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カテゴリー「南方熊楠」の163件の記事

2021/12/27

南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開

今年最後の大物として、

南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・3.7MB・89頁)

をサイト「心朽窩旧館」に公開した。

2021/12/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(8)/「牛王の名義と烏の俗信」~了

 

      結 論

 

 と云ふと大層だが、こんなに長く書ては何とか締りを附けざ成らぬ。本篇牛王の事を一寸書く積りで、烏の事が以ての外長く成つた。上述の外に烏に關する俗信古話は甚だ多く、其は其は山烏の頭が白く成る迄懸つても書き悉されぬから、善い加減に果(はて)として結論めきた者を短く口上と致さう。文獻乏しき世の事が永く後(あと)へ傳はらぬは、北米の印甸人(インジアン)印度のトダ人南洋や亞非利加に其例頗る多きは先輩の定論有り。然しながら未開の民とても既に人間たる上に、多少の信念も習慣風俗も有つたに相違無いから、後日追々他方から種々と文化を輸入しても固有の習慣信念全くは滅びず、幾分か殘り留まる。斯る事物を總稱してフオークロール(俚俗)、之を硏覈[やぶちゃん注:「けんかく」。底本は「硏劒」だが、選集で訂正した。「覈」は「調べる」の意で、事実を詳しく調査し明らかにすること。「研究」に同じ。]する學をもフオークロール(俚俗學)と云ふ。舊俗の一朝にして亡び難きは、舊曆の正月祝や盆踊が何に[やぶちゃん注:「いかに」。]禁制しても跡を絕たず動(やゝ)もすれば再興せらるゝで知れる。されば、熊野烏の尊ばれたなども之に關して外國と異なる事共多きより推すと、もと熊野に烏を神視する固有の古俗有つて、其事或は外國に類例有り或はこれが無かつた。然る處へ外國から牛王の崇拜入來つたので、本來、烏を引いて誓言すると、新來、牛王を援(ひ)いて盟證すると丁度似た所から、烏像を點じて牛王寶印とし、牛王と云へば烏の畫札(ゑふだ)と解する迄因習流行した事と惟ふ[やぶちゃん注:「おもふ」。]。扨偶然の符合ながら、印度で烏と牛と親愛する事實話なども大に此融通を助成したゞらう。其牛王と云ふは、印度に牛を裁判の標識とし誓言の證據に立つる事有り、又大自在天や大威德明王如き强勢な神も、閻魔王如き冥罰を宰る[やぶちゃん注:「つかさどる」。]神も皆、牛を使物とする所から、本邦に佛法入つてより牛を誓言や冥罰の神としたので、曾我物語に牛王の渡ると見えてと有るも、祈禱が聽かれた標[やぶちゃん注:「しるし」。]に祭神(さいしん)の裁可通り、法を執行し來る神を指した者で、先は[やぶちゃん注:「まづは」。]牛頭馬頭(ごづめづ)が人の死際に火の車もて迎ひに來る樣な事と思ふ。

    (大正五年鄕土硏究第三卷第十二號)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。以下の太字も同じ。

「トダ人」インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。

「曾我物語に牛王の渡ると見えてと有る」後の「追記」の「二」の「病氣を人に移す修法成就の際、牛王といふ神が渡ると同時に供物が自ら動き出す」とあるそれは、本篇冒頭で既出(原文も引用されてある)既注。]

 

 

追 記

、牛王に就て (鄕硏三卷六四二頁參照)牛黃(ごわう)を確かに牛王と書いた例は、川角太閤記卷四、「慶長元年遊擊(遊擊將軍沈惟敬)參る時、秀吉へ進物は、沈香のほた一かい餘り、長さ二間、間中(まんなか)高さ三寸、廻り一尺の香箱(かうばこ)に入れ申候。八疊釣の蚊帳、但し色は蟬の羽毛(蟬とはカワセミなるべし)、藥種、龍腦、麝香、人參、牛王の由、以上七色、其外、卷物、綾、羅、錦紗の類也云々」とある。此序に申す。印度の烏が水牛の爲に牛虱を除く由を述べたが(三卷六四九頁)、十八世紀の英人ギルバート、ホワイトのセルボーン博物志にも、「白種、灰色種の鶺鴒が牛の腹や鼻邊から脚邊に走り廻り、牛にとまる蠅を食ふ。又足下に踏殺された蟲をも食ふならん。造化經濟の妙、乃ち斯る不近緣の二物をして能く相利用せしむ」とある。吾邦の鶺鴒にも亦斯くの如き行爲ありや否。

      (大正五年鄕硏究第四卷第一號)

、鄕硏三卷六四二頁に曾我物語から、病氣を人に移す修法成就の際、牛王といふ神が渡ると同時に供物が自ら動き出す一條を引いた。頃日、義經記卷五「吉野法師が判官を追掛奉る事」を讀むと、義經、衆徒を追却けて後、餅を取出だして從者に頒つに「辨慶を召して是れ一つづゝと仰せければ、直垂の袖の上に置てゆづりはを折て敷き、一つをば一乘の佛に奉る。一つをば菩提の佛に奉る。一つをば道の神に奉る。一つをばさんじんごわうにとて置たりけり」。是は山神牛王で、牛王といふ特種の神が中古崇敬せられた今一つの證據と見える。或はごわうは護法の假名を誤寫したのかとも惟ふが、曾我物語に牛王と書き、印度で牛を神視する事既に述べた如くだから、多分は矢張り牛王で有らう。

 又烏で占ふ例を種々擧げたが、多くは其鳴聲に由るもので、其坐位を察て[やぶちゃん注:「みて」。]卜ふのは J. Theodore Bent,“The Cyckades,” 1885, p.394 に一つ見える。云く希臘のアンチパロス島は史書載する事無く唯海賊の巢栖(すみか)なりし。又只今も碌な者棲まず。パロス島人、此島民を蔑んで烏と呼ぶ。以前は尤も迷信深く主として烏を相(み)て占へり。例せば烏が樹に止るに北側ならば萬づ無事だが、南側ならば海賊海峽に入れる徵と斷じ、忙ぎ走つて邑の諸門を閉じたと。熊楠謂ふに烏は眼至つて明かに且つ注意深い者故、自然、海賊の來るのを怪んで其方を守り坐るのだらう。從つて此占ひなどを單に迷信と笑ふてのみ過すべきで無い。

 六四八頁に地獄で烏が罪人を食ふちう佛說を擧げたが、現世に烏に人を食はせた基督敎國の例もある。十三世紀にクーロンジユの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾折(しきを)り、扨、餘喘あるまゝ烏に與へて倍(ますま)す苦んで死せしめた(Henri Estienne, “Apologie pour Herodote,” ed. 1879, Paris, tom.i, p.65)。次に、七三八頁に比丘尼等賤妓と烏の關係を一寸述べたが、延寶四年[やぶちゃん注:一六七六年。]板談林十百韻第十の百韻のうち、「比丘尼宿はやきぬぎぬに歸る雁、卜尺」、「かはす誓紙のからす鳴く也、一朝」、「終は是れ死尸(しかばね)さらす衆道ごと、志計」。賣色比丘尼や男色の徒が烏を畫(ゑが)いた牛王で誓ふを詠(よん)んだ物たる事勿論だが、當初、熊野比丘尼が牛王を賣りあるいたに因(ちな)んだ作意でもあらう。西鶴の好色一代女に、大阪川口の碇泊船を宛込(あてこん)で婬を鬻いだ歌(うた)比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短かく、とりなり一つに拵(こしら)へ、文臺に入(いれ)しは、熊野の牛王、酢貝(すがひ)、耳姦(みゝかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしやく)」と云へるが其證據だ。

      (大正五年鄕硏究第四卷第七號)

[やぶちゃん注:本文内の太字は底本では傍点「◦」。『川角太閤記卷四』「慶長元年遊擊(遊擊將軍沈惟敬)參る時、秀吉へ進物は……」「川角太閤記」は「かわすみたいこうき」(現代仮名遣)と読む。江戸初期に書かれたとされる豊臣秀吉に関する逸話を纏めたもの。全五巻。主に「本能寺の変」から「関ヶ原の戦い」までの期間が記されている。本来は単に「太閤記」といったが、後になって他の「太閤記」と区別するために著者川角三郎右衛門の名を冠して呼ぶようになった。作者は、大名で筑後国主であった田中吉政(天文一七(一五四八)年~慶長一四(一六〇九)年)に仕えた武士。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの明四二(一九〇九)年共同出版刊の共同出版株式会社編輯局編「川角太閤記 下卷」のここ(左ページ四行目以降)。

「ギルバート、ホワイトのセルボーン博物志」「南方熊楠 小兒と魔除 (5)」の私の「G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’」の注を参照されたい。訳本を所持しているのだが、書庫の底に沈んで見当たらず、当該箇所を示せない。悪しからず。

『義經記卷五「吉野法師が判官を追掛奉る事」を讀むと、義經、衆徒を追却けて後、餅を取出だして從者に頒つに……』所持する岩波古典文学大系(東洋文庫藏本底本)で確認。

さんじんごわう」は「山神護法(さんじんごわう)」と表記し、前記の岩波の岡見正雄氏の頭注では、

   《引用開始》

 山神午王とする校注本もあるが、田中本「さんしんこほう」とある。山神護法、即ち山の神と解すべきで、護法は元来仏教を擁護する護法善神の意で、平安時代以来験徳ある僧侶には護法(乙護法)がつき仕え、その意のままに駆使された。書写の性空上人や信貴山縁起絵巻の乙(おと)護法など有名であるが、修験道でも験者の使いとなって走り廻る所謂使神、みさき神と考えたようで、山神も護法の一人と考えて、山神護法といったのだろう。なお護法は古くからゴオウと訓じたので、宮内庁書陵部、九条家旧蔵諸山縁起なる鎌倉期慶政上人筆の一冊には(熊野参詣還向ノ次第先ツ護法(コヲウ)送り次第」なる詞句が見え、ゴヲウと訓をつけるので、湯沢幸吉郎氏が指摘するように、西源院本太平記(刀江書院本)には「満山護法(コウヲウ)」(一一〇頁)、「常随宮仕之護法(・ウヲウ)」等と見える(湯沢氏、国語学論考)。「五しきにそめたる七尺のはたをさゝけて申やう、山には山神こわう、かわにはすいしん、うみにはりうしんと申て、よるひるおこたらす」(横山氏校、室町時代物語集第一、古梓堂文庫本、くまのゝ本地上)、「きさき御くしあまたゆいわけて一ゆいをは、ほんていたいしやくをはしめてよろつのほとけにまいらする、このわうし三にたり給はんまてまほり給へ、一ゆりをはこの山の山神こふうにまいらする」(同下)、「山王七社王子眷属東西満山護法聚衆」(覚一本系平家巻七、平家山門連署)、「七仏五十余代仏祖幷満山護法善神神」(相田氏、日本の古文書所引、肥後広福寺文書、菊池武茂起訓文)、「伏乞当寺の諸尊満山の護法」(勅修御伝第三十一)、「下野国宇都宮の御殿に納める。乙護法使者たり」(平治巻一、叡山物語の事)、「さりとも年月頼みをかくる大聖不動明王の威力、又は山神護法善神、殊には開山役の優婆塞」(謡曲、谷行)。→補注一六。

   《引用終了》

とある。聊か引用が長くなるのであるが、明らかに南方熊楠が牛王とする説を退ける内容であるから、補注も引いておく。

   《引用開始》

一六 山神護法[やぶちゃん注:当該ページ数を略した。] 護法については頭注の如く諸例があるが、なお宮地直一氏の熊野三山の史的研究第六編第四章、三山祭神の組織の条に、熊野の十二所以外の附属せる若干の小神ありとして[やぶちゃん注:以下の引用は変則的に改行部分の途中で一字下げとなっているが、ここでは改行して頭から示した。]、

「護法 護法とは所謂正法を護持する梵天・帝釈・四天王等の謂にして、之が中にあつて、是等善神の使者となり駆使の役に当るものを護法天童又は護法童子といひ、又略して単に護法ともいへり。而してこの種類に属せる護法は、有徳の験者に常侍してその用を勤め、又道心者に随つて之を擁護すと信ぜられて、上下の信仰頗る篤く、日本霊異記(中、打法師以現得悲病而死縁第卅五)を始め、その後の記録物語類に尠からぬ記事を留めたり。例へば伝教又は性空の使役せしと伝ふる乙護法の如きは、その一にして(平治物語叡山物語事・元亨釈書十一・太平記十一書写山行幸事・栂尾明恵伝記上)、本社にあつては、御幸を始め参詣の輩が帰途稲荷の社頭に護法を送るの習あり、その式折敷に餅を盛りて地土に安き[やぶちゃん注:「おき」。]、先達幣を収つて拝礼を行ふといへり(中右記、天仁二年十一月十目・長秋記、大治五年十二月廿二日、長承三年二月七日)。こは往還の道程余りに長途に及ぶが故に、途中の安全を祈請せんとする自然の要求より起りし風習なるべしと雖も、護法そのものゝ本体に関しては全然その所見を欠きたり。されど今さきに記しき金剛童子の性質より推考するに、かく道者の為に護身の用を勤めしは即ちこの童子にして、護法の名は之が功能の一方面を表示せし称呼なるべく、又さきに引ける御記文に、各々付払天魔云々とあるも、道中の護持を含めし意に外ならざるか。走湯山縁起(四)によるに、さきに掲げし雷電童子を南山護法五体王子之中といへり。五休の称はいかゞならんも、金剛童子を以て護法とする思想は充分に之を認むるを得べく、又太平記(五、大塔宮熊野落事)にも三所権現の下に満山護法十万眷属八万金剛童子と連記したり。かゝれば古くはさきの一万十万社以外に之を祭る社を見ざりしが、鎌倉時代に入り独立の崇拝をうけ、満山護法といはれて、別にその本地を定め、又別社として祭祀せらるゝに至りぬ(宴曲抄上、譲羽山熊野権現、康正三年注文、垂跡絵)。されど遂に十二所の数に加へらるゝに及ばざりき」(三八八頁)と書かれる。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「J. Theodore Bent,“The Cyckades,” 1885, p.394」イギリスの探検家・考古学者で作家でもあったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島」(エーゲ海中部に点在するギリシア領の二百二十以上の島から成る諸島。位置は当該ウィキの地図を参照されたい)。当該箇所は「Internet archive」のこちら

「クーロンジユの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾折(しきを)り、扨、餘喘あるまゝ烏に與へて倍(ますま)す苦んで死せしめた(Henri Estienne, “Apologie pour Herodote,” ed. 1879, Paris, tom.i, p.65)」アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:パリ生まれの古典学者・印刷業者。ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス(Henricus Stephanus)としても知られる。一五七八年に彼が出版した「プラトン全集」は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている。以上は当該ウィキに拠った)の「ヘロドトスの謝罪」。当該書の当該部はここ。この二人の人物については、よく判らんのだが、以上の原記載に「Henri Ⅰ de molenark 1225-1238」とあり、ずたずたされてカラスの餌にされた「Frederic」なる人物と、その関係も私にはよく判らぬ。

「談林十百韻」(だんりんとつぴやくゐん(だんりんとっぴゃくいん))は江戸前期の俳諧撰集。延宝三(一六七五)年板行。田代松意(しょうい)編・自序・自跋。全二冊。同年夏、東下した西山宗因に発句「されば爰に談林の木あり梅の花」を請い受け、江戸神田鍛冶町の松意の草庵に集った、俳諧談林の連衆である松意・雪柴・在色(ざいしき)・一鉄・正友(せいゆう)・志斗・一朝・松臼・卜尺の九人で詠じた百韻十巻。以下の二句は、「愛知県立大学図書館 貴重書コレクション」の「古俳書」のこちら(以上は当該箇所の画像データ。同書のトップ・ページはこちら)で原本の当該句が見られる。左丁の四・五・六句目である。なお、本文で「志計」とあるのは、「志斗」に同じ。辞書により、前者で出、読みを「しけい」とする。しかし前掲原本を見るに、一貫して「志斗」と書いている。これだと「しと」と読むのが普通であるが、「計」は「ばかり」と副助詞で訓ずることが多く、その副助詞「ばかり」を「斗」の字で略して書くことが近代以前では頗る多い。さすれば、「志斗」も「しけい」と読むべきであろうか。

『西鶴の好色一代女に、大阪川口の碇泊船を宛込(あてこん)で婬を鬻いだ歌(うた)比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短かく、とりなり一つに拵(こしら)へ、文臺に入(いれ)しは、熊野の牛王、酢貝(すがひ)、耳姦(みゝかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしやく)」と云へる』巻三の「調謔(たはぶれ)の歌船(うたふね)」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二(一九二七)年国民図書刊の「近代日本文学大系」第三巻所収の同作の当該部をリンクさせておく。右ページ後ろから五行目末から。所持する小学館「日本古典文学全集」の暉峻(てるおか)・東(ひがし)共校注・訳「井原西鶴集」(昭和四九(一九七四)年第二版)によれば、「歌比丘尼」は『熊野の護符を売り念仏を唱え、地獄極楽の絵解きをして米銭を乞うた尼。「もとは清浄の立て派にて熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣をりやくし歯をみがき頭をしさいにつみて、小哥を便りに色をうるなり」(人倫訓蒙図彙)』とある。以下、「二布」は腰巻のことで、「とりなり一つ……」は『みな一様のいでたちをして』、「文臺」は『かた箱。比丘尼が脇にはさんで持つ小箱』、「熊野の牛王」は無論、熊野牛王印でたまさかの男と起請文を交わすのに使う小道具、「酢貝」は『しただみ(栄螺』『に似た小さい貝)の蓋を酢の中に入れると旋回する。春の初め熊野に参詣して紀州の海辺で拾い、比丘尼が児女に玩具として与える』とある(これについては後述する)。「四つ竹」は『扁平な竹片を両手に二個ずつ持ち、掌を開いたり、閉じたりして鳴らす楽器』、「一升干杓」については、『比丘尼は腰に檜の柄杓(ひしゃく)を差し、米や金を受け』たとあるものを指す。「酢貝」は私の守備範囲で、腹足綱前鰓亜綱古腹足目サザエ(リュウテン(サザエ))科リュウテン亜科オオベソスガイ属スガイ Lunella correensis のサザエと同じような石灰質の蓋を指す。本邦の全域の磯の潮間帯で普通に見られるに殻径二~三センチメートルの食用にもなる巻貝であるが、例えば、当該ウィキによれば、『日本では磯で普通に見られることから、昔から磯遊びの対象として親しまれてきた。著名な例としてこの貝の蓋を半球面側を下にして酢に浸すと、酸で蓋の石灰質が溶解する際に、二酸化炭素の気泡を出しつつ、くるくると回転することから、古くから子供の遊びとなっていたという。冒頭に述べたように「酢貝」という名はこの遊びに由来し、本来は蓋のみの呼称で、本体の方にはカラクモガイ(唐雲貝)の名がある。』とあり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスガイにも、『フタの丸く盛り上がった方を下にして、酢に浸すと泡を出してクルクルと回る。「スガイ」はこの蓋の呼び名。貝本体はカラクモガイ(唐雲貝)とい言った』とあって、幼少時以来、海岸生物に魅せられてきた私も、小さな頃から、諸図鑑の解説でそう覚えていたのだが、実は実際に何度か、試してみたが、泡は出たが、旋回はしなかったので、六十四になっても、その運動を見たことがない。昔からそんなに知られた遊戯であるなら、ネット上の動画にあるだろうと調べたこともあるが、なかった。今回も調べたが、見当たらない。ところが、個人サイト「五島列島 福江島の博物誌 知られざる五島の海」でズバリ! 「フタは回るのか? スガイ 酢貝 (サザエ科) Turbo (Lunella) coreensis を見つけた。而して実験の結果は――『泡は確かに出てくるのですが、数時間そのままにしておいても回ることはありませんでした。今回使ったフタは直径』八ミリメートル『ほどで、小さな泡で動くには大きすぎたのかもしれません。あるいは、もっと強烈に反応するような強い酢(?)が必要なのか。インターネット上で調べてみても、有効な情報は得られませんでした。ただ、私と同じように「やってみたけど回らない」という人はいました。とりあえず、もっと小さいもので試してみようかとは思っていますが…。』(二〇一五年三月の記事)とあった。う~~ん、私も何時か、小型のもので、やってみよっ、と!]

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(7)

 

 烏や鴉を凶鳥とするのも最[やぶちゃん注:選集では「いと」と振る。]古いことで、五雜俎九に、「詩云、莫赤匪狐、莫黑莫烏、二物之不祥從古已忌之矣[やぶちゃん注:「「詩」に云はく、『赤くして狐に匪(あら)ざるは莫(な)く 黑くして烏に匪ざるは莫し』と。二物の不祥なるは、古へより已に之れを忌む。」。]。日本紀神代下に、天稚彥橫死の時、其父天國玉[やぶちゃん注:「あまのくにたま」。]、諸鳥を役割して、八日八夜、啼哭悲歌する。異傳に以烏爲宍人者[やぶちゃん注:「烏を以つて、宍人者(ししひと)と爲す。」。「宍人者」は獣肉を処理する屠殺業者を指す。]、古事記に翠鳥御食人(そにをみけびと)とし、と有る。宣長言く、御食人(みけびと)は殯[やぶちゃん注:「もがり」。]の間、死者に供る饌[やぶちゃん注:「むくるけ」。]を執行ふ人也、書紀に宍人者と有る是に當れりと(古事紀傳一三)。翠鳥(そに)乃ち鴗(かはせび)は能く魚を捕ふる故御食人としたちふ谷川士淸の說より推すと、吾神代には烏專ら生肉を食ひ、弱い鳥獸を捕ふるを以て著れた物で、爾後如く腐肉死屍を啖ひ田圃を荒すとて忌(いま)れなんだんだろ。然るに書紀神武卷に、更遣頭八咫烏召之(兄磯城)。時烏到其營而鳴耶、天神子召汝、恰奘過々々々(いさわいさわ)、と。兄磯城忿之曰、聞天壓神至、而吾爲慨憤時、奈烏何鳥、若此惡鳴耶、乃彎弓射之[やぶちゃん注:「更に頭八咫烏(やたのからす)を遣はして之れ(兄磯城(えしき))を召す。時に烏、其の營(いほり)[やぶちゃん注:砦。陣屋。]に到りて鳴きて曰はく、「天神(あめのかみ)の子、汝(いまし)を召す。恰奘過(いさわ)、恰奘過(いさわ)。」と。兄磯城、之れを忿(いか)りて曰はく、「天壓神(あめおすのかみ)の至ると聞きて、吾が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何んぞ、烏鳥(からす)の此くのごとく惡しく鳴くや。」と。乃(すなは)ち、弓を彎(ひ)きて之れを射る。」。底本では清音で振るが、「いざわ」は感動詞(「いざ」は感動詞、「わ」は感動の助詞)で、相手を誘うときに発する言葉。]。次に弟磯城[やぶちゃん注:「おとしき」。]方に往き、前同樣に鳴くと、弟公、容を改め、臣聞天壓神至、旦夕畏懼、善乎烏、汝鳴若此者歟[やぶちゃん注:「臣、天壓神の至りますと聞(うけたまは)りて、旦夕(あしたゆふべ)に畏(お)ぢ懼(かしこ)まる。善きかな、烏、汝の此(か)くのごとく鳴く者か。」。]と言つて之を饗し、隨つて歸順したと見ゆ。さすれば其頃は此方の氣の持樣次第、烏鳴[やぶちゃん注:「からすなき」。]を吉とも凶とも做(し)たのだ。然るに、追々烏を忌む邦俗と成つたは、本來、腐肉死屍を啖ふ上に村里田園擴がるに伴れて烏の抄掠[やぶちゃん注:「せうりやく(しょうりゃく)」。「抄略」とも書く。かすめ奪うこと。略奪。]侵害も劇しく成つたからであらう。腐肉死屍を食うて掃除人の役を勤むる功を賞して禿鵰(ヴアルチユール)などを神とし尊んだ國も有るから、其だけなら斯く忌み嫌はるゝ筈が無い。古ハドリアのヴヱネチア人は、年々二人の欽差大臣を烏群に遣はし、油と麥粉を煉合せて贈り、圃[やぶちゃん注:「はたけ」。]を荒らさぬ樣懇願し、烏輩之を享食(うけく)へば吉相とした(Gubernatis, vol.ii, p.254)。吾邦でも初は腐屍や害虫を除き朝起きを勵しくれる等の諸點から神視した烏が、田圃開くるに及び嫌はれ出したので、今日では歐米で烏鴉が跡を絕つた地も有る。本邦も御多分に洩れない始末と成るだらうが、飛鳥盡きて良弓藏まる氣の毒の至り也。佛說にも夫長旅の留守宅に來て面白く鳴く烏に、其妻がわが夫無難に還るの日汝に金冠を與へんと誓うた所、夫果して息災に戾つたので、烏來たり金盃を眺めて好音[やぶちゃん注:「良きこゑ」。]を出す。因て妻之を烏に與へ、烏、金盃を戴いて去る。鷹、金盃を欲さに[やぶちゃん注:「ほしさに」。]烏の頭を裂いた。神之を見て偈(げ)を述ぶらく、須く[やぶちゃん注:「すべからく」。]無用の物を持つ事勿れ、黃金烏頭に上つて盜之を望むと(F. A. von Schiefner, “Tibetan Tales,” trans. Ralston, 1906, p.355)。是れ印度でも烏を時として吉鳥としたのだ。然し經律異相四四に譬喩經を引いて、昔有一極貧人、能解鳥語、爲賈客賃擔、過水邊飯、烏鳴、賈客怖、作人反笑、到家問言云々、答曰、烏向語我、賈人身上有好白珠、汝可殺之取珠、我欲食其肉、是故我笑耳[やぶちゃん注:「昔、一(ひとり)の極めて貧しき人有り。能く鳥語を解す。賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]の爲に賃擔(ちんかつぎ)[やぶちゃん注:雇われて同行して物品を担い運ぶこと。]をして、水邊を過ぎ、飯(めしく)ふ。烏、鳴いて、賈客、怖るるに、作人(やとひど)、反(かへ)つて笑へり。家に到りて問ふて云はく」云々、「答へて曰はく、『烏、向(さき)に、我に語るに、「賈人の身上(しんしやう)に好き白珠あり。汝、之れを殺し、珠を取るべし。我は、其の肉を食らはんと欲す。」と。是の故に我は笑ひしのみ。』と。」。]とあれば、隨分古く既人肉を食ふ鳥として烏鳴を忌んだと知らる。今日も印度で烏を不祥とす。然してラバルの婦女にカカと名くる例あり。梵語及びラバル語で烏の義也(Balfour, “The Cyclopaedia of lndia,” vol.i, p.843)と有るが、日本で妻をカカと呼ぶは是と關係無し。斯く不祥としながら印度人は一向烏を殺さず放置するから、家邊に蕃殖すること夥しく、在留の洋人大いに困る(“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.513)。是は丁度土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]で犬を罪業有る物が化つたと信じながらも、之を愍れんで蕃殖を縱にせしむると一般だ。摩訶僧祇律十六に、神に供へた食を婦人が賢烏來れと呼んで烏に施す事有り。パーシー輩が烏を殺さぬは例の太陽に緣有り、又屍肉を片付け吳るからだらう。波斯人は、鴉二つ雙(なら)ぶを見れば吉とす(Burton, “The Book of the Thousand Nights and a Night,” ed. Smithers, 1894, vol.vi, p.382, n)。囘敎國と希臘基督敎國には烏を不祥とし、カリラー、ワ、ジムナー書には、之を、罪業、纏(まと)はり、臭氣、穢(きたな)き鳥と呼べり(同書五卷八頁注)。アラブ人も鴉を朝起き最も早き鳥とし、グラブ、アル、バイン(別れの鴉)と言ふ。因て別離の兆として和合平安幸福の印相たる鳩と反對とす。主として黑白色の差(ちが)ひから想ひ付いたらしく、俗傳にマホメツト敵を避けて洞に潜んだ時、烏追手に向ひ、ガール、ガール(洞々(ほらほら))と鳴いたので、マホメツト之を恨み、以後常に、ガール、ガールと鳴いて自分の罪を白し[やぶちゃん注:「あらはし」。]、又、盡未來際[やぶちゃん注:「じんみらいざい」。]黑い喪服を著て不祥の鳥たるを示さしめたちふ事で厶る[やぶちゃん注:「ござる」。](同上卷三、一七八頁注二)。古希臘神話にも光の神アポロ、情をテツサリアの王女コローニスに通じ姙めるを、鴉して番せしむる内、王女、復[やぶちゃん注:「また」。]イスクスの戀を叶へて其妻たらんと契つたので、鴉其由を光神に告げると、何樣べた惚れ頸丈[やぶちゃん注:「くびつたけ」。]な女の不實と聞いて騰せ[やぶちゃん注:「のぼせ」。]揚げ、折角忠勤した鴉其時迄白かつたのを永世黑くした(Grote, “History of Greece,”  London, John Murray, 1869, vol.i, 174)。又女神パラス、其義兄へフアイストスの子、蛇形なるを養ふに、三侍女をして決して開き見る勿らしむ。然るに、三女好奇の餘り竊に之を見て亂心して死す。鴉其由を告げたので永くパラスに勘當されたと云ふ(Gubernatis, vol.ii, p.254;Smith, “Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,” 1846, vol.ii, p.48)。斯く何處でも評判が惡く成つても、アラビヤ人は今も鴉を占候之父(アブ・ザジル)と呼び、右に飛べば吉、左に飛べば凶とす(Burton, vol.iii, p.178, n.)。プリニウスの博物志十卷十五章に、鴉の卵を屋根下に置くと其家の女難產すと載す。一六〇八年出板ホールのキヤラクタースに、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けば直ちに遺言を爲すと有る由(Hazlitt, vol.ii, p.508)。又古歐人は事始めに鴉鳴を聞くを大凶とした(Collin de Plancy, p.144)。ブラウンのプセウドドキシアの注者ウヰルキン言く、鴉は齅覺非常に發達せる故、人死する前に特異の臭を放つを、煙突を通じて聞知り鳴き噪ぐ。實は死の前兆を示すで無くて、死につゝ有る人有つて、而して後鳴くのぢやとは尤も千萬な論だ。爾雅に鳶烏醜其飛也翔、烏鵲醜其掌縮[やぶちゃん注:「鳶・烏は醜し。其れ、飛ぶや、翔(はばた)く。烏・鵲は醜し。其れ、掌(あし)を縮む。」。]。烏も一たび惡まれ出すと、飛ぶ時に脚を腹下に縮める事迄も御意に入らぬのぢや。埤雅に今人聞烏噪則唾、以烏見異則噪、故唾其凶也[やぶちゃん注:「今、人、烏の噪ぐを聞けば、則ち、唾(つば)す。烏は異を見れば、則ち、噪ぐを以つて、故に其の凶に唾するなり。」。]。唾吐いて凶事を厭(まじな)ふは、歐州、殊に盛んだ。水滸傳第六回、魯智深、大相國寺の菜園で破落戶共(ごろつきども)を集め遊ぶ時、楊柳上老鴉鳴噪すると、衆人有ㇾ齒シク赤口上ㇾ天白舌入ルトㇾ地、智深道フニ、儞做甚麼鳥亂、衆人道、老鴉叫、怕ラクハラン口舌[やぶちゃん注:熊楠は珍しく訓点をつけているのだが、本文に不審があり、中文サイトで確認し、特異的に修正した。『衆人、齒を扣(たた)くもの、有り、齊(ひと)しく道(い)ふ、「赤口(しやくこう)、天に上り、白舌(びやくぜつ)、地に入る。」と。智深、道ふ、「儞(なんぢ)ら、甚麼(いか)にしてか鳥亂(てうらん)を做(な)すや。」と。衆人、道ふ、「老鴉叫ぶ、怕(おそ)らくは口舌有らん。」と。』。私は「水滸伝」に興味がなく、短い余生の間にも読むことはない。されば、この部分、意味がよく判らないところが多いが、注をする気はない。悪しからず。]]。宋・元の頃は、斯(かゝ)る烏鳴の禁法(まじなひ)も有たんぢや[やぶちゃん注:「あつたんぢや」。]。習俗通に、案明帝起居注曰、帝東巡泰山、到滎陽、有烏飛鳴乘輿上、虎賁中郞將王吉射中之、作辭曰、烏烏啞啞、引弓射、洞左腋、陛下壽萬歲、臣爲二千石。帝賜錢二百萬、令亭壁悉畫爲烏也[やぶちゃん注:これも本文表記に疑問があったので、中文サイトを参考にしつつ、本文を特異的にいじって作り替えた。「「明帝起居注」を案ずるに、曰はく、『帝、東して、泰山を巡り、熒陽(けいやう)に至る。烏、飛んで、乘れる輿(こし)の上に、鳴く有り。虎賁中郞將王吉、射て、之れに中(あ)つ。辭を作(な)して曰はく、「烏々啞々(ううああ)、弓を引き、射て、左の腋を洞(つらぬ)く。」と。陛下は萬歲を壽(ことほ)ぎ、「臣は二千石と爲す。」と。帝、錢二百萬を賜ひ、亭壁に、悉く、烏を畫き爲さしむ。』と」。]又烏の爲に人民大に困つた例は、古今圖書集成邊裔典卷二十一に朝鮮史略を引いて、高麗忠烈王二十七年云々、先是朱悅子印遠爲慶尙按廉、貢二十升黃麻布、又惡烏鵲聲、令人嚇以弓矢、一聞其聲卽徵銀瓶(錢の名)、民甚苦之[やぶちゃん注:同前で、「維基文庫」の同書の当該部(「朝鮮部彙考九」の「大德元年以高麗王子謜為高麗國王仍加授王功臣號逸壽王按元史成宗本紀大德元年二月癸卯以闍里台所)の電子化を参考に本文を訂した。「『高麗の忠烈王二十七年』云々。『是れに先だちて、朱悅の子、印遠は、慶尙の按廉[やぶちゃん注:監査役か。]と爲(な)り、二十升の黃麻の布を貢(みつぎ)す。また烏鵲(うじやく)の聲を惡(にく)んで、人をして嚇(おど)すに弓矢を以つてせしむ。一聞(ひとたび)、その聲を聞けば、卽ち、銀甁を徵し、民、甚だ之れに苦しむ。』。]。Tavernier, “Travels in India,” vol.ii, p.294 に、暹羅[やぶちゃん注:シャム。タイ王国の古名。]で娼妓死すれば常の婦女通り火葬せしめず、必ず郊外に棄てゝ犬や鴉に食すと有り。吾國亦德川氏の初世迄妓家の主人死すれば藁の韁(たづな)を口にくはへ、死んだ時著た儘の衣で町を引ずり野において烏狗に餌うた[やぶちゃん注:「かうた」。餌として食わせた。]と一六一三年(慶長十八年)英艦長サリスの平戶日記に出づ(Astley, “A New General Collection of Voyages and Travels,” 1745, vol.i, p.482)。妓主長者さへ斯だから賤妓などは常に烏腹に葬られたなるべく、從つて、彼輩、烏を通じて熊野を尊び、其から熊野比丘尼が橫行するに及んだのだらう。

[やぶちゃん注:「詩云、莫赤匪狐、莫黑莫烏」「詩經」の「國風」の「邶風」(はいふう)の「北風」の一節。全体は国が乱れ、身に危険の迫ったと感じた者が、親友とともに他国へ亡命せんとするシークエンスを詠んだもので、壺齋散人氏のブログ「壺齋閑話」の「北風:亡命の歌(詩経国風:邶風)」で全体が読める。訓読・和訳有り。

「翠鳥御食人(そにをみけびと)とし」「翠鳥」翡翠(かわせみ。ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を参照されたいが、思うに、何故、カワセミがそうした死者へ送る聖餐の料理人とされたのかは、以下の谷川の説なんぞよりも、恐らくは、その冠毛や羽根が著しく美しいことから、死者の霊をその美々しさで鎮魂するという呪的意味があったものと私には思われる。

「宣長言く、御食人(みけびと)は殯の間……」国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版の当該部をリンクさせておく。右ページ最終行末から。なお、「日本書紀」の当該本文ページはここ

「谷川士淸」(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)は国学者・神道家。本名は昇。医者の家に生まれ、玉木正英・松岡玄達に垂加神道を学び、独学で国学を修め、本居宣長とも交わった。「日本書紀」を重んじ。その全注釈「日本書紀通証」(全三十五巻)をものし、また国語辞典の先駆とされる字書「和訓栞」(わくんのしおり(全九十三巻・本書の実際の刊行には、士清の没した翌年から明治二〇(一八八七)年、まで、実に百余年を要した)の著者としてよく知られる。「和訓栞」を調べてみたが、それらしいものを発見出来なかったので、以下の見解は「日本書紀通証」のものか。

「古ハドリア」古い「Hadria」地方で、特に現在のイタリアのヴェネト地方(Veneto)州(今の州都は「ヴヱネチア」(Venezia))に、嘗てエトルリア人が築いた都市で現在のアドリア(Adria)の古称。

「欽差大臣」本来は清朝の官職名で、特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のもの指した漢語である。

「Gubernatis, vol.ii, p.254」複数回既出のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。下から十五行目以下に出る。]

「F. A. von Schiefner, “Tibetan Tales,”」ドイツの言語学者にしてチベット学者であったフランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)の「チベット譚」。

「經律異相四四に譬喩經を引いて、昔有一極貧人……」「中國哲學書電子化計劃」の影印本画像のここで全原文が視認出来る(中段の終りから)。標題は「賃人善解鳥語十六」で、最後に割注で「出譬喩經」(「譬喩經(ひゆきやう)」に出づ)とある。

「ラバルの婦女にカカと名くる例あり。梵語及びラバル語で烏の義也(Balfour, “The Cyclopaedia of lndia,” vol.i, p.843)」「ラバル」は以下の引用元の原本の綴りで納得。南方熊楠は頭の音を落しており、「マラバ(ー)ル」が正しく、現在のインド南部のコンカン地方からタミル地方のカンニヤークマリに至るまでの沿岸地帯であるマラバール海岸(英語:Malabar Coast)のことだ。紀元前三千年頃から既その記録が現われ、メソポタミア・アラビア・ギリシャ・ローマなどにその存在が知られていたとウィキの「マラバール海岸」にあるから、独自の言語を持っていたとしてもおかしくない。ここ英文の当該ウィキ(正確には「Malabar Coast moist forests」(マラバール海岸湿性林地帯))の地図画像)。引用元は既出既注のスコットランドの外科医で東洋学者のエドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)の書いたインド百科全書。「Internet archive」の原本のこちらの右ページ下方。タイトル「CROWS.」。

「“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.513」「Internet archive」には同巻はなかったので、「National Library of Scotland」で発見したものの、糠喜びで、当該ページには、それらしい記載がないようだ。

「摩訶僧祇律十六に、神に供へた食を婦人が賢烏來れと呼んで烏に施す事有り」「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに同巻にある。

「パーシー輩」パールシー或いはパールスィー。インドに住むゾロアスター教の信者たちを指す。

「Burton, “The Book of the Thousand Nights and a Night,” ed. Smithers, 1894, vol.vi, p.382, n」原本確認不能。「Internet archive」巻六の当該ページを見たが、エディションが異なるのか、ないようである。

「カリラー、ワ、ジムナー書」不詳。

「王女コローニス」ウィキの「コローニス」(別人で複数いる)の「プレギュアースの娘」によれば、『ラピテース族の王プレギュアースの娘で、医術の神アスクレーピオスの母とされる。コローニスの物語はカラスの色が変わる変身譚とともに語られている』。『ヘーシオドスによると、コローニスはアポローンに愛されて子を身ごもったが、プレギュアースによってエラトスの子イスキュスと結婚させられた』。『しかし、多くの伝承ではコローニスが自らイスキュスと密通したとされる。ピンダロスによれば、コローニスはアポローンに愛されて子供を身ごもったにもかかわらず、アルカディアからの客人イスキュスに恋をし、父プレギュアースに隠れてイスキュスと密通した。しかし、アポローンはすぐに気づき、アルテミスを送ると、アルテミスは多くの者とともにコローニスを射殺した。しかし、コローニスが火葬されるとき、アポローンは自分の子を救い出し、ケイローンに養育させた』。『後に成長したアスクレーピオスは死者さえも蘇らせる名医になった。ピンダロスの物語ではカラスは登場しないが、多くの物語では、カラスがコローニスの密通に気付き、アポローンに知らせる。アポローンは怒って以前は白い色だったカラスを黒い色に変え、またコローニスを殺した。しかし、アポローンは後悔して自らの手で火葬し、そのさいに子アスクレーピオスをコローニスの胎内から救い出して、ケイローンに養育させた』。『アントーニーヌス・リーベラーリスでは、コローニスの密通の相手はアルキュオネウスとされる』。また、『エピダウロスの詩人イシュロスによると、コローニスはプレギュアースとムーサ』(文芸(ムーシケー)を司る女神たち)の一『人エラトーとマロスの娘クレオペマーの娘である』。『パウサニアスによると、プレギュアースがエピダウロスにやって来たとき、コローニスはすでにアポローンの子を身ごもっていた。そして、プレギュアースに同行してエピダウロスにやって来て、アスクレーピオスを出産し、ミュルティオン山に捨てた。この赤子はヤギに養われ、羊飼アレスタナスに発見されたとき、神々しく光っていた』。『なお、一説にアスクレーピオスの母はレウキッポスの娘アルシノエーともいわれ、古代でも意見が分かれていたが、アポロパネースというアルカディア人がデルポイでどちらの伝承が正しいか神に質問すると、コローニスの子であるという答えが返ってきたという』とある。

「Grote, “History of Greece,”  London, John Murray, 1869, vol.i, 174」イギリスの国会議員で歴史家でもあったジョージ・グロート(George Grote 一七九四年~一八七一年)が一八四年から十年かけてものした「ギリシャ史」。Internet archiveで探したが、エディションの合わないものばかりで、当該ページを見ても、違っていた。

「女神パラス」処女神アテーナーは『少女の頃、友達であるパラスと槍と楯を持って闘技で遊んでいたところ、間違ってパラスを殺してしまった。それを悲しんだ女神は、自分の名の前に「パラス」を置き、パラス・アテーナーと名乗ることにしたという』とウィキの「アテーナー」にある。ここはアテーナーのことである(次注参照)。

「其義兄へフアイストス」ギリシア神話の炎と鍛冶の神(本来は雷と火山の神であったと思われる)ヘーパイストスは、当該ウィキによれば、アプロディーテーと結婚するも、『相手にされなかった』彼は、『アテーナーが仕事場にやって来たときに欲情し、アテーナーと交わろうとして追いかけた。ヘーパイストスは処女神であるアテーナーから固く拒まれたが、アテーナーの足に精液を漏らした。アテーナーがそれを羊毛でふき取り、大地に投げると、そこから上半身が人間で下半身が蛇の子供エリクトニオスが誕生した。それを見つけたアテーナーは見捨てはせず、自分の神殿でエリクトニオスを育てたという』とある。なお、『軍神アテーナーは、頭痛に悩むゼウスが痛みに耐えかね、ヘーパイストスに命じて斧(ラブリュス)で頭を叩き割らせることで、ゼウスの頭から生まれたとい』われ、ヘーパイストスはゼウスとヘーラーの第一子であるし、彼の妻アプロディーテーの父もゼウスともされるから、単性生殖の処女神と姻族関係から見ると「義兄」というのは腑に落ちる。

「Gubernatis, vol.ii, p.254」本書電子化で複数回既出既注のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。左ページの七行目以下に記されてある。

「Smith, “Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,” 1846, vol.ii, p.48」イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」。Internet archive」のこちらの「ERICHTO’NICUS」の条。

「プリニウスの博物志十卷十五章に、鴉の卵を屋根下に置くと其家の女難產すと載す」既出既注。しかし、これは、『ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを家に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。』の部分をざっくり纏めたもので、やや言い方が悪い。

「一六〇八年出板ホールのキヤラクタースに、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けば直ちに遺言を爲すと有る由(Hazlitt, vol.ii, p.508)」既出既注のイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。「Internet archive」の当該書のこちらの左ページの中段下方に、「NATIONAL FAITHS」(「国民の信仰」)の最後に、

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Moresin includes the croaking of ravens among omens.  Hall, in his "Characters," 1608, tells us that if the superstitious man hears the raven croak from the next roof, he at once makes his will.

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この引用は、イギリスの司教で風刺作家でもあったジョセフ・ホール(Joseph Hall, Bishop of Exeter 一五七四年~一六五六年)が一六〇八年に発表した「Characters of Virtues and Vices 」(「美徳と悪徳の特性」)の一節。英文サイトで全文がここで活字化されている。「BOOK II. CHARACTERISTICS OF VICES.」の「The superstitious.」の中に以上の一節がある。

「ブラウンのプセウドドキシア」こちらに既出の人物で、その私の注「Sir Thomas Browne」で本書にも言及済み。

「ウヰルキン」不詳。

「埤雅」(ひが)は北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明してある。

「風俗通」後漢の応劭(おうしょう)が著した事物考証本である「風俗通義」のこと。著者は制度・典礼・故事に詳しく、後漢末の混乱期に、それらが忘れられることを恐れて「漢官儀」などを著わしているが、本書も、その博識をもとに,当時の一般人の考えの誤りを正すために書かれたもの。もとは三十巻或いは三十二巻あったとされるが、現存するのは皇覇・正史・愆礼(けんれい。「愆」は「不正」の意)・過誉・十反・声音・窮通・祀典・怪神・山沢の十巻のみである。

高麗の忠烈王二十七年」一三〇〇年。

「Tavernier, “Travels in India,” vol.ii, p.294」十七世紀のフランスの宝石商人で旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)。一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで、この原本を見つけ、指示するページを見たが、載っていない。ページ数か、巻数の誤りか。

「Astley, “A New General Collection of Voyages and Travels,” 1745, vol.i, p.482「Internet archive」のこちらの左ページ左の中央附近に記載がある。但し、そこでは「Dogs and Fowls」とあり、「Fowls」は広義の鳥類を指す語で、カラスには限らない。]

 

 序でに言ふ、牛黃を祕密法に用ゐる事、佛敎に限らぬ。摩利支天は、もと梵敎の神で、唐朝に吾邦へ傳へた兩界曼陀羅には見えぬ。趙宋の朝に譯された佛說大摩里支菩薩經に牛黃をもつて眞言を書くと有るなど、明らかに梵敎から出た作法だ。馬鳴大士の大莊嚴經論十に、牛黃を額に塗つて我吉相をなすと云ふ者に佛僧が問ふと、吉相は能く死すべき者を死なざらしめ鞭繋らるべき[やぶちゃん注:「むちうちくくらるべき」。]者を解脫せしむ。此牛黃は牛の心肺の間より出づと答ふ。僧曰く、牛自身に牛黃を持ながら耕稼の苦を救ふ能はず、何ぞ能く汝をして吉ならしめんやと。又其よりずつと前に出來た根本說一切有部毘奈耶雜事一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を點畫する事有り。又六衆(六人の惡僧每度釋尊に叱らるゝ者)入城乞食、見諸婆羅門、以牛黃點額、所有乞求、多獲美味[やぶちゃん注:「又、六衆(六人の惡僧。每度、釋尊に叱らるゝ者。)、城に入りて食を乞ふ。諸婆羅門を見るに、牛黃を以つて額に點ず。所有(いはゆる)、乞ひ求めば、多く、美味を獲(う)。」。]六衆之を眞似(まね)して佛に越法罪を科(おは)せらると有り。密敎に牛黃を眉間に點ずるは梵敎から移れるので、原(も)と佛敎徒の所作で無かつたのぢや。牛黃梵名ゴロチヤナ、支那のみならず印度でも藥用する(Balfour, vol.ii, p.547)。諸派の印度[やぶちゃん注:選集では『ヒンズー』。]敎徒が今も額に祀神の印相を點畫する樣子一斑は Dubois, “Hindu Manners, Customs and Ceremonies,” ch. ix に就いて見るべし。

[やぶちゃん注:「馬鳴大士」馬鳴(めみょう 紀元後八〇年頃~一五〇年頃)は古代インドの仏教僧。サンスクリット語の名「アシュヴァゴーシャ」の漢訳。

「大莊嚴經論十に、牛黃を額に塗つて我吉相をなすと云ふ者に佛僧が問ふと……」「大莊嚴論經卷第一CBETA中華電子佛典協會)電子版(PDF)の124コマ目(原本でも同ページ)の頭に出る。

「根本說一切有部毘奈耶雜事一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を點畫する事有り……」「維基文庫」の同書同巻の電子化に(コンマを読点に代え、一部の漢字を正字化した)、

   *

緣處同前、時諸苾芻日初分時、執持衣鉢入城乞食、見諸婆羅門以自三指點取白土或以白灰、抹其額上以爲三畫、所有乞求多獲美好。

   *

とある。「六衆」は熊楠が添えたものか。「六衆之を眞似(まね)して佛に越法罪を科(おは)せらる」の文字列も単語で分解して検索した限りでは、同書にはない。

「Balfour, vol.ii, p.547」Internet archive」の原本ではここだが、見当たらない。

「Dubois, “Hindu Manners, Customs and Ceremonies,” ch. Ix」以前に言った通り、「Internet archive」では後代の合巻しかないので、当該部は探せない。]

2021/12/24

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(6)

 

 烏鴉共に、膽勇智慧敏捷、鳥中に傑出し、壽命も長く、又多少の間違ひは有るにせよ、親子夫妻友儕[やぶちゃん注:「ともがら」。]間の愛情も非常に厚いちふ處より、慈孝忠信の話も出來、殊に太陽に緣有る靈鳥と仰がるゝより、或は神、或は神使として專敬された。隨つて之を吉鳥とした例も少なからず、既に上文に散見するが、猶一二を擧れば、沙漠を旅行する中、鳶や烏が見當れば必ず村落が近いと云ふから之を吉相とするは必定だ(Burton, “Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,” in The York Library, vol.ii, p.294)。南史に、高昌國有朝烏、旦々集王殿前、爲行列、不畏人、日出然後散去[やぶちゃん注:「高昌國に、朝、烏、有り。旦々、王の殿前に集まり、行列を爲し、人を畏れず。日、出でて、然る後に、散じ去る。」。]。是はナポレオン三世が鷲を馴して兵士の人氣を自身に集めた如く、烏が每旦參朝するを王威の徵としたのだ。類凾に、海鹽南三里、有烏夜村、晉何準所居也、一夕群烏啼噪、適生女、他日後夜啼、乃穆帝立準女爲后之日[やぶちゃん注:「海鹽の南三里に烏夜村(うやそん)あり。晉の何準(かじゆん)の居りし所なり。一夕、群烏、啼き噪ぎ、適(たまた)ま、女(むすめ)を生む。他日、後夜(ごや)に啼く。乃(すなは)ち、穆帝(ぼくてい)が準の女を立てて后(きさき)と爲せし日なり。」。]。烏啼きも此樣(こんな)に吉(よ)いのが有うとは、お釋迦さんでも氣が附くめー。又唐書曰、柳仲郢自拜諫議後、每遷官、群烏大集於昇平里第云々、凡五日而散、詔下不復集、家人爲候、惟天下除節度、烏不復集、遂卒於鎭[やぶちゃん注:「唐書に曰はく、『柳仲郢(りうちゆうえい)、諫議[やぶちゃん注:諫議大夫(かんぎたいふ)。皇帝の誤りを諌め、国家の利害得失などについて忠告する役職。秦では「諫大夫」と称していたが、後漢の光武帝が改めてより、歴代、この名で置かれた。]を拜せしより後(のち)、官を遷(うつ)る每に、群烏、大いに昇平里(しやうへいり)の第(だい)[やぶちゃん注:屋敷。邸宅。]に集まり』云々、『凡そ五日にして、散ず。詔、下れども、又は集まらず。家人、以つて、候(しるし)と爲(な)す。惟だ、天下の節度[やぶちゃん注:節度使の任官。]を除き、烏、又は集まらず。遂に鎭に卒(しゆつ)す。」]。官が昇る前每に集まつた烏が來ないのが死亡の前兆だつたんぢや。酉陽雜俎に邑中終歲無烏、有寇、郡中忽無烏者、日烏亡[やぶちゃん注:ぱっと見でも不審だった。最後の部分、底本は「曰烏亡」で、選集もそれを馬鹿正直に訓読して『烏亡という』となっているのだが、原本の影印本を「中國哲學書電子化計劃」で確認したところ、これは「曰」ではなく、「日」の誤りであることが判明したので特異的に訂した。「邑(いふ)の中(うち)、終歲、烏、無ければ、寇(こう)[やぶちゃん注:外部から侵入してくる賊。]、有り。郡の中、忽(にはか)に、烏、無ければ、日烏(ひう)、亡(ぼう)せり。」。]。婦女の不毛同樣、有るべき物が具(そな)はらぬを不吉とするので、邦俗鼠多い家は繁昌し、火事有るべき家に燕巢はぬと信ずるに同じ。古希臘等で、鴉を豫言者とせるも必ず凶事のみ告げたので無く、昔氷州(アイスランド)では鴉鳴の通事[やぶちゃん注:翻訳者。]有て吉凶を判じ、國政を鴉鳴に諮(と)うた(Collin de Plancy, p.143)。マコレーも其セント・キルダ誌に鴉が歡呼して好天氣を豫告し中つるを稱揚した。支那の鴉經(上出)も、鴉鳴が凶事ばかりで無く、吉事をも告ぐるとしたのだ。類凾二四三と二四四に邵氏聞見錄を引き云ふ、邵康節の母、山を行(あり)き、一黑猿を見、感じて娠み、娩するに臨み、烏、庭に滿ちければ、人もつて瑞とすと。是は康節先生が色餘り黑かつた言譯に作り出た言らしいが、兎に角烏を瑞鳥とした例にはなる。又、王知遠母晝寢、夢鴉集其身、因有娠、寶誌曰、生子、爲當世文士[やぶちゃん注:「王知遠が母、晝(ひる)寢(い)ねて、鴉、其の身に集まるを夢み、因つて娠(はら)めり。寶誌曰はく、「子(をとこ)を生まば、當世の文士と爲(な)らん。」と」。]。鴉に因んで文章に黑人(くろうと)と云ふ洒落かね。ブレタンでは家每に二鴉番し[やぶちゃん注:「つがひし」。]、人の生死を告ぐといふ(Collin de Plancy, p.143)。

[やぶちゃん注:「Burton, “Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,” in The York Library, vol.ii, p.294」十九世紀の大英帝国を代表する冒険家で、人類学者・言語学者・作家・翻訳家であり、軍人・外交官でもあったリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton  一八二一年~一八九〇年:本邦では特に「アラビアン・ナイト」の英訳「The Book of the Thousand Nights and a Night」(「千夜一夜物語」 一八八五年~一八八八年出版。本編十巻・補遺六巻)の翻訳者として知られる)の「Personal narrative of a pilgrimage to Al-Madinah and Meccah」(「アルマディナとメッカへの巡礼の私的な物語」)。一八五五~六年刊で全三巻。但し、二種の英文サイトの同巻同ページを調べたが、見当たらない。

「南史」中国の正史二十五史の一つ。本紀十巻・列伝七十巻から成る。唐の李延寿の撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の時に成立した。南朝の宋・斉・梁・陳四国の正史を改修した通史で、南朝・北朝の歴史が、それぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集した史書。

「高昌國」南北朝から唐代にかけて、現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウイグル語の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)・「火州」・「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「類凾に、海鹽南三里……」「漢籍リポジトリ」の「烏三」の[428-14a]の影印画像の二行目の「村名 弓名」に現われる。

「後夜(ごや)」夜半から朝までの時間。

「穆帝(ぼくてい)」複数いるが、この場合は東晋の第五代皇帝。司馬聃(たん)。在位は三四四年~三六一年。数え十九歳で崩御している。

「準の女」何法倪。東晋の政治家で宰相に昇りつめた何充(二九二年~三四六年)の五番目の弟である何準の娘。穆帝の皇后。

「柳仲郢(りうちゆうえい)」唐代の政治家。監察御史・戸部尚書・京兆尹を歴任し、節度使となったが、後に左遷された。

「鎭」東蜀の「町」の意か。実は「唐書」の記載は「巻十八下」の「本紀第十八下」の「宣宗」の条にあるが、かなり長い。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの電子化がそれであるが(かなりよく正しく字が起こされているようである。影印本画像も見られる)、その最後の部分は、「會河南尹柳仲郢、鎭東蜀、辟為節度判官、檢校工部郎中。大中末、仲郢、坐專殺左遷、商隱廢罷、還鄭州、未幾病卒。」とあるのを熊楠は圧縮している。

「酉陽雜俎に邑中終歲無烏……」同書の巻十六の「廣動植之一序」の動植物の吉凶を羅列した中に出る。この時期の「邑」(ゆう)は現在の「県」に相当する。中国の「郡」は県を含む上位の行政単位である。従って、「県中(けんじゅう)から、一年中、カラスがいなくなった時は、外部からの侵攻がある凶兆であり、また、郡の中に、突如、カラスがいなくなった時は、太陽の中にいる三本足の神聖なカラスが死んでしまう宇宙的カタストロフを意味する。」ということである。これなどを見ると、私には、黒点の拡大による太陽の核融合の減衰ではなく、皆既日食を指しているように思われる。

「マコレー」これはイギリスの商人で官吏でもあった旧イギリス領シエラレオネの植民地主義者であったケネス・マカーリー(Kenneth Macaulay 一七九二年~一八二九年)であろう。

「セント・キルダ誌」選集はこれを雑誌名として二重鍵括弧で括っているが、これは、マコレーが書いた「The History of St. Kilda 」(「セント・キルダ諸島の歴史」)のことではないか?

「鴉經(上出)」『「二」の(2)』参照。

「類凾二四三と二四四に邵氏聞見錄を引き云ふ、邵康節の母、山を行(あり)き……」「漢籍リポジトリ」のこちらが「卷二四三」で(「人部二」)、ちらが「卷二四四」で(「人部三」)、確かに孰れにも「邵氏聞見錄」からの引用がある。しかし、前者には「一黑猿を見、感じて娠み、」に相当するものはない。複数の検索方法で同書全体も調べたが、見当たらなかった。後者には「生子三」の「庭滿慈烏」で[249-6b]に「邵氏聞見録邵康節母李氏臨娩有慈烏滿庭人以瑞是日康節生七嵗戯于庭蟻穴中别見天日雲氣徃来也」と、この後半に相当するものがある。

「王知遠母晝寢……」「王知遠」は唐代の人物のようである。「維基文庫」の「大清一統志」では(影印画像附帯)、「鴉」ではなく、「鳳」となっている。同「古今圖書集」のこちら(同前。但し、画像は下方)では、『「唐書王遠智傳」、王遠智、系本琅邪、後爲揚州人。父曇選、爲陳揚州刺史。母晝寢、夢鳳集其身、因有娠。浮屠寶誌謂曇選曰、「生子當爲世方士。」。』とあるんですけど? 熊楠先生?

「ブレタン」フランスのブレタン(Brétinか?]

2021/12/23

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(5)

 

 支那で烏を太陽の精とする。三足の烏は淮南子に最古く筆せられたと、井上哲次郞博士が大正二年五月一日の日本及び日本人で言はれた。其本文は日中有踆烏猶踆蹲也謂三足烏[やぶちゃん注:「日中に踆烏(しゆんう)有り。猶ほ踆は蹲(そん)のごときなり。『三足の烏』を謂へり。」。]だ。しかし、楚辭に羿焉彃日烏焉解羽[やぶちゃん注:底本では三字目が「畢」であるが、誤字であるので訂した。「羿(げい)は焉(いづく)んぞ日(ひ)を彃(い)たる 烏(からす)は焉んぞ羽(はね)を解(と)せる。」。]とあり、准南子に堯時十日竝出草木焦枯堯命羿仰射十日其九烏皆死堕羽翼[やぶちゃん注:「堯の時、十の日(ひ)、竝び出でて、草木、焦げ枯る。堯、羿に命じて、十の日を、仰ぎ射せしむ。その九の烏、皆、死して、羽翼を墮(お)とす。」。]と出るを見ると、三足は兎に角、烏が日に棲むちう迷信は、漢代よりはずつと古く有つて、戰國の時既に記されたのだ。明治四十五年八月一日の『日本及日本人』[やぶちゃん注:一九一二年。七月三十日に大正に改元している。但し、これは雑誌のバック・ナンバーを言ったもので、刊行物は事実、改元以前に発行されているから、これで正しいのである。]に予が言つた通り、太陽に烏有りとは日中の黑點が似たからだが、其上に烏が定つて[やぶちゃん注:「きまつて」。]曉を告げるからで有る。バツヂ曰く、古埃及人の幽冥經(ブツク・オヴ・ゼ・デツド)に、六七の狗頭猴(チノケフアルス)旭に對(むか)ひ手を擧げて呼ぶ處を畫けるは、曉の精で日が地平より上り畢れば化して狗頭猴と成ると附載した。蓋し亞非利加の林中に此猴日出前每に喧呼するを曉の精が旭日を歡迎頌讃すると心得たるに由ると。是れ頗る支那で烏を日精とするに似居る。予屢ば猴を畜(か)うたのを觀ると、日が暮れば忽ち身を屈め頭を垂れて眠り了り何度起(おこ)すも暫くも覺(さめ)居らず、扨曉近く天が白むと歡び起きて大噪(おほさは)ぎす。日吉の神が猴を使物とするは此由であらう。猴と烏は仲惡い者らしく、古今著聞集に、文覺淸瀧川の上で猴謀つて烏を捕へ使ひ殺すを見たと載せ、Tavernier, “Travels in India,” trans. Ball, 1889, vol.ii, p.294 に、ベンガルで母に乳付(ちゝづ)かぬ子を三日續けて朝から晚(くれ)迄樹間に露(さら)し、なほ乳付かねば之を鬼子(おにご)と做(な)して恒河(ガンジス)に擲入(なげい)る。斯く曝さるゝ間烏來つて眼を啄き拔く事多く、爲にこの地方に瞎(かため)又盲人(めくら)多し。然るに猴多き樹間に曝された兒は此難を免る。猴は甚だ烏を惡み、其巢を見れば必ず之を覆して卵を破る故、烏が其邊に巢ぬ[やぶちゃん注:「すくはぬ」。]からだと出づ。日吉(ひえ)と熊野と仲惡きに(嚴神鈔)、其使ひ物の猴と烏と仲惡きも面白い。但し日吉山王利生記に烏も日吉の使と有るは、例の日に緣あるからだらう。鹽尻四一、伊勢矢野の神香良洲(からす)の御前は天照大神の妹と云ふも、日と烏に因んだのか。古今圖書集成の邊裔典卷二八に、朝鮮史略曰、新羅東海濱有二人、夫曰迎烏、妻曰細烏、迎烏漂至日本國小島主、其妻細烏尋其夫、漂至其國、立爲妃、人以迎烏細烏爲日月之精[やぶちゃん注:「「朝鮮史略」に曰はく、『新羅の東海の濱に、二人、有り。夫は迎烏と曰ひ、妻は細烏と曰ふ。迎烏、漂ひて日本國の小島に至り、主と爲(な)る。其の妻細烏は、其の夫を尋ね、漂ひて其の國に至り、立ちて妃と爲る。人、迎烏・細烏を以つて、「日月の精」と爲す』と。」。]。又新羅の官制十七品の中に、大烏・小烏有り、何とか烏に關する名か知らぬ。古波斯から起つて一時大に歐州に行はれたミツラ敎で、光の神ミツラ自ら聖牛を牲する雕像に、旭日の傳令使として鴉を附した(“Encyclopaedia Britannica,” vol.xviii, p.623)。其像は予親(まのあた)り視た事有り。寫は Seyffert, “A Dictionary of Classical Antiquities,” trans., 1908, p.396 に出づ。Frobenius, “The Childhood of Man,” 1909, pp.255-6 に、鴉死人の靈を負て太陽に送り付ける所を西北米土人が刻んだ樂器の圖有り。ツリンキート人は最初火を持來り、光を人に與へしは烏と信ず(“Encyc. Brit.,” ii, 51)。西南濠州諸部土人の傳說にも烏初めて火を得て人に傳へた話が多い。例せばヤラ河北方の古傳に、カール、アク、アール、ウク女獨り火を出す法を知れど他に傳へず、薯蕷(やまのいも)を掘る棒の端に火を保存す。烏(ワウング)之を取らんとし、其の蟻の卵を嗜むを知れば、多くの蛇を作つて蟻垤(ありづか)下に置き、かの女を招く。女少しく掘るに蛇多く出づ。烏敎へて彼棒で蛇を殺さしむ。乃ち蛇を打つと棒より火墮(おつ)るを、烏拾ひ去つた。大神パンゼル、彼女を天に置き星となす。烏火を得て吝みて[やぶちゃん注:「しわみて」。]人に與へず。黑人の爲に食を煮てやるはよいが、賃として最好の肉を自ら取り食ふ。大神大いに怒り、黑人を聚めて烏に麁しく[やぶちゃん注:「あらあらしく」。]言(ものい)はしむ。烏瞋(いか)つて黑人を燒亡せんとて火を抛散らす。黑人各の[やぶちゃん注:「おのおのの」。]火を得て去り、チユルト、チユルトとヲラル[やぶちゃん注:選集ではそれぞれ『チェルト』『テラル』と表記する。]の二人、乾草もて烏を圍み火を附けて焚殺すと有つて、此烏も星と化(な)つて天に在るらしい(Smyth, “The Aborigines of Victoria,” 1878, vol.ii, pp.434, 459)。其他鷲と烏合戰物語など、西南濠州の神話に烏多く參加せり。烏が火を傳ふとは、日と火と日と烏が相係るに由つたらしく、支那にも武王紂を伐つ時、渡孟津、有火自天、止於王屋、爲赤烏(尙書中候)、惑熒火精、生朱烏(抱朴子)、「蜀徼有火鴉、能銜火(本草集解)[やぶちゃん注:『「孟津を渡る。天より、火、有り、王屋に止まり、赤烏と爲れり。」(「尙書中候」)、熒惑(けいわく)は火の精にして、朱烏を生む。」(「抱朴子」)、「蜀の徼(さかひ)に火鴉有り、能く火を銜む。」(「本草」集解)。』。]など、類凾四二三に引き居り、中山白川營中問答の講談を幼時聽きたるに、此事の起は、白烏を朝廷へ獻じたのを郊外に放つと忽ち火に化し、京師火災に及んだからと言つた。酉陽雜俎に、烏陽物也。感陰氣而翅重、故俗以此占其雨否[やぶちゃん注:「烏は陽物なり。陰氣を感ずれば、翅、重し。故に、俗、此れを以つて其の雨ふるや否やを占ふ。」。但し、この「酉陽雜俎」出典とするという記載は不審。後注参照。]。倭漢三才圖會に鴉鳴有還聲者、謂之呼婦、主晴、無還聲者、謂之逐婦、主雨[やぶちゃん注:「鴉、鳴きて、還(もど)る聲有れば、之れを『呼婦』と謂い、晴を主(つかさど)る。還る聲無ければ、之れを」『逐婦』と謂ひ、雨を主る。」。]という支那說を引き、又云く、按夏月鴉浴近雨、每試然、凡將雨氣鬱蒸、故浴翅者矣[やぶちゃん注:「按ずるに、夏月、鴉、浴すれば、雨ふること、近し。每(つね)に試むるに、然り。凡そ將に雨ならんとすれば、氣、鬱蒸(うつじよう)す。故に翅を浴する者なり。」。但し、この「倭漢三才圖會」出典とするという記載は不審。後注参照。]。こんな譯にも由るか、濠州で烏初めて雨を下した[やぶちゃん注:「ふらした」。]と信ずる土人有り(Smyth, ii, 462)。

[やぶちゃん注:「淮南子」本邦の学者間では「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。当該箇所は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像の一行目で見られる。右の活字は機械翻字で、どうしようもなくひどいので参照してはダメ。

「井上哲次郞」国家主義者であった哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)の通称。東京帝国大学で日本人初の哲学教授(明治二十三(一八九〇)~大正一二(一九二三)年)となった(“metaphysical”の訳語「形而上」は彼になるもの)。文学史では近代詩集の濫觴として必ず覚えさせられる(読んでも頗る退屈な非詩的内容なのに)「新体詩抄」を、外山正一・矢田部良吉らとともに明治一五(一八八二)年に刊行、「孝女白菊詩」などの漢詩でも有名で、当時、現役の東大教授である。

「大正二年」一九一三年。

「日本及び日本人」正しい表記は『日本及日本人』。月刊の評論雑誌。明治二一(一八八八)年四月、三宅雪嶺・井上円了・杉浦重剛ら政教社同人により創刊された『日本人』を、明治四〇(一九〇七)年に改題したもの。当初から西欧主義に反発した国粋主義を主張し、後、雪嶺の個人雑誌的色彩を濃くした(但し、大正一二(一九二三)年の大震災罹災直後に運営方針から内部で対立し、同年秋に雪嶺は去った)。昭和二〇(一九四五)年二月、終刊。戦後の昭和四一(一九六六)年一月に復刊したものの、時勢に合わず、四年後には廃刊となった。

「踆烏」太陽の中に蹲っているとされた、三本足の鴉。

「蹲」大修館書店の「廣漢和辭典」では「蹲」の意義の中で、「鷷」に同じとするので、そちらを引くと、「爾雅」に西方に棲息する雉とある。しかしこれは、何だか、「踆烏」が豆鉄砲喰らったような感じで、不服であった。そこでさらに調べると、研究者がおられた。飯塚勝重氏の論文「三足烏原像試探」(PDF・『アジア文化研究所研究年報』四十八号・二〇一四年二月発行・「東洋大学学術情報リポジトリ」のここでダウン・ロード可能。画像も豊富)である。詳しくはそちらを見られたいが、飯塚氏は「踆」を「蹲」と似ているとした記載自体を怪しいと考えておられる。「廣漢和辭典」の親分である「大漢和辞典」を引いた後に、「蹲」について「蹲鴟」(そんし)「鴟蹲」の語を掲げ、後者は本来は『うずくまるフクロウを意味する』とされる(口絵有り)。以下の「楚辞」の「烏」も考証されておられるので、是非、読まれたい。

「羿焉彃日烏焉解羽」「楚辞」の長大な詩「天問」の地上の怪異に対する疑問を挙げる段の終りにある、

   *

鯪魚何所

鬿堆焉處

羿焉彃日

烏焉解羽

 鯪魚(りようぎよ)は 何(いづ)れの所ぞ

 鬿堆(きたい)は 焉(いづ)れの處ぞ

 羿(げい)は 焉(いづ)くんぞ日を彃(い)たる

 烏(からす)は 焉くんぞ羽(はね)を解きたる

   *

である。訓読は集英社「漢詩大系 第三巻 楚辭」(藤野岩友著・昭和四二(一九六七)年)に拠った。

・「鯪魚」は清の呉任臣の「山海経広注」で、「山海経」の「海内北経」にある「陵魚、人面、手足魚身、在海中。」の注で、この屈原の「天問」の「鯪魚」をそれであるとする(「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像を参照)。なお、私の『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』でも言及され、私が相当にリキを入れた注を附してあるので、是非、読まれたい。ただそこに私が張った多くの画像を見るだけでも、人魚フリークにはすこぶる楽しいはずである。序でに、私の「大和本草附錄巻之二 魚類 海女 (人魚)」もどうぞ。

・「鬿堆」「山海経」の「東山経」に「北號之山」に、「有鳥焉、其狀如鷄而白首、鼠足而虎爪、其名曰鬿雀、亦食人。」とあるのが、それらしい。

・「羿」当該ウィキによれば、『中国神話に登場する人物』で、『弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である』。『羿の伝説は』「楚辞」のこの「天問」『篇の注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、大羿射日)が知られるほか、その後の時代の活躍を伝える話』(夏の時代の別な羿のことであるが、後代のそれは、この羿の伝説の派生的なものとも考えられているようだが、ここでは省略する)『も存在している』。『日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており』「将門記」の石井の夜討ちの場面や、「太平記」(巻二十二)『などに弓の名手であったことや』、『太陽を射落としたことが引用されている』。『天帝である帝夋』(しゅん)『(嚳』(こく)『ないし舜と同じとされる)には羲和』(ぎわ/ぎか)『という妻がおり、その間に太陽となる』十『人の息子(火烏)を産んだ。この』十『の太陽は交代で』、一日に一人ずつ、『地上を照らす役目を負っていた』。『ところが』、『帝堯の時代に』、十『の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋は』、『その解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓』(とうきゅう)『)と白羽の矢を与えた』。『羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが』、『効果がなかった』ため、『仕方なく』、一『つを残して』九『の太陽を射落とした。これにより』、『地上は再び元の平穏を取り戻したとされる』。『その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣』『を退治し、人々にその偉業を称えられた』。しかし、『自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり』、『羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬を』二『人分もらって帰るが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。しかし、羿を裏切ったむくいで体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことに』なってしまった(嫦娥は道教で月の神となっている)。『なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある』。『その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」』(「逢蒙殺羿」)と言うようになった』とある。

・「烏(からす)は 焉くんぞ羽(はね)を解きたる」これは、まさに太陽の中に(三本足の奇体なかどうかは知らぬが)烏がさわにいたのに、羿が九つの太陽を射落とした結果、九割もの鴉は羽を落して消えてしまったという牽強付会をすると、何となく、意味が通ずるようなきがしてくる。そんなことを妄想しながら、検索していると、山のキノコ氏のブログ「雑想庵の破れた障子」の「人類は紀元前の大昔から、太陽黒点の消長と、温暖化との相関関係に気付いていた! (前篇)」にそれっぽい引用が出てくるのを見出した。さらに、同記事の(後篇)を読むに、『射落とした太陽からカラスの羽が落ちてくるか、あるいは太陽からカラスの群れが飛び出してあちこちに雲散霧消する。つまり、カラスがいなくなったのである。』とあった。而して、熊楠と同じく、この太陽の中の黒いカラスとは、太陽の黒点を指す、とあった。以下、『太陽黒点は英語では sunspot=太陽のそばかす、ほくろでありますが、世界各地に太陽にカラスがいるぞという伝承があるようで、東アジアでは太陽に棲むカラスとは太陽黒点のことです。そもそも太陽は』二十七『日 (地球日で) の周期で自転しているから黒点は日々移動していくし、太陽活動の活発さに応じて巨大になったり消滅したりして変幻自在であります。で、動き回るカラスに見えたのでしょう。東アジアの太陽に棲むカラスはたいていは』三『本足ですが、これは数字には陰の数字と陽の数字があり、太陽のカラスには陽の数字の』三『を当てたものだと考えられています。しかし、巨大肉眼黒点が』三『本足のカラスそっくりの形状であった可能性もありえます。現代人は目が悪い人が多いですが、古代人は視力の高い人が多かったと考えられ、肉眼黒点の形状を細かに観察したことであろうと思われます』とあって、更に、『日本がまだ縄文時代のころ』、『中国大陸では既に農耕がはじまっていて』、一『日の仕事をおえた人々が夕陽を眺めて、太陽のカラスを観察していたのが』三『本足のカラスの起源なのです。古代には』、『まだ近代的な意味での天文学も植物学も地質学もありませんが、現代人よりもはるかに身近な 「自然観察」 をしていたことは想像に難くありません』とあった。「楚辞」のこの一句を解釈するには、やや説明しきれていない気はするものの、非常に面白い考証である。是非、読まれたい。

「明治四十五年八月一日の『日本及日本人』に予が言つた」当該記事に当たることが出来ない。

「バツヂ」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年)。古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた。既に「南方熊楠 小兒と魔除 (2)」「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6」に登場している。

「幽冥經(ブツク・オヴ・ゼ・デツド)」古代エジプトで冥福を祈り死者とともに埋葬された葬祭文書「死者の書」。パピルスなどに、主に絵とヒエログリフで、死者の霊魂が肉体を離れてから、死後の楽園アアルに入るまでの過程・道標を描いたもの。参照した当該ウィキによれば、『書名をラテン文字化』したものを、『日本語に直訳すると「日下出現の書」または「日のもとに出現するための呪文」となる』。「死者の書」という名称は、一八四二年に『プロイセン王国のエジプト学者、カール・リヒャルト・レプシウスがパピルス文書を』「Ägyptisches Totenbuch」(「エジプト人の死者の書」)と『名付けて出版したことで、英訳の』「Book of the Dead」などとして『知られるようになった』とある。

「狗頭猴(チノケフアルス)」漢字文字列からは、「狗の頭部を持った猿」で、エジプト神話に登場する冥界の神であるアヌビス(Anubis)の異名かと思ったが、不詳。綴りが判らん。Chinochephalus じゃ、何か学名みたいだし。以下の熊楠の言い方じゃ、アフリカにモデルになった猿がいるように書いてある。識者の御教授を乞うものである。

「古今著聞集に、文覺淸瀧川の上で猴謀つて烏を捕へ使ひ殺すを見た」巻第二十の「魚蟲禽獸」篇にある「文覺上人、高尾にて三匹の猿、烏を捕りて鵜飼を摸するを見る事」である。以下に電子化する。「新潮日本古典集成」版を参考に、恣意的に漢字を正字化した。

   *

 文覺上人、高雄興隆の比、見まはりけるに、淸瀧川のかみに、大きなる猿、兩三匹ありけるが、一つの猿、岩のうへにあふのきふして、うごかず。いま二匹は、たち退きて居たりけり。上人あやしみ思ひて、かくれて見ければ、烏一兩とびきて、この寢たる猿のかたはらに居たり。しばしばかりありて、猿の足を、つつきけり。猿、なほ、はたらかず、死にたるやうにてあれば、烏、しだいにつつきて、うへにのぼりて、目をくじらむと、しけるとき、猿、烏の足をとりて、おきあがりにけり。その時、のこりの猿二匹、いできて、ながき葛(かづら)をもちて、烏の足に、つけてけり。烏、飛びさらんとすれども、かなはず。さて、やがて河にをりて、烏をば、水になげ入れて、葛のさきをとりて、一匹は、あり、いま二匹は、河上より、魚をかりけり。人の、鵜、つかひけるをみて、魚をとらせむとしけるにや。烏を鵜につかふためし、はかなけれども、こゝろばせ、ふしぎにぞ思ひよりたりける。烏は、水になげ入られたれども、その益なくて、しにゝければ、猿どもは、うちすてて、山へいりにけり。「不思議なりし事、まのあたり見たりし。」とて、彼上人、かたりけるなり。

   *

「Tavernier, “Travels in India,” trans. Ball, 1889, vol.ii, p.294」十七世紀のフランスの宝石商人で旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)。一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。「Internet archive」で、この原本を見つけ、指示するページを見たが、載っていない。ページ数か、巻数の誤りか。

「嚴神鈔」室町時代の成立と推定される山王七社と諸末社について述べた書。「東京大学史料編纂所」公式サイト内のこちらで、「續群書類從 四十九」のそれが視認出来る。但し、写本。

「日吉山王利生記」(ひえさんのうりしょうき:現代仮名遣)は「山王絵詞」とも呼ぶが、詞書のみが伝わる。鎌倉時代、文永年間(一二六四年~一二七五年)の成立と推定される。

「鹽尻」江戸中期の国学者天野信景(さだかげ 寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)の膨大な随筆(百七十巻以上が現存すると思われる)。元祿・宝永・正徳・享保(一六八八年~一七三六年)の約四十年間に亙って、歴史・地理・言語・文学・制度・宗教・芸術などについての見聞や感想を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクション当該箇所が読める。ここの左丁の上段の「○伊勢國壹志郡矢野に祭る所の香良洲の……」の条で、上段その「香良洲(からす)の御前は天照大神の妹」という下りは上段後から四行目に出現する。

「古今圖書集成の邊裔典卷二八に、朝鮮史略曰、新羅東海濱有二人、夫曰迎烏、妻曰細烏、迎烏漂至日本國小島主、其妻細烏尋其夫、漂至其國、立爲妃、人以迎烏細烏爲日月之精」「古今圖書集成」(清の類書。現存する類書(百科事典)としては、中国史上最大で、巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」)を中國哲學書電子化計劃」の影印本で探したが、眼がチカチカしてくるばかりなので、引用ではなく、原本の「朝鮮史略(李徴朝鮮末期に成立した朝鮮穆祖から宣祖朝までの略史。作者不詳)を探したところ、「漢籍リポジトリ」のこちらにあった。[001-17b]の画像と電子化を見られたい。

「新羅の官制十七品」新羅(紀元前五七年~紀元後 九三五年)官位と職名であろう。

「ミツラ敎」ミトラ教・ミトラス教・ミスラス教とも。古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教であるが、これは、その起原は古代のインド・イランに共通するミスラ(ミトラ)神の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後、形を変えたものと考えられることが多い。 紀元前一世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現われ、紀元後二世紀までには、ミトラ教としてよく知られる密儀宗教となった。ローマ帝国治下で一世紀より四世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い(当該ウィキに拠った)。

「“Encyclopaedia Britannica,” vol.xviii, p.623Internet archive」の原本のここ

「Seyffert, “A Dictionary of Classical Antiquities,” trans., 1908, p.396」ドイツの古典哲学者でローマが専門であったオスカル・セイフェルト(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の著作。Internet archive」で版古いが(一八九五年)、同ページにあった。キャプションは「ミトラスの生贄」で、左上方の崖の上にカラスが確かにいる

「Frobenius, “The Childhood of Man,” 1909, pp.255-6」レオ・ヴィクトル・フロベニウス(一八七三年~一九三八年)は、ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius)の「人類の幼年期」。Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られ、その下方の「241」図が「鴉死人の靈を負て太陽に送り付ける所を西北米土人が刻んだ樂器の」それだ。素敵だ! 気に入ったので、スクリーン・ショットでキャプションごと撮り、以下に掲げる。因みに、この後にも同様な魅力的なそれらの図が見られる。必見!

 

Tamasiiwookurukarasunohue

 

「ツリンキート人は最初火を持來り、光を人に與へしは烏と信ず(“Encyc. Brit.,” ii, 51)」Internet archive」の原本を確認、そこに北西アメリカの「Thlinkit indians」とあった。調べて見ると、所謂、イメージする北米インディアンよりも、アラスカに分布する人々のようである。和文記載が乏しく、よく判らない。

「ヤラ河」ヤラ川(Yarra River)はオーストラリアのビクトリア州南部を流れる川で、ヤラ・レンジズ国立公園の湿地帯に源を発し、メルボルンの中心地区を流れ、ポート・フィリップ湾のメルボルン港に注ぐ。流路延長は約二百四十二キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。その Yarra Ranges National Park 附近のアボリジニーの伝承である。

「Smyth, “The Aborigines of Victoria,” 1878, vol.ii, pp.434, 459」オーストラリアの地質学者で、作家・社会評論家でもあったロバート・ブラフ・スミス(Robert Brough Smyth 一八三〇年~一八八九年)の作品。Internet archive」の原本の「434はここで、下方に火の伝承のことが短く記されているが、そこにはその伝説ついては、第一巻の「461」ページに指示してある(二巻の「459」ページは目録で違う)。そこで、第一巻を見ると、「458」から「火」の項があり、「459に熊楠の示した「カール、アク、アール、ウク女」(原書では「Kar-ak-ar-ook」と綴る)の名が二行目に出現する。ここだ!

「尙書中候」緯書(漢代に盛行した讖緯説を集大成した書。先秦の頃より流行していた未来を予言する讖(しん)と、陰陽五行・災異瑞祥・天人相感などの諸説によって経書を解釈しようとする緯とが結合した讖緯説は、図讖・図緯・緯候などと呼ばれて前漢末に隆盛を極めた。それが後漢の初めに至って、政権と結び付き、王莽の重んじた古文経に対抗して今文(きんぶん)学説として整理の気運が生じ、「乾鑿度」・「考霊曜」・「元命包」のように三字の編名を冠するいわゆる「緯書」が成立した。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)の一書。散佚して、引用でしか見られない。

「蜀徼有火鴉、能銜火(本草集解)」これは李時珍の「本草綱目」の巻四十九「禽之三」の「慈烏」の「集解」の最後にある。「漢籍リポジトリ」のこちらの[114-10b]の影印画像を見られたい。

「類凾四二三」以上の三つの引用は、「漢籍リポジトリ」のこちらの「鳥部六【烏・鵲】」の「烏一」及び「烏二」にバラバラに出るものを熊楠がチョイスしてセットにしたもの。漢文を熟語の文字列でそれぞれ検索されたい。

「中山白川營中問答」「中山」は公卿議奏に任じられた中山愛親(なるちか 寛保元(一七四一)年~文化一一(一八一四)年:寛政元(一七八九)年に光格天皇が父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の尊号をおくることを幕府に諮ったが、老中松平定信の反対でならなかった「尊号一件」で知られた人物。同五年に幕府の召喚を受け、一件紛糾の責任をとわれて閉門百日、議奏を解任された)で、「白川」白河公松平定信であろう。国立国会図書館デジタルコレクションに「勤王 繪本中山というのがあり(大谷信道編・明治二〇(一八八七)年広知社刊)、問答が幾つかあるが、ざっと見た限りでは、この話はないようだった。「白烏を朝廷へ獻じたのを郊外に放つと忽ち火に化し、京師火災に及んだ」というのを、幾つかの単語の組み合わせで検索したが、これもヒットしなかった。識者の御教授を乞う。

「酉陽雜俎に、烏陽物也……」この以下の文字列は、「酉陽雜俎」には見当たらない。しかし、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」で、良安は、「三才圖會」から引用して、

   *

「三才圖會」に云はく、『鴉、異を見れば、則ち、噪(さは)ぐ。故に、人、烏の噪ぐを聞くときは、則ち唾(つばきは)く。性(せい)、樂にして空曠(くうくわう)。涎(よだれ)を傳(つた)へて孕(はら)む。烏の飛-翅(と)ぶを候(うかが)ひて、天、將に雨(あめふ)らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。陰氣を感じて重(おも)し。故に、俗、此れを以つて雨を占ふ。』と。

   *

とあるのを、熊楠は勘違いしたものか?

「倭漢三才圖會に鴉鳴有還聲者……」これも「和漢三才図会」には、幾つかの項を調べたが、どこにも見当たらない。気になるのは、「鴉鳴有還聲者、謂之呼婦、主晴、無還聲者、謂之逐婦、主雨」「という支那說を引き」という熊楠の言い方が、必ずしも、引用でない点で、中文サイトの「古今圖書集成」のこちらの「論飛禽」に(活字化を参考に画像で起こした)、

   *

諺云、「鴉浴風、鵲浴雨、八八兒洗浴斷風雨。」。鳩鳴有還聲者、爲之呼婦主晴、無還聲者、爲之逐婦主雨。鵲巢低主水、高主旱。俗傳、鵲意既預知水。則云、終不使我沒殺、故意愈低、既預知旱、則云、終不使我曬殺、故意愈高。「朝野僉載」云、鵲巢近地、其年大水、海燕忽成群而來、主風雨。諺云、「烏肚雨白肚風赤、老鴉含水叫。」。雨則未晴、晴亦主雨、老鴉作此聲者亦然。鴉若叫早主雨、多人辛苦。叫晏晴、多人安閒。農作次第、夜間聽九逍遙鳥叫卜風雨。諺云、「一聲風、二聲雨、三聲四聲斷風雨。」。鸛鳥仰鳴則晴、俯鳴則雨。鵲噪早報晴明曰乾鵲。冬寒天雀群飛翅聲重必有雨雪。鬼車鳥卽是九頭蟲、夜聽其聲出入、以卜晴雨。自北而南、謂之出窠、主雨。自南而北、謂之歸窠、主晴。「古詩」云、「月黑夜深聞鬼車 吃鷦叫」。主晴。俗謂之、「賣蓑衣𪃮叫。」。諺云、「朝𪃮晴、暮𪃮雨。」。夏秋間雨陣將至、忽有白鷺飛過、雨竟不至、名曰截雨。家鷄上宿遲、主陰雨。燕巢做不乾淨、主田内草多、母鷄背負鷄鶵、謂之鷄䭾兒、主雨【𪃮字査字典不載。乃方言也。音屋字亦係俗字。】

   *

とあって、内容と対象の鳥に異同があるが、その諺に酷似する部分があることが判る。さらに、以下の「按夏月鴉浴近雨、每試然、凡將雨氣鬱蒸、故浴翅者矣」であるが、「按」は良安の自身の解説をする際の定番の謂いではあり、「自分で試してみたが、その通り。」というのも良安がよく使う謂い方なのではあるのだが、見当らないのである。調査は続行する。識者の御援助も乞いたい。

「濠州で烏初めて雨を下したと信ずる土人有り(Smyth, ii, 462)」これも第一巻の誤り。Internet archive」の原本のここ

2021/12/21

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(4)

 

 コランド、プランチー(上に引いた書、一四三頁[やぶちゃん注:「一四三頁」は原書のページであろう。「二」の(2)』の「Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347」の私の注を参照。])は、古希臘の詩聖ヘシオドスの言を引いて、人の極壽は九十七歲なるに、烏は八百六十四歲、鴉は其三倍卽ち二千五百九十二歲生きると述べた。印度にも烏鴉を長壽としたは、法華文句に文珠問經を引いて八憍を八鳥に比せるに、壽命憍如烏、烏命長不死[やぶちゃん注:「壽命憍(じゆみやうきよう)は烏のごとし、烏、命長くして、死せず。」。]、烏は死なぬ物と信じたのだ。五雜俎に舊說烏性極壽、三鹿死後、能倒一松、三松死後、能倒一烏、而世反惡之何也[やぶちゃん注:「舊說に、烏の性、極めて壽(いのちなが)し。三鹿(さんろく)死して後、能く一松(いつしやう)を倒し、三松、死して後、能く一烏を倒す。而るに、世、反(かへ)つて之れを惡(にく)むは何ぞや。」。]。抱朴子に丹を牛肉に和(ま)ぜて未だ毛羽を生ぜぬ烏に呑ませると成長して毛羽皆赤し、其を殺し陰乾(かげぼし)にし擣(つき)服(の)む事百日すると五百歲の壽を得と載せたのも、烏極めて壽(いのちなが)しちう俗傳から割り出したのぢやろ。蘇格蘭(スコツトランド)の古諺にも、「犬の命三つ合せて馬の命、馬の命三つ合わせて人の命」、其から鹿鷲檞[やぶちゃん注:「かしは」。]と三倍宛で進み增す。是には烏は無いが東西共に鹿を壽(いのちなが)い物とする證には立つ。又人が馬と鹿の間にあるも面白い(John Scoffern, “Stray Leaves of Science and Folk-Lore,”  1870, p.462)。予は烏を畜(か)うた事無いが、屢ば烏を銃つた[やぶちゃん注:「うつた」。]のを見ると、頭腦に丸が入つて居ても半日や一日は生き居り、甚だしきは吾輩が獲物の雉で例の强者(つはもの)の交りを始め、玉山傾倒に臨んで烏でもいゝからモー一升などと見に行くと、苦勞墨繪(くろうすみゑ)のと洒落(しやれ)て飛び去つた跡で、折角の興も醒めた事が數囘ある。何しろ非常に生力の强いものだから、隨分長生もさしやんせう。然し八百歲の二千五百歲のなどは大法螺で、Gurney, “On the Comparative Ages to which Birds Live,” Ibis, 1899, p.19 に、鳥類の命數を實査報告せるを見ると、天鵞(はくてう)と鸚哥(いんこ)は八十歲以上、鴉と梟は八十に足らず、鷲と鷹は百年以上、駝鳥は體大きい割に夭(わかじに)で最高齡が五十歲と有る。兎に角壽命が短かゝらず妙に死人の在處へ飛んで來るより、衆望歸仰する英雄が烏と成つて永存するてふ迷信も間(まゝ)在る。英國の一部でアーサー王鴉と成つて現在すと信じ(Cox, op.cit., p.71)、獨逸の傳說フレデリク、バルバロツサ帝の山陵上を烏が飛廻る間は帝再び起きずと云ひ(Gubernatis, vol.ii, p.235)、フキニステラの民は其王グラロン娘ダフツト俱に鴉に化つて現存すと傳ふ(Collin de Plancy, p.143)。

[やぶちゃん注:「八憍」の「憍」は仏教で言う煩悩の一つである「驕」の正字。「法華文句」第六に載り、「オンライン版仏教辞典」のこちらの「憍」によれば、『心所(心のはたらき)の一つ。自己に属するものについて自らの心のおごりたかぶること。倶舎宗では、小随煩悩地法の一つ。唯識宗では、小随煩悩の一つに数える〔他に対して心のおごりたかぶるのは慢という〕。』とし、その名数として、盛壮憍(元気盛んなことの誇り)・姓憍(血統の勝れていることの誇り)・富憍・自在憍(自由の誇り)・寿命憍(長寿の誇り)・聡明憍・行善憍(善行の誇り)・色憍(容貌の誇り)を挙げている。

「John Scoffern, “Stray Leaves of Science and Folk-Lore,”  1870, p.462)」ジョン・スコッファーン(一八一四年~一八八二年)はイギリスの外科医で、ポピュラー・サイエンスの著作をものしている作家でもあった。「科学と民間伝承の落ち葉籠」(或いは「飛花落葉集」)とでも訳すか。Internet archive」で原本の当該箇所が視認出来る

「Gurney, “On the Comparative Ages to which Birds Live,” Ibis, 1899, p.19」ジョン・ヘンリー・ガーニー・ジュニア(一八四八年~一九二二年)はイギリスの鳥類学者。父も政治家であったが、鳥類学者としての方がよく知られていた。「鳥類の寿命の比較年齢について」か。

 「Cox, op.cit., p.71」『「二」の(2)』参照。熊楠の指示するのは、Internet archive」の当該原本のここ

「獨逸の傳說フレデリク、バルバロツサ帝の山陵上を烏が飛廻る間は帝再び起きずと云ひ(Gubernatis, vol.ii, p.235)本篇で既出既注のコォウト・アンジェロ・デ・グベルナティスの「動物に関する神話学」。選集もこのページ数であるが、調べたところ、どうも違う。名前の「Frederic Barbarossa(中世の神聖ローマ皇帝フリードリヒⅠ世(Friedrich I. 一一二二年~一一九〇年)でフル・テクストを検索したところ、「253」ページの誤りであることが判明した。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここの下部の注がそれである。]

「フキニステラ」選集では『フィキニステラ』。不詳。

「王グラロン」「娘ダフツト」不詳。]

2021/12/20

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(3)

 

 淵鑑類凾四二三に、俗云鴛交頸而感烏傳涎而孕。[やぶちゃん注:「俗に云ふ、『鴛(をしどり)は頸を交へて感じ、烏は涎(よだれ)を傳へて孕む。』と」。]。プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交はる故に、其卵を食つた婦人は口から產すると云ふ。アリストテレス是を駁して、鴉が鳩同樣雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言つたと有る。熊楠屢烏の雌雄相愛して口を接するを見る。又自宅に龜を十六疋畜(かひ)有るが、發情の時雄が雌に對して啄き始めると雌も啄き返す。喙衝き到るを避けては啄き、啄かれては避ける事、取組前の力士の氣合を見る如し。交會は水中でするを、龍動(ろんどん)の動物園で一度見た。予の庭のなどは泥水故決して見えぬ。斯る處を誤認したと見えて、化書(類凾四四〇所引)に牝牡之道、龜々相顧神交也[やぶちゃん注:「牝牡(ひんぼ)の道、龜と龜の相顧みるは神交するなり。」。]と載す。又佛經に接吻を鳴と書いた處多い。例せば根本說一切有部毘奈耶三九に、鄔陀夷覩童女、顏容姿媚、遂起染心、卽摩觸彼身、嗚唼其口[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに、「嗚唼」である。「鄔陀夷(うだい)、彼(か)の童女の顏容(かんばせ)姿媚(あでや)かなるを覩(み)て、遂に染心(ぜんしん)を起こし、卽ち彼(か)の身(からだ)を摩(な)で觸(さは)り、其の口を嗚唼(おしやう)す」。「嗚唼」は「接吻」のこと。]。四分律藏四九に、時有比丘尼、在白衣家内住、見他夫主、共婦嗚口、捫摸身體、捉捺乳[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに、「嗚」である。「時に比丘尼有り、白衣(びやくえ)の家内に在りて住み、他(ほか)の夫主の、婦と共に、口を嗚(お)し、身體(からだ)を捫(な)で摸(さは)り、乳を捉みて捺(お)すを見たり。」。とある中文サイトで、この「四分律藏」の当該部分を引用し、『「嗚」字是中國人最早用來形容「接吻」的一個專門性的動詞』と記してあった。]。康煕字典、嗚の字に接吻の義を示さぬが、想ふに烏は雌雄しばしば口を接して愛を示すから、譯經者が烏と口とより成る嗚の一字で接吻を表はしたのだろ。是はさして本篇に係らぬが近來の大發明故洩し置く。扨プリニウス曰く、諸鳥の中、烏(コルニクス)ばかりが、其子飛び始めて後暫く之を哺ふ[やぶちゃん注:「やしなふ」。]。鴉(コルヴス)は子が稍や長ずれば逼つて飛去しむと。本邦の烏屬中にも稍長じた子を追ふのと哺ふのと有りや。閑多き人の精査を冀ふ[やぶちゃん注:「ねがふ」。]。甲子夜話二三に出た平戶安滿嶽の神鴉、常に雌雄一雙にて年々子に跡を讓り去るとは、鴉の本種「わたりがらす」だらう。こんな事から反哺の孝など云出したんだろ。本草に、烏、此鳥初生、母哺之六十日、長則反哺六十日、可謂慈孝矣[やぶちゃん注:「烏、此の鳥、初めて生まるるや、母、之れを哺ふこと六十日、長ずれば、則ち、反哺(はんぽ)すること、六十日、慈孝と謂ふべし。」。]、慈烏孝烏の名これより出づと有る。自分[やぶちゃん注:「おのづと」と訓じておく。]飛びうるまで羽生えたるに、依然親の臑囓(すねかぢ)りをしおるのを反哺の孝とは大間違ひだ。又思ふに和漢ともに產するコルヴス、パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顏の毛禿落ちて灰白く、其痕遠く望み得る。其が子と同棲するを見て子が親に反哺すと言出したのか。其樣な法螺話は西洋にも有つて、Southey, op. cit., 4th Ser., p.109 に、一三六〇年(正平十五年)フランシスカン僧バーテルミウ、グラントヴィルが筆した物を引いて云く、烏老いて羽毛禿落ち裸となれば、其子等自分の羽以て他を被ひ肉を集め來て哺ふ云々と。是は支那の禮記の句などを聞傳へたのか、其よりは多分北アフリカの禿鵰(ヴルチユール)の咄を聽いて、烏と同じく腐肉を食ひ熱國で掃除の大功有る物故烏と誤認したのであらう。Leo Africanus, “Descrizione dell’ Affrica” in Ramusio, “Navigationi Viaggi,” Venetia, 1588, tom. i, fol. 94D. に、禿鵰年老いて頭の羽毛落竭して剃つた如し。巢にばかり籠り居るを其子等之を哺ふと聞いたと記す。記者はグラントヴヰルより百年以上後の人だが、禿鵰反哺の話は以前から行はれた物だらう。予熱地で禿鵰を多く見たるに、鷲鷹の類ながら動作烏に似た事多し。之に較[やぶちゃん注:「やや」。]似たは Sir Thomas Browne(十七世紀の人)の“Pseudodoxia,” bk. v. ch, I や Thomas Wright の“Popular Treatises on Science,” 1841, pp. 115-6 に、中世歐州の俗信に、鵜鶘(ペリカン)自分の胸を喙き裂いて血を出し、其愛兒に哺(くは)すと云つた。注者ウヰルキン謂く、是は此鳥頷下なる大嗉囊(おほのどぶくろ)に魚多く食蓄へ、子に哺さんとて嗉嚢を胸に押付て吐出すを、自ら胸を破ると想うた謬說ぢやと。類凾に、瑞應圖曰、烏至孝之應、異苑曰、東陽顏烏、以純孝著聞、後有群烏、銜鼓集顏所居之村、烏口皆傷、一境以爲、顏至孝、故慈烏來萃、銜鼔之異、欲令聾者遠聞、卽於鼔所立縣、而名爲烏傷、王莾改爲烏孝、以彰其行迹云[やぶちゃん注:「淵鑑類函」を調べたところ、頭の「瑞應圖曰、烏至孝之應」というのは、同書に同じ文字列はなく、熊楠が、そう言っている内容をごく短く纏めた作文であることが判ったので、以下の訓読では、それが判るように、切っておいた。最後は底本では「去」であるが、これは「云」の誤字であったので、訂しておいた。「「瑞應圖」に云はく、『烏は至孝の應なり。』と。」「『異苑』に曰はく、東陽の顏烏(がんう)は純孝を以つて著聞す。後、群烏、有りて、鼓(つづみ)を銜へ、顏の居(ゐ)る所の村に集まれり。烏の口、皆、傷つけり。一境(むらびと)、以爲(おもへら)く、『顏は至孝なれば、故に、慈烏、來たり萃(あつま)りて、鼔を銜ふるの異あり、聾者をして遠く聞かしめんと欲するなり。』と。卽ち、鼔の所に於いて縣を立て、名づけて「烏傷」と爲す。王莽、改めて「烏孝」と爲し、以つて其の行迹を彰(あらは)すと云へり。」但し、疑問に思われた方も多いと思うが、実は「鼓」は写本や翻刻される過程で生じた誤字であるようだ。後注参照。]。世間の聾迄も顏烏(がんう)ちふ者の孝行を聞知るやう、烏輩が鼓を持つて來て廣告したのだ。以色列(イスラヱル)の傳說にエリジヤがアハブの難を遁るゝ途に、餓えた時鴉之を哺(やしな)うたと云ひ、隨つて基督敎の俗人も鴉を敬する者あり(Hazlitt, “Faiths and Folklore,” 1905, vol.ii, p.508)。烏が不意の取持で貧女が國王の后と成つた譚は、貧女國王夫人經」(經律異相二十三)に出づ。グベルナチス(Gubernatis, “Zoological Mythology,” vol.ii, p.257)曰く、獨逸とスカンヂナヴヰアの俚謠に烏が美女を救ふ話多く、孰れも其女の兄弟と呼ばれ有り、又烏が身を殺して迄も人を助くる談多しと。日本にも出羽の有也無也の關[やぶちゃん注:「うやむやのせき」。]に昔鬼出て人を捉る[やぶちゃん注:「とる」。]、烏鳴いて鬼の有無を告げ往來の人を助けたといふ(和漢三才圖會、六五)。烏が能く慈に能く孝に、又、人を助くる譚、斯くの如き者有る上に、忠義譚も佛本行集經五二に出づ。善子と名くる烏王の后が孕んで、梵德王の食を得んと思ふ、一烏爲に王宮に至り、一婦女銀器に王の食を盛るを見、飛下つて其鼻を啄くと、驚いて食を地に翻(かや)す[やぶちゃん注:「ひっくり返す」或いは「こぼす」の意。]。烏取り持去つて烏后に奉る。其から味を占めて、每日宮女の鼻を啄きに來たので、王、人をして之を捕へしめると、彼烏仔細を說き王大に感じ入り、人臣たる者須く是猛健烏(たけきからす)が主の爲に食を求めて命を惜しまざるが如くなるべしとて、以後常に來て食を取らしめたと云ふ。Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” p.144 に、古人婚前に烏を祝したは、烏夫婦の中何方かゞ死ぬと、存つた[やぶちゃん注:「のこつた」。]方が或定期間獨居して貞を守つたからだと見えるが、日本の烏には夫(をつと)も子も有るに姧通するのも有るなり。日本靈異記中に、信嚴禪師出家の因緣は、家の樹に棲む烏の雄が雌と子を養ふ爲に遠く食を覓(あさ)る間に、他の雄鳥が來て其雌に通じ、西東もまだ知らぬ子を捨てゝ、鳥が鳴く吾妻か不知火の筑紫かへ梅忠もどきに立退いた跡へ、雄鳥(どり)還り來り其子を抱いて鬱ぎ死んだのを見て浮世が嫌に成り、行基の弟子と成つて剃髮修行したしたので厶(ござ)ると說き居る。こんなに種々調べるとマーク・トエーンが人間には成程人情が大分(だいぶ)有ると皮肉つた通り、人も烏も心性に餘り差異が無さゝうだ。さればこそ衆經撰雜譬喩經下には、烏が常に樹下の沙門の誦經を一心に聽いて、後獵師に殺さるゝも心亂れず天上に生れたと說かれた。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「漢籍リポジトリ」のこちらで、四百二十三巻の「鳥部六【烏・鵲】」の「烏一」を見られたい。その[428-2b]の影印画像の最後行に熊楠の引く一文がある。この奇体な交尾説は古くから信じられていた。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」にも「本草綱目」から引かれてあり、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」では、「三才圖會」から引かれてある。

「プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交はる故に、其卵を食つた婦人は口から產すると云ふ。アリストテレス是を駁して、鴉が鳩同樣雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言つた」この謂い方はちょっとおかしい。そもそもガイウス・プリニウス・セクンドゥスGaius Plinius Secundus 紀元後二三年~七九年)はアリストテレス(ラテン文字転写:Aristotelēs 紀元前三八四年~紀元前三二二年)よりずっと後の博物学者だからである。所持する中野定雄・中野里美 ・中野美代共訳「プリニウスの博物誌」(平成元(一九八九)年‎ 雄山閣出版刊・第三版)で見たところ、これはまさにそこに書かれた内容であって、第十巻の「ワタリガラス」の項に、

   《引用開始》

ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを家に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。しかし、アリストテレスは、エジプトのトキについてと同様、ワタリガラスについてもそんなことは噓だ、だが問題の接嘴(よく見かけることだが)は、ハトがよくやるように接吻の一種だ、と言っているワタリガラスは自分たちが前兆で伝えることの意味を知っている唯一の鳥であるように思える。というのは、メドゥス[やぶちゃん注:ここには訳注記号があり、後に『メディアの息子、メディア人にその名を与えたとされている。』とある。]の客が殺されたとき、ペロポンネソスとアッティカにいたワタリガラスはみんな飛び去ったから。彼らが喉がつまったかのように声を呑み込むような鳴き方をするときは、それはとくに凶兆だ。

   《引用終了》

とあるを、うっかり、かく言い換えてしまったものである。また、このアリストテレスの見解は、所持する島崎三郎訳「アリステレス全集9」(岩波書店一九六九年刊)所収の「動物発生論」を見たところ、「第六章」の「鳥類の発生」の冒頭に基づくものであることが判った。〔 〕は訳者が補足した部分を指す。

   《引用開始》

 鳥類の発生についても事態は同様である。すなわち、「オオガラスとイビスは口で交わり、四足類のイタチは口で子を産む」という人々があるからである。これらは、現にアナクサゴラスやその他の自然学者たちのうちの或る人々も述べているところであるが、あまりに単純で軽率な説である。鳥類について見ると、人々が推理〔三段論法〕によって誤った結論に達してしまうのは〔次の点が根拠になっている〕。すなわち、オオガラスの交尾はめったに見られないが、互いに嘴で交わることはしばしば見られ、これはカラスの類の鳥ならみなすることであって、飼い馴らされたコクマルガラスを見ればよく分かる。これと同じことをハトの類もするが、彼らは明らかに交尾もするので、そのためにこんな話は起こりようがなかったのである。カラスの類は少産の〔卵を少ししか産まぬ〕動物に属するから、好色ではないが、彼らも交尾するところをすでに観察されている。しかし、精液がいかにして栄養分と同じように、何でも入ってくるものを調理する胃を通って子宮に達するのか、ということを人々が推論してみないのはおかしい。しかも、これらの鳥類にも子宮があるし、卵〔巣〕は下帯〔横隔膜〕のそばに見られるのである。また、イタチにも、他の四足類と同じ様式の子宮がある。とすると、この子宮から口までどうやって胎児は進むのであろうか。しかし、イタチがその他の裂足類(これらについては後で述べるが[やぶちゃん注:ここには訳者注があるが、略す。])と同様に、まるで小さい子を産み、しばしばその子を口にくわえて運ぶということが、こんな見解を作り出した所以なのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

なお、訳者注では(学名が斜体になっていないので、割り込みで示した)、『オオガラスは(日本ではワタリガラス)』とされ、 Corvus corax の学名を記され、『『動物誌』第九巻第二十七章』『によると、エジプト産の鳥で、白いのと黒いのがあり、白いのは』Ibis religiosa 、『黒いのは』Ibis falcinellus (=igneus )『とされる。いずれも日本のトキに近い鳥である』とあった。前者はペリカン目トキ科トキ亜科クロトキ属アフリカクロトキ Threskiornis aethiopicus のことかと思われ(名前が「黒」だが、翼の初列風切羽先端と、次列風切り羽の先端及び三列風切り羽が変形した腰背部の飾り羽が黒い以外は、白い羽毛に包まれる。下に湾曲した嘴と長い脚は黒い。サハラ砂漠以南から南端までのアフリカ大陸・マダガスカル島・イラク南西部に棲息しており、嘗てはエジプトにも分布していた。詳しくは当該ウィキを見られたい)、後者はトキ科トキ亜科ブロンズトキ属ブロンズトキ Plegadis falcinellus の(繁殖個体は赤褐色の身体に暗緑色の翼をもつが、非繁殖個体と若年個体は暗い体色のままである。オーストラリア・東南アジア・南アジア・アフリカ・マダガスカル・ヨーロッパからアメリカ大陸大西洋岸の熱帯・温帯域にかけて棲息しているが、新大陸の個体群は比較的最近(十九世紀)になって、アフリカから自然に分布を広げたものと考えられている。ヨーロッパで繁殖した個体は、冬期、アフリカに渡り、越冬する。詳しくは当該ウィキを参照されたい)のシノニムである。なお、次の注では、「コクマルガラス」について、学名をCorvus monedula とされておられるが、これはニシコクマルガラスであって、既に注した通り、コクマルガラスは Corvus dauuricus である。但し、ニシコクマルガラスはコクマルガラスと極めて近い近縁種であり、北アフリカからヨーロッパのほぼ全域、イラン・北西インド・シベリアと、広範囲に分布している。

「自宅に龜を十六疋畜(かひ)有る」熊楠の亀好きはよく知られ、私は寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」(サイト版)の「綠毛龜(みのかめ)」でも、冒頭注で、『これは広く淡水産のカメ類(潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科Geoemydidaeの仲間等)に藻類が付着したものであろうと思われるが、「脊骨に三稜有り」という叙述は、椎甲板と肋甲板に三対の筋状隆起(キールと呼称する)を持っているイシガメ科のクサガメ Chinemys reevesii 等を思わせる。なお、この如何にも日本人好みのウラシマタロウガメ(私の造和名・浦島太郎亀)が好きで好きで、遂に自分で拵えちゃった有名人をご存知だろうか。南方熊楠、その人なんである。今、それを読んだ確かな資料を思い出せないでいるが、南方熊楠邸保存顕彰会常任理事の中瀬喜陽氏による「南方熊楠と亀」にその事実記載があったと記憶する。熊楠の悪戯っぽい笑みが、私にはよく見える』と記した。今、再度、南方熊楠関連の諸本をひっくり返したのだが、見当たらないが、さるびん氏のブログ「サルヴィンオオニオイガメ専科~淡水熱帯魚と共に~」の『南方熊楠の亀「お花」』に、南方熊楠は『亀の飼育にも取り組んでいた人物でした』。『多い時にはイシガメやクサガメを』六十『匹以上も飼育していたとか』。『熊楠の記録には、長男の熊弥と亀のエピソード等がしばしば登場するそうです』。『熊楠は淡水藻の研究も行っており、これらの亀に』人工的に『藻を生や』さ『せて蓑亀にする実験もしていたとのこと』とあり、昭和六(一九三一)年六月七日附『上松蓊(うえまつしげる)宛書簡に「小生方のみのがめ、只今長き藻の上に短き異種の藻をふさのごとく叢生し、はなはだ見事なり」 とあったそうです』。『また、熊楠が飼っていたクサガメの「お花」は、熊楠が亡くなってから』後も六十『年も生き』、二〇〇一年七月に『老衰で死亡したという記録があり、「お花」は』一〇〇『年以上生きたのではないかともいわれているそうです』。『ちなみに、このクサガメを熊楠が亡くなった』昭和一六(一七四一)『年以降も飼育し続けたのは、熊楠の長女の文枝で、熊楠から「お前が生まれる前からいる亀だから大事に」と言われ、文枝はその言い付けを守り、生涯この「お花」を大切に育てたそうです』とあるので、間違いない。

「根本說一切有部毘奈耶三九に、鄔陀夷覩童女……」「四分律藏四九に、時有比丘尼……」これらは実は全く同じものを、南方熊楠は、既に電子化注した「四神と十二獸について」に記している。そちらで詳細に注してあるので、ここでは省略する。

「康煕字典、嗚の字に接吻の義を示さぬ」大修館書店「廣漢和辭典」には、「嗚」の意味の三番目に擬声語とし、『嗚啞(オア)は烏(からす)の鳴き声』とする(例示引用は私の偏愛する中唐の鬼才李賀の「勉愛行」だ)。

「プリニウス曰く、諸鳥の中、烏(コルニクス)ばかりが、其子飛び始めて後暫く之を哺ふ。鴉(コルヴス)は子が稍や長ずれば逼つて飛去しむと」前掲引用の「プリニウスの博物誌」の第十巻の「一四 カラス」の末尾に『自分の子供が飛べるようになっても、まだしばらくの間それを食べさせ続けるが、そんなのは』(「鳥類は」の意)『ほかにない』とあるのを受けて、「一五 ワタリガラス」の項の冒頭に、

   《引用開始》

ところが同種のすべての鳥は自分たちの子供を巣から追い出して強制的に飛ばせる。ワタリガラスなどもそうだ。このワタリガラスも自身肉食であるのみでなく、子供が丈夫になると、彼らを駆り立てて相当遠いところへ追いやる。したがって、小さな村にはワタリガラスはふた番』(つがい)『しかいない。両親は引っ込んで場所を子供に譲る。

   《引用終了》

因みに、前の注で引用した部分が、これに一節(産卵と体調変異)を挟んで続いている。

『甲子夜話二三に出た平戸安滿嶽の神鴉……』先の『「一」の(4)』のために電子化した「甲子夜話卷之二十三 11 安滿岳の烏 + 甲子夜話卷之八十七 2 安滿岳の鴉【再補】」を参照。

「本草に、烏、此鳥初生……」「本草綱目」巻四十九の「禽之三」の「慈烏」の記載。「漢籍リポジトリ」のこちら[114-10a]を見られたい。

「コルヴス、パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顏の毛禿落ちて灰白く、其痕遠く望み得る」「顏」とあるが、厳密には嘴である。同種は成鳥では、基部の皮膚が剥き出しになり、白く見える。

「Southey, op. cit., 4th Ser., p.109」既出既注のイギリスの詩人ロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の死後に纏められた著作集の第四巻。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。右ページの左下にある「crowsdutiful Children.」 (「カラス族――忠実な子供たち。」)とあるのがそれ。下方に引用元の筆者名を「BARTHELMEW GLANTVILE」(詳細事績不明)とし、引用者の地位を「Franciscan Frier」(後の綴りが不審だが、フランシスコ会修道士であろう)とする。

「禮記の句」「大戴禮記」の「夏小正」にある、『豺祭獸。善其祭而後食之也。初昏南門見。南門者、星名也、及此再見矣。黑鳥浴。黑鳥者、何也、烏也。浴也者、飛乍高乍下也。時有養夜。養者、長也、若日之長也。』を指すか?

「北アフリカの禿鵰(ヴルチユール)」「禿鵰(ヴアルチユール)」vulture。音写は「ヴォルチュル」が近い。ここは旧大陸のタカ目タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae のハゲワシ類を指す。

「Leo Africanus, “Descrizione dell’ Affrica” in Ramusio, “Navigationi Viaggi,” Venetia, 1588, tom. i, fol. 94D. 」レオ・アフリカヌス(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンという、アラブの旅行家で地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。以下の書籍名はイタリア語で「アフリカの解説」「旅の案内」か。

「予熱地で禿鵰を多く見たる」熊楠は北アメリカ大陸周辺にしか行っていないから、この場合は、タカ目コンドル亜目コンドル科 Cathartidae のコンドル類である。

「Sir Thomas Browne」サー・トーマス・ブラウン(一六〇五年~一六八二年)はイングランドの著作家。医学・宗教・科学・秘教など様々な知識に基づいた著作で知られる。当該ウィキによれば、『フランシス・ベーコンの自然史研究に影響を受け、自然界に深い興味を寄せた著作が多い。独自の文章の技巧で知られ、作品に古典や聖書の引用が散りばめられており、同時にブラウンの独特な個性が現れている。豊かで特異な散文で、簡単な観察記録から極めて装飾的な雄弁な作品まで様々な作風を操った』とある。「Pseudodoxia」は彼の著「プセウドドキシア・エピデミカ」(Pseudodoxia Epidemica :一六四六年~一六七二年)で、邦訳では「荒唐世説」などと訳される。怪しい巷説や迷信を採り上げて批判した書。

 「Thomas Wright」トーマス・ライト(一八一〇年~一八七七年)はイギリスの好古家で著作家。「“Popular Treatises on Science,” 1841, pp. 115-6」は「Popular Treatises on Science,Written During the Middle Ages: In Anglo-Saxon, Anglo-Norman, and English.」で「中世に書かれた科学に関する知られた論文。アングロ・サクソン語、アングロノルマン語、英語に拠るもの。」で、「Internet archive」のこちらから原本が視認出来るが、私はとてものことに読めないし、当該箇所を探す気も起らない。悪しからず。

「類凾に、瑞應圖曰……」巻四百二十三の「鳥部六【烏・鵲】」の「烏二」。本文内の注で述べた通り、冒頭に「瑞應圖」(Q$Aの回答によれば、宋代の絵巻物で、高宗の即位の祝いとして瑞祥の伝説を文章と絵で表現したもの。臣下が献上したらしい)への言及があり(「烏二」は[428-4b]から)、次の[428-5b]の四行目以下に「異苑曰……」が現われる。

「異苑」六朝時代の宋(四二〇年〜四七九年)の劉敬叔の撰になる志怪小説集。全十巻。当時の人物についての超自然的な逸話、幽霊・狐狸に纏わる民間の説話などを記したもの。但し、現存のテキストは明代の胡震亨(こしんこう)によって編集し直されたもので、原著とは異なっていると考えられている。なお、どうも烏が銜えてくるのが「鼓」というのはどうもおかしいと思って幾つかのフレーズで調べたところ、同一の話が、北魏の知られた地理書「水經注」(すいけいちゅう:全四十巻。撰注者は官僚で文人の酈道元(れきどうげん 四六九年~五二七年)で、五一五年成立と推定される)に出ており、そこに、この部分が(「維基文庫」の影印本画像と、「中國哲學書電子化計劃」の「乾隆御覽本四庫全書薈要・史部」の影印本を参考にしたが、前者で字起こしした)、

   *

後有羣烏助銜土塊爲墳【案近刻訛作後有羣烏銜鼔集顏烏所居之邨】

   *

訓読を試みると、

   *

後[やぶちゃん注:孝子である顔烏が親を亡くした、その直「後」の意であろう。]、群烏有りて、土塊(つちくれ)をもて助け、銜(くは)へて、墳を爲(な)せり【案ずるに、近刻は、訛(あやま)りて、「後、羣烏有りて、鼔を銜へて顏烏の居る所の邨(むら)に集まれり。」に作る。】。

   *

とすれば、すこぶる腑に落ちたのであった。ただの自己満足を懼れ、さらに検索したところ、ネットを始めた古くからよくお世話になっている個人サイト「元・肝冷斎日録」のこちらに、原文・訓読・現代語訳が載っているのを発見した。その訓読文と現代語訳は(分離しているので合成した。表記はママ)、

   《訓読文引用》

『東陽の顔烏、淳孝を以て著聞せり。群烏有りて、土塊を助け銜(くわ)えて墳を為せり。烏口みな一境において傷めり。おもえらく、顔烏の至孝なるが故に慈烏を致し、孝声をして遠聞せしめんと欲するならん。又、その県に名づけて「烏傷」と曰えり。』

   《現代語訳引用》

『会稽・東陽の顔烏(がん・う)というひとは、たいへんな孝行者というので有名であった。親が亡くなった後、人を雇う資力が無いため、手づから鋤鍬を取ってその墳墓を築こうとした。すると、(彼の名前と同じ)カラスたちが群れてやってきて、土のかたまりを咥えてきて、墳墓づくりを手伝ってくれた。このため、その近辺のカラスのくちばしは、みな傷ついたという。さてさて、おそらくこれは、顔烏があまりにもすごい孝行者であったので、(その徳が)優しいカラスたちに働きかけて、孝行の評判を遠いところにまで伝え聞かせようとしたのではないだろうか。また、このことから、その近辺の区域は「カラスの(くちばしの)傷ついた県」と名づけられたのである。』

   *

これで、私は胸を撫で下したのであった。当初は本文内で修正してしまおうとも思ったが、修正が一字の変更に留まらなくなり、しかも平凡社の選集では訓読となっている上に、「鼓」になってしまっていることから、注でかく示すことにした。

「王莽」(おうもう 紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、紀元後八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。

「エリジヤ」「旧約聖書」の預言者エリヤ。その名はヘブライ語で「ヤハウェは我が神なり」を意味する。

「アハブ」「旧約聖書」によれば、第六代イスラエル王オムリの子に生まれ、その死後に跡を継ぎ、二十二年の間、王位にあった。預言者エリヤは代表的な彼の反対者として描かれ、終始、エリヤとアハブ王家の敵対関係が言及されている。また、アハブはシリアの王女イゼベルを妻に迎えた。イゼベルはシリアのバアル崇拝をイスラエルに導入した。結果、それ以前から存したヤハウェ信仰や金の仔牛信仰に加えた混合宗教がイスラエルに展開されたほか、後にはアハブと婚姻関係を結んだユダ王国にも導入された。これを「旧約聖書」では偶像崇拝として非難し、さらには「ヤハウェ信仰への弾圧」と指弾している。このため、旧約聖書ではアハブは「北王国の歴代の王の中でも類を見ないほどの暴君」として扱われている(以上は当該ウィキに拠った)。

「Hazlitt, “Faiths and Folklore,” 1905, vol.ii, p.508」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。Internet archive」の当該書のこちらの左ページの頭の部分にある。

「烏が不意の取持で貧女が國王の后と成つた譚は、貧女國王夫人經」(經律異相二十三)に出づ」これは検索を続けること三十分、漸く、台湾サイトの「CBETA 中華電子佛典協會」の方の「經律異相卷第二十三(聲聞無學學尼僧部第十二)」で綺麗に電子化されたそれで、見出せた。そこの「孤獨母女為王所納出家悟道十一」である。冒頭を引くと、初っ端にカラスが出る(下線太字は私が附した)。『舍衛城。有孤獨母人。自生一女。年始十七。顏容端嚴衣不蔽形。母乞食自連。女貞賢明達。博讀經書守節不出門戶。居近王道而心願適王。又願事神如佛。王出行國內。見烏在貧女門上鳴。王便舉弓射烏。烏持王箭走入女家。王傍人追烏入舍。女不出面。但拔箭放烏授箭擲外。王人見指知之非凡。却後年中。王第一夫人卒。娉求夫人。無應相者。廣訪人間。左右白言。前時射烏窮獨母女。年十六七雖不見面。瞻手聞聲似是貴人。王便往視呼將俱來……』と続く。話の終りには出典として「貧女為國王夫人經」とある。本邦のサイトでは「經律異相」の、こうした整序された電子化物がないようなので、この注では甚だすこぶる助かった。

「グベルナチス(Gubernatis, “Zoological Mythology,” vol.ii, p.257)曰く、獨逸とスカンヂナヴヰアの俚謠に烏が美女を救ふ話多く、孰れも其女の兄弟と呼ばれ有り、又烏が身を殺して迄も人を助くる談多しと」これは今までも本書で何度も熊楠が引いている作品で、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」である。Internet archive」の同第二巻のここの、右ページ本文の下から七行目から。

「出羽の有也無也の關に昔鬼出て人を捉る烏鳴いて鬼の有無を告げ往來の人を助けたといふ(和漢三才圖會、六五)」所持する原本画像から訓点を除去した白文原文通りのものと、後に訓読したものを示す(これは私の同書の電子化の永年に亙る自己拘束だからである)。歴史的仮名遣の誤りはママで、〔 〕は私が推定で歴史的仮名遣で補った部分。これは地誌の前巻からの地誌の「大日本國」パートの、巻第六十五の中の「出羽」パートの終りの方(六折)である。歌は改行して引き上げ、上句・下句を分けた。

   *

牟也牟也關 良材集【引八雲御抄】云牟也牟也乃關有陸奥

出羽之交但關有出羽方草木森森然行人不栞則難

徃來

 武士の出さ入さにしるしするを

    をちをちどちのむやむやの関

△按俗謂有也無也関者訛也昔此山鬼神棲不時出捉

 人烏鳴告有無人因其聲徃來之說愈妄也或云鳥海

 山近處有此關【又俊頼歌爲伊奈牟夜】

   *

   *

牟也牟也關(むやむやのせき) 「良材集」に【「八雲御抄〔(やくもみせう)〕」を引〔(ひき)〕て。】云はく、『「牟也牟也乃(の)關」、陸奥と出羽の交(あはい)に有り。但し、關は出羽方に有り。草木、森森然〔(しんしんぜん)〕として、行人(みちゆき〔のひと〕)、栞(しおら)せざれば、則〔ち〕、徃來難し。

 武士〔(もののふ)〕の出〔(いづ)〕さ入〔(いる)〕さにしるしするを

    をちをちどちのむやむやの関

△按〔ずるに〕、俗に「有也無也(うやむや)の関」と謂ふは、訛〔(あやま)〕りなり。「昔し、此の山に、鬼神、棲(す)み、不時に出て、人を捉(と)る。烏、鳴き、有無を告ぐ。人、其の聲に因〔(より)〕て徃來す。」と云〔ふ〕。之〔(これ)〕、愈(いよいよ)、妄〔(まう)〕なり。或〔いは〕云〔(いふ)〕、「鳥海山の近處(〔ちかきところ〕)に此關、有り。」と【又、俊頼の歌に「伊奈牟夜」と爲〔(す)〕。】。

   *

恐らくは多くの人は芭蕉の「奥の細道」で知っている(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』の原文参照)この「牟也牟也關」は「うやむやのせき」とも呼び、「有耶無耶関」「有也無也関」などとも表記し、比定地は二つある。一つは平安後期からの歌枕で、山形県と宮城県との境界にある笹谷(ささや)峠(この峠自体は確かに最古からあった)にあった関所。出羽と陸奥の境となった。「伊奈(いなむ)の関」とも。ここ(グーグル・マップ・データ)。今一つは、 山形県と秋田県の境界、日本海に臨む三崎峠にあった関所。ここは「和漢三才図会」本文の一説にある通り、鳥海山の西麓である。「良材集」は「歌林良材集」で全二巻の歌論・歌学書。一条兼良撰。室町中期成立。「八雲御抄」は鎌倉初期の歌学書。全六巻。順徳天皇著。「承久の乱」(承久三(一二二一)年五月)の頃まで執筆していた草稿を、佐渡遷御後に纏めたもので、先行の歌学研究を集大成したもの。歌学的知識・詠歌作法・歌語の収集と解釈・名所解説・歌論の見解などが記されている。引用の歌「武士〔(もののふ)〕の出〔(いづ)〕さ入〔(いる)〕さにしるしするををちをちどちのむやむやの関」は「夫木和歌抄」の巻二十一の「雜三」に載る読人不知 の一首であるが、「日文研」の「和歌データベース」でも、

 もののふのいつさいるさにしをりする

    とやとやとほりのむやむやのせき

であり、これは、

 武士の出(い)づさ入(い)るさに枝折(しをり)する

    とやとやとほりのむやむやの關

で、上句は武士でさえ出入りのために草木を折り縛って栞とせねば迷って出られなくなってしまう迷宮(ラビリンス)の夢幻的なイメージを下句でオノマトペイアに仕立てた戯れと思うが、そのオノマトペイアが、伝説の「鬼がいるぞ!」という烏の「有也有也」(うやうや)、「無也無也」(むやむや)のそれと響き合うところを、良安は面白いと思ってここに挿入したようにも思われる。

「佛本行集經五二」以下の話は同経の「中國哲學書電子化計劃」の影印のこの辺りに出ている。活字でないと、と言う方は、簡体字交じりでよければ、「維基文庫」の同経の全文で「佛告诸比丘。我念往昔久远之时。波罗奈国有一乌王。」を検索で入れれば、その文頭に辿り着く。ぶつぶつに切れていても、ちゃんとした本邦の字体で見たければ、「大蔵経データベース」のこちらで「佛告諸比丘。我念往昔久遠之時。」を検索すればよろしい。

「日本靈異記中に、信嚴禪師出家の因緣は……」私の好きな「烏の邪婬を見て、世を厭ひ、善を修する緣第二」である。以下に角川文庫板橋倫行(ともゆき)氏の校注本(昭和五二(一九七七)年(第十八版)角川文庫刊)で示す。段落を成形した。

 

   *

 禪師信嚴(しんごん)は、和泉の國泉の郡の大領(だいりやう)血沼(ちぬ)の縣主(あがたぬし)倭麻呂(やまとまろ)なり。聖武天皇の御世の人なり。

 此の大領の家の門に、大樹有り。烏、巢を作り、兒を産み、抱(うだ)きて臥す。雄(を)の烏、遐迩(をちこち)飛び行き、食を求め、兒を抱ける妻を養ふ。

 食を求めて行ける頃、他(あだ)の烏、遞(たがひ)に來たりて婚(つる)び姧(かた)む。今の夫に婚(つる)びて、心に就きて、共に高く空にかけり、北を指して飛び、子を棄てて睠(かへり)みず。

 時に、先の夫の烏、食物を哺(ふふ)み持ち來たりて、見れば、妻の烏、無し。時に兒を慈しみ、抱きて臥し、食物を求めずして、數(あまた)の日を經たり。

 大領、見て、人を樹に登らせて、其の巣を見しむるに、兒を抱きて、死す。

 大領、見て、大(いた)く悲しび、心に愍(あはれ)み、烏の邪婬を觀て、世を厭ひ、家を出で、妻子を離れ、官位を捨て、行基大德(だいとこ)に隨ひて、善を修し、道を求む。

 名を信嚴と曰ふ。但だ、要(ちぎ)り語りて曰はく、

「大徳と倶に死に、必ず、當に同に[やぶちゃん注:「おなじきに」。]西方に往生すべし。」

といふ。

 大領の妻も亦、血沼の縣主なり。大領捨つるも、終に他(あだ)の心、無く、心に貞潔を愼む。愛(め)でし男子(をのこご)、病を得て、命、終はる時に臨みて、母に白(まを)して言はく、

「母の乳を飮まば、我が命を延ぶべし。」

といふ。

 母、子の言(こと)に隨ひ、乳を、病める子に飮ましむ。

 子、飮みて、歎きて言はく、

「ああ、母の甜(あま)き乳を捨てて、我、死なむか。」

といひて、卽ち、命、終はる。

 然して、大領の妻、死にし子に戀ひ、同共(ともども)に家を出で、善法を、修し、習ひき。

 信嚴禪師、幸、無く、緣、少なく、行基大徳より、先に、命、終りき。大徳、哭き詠(しの)び、歌を作りて曰はく、

  烏といふ大をそ鳥の言をのみ共にといひて先だち去ぬる

 夫れ、火の炬(も)えむとする時は、まづ、折松を備へ、雨降らむとする時には、兼ねて石板を潤ほす。烏の鄙(のびか)なる事を示して、領、道心を發(おこ)す。先善の方便に、苦を見(しめ)して、道を悟らしむとは、其れ、斯れを謂ふなり。欲界雜類の鄙なる行(わざ)、是(か)くの如し。厭ふ者は背き、愚なる者は貪(ふけ)る。

 贊に曰はく、可(あこし)なるかな[やぶちゃん注:「立派なことではないか!」。]、血沼の縣主の氏、烏の邪婬をみて、俗塵を厭ひ、浮花の假趣[やぶちゃん注:婀娜に華やかである仮の現象としての現世。]に背き、常に身を淨めて、修善に勤め、惠命(ゑみやう)を祈(ねが)ふ。心に、安養の期(ご)を尅(のぞ)み、この世間を解脫す。異(こと)に秀れにたる厭土の者なり。

   *

厶(ござ)る」「厶」は「私」の漢字の異体字。本邦ではこれに丁寧語・尊敬語の「御座る」の訓を当てた。

「マーク・トエーン」その当代にあって世界中で最も人気の高かった作家マーク・トウェイン(Mark Twain 本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens) 一八三五年~一九一〇年)のこと。

「衆經撰雜譬喩經下には、烏が常に樹下の沙門の誦經を一心に聽いて、後獵師に殺さるゝも心亂れず天上に生れたと說かれた」発見出来ず。]

2021/12/18

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(2)

 

 扨鴉や烏が膽勇に富めるは、和漢三才圖會烏の條に、其肉味酸鹹臭、人不食、故常人不恐人、不屑鷹鷂、而恣園圃果蓏穀實、竊人家所晒魚肉餅糕等、噉郊野屍肉、是貪惡之甚者也[やぶちゃん注:私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」を参照されたい。当該部を含む原文総てと、訓読及び私のオリジナル注を附してある。]と讀むと、人が忌んで殺さぬ故不敵に成つた樣だが、ワラスの著ダーヰニズムに云つた通り、氷雪斷えぬ所に住む鳥は、多くは肉食動物に見露されぬ樣に其體が氷雪同樣白い。然るに烏だけは常に進んで他の動物を侵すのだから、卑怯千萬な擬似色を要せず、且つ群棲するもの故色が黑いと氷雪の白いに對照して反つて友を集むるに便有るのだ。烏が本來大膽なので、決して人が忌んで殺さぬ故大膽に成つたので無い。烏が明敏にして黠智[やぶちゃん注:「かつち(かっち)」。「猾智(くわつち)」に同じ。悪がしこい知恵。悪知恵。]なるは禽經に烏の烏之巨嘴者善避矰弋彈射[やぶちゃん注:「巨嘴(きよし)なるは、善く矰弋(そうよく)・彈射を避く」。「矰」・「弋」ともに狩猟用具の一つ。矢に糸や網を付けて射ち、鳥や魚に絡ませて捕る仕掛けを言う。本邦では「射包(いくる)み」と呼ぶ。「彈射」は矢などを弾いて射ること。]。Tennent, “Sketches of the Natural History of Ceylonm” 1861, pp. 254-5 に、錫蘭(せいろん)の烏が籃の蓋を留置いた栓を拔いて其中を覗いたり、人が肉を切ると、油斷するところへ付け入つて、其血塗れな庖丁を奪うたり、殊に椿事なは、犬が骨を嚙むを奪はん迚、一羽の烏が其前に下りて奇態に踊り廻れども犬油斷せぬ故、暫く飛去つて棒組一羽連れ來り二人して踊れども效無し、其時後で來た烏一計を案じ出し、一たび空中に飛騰つて忽ち直下し、其嘴の全力を竭して[やぶちゃん注:「つくして」。]太く[やぶちゃん注:「いたく」。]犬の背を啄く。犬仰天して振向く處を、最初より居つた烏輙(たやす)く[やぶちゃん注:底本では「轍」だが、特異的に私が訂した。]彼が食ひ居つた骨を奪つた等の諸例を出し居る。Romanes, Animal Intelligence,1881 にも、烏の狡智非常な例を陳べ有る。斯程智慧有る者故、上に引いた野狐が烏を智慧最第一と讃(ほ)めた印度譚や、母に叱り出された少女が情夫に急を報げんと烏に助を乞う辭に、「智慧の烏よ、鳥中の最[やぶちゃん注:「いと」。]賢き者よ」と言つたエストニア誕[やぶちゃん注:「たん」。「譚」に同じ。]がある(Kirby,“The Hero of Esthonia,” 1895, vol. i. p. 215)。Southey,“Common-Place Book,” ed. Warter, 1876, 3rd Seris, p. 638 に、英國で烏群地に小孔を喙き開け檞[やぶちゃん注:「かしわ」。]の實を埋めながら前進するを見たが後日烏が巢を架けるに足る密林と成つたと記す。眉唾な樣な咄だが、米國に穀を蒔いて收穫する蟻有り、又檞の實を大木の幹に自ら穿つた孔に塡め置き、後日實の中に生じた蟲(むし)を食ふ用意とする啄木鳥もあるというから丸啌(うそ)でも無からう。烏は朝早く起き捷く[やぶちゃん注:「すばやく」。]飛んで諸方に之き、暮に栖(すみか)に歸るから、世間雜多の事を見聞すてふ處から言つた物か、古スカンヂナヴヰアの大神オヂンの肩に留まる鴉二つ、一は考思(かんがへ)、一は記憶(おぼえ)と名く。大神每朝之を放てば世界を廻り歸つて悉皆の報告す。大神由つて洽く[やぶちゃん注:「あまねく」。]天下の事を知る故に鴉神の名有りと(Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347)。斯く烏は飛ぶ事捷く世間を廣く知るてふより、所謂往を推して來を知る力有りとせられ、古希臘では、烏をアポロ神豫言の標識とし(“Encyclopaedia Britannnica,” 11th ed., vol. ii. Art “Apollo”)、支那でも、本草集解に古有鴉經、以占吉凶、然北人喜鴉惡鵲、南人喜鵲惡鴉、惟師曠(禽經)以白項者(乃ち燕烏)爲不祥近之[やぶちゃん注:「古へ、「鴉經」あり、以つて吉凶を占ふ。然(しか)も、北人は、鴉を喜び、鵲(かささぎ)を惡み、南人は、鵲を喜び、鴉を惡む。惟(た)だ、師曠(「禽經」)は、白き項(うなじ)なる者(乃(すなは)ち燕烏[やぶちゃん注:『「二」の(1)』で私が同定したクビワガラス。])をもつて不祥となし、これに近づかず」。]。酉陽雜俎に、世有傳陰陽局鴉經、謂東方朔所著、大略先數其聲、卽是甲聲、以十干數之、辨其急緩、以定吉凶[やぶちゃん注:「世に「陰陽局鴉經」を傳ふる有り。東方朔の著はす所と謂へり。大略は、先づ其の聲を數へ、卽ち、是れ、甲の聲ならば、十干を以つて之れを數へ、其の急緩を辨じ、以つて吉凶を定む」。]。日本でも烏鳴きは必しも皆凶ならず、例せば、巳の時は女に依つて口舌有り、卯の時は財を得、午の時は得財吉、又口舌[やぶちゃん注:「財を得ること、吉、又、口舌あり。」。]猶委細は二中歷第九を覽なさい[やぶちゃん注:「みなさい」。]。錫蘭では烏は常に家邊に在る物なればとて、今日も其行動鳴聲から棲つた樹の種類迄考へ合せて吉凶を占ふ(Tennent 上に引いた處)。又烏は善く方角を知る故、人が知らぬ地へ往く嚮導や遠地へ遣る使者とした例が多い。酉陽雜俎に、烏地上に鳴けば凶く[やぶちゃん注:「あしく」。]、人行くに臨み烏が鳴いて前引すれば喜多しと有り。八咫烏が神武帝の軍勢を導きし事日本紀に見え、古希臘テーラの貴人バツトスが未知の地に安着して殖民し得たのも實に鴉の案内に憑つたので、鴉の義に基いて其地をキレーネーと命じた(Cox, “An Introduction to Folk-Lore,” 1895, p.104)。但し宣室志には軍出るに鳶や烏が後に隨ふは敗亡の徵と有る。ヘブリウの古傳にノア大洪水に漂(たゞよ)うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出した。三つの鳥は鴉(からす)鴿(いへばと)鴿(はと)と云ふのと鴿燕鴉と云ふのと二說有るが、チエーンは鴉が最後に陸を發見した說を正とした。北米土人の話にも似た事があれど、鴉の代りに他の鳥としておる(“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.978)。又那威[やぶちゃん注:「ノルウェー」。]のフロキ氷州(アイスランド)に航せんと出立の際、三羽の鴉を諸神に捧げ、遠く海に浮んで先づ一羽を放つと元來し方へ飛往くを見て、前途猶遙かなりと知り、進行中又一羽を放つと空を飛び廻つて船に戾つたので、鳥も通わぬ絕海に有りと了(さと)つた。三度目に飛ばした奴が仔細構はず前進す。其を蹤(あとつ)けて船を進めて到頭氷州の東濱に著いたと云ふが、其頃那威にはオヂン大神の使物たる鴉を特別に訓練して神物とし、航海中陸地の遠近を驗す[やぶちゃん注:「ためす」。]に用ひたらしい(Mallet, “Northern Antiquties,” in “Bohn's Library,”  1847, p.188)。是に同軌の例、長阿含經十六、商人、臂鷹入海、於海中放、使彼鷹飛空、東西南北、若得陸地、便卽停止、若無陸地、更還歸船。[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で同経の当該部を確認したところ、「還」が脱落していることが判ったので挿入した。「商人、鷹を臂(ひぢ)にして海に入り、海中(うみなか)に於いて放つ。彼(か)の鷹をして、空を飛ばし、東西南北せしむ。若(も)し、陸地を得れば、則卽(すなは[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。])ち、停止し、若し、陸地無ければ、更に船に還歸(かへ[やぶちゃん注:同前。])る」。]。經律異相廿六には、大富人が海邊に茂林を作り烏多く栖む。其烏、朝每に飛んで遠隔の海渚に往き、明月の珠を噉ひ暮に必ず還る。件の長者謀つて百味の食を烏に與ふると、烏飽き滿ちて珠を吐出すこと夥し。長者之を得て大富と成つたと載す。奈女耆域因緣經に、耆婆[やぶちゃん注:「ぎば」。]が勝光王に殺さるゝを免れんとて、日行八千里の象に乘つて逃げるを神足能く其象に追付くべき勇士して逐はしむる、其士の名は烏と有る。是れ印度で烏を捷く飛ぶ事他鳥に超ゆとしたのだ。續群書類從の嚴島御本地に、五色の烏が戀の使して六年懸かる路を八十五日で往著く事有り。古英國のオスワルド尊者の使者も烏だつた(Gubernatis, vol.ii, p. 257)。

[やぶちゃん注:「ワラスの著ダーヰニズム」ダーウィンと別に独自に自然選択を発見した優れたイギリスの博物学者で進化論者であったアルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace  一八二三年~一九一三年)が、一八八九年に発表したDarwinism: An Exposition of the Theory of Natural Selection, with Some of Its Applications (「ダーウィニズム:自然淘汰の理論の解説とその幾つかの適用例」)。

「禽經」春秋時代の師曠(しこう)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「Tennent, “Sketches of the Natural History of Ceylonm” 1861, pp. 254-5」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る

「Romanes, “Animal Intelligence,” 1881」「動物の知恵」は、カナダ生まれのイギリスの進化生物学者で生理学者であったジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)が一八八一年に刊行したもの。彼及び本書については、「生物學講話 丘淺次郎 附錄 生物學に關する外國書」の本文及び私の「ロマーネス」の注を参照されたい。

「Kirby,“The Hero of Esthonia,” 」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の同年出版の著作。「エストニア」はバルト三国では最も北にある現在のエストニア共和国(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人などとの混血の過程を経て』、十『世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった』。十三『世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し』、『海上交易で栄えた』。但し、『その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた』とある。

「Southey,“Common-Place Book,” ed. Warter, 1876, 3rd Seris, p. 638」イギリスの、ロマン派の桂冠詩人にして「湖畔詩人」の一人であったロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の死後に纏められた著作集。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。冒頭に「97」とあるのがそれだ。ローズ(薔薇)城で二十五年前に目撃した語りから始まっている。

 「檞」原文ではオーク(oak)。

「大神オヂン」北欧神話の主神にして戦争と死の神。北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は「Óðinn」で音写すると「オージン」に近い。一般に知られる「オーディン」は現代英語などへの転写形である「Odin」が元である。詩文の神でもあり、吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対しては非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。その名は「oðr」(狂った・激怒した)と「-inn」(「~の主」)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主人」を意味すると考えられている。しかし、こうした狂気や激怒が、シャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主人」という解釈可能であるという。参照した当該ウィキによれば、『愛馬は八本足のスレイプニール』で、『フギン(=思考)』と『ムニン(=記憶)という二羽のワタリガラスを世界中に飛ばし、二羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元にはゲリとフレキ(貪欲なもの』『)という』二『匹の狼がおり、オーディンは』、『自分の食事は』、『これらの狼にやって』、『自分は葡萄酒だけを飲んで生きているという』とあった。

「Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年:フランスの文筆家。当該書は「地獄の辞典」で、悪魔・オカルト・占い・迷信・俗信及びそれらに関連した人物のエピソードなどを集めた辞書形式の書籍。一八一八年に初版が発行されている。

「烏をアポロ神豫言の標識とし」これとは違うが、アポロンとカラスの神話上の関係については、chimaltovさんのブログ「ギリシャ神話あれこれ」の「カラスの失着」には、狡猾な使者でよく嘘をつき、遂には黒い羽と嗄れ声に変えられてしまったとあり、その理由が判り易く書かれている。

「本草集解」時珍の「本草綱目」の巻四十九の「禽之三」の「烏鴉」の「集解」(産地等についての注記解釈)。「漢籍リポジトリ」のこちらの[114-10b]の画像と電子化を参照されたい。なお、以下については、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」の「北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む」の私の注も参照されたい。「鵲」はスズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea

「酉陽雜俎に、世有傳陰陽局鴉經……」不審。「酉陽雜俎」にはこの記載は見当たらない。「維基文庫」の「古今圖書集成」を調べたところ、「禽異部雜錄」の「容齋續筆」からの引用の最後に、「世有傳陰陽局鴉經。謂東方朔所著。大略言凡占烏之鳴。先數其聲。然後定其方位。假如甲日一聲、卽是甲聲。第二聲爲乙聲、以十干數之、乃辨其急緩、以定吉凶。葢不專於一說也。」とあった。「容齋續筆」は南宋の政治家で儒学者の洪邁(一一二三年~一二〇二年)の考証随筆。まず「容斎随筆」が一一八〇年に公刊されたが、時の孝宗が、その議論の内容が優れていることから、賞賛した。「続筆」は一一九三年で、後に「三筆」・「四筆」と続き、「五筆」の執筆途中で没した。参照した当該書のウィキによれば、『日本では、荻生徂徠が』「示木公達書目」『の中で、好学の士のための必読書としてこの書目を挙げている』とある。

「二中歷第九」「二中歷」(にちゅうれき)は鎌倉初期に成立したとされる事典。当該ウィキによれば、『その内容は、平安時代後期に成立した』「掌中歴」と「懐中歴」の『内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存する』だけである。『掌中歴と懐中歴は三善為康』(永承四(一〇四九)年~保延五(一一三九)年)の手になる、平安『後期のものと推定されているが』「二中歴」の『編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている』とある。その「第九」は「医方・呪術・怪異・種族・姓尸・名字」の項が掲げられている。国立国会図書館デジタルコレクションにある写本の「恠異歷日時」のここ(左丁末の「烏鳴」)である。見ましたよ、熊楠さん。

「八咫烏が神武帝の軍勢を導きし事日本紀に見え」「日本書紀」巻第三の神武天皇即位前の戊午年(機械換算で紀元前六六三年)の「六月丁巳」(二十三日)の条に、

   *

于時、天皇適寐。忽然而寤之曰、「予何長眠若此乎。」。尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絕、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大神訓于天皇曰、「朕今遣頭八咫烏、宜以爲鄕導者。」。果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰、「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣。我皇祖天照大神、欲以助成基業乎。」。是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」。

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とあるのを指す。国立国会図書館デジタルコレクション岩波文庫の黒板勝美訓読・編の「日本書紀」の「中卷」の当該部をリンクさせておく。

「古希臘テーラの貴人バツトスが未知の地に安着して殖民し得た」現在はリビア領に含まれ、キュレネ(この半島先端附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)には紀元前七世紀末に、飢饉に襲われたテラ島(現在のギリシャのサントリニ島)住民の一部がバットスBattosを植民指導者として、この沃地に入植(紀元前四世紀に再録された植民決議の碑文がキュレネのアゴラから出土している)、バットス一門の王政は紀元前五世紀半ばまで続いた。その後、プトレマイオス王朝の支配を経て,紀元前七四年にローマの属州キレナイカとなった(以上は平凡社「世界大百科事典」の「キュレネ」の記載に拠った)。

「Cox, “An Introduction to Folk-Lore,” 1895, p.104)」イギリスの民俗学者で「シンデレラ型」譚の研究者として知られるマリアン・ロアルフ・コックス(Marian Roalfe Cox 一八六〇年~一九一六年:女性)の「民俗学入門」。「Internet archive」の当該原本のここ

「宣室志」唐の文語伝奇小説集。張読の著。もとは十巻あったと思われるが、散逸して現在は「稗海」や「重較説郛」(ちょうこうせっぷ)などに一部が収録されているのみである。著者は「霊怪集」を書いた張薦の孫で、礼部侍郎まで進んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。因みに、私が偏愛する中島敦の「山月記」(リンク先は私の古い電子化。『中島敦「山月記」授業ノート 藪野直史』もある。私が高校教師時代、漱石の「こゝろ」とともにオリジナルな朗読に拘った作品である)は、その直接の素材を唐代伝奇の李景亮「人虎伝」に拠るが、本書に載る「李徴」も同じ内容を持つ古い譚であることが知られている。以下の凶兆については、第一巻に載る。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で原記載が確認出来る。影印から起こしておく。

   *

柳公濟尚書、唐大和中、奉詔討李同犍。既出師、無何、麾槍忽折。客有見者、嘆曰、「夫大將軍出師、其門旌及麾槍折者、軍必敗衂。不然、上將死。」。後數月、公濟果薨。凡出軍征討、有烏鳶隨其後者、皆敗亡之徵。有曾敬雲者、嘗為北都裨將。李師道叛時、曽將行營兵士數千人、毎出軍、有烏鳶隨其後、必主敗、率以為常。後捨家爲僧、住於太原凝定寺。太和九年、羅立言為京兆尹、嘗因入朝、既冠帶、引鏡自照、不見其首。遂語於季弟約言。後果為李訓連坐、誅死。

   *

「ヘブリウ」古代イスラエルの別称ヘブライ。

「ノア大洪水に漂(たゞよ)うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出した。三つの鳥は鴉(からす)鴿(いへばと)鴿(はと)と云ふのと鴿燕鴉と云ふのと二說有るが、チエーンは鴉が最後に陸を發見した說を正とした」ウィキの「ノアの方舟」の「ギルガメシュ叙事詩」の同説話の記述の中で、主人公を「ウバルトゥトゥの子、シュルッパクの人」「ウトナピシュティム」とし、洪水が起こって『七日目に、ウトナピシュティムはまず』、『鳩をはなした。鳩は休み場所が見あたらずにもどってきた。つぎは燕をはなしたが』、『同じ結果になった。そのつぎには』、『大烏』(おおがらす。現在は、スズメ目カラス科カラス属ワタリガラスCorvus corax に比定されている)『をはなしたところ、水がひいていたので』、『餌をあさりまわって』、『帰ってこなかった。そこで彼は山頂に神酒をそそぎ、神々に犠牲をささげた』とある。

“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.978」「Internet archive」で同巻の当該ページを見たが、違う。巻数かページが違うか?

「Mallet, “Northern Antiquties,” in “Bohn's Library,”  1847, p.188」デンマークの文学やケルト神話及びスカンジナビアの著作をものした、スイスのジュネーブの作家パウル・ヘンリ・マレット(Paul Henri Mallet 一七三〇年~一八〇七年)の「Northern antiquities, or, An historical account of the manners, customs, religion and laws, maritime expeditions and discoveries, language and literature of the ancient Scandinavians 」(「北部古代遺跡 又は 古代スカンジナビア人の習俗・習慣・宗教と法律 海上探検と発見 言語と文学の歴史的説明」)。Internet archive」のこちらで原本当該部が視認出来、その下部の注記の箇所に熊楠の言っている内容が書かれてある。

「經律異相」五十巻。梁の宝唱が五一六年に撰した仏書。「経」と「律」とに散説されている諸事項を、十四に分類して抜粋した一種の百科事典。説話文学の宝庫(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。選集では「廿六」ではなく、『三六』とする。国文学研究資料館の影印本(和刻本)を調べたところ、これは選集が正しいことが判った。この画像の「巻第三十六」「雜行長者部下」の冒頭の「迦羅越以飽食※ㇾ鳥令ㇾ出腹中珠」(※は「グリフウィキ」のこれ。「施」の異体字)である。但し、哀しいかな、一貫して原本では「烏」ではなく、「鳥」となってるんですけど? 熊楠先生? でも、まあ、海辺の林に棲みつく雑食性の鳥であれば、高い確率で、ハシボソガラスであろうからいいでしょう!

「奈女耆域因緣經」個人サイト「無料で読める現代語訳仏教」の「マンゴー娘と名医の物語 『佛説㮈女祇域因縁經』」によれば、後漢の僧安世高訳「佛說㮈女祇域因緣經」の後出し版らしい。因みに、同ページによれば、それが前の「經律異相」に所収しているらしい。流石に、ちょっと疲れたので、探す気は、ない。

「耆婆」インドの医師で、釈尊と同時代人。サンスクリット語「ジーヴァカ」の漢音写。美貌の遊女サーラバティーの私生子として生まれ、一説には、誕生後、捨てられ、ある王子が拾って養育したとされる。名医として有名であると同時に、釈尊の教えに従った人物として知られる。彼に関しては、多くの伝説が残され、釈尊の病を治療したこと、また、「釈尊の教えに従えば、彼の治療が受けられる。」と考えた一般人が、治療を受けたいばかりに、仏教に入門するのを心配して、釈尊にその対策を献案したこと等が伝えられている。その原名を漢訳して「活童子」「壽命童子」「能活」などとも呼ばれ、中国の名医扁鵲と並び称される(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)

「勝光王」紀元前六世紀頃又は同五世紀頃の古代インドに栄えたコーサラ国の王プラセーナジット(漢訳:波斯匿王(はしのくおう))の漢訳異名。当該ウィキによれば、『一説には、ヴィドゥーダバ王子は、釈迦族の指導者が召使に生ませた娘を母親として生まれた、と釈迦族の者が馬鹿にするのを聞いて、父・母・釈迦族を憎み、釈迦族を滅ぼす決意をした、とする』とあった。

「八千里」中国では周・漢の時代から、永く、一里の長さは四百メートルであった。それでも三千二百キロメートルである。

「嚴島御本地」国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」第七十五の「神祇部七十五」の冒頭に配されてある。以下の「五色の烏が戀の使して六年懸かる路を八十五日で往著く」の下りはここ

「オスワルド尊者」アングロサクソン七王国のノーサンブリア王オズワルド(King Oswald 六〇四年~六四二年)。「聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)」公式サイト「Laudate」の 聖人カレンダー」の「8月9日 聖オズワルド(ノーサンブリア)殉教者」によれば、六一六『年に、ノーサンブリアの王であった父が、イーストアングルの王に殺されたため、オズワルドら』三『人の王子はスコットランドに逃亡し、アイオナの修道院で育てられ、そこで洗礼を受けた』。『その後』、二『人の兄弟たちが、イギリスのカドウェル王に殺されたとき、オズワルドは軍隊を率いて王と闘った。そのとき、十字架を作らせ、兵士たちとともにひざまずいて祈り、勝利を得たといわれる』。『オズワルドは、父の王座を取り戻して王位に就いた。その後アイオナの修道士を宣教師としてノーサンブリアに招き、派遣されたアイダン神父にリンディスファーンの島を与えて宣教の援助をした。しかし』、『異教徒マーシア王との戦いに破れ、戦死するが、そのとき「神よ、彼らの魂をあわれみたまえ」と言って亡くなったという』。『オズワルドはイギリスの偉大な英雄として崇められている』とある。英文の彼のウィキに、「Reginald of Durham recounts another miracle, saying that his right arm was taken by a bird (perhaps a raven) to an ash tree, which gave the tree ageless vigour; when the bird dropped the arm onto the ground, a spring emerged from the ground.」という記載があり、彼の死の秘蹟とカラスの関連性が認められる。

「Gubernatis, vol.ii, p. 257」本篇で既出のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。]

2021/12/07

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(1)

 

         

 人間は勝手極まる者で、烏が定刻に鳴いて晨[やぶちゃん注:「あした」。朝。]を告げると、露宿する者は寒夜の過ぐるを欣び流連[やぶちゃん注:「りうれん」でもよいが、「ゐつづけ」とも当て訓する。遊興に耽って家に帰るのを忘れることを言う。]する者は飽かぬ別れの近づくを哀しむ。「柹食ひにくるは烏の道理かな」で、實は烏の知つた事で無い。謝在杭の言に、鴉鳴俗云主有凶事、故女子小人聞其聲必唾之、卽縉紳中亦有忌之者矣、夫使人預知有凶、而愼言謹動、思患預防、不亦吾之忠臣哉。時鳥なども、初音を厠で聞けば禍有り、芋畑で聞けば福有り。故に其鳴く頃高貴の厠には芋の鉢植を入れて置くと夏山雜談に出る由(嬉遊笑覽八に引く、予の藏本には此事見えず)。グリムの獨逸鬼神誌(一八四四年ギヨツチンゲン板、六三七頁)に、最初烏は後世程惡鳥と謂れなんだと有ると同時に、氏の獨逸童話に、水汲みに出て歸り遲い子供を、其父が烏に成れと詛ふと忽ち皆烏に成つた譚有るを見ると、歐州でもいと古くより烏を機會(をり)と相場(さうば)に依つて、或は吉祥或は凶鳥としたらしい。エンサイクロペヂア・ブリタンニカ十一板廿二卷に、鴉は鳥類中最も高く發育した者で、膽勇明敏智慧三つながら他鳥に傑出すと有る。

[やぶちゃん注:「柹食ひにくるは烏の道理かな」ブログ「日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~」のこちらによれば、不確定ながら、日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師としてよく知られる円覚寺管長の釈宗演(安政六(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)の句とする。

「謝在杭の言に……」明朝の文人・官人であった謝肇淛(ちょうせい 一五六七年~一六二四年)の字(あざな)。歴史考証を含む随筆「五雑組」全十六巻の作者として知られ、他に「文海披沙」・「文海披沙摘録」等を著している。以下の引用は、その「五雑組」の巻七にある。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本の当該箇所が視認出来る。以下、訓読しておく。

   *

 鴉(からす)鳴くを、俗に「凶事有るを主(つかさど)る」と云ふ。故に女子・小人は、其の聲を聞けば、必ず、之れに唾す。卽ち、縉紳の中にも、亦、之れを忌む者有り。夫れ、人をして、預(あらか)じめ、凶あるを知りて、言を愼しみ、動を謹(いま)しめ、患(わざはひ)を思ひて、預じめ、防がしむれば、亦、吾れの忠臣ならずや。

   *

なお、私の寺島良安の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」でも、この一部が引かれてあるので、参照されたい。

「夏山雜談」(なつやまざうだん)は幕臣で国学者の小野高尚(たかひさ 寛政一一(一八〇〇)年~享保五(一七二〇)年)の随筆。幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションの写本があり、偶然に開いた場所に当該部があった。ここの左丁の四~五行目である。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。思うに、熊楠は同巻の冒頭の「卷八」の「忌避」のパートのみを探したものと思われる(実は私も先ほどはそこばかり見ていた)。実はその後の「方術」のパートにあった(所持する岩波文庫版で確認)。国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここから次のページかけて編者による頭書き「厠にて郭公を聞く」とする中にあり、当該部は次のページの二~三行目である。

「グリムの獨逸鬼神誌」不詳。発行年と出版地からは「Deutsche Mythologie」(「ドイツ伝説集」)か?

「氏の獨逸童話に、水汲みに出て歸り遲い子供を、其父が烏に成れと詛ふと忽ち皆烏に成つた譚」『「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8)』で注したが、再掲しておく。「七羽のカラス」である。多言語の対訳が載る「グリム童話」の卓抜なサイト「grimmstories.com」のこちらで読める。]

 爰にいふ鴉は英語でラヴエン吾邦で從來「はしぶとがらす」に宛てゝ居る。實は「わたりがらす」、學名コルヴス、コラクスがラヴヱンに正當する。「わたりがらす」は北亞細亞(吾が千島にも有り)と全歐州、西半球では北氷洋[やぶちゃん注:底本では「北米洋」であるが、同種の分布範囲から選集の「北氷洋」を採った。]よりガテマラ國まで棲み、烏屬中尤も分布廣い物だ。又此篇に烏と書くは英語でクロウ本邦で普通に「はしぼそがらす」に宛てゝ居る。英國でもクロウと呼だは成る程「はしぼそ」だが、今日は正名ルク、學名コルヴス、フルギレグスたるべき者(吾國の「みやまがらす」に近い)をクロウと云ひ居る。本草綱目に烏鴉を四種に分つ。O.F.von Mollendorff, “The Vertebrata of the Province of Chihli with Notes on Chinese Zoological Nomenclature,” in The Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society, New Series XI, Shanghai, 1877, pp. 88-89 に、その四種を釋して、紅嘴鴉又山烏又鷁(げき)とは英語で chough 是は嘴細長くて鉤(まが)り脚と嘴が紅い。英語で紅脚烏(レツド・レグド・クロウ)ともいふ。學名ピロコラクス、グラクルス、次の燕烏又鬼雀は學名コルヴス、トルクワツス、此二種は日本に無いらしい。次に慈烏又慈鴉又寒鴉又孝烏は英名ブラツク・ジヤクドー、學名コルヴス、ネグレクツスだろと有る。故小川氏の日本鳥類目錄に大阪長崎產と有るが、和名を擧げぬを見ると日本に少ない者歟。次に鴉烏又烏鴉又大嘴鴉は「はしぼそ」とルクと「わたりがらす」を併稱するらしいと云ふ。扨本草には見えぬが、カルガ地方で老鴰(ラヲクワ)と呼ぶのが日本の「はしぶとがらす」と同物らしい。廣韻に、鴉は烏の別名、格物論に烏は鴉の別名にて、種類又繁、有小而多羣、腹下白者、爲鴉鳥、有小嘴而白、比他鳥微小長、而反哺其母者、爲慈烏、大喙及白頸、而不能反哺者、南人謂之鬼雀、又謂之老鴉、鳴則有凶咎。是とモレンドルフの釋と合せ攷ふるに、支那で專ら其鳴くを忌む烏は日本に無い燕烏で、反哺の孝で名高い慈烏は、大阪長崎等に有るも今に日本名も付かぬ程尋常見られぬ者、從つて自分の孝行は口ばかりで、偶々四十九歲迄飮み續けて孝を勵む吾輩を見るも徒らに嘲笑する者世間皆然りだ。其から鴉烏又烏鴉は大嘴とも云はるゝから、訓蒙圖彙や倭漢三才圖會や須川氏譯の具氏博物學等に烏を「はしぼそ」、鴉[やぶちゃん注:底本は「烏」だが、選集で訂した。]を「はしぶと」とし居るが、其實支那の鴉烏又烏鴉は、主として本邦の「はしぼそ」に當る。本邦の「はしぶと」は支那の大嘴鴉乃ち「はしぼそ」より一層嘴が太い。比較上附られた名で、學名を、ボナパルト親王がコルヴス、ヤポネンシスと附けたは日本に專ら固有ながら、又ワグレルがコルヴス、マクロリンクスと附けたは「はしぶと」を其儘直譯したのだろ。斯く本家本元の支那で烏と鴉を通用したり、烏鴉とか寒鴉とか老鴉とか種別も多きに、普通の書史には一々何種の烏と判つて書かず、本邦にも地方により「はしぶと」多く又「はしぼそ」が多い。此二つの外に、烏の一類で日本で「からす」と名の附く鳥が、小川氏の目錄を一瞥しても十一種有る。本草啓蒙に熊野烏は一名那智烏、大さ白頭鳥(ひよどり)の如く全身黑く頂毛立つて白頭鳥の如しと有るから、牛王に印した烏は「はしぼそ」でも「はしぶと」でも無い特種と見える。一八五一年板モニヤー、ウヰリアムスの英梵字典に、クロウの梵名三十ばかり、ラヴヱンのを十三出せるが、是又支那同樣多種に涉つた名で混雜も少なからじと察する。印度の家邊に多き烏(クロウ)は學名コルヴス、スプレンデンス、是は其羽が特に光るからで、經律異相二十一に引いた野狐經に、野狐が烏を讃めて、唯尊在樹上、智慧最第一、明照十方、如積紫磨金と有るも過譽[やぶちゃん注:「ほめすぎ」。]で無い。水牛と仲善い烏の事は、上に述べた。鴉(ラヴヱン)に相當する印度種は、先づ「わたりがらす」の多少變つた者らしい。其から濠州や阿非利加南北亞米利加の烏や烏と通稱さるゝ物は、又それぞれ異つて居る。一口に烏又鴉、クロウ又ラヴヱンと云ふ物の實際斯く込入つて居る所へ、佛經を漢譯する輩はクロウ(梵名カーカ)ラヴヱン(梵名カーカーラ)の區別もせず、烏鴉通用で遣つて除けたらしく、飜譯名義集などに烏鴉の梵名の沙汰一向見えぬ。こんな次第だから、本篇には本邦のはしぼそは素より支那の本文の譯經の烏又英文でクロウ及びルクと有るからすを一切烏と書き本邦のはしぼそと支那の本文や譯經の鴉又英文でラヴヱンと有るからすを凡て鴉と書いて置く。動物學上の議論で無く、要は口碑や風俗に關する語を書くのだから、たゞ烏(クロウ)と鴉(ラヴヱン)が別物とさへ判れば足るんぢや。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。また、複数の「ラヴヱン」は実は出てくるつど、かなり表記が異なっているのだが(「ン」が「」だったり、「ヱ」が「エ」だったりとグチャグチャである)総て「ラヴヱン」で統一にした(因みに選集では総て『ラヴェン』である)。

『爰にいふ鴉は英語でラヴエンわが邦で從來「はしぶとがらす」に宛てゝ居る。實は「わたりがらす」、學名コルヴス、コラクスがラヴヱンに正當する。「わたりがらす」は北亞細亞(吾が千島にも有り)』「raven」(音写すると「レェイヴェン」が近い)は熊楠の言うように、鳥綱スズメ目カラス科カラス属ワタリガラス Corvus corax でを指し、現在の千島を失っている状態では、本邦には分布しない種である。以下の分布域は当該ウィキにある世界の分布地図を参照されたい。

「ガテマラ國」メキシコの南にある中米の現在のグアテマラ共和国(スペイン語:República de Guatemala)のこと。

『此篇に烏と書くは英語でクロウ本邦で普通に「はしぼそがらす」に宛てゝ居る』「crow」はカラスの総称。英和辞書によれば、大型のものは「raven」、中型を「crow」、小型を 「jackdaw」或いは「rook」と一般に呼んでいるとする。さて、日本で「カラス」といえば、通常は「carrion crow」=ハシボソガラスを指すが、実はスズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone(嘴細烏。ユーラシア大陸の東部と西部のみに分布)もハシブトガラススズメ目カラス科カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos(嘴太烏。本邦で単に「カラス」と言ったユーラシア大陸東部のみに分布)もアジアにしか棲息せず、イギリスやアメリカには棲息していない。博物誌は私の和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)、及び、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 大觜烏(はしぶと) (ハシブトガラス)」を参照されたい。

『英國でもクロウと呼だは成る程「はしぼそ」だが、今日は正名ルク、學名コルヴス、フルギレグスたるべき者(吾國の「みやまがらす」に近い)をクロウと云ひ居る』ある英語辞書では確かにイギリスではイギリスの棲息しないハシボソガラスを「crow」と呼ぶともあったが、現行では、英語「rook」は、熊楠は近縁種みたようなことを言っているが、本邦にも分布する、ずばり、カラス属ミヤマガラス Corvus frugilegus を指す。「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山烏(やまがらす) (ミヤマガラス)」も参照されたい。

「本草綱目に烏鴉を四種に分つ」幸い寺島が和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)で引いているので、和訳しておくと、

①「慈烏」(じう)。小型で純黒。嘴が小さく、反哺(はんぽ:伝説で、成体になると、自分にして呉れたように親に給餌するをことを言う)する。

②「鴉烏」(あう)。「慈烏」に似るが、大きく、觜や腹下が白い。反哺をしない。

③「燕烏」(えんう)。「鴉烏」に似て、大きく、項(うなじ)が白い。

④「山烏」(さんう)。「鴉烏」に似て、小さく、嘴が赤い。穴居する。

となる。中国という条件と後の熊楠の解説から、これは、

①「慈烏」=カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus(種小名はダウーリア地方(ダウール族の根拠地とされる。バイカル湖の東に相当する)に由来し、朝鮮半島・中国・台湾・日本・モンゴル人民共和国・ロシア東部に分布する。本邦には越冬のため、本州西部、特に九州に飛来する冬鳥で、稀に北海道・本州東部・四国にも飛来することがある。全長三十三センチメートルで、本邦に飛来するカラス属では最小種である。全身は黒い羽毛で覆われ、側頭部に灰色の羽毛が混じる。頸部から腹部の羽毛が白い淡色型と、全身の羽毛が黒い黒色型がいる。嘴は細く短い。)

②「鴉烏」=ハシボソガラス・ハシブトガラス・カラス属ワタリガラス Corvus corax(ユーラシア大陸全域・北米大陸に分布する。本邦では北海道に於いて冬の渡り鳥として、例年。観察される。ハシブトガラスよりも一回り大きく、全長六十センチメートル。)

③「燕烏」=カラス属クビワガラスCorvus torquatus (英名も文字通り「Collared crow」である。中国・台湾に分布(本邦には棲息しない)。英文の当該種のウィキの写真を見られたい)

④「山烏」=カラス科ベニハシガラス属ベニハシガラスPica pyrrhocorax(中国東北部ではやや標高の低い草原に群れで見られる。本邦には棲息しない。全身の羽衣は光沢のある黒色で、嘴が赤く、細長く、しかも下方に湾曲して先が尖る。足も赤色である。)

に比定してよいと私は思う。

「O.F.von Mollendorff」ドイツの動物学者(専門は有肺類(カタツムリ類))オットー・フランツ・フォン・メレンドルフ(Otto Franz von Möllendorff 一八四八年~一九〇三年)。

 「The Vertebrata of the Province of Chihli with Notes on Chinese Zoological Nomenclature」「河北省の脊椎動物と中国の『動物命名規約』に関する注記」。当該資料をネット上に見出すことは出来なかった。

「紅嘴鴉又山烏鷁(げき)とは英語で chough」ベニハシガラス。英語では事実、単に「chough」(チャフ)或いは「Red-billed Chough」(「赤い嘴を持ったチャフ」)と呼ぶ。因みに、学名の「pyrrhocorax 」(ピュロコラックス)もギリシア語で「炎色のカラス」の意である。「學名ピロコラクス、グラクルス」とあるが、これはリンネが最初に同種に命名したシノニムであるCorvus graculus L. を指す(英文学術論文で確認済み)。但し、この熊楠の言う通りのそれ、Pyrrhocorax graculusは、調べたところ、現在、同じベニハシガラス属の別種キバシガラス(黄嘴烏)Pyrrhocorax graculus L.  に与えられてしまっているので、混乱を生ずるので、まずい。

「燕烏又鬼雀は學名コルヴス、トルクワツス」先に示したクビワガラス。

「慈烏又慈鴉又寒鴉又孝烏は英名ブラツク・ジヤクドー、學名コルヴス、ネグレクツス」これが困った。まず、英語の「black jackdaw」では種同定が出来ない。ただ、「jackdaw」は通常はカラス属コクマルガラス Corvus dauuricus を指す。先に注した通り、同種には全身が黒い黒色型がいるので、それを指すと考えればいいのだが、この「コルヴス、ネグレクツス」というのが、見当たらない。コクマルガラスのシノニムであれば、それで終わるのだが、いっかな見当たらない。一つ気になったのは、この「ネグレクツス」という種小名で、これは真っ黒な「jackdaw」で、「negro」由来なではないか? という疑問であった。もし、だとすれば、これには差別的なニュアンスが感じられる。しかし、如何に差別的であっても、命名規約上、それらは資料として必ず残さねばならないから、見つからないのは、そもそもが、おかしいのだ。差別学名だから、抹消してなかったことにするわけには行かないのである。絶対的「言葉狩り」が生物の種同定を混乱させることがあってはならないのである。そうしたことが差別撤廃の普遍的な正当性だなどと主張するなら、バカガイ(「馬鹿」とは違うという語源説など問題にならぬ。「馬鹿」を連想させる以上、それは差別語となる)や「~モドキ」という当該生物の冤罪的偽物扱いの和名群も、これ、ごっそり、総て、変えねば、おかしいだろがッツ!?!

「故小川氏の日本鳥類目錄」鳥類学者小川三紀(みのり 明治九(一八七六)年~明治四一(一九〇八)年:静岡市生まれ。旧制中学四年で処女論文を発表し、一高・東京帝大医科大在学以降、飯島魁(いさお:動物学者。特に鳥類・魚類や海綿・寄生虫に関する研究で知られ、黎明期の本邦の動物学の近代化に大きな役割を果たした)東京帝大教授を助けて、剥製標本や鳥卵標本を集め、日本鳥類学の礎を築いた。奄美・琉球産鳥類の研究で知られるほか、五百二種を記載した主著「日本産鳥類目録」(明治四一(一九〇八)年刊)は鳥類研究者の座右の書となった。精力的で発想の豊かな人物であったが、京都帝大福岡医科大(現在の九大医学部の前身)在職中に数え三十四の若さで病没した。その名はリ(スズメ目スズメ亜目ヒタキ科 Luscinia (ルスキニア)属オガワコマドリ Luscinia svecica の和名に残っている。

「カルガ地方」(Калуга/ラテン文字転写:Kaluga)は現在のロシア連邦西部のカルーガ州。モスクワの南西約百九十キロメートル、オカ川沿いに位置し、モスクワとウクライナのキエフを結ぶ鉄道や高速道路が通る。十四世紀半ばにモスクワ大公国の時代に要塞が築かれたのを始まりとする。旧ソ連時代は軍需産業、ソ連崩壊後は自動車工業が盛ん。ロケット工学の先駆者ツィオルコフスキー所縁の地として知られ、彼の業績を称えた博物館がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「老鴰(ラヲクワ)」(lǎoguā)中国の北方方言で「カラス」のこと。熊楠は『「はしぶとがらす」と同物らしい』とするが、多分、違う。ワタリガラスのことと思われる。にしても、東欧に近いロシアの鳥を示すのに、これはないだろうと思うんだがねぇ?……

「廣韻」(くわうゐん(こういん))は韻書「大宋重修広韻」。北宋の陳彭年や丘雍 (きゅうよう) などによる奉勅撰。一〇〇八年に完成した。「切韻」「唐韻」の音系と反切を継承し、平声(上・下)・上声・去声・入声の全五巻から成り、二万六千百九十四字を収め、平・上・去・入の二百六韻に分けてある。古代の字音を知る上で、極めて重要な資料とされる。

「格物論」不詳だが、調べたところ、熊楠の引用する文字列と合致するものが、清の陳元龍が一七三五年刊行した博物学書「格致鏡原」にあることが判った。「漢籍リポジトリ」の「欽定四庫全書」の「格致鏡原卷七十九」の「鳥類三」の「079-2b」の四行目を見られたい。熊楠はここを「格物總論烏鴉别名種𩔖亦繁……」から、頭をちょっと訳して引いたのであろう(表字の一部が異なるが、意味は変わらない)。あたかも熊楠自身が「格物總論」という原書を読んだかのようにしているのは鼻白む。そこを暴いて、訓読しておく。

   *

「格物總論」に、『「烏(う)」は「鴉(あ)」の別名なり。烏、種類、又、繁(おほ)し。小(しやう)にして、多く羣がり、腹下の白き者、有り、「鴉鳥(あてう)」と爲(な)す。小さき嘴にして白く、他鳥に比し、微(かす)かに小(すこ)し長くして、其の母に反哺する者、有り、「慈烏」と爲す。大きなる喙(くちばし)及び白き頸にして、反哺する能はざる者は、南人、之れを「鬼雀」と謂ひ、又、之れを「老鴉」と謂ふ。鳴けば、則ち、凶咎(きようきう(現代仮名遣:きょうきゅう))あり。』と。

   *

「訓蒙圖彙」(きんもうずい:現代仮名遣)は儒者・本草学者中村惕斎(てきさい:京の呉服屋に生まれた町人であったが、当代の知られた思想家伊藤仁斎と並び称された碩学であった)によって寛文六(一六六六)年に著された図入りの類書(百科事典)。全二十巻。

「須川氏譯の具氏」(ぐし)「博物學」アメリカ人編集者で作家(児童文学を主とした)でもあったサミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ(Samuel Griswold Goodrich 一七九三年〜一八六〇年)が一八七三年に出版した「A pictorial Natural History」(「図説博物学」)を、明治八(一八七五)年に、須川賢久の訳、田中芳男の校閲で翻訳され、翌年に刊行、明治十年代の小学生の博物教科書として大いに使用されたそれを指す。本書は博物学の説明を中心に、宇宙や物理に関する記述も含まれている。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで訳本全十巻を視認することが出来る。

私は――六十四にもなった私は――一見して魅了された。小学生時代に、「微生物を追う人々」に魅了された如くに……。明治初期の日本では、今日のような教科書は未だ存在せず、欧米で刊行された書籍を翻訳・翻案して教科書としていた。「具氏博物学」は、こうした明治初期に使われた翻訳教科書の一つである。

「ボナパルト親王がコルヴス、ヤポネンシスと附けた」ハシブトガラス亜種ハシブトガラスに、Corvus macrorhynchos japonensis Bonaparte, 1850 がある。

「ワグレルがコルヴス、マクロリンクスと附けた」Corvus macrorhynchos Wagler, 1827。ハシブトガラスのタイプ種。

『「本草啓蒙」に熊野烏は一名那智烏、大さ白頭鳥(ひよどり)の如く全身黑く頂毛立つて白頭鳥の如しと有る』小野蘭山述「重訂本草綱目啓蒙」の「慈烏」のここの右丁十行目に出る(立項標題は前丁である)。

「一八五一年板モニヤー、ウヰリアムスの英梵字典」イギリスの東洋学者・インドでオックスフォード大学の第二代サンスクリット教授であったモニエル・モニエル=ウィリアムズ(Monier Monier-Williams 一八一九年~一八九九年)のサンスクリット辞典は現在も広く使われている。

「印度の家邊に多き烏(クロウ)は學名コルヴス、スプレンデンス」カラス属イエガラスCorvus splendens 。インド及び中国南東部が本来の分布域。本邦にはいない。

「經律異相二十一に引いた野狐經」「大蔵経テキストデータベース」のこちらの「T2121_.53.0114b28」を参照されたい。当該部である。訓読する。

   *

 唯(ひと)り尊(たつと)くして 樹上に在り

 智慧 最も第一にして 明らかに十方を照らし

 紫磨金(しまごん)を 積むがごとし

   *

「紫磨金」「ごん」は「金」の呉音。紫色を帯びた純粋の黄金。最上質の黄金を指す語。

「飜譯名義集」(ほんやくみやうぎしふ)は南宋で一一四三年に成立した梵漢辞典。七巻或いは二十巻。法雲編。漢訳仏典の重要梵語二千余を六十四目に分類し、各語について、訳語・出典を記したもの。]

2021/12/06

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(4) /「一」~了

 

[やぶちゃん注:以下の一段落は追加注記っぽい内容であるためか、底本では段落全体が一字下げとなっている。]

 

 畠山箕山の色道大鏡六に、「起請文を書く料紙は、先づ熊野牛王をもつて本とす、中村屋の鳳子小藤は、白紙なしに二月堂の牛王七枚張りにして細字にこれを書く、上林家の二世薰(かほる)[やぶちゃん注:読みはママ。]儉子も白紙なしに三山の牛王九枚綴にして書けり云々。明曆の頃中京の何某傾城に起請書かする爲に怖ろしき鬼形の牛王を新たに彫せて之を用ゆ、尤も作意働きて面白し故ありと覺ゆ」と有り。是等牛王は、もと起請を背かば牛形の鬼に罰せらるべしと云ふ意から起こつた證たるべきにや。

[やぶちゃん注:「畠山箕山の色道大鏡」畠山箕山(きざん 寛永三(一六二六)年~宝永元(一七〇四)年)は俳人・鑑定家。本姓は藤本。箕山は号。京の裕福な紅屋に生まれ、松永貞徳に俳諧を学び、古筆目利きを嗜んだ。二十歳の頃。京坂の廓をはじめとして、諸国の遊里の見聞を一書にすることを志し、承応三(一六五四)年頃に本宅を処分したのを機に、「深秘決談抄」の編集に着手し、「色道の大祖」を以って任じた。これが延宝六(一六七八)年に成稿をみた「色道大鏡」で、自己の見聞をもとに、疑わしい事柄は、古老や、その道の達人に質して執筆された、他に類を見ない遊里百科事典として知られる。他に「顕伝明名録」などの著がある(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。以上の起請文の話は、国立国会図書館デジタルコレクションの同書の写本の同巻の「第二 起詞文 付 血書」ここの四行目から載るが、熊楠は途中を各所で省略している。

「明曆」一六五五年~一六五八年。]

 烏を神鳥とする事本邦に限らず、希臘に神アポロ烏に化(な)る話有り。女神ジユノは烏を使者とし次に孔雀に改めた。印度にはラマヤナムに、神軍鬼軍と戰ふて敗走する時烏來つて閻魔(ヤマ)を助く。其報酬に葬饌を烏の得分とし、烏之を享る時死人の靈樂土[やぶちゃん注:原文は「藥土」。選集で訂した。]に往き得と定む。希臘の古諺に、死ぬ事を烏の許に往くと言つた。今日も波斯[やぶちゃん注:「ペルシヤ」。]や孟買(ボンベー[やぶちゃん注:インドのボンベイのこと。])のパーシー人や西藏[やぶちゃん注:チベット。]人は、死屍を支解し又全體のまま禿鵰(ヴアルチユール)に食はす(衞藏圖識卷下、又 Sven Hedin, “Trans-Himalaya,”1909, pp. 371-372;Encyc. Brit. 11th ed., vol. xx. p. 867)。必ず烏腹に葬るを期せずとも、熱地で死屍や半死の人畜が鳥獸に食はれ終るに任す事多きは、予も親ら賭た[やぶちゃん注:「みづから、みた」。]。殊に惡疫流行して埋葬に人手乏しき時然り。雍州府志に、京都紫野古阿彌谷に林葬行はれ、死人を石上に置去り、狐狸の食ふに任せし由を載せ、元亨釋書に某皇后遺命して五體を野に棄しめ給ひしと見え、發心集には、死せしと思ひて野に棄てたる病女の兩眼を烏が食ふた譚有り。是等よりもずつと古く、埋葬の法簡略に過ぎた地方には、烏等に人屍を食るゝ事珍しからず。烏亦人の將に死なんとするを能く知つて其邊を飛廻り、或は鳴いて群を集むるより、之を死を予告する鳥又死を司る神使など言ふに及んだのであらう。十五年前予熊野の勝浦に在りし時、平見(ひらみ)と云ふ所の一松に烏來り鳴くと、必ず近き内に死人有りて少しも錯(あやま)り無しと。斯る事に一向無頓着な老人の經驗譚を聞いた。されば、本邦で烏を使ひ物とするは必しも熊野の神達に限らず、信州諏訪の宮(諏訪大明神繪詞上)、江州日吉山王(山王利生記一)、隱岐の燒火山(隱州視聽合記二)、越後の伊夜彥明神(東洋口碑大全一〇一〇頁)、肥前の安滿嶽(甲子夜話二三及八七)、其他例多かるべきが、熊野は伊奘册尊御陵の有る地で古くより死に緣有り、中世本宮を現世の淨土としたる樣子は源平盛衰記等に見え、今も妙法山を近郡の死人の靈が枕飯(まくらめし)出來る間に必ず一たび詣るべき所とするなど、佛法渡來前より死靈に大關係有る地としたなるべく、固より其地烏鵜[やぶちゃん注:選集は『烏鴉』とするが、採らない。鵜は黒く、古えは同類と考えた可能性を否定出来ないからである。]多かつたので、前述閻魔と烏との關係、また佛說に冥界後生の事を記するに必ず烏の事有る(例せば正法念處經七に、邊地夷人其國法の儘に姉妹と婬する者、死して合地獄に生じ、烏丘山(うきうせん)の鐵烏に苦められ、沙門にして梵行しながら涅槃行を笑ふ者、命終つて大紅蓮獄に墮ち、烏に眼と舌根を拔き耳を割き身を分散さる。大勇菩薩分別業報略經に强顏少羞恥、無節多言說、隨業獲果報、後受烏鳥身)等より、佛典渡來後熊野の烏は一層死と死後の裁判に關係厚く信ぜらるゝに及んだゞらう。支那にも、洞庭有神鴉、客帆過、必飛噪求食、人以肉擲空中哺之、不敢捕也(五雜俎九)と有る。

[やぶちゃん注:「女神ジユノ」ローマ神話最大の女神で、女性の結婚生活を守護し、主に結婚・出産を司るとされたユーノー(ラテン語:Juno)の英語読み。主神ユーピテルの妻。女性の守護神であることから、月とも関係する。神権を象徴する美しい冠を被った荘厳な姿で描かれる。ギリシア神話のヘーラーと同一視される。

「ラマヤナム」古代インドの大長編叙事詩「ラーマーヤナ」。ヒンドゥー教の聖典の一つであり、「マハーバーラタ」と並ぶインド二大叙事詩の一つである。サンスクリットで書かれ、全七巻、総行数は聖書にも並ぶ四万八千行にも及ぶ。成立は紀元後三世紀頃で、詩人ヴァールミーキがヒンドゥー教の神話と古代の英雄であるコーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる。ここで言及される鴉については、既に「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)」で注しておいたので、そちらを参照されたい。

「支解」「肢解」とも書く。人体の両手・両足を切り離すこと。実際の刑罰としてもこの語があるが、ここは、速やかに鳥獣に食されてあの世に行けるようにするための処理である。

「衞藏圖識」清の馬掲(少雲)と盛縄祖(梅渓)が著わしたもので、乾隆五七(一七九二)年の序がある。上巻には成都からチベットに至る道程が、下巻にはチベット地誌が、地図や住民を描いた図とともに記されてある。熊楠は「下卷」とするが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここの、同書の「識略上卷」のここPDF)の「26」コマ目の「喪葬」の中に、「塲縛於柱剖其肉喂犬為地葬其骨以石臼搗成粉和麪搓團亦喂犬或飼諸鷹謂之天葬居以為大幸」の文字列が見出せる。「喂」は「家畜に餌を与える」の意である。ここが熊楠の指す内容と思われる。

「禿鵰(ヴアルチユール)」vulture。ここは旧大陸のタカ目タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae のハゲワシ類を指す。

「Sven Hedin, “Trans-Himalaya,”1909, pp. 371-372」中央アジア探検で知られたスウェーデンの地理学者スヴェン・アンデシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の一九〇九年刊の「トランス・ヒマラヤ――チベットでの発見と冒険」(Trans-Himalaya :Discoveries and Adventures in Tibet)。書名は、彼が、発見したヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈の名。「Internet archive」で二〇一〇年版他を見たところ、当該ページが‘DISPOSAL OF THE DEAD’(「遺体の廃棄」)の章で文字通りの内容が記されてある

「Encyc. Brit. 11th ed., vol. xx. p. 867」Internet archive」で当該部を見ると、前の866から始まる「Parsee(パルシー教徒:イスラム教徒の迫害を避けてインドに逃げたゾロアスター教の人々を指す)の項の記載の中に、鳥葬の場として知られる“ tower of silence ”(「沈黙の塔」)で粉砕された遺体を「vultures」(ヴァルチュール:ハゲワシ。この場合は鳥綱タカ目タカ科シロエリハゲワシ属インドハゲワシ Gyps indicus )が喰らうシーンが記されてある。私は小学校四年生の時に図書室にあった「世界の謎」(という書名だったように記憶する)の中で、この「沈黙の塔」のモノクローム写真を見た時の驚愕を今も鮮明に思い出す。誰もいない冬の昼休みの陽射しの中だった……。

「雍州府志」(ようしゅうふし:現代仮名遣)は医師で歴史家でもあった黒川道祐(どうゆう 元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)によって天和二(一六八二)年から貞享三(一六八六)年にかけて書かれた、山城国(現在の京都府南部)に関する本邦初の総合的体系的地誌。全十巻。以下の「京都紫野古阿彌谷」のそれは、「卷九」の「補遺」の「古蹟門 愛宕郡」の冒頭も「古阿彌ガ谷」として出る。「国文学研究資料館」の「電子史料館」のこちらで原本画像が見られる。訓点附きで読み易い。ここは、京の三大風葬地として化野(あだしの)・鳥部野・蓮台野が知られ、上記ンリンク先でも現在の北区紫野東蓮台野町や、その南東直近に大徳寺が記されてあるから、大内裏北方外に当たるこの附近である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)は漢文体で記された日本初の本格仏教通史で、臨済僧虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)が鎌倉末期の元亨二(一三二二)年に完成させ、朝廷に上呈された。全三十巻。「某皇后遺命して五體を野に棄しめ給ひし」は、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)」でもそうだったが、今回、また、かなり頑張って探したが、どこにあるのか不詳。

「發心集には、死せしと思ひて野に棄てたる病女の兩眼を烏が食ふた譚有り」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)」の私の注で電子化してある。

「平見(ひらみ)」和歌山県東牟婁郡太地町太地のこの附近であろう。この半島の根っこから陸側が現在の東牟婁郡那智勝浦町である。

「隱岐の燒火山」「たくひやま」。西ノ島のここにある。

「隱州視聽合記」(いん(或いは「おん」)しゅうしちょうがっき:現代仮名遣)は寛文七(一六六七)年に記された隠岐国地誌。全四巻・地図一葉。かなり読み難い写本であるが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあるそれPDF)の「67」コマ目最終行から次にかけての「知夫郡燒火山緣起」の中に、山中に二羽のみ栖んでいる鴉が神使であることが載っている。個人ブログ「ハッシー27のブログ」の「焼火神社」の記事中に、『この焼火神社のお使は二羽の烏だとされていて、二十四日と二十八日(この方は山神のお祭)には、山神の木にいるという二羽の烏のためにお供えを鍋の蓋の上に載せて供えておくと、いつの間にか烏が食べてしまうといわれている。この烏がいつも二羽で、こどもが生まれると』、『もとの親はどこかへ行ってしまうと伝えていることも、紀州や薩摩の伝承と全く一致しているところである。この烏のことは漢文で書かれた縁起書にも出ている』とある。

「越後の伊夜彥明神」「いやひこみやうじん」。現在の正式名称は彌彦(いやひこ)神社。新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦(地名は差別化して読み方が違う)にある。主祭神は天香山命 (あめのかごやまのみこと)であるが、地名から「伊夜日古大神」とも呼ぶ。

「東洋口碑大全一〇一〇頁」「大全」は「たいぜん」と読む。巌谷小波編で大正二(一九一三)年博文館刊。国立国会図書館デジタルコレクションで全篇が読める。当該箇所はここ(標題は前ページで「八一二 烏の使者」)。但し、大上段に振りかぶって興味をそそらせる題名の割には、各篇の内容がちょっと軽量に過ぎ、恐らく私だったら、買って損したと感ずるタイプの全書である。

「肥前の安滿嶽(甲子夜話二三及八七)」本注のために、急遽、二篇カップリングでブログで電子化しておいたので、参照されたい。

「妙法山」那智勝浦町にある妙法山。那智山の一角を占める。山腹に妙法山阿弥陀寺があ「枕飯(まくらめし)」死者の枕元に供える盛り切りの飯。人の死後直ちに、お椀の蓋すり切りの米を、研がずに、古式では日常の竃とは別に臨時の竃を設け、鍋・釜に蓋をせずに炊き、炊いただけを茶碗に盛るなどの作法がある。茶碗は死者が生前に常用したものを使い、箸を一本か二本、飯の上に突き立てたり、一本を立て、一本を横に挿す例もある。飯の一部を小さな握り飯にして上にのせ、「散飯(さば)」と呼ぶ地方もある。日常の食事で、一膳飯や箸を立てることを忌むのは、この枕飯を連想するためである。枕飯は祭壇に移し、葬列ではお膳に乗せて相続人の妻が持つ。墓前に供えるのが一般で、埋葬した上に霊屋(たまや)を設ける場合は、その中に入れる。枕団子を伴うことが多い。

「正法念處經七に、邊地夷人其國法の儘に姉妹と婬する者、死して合地獄に生じ、烏丘山(うきうせん)の鐵烏に苦められ、沙門にして梵行しながら涅槃行を笑ふ者、命終つて大紅蓮獄に墮ち、烏に眼と舌根を拔き耳を割き身を分散さる」これは原文から抜粋して、コンパクトに纏めたもの。「大蔵経テキストデータベース」の「正法念處經」のガイド・ナンバー「T0721_.17.0035b27」以下のかなり長いパートに相当する。

「强顏少羞恥、無節多言說、隨業獲果報、後受烏鳥身」訓読する。「强顏(きやうがん)にして、羞恥、少なく、無節にして、言說、多ければ、業(がふ)に隨ひて果報を得て、後に烏鳥(うてう)の身を受く。」。

「洞庭有神鴉、客帆過、必飛噪求食、人以肉擲空中哺之、不敢捕也」同前。「洞庭に神鴉(しんあ)あり。客帆、過(す)ぐれば、必ず、飛び噪(さは)ぎて、食を求む。人、肉を以つて擲(なげう)てば、空中に之れを哺(くら)ふ。敢へて捕えざるなり。」

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。]

 且つ夫れ梵土に在ては烏と牛との間に深緣有り。バルフヲールの印度事彙(上出、卷一、頁八四四)に、印度の大黑烏(學名コルヴス、クルミナツス)は水牛有る處に必ず有つて其背に駐(と)まり、小ミナ烏と協力して牛蝨を除くと見ゆ。アリストテレスの動物志九卷六章に、埃及ニル河に小蛭多くて鱷[やぶちゃん注:「わに」。「鰐」に同じ。]の喉に入り之を苦しむ。トロキルスてふ小鳥、鱷口に入つて其蛭を食ふ。鱷之を德とし每に[やぶちゃん注:「つねに」。]口を滿開して烏の入るに便にすと有るは、今日も目擊し得る事實で、印度の烏と牛との關係に似て居る。古波斯のミツラ敎は日神ミツラを祀り牛と鴉を聖禽とした。烏と牛は本邦では雙[やぶちゃん注:「ふたつ」。]ながら主として著しく黑く人里離れぬ動物たる所へ、印度にも斯く二者親密の關係有るを傳承して、烏形を點じて牛王寶印を作成したのであらう。而して、烏を援(ひ)いて誓言する事は古雅典[やぶちゃん注:「古アテネ」。]にも有つた由、グベルナチスがアリストフアネスの詩を引いて言はれた(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ vol. ii. p. 252)。

[やぶちゃん注:「バルフヲールの印度事彙(上出、卷一、頁八四四)」スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。Internet archive」のThe Cyclopaedia of India (一八八五年刊第一巻)の原本のこちらの左ページ左欄に当該内容が出る。

「印度の大黑烏(學名コルヴス、クルミナツス)」上記原本では、「Corvues culminates」(当時は学名を斜体にする習慣はなかった)とある。これは、スズメ目カラス科カラス属インディアンジャングルクロウ(和名はないようなので、英名「Indian Jungle Crow」をカタカナ音写で示した。南方熊楠の命名が最初なら「インド(ノ)オオクロガラス」となろうか)Corvus culminatus である。英文の同種のウィキを参照した。

「小ミナ烏」原本では「the small minah (Acridotheres tristis)」とある。これは、アジア産鳥類の一種のスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属インドハッカ(印度八哥)Acridotheres tristis である。当該ウィキによれば、『開けた疎林にいる雑食性の鳥で、強い縄張りの習性を持つインドハッカは、都市の環境にも非常によく適応している』。『インドハッカの分布域は急速に拡大しており』、「IUCN(国際自然保護連合)種の保存委員会(Species Survival Commission: SSC)」は、二〇〇〇年に、本種について、「非常に侵略的な外来種の一つであり、地球上において、その上位百種の中でも、わずか上位三種の鳥類の内の一種」として『発表したように、インドハッカは生物多様性ならびに農業や人的利益に対して影響を与えて』おり、『特に、本種はオーストラリアの生態系に深刻な脅威をもたらして』いて、『それは「最重大有害種/問題」(The Most Significant Pest/Problem) などと名付けられている』とある。一方で『インドハッカ(英: Common Myna)は、インド文化の重要なモチーフとして』、『サンスクリットおよびプラークリットの文学の双方に見られる』とあるほどに古代からの共生者である。

「牛蝨」「うしじらみ」。ウシジラミ類は、例えば本邦では発生時には農林水産省に届け出が必要な種として、昆虫綱咀顎目シラミ亜目 ケモノジラミ科 ヘマトピナス属ヘマトピナス・ユーリステルナス Haematopinus eurysternus ・ヘマトピナス・クォードリペルターサス Haematopinus quadripertusus などが挙げられている。

「アリストテレスの動物志九卷六章に、埃及ニル河に小蛭多くて鱷の喉に入り之を苦しむ。トロキルスてふ小鳥、鱷口に入つて其蛭を食ふ。鱷之を德とし每に口を滿開して烏の入るに便にす」「ニル河」はナイル川であろう。しかし、所持する一九六九年岩波書店刊島崎三郎訳「アリストテレス全集」第八巻の当該部を見るに、「蛭」などとは言っていない(吸着性寄生生物がいるであろうことは間違いないが、海産魚類のような節足動物である可能性や小型の魚類がいてもおかしくない)し、微妙に対象様態の表現も違う。引用しておく。〔 〕は訳者の補足。

   《引用開始》

 ワニが口を大きく開けると、チドリ〔ワニドリ〕は口の中へとび込んで歯をきれいにする。チドリは〔口の中で〕餌を取り、ワニはそのお蔭をこうむっていることを知っているので、チドリを害せず、チドリを外で出したいと思うと、頸を動かして警告し、かまないようにするのである。

   《引用終了》

「ミツラ敎」ミトラ教(英語:Mithraism)は古代ローマで隆盛した太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教。古代のインド・イランに共通するミスラ(ミトラ)神の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって、地中海世界に入った後、形を変えたものと考えられることが多い。 紀元前一世紀には、牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現われ、紀元後二世紀までには、ミトラ教として、よく知られる密儀宗教となっていた。ローマ帝国治下で一世紀から四世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い(以上は当該ウィキに拠った)。

「牛と鴉を聖禽とした」同前のウィキに、ミトラス神による聖牛供儀の場面を描く場合、種々のアイテムが付随するが、その一つに『カラス』『のシンボルを伴う』ものがあるとあり、また、ミトラ教では信者組織は七つの位階を持つとしてその筆頭を「大烏」と呼んだとある。

「グベルナチスがアリストフアネスの詩を引いて言はれた(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ vol. ii. p. 252)」本書電子化で複数回既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。]

 追記 長門本平家物語五に藤原成經硫黃が島に流されしを其情婦で淸盛に仕えた伯耆局慕うて止まず。豫ねて心懸け居た鳩脇八幡宮中の馬場執印淸道奇貨置くべしと考へ、成經方へ伴ひやるべしとして彼婦人同道で大隅に下り說けども三年間隨はぬ内成經と再會した譚有り。此女童名牛王殿と有る。是は佛典に牛王蟻王烏王馬王など有る、牛群中の王を指す名で、起請の牛王とは關せぬだらう。俊寬の侍童有王の外に蟻王てふ名の少年も有つたと記憶する。類聚名物考卅九に、徒然草上太秦殿に侍りける女房の名ひさゝち・ことつち・はふはら・おとうし、同考にひさゝちは膝幸、ことつちは如槌の意、はふはらは腹の大く垂て地を匍ふ如くに見ゆる故云ふならん、乙牛は字の如く小さきを云歟と記す。是等は單に下女共を牛の健牛の健[やぶちゃん注:「すこやか」。]にして能く働くに比べて號けた者だらう。(大正五年鄕土硏究三卷十一號)

[やぶちゃん注:「牛王殿」国立国会図書館デジタルコレクションの明治三六(一九〇六)年国書刊行会編の長門本「平家物語」のこちらの左ページ上段十一行目に出る。

「俊寬の侍童有王の外に蟻王てふ名の少年も有つたと記憶する」いる。複数の作品で確認出来る。

「類聚名物考」江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した。左ページ下段後方から次のページにかけてである。]

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