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カテゴリー「南方熊楠」の305件の記事

2022/11/25

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 武邊手段の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、私は本篇を、二〇一〇年一月二十八日に、上記「選集」を底本としてサイト版として「武辺手段のこと」として電子化注しているが、今回は全くの零から始めており、これを決定版とする。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

      武邊手段の事 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 「武邊手段の事」と題して、根岸肥前守の「耳袋」二編に次の話が有る。寬延の末頃、巨盜日本左衞門の餘類の山伏、長《ながさ》三尺、周《めぐり》一寸餘の鐵棒を用るのが上手で、諸國で手に餘つた。所ろが、大阪町同心の内に武邊の者有《あり》て、手段もて、難無く捕へた。其法と謂《いは》ば、此同心、長五尺、廻り二寸近い鐵棒を作り、姿を變じて、彼《かの》山伏の宿に詣《いた》り、知人に成り、色々、物語の上、自分も鐵棒を使ふ由言《いひ》て、持參した棒を見せると、山伏、驚きて、同心の大力《だいりき》を讃《ほ》め、自分のと取更(とりかえ[やぶちゃん注:ママ。])に、同心の棒を手に取《とつ》て觀る。隙に乘じ、山伏の鐵棒で、山伏の眞甲を打つ。山伏、「心得たり。」と、同心の棒を取上《とりあげ》たが、力に餘つて、働き、十分ならず。彼是する内、組の者、入來《いりき》たりて捕へた。

[やぶちゃん注:『「武邊手段の事」と題して、根岸肥前守の「耳袋」二編に次の話が有る』「『耳袋』二編」とあるが、私が全電子化注(二〇一五年四月完遂)の底本した所持する三一書房『日本庶民生活史料集成』第十六巻「奇談・紀聞」中の「耳囊」(底本は本篇を含む巻一については東北大学図書館蔵狩野文庫本)では「卷之一」にあるし、別に所持する岩波文庫の、現在、唯一の十巻完備本であるカリフォルニア大学バークレー校本東アジア図書館蔵旧三井文庫本でも、同じく「巻之一」である。但し、「耳囊」の伝本は不完全なものが複数あり、そうしたものの一つ翻刻したものを熊楠は所持していた可能性があり、熊楠の誤記や、驚くべき記憶力で書くことの多い彼の誤記憶とは必ずしも断定出来ない。特に、この「武邊手段の事」は上記二本ともに第一巻の終りの方にあるため、錯本が第二巻に回した可能性はあると言えるのである。なお、ブログ単発では、「耳囊 武邊手段ある事」(当時、第一巻では標題では巻数を外していた)であり、そちらで十二年前の私が真摯に注を附しており、現代語訳もやっているから、ここでは、それに敬意を表してそこに注したものは繰り返さない(今回、当該記事のみの正字不全(ユニコード前のための不可抗力)だけは修正しておいた)。そもそもサイト版「武辺手段のこと」のここの部分への注は、直前(前日)に電子化した「耳囊」の注を援用したに過ぎないからである。閑話休題。「根岸肥前守」は根岸鎭衞(しづもり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)は旗本。下級旗本の安生(あんじょう)家の三男として生まれ、宝暦八(一七五八)年二十二歳の時、根岸家の養子となり、その家督を相続した。同年中に勘定所御勘定として出仕後、評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)・勘定組頭・勘定吟味役を歴任した。また、彼は河川の改修・普請に才覚を揮い(「耳嚢」にはそうした実働での見聞を覗かせる話柄もある)、浅間大噴火後の天明三(一七八三)年、四十七歳の時には浅間復興の巡検役となった。その功績によって翌天明四(一七八四)年に佐渡奉行として現地に在任、天明七(一七八七)年には勘定奉行に抜擢されて帰参、同年十二月には従五位下肥後守に叙任、寛政一〇(一七九八)年に南町奉行となり、文化一二(一八一五)年まで、終身、在職した。

「長三尺」約九十一センチ。

「周一寸」直径三センチ。「周」は今なら円周だが、それでは九ミリほどの細いものでおかしい。「わたり」(径)に「周」を当てたものと判断する。後の「廻り」も同じ。

「五尺」一メートル五十一センチ。

「廻り二寸」直径六センチ。]

 是は事實譚らしいが、似た話が伊太利の文豪「ボカッチオ」[やぶちゃん注:ママ。]の「デカメロン」の第五日、第二譚に在る。此譚は、伊太利の「リパリ」島の富家の娘「ゴスタンツァ」と、貧士「マルツッチオ」が相惚《あひぼ》れと來たが、女の父、男の貧を蔑《さげす》みて、結婚を許さぬ。男、大《おほい》に奮發して、身、富貴とならずば、生きて再び、此島を見ぬと言放《いひはな》ち、同志を募り、海賊となり、繁盛したが、「チュニス」人と戰ふて、囚はれた切り、故鄕へ、消息が無い。娘、失望の餘り、潜かに家を出《いで》て海濱にゆき、空船を見出《みいだ》し、海中で死なうと、それに乘《のり》て宛も無く漕出《こぎいだ》し、哀《あはれ》んで、船中に臥すと、船は無難に「チュニス」近き「スサ」市につき、情有る漁婦に救はれ、富家の老婦に奉公し居《を》る。「マルツッチオ」は、長々、獄中に居る内、「チュニス」へ敵が大擧して攻入《せみら》うとすると聞《きき》て、獄吏に向ひ、「『チュニス』王、予の謀《はかりごと》を用ひたら、必勝だ。」と云ふ。獄吏から、此事を聞いた王は、大悅びで、「マルツッチオ」を延見《えんけん》して、奇計を尋ねる。「マルツッチオ」曰く、「王の軍勢が用《もちひ》る弓弦《ゆづる》を、敵に少しも知れぬ樣に、至《いたつ》て細うし、其に相應して、矢筈《やはず》をも、至て狹うしなさい。扨、戰場で雙方、存分、矢を射盡して、彌《いよい》よ拾ひ集めた敵の矢を用るとなると、此方《こなた》は弦が細いから、敵の廣い矢筈の矢を射る事が成るが、敵の弦は、此方から放つた矢の狹い矢筈には、ずつと太過《ふとすぎ》て、何の用をも成《なさ》ぬ。此方は、矢、多く、敵は、矢がなくなる道理で、勝つ事、疑い無し。」と。王、其策を用ひ大捷《たいせふ》し、便《すなは》ち「マルツッチオ」を牢から出し、寵遇、限りなく、大富貴と做《なつ》た。此事、國内へ知れ渡り、「ゴスタンツァ」女《ぢよ》、「マルツッチオ」を訪《おとな》ひ、戀故に辛苦した話をすると、大悅びで、王に請《こふ》て、盛んに婚式を擧げ、大立身して、夫婦が故鄕へ歸ったと云ふ事ぢや。「エー・コリングウッド・リー」氏の『「デカメロン」出所及び類話』(一九〇九年の板、一六〇頁)に據ると、「ジォヴニ・ヴラニ」(一三四八年歿せり)の「日記」卷八に、一二九九年、韃靼帝の子「カッサン」が、己れの軍兵の弦と筈を特に細くして、埃及王を酷《むご》く破った、と有る由。「ヴィラニ」は「ボカッチオ」と同時代の人だ。

[やぶちゃん注:『「ボカッチオ」の「デカメロン」の第五日、第二譚』中世イタリアのフィレンツェの詩人で作家のジョヴァンニ・ボッカッチオ(Giovanni Boccacio 一三一三年~一三七五年)、及び、彼の代表作で一三四九年から一三五一年にかけて執筆された(本邦では南北朝時代に相当)イタリア散文の濫觴にして世界文学に於ける近代小説の魁(さきがけ)として評価される作品「デカメロン」(DecameronDecamerone))については、サイト版「武辺手段のこと」の私の注を参照されたい。梗概が記されたそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの戸川秋骨訳の同書の翻訳「十日物語」(大正五(一九一六)年国民文庫刊行会刊)のここから視認出来る。

『伊太利の「リパリ」島』イタリア語で“Isola di Lipari”。「リ―パリ」とも音写する。シチリア(Sicilia)島の北東沖に浮かぶエオリエ諸島最大の島。の紀元前四千年から人が住んでいたと言われており、城塞地区には住居跡も残り、居住の歴史は六千年前の新石器時代にまで遡るとされ、青銅器時代やギリシャ時代の遺跡が残る歴史の島である。ギリシャの詩人ホメロス(Homeros)の「オデュッセイア」(Odysseia)に登場する風の神アイオロスの住む島とされ、島の名もホメロスの娘婿リパロに由来するとされる。古くは黒曜石や軽石(エオリエ諸島は火山列島)の交易で栄えた。現在はエオリエ諸島観光の拠点である。

「ゴスタンツァ」原文(イタリア語の「Wikisource」のこちらに拠った。以下同じ)では‘Gostanza’。戸川は『コンスタンチア』と訳している。

「マルツッチオ」“Martuccio”。戸川訳は『マルツチオ』。

「空船」これを「うつろぶね」と読むなら、このシークエンスは一種の汎世界的な各種の創世神話の変形譚が意識されているパロディのようにも思われる。

『「チュニス」人』“Tunis”は現在のチュニジア共和国の首都で、その地の民。以下、ウィキの「チュニス」によると、古代フェニキア人によって建設されたカルタゴ近郊の町であったが、『ローマ共和国との間で戦争を繰り返し、紀元前』百四六『年の第三次ポエニ戦争で完全に破壊され』、『その後、ローマの属州アフリカとなり』、再建され、三七六『年のローマ帝国の分裂に伴い、東ローマ帝国の属州となった』。七『世紀にはウマイヤ朝(イスラム帝国)は、当時イフリーキヤと呼ばれたチュニジアの占領を目指していた』六七〇『年のオクバの遠征によって』、『イフリーキヤにはカイラワーンが建設され、ウマイヤ帝国のアフリカ支配の拠点として更なる拡大をもくろんだが、ベルベル人の激しい抵抗にあって苦戦した。その後、ハッサン・イブン・アル=ヌマン率いるウマイヤ朝軍が東ローマ帝国軍を破って』、『カルタゴを占領、さらに』七〇一『年にはベルベル人が支配するカヘナも攻略する。これ以降、この街はチュニスとしてアラブ人によって開発されること』となり、イスラーム化された。『一時期』、『シチリア王国を築いたキリスト教徒のノルマン人に占領され』たこともあったが、十二『世紀には西方から侵攻したモロッコのムワッヒド朝が支配することになった』とある。

「スサ」“Susa”。ウィキの「スース」によると、フランス語で“Sousse”(「スース」。又はアラビア語で“Sūsa”(スーサ)と言う。港湾都市で、『チュニスの南約』百四十キロメートルに『に位置するチュニジア第三の都市で』、現在の『人口は約』四十三『万人。町は美しく、「サヘルの真珠」といわれる。旧市街メディナはユネスコ世界遺産に登録され』た。『紀元前』九『世紀頃』、『フェニキア人によって「ハドルメントゥム(Hadrumentum)」と』いう名で『開かれた。古代ローマと同盟を結びんでいたため』、「ポエニ戦争」『中も含め』、『パックス・ロマーナの』七百『年の間』、『比較的』、『平和で、大きな被害を免れた』。『ローマ時代の後、ヴァンダル族、その後』、『東ローマ帝国がこの町を占拠し、町の名を「ユスティニアノポリス(Justinianopolis)」と改名』、七『世紀にはアラブ人のイスラム教軍が現在のチュニジアを征服し、「スーサ(Sūsa)」と改名。その後』、『すぐアグラブ朝の主要港となった』。八二七『年にアグラブ朝がシチリアに侵攻した際、スーサは主要基地となった』。『その後』、『ヨーロッパでは技術革新が進み』、『イスラム教に対して優勢に出始め』、十二『世紀にはノルマン人に征服された時期もあり、その後』、『スペインに征服された』。十八『世紀にはヴェネツィア共和国とフランスに征服され、町の名をフランス風に「スース(Sousse)」と改名した。その後もアラブ風の町並みは残り、現在ではアラブ人による典型的な海岸の城砦都市として観光客が多く訪れる』とある。

「延見」呼び寄せて面会すること。「引見」に同じ。この「延」は「引き寄せる・招く」の意。

「矢筈」矢の末端の弓の弦(つる)を受ける部分で、弓の弦に番(つが)えるための切り込みのある部分を指す。この時代のそれは、木製の矢柄を、直接、二股に削ったものであったと考えられる。

『「エー・コリングウッド・リー」氏の『「デカメロン」出所及び類話』(一九〇九年の板、一六〇頁)』A. Collingwood Lee(詳細事績不詳)の一九〇九年刊の‘The Decameron. : Its sources and analogues’。調べたが、原本に当たれなかった。

『「ジォヴワニ・ヴヰラニ」(一三四八年歿せり)』フィレンツェの銀行家にして歴史家でもあったジョヴァンニ・ヴィッラーニ((Giovanni Villani ? ~一三四八年)のこと。ヴィッラーニは「新年代記」の作者として知られ、南方の言う「日記」も、それを指すものと思われる。以下、ウィキの「ジョヴァンニ・ヴィッラーニ」より引用する。『父親のヴィッラーノ・ディ・ストルド・ヴィッラーニはフィレンツェの有力な商人の』一『人であり』、一三〇〇『年にはダンテ・アリギエーリとともに市の行政委員(プリオーネ)を務めた』(但し、『ほどなく辞任して翌年の政変で失脚した同僚ダンテと明暗を分けることとな』った)。この年、ジョヴァンニはペルッツィ銀行に入社して』一『人前の商人の』一『人としてのスタートを切っている。この年はローマ教皇ボニファティウス』Ⅷ『世が初めて聖年とした年であり、各地より』二十『万人がローマ巡礼に訪れた。ジョヴァンニもまた』、『これに参加してローマを訪問し』、『ローマの史跡や文献に触れる機会があった。そこで彼は古代ローマ以来の歴史家の伝統が途絶したことを嘆き、「ローマの娘」を自負するフィレンツェ市民である自分が』、『その伝統を復活さなければならないとする霊感に遭遇した(と、本人は主張した)ことによって、彼は「ローマの娘」フィレンツェを中心とする年代記編纂を決意したと伝えられている』。『だが、彼の決意とは裏腹に』、『実際には商人・銀行家としての道を着実に歩む彼には執筆の時間はほとんど無かったと考えられている。代表者の死去によって』、『当時の慣例に従って』、『ペルッツィ銀行は一旦清算されることなると、彼は再設立されたペルッツィ銀行ではなく、縁戚の経営するブオナッコルシ銀行に移り』一三二五『年には共同経営者となった。同時にフィレンツェ市の役職も歴任し』、一三一六年・一三一七年・一三二一年には『父と同じ行政委員に就任したほか、各種の委員を務め、この間に多くの行財政文書を閲覧する機会に恵まれた。ところが』一三三一『年に市の防壁建築委員を務めていたジョヴァンニは』、『突如』、『公金横領の容疑で告発を受けることとなる。これは間もなく無実と判断されたが、政治的な挫折を経験したジョヴァンニの年代記執筆がこの時期より本格化していったと考えられている』。『ところが、ジョヴァンニの引退後、フィレンツェの政治は混乱して信用問題にまで発展、更に百年戦争による経済混乱も加わって』、一三四〇『年代に入ると』、『フィレンツェは恐慌状態に陥った結果、同地の主要銀行・商社のほとんどが破産に追い込まれた』。一三四二『年にブオナッコルシ銀行が破綻に追い込まれると、ジョヴァンニは債権者との交渉にあたったが、続いてペルッツィ銀行・バルディ銀行など』、『他の会社も次々と倒産した混乱もあって混乱が収まらず』、一三四六年二月には、『ジョヴァンニが債権者の要求によって』、『一時』、『投獄される事件も起きている。そして』、一三四八『年にフィレンツェを襲った黒死病はジョヴァンニの命をも奪ってい』ったのであった。『その後、ジョヴァンニの後を引き継ぐ形で』、『三弟のマッテオ・ヴィッラーニ』(一三六三年没)と、『その子フィリッポ・ヴィッラーニも年代記を執筆している』とあり、以下、「新年代記」の内容を記載する。“Nuova Cronica”「新年代記」は全十二巻から『構成され、大きく』二『部に分けられる。前半』六『巻はバベルの塔からフリードリヒ』Ⅱ『世までを扱い、父祖以前の歴史に属するため先人の著書に依存する部分が多い。また、ジョヴァンニはラテン語をほとんど知らなかったとされる一方で、聖書や古典に関する知識が豊富であり、それが記述にも生かされている。後半の』六『巻は』一二六六『年のシャルル・ダンジューのシチリア王継承から始まり、父親』或いは『自己の生きた時代を描いて』一三四六『年で終了している。彼が銀行家・政治家として活躍した』一三一〇『年代を描いた第』八『巻以後については綿密な記載がされており、彼が優れた観察者であったことがうかがえる。特に第』十一『巻にある』千三百三十八『年頃のフィレンツェの風景と経済状況に関する記述の緻密さはヤーコプ・ブルクハルトにも注目された。また、彼も同時代の他の人々と同じく熱心なキリスト教徒であり、神の裁きや』、『占星術を信じた記述があるものの、一方で経済特に商業関係の記述においては合理的な記述を尽している』とある。南方は『日記』の『卷八』と記しており、このウィキの「新年代記」の記載内容と合致している。

『一二九九年、韃靼帝の子「カッサン」が、己れの軍兵の弦と筈を特に細くして、埃及王を酷く破った』「カッサン」はモンゴル帝国を構成したイル・カン国(イルハン国、又は「フレグ・ウルス」とも呼ぶ)の第七代皇帝であったガザン・ハン(Ghāzān khān  ロシア語表記:Газан-хан 一二七一年~一三〇四年)のことを指す。彼の曽祖父で初代のイル・カン国皇帝であったフレグは、チンギス・ハーンの孫に当たる。ガザン・ハンは、イスラム教に改宗し、イラン人との融和を図るなどして、内政を安定させ、政治的にも文化的にも、イル・カン国の黄金時代を築いた名君であったが、三十四歳の若さで亡くなっている。一二九九年当時のエジプトは、バフリー・マムルーク朝ナースィル・ムハンマドの統治時代であったが、熊楠の述べる通り、この年、イル・カン国のガザンが、シリア侵攻を開始し、ナースィルはシリア北部のマジュマア=アルムルージュでガザン・ハン軍で迎え撃ったが、実戦経験が乏しかったため、大敗を喫して敗走、イル・カン国はシリアを支配下に置き、ダマスクスを百日に渡って占領した(以上は嘗つて、高校教師時代、同僚の世界史の先生からの教授を受けて作文したものである)。]

2022/11/24

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 蛇を引出す法

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 標題の「引出す」は「ひきいだす」と読んでおく。]

 

      蛇を引出す法 (大正二年九月『民俗』一年二報)

 

 「和漢三才圖會」卷四五に、凡て蛇が穴に入ると、力士が尾を捉《とら》て引《ひき》ても出《いで》ぬが、煙草脂《たばこのやに》を傅《つく》れば出《いづ》る、又、云く、其人、自分の耳を左手で捉へ、右の手で引けば出るが、其理が知れぬ、と見ゆ。是に似たる事、レオ・アフリカヌス(一四八五年頃、生れ、一五五二年、歿せり。)の「亞非利加記(デスクリプチヨネ・デル・アフリカ)」第九篇に云く、「ヅツブ」は沙漠に住み、蜥蜴に似て、大きく、人の臂《ひぢ》程長、く、指四つ程、厚し。水を飮まず。無理に水を口に注込《そそぎこみ》續けると、弱つて死す。「アラブ」人、之を捕へ、皮、剝ぎ、灸り食《くら》ふに、香味、蛙の如し。此物、蜥蜴同樣、疾《とく》走る。如《も》し、穴に隱れて尾丈《だ》け外に殘る時は、如何《いつか》な大力も、之を引出《ひきいだ》し得ず。獵師、鐵器もて、穴を掘り擴げて、之を捕ふ、と。物はやつて見物《みるもの》で、蛇と蜥蜴類は似た動物故、「ヅツブ」の住む沙漠へ行く人に、煙草脂と、耳捉んで努力の二法を試みるやう、忠告し置《おい》た。

[やぶちゃん注:『「和漢三才圖會」卷四五に、凡て蛇が穴に入ると、……』私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の掉尾の「蛇皮」に出る。引用する(前が訓点を排した原本に一致させた白文で、後は私が訓点に従いつつ、補正したもの。【 】は二行割注、〔 〕は私の補正。なお、古い電子化注なので、数ヶ所に補正を加えてある)。

   *

蛇皮 蛇衣  蛇脫

△按蛇秋蟄前脫皮光白色如薄紙首尾全不損也未雨

 濡者取【黑燒油煉】傅兀禿則生毛髪【蜘蛛脫皮褐色八足無筒恙空殼風吹散亦奇也】

凡蛇忌煙草脂汁入蛇口則困死如入穴蛇力士捉尾引

 不能出傅煙草脂則出【又云其人左手捉自身耳右手引蛇則出未知其理】有人

 擲馬古沓中蛇則甚恚追其人【白馬沓弥然抑惡之乎好之乎】

蝮咬足或螫牙針留膚痛急緊縛其疵上可傅煙草脂如

 緩則直上至肩背煩悶用眞綿撫其邊則牙針係綿以

 鑷抜取次傅煙草脂或膏藥愈〔=癒〕

   *

蛇皮(へびのきぬ) 蛇衣・蛇脫

△按ずるに、蛇、秋、蟄(すごも)る前、皮を脫(ぬ)ぐ。光、白色にして、薄紙のごとくにして、首尾、全く損せざるなり。未だ雨に濡(ぬ)れざる者〔を〕取りて【黑燒にして油煉〔(あぶらねり)〕す。】、兀-禿(はげ)に傅(つ)くれば、則ち、毛髪を生ず【蜘蛛も皮を脫ぐ。褐色、八足、恙無し。空殼、風に吹き散る、亦、奇なり。】。

凡(すべ)て、蛇、煙草(たばこ)の脂汁(やに〔じる〕)を忌む。蛇の口に入れば、則ち、困死す。如〔(も)〕し穴に入る蛇は、力士、尾を捉(とら)へて引くに能く出さず〔→出づる能はず〕。煙草の脂を傅くれば、則ち、出づ【又、云ふ、其れ、人の左の手にて自身の耳を捉へて、右手にて、蛇を引けば、則ち、出づると。未だ其の理〔(ことわり)〕を知らず。】。人、有りて、馬の古沓(〔ふる〕ぐつ)を擲(な)げて、蛇に中(あた)れば、則ち、甚だ恚(いか)りて、其の人を追ふ【白馬の沓、弥(いよいよ)、然り。抑〔(そもそも)〕之れを惡〔(にく)〕むか、之れを好むか。】。

蝮(まむし)、足を咬み、或は螫(さ)す〔に〕、牙・針、膚〔(はだへ)〕に留まり痛む〔時は〕、急に、緊(きび)しく、其の疵の上(か〔み〕)を縛(くゝ)り、煙草の脂を傅くべし。如し緩(ゆる)き時は[やぶちゃん字注:「時」は送り仮名にある。]、則ち〔牙・針〕、直ちに上りて、肩・背に至りて、煩悶す。眞綿を用ひて其の邊を撫〔(なづ)〕れば、則ち、牙・針、綿に係る。鑷(けぬき)を以て、抜き取り、次に、煙草の脂、或は、膏藥を傅けて、癒ゆ。

[やぶちゃん注:標題は蛇の抜け殻についての記載のように見えるが、それは第一段落で終り、「凡て、蛇」以下では蛇の忌避物質としての煙草のヤニ及び馬の草鞋(わらじ)の効用を述べ、「蝮、足を咬みる」以下では、マムシ咬傷の際の救急法を述べる。

「蛇、秋、蟄る前、皮を脫ぐ」とあるが、誤り。爬虫類の愛好家の方のブログ「Reptiles Cage」の「ヘビの脱皮」についての記載から引用させて頂く(但し、途中の改行を省略した)。『ヘビは年に数回脱皮する。成長期にはその回数が多い。脱皮は口から脱ぎ始め、ストッキングを脱ぐように裏返しに脱いでいく。うろこは11枚離れているように見えるけど、実はその間に薄い皮で繋がっていて、普通は鱗の間に畳み込まれている。大きいものを飲み込んで皮が伸びるのは、その畳まれたのが伸びるわけ。脱皮の1週間前くらいから目が白濁してくる。ヘビはまぶたを持たないので、眼の保護に透明な皮が目の上を覆っている。その皮も脱皮するので、脱ごうとする皮と新しい皮の間に体液が入って白濁して見えるのだ。このあいだは、ヘビは餌を食べたりせず、目が利かないので用心深くなる。』ホントにホントの文字通り、眼から鱗!!! なお、蛇の寿命は二~二十年程度(飼育下)で、シマヘビElaphe quadrivirgataで四年程度、アオダイショウElaphe climacophoraで十二~二十年(飼育下)。但し、外国産のペットの中には、ヘビ亜目ボア科ボア亜科ボア属のボア・コンストリクター Boa constrictor(通常我々が呼ぶ「ボア」のこと)等に飼育下で四十年以上の記録もある。

「黑燒」は漢方の製法の一つで、動植物を土器に入れて時間をかけて蒸し焼きにし、黒く炭化させたものを言う。

「油煉」恐らく少し炒って油を沁み込ませ、練って固めたものを言うのであろう。

「兀禿」「兀」は音「ゴツ」で「禿」(トク)と同じく、「はげ(あたま)」の意。

「蜘蛛も皮を脫ぐ」蜘蛛も節足動物であるから脱皮する。種によっては十五回の脱皮をするものもいるとのことである。

「恙無し」は「欠けたところがない」という意味であろう。「完全な八足の蜘蛛の形のままの抜け殻となる」の意。

「蛇、煙草の脂汁を忌む」蛇の愛好家の方の記載を見ると、実際に多くの蛇は煙草(煙やヤニ)を忌避するらしい。古き嫌煙家であったわけだ。

「困死」悶え苦しんで死ぬこと。

「馬の古沓」「馬の沓」とは馬の草鞋のことで、「馬沓」(まくつ)とも言う。蹄に付けた。因みに、よくある「沓掛」という地名は、馬を休ませて、この馬沓を木に掛けたところからついた地名という。

「蝮」ニホンマムシGloydius blomhoffii。本巻の「蝮」の項を参照。

「牙・針」中黒で分けた。ここは直前の「足を咬み、或は螫す」に着目して欲しいのである。「牙」が「咬」むのであり、「針」が「螫す」である。即ち、「牙」と「針」は別物なのである。これは前掲の「蝮」の項にある『其の鍼、尾に有りて、蜂の針のごとく、常には見えず。時に臨んで出だし、人を刺す。毒、最も烈し。然るに、鍼、鼻の上に有ると謂ふは、未審し。』が解となる。良安は蝮は口中の毒牙以外に、尾部に毒針を隠し持っていると考えているのである。また、この叙述から、良安は蜜蜂のように蝮の牙も針も人体に打ち込まれると脱落するもの、と考えていたことが分かる。

   *

「レオ・アフリカヌス」(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンというムーア人で、アラブの旅行家にして地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。

「亞非利加記(デスクリプチヨネ・デル・アフリカ)」‘La descrittione dell’Africa’で一五五〇年刊。ラテン語タイトルは‘Cosmographia de Affrica’。元は当然のこと乍ら、アラビア語で、次いでトスカーナ語で書かれ、ベネチアで、‘Description de l'Afrique vers 1530’というタイトルで出版された。

「ヅツブ」「選集」では、『ヅップ』。種不詳。識者の御教授を乞う。]

 序《ついで》に云ふ、「改定史籍集覽」第十六册に收めた「渡邊幸庵對話」に、『女の陰門へ蛇の入《いり》たるを、予、一代に、三度、見たり。一人は片羽道味《かたはだうみ》、療治す。是は、手洗《てあらひ》に水を溜め、蛙を放置《はなちおき》候處、蛇、頭を出《いだ》す。其時、足の末を、蛇の際《きは》へ寄《よす》る所に、『可喰《くらふべく》』と致し申すを、引取《ひきと》り、二、三度も左樣に致して後、蛇に喰《くらは》せ申し候。又、蛙の太き所を出し、右之通り、『可喰』と致し、頭を出し申すを、二、三度も引取り、外《ほか》の蛙の中へ、山椒を、二、三粒、入包《いれつつ》み、外《そと》へ不知樣《しれざるやう》に認《したた》めて、蛇、飛付《とびつき》申す刻(とき)、最初の蛙と取替《とりかへ》、山椒の入《いり》たる蛙を喰せ候へば、四半時の内に、蛇、外へ出《いで》申候。『内にては、膓《はらわた》を喰居《くらひを》り申す。』との了簡にて、蛙を以て、差引致し申す内、蛇も其所《そこ》へ心を移し、内卷《うちまき》、ほくれ申《まをす》考へにて、差引致し申候。「左も無く、理不盡に出し候へば、腹、痛み候半《さふらはん》。」と、右の通り、道味、考へ、致療治候。』(寶永七年筆記)。予、幼時、和歌山で、二、三度聞きしは、田舍で、蛇、時として、女陰に入る事、有り。直ちに其尾を割《さ》き、山椒の粉を割目《さきめ》に入《いる》れば、弱つて出來《いでく》るとなり。「和漢三才圖會」八九には、『蛇、山椒樹を好み、來り棲む。蝮、最も然り。』と有る。蛇が人の竅(あな)に入ること、實際、有るにや。

[やぶちゃん注:『「改定史籍集覽」第十六册に收めた「渡邊幸庵對話」に、『女の陰門へ蛇の入《いり》たるを、……』熊楠が底本とした原本を国立国会図書館デジタルコレクションの画像(ここ)で視認して校合した(漢字表記は概ね渡邊の原表記に代え、脱文部を復元した)。「渡邊幸庵」(生没年不詳)は江戸初期の武士。徳川家康・秀忠に仕え、上野国で知行三百石を賜り、「関ケ原の戦い」や「大坂の陣」には父と共に参加して軍功を挙げ、逐次、加増を受けたのち、寛永二(一六二五)年に徳川忠長に付属せられ、大番頭となって、五千石を知行したとする。忠長が改易となった後は、浪人となり、その後の経歴は不明であるが、彼の後年の回想記とされる本「渡辺幸庵対話」によれば、「島原の乱」の時には、細川忠利の部隊に陣借りして働き、その後は、中国大陸に、長年、滞在し、再び日本に戻ったという。老年には武蔵国大塚に住んだが、加賀藩主前田綱紀は宝永六(一七〇九)年、家臣を遣わして、幸庵の昔話を筆記させ、同八年に上記の回想記がまとめられた。一説に天正一〇(一五八二)年生まれで、正徳元(一七一一)年に百三十歳で没したとするが、凡そ信じ難い。謎の多い人物であるが、元幕臣ということからすると、「寛政重修諸家譜」に載る渡辺茂、或いは、その子の忠が、モデルの一部として比定はし得るであろうとはいう(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。孰れにせよ、「対話」にあるような経歴を持った幕臣は実際にはいない。

「片羽道味」実在した医師・本草家のようである。

「内卷、ほくれ申考へにて」「内部で、蛇が体をぐにやぐにゃと内臓器と絡め巻いているのを、すんなりとほぐらし、直すという手法で」の意。底本では、この前後がごっそり抜けているので、完全に復元した。

『「和漢三才圖會」八九には、『蛇、山椒樹を好み、來り棲む。蝮、最も然り。』と有る』これは、巻八十九の「味果類」の三番目に出る、「朝倉椒(あさくらさんしやう)」の最後の作者寺島良安の添え(この項は和品であるため、全文が寺島の記載である)辞で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の板本画像で示すと、ここ。なお、この「朝倉椒」とは双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum 突然変異で現れた棘の無い栽培品種で、江戸時代から珍重されてきたものである。実生では、雌雄不定で、且つ、棘が出てくるため、主に、雌株を接ぎ木で栽培した物を「朝倉山椒」として販売されている。学名はアサクラザンショウZanthoxylum piperitum forma inerme 。ここはウィキの「サンショウ」に拠った。以下、画像から訓読して示す(一部の送り仮名と読みは私が添えた)。

   *

凡そ、蛇(へび)山椒の樹を喜びて、來り棲む。反鼻蛇(くちはみへび)、最も然(しか)り。

   *

「反鼻蛇」ニホンマムシの異名。特にマムシの皮を取り去って乾燥させたものを「反鼻(はんぴ)」と呼び、漢方薬として滋養強壮などの目的で用いる。

「蛇が人の竅(あな)に入ること、實際、有るにや」私は、ない、と考える。男根のミミクリーの卑猥な妄想である。寧ろ、古代からあった夜這いを蛇に喩えて、神話・伝説・説話の類に変容させたものは、結構、多い。]

 東晋譯「摩訶僧祇律」卷四十に、佛住舍衞城。爾時比丘尼、初夜後夜、跏趺而坐、時有蛇來瘡門中。〔佛、舍衞城に住す。爾(そ)の時、比丘尼、初夜・後夜、跏趺〕かふ)して坐す。時に、蛇、有り、來たりて瘡門《さうもん》の中に入る。〕。比丘尼の總頭《さうがしら》で、佛の叔母なる大愛道《だいあいだう》が佛に白《まう》すと、佛、言《いは》く、應ㇾ與某甲藥、蛇不ㇾ死而還出、卽與ㇾ藥而出。〔應(まさ)に某甲(そのもの)に藥を與ふべし。蛇は、死せずして、還り出でん、」と。卽ち、藥を與へて出だせり。〕。以後、『比丘尼は、必ず、一脚を屈め、一脚、跟《くびす》もて瘡門を奄《おほ》ふべし。男僧同樣、跏趺して坐すれば、越毗罪たるべし。』と制戒せり、と有る。

[やぶちゃん注:『東晋譯「摩訶僧祇律」』の当該部は「大蔵経データベース」で校合した。

「瘡門」辞書などに見当たらないが、女性の会陰部の膣の出口を言っている。「瘡」には「切られた傷」の意があるので、そのミミクリーであろう。]

 一七六九年板、「バンクロフト」の「ギアナ博物論(アン・エツセイ・オン・ゼ・ナチユラル・ヒストリー・オブ・ギアナ)」二〇五頁に、「コムモード」は水陸兩棲の蛇で、長《たけ》十五呎《フィート》、周《めぐり》十八吋《インチ》、頭、濶《ひろ》く、扁《ひらた》く、尾、長く、細く、尖る。褐色で、脊と脇に栗色の點有り。毒蛇で無いが、頗る厄介な奴で、屢《しばし》ば、崖や池を襲ひ、鵞《がちやう》・鶩《あひる》等を殺す。印甸人《インジアン》言ふ、「此蛇、自分より大きな動物に會ふと、尖つた尾を其肛門に插入て之を殺す。故にギアナ住《ぢゆう》白人《はくじん》、これを男色蛇(ソドマイト・スネイク)と呼ぶ。」と。同書一九〇頁に「ペリ」てふ魚が、水に浴する女の乳房や男の陰莖を咬み切る、と有る。紀州田邊灣にも「ちんぼかぶり」とて、泳ぐ人の一物を咬む魚が有る。「大英類典」十一板廿卷七九四頁に、巴西國(ブラヂル)の「カンヂル」魚は、長《たけ》纔か日本の三厘三毛で、小便の臭を慕ひ、川に浴する人の尿道に登り入る。能く頰の刺を起こすから、引出す事成らぬ。故に「アマゾン」河邊の或る土民は、水に入る時、椰子殼《やしがら》に細孔を明け、陰莖に冐《かぶ》せ、其侵入を防ぐ、と出づ。焉《いづ》れも、本題に緣があまり近く無いが、中々、珍聞故、書て置く。

[やぶちゃん注:『一七六九年板、「バンクロフト」の「ギアナ博物論(アン・エツセイ・オン・ゼ・ナチユラル・ヒストリー・オブ・ギアナ)」二〇五頁』エドワード・バーソロミュー・バンクロフト(Edward Bartholomew Bancroft 一七四四 年又は一七四五年~一八二一年:ベンジャミン・フランクリンの手下のスパイとなり、後にはイギリスのスパイともなった政治上の人物として知られるが、本来は自然史が専門であった)の‘An Essay on the natural history of Guiana in South America(「南アメリカのギアナの自然史とエッセイ」。一七六九年刊)。原本当該部が「Internet archive」のここから視認出来る。

「コムモード」原本綴りは“Commodee”。これは爬虫綱有鱗目   有鱗目 Laterata 下目テユー上科 Teiioideaテユー科Tupinambinae亜科カイマントカゲ属ギアナカイマントカゲDracaena guianensis のこと。但し、ここに書かれているような習性が本当にあるかどうかは、不詳。欧文綴りから、有鱗目オオトカゲ科オオトカゲ属オニオオトカゲ亜属コモドオオトカゲVaranus komodoensis を想起されたあなた、彼らはインドネシアにしかいませんから、ご注意を。因みに、「コモド」の方の綴りは“Komodo”。

「男色蛇(ソドマイト・スネイク)」原本の綴りは“Sodomite Snakesodomiteは「男性とのアナル・セックスに魅了される男性」の意。

『同書一九〇頁に「ペリ」てふ魚が、水に浴する女の乳房や男の陰莖を咬み切る、と有る』これは一八九ページから書かれてある。綴りは“peri”。現在の同定種不詳。

『紀州田邊灣にも「ちんぼかぶり」とて、泳ぐ人の一物を咬む魚が有る』種不詳。識者の御教授を乞うものである。

『「大英類典」十一板廿卷七九四頁に、巴西國(ブラヂル)の「カンヂル」魚』「Internet archive」の原本のここの「PARASITISM」(「寄生」)の“List of Parasites”“A. — Animals. の八行目から、

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Vandellia cirrhosa, the candiru of Brazil, a minute fish 60 mm.in length, enters and ascends the urethra of people bathing, being attracted by the urine; it cannot be withdrawn, owing to the erectile spines on its gill-covers. The natives in some parts of the Amazon protect themselves whilst in the water by wearing a sheath of minutely perforated coco-nut shell.

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とある。これは、条鰭綱ナマズ目トリコミュクテルス科Trichomycteridaeヴァンデリア属の総称、或いはカンディルVandellia cirrhosa である。私は二十五年程前のTVの特集番組で初めて「カンジール」の名で知った。当該ウィキによれば、『カンディル(Candiru)は、ナマズの仲間で、アマゾン川など南アメリカの熱帯地方に生息する肉食淡水魚の種の総称である。セトプシス(ケトプシス)科およびトリコミュクテルス科がこれに属する。狭義のカンディルとしてトリコミュクテルス科のVandellia cirrhosa、もしくはVandellia亜科に属するナマズのみを指す場合もあるが、トリコミュクテルス科およびセトプシス科全体をカンディルと呼ぶのが一般的である。日本ではカンジェロ、カンジル、カンジルー、カンジール、カンビルとも表記される』。『銀色の』十センチメートル『ほどの小魚だが、生育すると』三十センチメートル『ほどに達する個体もいる』。『カンディルには、自身よりも大きな魚のエラなどから』、『細い体を潜り込ませて体の内側を捕食するものや、直接』、『他の生きた魚や死魚の体表を食い破り』、『肉を食すものが存在する。性質は獰猛で、獲物に集団で襲いかかる。カンディルのヒレには侵入した獲物から離れないように返し針のようなトゲがあり、無理に引き離そうとすると肉を切り裂いてしまうため、生息地の人々には毒針を持つ淡水エイと並び、ピラニア以上に恐れられている』。『その体型と習性から、女性の膣に侵入した事例が報告されている』。但し、『種類によっては、砂の中の微生物を食べて生きる比較的おとなしいものも存在する』。『トリコミュクテルス科バンデッド・カンディル』『Pseudostegophilus nemurus』は、『全長』十センチメートル『ほどで、黄土色の体に黒い縞模様が入るのが外見的な特徴である。エラに侵入するタイプの典型として、頭部が押しつぶしたように平たくなり、他の魚の体内へ入り込みやすくなっている』。『セトプシス科』『ブルー・カンディル』『Cetopsis coecutiens』は『全長』二十センチメートル『ほどの大型のカンディル。クジラを思わせる丸い頭部が特徴で、英語ではWhale Catfishとも呼ばれる。大型の魚や死骸の表皮を食い破り、肉を食う。人目をひく捕食形態から水族館やアクアリウムで飼育されることがあるが、エラや排泄孔から侵入するトリコミュクテルス科のカンディルと異なり、皮膚に噛み付いて』、『直接』、『穴を開けることがあるため、注意が必要である』。以下、『男性の尿道に侵入するという風聞』の項。十九『世紀の探検家が報告して以来』、『カンディルは、ほかの魚が排出したアンモニアに反応するため、時には人間も襲うことがあり、肛門や尿道から膀胱などの内臓にまで侵入された際には、切開による除去手術が必要となる』という『風聞がある』が、『実際には、カンディルが男性の尿道に侵入したところが目撃されたことはない』。『Stephen Spotteの研究によれば、カンディルはアンモニアなどの化学物質には反応せず、視覚で獲物を探す』。『カンディルに関する文献を調査したIrmgard Bauerは、カンディルの生息域とその地域の人口を考えれば、危険性はないと結論している』。一九九七『年にはマナウスでカンディルが尿道に侵入した男性患者を処置したという医学論文が』一『件あるが、その執筆者を訪れた』人物は『報告は疑わしいものとしている』。但し、最後にイギリスの『アニマルプラネットの番組『怪物魚を追え! S1 アマゾンの殺人魚』では、番組ホストのジェレミー・ウェイドが実際に尿道に侵入された男性との対面に成功し、病院において内視鏡で取り出され、ブラジル国立アマゾン研究所にてホルマリン漬けで保存された個体標本が登場する。またカンディルを取り出す時に撮影された内視鏡カメラの映像もポルトガル語題名のyoutube動画として存在する』とはある。]

 蛇が瘡門に入る事、本邦の古書に明記は見當らぬが、似た例を見出だす儘、少々、記さう。「日本靈異記」中卷に、天平寶字三年四月、河内の馬廿里《うまかひのさと》の富豪の女《むすめ》が、桑の樹に登ると、大蛇も隨《したがひ》て登り、女が人に示されて、驚き落《おち》ると、蛇も、亦副墮、纏ㇾ之以婚、慌迷而臥、父母見ㇾ之、請召藥師、孃與蛇倶載於同床、歸ㇾ家置ㇾ𨓍(音「廷」。「草逕」也。[やぶちゃん注:「庭の小径」で「庭」の意。])、燒稷藁三束、合湯取ㇾ汁三斗、煮之成二斗、猪毛十把剋末合ㇾ汁、然當孃頭足、打ㇾ橛懸鉤、開ㇾ口入ㇾ汁、汁入一斗、乃蛇放往、殺而棄、蛇子白凝如蝦蟆子、猪毛立蛇子身、從※出五升許[やぶちゃん注:「門」+(中下に)「也」。膣。]、口入二斗蛇子皆出、迷惑之孃、乃醒言語、二親問ㇾ之、答我意如ㇾ夢、今醒如ㇾ本、藥服如ㇾ是、何謹不ㇾ用、然經三年、彼孃復蛇所ㇾ婚而死。〔亦、副(そ)ひ墮ちて、之れに纏ひ、以つて、婚(くなが)ふ。慌(ほ)れ迷(まど)ひて[やぶちゃん注:正気を失って。]、臥す。父母、之れを見て、藥師(くすし)を請ひ召し、孃(をとめ)と蛇とともに同じ床に載せて、家に歸り、𨓍(には)に置く。稷(きび)の藁三束(みたばり)を燒き、湯に合はせ、汁を取ること、三斗、之れを煮-煎(につめ)て、二斗と成し、猪(しし)の毛十把(じつたばり)を、剋(きざ)み末(くだ)きて、汁に合はせ、然(しか)して、孃の頭・足に當たりて橛(くひ)を打ち、懸け鉤(つ)り、※(したなりくぼ)の口に、汁を入(い)る。汁、入ること、一斗、乃(すなは)ち、蛇、放れ往(ゆ)く。殺して棄てつ。蛇の子、白く凝(こご)り、蝦蟆(かへる)の子のごとし。猪の毛、蛇の子の身に立ち、※より出づること、五升ばかりなり。口に、二斗を入るれば、蛇の子、皆、出づ。迷-惑(まど)へる孃、乃(すなは)ち、醒めて、言語(かたら)ふ。二親(ふたおや)、之れに問ふに、答ふらく、「我が意(こころ)、夢のごとく、今、醒めて、本(もと)のごとし。」と。藥服、かくのごとし、何ぞ、謹しみて用ひざらめや。然(しか)れども、三年を經て、彼(か)の孃、復(ま)た、蛇の婚(くがな)はれて死す。〕

[やぶちゃん注:「日本靈異記」の原漢文は私の所持する二種の原本データ(伝本によって異同がある)から、最も納得出来ると判断したものを、熊楠の表記をメインとしつつ、校合した。]

 「今昔物語」二九卷に、小便する若き女の陰を、蛇が見て魅入《みい》れ、其女、二時《ふたとき》斗《ばか》り、其場を去《さり》得なんだ話有り。又、三井寺で、若い僧、晝寢の夢に、若い美女、來たりて、婬す、と見、覺《さめ》て、傍を見れば、五尺許《ばか》りの蛇が、口に、婬を受けて、死居《しにをつ》た、と出づ。是は「アウパリシュタカ」とて、口で受婬する事が、インドで、古來、大流行で、之を業とする閹人(ユーナツク)多く、其技《そのわざ》、亦、多端だ(一八九一年板「ラメーレツス」譯、「愛天經《カーマ・スートラ》」九一―九三頁。此書は基督と同じ頃、「ヴワチャナ」梵士作。)。隨《したがつ》て、佛律に、其制禁、少なからず。例せば、姚秦譯「四分律藏」五五卷に、佛在毗舍離城、有比丘、體軟弱、以男根口中云々、時有比丘、於狗口中行ㇾ婬。〔佛、毘舍離城に有り。[やぶちゃん注:以上は熊楠の作文と推定する。近いのは、ずっと前にある「爾時世尊在王舍城」で、「爾(こ)の時、世尊、王舍城に在り。」である。]、比丘、有り、體、軟弱にして、男根を以つて口中に内(い)れ、云々、比丘、有り、狗(いぬ)の口中に於いて婬を行なふ。〕。何《いづ》れも、自《みづか》ら受樂せし故、佛、之を波羅夷罪《はらいざい》と判ず。時有比丘、褰ㇾ衣小便、有ㇾ狗舐小便、復前含男根、彼受樂已還。出ㇾ疑佛問言、汝受樂不、答言受樂、佛言、汝波羅夷、時有比丘、褰ㇾ衣渡伊羅婆提河、有ㇾ魚含男根、彼不受樂。〔時に比丘有り、衣を褰(かか)げて小便す。狗(いぬ)有り、小便を舐(な)め、復(ま)た、前(すす)みて、男根を含む。彼、受樂し已(をは)りて還る。疑ひを出だして、佛、問ひて言はく、「汝、受樂せざるやいなや。」と。答へて言はく、「受樂せり。」と。佛、言はく、「汝、波羅夷たり。」と。時に比丘有り、衣を褰げて伊羅婆提河(いらばだいが)を渡る。魚、有り、男根を含む。彼は受樂せず。〕。不犯で無罪放免された。又佛在王舍城、〔又、佛、王舍城に在り。〕。萍沙王《ひやうさわう》の子無畏王子、其の男根を病む。令女人含之、後得差已云々、此女人憂愁不ㇾ樂、〔女人ををして、之れを含ましめ、後(のち)、差(い)ゆを得已(をは)んぬ云々、此の女人、憂愁(うれ)ひて樂しまず。〕。自《みづか》ら一計を出《いだ》し、王の前に全體を裸《ら》し、頭のみ、覆ふ。王、之を見て、「狂人か。」と問ふ。女、答て言く、不狂、是王子所ㇾ須故。我今覆護、何以故、王子常於我口中行ㇾ婬、是故覆護、〔「狂ならず。是れ、王子の須(もと)むる所を、我れ、今、覆ひて護(まも)る。何を以つての故か。王子、常に我が口中に於いて婬を行なふ。是の故に覆ひて護る。」と。〕。之を聞《きい》て、王、王子を詰《なじ》つたので、王子、大《おほい》に慙《は》ぢ、返報に、彼女に娼妓同樣、黑衣を著せ、安置城門邊、作如ㇾ是言、若有如是病者、當此婬女口中行ㇾ婬得ㇾ差。〔城門の邊りに安置し、是(かく)のごとき言を作(な)す。「若(も)し、是のごとき病ひの者、有れば、當に此の婬女の口中に於いて婬を行へば、差(い)ゆるを得べし。」と〕。蕭齊《せうせい》の衆賢譯「善見毘婆沙律」卷七には、蛤口極大、蛤口極大。若以男根蛤口。而不ㇾ足、如内瘡無異。得偸蘭遮罪。〔蛤の口、極めて、大なり。若(も)し、男根を以つて蛤の口に内(い)るるも、而(しか)も足らず。瘡(さう)に内るるがごとくにて異(かは)り無し。偸蘭遮罪(とうらんじやざい)を得。〕。前文に魚・龜・鼉・鼈・蛤と續け序(のべ)たれば、「はまぐり」で無《なく》て、蛙也。斯る異類の物の口婬さへ、印度に行われたのぢや。

[やぶちゃん注:『「今昔物語」二九卷に、小便する若き女の陰を、蛇が見て魅入《みい》れ、……』「今昔物語集」の巻第二十九の「蛇見女陰發欲出穴當刀死語第三十九」(蛇(へみ)、女陰(によいん)を見て欲を發(おこ)し穴を出でて刀(かたな)に當たりて死ぬる語(こと)第三十九)。かなり知られた話である。小学館『日本古典全集』版の第四巻を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。読点・送り仮名を追加し、段落を成形、鍵括弧改行も加えた。

   *

   蛇、女陰を見て欲を發し、穴を出でて、刀に當たりて死にたる語第三十九

 今は昔、若き女(をむな)の有りけるが、夏比(なつころほひ)、近衞(こんゑ)の大路を西樣(にしざま)に行きけるが、小一條と云ふは宗形(むなかた)なり、其の北面を行きける程に、小便の急なりけるにや、築垣(ついがき)に向ひて、南面に突居(ついゐ)て尿(ゆばり)をしければ、共に有りける女(め)の童(わらは)は、大路に立ちて、

『今や、爲畢(しは)てて、立(たつ)、立(たつ)、』

と思ひ立てけるに、辰の時[やぶちゃん注:午前八時。]許りにて有りけるに、漸く一時(ひととき)[やぶちゃん注:二時間。]許り立たざりければ、女の童は、

『何かに。』

と思ひて、

「やや。」

と云ひけれども、物も云はで、只、同じ樣にて、居たりけるが、漸く、二時許りにも成りにける。

 日も、既に午(むま)の時に成りにけり。

 女の童、物云へども、何(な)にも答へも爲(せ)ざりければ、幼き奴(やつ)にて、只、泣き立てたりけり。

[やぶちゃん注:当該ロケーション地は現在は京都御所内となっている。この中央附近相当

「宗形」宗像神社。清和天皇の産土神。現在は京都御所内のずっと南に移っている(前の地図でポイントしてある)。]

 其の時に、馬(むま)に乘りたる男(をとこ)の、從者、數(あまた)、具して、其こを過ぎけるに、女の童の泣き立てりけるを見て、

「彼(あ)れは、何(な)ど泣くぞ。」

と、從者を以つて問はせければ、

「然々の事の候へば。」

と云ひければ、男、見るに、實(まこと)に女の、中(なか)、結ひて、市女笠(いちめがさ)着(き)たる、築垣に向ひて蹲(うづくま)りて居(ゐ)たり。

「此(こ)は、何(いつ)より居たる人ぞ。」

と問ひければ、女の童、

「今朝より居させ給へるなり。此(か)くて、二時には成りぬ。」

と云ひて、泣きければ、男、怪がりて、馬より下りて、寄りて、女の顏を見れば、顏に、色もなくて、死にたる者の樣にて有りければ、

「此は何かに。病ひの付きたるか。例(れい)も此(か)かる事、有るや。」

と問ひければ、主(あるじ)は、物も、云はず。

[やぶちゃん注:「例(れい)も此(か)かる事、有るや。」「今までにも、こんな風になることが、あったのか?」。]

 女の童、

「前に此かる事、無し。」

と云へば、男の見るに、無下(むげ)の下衆(げす)には非(あら)ねば、糸惜(いとはし)くて、引き立てけれども、動かざりけり。

 然(さ)る程に、男、

「急(き)」

と、築垣の方(かた)を、意(おも)はず、見遣りたるに、築垣の穴の有りけるより、大(おほ)きなる蛇(へみ)の、頭(かしら)を、少し、引き入れて、此の女を守りて[やぶちゃん注:「見守りて」。凝っと見つめていたのである。]有りければ、

「然(さて)は。此の蛇の、女の尿(ゆばり)しける前(まへ)[やぶちゃん注:外陰部。]を見て、愛欲を發(おこ)して蕩(とらか)したれば、立たぬなりけり。」

と心得て、前に指(さ)したりける一(ひ)とびの劍の樣なるを拔きて、其の蛇の有る穴の口に、奧の方に齒をして、强く、立てけり。

[やぶちゃん注:「一(ひ)とびの劍」参考底本の別巻(第三巻)の六三三ページの注に、『「一佩」と同じものと推断する。短い腰刀の一種。一本差しの刀の意で、太刀をはかない時にも、それだけを腰に差したもの』とある。]

 然(さ)て、從者共を以つて、女を濟上(すくひあげ)て、其(そこ)を去りける時に、蛇、俄かに築垣の穴より、鉾(ほこ)を突く樣(やう)に出でける程に、二つに割(さ)けにけり。一尺許り割けにければ、え出でずして死にけり。早(はや)う[やぶちゃん注:何ということか。驚くべきことに。]、女を守りて蕩(とろか)して有りけるに、俄かに去りけるを見て、刀を立てたるをも知らで、出でにけるにこそは。

 然(しか)れば、蛇の心は、奇異(あさま)しく、怖しき者なりかし。

 諸(もろもろ)の行來(ゆきき)の人、集まりて見けるも理(ことわり)なり。

 男は、馬に打ち乘りて行きにけり。從者、刀をば、取りてけり。女をば、不審(おぼつかな)がりて、從者を付けてぞ、慥(たし)かに送りける。然(しか)れば、吉(よ)く病ひしたる者の樣(やう)に、手を捕らへられてぞ、漸(やうや)くづづ、行きける。

 男、哀れなりける者かな[やぶちゃん注:まっこと、情け深き人物ではあったなぁ。]。互ひに誰(たれ)とも知らねども、慈悲の有りけるにこそは。

 然(しか)れば、此れを聞かむ女、然樣(さやう)ならむ藪に向ひて、然樣の事は、爲(す)まじ。

 此れは、見ける者共の語りけるを聞き繼ぎて、此(か)く語り傳へたるとや。

   *

「三井寺で、若い僧、晝寢の夢に、若い美女、來たりて、婬す、と見、覺《さめ》て、傍を見れば、五尺許《ばか》りの蛇が、口に、婬を受けて、死居《しにをつ》た、と出づ」これは「今昔物語集」巻第二十九の「蛇見僧晝寢𨳯吞受媱死語第四十」(蛇(へみ)、僧の晝寢の𨳯(まら)を見、吞(の)み、媱(いむ)を受けて死にたる語(こと)第四十(しじふ))を指す(「媱」は「淫」に同じで、ここは「射精」を言う)。同前で他本も参考にしつつ、示す。

   *

   蛇、僧の晝寢の𨳯を見、吞み、媱を受けて死にたる語第四十

 今は昔、若き僧の有りけるが、止事無(やむごとな)き僧の許(もと)に宮仕へしける有りけり。妻子など、具したる僧なりけり。

 其れが、主(あるじ)の共に、三井寺に行きたりけるに、夏の比(ころほひ)、晝間に眠(ねぶ)たかりければ、廣き房(ばう)にて有りければ、人離(ひとはな)れたる所に寄りて、長押(なげし)を枕にして、寢(ね)にけり。

 吉(よ)く寢入りたりけるに、夢に、

『美き女(をむな)の若きが、傍らに來たると、臥(ふ)して、吉々(よくよ)く婚(とつ)ぎて媱(いむ)を行ひつ。』

と見て、

「急(き)」

と、驚き覺(さ)めたるに、傍らを見れば、五尺許りの蛇、有り。

 愕(おどろ)きて、

「かさ」[やぶちゃん注:オノマトペイア。「がばっ」。]

と、起きて見れば、蛇、死して、口を開きて有り。

 奇異(あさま)しく、恐しくて、我が前(まへ)を見れば、媱を行ひて、濕(ぬ)れたり。

『然(さて)は。我れは、寢たりつるに、美き女と婚ぐと見つるは、此の蛇と、婚ぎけるか。』

と思ふに、物も思(おぼ)えず、恐しくて、蛇の開きたる口を見れば、婬、口に有りて吐き出だしたる。

 此れを見るに、

『早(はや)う、我が吉く寢入りにける間(あひだ)、𨳯の發(おこ)たりけるを、蛇の、見て、寄りて吞みけるが、女を嫁(とつ)ぐとは思(おぼ)えけるなりけり。婬を行ひつる時に、蛇の、え堪へで、死にけるなりけり。』

と心得(こころう)るに、奇異(あさま)しく、恐しくて、其(そこ)を去りて、隱れにて[やぶちゃん注:人の見えない所で。]、𨳯を吉々(よくよ)く洗ひて、

『此の事、人にや語らまし。』[やぶちゃん注:「このこと、誰かに話してみようか?」。]

と思ひけれども、

『由無(よしな)き事、人に語りて聞えなば、「蛇に嫁(とつ)ぎたりける僧なり」ともぞ、云はるる。』

と思ひければ、語らざりけるに、尙、此の事、奇異く思(おぼ)えければ、遂に、吉(よ)く親(した)しかりける僧に語けるに、聞く僧も、極(いみ)じく、恐れけり。

 然(しか)れば、人離れたらむ處にて、獨り晝寢は爲(す)べからず。

 然(しか)れども、此の僧、其の後(のち)、別の事、無かりけり。

「畜生は、人の婬を受けつれば、え堪へで、死ぬ。」

と云ふは、實(まこと)なりけり。

 僧も、臆病に、暫くは病み付きたる樣(やう)にてぞ有りける。

 此の事は、其の語り聞せける僧の語りけるを聞きたる者の、此く語り傳へたるとや。

   *

「アウパリシュタカ」口淫。フェラチオ(Fellatio)。

「閹人(ユーナツク)」宦官に同じ。東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた、去勢された男子。中国・オスマン帝国・ムガル帝国などに多かった。王や後宮に近接しているため、勢力を得やすく、政治に種々の影響を及ぼした。Eunuch(ギリシャ語由来の英語)。

『「ヴワチャナ」梵士』何度も出、注もした古代インドの「カーマ・シャーストラ」(性愛論書)の一つとして知られた「カーマ・スートラ」の著者ヴァーツヤーヤナのこと。

『姚秦譯「四分律藏」』以下は総て「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は短縮するために、どれも一部を改変している。例えば、「佛在毗舍離城」「佛、毘舍離城に有り。」というのは熊楠の誤った作文と推定され、近いのは、ずっと前にある「爾時世尊在王舍城」で、「爾(こ)の時、世尊、王舍城に在り。」である。最もひどいのは、「復前含男根、」以下の部分のカットで、犬に口淫させた比丘を熊楠は「彼不受樂不犯」とするところで、意味が通らなくなってしまっているのである。これは実は熊楠が安易にカットしたために生じた大誤謬である。本文ではそこを復元してある。則ち、「時有比丘、褰ㇾ衣渡伊羅婆提河、」の前の部分である。私の復元と推定訓読を底本と比較されたい。それにしても、どうして誰もこのトンデモ引用の誤りを指摘しなかったのだろう? 所持する「選集」(一九八四年版)でも補正されて訓読しているものの、誤った当該部はそのまま訓読されてある。初出から実に五十八年以上に亙って誰にも検証されていないというのは、話柄の内容が性に係わるとはいえ、放置されてきたこの為体には、正直、呆れ果てたと言わざるを得ない。

「波羅夷罪」波羅夷(はらい)は仏教の戒律で最も重い罪を指す語。サンスクリット語「パーラージカ」(「他に勝(まさ)ること」の意)の漢音写で、「根本罪」「辺罪」とも言う。修行者がこの罪を犯すと、僧伽(そうぎゃ:出家教団)から永久に追放される大罪とされる。比丘戒の波羅夷は、①淫(性交)を犯す。②物を盗む。③殺人(堕胎を含む)。④大妄語(悟りを得ていないのに得たと嘘を言うこと)の四条からなるが、比丘尼戒の波羅夷には、さらに四条(「触」(欲心を持ちつつ、男性に首下から膝上までの領域を触られること)・「八事」(男性との八種の淫らな逢瀬)・「覆」(波羅夷を犯した他の比丘尼を告発せずに匿すこと)・「随」(僧伽に背く比丘に随っていることに対する、他の比丘尼からの注意に三度に亙って従わないこと)が加わり、全八条から成る(小学館「日本大百科全書」及びウィキの「波羅夷罪」に拠った)。

「伊羅婆提河」比定河川不詳。

『蕭齊の衆賢譯「善見毘婆沙律」』(ぜんけんりつびばしゃ:現代仮名遣)は上座部所伝の律蔵を注釈したもの。全十八巻。南北朝時代の斉の僧伽跋陀羅による漢訳であるが、四四〇年頃のインドのマガダの学僧ブッダゴーサがセイロン (現在のスリランカ)で撰述した律蔵の注釈の抄訳といわれている。第一から第三結集までを述べ、アショーカ王の子マヒンダがセイロンに渡って弘法に努めたこと、さらに比丘・比丘尼の戒律を詳しく記述している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。例によって「大蔵経データベース」で校合した。最後の「罪」は原本にはないが、判り易いのでそのままとした。

『「はまぐり」で無て、蛙也』「蛤」の字はハマグリに限らず、海産斧足類(二枚貝)の総名であるが、同時に「蛙」の意も持つ。]

 又、畜生同士、口婬の例は、「摩訶僧祇律」卷六に、佛、迦蘭陀竹園《からんだちくえん》に在(おは)せし時、優陀夷《うだい》の方《かた》へ、知れる婆羅門、其婦を伴來《つれき》たり、諸房を示さん事を請《こひ》しに、優陀夷於一屛處、便捉婦人手把持抱、婦人念言、此優陀夷必欲ㇾ作ㇾ如ㇾ是如是事、弄已還放、語婆羅門云、我以已示竟云々、彼婦以優陀夷不共行欲故、便瞋言、用ㇾ看房舍、爲此是、薄福黃門出家、遍摩觸我身、而無好事、時婆羅門語優陀夷言、汝實於ㇾ我知識、而生非知識想耶、而於平地更生堆阜耶、而於水中更生火想耶。〔優陀夷、屏處(ものかげ)に於いて、便(すなは)ち、婦人の手を捉(と)り、把持(かか)えて、抱(いだ)かんと捉(とら)ふ。婦人、念言(おもふ)らく、『此の優陀夷、必ずや、是(か)くのごとく作(な)し、弄(たはふ)れ已(をは)れば、還(ま)た、放つならん。』と。婆羅門に語ひて、「我れは、以つて、示し竟(をは)れり。」と云々。彼(か)の婦は、優陀夷、以つて、共に欲を行はざるが故に、便(すなは)ち、瞋(いか)りて言はく、「房舍を看るを用ひて、此(か)くのごときことを爲(な)す。薄福(さちうす)き黃門(わうもん[やぶちゃん注:去勢。])せる出家、遍(あまね)く我が身を摩(な)で觸(さは)るも、而(しか)も好(よ)き事、無し。」と。時に、婆羅門、優陀夷に語って言はく、「汝は實(まこと)に我れに於いて、知識なり。而(しか)るに、非知識の想を生ずるや。而して、平地に於いて、更に堆阜(をか)を生ずるや。而して、水中に於いて、更に火を生ずるや。」。〕とて、優陀夷の頸を繫ぎ、牽去《ひきさ》りて、佛《ほとけの》所に之《ゆ》き、告ぐ。佛、優陀夷を罰し、其《その》因緣を說く。過去世時、香山中有仙人住處、去ㇾ山不ㇾ遠有一池水、時池水中有一鼈、出池水求食、食已向ㇾ日張ㇾ口而睡、時香山中有諸獼猴、入ㇾ池飮ㇾ水、已上ㇾ岸、見此鼈張ㇾ口而睡時、彼獼猴便欲ㇾ作婬法、卽以身生鼈口中、鼈覺合ㇾ口、藏六甲裏、如所ㇾ說偈言、愚癡人執ㇾ相、猶如鼈所一ㇾ咬、失修摩羅提、非ㇾ斧則不離。〔過去世の時、香山中(かうざんちゆう)に仙人の住む處、有り。山を去ること、遠からず、一つの池水、有り。時に、水中に一つの鼈(べつ[やぶちゃん注:スッポン。])有り。池水を出でて、求め食らひ、食らひ已(をは)りて、日に向かひ、口を張(あ)けて、睡(ねむ)る。時に、香山の上に諸(もろもろ)の獼猴(びこう)[やぶちゃん注:猿。]あり、池に入りて、水を飮む。已りて、岸に上がり、此の鼈の、口を張けて睡れるを見て、かの獼猴、便(すなは)ち、婬法(いんぱふ)を作(な)さんと欲す。卽ち、身生(しんしやう)[やぶちゃん注:ここは陰茎のこと。]を以つて、鼈の口中に内(い)れり。鼈、覺(めざ)め、口を合(がつ)し、六(りく)[やぶちゃん注:頸・四肢・尾。]を甲(かうら)の裏(うち)に藏(かく)す。說く所の偈(げ)のごときに言ふ、愚癡(ぐち)の人の相(さう)を執(と)るは、猶ほ、鼈に咬(か)まれて、摩羅提(まらだい)[やぶちゃん注:陰茎。]を失修(しつしゆ)し、斧に非(あら)ざれば、則ち、離れざるがごとし。」と。〕。鼈《すつぽん》は猴《さる》の陰《まら》を嚙《かん》だ儘、水に入れんと却行《あとずさり》し、猴は往《ゆ》かじと角力《あらそ》ふ内、鼈、仰《あほの》けに轉がり廻る。猴、鼈を抱き、仙人を訪《おとな》ひ、救ひを求め、仙人、猴の難を脫せしめた。仙人は、佛、鼈は、婆羅門、猴は優陀夷の前身ぢや、と有る。此樣《このやう》に口婬の話が佛典に多いから、上述、三井寺で僧が蛇の口を犯して美女と會ふと夢みたてふ「今昔物語」の譚抔も出來たのだろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:『「摩訶僧祇律」卷六』の引用は同じく「大蔵経データベース」で校合した。

「迦蘭陀竹園」「竹林精舍」(ちくりんしょうじゃ)とも呼ぶ。釈尊時代、中インドの最強国であったマガダ国の首都王舎城(ラージャグリハ。現在のビハール州ラージギル)の郊外に造られた僧園。サンスクリット名「ベーヌバナ・カランダカ・ニバーパ」と称した。迦蘭陀長者が寄進したものとも、「カランダカ」という栗鼠或いは鳥の住する竹で囲まれた園林をビンビサーラ王が奉献したものともされる。これは釈迦によって初めて受納された僧園で、成道(じょうどう)後の二、三、四年目の雨安居(うあんご)をここで過ごしたと伝えられる。玄奘によれば、この東に仏陀入滅に際して八分された舎利の一つを祀る、阿闍世王によって建てられた仏塔があったという(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「優陀夷」は「ウダーイ」「ウダーイン」の漢音写で、釈迦の弟子の一人で「勧導第一」の弟子と称された。]

 序いでに言ふ。「五雜俎」九に、水碓《みづからうす》、番する壯士、虎に打《うた》れ、上に坐らる。其時、水車、飛《とぶ》が如く動くを、虎が見詰《みつ》め居《を》る内に、其人甦つたが、手足壓へられて、詮術《せんすべ》、無い。所ろが、虎の陰莖、翹然(によつきり)口に近きを見、極力、嚙付《かみつ》くと、虎、大《おほい》に吼《ほえ》て、逃去《にげさつ》た。又、昭武、鄕に、熊、多く、其勢《へのこ》[やぶちゃん注:陰茎。]、極《きはめ》て長く、坐する每《ごと》に、先づ、土に穴掘り、其勢を容《いれ》て後《のち》、坐る。山中の人、其穴を見付《みつけ》て、其上に桎梏《しつこく》[やぶちゃん注:挟ませて対象物を捕える枷罠(かせわな)。]を置き、機《ばね》を設《まう》く。熊、例の如く來て、其大事の物を穴に入れると、機、動き、兩木《りやうぼく》で莖《くき》を夾《はさ》まれ、號呼して、復《また》、起つ能はず、擊殺《うちころ》さると有るは、猴が鼈に一件を嚙まれたと、三幅對の珍談ぢや。又「根本說一切有部毘奈耶雜事《こんぽんせついつさいうぶびなやざつじ》」三一に、比丘尼共が園林中に默坐思惟すると、虫が來て、不便處《ふべんしよ》に入り、苦惱す。因《より》て、佛、半跏を命ぜしに、尙、細蟲、有り、身に入《いり》て惱ます。佛、命じて、故破衣(ぼろぎぬ)と輭葉《なんえふ》[やぶちゃん注:柔らかな葉。「輭」は「軟」の異体字。]で掩ふて寂定《じやくぢやう》を修《しゆ》せしめた、と有る。不便處とは大小便處を云《いふ》たらしい。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上は巻九の「物部一」の一節(一つの話の中のある人物の台詞内の話)。今回は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政七(一七九五)年の訓点附き板本の当該部を元に電子化する。白文(句読点を打った)をまず示し、後に訓点を参考に書き下す。

   *

近歲、有壯士守水碓。爲虎攫而坐之。碓輪如飛、虎觀良久、士且甦、手足皆被壓不可動、適見虎勢、翹然近口、因極力嚙之。虎驚、大吼躍走、其人遂得脫。

   *

 近き歲(とし)、壯士の水碓(みづうす)を守る有り。虎の爲めに攫(つか)みて、之れに坐せらる。碓(うす)の輪(わ)、飛ぶがごとし。虎、觀ること、良(やや)久し。士、且つ、甦へる。手足、皆、壓(お)されて動くべからず。適(たまた)ま、虎の勢(へのこ)、翹然(げうぜん)として、口に近きを見て、因りて、力を極みに、之れを嚙む。虎、驚き、大いに吼(ほ)え、躍り走る。其の人、遂に脫(のが)るゝを得たり。

   *

熊の方も見つけた。同じ巻の前話の少し後のここ。同様に処理する。

   *

昭武謝伯元言、「其鄕、多熊。熊勢極長。毎坐必跑土爲窟、先容其勢、而後坐。山中人尋其窟穴、見地上有巨孔者,以木爲桎梏、施其上、而設機焉。熊坐、機發、兩木夾其莖。號呼不能復起、土人卽聚而擊之。至死不能動也。

   *

昭武の謝伯元の言はく、「其の鄕(がう)、熊、多し。熊の勢(へのこ)、極めて長し。毎(つね)に坐するときは、必ず、土を跑(あが)いて、窟(くつ)を爲(つく)り、先づ、其の勢を容れて、而して後(のち)、坐す。山中の人、其の窟穴を尋ね、地上に巨孔(きよこう)の有る者を見て、木を以つて、桎梏(しつこく)を爲(つく)り、其の上に施して、機(からくり)を設(まう)く。熊、坐はれば、機、發(はつ)して、兩木、其の莖を夾(はさ)む。號呼(がうこ)するも、復た、起くること能はず、土人、卽ち聚(よ)りて之れを擊つ。死に至るまで、動くこと能はざるなり。」と。

   *

「唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』」は何度も出てきている。今までと同じく「大蔵経データベース」で本文を確認した。特に大きな問題はない。

「不便處」熊楠は最後にかく言っているが、この漢語は、人間の両性の生殖器を指す語である。]

 

追 記 (大正三年四月『民俗』二年二報)

 前に引いた「和漢三才圖會」とレオ・アフリカヌスの記文を英譯して、八月二日の『ノーツ・エンド・キーリス』に出すと、同月三十日の分に次のような二文が出た。先づ、プリドー大佐言く、『往年、在インドの節、聞《きい》たは、土著《どちやく》の一英人、入浴中、壁に穿つた排水孔より、蛇、入り來《きた》るを見て、その人、恐れて詮術《せんすべ》を知らず。翌日、復《また》入り來り、排水孔より出去《いでさら》んとする時、尾を捉えて[やぶちゃん注:ママ。]引《ひい》たが、蛇、努力して、迯去《にげさつ》た。三日目にも來たが、今度は、去るに臨み、先づ、尾を孔に入れ、彼《かの》人を見詰め乍ら、身を逆《さかしま》にして迯去た。何と、蛇は、評判通り、慧(かしこ)い者ぢや。』と。次にフェヤブレイス氏曰く、『日本人は穴に入掛《いりかけ》た蛇の尾を捉へて引出す能はぬか知《しれ》ぬが、二十年斗り前、印度で、英人、獨りで、殆んど八呎[やぶちゃん注:二メートル四十四センチ弱。]、長き蛇を引出すを見た。』と。扨、田邊近き芳養(はや)村の人に聞くと、蛇の尾を捉へて、一人で引出すは六かしいが、今一人、其人を抱きて引くと、造作も無く、拔け出る由。

[やぶちゃん注:「八月二日の『ノーツ・エンド・キーリス』」の南方熊楠の当該投稿記事は、「Internet archive」の‘Notes and queries’のこちらの右ページで読め、以下の二氏の応答記事はここで読める。

「紀州芳養(はや)村」底本は「たや」と誤植。旧和歌山県西牟婁郡に上・中・下芳養村があった。だいたい、この中央の南北附近(グーグル・マップ・データ)。]

2022/11/23

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 米糞上人の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 なお、底本では標題下に「同前」とあるが、これは冒頭の本文が前話と同じ大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。

 標題「米糞上人」は引用の「日本文徳天皇実録」の訓点から「べいふんしやうにん」と読んでおく。] 

 

      米糞上人の話 (大正二年五月『民俗』一年一報)

 

 明治四十一年六月の『早稻田文學』六三―四頁に、予此話に就き說く所有り。略記せんに云く、「文德實錄」に之を齊衡元年の事實として、

 六月乙巳、備前國貢一伊蒲塞、斷ㇾ穀不ㇾ
 食、有ㇾ勅安置神泉苑、男女雲會、觀者
 架ㇾ肩、市里爲ㇾ之空、數日之間、遍於天
 下、呼爲聖人、各々私願伊蒲塞、仍
 有許諾、婦人之類、莫ㇾ不眩惑奔咽
 後月餘日、或云、伊蒲塞、夜人定後、以ㇾ水
 飮送數升米、天曉如ㇾ廁、有ㇾ人窺ㇾ之、
 米糞如ㇾ積、由ㇾ是、聲價應ㇾ時減折、兒婦
 人猶謂之米糞聖人

〔六月乙巳(きのとみ)、備前の國より、一(ひとり)の伊蒲塞(いふそく)[やぶちゃん注:「優婆塞(うばそく)」に同じ。僧。]を貢(かう)す。「穀を斷ちて、食らはず。」と。勅、有り、神泉苑に安-置(おら)しむ。男女(なんいよ)、雲のごとく、會(あつ)まり、觀(み)る者、肩に架(の)る。市-里(まち)、之れが爲めに空(むな)し、數日(すじつ)の間に天下に遍(あまね)し。呼んで「聖人」と爲(な)す。各々、竊(ひそか)に伊蒲塞に願ひ、仍(よ)つて許諾する有り。婦人の類(たぐゐ)、眩惑し、奔咽(ほんいん)せざるなし。後(のち)、月の餘日(よじつ)、或(あるひと)云はく、「伊蒲塞は、夜(よる)、人(ひと)定(しづ)まりたる後、水を以つて、升の米(こめ)を飮み送(くだ)し、天(てん)の曉(あ)くるとき、厠(かやは)に如(ゆ)く。人、有りて、之れを窺(うかが)ひしに、米糞(へいふん)、積むがごとし。」と。是れに由りて、聲價(せいか)、時に應じて、減折(めつせつ)す。兒(こ)と婦人、猶ほ、之れを「米糞聖人」と謂へり。〕

と錄せり。イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)一一一頁に云く、『爰に囘敎の一聖人あり。野獸の如く裸行說法し、民の信仰厚く、庸衆、羣集追隨す。聖人、尙、以て足れりとせず、公言すらく、「一密室に入定し、四十日、斷食して、出《いづ》るに及び、よく、心身、異狀なからん。」と。仍《よつ》て此邊にて、石灰を作るに用ふる石を、林中に運ばせ、圓廬(ゑんろ)を構へて入定す。四十日後、出來《いできた》るを見るに、心身、安泰なれば、皆、驚嘆す。一人、細心にして、廬傍の一處、肉臭を放つを感知し、地を發掘して、積粮《せきらう》を見出す。事、官《くわん》に聞え、聖人、獄に繫《つなが》る。一弟子、又、囚《とら》へられ、拷問を重ねざるに、自白しけるは、「廬の壁を穿ちて、一管を通し、夜中、私《ひそ》かに滋養品を送り入れし也、と。是に於て、師弟併《あは》せ、誅せらる。賣僧、種々の方便もて、人を欺く事、古今諸國、例《ためし》多ければ、本邦と裏海《カスピかい》地方に、此《この》酷似せる二話有るは偶合ならん。「實錄」に日附をすら明記したれば、多少の事實は有りしなるべし。馬琴の「昔語質屋庫」末段に、見臺先生、次の夜の會合に演《の》べらるべき題號を拳ぐる中に、この聖人のことあれば、曲亭、多分、「實錄」と「宇治拾遺」の外にも、之に似たる東洋の古話を、若干、集置《あつめおき》たりつらめ、その續篇、版行無くて、其考、世に出でざりしは遺憾也。

[やぶちゃん注:「明治四十一年六月の『早稻田文學』六三―四頁に、予此話に就き說く所有り」前回と同じく「Googleブックス」のこちら以降で、原雑誌画像を視認して、以下に初出形そのままを示す。二重右傍線は太字とした。

   *

第一 米糞聖人の話、文德實錄に、之を齊衡元年の事實として、六月乙巳、備前より此伊蒲塞を貢せし由を記せり、伊太利人ヨサフアバーバロの、一四三六より十六年間に涉れるタナ紀行(Viaggio di M. Iosafa Barbaro alla Tana,’ in Ramusio, vol.ii. p. 111.)に曰く、「爰に回敎の一聖人あり、野獸の如く裸にして行き[やぶちゃん注:「ありき」。]ながら說法し、民の信仰厚ければ、庸衆羣集して追隨す、聖人尙以て足れりとせず、公言すらく、密室に入定し、斷食四十日して、出ずるに及び能く精神健かに、身體聊も恙無らんと、仍て此邊にて石灰を製するに用る石を林中に運ばせ、一圓盧を構へて入定す、四十日の後、出來るを見るに、心身安泰なりければ、僉な[やぶちゃん注:「みな」。]驚嘆す、一人細心にして、廬傍の一處、肉臭の氣を放つを齅[やぶちゃん注:「かぎ」。]知り、地を發掘して積粮を見る、事[やぶちゃん注:「こと」。]官に聞し、聖人獄に繋がる、一弟子又囚へられ、拷問を重ねざるに自白すらく、盧の壁を穿て一管を通じ、夜中竊に滋養品を送り入れし也と、是に於て師弟併せて誅せらる」と、諸國に賣僧[やぶちゃん注:「まいす」。]が種々の方法を以て人を欺くこと、古今例多ければ、本邦と裏海[やぶちゃん注:「カスピかい」。]地方に、此相似たる二話有るは偶合ならん、實錄に日附をすら明記したれば、多少所據とする事實は有しなるべし、但し、馬琴の質屋庫末段に、見臺先生明夜の會合に論ずべき題號を擧る中に、米糞聖人の事あれば、曲亭は多分實錄と宇治拾遺の外より、之に似たる、日本若くは支那印度の古話を若干集め置たりしならんが、質屋庫の續編版行無りし故、其考は世に出ずして已みたるにや。

   *

「文德實錄」「日本文德天皇實錄」(にほんもんとくてんのうじつろく)の略称。勅撰の歴史書で全十巻。六国史の一つ。嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの文徳天皇の在位の一代の歴史を編年体に記したもの。藤原基経らが、貞観一三(八七一)年に文徳の次代の清和天皇の勅により、撰集が開始されたものの、一時、中止された。後、元慶二(八七八)年に清和の次代の陽成天皇の勅によって再開され、翌年に完成した。本書は以前の史書に比べ、薨卒伝(こうしゅつでん:令制で「薨」は親王と三位以上、「卒」は四位・五位と諸王の逝去することを指す)が豊かで、これは、律令体制の解体期に、古代国家再編に努めた人物群の伝記によって、当代と将来の範としたものと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。さて、後者「日本文徳天皇実録」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、巻一のここである(出雲寺和泉掾の宝永六 (一七〇九)年出版になるもの)ので、それで本文を校合し、訓点附きなので、それも参考にして訓読文を作った。

「馬琴の質屋庫」「昔語質屋庫」(むかしがたりしちやのくら)は小説仕立ての考証随筆。その初編末尾の広告に(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文化七(一八一〇)年の後刷原本の画像)、確かに『○崇德院(しゆとくゐん)天狗(てんぐ)の爪取剪(つめとりはさみ) ○鎌倉時代(かまくらじだい)の上下(かみしも) ○米糞上人(べいふんしやうにん)の乞食袋(こじきふくろ)右初編總目録(しよへんそうもくろく)に載(の)せるといへども巻数(かんすう)既(すで)にかぎりあれば釐(さい)て次編(じへん)の首巻(しゆくわん)に入(い)れたり』とあるものの、後に並ぶ「中編五册」も「同後篇五册」も全く刊行されなかった。

「イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)」そちらで注済み。]

 此拙考、『早稻田文學』に載せられて後、印度、亦、此類話有るを知れり。龍樹大士の「大智度論」卷十六(鳩摩羅什譯)に、釋迦佛、前身、大國王の太子たり。父王の梵志師、五穀を食《くらは》ずと詐《いつは》り、一同、尊信す。太子、之を信ぜず。林間に至り、其住處を探り、林中の牧牛人より、「梵志師、夜中、少しく酥(ちゝ)を服して、活《いく》る。」と聞き知り、宮に還りて、種々の瀉下劑を以て、靑蓮花を薰じ置く。明旦、梵志、宮に入り、王の側に坐するを見、太子、此花を、自ら彼に奉りけるに、梵志、『是迄、此太子のみ、我を敬せざりしに、今こそ歸伏したれ。』とて、大《おほい》に喜び、花を嗅ぐに、藥氣、腹に入り、瀉下を催す事、頗る急なり。因て、厠に趨《おもむ》かんとするを、太子、「物食《くら》はぬ者、何の譯《わけ》有つて、厠に向ふぞ。」とて、捉へて放たず。梵志、耐《たふ》る能《あた》はず、王の邊りに嘔吐す。之を見るに、純(もつば)ら酥也。王と夫人と、乃《すなは》ち、其詐りを知る、と出でたる也。

[やぶちゃん注:以上の『「大智度論」卷十六(鳩摩羅什譯)』の当該部を「大蔵経データベース」から引く。一部の漢字を正字化した。

   *

宿世爲大國王太子。父王有梵志師不食五穀。衆人敬信以爲奇特。太子思惟人有四體必資五穀。而此人不食必是曲取人心非眞法也。父母告子此人精進不食五穀是世希有。汝何愚甚而不敬之。太子答言。願小留意。此人不久證驗自出。是時太子求其住處至林樹間。問林中牧牛人。此人何所食噉。牧牛者答言。此人夜中少多服酥以自全命。太子知已還宮欲出其證驗。卽以種種諸下藥草熏靑蓮華。淸旦梵志入宮坐王邊。太子手執此花來供養之拜已授與。梵志歡喜自念。王及夫人内外大小皆服事我。唯太子不見敬信。今日以好華供養甚善無量。得此好華敬所來處。擧以向鼻嗅之。華中藥氣入腹。須臾腹内藥作欲求下處。太子言。梵志不食何緣向厠。急捉之須臾便吐王邊。吐中純酥。證驗現已。王與夫人乃知其詐。

   *]

2022/11/22

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 無眼、一眼、二眼

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇の正規部の漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 なお、底本では標題下に「同前」とあるが、これは冒頭の本文が前話と同じ大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

 

     無眼、一眼、二眼 (同 前)

 

「蟻を旗印とせし話」に出たる「ベンスリ」敎授、三年前、二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に說《とき》て曰く、「バートン」の「鬱憂の解剖(アナトミー・オヴ・メランコリー)」(一六五一―二年板、四十頁)に、『支那人の諺に、歐州人は一眼《ひとつめ》、支那人は二眼、其他の諸民、總て眼なしと云ふ』と言へり。是は「ジョセフ・ホール」の「新世界發見誌」(Joseph Hall, ‘Mundus alter et idem,’ 1605 ? and 1607)に、斯《かか》る詞有るに據れるならん。併乍《しかしなが》ら、支那書、又、外人が、實際、支那を旅行觀察して記せる者に、支那人間、果して、斯る諺《ことわざ》、行はれたる證左有りや。「エイテル」博士(「漢英佛敎語彙」の著者)等に問ひしも、答ふる能はざりき、と。

[やぶちゃん注:「蟻を旗印とせし話」先行するこれ

『「ベンスリ」敎授』エドワード・フォン・ブルームバーグ・ベンスリー(Edward von Blomberg Bensly 一八六三年~一九三九年)は英文学者。

「三年前、二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に說て曰く、……」英文「WIKISOURCE」の‘Notes and Queries’ のここに発見した。電子化もされてある。

『「バートン」の「鬱憂の解剖(アナトミー・オヴ・メランコリー)」(一六五一―二年板、四十頁)』イギリスの作家でオックスフォード大学のフェローであったロバート・バートン(Robert Burton 一五七七年~一六四〇年)の‘The Anatomy of Melancholy’(「憂鬱の解剖学」:初版一六二一年刊)はメランコリーの医学的・科学的・哲学的・文学的百科事典として知られる。「Internet archive」のこちらにあるが、版が多過ぎ、五、六冊で、目がチラチラしてきて当該部を探すのは諦めた。

「ジョセフ・ホール」(Joseph Hall 一五七四 年~一六五六年)はイギリスの司教で風刺作家。以下の「新世界發見誌」「Mundus alter et idem」は彼のディストピア小説。ラテン語の標題は‘An Old World and a New, The Discovery of a New World’ (「古い世界と新しい世界の発見」)、他に‘Another World and Yet the Same’ (「別な世界とまだ同(おんな)じのそれ」)と訳されている。

『「エイテル」博士(「漢英佛敎語彙」の著者)』「火齊珠に就て (その二・「追加」の1)」で既出既注であるが、再掲しておくと、エルンスト・ヨハン・エイテル(Ernst Johann EitelErnest John Eitel 一八三八 年~一九〇八年)。ドイツのヴュルテンベルク生まれのドイツ人で、元々は「ヴュルテンベルク福音教会」の牧師であったが、「バーゼル伝道会」に入って、広東省に福音を広めるために渡った。一八六二年からは、香港で布教活動に従事するとともに、香港政庁下での教育行政官としても活躍した。後には「ロンドン伝道協会」に入会するとともに、イギリス国籍を取得している。中英辞典・広東語発音本・広東語辞典など。多くの言語学の著書を編纂している。「支那佛敎語彙」が彼のどの著作を指しているかは判らぬ。]

 十月二日の同誌に、予の答《こたへ》、出でたり。次の如し。一三〇七年筆、Haiton, Histoire orientale,ch. I, col. I, in P. Bergero, Voyages,à La Haye 1735 に、『支那人、聰慧明察なれば、外國諸民の學術巧技を蔑如し、謂《いは》く、支那人二眼、羅甸《ラテン》人一眼有り。其他は全く盲也、と。」と出で、一四三六年より十六年間、「タナ」と波斯《ペルシア》に旅行せる「ヨサファ・バーバロ」の紀行(Ramusio, Navigationi e Viaggi, in Venetia, 1588, I. 103c.)に、彼《かの》地方で逢いし[やぶちゃん注:ママ。]支那商客、自《みづか》ら、『吾等、二眼、佛郞機(フランキ)(當時、囘敎國人が歐州人を總稱せる名。之より、支那で大砲を、此稱で呼べり。)、一眼、韃靼人、無眼。』と誇れり、と云へり。又、「松屋筆記」卷八五に、明の崇禎中、徐昌治編纂「聖朝破邪集」に收めたる蘇及寓の「邪毒實據」に、

 艾儒略等、夷人也、自萬歷間、入我中國、有識
 者、窺其立心詭異、行事變詐、已疏其不軌而驅
 之矣、今也胡爲乎複來哉、其故可思矣、複來而
 天下不惟莫能詳察其奸、併且前驅諸疏、亦幾不
 得見、夷輩喜而相告曰、我西士有四眼、日本人
 有三眼(兩到日本開教、被其兩殺、故云。)中
 國人有兩眼、呂宋人無一眼。

〔艾儒略(がいじゆりやく)等(ら)は、夷人なり。萬曆(ばんれき)の間(かん)より、我が中國に入る。有識の者、其の立心[やぶちゃん注:決心。「選集」は「どうき」と振る。「動機」であろう。]の詭異(きい)にして、行事(おこなひ)の變詐(へんさ)なるを窺ひ、已(すで)に其の不軌なることを疏(そ)して、之れを驅(おひた)てたるに、今や、胡(なんす)れぞ、複(ま)た、來たれるや、其の故を思ふべし。複た、來たるも、天下、惟(ただ)、其の奸を能く詳察するもの莫(な)きのみならず、併(な)ほ且つ、前(さき)の驅てたる疏も、亦、幾(ほとん)ど見ることを得ざればなり。夷輩、喜びて相ひ告げて曰はく、「我が西土は四眼有り、日本人は三眼有り(兩(ふたた)ぴ、日本に到りて開敎し、兩び、殺さる。故に云へり。)、中國人は兩眼有り、呂宋(ルソン)人は一眼も無し。」と。〕。

 呂宋人、天主敎に化して、國、亡びしを指す也。

[やぶちゃん注:「十月二日の同誌に、予の答、出でたり」同じく、英文「WIKISOURCE」の‘Notes and Queriesここと、ここ。同前。

「一三〇七年筆、Haiton, Histoire orientale,ch. I, col. I, in P. Bergero, Voyages, à La Haye 1735 」南方熊楠の「『大日本時代史』に載する古話三則」(明治四一(一九〇八)年六月発行『早稲田文学』三十一号発表)の中の「毛利元就、箭を折りて子を誡めし話」の中に(以下はたまたま「Googleブックス」で視認出来た原雑誌の当該箇所を元に、そのままに電子化した。所持する「選集」とは異なる箇所が、複数、箇所ある)、

   *

 又千三百七年に、シリシアの小王ハイトンが筆せる東國史(Haiton, Histoire Orientale,en  P. Bergeron, Voyages faites principalementen Asie,à la Haye, 1735, ch. i. cols 31-32)には、成吉思汗を此話の主人公とせり。云く、是に於て汗其十二子を喚出し、常に相親和すべしと敎訓し、其例を示さんとて、每子一箭を持來らしめ、十二矢を集て、長子をして折しむるに能はず、二男三男、亦然り、然る後、成吉思、更に十二矢を散解して、箇々之を折れと末子に命ずるに、容易に折り盡し畢る。汗之を見て顧て諸子に問ふ、何の故に汝等折り得ざりしか、皆答ふ箭多くして束ねたればなり、又問ふ、何の故に季弟一人能く之を折り得たるか、答ふ、一一別て之を折れば也と、汗諸子の斯く答ふるを聴て言く、其汝等に於るも又然り、一和すれば長え[やぶちゃん注:「とこしへ」。ママ。]に栄え、相離るれば忽ち亡びんと。

   *

さて、「選集」では、整序されて「シリシア」は『シリア』としている。書かれた一三〇七年当時のシリアはモンゴルによるシリア侵攻が終焉した年であるので、この話は何やらん、意味深長である。但し、その後のシリアはエジプトのマムルーク朝の支配を受け、それが亡ぼされると、今度は、オスマン帝国の支配を受けることになるのだが。

「ヨサファ・バーバロ」十五世紀のヴェネチアの貴族で商人にして外交官でもあったヨサファト・バルバロ(Josaphat Barbaro(一四一三年~一四九四年:Josaphat は Giosafat 又は Giosaphat ととも記す) 。確かに紀行を残していることが、信頼出来る日本人の論文にあった。また、彼の英文ウィキも参照されたい。

「Ramusios,‘Navigation et Viaggi’」ベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンニ・バティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio  一四八五年~一五五七年)が、先達や同時代の探検旅行記を集大成した、大航海時代に関する基本文献とされる「航海と旅行」(Delle navigationi et viaggi :全三巻。一五五〇年~一五五九年刊)のこと。

「佛郞機(フランキ)(當時、囘敎國人が歐州人を總稱せる名。之より、支那で大砲を、此稱で呼べり。)」‘Notes and Queries’ の原文では“Franks”。これは、世界史では、ローマ帝国後期から記録に登場するゲルマン人の部族名であるが、ウィキの「フランク人」によれば、西ヨーロッパ全域を支配するフランク『王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を指す言葉として用いられた事もある』とあった。

『「松屋筆記」卷八五』国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここ(右ページ上段の(五十)日本人三眼幷自鳴鐘」の条。

「聖朝破邪集」(明の徐昌治編になる一六八三年成立の儒者や仏教僧のキリスト教に対する反対意見を纏めたもの)は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたここ334のガイド・ナンバーの本文と校合した。「併」はそちらでは「並」であったが、ここでは訓読の理解のし易さから、熊楠の「併」を採った。

「艾儒略」イタリア出身のイエズス会宣教師で、明末の中国で宣教活動を行ったジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)の中国名。帰国することなく、亡くなった。

「萬曆(ばんれき)の間(かん)より、我が中國に入る」「萬曆」は明代の元号で一五七三年から一六二〇年七月まで。当該ウィキの「ジュリオ・アレーニ」によれば、彼は『ゴア経由で』一六一〇『年にマカオに至り、そこで数学を教えながら』、『中国に潜入する機会をうかがった』一六一三『年に中国に入り、北京で徐光啓の知遇を得て』、『各地で布教活動を行った』とある。]

 惟ふに、此一眼、二眼、無眼の譬喩、其頃、支那と歐州、又、西亞細亞間に往復する輩が、專ら唱へし所にて、或は支那人に、或は外人に、適宜、充稱せしなるべし。中世紀に、支那人の西遊せる者、歐人の東遊せる者、交互、其遊べる地に、靈妙の幻師ありし、と記し、十七世紀に、支那で、日本の磁石を珍重せし(「サン・ルイ」の「支那誌」に出づ)と同時に、日本には唐物《からもの》の磁石を貴びし抔、似たる例也。古梵土《こぼんど》、亦、斯る諺有りしにや。北凉の曇無讖《どんむしん》譯「大般涅槃經」卷廿五に云く、

 世有三人、一者無目、二者一目、三者二目、言
 無目者、常不聞法、一目之人、雖暫聞法、其心
 不住、二目之人、專心聽受。如聞而行、以聽法
 故、得知世間、如是三人、以是義故、聽法因緣、
 則得近於大般涅槃。

〔世に、三人、有り。一(いつ)は、目(め)無く、二は一目(ひとつめ)、三は二目なり。目無き者と言ふは、常に法を聞かず。一目の人は、暫(しばら)く法を聞くと雖も、其の心、住(とどま)らず。二目の人は、專心、聽受し、聞きしがごとくに行なふ。法を聽きしを以つての故に、世間を知るを得(う)。是(か)くのごとき三(みたり)の人は、是の義を以つての故に、法を聽きし因緣もて、則ち、大般涅槃に近づくことを得。」と。〕

[やぶちゃん注:『「サン・ルイ」の「支那誌」』不詳。

「古梵土」古代インド。

「北凉の曇無讖」中インド出身の訳僧曇無讖(ダルマクシェーマ/漢名「法楽」 三八五年~四三三年)。当該ウィキによれば、彼は『謀られて誣告され』、『王の怒りを買った』『ため』、『殺されると思い、インドを出た。而して、『敦煌に到り、しばらく滞在した』が、『数年後には涼州姑臧に赴いた。一説にこの地へ赴いたのは、北涼の国王(河西王とも)沮渠蒙遜(そきょもうそん)が敦煌を平定した』(四一六年~四二三年)『後に、曇無讖と出遭い丁重に涼州に迎え入れたとも言われている。しかし涼州入国後の曇無讖の訳した経典の量が膨大だったこと、また後に涅槃経中分以下の巻を捜し訪ねて故郷に向かって旅する期間とを考慮すると、その数年後』の四一二年に『一介の遊方僧として涼州姑臧』(こぞう)『に到った説があり、これが事実で正しいと考えられている』とある。

「大般涅槃經」は「大蔵経データベース」の当該部と校合した。有意な異同はなかった。]

 

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 法華經云、若有利根、智慧明了、多聞强識、乃可爲說、大凡參玄之士、須ㇾ具二眼、一己眼明ㇾ宗、二智眼辯惑、所以禪宗云、單明自己、不ㇾ了目前、如ㇾ此之人、只具一眼、理孤事寡、終不圓通。〔「法華經」に云はく、『若(も)し、利根有り、智慧、明了にして、多聞强識なれば、乃(すなは)ち、爲めに說くべし。大-凡(およ)そ、參玄の士は、須(すべか)らく二眼を具すべし。一(いつ)は己(おの)が眼もて、宗(しゆう)を明らかにし、二(に)は智眼もて、惑ひを辯ず。』と。所以(そゑ)に、禪宗にて云はく、『單(た)だ、自己を明らむるのみにて、目前を了(りやう)せずんば、此(か)くのごとき人は、只だ、一眼を具するのみ。理(ことわり)、孤にして、事(こと)、寡(すくな)く、終(つひ)に圓通せず。』と。〕と、「宗鏡錄《すぎやうろく》」卷四一に出づ。

[やぶちゃん注:「宗鏡錄」(中国五代十国時代の呉越から北宋初の僧永明延寿が撰した仏教論書。全百巻。九六一年成立)は「大蔵経データベース」で校合したが、底本には、幾つかの大きな誤字・脱字があり、特に最後を「終可圓通」とするのは、致命的な誤りである。

「參玄」「玄」は「幽玄・奥深い仏道」の意。仏道を修行すること。]

 

追 記 (大正十五年八月二十七日記)

 故杉浦重剛氏は、屢《しばし》ば、一眼・二眼等の字を、其詩に用ひたり。司馬江漢の「春波樓筆記」にも、海國乍ら、吾が國人の駕航柁術に詳《くは》しからざるを、西洋人、評して曰はく、『支那、以て、「盲のり」、日本、以て、「片目乘り」といふ。』と記せり。

[やぶちゃん注:「杉浦重剛」(じゅうこう 安政二(一八五五)年〜大正一三(一九二四)年)は滋賀県出身の思想家・教育家・ジャーナリスト。別称、杉浦梅窓(ばいそう)。膳所藩の貢進生として大学南校に入学したが、制度が変わったため、東京開成学校に学んだ。在学中、選抜され、明治九(一八七六)年にイギリスに留学。同十五年、東京大学予備門長。同十八年、辞職後に主に在野で多彩な言論・教育活動を行った。同二十一年には三宅雪嶺とともに『政教社』の設立に参加し、雑誌『日本人』を発刊、国粋主義を唱えた。また、東京英語学校の設立に関与し、『称好塾』を経営、青少年の教育に尽力した。後、東亜同文書院長等を経て、大正三(一九一四)年には東宮御学問所御用掛となり、倫理を進講した(以上は国立国会図書館の「近代日本人の肖像」のこちらに拠った)。

『司馬江漢の「春波樓筆記」』(しゅんぱろうひっき)は江戸後期の画家で蘭学者司馬江漢晩年六十五歳の時の随筆。文化八(一八一一)年四月から十月にかけて、稿が成った。江漢その人が、和漢洋の学に通暁した、当時、第一級の知識人であったために、その該博な知識が熟年の思考の中で見事に結実している。全体が長短二百十余の節からなり、江漢の自叙伝・人間観・人生観・社会観等をはじめ、「西洋創世紀」の抜書、「伊曽保(いそほ)物語」の引用など、幅広い西洋文化受容の初期的形態が見られ、興味を惹く。本書は、早く『百家説林』や『有朋堂文庫』に所収され、読者の注目を集めた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 糊の滓

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、標題は「のりのかす」と読む。]

 

    糊の滓 (大正二年五月『民俗』第一年第一報)

 

 處女が、糊のすり滓を握り、灸り食らへば、嫁する時、犬に吠《ほえ》らる。此物、犬と老人のみ、正《まさ》に食らふべければ也。(紀州田邊)

[やぶちゃん注:「選集」で一部を増補改変した。女性としてはしたない行為だからであろう。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 羊を女の腹に𤲿きし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で推定訓読文を添えた。特に今回より、読者の便宜を考えて、底本中の表記の有無を無視し、基本、書名は「 」、雑誌名・引用部は『 』で統一することとした。

 なお、標題中の「𤲿きし」は「ゑがきし」と読んでおく。また、標題下の「同前」は前の「蟻を旗印とせし話」と同じで、大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

  

     羊を女の腹に𤲿きし話 (同 前)

 

 無住法師の「沙石集」七卷六章に、遠江池田の庄官の妻、嫉妬甚しく、磨粉(みがきこ)に、鹽を和し、夫の陰《かくしどころ》に塗り、夫が娼《よね》[やぶちゃん注:情人。]を置けるを驗證せる話を擧げ、次に、或男、他行《たかう》に臨み、『妻の貞操を試みん。』とて、陰所《かくしどころ》に牛を描きしに、姦夫、來たり、通じて後、實の男は臥牛を描けるに、姦夫は、立てる牛を描く。夫、還り來たり、檢《けん》して妻、を詰《なぢ》りしに、「哀れ、止《や》め給へ、臥せる牛は、一生臥せるか。」と云ひければ、「さもあらん。」とて、許しつ。男の心は淺く大樣《おほやう》なる習《ならひ》にや云々。「池田の女人には、ことのほかに似ざり鳧《けり》。」と見ゆ。紀州に行はるゝ此話の作替へには、夫、彼所に勒具(くつわぐ)したる馬を畫き、還り視れば、勒(くつわ)無(な)し。妻を責めしに答へて、「豆食ふ馬は、勒を脫するを知らずや。」と云へり、と。(「松屋筆記」卷九四、「室町殿日記」十九「德永法印咄のこと」の條に、『女陰《ぢよいん》を「豆」と云ふ。西行の歌に見ゆ。「豆泥棒」抔も云ふめり。「宇治拾遺」に陰莖を「まめやか物」と云へり。可考《かんがふべし》。』。)

[やぶちゃん注:「無住法師」(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉時代後期の僧。当該ウィキによれば、『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、十八『歳で常陸国法音寺で出家。以後』、『関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また』、臨済僧『円爾』(えんに)『に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり』、弘長二(一二六二)年に『尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し』、八十歳で『隠居している』。「和歌即陀羅尼論」の提唱者で、『「話芸の祖」ともされる』。『伝承によっては』、『長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮花寺で亡くなったともされる』。『様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか』、『貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする』。『また、説法の対象は読み書きのできない層だった』という。著書は、この知られた説話集「沙石集」(しゃせきしゅう)の他、「妻鏡」・「雑談集」(ぞうだんしゅう)などで「沙石集」は五十四歳の『時に執筆』にとりかかり、『数年かけて』五『巻を完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全』十『巻となり、書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされる』。本書は私の愛読書でもあり、『無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよい』とする判断に私は賛同している。

『「沙石集」七卷六章に、遠江池田の庄官の妻、……』「池田」は遠江国にあった古代末期から中世の宿駅で、現在の静岡県旧豊田(とよだ)町、今は磐田市池田(グーグル・マップ・データ)に比定されている。この二つの話は、「無嫉妬事」の条であるが、この話は複数の類話を重ねた、やや長いものの中の二つを抜粋・抄録(不全)したものである。以下に所持する筑土鈴寛校訂の一九四三年岩波文庫刊の「沙石集 下卷」他を参考底本に全文を示す。段落を成形し、読点や記号及び送り仮名を追加した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。話柄の変わる部分に「*」を入れて読み易くした。

   ※

      六 嫉妬の心無き人の事

 或殿上人、田舍下りの次(つい)でに、遊女を相具して上洛せられけるが、使をさきだてて、

「人を具して上り候なり。むつかしくこそ思し食さんずらめ。出させ給へ。」

と、女房の許へ情なく申されけり。

 女房、すこしも恨みたる氣色なくして、

「殿の、人を具して上せ給ふなるに、御まうけせよ。」

とて、こまごまと下知して、見苦き物ばかりとりしたためて、よろづあるべかしく用意して、我身ばかり、いで給ひぬ。

 遊女、この事を見聞きて、おほきに恐れ驚きて、殿に申しけるは、

「御前の御ふるまひ、ありがたき御心ばえにておはしますよし、承りて、且つ、事の樣、モ見まゐらせ候ふに、いかがかかる御栖居(おすまゐ)の所には候ふべき。身の冥伽も、よも候はじ。ただ、御前をよびまゐらせて、本のごとくにて、此身は別の所に候ふて、時々めされんは、しかるべく侍りなむ。さらでは、一日も、爭(いかで)か、かくて侍べき。」

と、おびただしく誓狀しければ、殿も理りに折れて、北の方の情もわりなく覺えて、使者をやりて、北方をよびたてまつる。すべて、返事もなかりけれども、たびたび、とかく申されければ、歸り給ひぬ。

 遊女も心あるものにて、互に遊びたはぶれて、へだてなき事にてぞありける。

 ためしなき少なき心ばえにこそ。

   *

 遠江の國にも、或人の女房、さられて、すでに馬に乘りて出でけるを、

「人の妻のさらるる時は、家中の物、心にまかせて、とる習ひにて侍れば、何物もとり給へ。」

と、夫、申しける時、

「殿ほどの大事の人を、うちすててゆく身の、何物か、ほしかるべき。」

とて、うち咲うて、にくいげもなくいひける氣色、まめやかに、いとほしく覺へて、やがて、とどめて、死のわかれになりにけり[やぶちゃん注:「偕老同穴」の意。]。人に、にくまるるも、思はるるも、先世の事といひながら、只、心がらによるべし。

   *

 常陸の國、或所の地頭、京の名人、歌道、人にしられたる女房を、かたらひて、年ひさしく、あひすみけるが、鎌倉へ、おくりて後、年月へて、さすが、昔のなごりのありけるにや、衣・小袖など、色々に調へて、送りたりたりける返事、別の事はなくて、

  つらかりしなみだに袖は朽ちはてぬこのうれしさをなににつつまん

是を見て、さめざめとうち泣きて、

「あら、いとほし。その御前、とくとく、むかへよ。」

とて、よび下して、死のわかれになりにけり。更に近くは、まゝ、あるべし。

   *

同國に或人の女房、鎌倉の官女にてありけり。歌の道も心得て、やさしき女房なりけり。心ざしやうすかりけん、

『事の次でをもとめて、鎌倉へ送らばや。』

と思ひて、

「この前栽の鞠(まり)のかかりの四本の木を、一首によみ給へ。ならずば、おくりたてまつるべし。」

と、男にいはれて、

  櫻さくほどはのきばの梅の花もみぢまつこそひさしかりけれ

これを感じて、おくる事、思ひ留まりにけり。人の心は、やさしく、いろ、あるべし。

 當時、ある人なり。

   *

 或る人、妻を送りけるが、雨のふりければ、色代(しきだい)に[やぶちゃん注:挨拶の代わりに。]、

「けふは、雨ふれば、留まり給へ。」

と云ふを、既に出でたちて、出でつつ、かくこそ詠じける。

  ふらばふれふらずはふらずふらずとてぬれでゆくべき袖ならばこそ

餘りに、あはれに、いとほしく覺えて、やがて留めて、死のわかれになりにけり。

 「和歌の德は、人の心をやはらぐる。」と云へり。誠なるかな。「西施が江(え)を愛し、嫫母(ぼも)は鏡を嫌ふ。」[やぶちゃん注:「嫫母」は黄帝の妃の一人で、才徳を備えた賢い婦人だったが、顔は醜かったとされる。一方で石板鏡の発明者とされる。]と云ひて、わが形、よかりし西施は、江に影のうつるを見て、是を愛しき。我貌(かたち)、みにくかりし嫫母は、鏡にうつるかげ、見にくきまゝに、鏡をきらひき。是、江のよきにあらず、わが形のよきなり。鏡のわろきにあらず、わが顔の見にくきなり。然れば、人のよきは、我が心のよきなり。あたみ[やぶちゃん注:憎み、敵視し。]、恨めしきは、我が身のとがなり。縱ひ、今生にことなるとがなきに、人のにくみあたむも、先世の我がとがなり。おのづから人に愛せらるるも、先世の我がなさけなるべし。されば、人を恨むる事なくして、我が身の過去、今生の業因緣、心からと思ひて、いかり恨べからず。世間の習ひ、多くは、嫉妬の心ふかくして、いかり、はらたち、推し疑ひて、人をいましめ、うしなひ、色を損じ、目をいからかし、語をはげしくす。かかるにつけては、彌(いよいよ)うとましく覺えて、鬼神の心地こそすれ。爭(いかで)か、いとほおしく、なつかしからむ。或は龍(りやう)となり、或は蛇となる。返々も、よしなくこそ。されば、かの昔の人の心ある跡をまなばば、現生は敬愛(きやうあい)の德を施し、當來には毒蛇の苦をまぬかるべし。

   *

 ある人、本(もと)の婦(め)をも、家におきながら、又、婦を迎へて相住みけり。今の妻と一所に居て、かき一重へだてて、本の妻ありけるに、秋の夜、鹿の鳴く聲、聞えければ、夫、

「聞き給ふか。」

と、本の妻に云ひければ、返事に、

  我も鹿なきてぞ人に戀られし今こそよそに聲ばかりきけ

と云ければ、わりなく覺えて、今の妻を送りて、又、還りあひにけり。

 嫉妬の心ふかくして、情なくば、かくはあらじかし。ただ、嫉(そね)み妬(ねた)まず、あたをむすばずして、まめやかに色ふかくば、おのづからしも、あるべきにや。

   *

 信濃國に、或人の妻のもとに。まめ夫(をとこ)のかよふ由、夫、聞きて、天井の上にて伺ひけるに、例のまめ夫、來たりて、物語し、たはふれけるを、天井にてみるほどに、あやまちて、落ちぬ。

 腰打損じ、絶入しければ、まおとこ、是を、かへて看病し、兎角あつかひ、たすけてけり。心ざま、たがひに、おだしかり[やぶちゃん注:「穩しかり」。]ければ、ゆるしてけり。

   *

 洛陽にも天文博士(はかせ)が妻を、朝日の阿闍梨と云ふ僧、かよひて、すみけり。

 ある時、夫、他行の隙と思ひて、うちとけて居たる所に。夫、にはかに、來たる。逃ぐるべき方無くして、西の方の遣戶をあけて、にげくるをみつけて、かくぞ云ひける。

  あやしくも西に朝日の出るかな

阿闍梨、とりもあへず。

  天文博士いかが見るらん

さて、よびとどめて、さかもり・連歌などしてゆるしてける。

   *

 ある人の妻、まをとこと、ねたりける時、夫、俄に、ねやのうちへ、いらんとす。

『いかにしてか、にがさん。』

と思ひて、「衣の蚤(のみ)とる。」由にて、にがさんとて、まをとこの、はだかなるを、むしろに、かいまいて、

「衣の、のみ、とらしむ。」

とて、すびつを、とび越えけるほどに、すべらかして、すびつに。

「とう」

ど、おとしつ。

 男、是を見て、目、見のべ、口、おほひして、のどかなる氣色にて、

「あら、いしののみの、大きさや。」

と云ひて、なにともせざりければ。勢は大なれども。小(こ)のみの如くも、とばずして、はだかにて、はひにげにけり。

 あまりに、肝すぎてしてけるにこそ。夫の心、おだしかりけり。

   *[やぶちゃん注:以下が熊楠の引いた第一話。]

 遠江國、池田の邊(ほとり)に、庄官、ありけり。かの妻。きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて。あからさまにもさし出さず。

 所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて、あそびけるに、見參のため、宿へゆかんとするを、例の、ゆるさず。

 地頭代、知音なりければ、

「いかが見参せざらん。ゆるせ。」

といふに、

「さらば、しるしを、つけん。」

とて、かくれたる所にすり粉をぬりてけり。

 さて、宿へゆきぬ。地頭みな子細しりて。いみしく女房にゆるされておはしたり。

「遊女よびて、あそび給へ。」

と云ふに。

「人にもにぬ物にて、むつかしく候。しかも符(しるし)をつけられて候。」

というて、

「しかじか。」

と、かたりければ。

「冠者原にみせて、本の如く、ぬるべし。」

とて、遊びて後、もとの樣に、たがへず、摺粉(すりこ)をぬりて、家へ歸りぬ。

 妻

「いで、いで、見ん。」

とて、すりこを、こそげて、なめてみて、

「さればこそ、してけり。我がすりこには、鹽をくはへたるに、是は、しほが、なき。」

とて、ひきふせて、しばりけり。

 心深さ、あまりに、うとましく覺えて、頓(やが)て、うちすてて、鎌倉へ下りけり。

 近き事なり。

   *[やぶちゃん注:以下が第二話。]

 舊き物語に、ある男、他行の時、まをとこもてる妻を、

「しるし、つけん。」

とて、かくれたる所に、牛を、かきてけり。

 さるほどに、まめ男の來たるに、

「かかる事、なん、あり。」

と語りければ、

「われも、繪はかけば、かくべし。」

とて、さらば、能々、みて、もとのごとくもかかで、實の男は、「ふせる牛」をかけるに、まをとこは、「たてる牛」を、かきてけり。

 さて、夫、歸りて見て、

「さればこそ。まをとこの所爲にこそ。我がかける牛は『ふせる牛』なるに、是は『たてる牛』なり。」

と、しかりければ、

「あはれ、やみ給へ。『ふせる牛』は、一生、ふせるか。」

と云ひければ、

「さも、あるらん。」

とて、ゆるしつ。

 男の心は、あさく、おほやうなるならひにや。おこがましきかたもあれども。情量のあさきかたは、つみも、あさくや。

 池田の女人には、事のほかに似ざりけり。

   *

 ある山の中に、山臥と、巫女(みこ)と、ゆきあひて、物語しけるが。人もなき山中にて、凡夫の習ひなれば、愛欲の心、起りて、このみこに、おちぬ。

 このみこ、山澤の水にて、垢離(こり)かきて、つづみ、

「とうとう」

と、うち、數珠(じゆず)をしすりて、

「熊野、白山、三十八所、猶も、かかるめにあはせ給へ。」

と祈りけり。

 山臥、又、垢離かきて、數珠をしすりて、

「魔界の所爲にや。かかる惡緣にあひて、不覺を仕りぬる。南無惡魔降伏、大聖不動明王。今は、さて、あれと、制せさせ給へ。」

と云ひて、二人、ゆきわかれにけり。

 是も男子は愛執のうすきならひなるべし。

   ※

『「松屋筆記」卷九四』国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。当該箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここの「(六十七)女陰を豆といふ事」にある。

「室町殿日記」室町幕府将軍足利義晴・義輝・義昭、及び、織豊期の軍事・政事のほか、世相などの説話的な事柄を記した二百四十余章から成る軍記物。編者は楢村長教。当該ウィキによれば、『序によれば、前田玄以の要望により、京都検断職猶村市右衛門尉長高、脇屋惣左衛門尉貞親の日記、幕府料所沙汰人三好日向守義興の日記、将軍の祐筆鳥飼如雪斎の書簡・日記をもとに』、『編者により文禄年間』(一五九二年~一五九六年)『の風説を加え』て『編まれた』『前田玄以』『の指示であること、また足利義昭の臨終』(慶長二(一五九七)年『の記事があることから、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『頃の成立とされる』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本を見たが、当該巻中には発見出来なかった。

「德永法印」徳永寿昌(ながまさ 天文一八(一五四九)年~慶長一七(一六一二)年か。彼は戦国時代から江戸前期にかけての武将で大名。美濃高須藩初代藩主。彼は別名を「式部卿法印」と称した。

『女陰を「豆」と云ふ』陰核(クリトリス)のメタファー。

「西行の歌に見ゆ」当該歌不詳。

「豆泥棒」不正確。「夜這い」の隠語である。

『「宇治拾遺」に陰莖を「まめやか物」と云へり』「宇治拾遺物語」巻一の「中納言師時、法師の玉莖(たまくき)檢知(けんち)の事」を指す。下ネタお笑い古文としてはかなり有名な一篇。サイト「日本古典文学摘集」のこちらで原文(但し、新字)が電子化されており、別ページに現代語訳もある。但し、これは陰茎の隠語とは言い難い。本文を見れば判る通り、隠語としては「松茸」ではっきりと判るように出してあり、最後に出る「まめやか物」とは、隠語とは言えず、「まめやか(なる)物」(本物である対象物)の意であるに過ぎない。]

 英國の「エー・コリングウッド・リー」氏、予の爲に此の種の諸話を調べられ、伊、佛、獨、英等に在れど、無住より三百年後、十六世紀より古き者、なし。例《たとへ》ば、十六世紀に刊行せる書に、畫工、旅するとて、若き艶妻の腹に、羊を畫き、己《おのれ》が歸り來る迄、消さぬ樣、注意せよ、と命じ、出行《いでゆき》し跡に、好色未娶《みしゆ》の若き商人、來《きたり》て、彼《かの》妻を姦し畢《をはり》て、前に無角の羊なりしが消え失せたる故、角有る羊を畫きしてふ譚、見ゆ。委細は、予の‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body, Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, 261-262, 1910. 又『東京人類學會雜誌』三〇〇號二一八―九頁に出《いだ》せり。

[やぶちゃん注:「‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body, Vragen en Mededeelingen, Arnhem,」これは、既に「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 3」に出るが、不詳。欧文名を検索すると、一番上に私の以上のページが出てしまう。標題は「妻の身体に子羊を描いた男」。“Arnhem”は出版地で「アーネム」「アルンヘム」で、オランダのヘルダーラント州の州都。“Vragen en Mededeelingen”はオランダ語で「質問と回答」であるから、オランダ版の‘Notes and Queries’とは思われる。

「エー・コリングウッド・リー」前のリンク先にも出ており、私は「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」に「A. C. Lee, The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か)と出た著者のアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であろう(詳細事績未詳)、と注した。

「『東京人類學會雜誌』三〇〇號二一八―九頁」前掲「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」初出のこと。「J-STGE」のPDF版原本画像の45コマ目。]

 「沙石集」の話、佛經より出でたるならんと、精査すれども、今に見出でず。漸く近日、支那にも此類話有ると知れり。乃《すなは》ち「笑林廣記」卷一に云、(掘荷花)一師出外就舘、慮其妻與人私通、乃以妻之牝戶上、𤲿荷花一朵、以爲記號、年終解舘歸、驗之已落、無復有痕跡矣、因大怒、欲責治之、妻曰、汝自差了、是物可𤲿、爲何獨揀了荷花、豈不曉得荷花下靣有的是藕、那須來往的人、不管好歹、那個也來掘掘、這個也來掘掘、都被他們掘乾淨了、與我何干〔「荷(はす)の花を掘る」 一(ひとり)の師、外に出でて、舘(じゆく)に就(つと)めんとし、その妻、人と私通するを慮(おもんぱか)り、乃(すなは)ち、妻の牝戶(ほと)の上に荷の花一朶(いちだ)を號(しる)し、以つて、記號と爲(な)す。年、終はりて、舘を解かれ、歸りて、之れを驗(あらた)むるに、落ちて、復(ま)た、痕跡も無し。因りて大いに怒り、之れを責め治(こらし)めんと欲す。妻曰はく、「汝、自(みづか)ら差(たが)へ了(をはん)ぬ。是(いか)なる物にても畫(ゑが)くべきに、何-爲(なんす)れぞ、獨(ひと)り、荷の花を揀(えら)べるや。豈に曉(し)るを得ざらんや、荷の花の下(しも)の靣(むかひ)に有るは、是れ、藕(れんこん)なるを。那(なん)ぞ須(すべか)らく、來往せる人、好歹(こうたい)[やぶちゃん注:好むことと、悪く思うこと。]に管(かかは)らず、那個(それかれ)や、來たりて掘り、這個(これこれ)や、來たりて掘る。都(すべ)て、他們(かれら)に掘り乾-淨(つく)されたり。我れと、何ぞ干(かかは)らんや。」と。〕。

[やぶちゃん注:「笑林廣記」(清の遊戯主人編著になる笑話集。「古艶」(官職科名等)・「腐流」・「術業」・「形體」・「殊稟」(しゅひん:癡呆善忘等)・「閨風」・「世諱」(幫間娼優等)・「僧道」・「貪吝」(どんりん)・「貧窶」(ひんろう)・「譏刺」(きし)・「謬誤」(びようご)の十二部で構成されている)は、かなり画像が傷んでいるが、「中國哲學書電子化計劃」の「新鐫笑林廣記」のこちらから載る影印本当該部で校合した(底本は冒頭標題からして「拙荷花」と致命的に誤っている)。但し、この影印本、活字の一部が明らかに後代に補正されてあるので、推定で正字に直した箇所があるので、「選集」(近代漢文であるため、読みの一部は「選集」のそれにかなり頼った。これは以下の「追加」でも同じ)の訓読文の漢字表記も参考にした。]

追 加 (大正三年四月『民俗』第二年第二報)

 「笑林廣記」卷三に出づ。云く、(換班)一皂隸妻性多淫、夫晝夜防範、一日該班、將妻陰戶左傍畫一皂看守、並爲記認、妻復與人幹事、擦去前皂、姦夫倉卒仍畫一皂形于右邊而去、及夫落班歸家、驗之已非原筆、因怒曰、我前記在左邊的、緣何移在右邊了、妻曰虧你、做衙門多年、難道不要輪流換班的麼。〔「換班(くわんはん)」 一(ある)皂-隸(さいれい/こもの)[やぶちゃん注:身分の低い使用人。]の妻、性、多淫なり。夫は晝夜、防-範(みはり)をせり。一日(あるひ)、該(か)の班(をとこ)、將に妻の戶(ほと)の左の傍(わき)に一(ひとり)の皂隸を畫(ゑが)きて、看-守(みはら)せ、並(あは)せて記-認(しるし)とす。妻、復た、人と事を幹(おこな)ひ、前(さ)きの皂(こもの)を擦(す)り去る。姦夫(まをとこ)は倉-卒(あはただ)しくせば、仍(よ)りて一(ひとり)の皂の形を、右の邊(ほと)りに畫きて去る。夫、落-班(ことをは)りて、家へ歸るに及び、之れを驗(あらた)むるに、已(すで)に原(もと)の筆に非ず。因りて怒りて曰はく、「我、前(さき)に記せしは左の邊りに在り。何に緣(よ)りてか移りて右の邊りに在るや。」と。妻は虧你(いに/からか)ひて曰はく、「汝(なんぢ)、衙門(がもん/やくしよ)に做(つと)むること多年なるに、難-道(よも)や、輪-流(いれかは)り、換班(かんはん/こうたい)するを、要せずとせんや。」と。〕。

[やぶちゃん注:『「笑林廣記」卷三』のそれは、同じく「中國哲學書電子化計劃」のこちらから載る影印本当該部で校合した。前と合わせて訓読に自信がない。識者の御教授を乞うものである。

 以下の〔 〕は底本のものである。「增」は「增補」の意。]

〔(增)(大正十五年九月二十四日記) 和歌山市に古く行なわれし笑話に、行商する者、出立に臨み、彼《かの》所の右の方に鶯を描き置き、歸つて見れば、左に描けり。妻を詰《なじ》ると、「鶯は。『谷渡り』せり。」と答へし。次に他行の時、「玄米」と書《かき》て出で、歸つて見れば「白米」と書きあり。又、詰るに、「米屋に搗《つい》て貰つた。」と答へしと。蓋し、其妻は、米屋の番頭を情夫に持ちたるなり。(吉備慶三郞氏報)〕

[やぶちゃん注:この最後の和歌山の猥談は前の如何なる古話よりも出色の出来である!

2022/11/05

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 蟻を旗印とせし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここと、ここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、標題下の「同前」は前の「梔子花の兒戯 / 爪切る事 / 感冒」と同じで、大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

 

      蟻を旗印とせし話 (同前)

 

 『常山紀談』卷三、十八章に、「北條丹後、一尺四方の白練《しろねり》に、黑き蟻を繪に書《かき》て指物《さしもの》にしけるを、謙信、見て、「汝が指物、餘りに小《ちひさ》きは、いかなる仔細ぞ。」と問はるゝに、丹後、「誠に、味方よりは、見え難く候べし、左《さ》はあれども、進むに先蒐《さきがけ》し、退くに、いつも後殿《しんがり》せんには、他人の大なる指物も、此小四半《こしはん》と、敵の見る所は同じからんと、存ずる也。」と申すをば、謙信、「理《ことわり》也。」と云はれしとぞ。」。「北條」は「北城」を正《ただし》とす。『關八州古戰錄』(享保丙午成る)卷六には、「北城丹後守長國、未だ彌五郞と申せし時、幅一尺五寸許の白き練貫の四半に、五、六寸(分か)の馬蟻を墨にて𤲿《ゑが》き、捺物《おしもの》としたりける。「先へ進み、敵の面前へ、矢庭に乘着《のりつ》け、手詰《てづめ》の勝負を仕る分別なれば、『憖(なまじひ)に、走り廻りの妨《さまたげ》に罷成る大捺物、一向、無益の事也。』と地盤《じばん》し、隨分、働きの邪魔無き樣に、小《ちひ》く支度仕り候。」と申しければ、輝虎、事の外、悅び褒む。」と有り。

[やぶちゃん注:「『常山紀談』卷三、十八章」「選集」も同じ巻数であるが、私の所持する岩波文庫版では、この話は「卷之三」にある。本書は小学館「日本大百科全書」他によれば、江戸中期の随筆・歴史書で、正編二十五巻・拾遺四巻・付録「雨夜灯(あまよのともしび)」一巻で、全三十冊。湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)著。元文四(一七三九)年の自序があり、原型は其頃に出来たものと思われるが、刊行は著者没後、三十年()ほど後の、文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)のことであった。戦国時代から江戸時代初頭の武士の逸話や言行七百余を、諸書から任意に抄出、集大成したものといってよい。著者自らが「ここに収めた逸話は大いに教訓に資する故に、事実のみを記す」というように、内容はきわめて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や、平明簡潔な文章と相まって多くの読者を集めた、とある。なお、当該ウィキによれば、『著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者』で、『いわゆる勧善懲悪ではなく、複数の有名な逸話を短く編集して主題ごとに一つの条にまとめて、評論を加えずに淡々としるしている』とし、『草稿(自序)の完成は比較的早期に行われた』が、湯浅の『師匠である太宰春台の意見を入れて』、『徹底的な再改稿を行い』三十『年かけて満足のいく形に完成させたといわれ』、『本書の版本での初刊は死後』二十『年後のことであった』()とあって、刊期に異同があるから、或いは、岩波版の刊本以前の縮約或いは異本に熊楠は拠ったものとも思われなくはない。一応、注意を喚起しておく。一応、熊楠の表記をまずは尊重しつつ、一部の表記及び読みは岩波版を採用して校合した。

「黑き蟻を繪に書て指物にしける」実際のその画像をネット上に探してみたが、残念ながら、見当たらなかった。

「小四半」正方形ではなく、長方形に近い旗指物を「四半」と呼び、それの小さなものの意。

『「北條」は「北城」を正とす』後注に回す

「『關八州古戰錄』(享保丙午成る)卷六には、……」当該ウィキによれば、『軍記物』で、享保一一(一七二六)年に成立。全二十巻。『著者は槙島昭武』(生没年未詳)江戸前・中期の国学者で軍記作家。名は別に郁。通称は彦八。号は駒谷散人。江戸出身。有職故実や古典に詳しく、著作は、他に「北越軍談」など)。「関東古戦録」『とも呼ばれる』。『戦国時代の関東地方における合戦や外交情勢について記されており』、天文一五(一五四六)年)の『河越夜戦から天正』十八『年の後北条氏滅亡までの関東における大小の合戦を詳細に扱っている』。『関東各地に埋もれている戦記類を』丹念に『集めたもので、その他の軍記物に比すると、語りものの調子を避け』、『歴史をそのままに伝えようとしている姿勢が強い。それゆえか』、『歴史的あやまりは少ないとされている』。『しかし近年の研究では』「河越夜戦」や「小田井原の戦い」『などについて、一次史料にない誇張や創作が多く見られると指摘されるようになっている』。『同書は実証的戦国時代史研究において』、『原資料に基づいた良質な内容も認められるが、その他』の『軍記物類の影響も見られるので、近世・近代に比べ』、『古文書・日記などの同時代史料の少ない戦国時代の研究において、史料批判を行なった上で使用される』とある。探すのに手間がかかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第五冊(近藤瓶城編・大正一四(一九二五)年近藤出版部刊)に「關東古戰錄」の方の書名で発見、当該部はここである。「卷之六」の中の「長尾謙忠伏誅北城丹後守長國事」の条で、右ページの後ろから四行目から確かに「北城丹後守長國」の表記名で登場し、熊楠の引用は左ページ一行目からだが、途中を数ヶ所、省略している。視認されたい。

「北城丹後守長國」ネット上の情報を総合すると、これは、北条高広(永正一四(一五一七)年?~天正一五(一五八七)年?)である。戦国時代の総合サイト内の「地方別武将家一覧」の「北条氏」「一文字に三つ星」「(大江姓毛利氏族)」のページの「厩橋城将として活躍」の文中に、『北条氏の家督となった景広は、永禄二年の関東出陣。同四年の川中島合戦に出陣するなど父とともに謙信麾下の勇将として活躍していた。以後、景広が厩橋城将として関東経略の中心人物となった。景広は「上杉二十五将」の一人に数えられ、二十五将のうち北条丹後守長国とあるのが景広である』とあるので間違いない。彼は異様に多い名乗りや通称を持っているものの、熊楠が正しいとする「北城」姓は見当たらなかった。要は、彼は、鎌倉時代の北条氏でも、後北条氏でもなく、以上のサイトの冒頭にある通り、元は『大江姓毛利氏の一族』で、『鎌倉幕府初代公文所別当大江広元の四男季光が相模毛利庄を領して毛利氏を名乗った』流れを汲む『越後毛利氏』の末裔であり、ページ最後の系図の最後を見られれば判る通り、彼のさらに後裔が毛利元就なのである。北条高広の詳しい事績は当該ウィキに譲るが、彼は、仕えた主君が目まぐるしく変わっており、『長尾為景→晴景→長尾景虎→北条氏康→上杉謙信→上杉景虎→武田勝頼→滝川一益→北条氏政→上杉景勝?』とあり、この間、方丈に仕えた時期に、主君の姓と同じなのは畏れ多いはずだから、滅多に見ない「北城」と変えたか、それ以外の主君であった折には、或いは、後北条氏の一族と疑わられる誤解を避けるために、「北城」としたともとれなくはない。

「一尺五寸」四十六センチメートル弱。

「五、六寸(分か)」「寸」ならば十五~十八センチメートル、「分」なら、一・五~一・八センチメートル。

「輝虎」上杉謙信の出家法号前の本名。]

 『一話一言』卷四十四、山中源左衞門、大御番旗本で、知行五百石、賜り、隱れなき任俠、常に人を困《くるし》むるを好む。或時、白小袖を着て、登城しけるを、目付、咎めければ、目に見えぬほどの蚤を、縫紋に附置《つけお》き、「是は、白ならず。」と言《いひ》、通《とほ》せし事、有り。正保中、切腹を命ぜらる、と見ゆ。其目的は、長國と異なれど、趣向は似たり。

[やぶちゃん注:「一話一言」大田南畝の随筆で、安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃の執筆。全五十六巻であるが、内、六巻は欠。歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と、他書からの抄録を記したもの。所持せず、ネットで当該巻を視認出来ない。

「山中源左衞門」(生没年不詳)は江戸前期の旗本奴。寛永・正保年間(一六二四年~一六四八年)の人。経歴不詳で、大田南畝の「俠者姓名」(「一話一言」)に、「五百石大御番也。正保年中、麹町眞法寺にて切腹被仰付也。」(別な辞書では、正保二(一六四五)年十一月八日、罪をえて、切腹とある)とあるだけだが、「べらんめえ」調による以下の辞世で知られる。「わんざくれ 踏(ふ)んぞるべいか 今日(けふ)ばかり 翌日(あす)は烏(からす)が搔(か)ッ咬(か)じるべい」。]

 英國にも似たる話、‘Merry Tales and Quick Answeres, 1567, ed. Hazlitt, p.122  に云く、戰場に趣く一壯男、楯に、自然大の蠅を𤲿《ゑがき》しを、或人、笑うて、「斯く小《ちひ》き目標《めじるし》は、人の目に立つまじ。」と云ひけるに、其男、答へて、「予、敵が明かに、此標を見分け得る程、進まば、標、如何に小さくとも、敵、皆、予の勇武を稱揚せん。」と云へり、と。

[やぶちゃん注:「‘Merry Tales and Quick Answeres’, 1567, ed. Hazlitt, p.122」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「笑譚捷答」(ロンドン刊)。]

 以上、二年前、倫敦發行『ノーツ・エンド・キーリス』十一輯、一の二六六頁に、予、‘Fly painted on a Shield : Japanese Variant’と題し出せるを見て、南濠州「アデレード」大學、古文學敎授「ベンスリ」の敎示に、件《くだん》の蠅を楯に𤲿きし話は、Apophthegmata Laconicaap. Plutarch, Moralia’、既に之を載す、と也。然らば、千八百年斗り前、既に南歐に行はれたる話にこそ。

[やぶちゃん注:「二年前」「選集」は一九一〇年と割注する。実時間で二年前の意であろう。熊楠の当該原雑誌の原文は「Internet archive」のここで視認出来る(左ページ下方)。

『「ベンスリ」の敎示』同じく上記「Internet archive」の377ページ右下方で「EDWARD  BENSLY」の署名記事がそれ。エドワード・フォン・ブルームバーグ・ベンスリー(Edward von Blomberg Bensly 一八六三年~一九三九年)は英文学者。

「Apophthegmata Laconica、ap. Plutarch, ‘Moralia’」こちらのデータ(PDF)によれば、帝政ローマのギリシア人著述家プルタルコス(四六年頃~一一九年以降)の「倫理論集」の中の「スパルタ警句集」がそれである。]

2022/11/04

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 梔子花の兒戯 / 爪切る事 / 感冒

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここと、ここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、以下三篇は孰れも短いので、セットで示す。]

 

     梔子花の兒戯 (同 前)

 

 紀州田邊で、小兒、梔子(くちなし)の花を、蕚《がく》、及び、心《しん》と、引放《ひきはな》ち、花の中孔《なかあな》に、細き箸を串(つらぬ)き、口にて吹けば、快く廻るを、見て樂しむ。因《より》て、此花を「水車」と呼ぶ。花瓣《はなびら》の排列、捻旋《ねんせん》して、恰《あたか》も人造風車の如く、風に逢へば、忽ち、廻る。

[やぶちゃん注:「梔子花の兒戯」リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides 。花期は六 ~七月で、葉腋から、短い柄を出して、一つずつ、強く印象的な芳香のある花を咲かせる。

「同前」は前の記事の正本文部と同じく大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。以下の二篇も同じ。]

 

     爪 切 る 事 (同 前)

 

 同地の俗傳に、夜、爪を切れば、父母の死に逢ひ得ず。之を免れんとならば、七草の日、爪切るべし。然る後、夜切るも、此難なし、と。予、幼時、和歌山の俗傳に、爪切て燒けば、本人、發狂す、と云へり。三十餘年前の事也。

[やぶちゃん注:この前段は既に、『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』に出ており、注もしてある(後段の内容にも言及して注を附した)。このパート「二」の初出は大正二(一九一三)年五月『郷土研究』第一巻第三号だから、掟破りの同時の二重投稿である。

 

     感   冒 (同 前)

 

 又、田邊の俗傳に、子より親に傳はれる感冒、重く、親より子に移れるは輕し、と。

[やぶちゃん注:同前で『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』に出ており、注もしてある。全くの二重投稿。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 一休他人の手を假て惡童を懲せし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈の長い部分は直後に、「選集」を参考にしつつ、〔 〕で推定で訓読文を附した。

 標題は「一休、他人の手を假《かり》て惡童を懲《こら》せし話」と読む。]

 

     一休他人の手を假て惡童を懲せし話

               (大正二年九月『民俗』一年二報)   

 『烈公間語』に、其著者、幼少の時、光政の母公へ、「光政樣、御越被成時分、我等に、何にても御物語仕候樣。」と、福照院樣(母公)、被仰に付、「童の時に人の語《ものがたり》聞《きか》せし跡先も、無之、物語、爲御慰、一、二、申上る。」迚《とて》、「一休和尙、行路の節、道の傍の木の梢に、童、登居《のぼりゐ》て、一休に小便を仕懸《しかけ》て、自《みづか》ら、大きに笑ふ。一休、腰より、錢を取出《とりいだ》し、彼(かの)童に遣《や》り、「能社ケ樣之(よくこそかやうなる)仕形《しかた》仕候。」迚、打過候。彼童、『能事仕《よきことし》たり。』と思ひ、「重《かさね》て、人、通るならば、亦、右の仕形に仕《つかまつり》て、錢を乞取《こひとら》ん。」と、待ち候ところへ、士《さむらひ》通り候時、如最前、小便、仕懸て笑ふ。忿《おこり》て打擲《ちやうちやく》仕る。是、一休の作意、利口故、人を以て、意趣を返すと承る。」と申上る。光政樣、被仰付、「此物語の趣意、然るべからず。一休、まことの志ならば、最前、小便仕懸けられ候時、强く詈《ののし》り、叱《しかり》て、「我は、是、出家なれば、不ㇾ及打擲、他人にかやうの仕形仕るならば、命を可失。」と、申し敎へ可通《とほるべき》に、何ぞや、錢を遣りて、人を以て、讐《むくい》をす。奸心、淺からず、ケ樣之(かやうの)事にて、若輩の者心附べき事也《や》。幼童に語り聞す物語にも、尤(いと)心得可有也《あるべきことなり》。」と仰也《おほせなり》云々。

[やぶちゃん注:「一休」臨済宗大徳寺派の僧で、とんち話で知られる一休宗純(明徳五(一三九四)年~文明一三(一四八一)年)。詳しくは当該ウィキをどうぞ。

「大正二年」一九一三年。

「烈公間語」は、さる論文で漸く見つけたが、池田政倫著で元禄二(二八八九)年刊のもの。この作者不詳(旗本に同姓同名の池田政倫(享保二(一七一七)年~安永四(一七七五)年)がいるが、刊記が余りにも後であり、本文の冒頭から考えても、この旗本は別人であ)。この「烈公」は播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩主(池田宗家)の池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)の諡号「芳烈公」によるもの。

「光政の母公」「福照院樣(母公)」「福正院」が正しい。鶴姫(文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)で、姫路第二代藩主で光政の父池田利隆の正室。徳川四天王や徳川三傑に数えられ、家康覇業の功臣として知られる榊原康政の次女。]

 『塵添壒囊抄《ぢんてんあいなうせう》』一に、孔子の腹黑と云事ありとて、孔子、山中を行くに、童子、木の上より尿《いばり》をしかけた。孔子、「大剛の者也《なり》。よくしたり。」と、ほめて過去《すぎさつ》た。其後ち、令尹《れいいん》、通るに、童子、また、小便をしかけた。「天下の大害を爲《なさ》ん者。」とて、引きおろし、頭を刎《はね》た云々に作れり。

[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者(本書)を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。南方熊楠御用達の書である。当該部が「日本古典籍ビューア」のこちらで視認出来る。]

 較《やや》似たる話、西晉の竺法護譯『佛說生經』卷四に、給孤獨園《ぎつこどくおん》にて、佛告諸比丘、乃昔去世、有異曠野閑居、彼時有水牛王、頓止其中、遊行食草、而飮泉水、時水牛王、與衆眷屬、有所至湊、獨在其前、顏貌姝好、威神巍巍、名德超異、忍辱和雅、行止安詳、有一獼猴、住在道邊、彼見水牛之王與眷屬俱、心生忿怒。興于嫉妬、便卽揚塵瓦石、以坌擲之、輕慢毀辱、水牛默然、受之不報、過去未久、更有一部水牛之王、尋從後而來、獼猴見之、亦復罵詈、揚塵瓦石打擲、後一部衆。見前牛王默然不報、効之忍辱、其心和悅、安詳雅步、受其毀辱、不以爲恨、是等眷屬過去、未久有一水牛犢、尋從後來、隨逐群牛、於是獼猴、逐之罵詈、毀辱輕易、見水牛犢、懷恨不喜、見前等類、忍辱不恨、亦復學効、忍辱和柔、去道不遠、大叢樹間、時有樹神、遊居其中、見諸水牛、雖被毀辱、忍而不瞋、問水牛王、卿等何故、覩此獼猴、猥見罵詈、揚塵瓦石、而反忍辱、默聲不應、此義何趣、有何等意、云々、水牛報曰、以說偈言、以輕毀辱、我必當加施人、彼當加報之 爾乃得疾患、諸水牛過去、未久有諸梵志大衆群輩仙人之等、順道而來、時彼獼猴、亦復罵詈、毀辱輕易、揚塵瓦石、以坌擲之、諸梵志等、即時捕捉、以脚蹋殺、則便命過云々。〔佛、諸比丘に告ぐ。乃-昔(むかし)、去(とほ)き世に、異(い)なる曠野に閑居する有り。彼(か)の時、水牛王、有り。其の中に頓-止(とど)まり、遊行(ゆぎやう)して草を食らひ、泉水を飮む。時に水牛王、衆(おほ)くの眷屬と與(とも)に、至る所有りて、湊(あつ)まる。獨り、其の前に在りて、顏貌、姝-好(みめよ)く、威神、巍々(ぎぎ)たり。名德は超-異(ぬきんで)て、忍辱(にんにく)して、和雅《わげ》にして、行-止(ふるまひ)は安-詳(ものしづ)かなり。一(いつ)の獼-猴(さる)有り。住みて、道邊(みちのべ)に在り。彼、水牛の王の、眷屬と俱(とも)にあるを見て、心に刎-怒(いかり)を生じ、嫉妬(ねたみ)を興(おこ)す。便-卽(すなは)ち、瓦石を揚塵(やうぢん)し、坌(ちり)を以つて、之れに擲(なげう)ち、輕んじ、慢(あなど)りて、毀(そし)り辱しむ。水牛は默然として、之れを受くるも、報《もち》ひず。過ぎ去って未だ久しからざるに、更に一部(ひとむれ)の水牛王有り、尋(つ)いで、後ろより來たる。獼猴、之れを見、亦-復(また)も罵-詈(ののし)り、瓦石を揚塵して打擲つ。後との一部の衆は、前(さき)の牛王の默然として報ひざるを見、これに効(なら)ひて、忍辱し、其の心、和-悅(なご)み、安詳に雅步し、その毀り辱しめを受くるも、以つて恨みと爲(な)さず。是等の春屬の過ぎ去りて、未だ久しからざるに、一(ひとつ)の水牛の犢(こうし)有り、尋(つ)いで後ろより來たり、群牛に隨ひて逐(お)ふ。是に於いて、獼猴、之れを遂ひて、罵詈り、毀り辱しめて、輕-易(あなど)る。見て、この水牛の犢、恨みを懷きて喜ばざるも、前の等類(なかま)の忍辱して恨まざるを見、亦、學-効(なら)ひて、忍辱し、和柔(にこや)かなり。道を去ること、遠からず、大叢樹の間に、時に樹神、有り。其の中に遊居す。諸水牛の毀り辱しめらると雖も、忍んで、瞋らざるを見、水牛王に問ふ。「卿(きやう)ら、何故に、此の獼猴の猥(みだ)りに罵詈るを見、瓦石を揚塵するを覩(み)て、反(かへ)つて忍辱し、聲を默(もだ)して應ぜざるや。此の義は何(いか)なる趣(わけ)、何なる意(おもひ)有りてか、」云々、水牛、報(こた)へて曰はく、「もって偈を說きて言はん、『輕んじて 我を毀り辱しむるを以つて 必ずや 當(まさ)に人にも加へ施すべし 彼は當に之れに報ひを加ふべく 爾(なんぢ) 乃(すなは)ち疾-患(わざはひ)を得ん』と。諸水牛、過ぎ去りて、未だ久しからざるに、諸梵志・大衆輩・仙人等、有り、道に順(したが)ひて來たる。時に、かの獼猴、亦、罵詈り、毀り、辱しめて、輕易(あなど)り、瓦石を揚塵し、坌(ちり)を以つて、之れに擲つ。諸梵志ら、卽時に捕-捉(とら)へ、脚を以つて蹋(ふ)み殺すに、則-便(たちまち)、命、過(をは)りぬ云々」。〕。

 水牛は佛、眷屬は諸比丘、犢は諸梵志、仙人は淸信士居家學者、猴衆は外異道の前身、とあり。

[やぶちゃん注:「西晉の竺法護譯『佛說生經』」西晋時代(二六五年~三一六年)に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典に携わった代表的な訳経僧の一人である竺法護(じくほうご 二三九年~三一六年:敦煌の月氏(中央アジアの民族)の家系に生まれ、熱心な仏教徒であった)の訳になる「生經(しやうきやう)」。正式には「佛說」は入らない。それを入れて「大蔵経データベース」では表示されないので注意。おかしいことに気づき、同サイトで「生經」で検索したら、目出度くヒットした。それで本文を校合した。「云々」で判る通り、途中が省略されており、一部に誤りもあった。

「梵志」バラモン僧。

「淸信士居家學者」仏教の真の理解には至っていない僧・在家信者及び仏教学者。

「外異道」仏教徒は全く異なる起源の淫祠邪教。]

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』十六、舍衞の婆羅門、阿難を打ち、次に鄔波難陀《うばなんだ》を打《うち》て求刑され、遂に王命に依つて、兩手を截《き》らる。佛、鄔波難陀を罸し、因緣を說く。昔し、花果浴池、滿足せる一園中に、隱士、住み、樹下に靜座思惟する。其上から猴が果《このみ》を落して、其頭を打破《うちわ》つた。隱士、騷がず、頌(しよう)を說く、我終不ㇾ起ㇾ念、令汝苦身亡、由汝自作ㇾ愆、當ㇾ招斷ㇾ命報。〔「我れ 終(つひ)に念(おもひ)を起こさず 汝をして苦しみて身を亡(うしな)はしむ 汝自(みづか)ら愆(とが)を作(な)せしに由(よ)りて 命を斷つの報ひを招くべし」[やぶちゃん注:この部分は「頌」(仏の徳をほめたたえる歌)の部分であるから、恣意的に句読点を排した。]〕と。此隱士の知れる獵師、隱士不在中へ來り、俟《まつ》て居《を》ると、猴、又、大《おほい》なる果を、其禿頭へ落し、血、流る。獵師、大に腹を立《たて》て、毒矢で、猴を射殺《いころ》した。隱士と猴と獵師は、今の阿難と婆羅門と鄔波難陀だ、と。

[やぶちゃん注:何度も出ている「唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』」は今までと同じく「大蔵経データベース」で校合した。

「阿難」「鄔波難」孰れも釈迦の十大弟子の一人。]

2022/11/03

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 盜人灰を食ひし話

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 盜人灰を食ひし話

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、ここから暫くは比較的短い「話俗隨筆」パートとなる。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は直後に、「選集」を参考にしつつ、〔 〕で推定で訓読文を附した。

 標題は「盜人(ぬすびと)、灰(はひ)を食(く)ひし話」。] 

 

    話 俗 隨 筆

 

     盜人灰を食ひし話 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 鴨の長明の「發心集」卷八に云く、『或人、語りて曰く、「唐土に御門《みかど》坐《おは》しけり。夜更《よふけ》て、燈火《ともしび》、壁に背《そむ》けつゝ、寢所に入りて座《ま》しますほどに、火の影に、かげろふ物あり。怪《あやし》くて、寢入りたるさまにて、よく見給へば、盜人なるべし。此處彼處《ここかしこ》に步《あり》きて、御寶物《おんたからもの》、御衣《ぎよい》など取りて、大《おほき》なる袋に入《いれ》てけり。尤《いと》むくつけなく思《おぼ》されて、いとど息音《いきおと》も仕玉《したま》はず。斯《かか》る間、此盜人、御側《おんかたはら》に、藥、合《あは》せんとて、灰を燒置《やきおか》れたりけるを見て、左右《さう》なく摑み食《くら》ふ。『糸怪し。』と見給ふ程に、と計《ばか》り有《あり》て、打案《うちあん》じて、此袋なる物共、取出《とりいで》て、皆、元の如く置《おき》て、頓《やが》て出《いで》なむとす。其時、御門、尤《いと》心得がたく思して、「汝は何者ぞ。いかにも、人の物を取《とり》ぬ。然るを、又、いかなる心にて返し置くぞ。」と、のたまふ。申《まをし》て曰く、「我は某《なにがし》と申《まをし》候ひし大臣が子也。幼くて、父に罷り後《おく》れて後、絕えて世に在るべきたつきも侍らず、去迚《さりとて》も、今更に人の奴《やつこ》と成《なら》ん事も、親の爲《ため》、心憂く思ひ、構へて、念じ過《すご》し侍りしかど、今は、命、生《い》くべき謀《はかりごと》も侍らねば、『盜人をこそ仕《つかまつ》らめ、』と覺えて侍るに、取《とり》て、並々の人の物は、主《ぬし》の歎き深く、取得《とりえ》て侍るに付《つけ》て、物淸《ものぎよ》くも覺え侍らねば、忝《かたじけな》くも、斯《かく》參りて、先《まづ》、物の欲《ほし》く侍りつる儘に、灰を置れて侍りけるを、『去《さる》べき物に社(こそ)。』と思ひて、之をたべつる程に、物の欲《ほし》さ、直《なほ》りて後、灰にて侍りける事を、始《はじめ》て了《さと》り侍れば、責《せめ》ては、かようのものをも、食し侍りぬべ可《か》りけり。『由なき心を起《おこ》し侍りける物哉。』と、悔しく思ひ構へて。」となん、申す。帝、具《つぶ》さに此事を聞給ひて、御淚を流され、感じさせ給ふ。「汝は、盜人なれども、賢者也。心の底、潔し、我、王位に在れど共、愚者と云可《いふ》べし、空しく忠臣の跡を失へり。早く罷歸候へ。明日、召出《めしいだ》し、父の跡を興《おこ》さしめん。」と仰《おほせ》られければ、盜人、泣々《なくなく》、出《いで》にけり。其後、本意の如く仕え奉りて、卽ち、父の跡をなん、傳へたりける」云々』。

[やぶちゃん注:鴨長明(久寿二(一一五五)年~建保四(一二一六)年)の仏教説話集「發心集」は晩年の編著で、亡くなる前年の成立かとされる。熊楠が引用したのは、第八の「三 仁和寺西尾の上人、我執に依つて身を燒く事」の中の長明の終りの評言に置かれた挿入話である。テクストは所持する『新潮日本古典集成』で校合した(脱字があった)。本篇の最後で熊楠も述べているが、新潮三木紀人氏の注によれば、この話は後の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」(原形は建長六(一二五四)年頃の成立か)の巻十二の「偸盗第十九」の中にある「偸盗、空腹に堪へず、灰を喰ひて惡心を翻へす事」と類似するとあり、その後に熊楠の本篇の説を挙げて、『『大荘厳論経』六の説話を典拠とするかという』とある。当該話は、「やたがらすナビ」の宮内庁書陵部本「古今著聞集」のこれである(新字体電子化)。そこでは本邦の話としているようで、主人も盗人も匿名で、地位其の他も示されていない。灰も薬剤調合用(漢方では生薬を熱した灰の上で転ばすことがある)ではなく、また、盗人は空腹のあまり、鉢に入れ置いた灰を「麥の粉(こ)」(これは以下に見る原話に同じ)と誤認して食うという展開となっている。但し、明かに酷似する譚で、同源であることは疑いようがない。

「奴」人の使用人。

「並々の人」世間一般の庶民。]

 馬鳴《めみやう》菩薩の『大莊嚴經論』(鳩摩羅什譯)卷六に、諸欲求利者、或得或不得、有眞善心者、不求自得利、實無眞善心者、爲得貪利故、應作眞善心、我昔曾聞、有一國王、時輔相子、其父早喪、其子幼稚、未任紹繼、錢財已盡、無人通致可得見王、窮苦自活、遂漸長大、有輔相才、理民斷事、一切善知、年向成立、盛壯之時、形體姝大、勇猛大力、才藝備具、作是思惟、我今貧窮、當何所作、又復不能作諸賤業、今我無福、何所有、才藝不得施行、復不生於下賤之家、又聞他說是偈言、

   業來變化我 窮困乃如是

   父母之家業 今無施用處

   下賤所作業 非我所宜作

   若我無福業 應生下賤家

   生處雖復貴 困苦乃如是

   賤業極易知 然我所不能

   當作私竊業 使人都不知

   正有作賊業 覆隱人不覺

   腰繫二箭筒 幷持鋼利劍

   縛𨄔手秉弓 種種自莊嚴

   喩如師子兒 都無有所畏 (以上、泥棒の讃也)

說是偈已、作是思惟、設劫餘處、或令他貧、我當劫王(俗書『眞書太閤記』に石川五右衞門の立志を說くに似たり)、作是念已、至王宮中、詣王臥處、王覺有賊、怖不敢語、持王衣服幷諸瓔珞、取安一處、時王頭邊、有一器水、邊復有灰、飢渴所逼、謂灰是麨、和水而飮、飮已飽滿、乃知是灰、卽自思惟、灰猶可食、况其餘物、我寧食草、何用作賊、先父以來不爲此業、卽棄諸物、還來歸家、王見空出、歎言善哉、卽喚其人、而語之言、汝今何故、既取此物、還置於地而便空去、白言、大王聽我所說。〔諸々(もろもろ)の利を求めんと欲する者、或る者は得、或る者は得ず。眞の善心有る者は、求めずして、自づから利を得。實(じつ)に眞の善心無き者は、利を貪るを得んが爲めの故に、應(まさ)に眞の善心を作(おこ)すべし。我、昔、曾つて聞く、「一(ひとり)の國王有り。時に輔相(ほしやう)の子、其の父を早く喪ふ。其の子、幼稚(をさな)くして、未だ紹繼(あとをつ)ぐに任(た)へず。錢財、已に盡き、王に見(まみ)ゆるを得べき通致(とりも)つ人も、無し。窮苦して自活し、遂に漸(やうや)く長大す。輔相の才有りて、民を理(をさ)め、事を斷じ、一切を善(よ)く知れり。年(よはひ)、成立(せいじん)に向かひ、盛壯の時、形體も姝(みめよ)く大きく、勇猛大力にして、才藝、備-具(そな)はれり。是れ、思惟をなすらく、『我、今、貧窮にして、當(はた)、何の作す所ぞ。又、諸々の賤業をも作(な)す能はず。我、今、福、無くして、有る所の才藝を施行するを得ず。復(また)、下賤の家にも生まれず。』と。又、他(かれ)の是の偈(げ)を說きて言ふを聞くに、

 業(ごふ) 來つて 我を變化(へんげ)し

 窮困すること 乃(すなは)ち 是(か)くのごとし

 父母(ぶも)の家業は

 今 施用(せよう)せん處(すべ)なく

 下賤の所作(なすところ)の業(わざ)は

 我れ 宜(よろ)しく作(な)すべき所に非ず

 若(も)し 我に福業無ければ

 應(まさ)に 下賤の家に生まるべし

 生まれし處は 貴(とふと)しと雖も

 困苦すること 乃ち 是くのごとし

 賤業は 極めて知り易きも

 然(いか)も 我れ 能(よ)くせざる所たり

 當(まさ)に 私(ひそ)かなる竊業(ぬすみ)を作(な)し

 人をして 都(みな) 知らざらしむべし

 正(まさ)に 賊業(ぞくぎやう)を作す有るのみ

 覆ひ陰(かく)さば 人は 覺(さと)らざらん

 腰に 二つの箭筒(やづつ)を繋げ

 幷(あは)せて 鋼(はがね)の利劍を持(じ)し

 𨄔(はぎ)を縛(ばく)して 手に弓を秉(と)り

 種種(しゆじゆ) 自(おのづか)ら莊嚴(よそほ)へば

 喩へば 師子(しし)の兒(こ)のごとく

 都(すべ)て 畏るる所 有る無し(以上、泥棒の讃なり)

是(こ)の偈を說き已(をは)て、是の思惟を作(な)すらく、『設(も)し、餘處(よそ)を劫(おびや)かさんには、或いは他(かれ)をして貧ならしめん。我は當(まさ)に王を劫かすべし(俗書『眞書太閤記』に石川五右衞門の立志を說くに似たり)。是の念をなし已(をは)り、王宮の中に至り、王の臥(ふ)せる處に詣(まゐ)る。王、賊の有るを覺(さと)るも、怖れて、敢へて語(ものい)はず。王の衣服幷びに諸々の瓔珞(やうらく)を持ち、取りて、一處に安(お)く。時に、王の頭(かうべ)の邊りに一器の水有り、邊(かたへ)に、復(また)、灰、有り。飢渴の逼(せま)る所、灰を、『是れ、麨《はつたいこ》なり。』と謂(おも)ひ、水に和して、飮む。飮み已りて、飽滿し、乃(すなは)ち、是れ、灰なることを知れり。卽ち、自づから思惟すらく、『灰すら、猶ほ、食らふべし、况(いはん)や、その餘(よ)の物をや。我は、寧ろ、草を食らはん。何を用(も)つて賊を作(な)さんや。先父以來、此の業を爲(な)さず。』と。卽(ただ)ちに、諸物を棄て、還り來たりて、家に歸らんとす。王、空(むな)しくして出づるを見て、歎じて言ふ。「善(よ)きかな。」と。卽(ただ)ちに、其の人を喚(よ)んで、之れに語りて言はく、「汝、今、何故に、既に此の物を取るも、還(ま)た、地に置き、而して便(すなは)ち、空しくして去るや。」と。白(まを)して言はく、「大王、我が言ふ所の說を聽け。」と。〕とて、如上《によじやう》の次第を、偈(げ)で說きしに、王、感じ、用ひて、輔相とせり、と載《のせ》たり。

[やぶちゃん注:以上の漢文は中文サイト「CBETA 漢文大藏經」の「大莊嚴論經」「第六卷」の電子化されたそれと校合した(誤字・脱字があった)。「偈」の部分は底本では六段組みであるが、ブラウザの不具合を考え、二段組みとし、訓読では一段とした。なお、リンク先を見て戴くと判る通り、最後の王に直接に読み上げた「偈」は、また、別にあり、さらにそれを聴いた王が感銘して、偈を述べ、その中で彼を輔相(王の補佐役)となすという詞章が出るのである。]

 此の印度話を唐土の事と心得て、或人が長明に語れる也。

 『古今著聞集』には、或所に盜人《ぬすびと》入りて、鉢に入たる灰を食ひて後、袋に竊《ぬす》み納《い》れたる物を、本の如く、置て歸る所を、主人待設《まちまう》けて搦《から》めたり。其擧動を怪しみ、尋ねければ、盜人、仔細を述べ、『灰を食ひても餓《うゑ》を治《いや》すべし。』と思ひ、取る所の物を本に復《かへ》せしといふ。主人、哀れに思ひ、物取らせて、返し、『「後々も、詮盡《せんつき》ん時は、憚らず、來て、言へ。」とて、常にとぶらいけり。』と、日本、其頃の事の樣に書けり。

 

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 前回、『大莊嚴經論』や『發心集』・『著聞集』から引《ひい》た、盜人が麨(はつたい)と謂ふて、灰を食ひ、灰食ふてさへ、饑を治すべしと反省して、盜んだ物を復した話に似て、趣向が別な奴が、趙宋の初め、智覺禪師、集に係る『宗鏡錄《すぎやうろく》』七三に出づ。云く、又律中四食章、古師義門手鈔云、思ㇾ食者、如饑饉之歳、小兒從ㇾ母求ㇾ食、啼而不ㇾ止、母遂懸砂囊誑云、此是飯、兒七日諦視其囊、將爲是食、其母七日後解下視ㇾ之、其兒見是砂絕望、因此命終。〔又、「律」中の「四食(しじき)」の章、古師の『義門手鈔』に云はく、「食を思ふ者は、饑饉の歲(とし)のごとし。小兒、母に從ひて、食を求め、啼きて止まず。母、遂に、砂の囊(ふくろ)を懸け、誑(あざむ)きて、「これは、飯(めし)なり。」と云ふ。兒(こ)、七日、其の囊を諦視(ていし)し、『是れ、飯なり。』と將-爲(おもへ)り。その母、七日の後に、解き、下ろして、之れを視(しめ)す。其の兒、是れ、砂なるを見、絕望し、此れに因りて、命、終はれり。」と〕。饑《うゑ》た兒が、砂を飯と心得、食ふのを樂しんで、七日、生き延びたが、砂と分つて、忽ち、絕望の極《きはみ》、死んだのぢや。同錄卅三に、暗中で寶玉に觸れ、蛇に螫《ささ》れたと思ふと、毒で身が脹《ふく》れ、種々、苦《くるし》む。智者、燈を持ち來り、「是れは、寶だ。」と示すと、忽ち、毒、去り、痛《いたみ》、癒《いえ》る、と有ると同規だ。世親《せしん》菩薩の『阿毘達磨倶舍論《あびだつまきしやろん》』卷十に、世傳有ㇾ言、昔有一父、時遭飢饉、欲ㇾ造他方、自既飢羸、二子嬰稚、意欲携去力ㇾ所ㇾ不ㇾ任、以ㇾ囊盛ㇾ灰、挂於壁上、慰喩二子云是麨囊、二子希望、多時延ㇾ命、後有ㇾ人至、取ㇾ囊爲開。子見是灰、望絕便死。〔世に傳へて言ふ有り。『昔、一(ひとり)の父有り。時に饑饉に遭ひ、他方に造(いた)らんと欲す。自(みづか)ら既に飢え羸《やつ》れ、二子、嬰稚(いとけな)し。意(おもふ)には、携へ去(ゆ)かんと欲(ほつ)するも、力、任(た)へざる所なれば、囊(ふくろ)を以つて、灰を盛り、壁の上に挂(か)け、二子を慰め喩して、「是れ、麨(はつたい)の囊なり。」と云ふ。二子、希ひ、望みて、多くの時、命(いのち)を延ぶ。後、人の至る有り、囊を取りて爲(た)めに開く。子、是れ、灰なるを見、望み、絕えて便(すなは)ち、死す。』と。〕。『宗鏡錄』に引《ひい》た『義門手鈔』の文は、是から出たんだろ。又、『倶舍論』右の文の次に、大海で難船、絕食した諸商人が、遙か距《へだて》て、大きな沫《あは》の積つたのを、陸地と誤認し、著岸を望んで、長時《ながく》、生延《いきのび》たと載せて居《を》る。『今昔物語』十六の四章、丹後の國の貧僧、寒に飢《うゑ》て、觀音像の木《き》を、猪肉《ししにく》と心得、食《くふ》た話も、似た例だ。

[やぶちゃん注:「宗鏡錄」は「大蔵経データベース」で校合した。なお、二番目に熊楠の梗概で出る暗闇の中の宝玉を蛇と誤認する話は、「同錄卅三」ではなく、三十五巻の誤りであることが判明した。「選集」も誤ったままである。参考までに、本文を「大蔵経データベース」から示しておく。一部の漢字を正字化し。私の判断で句読点を打った。

   *

譬如、暗家寶人不知故、無燈明故、於彼觸誤謂爲蛇所毒。由誤故、毒氣入身、其身膖脹、受種種苦。智者見已。卽將燈明示以利寶。其所螫人即見此寶、身内毒氣卽能除愈。

   *

「趙宋の初め、智覺禪師、集に係る『宗鏡錄』」(すぎょうろく)は五代十国時代の呉越から北宋初めの僧、永明延寿(九〇四年~九七六年:「智覺禪師」は尊称)が撰した仏教論書。全百巻。九六一年成立。ウィキの「宗鏡録」によれば、『撰者の永明延寿は、雪峰義存の弟子である翠巌令参のもとで出家し、天台徳韶』(とくしょう)『の嗣法となった禅僧である。永明延寿の主著が、本書であり、禅をはじめとして、唯識宗・華厳宗・天台宗の各宗派の主体となる著作より、その要文を抜粋しながら、各宗の学僧によって相互に質疑応答を展開させ、最終的には「心宗」によってその統合をはかるという構成になっている』。『この総合化の姿勢は、その』「万善同帰集」『にも見られるものであり、後世になって、「禅浄双修」「教禅一致」が提唱された時、永明延寿の著書が注目されることとなった』とある。北宋は趙匡胤(きょういん)が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は「宋」であるが、後に金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別する際に、「北宋」以外に王の姓氏を附して「趙宋」とも呼ぶのである。

「四食(しじき)」サイト「WikiArc」のこちらによれば、『衆生』『を養い育てる四種の食物』で、第一に『段食(だんじき)』で、これが物理的な『肉体を養う飲食物など』の『有形の食物』を指し、第二に、『触食(そくじき)』で、これは感情的な『よろこびのこころをおこす感触によって身を養うこと』を言う。第三は、精神的な『思食(しじき)』で『意思作用や願望などによって身を支えること』を指し、第四に高度な感官の齎す『識食(しきじき)』であって、これは『心(識別作用)によって身を支えるもの』を言うとあった。

「古師の『義門手鈔』」不詳。永明延寿は天台徳韶の法嗣を受けているが、ここでは「古師」とあり、彼は初め、雪峰義存門下の翠巌令参の下で出家している。雪峰は五代時代に於いて最大の仏教教団を形成した知られた僧であり、永明の関係者で「義」を名に持つ師は彼だけのようであるから(但し、永明が四歳の時に雪峰は示寂しているから、直接の師ではない)、雪峰義存の伝された自筆手記の抄録を指すものかも知れない。

「世親菩薩の『阿毘達磨倶舍論』」こちらも「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は最初に出る子の数を「三」と誤っているのは致命的である。こちらの方は、「選集」では正しく「二」となっている。世親は紀元四世紀頃の古代インド仏教の瑜伽行唯識学派の僧。「世親」はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の漢音写で、玄奘訳以降、定着し、広く知られる。この書は、部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書で、永く玄奘訳で伝えられてきた。

「大海で難船、絕食した諸商人が、遙か距て、大きな沫の積つたのを、陸地と誤認し、著岸を望んで、長時、生延た」本当に先の引用に続いて出る。以下に「大蔵経データベース」のものを、一部、漢字を正字化して示す。

   *

又於大海有諸商人。遭難敗船飮食倶失。遙瞻積沫疑爲海岸。意望速至命得延時。至觸知非望絕便死。

   *

「『今昔物語』十六の四章、丹後の國の貧僧、寒に飢《うゑ》て、觀音像の木《き》を、猪肉《ししにく》と心得、食《くふ》た話」「今昔物語集」巻第十六の「丹後國成合觀音靈驗語第四」(丹後國(たんごのくに)成合觀音(なりあひくわんおむ)靈驗(れいげむの)語(こと)第四(し))。以下に所持する小学館『日本古典文学全集』の同集の第二巻を参考に、漢字を概ね正字化して示す。

   *

 

   丹後國成合觀音靈驗の語第四

 

 今は昔、丹後國に「成合」と云ふ山寺有り。觀音の驗(げん)じ給ふ所なり。

 其の寺を「成合」と云ふ故を尋ぬれば、昔し、佛道を修行する貧き僧有りて、其の寺に籠りて行ける間に、其の寺、高き山にして、其の國の中(うち)にも、雪、高く、降り、風、嶮(けは)しく、吹く。

 而るに、冬の間にて、雪、高く降りて、人、通(かよ)はず。

 而る間、此の僧、粮(かて)絕えて、日來(ひごろ)を經(ふ)るに、物を食はずして、死ぬべし。

 雪、高くして、里に出でて乞食(こつじき)するにも、能はず、亦、草木の食ふべきも、無し。

 暫くこそ、念じても居(ゐ)たれ、既に十日許りにも成りぬれば、力無(ちからな)くして、起き上がるべき心地(ここち)せず。

 然(しか)れば、堂の辰巳(たつみ)の角(すみ)に、䒾(みの)の破れたる敷きて臥したり。力無ければ、木を拾ひて火をも燒かず。寺、破損して、風も留(とど)まらず、雪風、嶮(けは)しくして、極めて、怖ろし。力無くして、經をも讀まず、佛をも念ぜず、『只今、過ぎなば、遂に、食物、出來(いでく)べし。』と思はねば、心細き事、限り無し。

 今は、死なむ事を期(ご)して、

「此の寺の觀音を助け給へ。」

と念じて、申さく、

「只一度(ただひとたび)、觀音の御名(みな)を唱ふるそら[やぶちゃん注:「すら」の訛り。]、諸(もろもろ)の願(ねがひ)を滿て給ひしなり。我れ、年來(としごろ)、觀音を憑(たの)み奉りて、佛前にして餓ゑ死なむ事こそ、悲しけれ。高き官位を求め、重き財寶を願はばこそ、難(かた)からめ、只、今日(けふ)、食(じき)して、命(いのち)を生(い)く許(ばかり)の物を、施し給へ。」

と念ずる間に、寺の戌亥(いぬゐ)の角(すみ)の破れたるより見出(みいだ)せば、狼に噉(くら)はれたる猪(ゐのしし)、有り。

『此れは。觀音の與へ給ふなめり。食(じき)してむ。』

と思へども、

「年來、佛を憑み奉りて、今更に、何(いか)でか、此れを食(じき)せむ。聞けば、『生(しやう)有る者は、皆、前生(ぜんしやう)の父母(ぶも)なり。』と。我れ、食に飢へて死なむと□□□□□□□□[やぶちゃん注:破損による欠字。参考本の頭注に『古本説話「我ものほしといひながらおやのししむらほぶりてくらはん」。』とある。]肉村(ししむら)、屠(ほ)ふり食(く)はむ。況(いはむ)や、生類(しやうるゐ)の肉を食(じき)する人は、佛の種(しゆ)を斷ちて、惡道に墮つる道なり。然(さ)れば、諸(もろもろ)の獸(けだもの)は、人を見ては、逃げ去る。此れを食する人をば、佛も菩薩も、遠く去り給ふ事なれば。」

[やぶちゃん注:ここに「と」が欲しい。]返々(かへすがへ)す、思ひ返せども、人の心の拙(つたな)き事は、後世(ごせ)の苦しびを思はずして、今日(けふ)の飢への苦しびに堪へずして、釼(つるぎ)を拔きて、猪の左右(さう)の腂(もも)の肉を屠り取りて、鍋に入れて、煮て、食(じき)しつ。

 其の味、甘き事、並び無し。飢の心、皆、止(とどま)りて、樂しき事、限り無し。

 然(しか)れども、重き罪を犯しつる事を、泣き悲しむで居(ゐ)たる程に、雪も、漸(やうや)く消えぬれば、里の人、多く來(きた)る音を聞く。

 其の人の云はく、

「此の寺に籠たりし僧は何(いか)が成りにけむ。雪、高くして、人、通ひたる跡も、無し。日來(ひごろ)に成りぬれば[やぶちゃん注:「人跡絶えてより、随分、日数が経ってしまっているので」。]、今は食物(じきもつ)も失せにけむ。人氣(ひとけ)も無きは、死にけるか。」

と、口々に云ふを、僧、聞て、先づ、

『此の、猪を、煮噉(にちら)したるを、何で、取り隱さむ。』

と思ふと云へども、程無くして、爲(す)べき方(かた)、無し。

 未だ、食ひ殘したるも、鍋に、有り。

 此れを、思ふに、極めて、恥ぢ、悲び、思ふ。

 而る間、人々、皆、入り來たりぬ。

 人々、

「何(いか)にしてか、日來(ひごろ)、過ごしつる。」

など云ひて、寺を廻(めぐ)りて見るに、鍋に檜(ひ)の木(き)を切り入れて、煮て食ひ散したり。

 人々、此れを見て云はく、

「聖(ひじり)、食(じき)に飢ゑたりと云ひ乍ら、何(いか)なる人か、木(き)をば煮食(にく)ふ。」

と云ひて哀れがる程に、此の人々、佛を見奉れば、佛の左右(さう)の御腂(おほむもも)を、新たに、切り取りたり。

『此れは。僧の切り食ひたるなりけり。』

と奇異(あさま)しく思ひて云はく、

「聖、同じ木を食(じきす)るならば、寺の柱をも、切り食はむ。何ぞ、佛の御身(おほむみ)を、壞(やぶ)り奉る。」

と云ふに、僧、驚きて、佛を見奉るに、人々の云ふが如く、左右の御腂(おほむもも)を切り取りたり。

 其の時に思はく、

『然(さ)らば、彼(か)の煮て食(じき)しつる猪は、觀音の、我を助けむが爲めに、猪に成り給ひけるにこそ有けれ。』

と思ふに、貴(たふと)く悲しくて、人々に向ひて、事の有樣を語れば、此れを聞く者、皆、淚を流して、悲しび、貴ぶ事、限り無し。

 其の時に、佛前にして、觀音に向ひ奉りて、白(まう)して言(まう)さく、

「若(も)し、此の事、觀音の示し給ふ所ならば、本(もと)の如くに、□□□□□。」

□[やぶちゃん注:先と同じく頭注で『古本説話「もとの様にならせ給ねと、返々申ければ」』とある。]申す時に、皆人、見る前へに、其の左右の腂(もも)、本の如く成□□□□□□□□□□[やぶちゃん注:同前で『古本説話「もとの様になりみちにけりされば、この寺をなりあひと申侍なり」』とある。]。

 人皆(ひとみな)、淚(なむだ)を流して□泣悲(なきかなしま)ずと云ふ□□□□□□。□□□□此の寺を「成合」と云ふ也けり。[やぶちゃん注:同じく頭注に最初の一字欠損は破損による旨の記載があり、『「不」が擬せられる』とある。則ち、原本は漢文式訓点附きであるから、後の「ず」に当たる漢字表記の元ということになる。最後のそれは破損によるもので、『「事無カリケリ。然レバ」が擬せられる』とある。]

 其の觀音、今(いま)に在(ましま)す。

「心有らむ人は、必ず、詣でて禮(れい)奉るべきなり。」

となむ、語り傳へたるとや。

   *

この成相寺は現在の京都府宮津市にある天橋立を一望する真言宗成相山成相寺(なりあいじ)。本尊は聖観世音菩薩。当該ウィキによれば、『寺伝によれば慶雲元年』(七〇四年)、『真応上人の開山で文武天皇の勅願寺となったというが、中世以前の寺史は判然としない』とある。]

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