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カテゴリー「南方熊楠」の241件の記事

2022/07/02

「南方隨筆」底本正字化版「紀州俗傳」パート 「四」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       四、

 〇前囘に述た師走狐に付き、西牟婁郡下芳養村の人言く、「師走狐は執捉て居ても鳴せ」てふ諺有り、極月に狐荐に鳴くは次年豐作の兆故斯言ふと。

[やぶちゃん注:「前囘に述た師走狐」は「二」であるが、それ自体が、「一」冒頭の続きであったので、そこに遡って戻って再読した方がよい。

「下芳養村」、「一」の採取が中芳養(なかはや)村、「二」が上芳養村、本条の下芳養村(「ひなたGPS」)と、これで旧芳養地区の三つが揃った。続いた全村のケースをまめに確認した熊楠は堅実である。

「言く」「いはく」。

「執捉て」「選集」はルビを振り、『つかまへて』と読んでいる。

「居ても」「をつても」と読みたいが、「選集」は漢字表記をやめて『いても』とする。

「鳴せ」「なかせ」。命令形。

「極月」「選集」を参考にすれば、『しはす』と読む。

「兆」同前で「きざし」。

「故斯言ふと」同前で「ゆゑ、かくいふ、と」。]

 〇同郡中芳養村「どろ本」の石地藏畑中に立つ、雨乞に此像を頸まで川水に浸す、萬呂村では旱すると下萬呂の天王の社の前の池端で一同酒飮み、「雨降れ溜れ蛙子、雫垂れ蠑螈(ゐもり)」と繰返し歌ふた。蛙や蠑螈までも雨を請ふの意か。近年は此事絕た、件の天王池頗る深く、古より樋を全く拔きし事無し、今日全く拔んと評定決して、斷行し懸ると必ず雨る。又秋津村の「さこ谷」の奧の大池も、樋を拔きに行くと、其人々が池に達せぬ内に、屹度沛然と降て來る。此池に頗る大きな鯉が主として棲むさうな。

[やぶちゃん注:『中芳養村「どろ本」』「選集」のルビによれば、「どろもと」。ネット上の三種の地図を見たが、この字名は見出せなかった。旧中芳養村はここ(「ひなたGPS」)。

「川水」この川は中芳養地区の南半分を南北に貫流する芳養川(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「萬呂」(まろ)「村」「ひなたGPS」のここだが、地図上の表記では戦前の地図でも「万呂村」である。現在の和歌山県田辺市上万呂・中万呂・下万呂。この中央部に東から上中下の各地区が並ぶ(グーグル・マップ・データ)。

「旱」「ひでり」。

「下萬呂の天王の社」(やしろ)現在の和歌山県田辺市中万呂にある旧万呂村全体の鎮守(後の引用参照)である須佐神社(グーグル・マップ・データ)。現在も土地の人々からは「天王さん」と呼ばれる。なお、信頼出来る諸データを、複数、見たが、ここで熊楠はこの社の地名を下万呂とするのだが、あくまで昔も今も中万呂の地区内にあったと考えられる。但し、この祭神が鎮座する天王の森の前(南)には、水を満々と湛えた広い天王池があるが、ここは下万呂の地区内で、字の境界が、この神社と天王池との間にあるのである(グーグル・マップ・データ)。而して「下萬呂の天王の社の前の池端」で、雨乞いの儀式が行われるそこは、まさしく両地区の境界――水界と人間界との境界――異界へのアクセスを行う特別なハレの場所であることが判る。されば、思うに、この話を熊楠が採取した相手は下万呂か、上万呂(その場合は漠然と境界地だから、漠然とした「下万呂との方」の意で言ったとして不自然でない)の者だったのではないかと推定される。中万呂の者であれば、こうは絶対に言わないはずだからである。「和歌山県神社庁」の同神社の記載を見ると、『勧請の時代は詳ではないが、往昔より万呂』三『ヵ村の鎮守』で、『旧社名は牛頭天王社』であり、『社伝によれば、須佐之男命が曽志毛里(曾尸茂梨)より帰り着いた所で、岩舟山なる地名あり、神武天皇が即位された時に祭祀されたという』。『神代の昔、須佐神社鎮座地の辺りは海浜で、須佐之男命が曽志毛里より帰って来られた時に、この岩舟山に舟を着けられたと伝えられている古い歴史をもつ神社である』とある。天王池といい、嘗ては海浜に臨んでいたという神話伝承といい、水神との強い親和性が感じられ、雨乞いがしっくりくるのである

「雨降れ溜れ蛙子、雫垂れ蠑螈(ゐもり)」「あめ、ふれ、たまれ、がいるご」(「がいるご」は「選集」のルビ)、「しづく、たれ」(雨の雫を垂らしておくれ)、「ゐもり」。

「件」「くだん」。

「樋」「選集」は『ひ』と振る。

「今日」「こんにち」。今、現在。

「懸ると」「かかると」。し始めようとすると。

『秋津村の「さこ谷」の奧の大池』これは現在の和歌山県田辺市上秋津(かみあきづ)の字地名左向谷(さこうだに)である。国土地理院図のここにある。「大池」は確認出来ない。なお、この左向谷川の上には、国指定の「名勝 南方曼陀羅の風景地」の核心である龍神岳(同前)がある。また、「大池」を探すためにグーグル・マップを見ていて、不審を覚え、同データがとんでもない誤りを仕出かしている事実が判明したので一言言っておく。何かというと、左向谷川を北上して辿ると、山を越えて、芳養川の上流とも合流していて、おかしいのである。「川の名前を調べる地図」で「左向谷川」を調べてみると、その芳養川と合流する川は、無論、「左向谷川」ではなく、「宮ノ谷川」なのであった。グーグル・マップ・データを無批判に信頼していたが、ひどい誤りである。注意されたい。「国土地理院図」でも、二つの川の源流は非常に接近してはいるものの、ちゃんと尾根で分離しているのである

「屹度」「きつと」。

「沛然」「はいぜん」。

「降て」「ふつて」。

「主」「ぬし」。]

 〇日高郡矢田村邊の俚傳に、梟「ふるつくふるつく」と鳴けば翌日必ず晴る(降盡という洒落歟)。又「來い來い」と鳴ば必ず雨る、是は犬を呼んださうな。濡るなとの意か。本草啓蒙や倭漢三才圖會には、晴る前に糊磨置け、雨る前に糊取置けと鳴くと有る。予の亡父矢田村產れで、此通り每度予に話したが村に居る從弟に聞合すと、今は其樣事を言ぬさうだ、人二代の間に俚傳が亡びた一例だ。

[やぶちゃん注:「日高郡矢田」(やた)「村」現在の日高郡日高川町(ちょう)の内の旧村名。「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来る。国土地理院図で「矢田大池」の名を確認出来る(道成寺の東方二・五キロメートル)。

「晴る」「はるる」。

「降盡」「ふりつくす」。

「鳴ば」「なかば」。

「雨る」「あめふる」。

「是は犬を呼んださうな。濡」(ぬる)「るなとの意か」ここ、何故、そういう意味に採れるのか、私には不明。「雨が降るから、森にやってきて、雨宿りせよ、濡れるな。」という意味か?

「本草啓蒙」小野蘭山述「本草綱目啓蒙」。立項は「鴞」(音「ヨウ・キヨウ」:訓「ふくろふ」)でここ(国立国会図書館デジタルコレクション)。当該箇所は次のコマの右丁の後ろから二行目にある。

「倭漢三才圖會」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照。

「糊磨置け」「のり、すりおけ」。雨が降らぬ前に「早く糊を磨っておけ」。

「糊取置け」「のり、とりおけ」。「外に出しておくな、雨が降るぞ。」の意であろう。糊の水分を幾分か取り除くために日に乾かしたか。

「予の亡父」南方熊楠の父は南方弥兵衛(後に「弥右衛門」と改名)で、熊楠の誕生時(慶応三年四月十五日(一八六七年五月十八日))は三十九歳、和歌山城下の橋丁(はしちょう:現在地。グーグル・マップ・データ)で金物商「雑賀屋(さいかや)」を営んでいた(入り婿で、南方家の娘(熊楠の母とは別人)と結婚した。西南戦争の好況で巨利を得、和歌山県で五番目とされた資産家となったが、妻に先立たれ、熊楠らの母となる西村すみと再婚し、長男に家督を譲った後に「弥右衛門」を名乗った。母は「スミ(住)」で三十歳)。父弥右衛門は明治一七(一八八四)年九月(熊楠は十八歳。上京して東京大学予備門に入っていた)に「南方酒造」(後の「世界一統」。現在もある。熊楠の実弟常楠が継いだ)を創業していた。彼は熊楠(二十六歳)の外遊中(父死亡時はイギリス滞在中)の、明治二五(一八九二)年八月八日に死去している。因みに、母スミは同じくロンドン滞在中の明治二九(一八九六)年二月二十七日に亡くなった(以上は所持する「新文芸読本 南方熊楠」(一九九三年河出書房新社刊)の年譜(長谷川興蔵編)及びウィキの「南方熊楠」とその記載内のリンク先等を参考にした。一部の不審箇所は概ね前者を元にした)。

「矢田村產れ」父は文政一二(一八二九二)年生まれで、矢田村入野(にゅうの)(「ひなたGPS」:現在の日高郡日高川町入野。先に示した「矢田大池」の南東直近)の向畑庄兵衛の次男として生まれている。

「人二代の間に俚傳が亡びた一例だ」こうしたアップ・トゥ・デイトな検証は貴重である。]

 〇矢田村等で小兒螢狩の呼聲は、田邊のと些違ふ、「ホータル來いタロ蟲來い、其方の水辛い、此方の水甘い、行燈の光で飛で來い」と呼んだ。

[やぶちゃん注:「三」の「〇鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲と少しく違ふのが、紀州田邊邊で行はれる、……」の条を、まず、参照されたい。

「呼聲」「よびごゑ」。

「些」「ちと」。

「タロ蟲」「タロムシ」。矢田地区のホタルの異名らしい。

「其方」「そつち」。

「此方」「こつち」。

「行燈」「選集」では『あんど』と振る。]

 〇田邊近傍で木菟を鰹鳥と呼び、此鳥鳴くと鰹の漁獲有るとて、漁夫此鳥を害するを忌む。

[やぶちゃん注:「木菟を鰹鳥と呼び、此鳥鳴くと鰹の漁獲有るとて、漁夫此鳥を害するを忌む。

「木菟」「みみづく」。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」を参照されたいが、

「鰹鳥」「かつをどり」。鳴き声との連関性は不詳。

「漁獲」「選集」では『りよう』(りょう)とある。歴史的仮名遣は「れふ」。]

 〇田邊の老人傳ふ、宵の蜘蛛は親に似て居ても殺せ、朝の蜘蛛は鬼に似て居ても殺すな。是は夜の蜘蛛を不吉とするので、「吾せこが來べき宵也」と、蜘蛛を夜見て喜んだ古風と反對だ。淵鑑類函四四九に論衡を引いて、蜘蛛網を用ふる計、人に優れる由言て、亦掃其網、置衣領中、令人知ㇾ巧辟ㇾ忘、智慧有る者故、物忘れせぬ靈符の代りに、蜘網を用ひたのだ。採蘭雜志曰、昔有母子離別、母見蠨蛸垂絲著ㇾ衣、則曰、子必至也、果然、故名曰喜子、子思其母、亦然、故號曰喜母均ㇾ之一物也。之と等しく、蜘蛛は物忘れせぬ物として、衣通姬が宵の蜘蛛は帝が昏時に成ると自分を忘れず訪玉ふべき徵と悅んだのだらう。支那でも夜の蜘蛛を忌ぬは、開元天寶遺事曰、帝與貴妃、每至七月七日夜、在華淸宮遊宴、時宮女軰、各捉蜘蛛於小合中、至ㇾ曉開視、蛛網稀密、以爲得ㇾ巧之候、密者言巧多、稀者言巧少、民間亦效ㇾ之。然るに田邊の俗傳に、朝の蜘蛛を愛し、宵の蜘蛛を嫌ふのは、蜘蛛は夜中跋扈活動し朝に至て潛匿靜居する者故、家内の治安上から割出したんだろ。廣五行記には、蜘蛛集於軍中及人家喜事、之に反し、古歐州では、蜘蛛の網が軍旗や神像に着くを不吉とした。佛國では蜘蛛走り又絲繰るのを見ると金儲けすると云ひ、或は朝ならば金儲け、夕なら吉報を得と云ふ。然し一說には、朝の蜘蛛は少しく立腹、日中のは少しく儲け、夕の蜘蛛は少しく有望を知すのぢやと云ふ。「サルグ」評して、蜘蛛が富の兆なら、貧民が一番富ねば成ぬと嘲たのは面白い(一八四五年第五板、「コラン、ド、プランチー」妖怪事彙三九頁)。

[やぶちゃん注:このジンクスは、今もよく耳にする。ネット上でも、かなり多くの起原説の記載があるが、恐らく最も纏まっていて優れているのは、サイト「縁起物百科事典」の「夜の蜘蛛は縁起が良い悪いどっち?夜に現れる蜘蛛の縁起について解説します!」であろう。「夜の蜘蛛は縁起が悪い」という理由について、そこでは、『泥棒が入る前触れ』説(『蜘蛛はわずかな隙間からでも家の中に入って』くるので『そんなわずかな隙間を見つけて』『気配を消して』『家の中に入り込んでくるという』『習性』『が、泥棒を連想させる』という説)、『地獄からの使者という考え方』説(『地獄には蜘蛛の姿をした鬼がいると言われ』(主に西日本で語られる妖怪「牛鬼」(うしおに・ぎゅうき)は確かにそんな形態をしている。当該ウィキを参照されたい)、『そんな蜘蛛の姿をした鬼は太陽の光が苦手な為、夜に活発に活動』するとされ、『日が沈んだ夜に人間が住む現世に現れ、人間を地獄へ引きずり込んでしまうという考えがあ』って、『そのままにしておくと地獄へ引きずり込まれてしまうと考えられてい』ることから、『地獄へ引きずり込まれる前に処分してしまおうという』説。但し、私はこういった説明を民俗学的に立証している文章や語りを聴いたことはない)、そして、『不運を引き寄せる』説である。但し、熊楠も述べているように、地方によっては、夜の蜘蛛を幸運の兆しとらえて殺さないという風俗も現存することが、以上の後に書かれている。リンク先でのこちらの根拠説は、私はあまり肯ずることが出来ないが、熊楠の言う妻問婚由来というのは、望むべき「夜の訪問者」の予兆として、非常に腑には落ちる。なお、他のネット上での記載に、「朝の蜘蛛は殺すな」という禁忌について、蜘蛛が早朝に巣を張る時は必ず晴れるという習性から説明しているものがあり、これは農事の実利性から考えると、納得出来るものではあった。

『「吾せこが來べき宵也」と、蜘蛛を夜見て喜んだ古風と反對だ』「ほととんぼ」氏のブログ「古典・詩歌鑑賞」の「わがせこが来べきよひなりさゝがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも(衣通姫)」が出典に詳しく、蜘蛛ジンクスの起原の解説も堅実である。そちらを参考にして示すと、この歌は、「日本書紀」と「古今和歌集」に殆んど同じ形で載る。詠み手の衣通姫は歴史的仮名遣では「そとほりひめ」「そとほしひめ」で、他に「古事記」にも登場するが、設定が異なる(その辺りは、ウィキの「衣通姫」及び「衣通姫伝説」を読まれたい)。さて、まず「日本書紀」のそれは、巻第十三の允恭天皇の一節で(概ね、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版の当該箇所の黑板勝美氏の当該部の読みを参考にした)、

   *

八年春二月、藤原に幸し、密(ひそか)に衣通郞姬の消息を察(み)たまふ、是の夕(ゆふべ)、衣通郞姬、天皇(すめらみこと)を戀ひたてまつりて、獨り居(はべ)り。其の天皇の臨(いで)ませるを知らずして、歌よみて曰く、

 我が兄子(せこ)が來べき宵なり笹蟹(ささがに)の

   蛛(くも)の行ひ今宵驗(しる)しも

天皇、是の歌を聆(きこ)しめして、則ち、感情(めでたまふこころ)、有(おはし)まして、歌よみて曰く、

 細紋形(ささらがた)錦の紐を解き開(さ)けて

   數多(あまた)は寢ずに唯(ただ)一夜(ひとよ)のみ

明旦(あくるあした)、天皇、井の傍の櫻の華を見て歌よみて曰く、

 花細(はなぐは)し櫻の愛(め)でこと愛でば

   早くは愛でず我が愛づる子等(こら)

皇后、聞きて、且(ま)た、大(おほい)に恨みたまふ。

   *

「笹蟹(ささがに)」蜘蛛及び蜘蛛の巣の古名。「細紋形(ささらがた)」細かい文様や、そうした織物を指す。ここは「蜘蛛の巣」を匂わせたものであろう。「花細(はなぐは)し」枕詞で、元は「花が美しい」意から「櫻」に掛かる。一方、「古今和歌集」では、巻第十四にありながら、墨消しされた一首で(一一一〇番)、

   *

    衣通姬のひとりゐて

    帝をこひたてまつりて

 わが背子が來べきよひなりささがにの

   蜘蛛のふるまひかねてしるしも

   *

なお、「ほととんぼ」氏は、夜でも蜘蛛ジンクスについて、夜でも吉兆とする点について、『もともと中国に、クモが人の衣に着くと』、『親しい人の来客があるという言い伝えがあり、縁起のよい俗信として日本に伝わった』とされ、朝のそれについては、私が先に述べた通り、『クモは、おおむね好天になる前の夕方(湿度の変化を感じるらしい)に巣をかけて、夜に獲物を狙う。なので、朝グモの現れるのは晴天で、人間も晴れの日を好む』とされ、前者については、以上の衣通姫の『歌が、まさにそのことを言っています。衣通姫は、おそらく自分の衣服にクモがついているのを見つけて、「あら、これは縁起がいい。帝が来られるわ」と思ったに違いありません。歌では「来べき宵なり」となっているので、朝グモではなく疑問とされますが、かつては、クモの出現そのものが縁起のよいことだったのではないでしょうか』とされ、さらに後者の説について、『科学的裏付けのようなものを感じます。特に朝グモに縁起を担ぐようになった原因として真実味があります(ただ、ホントに晴れの日が多いのか、真偽のほどは明らかではありません)』と微妙な留保をなさっておられる。私もクモ類には詳しくはないので、識者の御教授を乞うものである。

「淵鑑類函四四九に論衡を引いて、蜘蛛網を用ふる計」(はかりごと)「、人に優れる由」(よし)「言」(いひ)「て、亦掃其網、置衣領中、令人知ㇾ巧辟ㇾ忘」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」のこちらで、「欽定四庫全書」所収のものが電子化されており、影印本も見られる。当該巻は「蟲豸部五」で、その冒頭に「蜘蛛一」の[454-1b]の六行目から八行目に現われる。訓読する。

   *

「亦(また)、其の網を掃(は)きて、衣の領(えり)の中に置き、人をして、巧(かう)を知り、忘るるを辟(さ)けしむ。

   *

「智慧有る者故、物忘れせぬ靈符」(まもり:「選集」のルビ)「の代りに、蜘網を用ひたのだ」これは、かなり腑に落ちる。ギリシア神話の蜘蛛に変えさせられたアラクネーの悲劇や(当該ウィキ参照)、知恵者として尊崇されるミネルヴァの梟などが想起される。

「採蘭雜志曰、昔有母子離別、母見蠨蛸垂絲著ㇾ衣、則曰、子必至也、果然、故名曰喜子、子思其母、亦然、故號曰喜母均ㇾ之一物也。」例の陶宗儀の「説郛」にも載るが、作者や成立年代は不詳だが、随筆か小説集のようである。原文を探すのに苦労したが、「維基文庫」の「古今圖書集成」(十八世紀の清の類書。現存する類書としては中国史上最大。全巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」である)の、こちらの「家範典」「第三十八卷」の「母子部雜錄」に電子化されたものを発見した(影印画像附き)。訓読する。

   *

「採蘭雜志」に曰はく、『昔、母子有りて、離別す。母、蠨蛸(あしながぐも)の絲を垂らして衣を著(き)るを見れば、則ち、曰はく、「子、必ず、至らん。」と。果して、然り。故に名づけて「喜子」と曰(い)ふ。子の、其の母を思ふも、亦、然り。故に名づけて「喜母」と曰ふ。均しく一物なり。』と。

   *

「蠨蛸(あしながぐも)」珍しい熊楠のルビだが、これは実はあまりよくない。この漢語は現在の節足動物門鋏角亜門蛛形(ちゅうけい)(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria を指す古い漢語だからである。但し、足高蜘蛛は、大きくて各脚が非常に長いクモだから、私などは想定内ではあった。私の家には、まっこと、よく棲みついており、若い頃には、グローブ大のそ奴が、寝ている顔の上を歩き、まさにその脚の先の八ヶ所の触感を感知して、思わず、起き、叩き潰したおぞましい思い出があるほどなのである。

「開元天寶遺事曰、帝與貴妃、每至七月七日夜、在華淸宮遊宴、時宮女軰、各捉蜘蛛於小合中、至ㇾ曉開視、蛛網稀密、以爲得ㇾ巧之候、密者言巧多、稀者言巧少、民間亦效ㇾ之。」「開元天寶遺事」は盛唐の栄華を物語る遺聞を集めた書。五代の翰林学士などを歴任した王仁裕(じんゆう 八八〇年~九五六年)が、後唐の荘宗の時、秦州節度判官となり、長安に至って民間に伝わる話を博捜蒐集し、百五十九条を得て、本書に纏めたとされる。但し、南宋の洪邁は本書を王仁裕の名に仮託した偽書と述べている。ここに出る玄宗・楊貴妃の逸話を初め、盛唐時代への憧憬が生んだ風聞・説話として味わうべき記事が多い(小学館「日本大百科全書」を主文とした)。熊楠の引いたのは、第二巻の末尾から二つ目の「蛛絲卜巧」であるが、中間部がカットされている「漢籍リポジトリ」のこちら[002-10b]を見られたい。熊楠のカットされた引用で訓読する。

   *

「開元天寶遺事」に曰はく、『帝、貴妃と、七月七日の夜に至る每(ごと)に、華淸宮に在りて遊宴す。時に宮女の輩(はい)、各(おのおの)、小さき合(はこ)の中(うち)に蜘蛛を捉へ、曉に至りて、開き視て、蛛の網の、稀(まばら)と密とにより、以つて巧(かう)を得るの候(しるし)と爲(な)す。密なれば、「巧、多し。」と言ひ、稀なれば、「巧、少なし。」と言ふ。民間も亦、之れに效(なら)ふ』と。

   *

「衣通姬」「選集」では、『そとおりひめ』と振るので、「そとほりひめ」である。

「昏時」「たそがれ」。

「訪玉ふべき徵」「おとなひたまふべきしるし」。

「田邊の俗傳に、朝の蜘蛛を愛し、宵の蜘蛛を嫌ふのは、蜘蛛は夜中跋扈活動し朝に至て潛匿靜居する者故、家内の治安上から割出したんだろ」これ、私の先の顔に脚高蜘蛛の恐怖を考えれば、お判り戴けるであろう。なお、私は咬まれたことはないが、大型の個体は人に咬みつくことがあると以前に読んだことがある(無毒)。

 

「廣五行記には、蜘蛛集於軍中及人家喜事」明の李時珍の博物書「本草綱目」にも引用されるが、佚書。「太平御覧」の巻第九百四十八の「蟲豸部五」の「蜘蛛」(「漢籍リポジトリ」のこちら[948-3b]を参照)に「廣五行記」を出典としてこの文字列が出る。訓読する。

   *

蜘蛛、軍中及び人家に集まれば、喜事あり。

   *

中国人の「蜘蛛好き」「蜘蛛吉祥説」がよく判る。

「佛國」「フランス」。

「繰る」「くる」。

「知す」「しらす」。

『「サルグ」評して、蜘蛛が富の兆』(きざし)『なら、貧民が一番富ねば成』(なら)『ぬと嘲』(あざけつ)『たのは面白い(一八四五年第五板、「コラン、ド、プランチー」妖怪事彙三九頁)』コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。詳しくは当該ウィキを見られたい。書誌データはフランス語の当該ウィキが詳しい。さても、何となく、「Internet archive」の一八四四年版の、彼の最も知られた怪書である‘Dictionnaire infernal, ou Recherches et anecdotes sur les demons ’(「地獄の辞書、又は悪魔に関する研究と逸話」)を見てみたところ、ページ数は違うが(44ページ)、そこの“Araignée”(アレニェ:フランス語で「蜘蛛」)があり、まさに以上の内容が書かれてあるのを見出した。「サルグ」なる人物もそこに出ており、“M. Salgues”(“M”は“Monsieur”(ムッシュ:氏)の略であろう) で、注記があって、‘ Des  Erreurs  et  des  préjugés ’(「誤解と偏見」)からの引用であることも判った。この人はフランスの哲学者・歴史家のジャック・バルテルミー・サルグ(Jacques Barthélemy Salgues 一七六〇年~一八三〇 年)で一八一〇年の作品である。]

 〇田邊の古傳に、他人の足の底を搔けば、搔るる人の身に持た病を、搔く人の身に引受ると。同地に近き神子濱では、人の足の底搔く者早く死すと言ふ。

[やぶちゃん注:「他人」「選集」では二字で『ひと』とルビする。

「神子濱」「みこはま」。既出既注だが、再掲する。現在の田辺市神子浜。]

 〇右の兩地とも傳ふ。狐は硫黃を忌む、依て附木又「マツチ」を袂に入れば魅されずと。

[やぶちゃん注:「附木」(つけぎ)は杉や檜などを薄く剝いだ木片の一端或いは両端に硫黄を塗りつけたもので、火を移し点ずる際に用いる。「ゆおうぎ」とも言う。グーグル画像検索「付け木 硫黄」をリンクさせておく。幅広の経木様のものから、大きく長い附箋のようなものまで、各種ある。

「魅されずと」「選集」では『魅(ばか)されず、と』とする。]

 〇田邊邊でも和歌山市でも、小兒の慰みに、「高野の弘法大師、子を抱て粉を挽ひて、此子の眼へ、粉が入つて困った、今度から、此子を抱て粉を挽くまい」と早口に繰返し、滯り無きを勝ちとす。卅年前、予日向の人より聞たのは次の通り。「ちきちきおんぼう、それおんぼう、そえたか入道、播磨の別當、燒山彌次郞、ちやかもかちやあぶるせんずり觀音、久太郞別太郞、むこにやすつぽろぽん。」英國にも舌捩り(タング、ツイスター)とて、同じ樣な辭を疾口に言ふ戲れが有る。

[やぶちゃん注:「ちきちき」で思い出すのは直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科Acridini          ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea (精霊蝗虫)の異名で「キチキチバッタ」を私は「チキチキバッタ」と昔から、かく呼んでいた。♂が飛ぶ際に羽根を打ち合わせて出す「キチキチキチ……」のオノマトペイアである。

「おんぼう」当初、私は「隱亡」かと思った。日本史上、当該ウィキによれば、『火葬場で死者の遺体を荼毘に付し、墓地を守ることを業とした者を指』した語。『「隠坊」「御坊」「煙亡」とも表記し、地域により「オンボ」と呼ぶこともある』。『「薗坊」とも』。『もとは、下級僧侶の役目であり』、『「御坊」が転じたものと考えられている』とあり、『江戸時代には賤民身分扱いされていたことや』、『軽蔑的な意味合いを帯びたことも多く、現在は差別用語とされて用いられなくなっている』とあるそれである。而して「ちきちき」との接合に意味はなく、早口言葉であるから、通常、連続しない特別な単語の接続をすることが、早い発声を難しくすることからの仕儀であるように私には見うけられ、この日向のそれは、主に仏教的な語句を一つのコンセプトとして、「寿限無」のような、長大な名前の一部のような早口言葉のようには見えた。しかし、「駒澤大学総合教育研究部日本文化部門」の「情報言語学研究室」のサイト内の「言葉の泉」の「(5)早言(早口)」に、『【純粋の第一の例】人名】』に、冒頭に『34』として『寿限無寿限無五光の摺り切れず、海砂利水魚水魚末、雲来末風来末、食寝る処に住む所、やぶら小路、藪小路、ぱいぽぱいぽぱいぽのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピー、ポンポコピーの長久命の長助。』を挙げた後に、『35』として、『アリステ三平郎、テキテキ屋テキスリゴンボー、走心坊、宗高入道、播磨が別当、茶碗茶ブスの式井のコツケ。茶ぶ助、引井幸助。オン坊、草林坊、背高入道、播磨の別当、茶碗茶臼にひきんのへこ助様、井戸に落ちました。』とあることから、この「おんぼう」は単なるフラットな「御坊」ととるべきであろうと自分の中では結論した。

「そえたか入道」一応、調べた結果、「日本姓氏語源辞典」「添高」(そえたか)があり、宮崎県宮崎市で「添った高い土地」の意味を持ち、宮崎県宮崎市郡司分(ぐんじぶん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)乙に分布する姓とあった。話者は日向だから、これは注しておいてよかろう。但し、以下は特に原義・由来などは調べないこととする。

「燒山彌次郞」「選集」では姓に『やけやま』と振る。「選集」では姓に『やけやま』と振る。青森県上北郡六ヶ所村泊焼山(とまりやけやま)に「弥次郎穴」というのがあるが、偶然か。

「ちやかもかちやあぶるせんずり觀音」「選集」では『ちゃかもがちゃあぶるせんずり観音』と記す。「茶を煎ず」に自慰行為の「せんずり」をきかせたのは、子供向けにはちょっと劣悪。

「久太郞」「きうたらう(きゅうたろう)」。

「別太郞」「わけたらう」或いは「わきたらう」か。

「むこにやすつぽろぽん」「選集」では『むこにゃすっぽろん』。

「舌捩り」「したもぢり」。

「タング、ツイスター」Tongue twister。早口言葉。

「辭」「ことば」。

「疾口」「はやくち」。]

 〇西牟婁郡二川村五村《ごむら》等で、狩人の山詞に、狼を御客樣、又山の神、兎を神子供と云ふ。狼罠に捕はるゝと、殺す所でなく扶けて去しむ。一七〇頁に高木君が書た、安堵峰の猿退治の話にも、兎の巫女を呼で祈らせたと有る(鬼は兎の誤植)。狼形に山神を描いた物語の事、一昨年二月の人類學會雜誌へ出した。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡二川村」(ふたかはむら)は「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。現在は田辺市中辺路町(なかへちちょう)の中部。

「五村」(ごむら)は西牟婁郡にはなく、二川村から、かなり北西に離れた有田郡の旧五村のことであろう。「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。「ひなたGPS」の戦前の地図に名が記されてあり、「国土地理院図」ではここが同じ場所である。

「山詞」「やまことば」。

「狼を御客樣、又山の神」狼のことを「お客さま」と呼び、また、「山の神」と呼ぶ、という意。

「神子供」「みこども」。

「殺す所でなく」「ころすどころでなく」。

「扶けて去しむ」「たすけてさらしむ」。

「一七〇頁」「選集」では『『郷土研究』一巻三号一七〇頁』とする。

「高木君が書た、安堵峰の猿退治の話」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、本篇の初出する『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。『鄕土硏究』は全く原本を見ることは出来ないのだが、ふと思って、高木氏の単行著作を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、ここで言う論考と酷似したものが、本篇「四」の発表と奇しくも同時に郷土研究社から刊行された(大正二年八月)、高木敏雄著「日本傳說集 附・分類目次解說索引」の「義犬塚一名猿神退治傳說第十七」の「(ニ)猿神退治」として載っているのを発見した。そちらを読んで貰えば判るが、「兎の巫女」(みこ)「を呼」(よん)「で祈らせた」のは猿が化けた宿の主人である(この短い話は、なかなかぶっ飛びのモンストロムで、「牛鬼の醫者」まで出演している)。まず、読まれたい。最後に実はこの話、南方熊楠が提供した話であったのである。則ち、ここでは高木の論考を称揚するように書いているものの、リンク先の文章自体、明らかに熊楠の癖がでているもので、何のことはない、熊楠は自分の報告した文章を自慢したのだ。

「狼形に山神を描いた物語の事、一昨年二月の人類學會雜誌へ出した」『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』の最後。]

 〇獾を西牟婁郡で「めだぬき」、「つちかい」(土搔きの義)、また「のーぼー」といふ、安堵峰で予其肉を味噌で煑て食ふと甚だ甘かつたが、共に煑るべき野菜絕無で困つた。此物熊同樣足に掌有り、人の如く立ち得る、好んで女に化ると云ふ。富里村の人(現存)春日蕨採りに山へゆくと、若き處女簪笄已下具足し、頗る艷なるが立て居た。依て前み近くと、忽ち見えず、立て居た處に穴有り、家に還り犬を伴行き、穴を搜して獾を獲た。又秋津村產れで予の知れる老人、若き時村女と密會を約せし場所へ往て俟つと、此獸其女に化け來り、忽ち消失せ抔して每度困らされた、其邊で「せい」と呼ぶ由。

[やぶちゃん注:「獾」「あなぐま」。本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を参照されたいが、面倒なことに、寺島良安は「本草綱目」に従ったために、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)」も別に立項してしまっている。

「のーぼー」冬眠から覚めた直後などに山裾や野で「ぼー」としているようにいるからか。何となく腑に落ちる。ブログ「あにまるカメラ」の「ニホンアナグマ」に上野動物園の本種の画像が出るが、「ぬぼぉー。。。」というキャプションの写真がまさにそれだ。「アナグマの爪」と言う解説板の写真で掌部の写真も見られる。

「甘かつた」「選集」に『甘(うま)かった』とルビする。

「掌」同前で『たなごころ』とルビする。

「富里村」

「春日」「しゆんじつ」。

「處女」「をとめ」。

「簪笄」「かんざし・かうがい」。

「前み」「すすみ」。

「近く」「ちかづく」。

「伴行き」「つれゆき」。

「秋津村」

「往て」「ゆきて」。

「消失せ抔して」「きえうせなどして」。

「せい」この異名、意味不明。]

 〇熊野に遊んだ人は熟知るが、潮見峠より東では、古來山茶の葉で烟草を捲吸ふ、木板を頭に載せ、山路を通ふ婦女事に然り。手づから捲て火を點る手際、他處の人倣し難い。齒無き老婆など、件の葉捲を無患子の孔に管所たるに揷て吸ひ步く、其山茶葉に好惡有て、撰擇に念入れ、路傍の一文店で列て賣る。古い狂歌に「熊野路は煙管無くても須磨の浦、靑葉くはへて口は敦盛」。

[やぶちゃん注:「熟」「よく」。

「潮見峠」ここ。田辺市中辺路町西谷と中辺路町栗栖川を越える山道で、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への参詣道熊野古道中辺路の派生ルートの一つで、ここは特に難所の一つとされた。

「山茶」「つばき」。椿の漢名。

「捲吸ふ」「まきすふ」。

「木板」「選集」では二字で『いた』と振る。

「點る」「つける」。

「倣」「まね」。

「老婆」「選集」では二字で『ばば』と振る。

「無患子」「むくろじ」。ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi であるが、ここはその硬い実(羽根つきの羽根の錘に用いられる)に穴を開けて、それに椿の葉に煙草を巻いたものを挿して吸ったのであろう。「南方熊楠記念館」公式ブログ の「青葉くわえて口は敦盛」でも、そう解釈されてある。実際に椿の葉で煙草を捲いて吸った実験結果も写真入りで書かれてある。

「管所たるに」「選集」では二字で『管(くだ)所(つけ)たるに』と振る。

「揷て」「さして」。

「好惡」「よしあし」。

「一文店」「いちもんみせ」。

「列て」「ならべて」。底本では「列で」であるが、「選集」の「て」を選んだ。

「熊野路は煙管」(きせる)「無くても須磨の浦、靑葉くはへて口は敦盛」「須磨」に「濟む」の意をかけ、「靑葉」は椿の青葉に敦盛の遺愛の笛の名「青葉」を掛け、「敦盛」に「熱(あつ)」を掛けた。]

 〇舊傳に、「文蛤は十萬石以下の領地には生ぜず」と。

[やぶちゃん注:「文蛤」「はまぐり」。無論、そんな分布の偏りはない。]

 〇高野山御廟橋の傍の井に莅んで影映らぬ人は近い内に死ぬさうで、前年田邊新町の或隱居試て見ると映らず、歸て程無く死んだので、新町の人一同今に登山しても彼井を覗かぬ。

[やぶちゃん注:「高野山御廟橋」「選集」を参考にするなら、「ごべうのはし」。「御廟橋」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「御廟」は弘法大師の霊廟である「奥之院燈籠堂」を指す。しかし、ここで熊楠は、その井戸は「傍」(そば・かたはら)と言っているのだが、実際には、参道のずっと下方のここで、傍らではない。

「莅んで」「のぞんで」。

「近い内に死ぬさうで」上記リンクのサイド・パネルの説明版では、『三年以内に亡くなってしまうと言』『伝えがあ』るとある。

「田邊新町」現町名では北と南がある

「彼」「かの」。]

 〇田邊で蝸牛を囃す詞「でんでん蟲々、出にや尻搯(つめ)ろ」。近所の神子濱では、「でんでん蟲々、角出せ槍出せ」。嬉遊笑覽卷一二上に、「日次記事云、蝸牛見ㇾ人、則蝟縮、兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜言ㇾ爾、此蟲貝俗謂ㇾ釜」と有り、今又江戶の小兒、角出せ棒出せまひまひつぶり、裏に喧嘩が有ると云へるは、益々滑稽也、と云へり。和歌山の岡山は砂丘で春夏砂挼子(ありじごく)多し。方言「けんけんけそゝ」又「けんけんむし」、兒童砂を披いて之を求むるに、「けんけんけそゝ、叔母處燒る」と唱ふ。廿二年前、予「フロリダ」州「ジヤクソンヴヰル」で、八百屋營業の支那人の店に、晝は店番、夜は昆蟲や下等植物を鏡檢した、每度店前の砂地へ、黑人の子供集り、砂挼子を探る詞に、「ヅロ、ヅロ、ハウス、オン、ゼ、フアイヤー」。矢張り「砂挼子の家火事だ」と言て驚かすのだ、類緣なき遠隔の地で、同一の趣向が偶合して案出されたのだ。

[やぶちゃん注:「蝸牛」「かたつむり」。

「尻搯(つめ)ろ」「搯」の漢字は「手や用具を突っ込んで中のものを外へ取り出す」の意であるから、ここは「尻、搯(つめ)たろか!」で、「尻から全部抜き取ったるで!」という脅しである。

「神子濱」既出既注。

『嬉遊笑覽卷一二上に、「日次記事云、蝸牛見ㇾ人、則蝟縮、兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜言ㇾ爾、此蟲貝俗謂ㇾ釜」と有り、今又江戶の小兒、角出せ棒出せまひまひつぶり、裏に喧嘩が有ると云へるは、益々滑稽也、と云へり」後半部分は著者に割注による感想である。「嬉遊笑覽」は国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの左ページの頭書「蝸牛角出せ」の終りの三行(次のページ)。少し表記が異なるが、これは版本の違いである。所持する岩波文庫を参考に訓読する。熊楠の返り点は一部がおかしい。「兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜」は「兒童相聚謂出々蟲々、不ㇾ出則行打破釜」でなくては読めない。

   *

「日次(ひなみ)記事」に云はく、『蝸牛、人を見れば、則ち、蝟縮(いしゆく)す。兒童、相ひ聚(あつま)りて謂ふ、「出々蟲々(でんでんむしむし)、出でずば、則ち、行きて、釜を打ち破らん。」と、爾(し)か言ふ。此の蟲の貝を、俗に「釜」と謂ふ。

   *

引用元の「日次記事」は「日次紀事」が正式表記。但し、「嬉遊笑覧」自体が誤っているので、熊楠の誤りではない。江戸前期の京都を中心とする朝野・公私の年中行事解説書。黒川道祐編。延宝四(一六七六)年の林鵞峰の序がある。中国明朝の「月令(がつりょう)広義」に倣って編集されているが、特に民間の習俗行事を積極的に採録したのを特徴とする。正月から各月毎に、毎朔日から月末まで日を追って節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、それぞれ行事の由来や現況を解説している。しかし、神事や儀式には非公開を建前とするものもあったことから、出版後間も無く、絶板の処分を受けたため、後に一部を変更して再刊されている。

「和歌山の岡山」和歌山城の東直近から南方向にかけては(このグーグル・マップ・データの正中線部分)、元は広大な砂丘で、海岸線はすぐ西にあった近世及び近代の開発で殆んど砂丘の名残は現存しない。そこに「岡山の根上り松群」をポイントしたが、それが数少ない面影で、「和歌山市文化振興課」公式サイト内の「和歌山市の文化財・遺跡」「岡山の根上り松群」の解説に、この附近の広域旧呼称である『岡山は、古来より吹上の浜の汀線に平行して発達した砂丘です。江戸時代、和歌山城の城下町建設のときに、三年坂の切り通しや、堀止の埋め立て、外堀の掘削などにより著しく改変され、また明治以降の変革もあり、いまではほとんど砂丘の旧態をとどめません』。『吹上一丁目の和歌山大学教育学部附属小中学校内には、比較的よく砂丘の原形が残され、それとともに旧海岸林も一部が現存しています。根上がり松群はほとんどが枯死してしまいましたが、グランドの北にあるものは、根からの高さ』三・五メートル、『幹周り』三メートルで、『いまなお威容を残しています』とある。

「砂挼子(ありじごく)」蟻地獄は内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部の種の幼生名を指す。なお、ウスバカゲロウ類の総てがアリジゴク幼生を経る訳ではないので注意されたい。また、似て全く非なるところの旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera のカゲロウ類の幼虫は水棲であって、アリジゴクとは関係ない。詳しく知りたい方は「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』の注を参照されたい。私の博物学的な意味での「蜉蝣類」の解説の決定版である。但し、かなり長いので、ご覚悟あれ)。

『方言「けんけんけそゝ」又「けんけんむし」』柳田國男は「蟻地獄と子供――特に疎開の少年の爲に――」(昭和二一(一九四六)年一月~八月の『虫界速報』及び同年十一月から翌年五月の『虫・自然』で連載)の中で、全国に蟻地獄の異名を採集し、その語原を検証しているが、その「一〇 次郎と太郎」の中で、この異名に触れている。「万葉文庫」の「定本柳田國男集」第十九巻(新装版・一九六九年筑摩書房刊)から引く。踊り字は正字化し、記号の一部を変え、漢字の一部を正字化した。「ちくま文庫」(新字新仮名)版で校合した。

   *

 變つた名稱の一つとしては、和歌山の市などでは、この蟲をケンケンソソソ、又同じ縣の南海岸で、ケンケンとも謂つて居る。是は疑ひも無く蹴るといふ動詞から出た名で、今日の相撲道では禁じられて居るが、なほ力士たちは此語を知つて居るのみならず、古くは又當麻蹴速(たいまのけはや)といふやうな名人も居た。子供の遊戯では片足飛びがケンケンであつて、之に基いて、

   けんけんばたばたなぜ鳴くね

   親が無いか子が無いか

   親も有るが子も有るが

   鷹じよに取られてけふ七日

   七日と思たら十五日……

などゝいふやうな、雉子の鳥を歌つた遊び唄も出來て居る。子供は足ケンケンといふ名を、あの飛び方が頭に響く感じから來たと思つて居るが、もとは片一方の休ませて居る足を使つて、相手を蹴り倒すのがケンケンであつた。蟻地獄が巧みに跳ねて砂を彈いて、その上に居る敵を墮すから、見て居てさう謂ひたくなるのも當り前であり、ソソソといふのは多分それそれといふ激勵の語であつたと思ふ。

   *

「披いて」「ひらいて」。

「叔母處燒る」「選集」を参考にすると、「叔母處(おばとこ)燒(やけ)る」である。

『「フロリダ」州「ジヤクソンヴヰル」』ここ

「八百屋營業の支那人の店に、晝は店番」したという話は既に注した。

「ヅロ、ヅロ、」この語、元の英語の綴りと意味が判らない。識者の御教授を乞う。確かに、この相同性は驚嘆に値する!]

 〇田邊の俗傳ふ、家の主人が自ら壁の腰張り、乃ち壁の下の方、疊に近い部分に紙を貼付ると必ず近い内に家に故障起り、一家立退ざる可らずと。

[やぶちゃん注:「壁の腰張り」「腰」とは壁の中間部分から下を指し、壁の下の部分に上とは異なった仕上げ材を張ることを「腰張り」と呼ぶ。

「乃ち」「すなはち」。

「立退ざる可らず」「たちのかざるべからず」。]

 〇又曰く、蜈蚣に嚙れて痛烈しき人は、蝮蛇には左程痛まず。蝮蛇に嚙まれて痛烈しき人が、蜈蚣に於るも又然りと。拙妻二人の子に驗するに、蚊と蚤においても同樣なりと。

[やぶちゃん注:「蜈蚣」「むかで」。

「痛」「いたみ」。

「蝮蛇」「まむし」。

「驗するに」「けみするに」。]

 〇又傳ふ、足痺れて起つ能はざる時、「痺れ京へ登れ藁の袴買て着しよ」と三たび唱へ、疊の破れ目等から、藁一片拔き、唾で額へ貼ば卽ち痺れ止むと。

[やぶちゃん注:これは汎世界的に頻繁に見られる対象現象を擬人化して慫慂懐柔する類感呪術である。

「買て」「こうて」。]

 〇熊野詣りの手毬唄、田邊より纔か七八町隔つた神子濱で唄ふのは、末段が田邊のと違ふ(『鄕土硏究』一卷二號一二一頁參看)。「燈心で括つて、京の町へ賣りに往て、叔母樣に逢て、隱れ所無つて雪隱へ隱れて、ビチ糞で滑つて、堅糞で肩打た。」この唄の意何とも知れ難いが、一二一頁に載たのは、熊野詣りの處女、途中の佛堂へ拉行き强辱さるゝ次第を序し、今爰に記すのは、誘拐して京都の花街抔へ賣れ、其處で故鄕より登つた親族に邂逅して羞匿る事を叙たのかと推せらる。

[やぶちゃん注:「手毬唄」の先行言及は数多あり、こうした若い女の悲劇を読んだものが多いが、まさに、こんな忌まわしい唄で手毬をしている少女を実際に目の前にしたら、白昼でも慄っとしただろうな。

「『鄕土硏究』一卷二號一二一頁」「一」の「田邊邊の子供が傳ふ熊野詣の手毬唄、……」を指す。

「括つて」「くくつて」。

「往て」「選集」は『往(い)て』とルビする。

「逢て」手毬唄だから「おうて」と口語で読んでおく。

「隱れ所」「かくれどこ」。「どこ」は「選集」に従った。

「無つて」「なかつて」。

「雪隱」「選集」に『せつち』と振る。従う。

「ビチ糞」「びちくそ」。

「堅糞」「かちくそ」。

「肩打た」「かたうつた」。

「處女」「むすめ」。「選集」に拠った。

「拉行き」「つれゆき」。

「花街」「くるわ」。「選集」に拠った。

「賣れ」「うられ」。

「羞匿る事」「はぢかくるること」

「叙た」「のべた」。]

 〇四十年程前迄、和歌山市で川端抔へ獨遊びに出る子供を、母が誡むるに、日向の人買船に拉行れ炭を燒せらると言た。其頃其樣事有るべきに非ねど、ずつと昔し、日向から遠國へ人買が出て、拉去た人を炭燒に苦使した時の戒飭が遺つたらしい。謠曲「隱岐院」に、「人買人、今日は東寺邊、作道の邊りにて人を買ばやと思ひ候。中略、聲を立てば叶ふまじと、髮を取て引伏て、綿轡をむずとはめ、畜生道に落行くかと、泣聲だにも出ざれば云々」。帝國書院刊行鹽尻五四卷に、「人を捕へて、勾引して賣し者、猿轡とて、物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ、近世も、出羽國南鄕等には、盜賊有て人を欺き、猿轡を含ませしとかや」。猿轡綿轡同物か。人買とは人身賣買の義なれど、實は人を勾引す者を呼んだ名らしい。

[やぶちゃん注:「日向」(ひうが)「日向から遠國へ人買が出て、拉去」(つれゆかれ)「た人を炭燒に苦使した」これは噂などではなく、江戸時代、実際に人買い船が日向からやってきて、伊勢神宮への「抜け参り」の子供などが多数拉致された事実があるのである。しかもそれは市井の悪党や女衒(ぜげん)などの仕業ではなく、列記とした日向の飫肥(おび)藩が行っていたのだから愕然とせざるを得ない。具体には、まず、宮崎のポータルサイト「miten」の「みやざき風土記」の宮崎県民俗学会副会長の前田博仁氏の「子どもを拉致した飫肥藩」を読まれたい。この多数の人買い拉致事件の発覚は文政一三(一八三〇)年のことである。この事件については、この藩ぐるみの拉致工作を早くに記事とし、このおぞましい江戸時代の犯罪を広く知らせた、イラストレーターでライターの松本こーせい氏のサイトの「好奇心散歩考古学」の『宇江佐真理の小説「薄氷」の「日向某藩の人買い船」とは?男女児童をさらって生涯奴隷に!』をも読まれんことを強くお薦めする。因みに事件が発覚した場所は、宮崎県日向市細島である。当時、ここは天領で冨高代官所が統治していた。飫肥藩領はずっと南の現在の宮崎県南部の宮崎県宮崎市中南部と宮崎県日南市全域に相当する。

「拉行れ」「つれゆかれ」。

「戒飭」「いましめ」。「選集」の読みに従った。音は「カイチヨク(カイチョク)」で「飭」も「いましめる」の意。「人に注意を与え慎ませること・気をつけて慎むこと」の意。

「遺つた」「のこつた」。

『謠曲「隱岐院」』別名「隱岐物狂(おきものぐるひ)」。廃曲。作者不詳。妻に死別して出家した父親が、隠岐島で、人商人(ひとあきびと)に誘われて発狂した娘に逢うという筋立て。国立国会図書館デジタルコレクションの大和田建樹著「謠曲評釋」第五輯(明治四(一九〇四)年博文館刊)ここから読める(ここには「世阿彌作」とある)が、冒頭、「人買人」(ひとかひびと)は「かやうに候ふ者は、隱岐の國より出でたる人商人(ひとあきびと)」であり、「今日は東寺邊」(へん)「、作道」(つくりみち)「の邊りにて人を買」(かは)「ばやと思ひ候」と続く。「作道」は「鳥羽作道(とばのつくりみち)」で平安京の羅城門から真南に走る道で、鳥羽を経て、淀に至る道筋(「徒然草」によれば、十世紀以前から存在していた)。「中略」以下は、左ページの四行目からの引用で、「聲を立てば叶」(かな)「ふまじと、髮を取」つ「て引」き「伏て、綿轡」(わたぐつわ)「をむずとはめ、畜生道」(ちくしやうだう)「に落」ち「行くかと、泣」く「聲だにも出ざれば、心に人間はありそ海の。隱岐の國へと志し。山陰道に急ぎけり。急ぎけり。」で中入となる。

『帝國書院刊行鹽尻五四卷に、「人を捕へて、勾引して賣し者、猿轡とて、物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ、近世も、出羽國南鄕等には、盜賊有て人を欺き、猿轡を含ませしとかや」』「鹽尻」は既出既注。江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該活字本の当該箇所が国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認できる。左下段中央やや左寄りにある。

「猿轡」と「綿轡」は「同物か」と言っているが、どうも違う気がする。「物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ」という部分がそれで、例えば、口に噛ませるのに、ささくれ立った木片を咬ませるか、真綿に茨などを包んだものを含ませているのではないかと疑わせる。「綿轡」は十全に口腔内に真綿をぎゅうぎゅうにしっかり詰めれば、それを吐き出すことは出来ず、声も発することも実は出来ないのである。

「勾引す」「かどわかす」と読む。]

 〇田邊で兒女酸漿の瓤(なかご)出すに唱ふる詞「酸漿ねえづき破れんな、(瓤が其心根に付た儘皮を破らずに出よと云ふ事)破れた方へ灸すよ」。

[やぶちゃん注:「兒女」「こども」。

「酸漿」「ほほづき」。

「瓤(なかご)」音は「ショウ・ ニョウ・ドウ・ノウ」(現代仮名遣)。瓜(うり)等の内部の種子部分を包んでいる綿状の箇所、所謂、「子房」を指す。

「出す」「いだす」。

「其心根に付た儘」「その、しん、ねについたまま」で果実の外を包む「皮を破らずに出」(いで)よ」。

「灸」「選集」は『やいと』とルビする。]

 〇玄猪の神に飯供ふる時、飯匙で十三度に扱ひ取る。此飯を若き男女食ふと、緣付き遲い故に、既婚の人のみ食ふ。

[やぶちゃん注:「玄猪」「選集」を参考にするなら、二字で「ゐのこ」。

「飯」「めし」。

「飯匙」「選集」を参考にするなら、「おだいかひ」。通常は「いがひ」で杓文字のこと。この「おだいという読みは「飯」の当て訓で、本来は「御臺」で、元は「御臺盤」(飯・菜などを盛った器をのせる長方形の台)であるが、そこから、近世に女性語として「飯」(めし)を指す語となった。

「扱ひ」「選集を参考に「よそひ」と訓じておく。

「此飯を若き男女食ふと、緣付き遲い故に、既婚の人のみ食ふ」こういう伝承の根源は遂に探れないのが悔しい。]

 〇茶釜の湯沸て蓋を持上ぐれば、家の福分隣家へ移るとて、速く水を注込む。

[やぶちゃん注:「沸て」「わきて」。

「持上ぐれば」底本は「持上けば」であるが、「選集」で訂した。「上げれば」ではどうもしっくりこない。

「隣家」「選集」は『となり』と振る。

「速く」「はやく」ではなく、「すばやく」と訓じておく。]

 〇和歌山で蟋蟀の鳴聲、「鮓食て餅食て酒飮んで、綴れ刺せ夜具刺せ」と云て暑い時遊んで居た人、秋に成れば冬の備へをせにや成ぬと警むるのぢやと、幼年の頃予每々聞た、倭漢三才圖會五三にも、古今注云、蟋蟀秋初生、得ㇾ寒則鳴、俚語有ㇾ言、趨織鳴嬾婦驚と出たり。

[やぶちゃん注:「蟋蟀」「こほろぎ」。

「鮓食」(すしくふ)「て餅食て酒飮んで、綴」(つづ)「れ刺せ夜具刺せ」。

「成ぬ」「ならぬ」。

「警むる」「いましむる」。

「倭漢三才圖會五三にも、古今注云、蟋蟀秋初生、得ㇾ寒則鳴、俚語有ㇾ言、趨織鳴嬾婦驚」私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」を参照されたい。]

 〇和歌山で蜻蛉の雌を維いで雄を釣るを「かえす」と云ふ。之をなす小兒「ヒヨー、ヒヨー、やんま、ひよつちんひよー」と唱ふ、下芳養で蜻蛉かえすに、ホーヒーホーと唱ふ、鉛山では、「ホーヒーホー、かしややんまでかえらんせ」といふ。花車乃ち仲居が嫖客を引く如く囮の雌蜻蛉に引かれ來れとの意か、田邊では單に「やんまほー」と唱ふ、神子濱では「やんま、こーちーこーの、猫に怯てこーかいの」と呼ぶ、交尾ながら飛ぶを見て、「ぢよつかじよーじよーお坐り成れ」と云へば止ると云ふ、蜻蛉飛ぶを手網で奄んとする時、「とんぼとーまれ、お寺のお脊戶で、蠅を取つて食はそ」と云へば止るといふ、田邊、和歌山等では、唯「とんぼとーまれ、蠅を食はそ」といふ。

[やぶちゃん注:以下、読みは概ね「選集」を参考にした。

「雌」「め」。

「維いで」「つないで」。

「雄」「を」。

「小兒」「こども」。

「下芳養」「しもはや」。既出既注。

「鉛山」「かなやま」。和歌山県の旧西牟婁郡瀬戸鉛山村。「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」こちらで旧村域が確認出来る。西牟婁郡白浜町の鉛山湾のある半島部に当たる(国土地理院図)。

「花車」「くわしや(かしゃ)」。花車方(かしゃがた)とも呼ぶ。茶屋などで働く年配の仲居のこと。

「嫖客」「へうきやく(ひょうきゃく)」。花柳界に遊ぶ男の客。

「囮」「おとり」。

「雌蜻蛉」「めやんま」。

「怯て」「おぢて」。

「交尾ながら」「つるみながら」。

「成れ」「なされ」。

「手網」「たも」。

「奄ん」「ふせん」。

「蠅」「はい」。]

 〇西牟婁郡二川村大字兵生邊で、「そばまきとんぼ」と云ふ蜻蛉が、丁度鍬の柄の高さに飛ぶ時を待て蕎麥を蒔く。曆が行渡らぬ時は、色々の事を勘へて農耕をした、其時の遺風と見える。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡二川村大字兵生」(ひやうぜい)は現在の田辺市中辺路町兵生(グーグル・マップ・データ)。幾つかのネット記載は黄読みを「ひょうぜ」とするが、正しくはやはり「ひょうぜい」である。「ひなたGPS」のこちらを参照。

「そばまきとんぼ」個人サイト「大阪・上方の蕎麦」の中の「暮らしと蕎麦」の「その3」の「ソバマキトンボ -----赤とんぼ-----」で素晴らしい考証がなされており、結論としては、蜻蛉(トンボ)目Epiprocta 亜目Anisoptera下目トンボ上科トンボ科ハネビロトンボ亜科ハネビロトンボ族ウスバキトンボ属ウスバキトンボ Pantala flavescens ではないかと推定されておられる。当該ウィキによれば、『全世界の熱帯・温帯地域に広く分布する汎存種の一つで』、『日本のほとんどの地域では、毎年春から秋にかけて個体数を大きく増加させるが、冬には姿を消す』。『お盆の頃に成虫がたくさん発生することから、「精霊とんぼ」「盆とんぼ」などとも呼ばれる。「ご先祖様の使い」として、捕獲しないよう言い伝える地方もある。分類上ではいわゆる「赤とんぼ」ではないが、混称で「赤とんぼ」と呼ぶ人もいる』とあった。『成虫の体長は』五センチメートル『ほど、翅の長さは』四センチメートル『ほどの中型のトンボで』、『和名のとおり、翅は薄く透明で、体のわりに大きい。全身が淡黄褐色で、腹部の背中側に黒い縦線があり、それを横切って細い横しまが多数走る。また、成熟したオス成虫は背中側にやや赤みがかるものもいる』とあった。]

 〇其近所に笠塔といふ高山が有る。實に無人の境だ。其山に木偶茶屋と云ふ處有り、夜分狩人抔偶ま野宿すると、賑はしく人形芝居が現ずる由。

[やぶちゃん注:「笠塔」(かさたふ)「といふ高山」田辺市のここ(国土地理院図)。標高千四十九メートル。平安時代の陰陽師安倍晴明が魔物を笠の下に封じ込めたという伝説が残る山である。

「木偶茶屋」「でくちやや」。位置不詳。

「偶ま」「たまたま」。

「賑はしく人形芝居が現ずる由」ヒエーッツ! 泉鏡花の世界じゃて!!!]

〇「七つ七里、小便擔桶にも憎まれる」此諺紀州到る處で言ふ。小兒七歲に成れば、行作荒々しく、自村のみか近傍七ケ村から憎まれるとの意だ。

[やぶちゃん注:「七里」「ななさと」。

「小便擔桶」「しやうべんたご」。

「行作」「選集」を参考にすると、二字で「おこなひ」。]

 〇熊野(一說伊勢)の神油蟲を忌む、三疋殺した者、參詣せずとも、其丈の神助有りと云ふ。

       (大正二年鄕硏第一卷第六號)

[やぶちゃん注:「油蟲」言わずもがな、ゴキブリであろう。]

2022/06/30

「南方隨筆」底本正字化版「紀州俗傳」パート 「三」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

      三、

 〇師走狐(鄕硏一卷一二一頁)に就て上芳養村の人の說に、昔し狐が十二支の何と後へ己を加へて吳れと望んで拒絕された。十三支では月を數えることが成ぬからだ。之を哀んで新年が近づく每に狐が鳴く。これを師走狐と言ふので、別に境大字の一老狐に限た事で無いと。

[やぶちゃん注:「鄕硏一卷一二一頁」本「紀州俗傳」の「一」の冒頭の条を指す。

「上芳養村」(うへはやむら)は前回の中芳養村の東北に接する旧芳養地区一番の内陸部。ここ(「ひなたGPS」)。]

 〇田邊町に接近せる湊村に、昔し金剛院てふ山伏有り、庚申山と云ふ山伏寺で山伏の寄合有るに、神子濱の自宅から赴く、途上老狐臥し居る、其耳に法螺を近づけ大に吹くと、狐大に驚き去る。其返報に彼狐が、鬪鷄權現社畔の池に入り、荐りに藻を被り金剛院に化る、庚申山へ行く山伏ら、この次第を睹、扨は今日狐が金剛院に化て寺へ來る積りだ、早く待受て打懲しやれと走り往て俟つと、暫くして金剛院殊勝げに來るのを、寄て圍んで散々に打擲しても化の皮が顯れず、苦しみ怒るのみで、遂に眞正の金剛院と解つた。全く法螺で驚された仕返しに、狐が惡戲をしたのだつた。熊楠謂ふ、此話と似た奴が支那の呂覽卷廿二、疑似篇に出て居る、梁北の黎丘部に奇鬼有り、善く人の子弟の狀を爲る、邑の丈人市に之て醉歸る所へ、其子の狀して化出で、丈人を介抱して歸る途中夥く苦めた、丈人家に歸て其子を誚ると、昔に東邑人に貸た物の債促に往て居た、何條父を苦むべき、僞と思はゞ彼人に聞玉へと云ふ、父ぢや屹度彼鬼の所爲だ、仕樣社有れと、明日復た市に之て飮み歸る所を、子が案じて迎へに行た、其れ鬼が來たと用意の劍を拔て、殺して視ると眞の吾子だつたと有る。

[やぶちゃん注:「湊村」現在の田辺の中心部である和歌山県田辺市湊(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。本篇発表当時(大正二(一九一三)年六月)は田辺町に接する湊村であったが、大正一三(一九二四)年に田辺町に編入されている。

「庚申山と云ふ山伏寺」現在の甲賀(こうか)市水口町(みなくちちょう)山上(やまがみ)にある真言宗庚申山(こうしんざん)広徳寺。山伏や甲賀忍者の修行の地として古くから知られる。

「神子濱」田辺市神子浜(みこはま)。

「鬪鷄權現社」既出既注。田辺市東陽にある鬪鷄(とうけい)神社。熊楠の夫人は当時の同社の宮司田村宗造の四女松枝さんである。

「荐りに」「しきりに」。

「化る」「ばける」。

「睹」、「み」。

「待受て打懲しやれ」「まちうけて、うちこらしやれ」。

「打擲」「ちやうちやく」。

「眞正」「選集」に従うなら、「ほんたう」。

「惡戲」「いたづら」。

「呂覽」「りよらん」は戦国末期の秦の丞相呂不韋(りょふい ?~- 紀元前二三五年)が食客を集めて共同編纂させた「呂氏春秋」の別称。秦の始皇八年(紀元前二三九年)に完成した。当該ウィキによれば、全二十六巻百六十篇で、『その思想は儒家・道家を中心としながらも』、『名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされ』、『天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる』とある。当該部は「中國哲學書電子化計劃」のこちらから、その影印本を視認されるのが良い。

「梁北の黎丘部」現在の河南省開封(かいほう)市の西北の旧地名。

「狀」「なり」又は「かたち」或いは「さま」。

「爲る」「まねる」。

「丈人」「ぢやうじん」。年寄を敬って言う語。「選集」では『おやかた』と振る。

「之て」「ゆきて」。

「醉歸る」「ゑひかへる」。

「化出で」「ばけいで」。

「夥く」「おびただしく」。

「誚る」「せむる」。

「昔に」「選集」に従い、「さきに」。

「東邑人」「ひがしむらのひと」と訓じておく。

「貸た」「かした」。

「債促」「催促」に同じ。

「往て居た」「ゆきてをつた」。

「何條」「なんぜう」。どうして。

「苦む」「くるしむ」。

「僞」「いつはり」。

「彼人」「かのひと」。

「聞玉へ」「ききたまへ」。

「父ぢや屹度彼鬼の所爲だ」「ちち、『ぢや、あのおにのしわざだ。』」。

「仕樣社有れ」「しやうこそ、あれ。」。仕返ししてやる方法が、これ、あるわい!

「拔て」「ぬきて」。

「眞」「まこと」。]

 〇鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲と少しく違ふのが、紀州田邊邊で行はれる、「ほーたる來い、ほーたる來い、彼方の水は苦い、此方の水は甘い、ほーたる來い、ほーたる來い、ほーたる來い、行燈の光で蓑着て來い」(又は行燈の光を見懸て來)。田邊町と殆ど町續きなる神子濱では、「ほー、ほー、ほーたる來い、彼方は云々」と云たあとで、「ほー、ほー、ほーたる來い、行燈の光で蓑きて笠きて飛でこい」と云ふ、有田郡津木村抔では、單に「螢來い、螢來い天河の水呑さう」と云ふ。

[やぶちゃん注:「鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲」当該雑誌は全くネット上では見られないので、不詳。南方熊楠の記事ではないようだ。「遠州橫須賀地方」は現在の静岡県掛川市横須賀のことであろう。

「彼方」「あつち」。

「此方」「こつち」。

「有田郡津木村」和歌山県有田郡の旧村で、現在の同郡広川町の東半分、広川の上流域に相当する。「Geoshapeリポジトリ」の「 歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。]

 〇田邊近傍の里傳に、昔し雀と燕姉妹の所に親が臨終と告來つた、燕は衣を更え盛粧して行たので、親の死目に逢ず、雀は鐵漿付て居たが、事急也と聞て忽ち其儘飛往て死目に逢た。故に體色美ならず頰に黑き汚斑有れど、始終米粒其他旨い物多く食ふ、燕は全身光り美しけれど、不孝の罰で土斗り食ふと。去年死んだ英國昆蟲學大家「ウヰリアム、フオーセル、カービー」は廿年斗り前予が西印度で集めた蟲類を每々調べて吳れた在英中知人だつた、專門の方に大英博物館半翅蟲目錄等多く大著述が有た傍ら古話學に精通し、故「バートン」が亞喇伯夜譚の全譯を濟せた時も、特に「カービー」氏の亞喇伯夜譚諸譯本及び模作本の解說を請て卷末に附した程の名人だった。氏の著「エスソニア英雄傳」(一八九五年板)卷貳に「エスソニア」の燕の緣起を說て云く、常醉漢の妻が膝邊に子を載せ布を織る、其日の出立ちは頭に黑布、頸に赤切れ、白い下衣に黑い下裳だった、所へ醉た夫が還來て妻を押排け、斧で織を斷ち、拳で兒を殺し、序に妻を打て氣絕させた。大神之を憐れみ卽座に妻を燕に變ぜしめたが、逃んとする鳥の尾を夫が小刀で截たから兩岐に成た。爾來燕は當時の不幸を悲み、鳴き止ずに飛行くが、他鳥と異り人を怖れず、家内に來り巢ふと有る。本條に多少關係ある故、知人の記念に一寸附記す。

[やぶちゃん注:「逢ず」「あへず」。

「鐵漿」「かね」(「選集」)或いは「おはぐろ」。

「飛往て」「のびゆきて」。

「逢た」「あへた」。

「汚斑」「選集」は『よごれ』と振る。

「罰」「選集」は『ばち』と振る。

「斗り」「ばかり」。

『去年死んだ英國昆蟲學大家「ウヰリアム、フオーセル、カービー」』「ロンドン自然史博物館」で働いたイギリスの昆虫学ウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)。当該ウィキによれば、『昆虫学の著作の他に少年向けの博物学の著書を執筆し』『フィンランドの民族叙事詩』「カレワラ」『など北欧神話の翻訳も行った』とある。『ロンドンの銀行家の家で生まれ』、『家庭教師から教育を受けた。子供時代から蝶などに興味を持ち』、僅か十八歳で、‘Manual of European Butterflies’『という著作を出版した』。一八六七年に王立ダブリン協会の博物館の学芸員となり、「昼行性鱗翅目のシノニム目録」(Synonymic Catalogue of Diurnal Lepidoptera :初版一八七一年・補遺版 一八七七年)『を出版した』。一八七九年、没した昆虫学者フレドリック・スミス(Frederick Smith)の後を継いで、『ロンドン自然史博物館の学芸員の仕事を』担当し、一九〇九年まで『その仕事を続けた』。彼は『自然科学の著作』がある『他に、北欧やオリエントの神話、民話に興味を持ち、フィンランドの民族叙事詩、カレワラなどを英訳し、同時代や後代の作家に影響を与えた』とある。

「大英博物館半翅蟲目錄」この書名相当のものを見出せなかったが、彼の著に成る‘Catalogue of the described Hemiptera Heteroptera and Homoptera of Ceylon’ (「記載されたセイロンの半翅目・異翅目及び同翅目の目録」:一八九一年)があった。半翅目はカメムシ目に同じ。

「古話學」「選集」では『ストリオロジー』のルビが振られてある。これは“Storyology”らしいが、通常の辞書には載らず、ネットでは、中国語で「故事学」と訳されている。所謂、「古譚考証学」という意味であろうか。何のことはない、邦文でこの単語を調べると、掛かってきたのは「万葉文庫」の「南方熊楠全集」第三巻の「ダイダラホウシの足跡」(明治四一(一九〇八)年四月発行の『東洋學藝雜誌』初出)の一節で、『世界通有の俚伝を Benjamin Taylor,Storyology,1900,p.11 に列挙せる中に』とある。この作者の事績はよく判らぬが、ロンドンで出版された同書の副題は‘Essays In Folk-Lore, Sea-Lore, And Plant-Lore’(「民間伝承と海洋伝承及び植物の伝承に関するエッセイ」)で、思うに、各種の伝承や民話中の核になっている広く見られるプロトタイプを探究する学問という意味で、或いはこのベンジャミン・テイラーなる研究者が造語したものかも知れない。

「バートン」「亞喇伯夜譚」(「選集」では『アラビアン・ナイツ』とルビする)既出既注

「請て」「こひて」。

『氏の著「エスソニア英雄傳」(一八九五年板)』‘The hero of Esthonia, and other studies in the romantic literature of that country’(「エストニアの英雄、及びその国のロマン的文学その他の研究」・一八九五年刊)。当該原本の当該部を「Internet archive」で発見した。ここからである。

「常醉漢」「選集」を参考にするなら、『ゑひどれ』。

「下衣」前注の原文を見ると、“shift”で、これは「ワンピース」或いは古語で「スリップ」のこと。以下と区別する上半身の「したぎ」と読んでおく。

「下裳」「したも」。同前で“petticoat”。ペティコートで、スカートの下に穿く下着である。熊楠なら「ゆまき」「ゆもじ」とでも訓じているかも知れない。

「醉た」「ゑふた」。

「還來て」「かへりきたつて」。

「押排け」「おしのけ」。

「織」「はた」。

「打て」「うつて」。

「大神」「選集」は『ウツコ』と振る。原文にある神名“Ukko”である。ウィキの「ウッコ」によれば、『ウッコ(フィンランド語 : Ukko、エストニア語 : Uku)は、フィンランド神話で、天空・天気・農作物(収穫物)とその他の自然の事象を司る神で』、『フィンランド神話・エストニア神話』『の中で最も重要な神でもあり、フィンランド語の「雷雨(ukkonen)」はこの神の名前から派生した言葉である。『カレワラ』では、全ての事物の神であるかのように「絶対神(ylijumala)」とも呼ばれており、神話で自然絡みの話となると大抵ウッコが登場する』。『ウッコの起源は恐らくバルト神話』『の「ペールコンス(Perkons)」と、古代フィンランド神話の空神「イルマリネン(Ilmarinen)」である』。『ウッコが天空神としての地位を得た事で、イルマリネンは人間の「鍛冶屋の英雄」となった』とする。『ウッコの武器は、「ウコンバサラ」と呼ばれる、稲光を発する事が出来るハンマー(もしくは斧・剣)であった。ウコンバサラはボートのような形をした(戦闘用の)石斧だったろうと言われるが、鉄器の時代が来て石器が使われなくなるうちに、石の武器の起源は謎になった。だが』、『人々は、それを先端の石の部分から稲光を出して攻撃するウッコの武器であると信じていた』。『ウッコが妻「アッカ(Akka)』『」と連れ添っている時には雷雨が起こり、二輪戦車で空を駆けても雷雨が起こった』。『ノコギリ型のヘビのイメージは、雷のシンボルである。ヘビと稲光の両方の特徴を持った石の彫刻もある』(現物の写真有り)とある。

「逃んと」「にげんと」。

「小刀」「選集」は原文通り、「ナイフ」とルビする。

「截た」「たつた」或いは「きつた」。「選集」は前者。

「兩岐」「ふたまた」。

に成た。

「飛行く」「とびゆく」。

「異り」「選集」に合わせるなら、『かはり』。

「巢ふ」「すくふ」。]

 〇田邊邊で家に子供多く、今生れた子限り又生るるを欲せざる時は、其子に澄、留、桐抔の名を付く。是で勘定濟み、是切り出產が留れてふ意だ想な。

[やぶちゃん注:「桐」音通の「きり」(切り)。松本清張の「霧の旗」を中一の時に読んで以来、桐子って名前、ムチャ好きだったんですけど。]

〇この邊で白僵蠶を希品とし、蠶の舍利と呼ぶ。之を穫る家、當年蠶の收利多しと云ふ。近江にても「おしやり」と云ふ由、重訂本草啓蒙卷卅五に見ゆ。

[やぶちゃん注:「白僵蠶」(はくきやうさん)は、菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ目ノムシタケ科白僵菌属白僵菌(ムスカルジン)Batrytis bassiana に消化器官が自然感染して死んで硬化したカイコガ(鱗翅目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori)の幼虫を指す。白僵菌は昆虫病原糸状菌(Entomopathogenic fungus)の内、昆虫の体から水分を奪って殺し、体を硬化させるものを特に「僵病菌(きょうびょうきん)」と呼び、それによる病気を「僵病」「硬化病」と呼ぶ。感染した昆虫の死骸は乾燥してミイラ状になる。「白僵蠶」は日中の漢方薬名としても知られる。グーグル画像検索「白僵蠶」をリンクさせておく(虫が苦手な方は見ない方がまあよいかと存ずる)。なお、これについては、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 白殭蠶」の私の注でかなりディグしてあるので参照されたい。因みに「殭」は「僵」の異体字である。また、「堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 木乃伊」にも登場する。

「穫る」「うる」。

「當年蠶の收利多しと云ふ」蠶場で発生し、他の個体への感染拡大を考えれば、これは頗るクエスチョンである。

「重訂本草啓蒙卷卅五に見ゆ」国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四(一八四七)年版本のここの、右丁の後ろから四行目以降。]

 〇又月の八日に旅立せぬ古風が有た。

[やぶちゃん注:根拠不詳。暦注や九星術などで、七日や八日の旅立ちや、帰還を忌むとするものがあるようであるから、そうしたものがズレて発生したものか。]

 〇西牟婁郡新庄村大字鳥巢邊では、以前正月禮に廻り來る人が是非家の中に蹴込まねば入り得ぬ樣、閾の直外に夥く神馬藻を積だ、藻を蹴込む(儲け込む)という欲深い洒落だ。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡新庄村大字鳥巢」「二」で既出既注

「閾」「しきい」。

「直」「すぐ」。

「夥く」「おびただしく」。

「神馬藻」「じんばさう」。不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae或いはその下位タクソンのホンダワラ属 Sargassum のホンダワラ類を指す。何故、種を示さないかは、「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラの仲間)」の私の注を参照。]

 〇湊村磯間浦夷の鼻という磯の前に旗島有り。田邊權現船に乘り此浦に來りし時、旗立たる所と云ふ。夷の鼻邊に大波到れば鐘聲する所有り。鬪雞社(舊稱田邊權現)内に以前松雲院てふ寺有り、其に釣んとて鐘二つ作り、船に積來りしに、此處で雄雌の内一つ沈んだ、其が海底で鳴ると云ふ。扨殘る一つを寺に懸たが、偶を求めて鳴ぬ、八十貫目も有る物が不要と來たので、永く境内白身の木の下に雨曝しに伏置たのを、今は片付て仕舞た。

[やぶちゃん注:「湊村磯間浦」(いそまうら)「夷」(えびす)「の鼻という磯の前に旗島有り」国土地理院図でここ。グーグル・マップ・データで見ると、浜に「磯間浦安神社」があり、ここは恵比寿を祀っている。「夷の鼻」は現在の地名にないが、「ひなたGPS」で戦前の地形を見ると、「鼻」=岬上に突き出ていることが判るから、ここを指していると考えてよい。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、防波堤が形成されて、浜もかなり新しい人口海浜であることがわかり、その浜のド真ん中に「三壺崎」と場違いな名所表示があることから、ここは嘗ては、まさに「磯」の「鼻」だったことが理解出来る。

「鬪雞社(舊稱田邊權現)内に以前松雲院有り」別当寺であろう。廃仏毀釈で無くなったものと思われる。「ひなたGPS」で同神社を見ると、戦前には明らかに同神社に並んで寺の記号がある。ここは間違いなく、現在の同神社の南東直近であるが、現在の地図では寺など、影も形も、ない。

「偶」「とも」。

「鳴ぬ」「ならぬ」。

「八十貫目」三百キロ。

「白身」「びやくしん」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属イブキ Juniperus chinensis の異名「ビャクシン」(柏槇)。大きくなると、幹が捩じれたようになり、幹の表面が裂けるところから、禅宗寺院で好んで植えられる。

「伏置た」「ふせおいた」。]

〇日高郡龍神村大字龍神は古來溫泉で著名だが、其地に本誌卷一、一一七頁に載た德島縣の濁が淵同樣の話が有る。但し所の者は之を隱して言ぬ。昔し熊野詣りの比丘尼一人此所へ來て宿つたが、金多く持てるを主人が見て、徒黨を組で、雞が栖る竹に湯を通し、夜中に鳴せて、最早曉近いと紿き、尼を出立せ途中で待伏て殺し、其金を奪ふた。其時尼怨んで、永劫此所の男が妻に先立て死する樣と咀ふて絕命した。其所を比丘尼剝と云ふ。其後果して龍神の家每、夫は早死し、寡婦世帶が通例と成て今に到る、其尼の爲に小祠を立て齋込たが、頓と祟は止まぬ想ぢや。十年斗り前に、東牟婁郡高池町から船で有名な、一枚岩を觀に往た時、古座川を鳶口で筏を引て、寒い水中を引步く辛苦を傷み問しに、此働き嚴く體に障り、眞砂と云ふ所の男子は悉く五十以下で死するが常なれど、故鄕離れ難くて皆々斯く渡世すと答へた。龍神に男子の早死多きも、何か其譯有る事で、比丘尼の咀に由ぬは勿論乍ら、此邊昔しの熊野街道で、色々土人が旅客に不正な仕向も度々有つた事と思ふ。第一卷一二一頁に出せる熊野詣りの手毬唄なども、實は、新しく髮結ふて熊野へ詣る娘を途上で古寺へ引込み、强辱する體を隱微の裏に述たものらしい。明治八年頃和歌山の裁縫匠予が父の持家に住んだ者が熊野の或村で、村中の人悉く角力見に行た所へ往合せ、大石で頭を碎かれ、所持品悉く奪はれて死だ事も有た。西鶴の本朝二十不孝卷二「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋」の一章など、小說乍ら據ろ有たのだらう。序に云ふ、龍神邊の笑話に或寡婦多分現存の人だが、夏日麥を門外に乾し、私室徒然の餘り單獨祕戲を弄し居たるに忽ち驟雨到り、麥流ると兒童の叫聲に驚き、角先生(ガウデ・ミヒ)を足に結付けた儘走り出しを見て、この暑きに主婦は足袋を穿りと、兒童一同彌よ叫んだと云ふ。虛實は知ず、似た境遇は似た傳說を生ずる者で、印度にも二千年已上の昔し既に斯な事が有た。唐の義淨譯根本說一切有部苾芻尼毘奈耶卷拾七に云く、吐羅難陀苾芻尼、因行乞食、往長者家、告其妻曰、無病長壽、知夫不在、問曰、賢首、夫既不在、云何存濟、彼便羞恥、默而不答、尼乃低頭而出、至王宮内、告勝鬘妃曰、無病長壽。復相慰問、竊語妃曰、王出遠行、如何適意、妃言、聖者既是出家、何論俗法、尼曰、貴勝自在、少年無偶、實難度日、我甚爲憂、妃曰、聖者、若王不在、我取樹膠、令彼巧人而作生支、用以暢意、尼聞是語、便往巧匠妻所報言、爲我當以樹膠作一生支、如與勝鬘夫人造者相似、其巧匠妻報言、聖者出家之人、何用斯物、尼曰、我有所須、妻曰、若爾我當遣作、卽便告夫、可作一生支、夫曰、豈我不足、更復求斯、妻曰、我有知識、故來相憑、非我自須、匠作與妻、妻便付尼、時吐羅難陀、飯食既了、便入内房、卽以樹膠生支、繫脚跟上、内於身中、而受欲樂、因此睡眠、時尼寺中忽然火起、有大喧聲、尼便驚起、忘解生支、從房而出、衆人見時、生大譏笑、時諸小兒見唱言、聖者、脚上何物、尼聞斯言、極生羞恥、佛之を聞て、尼を波逸底迦罪犯とした。   (大正二年六月『鄕土硏究』一卷四號)

[やぶちゃん注:「日高郡龍神村大字龍神」現在の田辺市龍神村龍神

「本誌卷一、一一七頁に載」(のつ)「た德島縣の濁」(にごり)「が淵」この話、ネット上では纏まって電子化されたものがない。禁忌的隠蔽度が高いのかと思いきや、比較的メジャーな出版物の目録等には載っていたりするのだが、話の中身がまるで語られていない。昨夜から検索して今朝、やっと発見した。大正六(一九一七)年日本伝説叢書刊行会刊の民俗学者で小説家(児童文学)でもあった藤沢衛彦(もりひこ 明治二二(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は、日本の小説家、民俗学者、児童文学研究者)氏執筆になる編「日本傳說叢書 阿波の卷」のここである。以下に電子化する。読みは一部に留めた。割注は二行丸括弧入りだが、本文同ポイントで【 】で示した。太字は底本では傍点「﹅」。踊り字「〱」は正字化した。頭書に「金鷄呪咀傳說」とある。藤沢衛彦は熊楠も他で言及しているから、本記事も或いは彼のものかも知れない。

   *

    濁 り が 淵(那賀郡桑野村)

 桑野川を、桑野村から十五六町北東に下ると、樹木鬱蒼と生ひ茂つてゐる山の端(は)に、奇岩突出した絕壁があつて、その丁度眞下に、物凄く濁つた暗黑の淵がある。

 桑野川の水は川上も川下も水晶のやうに透き通つて、淸い淸い流(ながれ)であるのに、こゝばかりは、どんよりと濁つて、水もどよみがちなのは不思議である。あゝ、濁りが淵、淸い流の間(あひ)にあつて物凄い傳說を傳へてゐる濁りが淵はこゝである。

 世紀を幾つ重ねた昔であつたか、確かな言ひ傳へがないので、時代はわからないが、然しなんでも、よつぽど以前の事であつたと言はれてゐる。桑野五箇村(そん)【その頃、桑野村、答島村、橘浦、山口村、内原村を、古くからかう呼んでゐた。何でも「神風抄」に出た桑野御厨の地であらうと言はれる位、古い村である。】の長者の宅へ、とある日、一人の修驗者(しうけんじや)が泊り合はした。桑野の長者と修驗者は、諸國の噂話から始まつて、修驗者は、諸國で見聞(みきゝ)した寶物の話をし出した。すると長者は、とてもの事に自分の家の寶物も見て欲しい。そして又諸國修行の旅の間に、桑野の長者の寶物の噂をして貰ひたいと、種々(いろいろ)の寶物を見せるのであつたが、修驗者が、これはと思う珍寶は、それら多くの寶物の中に一つも見當らなかつた。

『なるほど、貴尊のものゝやうには見うけますけれども、これらの寶物も、まあまあ、ありの物に過ぎないやうです。かりそめにも、珍寶として噂されるだけのものには、何か普通と變つたところがなければなりません。これを御覽なさい。』

 かう言つて、修驗者は、携へてゐた櫃(ひつ)の中から、桐三重(きりみかさね)の箱に入れた黄金(わうごん)の盃(さかづき)を取り出して見せた。【盃ではなく、黃金の鷄と、一寸四方箱に收まる蚊帳(かや)とを持つてゐて、鷄と一所に出して見せたともいふ。

『へえ、これがその世にも珍らしい寶だとお言ひのですか。え、こんな小(ちいさ)い金の盃が何です。それ、そこらには、もつと大きな純金(こがね)の置物が、いくらでもあるではありませんか。』

 長者は、嘲(あざけ)り口調で、取散らかされて居ら自分の家の寶物の幾つかを指した。

『はゝ、御主人、理由を聞かないで、さうけなしては困ります。かう見えましても、この盃は、決して唯(たゞ)の黃金(こがね)の盃ぢやアありませんよ。まアまア見てゐらつしやい。それ。」

 修驗者は、薦められてゐた御馳走(おふるまひ)のお酒を取つて、稀代(きだい)の寶物だといふ、その黃金(きん)の盃の中に、なみなみと注ぎ更(か)へた。

『はゝアヽなるほど、そのお盃で飮むと、素敵もなく甘いとでも言ふのでせう。』

 長者は、よくある話だと言はぬばかり、自分で、自分の言ひ當てを感心したやうに言つたが、修驗者は、首を振つて、

『どうして、そんなつまらないことぢやアありません。』

 と打ち消しながら、零れさうになつてゐる盃のお酒を、何か言ひながら、一口ふうと吹いた。すると、驚くではないか、忽ち何處(どこ)かからともなく、黃金の鷄が現はれ出して、『こけこつこう。』と唄(うた)を唄ひ出した。立派に驚かされてしまつた桑野の長者を微笑(ほゝえみ)の眼で見やりながら、修驗者は、その溢れるばかりの盃を手にして、一息に飮みほし、

『あゝ、甘露、甘露。』

 とヽ舌皷(したつゞみ)を打つ。すると例の黃金の鷄も、酒が飮み干(ほ)されると同時に、どこともなく消え失せてしまつた樣子、長者は、たゞ呆氣(あつけ)に取らるゝばかりであつた。

『不思議、不思議。』

 と、間のあたりに見た靈事(くしごと)に感じ入つてゐた長者は、さうした珍らしい寶物を、どうしてどこから得られたかと尋ねたけれども、修驗者は、たゞ、祖先傳來の物とばかりで、詳しくは語らなかつた。

 そのうちに、桑野の長者は、無性に、その修驗者の黃金の盃が欲しくなつて來たので、修驗者に、いろいろに說(と)いて、交換(かうくわん)、讓渡(ゆづりわたし)のことを、くどくどと賴んだけれども、勿論、さうした珍寶を修驗者の易々(やすやす)と交換(とりかへ)や、讓渡(ゆづりわたし)の承知をしやうがない。手を換へ、品を換ヘて、長者は、どうかして其奇代(きだい)の珍寶を手に入れたいとしたけれども、其願ひはことごとく謝絶されてしまつた。かうなると、長者は、どうしても其珍寶が欲しくてたまらなくなる。惡い人間でもかかつたのであつたが惡魔に魅(み)せられたか、長者は、ふと氣が變つて、よしそれでは、修驗者を殺してでも、彼(あ)の珍寶を奪ひ取らうと決心してしまつた。修驗者も、どうも怪しく思はれだしたので、事があつてはめんどうと、そつと、其夜のうちに、斷りもせずに、長者の家を脫(む)けて出で、桑野川に添うて逃げて行つた。間も無く、修驗者の逃亡に氣の付いた長者は、獲物を提(と)つて、修驗者の跡を追ひ懸けて行つた。暫くすると、後(あと)から追ひかけて來る者があるやうなので、驚いた修驗者は、一生懸命になつて逃げ出したけれども、今の濁りが淵のところまで來ると、岩が川中(かわなか)へ突き出してゐるので、いよいよ絕體絕命、途方(とはう)に暮れてゐるところへ、早くも追ひ着いたのは桑野の長者であつた。『おのれツ。』と言ひさま、迫ひかゝりざまに斬り下げた一太刀は、うまく、修驗者を眞(まつ)二つにしてしまつて、まんまと、例の黃金の盃を奪ひ取る事が出來た。死體は、淀みがちな淵の中へ投げ込み、黃金の盃ばかりを懷中(ふところ)にして歸つては來たものゝ、肝心の黄金の鷄を呼び出す呪文を盜み取ることを忘れてゐたので、たゞ黄金の盃の酒を吹くだけでは、到底、黄金の鷄を呼び出すことは出來なかった。長者は、いまいましいので、『鷄出ろ。』『黃金の鷄さん出て下さい。』『これ、おでなさい、鷄さん。』『出て來(こ)よ、黃金の鷄。』『黃金の鷄現はれ出でよ。』などと、種々(いろいろ)にしてやってみたけれども、咒文は、全く違う文句であつたと見えて、どうしても言ふことを聞かなかつた。で、長者も、もてあまし、終(しまひ)には、庭先目がけて投(ほふ)り出したりなどしたけれど、そんな事をいくらしたって、黃禁の鷄を出す手段(てだて)にはならなかった。で、今(いま)桑野村の某家(ぼうけ)に傳はつて來た黃金の盃は、其(その)家の先祖が、桑野の長者から、やけの餘りに讓り受けたものものだといふ事だ。【黃金の鷄は、六部を殺した時逃げ去り傳へられたのは蚊帳ばかりであつたともいふ。】

 其後(そのご)、桑野の長者は、修驗者が殺された何回忌かに、修驗者の怨みで、修驗者の死體を投げ入れた濁りが淵に、ふらふらと迷つて來て、投身して果てたとも言ひ傳へられてゐる。

 濁りが淵の、今のやうに濁り出したのは、全く、桑野の長者が、修驗者を殺した日からの事で、以前は、桑野川の上流下流のやうに、透き通つた奇麗(きれい)な水であつたといふことである。(口碑)【六部を切つた長者の家は、今に蒸した餅を搗かない。搗けば必ず餅の中に血が混るので、其家では其代りにひき餅を用ゐてゐる。】

   *

「那賀郡桑野村」現在の徳島県阿南市桑野町(ちょう)内。北部を桑野川が南北に貫流する。全国的に見られる異人(まれびと)である「六部殺し」型で(当該ウィキを参照されたい)、餅搗きの禁忌(血染めの餅)もポピュラーな汎伝承である(小学館「日本大百科全書」の「餅なし正月」を引く。『家例として正月用の餅を搗』『かず、または餅を食べないという禁忌。餅精進』『ともいう。特定の家や一族で守られており、もし餅を搗くと血が混じるなどという。先祖が戦』さ『に負けて落ち延びてきたのが大晦日』『で、餅を搗く暇がなかったなどの由来譚』『を伴う。日本の農業は弥生』『時代から稲作を取り入れ、米を主食とする方向に進み、また儀礼食としては餅を重視してきたが、稲作以前の形態も一部に根強く残っていた。焼畑耕作による雑穀や』、『いもの利用である。雑煮』『にしてもサトイモを重視する例がある。正月には餅を用いることが一般化したため、古風を守っている家々が例外視されるようになったのである。』とある)。

「言ぬ」「いはぬ」。

「組で」「くんで」。

「雞」「にはとり」。一応、「鷄」の正字。

「栖る」「とまる」。

「曉」「選集」では『あけ』と振る。

「紿き」「あざむき」。

「出立せ」「いでたたせ」。

「待伏て」「まちぶせて」。

「先立て」「さきだちて」。

「咀ふ」「のろふ」。「詛」の異体字。

「比丘尼剝」「びくにはぎ」。

「家每」「いへごと」。

「早死」「選集」では『わかじに』と振る。

「小祠」同前で『ほこら』。

「齋込た」「選集」では『斎(いわ)に込めた』とする。

「頓と」「とんと」。

「想ぢや」「さうじや」。当て字。

「斗り」「ばかり」。

「東牟婁郡高池町」現在の和歌山県東牟婁郡古座川町(こざがわちょう)高池(たかいけ)。

「一枚岩」国指定天然記念物「古座川の一枚岩」。古座川町の古座川左岸にある、高さ約百五十メートル・幅約八百メートルの一枚の巨岩。当該ウィキによれば、『一枚の岩盤としては佐渡島の大野亀』(高さ約百六十七メートル)『や屋久島の千尋の滝』(高さ約二百メートル、幅約四百メートル)『などとともに日本最大級とされる』ものである。ここ。そのサイド・パネルや引用元に写真がある。

「眞砂と云ふ所」同町のここ(古座川の上流)。

「男子」「選集」には『おのこ』と振る。歴史的仮名遣は「をのこ」。

「由ぬ」「よらぬ」。

「仕向」「しむけ」。も度々有つた事と思ふ。

「第一卷一二一頁に出せる熊野詣りの手毬唄」本篇「一」のこと。甚だ腑に落ちる。

「詣る」「まゐる」。

「引込み」「ひきこみ」。

「體」「てい」。

「明治八年」一八七五年。

「裁縫匠」「選集」に『したてや』と振る。

「角力」「すまふ」。

「往合せ」「ゆきあはせ」。

「死だ事も有た」「しんだこともあつた」。この書き方だと、その熊楠(当時なら満八歳頃)も知る仕立て屋が殺害されたということで、ちょっと読みながらそのリアルさと近代であることから、聊かドキッとした。

『西鶴の本朝二十不孝卷二「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋」の一章』国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系」第三巻(昭和四(一九二九)年国民図書刊)のここから視認出来る。

「據ろ」「よんどころ」。実際に起こった事件が素材であうということ。

「單獨」「選集」は『ひとり』とルビする。

「祕戲を弄し居たる」自慰行為をすることを言っている。

「驟雨」同前で『ゆうだち』。歴史的仮名遣では「ゆふだち」。

「兒童」同前で『こども』。

「叫聲」同前で『叫び声』。

「角先生(ガウデ・ミヒ)」「つのせんせい」と訓じておく。古く本邦では「張形」(はりかた・はりがた)或いは「こけし」などと言ったそれで、勃起した男性器を擬したそれ。世界的には紀元前より存在した。「角先生」は中国語。中文の「Baidu百科」のこちらに写真入りであり、少なくとも明末清初には「明角先生」と呼ばれて知られていたとある。また、別称として熊楠の引く経典に出る「生支」も出ている。現代では英語の“Dildo”(ディルド)の名で知られるが、「ガウデ・ミヒ」は如何にもドイツ語ぽい。私はドイツ語が分からぬが、所持する辞書をつまびらくに、“Gaudi Mich”(ガオディ・ミッヒ)ではないか? “Gaudi”は“Gaudium”で「冗談・楽しみ」、“mich”は「私を」である。「私を楽しませるもの」で腑に落ちるのだが。

「主婦」同前で『おえはん』と振る。関西方言で「大奥様・女主人」を指す語である。

「穿り」「はけり」。

「唐の義淨」(ぎじやう)「譯」の「根本說一切有部苾芻尼毘奈耶」(現代仮名遣:こんぽんせついっさいうぶびなや)の引用部は、のっけから、漢字表記に不審があったので、底本ではなく、「大蔵経データベース」のものを用いた。同経典は全五十巻。初唐の長安三(七〇三)年、義浄(六三五年~七一三年:法顕・玄奘の風を慕い、六七一年に広州から、海路でインドに渡り、ナーランダ(那爛陀)寺で仏教の奥義を究め、各地を遊歴の後、六九五年に梵本四百部を持って洛陽に帰還、「三蔵」の号を受けた)によって漢訳された部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に教訓物語を挿入した大部な経典である。「選集」の訓読を参考にしつつ、訓読を試みる。

   *

 吐羅難陀苾芻尼(とらなんだびしゆに)、行(ぎやう)して乞食(こつじき)せるに因りて、長者が家に往き、其の妻に告げて曰はく、

「無病にして長壽たれ。」

と。

 夫(をつと)の在らざるを知り、問ひて曰はく、

「賢首(おくがた)よ、夫、既に在(あ)らず。何(いか)にして存-濟(くら)すや。」

と。

 彼、便(すなは)ち、羞恥し、默して答へず。

 尼、乃(すなは)ち、低頭(ていとう)して出で、王宮の内に至りて、勝鬘(しやうまん)が妃に告げて曰はく、

「無痛にして長壽たれ。」

と。復(ま)た、相ひ慰問して、竊(ひそか)に妃に語りて曰はく、

「王、出でて遠く行く。如何にして意(おもひ)を適(かな)へしや。」

と。

 妃、言はく、

「聖者は、既に、是れ、出家なり。何ぞ俗法を論ぜんや。」

と。

 尼曰はく、

「貴(そなた)の勝(まうけ)は自在たり。少-年(わか)くして、偶(つれあひ)なく、實(げ)に日を度(わた)り難し。我れ、甚だ憂いと爲す。」

と。

 妃曰はく、

「聖者よ、若(も)し、王、在らざれば、我れは樹膠(じゆこう)[やぶちゃん注:樹脂。]を取り、かの巧人(さいくにん)をして生支(せいし)を作らしめ、用ひて、以つて、意(おもひ)を暢(のびのび)せし。」

と。

 尼、是の語を聞きて、便ち、巧-匠(たくみ)の妻の所へ往き、報(つ)げて曰はく、

「我が爲に、樹の膠を以つて一つの生支を作れ。勝鬘天人(しやうまんてんにん)の造り與へたる者と相ひ似るがごとく。」

と。

 其の巧匠の妻、報(こた)へて曰はく、

「聖者は出家の人なり。何ぞ斯かる物を用ひん。」

と。

 尼曰はく、

「我れ、須(もち)ふる所、有り。」

と。

 妻曰はく、

「若(も)し、爾(しか)らば、我れ當に作らしむべし。」

と。

 卽ち、夫に、

「一つの生支を作るべし。」

と告ぐ。

 夫、曰はく、

「豈に我れにては足らず、更に、復た、之れを求むるか」。

と。

 妻曰く、

「我れに、知識のもの有り、故(ことさら)に來たりて、相ひ憑(たの)めり。我れの自ら須(もち)ふにあらず。」

と。

 匠は作りて、妻に與へ、妻は、便ち、尼に付(わた)せり。

 時に吐羅難陀は、飯食、既に了(をは)り、便ち、内房に入り、卽ち、樹膠の生支を以つて脚の跟(かかと)の上に繫ぎ、身中に内(い)れ、慾樂を受けて、此れに因つて睡眠せり。

 時に、尼の寺の中(うち)に、忽然として、火、起こり、大喧聲、有り。

 尼、便ち、驚起(きやうき)し、生支を解(と)くを忘れ、房より、出づ。

 衆人、見、時に、大きに譏笑(きしやう)を生(しやう)ず。

 時に、諸(もろもろ)の小兒(こども)、見て、唱(はや)して言ふ、

「聖(ひじり)よ、脚の上にあるは何物なりや。」

と。

 尼、斯かる言を聞きて、極めて羞恥を生ず。

   *

熊楠はカットしているが、以上の直後に「作男根形」の文字列もはっきり出ている。因みに、上田天瑞氏の論文「有部律について―特に密教との關係―」(『密教研究』千九百三十二巻所収。サイト「123deta」のここでダウン・ロード可能)の十五ページに、「有部毘奈耶雑事」三十三巻に『吐羅難陀尼が能く警巫をなし鈴をふつて人家に至り男女の身體を洗浴して吉凶禍福を談じ病のあるものはこれによつて癒えた、この爲に人々は彼の尼を信じ専門の巫卜の人 が利養を失つたことを說いてをる。』とあった。なかなかいろんな意味でお盛んな尼さんだったわけだな。

「波逸底迦罪犯」「選集」は『フアーツチツチアざいはん』と振る。「波逸底迦」は「はいつていか」で「波逸提」(はいつだい)とも呼び、サンスクリット語「プラーヤシュチッティカ」の漢音写。これは仏教の出家者(比丘・比丘尼)に課される戒律(具足戒)の中の日常に諸々の禁戒の総称。比丘には九十二条が、比丘尼には百六十六条が課される。それを破戒した罪として指弾されたというのである。]

2022/06/28

「南方隨筆」底本正字化版「紀州俗傳」パート 「二」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

      二、

 〇小兒の陰腫を蚯蚓の所爲とし、火吹竹を逆まにして吹き、また蚯蚓一匹掘出し、水にて洗ひ淸めて放つときは治ると云ふ。

[やぶちゃん注:「陰腫」「いんしゆ」。陰茎が腫れること。不潔な場所で立小便してはいかんということで亡き母もよく言われた。今、考えれば、これもフレーザーの言う類感呪術であろう。太いミミズは炎症を起こしたそれにミミクリーする。

「所爲」「選集」は『しわざ』と振る。]

 ○見た者烏といふ諺あり。烏の如く欲き物を斟酌なく進んで取る事を云ふ。日高郡由良浦の人言ふ、烏が食物を獲て、雲を目標に其下に置て、後に食を求めに往き、還つて前の食物を求めると、雲が動き去て、その食物を失ふて仕舞ふと。

[やぶちゃん注:「見た者烏」「みたものか(が)らす」だろうが、こんな話は私は聴いたことがない。カラスは賢い。こんなことはあるまいよ。

「欲き」「ほしき」。

「日高郡由良浦」

「獲て」「えて」或いは「とりて」「とつて」。

「置て」「おきて」或いは「おいて」。

「去て」「さりて」或いは「さつて」。]

 〇田邊あたりで、人死して四十九日目に餅つく、其音を聞て、死人の靈魂が、家の棟の上を離れ去る。この餠を寺え供え、鹽を付けて食うふ故に、鹽と餅と竝べ置くを忌む(昨年八月人類學雜誌予の鹽に關する迷信參照)。

[やぶちゃん注:「昨年八月人類學雜誌予の鹽に關する迷信」先行する「俗傳」パート内の『「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「鹽に關する迷信」』。]

 〇同じく田邊あたりの諺に、栗一つに瘡八十と云ふ。黴毒その他の腫物に、栗の毒甚しきをいふ。南瓜、蓮實亦「あせぼ」等の腫物に惡しと云ふ。

[やぶちゃん注:「瘡」「かさ」。

「黴毒」「ばいどく」。梅毒。

「腫物」「しゆもつ」。劇症型の重い腫れ物。

「南瓜」「かぼちや」。「選集」は『とうなす』と振る。恐らくはフレーザーの言う類感呪術で、保存したカボチャの表面は、ひどい「あせぼ」(汗疹(あせも))のそれに似ている。

「蓮實」「はすのみ」。これもフレーザーの言う類感呪術で、ハスの花托(かたく)の蜂の巣状に実がある、その様のミミクリーである。]

 〇田邊で齒痛を病む者、法輪寺と云ふ禪寺の入口の六地藏の石像に願を立て、其前へ豆を埋め置くと、豆が芽を出さぬ内は齒が痛まぬ。因て芽が決して出ぬ樣に、炒豆を埋め立願する、丸で詐欺其儘な立願だ。

[やぶちゃん注:「法輪寺」和歌山県田辺市新屋敷町にある曹洞宗撃鼓山(ぎゃっくざん)法輪寺。六地蔵は現存する。同寺公式ブログ「法輪寺山内のつれづれ」の「お地蔵さんのよだれかけ」を参照されたい。地図のサイド・パネルの寺の説明版にも熊楠のことが記されてある。なお、同寺の本尊は観世音菩薩で、その脇仏の一つも地蔵菩薩である(公式サイトのこちらを見られたい。なお、次の条の和歌山藩重臣牧野兵庫頭の墓(五輪塔・田辺市重要文化財の写真もあるので見られたい)。]

 〇此法輪寺の墓地の棟樹の下に、牧野兵庫頭の墓有り、銘字磨滅して殆ど讀み得ぬ。賴宣卿の時此人一萬五千石を領す。彼卿の母方三浦が米で一萬石を稟け、今川家以來の舊家久能が伊勢の田丸城主として一萬石領せしに比べては、中々の大分限だつた。帝國書院刊行「鹽尻」卷四三に、紀公に寵用され、男と成ても權勢有し者が、牧野兵庫男色より出頭して其右に出るを不快で、公に最期の盃を請ひ、高野に隱れた話を載せ居る。依て考ると、兵庫は男寵より出頭して、破格の大身と成たらしい。然るに大科に付き慶安四年新宮へ預けられ、承應元年四月田邊え移され、十一月十日病死、月霜院殿圓空寂心大居士と號す(田邊町役場古記錄と、法輪寺精靈過去帳を參取す)。所謂大科とは、賴宣卿由井正雪の亂の謀主たりし嫌疑を、兵庫頭が一身に引受たのだと云ふ。其時賴宣卿謀主たりと評判有りし事は、常山紀談等にも屢々見え、執政が賴宣卿を詰る面前で、罪を身に受て自害し果てた侍臣のことも世に傳え居れり。一六六五年ローマ出板、フィリツポデマリニの「東京及日本史譚篇」卷一、十五頁にも、明曆の大火は、家光薨後二年固く喪を祕し有りしに、家綱の叔父亂を作ん迚作したとも、天主敎徒が付たとも、西國で風評盛んだつたと載て居る。この叔父とは多分賴宣卿で、家光在世の時より每も疑はれて居たから、正雪亂の砌も重き疑を受け、牧野氏が其咎を身に蒙りて幽死した者と見える。予の知れる絲川恒太夫とて、七十餘歲の老人、先祖が兵庫頭に出入りだつた緣に依て、代々件の墓を掃除する、他人が掃除すると忽ち祟つたと云ふ。昔より今に至て土の餅を二つ、恰も檐で荷ふ體に串の兩端に貫き、種々雜多の病氣を祈願して、平癒の禮に餅一荷と稱して捧ぐるのが、墓邊に轉り居る。察する所ろ、兵庫頭は生存中至つて餅を好たので、此樣な事が起つたのだらう。去年二百六十年忌に、子孫とても無き人の事、殊に才色を以て英主に遭遇し大祿を食だ人の忠義の爲に知らぬ地に幽死し、家斷絕して土の餅しか供ふる者無きを傷み、寺の住持と相談して、形許りの追善を營んだ。

[やぶちゃん注:「棟樹」「せんだんのき」。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。「栴檀」とも書くが、香木のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album とは全くの別種である。

「牧野兵庫頭」牧野兵庫頭長虎。下総国関宿藩初代藩主牧野信成(のぶしげ (天正六(一五七八)年~慶安三(一六五〇)年)の弟山成(たかしげ)の子孫で、初代山成の時、越前松平家から紀州徳川家に転属し、紀州藩の初期の家老として重きを成した。

「賴宣卿」徳川家康の十男徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)。当該ウィキによれば、「慶安の変」の際、『由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため、幕閣(特に松平信綱・中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ』、実に十年もの間、紀州へ帰国出来なかった。また、『同時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また、将軍家光の叔父で頼宣の兄である尾張藩主徳川義直が死去し、格上の将軍家綱が幼少であることから』、彼が『徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格』も災いして、『幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。その後』、「慶安の変」に『絡む疑いは晴れて無事帰国し』ている。その『疑惑が出た際、幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があれば』、『ただちに捕らえるつもりで』、『屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書』を『前に正雪との関係を詰問したが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした』。『外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度』、『騒乱を迎え、当該大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけがないだろう』、『という意味である』とある。

「彼卿の母方三浦」頼宣の母の実父は正木頼忠で、実兄は紀州藩家老の三浦為春。彼は慶長八(一六〇三)年に妹於万が産んだ家康の子長福丸(後の頼宣)の傅役(もりやく)となっている。

「稟け」「うけ」。

「今川家以來の舊家久能が伊勢の田丸城主として一萬石領せし」紀州藩田丸城代家老久野家初代当主久野宗成(くのむねなり 天正一〇(一五八二)年~寛永二(一六二五)年)の祖父は、元、今川氏真家臣で徳川家康に仕えた久野宗能であった。熊楠は、この祖父の名の「能」を「野」と誤って表記したものかと思われる。遠江久野城城主であった付家老久野宗成は、当時、駿府藩主であった徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封の際にもそのまま付随となり、紀州へ移った。頼宣はこの宗成に一万石を与え、田丸城城主として田丸領六万石を領させた。久野氏は家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。久野氏はその後、八代続いて、明治維新に至っている。

『帝國書院刊行「鹽尻」卷四三に、紀公に寵用され、男と成ても權勢有し者が、牧野兵庫男色より出頭して其右に出るを不快で、公に最期の盃を請ひ、高野に隱れた話を載せ居る』「鹽尻」は江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該原本が国立国会図書館デジタルコレクションで視認でき、その目次では「紀公に寵せられし少年」がそれ。ここの左ページ上段中央から。なかなか、いい話である。

「男寵」「だんちやう」。頼宣から男色の相手として寵愛されたこと。

「出頭」「しゆつとう」。頭角を現わすこと。

「大科」「おほとが」。

「慶安四年」一六五一年。この年の七月に兵学者由井正雪の幕府顛覆計画が発覚、正雪は駿府で二十六日早朝、自決した(「慶安の変」)。

「新宮」「しんぐう」。熊楠が単にこう書く以上は熊野新宮であろう。

「承應元年」一六五二年。

「常山紀談」江戸中期の湯浅常山の随筆・史書。正編二十五巻・拾遺四巻、付録に「雨夜灯(あまよのともしび)」一巻がある。。元文四(一七三九)年の自序があるので、原型はその頃に成ったものと思われるが、刊行は著者没後三十年ほど後の文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)であった。戦国から江戸初頭の武士の逸話や言行七百余を、諸書から任意に抄出して集大成したもの。内容は極めて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や、平明簡潔な文章と相俟って多くの読者を集めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。私も岩波文庫で愛読している。当該部は巻之十八の「由井正雪反逆の時賴宣卿出仕の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年有朋堂刊のこちらで読める。

「執政」幕府の老中。

「詰る」「なじる」。

「受て」「うけて」。

『一六六五年ローマ出板、フイリツポデマリニの「東京及日本史譚篇」』「東京及日本史譚篇」には「選集」では、『ヒストリア・エト・レラチオネ・デル・ツンキノ・エ・デル・ジヤポネ』とルビする。「日文研図書館」内の「日本関係欧文史料の世界」のこちらによれば(原本画像有り)、ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・マリーニ(Giovanni Filipo de Marini 一六〇八~一六八二年)はジェノヴァ出身のイエズス会士で、一六四七年から一六五八年までトンキンの布教に従事し、『その後、日本管区代表プロクラドール(ヨーロッパ各地において聖俗界の権力と交渉し、布教に必要な人的・経済的支援を獲得する職務)に就任し、マカオからローマに派遣され』た。そして、『このプロクラドール就任中の』一六六三年、『マリーニはアレクサンドル』Ⅶ『世への献呈もかねて』「トンキンを中心とするイエズス会日本管区布教史」(原題(イタリア語):Historia et relatione del Tunchino e del Giappone )を『ローマで執筆・刊行し』たとあるのがそれで、『管区の現況を扱う本書冒頭の約』三十『ページに』亙って『日本関係の記述が認められ、そこでは、日本におけるキリシタン迫害、アントニオ・ルビノ一行のフィリピン経由による日本渡航と殉教、長崎におけるオランダ人の交易、シャム在住日本人による日本情勢に関する証言などが見られ』、『また』同書の『扉には、日本管区各地域の人々がキリストの光背に照らされている様子を描いた図像が掲載されてい』るとある(画像有り)。

「明曆の大火」明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)まで、江戸の大半を焼いた大火災。延焼面積・死者ともに、江戸時代最大であることから、「江戸三大大火」の筆頭とされる。火元の出火の原因は不明であるが、 当時、実際に由比正雪の残党による放火の噂もあった。

「家光薨後二年」家光は慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)に四十八歳で没した。脳卒中と推定されている。

「作ん迚作した」「なさんとて、なした」。

「付た」「つけた」。

「每も」「いつも」。

「砌」「みぎり」。

「幽死」幽閉されて死ぬこと。

「絲川恒太夫」詳細事績は不明だが、『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』に既出。因みに、それを、かの文豪泉鏡花が遺稿の中で記している

「去年二百六十年忌」これは大正五(一九一六)年の記事であるから、一六五六年で、明暦二年に牧野長虎は亡くなっていることが判る。

「食だ」「はんだ」。]

 〇西牟婁郡五村、又東牟婁郡那智村湯川の獵師に聞たは、獵犬の耳赤きは、山姥を殺し、其血を自ら耳に塗て、後日の證とした犬の子孫として貴ばると。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡五村」(ごむら)は、現在の有田川町の中部、有田川の支流・四村川の流域、和歌山県道百八十一号下湯川金屋線の沿線に当たる。ここ

「東牟婁郡那智村湯川」(ゆかは)は現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町湯川(ゆかわ)。

「山姥」「やまうば」。「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「貴ばる」「たふとばる」。]

 〇閾の上踏む罪、親の頭を踏むに同じ、と紀州到る處で言ふ。

[やぶちゃん注:いろいろな説があるが、居住空間としての結界説や、家が主人及び先祖を象徴するという説は、いかにも自然で腑に落ちる(畳の縁と同じ忍者攻撃予防説もお盛んだが私としては退場して貰いたい)が、それよりも、私は縄文(前期以降)の竪穴式住居遺跡の入り口の地下から出産時の胞衣(えな)・臍の緒を入れたと推定される甕や、妊娠した婦人をモチーフとした絵を表面に描いたと思しい甕(その場合、逆さまに埋めてある)出土している事実に思い致す。これは、例えば、「山梨県」公式サイト内の埋蔵文化の用語「埋甕(うめがめ)」及びウィキの「埋甕」で確認出来るが、何よりも「東洋英和女学院大学学術リポジトリ」の古川のり子氏の論文「子どもの魂と再生 ――神話・儀礼・昔話から――」(『死生学年報』巻十七・二〇二一年三月発行・PDFダウン・ロード可能)が新しく詳しいので、是非、読まれたい。その古川氏の論考の中に、この『胎児を包んでいた胞衣を家の出入り口の敷居の下やその付近、あるいは床下などに埋める習俗は』(歴史時代に入ってから近代まで)、『北海道から沖縄まで日本各地で広く行われていた』。『近世初期の武家産式書や女性向けの礼式書・便利書などにも、武家や庶民が胞衣を桶などに入れて敷居下、床下などに埋めたことが記されている』とされ、この意味については、『各地の言い伝えでは、多くの人に踏まれると生まれた子が丈夫に育つ、胞衣の上を最初に通ったものをその子は生涯恐れるので父親に踏ませる、男の子なら筆と墨、女の子なら針と糸などを一緒に埋めて技術の上達を願うなどという』とあり、そして、『胞衣を埋める場所は、便所の出入り口やその付近、家畜小屋、屋敷や庭の隅なども多いが、家の出入り口、床下とするものがもっとも多い。家の出入り口へ埋設することは、縄文時代の埋甕が竪穴住居内の出入り口に埋められたことと一致する』。『竪穴式住居のような古来の地床式の住居だけでなく』、『高床式の住居が普及していくにつれて、胞衣を「床下」に埋めるやり方も増えていったのだろう。縄文時代の埋甕が埋設された家の出入り口が、大地母神の胎内へ通じる入り口であったとすれば、床下もやはり、地下世界と床上の人間世界との中間点であり、大地の母の国に接する出入り口として相応しい位置である』と述べておられる。私は、敷居の下が、大地母神の胎内や死者の行く異界へと通ずるトンネルであったとする見解に激しく同意する。さればこそ、この「敷居を踏んではならない」という禁忌は真に民俗社会的な意味に於いて完全に納得出来るからである。]

 〇婦女卵の殼を踏まば、白血長血を煩ふと田邊で言ふ。

[やぶちゃん注:「婦女」「をんな、」。

「白血」「しらち」。「こしけ」のこと。女性生殖器からの血液を含まない分泌物(広く「おりもの」(下り物)と呼称する)。「帯下(たいげ)」とも言う。

「長血」「ながち」。子宮から血の混じった「おりもの」が、長期間に亙って出ること。赤帯下(しゃくたいげ)とも呼ぶ。]

 〇同地で白花の紫雲英を袂に入置ば狐に魅されずと言ひ、小兒野に草を摘む時、吾れ一と之れを覓む。

[やぶちゃん注:「紫雲英」「げんげ」。「選集」は『れんげばな』と振る(前の「白花」とあるのだから、「れんげさう」ならまだしも、屋上屋で私はとらない)。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。花の色は、普通、紅紫色であるが、稀に白色(クリーム色)の株もあり、さればこそ、この「吾れ一と之れを覓」(もと)「む」という謂いが腑に落ちる。読者の中には、マメ目マメ科シャジクソウ属 Trifolium亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repensの花を想起してしまった人もあろうが、あれば、普通に白いのだから、呪力はないのである(ゲンゲは中国原産。シロツメクサ(クローバー)はヨーロッパ原産。江戸時代にオランダからの献上品が送られてきた際、緩衝材として本種の草体が使用されていたことから「白詰め草」と和名がついた。後、明治になって家畜飼料として盛んに輸入され、帰化し、全国に広まった。花期でない時のゲンゲとの識別は葉の中央に白い曲線が入っているのがシロツメクサである。また、ゲンゲは比較すると花弁の数が有意に少ない)。……ああ、私の好きな「げんげ」の花……長いこと、「げんげ畑」を見ていないなぁ……

「入置ば」「いれおけば」。

「魅」「み」。魅入られる。悪さ(化かすこと)をされる。]

 〇田邊付近稻成村等で、井え落ちた子は雪隱えも落る癖付くと云傳ふ。又雪隱え落た子は、必ず名を替る。

[やぶちゃん注:「稻成村」「いなりむら」。現在の和歌山県田辺市稲成町(いなりちょう)。

「井」戸と「雪隱」(せつちん)は民俗社会では、やはり、冥界への通路である。魔(死)に魅入られた者ということであり、さればこそ、名を替えて言上(ことあ)げされることを避けるわけであろう。]

 〇東西牟婁郡に跨れる大塔峯は、海拔三八七〇呎、和歌山縣で最も高き山と云る。所の者傳ふるは、此山に大塔宮隱れ御座せし時、山より流れ出る川下の住民が、水邊に燈心草生えたるを見、これは泔汁の流るゝ所にのみ生ず、川上に必ず人有るべしとて、宮を搜し出しに懸つた故、宮は他所え落延給ふと。

[やぶちゃん注:「大塔峯」(おほたふざん(おおとうざん))は和歌山県田辺市と古座川町の境界にある標高千百二十一・九メートル(国土地理院図の数値)の紀伊半島南部の中心的な山である。ここ

「海拔三八七〇呎」(フィート)千百七十九・五七メートルでサバ読み過ぎ。「ひなたGPS」の戦前に地図でも千百二十八・八メートルである。

「和歌山縣で最も高き山と云」(いへ)「る」誤り。永く和歌山県最高峰とされてきたのは、ずっと北北西の護摩壇山(千三百七十二メートル。「ひなたGPS」の戦前のそれでも千三百七十メートルとある)であった。但し、ここは奈良県十津川村と和歌山県田辺市との境界上にピークがあった点で、ちょっと問題があった。しかし二〇〇〇年、この護摩壇山の東方約七百メートル地点の標高が千三百八十二メートルであることが、国土地理院の測量により判明し、ここ「龍神岳」(ここはピークが和歌山側で間違いない)が和歌山県最高峰に変更されている(「国土地理院図」のここを参照されたい)。孰れにせよ、この護摩壇山から龍神岳の附近が和歌山県の最高標高地域であったことは、戦前よりの事実であったから、この熊楠に謂いは当たらないのである。

「大塔宮」(延慶元(一三〇八)年~建武二年七月二十三日(一三三五年八月十二日))は後醍醐天皇第一皇子護良(もりなが/もりよし)親王のこと。通称を「大塔宮」(正式には「おほたうのみや(おおとうのみや)」で、俗に「だいたうのみや(だいとうのみや)」とも呼ぶ)。落飾して「尊雲」と称して天台座主となったが、「元弘の乱」で、還俗、護良と名乗って父帝に協力し、討幕運動の中心人物となったが、中興政府では父帝と相容れず、建武元(一三三四)年には鎌倉に幽閉され、翌年の「中先代(なかせんだい)の乱」(北条高時の遺児時行が御内人の諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した事件)に乗じて、足利直義に首を斬られて殺された。さて、弘元(一三三一)年八月、「元弘の乱」は事前に計画が漏洩し、先手を打った鎌倉幕府軍が比叡山を攻め、護良は楠正成の赤坂城(現在の大阪府千早赤阪村)へと逃れる。しかし同十月に赤阪城は落城、父帝の笠置山も陥落して隠岐に配流となる。そこで、護良は熊野を目指して逃れた。これは「太平記気」にも記されてある。而して、この紀伊半島潜行の伝承の一つが、これである。ただ、こうした逃避行伝説は義経のそれと同じく、必ずしも事実として無批判に信ずるわけにはいかない。そこで、調べてみたところ、元「生石高原の麓の住人」氏のブログ「生石高原の麓から」の「大塔村と大塔宮護良親王」に、「社団法人日本土木工業協会」(現在は他団体と合併して「一般社団法人日本建設業連合会」)関西支部の広報誌『しびる』第十八巻(二〇〇一年発行)」の特集「大塔村 水呑峠」にある、南方熊楠も目を見張るであろう興味深い記事(「餅つかぬ里」等)が引用されているのを見つけた。長いので、そちらを読まれたいが、そこで引用元の筆者は、この熊野潜行には、当然に如く、所謂、彼の「影」を演じた者がいたはずであるとしている。これは当然、承服出来る。それが、紀伊半島の嶮しい山岳地帯に広範に、同時に目撃されて報告されたとすれば、追手が非常な困難を受け、本当の親王が受けるリスクは低減されるからである。この大塔山の名前由来の伝承もそうした中で考察すると、非常に面白い。

「御座せし」「おわせし」。

「流れ出る」「ながれいづる」。

「燈心草生えたる」「選集」では「燈心草」に『ほそい』を、「生」に『は』と振る。単に「燈心草」(とうしんさう)ならば、単子葉植物綱イネ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus decipiens を指すが(藺草(ゐぐさ))、この「ほそい」だと、イグサに姿が似た同属の別種で、分布もイグサより遙かに限定的なイグサ属ホソイ Juncus setchuensis var. effusoides (細藺(ほそゐ))を指す。珍しいことが目についた理由と考えれば、これはイグサではなく、ホソイであったととって初めて腑に落ちる。

「泔汁」「しろみづ」。「泔(ゆする)」。「泔」は昔、「頭髪を洗い、梳ること」を指した語で、また、それに用いる湯水のことも言った。そして古くはそれに「米のとぎ汁」などが用いられたのである。

「生ず」「しやうず」。

「他所」「よそ」

「落延給ふ」「おちのびたまふ」。]

 〇田邊附近で、鵁鶄の嫁入と云ふは、此鳥醜き故、夜嫁入りて曉に歸る、嫁入て直還さるゝを鵁鶄の嫁入で還されたと云ふ。

[やぶちゃん注:「鵁鶄の嫁入」「ごゐのよめいり」。「鵁鶄」は「五位」でペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax のこと。博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を参照されたい。

「直」「ただちに」。]

 〇稻成村より來たりし下女曰く、蚤を精細に捕る人は多く蚤に咬れ取らぬ人は蚤に咬れずと、村人一汎に信ずとて、此下女一向蚤を取らず。

[やぶちゃん注:「稻成村」三条前で既注。]

 〇夜爪切れば父母の死目に逢ず、但し七種の日(正月七日)爪切たる者は、夜切るも難無しと、田邊等で云ふ。

[やぶちゃん注:「夜爪切れば父母の死目に逢」(あへ)「ず」古くから言われ、亡き母もよく言っていた。嘗つては灯火の油は貴重で、普通は極力、灯さなかったから、手元が狂って指を切ることを憚ったのが実際の理由であろう。爪自体、それを焼くと火葬の臭いと通じた(皮膚の変形物であるから当然と言えば当然)ことも関連するか。

「七種」(ななくさ)「の日(正月七日)爪切たる者は、夜切るも難無し」昔からよくお世話になっているサイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「七草爪・七種爪」が異様に詳しい。この日は、『「七草爪(ななくさづめ)(七種爪)」または「菜爪(なつめ)」「七日爪(なのかづめ)」などといって初めて爪を切る日でもあり』、『この日に爪を切ると、邪気を払うことが出来て、一年間』、『風邪を引いたり』、『病気になったりしないとされ』とあり、また、「支那民俗誌」(昭和一五(一九四〇)年に永尾龍造が著した日本人による中国民俗研究書)第二巻二三八頁に『次のようにあると、東洋文庫「荊楚歳時記(けいそさいじき)」の「人日」』(じんじつ:七草の日の正式な五節句の名称)『の項の注釈に書かれてい』るとして、『七草のとき、七草を切って「唐土の鳥の渡らぬ先に」と歌いながらトントン調子を取りながら打つという。その鳥は鬼車鳥(きしゃちょう)(「きしゃどり」とも)という鳥で「ふくろう」の属である。この鳥が人家に入ると凶事があるし、人の爪を好むから、人々はこの夜、爪を切って庭の地面に埋める。この鳥が鳴くと凶事の前兆である』とあって『この鬼車鳥の言い伝えが、「夜爪を切るな」という俗信の根拠の一つにもなっているとも言われ』るとあった。しかし、この田辺の伝承は汎用万能で、この日に切れば、一年中、夜の爪切りもOKという、ちょっと禁忌例外としては都合が良過ぎる感じはする。]

 〇又子より親に傳へた感冒は重く、親が子に傳へたのは輕いといふ。

[やぶちゃん注:「感冒」「かぜ」。以上は孝心の教訓に基づくものと考えてよい。]

 〇又姙婦が、高い處に在る物取んとて手を伸すと、盜兒を生むと云ふ。

[やぶちゃん注:「取ん」「とらん」。

「伸す」「のばす」。

「盜兒」「選集」は『ぬすみご』と振る。「偸児・盗児」で「とうじ」と読み、「広辞苑」に『他人の持ちものをぬすみとる者。ぬすびと。泥棒。』とある。この場合の「児」は半人前の若者の卑称の添え辞であろう。]

 〇西牟婁郡新庄村大字鳥巢の邊では、刀豆を旅行出立の祝ひに膳に供える。刀豆の花は先づ本より末へ向て咲き、次に復び末より本へ咲き下る。本え還るといふ意味で、祝ふのださうな。

[やぶちゃん注:「新庄」(しんじやう)「村大字鳥巢」(とりのす)南方熊楠が守った無人島神島(かしま)のある、現在の田辺市新庄町の鳥巢半島一帯の旧村名。「ひなたGPS」のこちらで、半島に「鳥巣」という村名が確認出来る。

「刀豆」「なたまめ」。マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiata 。現行では福神漬に用いられることで知られる。但し、当該ウィキによれば、食用品種でないものには『サポニン・青酸配糖体・有毒性アミノ酸のコンカナバリンAやカナバリンなどの毒素が含まれている』ので食べることは出来ない、とあるので、注意が必要。

「旅行出立」「選集」では四字に対して『たびだち』と振る。

「本より末へ向て」「もとより、すゑへ向つて」。

「復び」「ふたたび」。

「下る」「くだる」。

「本え還る」「もとへかへる」。]

 〇田邊で黑き猫を腹に載れば、癪を治すと云ふ。明和頃出板?壺堇と云ふ小說に、鬱症の者が黑猫を畜ふと癒ると有た。予曾て獨逸產れの猶太人に聞しは、鬱症に黑猫最も有害だと。又猫畜ふ時年期を約して養ふと、其期限盡れば何處かえ去る。又猫長じて一貫目の重量に及べば祝ふ、何れも田邊の舊習也。(大正二年五月鄕硏第一卷三號)

[やぶちゃん注:「載れば」「のすれば」。

「癪」(しやく(しゃく))は多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部或いは腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。

「明和」一七六四年から一七七二年まで。第十代征夷大将軍徳川家治の治世。

「壺堇と云ふ小說」同題の寛政七(一七九五)年刊の源温故(あつもと)なる人物の書いた怪奇談集があり、苦労をしたが、「新日本古典籍総合データベース」の同書の画像で発見した。「巻之三」の「梅の下風」の中で、43コマ目左丁の二行目(「氣のむすぼほれ」)から五行目(「黑き猫こそよけれ」)が、板行は二十三年ほど後だが、それである。或いは、同書には先行する明和版があるのかも知れない。

「鬱症」「選集」では『きやみ』と振る。

「畜ふ」「かふ」。

「有た」「あつた」。

「猶太人」「ユダヤじん」。

「聞しは」「ききしは」。

「又猫畜ふ時年期を約して養ふ」「また、ねこ、かふとき、ねんきを、やくして、かふ」。

「盡れば」「つきれば」。

「何處」「どこ」。

「一貫目」三・七五キログラム。]

2022/06/27

「南方隨筆」底本正字化版「紀州俗傳」パート 「一」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     紀 州 俗 傳

 

       

 〇西牟婁郡中芳養村境大字、三十戶ばかり塊り立つ、墓地が池の傍に有る。村の人死する每に、老狐が池の藻を被て袈裟とし、殊勝な和尙に化て池邊を步いた、每年極月に及ぶと、「日が無い、日が無い」と鳴く。正月迄日數少なしとの譯だ。之を師走狐と稱へた。此二月迄予の宅に居た下女(十八歲)の母、少い時祖母の方に燈油を運ぶに、この狐出るかと怖ろしくて、度々油を覆し叱られたが、今は迺ち狐も無く成た。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡中芳養」(なかはや)「村境大字」ここは現在の和歌山県田辺市芳養町のこの附近(グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)である。「ひなたGPS」のここに旧「境」の地名を見出せ、「国土地理院図」では、この中央附近に相当すると読めることから、同定出来た。

「被て」「かぶりて」。

「化て」「ばけて」。

「師走狐」「しはすきつね」。

「少い」「ちひさい」。

「覆し」「くつがへし」或いは「ひつくりかへし」又は「こぼし」。最後がよかろう。

「迺ち」「すなはち」。

「無く成た」「なくなつた」。]

 〇除夜に湯に浴らねば梟に成ると、紀州一汎に言ふ。西牟婁郡秋津村で昔は、足に黑き毛密生すと云、田邊では足の裏に松の木生ると聞き傳えた人も有た。

[やぶちゃん注:「浴らねば」「いらねば」。

「西牟婁郡秋津村」和歌山県田辺市上秋津(かみあきづ)であろう。或いはその北の秋津川地区も含まれるか。

「云」「いひ」。

「生る」「はえる」。

「有た」「あつた」。]

 〇田邊等の俗傳に、雨ふる日吃を擬す可らず。忽ち吃になると云ふ。拙妻其父より聞たは、雨ふる日に某の方角に向て吃りの眞似す可らずと有たが、只今忘れて了つた。

[やぶちゃん注:「吃」「どもり」。吃音(障碍者)。

「擬す可らず」「まねすべからず」。

「聞たは」「きいたは」。

「某」「ぼう」。実際の一定の方角を指していたが、「妻」はその方角が何方であったかを「只今忘れて了つた」というのである。

「向て」「むきて」。]

 〇田邊邊の子供が傳ふ熊野詣の手毬唄、「私の隣の松さんは、熊野へ參ろと髮結て、熊野の道で日が暮れて、跡見りや怖しい、先見りや畏い、先の河原で宿取うか、跡の河原で宿取うか、先の河原で宿取て、鯰一疋押えて、手で取りや可愛し(又酷し)、足で取りや可愛し(同上)、杓子で把ふて、線香で擔ふて燈心で括て、佛樣の後で、一切食や旨し、二切食や旨し、三切目に放屁つて、佛樣え言て行たら、佛樣怒つて遣うと仰つた」。

[やぶちゃん注:「田邊邊」「たなべあたり」或いは「たなべへん」。

「髮結て」「かみゆふて」。

「畏い」「こわい」。

「宿取うか」「やどとらうか」。

「宿取て」「やどとつて」。

「可愛し」「をかし」。

「酷し」「むごし」。

「把ふて」「すくふて」。

「擔ふて」「になふて」。

「括て」「くくりて」或いは「くくつて」。

「一切」「ひときれ」。

「食や」「くらや」。「選集」に従った。

「旨し」「うまし」。

「屁放つて」「へひつて」。「選集」は「へへって」で一貫するので、「へへつて」が正しいか。

「言て」「いふて」

「行たら」「いつたら」。「選集」は「いたら」。手毬唄であるから、後者か。

「怒つて遣うと仰つた」「おこつてやらうとおつしやつた」。]

 ○異傳には、「燈心で括つて田邊へ賣りに往て、賣なんで、内へ持て來て煮て、一切食や旨い、二切食や旨い、三切目に放屁て、田邊え聞えた」。又、「西の宮へ聞えて、西の宮の和尙樣が、火事やと思ふて、太鼓叩いて走つた」。

放屁のことを附たは、主として童蒙を面白がらせたのだ。亞喇伯夜譚抔大人に聞す物だが、回敎人が基督敎徒を取て擲るに、多くは基督敎徒が放屁すと有る。其所を演ずる每に、聽衆歡極つて大呼動すと「バートン」の目擊談だ。四十年斗り前迄、和歌山市の小兒、夕時に門邊に集つて「岡の宮の巫女殿は、舞を舞ふ迚放屁て、鍋屋町へ聞えて、鍋三つ破て、鍋屋の爺樣怒つて、ヨー臭い臭いよ」と唄つて舞た物だ。岡の宮は聖武帝行宮の跡で、刺田彥を祀り、市中に今も社有り。鍋屋町は昔し鍋釜作る者のみ住し町で有る。

[やぶちゃん注:「往て」「いつて」。

「賣なんで」「うれなんで」。

「持て」「もて」。

「煮て」「選集」は「たいて」と読んでいる。

「西の宮」不詳。兵庫県西宮市のことか。「西の宮の和尙樣」とくるのであれば、寺もどこの寺か判りそうなものだが、私はよく知らないので、不明。或いは神仏習合時代の名残となら、最早、当該別当寺は最早ないかも知れぬ。

「附た」「つけた」。

「童蒙」道理にくらいがんぜない子ども。

「亞喇伯夜譚」「選集」は『アラビアン・ナイツ』と振る。イギリスの軍人・外交官で探検家にして作家・翻訳家のリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton  一八二一年~一八九〇年)の翻訳(バートン版英訳は一八八五年から一八八八年にかけて刊行された)で知られる「千夜一夜物語」(One Thousand and One Nights /英語通称 Arabian Nights )。

「聞す」「きかす」。

「取て擲る」「とつてなげる」。

「放屁す」「ほうひす」。

「歡極つて」「くわんきはまつて」。

「大呼動」「だいこどう」。

「小兒」「こども」。

「巫女殿」「選集」は『いちとん』と振る。

「迚」「とて」。

「破て」「選集」は『破れて』とする。だと、「やぶれて」か。「こはれて」と読みたいが。「舞た」「まつた」。

「岡の宮は聖武帝行宮」(あんぐう)「の跡で、刺田彥」(さすたひこ)「を祀り、市中に今も社有り」和歌山県和歌山市片岡町(かたおかちょう)にある刺田比古(さすたひこ)神社当該ウィキによれば、『「岡の宮」の通称があるとあり、『刺田比古神社は数々の兵乱により古文書・宝物等を失っているため、古来の祭神は明らかとなっていない』「紀伊続風土記」『(江戸時代の紀伊国地誌)神社考定之部では刺国大神・大国主神とされており、明治に入って変更があったと見られている』。『社名は古くから「九頭明神」とも称されたと言い』、「紀伊続風土記」『所収の「寛永記」や』、天正一七(一五八九)年の『棟札に「国津大明神」』、慶安三(一六五〇)年の『石燈籠に「九頭大明神」』、延宝六(一六七八)年の『棟札に「国津神社」ともある』こと『から、この「九頭」は「国主」の仮字であり、本来は地主の神とする見解がある』。『神社側の考察では、祭神さえもわからないほど荒廃した刺田比古神社を氏子が再興した際、氏子が「国を守る神」の意で「国主神社」としたとして、また大国主命を祭神とする伝承も生まれたとしている』。『一方』、『本居宣長による説では、刺田比古神を』「古事記」の『出雲神話における「刺国大神」』(さしくにのおおかみ)『と推定している』。この神は「古事記」に『よると、大国主神を産んだ刺国若比売』(さしくにわかひめ)『の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。そして』、「紀伊続風土記」では、『刺国若比売を「若浦(和歌浦)」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘している』。『そのほか「さすたひこ」の音から、刺田比古神を猿田彦神や狭手彦神と見る説もある』とある。なお、ウィキには記載がないが、「和歌山県神社庁」の同神社のページに、『一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられる』とあった。

「鍋屋町」和歌山県和歌山市鍋屋町(なべやまち)として現存する。

「住し」「すみし」。]

〇西牟婁郡で螻蛄(ケラ)は佛の使ひ者で御器洗ふと云ふ。又蜥蜴は毒烈しく指すと忽ち其指が腐る迚、不意指た時、「蜥蜴ちよろちよろ尾の指(汝の指?)腐れ、己の指金ぢや」と咒ふ。東牟婁郡勝浦邊には、菌を指せば指が腐ると心得た老人も有た。田邊で家の入口人の多く履む處に、寬永四文錢抔を一文釘で地に打付有る。齒の痛みを防ぐ爲だ。又白紙を一二が二と唱へて橫に折り、二三が六と唱へて縱に折り、又二四が八と唱へて橫に折る。扨之を家の南の柱に釘で留置き、齒痛む時、鐵鎚で其釘を打つ時は、輙く治ると云ふ。   (大正二年四月鄕硏第一卷第二號)

[やぶちゃん注:「螻蛄(ケラ)」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis 。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」を参照されたい。「佛の使ひ者で御器洗ふ」の異名の起原は私にはよく判らない。鳴き声もこれとは一致しない。但し、ケラは捕まえて横腹を強く摘まむと、目立つ土掘り用にトゲトゲした前脚を広げ、緩めると合わせ閉じる。これは昔はよく子ども遊びでやったものだが、或いはこれが合掌の仕草に似るから「佛の使ひ者」とミミクリーしたのかも知れぬと私は思った。

「指す」「ゆびさす」であろう。

「不意」「ふと」。指た時、

「汝」「選集」では『うぬ』とルビする。

「己」同前で『わし』。

「金」同前「かね」。

「咒ふ」「まじなふ」。

「菌」「選集」では『くさびら』とルビする。茸(きのこ)のことである。

「履む」「ふむ」。

「寬永四文錢」同グーグル画像検索をリンクさせておく。

「一文」銭一枚の意。

「打付有る」「うちつけある」。

「一二が二」「いんにがに」。

「留置き」「とめおき」。

「鐵鎚」「かなづち」。

「輙く」「たやすく」。

「治ると云ふ」この咒文の原義は不明。識者の御教授を乞うものである。]

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「ウジともサジとも」 / 「俗傳」パート~了

 

[やぶちゃん注:本論考は大正六(一九一五)年二月発行の『鄕土硏究』第四巻十一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。

 さらに、本篇は「うじともさじとも」の語源として、不当に差別された旧被差別民「穢多」(えた)を語源説とする言及(誤り)があり、注で引いた南方熊楠の過去記事でも、現在は廃語とされている差別用語が出現する。そうした旧弊の差別意識に関しては批判的視点を忘れずに読まれたい。「ブリタニカ国際大百科事典」から、「穢多」の解説を引いておく(コンマは読点に代えた)。『封建時代の主要な賤民身分。語源はたかの餌取(えとり)という説があるが、つまびらかでない。南北朝時代頃から卑賤の意味をもつ穢多の字があてられるようになった。鎌倉、室町時代には寺社に隷属する手工業者、雑芸人らを、穢多、非人、河原者、散所(さんじょ)などと呼んだが、まだ明確な社会的身分としての規定はなく、戦国時代に一部は解放された。江戸時代に入り』、『封建的身分制度の確立とともに、没落した一部の住民をも加えて、士農工商の身分からも』、『はずされた』、『最低身分の一つとして法制的にも固定され、皮革業、治安警備、清掃、雑役などに職業を制限された。皮多、長吏、その他の地方的名称があったが、非人よりは上位におかれた。職業、住居、交際などにおいて一般庶民と差別され、宗門人別帳』『も別に作成された』。明治四(一八七一)年八月二十八日の『太政官布告で』、『その身分制は廃止され、形式的には解放されることになった。幕末には』二十八『万人を数えた』とある。

 なお、底本の「俗傳」パートは、この後に「葦を以て占ふこと」(前出同題の追記)があるが、これは既に『「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「葦を以て占ふこと」』にカップリングしてある。而してこれを以って底本の「俗傳」パートは終わっている。]

 

     ウジともサジとも

 

 と云ふことを、紀州邊で穢多を稱せしより起つた如く、傳說のまゝ記しおいたが(三卷一八八頁)、もとは唯「甲も乙も」と云ふ程の意で、南北朝の頃既に行はれた成語と見える。今より五百六十九年前の貞和四年のことを記した峯相記に曰く、欽明天皇御宇百濟より持戒の爲に惠辨惠聰二人渡り、守屋が父尾輿の連播磨國へ流しぬ云々。後には還俗せさせ、惠辨をば右次郞(うじらう)、惠聰をば左次郞(さじらう)と名付、又播磨國へ流し安田の野間に樓を造て籠置けり。每日食分には粟一合あてけり。然れども二人戒を破らじと、日中以後持來る日は少分の粟をも食せず、經論を誦しけり。守門者共口に經を誦し候と大臣に申しければ、是は我をのろふ也とて彌よ戒めけり。さらば向後物言はじとて無言す。右次左次(うじさじ)物言ずと云ふ事は是より初りけり下略。(大正六年鄕硏第四卷第十一號)

[やぶちゃん注:「ウジともサジとも」「と云ふことを、紀州邊で穢多を稱せしより起つた如く、傳說のまゝ記しおいたが(三卷一八八頁)」「選集」に『(『郷土研究』三巻三号一八八頁〔「紙上問答」答(七)〕)』とある。サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)・一九七一年平凡社刊底本)から当該部を、原則。そのまま引用するが、傍線指示の部分はその指示を略して下線を施した。『?』は作成者のサイト主による表記不能字。

   *

七 いわゆる特殊部落の名称

  問。いわゆる特殊部落には、地方によっていろいろちがつた名称および風習があるようである。自分は久しくこの問題を調べておる。どうか諸君の近村に居住する彼らの名称、生業、その他特殊の事項をお知らせください。(沼田頼輔) (大正二年四月『郷土研究』一巻二号)

 和歌山市辺で旧えたを「よつ」と言った。四足《よつあし》の義とも、また彼輩は東京人と同じくの音を発しえずと言うから、四《し》の訓を取って「よつ」と呼ぶのだとも聞いた。 (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)

 紀州田辺で喧嘩の仲裁などする時、「ウジともサジとも言わずに仲直れ」と言うが、何のこととも分からず。しかるに古老の伝えに、ウジもサジもえたの別称で、この言句の起りは、むかし別処のえた男と女がおのおの真人間と婚せんと志し、大阪に出てある商店に奉公を励んだ甲斐あって、年季満ちて夫婦になり店を出し、おのおの満足、家業繁昌、子まで儲けたのち、ある日夫が妻に向かい、?《なんじ》われに嫁して子までできたに国元から祝い状の一本も来ぬは不審だ、まさかウジでもあるまいにと言うと、妻ござんなれという顔つきで、御身もこの年ごろ郷里から手紙一つ著いたことない、サジでないかと疑念が断えなんだと打ち返し、双方相問い詰めて到頭えた同士の夫妻と判り、素性は争われぬもの、せっかく出世して志を達したと思うたが、やはりえたはえたと縁が定まっておる、この上はウジともサジとも言わずに天の定めた分際に安んじ、和楽して家業を励むのほかなし、と協議が調うたということだ。『風来六六部集』や『嬉遊笑覧』に見えた「一つ長屋の佐治兵衛殿、四国を巡って猴《さる》となるんの」という唄の佐治兵衛など、猟師また屠者が猴を多く殺した報いに猴となったということらしく、サジとは古くこの輩を呼んだので、佐治兵衛という戯名もこれから生じたのかと惟う。 (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)

   *

『もとは唯「甲も乙も」と云ふ程の意で、南北朝の頃既に行はれた成語と見える』小学館「日本国語大辞典」では「うじさじ」を「右事左事・右次左次」とし、副詞で『あれやこれや。あれこれ。』の意とし、使用例を「玉塵抄」(漢籍の類書「韻府群玉」の講釈本。室町後期の永禄六(一五六三)年成立)の巻九の「吾は右事左事(ウじさじ)しらいで」を引くが、一方、同じ辞書の「うじさじ【右次左次】 物(もの)言(い)わず」の項を見ると、『甲とも乙とも言わない。あれこれ文句を言わない。転じて、全く口をきかない。』とあり、使用例を、「名語記」(鎌倉時代の辞書で経尊の著。増補本は文永一二・建治元(一二七五)年成立)の巻九の「うじさじ物もいはずなどいへる、如何。これは、右じ左じやらむと存せり。みぎせり、ひだりせりの心歟」を引いている。されば、「うじさじ」は南北朝ではなく、鎌倉後期には既に使われていたと考えないとおかしい。

「貞和四年」南北朝時代の北朝方が用いた年号。一三四八年。室町幕府将軍は足利尊氏。

「峯相記」(みねあひき)は「ほうそうき」「ぶしょうき」とも読む。作者は不明だが、貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山鶏足(ほうそうざんけいそく)寺(現在の兵庫県姫路市内にあったが、天正六(一五七八)年、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちに遇つて廃寺となった)に参詣した旅僧が同寺の僧から聞書したという形式で記述されている。中世(鎌倉末期から南北朝にかけて)の播磨国地誌となっており、同時期の社会を知る上で貴重な史料とされる。中でも柿色の帷子を着て、笠を被り、面を覆い、飛礫(つぶて)などの独特の武器を使用して奔放な活動をしたと描かれてある播磨国の悪党についての記述は有名である。兵庫県太子町の斑鳩寺に永正八(一五一一)年に写された最古の写本が残っている(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。以下は「国文学研究資料館」の電子データの、ここから読める(左丁後ろ二行目末から次の丁まで。写本と思われるが、訓点と本文平字が混在するものだが、非常に読み易い)。

「欽明天皇御宇」宣化天皇四年十二月五日(五三九年十二月三十日)?~欽明天皇三十二年四月十五日( 五七一年五月二十四日)?。

「惠辨」「ゑべん」。

「惠聰」「ゑさう」。

「守屋が父尾輿の連」物部尾輿(もののべのおこし 生没年未詳)は古墳時代の豪族。安閑・欽明両天皇の頃の大連。中臣鎌子とともに廃仏を主張したことで知られる。

「安田の野間」兵庫県多可郡多可町の安田地区の内と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「造て籠置けり」「つくりてこめおけり」。

「日中以後持來る日は少分の粟をも食せず」仏教徒は原則、食事は午前中に一度しか摂らない(それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際にはそれでは身が持たないので「非時」と称して午後も食事をした)。それをこの二人は見事に守ったのである。

「守門者共」「しゆもんしやども」。見張りの番人たち。

「彌よ」「いよいよ」。

「戒めけり」「いましめけり」。厳しく読経をさえも制限させたのである。以下、写本を見ると。守屋が「丁未の乱」(ていびのらん:用明天皇二(五八七)年七月)で。仏教の礼拝を巡って崇仏派の大臣蘇我馬子に守屋が殺された後は、再び剃髪、僧衣を許されたとある。]

2022/06/26

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「時鳥の傳說」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十一月発行の『鄕土硏究』第三巻第八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     時 鳥 の 傳 說

 

 予も角田高木二君等の書共を引いて、今年四月倫敦で發表した(Kumagusu Minakata, “ Cuckoo in Folk-lore, ” Notes and Queries, 12th ser., i, p.338, April 22, 1916)。其内に載せた通り、吾邦の兄が弟を殺し悔ゐて時鳥に成つたのと類似の譚がマセドニアにも有る。云く、昔兄弟相嫉みて爭鬪止まず。母見兼ねて、汝等斯く相凌ぎ續けなば必ず天譴を得て二人永く離るゝに及ばんと諭せど從はず。益す相鬩ぎければ、天其不道を怒り其一人を亡ふたと有つて、歐州諸國語の常習通り兄も弟も同語で書いて居るから、どちらが失迹したか分らぬ(わが邦に味噌も大便も一舐めに歐州諸語を東洋の諸語に遙か勝つた者の樣に言散す輩が多いが、兄も弟もプラザー、姉も妹もシスター、甥も孫もネポテ、伯父も叔父もアンクル、夫の兄弟も妻の兄弟もブラザー、イン、ロー等、制度彝倫に大必要な名目が一向亂雜なるを、阿非利加の未開民さへ每々笑ふ由なるに、臭い物身知らずの歐人は姑く措き、本邦で學者迄も餘り氣附ず、歐州に無くて濟むことは日本でも無い方が便利など心得居る樣なるは氣が知れぬ)。さて兄か弟か別らぬが、跡に殘つた一人が悔悲めど及ばゞこそ、終に「緣が有るなら羽根はえて飛んで來い」の格で、翼を生じて亡人を尋ね出さんと祈り、天帝之を聽して鳥に化せしめると、ギオンギオンと亡き兄弟(どちらか分からぬ)の名を呼で尋ね飛ぶに、每唱必ず嘴から血を三滴落とすとは、どうも杜鵑色慘黑赤口なるより、異苑云、有人山行、見一群〔杜鵑〕聊學之、嘔血便殞、人言、此鳥啼、至血出乃止、故有嘔血之事とある支那說に似て居る。件の鳥がギオンギオンと鳴くより、ギオン鳥とマセドニア語で之を呼ぶ。ハーンの說にアルバニアにも類似譚有りて、其にはギオンを兄クツクーを妹とするさうだから、ギオンも時鳥に似た者らしい。爰に一寸辯じ置くは、英語クツクーを時鳥と心得た人少なからぬが、クツクーは時鳥(學名ククルス・ポリオケファルス)と同屬ながら別物で、邦名かつかうどり、又かんこどり又かつぱうどりなど稱へ、學名ククルス・カノルス、是は亞細亞巫來[やぶちゃん注:「マレー」。]諸島阿非利加歐州と廣く分布し、冬は南國夏は北地へ移りありく。三月末四月初め頃阿非利加より地中海を越えて歐州諸方に達し、雄が雌を慕ふて競鳴するを詩人も野夫も夥しく持囃す事、邦俗陰曆五月を時鳥の盛とするに同じ。本草啓蒙に、支那の鳲鳩一名郭公をカツコウドリに宛て、此鳥四月時分にカツコウと鳴く聲甚だ高く淸んで山谷に震響す。即ち郭公と自呼なりと云るは中つて居る。本草綱目には、鴶鵴という異名をも出す。是も獨逸名クツクツク和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]名ケツケツク同樣其鳴聲に基いた名だ。兎に角時鳥もククルス屬の者ながら、英語でクツクー拉丁[やぶちゃん注:「ラテン」。]語でククルス希臘語でコツクツクスは、吾邦にも在るカツコウドリに正當す。其から杜鵑一名杜宇一名子規はモレンドルフ等之をヨダカだと云つた。其說聞くに足る者有れど、居他巢生子と有れば、正しく時鳥(ほとゝぎすの和字)に相違無い。柳田氏は時鳥弟殺しの本邦諸譚、皆この罪惡の起因だつた食物を薯蕷(やまのいも)[やぶちゃん注:珍しい熊楠によるルビ。]としたのは、必しも此鳥の季節が薯蕷の發芽期だからと言て了ふ可らず、何となれば此鳥は山家では殆ど秋初迄鳴續く故にと言はれたが、氏も又氏が咎め立てした中村君と同じく、後世の心もて古人を忖度する者と言なければならぬ。十年許り前迄熊野山間に薯蕷屬諸種を栽えて專ら食用した所が多かつたが、今日は左迄に無い。米穀の產出運輸交易の便宜乏しかりし世には、薯蕷を常食した地方が多かつたゞらう。從つて其發芽期を生活上の緊要件として居常注意し、時鳥の渡來初鳴と聯想するを習とした事、恰かも古希臘ヘシオドスの詩に檞樹間郭公唱ふ時農夫正に地を鋤くと言ひしは、南歐で郭公は仲春から盛夏迄唱ひ續くれど、此詩意は郭公唱ひ初むる時が耕地の初の時だと謂ひたるが如し。時鳥の鳴聲と連想せられた食物は必ずして薯蕷のみで無い。紀州龍神地方では時鳥「ホツポウタケタカ」と鳴くと云ふ。ホツポウはウバユリの方言で、道傍に此物多きが、時鳥が斯く鳴く時丁度此草長ず。雄本は葉綠に線條有り、雌本は紫條有り、雌本の味優る。其根を掘り小兒等燒いて食ふ。惟ふに古は大人も之を食ひ生活上の必要品としたので時鳥の鳴聲に迄注意したのであらう。本草綱目に郭公二月穀雨後始鳴、夏至後乃止、其聲如俗呼阿公阿㜑割麥插禾脫却破袴之類、布穀獲穀共因其鳴時、可爲候、故名之耳。 ‘Encyc, Brit,’ 22th ed., vol.vii, pp. 608-610 にも、時と處に從ひ郭公の唱聲同じからぬ由見える。予頃日遠江からカジカ蛙を貰ひ畜ふに、一日夜間にも時刻の異なるに倣て聲が差ふを知つた[やぶちゃん注:「倣て」はママ。「選集」ではひらがなで『よって』とする。とすれば、これは「依」「仍」など誤字と思われる。]。時鳥も那智で季春晝間聞いたと田邊で夏夜聞くとは大に違ふ。されば時鳥が春夏の交から初秋迄鳴くにしても、薯蕷の芽が出る頃、尤も薯蕷に因んだ辭に似て聞えるのであらう。支那にも商陸(やまごばう)[やぶちゃん注:熊楠のルビ。]の子熟する時杜鵑鳴き止むと云ひ、本邦で郭公を地方によりムギウラシ、アワマキドリ、マメウヱドリなど異稱する。甚しきは、今も蜻蜓が飛ぶ高さを見て蕎麥の蒔き時を知るさへ有り(一卷六號三七二頁)。頒曆不行屆きの世には誠に些細な事に迄氣を付けて季節を確めんと心懸けたものぢや。   (大正五年鄕硏究第四卷四號)

[やぶちゃん注:「選集」では冒頭の添え辞が改行下方インデントで二行あり、『中村成文「時鳥の伝説」参照『(『郷土研究』四巻三号一六二頁)』とある。中村成文氏は詳細事績は判らぬが、当時の『郷土研究』にしばしば投稿している民俗研究家である。また、「時鳥」(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus )の博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を、まず、参照されたい。そちらでは中国起源の伝説が中心になってしまったが、私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五〇~五三 花や鳥』の「五三 郭公(クワツコウ)と時鳥(ホトヽギス)とは昔ありし姊妹(アネイモト)なり」と始まるそれもリンクさせておく。

「角田」既注だが、再掲しておくと、詩人・北欧文学者・文芸評論家で新聞記者であった角田浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく 明治二(一八六九)年~大正五(一九一六)年)。本名は角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成し、世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遙と並び称された。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「高木」神話学者でドイツ文学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。熊本生まれ。東京帝大ドイツ文学科を卒業後、五高・東京高等師範・松山高等学校・大阪外国語学校でドイツ語を教え、文部省在外研究員としてドイツへ出発する直前に病没した。柳田国男と協力して『郷土研究』誌を編集(大正二(一九一三)年から翌年)するなど、日本民俗学の発展にも功績があったが、日本に於ける近代的な神話考究の学者としての業績が大きい。主要な業績は大学在学中の明治三二(一八九九)年から、大正三(一九一四)年の間に集中している。

「今年四月倫敦で發表した(Kumagusu Minakata, “ Cuckoo in Folk-lore, ” Notes and Queries, 12th ser., i, p.338, April 22, 1916)」英文の「Wikisource」のこちらで、投稿された雑誌原本と起こされて活字化された本文が読める。こういう資料を見るにつけ、日本のユビクタスは「ユ」の字一字にさえ達していない驚くべき貧しさにあることを痛感する。日本文学では教育機関や研究団体の公的紹介がないと閲覧出来ないパブリック・ドメインの電子データがごろごろあり、国立国会図書館の「デジタルコレクション」に対して出版社業界が電子画像の公開をやめろと申し入れたりするなど、呆れ果てること、これ、甚だしい。熊楠が今の世を見たら、象牙の塔に反吐を吐きかけること、間違いない。なお、熊楠はこの英文投稿に基づいて以下の文の一部を書いているので、まず、必ず、そちらを読まれたい。

「甥も孫もネポテ」英語で「甥・姪」、或いは、現行では廃語とされているが、「孫・子孫」の意がある「nephew」(ネフュー)の語源はラテン語の「孫,子孫,甥」の意を示す語根「nepōt-」であるから、その語源形を熊楠は示したらしい。但し、ここは並列している例からは「甥も姪も」の方がしっくりくる。

「彝倫」「いりん」。「彝」は「常」(つね)の、「倫」は「人の行うべき道」の意で、「人が常に守るべき道」。人倫に同じ。

「姑く」「しばらく」。

「悔悲めど」「くいかなしめど」。

「聽して」「ゆるして」。

「杜鵑色慘黑赤口」李時珍「本草綱目」の巻四十九の「禽之三 林禽」の「杜䳌」(䳌=鵑」の項の「集解」の最後で時珍が言っている一節。

   *

時珍曰、杜䳌、蜀中に出づ。今、南方に亦、之れ、有り。狀(かたち)、雀鷂(つみ)[やぶちゃん注:タカ科Accipitridaeの最の種であるタカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis 。]のごとくにして、色、慘黑(ざんこく)なり。赤口(しやくこう)にして、小さき冠、有り。春の暮れ、卽ち、鳴く。夜、啼きて、旦(たん)に達す。鳴くに、必ず、北に向ふ。夏に至りて、尤も甚だし。晝夜、止まず、其の聲、哀切なり。田家、之れを候(うかが)ひて、以つて農事を興(おこ)す。惟だ、蟲蠧(きくひむし)を食ふ。巢居(さうきよ)を爲すこと、能はずして、他の巢に、子を生む。冬月に、則ち、蔵(かく)れ蟄(ちつ)す。

   *

「慘黑」は、人間から見て、痛ましいほどに惨めな黒色であることを言うか。

『異苑に云、有人山行、見一群〔杜鵑〕聊學之、嘔血便殞、人言、此鳥啼、至血出乃止、故有嘔血之事』「〔杜鵑〕」は熊楠の補塡。「異苑」は六朝時代の宋の劉敬叔の著になる志怪小説集(全十巻。当時の人物についての超自然的な逸話・幽霊・狐狸に纏わる民間の説話などを記したものだが、現存するテクストは明代の胡震亨(こしんこう)によって編集し直されたもので、原著とはかなり異なっていると考えられている)だが、熊楠は「本草綱目」から孫引きしたものと推定する。「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[114-15a]以下が、「杜䳌」の項で、その「集解」の中の李珍の叙述の前にある。訓読する。

   *

異苑に云はく、『人、有り、山行(さんかう)して、[やぶちゃん注:杜鵑の。]一群を見る。聊か、之れに學んで、血を嘔(は)きて、便(すなは)ち殞(し)したり。人の言ふ、「此の鳥、啼きて、血の出づるに至りて、乃(すなは)ち、止(や)む。故に、血を嘔く事、有り。」と。』と。

   *

この付説、実は馬鹿な奴が、啼いて血を吐くような痛烈なホトトギスの鳴き声を見聞きして、それを真似をして、その者はこともあろうに死んでしまった、ということを言っているのである。これは怪談なのであって、博物誌ではないことに注意しなくてはいけない。

「ハーンの說にアルバニアにも類似譚有りて、其にはギオンを兄クツクーを妹とするさうだ」昨日、一読、「ハーン」を小泉八雲のことか?! と、びっくらこいて、来日以前の作品の中に(私はブログ・カテゴリ「小泉八雲」で来日後の作品は訳文を総て電子化し終えている)それを探そうとする、とんでもない無駄な作業を一時間余りもやらかしてしまった。英文テクストをAlbaniaで検索するも、痕跡さえ見い出せず、取り敢えず、本文を最初から読み始めて、先に示した英文の「Wikisource」の熊楠の英文投稿に行き当たり、そこに「ハーン」が出てきて、これ、とんだ「ハーン」違いの大馬鹿早合点であることが判明したのであった。その以下の部分(ギリシャ文字らしい表記部分は字起こしが不全であり、私が起こすのも面倒なので(発音さえ出来ない)「*」に代えた。原雑誌画像を確認されたい)、

   *

" Bernhard Schmidt compares the name of the bird (* *****, or *******) with the Albanian form (****** or ****), and refers to Hahn's Tales  for an Albanian parallel, in which the gyon and the cuckoo are described as brother and sister."

   *

ここに出た「Hahn's ‘Tales’ 」とあるのが、それであるのである。「‘Tales’」はこの表記法から「Hahn」(ハーン)なる人物が書いた「話譚」という本の名前としか思われないのだが、人物も書名も遂に調べ得なかった。因みに、小泉八雲の以前の名は「Lafcadio Hearn」で綴りが違う。

「時鳥(學名ククルス・ポリオケファルス)」冒頭注で綴りを示してある。

「邦名かつかうどり、又かんこどり又かつぱうどりなど稱へ、學名ククルス・カノルス」カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)」を参照。なお、「和漢三才図会」には、悩ましいことに、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 加豆古宇鳥(かつこうどり) (カッコウ?)」が別にある。

「競鳴」「きそひなき」。

「持囃す」「もてはやす」。

「盛」「さかり」。

「本草啓蒙に、支那の鳲鳩」(しきう)「一名郭公をカツコウドリに宛て、此鳥四月時分にカツコウと鳴く聲甚だ高く淸んで山谷に震響」(しんきやう)「す。即ち郭公と自呼」(みづからよぶ)「なりと云」(いへ)「るは中」(あた)「つて居る」小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」(蘭山の講義を孫の職孝(もとたか)が筆記・整理したもの。享和三(一八〇三)年~文化三(一八〇六)年刊)のこと。国立国会図書館デジタルコレクションの原版本(非常に状態がよく、印字も読み易い)のここで視認出来る。

「本草綱目には、鴶鵴」(かつきく)「という異名をも出す」「杜鵑」と同じ巻に「鳲鳩」で出る。「漢籍リポジトリ」のこちら[114-2b]を参照されたいが、その「釋名」に別名として「布穀」「鴶鵴【音、「戞」、「匊」。】」「獲穀」「郭公」「布穀」を並べている。

「モレンドルフ」ドイツの言語学者で外交官であったパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff 一八四七年~一九〇一年)のことであろう。十九世紀後半に朝鮮の国王高宗の顧問を務め、また、中国学への貢献でも知られ、満州語のローマ字表記を考案したことでも知られる。朝鮮政府での任を去った後、嘗ての上海で就いていた中国海関(税関)の仕事に復し、南の条約港寧波の関税局長官となり、そこで没した。

「等之を」「ら(は)、これを」。

「ヨダカ」ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ(夜鷹)亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蚊母鳥 (ヨタカ)」を見られたい。実際に挿絵で蚊を吐いている。

「居他巢生子」私の先の正式な訓読の終りの部分を参照。

「柳田氏は時鳥弟殺しの本邦諸譚、皆この罪惡の起因だつた食物を薯蕷(やまのいも)としたのは、必しも此鳥の季節が薯蕷の發芽期だからと言て了ふ可らず」(いふてしまふべからず)「、何となれば此鳥は山家では殆ど秋初迄鳴續く故にと言はれたが、氏も又氏が咎め立てした中村君と同じく、後世の心もて古人を忖度する者と言なければならぬ」(いはなければならぬ)の「薯蕷(やまのいも)」は音「シヨヨ(ショヨ)」で狭義には所謂、「自然薯(じねんじょ)」=「山芋」=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica を指し、ここもそれと限定してよい。「日本薯蕷」とも漢字表記し、本種は「ディオスコレア・ジャポニカ」という学名通り、日本原産である。なお、ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya とは別種であるが(中国原産ともされるが、同一ゲノム個体は大陸で確認されておらず、日本独自に生じた可能性がある。同種は栽培種であるが、一部で野生化したものもある)、現行では一緒くたにして「とろろいも」と呼んだり、同じ「薯蕷」の漢字を当ててしまっているが、両者は全く別な種であり、形状も一目瞭然で異なるので注意が必要である。因みに、ウナギの産卵と稚魚の発生地が永く判然としなかったことから、古くより「ヤマノイモがウナギになる」というトンデモ化生説(但し、「絶対にあり得ないこと」の喩えとしての使用も古くからある)はご存知だろう。では、私の「三州奇談續編卷之二 薯蕷化ㇾ人」はいかがかな? 閑話休題。さて、この全体の「柳田」による批判部分だが、『郷土研究』上の柳田論考の一節か、或いは書簡で熊楠に向けて批評したものか「選集」の南方と柳田の往復書簡や、「ちくま」文庫版の「柳田國男全集」を調べては見たが、よく判らなかった。見つけたら、追記する。孰れにせよ、本篇の発表は大正五年七月であるが、この年の十二月を以って、南方と柳田が絶縁するのと、この熊楠の反撃口調は、遠くリンクしているように感ずるものである。

「居常」「きよじやう」。「日常生活に於いて常に」の意。

「習」「ならひ」。

「ヘシオドス」古代ギリシアの叙事詩人。紀元前七百年頃に活動したと推定されている。「神統記」「仕事と日々」の作者として知られる。当該ウィキによれば、後者の著作は『は勤勉な労働を称え、怠惰と不正な裁判を非難する作品で』、『同書には世界最初の農事暦であると考えられる部分のほか』、パンドラと五つの『時代の説話、航海術、日々の吉兆などについて書かれた部分がある。農事暦については、同書で書かれる程度のことは当時の聴衆にとっては常識であり、指南用のものではなく』、『農業を題材に取ったことそのものに意味があるとも考えられている』とある。

「檞樹」(かしはのき)ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata

「唱ふ」「うたふ」。

「唱ひ初」(はじ)「むる時が耕地の初」(はじめ)「の時だ」。

「ウバユリ」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ウバユリ属ウバユリ Cardiocrinum cordatum 。当該ウィキによれば、「姥百合」で、『花が満開になる頃には葉が枯れてくる事が多いため、歯(葉)のない「姥」にたとえて名づけられた』とある。サイト「BOTANICA」の「ウバユリ(姥百合)とは?特徴・花言葉から育て方や食べ方まで解説!」で、食用となることが確認出来る。『野山にたくましく咲く花として紹介してきたウバユリですが、実は山菜としても食べられる植物です。ほかの種類のユリと同じように、球根』(正しくは地下茎の一種で鱗茎と呼ぶ)『を食用にします。ゆり根のようにホクホクとした食感が特徴で、ゆり根よりも若干』、『苦みを感じます。普通のゆり根に比べて球根が小さいので、食用で採集するときは多めに採るのがおすすめです』とあって、各種の料理法が載る。

「雄本は葉綠に線條有り、雌本は紫條有り、雌本の味優る」と熊楠は言っているが、誤りである。ウバユリは雌雄異株ではない。サイト「図鑑.net モバイルブログ」松沢千鶴氏の「ウバユリには、雄株と雌株とがある?」 を読まれたい。そこに、『オオウバユリ』(ウバユリ属ウバウリ変種オオウバユリ Cardiocrinum cordatum var. glehnii )『は、ウバユリの変種です。名のとおり、普通のウバユリより大きいです。日本の中部地方以北に自生します。普通のウバユリは、関東以南に自生します』。『アイヌの人たちは、伝統的に、オオウバユリに、「雄株と雌株とがある」と考えてきました。花を付けているのが雄の株で、花がなく、葉だけが茂るものを雌の株とします』。『ところが、実際には、オオウバユリは、雄株と雌株とに分かれていません。普通のウバユリも、そうです』(☜ ☞)。『他の多くの植物と同じく、一つの株で、雄と雌とを兼ねます』。『では、なぜ、アイヌの人たちは、このような区別をしたのでしょうか?』 『これは、その鱗茎を食べる都合上のようです。アイヌの人たちは、「雌」と見なしたオオウバユリの鱗茎しか、食べません。花が付いた株』――『アイヌが言うところの雄株』――『は、花に栄養を回すために、鱗茎が痩せてしまうからです』。『おそらく、元は、実用上の都合から、花の付いた株と、そうでない株とを区別したのでしょう。それを、わかりやすく、雄・雌と表現したのだと思います』(以下略)とあったからである。熊楠にはアイヌの血も流れていたか。素敵!

「惟ふに」「おもふに」。

古は大人も之を食ひ生活上の必要品としたので時鳥の鳴聲に迄注意したのであらう。

「本草綱目に郭公二月穀雨後始鳴、夏至後乃止、其聲如俗呼阿公阿㜑割麥插禾脫却破袴之類、布穀獲[やぶちゃん注:底本も「選集」も「穫」とするが、以下のリンク先の影印本で訂した。]穀共因其鳴時、可爲農候、故名之耳」これ、「漢籍リポジトリ」のこちら[114-2b]の「鳲鳩」を参照されたいのだが、正直、以上の熊楠のそれは引用とは言えない、操作したものである。全体を示すと(一部の表記を推定で判り易く変えてある)、

   *

鳲鳩【「拾遺」。】

釋名 布穀【「列子」。】・鴶鵴【音戞匊。】・獲穀【「爾雅」註。】・郭公。【蔵器曰、「布穀」、鳲鳩也。江東呼爲「獲穀」。亦曰、「郭公」。北人名「撥穀」。」。時珍曰、「布穀」、名多、皆各因其聲似而呼之如俗呼「阿公」・「阿」・「割麥」・「插禾」・「脫却破袴」之類、皆因其鳴時、可爲農候故耳。或云、「鳲鳩」、即「月令」鳴鳩也。「鳴」乃「鳲」字之訛。亦「通禽經」及方言並謂「鳴鳩」即「戴勝」。郭璞云、非也。】

集解 蔵器曰、「布穀」似鷂長尾、牝牡飛鳴以翼相拂擊。時珍曰、按「毛詩疏義」云、「鳲鳩」大如鳩而、帶黃色。啼鳴相呼而不相集。不能爲巢多居樹穴及空鵲巢中哺子。朝自上下暮自下上也。二月穀雨後始鳴、夏至後乃止。張華「禽經註」云、仲春鷹化爲鳩、仲秋鳩復化爲鷹。故鳩之目、猶如鷹之目。「列子」云、鷂之爲鸇、鸇之爲布・穀布・穀久、復爲鷂是矣。「禽經」又云、鳩生三子一爲鶚。

肉 氣味 甘、温、無毒。 主治 安神定志令人少睡【汪頴。】。

 脚脛骨 主治 令人夫妻相愛、五月五日收帶之、各一男左女右云置水中自能相隨也【蔵器。】

   *

下線部が一致する部分である。熊楠は適当な箇所を切り刻んで繋げて、あたかも「本草綱目」にそう書いてあるかのように作文したのである。「共因其鳴時」の「共」、「故名之耳」の「名之」に至っては勝手な挿入である。まあ、言っている内容に変化ないとは言えはするけれども。取り敢えず、訓読しておく

   *

郭公は、二月、穀雨[やぶちゃん注:現在の四月二十日頃。]の後、始めて鳴き、夏至の後、乃(すなは)ち、止む。其の聲は、俗に「阿公」・「阿㜑」[やぶちゃん注:孰れも年上の男子やお婆さんへの呼びかけ。]、「麥を割(か)れ」・「禾(いね)を插(う)ゑよ」・「破れ袴(ばかま)を脫-却(ぬ)げ」[やぶちゃん注:「田畑に出る仕度をせよ」の意か。]と呼ぶ類(たぐゐ)のごとし。「穀を布(ま)く」・「穀を獲(か)る」は、共に其の鳴く時に因りて農候と爲すべく、故に之れに名づくるのみ。

   *

「頃日」「ちかごろ」。

「カジカ蛙」両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri 。迂遠を厭わずに、考証をした「日本山海名産図会 第四巻 河鹿」の本文及び私の注を参照されたい。

「差ふ」「ちがふ」。

「交」「かひ」と読んでおく。

「辭」「ことば」。

「商陸(やまごばう)」

「子」「み」。

「蜻蜓」「とんぼ」。

「一卷六號三七二頁」「選集」に『『郷土研究』一巻六号三奈七二頁』とし、割注で『「紀州俗伝」四節』とある。この次の次から始まる「紀州俗傳」の第「四」章の最後の方にある「そばがきとんぼ」の話を指す。ここの右ページ九~十行目である。

「頒曆」近世から有料頒布された農事曆(のうじごよみ)。]

2022/06/24

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「子供の背守と猿」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十一月発行の『鄕土硏究』第三巻第八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 なお、添え辞の「(人類三卷四六八頁參照)」の「人類」は「鄕硏」の誤りである。後注の冒頭を参照されたい。

 太字は底本では傍点「○」である。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     子供の背守と猿 (人類三卷四六八頁參照)

 

 中古男子の烏帽子や女房の頭に付けた物忌、近世小兒の衣に附ける背縫、守り縫、背紋など、何れも視害(印度語ナザール)や邪視(英語イヴル、アイ)を避ける本義に出た由を、明治四十二年五月の東京人類學會雜誌に書いて置いた。括り猿を奉納するは此邊では庚申・淡島・藥師等、何の神佛へもした事で、子安地藏に限らぬ。是も印度で殿堂辟邪の爲に斯る物を諸種掛けると同理由なる上に、本邦では猿を去るの意に取て婚儀や遊女屋などで大に忌むと同時に、まさる(滋殖)の義に比べて農家には大に敬愛し、猿舞しを持囃すは決して例の狙[やぶちゃん注:「さる」。]は馬を健にすの一事に止まらぬ。又和歌山などでは猿は山王の使物で甚だ出產の安い獸とて之を祀り、痘瘡の輕き物とて之を祭る所も有る。現に今日も紀州で女兒が立つて遊び出す時、第一に與ふる物は淡紅の布に古綿を詰めて作つた猿像で、三四五歲の間は他の玩具無くとも、必ず之を負ひ又懷いて遊ぶ。公事根源の「あかちこ」、伊勢守產所記等の「はふこ」又伽婢などの遺意で、詰り之を持つて遊ぶ子の罪禍を猿の像に負はせる事かと惟ふ。降つて彈き猿、幡猿、釣する猿、繫がり猿、水挽猿、米搗猿、桃核や蜜柑の猿(嬉遊笑覽六下)、猿の力持(守貞漫稿二十五)など、猿の翫具が多い。書紀に、「猿田彥大神、口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醬、卽遣從神往問。時有八十萬神、皆不得目勝相問と有り、古事記を見るに此神比良夫貝を取らんとて手を貝に挾まれ溺死せし樣子、近頃迄熊野の僻地で猿が海邊に群至して蟹や貝に手を挾まれて泣くを目擊せる老人多かりしに參すれば、猿田彥大神は大なる猿で、その赩面炯眼よく一切の邪禍を壓倒擊退すと信ぜられたなるべし。甲子夜話卅に、著者靜山侯が備中で薩侯の息女江戶上りに行遇ひたるに、其調度の長櫃幾箇も持行く内飾り著けたる有り、竹を立てた上に又橫に結び絲を張り小さき鼓又括り猿などを下げ、竹の末三所には紅白の紙を截懸け長く垂れたる事神幣の如し、或は紅の吹貫小旗など結び附けたるも有り、華やかなりしと出づ。是はアラビア人が女子を駱駝に乘せて移す時の駱駝の飾りに似た事で、括り猿も旗幟も主として邪視を避ける本意に出た事だ。   (大正四年鄕硏三卷九號)

[やぶちゃん注:「選集」は標題の添え辞が改行下方インデント二行で『平瀬麦雨「背守のこと、および子供と猿」参照』『(『郷土研究』三巻八号四六八頁)』とある。

「中古男子の烏帽子」(えぼし)「や女房の頭に付けた物忌」本邦に於いて、上古より、公事・神事に先立って、一定期間、飲食・言行などを慎んで(特定の禁忌行為を行わない)、心身を清めることを指す「物忌み」があり、これは日常的に頻繁に行われた。宮中にあっては、「物忌み」であることを周囲に示すために、柳の木札や紙に、「物忌」と書いた物を、冠や烏帽子や衣服、居室の簾などに附けた。例えば、「枕草子」の「說經の講師は顏よき。……」に、

   *

烏帽子(えぼうし)に物忌(ものいみ)つけたるは、『さるべき日なれど、功德のかたには障(さは)らずと見えんむ』とにや。

   *

清少納言の、かの毒を含んだ評で、「烏帽子に物忌の札をつけているのは、わざと、『今日は物忌みに籠っておるべき日であるが、善根を積むためには構わぬのであるとこれみよがしに人に見せつけよう』というつもりなのかしら?」の意で、また、女房のケースでは、「節(せち)は、五月にしく月はなし。……」に、

   *

御節供(おほむせく)まゐり。若き人々、菖蒲の腰插(こしざし)、物忌(ものいみ)つけなどして、さまざまの唐衣(からぎぬ)・汗衫(かざみ)などに、をかしき折り枝ども、長き根に村濃(むらご)の組(くみ)してむすびつけたるなど、めづらしういふべきことならねど、いとをかし。

   *

とある。「御節供まゐり」は一語で名詞。節句の供えの御膳(おもの)を御前にお運び申し上げること。服装も特別でかなり雅やかなものであったという。「菖蒲の腰插(こしざし)、物忌(ものいみ)つけ」『新潮社日本古典集成』の「枕草子 上」(昭和五二(一九七七)年刊・萩谷朴校注)の頭注によれば、「延喜式」に「菖蒲珮(しょうぶのおもの)」とあり、『菖蒲の蔵人』(くろうど)『といって、若い女蔵人が腰に勝負の薬玉を佩(お)び、頭に菖蒲の蘰(かずら)[やぶちゃん注:髪飾り。]をつけた』。ここでは、そ『の菖蒲珮を「腰插」、菖蒲蘰を「物忌(ものいみ)」と記したのである』とある。則ち、この場合の「物忌み」は晴れの神事の非日常の潔斎のシンボルということになる。「唐衣・汗衫」成人女官の正装が前者、後者は童女のそれで衵(あこめ:女子の中着(なかぎ)。表着(うわぎ)と単(ひとえ)との間に着用した物)や打衣(うちぎぬ:表着の下、重ねの袿(うちき)の上に着用した物。貴族の女性の正装の際の着用着で、地質は平絹又は綾で、色は紅が多い)の上に着た正装着。「汗衫」の音「かんさん」の音変化したもの。平安以降、後宮に奉仕する童女が表着の上に着た。脇が空き、裾を長く引く。この服装の時には同時に濃(こき)の袴に表袴(うえのはかま)を重ねて穿いた。「晴」(はれ)の他に「褻」(け)の着装があり、着方が異なった。「をかしき折り枝ども、長き根に村濃(むらご)の組(くみ)して」季節の花の咲くついた枝などを、菖蒲の長い根に、濃淡を交互に染めつけた組み紐で結び附けて。

「背縫」(せぬひ)は、通常は衣服を背筋の所で縫い合わせること、またその縫目の所を指すが、嘗つては、その縫い目に魔除けの力があると信じられ、背後から忍び寄る魔を防ぐ力があると考えられていた。しかし、赤子の着る産着は、非常に小さく背縫いがなかったため、子どもに魔が寄りつかぬように背縫いの代わりとなる魔除けのお守りをを縫い附けた。「背守り」とも言う。始まりは定かではないが、鎌倉時代に成立した絵巻「春日権現験記」には、すでに背守りを縫い附けた着物を着ている子供が描かれてあり、かなり古い風習であることが判る。参照した「和樂web」のマキタミク氏の『魔除けの刺繍「背守り」とは?意味やデザインの種類、歴史を解説!』に多様なそれが写真で載っているので、是非、見られたい。

「守り縫」サイト「ワゴコロ」の「【背守り】子供を守る魔除けの刺繍!歴史や模様、作り方などを紹介!」(こちらも多数の写真が載る)に『基本の「守縫」』として、『背中の中心に沿って縦と斜めに縫い目をつけたシンプルな背守りで、「守縫もりぬい」「糸じるし」などと呼ばれています』。『男女による区別があり、男児は縦に』七『針と、襟下から右斜め下に』五『針縫い目を付け、女児は縦に』七『針と、襟下から左斜め下に』五『針縫い目を付けます』。『針目の数は』一年十二ヶ月『にあやかり、合計が』十二『針となるよう縦』七『針と斜め』五『針、または縦』九『針と斜め』三『針と決まって』おり、また、『糸の色は、赤、紅白、五色(赤・青・黄・黒・白)などさまざまで』、『また、縫い目をつけ終えたら』、『糸をそのまま長く垂らして』あるのが『特徴で、これには「子供が危険な目に遭いそうになった時、天の神様がその糸を引っ張って子供を引き上げてくれる」という意味が込められています』。『子供を神様に助けてもらいたいと願う、親の気持ちが込められた、呪術的な初期の背守りです』とあった。

「背紋」同前のページに、『手芸としての「背紋飾り」』に、『時代がたつにつれ、背守りは凝った図案の刺繍が施される手芸作品となっていきました』。『これを「守縫」と区別して、「背紋(せもん)」または「背紋飾り」と呼んでいましたが、現在では背守りというと、この背紋・背紋飾りのことを指します』。『図案となるモチーフは、昔からある縁起の良い吉祥文様が使われることが多く』、『図案集』も『販売されていました』とある。

「視害(印度語ナザール)や邪視(英語イヴル、アイ)を避ける本義に出た由を、明治四十二年五月の東京人類學會雜誌に書いて置いた」「選集」では「印度語」は『ヒンズー語』となっている。以上は先行電子化した「小兒と魔除」(リンク先はPDF一括版。ブログ版はカテゴリ「南方熊楠」で六回分割で載せた。なお、この論考の初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」で「J-Stage」のこちらPDF)で初出原本が見られる)。

「庚申」庚申信仰。或いはその信仰対象たる庚申塔(庚申塚)や、その信仰形態である庚申講などを指す。

「淡島」淡島信仰。和歌山市加太(かだ)に鎮座する淡島神社の祭神に関わる信仰。祭神は住吉大神の妃神(きさきがみ)で、婦人病のため、当地に流されたと伝えられるが、それは住吉大社の御厨(みくりや)があったことによる付会である。婦人病・縁結び・安産・海上安全などの信仰を集めるが、婦人病の信仰が顕著であり、子の安全を祈ることと強い親和性がある。戦国末期天文二一(一五五二)年跋のある説話「塵塚物語」(全六巻。作者は明らかではないが、序に藤原某とあり、また、巻一の冒頭の「前飛鳥井(さきのあすかゐ)老翁、一日、語られていはく」とあるので、藤原氏のある公家の手になるものと考えられる。上梓は永禄一二(一五六九)年の序があるので、その頃か。内容は「宇治拾遺物語」に似た体裁をとり、主として鎌倉から室町時代に及ぶ故事・見聞・逸話など六十五編が収められてある。特に室町末期の公家・武家の風俗や、動向・信仰に関するものが多く、史料的にも価値がある)によって、当初の縁起や、この信仰を説いて回る半僧半俗の者の存在が知られる。これらの活動により、ほぼ全国に淡島神社が祀られたと考えられるが、岩手県では性神信仰と結びつくなど、各地で種々の信仰や伝承を伝える例もある。祈願のために雛人形などを奉納したことが「紀伊続風土記」(幕末の紀伊藩の地誌。本編九十七巻、付録に古文書と神社が十七巻、高野山が六十巻、高野山総分方(附属寺社等の地誌)二十一巻、聖方(高野山中核部の地誌)からなる。文化三(一八〇六)年に幕府の命を受け、紀伊藩は儒者仁井田好古(にいだこうこ)を編纂主任に任命して編纂を始め、一時中断の後、天保一〇(一八三九)年に仁井田が序文を書いた。各郡の総論に続いて、古郷名・村名・田畑総数などを挙げ、ついで各荘名毎に当時の凡ての村々の村高・戸数・沿革・旧家などに至るまで編述する)に見えるが、現在も雛人形や身の回りの物品を納める風習が残っている(「塵塚物語「紀伊続風土記」の解説も含め、概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「藥師」東方の浄瑠璃世界の主宰で、除病安楽・息災離苦など十二の誓願を起こし、生ある凡てのものを救うとされる薬師如来への信仰。天武天皇九(六八〇)年頃から盛んになった。

「持囃す」「もてはやす」。

「例の狙」(さる)「は馬を健」(すこやか)「にすの一事」厩猿(まやざる)信仰。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま) (ウマ)」の「猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く」」の私の注を参照されたい。また、『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(30) 「猿舞由緖」(2)』も参考になるはずである。

「山王」「さんわう」。山王権現(さんのうごんげん)。滋賀県大津市坂本にある日吉大社の祭神。最澄が中国の天台山国清寺の山王祠に象って、比叡山の守護神として山王祠を建立したことから起こったもの。本地垂迹説によって大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭神とし、二十一社から成る。猿を神の使者とする信仰があり、山王祭・日吉祭などの祭礼も、近世までは陰暦四月の中の申の日に行なわれた(小学館「日本国語大辞典」に拠った。)

「今日も紀州で女兒が立つて遊び出す時、第一に與ふる物は淡紅の布に古綿を詰めて作つた猿像で、三四五歲の間は他の玩具無くとも、必ず之を負ひ又懷」(いだ)「いて遊ぶ」いろいろなフレーズの組み合わせで調べたが、和歌山での、この習慣は、ネット上では見出せなかった。現存していることを御存じの方は、御教授願いたい。なお、後の『「はふこ」又伽婢子』の引用の「☞」部を参照されたい。

「公事根源」「公事根源」(くじこんげん)は「公事根源抄」とも呼び、朝廷の年中行事を 十二ヶ月に分けて、それぞれの由来を解説した書。一条兼良撰。応永二九(一四二二)年成立。現存しない行事や、これを通しての民俗信仰を窺い得る好史料とされる。「あかちこ」は恐らく「六月」の頭にある「御贖物(ミアガモノ)」に出る「あがちこ」であろう。関根正直校注の「公事根源新釋」下巻(明治三六(一九〇三)年六合館刊)のここで、関根氏は注釈して、『「贖物」は、実の禍を祓ふ料』(れう)『の物なれば然』)しか)『いふ。「あかちご」は贖物を持參女子をいふ。年中行事秘抄に御巫(みかんこ)東宮年中行事には「畧してみかんとある是なり』とある。当初、巫女の袴の色から「赤稚兒」かと思ったが、「贖巫女(あがかんなぎ)」の縮約のようである。

「伊勢守產所記」室町中期から戦国時代にかけての幕臣で故実家でもあった伊勢貞陸(さだみち 寛正四(一四六三)年~永正一八(一五二一)年)の著「產所之記」であろう。

『「はふこ」又伽婢子』(とぎばうこ)は、元は「這子」(はふこ(ほうこ))。小学館「日本大百科全書」の斎藤良輔氏の解説がここに相応しい。『這(は)う子にかたどった布製の信仰的人形。婢子とも書く。白絹の縫いぐるみで絹糸の黒髪をつけ、金紙で束ねてあり、平安朝時代の官女に似た顔だちをしている。当時』、『貴族階級の間で、幼児の守りとして天児(あまがつ)という人形を枕頭(ちんとう)に置き、幼児にふりかかる災厄を、それに身代りさせることが行われたが、この天児と同じ意味で使用された。伽(とぎ)這子、御伽ともいった。室町時代には這子のことも天児とよんだ。これがしだいに変化して、天児と這子を男女一対の人形とする立ち雛(びな)形式が生まれ、雛人形の根元となった。江戸時代に入ると』、『貴族階級の天児に対して、庶民の間では同じく這子を幼児の祓(はらい)の具として用いるようになり、犬張り子なども添えて置き、雛祭には雛段に飾った。幼児の髪置(』三『歳)の宮参りにこれを持って行くこともあったが、江戸中期には天児(男)と這子(女)とを対(つい)の物として扱い、嫁入りにも持参した。家庭で婦人の手細工としてつくられた。また』、『頭だけ』を『人形屋で求めてきて、衣装は裁縫の初歩用に嫁たちが』作ったりした(☞)。『これがさらに玩具』『化されたものに猿子(さるこ)がある。桃色の木綿布でつくった人形で、中に綿を詰めて仕上げたもの。負い猿、お猿さんなどともよばれ、幼女の遊び相手にされた』(明らかに先の熊楠が言っている内容に完全に合致する)。『現在』、『岐阜県高山市産の郷土玩具「猿ぼぼ」などに名残』『をとどめている。また這子から転化した郷土玩具には、香川県高松市産の「ほうこさん」、鳥取県倉吉(くらよし)市産の「はこた人形」などがある』とある。

「遺意」「いい」。習俗の名残。

「詰り」「つまり」。「所謂」の意。

「之を持つて遊ぶ子の罪禍を猿の像に負はせる」則ち、熊楠は、この玩具はお守りというよりも、児童が受けるべき災厄の身代わりとなる呪的な形代(かたしろ)が原形であると断じていることになる。

「惟ふ」「おもふ」。

「降つて」「くだつて」。

「彈き猿」「はじきざる」。前掲辞書の同じ斎藤良輔氏の記載。『棒に紅布製の括(くく)り猿を抱きつかせ、下から竹ばねをはじいて』、『猿を昇り降りさせる玩具』。『猿弾きともいう。江戸時代の明和』(一七六四年~一七七二年)『の末に出現した幟猿(のぼりざる)(五月節供の外飾りにつける猿)の着想から生まれた。江戸中期以後、外飾り幟が室内飾りに転移し、幟猿が』次第に『衰退したのに』代わって『流行した。ことに「はじきざる」の語呂(ごろ)が、災いを「弾き去る」という俗信に結び付き、縁起物として迎えられた』。『かつては郷土玩具として全国各地にみられたが、その多くがすでに姿を消している。現在では、宮城県気仙沼』『市唐桑(からくわ)町御崎(おさき)神社の祭礼』(一月十四日~十五日)『に売られる唐桑の弾き猿、東京都葛飾』『区柴又帝釈天』『の弾き猿、三重県松阪(まつさか)市の厄除』『け観音岡寺山(おかでらさん)継松寺で、旧暦初午』『の日』(三月中旬)『に露店で売られる松阪の猿弾きなどが代表的である』とある。なお、これ以下が、後に示される「嬉遊笑覽」(国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立)の「卷之六 下」所収のものである。国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここからである。以下もそちらをまず見られたい。

「繫がり猿」小型の猿人形が手を繋いで連なったものであろう。ネットに画像はないが、想像は出来る。欲しい。

「水挽猿」「みづひきさる」。小学館「日本国語大辞典」に「うすひきさる」(「臼挽猿」)があり、『人形の猿の下に車をつけ、水』(☜)『の吹き出す力によって水車が回転し、これにつれて猿が臼を引く仕掛けのおもちゃ』とある。以下の「米搗猿」(こめつきさる)も同じようなものと思われる。「嬉遊笑覧」の記載も同様である。

「桃核」(もものたね)「嬉遊笑覧」によれば、売り物ではなく、個人が手すさびに桃の種を彫琢して作った猿像とある。

「蜜柑の猿」同前で、『是今も柑瓤(ミカンノフクロ)を髮毛にて括りて猴に作るなり』とある。一寸、想像出来ないのだが。

「猿の力持(守貞漫稿二十五)」同書は「守貞謾稿」とも書く。江戸時代後期の三都(京都・大坂・江戸)の風俗・事物を説明した類書(百科事典)。著者は喜田川守貞(本名は北川庄兵衛。浪華生まれの商人)。起稿は天保八(一八三七)年で、実に約三十年の間、書き続けて全三十五巻(「前集」三十巻・「後集」五巻)を成した。刊行はされず、稿本のまま残されたが、明治になってから翻刻された。千六百点にも及ぶ付図と詳細な解説によって近世風俗史の基本文献と見做されている。私は別名の「近世風俗志」の岩波文庫で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部「猿の力持蝙蝠」が視認出来るが、その僅かな記載から、守貞自身、いかなる形状の玩具であるか判らなかったようである。

『書紀に、「猿田彥大神、口尻明耀、……」底本では、「猿田彥大神、口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然」以下の「似赤酸醬、卽遣從神往問。時有」までない。猿田彦の神が降臨した天孫を迎え奉るシークエンスである。訓読する。

   *

猿田彥大神(さるたひこのおほかみ)、口、尻(かく)れ、明(あ)かり耀(て)れり、眼(まなこ)は八咫(やた)の鏡のごとくして、赩然(てりかがや)けること、赤酸醬(かがち)に似たり。八十萬(やをよづる)の神、皆、目勝(まが)ちて相ひ問ふことを得ず。

   *

「赤酸醬」ホオヅキの熟して赤くなった実。「目勝ちて」目が眩(くら)んで。

「古事記を見るに此神比良夫貝を取らんとて手を貝に挾まれ溺死せし」原文は以下。

   *

故其猿田毘古神、坐阿邪訶時、爲漁而、於比良夫貝其手見咋合而、沈溺海鹽。故其沈居底之時名、謂底度久御魂、其海水之都夫多都時名、謂都夫多都御魂。

   *

角川文庫の武田祐吉訳注版を参考に訓読する。

   *

故(かれ)、其の猿田毘古神(さるたひこのかみ)、阿邪訶(あざか)に坐(ま)しし時、漁(すなど)り爲(し)て、比良夫貝(ひらぶがひ)に其の手を咋(く)ひ合(あ)はさえて、海鹽(うしほ)に沈み、溺れたまひき。故、其の底に沈み居(ゐ)たまふ時の名を、「底(そこ)どく御魂(みたま)」と謂ひ、其の海水のつぶたつ時の名を、「つぶたつ御魂」と謂ふ。

   *

「阿邪訶」地名。三重県松阪市に小阿坂町と大阿坂町があり、孰れにも阿射加(あざか)神社がある。ここ(北が大阿坂町、が小阿坂町)。「比良夫貝」斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ亜科ツキヒガイ属ツキヒガイ Amusium japonicum 説、タイラギ説があるが(日本産タイラギは、一九九六年、アイソザイム分析の結果、有鱗型と無鱗型と個体変異とされていたものが、全くの別種であることが明らかとなった。学名は現在も混迷中で早急な修正が迫られている。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ」の私の注を参照されたい)、まあ、後者の方が溺れ死にとは合うんだろうが(大真面目にこれをタイラギに断定している(その御仁はシャコガイ説を『お笑い』として一蹴しておられる)ページを見て、私は正直、タイラギの冤罪には微苦笑せざるを得なかった)、私は未だ嘗つてタイラギに手を挟まれて亡くなった人というのを知らないね。そんなことは太古でもあるまいと思う。しかも、かの天狗の原型ともされる国津神の猿田彦が、おめおめと貝に挟まれて死ぬはずがなかろうに。おう、或いは、……天孫の送り込んだ女の暗殺者で……「貝」だったのかもね……なお、瀬戸内海で潜水服でタイラギ漁をしていた漁師さんが亡くなったのは知っているが(一九九二年)、その事件の真相はサメに襲われたものと推定されているね。

「甲子夜話卅に、著者靜山侯が備中で薩侯の息女江戶上りに行遇ひたるに、……」事前にこちらで電子化注しておいたので、まず、そちらを読まれたい。

「旗幟」「はた・のぼり」。]

2022/06/23

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「熊野の天狗談に就て」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十月発行の『鄕土硏究』第三巻第八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     熊野の天狗談に就て

 

 田村君の天狗の話(鄕硏三卷三號一八三頁)を讀んで居る處へ、新宮生れで東牟婁南牟婁兩郡の珍事活法とも云ふべき山本鶴吉ちふ人が來たので聞いて見ると、元津野と田村君が書いたのは廣津野を正しとす。宇久井生れで廣津野に移住した者が山爺と成つたので、最近に鹽を貰ひに歸つたのは二十年程で無く三十年程前のことだつた。又「一人娘をわけ村にやるな」と唄はるるは南牟婁郡の和氣村下和氣で、此處新宮から三里半程、人家四五軒あるのみ、川を隔てゝ東牟婁郡の能城山本に、ヰノシヽグラとて野猪も滑り落るてふ高い崖がある。又川の中に大石磊砢と集まつて、水の減つた時遠望すると恰も味噌を延し敷いたやうに見える暗礁があつた。之をミソマメと呼んだが、明治二十二年の大水で川原の下に埋まつてしまうたと語られた。

      (大正四年鄕硏第三卷第八號)

[やぶちゃん注:「田村君」「選集」割注によれば、田村吉永とある。日本史学者田村吉永(明治二六(一八九三)年~昭和五二(一九七七)年)であろう。奈良師範卒。生地の奈良県で中学校教員などを努める傍ら、歴史研究に励み、大正一二(一九二三)年に『大和史学会』を、昭和六(一九三一)年には『大和国史会』を創設、昭和九年には雑誌『大和志』を発刊している。後に梅光女学院大教授となった。著作に「天誅組の研究」などがある。

「天狗の話(鄕硏三卷三號一八三頁)」ネット上では読めない。されば、後の「一人娘をわけ村にやるな」とい意味も判らぬ。僅かに「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「天狗」・「石」のカードが、当該論考に基づくものであることが判っただけである。そこの「要約」に『和気村というところがある。そこには今でも天狗が住んでいて、曇天の日などには、山から大きな石を投げてくるという。』とあった。いや、そもそも、何で、この短い訳の分からぬ話の題名が「熊野の天狗談に就て」となるんじゃい! と少々突っ込みたくなる。単に、熊楠は、その話柄の中の記載の誤りを天狗の鼻捕ったように言いたかっただけなんじゃないの? と皮肉を言いたくなる私がいる(そういう誤りの論いに偏執して、しかも批評対象の論考と同じ題名で書いたりするから、結局、後に柳田國男から絶交されちゃうことにもなったんでしょ? 熊楠先生?)。

「珍事活法」「活法」は「活用する方法・有効に働かす手段」で、所謂、諸事に就いてのハウトゥ書・手引書を謂う。例えば、漢詩を作るのに韻を手軽に調べる本に「詩韻活法」がある如くである。されば、ここは、珍事に就いての信頼出来る知恵者或いは情報屋という謂いである。

「山本鶴吉」不詳。

「元津野と田村君が書いたのは廣津野を正しとす」和歌山県新宮市新宮に廣津野神社(グーグル・マップ・データ。以下指示しないものは同じ)があるが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、ここの地区の旧名として、ズバり、「廣角」(「ひろつの」であろう)と出る。

「宇久井」「うぐゐ」。「選集」で『うぐい』と振るのに拠った。これは、新宮の南に近い和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井(うぐい)であろう。

「山爺」「やまをぢ」。「選集」に『やまおじ』と有るのに従った。これは妖怪のそれではなく、山に分け入って、住民との接触を極力断ち、隠棲する老人の謂いであろう。ともかくも、田村氏の論考が読めないのでそう解釈しておく。

「わけ村」「南牟婁郡の和氣村下和氣」現在の三重県熊野市紀和町(きわきちょう)和気(わき)であろう。「ひなたGPS」で「下和氣」を発見した。新宮からの距離も一致する。航空写真で拡大してみたが、現在は村落らしきものは見当たらない。

「川を隔てゝ東牟婁郡の能城」(のき)「山本」前注の「ひなたGPS」で二つの地名を確認出来る。現在は新宮市熊野川町能城山本(のきやまもと)として地区が合併している。

「磊砢」「らいら」岩石が重なり合っているさま。

「延し敷いた」「のばししいた」。

「明治二十二年の大水」一八八九年。この辺り、2011年の台風十二号による大水害が記憶に新しい。グーグル・マップ・データ航空写真の「紀伊半島大水害の碑」をリンクさせておく。まさに、この場所の対岸北方が旧下和気である。]

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「生駒山の天狗の話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年二月発行の『鄕土硏究』第二巻第十二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部を訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     生駒山の天狗の話

 

 昨夜奇異の事を聞く。長島金三郞と云ふ元大和郡山の藩士、當地に來り花と茶を敎へ又金魚屋を營み居る。五十五歲なり。此人云ふ、十四の時生駒山に預けられ寺に居る。例年四月一日には大法會あり、護摩を修し士女麕集す。此前年、前鬼の和尙さんとて五十餘歲で眼深く仙人顏なる和尙、每夜此寺へ來ることあり。洞川の寺から夕食を濟ませて後高下駄を履き來り、十時過頃迄話して又洞川へとて去る(洞川は生駒山より十何里あるか知らず、兎に角遠方なり。吉野郡天川村大字洞川)。或時寺の小僧等此和尙に向ひ、法會の時天狗を連れ來り見せよと言ひしに連れ來る。尋常七八歲の子供數人にて、松の樹の上に遊び居る。是れ天狗なりと云ふ。子供の天狗は面白からず、大人の天狗を連れ來たれと云へば、それは難事なり、然し試むべしと云ふ。其翌年卽ち長島生駒山に居りし年の法會に彼和尙一人來る。貴僧は約束を忘れ天狗を連れ來たらざりしことよと云ふに、連れ來りてそこに有るではないかと護摩壇を指す。其方を見るに何も無し。何も無しと言へば、成程汝らに見えぬは尤も也とて、和尙自分の衣の袖をかざしてそれを隔てゝ見せしむ。長島等其袖を透して見るに、護摩壇の邊に天狗充盈す。確かには覺えねど(熊楠曰く、幽靈始めかゝる鬼形の物は皆見ても慥に覺えるを得ず)、頭は坊主で男女ありしやうなり。衣袈裟等尋常の僧に異ならぬ者多く、中には鼻至つて高きあり、其鼻は上の方へ又は下の方へ鉤りてあり。其常人と異ならざる者も、和尙の袖を透かさずに見れば一向見えぬにて天狗なることを知りしと云ふ。   (大正四年二月鄕硏第二卷第十二號)

[やぶちゃん注:「長島金三郞」「五十五歲なり。此人云ふ、十四の時」当該人物は不詳だが、数えであるから、生年は一八一六年で、万延元年十一月二十一日から万延二年を経て文久元年二月十九日から文久元年十二月一日までとなる。十四の年は一八三一年で、文政十三年十一月十八日から天保元年十二月十日から同二年十一月二十九日となる。

「生駒山」現在の奈良県生駒市菜畑町(なばたちょう)にある生駒山(やま/さん)。標高六百四十二メートルの生駒山地の主峰で、麓から奥の院まで持つ真言律宗生駒山寳山寺(ほうざんじ)で知られる。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「四月一日には大法會あり」現在も大護摩会式が修される。公式サイトのこちらを参照されたい。

「麕集」「きんしふ」。群がり集まること。

「前鬼の和尙さん」ウィキの「前鬼・後鬼」によれば、『「前鬼・後鬼」(ぜんき・ごき)は、修験道の開祖である役小角が従えていたとされる夫婦の鬼。前鬼が夫、後鬼が妻である』。『役小角を表した彫像や絵画には、しばしば(必ずではないが)前鬼と後鬼が左右に従う形で表されている。役小角よりは一回り小さい小鬼の姿をしていることが多い』。『名は善童鬼(ぜんどうき)と妙童鬼(みょうどうき)とも称する。前鬼の名は義覚(ぎかく)または義学(ぎがく)、後鬼の名は義玄(ぎげん)または義賢(ぎけん)ともいう』。『役小角の式神であったともいい、役小角の弟子とされる(実在性および実際の関係は不明)義覚・義玄と同一視されることもある』。『夫の前鬼は陰陽の陽を表す赤鬼で鉄斧を手にし、その名の通り』、『役小角の前を進み』、『道を切り開く。笈を背負っていることが多い。現在の奈良県吉野郡下北山村出身とされる』。『妻の後鬼は、陰を表す青鬼(青緑にも描かれる)で、理水(霊力のある水)が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多い。現在の奈良県吉野郡天川村出身とされる』。『前鬼と後鬼は阿吽の関係』にあるが、『本来は、陰陽から考えても、前鬼が阿(口を開いている)で後鬼が吽(口を閉じている)だが、逆とされることもある』。『元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた。役小角は、彼らを不動明王の秘法で捕縛した。あるいは、彼らの』五『人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えた』。二『人は改心し、役小角に従うようになった。義覚(義学)・義玄(義賢)の名は』、この時、『役小角が与えた名である。彼らが捕らえられた山は鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にある』。『修験道の霊峰である大峰山麓の、現在の下北山村前鬼に住んだとされ、この地には』二『人のものとされる墓もある。また、この地で(生駒山のエピソードと時間順序が矛盾するが)』、五『人の子を作ったと』されており、『さらに、前鬼は後に天狗となり、日本八大天狗や四十八天狗の一尊である大峰山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)になったともされている』とあって、天狗との相性が強い。ここで、この和尚がかく呼ばれるのは、山岳修験道の祖たる役小角の弟子の称号として、敬意を込めた通称であると考えられる。次の注も合わせて参照のこと。

「洞川」(どろかは)「の寺」「洞川は生駒山より十何里あるか知らず、兎に角遠方なり。吉野郡天川村」(てんかはむら)「大字洞川」現在もこの地名である。ここ。まさに、前の注に出る修験道のメッカの一つ大峰山(おおみねさん)寺がある。地図上に「女人結界門」が指示されてあるが、現在も女人禁制が守られている。ここから生駒山までは、直線でも五十キロメートルを超える。ウィキの「大峰山」を見ると、如何にも天狗の巣窟っぽい。

「充盈」「じゆうえい」。満ち満ちていること。充満。

「鬼形」「きぎやう」。

「鉤りて」「まがりて」。]

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「河童の藥方」PDF縦書版公開

昨日、ブログで公開した「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「河童の藥方」であるが、なまじっか、珍しく熊楠が引用漢文に訓点を打っているため、横書では却って本文が甚だ読み難い。そこで、今朝、PDF縦書版を作成し、サイト版として「心朽窩旧館」に公開した。こちらである。

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