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カテゴリー「南方熊楠」の407件の記事

2023/09/20

南方閑話 巨樹の翁の話(その「一〇」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        一〇

 

 「攷證今昔物語集」に孫引きした「孫綽子」に、海邊と、山中の住民が、逢つて。各《おのおの》其地方の名物を誇る。海人は、「衡海に、魚、有り、頭《かしら》、華山の頂《いただき》の如く、萬頃《ばんけい》の波を一と吸ひにす。」と云ひ、山客は、「鄧林《とうりん》に、木、有《あり》て、圍み三萬尋、直上千里、旁《かたは》ら、數國を蔭《おほ》ふ。」と言つた、と有る。高木氏の「日本傳說集」四六頁に、長門國船木、昔し、一面の沼地で、中央に一本の大樟《おほぐす》あり。其枝、二里四方に擴がり、其下は、晝さへ暗く、此の村は、年中、日光を見ないので、「眞闇」と呼ばれ、西の村は、年中、朝日を拜まないので「朝蔭」と呼ばれた。「眞闇」、今は、「萬倉」と改む。神功皇后三韓征伐の折《をり》、この樟一本で、四十幾艘の船を作つたと云ふ。西澤一鳳の「皇都午睡《みやこのひるね》」初篇中卷に云《いは》く、『寬政六年の春、紀州熊野の深山より、三十里、奧山へ、御用木、見立てに行きて、榎《えのき》の大木を見出しぬ。是迄[やぶちゃん注:底本では「是近」。後掲する活字本を参考(原本では『是まで』)に補った。以下、にも、それで底本を修正した箇所があるが、一部は五月蠅いだけなので、注さない。原本自体の表記が、少しおかしく感じた箇所は、逆に底本に従った箇所もある。]、折《をり》に、來《きた》る者も有れど、唯、山とのみ思ひしが、此度《このたび》、大木、有る事を見出《みいだ》し、則ち、人夫の杣人《そまびと》等《ら》、その大きさを見積り、太守へ上覽に奉りぬ。[やぶちゃん注:以下の書上はベタで続いているが、条ごとに改行した。]

一、榎の木一株。百二十抱へ(六十丈也)、高さ、三百廿四、五間(百九十五丈餘也)、枝、三本に分れ、南方の枝、凡そ、八十二廻り、大にして(四十一丈なり)、宿り木。

一、杉。長さ、七間半。二本あり。

一、椎。長さ、五間二尺。七本あり。

一、檜、長さ、五間半。十二本あり。

一、黃楊《つげ》。長さ四間半。九本あり。

一、松、長さ四間半、七本あり。[やぶちゃん注:この条は底本には、ない。後掲する活字本で補った。]

一、柳。長さ四間半、六本あり。

一、竹。十八本あり。

一、南天、長さ二間半、七本あり。

右、紀州表より書狀にて申し來たる云々』[やぶちゃん注:最後の添書も一部カットされているので、活字本で補った。]とは、大きな噺《はなし》だ。

[やぶちゃん注:「攷證今昔物語集」「四」で出た、芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)の「本朝部」巻第三十一の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の附注の「◎法苑珠林卷二十八神異篇雜異部」の漢文引用。国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認出来る。

「衡海」不詳。本文次の次の注から見て、実在する海域名ではないと思われる。

「華山」陝西省華陰市にある山。「中国五名山」の一つとして「西岳」とも呼ばれる。最高峰は南峰で二千百五十四メートル。

「萬頃」「頃」は中国の地積の単位で、百畝。ここは水面が広々としていることを言う。

「鄧林」中国の伝説上の人物である夸父(こほ)の杖が変じて成ったとされる「柚(ゆず)の木の林」。「山海経」の「海外北経」に見える。

「孫綽子」不詳。六朝東晋の文学者孫綽(そんしゃく 三一四年~三七一年)の著作か。彼は太原中都(山西省)が本貫で、官は廷尉卿から著作郎に進んだ。文才を以って、当時、名が高く、特に「天台山賦」は、魏晋時代の代表的辞賦として名高い。また、好んで、老荘の気風を説く「玄言詩」を作った人物である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『高木氏の「日本傳說集」四六頁』「五」に出たものの前の「(イ)船木」。国立国会図書館デジタルコレクションの高木敏雄著「日本傳說集」第四版(一九二六年武藏野書院)のこちらの「樹木傳說第四」の冒頭で、視認出来る。

「長門國船木」現在の山口県宇部市船木(グーグル・マップ・データ)。東と北に接して二つの「万倉」を含む地区が接している。

「西澤一鳳」(にしざわいっぽう 享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五三)年)は歌舞伎狂言作家で考証家。当該ウィキによれば、浮世草子作者・浄瑠璃作者の西沢一風の曾孫で、大坂生まれ。家業の正本(歌舞伎脚本)屋と貸本屋を心斎橋南四丁目で営みながら、俳諧を好み、歌舞伎狂言を執筆、大坂劇壇での活動の後、江戸に移って活動を続けた。歌舞伎狂言の台本を数多く著したほか、人形浄瑠璃や歌舞伎の考証にも業績があり、さらに紀行文や随筆なども多く遺している。「皇都午睡」は 嘉永三(一八五〇)年に上梓された江戸見聞録で、江戸や道中諸国の文化風俗を京・大阪と比べて論じたものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類従』(明治三九(一三〇六)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が視認出来る。標題は「熊野の大樹」。]

 外國にも滅法界《めつぽふかい》な[やぶちゃん注:やたらと。]大木譚が少なくない。古カルヂア人は、「宇宙に、大樹、有《あつ》て、天を頂とし、地を足とす。」と信じ、インドのカーシア人は、「昔し、人が高樹を攀《よ》ぢ、昇天して、星と成つたと云ひ、パラガイ國のムボカビ人は、「死んだ人は、木を攀ぢて、登天す。」といひ、ニウジーランド人は、「太古、天地、連接せしを、神木、生えて、推し開いた。」と傳ふ(一八九九年巴里板、コンスタンタンの「熱帶景物編」二八五頁)

[やぶちゃん注:「カルデア人」カルデア人(Chardeans)は新バビロニア(カルデア)帝国を建設したセム系遊牧民の一つ。紀元前一一〇〇年頃、バビロニア南部に定着し、紀元前八世紀末に部族統一国家を形成、紀元前六二五年、ナボポラッサルがバビロンで独立し、メディアと連合して、アッシリアの首都ニネベを紀元前六一二年に陥落させ、新バビロニア帝国を建設した。その子ネブカドネザルⅡ世 (在位:紀元前六〇五年~紀元前五六二年)の時代には、国土も旧アッシリア領の大部分を占め、首都バビロンには、吊庭(空中庭園)で有名な大宮殿た、「バベルの塔」を持つ大神殿・凱旋道路・大城壁などが建設或いは再建され、政治・経済・文化も大いに栄えて、王国の全盛時代を迎えた。紀元前五八六年、エルサレムを破壊し、王以下を、バビロンに捕囚したのも、ネブカドネザルで、これは「哀歌」に歌われた「バビロニア捕囚」で広く知られている。しかし紀元前五三九年、ナボニドスが新興のアケメネス朝ペルシアの軍門に下り、帝国は一世紀足らずで滅亡した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「カーシア人」不詳。

「パラガイ國のムボカビ人」パラグアイのことか? 「ムボカビ人」は調べたが、不詳。]

 「山海經《せんがいきやう》」に、『西海の外、大荒《だいこう》の中に方山《はうざん》あり。その上に、靑樹、有《あつ》て、「柜格《くかく》の松」[やぶちゃん注:底本では「拒格の松」であるが、「中國哲學書電子化計劃」の当該書の影印本の当該部で訂した。]といふ。是れ、日月の出入する所也。』。「淮南子」の「地形訓」に、『建木は都廣(註に云《いは》く、『南方の山名。』。)にあり。衆帝の、自(まつ)て、上下する所、日中、影無く、呼んで、響き、なし。蓋し、天地の中也。若木は、建木の西に在り、末に、十日、在り。その華、下地を照らす(註に云く、『若木の瑞に、十日、有て、狀《かたち》、蓮華の如く光り、其下を照《てら》す也。』。)。』[やぶちゃん注:これは正確には「淮南子」の注解書である「淮南鴻烈解」を熊楠は元としている。「中國哲學書電子化計劃」の当該書の影印本の当該部を見られたい(後ろから四行目以降)。]。漢の王充の「論衡」「說日篇」に、儒者、論ずるは、『日《ひ》、旦《あし》たに、扶桑を出で、暮に細柳に入る』云々。『「桑柳」は天地の際、日月、常に出入する所の處ろ。』と。又、「禹貢」・「山海經」に言《いは》く、『日、十、有りて、海外に在り。東方に、湯谷《たうこく》、在り。上に、扶桑、在り。十日、水中に浴沐す。水中に、大木、有り、九日、下枝に居《を》り、一日、上枝に居る。』と。唐の敬括の賦に、『建木、大きさ、五千圍《めぐり》、高さ、八千尺。』。漢の東方朔作という「海内十洲記」には、『扶桑は、東方碧海の中に在り、地方萬里』云々。『椹樹《ちんじゆ》あり(「康煕字典」に『椹は桑實《くはのみ》なり』。)、長きもの、數千丈、大きさ、二千餘圍。樹、兩々、同根あり、偶生し、更(かはる)がはる、相依《あひよ》る、是を以て、「扶桑」と名づく。』とありて、『其葉、中國の桑の如く、其《それ》、椹、稀にして、色、赤く、九千歲に、唯、一度、生じ、仙人、之を食ふ時は、全體、金光色《こんかうしよく》となつて、空を飛翔《とびかけ》る。』と云ふ。因て考ふるに、「扶桑」は、桑に似た大木で、隨《したがつ》て、其が生ずる地をも、「扶桑」と呼び、每旦《まいあさ》、日が出る處としたので、古支那人は、日は、凡て、十、有り、交替して、一日、出勤する間に、九日は、扶桑の下枝に在《あつ》て、休む、としたのだ。

[やぶちゃん注:「禹貢」これは「選集」では括弧も何もつかず、あたかも「山海經」に禹貢なる人物の書いた別本があるように読めてしまうが、これは、「書經(別名「尚書」)の中の「禹貢」の部分を指している。]

 同樣の信念がアツシリアにも有《あつ》たは、コンスタンタンの「熱帶景物篇」一五五圖、古錢に印した大木の實が、悉く、日たる畫が證する。この世界を照《てら》す太陽は、一つしかなきは、誰も知り切《きつ》た事だが、昔しの人は、金錢や訴訟や廣告や虛榮に、惱殺されず、多閑の餘り、天文に留心する事、藝妓買ふ錢無い男が、女房の顏計《ばか》り、無料で見續けて樂しむ如く、隨つて、日の行路等が、日々、同じからぬを觀《み》たり、氣象の工合ひで、暈環《うんくわん》[やぶちゃん注:日・月に被るかのように見える暈(かさ)のこと。]に數個の日が現はるゝを視《み》たりして、十日交替說を生じたので、每日、一《ひとつ》の太陽が、扶桑樹の上枝から出動し、他の九つは、下枝に休むと云ふは、日を鳥蟲《てうちゆう》同然の生物と見たのだ。扨《さて》こそ、「山海經」に、帝俊の妻が十日を生んだとか、「准南子」に、堯の時、十日、並び出で、草木、焦《こげ》枯れたから、羿《げい》に、十日を射せしむると、九日中の烏《からす》が殺されて羽を落とした抔《など》、載せたのだ。「建木日中無影。」〔建木(けんぼく)、日中に、影、無し。〕というから、日よりも、木の方が高いのだ。

[やぶちゃん注:『コンスタンタンの「熱帶景物篇」』不詳。識者の御教授を乞う。

「羿」中国古代伝説上の弓の名人の名。このエピソードで、よく知られる人物。]

 「神異經」に、大木を多く載す。東南荒中の邪木は、高さ三千丈、南方大荒中の柤稼𣘗樹《さかじつじゆ》は、高さ百丈、或は、千丈、三千年に、花、さき、九千歲で、實る。如何《じよか》といふ木は、高さ五十丈、三百年に、花、さき、九百歲で、實る。其實を食へば、水・火・白刄に犯されず。南方荒中の涕竹は、長さ數百丈、圍み三丈六尺、厚さ八、九寸、船に出來る。晉の張華の「博物志」三に云く、『止些山《ししさん》に、竹、多く、長さ千仞、鳳、其實を食ふ。』と。仞は、四尺、又、八尺という(「康煕字典」。「和漢三才圖會」一五)。何れにしても、高い竹だ。和賀邦にも、津村正恭の「譚海」一に、『越中黑部、川原に沿《そひ》て、山中に入《いる》事、三里許りは、人跡、至る所也。兩岸みな桃の花也。其より奧へ、限りなく竹林ありて、人の至りがたき所也。自然に、川上より流れくる竹の筒の朽《くち》たる抔、徑《わた》り一尺四、五寸程なる有り。井戶の側《かは》[やぶちゃん注:井筒。]にしたる事有り。』と吹いて居《を》る。之に似たこと、「東海道名所圖會」に、參河《みかは》の鳳來寺山に、神代より在つた大木の桐は、高さ四十九丈、圍《めぐり》卅九尋、其西の枝に、長さ八咫《し》(「尋」は八尺、「咫」は八寸)で長さ一丈餘の尾あり、全身五色で、金光あり、美聲を出す鳥が住んだ。其を、聖德太子が、「鳳凰」と鑑定された由、記す。

 晉の王嘉の「拾遺記」一に、「窮桑」は西海の濱に生じた一本立ちの桑で、直上、千尋、葉、紅に、實、紫だ。萬歲に、一度、實る。之を食ふと、天に後《おく》れて老ゆ、とは中々の長生だ。卷の三に、周の靈王、崿谷陰生[やぶちゃん注:切り立った崖を持った谷に太陽光を避けて生えることか。]の樹、長さ千尋なるを得たり。此一樹を以て昆昭臺を建てた。卷五には、祈淪國《きりんこく》[やぶちゃん注:不詳。]に壽木の林有り、樹の高さ、千尋で、日月を陰蔽す。其下に憩へば、皆、死せず、病まず。他國から來て、其葉を懷中して歸る者は、終身老いず[やぶちゃん注:太字箇所は、底本では傍点「◦」。]、とは妙な言ひ樣だが、一生、衰弱の色なく、長生の後ち、卒中で死ぬか、朝日平吾[やぶちゃん注:底本では「朝日吾平」。「選集」その他により、訂した。]に刺殺さるゝのだらう。梁の任昉《にんばう》の「述異記」上に云く、『磅礑山《ばうたうざん》の地、甚だ、寒し。千圍《せんゐ》の桃の樹、有て、萬年に、一度、實る。』と。桃栗三年恥かき年を洒落《しやれ》て、日本には桃の老木は、とんと、見當らぬが、支那には有るのか知《し》ら。其下卷に云く、『東南に桃都山あり。上に、大樹、有て、「桃都」と名く。枝、相去ること、三千里。上に天鷄あり。日、初《はじめ》て出《いで》て此木を照《てら》せば、天鷄が鳴く。天下の鷄、皆、隨つて鳴く。』と。以前、七草の囃《はや》しに、トウトの鳥云々と云つたは、桃都の鷄が、渡り來つて、「日本の衆、鷄、隨ひ鳴かぬ内に、七草を、囃せ。」との意義と牽强し得べきか。鵜川政明の「華實年浪草《くわじつとしなみぐさ》」一上に、倭俗、七草を打つ唱へに、「唐土《もろこし》の鳥と日本の鳥の渡らぬ先に七草なずな」と云ふは、「歲時記」に、正月七日(原書には『正月夜』とあり)、鬼車鳥多く渡るを、禳《はら》ふため[やぶちゃん注:「禳」は底本では「穣」。誤植と断じ、「選集」を参考に訂した。]、家々、門を槌《つちう》ち、燈燭を滅す、とある支那俗を傳へたので、「鬼車」は惡鳥の名、と有るが、唐土の鳥と見ても、意味、十分に判らない。唐の李石作といふ「續博物志」五に、『海中に庭朔山あり、上に、桃木、有りて、三千里に蟠屈す。其東北に向ふた枝が、鬼門で、萬鬼の出入り所也、と云ふも、一事別傳でがな有らう[やぶちゃん注:この最後の「でがな」の「がな」は副助詞で、体言又はそれに「で」が付いたものに付き、「例示」の「~でも・~かなにか」或いは「不定」の「~か」である。ここは、「一つの事象の、ただの別伝、とでも言うべきものであろう」の意。]。「毘沙門の本地」[やぶちゃん注:この鍵括弧は底本にある。]に、金色太子《こんじきたいし》、黃金《こがね》の筒井を尋ねて、川を渡るに、高さ一由旬の鐵の木、三本、有り、下に長《たけ》十六丈の鬼、有つて、罪人の衣を剝ぐ。』と記す。アイテルの「梵漢語彙」に、『一由旬は卅三哩《マイル》半、又は、十哩、又は、五哩半。』と見ゆ。「拾遺記」十に、『岱輿山《たいよざん》に、長さ、千尋の、沙棠《しやたう》、豫章の木あり。細枝を、舟とするに、猶、長《たけ》十丈。』と云ふ。

[やぶちゃん注:「朝日平吾」(あさひへいご 明治二三(一八九〇)年~大正一〇(一九一一)年九月二十八日)は政治活動家にして、右翼のテロリスト。実業家安田善次郎を暗殺(刺殺)し、自身も、その場で剃刀で咽喉部を切って自殺した。詳しくは当該ウィキを見られたい。本篇のこの部分の初出は大正十一年十二月発行の『土の鈴』である。

『鵜川政明の「華實年浪草」』鵜川麁文(そぶん)政明の手になる天明三(一七八三)年刊の歳時記。国立国会図書館デジタルコレクションの原版本の「若草七草 薺」の条のここ(右丁後ろから三行目下方から)が当該部である。

「毘沙門の本地」室町時代の御伽草子の一つ。後に説経節になった。

「卅三哩半」約五十三キロメートル。

「十哩」約十六キロメートル。

「五哩半」約八キロ八百五十一メートル。

「拾遺記」後秦の王嘉(?~三九〇年頃)が撰した志怪小説集。全十巻。

「沙棠」現在、この樹木名は実海棠(みかいどう)の別名である。バラ科ミカイドウ Malus micromalus の落葉小高木。中国原産で、観賞用に庭に栽植される。カイドウに似ているが、枝は、細長く、紫色を帯び、花は上向きに咲き、果実は生食出来る。漢名は「海紅」「海棠利」。しかし、これは完全な栽培種で野生種はないから、掲載された書物から、それではない。不詳。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「九」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        

 

 「法苑珠林」八〇に云く、『漢の哀帝の建平三年、零陵に樹あり。量地(何のことか分からぬが先《まづ》は「根本の」てふ義か)、圍み一丈六尺、長《ながさ》十四丈七尺。民、其本《もと》、長さ九尺餘を斷つに、皆、枯《か》る。三月《みつき》の後ち、樹、本《もと》、自《おのづか》ら故處に立つ。』と。根本を切つて置《おい》たのが、元の處へ戾つて、自ら立《たつ》たのだ。

[やぶちゃん注:「法苑珠林」(ほうおんじゅりん)は唐の道世が著した仏教典籍の類書(百科事典)。全百巻。六六八年成立。引用する典籍は、仏教のみならず、儒家・道教・讖緯・雜著など、実に四百種を超え、また、現在は散逸してしまった「仏本行経」・「菩薩本行経」・「観仏三昧経」・「西域誌」・「中天竺行記」なども引用しており、インドの歴史地理研究上でも重要な史料となっている(以上はウィキの「法苑珠林」に拠った)。

「漢の哀帝の建平三年」紀元前四年。

「零陵」現在の湖南省南西部及び広西チワン族自治区北東部に跨る地域に置かれた旧郡名。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 一八七六年板、ギル師の「南太平洋之神誌及歌謠」八一頁已下に、「鐵木《てつのき》」の話あり。鐵木は、わが邦に、稀に栽える木麻黃《もくまわう》や常磐御柳《ときはぎよりう》の一類で、南太平洋では、其木の堅きを武器に利用する。

[やぶちゃん注:『ギル師の「南太平洋之神誌及歌謠」』今までの南方熊楠の電子化で、二度ほど出ているが、不詳。識者の御教授を乞う。

「木麻黃」ブナ目モクマオウ科 Casuarinaceaeの木。当該ウィキによれば、『熱帯の砂浜で「マツ」と間違われる植林は、モクマオウの場合がある』但し、『マツとは類縁は薄い』。『乾燥に適応し、海岸や乾燥地に多い。根にはフランキア属の放線菌が共生し』、『窒素固定している。葉は鱗片状で輪生し、トクサ類のようにも見える。花は単性。雌花は無花被で苞に囲まれ、花序は球果状になる。雄花も痕跡的な花被と雄蕊各』一『個しかなく、花序は尾状』を呈する。『オーストラリア、マレーシア、ニューカレドニア、フィジー、マスカレン諸島に分布する。日本には元来』は『自生しないが、南西諸島、小笠原諸島に導入されたものが野生化している』とある。

「常磐御柳」前注のモクマオウ科の常緑高木。オーストラリア原産で、熱帯地方では海岸の砂防林や街路樹として広く利用され、日本では、観賞用に栽植される。高さ十~三十メートル。枝は糸状で、六~八稜があり、節が多く、淡緑色を帯びる。葉は小さく、鋸片状で、節に輪生する。初夏、新枝の先に長さ一~一・五センチメートルの淡紅色の雄花穂をつける。雌花穂は、短かい柄を持ち、頭状で、雄花と同じ枝の基部につく。球果は径一~一・五センチメートルで木質化した苞に包まれる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 彼《か》の話は、昔し、トンガ島から始めて、鐵木を、マンガイヤ島に移植し、年を經て、大きく成つた時、オアランギなる者、四友と、之を伐つて、武器に作ろうと企て、ヴオテレ鬼、この木の精だから、よせ、と諫める人あるも、聞入《ききいれ》ず、夜、炬《たいまつ》を燃して、其四つの大根《おほね》を、四人して、切つて𢌞《まは》るに、殆ど斷えた根が、往《いつ》て見れば、復《ま》た、合ひ居《を》る。親分オアランギに告《つぐ》ると、「四人が、あちこち、切つて𢌞らず、毎人《ひとごと》[やぶちゃん注:当て訓した。]、一根を、斧で切つて了《しま》ふ迄、やり續けろ。」と言《いつ》た。其通り、實行して、切り倒し終り、明日、又、來る積りで、歸ろうとすると、四人共《とも》、血を吐き始め、其血、鐵木の内膚《うちはだ》の赤きに、異ならず。二人は、死んで了《しま》ふた。跡の二人と、親分と、昨夜、木を切《きつ》た所を望むと、木は切らぬ昔と變らず、聳え居《を》る。立歸《たちかへ》つて、吟味するに、斧の痕も無《なけ》れば、散在《ちりあつ》た屑も、見えず。只、前に異なつたは、幹も、枝も、葉も、赤く光りて、氣孔毎《ごと》に、血を流して、怒る者の如し。一同、驚いて、家に歸る中《うち》、生《いき》殘つた二人も、死んだ。オアランギ、今度は、「晝間、伐るべし。」迚《とて》、多くの友を伴つて、其木を尋ねたが、一向、見えず、空しく歸つて、直後、死んで了つた。斯《かか》る處に、此木の原產地より、オノといふ人が來た。此人、出立《しゆつたつ》に臨み、父より、鐵木作りの鍬一本、授かり、携へた。此人、其鍬を以て、鐵木の𢌞りを掘り𢌞るに、四《よつ》の大根《おほね》を傷つけず、他の細根を、詳しく尋ねて、悉く、切つた。そこで、樹が搖《うご》き出すに及び、終《つひ》に、殘つた親根を切ると、樹精ヴオテレ、怒りの面貌、恐ろしく、口を開き、齒を露はして、飛《おtび》懸るを、オノ、鍬を以て、其頭顱《とうろ》を打破《うちやぶつ》た。其より、四本の大根を切《きり》離す。是れ、實はヴォテレの肱《ひぢ》だつた。扨《さて》、ヴオテレの體を、三分して、長鎗《ながやり》と頭顱割りと、木劍とを、作つた。此鐵木の細根を切た時、飛び散つた屑片《くづ》が、諸處に飛《とび》落《おち》て、現在の多くの鐵木が生《はえ》たと云ふのだ。外國の話で、是が、尤もよく吾が巨樹の翁譚《おきなたん》に似て居《を》る。

2023/09/19

南方閑話 巨樹の翁の話(その「八」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        

 

 木を伐《きつ》ても其創《きず》が本《もと》の如く合ふと云ふ例を、唐の段成式の「酉陽雜爼」から、後藤氏が見出だして、『土の鈴』一三輯八四頁に載せられたが、他の支那書にも、例、無きに非ず。「淵鑑類函」四一五に、「神異經」を引いて、東方に、豫章樹、有り、高さ千丈、工《たくみ》あり、斧を操《あやつ》り、旋《めぐ》り斫《き》れば、旋り合《あは》す。『增訂漢魏叢書』八八に收めた「神異經」の文は、之に同じからず。東方荒外に、豫章樹、有り、此樹、九州を主《つかさ》どる。其高さ千丈、圍《かこ》み百尺云々、枝ごとに一州を主どり、南北に並列し、面《おもて》、西南に向ふ。九力士有《あり》て、斧を操つて、之を伐り、以て、九州の吉凶を占ふ。之を折れば、復《また》生ず。生ずれば、其州、福有り、創つけば、州伯、病む有り、歲を積んで、復《ふく》せざる者は、其州、滅亡す、と有る。是は、東方未開の地に、大きな樟樹、有り、九つの枝、有《あつ》て、それぞれ、九州の一つを代表する。力士九人、斧で、此枝を斫つて、九州の吉凶を占ふに、斫られた枝が、復《また》生ずれば、其枝に當つた州に、福、有り、創つく時は、其州の領主が病む、斫取《きりと》られて、歲が立つても生ぜざれば、其枝に代表さるゝ州が亡びると云ふので、「五雜爼」十に、曲阜孔廟中の檜の盛衰は、天地の氣運・國家の安危を示す如く論じ、『大英百科全書』に、或る木が枯《かる》れば、或人が死すてふ迷信を列ねてゐる類《たぐひ》だ(十一板、廿七卷二三六頁)

[やぶちゃん注:以上の本文の数箇所は底本(ここから)に、「選集」に拠る追加を加えてある(「『土の鈴』一三輯八四頁に」の部分は底本にない書誌である)。一部の本文に不審があり、それも「選集」を参考に私が正しいと判断した修正を施した。

「後藤氏」「選集」に後藤捷一とする。後藤捷一(明治二五(一九八二)年~昭和五五(一九八〇)年)は徳島市に生まれの染織書誌学の研究家。徳島県立工業学校卒業後、直ちに大阪に出て、染料の研究を始めた。染織関係の業界誌を編集する一方、染織を主体にした文献を収集し、「日本染織譜」等、数多くの文献を残し、晩年には約七十年に亙って集めた資料や文献を整理し、室町から明治中期までの計六百七十一点からなる「日本染織文献総覧」を纏めている。また、藍の研究でも著名で、特に阿波藍の研究では第一人者であった(「独立行政法人国立文化財機構『東京文化財研究所』」公式サイト内の「物故者記事」のこちらに拠った)。彼が『「酉陽雜爼」から』『見出だし』たとする内容は、記事が判らないので、同定不能であるが、思うに、章末の同書の引用がそれか。

『「淵鑑類函」四一五に、「神異經」を引いて、……』「淵鑑類函」は南方熊楠御用達の清代に編纂された類書(百科事典)。康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成したもので、一七一〇年成立。当該部は「漢籍リポジトリ」のこちら[420-24b]及び[420-25a]で電子化されたものと、影印本画像を見ることが出来る。「神異經」は中国の古代神話に基づく「山海經」(せんがいきょう)に構成を倣った幻想地誌。著者は漢の武帝の側近東方朔とする説があるが、現在は後世の仮託とされている。

「豫章樹」今まで何度も出たクスノキの漢名の一つ。

「九州」中国全土を指す古称。夏禹の時代に、全域を九つに分けたことに由来する。「書経」の「禹貢」によれば、冀(き)・兗(えん)・青・徐・揚・荊・予・梁・雍を指す。]

 扨《さて》、馬琴が「燕石雜志」に言つて居《をつ》たと記臆する通り、古書の文を孫引きして、其現存の本を見ると、多少、違ひ居《おつ》たり、或は、全く見えぬ例が多い。右述、「神異經」の文も、現存のよりは、「類函」に引《ひい》た方が古いらしく、「神異經」、果たして東方朔の作なら、切れた木の疵が、復た、合うふ譚中、是が、最も古い者であらう。又、是も『增訂漢魏叢書』本に見えぬが、「類函」には、「高士傳」から、巢父《さうほ》、許由が、堯の徵辟を辭して、耳を河に洗ふを見て、由に語り、『豫章の木、高山に生ず。工、巧みなりと雖も、得る能はず。子、世を避くるに、何ぞ深く藏(かく)さざる。』と言つた、と有る。古支那で、樟の木は、至つて得がたい物だつたので、神怪の說も、特に多かつたと見える。件《くだん》の巢父は、年老いて、樹を以て巢《すみか》となし、其上に寢た故、時人、「巢父」と號《なづ》けたと云ふ。支那の上古、有巢民、有り、木を構へて、巢と爲し、住み、木實《このみ》を食ふた(「十八史略」一)。今も木の上に小屋を作り住む民族あり(一九〇六年板、スキート及ブラグデン「マレー半島野敎民種篇」一ノ一八一と、一八三頁に面する圖參照)。そんな人間は、殊に、大木を重んずる筈だ。

[やぶちゃん注:「燕石雜志」馬琴の考証随筆。本名の滝沢解名義で文化八(一八一一)年刊。私は吉川弘文館随筆大成版で所持する。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で原本が総て視認出来る

「巢父、許由が、堯の徵辟を辭して、耳を河に洗ふを見て」「莊子」の「逍遙遊」や「史記」「燕世家」等でよく知られた話。許由が、聖王帝堯から、その高徳を認められ、天子の位を譲ると言われたが、それを固辞し、逆に「汚い話を聞いた。」と、潁川(えいせん)の水で耳を洗った。すると、そこへ牛に水を与えるために通りかかり、許由の耳を洗う理由を聞くと、「汚れた水を、牛に飲ませるわけにはゆかぬ。」と言って、その場を去ったのが巣父であった。

『一九〇六年板、スキート及ブラグデン「マレー半島野敎民種篇」一ノ一八一と、一八三頁に面する圖參照』イングランドの人類学者ウォルター・ウィリアム・スキート(Walter William Skeat 一八六六年~一九五三年:主にマレー半島に於ける民族誌の先駆的調査に取り組んだことで知られる)と、同じくイングランドの東洋学者・言語学者であったチャールズ・オットー・ブラグデン(Charles Otto Blagden 一八六四 年~一九四九年:マレー語等、東南アジアの言語に精通し、特にビルマ語のモン文字とピュー文字の研究で知られる)が共同執筆した‘Pagan Races of the Malay Peninsula’(「マレー半島の異教の民族」)。「Internet archive」の原本のこちらで当該本文が、挿入された南方熊楠の指示する写真画像がここで見られる。

 以下の章末の段落(全漢文)は、底本では、ポイント落ちであるが、読み難くなるので、同ポイントで示した。その代り、一行空けた。「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合した。問題無し。]

 

 酉陽雜爼曰、舊言、月中有桂、有蟾蜍、故異書言、月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合、人姓吳、名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹、釋氏書言、須彌山南面、有閻扶樹、月過樹、影入月中、或言、月中蟾桂地影也、空處水影也、此語差近。〔「酉陽雜爼」に曰はく、『舊(ふる)くより言ふ。「月中に、桂、有り、蟾蜍(ひきがへる)有り。」と。故に、異書に言ふ。「月の桂は、高さ五百丈、下に、一人、有りて、常に、之れを斫(き)るに、樹の創(きず)は、隨(したが)ひて、合(がつ)す。人、姓は吳、名は剛、西河の人なり。仙を學びて、過ち有り、謫(たく)せられて、樹を伐らしめらる。」と。釋氏の書に言ふ。「須彌山の南面に『閻扶樹(えんぶじゆ)』あり。月の、樹を過(よぐ)るに、影は、月の中(うち)に入る。」と。或いは、言ふ。「月中の、蟾(ひきがへる)と、桂は、地の影なり。空(くう)なる處は、水の影なり。」と。この語(ことば)差(やや)近(あた)れり。』と。〕

2023/09/18

南方閑話 巨樹の翁の話(その「七」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        

 

 此北歐の例に似たのが支那にも有《あつ》て、周の武王は樹神崇拜を禁絕せうとて大木を伐つた譚が、晉の干寶の「搜神記」三に出づ。

 昔、武王の時、雍州城南に、高さ十丈で、𢌞《まは》り一里の地を蔭にした大神樹、一本、有り。人民、悉く、奉崇し、四時八節に、羊を牽き、酒を負ひ、祭祀、絕えず。武王、之を見て、「此樹神、何ぞ我が百姓を、損ずべきや。」とて、兵を以て、圍んで、伐《きら》んとすると、神、砂を飛ばし、石を走らせ、大雷電と來た。兵士共、瓦解して逃去《にげさつ》た跡に、脚《あし》を損じた者、二人、樹から百步距《へだ》つた地に、臥して、去るを得ず。其夜、赤い衣、きて、乘馬した者、來つて、樹神に向ひ、「朝から、武王、汝を伐《きつ》たが、損傷を受《うけ》たか。」と問ふ。樹神曰く、「我れ、雷電を起《おこ》し、砂石を飛《とば》し、兵士を傷けたので、兵士、分散して、我に近づかなんだ。何と、我《わが》威力は、きついものだらう。」と。赤衣の人、怒つて、「我れ、若し、王に敎へて、兵士の面《つら》に、朱を塗り、披髮して、朱衣を着、赤繩で樹を縛り、灰を百度も、𢌞《まはり》に撒《まい》て、斧で伐らせたら、伐《きら》れぬものか。」と。問はれて、ギツクリ、樹神、答《こたへ》、無し。其れ見たかと言はぬ計《ばか》りに、赤衣《せきい》の人は、轡《くつわ》を縱《ゆるく》して去《さつ》た。翌日、其軍人、鄕中《がうちゆう》の父老《ふらう》に聞《きい》た儘を語り、王まで聞へる[やぶちゃん注:ママ。]。王、其言の通り、種々、用意して、斧で伐らしむると、何の變事も無く、樹から、血が出《いで》て、一《いつ》の牝牛が、飛び出して、豐水《ほうすい》中に走り入つた。故に、樹の精は、百年、立てば、靑牛に化けると、知つた。其より、大木を伐るには、赤い物と灰を用ひて、樹精を追出《おひだ》す事と成つたと云ふ事ぢや。前に引《ひい》た通り、秦の文公が、終南山の梓の大木の蔭が、宮中を暗くするを惡《にく》んで伐らしめた時も、樹精、靑牛に化《ばけ》て、澧水《ほうすい》に入《いつ》た、と有る。澧水は豐水と一所で、古くこんな話が有《あつ》たのを、武王・文公と、色々に傳へたらしい。

[やぶちゃん注:「搜神記」の当該話は、「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像で視認出来る。

「前に引た通り、秦の文公が、……」「二」を参照されたい。]

 木が傷ついて血を流すの、樹を伐れば、樹の精が遁げ去るの、などいうことは、支那の外にも、多い。エストニアやシルカツシアに、樹神が、牛を繁殖せしむという俗信、行なはれるより考へると、支那でも、斯《かか》る想像から、樹神が、牝牛に化《ばけ》るとした者か(フレザー「金椏篇《きんしへん》」一卷一章參照)。本邦にも丑の時詣りを大牛が道に橫たはつて遮ぎると云ふは、本《も》と、樹精は、牛形で、自分が宿る木幹《きのみき》に、釘を打《うた》るゝを防がん迚《とて》の行爲と云ふ意味かも知れんて。梁の任昉《にんばう》の「述異記」上に、『千年の樹の精は、靑牛と爲る。』と有るは、「搜神記」に百年と見ゆると違ふ。

[やぶちゃん注:「シルカツシア」不詳。

「金椏篇」「金枝篇」に同じ。私の愛読書である。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「六」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 予が現住宅地に大きな樟《くす》の樹あり、其下が快晴にも薄暗い斗り枝葉繁茂し居り、炎天にも熱からず、屋根も大風に損ぜず、急雨の節、書齋から本宅へ走り往くを掩護《えんご》する、其功拔群だ。日傘、雨傘、足駄、全く無用で、衣類もと云ふ所だが、予は、年中、多く、裸暮し故、皮膚も沾《ぬ》れず、こんな貧人に都合のよい事は又と無いから、樹が盛える樣《やう》、朝夕、成るべく、根本に小便を垂れて御禮を申し居る。物語や軍記を讀むと、樹下に憩ふて、勢いを盛り返したの、大木の本に雨宿りしたのと云ふ事、多く、何でも無い事の樣な物の、其《その》當人に取つては、實に再生の想ひが有つたので、爲めに、一生に新活路を開き、無上の幸運に向ふた例も少なくあるまい。

 去《され》ば、上に引いた、日本武尊が樟の大木を讃《たたへ》て、其國に名《なづ》け給ふたのも、幾分、此邊の理由もあつた事なるべく、サー・サミユール・ベイカーの「ゼ・アルバート・ニアンザ」十九章に、バーバーより、スワキムえ[やぶちゃん注:ママ。]行く途中で、著者の一行と、アラブ人の一行と、一樹の蔭を爭ふて、戰鬪した記事有り。いと大人氣ない事の樣だが、本人共《ども》に取つては、無水の沙漢に長途を取つた場合、一本の大樹を見て、其蔭に憩ふは、萬金よりも、渴望の餘り、焉《ここ》に及んだので、一樹の蔭、一河の流れに、宿り、飮むを、深い宿緣とした詞《ことば》も、其《その》理《ことわり》あり。印度の或《ある》民は、沙漠中、偶《たまた》ま見る孤樹の蔭を絕《たや》さぬ爲め、旅客、每《つね》に、其樹に布片《ぬのきれ》を懸けて、樹精マーモを祀る(エントホヴエン編「グジヤラツト民俗記」五六頁)。

[やぶちゃん注:「サー・サミユール・ベイカー」サー・サミュエル・ホワイト・ベイカー(Sir Samuel White Baker 一八二一年~一八九三年)はイギリスの探検家で士官、博物学者・狩猟家・エンジニア。彼はまた、オスマン帝国と、エジプトで、「パシャ」と「少将」の称号も保持していた。

「ゼ・アルバート・ニアンザ」は‘The Albert N'Yanza, Great Basin Of The Nile; And Exploration Of The Nile Sources.’(「アルバート・ニャンザ、ナイル川大盆地、そして、ナイル川源流の探査。」:一八六六年刊)。「十九章」は「Internet archive」の原本のここから。

「バーバー」不詳。

「スワキム」現在のスーダンの紅海に面した港町スアキンのことか(グーグル・マップ・データ)。

『エンドヴエン編「グジヤラツト民俗記」』「選集」では編者名は『エントホヴエン』とある。インド西部グジャラート州(アフリカからの移民が多い地域)の民俗誌で、恐らく、「Project Gutenberg」の‘Folk Lore Notes. Vol. I’ の“Gujarat, by A. M. T. Jackson”とする電子化物に、“Editor: R. E. Enthoven”とあるので、これと思われたが、見る限り、熊楠の言うような内容は発見出来なかった。]

 佛說に、世界諸洲に、大樹、有之《これあり》、各地民を、快樂慰安せしむる由を、述ぶ。北洲の安住樹は、高さ六抅盧舍《ろくくろしや》(一拘盧舍は五里)、其葉、密に重なり、次第に相《あひ》接して、草で屋根を葺《ふい》た樣《やう》で、雨、滴り洩らず、諸人、其下に安住す。劫波娑樹《こうはしやじゆ》は、高さ、六、乃至、五萬四千三百廿一拘盧舍で、其果より、自然に、衣服・瓔珞、出で、樹間に懸置《かけお》かる。又、人の欲する儘に、種々の、鬘や、器物や、樂器を、果實から出《いだ》す、鬘樹、器樹、樂樹、有り。諸佛、皆、大樹下に成道說法する。抅留孫佛《くるそんぶつ》は尸利沙樹《しりさじゆ》、倶那含牟尼佛《くなごんむにぶつ》は烏暫婆羅門樹《うざんばらもんじゆ》、迦葉佛《かせうふぶつ》は尼倶律樹《にくりつじゆ》、釋迦牟尼佛は菩提樹、彌勒佛は龍華樹だ(「起世因本經」一。「佛祖統紀」卅。「諸經要集」一)。大樹の蔭に、日熱雨露を避け、安坐默念して、漸く、悟道したのだ。

 斯《か》く、大木は、用材・柴・薪・果實から、其蔭迄も、人世に大必要であつたから、之を、神や神物として尊崇し、切らうなどとは思ひもつかぬ有樣だつた故、印度、其他に、樹神の話、多く、本邦にも上古、樹を神に崇めたらしいのも見え、支那でも「抱朴子」に、『山中の大樹、能く語るは、樹が語るので無く、樹の精が語るのだ、その精の名を「雲陽」と曰ふ。其名を以て、之を呼べば、則ち、吉。』と有る。是は、樹の精の名を知置《しりおい》て、之を呼べば、害を成し得ぬと云ふので、大法螺吹きも、素性を知つた人の前では、へこたれて了ふ如く、いかな樹神も名を知られたら、怪力を揮《ふる》ひ得ぬと云ふのだ(『鄕土硏究』第一卷第七號、拙文「呼名の靈」參照)。其が、追々、人間も殖え、生活上の必要から、家を建《たて》て、田畠を開くに、大木が必要となり、又は、邪魔になるより、之を伐らねば成らぬ場合に及んで、舊想を守る者は、樹神が祟りを爲すを恐るゝ處から、巨樹の翁の譚など、出來たのだ。北歐諸國へ耶蘇敎が入つた時などは、家を建つとか、田畠を開くの必要に迫られざるに、單に樹神崇拜を絕《たや》すために、大木を伐らせた事が多かつた。

[やぶちゃん注:名を知り得て、それを先に「言上(ことあ)げ」した方が、勝つ、或いは、対象を支配するという、汎世界的な民俗伝承の原理である。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「五」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 「古風土記逸文考證」に、「釋日本紀」より孫引された「筑後風土記」に、三毛郡《みげのこほり》云々、昔し、一つの楝木(クヌキ)あり。郡家の南に生じ、其高さ、九百七十丈。朝日の影、肥前の國藤津郡多良の峯を蔽ひ、暮日《ゆうひ》の影、肥後の國山鹿郡《やまがのこほり》荒爪の山を蔽ふ云々。因《ゆゑ》に御木《みき》の國といふ。後人、誤《あやまり》て、三毛《みけ》と曰ふ。今以て郡名となす、と有り。高木敏雄君の「日本傳說集」四七頁に、肥後國阿蘇郡高森町の上に、昔し、有つた木は、朝日には、其影が、俵山《たはらやま》を隱し、夕日には祖母山《そぼさん》を隱したが、風に折れて、其枝、地に埋《うも》れたのを、今に掘り出すことがある、と見えるは、似たことだ。「筑後風土記」に、昔し、有つた木を、「クヌギ」としたのは「日本紀」景行帝十八年の記と同じだが、「書紀」に「クヌキ」を「歷木」と書きあるに變り、「風土記」には「楝」と作り居《を》る。楝は和名「アフチ」、近俗、「センダン」といふ。「栴檀」にはあらず(「大和本草」卷十一)。楝の俗稱「センダン」に因《よつ》て、天竺の栴檀の種より、栗の大木が、近江に生えた、と云ひ出《だし》た者で、偶《たまた》ま以て、「三國傳記」の出來た時、既に「アフチ」を「センダン」とも呼んだと分る。又、其頃、何でもない物と侮つて、不意に、足を卷《まか》れて、人が仆《たふ》れるから、思ひ付いて、「侮る蔓に倒れする」てふ諺があつた事も知れる。其諺を釋《と》く爲に、葛の敎へで大木を倒した話を作つたと見える。「三國傳記」は、予、見た事無し。いつ誰が著《あらは》したのか敎へを竢《ま》つ。

[やぶちゃん注:『「古風土記逸文考證」に、「釋日本紀」より孫引された「筑後風土記」に、三毛郡云々……』国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本(栗田寛著・明治三六(一九〇三)年大日本図書刊)のここで当該部が視認出来る。但し、熊楠は、その訓読に必ずしも従っていない箇所があるので、必ず、比較されたい。

「楝木(クヌキ)」栗田氏の注があり、『棟[やぶちゃん注:ママ。]木は、書紀[やぶちゃん注:「景行紀」中。]に歷木とあり、棟木を歷木(クスキ)にあてゝ書るにや。又歷木とは異なる木か、未た[やぶちゃん注:ママ。]考へず、和名抄に、本草云、擧樹久奴岐(クヌキ)、日本紀私記云、歷木、』[やぶちゃん注:これは私が「和名類聚抄」を調べたところ、「久奴岐」ではなく、「久沼木」であった。恐らく下の「本草和名」のそれを誤ったものと思われる。]『また、本草和名之良久奴岐(シラクヌキ)、一云奈美久奴岐(ナミクヌキ)とあり』とあった。この「歷木(クスキ)」は楠(樟)で、クスノキ目クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora を連想させる。

「九百七十丈」二千九百三十九メートル。

「肥前の國藤津郡多良の峯」長崎県と佐賀県の県境に位置する標高九百九十六メートルの多良岳(たらだけ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「肥後の國山鹿郡荒爪の山」位置的に見て、熊本県熊本市西区ある荒尾山(標高四百四十五メートル)のような気がする。

『高木敏雄君の「日本傳說集」』国立国会図書館デジタルコレクションの高木敏雄著「日本傳說集」第四版(一九二六年武藏野書院)のこちらの「樹木傳說第四」の「(ロ)大木」がそれ。

「肥後國阿蘇郡高森町」ここ。阿蘇山の南東の山麓。

「俵山」ここ。阿蘇山の西南西。標高千九十五メートル。

「祖母山」ここ。標高千六百七十メートル。

「アフチ」オウチで、ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の別名。

『「栴檀」にはあらず』とは、香木として知られる「栴檀」とは違うという意。その栴檀とは、インドネシア原産のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album で、センダンとは縁も所縁もない。

『「大和本草」卷十一』国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原版本の当該部である「楝」「アフチ」の項を示す。

「三國傳記」は室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計三百六十話を収めるが、熊楠同様、私も読んだことがない。]

 高木君の「日本傳說集」四八頁に、丹波國何鹿郡志賀鄕村の滴《したた》り松は、雨ふる時、滴《しづく》が落ちず、晴天に限つて滴が落ちるので、近所の田は水に困らなかつたのを、光秀、築城に際し、伐《きつ》て棟木とする爲め、多くの人足をして伐らせたが、大木故、一日で事叶はず、次日《つぎのひ》、徃《いつ》て見ると、前日切つた木片、散亂したのが、一つ殘らず、元へ戾つて、樹、本《もと》の如く成り居る。斯《かく》て幾日掛るも、仕事、捗らず、光秀、人足を增し力《つよ》めて、一日に伐倒して、城の棟木にした由を載す。

[やぶちゃん注:『高木君の「日本傳說集」四八頁に、丹波國何鹿郡志賀鄕村の滴り松は、……』前に注した同じ個所の次の「(ハ)滴松」がそれ。

「載す」底本は『截す』。訂した。]

 「攷證今昔物語集」に、若干の大木の話を列ねてある。乃《すなは》ち「古事記」に、仁德帝の御世、兎寸河の西に一高樹有り。その樹の影、旦日《あさひ》に當つては、淡道島に逮《およ》び、夕日に當つては高安山を越ゆ。故に、是樹を切《きり》て船となす。其はいと[やぶちゃん注:「いと」は「選集」で補った。]捷《はや》く行く船也。時に其船を號《なづ》けて「枯野」といふ云々。是は、熊楠、思ふに、樹の蔭、日光を遮つて、其下に草木の生《はえ》るを妨げたので、野を枯らした木と云ふ意味で付けた名らしい。「播磨風土記」には、明石の驛家《うまや》、「駒手《こまで》の御井《みゐ》」[やぶちゃん注:湧き水の名称。]は、難波高津宮〔仁德〕天皇の御世、楠〔の木〕、井の口に生え、朝日には淡路島を蔽ひ、夕日には大和島根を覆ふ。仍《よつ》て、其楠を伐《きり》て、舟を造り、其迅き事、飛ぶが如し。一檝《ひとかぢ》去れば、七浪《しちなみ》を越ゆ。仍て「速鳥《はやとり》」と名《なづ》く云々。「肥前風土記」には、佐嘉郡《さがのこほり》に、昔し、樟《くす》の樹一株、此村に生え、幹枝《もとえ》、秀《ひい》で、高く、葉、繁茂す。朝日の影は、杵島郡《きしまのこほり》蒲川山《かまかはやま》を蔽ひ、暮日《ゆふひ》の影は、養父郡《やぶのこほり》草橫山《くさのよこやま》を蔽ふ。日本武尊、巡幸の時、楠の茂り榮えけるを御覽じて曰く、「この國は榮之國《さかのくに》と云《いふ》べし。」と。因《より》て榮郡と曰ひ、後、改めて、佐嘉郡と號く云々。

[やぶちゃん注:芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)のそれは、「本朝部」巻第三十七の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の付注内の一節を指す。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ後ろから三行目以降から)である。但し、この段落の多くの読みは、所持する一九三七年岩波文庫刊の武田祐吉編「風土記」に拠った。

「兎寸河」この巨木伝承、私の好きな話なのだが、その生えていた比定地は、論争が激しいが、現在のところは、今の大阪府泉南市兎田(うさいだ)とするのが有力らしい。影を落とすところからして、穏当であろう。

『明石の驛家、「駒手の御井」』「兵庫県学校厚生会・関係法人公式サイト SMILEPORT」の「郷土の民話」の「駒手〈こまで〉の御井〈みい〉と速鳥〈はやとり〉(明石市大蔵町)」によれば、『大蔵谷〈おおくらだに〉の太寺〈たいでら〉に駒手〈こまで〉の御井〈みい〉というたいへんよい清水があり、その上に大きなクスノキがありました』とある。この「大蔵谷」は現在の明石市の現在の兵庫県明石市大蔵町を含む、かなり大きな旧広域地区名で、前の地図の北西に配したが、「太寺」は現在の兵庫県明石市太寺で、その二丁目内に「太寺廃寺塔跡」(グーグル・マップの名称は「太」を「大」に誤っている)が残る。この寺は「明石市」公式サイト内の「明石の遺跡 」の「太寺廃寺」によれば、『太寺は白鳳期(7世紀後半~8世紀初)に造営された寺院の名ですが、早くより廃寺となりました。現在は江戸時代、明石城主小笠原忠政(のち忠真)によって再興された天台宗太寺山高家寺があります』。『境内の東南隅にある小高い土盛は、県の文化財に指定されている太寺廃寺の塔跡で』、『塔の基壇は高さ約1.5mで、円形つくりだしの柱座が設けられた礎石が3石、現位置に埋没して残存しています。うち北側の2石は中心間の距離が約8尺、残り1石の距離は2石を結ぶ線と直角に約16尺の位置にあり、1辺約7.3m24尺)の塔であったと推定されます』。『寺の境内からは白鳳時代~江戸時代の瓦が出土しており、白鳳時代以降、数度にわたる改修を受けていたことが分かります』とある。さても、「ひなたGPS」で戦前の地図を見て貰いたい。すると(横地名は総て右から左で書かれているので注意)、「明石市」の市名の右下にゴシック太字で「大藏谷」とあり、ここが、現在の大蔵町や太寺を含む広域地名であったことが確認出来るのである。面白いのは、巨大なクスノキの近くの古代寺院に、当時としては、基盤と柱座の礎石位置から見て、かなり高かったであろう仏塔が建っていた事実である。或いは、この仏塔はその巨木のよすがを偲ぶためでもあった可能性があるのではなかろうか?

「大和島根」我が国の本土(本州)のこと。

「佐嘉郡」ウィキの佐賀県の旧「佐賀郡」に、本大樹伝説による地名説が原文を引いて載る。その注によれば、以下の「杵島郡蒲川山」は、『肥前の国学者糸山貞幹は江北町』(こうほくまち)『佐留志』(さるし)『の堤尾山と比定したが、現在の場所は不明。井上通泰は杵島郡東部の山と推定した』とあり、「養父郡草橫山」は、『井上通泰の『肥前國風土記新考』では、四阿屋神社祠官三橋真国の話として九千部山』(くせんぶやま)『に比定する。また糸山貞幹の『肥前旧事』では、みやき町中原の綾部山』(綾部城附近であろう)『を草山ともいい、その傍を横山と呼ぶという』とあった(リンクは私がグーグル・マップ・データを勝手に張ったもの)。]

 外國にも古芬蘭《フィンランド》國のヴイナモイネンが蒔いた檞《かしは》の實より大木を生じ、其梢天に屆き、行く雲を妨げ、日光月光を遮つたのを、一寸法師、海中より出で、忽ち、巨人に化して、伐り倒したので、農作、始めて出來たといひ、エストニアの舊傳、亦、カレヴイデが到着した島の檞は日月を蔽ひ、其枝の蔭が全國を暗くしたのを、一寸法師が伐僵《きりたふ》したという(亡友ヰリアム・フオーセル・カービー氏英譯「カレヴラ」二段。同氏英譯「カレヴイポエグ」六段)

[やぶちゃん注:「ヴイナモイネン」当該ウィキによれば、『ワイナミョイネン(Väinämöinen)は、フィンランドの民間伝承と』、『国民的叙事詩『カレワラ』の主要な登場人物である。元々はフィンランドの神であった。年老いた賢者で、強力な魔力を秘めた声の持ち主として描かれている。フィンランドにおける国民的英雄』とある。

「檞」ここはフィンランドであるから、本邦のカシワ(ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ  Quercus dentata :同種は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にしか植生しない)ではない。ここは、ブナ目ブナ科 Fagaceaeの木の総称である。

「カレヴイデ」本来は、フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルトによる十九世紀の叙事詩の名で、エストニアの民族叙事詩と見なされているもので、Kalevipoegという名の巨大な英雄のエストニアの民間伝承が元。ここはその巨人英雄(ウィキのローカル版の「カレピポエグ」を参考にしたが、どうも機械翻訳らしく、ちょっと日本語がおかしいところがある)。

「亡友ヰリアム・フオーセル・カービー氏英譯「カレヴラ」二段。同氏英譯「カレヴイポエグ」六段」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の著作。「Internet archive」で見られるが、ちょっと探せなかった。なお、『「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8)』(最終回)の「Kirby, The Hero of Esthonia, 1895」で、英文ウィキの彼の「Kalevipoeg」の「Synopsis」の条を引用してあるので、見られたい。]

2023/08/14

南方閑話 巨樹の翁の話(その「四」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 佐々木君が引いた「東奧古傳」に或說云《いはく》とて擧げた話は、奇體にも君と同姓の「佐々木家記」より出たらしい。其は、予、未見の書だが、芳賀博士の「攷證今昔物語集 本朝部」下卷六五五頁に「古風土記逸文考證」から又引きしてある。云く、『「佐々木家記」に、天文辛丑《かのとうし》[やぶちゃん注:天文一〇(一五四一)年]六月二日、今日《けふ》、武佐《むさ》より言上《ごんじやう》、地の、三、四尺或は一丈下に、木葉枝の朽《くち》たるを掘出《ほりいだ》す。稀有の事也とて、數箇所掘返し見るに、皆、同じ。其物を獻ぜり。黑く朽たる木の葉の塊まりたる也。屋形(佐々木義賢)、「希代の事也。」迚《とて》、國の舊き日記を見給ふに、其記に云く、「景行天皇六十年十月、帝甚だ惱む事あり。之に依《より》て諸天に病惱を祈れど、終《つひ》に其驗《しるし》なし。是に一覺と云ふ占者あり。彼に命ぜしに、一覺曰く、「當國の東に大木あり、此木甚だ帝《みかど》に敵する有り。早く此木を退治さるれば、帝の病惱、平治す。」と云々。之に依て、此木を伐《き》るに、每夜、伐る所の木、本《もと》の如くなる。終《つひ》に盡《つく》る事無し。然して、彼《か》の一覺を召して問ふに、「伐る所の木屑、每日、之を燒《やけ》ば、果して盡《つ》く。」と云ふ。「我は、彼《かの》木に敵對する葛也。數年《すねん》威を爭ふ事、久し。其志《こころざ》し、帝に差向《さしむ》く。」と云ふて、卽時に搔消《かきけ》す如く失せぬ。彼《かの》言《げん》の如く行ひ、木屑を燒き、每日に及び、七十餘日を終《をへ》て、彼木、倒る。此木、枝葉、九里四方に盛え、木の太さ、數百丈也。之に依て、帝の病惱、平治す。卽ち、彼木の有《あり》し郡《こほり》を「栗本郡」と號し、栗木の實、實《みの》らず云々」と。』。

[やぶちゃん注:以上の芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)の「本朝部」巻第三十一の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の付注の当該部を、国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ三行目下方から)で視認して校合した。熊楠の引用には不全が複数箇所あったので、訂正した。なお、一般的に郡(こおり)名「くりもと」の「栗太郡」は、元は「栗本郡」であったと考えられている。

「東奧古傳」「三」の私の注の佐々木喜善の引用を参照されたい。

『「佐々木家記」に、……』国立国会図書館デジタルコレクションの「古風土記逸文 下」(栗田寛纂訂・明治三一(一八九八)年大日本図書刊)のここ(右ページ後ろから三行目以降)で、全く同じ内容を見ることが出来る。

「武佐」現在の滋賀県近江八幡市武佐町(むさちょう)であろう。

「佐々木義賢」これは、かの南近江の戦国武将六角義賢(大永元(一五二一)年~慶長三(一五九八)年)のことと思われる。六角氏は宇多源氏佐々木氏流である。]

 爰に、所謂、國の舊記の筆者、景行帝の御時、佛法、未だ渡らずと知《しり》て、『諸天に病惱を祈る。』と、故《こと》さらに書《かい》たのを、「東奧古傳」には、之に氣付かず、『或者、諸寺・諸山に祈禱有り。』と替《かへ》たのは、不學の至りだ。但し、「諸天」てふ詞《ことば》、亦、彼《かの》帝の世に、吾邦に無かつたから、孰れを用ひても五十步百步で、等しく尻《し》つ穗《ぽ》を出し居《を》る。

[やぶちゃん注:ここが「三」の佐々木へのイヤミの立証部である。

 又、「攷證今昔物語集」に「三國傳記」を引《ひい》て、「和に云く、近江國栗太郡と申すは、栗の木一本の下《もと》也けり。枝葉、繁榮して、梢、天に覆へり。秋風、西より吹く時は、伊勢の國迄、果《はて》落つ。七栗といふ處は其故なり。又、此木の隱《かげ》、遙かに若狹の國に移る間だ、田畠、作毛の不熱に因《より》て彼《かの》國の訴訟有《あり》て此樹を切る。此木は、天竺栴檀の種より生じたる故に「西」「木」と書けり。釿(てうな)鈇(をの)を持(じ)して彼木を截れども、切口《きりくち》、夜は愈《いへ》、合《あひ》けり。然《しか》る間、自國・他國の輩、奇異の思ひを成して、杣人《そまびと》を集め、日每に、是を切れども、連夜、元の樹となる。其故は、此栗の木は樹木の中の王たるに依《より》て、諸草木、夜々、訪來《おとなひきたり》て、こけらを取《とり》て合《あは》せ付《つけ》ける故也。秋、來れば、一葉、落ちて、春、至りて、白花、開く、などかは、心のなかるべき。爰に一草、『蔓〔「カヅラ」で「佐々木家記」の「葛」に當《あた》る〕といふ物、訪來る。』由を云《いひ》ければ、『草木の數とも思はぬ物の、推參すること、奇怪。』とて追返《おひかへ》しけり。仍《より》て、此蔓、腹を立《たて》て、『同じ國土に栖乍《すみなが》ら、侮られけるこそ、口惜しけれ。』と瞋《いか》り、人々の夢に示しけるは、『此大木を切顚《きりたふ》し給ふべきならば、樾《こけら》、火にたき給へ。不然《しからざれ》ば、千草萬木《せんさうばんぼく》、夜な夜な、切れ目を合せて、差《いや》す[やぶちゃん注:「癒す」に同じ。]故に、此木、顚倒《てんたう》する事、有るまじ。』と語る。諸人《しょにん》、相《あひ》談話《だんわ》して敎への如くするに、無ㇾ程《ほどな》く、此木、倒れにけり。其梢、湖水の汀《みぎは》に至る。今の「木濱《このはま》」と云《いふ》所なり。侮る蔓に倒れするとは、此謂《いひ》なるべし。」と有る。

[やぶちゃん注:前と同じ芳賀の当該部で校合した。かなり不全があり、訂した。特に「樾、火にたき給へ、」の箇所は底本では「燒火にたく給へ」で意味が通らない。但し、この「樾」の字は漢語では「木蔭」の意で、「杮(こけら)」の意はないので、元の表記も不全ではある。「こけら」の読みは、「選集」でひらがなになってあるものを読みに採用したに過ぎない。

「三國傳記」は室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計三百六十話を収める。 「木濱」底本では「木の濱」とあるが、芳賀本に従い、そこにあるルビを添えた。現在の滋賀県守山市木浜町(グーグル・マップ・データ)であろう。

 以下最後まで、一字下げのポイント落ちで附記あるが、本文と同ポイントにして引き上げた。但し、一行空けた。]

 

 井澤長秀の「廣益俗說辯」五に、景行天皇に栗樹祟りをなす說と題して、「佐々木家記」と大同の話を出してある。著者は「今昔物語」近江の大柞樹の譚と、「玄中記」の、始皇、終南山の梓を伐らしめた談とを、取合《とりあは》して妄作したものと辨じゐる。

 大正十一年十一月、高山町發行『飛驒史壇』七卷七號、千虎某氏の「白川奇談」(二九頁)に云く、『新淵《あらぶち》より二丁程行きて「新田中畑《あらたなかはた》」と云ふ、此村の上に、昔、神代杉あり。大なること、十二抱《かかへ》といふ。杉の梢、越前の「花くら」の田に、影を、うちける。杣人、伐りけるに、一夜の内、愈合《いえあひ》て、切ること、能はず。後ち、火を焚《たき》て、「こわし」を燒きければ、愈ゆる事、なし。數十日懸りて、切り倒しけるに、二丁程なる川向ふへ、梢が屆きけると也。今の世にも切榾《きりほた》、「水まか」となりて、眼前に見る、となり。いつの時代、切りけると云ふふ事も知《しり》たる人は、なし。』と。

[やぶちゃん注:第一段落の部分は既に「二」で既出既注である。

「新淵」現在の岐阜県高山市荘川町(しょうかわまち)新渕(あらぶち)であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「新田中畑」現在の岐阜県高山市荘川町中畑(なかはた)。

『越前の「花くら」』不詳中畑から越前市郊外までは、真西で六十四キロメートルはある。

「こわし」不詳。今までの流れからは「木屑」であろう。

「水まか」不詳。意味不明。識者の御教授を乞う。]

2023/08/12

南方閑話 巨樹の翁の話(その「三」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 佐々木喜善君が書かれた近江の栗の大木の話(『閑話叢書』の内、「東奧異聞」參照)は予には耳新しいが、是は「今昔物語」の最末語に、「近江國栗太郡《くるもとのこほり》に大きなる柞(はゝそ)の樹、生《おひ》たりけり。其圍《めぐり》五百尋《ひろ》也。然れば其木の高さ、枝を差《さし》たる程を、思い遣るべし。其影、朝には丹波國に差し、夕《ゆふべ》には伊勢國に差す。霹靂《へきれき》する時にも、動かず。大風、吹く時にも、搖《ゆる》がず。而《しか》る間、其國の志賀・栗太・甲賀《こうか》三郡《さむぐん》の百姓、此木の、蔭を覆ふて、日、當たらざる故に、田畠を作り得る事なし。此《これ》に依《より》て其郡々《こほりこほり》の百姓等《ら》、天皇(てんわう)に、此由を奏す。天皇卽ち掃守宿禰(かにもりのすくね)□□等を遣《つかは》して百姓の申すに隨《したがひ》て此樹を伐倒《きり》してけり。然《しか》れば、其樹、伐倒して後ち、百姓、田畠を作るに、豐饒《ぶねう》なる事を得たりけり。彼《かの》奏したる百姓の子孫、今に其郡々に在り。昔は、此(かゝ)る大きなる木なむ有《あり》ける。此れ、希有の事也となむ語り傳へたるとや」と有りて、何帝の御時と明示せず。「先代舊事本紀」には、景行天皇四年春二月甲寅、天皇幸箕野路、經淡海、一枯木殖梢穿空入空、問於國老、曰神代栗木、此木榮時、枝並於山嶽、故並枝山(ひゑのやま)、又並聯高峰、故曰並聯山(ひらのやま)、每年葉落成土、土中悉栗葉也云々〔景行天皇四年の春二月の甲寅(かのえとら)に、天皇(すめらみこと)、箕野路(みのぢ)に幸(みゆき)す。淡海(おうみ)を經(す)ぐるに、一つの枯れ木より殖(お)ひし梢は、空(くう)を穿(ぬ)きて、空(そら)に入る。國老に問ふに、曰はく、「神代の栗の木なり。此の木の榮ゆる時は、枝は嶽(がく)に並ぶ。故に「並枝山(ひえのやま)」といふ。又、並びて、高き峰に聯(つら)なる。故に「並聯山(ひらのやま)」と曰ふ。每年、葉、落ちて、土と成る。土中、悉く、栗の葉なり。」云々〕とあるが、これは有名の僞書で、「和漢三才圖會」六一に、按燃土江州栗本郡[やぶちゃん注:ママ。]【石部・武佐、二村邊。】、掘山野取之、土塊黑色、帶微赤、以代薪亦臭【石炭者石類也與此而不同。】、理似腐木而硬、亦非石也、越後【寺泊柿崎二村交。】亦有之、相傳、昔神代有栗大木、枯倒埋地亘數十里、因其處名栗本郡、故有此物也、然越州亦有之、則恐此附會之說也、日本紀云天智帝七年越後獻燃土與燃水者是矣。〔按ずるに、燃土(すくも)は、江州栗本郡【石部・武佐二村が邊り。】にて、山野を掘りて、之れを取る。土塊(つちくれ)は、黑色にして、微赤を帶ぶ。以つて薪(たきぎ)に代ふ。亦た、臭(くさ)し【石炭は石類なり。此れとは同じからず。】理(きめ)は腐木(くちき)に似て、硬く、亦、石に非ざるなり。越後にも【寺泊・柿崎二村の交(かひ)に。】亦、之れ、有り。相傳ふ、「昔、神代に栗の大木有り、枯れ倒(たふ)れて、地に埋(うづ)むること、數十里に亘(わた)る。因りて、其の處を『栗本郡』と名づく。故に、此の物有り。」と。然れども、越州にも亦、之れ有るときは、則ち、恐らくは、此れ、附會の說ならん。「日本紀」に云ふ、『天智帝七年、越後より燃ゆる土と、燃ゆる水とを獻ずるといふ者は是れなり。〕と見える如く、栗本郡の名と、其地に、泥炭を出《いだ》すより、昔しは「柞」と傳へしを、「栗」として捏造した說だ。

[やぶちゃん注:「東奥異聞」は坂本書店の『閑話叢書』の一冊で、佐々木喜善が奥州で採集した民譚集。大正一五(一九二六)年三月刊。当該部は新字新仮名だが、国立国会図書館デジタルコレクションの一九六一平凡社刊『世界教養全集』第二十一巻ここ(「巨樹の翁の話」の「一」右ページ上段の後ろから九行目以降)で視認出来る。「青空文庫」で同刊本で電子化されているので、そちらの方が読み易い。それを原本と確認しつつ(漢字の一部が一致しないので訂した)、掲げる。最後の三つの注は原本では、一字下げポイント落ちで二行目に及ぶところは二字下げであるが、完全に引き上げて本文と同ポイントとした。頭の章番号「一」は外した。

   *

 樹木伝説のうちに、ある巨樹を伐り倒そうとするにあたりその伐り屑が翌日になれば元木に付着していて、どうしても伐り倒すことができなかったが、ある事よりその樹木のために悩まされているものの助けによって伐り倒し成功するという伝説が諸所にある。いまその伝説をわが奥州地方に求めると、自分の手近にある東奥古伝という写本に、稗貫郡高松(1)という所の山に、高松という孤松一樹ありその高さ虚空に聳え重葉四隣を蔽うた。この樹の精霊、時の帝闕[やぶちゃん注:「ていけつ」。宮廷。]を犯し奉りしによって、勅宣下って伐り倒したとの言伝えであるが、時代さらに確かならずと書いてある。この書の著者は、元祿の初めころに奥州に下り花巻城主北氏に寄寓していた京都の画家松井道円(2)という者で、こういう奥の口碑を写しながらも心が故山に馳せていたとみえて、この文のくだりに下のような付説を録している。[やぶちゃん注:以下が、熊楠が指示しているもの。]いわく、ある説にいう人皇十二代景行天皇六十年十月、帝御悩ありて甚だし、ある者は諸寺諸山に祈禱あり医術を尽くすといえどもさらにそのしるしなし、ここに一覚といえる占い者があって彼を召して卜筮をなさしむるにいう、これより東にあたりて大木あり、その木の精霊帝を悩まし奉る。はやくその木を退治せられなば、御悩すみやかに平安ならんと奏す。ここによってその木を尋ねみるに、近江の国に一郡を蔽えるクリの木あり枝葉九里四方にはびこり、その木の囲み数十丈、これぞ尋ぬる木なるべしとて人夫を催し毎日これを伐らしむるに、夜になればその伐り屑合して元のごとくになっている。毎日伐りても右のとおりなので、ここにおいてまたかの一覚を召し出して相談をかけると一覚申すよう、伐るところの屑を毎日焼き捨てたならばかならず伐り尽くさん、われはこれ、かの木に敵対するカツラの精なり、数年彼と威を争うこと久し、その志いま帝にさし向かい奉るとて搔き消すようにその姿は失せにけり。そこで一覚が申すとおり木屑を焼き捨てやっと七十余日かかって、その木を伐り倒したので、かくて帝の御悩御平癒ましましければその樹の生いありし所を名づけて栗田郡と号しけるとなん。……と著者はいってからまたさらにあれと同型同様の伝説はこのほかに、刈田郡、槻郡(3)といえる地方にもありと付記している。

 松井という人は昔の人だから、この近江のクリの木の伝説はなんという本にあることかその出所を明らかにせなかったが、けだしこれは有名な話であろう。奥州の山村には大図書館がないので古典に拠ることが能わぬからこの話の穿鑿はこのまま放っておき、そのかわりに同種同式の新しい話を左におみやげにする。

 

(1)岩手県稗貫郡矢沢村字高松、いまその跡に一祠堂あり。

(2)この京都の画家、奥州花巻城の松の間、葉の間の絵を書きしをもって有名なる人。

(3)宮城県の磐城国の苅田郡[やぶちゃん注:「かったのこおり/ぐん」と読む。]ならん、槻郡というはいまその類書もたぬから自分にはわからず。

   *

熊楠は「予には耳新しいが」と言っているが、ここには熊楠特有のイヤミが示唆されている。「君は『けだしこれは有名な話であろう』なんどと、無批判に言っておるが、出典は明らかじゃないいだろ! さればこそ、この松井道円が勝手に作話した部分があるんじゃねえのか?」と言いたいのだ。しかし、これに就いては、次の「四」で捏造の証拠を熊楠はしっかりと示してはいる。イヤミの言いっぱなしではない。「今昔物語集」の掉尾にあるそれは、「卷第三十一 近江國栗太郡大柞語第三十七」(近江國(あふみのくに)栗太郡(くりもとのこほり)の大柞(おほははそ)の語(こと)第三十七)。読みは、所持する小学館『日本古典文学全集』の「今昔物語集四」(昭和五四(一九七九)年第四版)に拠った。人名部分に欠字があるのを熊楠は略しているので、□で補塡した。以下の注でも同書を参考にした。

「栗太郡」同全集の頭注に、「大日本地名辞書」を引き、『西は湖水及瀬田川を以て滋賀郡と相限り、東は甲賀郡、北は野洲郡に接す』とある。明治期のものだが、当該ウィキの地図で確認出来る。但し、後の「東海道名所図会」で引く「灰塚山」が、その伐採した柞の木の灰で出来たとあり、その山は現在の滋賀県栗東(りっとう)市下戸山(しもとやま)のこの「灰塚橋」交差点の北部分(名神高速道路との間。山の高速を挟んだ北西に「灰塚池」もある)が、そこである(グーグル・マップ・データ航空写真)。灰塚橋の対岸から見たストリートビューもリンクさせておく。

「柞(はゝそ)」ブナ目ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata の古名。

「五百尋」「尋」は身体尺で両手を左右に広げた伸ばした長さで、概ね六尺=一・八メートルとされるので、九百メートル。文字通り、天を突き抜けるような、超巨木ということになる。この木ではないが、後に本文でも出る「筑後国風土記逸文」に載る「楝木(あふちのき)」(ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の別名(オウチ))は実に「九百七十丈」(二千九百三十九メートル)あったとある。

「掃守宿禰」「掃守」は「掃守寮」の役人。宮内省に属し、宮中の掃除・設営を司った。「宿禰」は「八色(やくさ)の姓(かばね)」の第三位。

「先代舊事本紀」は、この熊楠の引用した部分を国立国会図書館デジタルコレクションの同書では発見出来なかった。同書については、当該ウィキを見られたい。偽書説も詳しく記されてある。さても、仕方がないので、訓読は「選集」に拠った。

「箕野路」美濃路か。

「淡海」琵琶湖。

『「和漢三才圖會」六一に、按燃土江州栗本郡石部武佐二村邊、……』所持する原本で確認したが、熊楠の引用は甚だ不全で、腹が立ったので、大きく増補して、「燃土(もゆるつち) すくも」の項の本文を完全に収録し、二行割注は【 】で示した。訓読も原本の訓点に拠った。]

 「今昔物語」の文も、「日本紀」に、景行帝十八年『秋七月』、『到筑紫後國御木居於高田行宮、時有僵樹長九百七十丈焉、百寮踏其樹而往來、時人歌曰』云々、『爰天皇問之曰是何樹也、有一老夫曰、是樹者歷木(くぬぎ)也、甞未僵之先、當朝日暉、則隱杵島山、當夕日暉、亦覆阿蘇山也、天皇曰、是樹者神木、故是國宜號御木國。〔『秋七月』、『筑紫の後國(みちのしりのくに)、御木(みけ)に到りて、高田の行宮(あんぐう)に居(まし)ます。時に僵(たふ)れたる樹(き)有り。長さ、九百七十丈(ここのほつおうぇあまりななそつゑ)なり。百寮(ももちのつかさ)、其の樹を踏(ほ)むで、往來(かよ)ふ。時の人、歌いて曰く』云々。『爰(ここ)に、天皇(すめらみこと)、問ひて曰(のたま)はく、「是れ、何の樹ぞ。」と。一老夫(ひとりのおきな)有りて曰(まう)さく、「是の樹は歷木(くぬぎ)なり。甞(むかし)、未だ僵れざる先(さき)に、朝日の暉(ひか)りに當たりては、則ち、杵島山(きしまのやま)を隱しき。夕日の時に當たりては、亦、阿蘇山を覆(かく)しき。」と。天皇、曰(のたま)はく、「是の木は神木(あやしきき)なり。故(か)れ[やぶちゃん注:だから。]、是の國を宜しく『御木國(みけのくに)』と號(なづ)くべし。』と。〕と有るを沿襲したらしく、「舊事本紀」、亦、同樣と見える。「東海道名所圖會」、亦、近江の目川《めかは》と梅木(うめのき)の間(あひだ)に、古え[やぶちゃん注:ママ。]、大栗の樹有り。朝日に影を湖南に宿し、夕日には伊勢路に移す。爲に、數十里が間だ、農事を營み得ず。朝廷、命じて、之を伐り、燒き盡した灰で、「灰塚山(はひづかやま)」てふ山が出來た、と記す。「近江輿地誌略」四一には、『此山、栗太《くりもと》郡川邊村にあり。高さ二十間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]許り。掘[やぶちゃん注:底本「堀」。訂した。]れば、悉く、灰也と云ふ。』と載す。――爰までは單に大木の話だ。(二月七日稿)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」で補った。「日本書紀」の原文は信頼出来るネット上のものと校合し、訓読は概ね、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 中卷」(昭和六(一九三一)年岩波文庫刊)の当該部に従った。原文は随所に省略があるため、特異的に『 』を添えた。

「筑紫後國」筑後国。

「御木」「高田行宮」福岡県大牟田市歴木(くぬぎ)にある高田行宮伝承地(グーグル・マップ・データ)。旧三池炭鉱にごく近いことが判る。

「歷木(くぬぎ)」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima

「杵島山」一山ではなく、佐賀県南西部にある丘陵性の杵島山地を指す(グーグル・マップ・データ航空写真)。

『「東海道名所圖會」、亦、『近江の目川と梅木の間に、……』秋里籬島著のベストセラーの当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの一九七六年日本資料刊行会刊のここで視認出来る。読みは、それに従った。

「近江輿地誌略」原本に当たれなかった。

 以下、注記で、底本では全体が一字下げでポイント落ちだが、総て引き上げた。一行空けはママ。]

 

 藤澤氏の『日本傳說叢書』「和泉の卷」に、「泉のひびき」を引《ひき》て、泉南郡新家《しんげ》村兎田《うさいだ》の兎才田川《うさいたがは[やぶちゃん注:清音は参考原本のママ。]》の西に、昔し、大木あり[やぶちゃん注:底本「なり」。「選集」で訂した。]。其影、朝日に淡路島に到り、夕日には高安山《たかやすやま》を越ゆ。之を伐《きり》て船とし、いと速く走つたので、舟を「輕野《かるの》」と名づく云々、其木の跡、今も存す、とある。(大正十一年六月『土の鈴』一三輯)

[やぶちゃん注:最後の書誌は「選集」で補った。以上の引用は例によってかなり杜撰。国立国会図書館デジタルコレクションの藤沢衛彦編(大正九(一九二〇)年日本伝説叢書刊行会刊)のここから視認出来るので、そちらを必ず読まれたい。この記紀に載る伝承、私はとても好きな話で、見られれば判るが、続きがあって、船が老朽した後、その船材を塩焼きに使ったが、燃え残った材があったので、それで琴を作ると、その音(ね)は七里四方に響き渡ったというのである。この「輕野」は「枯野」(からの)の訛りとされる。高速を出せた船も、遠くにまで響き渡った琴も、名は「枯野」であった。

「泉南郡新家村兎田の兎才田川」大阪府泉南市兎田(うさいだ:グーグル・マップ・データ)。「兎才田川」は不詳。同地区を抜ける川は「樫井川」(かしいがわ)であるが、その旧称か、当該流域での部分川名かも知れない。

「高安山」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

2023/08/08

南方閑話 巨樹の翁の話(その「二」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        

 

 大正十年四月十八日、同郡中山路《なかさんぢ》村大字東の人、五味淸三郞氏より聞いたは。必定。同事異傳だらう。龍神村小又川の奧に「枕返しの壇」といふ、較(や)や大きな「壇」有り。「壇」とは、山中に樵夫《きこり》等が廬居《ろきよ》[やぶちゃん注:仮小屋して住むこと。]すべく、地を平らに小高く開いた處だ。そこに十八,九年前[やぶちゃん注:「選集」では『十四、五年前』とあるが、これは本篇「一」を含む「二」の雑誌初出(本章最後に示す)に拠ったもので、それは大正十一年六月であったことから、本「南方閑話」が大正十五年二月刊であることから、熊楠が加算したものと推定出来る。]迄古い檜の株の木は、失せて、心のみ、殘り居つた。昔、此壇へ、杣人《そまびと》、多く聚まり、此檜を伐る。其木一本で、上は七本に分《わか》る。每日、伐れど、夜の間に、疵、全く癒《いえ》て元の如し。因《より》て忍び伺ふに、夜中に、僧、七人、來り、木の屑片《かけら》を集め、「是は此處、其は其處。」と言《いひ》て繼合《つぎあは》す。「扨《さて》、人間は足らぬ者也。何度伐《きり》ても、かく繼合ふ也。此木片共を燒《やい》て了《しま》へば、繼合す事成らぬと、氣付かず。」と云ふ。其《そこ》で、氣付《きづい》て、翌日、木を伐り、悉く、其切屑を燒《やい》た。其夜、僧、七人、山小屋に入來《いりきた》り、悉く、杣人の鼻を捻(ねぢ)る。炊夫《かしき》一人、是も捻られたが、「是のみは、釋《ゆる》すべし。」といふ。翌朝、炊夫、起《おき》て見れば、一同、枕を顚(かへ)し外して、死んでゐた。因て、其處を「枕返しの壇」と呼ぶ、と。

[やぶちゃん注:「一」の話と酷似した別話を示したもの。

「同郡」(日高郡)「中山路村大字東」前話の龍神村丹生ノ川の丹生ノ川の下流にある、現在の和歌山県田辺市龍神村東(ひがし:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 又、大正四年十一月三十日、大阪控訴院書記福田權八氏より聞いたは、ミソギ矢之助なる人、日高郡串本の大社、阿田木(あたぎ)神社の神木なる大樟《おほくす》を伐るに、幾日伐つても、夜中に、其創《きず》、合ふ。因て、屑片として、細分し、終《つひ》に伐り了《をは》つた。後ち、此人、罰せられ、斬罪に處せられた時、遺言して、「何卒、野山を自在に、人民に伐らせやられたい。」と願ふたので、爾來、其野山は、人民、自在に伐採を許された、と。此話。殊に史實らしいが、委細、詳悉《しやうしつ》ならず。詳悉ならぬ處が、反つて、俚說の眞を存する物として記し置き、なほ、彼《かの》邊の人々に聞いて見よう。

[やぶちゃん注:「日高郡串本の大社、阿田木(あたぎ)神社」和歌山県日高郡日高川町には、上阿田木神社と下阿田木神社(日高川の少し上流)の二つがあるが、小学三・四年生(思うに、日高川町立笠松小学校の児童)が作った周辺の案内記事「ようこそ笠松へ」(手書き・PDF)の「れき史がある上阿田木神社」の張り記事の中に「矢野助杉」の記載があることから、これは同小学校の南西直近の上阿田木神社のことであることが判明した。

「樟」クスノキ目クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora 。]

 

 樹木の靈が、その樹を伐了《きりをは》るべき名案を洩聞《もれき》かれて、自滅を招いた譚は、支那にも有る。「淵鑑類函」四一五に「元中記」を引《ひき》て、秦の文公、長安宮を造つた時、終南山に、大きさ數百圍の梓樹《あづさのい》有りて、蔭が、宮中を暗くするを惡《にく》み、連日、伐れど、伐れず。輙《すなは》ち、大風雨を起こすので、手古摺つて居《をつ》た。或夜、鬼、有つて、梓樹と語る。樹神、誇つて、「誰《たれ》も、われを、平らげ得ぬ。」と言ふと、鬼が、「若し、三百人をして、披頭《ひとう》[やぶちゃん注:「無帽」の意。]して、絲《いと》で、樹を繞《めぐ》らさしめたら、どうだ。」と云ふと、樹神、「ギョッ」ト、詰《つま》つて、答へなんだ。それを忍び聞《きい》た人が、公に告げたので、その通りして、樹を伐ると、樹神、靑牛《せいぎう》[やぶちゃん注:黒毛の牛。]に化して澧水《れいすい》に逃入《にげいつ》たとある。馬琴の「三七全傳南柯夢《さんしちぜんでんなんかのゆめ》」の初めに、此譚を飜案し、出《いだ》し有つたと記臆する。(二月七日早朝稿)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」で補った。

『「淵鑑類函」四一五に「元中記」を引《ひき》て、……』同巻の「梓二」の一節。「漢籍リポジトリ」の[420-20b]の末尾から、次の[420-21a]で電子化されており、原文の影印本も視認出来る。宋の李沖元「元中記」の随筆らしい。

「三七全傳南柯夢」曲亭馬琴作の読本。全六巻。葛飾北斎画。文化五(一八〇八)年刊。「艷容女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)等で知られる三勝半七(さんかつ‐はんしち)の心中事件に題材を取り、中国白話小説「二度梅全伝」の構成を借りて、李公佐の唐代伝奇の「南柯記」、元末明初の高明(高則誠)に戯曲「琵琶記」等を取り入れつつ。趣向を構え、それを室町末期の武士の世界に移して、勧善懲悪を旨とする馬琴流の伝奇小説に仕立てたもの。「椿説弓張月」・「南総里見八犬伝八犬伝」と並ぶ馬琴読本の代表作の一つ。熊楠の言うように、冒頭の「深山路(みやまぢ)の楠(くすのき)」がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの「三七全伝南柯夢」巻之一(明15(一八八二)年東京稗史出版社刊)のここから視認出来る。但し、この翻案エピソードだけでも。かなり長い。]

 

 又「淵鑑類函」四四〇に、「異苑」にいわく、孫權[やぶちゃん注:三国時代の武将で呉の初代皇帝。在位は二二九年~二五二年。]の時、永康の人、山中で大龜を捕へ。持ち歸る内、龜、「吾は、うつかり、遊んで、君に得られた。」と言つた。其人、怪《あやし》んで、吳王に獻ぜんとし、夜、越里に泊り、船を大桑樹《だいさうじゆ》につなぐ。樹の靈、龜の名を呼《よん》で、「元緖、何ごとぞ。」と問ふに、「我、捉はれて、烹らるゝ筈だが、南山の樵《きこり》を盡しても、煮爛(にただ)らし得ぬ。」と答ふ。樹の靈、「諸葛元遜《げんそん》は、博識故、必ず、名案を出すだろらう。われらを求めて、焚いたら、如何。」と云ふと、龜、「樹靈の名《な》を呼《よん》で、子明、多辭するな。汝も禍《わざはひ》に罹《かか》たう。」と言つたので、默つてしまつた。吳王、其龜を煮るに、柴を、萬車まで焚いても、煮え切らず。諸葛恪、字《あざな》は元遜、曰く、「老桑の木を燃せば、忽ち、熟すべし。」と。獻じた者も、龜と樹の話を述べたので、王、彼《か》の大桑《おほくは》を、伐つて、煮るに、立ち所に熟した.今も、龜を煮るに、桑の木を焚く、と。(二月七日夜)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」に拠った。「淵鑑類函」は同前の「漢籍リポジトリ」のこちらの、[445-11a] から[445-11b]で、原文に電子化と影印本画像が視認出来る。

「異苑」六朝時代の宋の劉敬叔の著になる志怪小説集。現在見られるものは全十巻。当時の人物についての超自然的な逸話や、幽霊・狐狸に纏わる民間の説話などを記したものであるが、現存テキストは明代に胡震亨によって編集し直されたもので、原著とは異なっていると考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「諸葛元遜」かの蜀漢の名高い丞相諸葛亮(孔明)の甥で、呉の秀才諸葛恪(元遜は字(あざな))。しかし叔父と異なり、驕慢で狭量で、最後は誅殺された。]

 「高原舊事」に、「飛驒の石浦白山に三抱《みかかへ》計りの杉有り。延寶中[やぶちゃん注:一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・綱吉の治世。]、「舟津大橋に用木すべし。」とて、役人・番匠、檢分の折に、「此木、二つ割《ざき》きになり、用木にあらず。」とて、皆、歸りけるに、翌日、割目《さけめ》、癒えて、元のごとくなるといふ。」――とある。是は、伐られぬ前に、木が自《みづか》ら拆《さ》けて、「用に堪えず。」と示し、厄難を免れて、復た、自ら合《あひ》て生存したので、樹の靈としては、痛い目も見ず、人も殺さずに濟む、最も賢こい仕方と云ふべしだ。(二月十三曰朝)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」で補った。

「高原舊事」国立国会図書館デジタルコレクションの桐山力所著「飛驒遺乘合府」(『飛驒叢書』第三編・大正三(一九一四)年住伊書院刊)の「第二類 地誌」に収録されてあり、その「解題」には、『○高原舊事 吉城郡高原鄕七十二ケ村の戶數石高より社寺古跡等の事を記せしものなり。著者は田中大秀門人なる船津町稻田元浩なりと異本に見ゆ』とある。地誌の体裁とっているが、短い霊験・奇談・民譚が随所に記されている。引用部はここの「倉柱村」の条にある(右ページ下段二行から)。

「飛驒の石浦白山」これは、まず、岐阜県高山市石浦町(いしうらまち)であろう。現行のこの地区には「白山」神社はない。しかし、石浦町の北西端のごく直近(直線で五百メートル強)の高山市千島町(ちしままち)に白山神社がある。ここではなかろうか。]

 藤澤衞彥君の『日本傳說叢書』「下總の卷」にも、「椿新田濫觴記」を引いて、本文に似た譚を出してゐる。『神代三本の大木の一《ひとつ》たる栗の大樹、丹波大江山麓にあつて、鬼神、城廓の要害とす。源賴光、酒呑童子退治の時、太守より、百姓に命じて、此木を伐らするに、一夜の内に、肉、生《しやう》じ合ひ、伐り得ず。或時、 其親が、子に敎へて、「切屑《きりくづ》を火に焚《た》かしむ。」。其言に從ひ、終《つひ》に伐り滿つ。敎へし親、甚だ、悅び、木の元へ立寄《たちよ》ると、此木、忽ち、倒れ、親父、打《うた》れて、死す。依《より》て、諺に「丹波の爺打(てゝう)ち栗《うり》」といふ。』と有り。「本草圖譜」五九に、『栗、丹波より出ずるもの名產にて大也。』。「重訂本草啓蒙」二五[やぶちゃん注:「選集」も同じだが、これは「二一」の誤りである。]に、『栗の形、至つて大なるを、「丹波栗《たんばぐり》」と云ふ。一名「料理栗《れふりぐり》」・「大栗《おほぐり》」・「テヽウチ栗《グリ》」。「テヽウチ栗」に數說あり。一《いつ》は、「テンデにとる」と云ふ意と云ひ、一は、「握りて、手中に滿つる」の意にて「手内栗《ててうちぐり》」と云ふ。是は丹波の名產にて、柏原侯より献上有り。一は、時珍の說、其苞自裂而子隨〔其の苞、自(おのづ)から裂けて、子(み)、墮つ。〕の意を取つて、「出テ落チ栗」と名《なづ》くと云ふ。丹波栗は、形、大にして、料理に用ふるに、堪《たへ》たれども、味は劣れり。』と有る。此名より、如上《によじやう》の譚を生じたらしい。不孝の子、此栗を投げて、父を打ち傷《きずつ》けたともいふ(「廣益俗說辯」三〇)。(二月十四日)

[やぶちゃん注:最後の書誌とクレジットは「選集」で補った。

「『日本傳說叢書』「下總の卷」にも、「椿新田濫觴記」を引いて、……」国立国会図書館デジタルコレクションの当該『日本傳說叢書』「下總の卷」の原書で、ここの右ページ後ろから二行目から始まる。但し、この話、そこではかなり長い前振りが続き、熊楠の抄録は次のコマの左ページ終りから四行目以降である。

『「本草圖譜」五九に、『栗、丹波より出ずるもの名產にて大也。』』江戸後期の本草家岩崎常正(天明六(一七八六)年~天保一三(一八四二)年:号は灌園(かんえん)。幕府の徒士(かち)の子で江戸下谷三枚橋に生まれた。文化六(一八〇九)年に幕府に出仕した。本草学を、かの小野蘭山に学んだ)が文政一一(一八二八)年に完成させた一大図譜で全九十六巻九十二冊。天保元(一八三〇)年から没後の弘化(一八四四)年にかけて出版した。外国産も加えた実に約二千種もの植物を収載する江戸時代最大の彩色植物図鑑である。モノクロームであるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左丁の解説の三行下方。

『「重訂本草啓蒙」二五に、『栗の形、……』同書二十一巻の「果部」「果之一」の「栗」である。国立国会図書館デジタルコレクションの天保一五(一八四四)年板本でここから。以上で盛んに読みを振ったのは、蘭山は、原本ではカタカナやルビで記しており、「~栗」は、概ね「グリ」と濁っているところをはっきりさせたかったからである。

「廣益俗說辯」江戸前期の神道家・国学者の井沢長秀(寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年:肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子。号は蟠龍(子)。享保年間に活躍し山崎闇斎の門人に神道を学んだ。宝永三(一七〇六)年に、考証随筆「本朝俗説弁」を出版した後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記」(しんとうあめのぬほこのき)等の神道書や、「菊池佐々軍記」等の軍記物、「武士訓」等の教訓書、「本朝俚諺」等の辞書、「肥後地志略」といった地誌と、幅広く活躍した。「今昔物語」を出版しており、これは一方で、校訂の杜撰さをかなり非難されているが、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった同説話集を読書界に提供した功績は決して小さくない)の(一七一五)年から(一七二七)年にかけて板行された考証随筆「広益俗説弁」(全四十五巻)は、よく読まれ、後の読本の素材源にもなり、森鷗外の愛読書としても知られる(事績の主文は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。所持する『東洋文庫』版を見たところ、熊楠が参考にしたであろうものは、「正編第五」の「天子」の中の「景行天皇に栗樹(くりのき)たゝりをなす說」と思う。国立国会図書館デジタルコレクションの『續國民文庫』(大正元(一九一二)年版)の当該部をリンクさせておく。これはとびっきりの有名人が関わっていて、内容も面白いが、何故か、熊楠は、ここでは参考書として出すだけで、「四」で取り上げているが、恐ろしくあっけない抄録である。その理由は、井沢の最後の漢籍からの「妄作」と切り捨てた謂いに、気を悪くしたものと思う。南方熊楠は自分が考証した原拠は華々しく勝ち挙げするが、他者がそれを先にやっている場合には、至って冷淡で、そこに彼の性格的捩じれが見て取れるのである。

2023/08/07

南方閑話 巨樹の翁の話(その「一」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

    巨 樹 の 翁 の 話

        

 紀州日高郡上山路《かみさんぢ》村大字丹生川《に(ゆ)うがは》の西面《さいめん/にしを》導[やぶちゃん注:「おさ」「みち」か。]氏より、大正九年に聞いたは、

「同郡龍神村小又川の二不思議なることあり。その地に『西のコウ』・『東のコウ』とて、谷。二つあり。『西のコウ』に、瀧あり。その下に、オエガウラ淵、あり。昔し、此淵に『コサメ小女郞《こぢよらう》』と云ふ怪、有り。何百年經しとも知れぬ、大きな『小サメ』あつて、美女に化け、ホタ(薪)山へ往く者、淵邊《ふちべ》へ來るを見れば、『オエゴウラ。』(「一所に泳ぐべし。」)と勸め、水中で、殺して、食ふ。或時、小四郞なる男に逢《あひ》て、運の盡きにや、『「七年通(とほ)スの鵜(う)」を、マキの手ダイを以て、入れたら、われも叶はぬ。』と泄《もら》した。小四郞、其通りして、淵を探るに、魚、大きな故、鵜の口で噉(くわ)ゆる能はず、嘴《くちばし》もて。その眼を抉(えぐ)る。翌日、大きなコサメが、死んで、浮上《うきあが》る。其腹を剖《さ》くと、キザミナタ七本有り。樵夫《きこり》が、腰に插した儘、呑《のま》れ、其身、溶けて、鉈のみ、殘つたと知れた。」

と。

[やぶちゃん注:「日高郡上山路村大字丹生川」現在の和歌山県田辺市龍神村丹生ノ川(にゅうのがわ:グーグル・マップ・データ)。田辺の山岳地帯の最深部で、南方熊楠は何度か、採集を行うためにこの周辺に行っている。

「小又川」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても判らないが、丹生川の少し下流から北方向に分岐している谷川が今もあり、その川は『三又川』(現行「三ツ又川」)である。この近くか。

「『西のコウ』・『東のコウ』」位置不詳。「コウ」の意味も不明。「向」・「荒」・「溝」・「曠」・「高」・㞍」等が想起はされる。]

 畔田伴存《くろだともあり》の「水族志」に、『紀州安宅《あたぎ》の方言「アメノ魚」を「コサメ」と云《いふ》。』と見ゆ。爰に言ふ所も「アメノ魚」であらう。「七年通スの鵜」とは「七年通しの鵜」で、凡て、此鳥、陽曆の六月初《はじめ》より九月末まで使ひ、已後は飼ひ餌《ゑ》、困難故、放ち飛ばす。されど、絕好の逸物は、放たず、飼ひ續く。併し、七年も續けて飼ふ例は、極めて、少なし。「マキの手ダイ」は、「マキの手炬《テダイマツ》」で、マキを炬《たいまつ》に用《もちゆ》れば、煙、少《すくな》く、甚だ、明るし。キザミナタは樵天が樹をハツルに用ゆる鉈である。

[やぶちゃん注:「畔田伴存」畔田翠山(寛政四(一七九二)年)~安政六(一八五九)年)は本名を源伴存(みなもとともあり)といい、紀州藩藩医であった。通称を十兵衛、別に畔田伴存とも名乗り、号は翠山・翠嶽・紫藤園など。「和州吉野郡群山記」「古名録」をはじめとする博物学の著作を遺した。以下、ウィキの「源伴存」より引く。『現在の和歌山市に下級藩士の畔田十兵衛の子として生まれた。若いときから学問に長じ、本居大平』(もとおりおおひら:本居宣長の弟子で養子。)『に国学と歌学、藩の本草家で小野蘭山の高弟であった小原桃洞に本草学を学んだ。父と同様、家禄』二十『石の身分であったが、時の』第十代藩主徳川治宝(はるとみ)に『学識を認められ、藩医や、紀の川河畔にあった藩の薬草園管理の任をつとめた』。『薬草園管理の任にあることで、研究のための余暇を得たとはいえ』、二十『石のわずかな禄では、書物の購入も研究のために旅に出ることも意のままにはならない。こうした伴存の境遇を経済面で支援したのが、和歌山の商人の雑賀屋』(さいかや)『長兵衛であった。長兵衛は、歌人としては安田長穂として知られる人物で、学者のパトロンをたびたびつとめた篤志家であった』。『また、伴存自身は地方の一学者でしかなかったが、蘭山没後の京都における本草家のひとりとして名声のあった山本沈三郎』(しんさぶろう)『との交流があった。沈三郎は、京都の本草名家である山本亡羊』(ぼうよう)『の子で、山本家には本草学の膨大な蔵書があった。沈三郎は』、弘化二(一八四五)年に『伴存の存命中に唯一刊行された著書』「紫藤園攷証」(しとうえんこうしょう)甲集(博物学書。国立国会図書館デジタルコレクションの原本へリンクさせた)に『ふれて感銘を受け、それ以来、伴存との交流があった』。『この交流を通じて、伴存は本草学の広範な文献に接することができた』。『このように、理解ある藩主に恵まれたことや』、『良きパトロンを得られたこと、さらに識見ある先達との交流を得られたことは、伴存の学問の大成に大きく影響した』。『伴存は、自らのフィールドワークと古今の文献渉猟を駆使して』、二十五部以上・約二百九十巻にも『及ぶ多数の著作を著した』『が、その業績の本質は本草学と言うよりも博物学である』。文政五(一八二二)年に『加賀国白山に赴き、その足で北越をめぐり、立山にも登って採集・調査を行った。山口藤次郎による評伝では、その他にも「東は甲信から西は防長」まで足を伸ばしたと述べられているが、その裏付けは確かではなく』、『伴存の足跡として確かなのは白山や立山を含む北越、自身の藩国である紀伊国の他は、大和国、河内国、和泉国といった畿内諸国のみである』。『その後の伴存は、自藩領を中心として紀伊半島での採集・調査を続け、多くの成果を挙げた。代表的著作である』「和州吉野郡群山記」も、『その中のひとつである』。安政六(一八五九)年、伴存は熊野地方での調査中に倒れて客死し、同地の本宮(田辺市本宮町)にて葬られた』。『伴存の著作の特徴となるのは、ある地域を限定し、その地域の地誌を明らかにしようとした点にある。その成果として』「白山草木志」・「北越卉牒」(ほくえつきちょう)・「紀南六郡志」・「熊野物産初志」・「野山草木通志」(やさんそうもくつうし:高野山の草木類についての本草書。巨大なツチノコではないかとも言い囃された「野槌」の図が載ることでも知られる「【イエティ】~永遠のロマン~ 未確認動物UMAまとめ その1【ツチノコ】」に図があるので参照されたい)、そして伴存の代表的著作』「和州吉野郡群山記」が『ある。特に紀伊国では広範囲に及ぶ調査を行い』、その中で、『日本で最初と見られる水産動物誌』である本「水族志」や、貝類図鑑である「三千介図」が生まれており、代表的著作とされる「熊野物産初誌」・「和州吉野郡群山記」も『そうした成果のひとつで』、「和州吉野郡群山記」は、『大峯山、大台ヶ原山、十津川や北山川流域の地理や民俗、自然を詳細に記述したもので、内容は正確かつ精密である。その他にも、本草学では』「綱目注疏」・「綱目外異名疏」、『名物学では全八十五巻からなる』「古名録」や「紫藤園攷証」があり、『伴存の学識』の博さを『知ることが出来る』。『前述のように、伴存は生涯にわたってフィールド』・『ワークを好んだだけでなく、広範な文献を渉猟した。ことに古今和漢の文献の駆使と』、『それにもとづく考証においては、蘭山はもとより、他の本草学者』とは比べものに『ならないほどの質量と専門性を示すことは特筆に価する。また、伴存の博物学的業績を特徴付けるのは、調査地域での記録として写生図だけでなく』、『標本を作成した分類学的手法』『である。その標本は、伴存の門人で大阪の堀田龍之介の手に渡り、後に堀田の子孫から大阪市立自然史博物館に寄贈された。これらの標本を現代の分類学から再検討することは行われていないが、紀伊山地の植物誌研究にとって重要な資料となりうるものである』。『伴存は以上のように大きな業績を残したが、生前に公刊した著作はわずか』一『冊のみであった。また、実子は父の志を継ぐことなく』、『廃藩置県後に零落』、明治三八(一九〇五)年に『不慮の死を遂げ、家系は途絶えた。伴存は堀田龍之介と栗山修太郎という』二『人の門人を持ったが、栗山の事跡は今日』、『ほとんど何も知られていない』。『堀田は、伴存と山本沈三郎との交流の仲立ちに功があった』『が、本草学者・博物学者としてはあくまでアマチュアの好事家の域にとどまった』。『こうしたこともあって、伴存は江戸末期から明治初期にかけて忘れさられただけでなく、第二次大戦後に至っても』、『本名と号とで』、『それぞれ別人であるかのように扱われることさえあった』。『伴存が再発見されたのは全くの偶然で』、明治一〇(一八七七)年、東京の愛書家・宍戸昌が』、古書店で「水族志」の『稿を入手したことに始まる。著者名は「紀藩源伴存」とあるだけで、何者とも知れなかったが、翌年に大阪で宍戸が堀田に見せたところ、その来歴が判明したのであった。後に田中芳男がこのことを知り、宍戸に勧めて』、明治一七(一八八四)年、本「水族志」が『刊行された。田中はまた』、「古名録」の『出版にもつとめ』、明治一八(一八八五)年から明治二三(一八九〇)年に刊行している。「古名録」の『刊行にあたっては』、本邦初の植物病理学者として知られる白井光太郎(みつたろう)が『和歌を寄せたほか、南方熊楠も伴存の学識を賞賛する一文を寄せている』とある。まさにその後輩とも言うべき博物学の巨人南方熊楠以上に、再評価されてよい人物と言えるのである。

「水族志」の当該部は、事前に私のカテゴリ『畔田翠山「水族志」』でフライングして、当該部を電子化注しておいたので、そちらを、まず、見られたい。

「紀州安宅」現在の和歌山県西牟婁郡白浜町安宅(グーグル・マップ・データ)。

「アメノ魚」条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou に比定してよい。本種は、サクラマスのうち、降海せず、一生を河川で過ごす陸封型個体を指す。北海道から九州までの河川の上流などの冷水域に棲息する。但し、南方熊楠が同種に限定して認識しているかどうかは、かなり怪しい。より詳しくは、先に示した電子化した私の注を参照されたい。

「鵜」ロケーションから、鳥綱カツオドリ目ウ科ウ属カワウ Phalacrocorax carbo である。詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸕鷀(しまつとり)〔ウ〕」を参照されたい。当該ウィキもリンクさせておく。

「マキ」裸子植物門マツ亜門マツ綱ヒノキ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus

「ハツル」「削(はつ)る」で、「少しずつけずる」或いは「木の皮を剝(は)ぐ」。]

 

 第二の不思議と云ふは、「東のコウ(谷)」のセキ(谷奧で行き盡《つく》る所)に「大ヂヤ」と云ふ地に、古え[やぶちゃん注:ママ。]數千年の大欅(《おほ》けやき)あり。性根のある木故、切られぬと云《いふ》たが、或時止むを得ず之を伐るに決し、一人の組親(くみをや[やぶちゃん注:ママ。])に命ずると、八人して伐る事に定めた。カシキ(炊夫[やぶちゃん注:底本は「炊事」。後文に徴して「選集」のものを採用した。])と合《あは》して九人、其邊に小屋掛けして伐ると、樹、終《つひ》に倒れんとする前に一同、忽ち、空腹で疲れ忍ぶ可からず。切り果《はた》さずに歸り、翌日、徃《ゆ》き、見れば、切疵、本の如く合ひあり。二日程、續いて、此の如し。夜、徃き、見ると、坊主一人、來り、木の切屑を、一々、拾ふて、「是は此處、其は其處。」と繼ぎ合《あは》す。因《よつ》て、夜通し伐らんと謀れど、事、協《かな》はず。一人、發議して、屑片(こつぱ)を燒き盡すに、坊主も、其上は、繼ぎ合わす事成らず、翌日、往き、見るに、樹は倒れ掛《かか》りて有り。遂に倒し了《をは》り、其夜、山小屋で、大酒宴の末、醉臥《ゑひふ》す。

 夜中に、炊夫、寤《さ》めて[やぶちゃん注:底本は「寤」は「寢」。「選集」で訂した。]見れば、坊主、一人、戶を開いて、入來《いりきた》り、臥したる人々の蒲團を、一々、まくり、「コイツは組親か。コイツは次の奴か。」と云《いひ》て、手を突出《つきいだ》す。「扨《さて》、コイツはカシキ(炊夫)か。置いてやれ。」と云て、失せ去る。翌朝、炊夫、朝飯を調へ呼《よべ》ど應ぜず。一同、死し居《をつ》たので、「彼(あ)の怪憎が捻(ねぢ)り殺したのだらう。」と云ふ。今に傳へて、「彼(か)の欅は、山の大神樣の『立て木』、又は、『遊び木』であらうといふ。(以上、西面氏直話)

[やぶちゃん注:以上の怪奇談の前半を読むに、私は『「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」』を直ちに想起した。南方熊楠は、短いが、「本邦に於ける動物崇拜(21:岩魚)」で、同話を紹介し、これを「荘子」(そうじ)の「外物篇」の第二十六の一節が原拠とするかとする(私は肯んじ得ない)。

「欅」バラ目ニレ(楡)科ケヤキ(欅)属ケヤキ Zelkova serrata 。]

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