[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた(今回は例外あり)。]
母 衣(ほ ろ) (大正三年四月『民俗』第二年第二報)
始于漢樊噲、出陣時、母脫ㇾ衣爲二餞別一、噲毎戰被二衣於鎧一、奮勇殊拔群(一說非二樊噲一、爲二後漢王陵故事二。)其後馳驅武者用ㇾ之(「和漢三才圖會卷廿」)[やぶちゃん注:本篇に先立ってブログで「和漢三才圖會 卷第二十 母衣」として電子化注を公開しておいた。なお、ウィキの「母衣」の内容も侮れないので、一見をお勧めする。]。
新井白石の「本朝軍器考」卷九に、『保呂と云ふ物、その因て來《きた》る事、定かならず、又定まれる文字も有《あら》ず。古《いにしへ》には保侶(「三代實錄」)、保呂(「扶桑略記」)、母廬(「東鑑」)抔書きしを、其後は、縨、又は、母衣抔《など》、記《しる》せり。「下學集」には、縨を母衣と書く事、本《もと》と、是れ、胎衣(えな)[やぶちゃん注:写本では「タイヘ」とルビする。]に象《かたど》れる由を載せ、又「壒嚢(あいのう)抄」には、『母の小袖抔、縨に掛《かけ》し事の有るを、未だ其因(いわれ[やぶちゃん注:ママ。])の知れざる事も有るにや。』と書(しる)しぬ(『「縨」の字は韻書等にも見えず。「幌」の字は有り、是は「帷幔《いまん》」也。』と註す。)。其餘、世に云習《いひならは》せる文字も多けれど、皆な、信《うけ》難し(「武羅(ほろ)」、「神衣(ほろ)」、「綿衣(ほろ)」等、是也。)。神功皇后、三韓、討《うた》せ給ひし時、住吉の神、作り出《いだ》して進《まゐ》らせしと云《いふ》說あれど、正しき史には、見えず。貞觀十二年[やぶちゃん注:八七〇年。]三月、對馬守小野朝臣春風、奏せし所に、軍旅之儲、啻在二介冑一、介冑雖ㇾ薄助以二保侶一〔軍旅の儲(まうけ)は、啻(ただ)に介冑《かつちう》に在り。介冑は薄しと雖も、助くるに保侶を以つてす。〕。調布《つきぬの》をもて、保侶衣(ほろぎぬ)千領を縫《ぬひ》作り、不慮に備へんと望み請《こひ》し事、見え(「三代實錄」)、又、寬平六年[やぶちゃん注:八九四年。]九月、新羅の賊船、四十五艘來りて、對馬島を犯す事有り。守(かみ)文屋(ふみや《の》)善友、迎へ戰ふて、彼《かの》大將軍三人、副將軍十一人を始《はじめ》て、三百二人を射殺《いころ》して、取る所の大將軍の甲冑・大刀・弓・胡籙《やなぐひ》・保呂等、各《おのおの》一具、脚力に附《つけ》て進《まゐ》らせし由、見ゆ(「扶桑略記」)』と有て、次に、其師順庵の說なりとて、「母衣」てふ字は「羽衣(うい)」を誤寫せるにて、是れ、「毦(じ)」と云物也。「毦(じ)」の字は羽毛の飾り、一に言《いは》く、羽を績《つむぎ》て衣とす、一に言く、兜鍪上《かぶとのうへ》の飾なり云々。「三國志」に、蜀の先生の結びしは、犛牛《りぎう》の尾と見え、梁の庾信《ゆしん》が詩に、『金覊翠毦《きんきすいじ》』と云りしは、翠羽《すいう》を以て作りたれば、羽を績て、衣とす、と云ふ註に合ひぬるにや云々。思ふに毦と云物は、三國の頃、專ら、軍容の飾りと成せし物にぞ有ける。「後漢書」の内に、其と覺しき物、既に見ゆ。三韓の地にも其製に倣ひ來り、寬平の御時の賊帥も、之を負ひたるにこそ。我國の軍裝に、保呂掛け・總角《あげまき》付《つく》るは、神代よりの事と見ゆ。「六月晦大祓祝詞《ろくぐわつこもりおおほはらへのつと》」に、比禮挂伴男《ひれかくるとものを》、手纏挂伴男《たすきかくるとものを》と云《いふ》、卽《すなはち》、此也。古時、「比禮《ひれ》」と云しを、後ち、「保侶」と云、其語、轉ぜしなり。春風が奏せし所に據るに、其代には、此物、介冑を助け、身を保つべき物と見ゆ。軍裝とのみも、云可《いふべか》らず。只、其制の如き、今、はた、知らるべきにも非ず。古き繪共に、保呂、掛し物を、𤲿きしを見るに、近き世の制と大《おほい》に異なり、古《いにしへ》は、是を着《つ》くべき樣《よう》も、兵《つはもの》の家、傳ふる所の故實、ある事なりき云々、今樣は、帛《はく》の長《たけ》も長く、其幅の數も多く成し程に、保呂籠と云物に引覆ひて、前に「はだし」と云物、立て、串をもて、鎧の後《うしろ》にさす事に成にけり。斯る制、元弘、建武の頃よりや始まりぬらむ。近き頃まで、東國の方にては、多くは古《いにしへ》の制を用ひて、今樣の物をば、提灯保呂《てうちんほろ》抔云し由云々、又、「近代より、羽織と云物をもて、軍裝とする事、有りけり。古えには、斯る物有りとも、聞こえず。されど、古に羽を績ぎて衣とすと云しは、此物の類也。扨こそ、斯くは、名《なづ》けたらめ。」と云人、有り。近代迄、有りつる昔、保呂と云ひける物、此物に似たる所もあれば、かの羽を績ぐと云ひしも、羽を織ると云はんも、其義の、相遠《あひとほ》からねば、其名を、斯《かく》、名づけたりけんも知《しら》ず。』と論じ居る。
[やぶちゃん注:『新井白石の「本朝軍器考」』全十二巻から成る故実書。享保七(一七二二)年跋、元文五(一七四〇)年刊。古代からの軍器の制度・構造・沿革などについて、旗幟・弓矢・甲冑等に部類して考証したもの。全十二類百五十一条から成る。付考として、白石の義弟朝倉景衡(かげひら)の編に成る「本朝軍器考集古図説」がある。国立国会図書館デジタルコレクションのここから、非常に状態の良く、判読も容易な美しい写本の当該部を視認出来たので、それを元に南方熊楠の引用の誤り或いは誤植と思われるものを、一部、訂した。熊楠のものの方が読み易く、意味が変わらないと判断したものはそちらを採用した。但し、「云々」で分かる通り、原文はもっと長く、熊楠は途中にかなり手を加えて書き変えてあるので、まずは、原文を見られんことを強くお勧めする。以上の注は、やりだすと、だらだらと労多くして益少なきものになるのは、目に見えているので、一部を文中注とし、注を入れた方がいいと考えた箇所のみ以下に注する。
「三韓」紀元前二世紀末から紀元後四世紀頃にかけて、朝鮮半島南部の三つの部族連合で、馬韓・辰韓・弁韓を含む。
「小野朝臣春風」(おののはるかぜ 生没年不詳)は平安前期の貴族・歌人。従五位上。小野石雄の子。当該ウィキによれば、貞観一二(八七〇)年『正月に従五位下に叙爵するとともに、新羅の入寇への対応を行うべく、対馬守に任ぜられる。対馬守在任時に、甲冑の防御機能を強化するための保侶衣』一千領、(☜)『及び』、『兵糧を携帯するための革袋』一千『枚の必要性を朝廷に訴え、大宰府に保管されていた布でこれらが製作された』とあるのを指す。
「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文徳天皇実録」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。
「文屋(ふみや《の》)善友」(ふんやのよしとも 生没年不詳)は平安前期の官人。官職は上総大掾・対馬守。当該ウィキによれば、元慶七(八八三)年に『上総国で起きた俘囚の乱を上総大掾として諸郡の兵』一千名を『率いて鎮圧した経験を有していた。この時期、新羅の海賊が対馬国・九州北部沿岸を襲う事件がたびたび起こり』、前に述べた小野春風が貞観一五(八七三)年に『対馬守に赴任』、『朝廷に』上奏して『軍備の拡充を行ってい』たが、寛平五(八九三)年にも『新羅の賊が九州北部の人家を焼くという事件があり、翌寛平』六年四月、『新羅の船大小』百『艘に乗った』二千五百『人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に来襲した。この知らせを受けた朝廷は、参議・藤原国経を大宰権帥に任命して討伐を命じるなどの対策に追われ』、当時、対馬守であった善友は、それを迎え撃った。九月五日の』『朝、対馬に押し寄せたのは』四十五『隻』で、『善友は』、先ず『前司の田村高良に部隊を整えさせ、対馬嶋分寺の上座面均と上県郡の副大領下今主を押領使とし、百『人の兵士を各』五『名ずつ』二十『番に分け』、最初に四十『人の弱軍をもって敵を善友の前までおびき寄せ、弩』(おおゆみ)『による射撃戦を挑んだ。矢が雨の如しという戦いののち、逃走しようとする敵を』、『さらに追撃』、大将三人、副将十一人を含む賊三百二人を『射殺した。また』、船十一隻、甲冑、保呂』(☜)。『銀作太刀および太刀』五十『柄、桙』一千『基、弓』百十『張、弓胡(やなぐい)』百十、『置き楯』三百十二『枚など』、『莫大な兵器を捕獲し』、『賊』一『人を生け捕っ』ている。而して、『この捕虜が述べるには』、『これは私掠ではなく新羅政府によるものであり、「飢饉により王城不安であり食料や絹を獲るため」、『王の命を受けた船」百『隻』、二千五百もの『兵を各地に派遣した」と』述べ、『対馬を襲ったこの』四十五『艘も』、『その一部隊であった。また』、『逃げ帰った中には優れた将軍が』三『人おり、その中でも一人の唐人が強大であると述べた』とあり、さらに、『当時は律令軍制の最末期であり、またその装備である弩が蝦夷以外の対外勢力との戦いで使われた数少ない例である』とある。
「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。
「其師順庵」新井白石の師であった儒学者木下順庵(元和七(一六二一)年~元禄一一(一六九九)年)。甲府徳川家のお抱え儒学者を探しに来た際、順庵は新井白石を推薦している。
「梁の庾信」(五一三年~五八一年)は南北朝時代の文人。初め、南朝の梁に仕え、武康県侯に封ぜられたが、北周に使いした際、留められ、その後、梁が滅亡したため、そのまま北周に仕えた。驃騎将軍・開府儀同三司となり、その華麗な美文は、梁・陳に仕えた文人政治家徐陵とともに「徐庾体」と称される。但し、「金覊翠毦」の文字列は、私が調べた限りでは魏の武帝の古楽府、梁の元帝の「燕歌行」の一節にしか見当たらない。
「三國の頃」後漢滅亡後の二二〇年から~二八〇年、華北の魏・江南の呉・四川の蜀の三国が分立した時代。
「後漢書」南朝宋の范曄(はんよう)及び晉の司馬彪の撰。四三二年成立。
「六月晦大祓祝詞《ろくぐわつこもりおおほはらへのつと》」七鍵氏のサイト「Key:雑学事典」の「六月晦日大祓とは」を参照されたい。]
「康煕字典」に按服虔通俗文、毛飾曰ㇾ毦、則凡絲羽革草之下垂者、並可以毦名矣〔服虔《ふくけん》の「通俗文」を按ずるに、毛の飾(かざ)りを「毦」と曰ふ。則ち、凡そ絲羽革草の下がり垂るる者、並(みな)、「毦」を以つて名づくべし。〕と有る。熊楠謂ふに、其字、「耳」と「毛」より成る。角鴟(みゝづく)や猫に近いリンクス獸抔[やぶちゃん注:底本は「等」は空白で脱字。「選集」の『など』から、この熊楠の好きな字で補った。]、耳の尖《さき》に、長毛、有り。最初、其形容に用ひた字で、後には、冑《かぶと》や帽の後《うしろ》に垂《たれ》た飾《かざり》を言《いつ》たので、「博雅」の、一日績ㇾ羽爲ㇾ衣〔一(いつ)に曰はく、「羽を績いで、衣と爲す。」と。〕と有るは、ほんの異說に過ぎぬのだろ。吳の甘寧が敵を襲ふ迚《とて》、毦(じ)を負ひ、鈴を帶ぶべく、兵卒に令せしは、主として敵と混ぜぬ樣、徽章《きしやう》としたらしい。
[やぶちゃん注:「康煕字典」。清の一七一六年に完成した字書。全四十二巻。康煕帝の勅命により、張玉書・陳廷敬ら三十人が五年を費やして、十二支の順に十二集(各々に上・中・下巻がある)に分け、四万七千三十五字を収める。「説文解字」(漢。許愼撰)・「玉篇」(梁。顧野王撰)・「唐韻」(唐。孫愐(そんめん)撰)・「広韻」(宋。陳彭年(ちんほうねん)らの奉勅撰)・「集韻」(宋。丁度(ていたく)らの奉勅撰)・「古今韻会挙要」(元。熊忠(ゆうちゅう)撰)・「洪武正韻」(明。宋濂(そうれん)らの奉勅撰)などの歴代の代表的字書を参照したものであるが、特に「字彙」(明・梅膺祚(ばいようそ)撰)と「正字通」(明。張自烈撰)に基づいた部分が多い。楷書の部首画数順による配列法を採用、字音・字義を示し、古典に於ける用例を挙げ、この種の字書としては、最も完備したものとされる。但し、熟語は収録していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「服虔」後漢の古文学者(生没年不詳)。河南の出身。清貧の中で志を立てて大学に学び、論説の卓抜さを称された。霊帝の中平(一八四年~一八九年)の末年には、官は九江太守に至っている。
「角鴟(みゝづく)」フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、古名は「ツク」で「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」を見られたい。
「猫に近いリンクス獸」ネコ科オオヤマネコ属オオヤマネコ Lynx lynx のこと。当該ウィキによれば、十一亜種(但し、分類は混乱しており、確定亜種ではない)が挙げられてある。そちらの生体の野生画像を見れば判る通り、耳の先端から有意に毛が生えてシュッと立っていることが判る。
「吳の甘寧」(?~二一五年?)は後漢末期の武将。孫権に仕えた。]
古今、歐州にも冑や帽に毦を垂るゝ事多きは、ラクロアの「中世軍事宗敎生活(ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス)」英譯や知友ウェプ氏の「衣裝の傳歷(ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレス)」(一九一二年板)に其圖多し。毦(じ)は、本來、羽毛より成たが、後には布帛《ふはく》を以て作つた大きなものも出來、隨つて身を護り、兵を避《さく》るの具とも成たらしい。ラクロアの書一一七頁、ゴドフロア・ド・プーヨンの肖像など見て知るべし。陣羽織を鳥羽で織つたから羽織と云た、と聞く。確か秀吉が著たとか云う鳥羽で織《をつ》たものを大英博物館で見たと記憶する。歐州では、十三世紀の終り迄鳥羽を裝飾に用ひること稀だつた(「大英類典」卷十)。之に反し、未開民中、鳥羽を裝飾とする、精巧を極めた者あり。例せば、布哇《ハワイ》では、以前、羽細工、最も精巧を極め、鳥の羽もて、兜や、假面や、節(セプトル)や、冠や、頸環や、上衣を作る職人、頗る重んぜられた(英譯、ラッツェル「人類史(ヒストリー・オヴ・マンカインド)」一八九六年板、卷一、頁一九八、羽製の諸品は、一五五頁に對せる圖版に載す。英譯、フロベニウス「人類の幼稚期(ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン)」一九〇九年板、六二頁)。南米のムンヅルク人、尤も妙麗なる羽細工もて、上衣や節や帽を作るも、特殊の迷信的觀想を存し、容易《たやす》く外人に賣らず(ベイツ「亞馬孫河畔之博物學者(ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス)」一八六三年板、第九章)。墨西哥《メキシコ》發見の時、トラスカラン族の諸酋長と重臣、身に厚さ二吋《インチ》[やぶちゃん注:五センチメートル。]にて其國の兵器が徹り得ぬ綿入れの下著を著《き》、上に薄き金、又、銀板の甲を被《かぶり》、其上に莊嚴を極めたる鳥羽の外套を被り、美麗、口筆に絕した(プレスコット「墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》」ボーン文庫本、一九〇一年板、卷一、頁四七及び四三二頁)。歐州の將士、中古、サーコートとて、吾國の鎧直垂《よろひひたたれ》樣の物を鎧の上に著た。その狀は、ウェブの著(上に引た)八四、八五、八八の諸圖を見れば、分かる。惟《おも》ふに「三代實錄」等に見えた保呂衣は、介冑を助けて兵器を防ぐ爲め、古墨西哥人の下著、又、歐州中古のサーコート樣の者だつたのが、追々、變化して、後世の提灯保呂と成たんだろ。提灯保呂は、矢のみか、一寸した鐵砲をも防ぐと聞たが、實際を見ぬ故、果して然りやを、予は知らぬ。
[やぶちゃん注:『ラクロアの「中世軍事宗敎生活(ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス)」英譯』フランスの作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)の英訳本「中世の軍事的宗教的生活」。原本は‘Vie militaire et religieuse au Moyen Áge et à l'époque de la Renaissance’(「中世とルネッサンス時代の軍事的宗教的生活)。英訳本は「Internet archive」のこちらで見られる。
『知友ウェプ氏の「衣裝の傳歷(ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレス)」(一九一二年板)』『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話』(大正二年九月『民俗』第一年第二報)で既出既注であるが、再掲すると、『リンネ学会』会員で博物学者であったウィルフレッド・マーク・ウェッブ(Wilfred Mark Webb 一八六八年~一九五二年:熊楠より一つ下)の‘The Heritage of Dress’(「ドレスの伝統」一九一九刊)。
「節(セプトル)」よく判らぬが、「節」は「ふし」で木片を平たく削った板のことではないかと踏んだ。そこから「セプトル」の発音に似たものとして、私は「scepter」(セプター)、所謂、汎世界的に、王権の表象として王が持つ「笏(しゃく)」とか何かを指したり、探ったり、こじとったりする「箆(へら)」のような実用を兼ねたアクセサリーのようなものを言っているのではないかと推理した。
『ラッツェル「人類史(ヒストリー・オヴ・マンカインド)」』一八九六年板、卷一、頁一九八、羽製の諸品は、一五五頁に對せる圖版に載す」ドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本‘History of Mankind’ (trans. Butler)。「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページが当該部。残念ながら、リンク先のそれは、画像の殆んどがカットされているが、思うに、熊楠の指示するのは、辛うじて見られるこれようにも思われる。また、以下で同書第二巻を探していたら、同じ絵と、美麗なカラー図版(左ページ)を見出せたので、こちらを是非、見られたい。
『フロベニウス「人類の幼稚期(ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン)」』一九〇九年板、六二頁』「Frobenius, ‘The Childhood of Man’, London. 1909, p. 242」ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius 一八七三年~一九三八年)の英訳本「人類の幼年期」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られる。
「ムンヅルク人」“Mundurucú”。ムンドゥルク族。アマゾン川南部に住むラテン・アメリカ・インディアンの一民族。言語はトゥピ諸語に属する。嘗つては首狩りを行う民族として知られていた。マニオク(キャッサバ)栽培と採集漁労を営む。 三十家族ほどで集落を形成。男子結社があり、成人男子は家族の家には住まず、男性の家に住む。儀礼も女性・子供の参加を禁じている。一方、家屋は母系で継承されるという、男性と女性の対立原理の明確な社会である。現在では野生ゴムの樹液を日用品と交換しており,宗教的にはキリスト教化している(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
『ベイツ「亞馬孫河畔之博物學者(ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス)」一八六三年板、第九章)』イギリスの博物学者・昆虫学者・探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)は、「ウォレス線」で知られる博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)とともに、アマゾンで多様な動植物を収集し、進化論の発展に寄与した人物で、「ベイツ型擬態」(本来、無害な種が、捕食者による攻撃から免れるため、有害な種に自らを似せる生物擬態)に名を残している。原著書名は‘The Naturalist on the River Amazons’(「アマゾン川の博物学者」)。一九四三年版であるが、「Internet archive」の同書の当該章はここからだが、調べたところ、南方熊楠が紹介している部分は「245」ページが当該引用と推定されることが判った。
「トラスカラン族」 “Tlaxcala”で「トラスカラ」が正しい。「トランカラ族の」の意の“Tezcucan”(次注の原文を参照されたい)を熊楠が補正して意訳したものと思われる。現在のメキシコ中部のトラスカラ州の州都トランスカラ(正式名称はトラスカラデシコテンカトル Tlaxcala de Xicohténcatl)はメキシコ市の東約百キロメートルの、ラマリンチェ火山北西麓の標高約 二千二百五十メートルの高高度の地にあり、サワパン川に臨む。周辺の農業地帯の中心地で、トウモロコシ・豆類・家畜などを集散するほか,繊維工業が発達し、綿織物・毛織物・合成繊維などが生産される。スペインによる征服前からインディオのトラスカラ族が住んでいた地域で、正式名称の「シコテンカトル」は、トラスカラ族がメキシコ征服者エルナン・.コルテス(Hernán Cortés 一四八五年~一五四七年)に協力することに、強く反対した首長の名を記念したものである。コルテスは 一五一九年に市を制圧し、二年後にアメリカ大陸最初のキリスト教の聖堂「聖フランシスコ聖堂)」を建設した。近くにオコトラン神殿やティサトラン遺跡などがある、と「ブリタニカ国際大百科事典」にあった。
『プレスコット「墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》」ボーン文庫本、一九〇一年板、卷一、頁四七及び四三二頁)』アメリカの歴史家で、特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が一八四三年刊行したもの(The History of the Conquest of Mexico:「メキシコの征服の歴史」)。一八四八年版だが、「Internet archive」のこちらの47ではなく、その前の46ページにそれらしい記載はあった。432ページは?。
「サーコート」Surcoat。ウィキの「シュールコー」(フランス語:surcotte:「コット」(オーバーオール。昔の上着)の上に重ねるもの」の意)によれば、『男性は』十二『世紀の末(女性は』十三『世紀に入ってから)』十四『世紀半ばまで、西欧の男女に着られた丈長の上着のこと。シクラス、サーコート』『とも』呼んだ、『コットという丈の長いチュニックの上に重ねて着る緩やかな外出用の上着で、男性は長くても踝丈』(くるぶしだけ)まで、『女性は床に引きずる程度の長さであった。長袖のものは』、『やや珍しく、大半が袖無しもしくは半袖程度の短い袖』であった。十四『世紀に入って、タイトなコットが流行すると』、『シュールコートゥベールという脇を大きく刳ったタイプが大流行する』。元来は『シクラスという十字軍兵士が鎧の上から羽織る白麻の上着であった』(☜・☞)。『金属でできた鎧が光を反射するのを抑えるためと、雨による錆を抑えるために着るようになったものだが、戦場で乱戦となった時に』(☜・☞)『他の騎士と見分けがつきやすいように盾に付けていた自分の紋章などを大きく飾る場合もあった。イングランド王ヘンリー』Ⅲ『世は、最上の赤地の金襴で仕立てられ』、『前後に三匹の獅子を刺繍したシクラスを身に着けていた』。十二『世紀末に、十字軍からの帰還兵士を中心に日常着となる。初めは白麻などで作った白無地のものが多かったが、コットと同じようなウールの色物が一般的になっていった。フランス王室の』一三五二『年の会計録には、シャルル王太子(後のシャルル』Ⅴ『世)の着る袖付きシュールコーの表地のために赤色と藍色のビロードと金襴、裏地のためにヴェール(リスの毛皮)を購入した旨が記載されている』とあった。
「ウェブの著(上に引た)八四、八五、八八の諸圖」「Internet archive」のこちらで原本が視認でき、当該部は図「八四」(84)がここ、図「八五」(85)がここ、図「八八」(88)がここである。
「提燈保呂は、矢のみか、一寸した鐵砲をも防ぐと聞たが、實際を見ぬ故、果して然りやを、予は知らぬ」ネットで調べたが、判らぬ。画像検索で提灯のように上下が絞られた、それらしいものを一つ見つけたが、ウィルス・ソフトが「不審」とするサイトであったので、見るのはやめた。]
扨、一九〇八年、ラスムッセンの「北氷洋之民(ゼ・ピープル・オブ・ゼ・ポラール・ノールス)」英譯一八〇頁に、「或村でエスキモ人が殺されて、少時《しばらく》有《あつ》て、村民、皆な、狩りに出立《いでたつ》つ。村に留《とどま》るは、殺された人の妻と牝犬一疋だつたが、兩《ふた》つながら、姙娠中だつた。頓《やが》て其女、男兒を產み、自分と兒の食物を求めに出で、蹄《わな》で鴉を多く捉へ、翅を捨て、其羽で、自身と兒の衣類を拵えた[やぶちゃん注:ママ。]。所ろで、牝犬、亦、一子を生んだので、彼女、其子と狗兒とを咒《まじなひ》し、一年の間に、全く成長させ、長途を旅して、見も知らぬ人民の所に往《いつ》た。其處で、聊かの事から、母が彼《かの》人民と口論を始めると、其兒が彼等に向ひ、「彼是云ふより、我等を射《い》て見よ。」と云ふ。彼輩、弓矢を執つて母共に射掛ける。母、兒の前に立塞がり、兒が嬰兒だつた時、背に負ふに用ひた囊《ふくろ》の皮紐を振つて矢を打落すと、悉く外れて、一つも中《あた》らぬ。其後《そのご》、[やぶちゃん注:「其の後、」は「選集:」で補った。]其兒が、弓を執つて、敵衆を射盡《いつく》し、又、進んで他の新しい國に往《いつ》た。」と有て、此譚を著者に語つた者、吾、此譚を大海の他の側から來た人に聞《きい》たと言ふた、と附記し居る。吾國にも羽で衣を作つた事、「日本紀」一に、少彥名命《すくなびこな》、白蘞皮(かゞみのかは)を舟とし、鷦鷯羽(さざきのはね)を衣として海に浮《うか》み、出雲の小汀《おはま》に到る。是は、其頃、樹皮もて、舟を作り、諸鳥の羽を衣と作る事、行はれたので、此神、特に、身、小さい故、斯《かか》る小舟に乘り、斯る最小鳥の羽を衣としたと謂《いつ》たんだろ。
[やぶちゃん注:『一九〇八年、ラスムッセンの「北氷洋之民(ゼ・ピープル・オブ・ゼ・ポラール・ノールス)」英譯一八〇頁』グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年:デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である)の英訳本‘The People of the Polar North’(「極北の人々」)はイヌイットの風俗を纏めた旅行記。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ。
『「日本紀」一に、少彥名命、白蘞皮(かゞみのかは)を舟とし、鷦鷯羽(さざきのはね)を衣として海に浮み、出雲の小汀に到る』国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 上卷」(昭和八(一九三三)年岩波文庫刊)の当該部をリンクさせておく。大己貴命(おおなむち:大国主神)と彼が初めて出逢うシーンの直前である。「白蘞皮(かゞみのかは)」は種同定されていないが、蔓性植物で、巻ひげを持つもとされる。但し、少彥名命は体が極度に小さいので、中・大型の蔓性類は外せる。小型の蔓草でよいのである。「鷦鷯羽(さざきのはね)」(私は上代の文学は清音傾向主義で「そささき」と読みたい)は現在の「みそさざい」(鷦鷯)の古名。スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytesは本邦産の鳥類の中でも最小種の一つで、全長約十一センチメートル、翼開長でも約十六センチメートルで、体重も七~十三グラムしかない。囀りともに私の好きな鳥である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。]
一體エスキモ人は綠州《グリーンランド》より亞細亞の最東瑞の地、北亞細亞や北歐州で誰も棲得《すみえ》ぬ程の沍寒貧澁《ごかんひんじふ》の地に棲む民で、生態萬端、餘程、諸他の民族と異り居る。因て、其根源に就ても、學說、區々たり。だが、予が僻地に在乍ら、知り得た最近の報告に據ると、エスキモ人は、體質、全く、蒙古種《モンゴリアン》の者との事だ(チスホルム輯「ゼ・ブリタニカ・イヤーブック」、一九一三年板、一五四頁)。ラスムッセンに上述の話をしたエスキモが、大海の他の側から來た人に聞たは、漠として何の事か知れがたいが、先《まづ》は、當人が住む綠州から、餘程、北氷洋に沿つて隔つた地、乃《すなは》ち亞細亞の東端に近い地から來たエスキモ人に聞たと云ふ事だらう。ボアス博士が、一九〇二年出した、北太平洋遠征の調査書に據《よれ》ば、東北亞細亞の端に住む、チュクチ、コリヤク、カムチャダル、ユカギル等は、亞細亞民と云ふよりは亜米利加民と云ふべき程、人文の性質が亜米利加土人に似て居ると云ふから、無論、古くよりエスキモと交際しただろう。然《しか》る上は、日本人の祖先及び其近處《きんじよ》の古民族中に、曾て、羽を衣としたり、又、白石が推論した通り、比禮、即ち、原始態の母衣を掛て、兵箭《へいせん》を防ぐ風《ふう》が有たのを、東北亞細亞の諸族から聞傳えて、ラスムッセンが聞た樣な漠然たる譚がエスキモ人の中に殘つたので無《なか》ろうか。本邦で、樊噲や王陵の母が、子に與へた衣が、母衣の始めと云ひ、エスキモ譚に、母が、曾て、其子が幼なかつた時に、包んだ嚢の紐で、子の爲に、矢を防いだと言うが、酷《よく》似て居る。但し、サンタ・カタリナの墓窟から、エスキモの遺物を掘出した中に、馴鹿《となかい》の毛と、鳥の羽で織つた蓆《むしろ》が有つた(ラッツェル「人類史」、二卷、頁一二一)と云ふから、エスキモ人も、古くは、羽で衣を作る事を知て居《をつ》たかも知れぬ。從つて、鳥の羽で衣を作り、子を包む嚢の紐で矢を禦いだのが、史實かも知れぬ。然るときは、羽を衣としたり、嚢樣の物で、矢を防ぐ風が、日本から東北亞細亞を通じて、北米の北端に住むエスキモ人迄の間に廣く古く行はれ居た譯となる。序に云ふ。十七年斗り前、大英博物館東洋圖書部長ダグラス男の官房へ、予、每度出入《でいり》した時、老婦人、各を忘れたが、屢ば、來り、曾て、宣敎に往《いつ》た序に、エスキモと、支那人の兒が產まれた時、必ず、臀に異樣の痣《あざ》有るに氣付き、精査すると、區別出來ぬ程、能《よく》似て居つたが、日本の赤子の痣は何樣《どん》な形かと、每度、問ふを、予、極《きはめ》て五月蠅く思ひ、其老婦の顏見ると、事に托して迯《にげ》て來たが、其後、又、雜誌に投書して、此事を質問し居た。予、一向知ぬ事乍ら、何かの參考にでも成る事かと、焉《ここ》に記付《しるしつ》く。
[やぶちゃん注:「沍寒貧澁」「冱寒」は「一面に凍り塞がって、寒気の激しいこと」で「極寒」に同じ。「貧澁」は見慣れない熟語だが、「自然と生活の全般が、極めて乏しく貧困な様態にあって、ずっとその状態が滞って続いている厳しい環境であること」を指してはいよう。
『チスホルム輯「ゼ・ブリタニカ・イヤーブック」、一九一三年板、一五四頁)』かのEncyclopædia Britannicaに盛り込まれた情報や、統計数値を、常に最新に保つため収集された資料に基づき、毎年刊行されている百科年鑑。「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る(編者にはHUGH CHISHOLMとM.A., OXON の名が載る)。ページの頭にすぐ出て来る。
「ボアス博士が、一九〇二年出した、北太平洋遠征の調査書」恐らくは、ドイツ生まれのアメリカの人類学者フランツ・ボアズ博士(Franz Boas 一八五八年~一九四二年)のそれと思われる。
「チュクチ」主にロシアのシベリア北東端のチュクチ半島(チュコト半島)(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)に住んでいる民族。その居住域は、ほぼツンドラ気候に属する。かつてオホーツク海沿岸に住んでいた人々が起源と考えられている。現在の総人口は凡そ一万六千人(当該ウィキに拠った)。
「コリヤク」コリャーク人。ロシア連邦極東のカムチャツカ地方の先住民族で、ベーリング海沿岸地帯からアナディリ川流域南部及びチギリ村を南限とするカムチャツカ半島極北部にかけて居住している。体つきや生活習慣などが極めて似ているチュクチ人と同系である。現在の総人口は八千七百四十三人(当該ウィキに拠った)。
「カムチャダル」この名称は二十世紀に入る頃に当地に居住していた先住民、或いは、先住民と混血したロシア人を指した呼称で、「イテリメン」が自称。ロシア・カムチャツカ半島に居住する同地の先住民族。現在の総人口は三千二百十一人(当該ウィキに拠った。居住地域は同ウィキの地図を参照)。
「ユカギル」ユカギール人はシベリア東部に住む先住民族で北東アジアで最も古い民族の一つと考えられ、古くはバイカル湖から北極海まで住んでいたとされる。現在の総人口は千六百三人(当該ウィキに拠った。居住地域は同ウィキの地図を参照)。
「サンタ・カタリナの墓窟」次注リンク先で綴りは“Santa Catarina”であることは判ったが、北米の北西部とあるが、位置不詳。
「馴鹿」哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus 。和名トナカイはアイヌ語での同種への呼称である「トゥナカイ」又は「トゥナッカイ」に由来する。トナカイは樺太の北部域に棲息(現在)しているものの、アイヌの民が本種を見知ることは少なかったかと思われ、このアイヌ語も、より北方の極東民族の言語からの外来語と考えられてはいる。
『ラッツェル「人類史」、二卷、頁一二一』「Internet archive」の英訳原本のこちらの右ページの下から二段落目が当該部。
「大英博物館東洋圖書部長ダグラス男」複数回既出既注。こちらを参照されたい。
「臀に異樣の痣有る」蒙古斑。
「日本の赤子の痣は何樣な形かと、每度、問ふを、予、極て五月蠅く思ひ、其老婦の顏見ると、事に托して迯て來た」熊先生、「マダムは私のケツでも見とう御座いますか?」といって、尻をベロっと出してやれば、よかったッスよ。]