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カテゴリー「南方熊楠」の333件の記事

2023/03/25

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 善光寺詣りの出處

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

 

   南 方 雜 記

 

     善光寺詣りの出處 (大正二年四月『鄕土硏究』第一卷第二號)

 

 牛に牽かれて善光寺詣りの話の出處ならんとて、『鄕土硏究』(第一卷一號三〇頁)に載せたる、釋迦如來、舍衞郊外、毘富羅山《びぶらせん》(「寫」は「富」の誤)說法の時、采女輩《うねめはい》が、花に牽かれて、佛の所に詣りし話は、隋朝に闍那崛多《じやなくつた》が譯せし「無所有菩薩經《むしようぼさつきやう》」卷四に出づ。但し、正しく牛に牽かれて如來詣りの根本は、劉宋の朝に所ㇾ譯〔譯す所〕の「雜阿含經」卷四十四に、一時佛住毘舍離國大林精舍、一時有毘利耶婆羅豆婆遮婆羅門、晨朝買ㇾ牛、未ㇾ償其價、即日失ㇾ牛、六日不ㇾ見、時婆羅門爲ㇾ覓ㇾ牛故、至大林精舍二一、遙見世尊坐一樹下。〔一時、佛、毘舍離國(びしやりこく)の大林精舍に住す。一時、毘利耶婆羅豆遮婆羅門(びりやばらずしやばらもん)有り。晨朝(あした)に牛を買ひ、未だ其の價(あたひ)を償(つぎな)はざるに、卽日、牛を失ふ。六日、見(あらは)れず。時に、婆羅門、牛を覓(もと)めんが爲め、故(ゆゑ)に、大林精舍に至り、遙かに世尊の一樹の下(もと)に坐せるを見る。〕其容貌・形・色の異常を見、敎化《きやうげ》を受け、出家得道せる由を載せたる、是なるべし。

[やぶちゃん注:熊楠の「雜阿含經」の引用は「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は判り易くするに経典をいじっている。一部は復元した。

「牛に牽かれて善光寺詣りの話の出處ならんとて、『鄕土硏究』(第一卷一號三〇頁)に載せたる」「選集」に編者の割注があり、これは高木敏雄の論考「牛の神話伝説補遺」とある。

「毘富羅山」梵語「ヴィプラ」の漢訳で、原義は「広々と大きい」の意。王舎城を囲む五山の一つで、王舎城の東北に当たる。「雑阿含経」第四十九に「王舎城の第一なるを毘富羅山と名づく。」とあり、有名な山であったと、個人サイト「日蓮大聖人と私」の「女人成仏抄・第三章 経を挙げて六道の衆苦を示す」にあった。

「采女」ここは単に広く中・下級民の女性を、中国や本邦の食膳などに奉仕した下級女官のそれに仮に当てたもの。漢訳経典には多く出る。]

 これに反し、元魏譯「雜寶藏經」四に、人あり、亡牛を尋ねて、辟支佛が坐禪する所に至り、一日一夜、誹謗せし因緣で、後身、羅漢と成つても、所持品、悉く、牛の身分に見え、牛、失いし者に、「その牛。盜めり。」と疑はれ、獄に繫がるゝ話あり。牛に牽かれて罪造りと謂ふべし。

 また、「百喩經」(蕭齊の代に譯さる)に、愚人、所有の二百五十牛の一を、虎に殺されて、燒けになり、二百四十九牛を自ら坑殺《こうさつ》せし事あり。

[やぶちゃん注:「坑殺」地面に穴を掘って生き埋めにして殺すこと。]

 序でに言ふ。借りた物を返さぬ人、牛に生まれた話(『鄕土硏究』一卷三一頁)、佛經に見えたるを、二、三。擧ぐ。

 西晉竺法護譯「佛銳生經《ぶつえいしやうきやう》」卷四に、釋尊、過去世に轉輪王たり。其の舊知が、五十金を償ふ能はず、債主《さいしゆ》に、樹に縛られ、去るを得ざるを見、「之を、倍し、贖《あがな》ふべし。」とて、解かしめけるに、其人、「此外にも、尙、百兩の債あり。」と云ふを聞いて、「其をも。贖ひやるべし。」と誓ふ。扨、臣下、五十金を拂ひしも、百兩金を拂はず。彼《かの》人、死して、牛に生れ、前世の債主の爲に賣られんとする時、佛、來《きた》るを見て、牛、走り就《つい》て、前世の債金の支拂ひを求めし事、出づ。

 吳の支謙譯「犢子經《とくしきやう》」、又、晉の竺法護譯「乳光佛經」、ともに多欲の高利貸、死して、十六劫間《こふかん》、牛と生れ、釋尊の聲を聞いて、死して、天に生れ、次に羅漢と成り、二十劫の後、乳光佛となるべしと、佛が予言せし由を說けり。

 梁の僧旻《そうみん/そうびん》等の「經律異相」四七には、「譬喩經」を引き、借金一千錢不拂《ふばらひ》の人、三たび、牛に生まれて、業《ごふ》、なほ、了《をは》らず。二人、還さぬ覺悟で、牛の主人より、金十萬を借らんとするを立聞き、牛、自分を例證として、之を諫止し、解放されし譚を載せたり。(三月十八日)

[やぶちゃん注:「二人」「大蔵経データベース」で同巻を見て見たが、これ、意味不明。二人の人物が共謀して牛である自分を騙し取ろうとしたということか。

 底本では、以上で終わっているのだが、「選集」には、「追記」として以下の文章が載る。転記(新字新仮名)しておく。

   *

【追記】

 三十二年前、予が和歌山中学校で画学を授かった中村玄晴先生は、もと藩侯の御絵師で、いろいろ故実を知っておられた。ある日教課に、黒板へ少年が奔牛を追うところを描いた。予その訳を問いしに、この無智の牧童、逃ぐる牛を追い走るうち、日が暮れて、十五夜の月まさに出づるところを観て悟りを開いたのだ、と教えられた。呉牛月に喘ぐという支那の古言を、前に引いた、婆羅門(ばらもん)牛を尋ねて仏に詣(いた)り得道せし話に合わせて、作り出した話らしいが、今に出処を見出だしえぬ。

   (大正二年七月『郷土研究』一巻五号)

   *

「三十二年前」数えで計算しているとして、明治一三(一八八〇)年。南方熊楠満十四歲で、同中学校二年次。

「中村玄晴」不詳。

「今に出処を見出だしえぬ」南方先生、教師というのは、知っている知識を勝手に作り変えてオリジナルな話をでっち上げるのは特異なんですよ。私は朗読で演出はしましたが、捏造はしませんでしたがね。……私の伏木高校時代の古典の蟹谷徹先生は、中国の怪談話を、えらくリアルに面白く語って呉れたが、即日、図書室に行って漢文大系で読んでみたら、どれも原文の表現は痩せていて、怖くも何ともなくて、思わず、先生にその感想を正直に言ったら、ニヤりと笑って「そうでしたか。」と一言言って、満足げに去って行かれたのを思い出す。かくあれかし! 現役の国語教師よ!]

2023/03/24

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 長柄の人柱 / 「話俗隨筆」パート~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた(今回は例外あり)。

 なお、本書の「話俗隨筆」パートはこれで終わっている。]

 

     長 柄 の 人 柱 (大正四年二月『民俗』第三年第一報)

        (『民俗』第二年一報三二頁參照)

 

 雉を射つるを見て瘖女《おしをんな》が初めて聲を出した話は、支那にも有る。「左傳」に、賈大夫惡、娶妻而美、三年不言不笑、御以如臯、射雉獲之、其妻始笑而言〔昔、賈の大夫、惡《みに》くし。妻を娶つて美なり。三年、言(ものい)はず、笑わず。御(ぎよ)して以つて皋(さhじゃ)に如(ゆ)き、雉を射て、之れを獲(う)。其の妻、始めて笑ひて言(ものい)ふ。〕と晉の叔向が言《いつ》た其頃以前よりの傳說だ。

[やぶちゃん注:「選集」では、標題の後の「(『民俗』第二年一報三二頁參照)」の代わりに、『藤田好古「長柄の人柱」参照』とある。藤田好古は不詳。

「射中つる」「選集」では『射』(い)『中(あ)つる』とある。

『「左傳」に、賈大夫惡、……』「中國哲學書電子化計劃」の「春秋經傳集解」の「六」の影印本(ここから次の画像まで)で校合し、修正を加えた。「春秋左氏傳」の魯の第二十五代君主昭公二十八(紀元前五一四年)の秋の記載の中の知られた挿入譚。「賈」は国名で、西周から春秋時代(紀元前十一世紀~紀元前六七八年)の諸侯国。

「羊舌肸(ようぜつきつ 生没年不詳)は春秋時代の晋(紀元前十一世紀~紀元前三七六年)の公族・政治家。姓は姫、氏は羊舌、諱は肸。]

 又、長柄長者《ながらちやうじや》が、「袴につぎの當りたる者を、牲《いけにへ》にすべし。」と言《いふ》て、自ら牲されたと言ふに似た事は、西洋にも有る。ヂドが、智略もて、カーセージ市を建てた後(『民俗』二年一報二八頁に出《いづ》)、蠻王ヤルバス、其强盛を妬み、カーセージの貴人十人を召し、「ヂド、吾に妻たるべし。しからずんば、兵戈《へいくわ》相見えん。」と言た。十人の者、還つて、事實をジドに語るを憚り、詐《いつはり》て、「『誰なりとも、一人、カーセージより、ヤルバス方へ[やぶちゃん注:底本は「カーセージよオリヤルバス方え」であるが、「選集」で訂した。]來て、文明の作法を敎《をしへ》て欲しい。』と望まれた。」と報ずると、誰も蠻民の中へ[やぶちゃん注:底本は「え」。同前。]往《ゆか》うと[やぶちゃん注:ママ。「といふ」。]望み手が無《なか》つた。ヂド、之を見て、「自國の爲となら、生命すら辭すべきでない。」と一同を叱る。十人の者、「左樣なら、實を述べん。」迚《とて》、「彼《かの》王、ヂドと婚《えんぐみ》せん。然らずば、此國を伐つべし。」と言つた、と語る。ヂド、「今は駟《し》も舌に及ばず、何とも辭せん樣《やう》も無いから、如何にも國の爲に、吾、彼《か》の王の妻となるべし。」と言て、準備の爲とて、三ケ月を過す。其間、市の一端《ひとすみ》に柴を積み、婚嫁[やぶちゃん注:底本は「婚家」。「選集」を採用した。]の期、到りて、畜《かちく》を多く牲し、斯《かく》て、亡夫アセルボスの靈を鎭むと云た。其から、一劍を提《とり》て、柴、堆《つん》んだ上に登り、人民に向ひ、「汝ら、望《のぞみ》通り、吾、今、吾夫の方へ往く也。」と言て、胸を刺して自殺した。カーセージの民、此を「義」として、國、續いた間、ヂドを神として祀つた(スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一)[やぶちゃん注:最後の丸括弧の出典は底本には、ない。「選集」を参考に正字で補った。]。

[やぶちゃん注:『長柄長者が、「袴につぎの當りたる者を、牲にすべし。」と言て、自ら牲された』『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その2)』を参照されたい。Yoshi氏のサイト「大阪再発見」の「長柄の人柱」にも詳しい解説があるので、見られたい。

「ヂド」『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 少許を乞て廣い地面を手に入れた話』に出た。そちらを参照されたい。

が、智略もて、カーセージ市を建てた後(『民俗』二年一報二八頁に出《いづ》)、蠻王ヤ

『スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一』イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」(Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology)。恐らくは、一八四九年版であるが、「Internet archive」のこちらの「DIDO」の条に拠るものと思われる。]

2023/03/22

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 母衣

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた(今回は例外あり)。]

 

      母 衣(ほ ろ) (大正三年四月『民俗』第二年第二報)

 

 始于漢樊噲、出陣時、母脫ㇾ衣爲餞別、噲毎戰被衣於鎧、奮勇殊拔群(一說非樊噲、爲後漢王陵故事。)其後馳驅武者用ㇾ之(「和漢三才圖會卷廿」)[やぶちゃん注:本篇に先立ってブログで「和漢三才圖會 卷第二十 母衣」として電子化注を公開しておいた。なお、ウィキの「母衣」の内容も侮れないので、一見をお勧めする。]。

 新井白石の「本朝軍器考」卷九に、『保呂と云ふ物、その因て來《きた》る事、定かならず、又定まれる文字も有《あら》ず。古《いにしへ》には保侶(「三代實錄」)、保呂(「扶桑略記」)、母廬(「東鑑」)抔書きしを、其後は、縨、又は、母衣抔《など》、記《しる》せり。「下學集」には、縨を母衣と書く事、本《もと》と、是れ、胎衣(えな)[やぶちゃん注:写本では「タイヘ」とルビする。]に象《かたど》れる由を載せ、又「壒嚢(あいのう)抄」には、『母の小袖抔、縨に掛《かけ》し事の有るを、未だ其因(いわれ[やぶちゃん注:ママ。])の知れざる事も有るにや。』と書(しる)しぬ(『「縨」の字は韻書等にも見えず。「幌」の字は有り、是は「帷幔《いまん》」也。』と註す。)。其餘、世に云習《いひならは》せる文字も多けれど、皆な、信《うけ》難し(「武羅(ほろ)」、「神衣(ほろ)」、「綿衣(ほろ)」等、是也。)。神功皇后、三韓、討《うた》せ給ひし時、住吉の神、作り出《いだ》して進《まゐ》らせしと云《いふ》說あれど、正しき史には、見えず。貞觀十二年[やぶちゃん注:八七〇年。]三月、對馬守小野朝臣春風、奏せし所に、軍旅之儲、啻在介冑、介冑雖ㇾ薄助以保侶〔軍旅の儲(まうけ)は、啻(ただ)に介冑《かつちう》に在り。介冑は薄しと雖も、助くるに保侶を以つてす。〕。調布《つきぬの》をもて、保侶衣(ほろぎぬ)千領を縫《ぬひ》作り、不慮に備へんと望み請《こひ》し事、見え(「三代實錄」)、又、寬平六年[やぶちゃん注:八九四年。]九月、新羅の賊船、四十五艘來りて、對馬島を犯す事有り。守(かみ)文屋(ふみや《の》)善友、迎へ戰ふて、彼《かの》大將軍三人、副將軍十一人を始《はじめ》て、三百二人を射殺《いころ》して、取る所の大將軍の甲冑・大刀・弓・胡籙《やなぐひ》・保呂等、各《おのおの》一具、脚力に附《つけ》て進《まゐ》らせし由、見ゆ(「扶桑略記」)』と有て、次に、其師順庵の說なりとて、「母衣」てふ字は「羽衣(うい)」を誤寫せるにて、是れ、「毦(じ)」と云物也。「毦(じ)」の字は羽毛の飾り、一に言《いは》く、羽を績《つむぎ》て衣とす、一に言く、兜鍪上《かぶとのうへ》の飾なり云々。「三國志」に、蜀の先生の結びしは、犛牛《りぎう》の尾と見え、梁の庾信《ゆしん》が詩に、『金覊翠毦《きんきすいじ》』と云りしは、翠羽《すいう》を以て作りたれば、羽を績て、衣とす、と云ふ註に合ひぬるにや云々。思ふに毦と云物は、三國の頃、專ら、軍容の飾りと成せし物にぞ有ける。「後漢書」の内に、其と覺しき物、既に見ゆ。三韓の地にも其製に倣ひ來り、寬平の御時の賊帥も、之を負ひたるにこそ。我國の軍裝に、保呂掛け・總角《あげまき》付《つく》るは、神代よりの事と見ゆ。「六月晦大祓祝詞《ろくぐわつこもりおおほはらへのつと》」に、比禮挂伴男《ひれかくるとものを》、手纏挂伴男《たすきかくるとものを》と云《いふ》、卽《すなはち》、此也。古時、「比禮《ひれ》」と云しを、後ち、「保侶」と云、其語、轉ぜしなり。春風が奏せし所に據るに、其代には、此物、介冑を助け、身を保つべき物と見ゆ。軍裝とのみも、云可《いふべか》らず。只、其制の如き、今、はた、知らるべきにも非ず。古き繪共に、保呂、掛し物を、𤲿きしを見るに、近き世の制と大《おほい》に異なり、古《いにしへ》は、是を着《つ》くべき樣《よう》も、兵《つはもの》の家、傳ふる所の故實、ある事なりき云々、今樣は、帛《はく》の長《たけ》も長く、其幅の數も多く成し程に、保呂籠と云物に引覆ひて、前に「はだし」と云物、立て、串をもて、鎧の後《うしろ》にさす事に成にけり。斯る制、元弘、建武の頃よりや始まりぬらむ。近き頃まで、東國の方にては、多くは古《いにしへ》の制を用ひて、今樣の物をば、提灯保呂《てうちんほろ》抔云し由云々、又、「近代より、羽織と云物をもて、軍裝とする事、有りけり。古えには、斯る物有りとも、聞こえず。されど、古に羽を績ぎて衣とすと云しは、此物の類也。扨こそ、斯くは、名《なづ》けたらめ。」と云人、有り。近代迄、有りつる昔、保呂と云ひける物、此物に似たる所もあれば、かの羽を績ぐと云ひしも、羽を織ると云はんも、其義の、相遠《あひとほ》からねば、其名を、斯《かく》、名づけたりけんも知《しら》ず。』と論じ居る。

[やぶちゃん注:『新井白石の「本朝軍器考」』全十二巻から成る故実書。享保七(一七二二)年跋、元文五(一七四〇)年刊。古代からの軍器の制度・構造・沿革などについて、旗幟・弓矢・甲冑等に部類して考証したもの。全十二類百五十一条から成る。付考として、白石の義弟朝倉景衡(かげひら)の編に成る「本朝軍器考集古図説」がある。国立国会図書館デジタルコレクションのここから、非常に状態の良く、判読も容易な美しい写本の当該部を視認出来たので、それを元に南方熊楠の引用の誤り或いは誤植と思われるものを、一部、訂した。熊楠のものの方が読み易く、意味が変わらないと判断したものはそちらを採用した。但し、「云々」で分かる通り、原文はもっと長く、熊楠は途中にかなり手を加えて書き変えてあるので、まずは、原文を見られんことを強くお勧めする。以上の注は、やりだすと、だらだらと労多くして益少なきものになるのは、目に見えているので、一部を文中注とし、注を入れた方がいいと考えた箇所のみ以下に注する。

「三韓」紀元前二世紀末から紀元後四世紀頃にかけて、朝鮮半島南部の三つの部族連合で、馬韓・辰韓・弁韓を含む。

「小野朝臣春風」(おののはるかぜ 生没年不詳)は平安前期の貴族・歌人。従五位上。小野石雄の子。当該ウィキによれば、貞観一二(八七〇)年『正月に従五位下に叙爵するとともに、新羅の入寇への対応を行うべく、対馬守に任ぜられる。対馬守在任時に、甲冑の防御機能を強化するための保侶衣』一千領、()『及び』、『兵糧を携帯するための革袋』一千『枚の必要性を朝廷に訴え、大宰府に保管されていた布でこれらが製作された』とあるのを指す。

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文徳天皇実録」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

「文屋(ふみや《の》)善友」(ふんやのよしとも 生没年不詳)は平安前期の官人。官職は上総大掾・対馬守。当該ウィキによれば、元慶七(八八三)年に『上総国で起きた俘囚の乱を上総大掾として諸郡の兵』一千名を『率いて鎮圧した経験を有していた。この時期、新羅の海賊が対馬国・九州北部沿岸を襲う事件がたびたび起こり』、前に述べた小野春風が貞観一五(八七三)年に『対馬守に赴任』、『朝廷に』上奏して『軍備の拡充を行ってい』たが、寛平五(八九三)年にも『新羅の賊が九州北部の人家を焼くという事件があり、翌寛平』六年四月、『新羅の船大小』百『艘に乗った』二千五百『人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に来襲した。この知らせを受けた朝廷は、参議・藤原国経を大宰権帥に任命して討伐を命じるなどの対策に追われ』、当時、対馬守であった善友は、それを迎え撃った。九月五日の』『朝、対馬に押し寄せたのは』四十五『隻』で、『善友は』、先ず『前司の田村高良に部隊を整えさせ、対馬嶋分寺の上座面均と上県郡の副大領下今主を押領使とし、百『人の兵士を各』五『名ずつ』二十『番に分け』、最初に四十『人の弱軍をもって敵を善友の前までおびき寄せ、弩』(おおゆみ)『による射撃戦を挑んだ。矢が雨の如しという戦いののち、逃走しようとする敵を』、『さらに追撃』、大将三人、副将十一人を含む賊三百二人を『射殺した。また』、船十一隻、甲冑、保呂』()。『銀作太刀および太刀』五十『柄、桙』一千『基、弓』百十『張、弓胡(やなぐい)』百十、『置き楯』三百十二『枚など』、『莫大な兵器を捕獲し』、『賊』一『人を生け捕っ』ている。而して、『この捕虜が述べるには』、『これは私掠ではなく新羅政府によるものであり、「飢饉により王城不安であり食料や絹を獲るため」、『王の命を受けた船」百『隻』、二千五百もの『兵を各地に派遣した」と』述べ、『対馬を襲ったこの』四十五『艘も』、『その一部隊であった。また』、『逃げ帰った中には優れた将軍が』三『人おり、その中でも一人の唐人が強大であると述べた』とあり、さらに、『当時は律令軍制の最末期であり、またその装備である弩が蝦夷以外の対外勢力との戦いで使われた数少ない例である』とある。

「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。

「其師順庵」新井白石の師であった儒学者木下順庵(元和七(一六二一)年~元禄一一(一六九九)年)。甲府徳川家のお抱え儒学者を探しに来た際、順庵は新井白石を推薦している。

「梁の庾信」(五一三年~五八一年)は南北朝時代の文人。初め、南朝の梁に仕え、武康県侯に封ぜられたが、北周に使いした際、留められ、その後、梁が滅亡したため、そのまま北周に仕えた。驃騎将軍・開府儀同三司となり、その華麗な美文は、梁・陳に仕えた文人政治家徐陵とともに「徐庾体」と称される。但し、「金覊翠毦」の文字列は、私が調べた限りでは魏の武帝の古楽府、梁の元帝の「燕歌行」の一節にしか見当たらない。

「三國の頃」後漢滅亡後の二二〇年から~二八〇年、華北の魏・江南の呉・四川の蜀の三国が分立した時代。

「後漢書」南朝宋の范曄(はんよう)及び晉の司馬彪の撰。四三二年成立。

「六月晦大祓祝詞《ろくぐわつこもりおおほはらへのつと》」七鍵氏のサイト「Key:雑学事典」の「六月晦日大祓とは」を参照されたい。]

 「康煕字典」に按服虔通俗文、毛飾曰ㇾ毦、則凡絲羽革草之下垂者、並可以毦名矣〔服虔《ふくけん》の「通俗文」を按ずるに、毛の飾(かざ)りを「毦」と曰ふ。則ち、凡そ絲羽革草の下がり垂るる者、並(みな)、「毦」を以つて名づくべし。〕と有る。熊楠謂ふに、其字、「耳」と「毛」より成る。角鴟(みゝづく)や猫に近いリンクス獸抔[やぶちゃん注:底本は「等」は空白で脱字。「選集」の『など』から、この熊楠の好きな字で補った。]、耳の尖《さき》に、長毛、有り。最初、其形容に用ひた字で、後には、冑《かぶと》や帽の後《うしろ》に垂《たれ》た飾《かざり》を言《いつ》たので、「博雅」の、一日績ㇾ羽爲ㇾ衣〔一(いつ)に曰はく、「羽を績いで、衣と爲す。」と。〕と有るは、ほんの異說に過ぎぬのだろ。吳の甘寧が敵を襲ふ迚《とて》、毦(じ)を負ひ、鈴を帶ぶべく、兵卒に令せしは、主として敵と混ぜぬ樣、徽章《きしやう》としたらしい。

[やぶちゃん注:「康煕字典」。清の一七一六年に完成した字書。全四十二巻。康煕帝の勅命により、張玉書・陳廷敬ら三十人が五年を費やして、十二支の順に十二集(各々に上・中・下巻がある)に分け、四万七千三十五字を収める。「説文解字」(漢。許愼撰)・「玉篇」(梁。顧野王撰)・「唐韻」(唐。孫愐(そんめん)撰)・「広韻」(宋。陳彭年(ちんほうねん)らの奉勅撰)・「集韻」(宋。丁度(ていたく)らの奉勅撰)・「古今韻会挙要」(元。熊忠(ゆうちゅう)撰)・「洪武正韻」(明。宋濂(そうれん)らの奉勅撰)などの歴代の代表的字書を参照したものであるが、特に「字彙」(明・梅膺祚(ばいようそ)撰)と「正字通」(明。張自烈撰)に基づいた部分が多い。楷書の部首画数順による配列法を採用、字音・字義を示し、古典に於ける用例を挙げ、この種の字書としては、最も完備したものとされる。但し、熟語は収録していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「服虔」後漢の古文学者(生没年不詳)。河南の出身。清貧の中で志を立てて大学に学び、論説の卓抜さを称された。霊帝の中平(一八四年~一八九年)の末年には、官は九江太守に至っている。

「角鴟(みゝづく)」フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、古名は「ツク」で「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」を見られたい。

「猫に近いリンクス獸」ネコ科オオヤマネコ属オオヤマネコ Lynx lynx のこと。当該ウィキによれば、十一亜種(但し、分類は混乱しており、確定亜種ではない)が挙げられてある。そちらの生体の野生画像を見れば判る通り、耳の先端から有意に毛が生えてシュッと立っていることが判る。

「吳の甘寧」(?~二一五年?)は後漢末期の武将。孫権に仕えた。]

 古今、歐州にも冑や帽に毦を垂るゝ事多きは、ラクロアの「中世軍事宗敎生活(ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス)」英譯や知友ウェプ氏の「衣裝の傳歷(ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレス)」(一九一二年板)に其圖多し。毦(じ)は、本來、羽毛より成たが、後には布帛《ふはく》を以て作つた大きなものも出來、隨つて身を護り、兵を避《さく》るの具とも成たらしい。ラクロアの書一一七頁、ゴドフロア・ド・プーヨンの肖像など見て知るべし。陣羽織を鳥羽で織つたから羽織と云た、と聞く。確か秀吉が著たとか云う鳥羽で織《をつ》たものを大英博物館で見たと記憶する。歐州では、十三世紀の終り迄鳥羽を裝飾に用ひること稀だつた(「大英類典」卷十)。之に反し、未開民中、鳥羽を裝飾とする、精巧を極めた者あり。例せば、布哇《ハワイ》では、以前、羽細工、最も精巧を極め、鳥の羽もて、兜や、假面や、節(セプトル)や、冠や、頸環や、上衣を作る職人、頗る重んぜられた(英譯、ラッツェル「人類史(ヒストリー・オヴ・マンカインド)」一八九六年板、卷一、頁一九八、羽製の諸品は、一五五頁に對せる圖版に載す。英譯、フロベニウス「人類の幼稚期(ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン)」一九〇九年板、六二頁)。南米のムンヅルク人、尤も妙麗なる羽細工もて、上衣や節や帽を作るも、特殊の迷信的觀想を存し、容易《たやす》く外人に賣らず(ベイツ「亞馬孫河畔之博物學者(ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス)」一八六三年板、第九章)。墨西哥《メキシコ》發見の時、トラスカラン族の諸酋長と重臣、身に厚さ二吋《インチ》[やぶちゃん注:五センチメートル。]にて其國の兵器が徹り得ぬ綿入れの下著を著《き》、上に薄き金、又、銀板の甲を被《かぶり》、其上に莊嚴を極めたる鳥羽の外套を被り、美麗、口筆に絕した(プレスコット「墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》」ボーン文庫本、一九〇一年板、卷一、頁四七及び四三二頁)。歐州の將士、中古、サーコートとて、吾國の鎧直垂《よろひひたたれ》樣の物を鎧の上に著た。その狀は、ウェブの著(上に引た)八四、八五、八八の諸圖を見れば、分かる。惟《おも》ふに「三代實錄」等に見えた保呂衣は、介冑を助けて兵器を防ぐ爲め、古墨西哥人の下著、又、歐州中古のサーコート樣の者だつたのが、追々、變化して、後世の提灯保呂と成たんだろ。提灯保呂は、矢のみか、一寸した鐵砲をも防ぐと聞たが、實際を見ぬ故、果して然りやを、予は知らぬ。

[やぶちゃん注:『ラクロアの「中世軍事宗敎生活(ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス)」英譯』フランスの作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)の英訳本「中世の軍事的宗教的生活」。原本はVie militaire et religieuse au Moyen Áge et à l'époque de la Renaissance(「中世とルネッサンス時代の軍事的宗教的生活)。英訳本は「Internet archive」のこちらで見られる。

『知友ウェプ氏の「衣裝の傳歷(ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレス)」(一九一二年板)』『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話』(大正二年九月『民俗』第一年第二報)で既出既注であるが、再掲すると、『リンネ学会』会員で博物学者であったウィルフレッド・マーク・ウェッブ(Wilfred Mark Webb 一八六八年~一九五二年:熊楠より一つ下)の‘The Heritage of Dress’(「ドレスの伝統」一九一九刊)。

「節(セプトル)」よく判らぬが、「節」は「ふし」で木片を平たく削った板のことではないかと踏んだ。そこから「セプトル」の発音に似たものとして、私は「scepter」(セプター)、所謂、汎世界的に、王権の表象として王が持つ「笏(しゃく)」とか何かを指したり、探ったり、こじとったりする「箆(へら)」のような実用を兼ねたアクセサリーのようなものを言っているのではないかと推理した。

『ラッツェル「人類史(ヒストリー・オヴ・マンカインド)」』一八九六年板、卷一、頁一九八、羽製の諸品は、一五五頁に對せる圖版に載す」ドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本‘History of Mankind’ trans. Butler)。「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページが当該部。残念ながら、リンク先のそれは、画像の殆んどがカットされているが、思うに、熊楠の指示するのは、辛うじて見られるこれようにも思われる。また、以下で同書第二巻を探していたら、同じ絵と、美麗なカラー図版(左ページ)を見出せたので、こちらを是非、見られたい。

『フロベニウス「人類の幼稚期(ゼ・チヤイルドフツド・オヴ・マン)」』一九〇九年板、六二頁』「Frobenius, ‘The Childhood of Man’, London. 1909, p. 242」ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius 一八七三年~一九三八年)の英訳本「人類の幼年期」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られる。

「ムンヅルク人」“Mundurucú”。ムンドゥルク族。アマゾン川南部に住むラテン・アメリカ・インディアンの一民族。言語はトゥピ諸語に属する。嘗つては首狩りを行う民族として知られていた。マニオク(キャッサバ)栽培と採集漁労を営む。 三十家族ほどで集落を形成。男子結社があり、成人男子は家族の家には住まず、男性の家に住む。儀礼も女性・子供の参加を禁じている。一方、家屋は母系で継承されるという、男性と女性の対立原理の明確な社会である。現在では野生ゴムの樹液を日用品と交換しており,宗教的にはキリスト教化している(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『ベイツ「亞馬孫河畔之博物學者(ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス)」一八六三年板、第九章)』イギリスの博物学者・昆虫学者・探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)は、「ウォレス線」で知られる博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)とともに、アマゾンで多様な動植物を収集し、進化論の発展に寄与した人物で、「ベイツ型擬態」(本来、無害な種が、捕食者による攻撃から免れるため、有害な種に自らを似せる生物擬態)に名を残している。原著書名はThe Naturalist on the River Amazons(「アマゾン川の博物学者」)。一九四三年版であるが、「Internet archive」の同書の当該章はここからだが、調べたところ、南方熊楠が紹介している部分は「245」ページが当該引用と推定されることが判った。

「トラスカラン族」 “Tlaxcala”で「トラスカラ」が正しい。「トランカラ族の」の意の“Tezcucan”(次注の原文を参照されたい)を熊楠が補正して意訳したものと思われる。現在のメキシコ中部のトラスカラ州の州都トランスカラ(正式名称はトラスカラデシコテンカトル Tlaxcala de Xicohténcatl)はメキシコ市の東約百キロメートルの、ラマリンチェ火山北西麓の標高約 二千二百五十メートルの高高度の地にあり、サワパン川に臨む。周辺の農業地帯の中心地で、トウモロコシ・豆類・家畜などを集散するほか,繊維工業が発達し、綿織物毛織物・合成繊維などが生産される。スペインによる征服前からインディオのトラスカラ族が住んでいた地域で、正式名称の「シコテンカトル」は、トラスカラ族がメキシコ征服者エルナン・.コルテス(Hernán Cortés 一四八五年~一五四七年)に協力することに、強く反対した首長の名を記念したものである。コルテスは 一五一九年に市を制圧し、二年後にアメリカ大陸最初のキリスト教の聖堂「聖フランシスコ聖堂)」を建設した。近くにオコトラン神殿やティサトラン遺跡などがある、と「ブリタニカ国際大百科事典」にあった。

『プレスコット「墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》」ボーン文庫本、一九〇一年板、卷一、頁四七及び四三二頁)』アメリカの歴史家で、特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が一八四三年刊行したもの(The History of the Conquest of Mexico:「メキシコの征服の歴史」)。一八四八年版だが、「Internet archive」のこちらの47ではなく、その前の46ページにそれらしい記載はあった。432ページは?。

「サーコート」Surcoatウィキの「シュールコー」(フランス語:surcotte:「コット」(オーバーオール。昔の上着)の上に重ねるもの」の意)によれば、『男性は』十二『世紀の末(女性は』十三『世紀に入ってから)』十四『世紀半ばまで、西欧の男女に着られた丈長の上着のこと。シクラス、サーコート』『とも』呼んだ、『コットという丈の長いチュニックの上に重ねて着る緩やかな外出用の上着で、男性は長くても踝丈』(くるぶしだけ)まで、『女性は床に引きずる程度の長さであった。長袖のものは』、『やや珍しく、大半が袖無しもしくは半袖程度の短い袖』であった。十四『世紀に入って、タイトなコットが流行すると』、『シュールコートゥベールという脇を大きく刳ったタイプが大流行する』。元来は『シクラスという十字軍兵士が鎧の上から羽織る白麻の上着であった』(☜・☞)。『金属でできた鎧が光を反射するのを抑えるためと、雨による錆を抑えるために着るようになったものだが、戦場で乱戦となった時に』(☜・☞)『他の騎士と見分けがつきやすいように盾に付けていた自分の紋章などを大きく飾る場合もあった。イングランド王ヘンリー』Ⅲ『世は、最上の赤地の金襴で仕立てられ』、『前後に三匹の獅子を刺繍したシクラスを身に着けていた』。十二『世紀末に、十字軍からの帰還兵士を中心に日常着となる。初めは白麻などで作った白無地のものが多かったが、コットと同じようなウールの色物が一般的になっていった。フランス王室の』一三五二『年の会計録には、シャルル王太子(後のシャルル』Ⅴ『世)の着る袖付きシュールコーの表地のために赤色と藍色のビロードと金襴、裏地のためにヴェール(リスの毛皮)を購入した旨が記載されている』とあった。

「ウェブの著(上に引た)八四、八五、八八の諸圖」「Internet archive」のこちらで原本が視認でき、当該部は図「八四」(84)がここ、図「八五」(85)がここ、図「八八」(88)がここである。

「提燈保呂は、矢のみか、一寸した鐵砲をも防ぐと聞たが、實際を見ぬ故、果して然りやを、予は知らぬ」ネットで調べたが、判らぬ。画像検索で提灯のように上下が絞られた、それらしいものを一つ見つけたが、ウィルス・ソフトが「不審」とするサイトであったので、見るのはやめた。]

 扨、一九〇八年、ラスムッセンの「北氷洋之民(ゼ・ピープル・オブ・ゼ・ポラール・ノールス)」英譯一八〇頁に、「或村でエスキモ人が殺されて、少時《しばらく》有《あつ》て、村民、皆な、狩りに出立《いでたつ》つ。村に留《とどま》るは、殺された人の妻と牝犬一疋だつたが、兩《ふた》つながら、姙娠中だつた。頓《やが》て其女、男兒を產み、自分と兒の食物を求めに出で、蹄《わな》で鴉を多く捉へ、翅を捨て、其羽で、自身と兒の衣類を拵えた[やぶちゃん注:ママ。]。所ろで、牝犬、亦、一子を生んだので、彼女、其子と狗兒とを咒《まじなひ》し、一年の間に、全く成長させ、長途を旅して、見も知らぬ人民の所に往《いつ》た。其處で、聊かの事から、母が彼《かの》人民と口論を始めると、其兒が彼等に向ひ、「彼是云ふより、我等を射《い》て見よ。」と云ふ。彼輩、弓矢を執つて母共に射掛ける。母、兒の前に立塞がり、兒が嬰兒だつた時、背に負ふに用ひた囊《ふくろ》の皮紐を振つて矢を打落すと、悉く外れて、一つも中《あた》らぬ。其後《そのご》、[やぶちゃん注:「其の後、」は「選集:」で補った。]其兒が、弓を執つて、敵衆を射盡《いつく》し、又、進んで他の新しい國に往《いつ》た。」と有て、此譚を著者に語つた者、吾、此譚を大海の他の側から來た人に聞《きい》たと言ふた、と附記し居る。吾國にも羽で衣を作つた事、「日本紀」一に、少彥名命《すくなびこな》、白蘞皮(かゞみのかは)を舟とし、鷦鷯羽(さざきのはね)を衣として海に浮《うか》み、出雲の小汀《おはま》に到る。是は、其頃、樹皮もて、舟を作り、諸鳥の羽を衣と作る事、行はれたので、此神、特に、身、小さい故、斯《かか》る小舟に乘り、斯る最小鳥の羽を衣としたと謂《いつ》たんだろ。

[やぶちゃん注:『一九〇八年、ラスムッセンの「北氷洋之民(ゼ・ピープル・オブ・ゼ・ポラール・ノールス)」英譯一八〇頁』グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年:デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である)の英訳本The People of the Polar North(「極北の人々」)はイヌイットの風俗を纏めた旅行記。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ

『「日本紀」一に、少彥名命、白蘞皮(かゞみのかは)を舟とし、鷦鷯羽(さざきのはね)を衣として海に浮み、出雲の小汀に到る』国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 上卷」(昭和八(一九三三)年岩波文庫刊)の当該部をリンクさせておく。大己貴命(おおなむち:大国主神)と彼が初めて出逢うシーンの直前である。「白蘞皮(かゞみのかは)」は種同定されていないが、蔓性植物で、巻ひげを持つもとされる。但し、少彥名命は体が極度に小さいので、中・大型の蔓性類は外せる。小型の蔓草でよいのである。「鷦鷯羽(さざきのはね)」(私は上代の文学は清音傾向主義で「そささき」と読みたい)は現在の「みそさざい」(鷦鷯)の古名。スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytesは本邦産の鳥類の中でも最小種の一つで、全長約十一センチメートル、翼開長でも約十六センチメートルで、体重も七~十三グラムしかない。囀りともに私の好きな鳥である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。]

 一體エスキモ人は綠州《グリーンランド》より亞細亞の最東瑞の地、北亞細亞や北歐州で誰も棲得《すみえ》ぬ程の沍寒貧澁《ごかんひんじふ》の地に棲む民で、生態萬端、餘程、諸他の民族と異り居る。因て、其根源に就ても、學說、區々たり。だが、予が僻地に在乍ら、知り得た最近の報告に據ると、エスキモ人は、體質、全く、蒙古種《モンゴリアン》の者との事だ(チスホルム輯「ゼ・ブリタニカ・イヤーブック」、一九一三年板、一五四頁)。ラスムッセンに上述の話をしたエスキモが、大海の他の側から來た人に聞たは、漠として何の事か知れがたいが、先《まづ》は、當人が住む綠州から、餘程、北氷洋に沿つて隔つた地、乃《すなは》ち亞細亞の東端に近い地から來たエスキモ人に聞たと云ふ事だらう。ボアス博士が、一九〇二年出した、北太平洋遠征の調査書に據《よれ》ば、東北亞細亞の端に住む、チュクチ、コリヤク、カムチャダル、ユカギル等は、亞細亞民と云ふよりは亜米利加民と云ふべき程、人文の性質が亜米利加土人に似て居ると云ふから、無論、古くよりエスキモと交際しただろう。然《しか》る上は、日本人の祖先及び其近處《きんじよ》の古民族中に、曾て、羽を衣としたり、又、白石が推論した通り、比禮、即ち、原始態の母衣を掛て、兵箭《へいせん》を防ぐ風《ふう》が有たのを、東北亞細亞の諸族から聞傳えて、ラスムッセンが聞た樣な漠然たる譚がエスキモ人の中に殘つたので無《なか》ろうか。本邦で、樊噲や王陵の母が、子に與へた衣が、母衣の始めと云ひ、エスキモ譚に、母が、曾て、其子が幼なかつた時に、包んだ嚢の紐で、子の爲に、矢を防いだと言うが、酷《よく》似て居る。但し、サンタ・カタリナの墓窟から、エスキモの遺物を掘出した中に、馴鹿《となかい》の毛と、鳥の羽で織つた蓆《むしろ》が有つた(ラッツェル「人類史」、二卷、頁一二一)と云ふから、エスキモ人も、古くは、羽で衣を作る事を知て居《をつ》たかも知れぬ。從つて、鳥の羽で衣を作り、子を包む嚢の紐で矢を禦いだのが、史實かも知れぬ。然るときは、羽を衣としたり、嚢樣の物で、矢を防ぐ風が、日本から東北亞細亞を通じて、北米の北端に住むエスキモ人迄の間に廣く古く行はれ居た譯となる。序に云ふ。十七年斗り前、大英博物館東洋圖書部長ダグラス男の官房へ、予、每度出入《でいり》した時、老婦人、各を忘れたが、屢ば、來り、曾て、宣敎に往《いつ》た序に、エスキモと、支那人の兒が產まれた時、必ず、臀に異樣の痣《あざ》有るに氣付き、精査すると、區別出來ぬ程、能《よく》似て居つたが、日本の赤子の痣は何樣《どん》な形かと、每度、問ふを、予、極《きはめ》て五月蠅く思ひ、其老婦の顏見ると、事に托して迯《にげ》て來たが、其後、又、雜誌に投書して、此事を質問し居た。予、一向知ぬ事乍ら、何かの參考にでも成る事かと、焉《ここ》に記付《しるしつ》く。

[やぶちゃん注:「沍寒貧澁」「冱寒」は「一面に凍り塞がって、寒気の激しいこと」で「極寒」に同じ。「貧澁」は見慣れない熟語だが、「自然と生活の全般が、極めて乏しく貧困な様態にあって、ずっとその状態が滞って続いている厳しい環境であること」を指してはいよう。

『チスホルム輯「ゼ・ブリタニカ・イヤーブック」、一九一三年板、一五四頁)』かのEncyclopædia Britannicaに盛り込まれた情報や、統計数値を、常に最新に保つため収集された資料に基づき、毎年刊行されている百科年鑑。「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る(編者にはHUGH CHISHOLMM.A., OXON の名が載る)。ページの頭にすぐ出て来る。

「ボアス博士が、一九〇二年出した、北太平洋遠征の調査書」恐らくは、ドイツ生まれのアメリカの人類学者フランツ・ボアズ博士(Franz Boas 一八五八年~一九四二年)のそれと思われる。

「チュクチ」主にロシアのシベリア北東端のチュクチ半島(チュコト半島)(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)に住んでいる民族。その居住域は、ほぼツンドラ気候に属する。かつてオホーツク海沿岸に住んでいた人々が起源と考えられている。現在の総人口は凡そ一万六千人(当該ウィキに拠った)。

「コリヤク」コリャーク人。ロシア連邦極東のカムチャツカ地方の先住民族で、ベーリング海沿岸地帯からアナディリ川流域南部及びチギリ村を南限とするカムチャツカ半島極北部にかけて居住している。体つきや生活習慣などが極めて似ているチュクチ人と同系である。現在の総人口は八千七百四十三人(当該ウィキに拠った)。

「カムチャダル」この名称は二十世紀に入る頃に当地に居住していた先住民、或いは、先住民と混血したロシア人を指した呼称で、「イテリメン」が自称。ロシア・カムチャツカ半島に居住する同地の先住民族。現在の総人口は三千二百十一人(当該ウィキに拠った。居住地域は同ウィキの地図を参照)。

「ユカギル」ユカギール人はシベリア東部に住む先住民族で北東アジアで最も古い民族の一つと考えられ、古くはバイカル湖から北極海まで住んでいたとされる。現在の総人口は千六百三人(当該ウィキに拠った。居住地域は同ウィキの地図を参照)。

「サンタ・カタリナの墓窟」次注リンク先で綴りは“Santa  Catarina”であることは判ったが、北米の北西部とあるが、位置不詳。

「馴鹿」哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus 。和名トナカイはアイヌ語での同種への呼称である「トゥナカイ」又は「トゥナッカイ」に由来する。トナカイは樺太の北部域に棲息(現在)しているものの、アイヌの民が本種を見知ることは少なかったかと思われ、このアイヌ語も、より北方の極東民族の言語からの外来語と考えられてはいる。

『ラッツェル「人類史」、二卷、頁一二一』「Internet archive」の英訳原本のこちらの右ページの下から二段落目が当該部。

「大英博物館東洋圖書部長ダグラス男」複数回既出既注。こちらを参照されたい。

「臀に異樣の痣有る」蒙古斑。

「日本の赤子の痣は何樣な形かと、每度、問ふを、予、極て五月蠅く思ひ、其老婦の顏見ると、事に托して迯て來た」熊先生、「マダムは私のケツでも見とう御座いますか?」といって、尻をベロっと出してやれば、よかったッスよ。]

2023/03/04

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 夙慧の兒、大人を閉口させた話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。

 標題の「夙慧」は「しゆつけい(しゅつけい)」と読み、「夙」は「早い」の意で、「幼少時から賢いこと」の意である。]

 

     夙慧の兒、大人を閉口させた話 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 伊太利人フランコ・サツケツチが十四世紀に書いた「新話(ノヴエレ)」第六七譚に、フロレンスのヴワロレ、惡謔(わるじやれ)、度《たび》なく、常に人をへこませ、娛樂とするに、よく敵する者、なし。ロマニアの官人ペルガミノの子十四歲、ヴワロレを訪ねて問答して之をやりこめた。ヴワロレ、傍人《ばうじん》に向つて、「小さい時非常に賢(かし)こい子が長じて、非常に馬鹿にならぬは、なし。」といふと、かの少年、「そんなら君は小さい時無類に賢かったはず」と卽座に擊ち返し、ヴワロレ、ますます辟易してフロレンスに逃げ還つた、とある。ポツジオ(一三八〇年生れ、一四五九年歿す)の「笑話(フアツエチエ)」には、一小兒、羅馬法皇前に演舌した時、ある高僧が評するを、小兒が右の通り擊ち返した、と作る。

[やぶちゃん注:『フランコ・サツケツチが十四世紀に書いた「新話(ノヴエレ)」「新話(ノヴエレ)」は「選集」では『デレ・ノヴエレ』とルビする。フランコ・サケッティ(Franco Sacchetti 一三三五年~一四〇〇年頃)はイタリア・フィレンツェの詩人で小説家。“Il Trecentonovelle” (トレセントノヴェッレ:「三百十九の短篇小説」)のことであろう。現在は二百二十三話のみ残る。これはイタリア語の「Wikisource」の「Il Trecentonovelle/LXVII」で原文が載る。私は読めないが、機械翻訳で、なんとか読める。「フローレンス」フィレンツェの英語。「ヴワロレ」は「Valore」、「ロマニア」は現在のエミリア=ロマーニャ州(Emilia-Romagna)で、イタリア共和国北東部に位置する州。州都はボローニャ。「ペルガミノ」は「Bergamino」或いは「Bergolino」とある。

『ポツジオ(一三八〇年生れ、一四五九年歿す)の「笑話(フアツエチエ)」』ジョアン・フランシスコ・ポッジョ・ブラッチョリーニ(Gian Francesco Poggio Bracciolini 一三八〇年~一四五九年)はルネサンス期イタリアの人文主義者。古代のラテン語文献を見出したことで知られる。‘Facetiae’は死後の一四七〇年に刊行された「ルネッサンス期の最も有名な笑話集」とされ、スカトロジックな話柄が含まれていることで知られる。]

 こんな話はサツケツチより凡そ九百年前、支那にすでに行なわれた。劉宋の朝成《なつ》た「後漢書」と「世說」に、後漢の末、孔融、十歲で異才あり。其頃、名高い李膺《りよう》を訪ふと、一寸會《あつ》て吳《くれ》ぬから、一計を案じ、累代の通家《しりあい》たる者がきたと、振れ込み、輙《たや》すく膺の目通りへ出た。膺、怪しんで、「君は、予と、どんな舊緣があるぞ。」と問ふと、「李聃《りたん》(老子)は孔子の師だつたから、かく申した。」と言《いつ》たので、一座、その夙慧に驚いた。陳韙《ちんい》てふ老官人が居合せて、「人、小さい時、聰(さか)しきは、大きく成《なり》て必《かならず》しも奇才とならぬ。」と評す。融、聲に應じて、「そんな言《こと》を吐く君は、見たところ、一向、平凡故、定めし、小さい時、よほど夙慧だつたらう。」と言つた。李膺、大いに笑つて、「高明(融の字)、必ず、偉器たらん。」と言った、とある。此拙考は明治卅一年頃の『ノーツ・エンド・キーリス』に載せた。

[やぶちゃん注:「世說」は「世說新語」のこと。南北朝時代の南朝宋の臨川王劉義慶が編纂した後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集。当該話は「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの最後の割注部(次の丁にかけて)で視認出来る。

「李膺」(?~一六九年)は後漢の官僚。事績は当該ウィキを参照されたい。

「明治卅一年」一八九八年。ちょっと調べたが、同年の同誌にはないようである。]

追 記(大正十五年八月二十七日記)

 文化中、一九作「落咄彌次郞口《おとしばなしやじらうぐち》」に、『「旦那、人と云《いふ》物は變つた物で、幼少の時、馬鹿な者は成人すると、極めて利口になり、又、子供の時、利口な者は大きくなると、果てのばかになる者だ。」と云と、側に聞て居《をつ》たる男、「左樣ならば、憚り乍ら、旦那樣は、御幼少の時は、嘸《さぞ》お利口で厶《ござ》りましたらう。」とあるは、明らかに件《くだん》の孔融の咄を丸取りだ。

[やぶちゃん注:「落咄彌次郞口」十返舎一九が文化一三(一八一六)年に刊行した小話(落し話)集。国立国会図書館デジタルコレクションの「一九全集」(続帝国文庫)のここで当該部が視認出来る(左ページ後ろから五行目。多少、アレンジしてあるようだ)。]

2023/02/25

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 魚の眼に星入る事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。]

 

     魚の眼に星入る事 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 宮崎氏、又、言《いは》く、「瀨戶内海の魚は、みな、讃岐の魚島《うおしま》まで、登る。サゴシは、登るうちは、右眼、降《くだ》る時は、左眼に、星入り、あり。紀・泉二國の山を見當として游《およ》ぐ故。」と。

[やぶちゃん注:「宮崎氏、又、言く」前の同じ雑誌に載った「ウガと云ふ魚の事」を受けている謂い。『田邊町の大字片町の漁夫』で『海のことを多く知た宮崎駒吉』氏を指す。

「魚島」愛媛県越智郡上島町魚島(グーグル・マップ・データ)。

「サゴシ」スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius の出世魚としての小型のものを指す。「サワラ」の漢字表記は「鰆」「馬鮫魚」。サワラは細長い体形をした大型になる肉食魚であるが、その小型の四十~五十センチメートルほどの個体を「サゴシ・サゴチ」(青箭魚:「青い矢の魚」)と呼ぶ。但し、「さごし」の名は「狭腰」魚が由来とされる。ここで「星」が入るというのは、実際にそうしたサワラを見たことはないが、海上に出て、山を見当としてみるために、太陽の光りで焼けるため、というこか。因みに、調べているうちに、「岡山商工会議所」公式サイト内の「さわらにまつわることわざ」に、『晴れている暗夜は漁獲が多い。さわら流し網に最も漁獲が多いのは、星がきらめく暗夜に漁獲が多いという例によるもので、真黒の暗夜よりも漁獲が多いという』。『これはたぶん、網具の動揺により夜光虫の発する小さな光が、星明りの暗夜のほうが、真黒の暗夜よりもさわらの目にうつることが少ないからだろう』とあるのが、目に止まった。他に、『サワラは潮流に向かって遊泳する。流し網にかかるさわらは十中八九まで潮流に向かってかかる』ともあり、『大型のさわらは底層を泳ぎ、小型さわらは上層に多い』(☜)ともあった。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート ウガと云ふ魚の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、本篇は私がブログを始めた三ケ月後ほどの昔二〇〇六年九月五日にサイト版を「選集」版底本で公開しているが、こちらが私の正規決定版となる。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。]

 

     ウガと云ふ魚の事 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 田邊町の大字片町《かたまち》の漁夫、海のことを多く知《しつ》た宮崎駒吉話しに、當地でウガ、東牟婁郡三輪崎でカイラギといふ魚は、蛇に似て、身、長く、赤白の橫紋有《あり》て頗る美也。尾三つに分れ、眞中の線《すぢ》に珠數《じゆず》如き玉を、多く貫き、兩傍の線は、玉、なく、細長し。游《およ》ぐを見ると、中々、壯觀だ。動作及び頸を揚《あげ》て游ぐ狀《さま》、蛇に異ならず。舟の帆柱に舟玉《ふなだま》を祝ひ籠有《こめあ》る。其前の板は、平生、不淨を忌み、其上で物をきらず。ウガを獲れば、件《くだん》の板を裏返し、其上でウガの尾をきり、舟玉に供え祀る[やぶちゃん注:ママ。]。然《しか》る時は、其舟にのる者、海幸《うみさち》を得。この魚の長《たけ》二尺許り、と。「和漢三才圖會」五一、「鮫」の條に「加伊羅介鮫(かいらけさめ)」の名を出し、「重訂本草啓蒙」四十には「錦魴」を「カイラギ」と訓じたれど、共にその記述を缺く故、當地方でいわゆるカイラギは、果たして鮫の類か否か一向分からぬ。

  追記 (大正十五年八月二十七日記)一昨年六月二十七日夜、田邊町大字江川の漁婦濱本とも、此物を持來り、一夜、桶に潮水を入れて蓄《か》ひ、翌日、アルコールに漬《ひた》して保存し、去年四月九日、朝比奈泰彥博士、緖方正資氏、來訪された時、一覽に供せり。此近海に數《しばし》ば見る黃色黑斑の海蛇の尾に、帶、紫、肉、紅色で、介殼なきエボシ貝(バーナツクルの莖有る者)、八、九個寄生し、鰓《えら》、鬚を舞《まは》して、其體を屈伸廻旋する事、速ければ、畧見には、𤲿《ゑ》にかける寶珠が、線毛狀の光明を放ちながら廻轉する如し。この介甲蟲群にアマモの葉一枚、長く紛れ著き、脫すべからず。「尾三つに分かれ」といふは、こんな物が、時として、三つも掛かりおる[やぶちゃん注:ママ。]をいふならん。左にアルコール漬の畧圖を出す。

 

Uga

 

[やぶちゃん注:底本の画像をダウン・ロードし、補正を加えた。キャプションは、

「ウガ一名カイラギ」

「蛇の體これよりズツト長いが紙面の都合上縮めて畫く」

である。]

 

詳細の記載は他に讓る。「重訂本草啓蒙」に、『海蛇は數品あり、蛇形にして色黑く、尾端、寸ばかり、分かれてフサのごとくして、赤色なるもの、また、白色なるものあり。』と云るは、此物であらう。此物、手に入《いれ》た時、江川の漁夫等、「古老の傳へた、海幸を舟玉に祈るに驗《しるし》著しい物は、これだろう[やぶちゃん注:ママ。]。」と言《いふ》たが、何といふ物か、其名を知《しつ》た者、一人も無かりし。曾て其名を予に傳へた宮崎翁は、大正十四年、双眼殆んど盲《めしひ》し乍ら、夜分、獨りで沖へ釣に出で、翌朝、船中に死しありしと、今夜、初めて聞き、斯る家業を世襲せる老人の口傳には必ず多少の實據ありと曉《さと》れるにつけて、今少し、多くを聞き留めおいたらよかつたと、後悔之を久しうする。序でにいふ、「塵添埃囊抄」三に、「鰄」を「カイラキ」と訓ず。紀州でいふ物およびカイラケザメと、同・異、判らぬ。同書四に、「蛇」を「ウカ」といふ事と、其起原を說きある。

[やぶちゃん注:これは、私は南紀白浜の南方熊楠記念館で、そのウガの当該標本を実見したが、まずは爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科セグロウミヘビPelamis platurusと見て良いのではないかと思われる。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこにも、『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では旧暦』十『月に、海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』。『出雲大社からの勧請とされる佐渡市の牛尾神社には、宝物としてセグロウミヘビが納められている』とある。私の「耳嚢 巻之二 日の御崎神事の事」や、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)』、或いは、「諸國里人談卷之一 龍虵」、また南方自身、『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「三」』でも言及している。なお、本種は猛毒蛇で、毒は肉にも含まれるので食用には出来ない。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「田邊町の大字片町」和歌山県田辺市片町(グーグル・マップ・データ)。旧南方邸の西直近。

「東牟婁郡三輪崎」現在の和歌山県新宮市三輪崎

「カイラギ」これと似た、熊楠が本種の名称と同義かどうか判らぬと疑義を懐いている「カイラケザメ」については、これが梅花皮鮫(カイラギザメ)を指すものであるとすれば、本種ではない。「カイラギザメ」は、本邦では一般に稀種の軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科イバラエイ Urogymnus asperrimus のことを指し、古くからその鱗状突起のある上皮が、刀の鞘巻等の装飾などに用いられてきた歴史がある(本種は本科には珍しく毒棘は持たない)。当該ウィキ及び学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「舟玉」「船玉」「船霊」「船魂」とも書く。漁船の守護神として信仰されている神霊で、新造の際、船大工が女性の毛髪や人形(ひとがた)・骰子(さいころ)二個などを船の中央の帆柱の下などに、神体として嵌め込むのが通例。

『「和漢三才圖會」五一、「鮫」の條』私の古いサイト版電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鮫」の項に「加伊羅介(かいらげ)鮫」が出るが、その注で私は、

   *

カイラゲザメ 前の7件を欛用の鮫皮と推論した理由は、実はこの「カイラゲザメ」なる呼称が、将に著名な鮫皮の名称の一つだからである。後に、鮫皮全体をその共通の文様から梅花皮鮫(かいらぎざめ)と称したようである。なおこれについてはイバラエイUrogymnus asperrimusに種同定している資料があった。

   *

と述べた。そちらを見られれば判るが、私はこれをサメの種として同定はしていない

『「重訂本草啓蒙」四十には「錦魴」を「カイラギ」と訓じた』当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右丁後ろから二行目下方)。但し、ここは「鮫魚」の大項の中であり、小野蘭山はサメの一類と考えていることは明らかである。但し、彼がサメとエイを区別していたかは、ちょっと怪しい。

「一昨年」大正一三(一九二四)年。

「田邊町大字江川」現在の田辺市江川(グーグル・マップ・データ)。

「朝比奈泰彥」(明治一四(一八八一)年~昭和五〇(一九七五)年)は薬学者・薬化学者。東京大学名誉教授。薬学博士。昭和八(一九三三)年の牧野富太郎によって創刊された『植物研究雑誌』の編集・主幹を引き継ぎ、戦中・戦後を通じ没年まで続けたことでも知られる。

「緖方正資」『植物研究雑誌』に名が載るので、植物研究家ではあろう。

「介殼なきエボシ貝(バーナツクルの莖有る者)」「バーナツクル」は“barnacle”で、エビ・カニの甲殻類のフジツボの仲間(蔓脚類=甲殻亜門顎脚綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱 Cirripedia)を指す。「エボシ貝」はその蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイLepas anatifera である。当該ウィキ及び学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。ただ、「介殼なき」という部分はちょっと不審である。エボシガイ類は、皆、頭状部が五枚の白い殻板に覆われているからで、これは「貝」に見える。或いは、ウミヘビの尾に寄生した彼らが、ウミヘビの運動で殻板を損壊し、落としてしまって、柄の部分のみが残っていたことを指しているのかも知れない。既に持ち込まれた際に、エボシガイは死んでおり、殻板が落ちていた可能性もある(持ち込んだ婦人が余計なものと思って剝ぎ取ったのかも知れない)。

「アマモ」「海草」類である被子植物門単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina(九州から北海道の内湾に植生)・スゲアマモ Zostera caespitosa(同じく北海道・本州北部及び中部)・エビアマモ Phyllospadix japonicus(本州中部・西部)。本種は「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」(龍宮の乙姫の元結の切り外し)という別名をも持つが、これは最も長い植物名として有名である。

『「重訂本草啓蒙」に、『海蛇は數品あり、蛇形にして色黑く、尾端、寸ばかり、分かれてフサのごとくして、赤色なるもの、また、白色なるものあり。』と云る』国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の、ここの「蛇婆 ウミクチナハ」を指す。

「塵添埃囊抄三に、「鰄」を「カイラキ」と訓ず」(じんてんあいのうしょう:現代仮名遣)は天文元(一五三二)年に僧某(本文では釈氏某比丘)によって「埃囊抄」を改訂を施した類書(百科事典)。「日本古典籍ビューア」のここ(右丁後ろから二行目の四字目)。これは「廿三」の「魚市喉(コン)事 魚類字音便事」の内。解説も何もない。

『同書四に、「蛇」を「ウカ」といふ事と、其起原を說きある』同前のここ(左丁四行目から)。蛇身の神として知られる「九 宇賀神(ウカノカミノ)事」の内。以下に示す。

   *

虵(クチナハ)ヲ今ノ世ニ宇加ト云フハ宇加神ノ虵(クチナハノ)形ニ變乄人ニ見エ玉フ心カ

   *]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 少許を乞て廣い地面を手に入れた話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。標題の「少許を乞て」は「すこしばかりをこひて」。]

 

     少許を乞て廣い地面を手に入れた話 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 昔し、といふ物の、年代、確かに分らぬ時、チリア王ムトゴ、殂《そ》し[やぶちゃん注:亡くなり。]、其民、王の子ピグマリオンを立つ。その妹ヂド、叔父アセルバスの妻たり。アセルバスの勢ひ、王に次げり。ピグマリオン其寶物を奪はんとて竊かに叔父を殺す。ヂド、夢に其夫が自分の兄に殺されたと知り、故《こと》さらに愁ひを忘れん爲め、兄と同棲を申し出で、内實、他邦へ奔《はし》らんと謀る。王、知らず、多人《たにん》をしてその移居を助けしむ。ヂド、其人々を語らいて、味方とし、シプルス島に到り、ゼウスの祠官の一族と合體し、移民に妻《めあは》すための八十人の室女《むすめ》を掠《かす》め、アフリカ北岸の一港に航着、上陸す。さて、土人より地を買ふに、牛皮一枚で覆ひ得るだけを望み、土人、諾す。その時、ヂド、牛皮を剪《きり》て、最も細き線條《すぢ》とし、浩大なる地面を圍み、悉く其地を獲《とり》て國を建て、プルサ(牛皮)と名づく。是れ、カルタゴ國の剏《はじ》めなり(スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一)。

[やぶちゃん注:「チリア」シリア。

「ムトゴ」不詳。

「ピグマリオン」ギリシア・ローマ伝説の登場人物。テュロス王。財産を乗っ取るため、妹ディドの夫を殺した。像が生きた女となった伝承で知られるキプロス島の王とは同名異人

「ヂド」現行では「ディド」「ディードー」などと表記する。カルタゴの創設者とされる女王。フェニキアのテュロスの王女として生まれ、巨万の富をもつ叔父シュカイオスと結婚したが,父王の死後、王位についた兄ピグマリオンに夫を殺されたため,財宝を船に積んでリビアへ逃れた。この地で,一頭の牛皮で覆えるだけの地面の譲渡の約束をとりつけた彼女は,機転を働かせて皮を細く糸状に切り,これによって囲める限りの土地を入手,ここを拠点にカルタゴ(セム語で「新しい町」の意)を建設した。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠ったが、同社の「百科事典マイペディア」には、後、漂着したアエネアスと恋におちたが、彼はイタリアに去り、後、リビア王に結婚を迫られ,火中に身を投じて死んだ。ウェルギリウスの叙事詩「アエネイス」によって知られるとある。

「シプルス島」キプロス島。

「カルタゴ國」紀元前にアフリカ大陸の北岸を中心に地中海貿易で栄えたフェニキア人による国家。当該ウィキによれば、『カルタゴの建国に関して確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じメルカルト』『が町の守護神であったことなどである。カルタゴは同じフェニキア系都市で先に入植されたウティカやガデスの寄港地として開かれたと考えられている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では紀元前』八『世紀後半のものが最も古い』。『ティルスの女王ディードーが兄ピュグマリオーン 』『から逃れてカルタゴを建設したとされる。ディードーは主神メルカルトの神官の妻だったが、ピュグマリーオンがディードーの夫を殺害したため』、『テュロスを去った。ローマの歴史家グナエウス・ポンペイウス・トログスの』「ピリッポス史」に『よれば、岬に上陸したディードーは』、一『頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めた。岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れる。この丘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサと呼ばれるようになった』。『ビュルサには近隣の人々が集まるようになり、同じくフェニキア系の都市であるウティカから使者が訪れ、都市の建設が始まる。皮で囲まれた土地については、地代としてアフリカ人へ貢租を支払うことになり、前』五『世紀まで支払いが続いたとされる』。『古代ローマの詩人ウェルギリウスは、上記とは異なるディードーの伝説を』「アエネイス」『で書いている』とあり、また、『ポンペイウス・トログスによるディードーの伝説に従えば、カルタゴはテュロスによる正規の植民都市ではなく、亡命者の土地にあた』り、『また、神官の妻だったディードーは宗教的にはピュグマリーオンよりも正統に属しており、メルカルト信仰の中心がテュロスからカルタゴへ移ったことも意味する』。『ビュルサの丘は、現在のサン・ルイの丘にあたる』。『古代ギリシアやローマの歴史家らの史料では』、『トロイ戦争(紀元前』十二『世紀頃)前、紀元前』八二〇『年頃や紀元前』八一四『年頃に』、『それぞれ建国されたという記述があるが』、『いずれも裏付はない』とあった。]

 熊楠謂く、右は、吾國でも西史を讀む人のみな知る處で、其時吾々がヂドだつたら、どんな形に牛の皮線條で地面を圍んだら、最も多く地を取り込みえたかといふ算學上の問題に、予抔、每々腦漿を搾つた事である。然し、此話は餘り氣が付《つい》た人はない樣な物の、實は東洋にも古くから傳えた事で、たゞヂドの話が移つたか、印度や支那にも自ら發生したかゞ分らぬ。

 西晉の安息國三藏安法欽譯「阿育王傳」三に、摩田提(マヂヤーンチカ)尊者、罽賓《けいひん》國で大龍を降し、自分一人坐るにたる丈の地を求め、龍、承諾した。そこで、尊者、其身を大にして、國中に滿たして、跏趺《かふ》して坐した。龍、大《おほい》に呆れ、「汝、かばかりの廣き地を、何にするぞ。」と問ふ。尊者、「我に諸伴黨《はんたう》ある故。」と答ふ。復た問ふ。「伴黨は幾人ぞ。」。答ふ。「五百羅漢あり。」と。龍、言《いは》く、「もし、他日、五百羅漢が一人でも減ずる場合には、その時、必ず我に此國を還せ。」と。尊者、入定して、『後世、五百羅漢が常に五百ながら存し得べきか。』を觀ずると、必常、五百、有《あり》て、一人も減ぜぬべきを知《しつ》た。因て答へて、「いかにも、龍の望み通り。」と約定した。扨、尊者、無量の人をつれて、此國に來り、自ら、之を、村落城邑に安住せしめた。又、人を將《ひきつ》れて、飛《とん》で、香山《かうざん》中に向ひ、鬱金《うつこん》の種を取って罽賓國に種《うゑ》んとした。龍、怒つて、「鬱金を幾時のあいだ種る積りか。」と問ふ。尊者曰く、「佛法が續く間《あひだ》だ。」と。龍、問ふ。「佛法は、幾時、永く續くか。」。答ふ。「千歲だ。」と。聞いて、龍、その種を與へた、と出づ。

[やぶちゃん注:「阿育王傳」は「大蔵経データベース」を確認した。]

 六祖大師の門人法海等集「六祖大師緣起外記」に、唐の儀鳳二年[やぶちゃん注:六七七年。]、大師至曹溪寶林、覩堂宇湫隘不ㇾ足一ㇾ、欲ㇾ廣ㇾ之、遂謁里人陳亞仙曰、老僧欲檀越坐具地、得不(ウルヤイナヤ)、仙曰、和尙坐具幾許闊、祖出坐具、示ㇾ之、亞仙唯然、祖以坐具一展盡罩曹溪四境、四天王現ㇾ身坐鎭四方、今寺境有天王嶺、因ㇾ茲而名、仙曰、知和尙法力廣大、但吾高祖墳墓並在此地、他日造ㇾ塔、幸望存留、餘願盡捨永爲寶坊云々。〔大師、曹溪の寶林に至るに、堂宇、湫隘(しうあい)[やぶちゃん注:土地が低く、狭いこと。]にして、衆(しゆ)を容(い)るるに足らざるを觀(み)、『之れを廣くせん。』と欲す。遂に里人の李亞仙に謁して曰はく、「老僧、檀越に就いて、坐具の地を求めんと欲す。得るや不(いな)や。」と。仙曰はく、「和尙の坐具、幾許(いかばか)りの闊(ひろ)さなるや。」と。祖、坐具を出だして之れを示す。亞仙、唯だ、然(うべな)ふ。祖、坐具を以つて一たび展(ひろ)ぐるや、盡(ことごと)く曹溪の四境を罩(つつ)み、四天王、身(しん)を現じ、坐して四方を鎭(しづ)む。今、寺の境に「天王嶺(てんわうれい)」あり、茲(こ)れに因ちて名づく。仙曰はく、「和尙の法力の廣大なるを知れり。但(ただ)、吾が高祖の墳墓、並(みな)、此の地に在り、他日、塔を造らんとせば、幸(ねがは)くは存留されんことを望む。餘(よ)は、盡(ことごと)く捨てて、永く寶坊と爲(な)さんと願ふ。」云々と。〕尊者と大師が神通力を以て、或は、身を一國に滿《みつ》る大《おほき》さにし、或は、坐具一枚で土豪の所有地を盡く罩(おほ)ふたは、ヂドが、牛皮を、細《こま》かき線條に切《きつ》て、廣い地面を圍んだ算勘上の頓智と大違ひだが、小さいものをだしに使つて廣大の地面を取《とつ》た趣きは同じ。又、慈覺大師「入唐求法巡禮行記」卷三に云く、五臺山五百里内、奇異の花開敷如ㇾ錦、滿山遍谷香香氣薰馥、每臺多有慈韮生、昔孝文皇帝住五臺遊賞、文殊菩薩化爲僧形、從皇帝乞一座具地、皇帝、許ㇾ之、其僧、見ㇾ許已、敷一座具、滿五百里地、皇帝恠ㇾ之、朕只許一座具地、此僧敷一座具遍浩五臺大奇、朕不ㇾ要共住此處、遂以慈韮五臺山、便出ㇾ山去、其僧在後、將零陵香子慈韮之上、令ㇾ無臭氣二一、今ㇾ見每臺遍生慈韮二一、惣不聞臭氣、有零陵香、滿臺生茂、香氣氛氳、相傳云、五臺五百里、敷一座具地矣。〔五臺山五百里の内、奇異の花、開き敷くこと、錦のごとし。滿山遍谷、香り、香氣、薰馥(くんぷく)たり。臺(うてな)每(ごと)に、多く慈韮(ねぎ[やぶちゃん注:推定訓。])の生ずるあり。昔、孝文皇帝、五臺に住みて、遊び賞す。文殊菩薩、化(くわ)して僧形(そうぎやう)と爲(な)り、皇帝に從ひて、一つの座具の地を乞ふ。皇帝、之れを許す。其の僧、許され已(をは)りて一つの座具を敷くに、五百里[やぶちゃん注:当時の一里は四百三十四メートルであるから、二百二十五キロメートル。]の地に滿つ。皇帝、之れを怪しみ、「朕は、但(ただ)一つの座具の地を許せしに、此の僧、一つの座具を敷きて、遍(あまね)く五臺に浩(ひろ)ごること、大いに奇なり。朕は、共に此處(ここ)に住むを要せず。」と。遂に、慈韮を以つて、五臺山に散(はな)ち、便(すなは)ち、山を出でて去る。其の僧、在(あり)て後(のち)、零陵香の子(み)を以つて、慈韮の上に散らし、臭氣を無からしむ。今、臺(うてな)每に、遍く慈韮を生ずるも、惣(すべ)て、臭氣を聞(か)がず、零陵の香、有り、滿てる臺(うてな)に生ひ茂りて、香氣、氛氳(ふんうん)たり[やぶちゃん注:香気が甚だ盛んなさま。]。相傳へて云ふ、「五臺の五百里は一つの座具を敷くの地なり。」と。〕

[やぶちゃん注:『法海等集「六祖大師緣起外記」』も「大蔵経データベース」と校合したが、「仙」とあるところが、熊楠の引用では「僊」となっている。同じ意味であるので、「仙」とした。返り点もおかしい箇所があった(一二点を挟まずに上下点がある)ので勝手に修正した。

「入唐求法巡禮行記」は原本データベースがメンテナンス中であるため、確認出来なかったことから、熊楠のものを採用したが、一ヶ所、「選集」の読みから、「住」が「往」になっているのを訂した。

「孝文皇帝」北朝北魏の第六代皇帝(在位:四七一年~四九九年)。]

增補 (大正十五年八月二十七日記)

 「聊齋志異」卷十二に云く、紅毛國舊許中國相貿易、邊帥見其人衆、不ㇾ聽ㇾ登ㇾ岸。紅毛人固請、但賜一氈地足矣、帥思一氈所ㇾ容ㇾ無幾、許ㇾ之、其人置氈岸上、僅容二人、扯ㇾ之容四五人、且扯且登、頃刻氈大畝許、已數百人矣、短刀並發、出於于不意一、數里而去。〔紅毛(オランダ)[やぶちゃん注:「選集」のルビ。]國は、舊(むかし)、中國と相(たがひ)に貿易することを許さる。邊帥(へんすい)は、其の、人、衆(おほ)きを見て、岸に登るを、聽(ゆる)さず。紅毛人は、「ただ一氈(いつせん)の地を賜はらば、足れり。」と固く請ふ。帥、思ふに、『一氈の容るる所、幾(いくばく)も無し、』と、之れを許す。其の人、氈を岸の上に置くに、僅かに二人を容るるのみ。之れを扯(ひきさ)くに、四、五人を容るる。扯き、且つ、登るに、頃-刻(しばらく)にして氈の大きさ、畝(ほ)ばかり、已(すで)に數百人となる。短刀を、みな、發(ぬ)き、不意に出でて、數里を掠(かす)めて去れりと。〕

[やぶちゃん注:「聊齋志異」のそれは卷十二の「紅毛氈」。快刀乱麻の柴田天馬訳(昭和三〇(一九五五)修道社刊)が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。「邊帥」海辺警備隊の隊長。

「畝」約六アール。]

 是は何の地と明記せぬが、伊能嘉矩氏が『民俗』二年二報に書かれたるをみると、臺灣を右に似た謀事《はかりごと》で紅毛が取《とつ》たらしい。鄭亦鄒《ていせきすう》の「鄭成功傳」には、蘭人が、當時、據臺《きよたい》の日本人を紿《あざむ》き、「臺灣府志」の舊志には、蘭人が土蕃をだまして、いずれもヂド同樣、牛皮線條で地面を圍ひ取《とつ》たとある由。又、同氏は「增譯采覽異言」を「野史」から孫引いて、西班牙人が一牛皮の屋を蓋ふの地を呂宋《ルソン》王に求め、許可された後、多く牛皮を縫合《ぬひあは》せ、以て土地を圍み取たと述べらる。

 此話は「明史」に、はや、出でおり、萬曆時佛郎機强與呂宋互市、久ㇾ之見其國弱可取、乃奉厚賄遺ㇾ王、乞牛皮大建ㇾ屋以居、王不ㇾ慮其詐而許ㇾ之、其人乃裂牛皮聯屬至數千丈、圍呂宋地乞如ㇾ約、王大駭、然業已許諾、無ㇾ可奈何、遂聽之、而稍徵其稅國法、其人既得ㇾ地、卽營ㇾ室築ㇾ城列火器、設守禦、具爲窺伺計已竟、乘其無一ㇾ備、襲殺其王二一其人民、而據其國、名仍呂宋實佛郎機也。〔萬曆の時、佛郞機(フランキ)、强いて、呂宋(ルソン)と互市(とりひき)をなす。之れを久しくするに、其の國の弱くして取るべきを見(みてと)り、乃(すなは)ち、厚き賄(ないない)を奉じて王に遺(おく)り、牛皮の大きさのごときの地に、屋を建て、以つて居まふことを乞ふ。王、其の詐(あざむ)くことを虞(おもんばか)らずして、之れを許す。其の人、乃(すなは)ち、牛皮を裂き、連-屬(つな)ぎて、數百丈に至り、呂宋の地を圍みて、約のごとくせんことを乞ふ。王、大いに駭(おどろ)く。然(しか)れども、已(すで)に許諾したれば、奈何(いかん)ともすべきなく、遂に之れを聽(ゆる)す。而(しか)も、稍(しだい)に、其の稅を徵すること、國法のごとし。其の人、既に地を得て、卽ち、室を營み、城を築き、火器を列べて守-禦(まもり)を設け、具(つぶ)さに窺伺(きし)の計(けい)[やぶちゃん注:機会を狡猾にうかがうこと。]を爲し、已に竟(をは)りて、其の備え無きに乘じ、其の王を襲ひて殺し、其の人民を逐(お)ひて、その國を據(と)れり。名は「呂宋」の仍(まま)なるも、實は「佛郞機」なり。〕とある。「佛郞機(フランキ)」は、其頃、回敎民が總ての基督敎民を呼《よん》だ名だから、爰に言《いへ》る「佛郞機」はスペイン人を指したものだろう。「ゲスタ・ロマノルム」六四語、賢い處女が僅かに三吋[やぶちゃん注:「インチ」。七センチ六ミリ。]平方の布片で王の身に合《あふ》た襦袢を作つた話も本條に近い。それに似た話が「毘奈耶雜事」二七の大藥傳にあるが、緣が遠くなるから畧する。

[やぶちゃん注:「明史」は中文サイトで校合し、返り点のおかしい部分を勝手に訂した。

「ゲスタ・ロマノルム」「ゲスタ・ローマーノールム (ラテン語:Gesta Rōmānōrum) は中世ヨーロッパのキリスト教社会に於ける代表的なラテン語で書かれた説話集。「ローマ人たちの事績」を意味するが、「ゲスタ」は中世に於いては「物語」の意味合いとなり、「ローマ人たちの物語」と訳すべきか。古代ローマの伝承などを下敷きにしていると考えられているが、扱っている範囲は古代ギリシア・ローマから中世ヨーロッパ、更には十字軍が齎したと思われる東方の説話にも及んでいる。題材はさまざまなジャンルに亙るが、カトリックの聖職者が説教の際に話の元として利用できるように、各話の「本編」の後に「訓戒」としてキリスト教的な解釈編が附されてある(Wikibooksの同書に拠った)。「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」の「ゲスタ・ロマノールム」によれば、『現存する』百十一『冊の写本数から『ゲスタ・ロマノールム』はヤコブス・デ・ヴォラギネの』「黄金伝説」と『並ぶ人気を博した書物であったと推察される』が、『聖人伝を纏めた』それ『と異なる点は題材で』、「ゲスタ・ロマノールム」には『若干の聖人伝に加え、伝説、史話、逸話、動物譚、笑話、寓話、ロマンスなど、ありとあらゆるジャンルの物語が登場する。そして、どの話の後にも教訓解説』『が書かれている。この内容の豊かさ故に』本書は『後にシェイクスピアの』「ヴェニスの商人」、『さらには芥川龍之介に至るまで影響を与えた』。『ラテン語で印刷された』本書は一四七二年に『ケルンで刊行されて以来、様々な増補、改変が行われた。従って』、本書には『決まった物語数というものはない』。『写本は』十三『世紀頃に編まれたと考えられているが、印刷本が刊行されるようになってから』百八十一『話が定本となり、さらに編者によって各話が改変されたり、数十話が付け加えられたりしたらしい』とあった。]

 日本でやゝこの類の話とみるべきは「甲子夜話」續篇四一に出づ。豐太閤が曾呂利新左に「望みの物をやるから、言へ。」といふと、新左、「紙袋一つに入るほどの物を。」といふ。太閤、「小さい望みかな。」と、これを許し、曾呂利、喜んで退く。曾呂利、出仕せざること十日、太閤、人をして伺はしむるに、大なる紙袋を作りおり、「この大袋をお倉にかぶせ、その中に積んだ米を、皆な、賜はる筈。」という。太閤、使者より、これを聞いて、「紙袋一つに相違なきも、倉一つの米は、與へ難い。」と笑はれたそうだ。

[やぶちゃん注:『「甲子夜話続篇」續篇四一に出づ』私のブログ・カテゴリ「甲子夜話」で先ほど「フライング単発 甲子夜話續篇卷之41 五 椛町、岩城升屋の庫燒失せざる事 附 曾呂利の話」を電子化しておいたので見られたい。]

追 加 (大正四年二月『民俗』第三年第一報)

 『鄕土硏究』二卷一號に、久米長目氏、「仙臺封内風土記」を引《ひい》て、宮城郡の洞雲寺、元、異人夫婦、住む。慶雲中、僧定惠、來つて、「此地に寺を建てんと欲し、携《たづさへ》る錫杖を地に樹《た》て、その影の及ぶところ丈を借らん」と言ふ。二人、之を許せば、其所居《そのをるところ》の境内、悉く、影の及ぶ所と成つたので、不得止《やむをえず》、其地を引渡し、自分等は、他の山間へ立退いたと有る。

 印度說に云く、過去世トレタユガの時、マハバリ王、其威力を恃《たの》み、諸神を禮せず、又、牲《にへ》を供えず[やぶちゃん注:ママ。]。韋紐天(ヴヰシユヌ)、諸神に賴まれ、彼を罰せんとて、侏儒の梵志ヴアマナに生れ、王に謁して、三步で踏み得る丈の地面を求む。王、「そは、あまりに少《ちい》さ過ぎる。今、少し、大きい物を望め。」と言ふたが、「外に望みない。」と言ふ。「お安い事。」と王が三步だけの地面を許すと、「然らば、約束成つた印に、吾手へ水を掛け給へ。」と乞ふ。因て、水を注いで、手に懸くるや否や、侏儒の身、忽ち、長大して、天地に盈《み》ち、初步で、大地を履盡《ふみつく》し、第二步で天を履盡し、第三步もて冥界を略取せんとす。此時、大《マハ》バリ王、『これは。大神に外ならず。』と悟り、地に伏して降參した。一說には、第一步で天、第二步で地を丸で踏み、第三步の下ろし所がないので、便《すなは》ちバリ王の頭を踏んで地獄まで突込《つつこ》んだと有る(上に引たバルフヲル「印度事彙」三卷九八九頁。ヴァイジャ「梵英字書」八七五頁[やぶちゃん注:この前者は「選集」で書名と巻数の数字を補って、著者名を後に回した。])。

[やぶちゃん注:「過去世トレタユガ」「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『ヒンドゥー教神話での宇宙の紀年』を「ユガ」と呼び、その『世界創造説によれば、世界は生成と壊滅を繰返すとされ、創造から帰滅までの期間を』四『期に分ける。第』一『期クリタ・ユガ、第』二『期トレーター・ユガ』(☜これ)、第三『期ドバーパラ・ユガ、第』四『期カリ・ユガで、』この第四『期は神の』千二百『年間にあたり、』一、二、三『期は順次その』四、三、二『倍である。第』一『期は黄金時代で正義が完全に行われ,人間の寿命も』四千『歳あるが,次第に悪くなって』、『ついには暗黒に帰着する。神の』一『年は太陽暦の』三百六十『年とされ、第』四『期は太陽暦の』四十三万二千『年に相当するわけであるが、年数については諸説がある。現在は第』四『期カリ・ユガが約』五千『年ほど過ぎ去ったところであるという』とある。

「マハバリ王」「マハーバリ」或いは「バリ」は、主にインド神話に登場するアスラ(神々に敵対する存在を指す)の王の名。「マハー」とは「偉大な」を意味する敬称。詳しくは当該ウィキを読まれたい。以上の話もそこに記されてあり、リンクも細かくついているので、ここでは以下、注を省く。

『バルフヲル「印度事彙」三卷九八九頁』スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India (一八八五年刊第巻)の原本の「989」ページのにある‘VAMAHA’(熊楠の言う「侏儒の梵志ヴアマナ」)の当該項目が確認出来る。

『ヴァイジャ「梵英字書」八七五頁』不詳。]

2023/02/21

南方熊楠「ひだる神」(新字新仮名)

 

[やぶちゃん注:現在、電子化注中の柳田國男の「妖怪談義」の「ひだる神」に必要になったので、電子化する。但し、これは国立国会図書館デジタルコレクション等で原記載を見ることが出来ないことから、底本として所持する平凡社「南方熊楠選集4」(一九八四年刊)にある新字新仮名のそれで電子化しておく。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集3」(雑誌論考Ⅰ))にあるものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 ルビは底本が古いので拗音・促音がないが、勝手に処理した。急遽の挿入となるので、注はごく一部に留めた。]

 

   ひ だ る 神

           柳田国男「ひだる神のこと」参照
           (『民族』一巻一号一五七頁)

 ここに『和歌山県誌』から、ある書にいわく、云々、と引いたは、菊岡沾涼の『本朝俗諺志』で、本文は、「紀伊国熊野に大雲取、小雲取という二つの大山あり。この辺に深き穴数所あり、手ごろなる石をこの穴へ投げ込めば鳴り渡りて落つるなり。二、三町があいだ行くうち石の転げる音聞こえ鳴る、限りなき穴なり。その穴に餓鬼穴というあり。ある旅僧、この所にてにわかにひだるくなりて、一足も引かれぬほどの難儀に及べり。折から里人の来かかるに出あい、この辺にて食求むべき所やある、ことのほか飢え労(つか)れたりといえば、跡の茶屋にて何か食せずや、という。団子を飽くまで食せり、という。しからば道傍の穴を覗きつらん、という。いかにも覗きたりといえば、さればこそその穴を覗けば必ず飢えを起こすなり、ここより七町ばかり行かば小寺あり、油断あらば餓死すべし、木葉を口に含みて行くべし、と。教えのごとくして、辛うじてかの寺へ辿りつき命助かる、となり」とある。

[やぶちゃん注:「ここ」底本の割注に柳田國男の「ひだる神」の記事(『民族』一巻一号一五七頁)を指すことが記されてある。

「菊岡沾涼の『本朝俗諺志』」早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本(PDF第二巻一括版)で当該部(「三之巻」の「七」の「紀州雲取穴(きしうくもとりのあな)」で、56コマ目)が視認出来る。]

 予、明治三十四年冬より二年半ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキに付かれたことあり。寒き日など行き労れて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足進まず、一度は仰向けに仆れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩で頭を砕くを免れた。それより後は里人の教えに随い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌(きざ)しある時は少し食うてその防ぎとした。

[やぶちゃん注:「明治三十四年」一九〇一年。南方熊楠は、この十月末に勝浦に向い、長期に亙る南紀植物調査を開始した。]

『俗諺志』に述べたような穴が只今雲取にありとは聞かぬが、那智から雲取を越えて請川(うけがわ)に出で川湯という地に到ると、ホコの窟というて底のしれぬ深穴あり。ホコ島という大岩これを蓋(おお)う。ここで那智のことを咄(はな)せば、たちまち天気荒るるという。亡友栗山弾次郎氏方より、元日ごとに握り飯をこの穴の口に一つ供えて、周廻を三度歩むうちに必ず失せおわる。石を落とすに限りなく音して転がり行く。この穴、下湯川とどこかの二つの遠い地へ通りあり。むかしの抜け道だろうと聞いた。栗山家は土地の豪族で、その祖弾正という人天狗を切ったと伝うる地を、予も通ったことあり。いろいろと伝説もあっただろうが、先年死んだから尋ぬるに由なし。この穴のことを『俗諺志』に餓鬼穴と言ったでなかろうか。

 また西牟婁郡安堵峰辺ではメクラグモをガキと呼ぶ。いわゆるガキが付くというに関係の有無は聞かず。

      (大正十五年三月『民族』一巻三号)

[やぶちゃん注:「川湯」恐らくこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「メクラグモ節足動物門鋏角亜門蛛形(クモガタ)綱ザトウムシ目 Opilionesに属する種群を指す。クモに似ているが、近縁ではなく、特徴も大きく異なる。明瞭な違いとしては、ザトウムシの体の前体と後体は密着し、全体として豆粒のように纏まっており(クモの前体と後体の間は顕著にくびれている)、「メクラグモ」という旧称に反して、殆んどのザトウムシは一対の機能性能のある単眼を持っている(ウィキの「ザトウムシ」に拠った)。]

【追記】

 予、那智辺におった時ガキに付かるるを防ぐとて、山行きごとに必ず握り飯と香の物を携え、その萌しあれば少しく食うて無難を得た由はすでに述べた。これに似たこと、一九二三年ケンブリッジ板、エヴァンズの『英領北ボルネオおよびマレイ半島の宗教俚伝風俗研究』二七一と二九四頁に出ず。マレイおよびサカイ人が信ずるは、食事、喫煙等を欲しながらそれを用いずに森に入ると、必ず災禍にあう。望むところの食事、喫煙を果たさずに往って、蛇、蠍(さそり)、蜈蚣(むかで)に咬まれずば、まことに僥倖というものだ。これをケムプナンと呼び、ひだるいながら行くという意味だ。かようの時は、自分の右の手の中指を口に入れて三、四度吮(す)えば災に罹らぬ、とある。

[やぶちゃん注:「サカイ人」小学館「日本大百科全書」の「サカイ」に『マレーシア、マレー半島に住む先住民、とくにマレー半島中央部山岳地帯の民族集団セノイに対し、マレー人や中国人が用いた「奴隷」の意の蔑称』で、『かつては民族名として採用されていた。現在、マレーシア政府は、先住民の総称としてオラン・アスリ(マレー語で「土着の人」の意)を用いている』とあり、同事典の「サカイ語」には、『マレー半島中部に分布する少数民族の言語。中央サカイ語(セマイ語)、東サカイ語(ジャフット語)、北サカイ語(テミアル語)などの方言に分かれ、近隣のセマング語(ジャハイク語)、セムナム語などとともにセノイ語群を形成し、オーストロアジア語族の支族であるモン・クメール語族に属する。使用人口はセノイ語群全体で約』三『万人くらいと推定されている。接辞による語形成を行う。なお、サカイ、セマングという民族名は蔑称』『のため』、『現在では使用されず、それぞれ前述の括弧』『内の名称でよばれる』とある。]

 松崎白圭の『窓のすさみ追加』下に、柔術の名人が、近所に人を害して閉じ籠った者を捕えよと、その妻が勧めても出てず、強いて勧めてのち、しからば食を炊ぐべし、食気なくては業(わざ)をなしがたしとて、心静かに食事してのち押し入りて、初太刀(しよだち)に強く頸を切られながらその者を捕えた、と記したごとく、腹がたしかでないと注意不足して種々の害にあうのである。

    (大正十五年七月『民族』一巻五号)

【増補】

 道中で餓鬼に付かるるということ、もっとも古く見えた文献は、『雲萍雑志』である(『民族』一巻一号一五七頁)と言われたが、それと予が引き出した『本朝俗諺志』(『民族』一巻三号五七五頁)と、いずれが古いか。ふたつながら予の蔵本にこれを書いた年を記しおらぬから、見当がつかぬ。

[やぶちゃん注:「雲萍雜志」は天保一三(一八四二)年の板行で、「本朝俗諺志」はそれより九十六年も前の延享三(一七四六)年である。

 また紀州有田郡糸我坂にこのことあるというについて、糸我坂は県道で、相応に人通りある処であると言われたが(『民族』一巻一号一五七頁)、明治十九年、予がしばしばこの坂を通ったころまでは、低い坂ながら水乏しく、夏日上り行くに草臥(くたび)れはなはだしく、まことに餓鬼の付きそうな処であった。和歌山より東南へ下るに藤白の蕪坂を越え、日高郡より西北へ上るに鹿ヶ瀬峠を越えてのち、労れた上でこの糸我坂にかかる。そんな所でしばしば餓鬼が付いたものと見える。

[やぶちゃん注:以上の坂はこの附近(グーグル・マップ・データ)である。]

 さて、この発作症をダリと呼ぶことも文献にみえぬでない。安永四年[やぶちゃん注:一七七五年。]に出た近松半二、栄善平、八民平七の劇曲『東海道七里渡』第四段、伊勢亀山の関所を種々の旅人が通るところに、奥州下りの京都の商人、「なるほどなるほど、仙台へ下りし者に相違もあるまじ、通れ通れと言えど答えず、体(たい)を縮め、大地にどうと倒れ伏す。こは何故と番所の家来バラバラ立ち寄りて、みれば旅人の顔色変じ、即死とみえたる、その風情、和田の今起、声をかけ、まてまて家来ども、旅人が急病心得ず、篤(とく)と見届け薬を与えん、イデ虚実を窺いえさせんと、静々と歩みより、フウ六脈(りくみやく)たしかに揃いしは、頓死にてはよもあるまじ、しかし、この腹背中へ引っつきしは心得ず、オオそれよ、思い当たりしことこそあれ、唐土(もろこし)斉の王死して餓鬼の道に落ち、人に付いて食事を乞う、四国の犬神(いぬかみ)に同じ、この病神をさいでの王と号す、俗には餓鬼ともいい、だりともいう、この旅人にも食事を与えば立ちどころに平癒せん、ソレソレ家来ども、飯を与えよ、早く早くと、その身は役所に立ち帰り、窺う間に家来ども、もっそう飯(めし)を持っていで、旅人の前に差し置けば、不思議なり奇妙なり、伏せたる病人ゆるぎおき、アア嬉しやな有難(ありがた)や、このころ渇せし食事にあい、餓鬼道の苦患(くげん)を助からんと、すっくと立ちて、そもそも餓鬼と申すは申すは、腹はぼてれん太鼓のごとく、水を飲まんとよろばい守れば、水はたちまち火焰となって、クヮックヮッ、クヮクヮクヮックヮ、クヮクヮックヮクヮ、クヮックヮラクヮノクヮ、かの盛切りの飯取り上げ、一口食ってはあらあら旨(うま)や、あら味よやな、落ちたる精力、五臓六府の皮肉に入りて、五体手足(しゅそく)はむかしに違わず、鬼もたちまち立ち去るありさま目前に、みるめ、かぐ鼻、関所の役人、皆皆奇異の想いをなし、呆れ果てたるばかりなり。和田の今起、声をかけ、コリャコリャ旅人、病気はいかに、ハイこれはこれは、先ほどよりにわかにひだるうなりますと、とんと正気を失いましたが、只今御飯を下さるとたちまち本性(ほんしょう)、全くこれはあなた様方のお蔭、エお有難う厶(ござ)ります、と一礼述べて急ぎ行く」とある。餓鬼に付かれたありさまを、よく備(つぶ)さに記述しあるから、長文ながら全写した。

 さて、この餓鬼が人に付くということ、仏典にありそうなものと見廻したところ、どうもないようだが、やや似たことがある。元魏の朝に智希が訳出した『正法念処経』一六に、「貪嫉(たんしつ)心を覆い、衆生(じゅじょう)を誣枉(ふおう)し、しかして財物を取る。あるいは闘諍(とうそう)を作(な)し、恐怖して人に逼(せま)り、他(ひと)の財物を侵す。村落、城邑において他の物を劫奪(きょうだつ)し、常に人の便を求めて劫盗(きょうとう)を行なわんと欲す。布施を行なわず、福業を修めず、良友に親(ちか)づかず。常に嫉妬を懐(いだ)いて他の財を貪り奪う。他の財物を見れば、心に惡毒を懐く。知識、善友、兄弟、親族に、常に憎嫉を懐く。衆人これを見れば、みな共にこれを指して弊悪の人となす。この人は、身壊(やぶ)れて悪道に堕ち、蚩陀羅(しだら)餓鬼の身を受く(蚩陀羅は、魏にては孔穴(あな[やぶちゃん注:二字へのルビ。])と言い、義には伺便[やぶちゃん注:「便宜を待つ」の意。]という)。遍身の毛孔より自然(おのずから)に火焰(ほのお[やぶちゃん注:二字へのルビ。])たち、その身を焚焼[やぶちゃん注:「ふんしょう」。]し、甄叔迦(しんしゆくか)樹の花盛りの時のごとし(この樹の花は赤きこと火の聚(かたまり)の色のごとし、もってこれに喩う)。飢渇の火、常にその身を焼くがために、呻(うめ)き号(さけ)び悲しみ叫ぶ。奔突して走り、飲食を求索め[やぶちゃん注:「もとめ」と訓じていよう。]、もってみずから済(すく)わんと欲す。世に愚人あり、塔[やぶちゃん注:仏塔(ストゥーパ)。仏教の比喩。]に逆らいて行き、もし天廟を見れば順行恭敬す。かくのごとき人には、この鬼は便(てがかり)を得て人身の中に入り、人の気力を食らう。もしまた人あり、房に近づき穢(え)を欲すれば、この鬼は便を得てその身中に入り、人の気力を食らい、もってみずから活命す。自余(じよ)の一切は、ことごとく食らうを得ず(下略)」と出ず。この人の気力を食らうというが、邦俗いわゆる餓鬼が付くというに一番近いようだ。

      (昭和二年七月『民族』二巻五号)

[やぶちゃん注:この直後に電子化注した『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ひだる神のこと』も一緒に必ず参照されたい。]

2023/02/11

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 怒らぬ人

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。]

 

     怒 ら ぬ 人 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 依田百川の「譚海」卷二に、天明中、豐後速見郡鶴見村の妙喜尼、初め、某氏に嫁し、一子を產みしが殤(わかじに)し、夫も病沒す。其から、舅・姑に事《つか》へ、至孝だつたが、二人共、死んだので、尼と成《なり》て、誦經念佛、日夜、止まず、「何事有《あり》ても佛恩だ。」と言《いふ》て、少しも心を動かさなんだ。或人、問ふ、「もし、汝に水をかけたら、どうだ。」。尼曰く、「暴雨と思へば、腹が立《たた》ぬ。」。「木石を投げつけたら、どうだ。」。尼曰く、「瓦が自分で飛んできたと思へば、すみます。」。「老尼、常に佛恩の報じがたきをのみ憂ふ。何の暇《いとま》有《あり》て、その他を懸念せんや。」と。ある夜、闇中、寺に詣り、僧と相撞(つい)て、地に倒れ、氣絕した。僧、驚いて、救ひ活《いか》すと、直ちに合掌して、佛恩を唱ふ。譯(わけ)を問ふと、「死なゝんだが、卽ち、佛恩。」と答へた。又、「飯をたく。」とて、沸湯で、手を燒《やい》た時、「佛恩。」と稱へた。「其程、痛むに、何の佛恩か。」と、とふと、「阿鼻地獄に比ぶれば、誠に少しの痛みでないか。」と答へた。平生、耕織《かうしよく》して自給し、一毫も人に求めず、物を遣《おく》らるると、必ず、報じた。半日に布一丈二尺を織り、其術に巧みな者も、及ばず。これも「佛恩。」と言《いふ》た。八十餘歲で沒した、とある。

[やぶちゃん注:「依田百川」近代の漢学者で作家の依田百川(よだひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年)については、詳しくは当該ウィキを読まれたいが、「百川」は当初の字(あざな)で、本名は朝宗(ともむね)。雅号を「學海」と称した。森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である。私は「馬琴雜記」の評者として知っている。

「譚海」漢文小説集。全四巻で鳳文館より明治一七(一八八四)年から翌年にかけて刊行された。菊池三渓の「本朝虞初新誌」と並び称される。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらで視認出来る。

「天明中」一七八一年から一七八九年まで。徳川家治・家斉の治世。

「豐後速見郡鶴見村」現在の大分県別府市鶴見(グーグル・マップ・データ)。

「老尼」「選集」ではこれに当て訓で『わたくし』とルビする。確かに、近現代の小説の直接話法となら、一つの読みとしてあり得るが、「譚海」は全漢文体であることから、この読みは、「選集」の平凡社編者の手取り足取りのやり過ぎルビであるように私には思われるので、とらない。

「闇中、寺に詣り」「譚海」の原文は『嘗夜詣ㇾ寺』。

「僧と相撞(つい)て」夜間に釣鐘を二人で撞くのもおかしいから、これは、仏法の談義を戦わせたということであろう。

「阿鼻地獄」無間地獄に同じ。八大地獄の一つで、現世で五逆(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・仏身を傷つけて血を出させること。僧団の和合を破壊すること)などの最悪の大罪を犯した者が落ちる。地獄の中で最も苦しみの激しい所とされる。

「遣《おく》らるる」底本は「遺らる」。「選集」で「る」を補った。]

 是れ、事實譚らしいが、似たことは古く經文に見えおる。劉宋の朝に德賢が譯した「雜阿含經」一三に、佛、祇樹給孤獨園《ぎじゆぎつこどくゑん》に在《あり》し時、尊者富樓那《ふるな》、來つて、佛を禮し、白《まを》して曰く、世尊我已蒙世尊略說敎誡、我欲西方輸盧那人間遊行、佛告富樓那、西方輸盧那人兇惡輕躁、弊暴好罵、富樓那、汝若聞彼兇惡輕躁弊暴好罵毀辱者、當如ㇾ之何、富樓那白ㇾ佛言、世尊若彼西方輸盧那國人、面前兇惡訶罵毀辱者、我作是念、彼西方輸盧那人、賢善智慧、雖我前兇惡弊暴罵毀辱我、猶尙不手石而見打擲、佛告富樓那、彼西方輸盧那人、但兇惡輕躁弊暴罵辱、於ㇾ汝則可、脫(モシ)復當手石打擲者、當如之何、富樓那白ㇾ佛言、世尊西方輸盧那人、脫(モシ)以手石於我者、我當念言、輸盧那人賢善智慧、雖手石我、而不ㇾ用刀杖、佛告富樓那、若當彼人脫以刀杖而加上ㇾ汝者、復當云何、富樓那白ㇾ佛言、世尊若當彼人脫以刀杖而加上ㇾ我者、當ㇾ作是念、彼輸盧那人賢善智慧、雖刀杖而加於我、而不ㇾ見ㇾ殺、佛告富樓那、假使彼人脫殺一レ汝者、當如ㇾ之何、富樓那白ㇾ佛言、世尊若西方輸盧那人、脫殺ㇾ我者、當ㇾ作是念、有諸世尊弟子、當厭患身、或以ㇾ刀自殺、或服毒藥、或以ㇾ繩自繫、或投深坑、彼西方輸盧那人、賢善智慧、於我朽敗之身、以少作方便便得解脫、佛言善哉富樓那、汝善學忍辱、汝今堪能於輸盧那人間住止、汝今宜ㇾ去、度於未度、安於未安、未涅槃者令ㇾ得涅槃〔「世尊よ、我れ、已に世尊の略說せる敎誡を蒙る。我れ、西方の輸盧那(ゆるな)の人間(じんかん)に遊行せん。」と。佛、富樓那に告ぐらく、「西方の輸盧那の人は、兇惡・輕躁にして、弊暴・好罵たり。富樓那よ、汝、若(も)し、彼(か)の兇惡・訶罵(かば:謗り叱ること)・毀辱(きじよく:貶し辱しめること)をなすを聞かば、はた、之れを如何(いかん)とすか。」と。富樓那、佛に白して言(い)はく、「世尊よ、若し、彼の西方の輸盧那國の人、面前(まのあたり)に兇惡・訶馬・毀辱をなさば、我れ、是の念(おも)ひを作(な)さん。『彼の西方の輸盧那の人は賢善にして、智慧あり。我が前に於いて兇惡弊暴にして我れを好罵・毀辱すと雖も、猶ほ尙ほ、手石(しゆせき:素手や石)を以つて打擲(ちやうちやく)するを見ず。』と。」と。佛、富樓那に告ぐ、「彼の西方の輸盧那の人、但(ただ)、兇惡・輕躁、弊暴・罵辱たるのみならば、汝に於いては、則ち、可(か)ならんも、若し、復(ま)た、手石を以つて打擲せるあらば、はた、之れを如何とすか。」と。富樓那、佛に白して言はく、「世尊よ、西方の輸盧那の人、若し、手石を以つて我れに加ふれば、我れは、當(まさ)に念-言(おも)ふべし。『輸盧那の人、賢善にして智慧あり。手石をもって、我れに加ふると雖も、而(しか)も刀杖を用ひず。』と。」と。佛、富樓那に告ぐらく、「若し、彼の人、脫(も)し、刀杖を以つて汝に加ふれば、復た、云-何(いかん)とす。」と。富樓那、佛に白して言はく、「世尊よ、若し、彼の人、脫(も)し、刀杖を以つて我れに加ふれば、當に是の念(おも)ひを作すべし。『かの富盧那の人、賢善にして智慧あり。刀杖を以つて我れに加ふと雖も、而も殺すを見ず。』と。」と。佛、富樓那に告ぐらく、「假(か)りに、彼の人をして、脫(も)し、汝を殺さしむれば、はた、是れを如何となす。」と。富樓那、佛に白して言はく、「世尊よ、若し、西方の富盧那の人、假りに我れを殺さば、當に是の念ひを作すべし。『諸(もろもろ)の世尊の弟子有り。當に身を厭(いと)ひ患ひ、或いは、刀を以つて自殺し、或いは、毒藥を服(ぶく)し、或いは、繩を以つて自ら繫(くく)り、或いは、深き坑(あな)に投ず。彼の西方の富盧那の人は、賢善にして智慧あり。我が朽ち敗(やぶ)れたる身に、少(いささ)かの方便を作せるを以つて、便(すなは)ち解脫を得たり。』と。」と。佛、言はく、「善きかな、富樓那。汝、善く忍辱(にんいく)を學べり。汝、今、能(よ)く輸盧那の人間(じんかん)に於いて住み止まるに堪へたり。汝、今、宜(よろ)しく去(ゆ)くべし。未だ度(ど)せざるを、度し、未だ安(やす)んぜざるを、安んじ、未だ涅槃せざる者をして、涅槃を得しめよ。」と。〕云々、富樓那、かの國に到り、夏安居《げあんご》[やぶちゃん注:「し」を入れたい。]、爲五百優婆塞說法、建立五百僧伽藍、〔五百の優婆塞(うばそく)の爲めに法を說き、五百の僧伽藍を建立し、〕云々、三月過已、具足三明、卽於彼處無餘涅槃。〔三月(みつき)、過ぎ已(をは)りて、三明(さんみやう)を具足し、卽ち、彼處(かしこ)に於いて、無餘涅槃に入りぬ。〕とある。

[やぶちゃん注:「德賢」「選集」では『グナ・ブハドラ』とルビする。「佛陀跋陀羅」で、インド渡来の訳経僧であろう。

「雜阿含經」の当該部は「大蔵経データベース」で校合した。若干、表記に問題があったので、底本の漢字の一部と返り点を修正した。今まで通り、それは一々示すことはしない。底本と比べて戴ければ、自ずと判る。

「祇樹給孤獨園」須達(しゅだつ)長者が祇陀(ぎだ)太子から園林を買い取り、釈迦の教団に寄進したとされる僧院地。「祇園精舎」はその略称である。

「尊者富樓那」、釈迦仏の十大弟子の一人である富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし/サンスクリット語:プールナ・マイトラーヤニープトラ/富樓那彌多羅尼弗多羅)。詳しくは「仏教ウェヴ講座」の「富楼那とは?」、或いは、当該ウィキを見られたい。

「輸盧那」スナーパランタ。コーサラ国のカピラ城近郊ドーナヴァストゥの別称。ムンバイの北に位置したインドの古代貿易都市。ここは実は富樓那の生誕地ともされる。

「夏安居」仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をしたその期間の修行を指した。多くの仏教国では陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。安居の開始は「結夏(けつげ)」と称し、終了は「解夏(げげ)」と呼ぶ。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す。

「三明」仏が具える三つの智慧。自他の過去世の在り方を自由に知る「宿命明」、自他の未来世の在り方を自由に知る「天眼(てんげん)明」、煩悩を断って迷いのない境地に至る「漏尽明」を指す。

「無餘涅槃」肉体などの制約から完全に解放された、永遠の悟りの境界。心だけでなく肉体の煩いからも完全に離れた理想の世界を指す。それ以前、悟りを認識しているものの、生きていて、どこかに未だ肉体への執着がある状態を「有余涅槃」(うよねはん)と呼ぶ。]

2023/02/10

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 水銀の海

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。

 本篇冒頭の「本草綱目」の引用をどう処理するかで、かなり、悩んだ。何故なら、複数の「本草綱目」の影印本、及び、江戸時代の版本の当該部を見たところ、実は南方熊楠の引用する部分は、実際の文字列と異なっており、恐らく、熊楠が勝手に手を加え、勝手に漢字を入れ換えたり、挿入したり、順序を入れ替えてあることが判明したからである。文意は決して李時珍が言っていることを枉げているわけではないが、しかし、これが原本からの正しい引用とは言えないことは明らかであり、熊楠は平然と漢文表記・返り点打ちまでしているのは、確信犯で捏造した――と言って語弊があるとなら、言説内容を変更せずに、しかし、異なった文章に平然と改造・模造した点で、問題があるからである。そこで、迷った末、特異的に――南方熊楠がいかにして改造してしまったか――を示すために、本文の漢文部はそのままに電子化し(訓点もママ。明らかに打ちそこなった箇所があり、訓読はそれに必ずしも従わなかった)、注で本物を示して、読者に供することとした。私は博物学記事で一般の方よりは、本邦の江戸時代の本草学のバイブルであった「本草綱目」の原文に多く触れてきた関係上、それをいじって平然と「引用」と示唆している――「知の巨人」と称されるからと言って――彼のこの仕儀を、これ、黙って見過ごすことは、私には出来ないからである。せめても、ここ、熊楠の訓読文で示してあったら、私は文句は言わなかったであろう。

 

     水銀の海 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 「本草綱目」卷九に、拂林國之水銀、當日沒處、地有水銀海、其周圍四五十里、國人取之、近海十里許、掘坑井數十、乃使健夫駿馬皆貼金箔行近海邊、日照金ㇾ光晃耀、則水銀滾沸如ㇾ潮而來、其勢若粘裹、其人即囘ㇾ馬疾馳、水銀隨起、若行遲則人馬俱撲滅也、人馬行速、則水銀勢遠力微、遇坑塹而溜積於中、然後取ㇾ之、用香草同煎、則成花銀、此與中國所產不ㇾ同、但皆共狀如ㇾ水似ㇾ銀故以名。〔拂林國(ふつりんこく)の水銀、日の沒するの處の地に當(あ)たりて、水銀の海、有り。其の周圍、四、五十里にして、國人、之れを取るに、海に近き十里ばかりに、坑井(こうせい)、數十(すじふ)を掘り、乃(すなは)ち、健夫と駿馬をして、皆、金箔を貼り、行きて、海邊に近づかしむ。日の、金を照らせば、光、晃耀(くわうえう)たり。則ち、水銀、滾-沸(わきか)へりて、潮のごとくに、來たる。その勢ひは、粘(ねば)りて裹(つつ)むがごとし。其の人、即ち、馬を囘(まは)して、疾く馳(は)すれば、水銀は隨ひて起(お)ふ。もし、行くこと、緩(おそ)ければ、人馬ともに、撲滅さるるなり。人馬、行くこと、速ければ、則ち、水銀の勢ひは遠ざかりて、力、微(かす)かとなり、坑塹(こうざん)に遇ひて、中に溜り積もる。然(しか)る後(のち)、之れを取り、香草を用ひて、同(とも)に煎(せん)ずれば、則ち、「花銀(くわぎん)」となる。此れは、中國所產とは、同じからず。但し、皆、共に、狀(かたち)は、水のごとく、銀に似たり。故に、以つて名づく。〕

 此話、全く啌《うそ》乍ら、支那人の手製に非ず。西亜[やぶちゃん注:「せいあ」と読んでおく。「西亞細亞」で「西アジア」。]、古來、有來《ありきた》りの傳說を聞き書《かい》たのだ。獨逸人ハクストハウセンの「トランスカウカシア」(英譯、一八五四年板、三六〇頁)に、『小亞細亞(アナトリア)の深山に、水銀湖あり、その價《あたひ》、計《かぞ》ふ可《べか》らず。されど、その水銀は、生命を賭せざれば、ちとも、とり來るを、得ず。人が其湖に近づくと、水銀の波、高く起り到つて、磁石が鐵をすふ如く、人を、とり入れる故だ。然《しか》し、或るアルメニアの方術家、曾て奇謀を運《めぐ》らし、其水銀を、多く取《とつ》た。其法は、自身の前に、鉛《なまり》、一大塊を轉がして、湖の方へ向けおき、地に穴をほり、犬の皮を縫《ぬひ》合せて、穴の内面にはり、その穴より、鉛塊まで、溝を掘り、さらに鉛塊の下から、湖まで、一管を通した。すると、湖中の水銀が鉛に引かれて、犬皮に流れこんだ處を、そつくり持還《もちかへ》つた。水銀は犬皮でのみ、運び、かつ、保存し得る。』と、のせある。

 皆人《みなひと》、知る通り、水銀は、なみの氣溫中に、黃金、又、鉛と融和して、アマルガムを形成する。因《よつ》て、こんな話ができたので、水銀に黃金を和し、佛像に塗《ぬつ》た事は、古く、内典にみえる。例せば、陳の南嶽慧思大禪師の「諸法無諍三昧法門」上に、淨妙眞金和水銀 能塗世間種種像〔淨妙の眞金は水銀に和して 能(よ)く世間種々の像に塗れり[やぶちゃん注:これは偈なので私は読点を打たなかった。]〕と云《いふ》た。

[やぶちゃん注:「本草綱目」の巻九の「金石之三」の「水銀」の「集解」の時珍の語部分に、『之れ按ずるに、陳霆(ちんてい)の「墨談」に云はく』として、

   *

拂林國當日沒之處地有水銀海周圍四五十里國人取之近海十里許掘坑井數十乃使健夫駿馬皆貼金箔行近海邊日照金光晃耀則水銀滚沸如潮而來其勢若粘裹其人卽回馬疾馳水銀隨若行緩則人馬俱撲滅也人馬行速則水銀勢遠力微遇坑塹而溜積於中然後取之用香草同煎則成花銀此與中國所產不同

   *

とあるのが主文部である。幾らでも原文を示せるが、例えば、「漢籍リポジトリ」のこちらの影印本画像[030-10a]の七行目左の中央から、或いは、国立国会図書館デジタルコレクションの訓点附きの寛文九(一六六九)年板本のここの右丁七行目半ばからを視認されたいが、下線部分太字部分が南方熊楠の『引用』と文字列が異なることが判る(但し、「赶」は音「カン」で、「駆る・走らせる」の意であり、寛文板では「起」に書き換えてあるので問題ない)。しかも、最後の「但皆共狀如水似銀故以名」は、その後には存在しないのだ。では、どこから引っ張ってきたのか? それは、同「水銀」の冒頭の「釋名」の、

   *

時珍曰其狀如水似銀故名

   *

を、切り外して、続いた漢文であるかのように勝手に模造したものであることが、明白なのである。「目くじらたれるほどのことじゃない。どうってことない。」という御仁がいるだろう。しかし、くどいが、私は逆立ちしても、こんな似非引用仕儀は、絶対に、しないし、現在の論文でこんな引用をしたら、「お里が知れる」と陰口が語られることだけは間違いない。今までも、南方熊楠は略述するのに、自分の言葉で判り易く変えたものはままあったが、それはそれで少しも違和感はなかったし、難解で長い漢訳経典の紹介などは、引用でなくてよかったと却って感謝するものも多い。それだけに、このちょっとした安易な引用の瑕疵が異様に目立ってしまうのである。

「拂林」は「拂菻」とも書き、「隋書」・「旧唐書」・「宋史」・「明史」など、中国の史書に出てくる西洋の国の名前。現在、「東ローマ帝国」に比定する説が有力である。詳しくは当該ウィキを見られたい。

『ハクストハウセンの「トランスカウカシア」(英譯、一八五四年板、三六〇頁)』「トランスカウカシア」「トランスカウカシア」(Transcaucasia)は「南コーカサス」の英語。この附近(グーグル・マップ・データ)。「ハクストハウセン」はドイツの経済学者アウグスト・フランツ・ルーディング・マリア・フォン・ハクストハウゼン(August Franz Ludwig Maria von Haxthausen 一七九二年~一八六六年)。ロシア農学に関する研究者で、特に農奴制に関する深い実態分析を行い、農業及びプロシアとロシアの社会関係に関する著書を多く著わした。また、グリム兄弟とともにドイツの伝説、特に民謡を初めて収集した人物としても知られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。Transkaukasia: Reiseerinnerungen(「トランスカウカシア――旅の思い出」)。「Internet archive」の英訳本はTranscaucasia, Sketches of the Nations and Races between the Black Sea and the Caspian(「トランスカウカシア、黒海とカスピ海の間の国家と人種のスケッチ」)。英訳原本当該箇所はここ

「小亞細亞(アナトリア)」アナトリア(半島)はアジア大陸最西部で、西アジアの一部を成す地域で、現在はトルコ共和国のアジア部分に当たる(グーグル・マップ・データ)。

「アルメニア」現在のユーラシア大陸の南コーカサスにある内陸国のアルメニア共和国(同前)。

「アマルガム」水銀を四十~五十%含む金属で、銀三十五%、錫(スズ)九%、銅六%に、少量の亜鉛を含む合金。嘗ては「無機水銀」と呼ばれ、安全とされ、私も小学生の頃には埋め込まれた(後にアレルギーなどの諸症状を惹起するとして、使われなくなり、私も二十代の頃、全部、除去した)。

「諸法無諍三昧法門」は「大蔵経データベース」で確認した。]

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