の鏡鑑は人文の大に發達せし漢代の作品甚だ精巧にして、且つ最古に屬するが如し、而して其數も割合に多ければ當時の思想を窺ふには便宜ある次第なるが、今是等の品を見るに方形のもの絕無にして必ず之を圓形に造りしは一に天圓に象りしに相違なし、世には秦の方鏡を報じ、又漢の方鏡として其圖を揭ぐるものあれども信ずるこ[やぶちゃん注:ママ。「に」の誤植であろう。]足らず、當時は凡て圓形と見て可なり、而して古書によるに鏡は初め月に象りしとか或は日に象りしとか云へど、其背面の紋樣より考ふれば天圓と見るが穩當なる可し、去れば地方は多く鈕の周圍に示して天の地を覆ふ有樣を示せり、又其紋様なる四神十二支の如きは最初星形にて表せしにより、世人は之を乳と呼びて星と解せざれども、其實右は星を現はせしに相違なく、隨て四神は俗に四乳鏡と稱する四星を以て之を表し、中央の鈕を加へて五行の意味を明にせし實例多く之れ有り、其他七曜・九曜等も見へ、中には工人が無意義の數を示せし類もあれど、大抵は規則正しく之を現せり、而して十二支は初め鈕の周圍に十二個の乳を置しが、後には右に滿足せずして文字を加へ、更に一轉して帶外に十二肖屬を示すに至れり、此風は四神も亦同樣にて星外に圖象を示し、又乳と併せ圖せし例もあり、次に是等の四神と十二肖屬とを墳墓の棺槨[やぶちゃん注:「くわんくわく(かんかく)」。遺体を納める柩(ひつぎ)。]に書き、或は後者を人體形に變化し始めたるは何時頃なりやと云ふに、其起源は不明なれども、周代は諸侯、大夫の棺に雲氣を書𤲿くのみにて他の圖容なければ無論其風の行はれざりしを知る可く、漢に至て四神の描寫を初めたるが如し。

 漢書董賢傳に日く。

[やぶちゃん注:以下、同前。]

董賢自殺伏ㇾ辜、死後父恭不ㇾ悔ㇾ過、乃復以硃砂𤲿棺四時之色、左蒼龍、右白虎、上著金銀日月、玉衣、珠璧

 董賢は前漢哀帝の臣にて、大司馬衞將軍の職に昇りしものなれば、四神を棺表に𤲿くことは古く前漢時代に行はれしことを知るに足れり[やぶちゃん注:董賢の生涯については当該ウィキを読まれたい。]、然れども當時の遺品は世に傳はらず、其今日に知られたる類は多く六朝以後の例なるにより、右の盛行せしは恐らく後漢より三國時代に在らんか、蓋し支那の古墳沿革は他日別に說く可きも、其六朝時代に屬する壁書の古墳は今日朝鮮の大同江兩岸又は扶餘地方、猶古き分は鴨綠江岸の通溝、卽ち高勾麗の舊都等に存在せり因て右の大略を曰んに、是等の古墳中、石槨内面の構造蛇腹式屋根形のものには往々四神の像あり、今其小地名を擧んか、大同江岸の分には平安南道の江西及び鶴林面、具池洞、梅山里、延東里、又は平讓の北方處々に在り、扶餘地方は僅に一個所に過ぎざれ共、猶將來發見の見込なしとせず、面して是等は朝鮮の三國時代、卽ち高勾麗、百濟、新羅等割據の時代にして支那は六朝頃に當れば、常時此國に右の風習盛行せしことは明かなり、猶右の中には支那の唐代卽ち新羅統一時代に屬するものもあれば、爾後連續せし有樣なるも、其の四神形は高麗に入りて壁𤲿に迹を絕ち、專ら石棺彫刻の上に遺風を留めたり。

 以上述るが如く、支那にて棺面に四神を𤲿くことは前漢に始り、而して後漢書にも、木棺の表面に「鳥、黿[やぶちゃん注:「げん」。鼈に同じい。]、龍、虎」を書くことを記するにより、爾後漸次に發達し來りし迹を知れども.、其遺品の存否は不明なり、唯だ實物上にては鏡鑑に其類多く、又作柄の大にして且つ着色の鮮麗、運筆の奇拔なるは六朝時代に屬する古墳壁𤲿の外、他に見ること能はざるなり。

 次に十二肖屬は四神と同樣鏡背に表示せし例最も古く、次は石棺彫刻の類なれども、之を人體形に𤲿きたるは支那の起源明かならず、併し朝鮮にては新羅統一時代に行はれしにより、唐代の盛行は略ぼ推測するに足れり只だ其已前に在りや無しやは今日未だ決定し居らざるなり、去れ共此時代に至りては朝鮮の文化も非常に進み、且つ交通頻繁となりて、唐風模倣の流行甚だしかりしにより、或は彼の風と新羅の風とは時期に大差なかりしやも圖られざるなり、若し然りとせば十二支の人體化は一に唐代に在りと謂ふも不可なかる可し、但し四神と十二支とは星形時代に於ては別に前後の隔りなきも、之を古墳に表せし點より見れば大差あり、卽ち四神描寫の時代には未だ十二肖屬の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]世に現はれず、反之て[やぶちゃん注:「これにはんして」。]十二肖屬の行はれし頃は四神の風漸次衰へたるが如し、但し此十二肖屬の人體化は最初首丈を鳥獸形に示し、身體のみを人間風となせしが、髙麗卽ち五代以後に至りては、此全部を人間形となし、冠上の中央前立の邊に舊鳥獸形を表することゝなせり、今實例を擧げて之を日はゞ、朝鮮の慶州地方に存する王陵若くは金庾信の墓に存する腰石の浮彫り、又は墓中より出る小形の彫刻坐像は凡て前者に屬し、又開城附近に存する王陵の壁書及び石棺彫刻の分は後者に屬せり[やぶちゃん注:「金庾信」(キムユシン 五九五年~六七三年)は三国時代の新羅の将軍で新羅の朝鮮半島統一に最大の貢献をした人物として知られる。]、猶此十肖屬を墓側に立てし例は日本にもあり、卽ち奈良の元明天皇陵より出し七疋狐と稱するものは其類にて、本來は十二支の殘石なれども全部完備し居らざりしと、又偶ま狐に類する兎、狗の類殘れる爲め斯く傳稱せしものゝ如し、併し是等は人間風に立ち又は坐せし點のみが眞物と誤る譯にて手足と面貌とは猶ほ舊形を失はざるなり、去れば人體化の例としては確に古式を示すものにて、其類は未だ他國に見ること能はず[やぶちゃん注:読点なし。]故に學問上に取りてに實に得難き好資料と稱するを得可し。

    (五) 結 論

 以上述るが如く干支と四神とは支那の漢族間に發生し、其或ものは印度の古傳と結合せしも、本源は一に天體より出るが如く、又後世流れて各般の事物に應用せられし類には遂に人間化せしもあり、然れ共四神は龜蛇虎鳥の形體を變ずること能はず、十干は名稱以外に鎚化せず、單に十二支のみ數傳せしが、其源に溯れば文字以外の表示としては四神と十二支とは初め星形を用ひられ、後に鳥獸及び虫形と變ぜしなり、而して此類の智識が最初支那より印度に傳はれるや否やは、今俄に決すること能はざれども、其十二支に鼠、牛、虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば、其實例は夙に漢鏡に見ゆるにより、由來甚だ古きを知る可く、又其ものゝ日本、朝鮮等に流傳して種々變化し行く狀態を見れば、單に藝術上の巧拙を知る外に、思想上の異同と、應用上の如何とを知る媒[やぶちゃん注:「なかだち」。]ともなれば、其硏究上大に興味あるものと、云ふ可し。

  已上は大略なれども本題の起源、沿革等を述べ盡せるにより、本日は之にて終結とす可し。

 附言 講演の際は種々の材料を示せしも本誌には皆な之を省略せり。

[やぶちゃん注:最後の附言は、底本では全体が一字下げで二行に渡る。]

2021/03/02

南方熊楠 厠神(PDF縦書ルビ版) 公開

「南方隨筆」底本の「厠神」のPDF縦書ルビ版を、サイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神

 

[やぶちゃん注:「厠神」(かはやがみ)は大正三(一九一四)年五月発行の『人類學雜誌』二十九巻五号初出(リンク先は「J-STAGE」のPDF)。冒頭に出る、熊楠が触発された出口米吉氏の方の論考「厠神」はこれに先立って既に電子化してあるので、まずはそちらを読まれたい。

 本篇は、素人の私がさっと見ても、漢籍や経典引用の部分にはかなりの不審があり、ちょっと調べただけで多くは漢字の誤字であることが判った。一部は当該原文を探して確認し、或いはそれと並行して初出及び平凡社「選集」と対照し、正しい字を補ったり、訂したりしたが、それをいちいち指示するのは五月蠅いだけなので、原則、それらは注していない(かなりひどい。数十ヶ所に及んでいる。「人彘」を「人厠」と誤植したのを見た時は全身が脱力した)。但し、本篇は漢文原文の引用が訓点無しで、ごっそりと挿入されており、後注で読むとなると、読者自身が甚だ面倒に感じられると思うたので、特異的に当該漢文の後に訓読文を太字で挿入した。訓読には訓読されている「選集」を参考にはしたが、従えない読みが多く、私の我流で読んだ部分が殆んどである。本文のみに挑戦されたければ、太字を抜かして読まれればよい(但し、経文のそれは一部の漢字がかなり難読である)。訓読でも難解或いは意味不明な部分は後に注してある。書誌データの一部も「選集」で訂してある(これも特に指示はしていない)。

 

      厠       神

 

 自分の抄錄中より出口君の所輯(二九卷一號)を補はんに、君が玉手襁より引かれし、流行眼病を厠神に祈ること今も紀州にあり、田邊々には、眼病流行の際厠前に線香を焚き兩側に小き赤旗を樹て[やぶちゃん注:「たてて」。]祈り、又家内の人數程小き赤旗を作り厠壁に插し祈れば、かの病に罹らずと云ふ、厠神盲目なる故其爲に厠を掃除すれば神悅ぶ、孕婦[やぶちゃん注:「はらみめ」。]屢ば手づから掃除すれば美貌の子を生むと傳ふ、諸經要集卷八下、福田經云、佛自攝宿命所行、昔我前生爲婆羅奈國、近大道邊安設圊厠、國中人衆得輕安者莫不感義、緣此功德世々淸淨、累劫行道穢汚不汙、金色晃昱塵垢不著、食自消化無便利之患[やぶちゃん注:「『福田經』に云はく、『佛、自(みづ)から宿命の行(ぎやう)ずる所を說(と)くらく、「昔、我、前生(ぜんしやう)に婆羅奈(はらな)國の爲めに、大道の邊(ほとり)に近く、圊厠(せいし)[やぶちゃん注:「圊」も厠に同じい。]を安じ設(まう)く。國中の人衆、輕安を得る者、義に感ぜざる莫し。此の功德に緣りて、世々、淸淨なり。劫(こう)を累(かさ)ねて、道(だう)を行(ぎやう)じ、穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず、金色(こんじき)、晃昱(くわいく)として塵垢(ぢんこう)も著かず、食、自(おのづ)から消化し、便利の患(わづらひ)無し」と。』。]、是は厠を立て公衆に便せし福報を述たるなれど、由來除糞人を極て卑めし印度にも不淨の掃除を必要とせしは、賢愚經に、除糞人尼提出家を許され得道せし事、除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に[やぶちゃん注:「つねに」。]胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり、四十年計り前和歌山で聞しは、厠神一手で大便、他の一手で小便を受く、如し[やぶちゃん注:「もし」。]人、厠中に唾吐けば不得已[やぶちゃん注:「やむをえず」。]口もて之を受く、故に厠中に唾吐けば神怒ると、又傳ふ、厠神盲[やぶちゃん注:「めしひ」。]にして人に見らるゝを忌めば、厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべしと、是れ、其作法出口君が上の四一頁に引ける朝鮮の風に同じ[やぶちゃん注:「四一頁」は「三一頁」(初出4コマ目)の誤りではないか。しかし、空咳することは書かれておらず、物理的に必ずしも必要でない燈を灯すのは中国の風俗として出、朝鮮ではない。]、毘尼母經に、若上厠去時、應先取籌草至戶前、三彈指作聲、若人非人、令得覺知[やぶちゃん注:「若(も)し、厠に上り去(ゆ)く時は、應(まさ)に籌草(ちうさう)を取りて戶前に至り、三たび彈指(だんし)して聲を作(な)すべし。若し、人にても、非人にても、覺知するを得せしむ。」。]と有れば印度にも古く厠に入る前聲を發して人と鬼神に知しむる敎有りし也、雜譬喩經[やぶちゃん注:「ざつひゆきやう」。]に有一比丘、不彈指來、大小便臢汙中鬼面上、魔鬼大恚、欲殺沙門云々、[やぶちゃん注:「一比丘、有り。彈指して來たらず、大小便、中鬼の面上を臢汙(さんを)す。魔鬼、大いに恚(いか)りて、沙門を殺さんと欲すと云々。」。]大灌頂神呪經に厠溷中鬼[やぶちゃん注:「しこんちゆうき」。厠に巣食う悪鬼の名。「溷」も「厠」に同じい。]を載せ、卷七に噉人屎尿鬼[やぶちゃん注:「たんじんしにねうき」。同前の類いで、「人の屎(くそ)や尿(いばり)を好んで噉(くら)う鬼」の意。]を載す、正法念處經十六に、男若女、慳嫉覆心、以不淨食、誑諸出家沙門道士、言是淸淨、令其信用而便食之、或時復以非處應食、施淨行人、數爲此業、復敎他人、令行誑惑、不行布施、不持禁戒、不近善友、不順正法、樂以不淨而持與人、如是惡人、身壞命終、生惡道中、受于㖉托餓鬼、(魏言食唾)爲飢渴火、常燒其身、于不淨處、若壁若地、以求人唾、食之活命、餘一切食、生不得食、乃至惡業、不盡不壞不朽、故不得脫云々、若生人中、貧窮下賤、多病消瘦、鼻齆膿爛、生除厠家、或于僧中、乞求殘食、以自濟命[やぶちゃん注:「男、若しくは、女にして、慳嫉(けんしつ)もて心を覆(ふさ)ぎ、不淨食を以つて、諸出家・沙門・道士を誑(あざむ)き、『是れ、淸淨なり』と言ひて、其れ、信用せしめて、便(すなは)ち、之れを食はしめ、或る時は、復た、應に食ふべき處に非ざるものを以つて、淨行(じやうぎやう)の人に施し、數(しばし)ば此の業(おこなひ)を爲し、復た、他人をして、誑惑(きやうわく)を行ひせしめ、布施を行はせず、禁戒を持させず、善友に近づかせず、正法(しやうほふ)に順はざらしめ、不淨を以つて人に與ふを持つて樂しむ。是(かく)のごとき惡人は、身、壞(く)え、命、終らば、惡道の中(うち)に生じ、托餓鬼(きたがき)(魏にて「唾(つば)を食(の)むこと」を言ふ[やぶちゃん注:「托」の注。])の身を受く。飢渴の火の爲めに、常に其の身を燒かれ、不淨の處、壁、若しくは、地にありて、以つて人の唾を求め、之れを食みて命を活(い)かす。餘(ほか)の一切の食は、生(しやう)、食らふを得ず。乃(すなは)ち、惡業に至りて、盡きず、壞(く)えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若(も)し、人中に生まるるも、貧窮にして下賤、多病にして消(おとろ)へ瘦せ、鼻、齆(ふさが)り、膿み爛れ、除厠(くみとり)の家に生まれ、或いは僧中に、殘食(ざんぱん)を乞ひ求め、以つて自(みづ)から、命を濟(たす)くのみ。」。]と云ひ、如此衆生、貪嫉覆心、或爲沙門、破所受戒、而被法服、自遊衆落、諂誑求財、言爲病者、隨病供給、竟不施與、便自食之、爲乞求故、嚴飾衣服、遍諸城邑、廣求所須、不施病者、以上因緣云々、生阿毘遮羅(疾行)餓鬼之中、受鬼神已、于不淨處、噉食不淨、常患飢渴、自燒其身、若有衆生、行不淨者、如是餓鬼、則多惱之、自現其身、爲作怖畏、而求人便、或示惡夢、令其恐怖、遊行冢間、樂近死屍、其身火燃、煙炎俱起、若見世間疫病流行、死亡者衆、心則喜悅、若有惡咒、喚之則來、能爲衆生、爲不饒益、其行迅疾、一念能走百千由旬、是故名爲疾行餓鬼、凡世愚人、所共供養、咸皆號之、以爲大力神通夜叉、如是種々、爲人殃禍、令人怖畏、乃至惡業不盡不壞不朽、故不脫得云々、若生人中、生呪師家、屬諸鬼神、守鬼神廟、[やぶちゃん注:「此くのごとき衆生、貪嫉もて心を覆ぎ、或いは沙門と爲るも、受くる所の戒を破り、而して法服を被(かぶ)りて、自(みづ)から衆落に遊び、諂(おもね)り誑(あざむ)きて財を求め、『病者の爲めに、病に隨ひて、供給す』と言ひて、竟(つひ)に施與せず、便(すなは)ち、自(みづ)から之れを食らふ。乞ひ求めんが爲め故に、衣服を嚴飾(ごんしよく)し、諸城邑(しよじやういう)を遍(めぐ)りて、廣く須(もと)めらるるを求め、病者に施さず、以上の緣に因りて云々」。「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびしやらがき)に生まれ、鬼身を受け已(をは)りて、不淨の處にて、不淨を噉ひ食ひ、常に飢渴に患(くるし)み、自(みづ)から其の身を燒く、若し、衆生の不淨を行ずる者有れば、是のごとき餓鬼、則ち、多く、之れを惱まし、自(みづ)から其の身を現じ、爲めに怖畏を作(な)して、而して人の便(すき)を求(うかが)ひ、或いは惡夢を示し、其れを恐怖せしめ、冢(つか)[やぶちゃん注:墓場。]の間を遊行しては、死屍に近(したし)むを樂しみ、其の身は火と燃え、煙・炎、俱(とも)に起こる。若し、世間に疫病流行し、死亡せる者の衆(おほ)きを見れば、心、則ち、喜悅す。若し、惡咒有りて、之れを喚(よ)べば、則ち、來たり、能く衆生の爲めに不饒益(ふねうやく)[やぶちゃん注:無慈悲な災厄。]を爲す。その行くや、迅疾にして、一たぴ念ずれば、能く百千由旬(ゆじゆん)[やぶちゃん注:凡そ八百八十万キロメートル。]を走る。是の故に名づけて疾行餓鬼(しつかうがき)となす、凡そ世の愚人、共に供養され、咸(あまね)く、皆、之れを號(とな)へ、以つて大力神通夜叉(だいりきじんづうやしや)と爲す。是のごとく、種々(しゆじゆ)に人に殃禍(わざはひ)を爲し、人をして怖畏せしむ。乃(すなは)ち、惡業は至り、盡きず、壞えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若し、人中に生まるるも、呪師の家に生まれ、諸鬼神に屬して、鬼神の廟を守る。」。]斯る食不淨惡鬼を祀るより、自然厠神の觀念を生ぜしやらん、劉宋譯彌沙塞五分律廿七に有一比丘、在不應小便處小便、鬼神捉其男根、牽至屛處、語言大德應在此處小便[やぶちゃん注:「一比丘有り。應(まさ)に小便をすべからざる處に小便す。鬼神、其の男根を捉へ、牽きて屛處(へいしよ)[やぶちゃん注:仕切られた場所。]に至り、語りて言はく、『大德、應に此の處に在りて小便すべし。』と。」。]、これは厠神にあらず、僧が厠外に放尿したるをその處の鬼神が戒めたる也、增壹阿含經四四に、佛未來彌勒佛の世界を記す、鷄頭城中有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、常伺人民寢寐後、除去穢惡諸不淨者、又以香汁而灑其地、極爲香淨[やぶちゃん注:「鷄頭城の中(うち)に羅刹鬼あり。名づけて葉華(えふくわ)と曰ふ。行なふ所、法に順ひ、正敎(しやうぎやう)に違(たが)はず。常に人民の寢寐(しんび)したる後(のち)を伺ひ、穢惡(ゑを)したる諸不淨の者を除け去り、又、香汁を以つて其の地に灑(そそ)ぎ、極めて香淨と爲す。」。]これは好意もて人糞を掃除する鬼神也、印度の咒法中厠に關する者有り、例せば不空譯大藥叉女歡喜母並愛子成就法に、得貴人歡喜、取彼人門下土、以唾和作丸、加持一百八遍置於厠中、彼人必相敬順歡喜、[やぶちゃん注:「貴人の歡喜(くわんぎ)を得んとせば、彼(か)の人の門の下の土を取り、唾を以つて和(あ)へて丸(ぐわん)と作(な)し、加持すること、一百八遍し、厠の中(うち)に置かば、彼の人、必ず、相ひ敬順し、歡喜せん。」。]支那にも、厠中に祕法を行ひし例、明の祝穆の事類全書續集十に郭璞素與桓彜友善、每造之或値璞在婦間便入、璞曰、卿來他處自可徑前、但不可厠上相尋耳、必客主有殃、彜後因醉詣璞、正逢在厠、掩而觀之、見璞裸身被髮銜刀設醊、璞見彜撫心大驚曰、吾每囑卿勿來、反更如是、非但禍吾、卿亦不免矣、璞終受王敦之禍、彜亦死蘇峻之難、[やぶちゃん注:「郭璞(かくはく)、素(も)とは桓彜(くわんい)と友として善(よろ)し。每(つね)に之れに造(いた)り、或いは、璞、婦の間に在るに値(あ)ふも、便(すなは)ち、入る。璞曰く、『卿の他處(よそ)より來たる時は、自(おのづ)から徑(すぐ)に前(すす)むべし。但し、厠の上のみは相ひ尋ぬべからず。必ず、客・主に殃(わざはひ)あらん』と。彜、後、醉ふに因つて、璞を詣(たづ)ぬ。正(まさ)に厠に在るに逢ふ。掩(かく)れて之れを觀るに、璞、裸身・被髮して、刀を銜(くは)へ、醊(てつ)を設くるを見る。璞、彜を見て、心(むね)を撫(う)ちて、大きに驚きて曰はく、『吾、每に卿に『來たる勿れ』と囑(しよく)せるに、反つて更に是のごとし。但(ただ)、吾に禍(わざはひ)あるのみに非ず。卿も亦、免れざらん。』と。璞は終(つひ)に王敦(わうとん)の禍(くわ)を受け、彜も亦、蘇峻(そしゆん)の難に死す。」。]醊は字典に祭酹[やぶちゃん注:「さいらい」。「酹」は神を祀るに際して地面に酒を注ぐことを指す。]なりと見ゆれば、厠中に神酒を供えて[やぶちゃん注:ママ。]祀り行ひし也、甲陽軍鑑に、武田信玄每に軍謀を厠中に運らせしと有る如く、祕處では有り、且つ臭穢にして本主神外の鬼神忌みて近づかざるより、密法を修むるに便とせしならん、普明王經に、阿群佛法に歸し比丘となり、王一たび之を見んと望むも此比丘眼睛耀射にして當たり難きを以て、王之を厠中に請じ見る事有り、書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて[やぶちゃん注:「まかちて」。初出にルビ有り]。相問ふを得ずと有る如し、糞穢を以て邪視を破る事は、かつて本誌に述たり[やぶちゃん注:明治四二(一九〇九)年五月発行の『東京人類學雜誌』二百七十九号で、初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」。後の「小兒と魔除」(リンク先は私のPDF一括版)。冒頭から「屎」を名に持つ人名リストがバーンと出る。]、無能勝三藏が譯せる穢蹟金剛說神通大滿陀羅尼法術靈要門經には、佛涅槃に入て諸天大衆皆來て供養せるも、螺髻梵王[やぶちゃん注:「らけいぼんわう」。]のみ來らず、千萬の天女に圍繞されて相娛樂す諸大衆その我慢を惡み、百千衆呪仙をして往て取り來らしむるに、梵王種々不淨を以て城塹(じやうざん)となし、諸仙各々犯咒(咒破らるゝ事)されて死す、復た無量の金剛衆をして往かしむるも七日迄取り得ず、如來大遍知力もて其左心より不壞金剛[やぶちゃん注:「ふゑこんがう」。]を化出[やぶちゃん注:「けしゆつ」。]し、不壞金剛往て梵王所を指させば、種々穢物變じて大地となり、螺髻梵王發心して如來所に至ると有り、梵王糞穢もて呪仙を破りし也、酉陽雜俎十四、厠鬼の名は頊天竺[やぶちゃん注:「ぎよくてんじく」。](一曰笙[やぶちゃん注:これは「いつにいはく「しやう」。で一書では「天竺」ではなく「天笙」とするの意。])上の八三頁[やぶちゃん注:ここは「選集」では「『人類学雑誌』二九巻二号の八三頁」とされてある。残念ながら、当該ページは「J-STAGE」では読めないので誰の論文かも判らない。]に淵鑑類凾より引れし厠神狀如大猪と云る話は、支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪[やぶちゃん注:ここは豚(ブタ)のこと。前の「大猪」も「大きな豚」であって野猪(イノシシ)のことではないので注意。]を畜て糞を食しむる風有りしに基くなるべく、漢書に、賈姬如厠、有野彘、入厠中、[やぶちゃん注:「賈姬(かき)、厠へ如(ゆ)く。野彘(やてい/ゐのしし)あり。厠の中に入れり。」。]又呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事有り、事類全書續十に、侍御史錢義方居常樂第、夜如厠、忽見蓬頭靑衣者數尺來逼、義方曰、汝非郭登、曰然、餘乃厠神每月出巡、(續玄怪錄)、[やぶちゃん注:「侍御史の錢義方、常樂第に居(を)り。夜、厠に如(ゆ)くに、忽ち、蓬頭・靑衣の者、長(たけ)數尺なるが、來たりて逼(せま)るを見る。義方曰はく、『汝は郭登にあらずや。』と。曰く、『然り。余は、乃(すなは)ち厠神なり。每月、出でて巡る』と。」。]類函厠の條に晉書陶侃甞如厠、見一人朱衣介幘劒履、曰以君長者、故來相報、若後當爲公矦、侃至八州都督、又庾翼鎭荊州、如厠見一物、頭如方相、兩眼大有光、翼擊之入地、因病而薨、[やぶちゃん注:「陶侃(とうかん)、甞つて厠に如(ゆ)き、一人の、朱衣にして、介幘(かいさく)をかぶり、劒をはき、履(くつ)をはけるものを見たり。曰く、『君、長者なるを以つて、故に來たりて相ひ報ず。君、後に當(まさ)に公侯たるべし。』と。侃、八州の都督に至れり。又、庾翼(ゆよく)、荊州に鎭(ちん)たり。厠に如(ゆ)き、一物(いちぶつ)を見る。頭は方相(はうさう)のごとく、兩眼、大いに、光、有り。翼、之れを擊てば、地に入れり。因りて病みて薨ず。」。]是れ人死して厠神となり、厠中に吉凶を告る神有り、又人を驚かす鬼物有りとせる也、類凾卷十七と二五八に歲時記と異錄傳を引て厠の女神の傳を載す、文差や[やぶちゃん注:「やや」。]相異なるを以て綜合して記さんに、廬陵歐明從賈客、道經彭澤湖、每以舟中所有、投湖中爲禮、後復過湖、忽有一人著禪衣乘馬、來候明云、是靑湖君使也、靑湖君感君有禮、故邀君、必有重遺、君皆勿取、但求如願、明既見靑湖君、乃求如願、如願者靑湖君之神婢也、靑湖君不得已、呼如願送明去、明將如願歸、所願卽得、數年大富、後正旦如願晚起、明醉撻之、走入糞壤中不見、今人、正旦以繩繫偶人、投糞壤中、云令願以此、[やぶちゃん注:「廬陵の歐明(わうめい)、賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]に從ひ、道に彭澤湖(はうたくこ)を經(とほ)るに、每(つね)に舟中に有る所のものを以つて、湖中に投じて禮と爲す。後、復た、湖を過ぐるに、忽ち、一人(いちにん)有り、禪衣(ぜんえ)を著(き)て馬に乘り、來たって明に候(つか)へて曰く、『是(これ)は靑湖君が使ひなり。靑湖君、君の禮あるに感じ、故に君を邀(むか)ふ。必ず、重き遺(おくりもの)有らんも、君、皆、取る勿れ。但(ただ)、如願(じよぐわん)のみ、求めよ。』と、明、既に靑湖君に見(まみ)え、乃(すなは)ち、如願を求む。如願とは靑湖君の神婢なり。靑湖君、已むを得ず、如願を呼び、明を送り去らしむ。明は如願を將(つ)れ歸るに、願ふ所あらば、卽ち得(え)、數年にして、大いに富めり。後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走りて入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり。」。]淸湖君、一に靑洪君に作る、事類全書前集六には有商人過靑湖見淸湖君云々[やぶちゃん注:「商人有りて靑湖を過ぐるに、淸湖君に見ゆ云々」。]とせり、予幼かりし時亡母つねに語りしは、厠を輕んずるは禮に非ず、昔し泉州の飯(めし)と呼ぶ富家は、其祖先が元旦雪隱の踏板に飯三粒落たるを見、戴いて食ひしより打ち續き幸運を得て大に繁昌に及べりと、平賀鳩溪實記卷一三井八郞右衞門源内へ對面の事の條、源内の詞に、「是の三井家は誠に日本一の金持にして、鴻池抔よりも名譽の家筋也云々、凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」と有る飯氏なるべし、是れも厠を敬せしより其神幸運を與えし[やぶちゃん注:ママ。]とせしならん、倭漢三才圖會八一に白澤圖云、厠惟精名倚(上の三〇頁出口君が引きしには「停衣と名づく」とあり[やぶちゃん注:出口米吉「厠神」の初出の2コマ目(私の電子化はこちら)。正確には『白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ』である。])、著靑衣持白杖、知其名呼之者除、不知其名呼之則死、又云築室三年不居其中、見人則掩面、見之有福、居家必用云、厠神姓廓名登、是庭天飛騎大殺將軍、不可觸犯、能賜災福、[やぶちゃん注:以上は後注で同書の「厠」の項の全部を示す。]鬼神其名を人に知れて敗亡せし諸例は、「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり[やぶちゃん注:これは後の「續南方隨筆」で総括された「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節。後注参照。]、廓登卽ち上に引る事類全書の郭登なるべし、厠神人を見て面を掩ふは日本で厠神に見らるゝを忌むと云ふに近きも、其面を見れば福有りと云ふは此邊で傳ふる所に反せり、熊野の或部分には今も厠を至極淸淨にし、四壁に棚を設け干瓢椎茸麪粉[やぶちゃん注:「むぎこ」。]氷豆腐等の食物及び挽臼等を置き貯へ、上に玉萄黍、蕃椒[やぶちゃん注:「たうがらし」。]等を懸下す、其體、一見のみでは不淨處と信ぜられず、予夜分始て之に入り、自ら夢裡に有るかと疑ひ、燈を携へて見廻り又身體諸部を撚り[やぶちゃん注:「ひねり」。]驗[やぶちゃん注:「けみ」。]せし程也、後ち其邊の人來る每に子細を尋ぬるも耻ると見えて一向然る事無しと答ふ、去年酒井忠一子に此事を語りしに、日向とかにも斯る風有る地方有り、古え厠を殊の外に重んぜし遺俗と聞りと話されつ、件の熊野山村の俗語に放蕩息子を罵りて、汝は親の雪隱に糞垂るべき者に非ずと云ふを攷ふれば、酒井子の言の如く厠を家の重要部と尊ぶ土俗も存せしにや、定めて彼諸村には多少厠神崇拜の遺風も傳はり居る事なるべければ再度自ら往て調査せんと欲す、序に言ふ、南洋のツイトンガ島民は、死人の魂が諸神に食れ竟れば[やぶちゃん注:「くはれをはれば」。]得脫すと信じ、島中最も重んぜらるゝ人の葬禮後、貴族の男六十人十四夜續けて死人の墓に大便し其人々の妻女來て之を取除く、是れ死人の魂諸神に食れて淨化し盡されたるを表す、又速かに得脫するを促がす者ならんとは椿事也(Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872)、又同卷三〇五頁に、新西蘭[やぶちゃん注:ニュージーランド。]の人、死して樂土に行ざる魂は糞と蠅を常食とすと云ひ、曾て此世なる幼兒を育てん迚樂土より還る婦人、途中其親族の死靈が住る村を通るに彼輩之に人糞を食へと迫る、其亡父の靈獨り之を制禦し、クマラ根二本を與えて[やぶちゃん注:ママ。]遁れ去らしむるに、惡靈二個なほ追來るを件の二根を抛て[やぶちゃん注:「なげうちて」。]遮り歸りし話有りと載たり、其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘[やぶちゃん注:「くろみかづら」。]と湯津爪櫛[やぶちゃん注:「ゆつつまぐし」。]を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂[やぶちゃん注:「よもつひらさか」。]に到り玉へえるに似たり、新西蘭の神話葬儀が糞に緣有る事如斯なれば必ず厠神に關する譚も行はれし事と察すれど、予の筆記不備にして只今其詳を知るに由無し。

 

 追 記

 種々の物を用て追ふ者を妨げし譚は日本と新西蘭の外にもあり、支那には梁の慧皎[やぶちゃん注:「ゑかう」。]の高僧傳八に、劉宋の釋玄暢北虜滅法の際平城より逃れ、路經幽冀、南轉將至孟津、唯手把一束楊枝一扼葱葉、虜騎逐追、將欲及之、乃以楊枝擊沙、沙起天闇、人馬不能前、有頃沙息、騎已復至、於是投身河中、唯以葱葉内鼻孔中、通氣度水、以八月一日〔元嘉二十二年〕達于揚州、[やぶちゃん注:「路(みち)に幽・冀を經(へ)、南に轉じて將に孟津に至らんとす。唯、手には一束の楊枝と、一扼(やく)の葱葉(ねぎ)とを把(も)てるのみ。虜騎、逐追(ちくつい)して、將に之れに及ばんとす。乃(すなは)ち、楊枝を以つて沙を擊つに、沙、起りて、天、闇(くら)み、人馬、前(すす)む能はず。頃(しばら)く有りて、沙、息(や)み、騎、已に復た至る。是に於いて身を河中に投じ、唯、葱葉を以つて鼻孔の中(うち)に内(い)れ、氣を通じて、水を度(わた)る。八月一日〔元嘉二十二年[やぶちゃん注:南北朝時代の劉宋の文帝の時代の年号。ユリウス暦四四五年。]〕を以つて揚州に達す。」。]歐州には希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り、スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼[やぶちゃん注:「トール」のこと。]に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え[やぶちゃん注:「さえ」。遮(さえぎ)り。]童子脫するを得と有り (Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869,vol,ii,pp.276-274)、蘇格蘭[やぶちゃん注:スコットランド。]、印度等にも似たる譚有りて Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443 に委細載せたり。

     (大正三年五月、人類第二十九卷)

 

[やぶちゃん注:「厠神」「ブリタニカ国際大百科事典」の「厠神」から引いておく(コンマをピリオドに代えた)。『便所の神のことで、便所神、雪隠 (せっちん) 神、おへや神などとも呼ばれている。厠とは便所のことで、その語源については、川の上あるいは川のほとりに設けられた川屋にあるとする説が有力である。その祀り方は地方によって異なり、便所をいつも清浄にして灯明をあげたり、人形を祀り』、『花を供えたり、小さな神棚を設けたり、新設するときに』は、『甕の下に人形を埋めたり,大病になった』際には、『願を掛けて』、『花や酒を供えたりする。また、お産とも関係が深く、妊婦が美しい子の誕生を祈願して厠を清めたり、臨月に便所にお参りをし』、『お産が軽くすむように祈願したりするが、これは排便の様子が』、『お産の様子に類似するところから生じた類感呪術の一種と思われる。関東地方には赤子の初外出に便所参りをする風習がある』。

「諸經要集」唐の律宗 (南山宗) の僧道世(?~六八三年)著。全二十巻。仏教の典籍の中から,特に善悪の行為と、それに対する報いについて抜き出し、三十部に分類して整理したもの。仏教文献を検索するのに便利な書物で、同じ著者に依る同じ範疇に属する書物に、かなり知られた「法苑珠林』(全百巻)がある。なお、以下に出る経典類は煩瑣なだけなので、注しない。

「婆羅奈(はらな)國」古代インドの王国。「ワーラーナシ」の漢音写で、別称「カーシー国」。マガダ国の西、コーサラ国の北にあり、現在のワーラーナシ(バラナシ・ヴァラナシ)(グーグル・マップ・データ)を中心とした地方。釈尊が成道後、波羅奈国の鹿野苑 (サールナート) で初めて五比丘に説法をしたことで知られ、アショーカ王がこれを記念して二石柱を建立している。

「穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず」重語表現になっているが、ようは「一点の穢れも成さず」の意であろう。

「晃昱(くわいく)」(こういく)は明らかな光を発して輝くさま。「選集」は『晃々』とするが、経典類を検索したところ、「南方隨筆」の通りで正しいものを見出すことが出来た。

「除糞人」便器・便槽の糞尿を始末することを生業とする人々。

「除糞人尼提出家を許され得道せし事」芥川龍之介が(大正一四(一九二五)年九月発行の『文藝春秋』に発表した短篇「尼提(にだい)」に描かれている。「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字新仮名)。

「除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり」「大蔵経DB」の当該経典「仏說除恐災患經」から見出せた。以下。一部の漢字を正字化した。

   *

時有衆女。欲供養塔。便共相率。掃除塔地。時有狗糞。汚穢塔地。有一女人。手撮除棄。復有一女。見其以手除地狗糞。便唾笑之曰。汝手以汚不可復近。彼女逆罵。汝弊婬物。水洗我手。便可得淨。佛天人師。敬意無已。手除不淨。已便澡手。遶塔求願。今掃塔地。汚穢得除。令我來世勞垢消滅淸淨無穢。時諸女人。掃塔地者。今此會中。諸女人是。爾時掃地。願滅塵勞。服甘露味。爾時以手。除狗糞女。今柰女是。爾時發願。不與汚穢會。所生淸淨。以是福報。不因胞胎臭穢之處。毎因花生。

   *

そこで原版本の当該部も確認したが、「奈女」ではなく、「柰女」であった。但し、異体字なので問題はない。ウィキの「アンバパーリー」(彼女のことである。生没年は不詳)によれば、『アームラパーリー』とも。漢音写は『菴摩羅、菴没羅など多数』あり、漢訳では『㮈女、柰女、非浄護など』があり、『釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の』一人とする。『ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリー』、則ち、『マンゴー林の番人の子といわれるようになった。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』。『釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した』。「長老尼偈註」に『よれば、出家し』、『高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる』。「テーリーガーター」では、『彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に阿難が誡めのために偈を説いて』おり、「大般涅槃経」では、『リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈尊を招待している。公子らがその招待を譲り受けんと乞うも』、『彼女は譲らなかったという。その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。後の天竺五精舎の』一『つ菴羅樹園精舎である。この件は諸文献に通じるエピソードである』。南伝「マハーヴァッガ」では、『彼女の美貌により』、『ますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという』。「雑阿含経」及び「長部註」に『よると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈尊は弟子』衆に、『その美貌で心が揺れないよう』、『四念処を説いたとある』。「㮈女祇域因縁経」では、『彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって』十五『歳の時に』七『人の王が求婚したが』、『すべて断った』といい、須漫と波曇と称した二人の娘も『彼女と同じように』、『各々』、『樹華より生まれたという。彼女と二女は共に』五百『人の女性を率いていたが、釈尊の説法を聞いて出家し』、『悟りを得たという』とある。さて、この「胞胎」とは、母胎内で胎児を包んでいる胞衣 (えな) を指し、胎生のことで、 胎生は「輪廻の迷い」を繰り返すことであることに注意。だから、そこからではなく、香良き清浄なる花から彼女たちは生まれたのである。

「厠中に唾吐けば神怒る」これは私もよく聴いた風俗であるが、この場合は、理由がよく判らない。或いは、唾は便ではなく、しかも眉唾などで知られる(一般には狐狸などが人を化かすに際しては、その人物の眉の本数を数えて知ることが必須条件とするというが、私はどうもあまりそれを信じていない)が、唾にはある種の生臭さがあり、それを妖魔が嫌うのではないかと私は考えており、厠神が元は鬼神であったという熊楠の挙げる例を考えるとなら、陰気である汚物である大便でも小便でもない、しかも腥い人間の体液(汚物ではない陽の生気に属するもの)だから、嫌悪し、怒るのではないかと考えたことを言い添えておく。

「厠神盲にして人に見らるゝを忌めば」物の怪・鬼神は先に見られる(見切られる)ことで、相手に負けるというのは民俗社会のお約束ごとである。ただ、ここで「厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべし」というのは、目が見えなくても、光は感ずるのかとも思う。

「籌草(ちうさう)」不詳。当初は物理的に尻の後始末をする竹箆(たけべら)や拭き取る草かと思ったが、それは当たり前のことで書くべきことではないから違う。「籌」は占いに用いる竹製の算木を指すことが多いから、何らかの呪具のようにも思われる。

「彈指(だんし)」爪弾(つまはじ)きをすること。呪的には音を出して邪気を払う仕草として知られるが、ここは本来のそれが善神たる厠神となるとともに変容し、相手に「姿をお現わしになられませぬように」と事前の注意を促すという意に変化しているのかも知れない。

「非人」厠神以外の鬼神・神仏、果ては、物の怪。

「臢汙(さんを)」穢すこと。

「慳嫉(けんしつ)」自分の利益のためだけの物惜しみと嫉妬心。

「㖉托餓鬼」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道」に、「食唾(じきた)餓鬼」を載せ、まさにこの原文を訳した通りに、『男、若し』く『は』、『女が』、『慳嫉で心を覆い、不浄の食を以て諸の出家の沙門・道士を誑かして、「この食は清浄であります。信用してください。」と言い、これを食べさせる。或いはまた浄行人に非所(食べる場所ではない)で施して食わせる。此の業』(ごう)『を数々造り、また他人にも教えて誑惑を行う。布施を行わず、禁戒を持たず、善友に近づかず、正法に順ぜず、不浄を楽しみ、さらに人にも教える。このような悪人は身壊れて命終し、悪道の中に生まれ、食唾餓鬼の身を受ける。常に其の身を焼かれる。不浄の処に於いて、壁、若しは地で、人の唾を求めて食べて自活する。余の一切の食は悉く食べることができない。悪業が尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して苦を受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『食唾(じきた)、僧侶や出家者に、不浄な食物を清浄だと偽って施した者がなる。人が吐いた唾しか食べられない』とする。

「衆落」人々の集団。「聚落」「集落」に同じ。

「嚴飾」立派に飾ること。相応の上流階級の者たちをも信用させて布施を得るためである。

「諸城邑(しよじやういう)」それぞれの地方の城壁に囲まれた首都及びその周辺を領する諸侯・大夫の領地・封土。

「廣く須(もと)めらるるを求め」あらゆる求め得ることの出来るものはその総てを貪欲に求め。

「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびらがき)」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道二」の「疾行餓鬼」に、同じくここを訳した如く、『此の衆生は貪嫉で心を覆い、若し沙門と為れば破戒するが、されども法服を着て集落に遊び、諂誑して財を求めて「病者には病に随って供給すべし。」と言いながら結局自分は施しを与えず、自ら之を食べる。乞求の為に衣服を飾り、諸の城邑を巡り、広く施を求め、病者には施さない。この因縁を以て身壊れて命終し、悪道に堕ち、疾行鬼の身を受ける』。『不浄の処に於いて不浄を食し、常に飢渇に患わされ、其の身を焼かれる。若しは』、ある『衆生が不浄を行うなら、この餓鬼はすぐにこの者を多く悩ます。其の身を自ら現して怖畏を与える。人の便りを求め、或いは悪夢を示し、恐怖を与える。塚の間を遊行し、死屍に楽近し、其の身は燃え盛って火炎が起こり、若し世間に疫病が流行して死亡者が出るならすぐに心が喜悦する。若しは悪呪が有って召喚されるなら直ぐにやって来て、衆生によく不利益になること』なす。『其の動作は迅疾で、一念でよく百千由旬を至る。この故に「疾行餓鬼」と名』づ『けられる。凡世の愚人の供養する所。咸いは皆之を「大力神通夜叉である」と号す。このように人に種種の災禍をもたらす。悪業は尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して 、苦を受ける。若し人に生まれるなら呪師の家に生まれて諸の鬼神に属し 、鬼神の廟を守る。余』、『業』(ごう)『を以ての故』に、こ『のような報いを受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『疾行(しっこう)、僧の身で遊興に浸り、病者に与えるべき飲食物を自分で喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし』、『屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た場所に、一瞬で駆けつける』とある。

「呪師」この場合は狭義の魔神・淫祠邪教を崇める邪悪極まりない呪われた呪術師の限定。

「劉宋譯彌沙塞五分律」(みしやそくごぶりつ(みしゃそくごぶりつ))は南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)の建国直後に仏陀什(ぶっだじゅう)・竺道生(じくどうしょう)らによって訳された(四二二年から四二三年)「彌沙塞部和醯五分律」(みしゃそくぶわけいごぶりつ)。仏教教団(サンガ)を正しく維持運営してゆくために必要な教団規則と運営法を記した一つ。

「大德」個人的には上田秋成の「雨月物語 卷之五」の名作「靑頭巾(あをづきん)」(リンク先は私の古い電子化。私の高校教師時代の授業ノート及びオリジナルの現代語訳もある)以来、私は「だいとこ」としか読まない。

「羅刹鬼」羅刹天(らせつてん)は仏教の天部の一つである十二天に属する西南の護法善神。単に「羅刹」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、『羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王』(ねいりちおう/にりちおう)。『破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指す時もある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える』。『ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたもので』、『その起源は』『アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた』。「ラーマーヤナ」では、『クヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ね』、『バラモン・ヒンズー教では』、『人を惑わし』、『食らう魔物として描かれることが多い』が、『仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようにな』り、『十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる』。『中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった』。十『世紀の延暦寺の僧』で、本邦の浄土教の祖である源信の「往生要集」は、『その凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている』。一般に『羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラークシャサ、ラークシャス、ラクシャーサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また』、『羅刹女といえば』、「法華経」の「陀羅尼品」に『説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに』「孔雀経」では』七十二もの『羅刹女の名前が列記されている』とある。

「葉華(えふくわ)」竺法護(じくほうご 二三一年~三〇八年?:西晋の僧。遊牧民であった月氏(げっし)の出身。西域諸国を巡遊して経典を収集し、般若思想の仏典を中心に漢訳した。月氏菩薩・敦煌菩薩とも称された)の訳になる「彌勒下生經」(みろくげしょうきょう)にも「是時翅頭城中、有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、每向人民寝寐之後、除去穢惡不浄者、常以香汁而灑其地極爲香淨」(是の時、翅頭城の中に羅刹鬼有り。名を葉華と曰ふ。所行、法に順ひ、正教違はず、每(つね)に人民に向きて、寝寐の後、穢惡不淨の者を除け去り、常に香汁を以つて其地に灑ぎ、極めて香淨と爲す)とほぼ同じようにあり、この方が熊楠が引く「增壹阿含經」より古い漢訳と思われる。

「祝穆の事類全書續集」、南宋の学者祝穆(しゅくぼく 生没年不詳:彼の曾祖父祝確は朱熹の母方の祖父で、祝穆自身も朱熹に学んだ)類書で正しくは正篇は「古今事文類聚」で「續集」の他に「後集」「外集」もある。「中國哲學書電子化計劃」で影印本で当該部の「戒厠上相尋」(厠の上に相ひ尋ぬることを戒む)が読める。

「郭璞(かくはく)」空想地誌で魯迅も耽読した「山海經(せんがいきょう)」の最古の注釈で知られる西晋・東晋の文学者にして卜占家として有名であった郭璞(二七六年~三二四年)。河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)の人。文才と卜占術により、建国間もなかった東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や「捜神記」などの志怪小説においては、超人的な予言者や妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通じたのみならず、古典にも造詣が深く、「山海経」の他にも「爾雅」などに注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」・「江賦」などが代表作として残る。参照した当該ウィキによれば、低い家柄に生まれ、『訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から』「青囊中書」という『書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、いにしえの』漢の「易経」の専門家『京房』(けいぼう)や三国時代の占い師として有名な管輅(かんろ)をも『凌ぐほどであったという』。後続同士の内乱である「八王の乱」によって『中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によると、江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという』。『江南に来た郭璞は、その後、司馬睿』(えい)『(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となり、その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も受けるに至った』。『東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子司馬紹(後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった』政治家温嶠(おんきょう)や庾亮(ゆりょう)『らと同等の待遇を受けた』。しかし、三二四年、司馬睿から大将軍の地位を賜った『王敦』(おうとん)が『反乱を企て、郭璞に』、『その成否を占わせたところ』が、『「成る無し」の結果がでた。占いを命じた王敦は、『かねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていたので』、その『結果に激怒し』、『郭璞を処刑した。享年』四十九。「王敦の乱」が『平定されると、弘農郡太守を追贈され、子の郭驁』(かくごう)『が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った』。

「桓彜(くわんい)」(二七六年~三二八年)は西晋末から東晋初期の官僚・政治家。譙国竜亢県(現在の安徽省蚌埠市懐遠県)の人。東晋の朝廷の運営や地方の統治で活躍したが、「蘇峻の乱で討死した。当該ウィキによれば、貧しい家柄の出であったが、『朗らかで早くから盛名を得』、『道徳的秩序や物事の本質を見極めることに長け、幼少の頃から』、『才は抜きん出ていた』という。『西晋に仕え、兗州』(えんしゅう)『の主簿』から、三〇一年三月には『斉王司馬冏』(けい)『の挙兵に赴き、騎都尉に任じられた』。その後、当時、安東将軍であった『司馬睿から逡遒』(しゅんしゅう)『県令に任じられ』、三一一年十二月には『江南に渡り』、既に『丞相』となっていた『司馬睿に仕えた』。その後、『丞相中兵属・中書郎・尚書吏部郎を歴任、朝廷内で名声を高め』、『河北から温嶠がやってくると、王導・周顗』(しゅうぎ)・『謝鯤・庾亮らとともに親交を結んだ』。『大将軍王敦が権力を握ると、桓彝は病と称して職を辞したが。後の『皇帝司馬紹から散騎常侍に任じられ、王敦討伐の密謀に参画した。王敦の乱平定後、万年県男に封じられた』。『丹陽尹温嶠の推薦を受け、司馬紹自ら詔勅を発して宣城内史に任じられた。桓彝は宣城を治める任に堪えられないと上疏した』ものの、『しばらくして、宣城内史就任を承諾した。郡内に善政を敷き、百姓らに親しまれた』。三二七年十二月、『冠軍将軍蘇峻が朝廷に対し、反乱を起こした。桓彝は兵を率いて建康に赴こうとした。長史裨恵』(ひけい)『は、宣城郡の兵は』少ない上に脆弱な上、『民は動揺しやす』かった『ため、備えを解いて』、『反乱が終わるのを待つことを勧めた』が、『桓彝は』色を変え、「『君主に無礼をする者には、たとえ、相手が強い鷹鸇(ようせん:「鸇」はハイタカ又はハヤブサ)で、自分が弱い鳥雀(うじゃく)であったとしても、これを追い払うべきものである』と言いうではないか。今、社稷に危機が迫っているのに、義を無くして、くつろぎ楽しんでおれようか」と怒り、『将軍朱綽』(しゅしゃく)『を遣わし、蕪湖で蘇峻軍を破った。桓彝は蕪湖に進んで屯した。蘇峻軍の将韓晃は桓彝を破り、宣城に進攻した。桓彝は広徳に退いた。韓晃は周囲の諸県を掠奪して帰還した』。三二八年五月、『桓彝は建康が陥落したと聞き、涙を流して歎き悲しみ、涇県に進んで屯した。この頃、州郡の多くが蘇峻に降伏していた。裨恵は蘇峻に使いを送り、友好を結んで災いを避けるように説いた。桓彝は「私は国から厚恩を受けており、義のために死ぬつもりだ。恥を忍んで、逆臣と通ずる』ことなど思いもよらぬ。『たとえ揃わずとも、私の考えに変わりはない」と断った。桓彝は将軍兪縦に蘭石を守らせた。蘇峻は韓晃に攻撃させた。兪縦は敗れ』、激戦の『末』、『討ち取られた』。『韓晃は宣城を攻めた。援軍はなく、韓晃軍は「桓彝が降伏すれば、礼をもって優遇する」と降伏を呼びかけた。将兵の多くは、偽りの降伏をして後々の機会を待つように勧めた。桓彝は従わず、抗戦の意志を変えなかった』。六月、『宣城は陥落、桓彝は韓晃に討ち取られた。享年』五十三。『蘇峻の乱平定後、廷尉を追贈され、簡と諡され』、『咸安年間に太常に改贈された』とある。『幼少から庾亮とは親交があり、雅で上品であったため』、『周顗に重用された。周顗は』、「彼の人品高潔なさまと言ったら、「思わず笑う人がいるに違いない」とまで嘆いたという。『江南に渡った際、桓彝は司馬睿の朝廷が微弱であるのを見て、軍諮祭酒周顗に「私は中原の混乱を避け、安全を求めて来たというのに、こんなに弱々しくては、どうして事を成すことができようか!」と憂いと懼れのため』、『楽しめずにいた。軍諮祭酒王導のもとを訪れ、ともに世事のことについて語り合った。その後、周顗に「管夷吾(管仲)を見た。もう憂うことなどないぞ」と喜んだ』という。(以下は本エピソードの訳)『占術者の郭璞と親交を結んでいた。桓彝はいつも郭璞の妻がいる間にやってきた。郭璞は妻に「卿が他所から来られたら、小道の前で迎えるように。ただし、廁に入っているときは様子を探らなければだめだ。必ず客や私に災いが有るだろう」と告げた。桓彝が酔って郭璞の家にやってきて、廁で郭璞と会ってしまった。郭璞は裸になって髪を振り乱し、刀を咥えて祭壇を設けた。郭璞は桓彝を見て、心をなだめつつ』、『大いに驚き』、『「あなたと私は友ではあるが、今、来てはいけなかった。もう少し遅ければ、このようにはならなかった!』 『災いは私だけでなく、あなたも免れないだろう。これは天が成したことで、誰に罪があろうか」と言った。郭璞は王敦の乱で、桓彝は蘇峻の乱でいずれも殺害された』とある。さても、これは注に「晋書」の巻七十二の「郭璞」からとするのだが、例えば、中文サイトのこちらで、そちらの部分を読めるのだが、その禁忌の戒め部分は婦人に郭璞は妻に言ったように書き分けられてはいないし、私自身「戒」とする以上、これは郭璞が桓彝に禁忌として言ったとしか読まなかったし、読めないのである。ともかくもこのシークエンスは――郭璞が――誰にも見られないようにして――厠の中で厠の神を祀る秘密の儀式を行っていた――この秘儀が人に見られた場合には――祭祀をしている自分だけでなく――それを見てしまった人間にも災いが齎される――と言っているということである(そもそもが、この戒を妻に言った場合には、覗き見するのは、妻の可能性が志怪小説なら非常に高くなる気がするから、そうした意味からも、先の訳は、ちょっと変であると私は思う)。最後に言っておくと、桓彝が戦死するのは郭璞が殺された四年後のことであった。郭璞の予言は見かけ上は当たっていたようには見えないこともない。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡下野(おばたしもつけ)が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「阿群」一応、「あぐん」と読んでおくが、どのような由来を持つ僧侶かは全く不詳。

「眼睛耀射にして當たり難きを以て」その目の瞳の輝き照射する眼光が眩しく鋭いために、直接に対面して向き合うことが出来にくいことから。

「書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて、相問ふを得ずと有る」「南方熊楠 小兒と魔除 (4)」の私の注で「日本書紀」の当該箇所の原文及び訓読を電子化してある。

「無能勝三藏」「能く勝れるもの無き三藏法師」の意で、玄奘(げんじょう 六〇二年~六六四年)の尊称の一つ。

「螺髻梵王」以下は梵天の伝承の一つか。

「呪仙」ありとある呪術呪文・仙術法を駆使して。

「城塹」城壁と塹壕。

「如來」この場合は涅槃を経て成った「釋迦如來」のことのようである。

「不壞金剛」本来は「極めて堅固で決して壊れないこと・志を堅く守って変えないこと」で仏の身体について言った語とされる。「金剛」は金石(きんせき)の中で最も硬いダイヤモンド、或いは金又は鉄鋼石であるが、ここは釈迦如来の体内から遣わした金剛力士として仏身の変化の一部とされてある。

「酉陽雜俎十四、厠鬼の名は……」巻十四「諾皋記上」の『「太真科經」說』で始まる一節に、

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厠鬼名頊天竺【一曰笙。】。(厠の鬼は「頊天竺(ぎよくてんぢく)」と名づく【一つに「笙」と曰ふ。】。

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とある。私が面白く思ったのは、それに続けて、

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語忘、敬遺、二鬼名、婦人臨產呼之、不害人。長三寸三分、上下烏衣。(「語忘と「敬遺」とは、二鬼の名なり。婦人の產に臨むに、之れを呼ばば、人を害せず。長(た)け三寸三分、上下(かみしも)は烏衣(うい[やぶちゃん注:黒い着物。])たり。)

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ことである。熊楠も言っているように排泄と出産及び厠は親和性が強いのである。

「淵鑑類凾」(底本では「凾」と「函」が混用されている。統一する必要はないのでそのまま電子化してある)は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。巻三百五十の「厠一」の一節に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこの最後から視認し、一部の漢字は正字化した)、

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紀聞曰宣城太守刁緬初爲玉門軍使有厠神形見狀如大猪遍體皆有眼出入溷中游行院内緬時不在官吏兵卒見者千餘人如是數日緬歸祭以祈福厠神乃滅旬日遷伊州刺史歷官至翰林左將軍 語林曰石崇厠常有十餘婢列皆佳麗藻飾置甲煎沈香無不畢具又與新衣客多不能著王敦爲將軍年少往脫故衣著新衣氣色傲然羣婢謂曰此客必能作賊 世說曰王大將軍敦初尙主如厠見漆箱中盛乾棗本以塞鼻王謂厠上下果食遂至盡既還婢擎金澡盤盛水琉璃碗盛澡豆敦自倒著水中而飮之謂之乾飯羣婢掩口而笑之葆光錄曰台州有民姓王常祭厠神一日至其所見著黃女子云某台州人也君聞螻蟻言否民曰不聞遂懷中取小合子以指㸃少膏如口脂塗民右耳下戒之曰或見蟻子側耳聆之必有所得民明旦見柱礎下羣蟻紛紜聽之果聞相語移穴去暖處傍有問之何故云其下有寶甚寒住不安民伺蟻出訖尋之獲白金十錠

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これは後学の方のために写し置いただけで、よく意味が判らぬのだが、ここに出る王敦って、さっき出た郭璞を殺した彼か? 何か、因縁っぽい!

「支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪を畜て糞を食しむる風有りし」これはかなり知られた話である。家屋の厠の下が豚舎になっていて、人糞を豚が餌にしていたのである。実は便所を意味する「溷」或いは「圂」とはもともとは「豚小屋」の意である。「豕」+「囗」の会意で、「説文」に「囗に從ひ、豕の囗中に在るに象る」とあり、「囲いに豚がいる」という字で、「囲いに豚を飼い、また、その傍らで用を足しては人糞を豚の餌とする」ことを見する。「溷」は排泄で「水が濁る」の意と、「豢」が「家畜」という意に通ずる。畑の肥料ばかりではなかったのだ! 驚く勿れ! 嘗ては、瀬戸内海の食用マガキの養殖場では、中型船で人糞を肥料として大々的に撒いていたのだ。我々の幼少の頃の生牡蠣は俺たちの糞で育ったのだ!

「賈姬」前漢の第六代皇帝景帝が寵愛した邯鄲の出の賈姫(趙敬粛王劉彭祖と中山靖王劉勝の生母)。ウィキの「郅都」(しつと:景帝時代の酷吏として知られる)によれば、景帝が彼女を伴って、上林苑へ狩りに出かけ、郅都も同伴した。時に、賈姫が厠で用を足した折りに、突然、野生の猪が彼女がいる厠に猛進した。景帝はこれを見て、郅都に目配せしたが、郅都は助けに行こうとしなかったので、景帝は自ら武器を取って、助けに行こうとした。すると郅都は景帝の前に平伏して言った。「側室が失われようとも、陛下には数多の側室が御座います。しかし、陛下はたったお一人であります。陛下の身に何かあった時には、漢の宗廟や御生母の竇(とう)太后はどうなされますか?」と直言した。景帝は行くのを止め、やがて猪は厠から出て来て、森林に立ち去ったという。幸い賈姫は無事だった。景帝の生母の竇太后はこれを聞いて彼に金百斤を与え、また、これ以来、郅都は天子や竇太后の信頼が絶大となり、重用された、とある。

「呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事」「呂后」呂雉(りょち 紀元前二四一年~紀元前一八〇年)。恵帝の母。中国で「三大悪女」として唐の武則天(則天武后)・清の西太后とともに名が挙げられる。高祖の没後、彼女の子である恵帝が即位して間もなく、呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子斉王劉肥や趙王劉如意の殺害を企てた。斉王の暗殺は恵帝によって失敗したものの、趙王を謀殺、その生母戚夫人を奴隷に落として両手両足を切断した上、両目を刳り抜いた上に、薬を用いて耳と声帯を潰し、その後、便所に置いて「人彘」(人豚(ひとぶた))と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていたと史書にはある(ウィキの「呂雉」に拠った)。

「郭登」中国伝来で本邦でも厠神の一名として知られた。ウィキの「加牟波理入道」(かんばりにゅうどう)によれば、『鳥山石燕の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」に載る『日本の妖怪、および日本各地の厠(便所)の俗信に見られる妖怪。同画集では、『厠に現れる妖怪として口から鳥を吐く入道姿で描かれ、解説文には以下のようにあり、大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れないと述べられて』ある。所持する同画集(一九九二年国書刊行会刊「鳥山石燕  画図百鬼夜行」の原画図)により電子化した。仮名遣いは総てママである。

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  加牟波理入道(かんばりにうどう)

大晦日の夜厠(かはや)にゆきてがんばり入道郭公(ほとゝきす)と唱(とな)ふれば妖怪(よふかひ)を見ざるよし世俗(せぞく)のしる所也もろこしにては厠神(かはやかみ)の名を郭登(くはくとう)といへりこれ遊天飛騎大殺(ゆうてんひきだいさつ)將軍とて人に禍福(くはふく)をあたふと云郭登(くはくとう)郭公(かつこう)同日(どうじつ)の談(だん)なるべし

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同書解説に、この郭登は実在する明の武将とする。郭登(一四〇三年~一四七二年)である。実在した郭登については九州大学中国文学会二〇一七年十二月発行の『中国文学論集』所収の井口千雪氏の論文『明朝勲戚武定侯郭氏と文学 「諸葛の如き」定襄伯郭登PDF)が詳細を極めるが、彼が何故、厠神とされるかの記載は、残念ながらなく、不明である。ウィキの引用を続ける。『兵庫県姫路地方では、大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と』三『回唱えると、人間の生首が落ちてくるといい、これを褄に包んで部屋に持ち帰って灯りにかざして見ると、黄金になっていたという話もある』。松浦静山の「甲子夜話」にも『これと似た話で、丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭は』、『たちまち』、『小判に変わると記述されている』(私は「甲子夜話」の電子化注を行っているが(全部所持してはいる)、調べたところ「甲子夜話第三篇」にあるという情報は得たものの、探し得ていない。見つけたら、電子化し、ここにリンクを張る)。『一方で、この呪文が禍をもたらすこともあるといい、江戸時代の辞書』「諺苑」では、『大晦日に「がんばり入道ほととぎす」の言葉を思い出すのは不吉とされる』とあるという。『加牟波理入道とホトトギスの関連については、文政時代の風俗百科事典』「喜遊笑覧」に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くと不祥事が起きるとの俗信が由来で、子供が大晦日に厠で「がつはり入道ほととぎす」とまじないを唱えるとの記述があり(「がつはり」は「がんばり」の訛り)』、『中国の六朝時代の書』「荊楚歳時記」にも』同様に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くのは不吉と述べられている』。『また、ホトトギスの漢字表記のひとつ・郭公(かっこう)が中国の便所の神・郭登(かくとう)に通じるとの指摘もある』。『岡山県の一部では、加牟波理入道の俗信が見越し入道と混同されており、厠で見越し入道が人を脅かすといい、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ホトトギス」と唱えると見越し入道が現れるなどといわれている』。『中国の巨人状の妖怪「山都」が日本に伝わり、厠神(便所の神)と混同された結果、この妖怪の伝承が発祥したとの説もある』(「山都」については、私の古い電子化注寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」にある「みこし入道 山都」を参照されたい)。『十返舎一九による読本』「列国怪談聞書帖」には『「がんばり入道」と題した以下の話がある』。『大和国(現・奈良県)で、淫楽に取りつかれた男が、一族の者に性癖を諌められたために剃髪して山中の小屋におり、白目をむいて女たちを見張るので、「眼張(がんばり)入道」とあだ名されていた』。『あるとき』、『入道の留守中に盗賊が小屋に忍び込むと、入道にさらわれた娘が閉じ込められていた。盗賊は娘を哀れんで』、『家から連れ出そうとしたところ、入道が帰って来て』、『娘を帰すまいとしたので、盗賊は入道を殺し、娘を親元に帰した』。『以来、白い着物姿の入道の霊が娘の家に現れるようになった。親が娘を隠すと、入道は娘を捜して村中の家、馬屋、便所を狂い歩き、村人たちを恐れさせた』。『しかしある晩、入道は犬に噛み殺されてしまった。夜が明けると、そこには白い着物をまとったキツネが死んでいた。人々は笑い、キツネが入道を真似た挙句に呆気ない最期を遂げたと言い合ったという』とある。

「陶侃(とうかん)」(二五九年~三三四年)は東晋初期の名将。鄱陽 (江西省) の人。荊州刺史として先に出た司馬睿の命を受けて流民集団杜弢 (ととう)の討伐に当たった。一旦、広州刺史に左遷されたが、後に再び荊州刺史となって。「蘇峻の乱」の平定に功があった。東晋最大の州鎮の統帥として大きな勢力を持ち、長沙郡公となり、在任のまま没した。彼をどうしても注したかったのは、彼の曾孫が、かの名詩人陶淵明であるからである。

「介幘(かいさく)」髻(もとどり)を覆い隠して髪を包むのに附けた頭巾。

「庾翼(ゆよく)」(三〇五年~三四五年)は東晋前期の政治家・武将・書家。潁川郡鄢陵県(現在の河南省許昌市鄢陵県)の出身。当該ウィキによれば、『風儀に優れ、幼くして経綸大略に通ずると評され』、『後に南蛮校尉・南郡太守・輔国将軍と叙任し』、三四〇年、『都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西将軍・』荊州刺史となり、『武昌に鎮した。庾翼は領地の地方都にまで軍令を行き届かせ、数年の内に官府の庫や人民たちの財までも充実させるなど』、『良政を敷いた』ことから、『黄河以南の地の人民から支持を得たという』。三四三年、『後趙の汝南郡太守である戴開が数千人を伴って投降してきた事を機に、庾翼も北伐の大志を抱くようになり、前燕の慕容皝と前涼の張駿に使者を送って期が来れば同調して起兵するよう求めた。またこれに伴って領内での賦役を強化するようになり、広州の海道の人を百姓として徒民させた』。『康帝(司馬岳)に庾翼は北伐を上表し、加えて鎮を対後趙の最前線である襄陽へと移すことへの許可を求め、承認も得ぬうちから六州から牛や驢馬を徴発し始めていたが』、『朝廷に却下され、続いて安陸への移鎮を求めるも』、『これも却下された。これらの行動を車騎参軍の孫綽に諌められるも』、『聞く耳』を『持たず、夏口へと勝手に軍団を移動させて再度襄陽への移鎮を上表すると、実兄の庾冰や桓温、譙王司馬無忌らの賛成によって襄陽への移鎮が承認され、都督征討諸軍事(後に征西将軍・南蛮校尉も追加)となり、庾翼の代わりに庾冰が武昌へと移り、後任に入った』。三四四年、『庾翼は桓宣に後趙に占拠されていた樊城の攻略を命じたが、桓宣は丹水の戦いで後趙の李羆の前に大敗を喫し、これに激怒した庾翼は桓宣を建威将軍に降格した上で峴山へと左遷した。同年中に成漢討伐に周撫と曹璩を向かわせたが、江陽で李桓に敗れた。また』、十一月に『庾冰が亡くなると』、『長子の庾方之に襄陽の守備を任せて夏口へと移り、庾冰の領兵を自らの指揮下に置き、朝廷からは江州・豫州刺史に任じられたが』、『豫州刺史は辞退し、替わりに楽郷への移鎮の許可を要求したが朝廷に拒否された』。三四五年、『背中の疽からにわかに発病して七月』『に亡くなった。享年』四十一であった。『朝廷より車騎将軍を追贈され、諡号は粛とされた。亡くなった際の官途は持節・都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事・江州刺史・征西将軍・都亭侯。死に際して庾翼自身は次子である庾爰之を後継に望んだが、宰相何充は荊州の戦略的重要性から能力のある人間が当たるべき職務であるとして桓温を後任に据え、庾翼の持っていた強大な軍権をほぼそのまま桓温に引き継がせた』とある。悪性の腫瘍で亡くなったというのは、厠神を撃ったそれと親和性は感じられる。『東晋国内では書家としても著名であり「故史従事帖」などの作がある。草隷に優れ、当時においては王羲之と並ぶほどの人気があったという』。『桓温については若年』の時から『目を掛けており、明帝(司馬紹)に桓温を推挙する際に「若くして武略を知るので特別な職を与えるべき」「いずれ国の艱難を救う」と評した』という。

「方相(はうさう)」方相氏。本来は中国周代の官名。宮中にあって年末の大切な追儺 (ついな)の節会に於いて、悪鬼を追い払う役を担当した。黄金の四つ目の仮面を被り、黒い衣に朱の裳 を着し、矛と盾を持って、内裏の四方の門を回っては鬼を追い出した。グーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

「歲時記」六朝時代(二二二年~五八九年)の荊楚(現在の湖北・湖南省)地方の年中行事や風俗を記録した梁の宗懍(そうりん)の撰になる「荊楚歳時記」か。六世紀半ば頃の成立。

「異錄傳」不詳。前蜀(九〇七年~九二五年)の杜光庭撰の志怪小説集「錄異記」か。但し、以下の話は東晋の政治家・文人干宝(?~三三六年)の知られた志怪小説集「搜神記」に後半を除くと、概ね同型話で載るものである。

「廬陵」江西省。

「歐明(わうめい)」不詳。

「彭澤湖(はうたくこ)」現在の江西省にある鄱陽(はよう)湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禪衣(ぜんえ)」僧衣でよい。

「靑湖君」「搜神記」では「靑洪君」。

「如願(じよぐわん)」語としては「願い事が叶う」の意。

「婢」侍女。

「後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走り入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり」この部分は「搜神記」にはなく、「神婢」の「如願」が「厠神」らしきものになった由来譚として形成されてある。しかし、何故に元旦に如願が寝坊したのかが、明らかでなく、後の風俗として、何故、繩で傀儡を縛り、肥溜めの中に投じ、「願いの通りにならしめよ」と呪文するようになったのかといった、核心部分が、孰れも上手く繋がらず、そこにこそ超自然の因果を感じさせはするものの、私にはやはり、竹で鼻を括ったような納得出来ない不快感が感じられる。酔ってやってはならないことを成してしまい、幸福が永遠に去るというのは、神話に於ける禁忌システムの発動ではあるのだが。

「平賀鳩溪實記」「鳩溪」は平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)の号。竹窓櫟齋(ちくそうれきさい)なる不詳の人物による天明八(一七八八)年頃に書かれた源内の実録伝奇風の読物。その「卷一」の「三井八郞右衞門源内へ對面の事」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(写本。標題は「平賀實記」)から読める。遊女白糸を請け出して三井八郎右衛門(かの三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名)に恩を売ったとったことが書かれている。但し、本書は実録性が疑われている。自制的には三井家四代目当主代三井高美(たかよし 正徳五(一七一五)年~天明二(一七八二)年)となろう。熊楠の引用はここの左頁五行目からで、重大な箇所「凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」ここの右頁の三~四行目に現われるが、ネット上では「泉州岸和田」の「飯の彌三郞」は如何なる人物か具体的には書かれているものが見当たらない。【202133日追記】私の各種のテクスト注に対して、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「平賀鳩溪實記」や南方熊楠の表記に問題があり、この当時は(後述する)「食野」(めしの)であったと御指摘を受けた。ウィキの「食野家」(めしのけ)によれば、食野家は、江戸『中期から幕末にかけて和泉国日根郡佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。 屋号は「和泉屋」。同じく同地で栄えた唐金家(からかねけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『食野家の出自は、楠木正成の子孫の大饗(おおあえ)氏。初代正久のときに武士から廻船業に乗り出したとされている』。「食野家系譜」などの『資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する』十七『世紀後半には』、百『隻近い船を所有して全国市場に進出するなど』、『大いに発展した。大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった。』。『摂津国西成郡春日出新田(現在の大阪市此花区春日出中)を入手し、さらに西道頓堀川付近、幸町や南堀江一帯に家屋倉庫を所有したほか、本拠である佐野村では豪壮な邸宅と海岸沿いの道路の両側に「いろは四十八蔵」と呼ばれた大小数十の倉庫群が建てられるなど、現在の泉佐野駅から浜側一帯が貝塚寺内や岸和田城下を凌ぐ「佐野町場(さのまちば)」として栄える中心的存在となった。岸和田藩では藩札の札元に任命されるなど、唐金家とともに同藩の財政を支える上で重要な役割を果していた』。宝暦一一(一七六一)年には『鴻池家、三井家、加島屋など』の『名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け』、文化三 (一八〇六)年には『三井家とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米を命じられた。大名貸しでは岸和田藩はもちろん』、『尾張徳川家・紀州徳川家など』、実に『全国の約』三十『藩に』四百『万両ともいわれる多額の資金を用立てた』。しかし、『その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより』、『一気に没落に至り、同家は同地に現存していない。屋敷跡は』弘化元・二(一八四五)年に『佐野村が買収し、現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。また』、『いろは四十八蔵も海岸筋に』八『棟が現存している』。『末裔にプロサッカー選手の食野亮太郎がいる』。『食野家の当時の発展ぶりを示すエピソードが多数残されている』。例えば、『地元の盆踊り(佐野くどき)では「加賀国の銭屋五兵衛か和泉のメシか」と唄われて』おり、『大名貸しをしていた紀州藩では、参勤交代の往復に紀州公が食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌で「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」と唄われた』。また、『食野の当主(佐太郎を世襲)が、にわか雨で雨宿りした紀州公の家来』一千『人を』、『とりあえず』、飯櫃(めしびつ)『に残っていた冷や飯でまかなったことから、「佐太郎」は冷や飯の代名詞とされ、川柳に「佐太郎を三度いただく居候」や「佐太郎は茶金の上に腰を掛け」など唄われた』という。また、『井原西鶴の』「日本永代蔵」には、『唐金家とともにモデルとなったといわれている。(同作品中に』は『食野家の所有する千石船「大通丸」をもじった「神通丸」が登場する』。『上方落語「莨(たばこ)の火」に、気前のいいお大尽「食(めし)の旦那」として実名登場する』とある。また、T氏は、「国文学研究資料館(歴史資料)和泉国日根郡佐野村食野家文書」(大永二(一五二二)年~明治四二(一九〇九)年)の書誌データも紹介して下さった。それを見ると、『佐野村は現泉佐野市の北西端に位置し、北は大阪湾に面する大村で』、『和泉九カ浦の中で最も繁栄し』、『特に食野家と唐金家は廻船業と大名貸で財をなしたことで有名である。食野家の初代多右衛門正久は、大饗二郎左衛門正虎から分かれ、故があって大饗の姓を食と改め、武を捨てて商家となったと伝えられている』。「食野」はこの文書の初期のそれにあっては、「めし」・「食」であって、本文書群の中では元禄から享保(一六八八~一七三四年)頃から「食野」となっている。『食野家の存在を示す最も古い文書は売券』(ばいけん・うりけん:売り渡し証文。沽券)で、天正一五(一五八七)年八月附のもので、売却先を『「めし左太郎」』と記し、元和四(一六一八)年五月28日附のそれでは、『十良大夫』なる人物が『屋敷地を』『「めし二良左衛門尉」に売却していることなどから、天正年間から佐野に住居し、土地集積を行っていたことがわかる。食野家は』十七『世紀後半には全国市場に進出して活躍するが、その活動資金がどのように蓄積されたかについては未詳である。全盛期の主業は廻船業と大名貸で、この富を背景にして』、享保七(一七二二)年に『大坂春日出新田を入手し、さらに西道頓堀付近、幸町、堀江一帯にわたって家屋倉庫を所有している。本拠である佐野においても』、『富を象徴する豪壮な邸宅と海岸に沿う道路の両側に「いろは四十八蔵」を建てた』。『一方で』、『岸和田藩との関係も密接で、藩札の札元に任命されているし、藩財政を支える上で重要な役割を果している。幕末になると食野家は廻船業の停滞と、大名貸の焦げ付きが原因となって急速に衰退する』とある。則ち、同家は姓として、戦国末期には「めし」を、元禄頃からは「食野」を使ったことが判る。T氏は他にも、泉佐野市立中央図書館の「いずみさのなんでも百科」の「食野家」と、「新庄デジタルアーカイブ」内の「諸国家業じまん」番付表の画像を紹介して下さった。前者には、『本家は幼名佐太郎、次郎左衛門を襲名。分家は吉左衛門を名乗り』、『食野家は楠木氏の子孫で室町時代中頃にはすでに佐野に住んでいた』らしく、『大饗(おおあえ)氏を名乗ってい』『たが、初代正久のときに』『食を名乗り、武士を捨て』、『廻船業に乗り出し』たとし、『食の姓はいつしか 通りがいい食野に変わっていったようで』、『江戸時代中期の』宝暦一一(一七六一)年には『鴻池、三井、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け、後期の』文化三(一八〇六)年には『三井とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米』(かいまい:米価引き上げなどの目的から幕府・諸藩が大名や市中の商人に米の買いつけを命じたこと。また、その米。幕府や藩自身が買い取る場合もあった)『を命じられるほどで』、『食野家の当時の発展ぶりは「加賀の銭屋か和泉のメシか」といわれるほどで、佐野くどきにも数々のエピソードが唄いこまれてい』るとある。後者の「諸国家業じまん」番付表では、東の大関(当時は横綱はないので最高位)に「三井八郎右ヱ門」が、西の大関に「飯野佐太郎」と記されてあるのが見られる。いつも乍ら、T氏に心より感謝申し上げるものである。

「倭漢三才圖會八一に白澤圖云、……」同書の「厠」の項を所持する原本から以下に訓読して示す。「【音 】」の実際の漢字が欠字なのは総て同じ。一部の読みや送り仮名は私が推定で附した。字の大小は項目の「廁」以外は無視した。

   *

かはや      圂【音 】 溷【音 】

 せつちん    圊【音 】 偃【音 】

【音差】     和名「加波夜」。

         俗云雪隱

ツアヽ

「說文」に徐氏が云はく、「廁、古へ之れを『清』と謂ふ。言ふこころは、其の不潔、常に當に清く之れを除くべきを以つてなり。

「白澤圖」に云はく、「厠の精を倚(い)と名づく。靑衣を著(き)、白き杖を持つ。其の名を知りて之れを呼べば、除く[やぶちゃん注:姿を隠す。]。其の名を知らずして之れを呼べば、則ち、[やぶちゃん注:声に出して呼んでしまったその人間は。]死す。又、云はく、室を築けば[やぶちゃん注:新築した家の廁には。]、三年、其の中に居らず。人を見るときは、則ち、面(おもて)を掩(おほ)ひ、之れを見れば、福、有り。」と。

「居家必用」に云はく、「厠の神【姓は】、廓、【名は】、登、是れ、『庭天飛騎大殺將軍』なり。觸れ犯(おか)すべからず。能く灾福(さいふく)[やぶちゃん注:「灾」は「災」の異体字。]を賜ふ。」と。

「五雜爼」に云はく、「今、大江[やぶちゃん注:長江。]より北の人家、復た厠を作らず。但し、江南は廁を作りて、皆、以つて、農夫と[やぶちゃん注:人糞を。]交易すればなり。江北には水田無き故、糞、用いる所、無し。其れ、地上に乾くを、然るの後(のち)、土に和して、以って田に漑(そゝ)ぐ。京師(みやこ)には、則ち、溝の中に停(とゞ)めて、春を俟(ま)ちて後(のち)、之れを發(あば)き、日中に暴(さら)す。其の穢氣(をき)、近づくべからず。」と。

   *

『「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり』既に注した通り、これは後の「續南方隨筆」(本書(五月刊)と同じ大正一五(一九二六)年十一月に同じ岡書院から出版)の中で単発初出などを総括した「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節にある「呼名の靈」で、これは『鄕土硏究』三号の一五八頁に載る桜井秀氏の論考「呼名の靈」に対する熊楠お得意の触発された追加論考である。これは半世界的に神話・伝説に典型的に見られる「言上(ことあ)げ」の先に名指したものが勝つタイプの先手必勝型の「名指し」=「見切り」型のそれについての事例である。私は本書の電子化注の後に「續南方隨筆」に取り掛かる予定である(何時になるか判らぬが)。今、読まれたい方は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、「万葉文庫」のこちらで一九七一平凡社刊「南方熊楠全集第二巻」の新字新仮名に変えた電子化本文が読める。

「酒井忠一子」「子」は子爵の意。伊勢崎藩九代藩主で子爵酒井忠彰の子(次男以下)。生没年未詳。

「ツイトンガ島」南太平洋に浮かぶ約百七十の島群からなるトンガ王国(グーグル・マップ・データ)。イギリス連邦加盟国の一つ。オセアニアのうちポリネシアに属し、サモアの南、フィジーの東に位置し、首都のヌクアロファは最大の島トンガタプ島にある。サイト「ポリネシアの神話・伝説」の「トンガの島々と人々の起源(トンガ)」によれば、本来、この「ツイ・トンガ」とは『トンガの聖なる人々の系譜』を意味するという。その興味深い創世神話がリンク先に記されているので、是非、読まれたい。

「得脫」生死の境を脱して永遠の神の世界の存在となること。仏教用語の転用。

「Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872」ドイツの心理学者・人類学者フランツ・テオドール・ワイツ(Franz Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)と、ドイツの地理学者ゲオルク・コーネリアス・カール・ガーランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)の共著になる‘Anthropologie der Naturvölker’ (「原始人人類学」。全六巻で実際の著者はワイツ。一八五九~年一八六四年刊。第五・六巻をガーランドがワイツの死後に編集したもの)の第六巻‘Die Völker der Südsee. 3. Abt. Die Polynesier, Melanesier, Australier und Tasmanier.’(「南洋の人々」第三部[やぶちゃん注:これは第五巻からの続いたものである。]「ポリネシア人・メラネシア人・オーストラリア人・タスマニア人」)。ドイツ語が読める方は、‘Internet archive’のこちらで同六巻の全原本がある(一八七二年版)

「クマラ」。南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方原産地とされる、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属サツマイモ Ipomoea batatas の南洋一帯での呼称。当該ウィキによれば、例えば、ニュージーランドへは十『世紀頃に伝播し、「クマラ」(kumara)の名称で広く消費されている。西洋人の来航前に』、『既にポリネシア域内では広く栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている』とある。

「其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘と湯津爪櫛を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂に到り玉へえるに似たり」私の好きな「呪的逃走(呪物投擲逃走)」システムの起動を示す、本邦の神話の最初の出現である。「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(18) 神道の發達(Ⅰ)」の私の注で訓読文を示してあるので、是非、読まれたい。また、本神話や熊楠の以下に挙げるような西洋の類型譚については、福島秋穗氏の論文「記紀に載録された呪物投擲逃走譚について」(『国文学研究』一九七九年十月発行。「早稲田大学リポジトリ」のこちらPDFでダウウ・ロード出来る)が優れている。必読!

梁の慧皎の高僧傳」中国南朝梁の僧慧皎(四九七年~五五四年)の撰になるした中国への伝来以来、後漢(西暦六七年)から梁の西暦五一九年までの四百五十三年間に及ぶ期間の高僧二百五十七名及び附伝する二百四十三名から成る壮大な伝記である。高僧の伝記を集めたもの。「梁高僧傳」「梁傳」とも呼ぶ。全十四巻。五一九年成立。当該ウィキによれば、『慧皎以前にも、梁の宝唱撰の「名僧伝」のように数種の僧伝が既に存在していたが、慧皎は、それら先行する類書の編集方針に満足できず、自ら新たに「高僧伝」を撰しようと思い立ったと、巻末に収められる自序において述べている。具体的には、「名僧伝」等は、世間で有名な僧、あるいは著名な僧の伝記を集めている。しかし、仏教の教えの観点から言えば、たとえ無名であっても、すぐれた僧、高僧は居る筈である。そういった僧の伝記が失われてしまうのを恐れて、「高僧伝」という名を立て、また、その観点から見て相応しいと判断した僧の伝記を収録した、と述べている』。以下の当該部は、「中國哲學書電子化計劃」のここから影印本で原本が読める。第八卷の「齊蜀齊后山釋玄暢」である。

「劉宋」南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)。

「釋玄暢」北方の著名な高僧玄高の弟子で、師に従って平城に行くが、ここある通ように北魏の太武帝が仏教を弾圧して、滅法を行った際には劉宋に逃げ込んでいる。彼は三論・華厳に通じており、「法華文句」の中にも、その名が見える(以上は信頼出来る複数の仏教論文に拠った)。

「幽」幽州。漢代に設置されたそれは現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市を中心とする地域に当たる。

「冀」冀州(きしゅう)。現在の山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)など、七つの省市に分属する附近。

「孟津」河南省洛陽市孟津県(もうしんけん)附近(グーグル・マップ・データ)。黄河右岸。

「揚州」中国古代のそれは「九州」の一つで、淮河南岸から南シナ海沿岸までの地方が想定されているが、理化し易いのは、隋代以降の州で、現在の江蘇省揚州市(グーグル・マップ・データ)に相当する。

「希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り」この話、非常に惹かれるのだが、その話を知らない。先の福島氏の論文にもぴったりくるものを見出せない。

「スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え童子脫するを得と有り」同前。なお、セイヨウサンザシについては、呪的効果が知られ、例えば、吸血鬼を滅ぼすために胸に打ち込む杭は同種である必要がある。

「Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869, vol. ii, pp. 273-274」イギリスの牧師で作家・地理学者としても知られたヘンリー・ファンショー・トーザー(一八二九年~一九一六年)の「トルコ高地の研究」。‘Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。

「Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443」スコットランドの民俗学者ウィリアム・アレクサンダー・クローストン(一八四三年~一八九六年)の「知られた話群と虚構」。Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。]

2021/02/26

出口米吉「厠神」(南方熊楠「厠神」を触発させた原論考)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「厠神」(かはやがみ)を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第二十九巻一号)に載った、出口米吉氏の「厠神」である。在野の民俗学研究者であった出口米吉については、私の『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』の冒頭注を参照されたい。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。【 】は底本では二行割注。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。]

 

    ○厠 神

              出 口 米 吉

 故坪井博士の「陸前名取郡地方に於ける見聞」【本誌二六七號[やぶちゃん注:「本誌」と言っているが、先行する『東京人類學雜誌』である。明治四一(一九〇八)年六月二十日発行で、知られた筆者民俗学者坪井正五郎である。「J-STAGE」のこちらで原本画像PDF)で見られる。以下の出口の引用は「三二五」ページ上段中央からの部分(PDF3コマ目)。]】の中に「休息中(道祖神社にて)畑中の便所へ行きましたが、其所で妙な物を見ました。便所内の妙な物とは、片隅に釣つた棚に並べて有る數個の土人形で有ります。これは閑所神(かんじよがみ)と云ふものださうで、仙臺地方の古風の家では、皆閑所即便所に置くと云ふ事であります。土人形は玩具と同じ樣に見えますが、特別に作られたものとの事で、其形には座つたのや、立つたのや、子供を背負つたの等の種類が有りまして、何れも女の樣に見受けられます。人形が直に神を表すのか、人形を神に供へるのか、多く置くのは何の故か、其邊の事は一向分りませんが、要するに便所を護る意味を以て置かれる樣子で有ります」とあり。便所の片隅に棚を設け、每日朔竪[やぶちゃん注:「ついたち」と訓じておく。]に燈明を其上に點じて厠神を祀ることは、作州津山にて行はると聞けり。大阪附近にては、便所内にて線香を立て、燈明を奉る所もありと云ふ。

 厠神を祀ることは、我國に於て古代より行はれたることありや否や明ならず。平田翁の玉手襁[やぶちゃん注:「たまだすき」。平田篤胤の主著の一つ「玉襷」。]八にては「厠を掌[やぶちゃん注:「つかさどり」]給ふ神の名は、古書に此者厠神と載傳たる文は無れど、世に卜家の神道また橘家の神道など傳ふる人々の說に、埴山毘賣神[やぶちゃん注:「はにやすひめのかみ」。]と水波能賣神[やぶちゃん注:「みづはのひめかみ」。]なりと云ふは、實に然も有べく覺ゆ。其は此二神は土神水神にて(世に井戸神とカウカ神と同じと云は水神の坐す故なるべし)伊弉那美神の御屎と御尿に成坐ればなり」と云へり。

 酣中淸話[やぶちゃん注:「かんちゆうせいわ」。江戸後期の小島知足の随筆。]上に曰く「今ノ世ニ後架神(コウカカミ)ト云フハ、白氏六帖ニ續幽怪錄ヲ引テ、厠神每月六巡トアリ。又柳宗元が文ヲ引テ厠鬼ト出セリ。皆ソノ事ナリ。サレド委シク知レガタキニ、玉燭寳典ニ劉升ガ異苑ヲ引テ、紫女本人家妾、爲大婦(シウトメ)所ㇾ妒、正月十五日感激而死、故世人作其形於厠、迎ㇾ之咒云、子胥【云是其夫】不在、曹夫以行【云是其姑】小姑可ㇾ出【南方多婦人爲ㇾ姑】トアリ。又俗云厠溷(カハヤ)之間、必須淸淨、然後能降紫女トモアリ。又白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ。雜五行書ヲ引タ後帝トアリテ、ソノ下ニ異苑ヲ引テ、陶偘如ㇾ厠、見ㇾ人自稱後帝、着單衣平上幘、謂ㇾ偘曰、君莫ㇾ說貴不ㇾ可ㇾ言、將後帝之靈馮紫姑見ㇾ女言也。ナド云フコトモ見エタリ。西土ニテモ古昔ハ專云ヒシコトニゾ有ケル。」

 靜軒痴談[やぶちゃん注:明治八(一八七五)年刊の寺門静軒の随筆。]二に曰く「佛家ニテ厠ノ神ヲ鳥瑟沙摩(ウスシヤマ)明王トイフ。不勤ノ化身ナリト云。佛說ニ修羅ト梵天帝釋ト戰ヒシ時、修羅ガ不動明王へ援ヲ乞フ。爾時帝釋ハカリ思フニ、佛ハ甚タ臭氣ヲキラヘバ、穢ヲ用テ防クベシト、糞ヲ以タ城ヲ築キイダセリ。明王少モ不潔ヲ忌ズ、其城ヲ一時ニ食ヒ盡シタリ。故ヲ以テ烏瑟沙摩明王ヲ厠ノ神トナスト云」と。玉手襁八には「俗には佛家の鳥芻瑟摩(ウスシマ)明王と云ふ物を厠の神なりと云ふは、密宗より出たる說なるが、谷川士淸も云る如く、謨りにて、信るに足らず。殊に此明王の穢をさけず功をなす由を記せる穢跡金剛法禁百變法門經、穢跡金剛說法術靈要門と云ふ物ありて、一切經に收めたれど、唐土の僧が玄家法術說をぬすみて僞作せること疑なき物なるをや。こは寂照堂谷響集[やぶちゃん注:運敞(うんしょう)著で元禄四(一六九一)年自序の仏教説話集。]にも早く其辯ありと所ㇾ思たり」と辨せり。

 厠神に對する祈願につきては、玉手襁八には、俗に流行目病は厠神に治癒を祈り、常に厠の穴に唾すれば眼を病むと云ひ、亦女は日々に厠を掃き淨めて、晦日每に燈明を献れば、腰より下の病を憂ひずと云ふといヘり。大阪持明院の本堂のほとりに厠ありて、其内に入りて離緣を祈れば必らず緣切れると云ひ、洛東淸水寺の本堂と奧の院との間にも同樣の厠あり、是は厠二個所並び建て、其一方の内には離緣を祈り、又一方に緣結びを祈るに功驗ありと傳ふるよし浪華百事談七に見ゆ。獄屋に入る者が厠室を祭りたることは類聚名物考に云へり。アイヌは厠神(ミンダルカムイ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]に人知れず咒咀の言葉を捧げて、人を殺すと本志[やぶちゃん注:「誌」の誤植か誤字。]二八卷六號吉田氏の文に記されたり[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年六月十日発行の『人類學會雜誌』の吉田巖の論考「アイヌの卜筮禁厭」。「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)の「三二七」ページ(14コマ目)に現われる。]。

 我國にて除夜燈を厠に點して厠神を祀ることは、支那より移りし風習なるべし。鹽尻十四に「世說故事苑[やぶちゃん注:江戸後期の大阪生玉真蔵院住職であった子登の類書。]云、異聞總錄云、京師風俗、每除夜、必明燈於厨厠等所、謂之照虛㲞[やぶちゃん注:「虛㲞」意味不明。]。趙林再といふもの。婢に命じて此燈を燃させけるが、此燈を見るに、麻油にして髮に塗に佳と思ひて、これを竊に陰し[やぶちゃん注:「かくし」。]、桐油を易て厠にともしけり。然して彼婢夜分に厠に行き、戶を排き見れば、長三尺五寸斗の婦人、披髮絳居[やぶちゃん注:後半、意味不明。]にして出で、小き箱に謳色所衣を盛て、携壁[やぶちゃん注:隔ての壁のことか。]の角にたゝずみ、衣を摺み[やぶちゃん注:「たたみ」か。「摑み」辺りでないと意味が判らぬ。]けるを、婢見て驚き叫ぶ。家内の人々往て見れば早失けり。此時油を易ふ者大に叫び、地に倒るゝ。衆人湯劑を以て扶還[やぶちゃん注:「たすけかへり」。]、甦即語曰、我輙桐膏易、以鬼之爲一ㇾ所ㇾ擊甚苦と云々」と云へり。昔は轉宅の時にも之を祀りしと見え、類聚雜要抄二に「康平六年[やぶちゃん注:一〇六三年。]七月三日壬寅内大臣(師實)移御花山院。(略)同移徙作法、(略)入ㇾ宅、明旦祀諸神、(諸神者門、戸、井、竃、堂、庭、厠等也)以甑内盛五穀祀ㇾ之、三日亦祀、以童女擊水火、炊釜内五穀祀ㇾ之、御移徙之後、三日之内(略)不ㇾ上ㇾ厠(下略)と云へり。

 

2021/02/24

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注(PDF縦書版)公開

『「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注』PDF縦書版をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:標題は「ペルーこくにへうちやくせるにほんじん」と読む。初出は大正元(一九一二)年十月発行の『人類學雜誌』第二十八巻十号で、初出は「J-Stage」のこちらで原雑誌のそれを読むことが出来る。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのここからである。これは「南方隨筆」の先の論文などが載る『東京人類學雜誌』が正しいのではないかと思われる方がいるかも知れぬので言っておくと、『東京人類學雜誌』は明治四四(一九一一)年に会誌名を『人類學雜誌』と改めており、編集方針も大きく変わっていた。]

 

      秘魯國に漂著せる日本人

 

 英譯 Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164 に、東西南半球間過去の交通を論じ、「日本と支那より西北亞米利加に漂著せる人あり。又米國の貨品が布哇[やぶちゃん注:「ハワイ」。]に漂著せる例あり。然れども南半球に至りては、高緯度に有て風と潮流が西より南米大陸に向ひ、赤道近くに隨ひ、風潮並びに南米より東方に赴き去り、凡て東半球と南米間に人類の彼此往來ありし確證實例なし。たゞ民俗相似の點多きより推して、曾て斯る交通有たるを知るのみ」と述たり。

[やぶちゃん注:「Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164」ドイツの地理学者・生物学者フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:当時、隆盛であった社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖でもある)の「民族学」(Völkerkunde:全三巻。一八八五年)の第一巻の英訳本。当該英訳原本を‘Internet archive’で読め、当該箇所はこちら(左ページ)である。

 以下の段落は底本では全体が一字下げである。]

 未開の民が、風と潮流に逆うて弘まり行きし例あるは、第二板「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁に、多島海人[やぶちゃん注:ポリネシア人。]、古へ航海に長じ、其邊の風と潮流主として東よりすれども、時に西よりする事有るを利用し、印度洋島より發程して、遂に遠く多島海諸島に移住せる由を言へり。Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv. に、南太平洋に太古今よりも遙かに島數多かりしが、漸々海底に沈みし由を論じ、多島海人が往昔航海術に長ぜる記述に及ぼし、人間が東半球より西半球に弘まりしは、第一に多島海より南米に移りて秘魯中米等の開化を建立し、第二に大西洋を經て西印度中米「ブラジル」等に及ぼし、第三に「ベーリング」海峽及び北太平洋諸島より北米に入りし者の如しと說きたり。

[やぶちゃん注:『「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁』一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家で航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。これもやはり、‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。

「Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv.」スコットランド生まれのカナダの考古学者・民族学者・作家ダニエル・ウィルソン(一八一六年~一八九二年)の「先史時代の人間」。一八六二年刊。原本は、やはり‘Internet archive’のこちらで読める。

 以下、本文位置へ戻る。]

 今東半球の赤道以北よりすら、甞て南米に漂著せる人の絕無ならざるを證する爲に、予の日記の一節を略ぼ原文の儘寫し出す事次の如し。

 明治二十六年七月十一日夕、龍動市「クラパム」區「トレマドク」街二十八番館主美津田(みつた)瀧次郞氏を訪ふ。此月六日、皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)の婚儀行列を見ん迚、「ビシヨプスゲイト」街、橫濱正金銀行支店に往し時相識と成し也。此人武州の產、四十餘歲、壯快なる氣質、足藝を業とし、每度水晶宮等にて演じ、今は活計豐足すと見ゆ。近日西班牙に赴き興行の後歸朝すべしと云ふ。子二人、實子は既に歸朝、養子のみ留り在り、其人日本料理を調へ饗せらる。主人明治四年十一月本邦出立支那印度等に旅する事數年、歸朝して三年間京濱間に興行し、再び北米を經て歐州各國より英國に來り、三年前より今の家に住すと云々。旅行中見聞の種々の奇談を聞く。西印度諸島等の事、大抵予が三四年前親く見し所に合り、氏秘魯國に住しは明治八年十二月にて、六週間計り留りし内奇事有り。平田某次郞と云ふ人、七十餘歲と見え、其甥三十餘と見えたり。此老人字は書けども、本朝の言語多く忘却しぬ。美津田氏一行本邦人十四人有て、每日話し相手に成し故、後には九分迄本邦の語を能する[やぶちゃん注:「よくする」。]に及び、此物彼品を日本にて何と言りや抔問たり。兵庫邊の海にて、風に遭ひ漂流しつ。卅一人乘たる船中三人死し、他は安全にて秘魯に著せり。甥なる男當時十一歲なりし。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。南方熊楠は明治一九(一八八六)年十二月二十二日に横浜港より渡米し(満十九歳)、六年後の一八九二(明治二十五)年九月にイギリスに渡った。この年には科学雑誌『ネイチャー』(NATURE)十月五日号に初めて論文‘The Constellations of the Far East’(「極東の星座」)を、同十月十二日号には‘Early Chinese Observations on Colour Adaptations’(「動物の保護色に関する中国人による先駆的観察」)を寄稿している。

「龍動」ロンドン」。

『「クラパム」區』Clapham。クラパム。南ロンドンの広域地区名。

「トレマドク」底本は「トレマドリ」。初出で訂した。Tremadoc。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に「トレマドック通り」がある。

「美津田(みつた)瀧次郞」ルビは底本では「みつだ」とあるが、初出及び「選集」は「みつた」であり、「南方熊楠 履歴書(その5) ロンドンにて(1)」(私の五年前の電子化注)でも「みつた」とルビするので特異的に訂した。そこで私は美津田瀧次郎(嘉永二(一八四九)年?~?)は足芸(あしげい:仰向いて寝て挙げた足だけで樽や盥などを回したりする曲芸)を得意としたサーカス芸人で、「南方熊楠コレクション」(河出文庫)の注によれば、南方熊楠の明治二六(一八九三)年『七月の日記に「美津田滝次郎を訪、色々の奇談をきく」とあるように、しばしば親交を結んだという注した後、本篇のこの前後を初出で電子化している。

『皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)』後のウィンザー朝初代君主イギリス国王ジョージⅤ世(George V 全名:ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート:George Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)。一八九三年七月六日にメアリー・オブ・テック(Mary of Teck 一八六七年~一九五三年:現女王エリザベスⅡ世の祖母)と結婚した。

「ビシヨプスゲイト」Bishopsgate。ロンドンのビショップスゲート地区。この通り

「橫濱正金」(しやうかね(しょうかね))「銀行支店」明治一三(一八八〇)年に「国立銀行条例」に基づいて設立された貿易金融専門銀行。資本金三百万円の三分の一は政府の出資。明治三〇(一八九七)年には「横浜正金銀行条例」により特殊銀行に改組され、「日露戦争」以後、満蒙で植民地銀行の役割も果たした。世界各地に支店を置き、昭和に入って政府の為替統制機関となった。ロンドン支店は明治一六(一八八四)年十二月一日開業。

「水晶宮」The Crystal Palace。原型は一八五一年にロンドンのハイド・パークで開かれた「第一回万国博覧会」の会場として建てられた建造物。造園家・建築家であったジョセフ・パクストン(Joseph Paxton  一八〇三年~一八六五年)の設計になり、鉄骨とガラスで作られた巨大な建物で、プレハブ建築物の先駆ともされる。パクストンの設計では長さ約五百六十三メートル、幅約百二十四メートルのであった(「水晶宮」という名称はイギリスの雑誌『パンチ』(PUNCH)御用達の投稿者であった劇作家で作家のダグラス・ウィリアム・ジェロルド(Douglas William Jerrold)が名づけた)。参考にしたウィキの「水晶宮」によれば、『万博終了後は一度解体されたものの』、一八五四年には『ロンドン南郊シデナムの丘において、さらに大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデン、コンサート・ホール、植物園、博物館、美術館、催事場などが入居した複合施設となり、多くの来客を集めていた』。しかし、一八七〇『年代頃から人気に陰りが見え始め』、一九〇九『年に破産し』、『その後は政府に買い取られ、第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用され、戦後』に『一般公開が再開されたが』、一九三六年十一月に『火事で全焼して』再建されなかったとある。

「活計豐足す」「かつけいほうそくす」。生活は満ち足りている。

「明治四年十一月」本邦では明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで太陰太陽暦(旧暦)を採用していたため、西暦とはズレが生じる。熊楠が換算している可能性は限りなく低いから、この月は旧暦十二月一日はグレゴリオ暦では一八七一年十二月十二日で、晦日(この年は小の月で十一月二十九日)は一八七二年一月九日である。

「平田某次郞」「某」はママ。こんな名は聴いたことがない。熊楠は正確な名をその場では聴いたが、覚えていなかったから、かく記したものかも知れない。]

 其後他は盡く歿し、二人のみ殘り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮し、甥は可なり奇麗なる古着商を營み居れりと。老人も、以前は手工を營みし由、健全長壽の相有て、西班牙人を妻れりと[やぶちゃん注:「めとれりと」。]、其乘來りし船は、美津田氏一行が著せし三年前迄、公園に由來を記して列し有りしが、遂に朽失せぬ。美津田氏一行出立に臨み、醵金して彼人に與へ、且つ手書して履歷を記せしめ、後桑港[やぶちゃん注:「サンフランシスコ」。]に著するに及び、領事館へ出せしに、秘魯政府に照會の上送還せしむべしと也。以後の事を聞き及ばずと云ふ。一行「リマ」市を立ち離るゝ時、老人も送り來り、名殘惜げに手巾を振り廻し居りしと、美津田氏ら桑港に著せし時、在留の邦人纔に三人、領事柳谷と云ふ人親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]旅館へ來訪されたり云々。

[やぶちゃん注:「醵金」「きよきん(きょきん)」。ある目的のために金を出し合うこと。

「領事柳谷」在サンフランシスコ日本領事館の開設は明治三(一八七〇)年の秋で、明治九(一八七六)年に最初の日本人領事柳谷謙太郎が着任している(その間はアメリカ人が代理を務めた。以上は「在サンフランシスコ日本国総領事館」公式サイト内の歴史記載に拠った)。

 以下の一段落は、底本では全体が一字半下げでポイント落ち。]

 美津田氏は、質直不文の人なれど[やぶちゃん注:「ど」は底本は「ば」であるが、初出で訂した。]、假名付の小說を能く讀みたり、其談話は一に記憶より出し故に、誤謬も多少有るべきと同時に、虛構潤色を加ること無しと知らる。又予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覺ゆるは、件の老人に歸國を勸めしに、最初中々承引せず。吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ずと言ひしとか。

[やぶちゃん注:「質直」「しつちよく(しっちょく)」は地味で真面目なさま。質朴。

「不文」正規の日本の教育を殆んど受けていなということ。

「吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ず」平田老人のこの言葉、何か私は頭が下がる思いがする。

 以下、本文に戻る。]

 件の美津田氏は、その後二子(共に養子也。日記右の文に一人は實子とせるは謬り也。)俱に違背して重き家累を生じ、自ら[やぶちゃん注:「おのづから」。]歸朝するを得ず。更に「もと」と名づくる一女(邦人と英婦の間種、芳紀十五六、中々の美人也)を養ひ、龍動に二三年留り居[やぶちゃん注:「をり」。]、予も一二囘訪しが、其後の事を知らず。右の日記に書留めたる外にも、種々平田父子の事を聞きたるも、予只今記憶惡く成て、一筆を留めざるは遺憾甚し。近頃柳田國男氏に問合せしに、柳谷謙太郞氏明治九年十月九日より十六年三月三十一日迄、桑港領事として留任せりと答へらる。因て考るに、美津田氏一行、九年正月中「リマ」を出立し、諸方を興行し廻り、其年十月後桑港に著きたるならん。「ブラジル」「アルゼンチン」等に到りし話も聞きたれば、斯く思はるゝ也。

[やぶちゃん注:南方熊楠は事実関係をしかり確認している。

「家累」(かるい)は家族内の悩み事。「違背」とあるから、犯罪に近い非行を働いてしまったものか。]

 序に述ぶ、右の日記二十六年七月二十二日の條に「美津田氏宅にて玉村仲吉(ちうきち)に面會す。埼玉縣邊[やぶちゃん注:「あたり」。]の人。少時足藝師の子分と成り、外遊中病で置去られ、阿弗利加沿岸の地諸所多く流寓、十七年の間、或は金剛石[やぶちゃん注:「ダイヤモンド」。]坑に働き、又「ペンキ」塗り抔を業とせし由、「ズールー」の戰爭に英軍に從ひ出で、賞牌三つ計り受用すと。予も其一を見たり。白蟻の大窠等の事話さる。日本語全く忘れしを、近頃日本人と往復し、少しく話す樣に成れりと。龍動の西南區に英人を妻とし棲み二年有りと也」と有り。所謂「ズールー」の戰爭は、明治十二年の事にて、「ナポレオン」三世の唯一子、廿三歲にて此軍中蠻民に襲はれ犬死せり。當時從軍の玉村氏廿歲計りの事と察せらる。日本人が早く南阿の軍に加はり、多少の功有りしも珍しければ附記す。明治二十四年頃、予西印度に在りし時京都の長谷川長次郞とて、十七八歲の足藝師、肺病にて「ジヤマイカ」島の病院にて單身呻吟し居たりし。斯る事猶ほ多からん。

         (大正元年十月人類二八卷)

[やぶちゃん注:「金剛石」ダイヤモンド。

『「ズールー」の戰爭』英語‘Anglo-Zulu War’は一八七九年にイギリス帝国と南部アフリカのズールー王国(インド洋の沿岸部に十九世紀に南アフリカ東海岸部に建国された君主国。十九世紀初め、ズールー族の王となったシャカが軍事組織と武器を改革し、周辺の部族を次々と統合して、一八二四年にはポート・ナタール(現在のダーバン)のイギリス人入植者と友好関係を結んで、鉄砲を入手し、それを使って、さらに王国の版図を広げた。一八二八年には異母弟のディンガネがシャカを殺して王位に就き、さらに領土の拡大を図った)との間で戦われた戦争。この戦争は幾つかの血生臭い戦闘と、南アフリカに於ける植民地支配の画期となったことで知られる。イギリス植民地当局の思惑により、本国政府の意向から離れて開戦したものの、英国軍は緒戦の「イサンドルワナの戦い」で、槍と盾が主兵装で火器を殆んど持たなかったズールー軍に大敗を喫し、思わぬ苦戦を強いられた。その後、帝国各地から大規模な増援部隊が送り込まれ、「ウルンディの戦い」で近代兵器を用いたイギリス軍が王都ウルンディを陥落させ、勝利し、ズールー国家の独立は失われた(以上はウィキの「ズールー戦争」に拠った)。

「大窠」(だいくわ(だいか))は大きな巣のこと。

『「ナポレオン」三世の唯一子』父ナポレオンⅢ世の嫡出子でフランス第二帝政時代の皇太子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(Napoléon Eugène Louis Bonaparte 一八五六年~一八七九年)。父ナポレオンⅢ世に溺愛されたという。「普仏」戦争の初期、フランス軍が各地で劣勢となり、ナポレオンⅢ世は捕虜となり、一八七〇年九月二日から四日までの二日間だけ、彼が表面上の政務を取り仕切ったが、その四日、パリで民衆の暴動が起こり、九月六日にイギリスへ亡命した。イギリスでは砲兵学校に入学し、好成績で卒業、ヴィクトリア女王に愛称の「ルル」で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどであった。イギリスへの恩返しとして「ズールー戦争」に従軍、ズールー族の襲撃を受けて戦死した。子はなく、ナポレオンⅢ世の直系は絶えた(以上は彼のウィキに拠った)。

「明治二十四年」一九〇一年。

「長谷川長次郞」詳細事績不詳。]

2021/02/15

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語(異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)――オリジナル電子化注一括縦書PDF版公開

南方熊楠の「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」のオリジナル電子化注一括縦書PDF版を公開した。

2021/02/13

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 8 / 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:以下の段落は前の「7」の補足で、底本では全体が一字下げとなっている。]

 吾邦の高僧、海外に名を馳せ乍ら、本國に知られざる例少なからず、之例[やぶちゃん注:「たとへば」。]、慈覺大師入唐求法巡禮行記に見えたる、日本國靈仙三藏如き、中々の學僧にて、淳和帝より學資を賜はりしが、支那にて毒殺され、異國の緇徒[やぶちゃん注:「しと」。僧衆の意。]その跡を弔ひしのみ、其詳傳は傳らず、茅亭客話(五代詩話卷八に引)に、瓦屋和尙、名能光、日本國人也、嗣洞山悟本禪師、天復年初入蜀、僞永泰軍節度使鹿虔扆、捨碧雞坊宅、爲禪院居之、至孟蜀長興年末遷化、時齒一百六十三、此僧德望高かりしのみならず、海外で二百歲近く迄長生とは、偏えに日本の面目也、迥か[やぶちゃん注:「はるか」。]降て十七世紀の初めに伊太利の旅行家「ピエトロ、デラ、ヷレ」が波斯國イスパハンで逢し日本の碩學、「ピエトロ、バオリノ、キベ」(木部か)如き、自在に拉丁語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]を使い、道を求てローマに留學したりと(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 492)、

[やぶちゃん注:「慈覺大師入唐求法巡禮行記」「につたうぐほふじゆんれいかうき(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」と読む(「法」は通常の歴史的仮名遣「はふ」であるが、仏教用語に限っては「ほふ」と読むのを通例としている)。最後に実施された遣唐使(承和五(八三八)年出発、翌年到着。この後、寛平六(八九四)年に、かの菅原道真を大使とし、絵巻で知られる紀長谷雄を副使とする遣唐使が立案されたが、唐国内の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議によって停止となった。その後、大使の任は解かれなかったが(但し、道真は失脚し、延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)に失意のうちに大宰府で没した)、その十三年後の九〇七年に唐が滅亡したため、遣唐使はそこで名実ともに廃止となった)における入唐請益僧(にっとうしょうやくそう:「更に教えを請う」の意で、本邦で既にそれぞれの学業を規定通りに身につけたとされる僧が、その業を深め、疑問を解決するために短期に留学する場合に用いられた呼称)であった慈覚大師円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年:下野国生まれ。出自は壬生氏。最澄に師事した天台僧で、後に「山門派」の祖となった。仁寿四(八五四)年六十一歳で第三代天台座主となった)の出発(当時、四十五歳)から帰国に至る九年六ヶ月に亙る日記。これより前の承和三年・四年と二回の渡航に失敗した後、承和五年六月十三日に博多津を出港した日から記し始め、博多津に到着して鴻臚館に入り(承和十四(八四七)年九月十九日の条)、朝廷から円仁を無事連れ帰ってきた新羅商人たちへの十分な報酬を命じた太政官符が発せられた同年十二月十四日で日記は終わっている。その間の波乱万丈の一部始終は彼のウィキを参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正一五(一九二六)年東洋文庫刊の写本本文(影印)全四冊と活字本の解説一冊が視認出来る。

「日本國靈仙三藏」平安前期の法相宗の僧霊仙(りょうせん 天平宝字三(七五九)年?~天長四(八二七)年?)。日本で唯一の三蔵法師(「三蔵法師」とは名前ではなく、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶を指す一般名詞で、後には転じて「訳経僧」を指すようになった)。当該ウィキによれば、『出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される』。『興福寺で学んだ後』、延暦二三(八〇四)年に第十八次『遣唐使の一人として入唐した』。『同期に最澄・空海・橘逸勢らがいる。長安で学び』、八一〇年には『醴泉寺(れいせんじ)にて、カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受』(経典を漢訳する際に梵語の口述を漢文で筆記する係の者)や『訳語(をさ)』(漢語・漢字に置き換える係。現代の翻訳に相当する)『を務めた』。八一一年に『「三蔵法師」の号を与えられ』た。『時の唐の皇帝・憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて、大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって、日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移』った。八二五年には『淳和天皇』(じゅんなてんのう:在位:弘仁一四(八二三)年~天長一〇(八三三)年。桓武天皇第七皇子)『から渤海の僧・貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利や経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に、阿波国の稲千束を支給するよう計らった。その後』、八二八年(中唐末期。本邦は天長五年)までの『間に没したようで、一説によれば』、『霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから』、『死ぬまで』、『日本の地を踏むことはなかった』。八四〇年に『霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧・霊仙の最期の様子を聞いている。また』、承和五(八三八)年に『円行・常暁が入唐した際には、霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという』とある。

「緇徒」「緇」は黒い色で墨染めの衣で「僧侶」の意となる。

「茅亭客話」(ぼうていかくわ:現代仮名遣)宋の黄休復の撰になる、五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもの。全十巻。私の「怪奇談集」「老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)」がある。その三巻(「漢籍リポジトリ」の完全電子データ)の「勾居士」に、

   *

勾居士名令𤣥蜀都人也宗嗣張平雲有學人問答隨機應響著火蓮集無相寶山論法印傳况道雜言百餘篇有敬禮瓦屋和尚塔偈曰大空無盡刼成塵𤣥步孤高物外人日本國來尋彼岸洞山林下過迷津流流法乳誰無分了了教知我最親一百六十三嵗後方於此塔葬全身瓦屋和尚名能光日本國人也嗣洞山悟本禪師天復年初入蜀僞永泰軍節度使禄䖍扆捨碧雞坊宅為禪院居之至孟蜀長興年末遷化時齒一百六十三故有是句

   *

とある(リンク先では影印本も見られる)。当該部のみの訓読を試みる(字体は熊楠のそれに従った)。

   *

瓦屋(ぐわをく)和尙、名は能光(のうくわう)、日本國の人なり。洞山悟本禪師を嗣ぐ。天復の年初、蜀に入る。僞(ぎ)永泰軍節度使鹿虔扆(ろくけんい)、碧雞坊(へきけいばう)の宅を捨(ほどこ)し、禪院として之(ここ)に居(きよ)せしむ。孟蜀(まうしよく)の長興(ちやうこう)年末に至りて遷化(せんげ)す。時に齒(よはひ)一百六十三なり。

   *

もし「能光」が正式な日本名の俗名であったなら「よしみつ」と読める。日本ではあり得ないが、中国での名乗りであるから、あり得ないとは言えない気がする。「天復」は唐の昭宗の治世に用いられた元号(九〇一年~九〇四年)。「僞永泰軍節度使鹿虔扆」唐滅亡後の五代まで及んだ官人で詩人のようである。「永泰軍節度使」は五代の旧唐の南を治めた官名であるから、その上の「僞」というのは甚だ不審であったので、調べてみると、「古今詞話七」(影印本。「中國哲學書電子化計劃」)の「鹿虔扆」を見ると、「鹿爲永泰節度使」とあった。鹿爲永泰節度使」とあった。何のことはない、「鹿、永泰節度使たり」じゃあねえか。阿呆臭! 「碧雞坊」鹿虔扆の所有していた道観の僧坊か或いは彼の別邸か? 「捨(ほどこ)し」喜捨し。「孟蜀」五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した後蜀(こうしょく 九三四年~九六五年)の別称国名。「長興」は五代の二番目の王朝であった後唐の明宗李嗣源(しげん)の治世に用いられた元号。九三〇年~九三三年。

「五代詩話」清の王阮亭の原編で、鄭方坤の刪補になる一七四八年序の詩話集成。

 以下、表記は本文レベルに戻る。冒頭の字下げがないのはママ。]

 

之を要するに、段氏決して全く虛構して酉陽雜俎を著したるに非ず、又況んや上に引ける葉限の物語は、往古南支那土俗の特色を寫せる點多く、之を談りし人の姓名迄も明記したれば、其里俗古話學上の價値は、優に、近時歐米又本邦に持囃さるゝ仙姑譚、御伽草紙が、多く後人任意の文飾脚色を加え含めるに駕する者と知るべし、

[やぶちゃん注:「持囃さるゝ」「もてはやさるる」。

「仙姑譚」女性の仙人の話群。なお、中国の代表的な女仙で、「八仙」(中国では仙人は実在の人物と考えられている)の唯一の女仙に何仙姑(か せんこ)がいる。因みにこの「八仙」が七福神の起源とする説があり、とすれば、弁天の原型ということにもなろう。

「駕する」他を凌(しの)ぐ。

 さて。以下は全体が一字下げで「附記」を除いて、本文は本篇のそれよりもポイント落ちである。しかし、これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」への附記ではなく、先に同じ『東京人類学雑誌』に載せた論考「本邦に於ける動物崇拜」(リンク先は私のPDF一括版)の追加記事である。本来なら、「南方随筆」として纏めた際には、それをその記事の後ろに配すべきものであった。私の以上の一括版やブログ版の最後では、そのように処理しておいた。さらに、熊楠が追加した「橘南谿の西遊記卷一」の「榎木の大虵(だいじや)」は、私のお節介で「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)」の注で既にして電子化してある(PDF版も同じ)ので、一切の注を必要としないのである。

 

 附記 人類學會雜誌二九一號に、予が載せたり野槌に似たる事、橘南谿の西遊記卷一に出づ、其略に云く、肥後の五日町、求摩川[やぶちゃん注:初出では「求麻川」とする。]端の大なる榎木の空洞に、年久しく大蛇住り、時々出で現はるゝを見れば病むとて、木の下を通る者必ず低頭す、太さ二三尺、總身白く、長さ纔に三尺餘、譬へば[やぶちゃん注:初出では「譬ば」である。]犬の足無き如く、又芋蟲に似たり、土俗之を一寸坊蛇と云ふ、[やぶちゃん注:初出では「下略、」とし、下方二字上げで「(完)」(これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」の論考の「完」の意)とする。]

    (明治四十四年三月、人類第二六卷)

 

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