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カテゴリー「南方熊楠」の150件の記事

2021/07/28

「南方隨筆」版「詛言に就て」(全オリジナル電子化注附き・PDF縦書版・2.02MB・26頁)一括版公開

昨日、分割終了した「南方隨筆」の「詛言に就て」の一括版(全オリジナル電子化注附き・PDF縦書版・2.02MB・26頁)をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

2021/07/27

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8) / 「詛言に就て」~了

 

 グリンムの獨逸童話篇に父が水汲みに往つた子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛び去つたと有り。Kirby, ‘The Hero of Esthonia,’ 1895, vol.ii, p. 45  seqq. に、エストニアの勇士カレヴヰデ醉て鍛工の子を殺し、鍛工恨んで前刻カレヴヰデに與へた名刀を援(ひい)て彼を詛ふと、後年果して其刀に兩膝以下を截られて此の世を去つたと出づ。羅馬法皇ジヤン廿一世の時、サキソン國の不信心の輩、一法師の持る尊像を禮せず。法師之を詛ひしより彼輩一年の間踊りて少しも輟得なんだ[やぶちゃん注:「やめえなんだ」。](Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879, tom. ii, p. 79)。北ウエールスのデムビシヤヤーのエリアン尊者の井近く尼樣の女住む。人を詛わんと欲する者少しの金を捧げると、其女被詛者の名を簿に注し、其名を呼乍ら留針一本井に落すと詛ひが利(きい)た。(Gomme, ‘Ethnologiy in Folklore,’ 1892, p. 87)。リグヴヱダには梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛ふべしと有り、ラーマーヤナムには、梵授王肉と魚を瞿曇仙人[やぶちゃん注:「くどんせんにん」。]に捧げ、仙人瞋つて王を詛ひ鵰(ヴルチユール)と化す譚有り、以上の諸例を稽へて[やぶちゃん注:「かんがえへて」。]、昔重大だつた呪詛術が今日輕々しく發する詛言と成たと知るべし。

  (大正四年四月、人類第三〇卷)  

[やぶちゃん注:「グリンムの獨逸童話篇に父が水汲みに往つた子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛び去つたと有り」「七羽のカラス」。多言語の対訳が載る「グリム童話」の卓抜なサイト「grimmstories.com」のこちらで読める。

「Kirby, ‘The Hero of Esthonia,’ 1895」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の同年出版の著作。「エストニア」はバルト三国では最も北にある現在のエストニア共和国(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人などとの混血の過程を経て』、十『世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった』。十三『世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し』、『海上交易で栄えた』。但し、『その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた』とある。一九〇五年版の原本をざっと見たが、どうも見当たらない。但し、以上の話に出るは、エストニアの巨人の英雄カルヴィデ(英語:Kalevide)である。英文ウィキの彼の「Kalevipoeg」を見ると、その「Synopsis」の条に、

   *

   Kalevipoeg travels to Finland in search of his kidnapped mother. During his travel he purchases a sword but kills the blacksmith's eldest son in an argument. The blacksmith places a curse on the sword and is thrown in the river. On returning to Estonia Kalevipoeg becomes king after defeating his brothers in a stone hurling competition. He constructs towns and forts and tills the land in Estonia. Kalevipoeg then journeys to the ends of the earth to expand his knowledge. He defeats Satan in a trial of strength and rescues three maidens from hell. War breaks out and destruction visits Estonia. Kalevipoeg's faithful comrades are killed, after which he hands the kingship to his brother Olev and withdraws to the forest, depressed. Crossing a river, the sword cursed by the Blacksmith and previously thrown in the river attacks and cuts off his legs. Kalevipoeg dies and goes to heaven. Taara, in consultation with the other gods, reanimates Kalevipoeg, places his legless body on a white steed, and sends him down to the gates of hell where he is ordered to strike the rock with his fist, thus entrapping it in the rock. So Kalevipoeg remains to guard the gates of hell.

   *

とあって、ここに記した話は含まれており、死んだ後に、神々によって蘇生させられ、足のない体を白い馬に乗せて、「地獄の門」に送られ、岩に閉じ込められたまま、今も彼はは「地獄の門」を守っている、とある。

「羅馬法皇ジヤン廿一世の時」「廿一世」を称するローマ教皇はヨハネスXXI世(Ioannes XXI 一二一五年~一二七七年:本名はペドロ・ジュリアォン(Pedro Julião))しかいない。しかも彼の教皇在位は一二七六年ペドロ九月十三日から亡くなった一二七七年五月二十日で、僅か八ヶ月であった。当該ウィキによれば、彼は『ヴィテルボにある別荘に新たな翼を付けさせた』が、『それは手抜き工事で』あっため、『彼が就寝していると』、『屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から』八『日後』『に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は』彼が『唯一』人『である』とあり、さらに『死後、「ヨハネス」XXI『世は魔法使いであったのだ」と噂が広まった』とある。また、『ダンテ・アリギエーリは』「神曲」の『中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空で』彼と『面会した話を書い』ているとある。まあ、ここでは彼が主人公なわけではないが。

「サキソン國」グレートブリテン島にあったサクソン人の王国群。

「Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879」アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:パリ生まれの古典学者・印刷業者。ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス(Henricus Stephanus)としても知られる。一五七八年に彼が出版した「プラトン全集」は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている。以上は当該ウィキに拠った)の「ヘロドトスの謝罪」。当該書の当該部はここだが、そんなことは書いてないように思われる。ページ数が違うか。

「北ウエールスのデムビシヤヤー」現在、ウェールズ北東部にデンビーシャー(英語:Denbighshire)州があるが、旧デンビーシャー地区の境界域とはかなり異なっている。

「エリアン尊者」不詳。

「Gomme, ‘Ethnologiy in Folklore,’ 1892」イギリスの民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の「民間伝承の民族学」。

「リグヴヱダ」「リグ・ヴェーダ」(英語:Rigveda)は古代インドの聖典であるヴェーダの一つ。サンスクリットの古形であるヴェーダ語で書かれている。全十巻で千二十八篇の讃歌(内十一篇は補遺)から成る。

「梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛ふべしと有り」フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群、或いは種としてフクロウ属フクロウ Strix uralensis がいる。まず、「ミネルヴァのフクロウ」のように総体が智や学問の象徴とされても、その鳴き声自体は汎世界的に不吉なものとされることが多いから、腑に落ちる。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を見られたい。

「ラーマーヤナム」「ラーマーヤナ」。「ラーマ王の物語」の意。インドの大叙事詩。全七編、二万四千頌(しょう)の詩句から成る。詩人バールミキの作。成立は二世紀末とされる。英雄ラーマが猿の勇士ハヌマンらと協力して魔王ラーバナと戦い、誘拐された妻シータを取り戻す物語。

「梵授王」梵天王(ブラフマー)から王位を正当に授かった国の王の意であろう。

「瞿曇仙人」「瞿曇」は釈迦の出家する前の本姓として知られるが、ここは同じ名で別人(「ゴータマ」の漢音写。サンスクリット語で「最上の牛」の意)。古いインドに於いて暦法を考えた人とされる。但し、完訳本を所持しないので、本シークエンスが「ラーマーヤナ」どこに書かれているのかは知らない。ウィキのラーマーヤナ」や、「ラーマーヤナの登場人物一覧」などを見、梗概を日本語訳した本もざっと見たが、判らない。悪しからず。

「鵰(ヴルチユール)」この漢字(音「チョウ」)は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae の鳥の中でも大形の個体や種群を指す漢字である。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」を参照されたい。私は熊楠がこの漢字に何故このルビを附したのかよく判らないが、この「ヴルチユール」は直ちに「ヴァルキューレ」(ドイツ語:Walküre)或いは「ヴァルキュリャ」(古ノルド語:valkyrja:「戦死者を選ぶも者」の意)を想起させ、北欧神話に於いて、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のそれ(この部分はウィキの「ワルキューレ」に拠った)を音写したものかと思う。但し、ドイツ語の Walküre には上記の意味だけで、いかにもかと思った「鷲」などの転訛した意味はない。なお本邦では「地獄の黙示録」以降、「ワルキューレ」の読みが跋扈しているが、ドイツ語では決してこうは発音しないそうである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (7)

 

 東歐州に有りと信ぜらるゝ吸血鬼(ヴアムパヤー)は、父母又は僧に詛言されし者死して成る所と云ふ(エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁)從つて葬式の誄(ダーヂ)に、子が母に詛はれて死ぬ所を悲しく作つたのも有る。マセドニアの妖巫は、印度のと同じく人を詛ふ時其人の後[やぶちゃん注:「うしろ」。]に灰を撒く又詛害を除く水を調へ之を詛ふた者に飮せ若くは其戶前に注ぐべしといふ。曾てサロニカの大僧正、怒つて一人を詛ひ、地汝を容れざれというた。此大僧正、後年基督敎を退き回敎に歸し其僧主となつた。以前詛はれた者死し三年經つて其墓を開くに尸壞れず。又埋めて三年して掘り見るに依然たり。死人の後家彼僧主を賴み僧主官許を得て、今は回敎僧だが昔取つた杵柄(きねづか)と丹誠を凝し、上帝に祈る事僅かに數分、爾時[やぶちゃん注:「じじ」。その時。]尸肉忽ち落ち失せ白骨のみ存(のこ)つた。又十五世紀にコンスタンチノプルの最初サルタン珍事を好む。基督敎の大僧正に詛はれた者は、地も其尸を壞らず[やぶちゃん注:「やぶらず」。]。數千年經るも太皷の如く膨れ色黑くて存するが、詛ひ一たび取り消ゆれば尸忽壞るを聞き、コ府の門跡をして實試せしむ。門跡衆僧と審議して漸く一人を得た。其は或僧の妻、妖麗他に優れ淫縱度無かつたので、門跡之を叱ると、汝も亦我と歡樂したでは無いかと反詰したので世評區々と起り、門跡大に困つて、止むを得ず大會式の場で其女を宗門放逐に處すと宣言した。頓て其女死して多年埋もれ居る故、恰好の試驗材料と云ふ事で掘出して見れば、髮落ちず肉骨と離れず今死たるが如し。之を聞てサルタン人を使はし見せしむるに報告に違はず。一先づ堂圓に封じ置き、定日サルタンの使到つて之を開き、門跡特に追善して赦罪の詞を讀むと尸の手脚の關節碎け始めた。再び封じ置きて三日歷て開いて見ると尸全く解けて埃塵のみ殘つちよつたので、サルタン流石に基督敎の眞の道たるに敬伏したさうぢや(G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903,pp. 195, 211, 212, 226)。古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず。黃色の油の如き水のみ漏出で、底に頭骨一寸許り殘る「好色の道罪深きことなれば跡迄も斯ぞ有ける。其女の母をも同時改葬しけるに、遙に先だち死たる者なれども其の體變らで續き乍らに有ける。」基督敎と反對に吾が佛敎では罪深い者の尸は葬後早く消失するとしたらしい。

[やぶちゃん注:「エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁」Internet archiveの原本のここの左ページ右の「VAMPIRE」の項の、そこの中央附近に、

The persons who turn vampires are generally wizards, witches, suicides and those who have come to a violent end or have been cursed by their parents or by the church.

という一文があり、引用で私が太字部にした部分が南方熊楠の言っている部分である。

「誄(ダーヂ)」「誄」(音「ルイ」)は「偲(しの)び言(ごと)」の意で、本邦で古くに「しのひこと」と訓じ、「死者を慕い、その霊にむかって生前の功徳などを述べる言葉・死者に対する哀悼の辞」を言う。「ダーヂ」は英語で、dirge。「葬送歌・哀歌・悲歌」の意。

「マセドニア」(英語:Macedonia)はバルカン半島中央部に当たる歴史的・地理的な地域でアレクサンドロス大王が君臨したマケドニア王国が知られる。ギリシャ人が多く住んでいた。

「サロニカ」ギリシャのエーゲ海サロニコス湾に浮かぶ諸島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淫縱度無かつた」「度無かつた」は「どなかった」と読むか。淫(みだ)らなる振舞いを、程度というものを知ることことなく、続けた、と言う意ではあろう。

「G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903」Internet archiveで原本を見ることができ、195」はここで、211」はここ212」はここ、最後の226」はここである。但し、ここで熊楠が述べている部分は「211」から「212」「213」(ここは見開き)にかけての部分である。

「古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず……」以下の「慶澄注記の伯母、好色によりて、死後、黃水(わうすい)となる事」。

   *

 山[やぶちゃん注:延暦寺。]に慶澄注記といふ僧ありけり。件(くだん)の僧が伯母にて侍りける女は、心すきずきしくて、好色甚だしかりけり。年比(としごろ)の男にも、少しも、うちとけたる形を見せず、事におきて[やぶちゃん注:何かにつけて常に。]、色深く情けありければ、心を動かす人多かりけり。

 病ひを受けて、命、終りける時、念佛を勸めけれども、申すに及ばず、枕なる棹(さを)[やぶちゃん注:竹製の衣紋懸け。]にかけたる物を取らんとするさまにて、手をあばきけるが、やがて、息絕えにけり。法性寺(ほふしやうじ)邊に土葬にしてけり。

 その後、二十餘年を經て、建長五年[やぶちゃん注:一二五三年。]の比、改葬せんとて、墓を掘りたりけるに、すべて、物、なし。

 なほ深く掘るに、黃色なる水の、油のごとくにきらめきたるぞ、涌き出でける。汲みほせども、干(ひ)ざりけり。その油の水を、五尺ばかり掘りたるに、なほ、物、なし。

 底に棺(ひつぎ)やらんと覺ゆる物、鋤(すき)に當たりければ、掘り出ださんとすれども、いかにもかなはざりければ、そのあたりを、手をいれて探るに、頭(かうべ)の骨、わづかに一寸ばかり、割れ殘りてありけり。

 好色の道、罪深きことなれば、跡までも、かくぞ、ありける。

 その女の母をも、同じ時、改葬しけるに、遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者なれども、その體、變らで、つづきながらぞ、ありける。

   *

「慶澄注記」人物は不詳。「注記」は延暦寺の六月会などに行われる豎義(じゅぎ:論議による学僧の資格試験)の際に筆記役を勤める僧を指す。さて、この話、最後の部分で何となく変な感じがあるのに気づく。「遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者」が、慶澄の母であるその女の母で、慶澄の伯母の母というのでは、何となく「ややこしや」で、違和感を感じるのである。だいたいが、改葬しているからには、親と慶澄の兄弟姉妹などの親族だけを分骨したと考えるべきであるからである。そこに伯母を入れ、さらにその伯母の母まで納めるというのは変だからである。ところが、本文及び注を参考にした「新潮日本古典集成」(昭和五八(一九八三)年刊)を見ると、実は別伝本では、最初の『件の僧の伯母』は『件の僧の伯女』となっており、この「伯女」とは慶澄の年上の姉と読めるのである。同書でも、『改葬を行った人物を慶澄と考えると、自分の長姉と』実『母との改葬をしたとみるのが自然なので』、冒頭の『「伯母」は「伯女」とあるべきかとも思われる』とあるのである。私もそれに無条件で賛同するものである。

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (6)

 

 南洋ヂユーク、オヴ、ヨーク島の人は、邪視(イヴルアイ)を怕れぬが、詛言は被詛者に禍ひすと信じ、多くのサモア島人は、今も詛言を懼れ、屢ば重病を受く。因て一人他人を犯し續いて數兒を亡なふ時は必定かの者に詛はれたと察し、其人に聞合せ、果して然らば其詛を取消下されと哀願す。彼輩は其所有の樹園で果蔬を盜む者を捕ふるも怒らず「お前はよい事をした。たんとお持ち下さい」と挨拶す。然るに、自分の不在中に盜まるゝと、大に瞋つて樹一本切り又椰子一顆打破る。是は盜人を詛ふのだといふ(George Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264)。中央メラネシアの或島民は、人殺しに往く前に自分の守護鬼の名を援(ひい)て敵手を詛ふ。ヂユーク、オヴ、ヨーク島で、有力家を葬るに、覡師[やぶちゃん注:「げきし」。呪術師。シャーマン。]來たつて樹葉に唾吐き、數多の毒物と俱に墓穴に投じ、死人を詛殺せし者を高聲に詛ひ、一たび去つて浴し返つて復た詛ふ。彼者從ひ[やぶちゃん注:「たとひ」。]第一詛を受ずとも、第二詛必ずよく彼を殺すと信じ、老覡敵を詛ふに其の父や伯叔父や兄弟の魂を喚び、敵の眼耳口を塞いで、庚申さんの猿其儘、見も聞きも叫びも出來ざらしめて、容易く[やぶちゃん注:「たやすく」。]詛はれ死なしむ(Frazer, ‘The Belief in Inmorality,’ 1913,vol.i, pp. 370, 403-404.)

[やぶちゃん注:「ヂユーク、オヴ、ヨーク島」パプア・ニュー・ギニアの東北海上にあるデューク・オブ・ヨーク諸島(Duke of York Islands)。ここ(グーグル・マップ・データ)。北西のビスマルク海を囲む形のビスマルク諸島の内、ニュー・ブリテン島とニュー・アイルランド島の間、南東のソロモン海との海峡に浮かぶ島嶼である。

「邪視(イヴルアイ)」南方熊楠 小兒と魔除 (1)」で既出既注。そこの『「視害(ナザル)」(しがい)「邪視(Evil Eye)」(じやし(じゃし))』の私の注を参照。

「サモア」ここ(グーグル・マップ・データ)。島嶼に居住する人々は総てポリネシア系人種。

「George Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264」ジョージ・ブラウン(一八三五年~一九一七年)はイギリスのメソジストの宣教師にして民族学者。若い頃は医師の助手などをしていたが、一八五五年三月にニュージーランドに移住し、説教者となり、一八五九年にフィジーへ宣教師として渡り、翌年、シドニーからサモアに向かった。一八六〇年十月三十日に到着してより一八七四年までサモアに住んだ(主にサバイイ島に居住)。布教の傍ら、サモアの言語・文化を学び、シドニーに戻り、その集大成として、後にメラネシア人とポリネシア人の生活史の概説と比較を試みたものが本書であった(英文の当該ウィキに拠った)。Internet archiveで同原本が読め、ページ240はここで、248」はここで、264」ここ

「中央メラネシア」メラネシア(Melanesia)は、オセアニアの海洋部の分類の一つで、概ね、赤道以南、東経一八〇度以西にある島々の総称。オーストラリア大陸より北及び北東に位置する島嶼群が含まれる(ギリシャ語で「メラス」(黒い)+「ネソス」(島)で、「肌の黒い人々が住む島々」の意)。西はニュー・ギニア、東はフィジー及びニュー・カレドニアまで。ミクロネシアの南、ポリネシアの西南方に当たる。

「庚申さんの猿」所謂、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿信仰。これは元々は庚申信仰とは無縁で、私は、庚申信仰が「塞の神」・「道祖神」・「青面金剛」などを習合する内に、「猿田彦」も混淆し、その「猿」からこれが芋蔓式に入り込んだものと考えている。

「Frazer, ‘The Belief in Inmorality,’ 1913」ご存知「金枝篇」の著者ジェームズ・フレイザーの著作「背徳の信念」。Internet archiveで原本が読め、370」はここで、403」はここ。死者の親族の霊をも援軍とするところがなかなかに面白い。]

2021/07/26

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (5)

 

 印度のトダ人水牛の牧場を移す式に司僧(パロール)の助手童(カルトモク)を詛ひ次に忽其詛を除く事有り。一寸爰に述べ得ぬから、Rivers, ‘The Todas,’ 1906, p. 140 に就いて讀め。同書一九四―六頁に、クヲテンの妻パールデンと通じ夫を愛せぬ故、クヲテン怒つて奸夫を殺さんとて逐ひ廻るを見て、クヲテンの母パールデン荊棘に鈎けられて留まれと詛ふと、果たして棘に留められたところをクヲテンが殺した。パールデンと同村の住民クヲテンを懼れ、皆立退き老夫婦一對のみ殘る。クヲテン襲ひ來るを見て詛ふと、クヲテンは蜂に螫殺され、其從類は石と成たと有る。スマトラのバツタス族は、子を生まぬのは他人に詛はれた故と信じ、所謂詛ひを飛去しむる式を行ふ。先づ子無き女「ばつた」三疋牛頭と水牛頭と馬頭に見ゆるものを神として牲を献じ、扨燕一羽を放つと同時に、詛ひが其燕に移つて鳥と共に飛去しめよと祈るのだ。(Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol. ii, p. 150)

[やぶちゃん注:底本では、ここでは、改行が施されてある。

「トダ人」Toda。トダ族。インド南西部カルナータカ州のマイアル川とバワニ川に挟まれたニルギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に住む少数民族。ドラビダ語系の言語を話すが、形質的には北方インド系で、皮膚は暗褐色、背が高く、がっしりしている。水牛と牛の放牧をして、粗放な酪農を行う。文化的にはきわめて保守的で、周辺民族と往来しながらも、同化されず、古来の習俗を保っている。彼らの社会は二つの内婚的集団から成り、各々が幾つかの外婚的父系氏族に分れる。幼児結婚が普通であり、一妻多夫婚がみられ、数人の男性、普通は兄弟が一人の妻を共有する。妻が妊娠すると、夫たちの一人が彼女に玩具の弓と矢を贈る。これが生れてくる子の父親の公示である。宗教は、水牛酪農の行事を中心とする特殊な儀礼を持っている。古くはイラン高原付近に居住したが、インド北部を経て、現住地へ移入してきたという説もある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。一時は人口が数百人に減少したが、文化政策で、現在は千七百人ほどに増加した。

「司僧(パロール)」原文 oalol (斜体表示)。

「助手童(カルトモク)」原文 kaltmokh (同前)。

「Rivers, ‘The Todas,’ 1906」イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで原本が読め、ここが「140」ページで、呪いの話は「143」まで続いている。しかし、当該原文を読んでも、原著者自身がこの呪詛をかけて、指定された小屋に禁足され、而してそれを解く理由は十全には理解されていないように読め、すぐ南方熊楠が具体に示すのを略したのはそのためかと思われる。私は一種の、古いこの地の生贄の習慣の名残、或いは、精霊を確かに呼び出すための方便(依代としてのそれ。助手の童子カルトモクというのはまさに親和性の強さを感じる)としての呪いのようには思われる。

「同書一九四―六頁」ここから。詛言部分の事実は眉唾だが、これはトダ族の一妻多夫制の中で生じる、男の嫉妬による「ペイバック」的な、半意識的な母子による殺人としての現実的興味の方にそそられるものが、私にはある。

「スマトラのバツタス族」現在の表記はBatak で、バタック族。但し、引用元のフレーザーの「金枝篇」では、Battasと綴ってある。インドネシアのスマトラ島北部のトバ湖周辺の高地に住むプロト・マレー系先住民。人口約 三百十万と推定される。バタック語はオーストロネシア語族の西インドネシア語派に属する。水稲・陸稲・ヤムイモ・サツマイモなどを作る農耕民で、水牛・牛・馬も飼育し、また、湖で漁労にも従事する。十九世紀までは比較的孤立していたが、まず、イスラム教が、次いでキリスト教が伝えられた。しかし、古くからインド文化の影響を受けてきたことは明らかである。バタック族は、現在、幾つかの下位集団(トバ・アンコラ・カロ・マンダイリン・パクパク・シマルングンなど)に分れており、アンコラ・マンダイリン・シマルングンにはイスラム教が普及しているが、トバ・カロ・パクパクでは十九世紀以降、キリスト教が信仰されてきている。以前は、トバの村は一つの外婚制父系親族集団から成立していた。母の兄弟の娘との婚姻が優先され、妻与者側と妻受者側の各リニージ(lineage:出自集団の一種で、成員間の系譜関係が相互に明確な場合のみを言う語)間に贈り物と祭宴が交換される。このような親族体系は、二元的世界観と結びついており、相続は父から息子になされ、長子と末子が優先される。祖先崇拝も行われ、女のシャーマンや男の呪医・祭司がいる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「スマトラのバツタス族は、子を生まぬのは他人に詛はれた故と信じ……」南方熊楠の示す当該年の「金枝篇」第二巻の同年版原本がInternet archiveで見つからないため、所持する岩波文庫の一九六七年改版の永橋卓介訳「金枝篇」の第四冊目から引用する。

   《引用開始》

 スマトラのバタク族は、「飛び去らせる呪詛」という一つの儀式を行なう。女に子が生まれない場合には、牛の頭、水牛の頭、馬の頭になぞらえて、三匹のキリギリスを供犠して[やぶちゃん注:形態相似の類感呪術であるとともに貴重な家畜を代替する意味があろう。]神々に供える。それから呪詛が島の上に落ちて一緒に飛び去るようにという祈禱と共に、一羽の燕を放してやるのである。ふつう人間の住まいに入って来てすまうことを求めない動物が、家の中へ入って来ることは凶兆だとマレー人は考えている。野鳥が人家へ飛びこんで来た時には、ていねいにそれを捕えて油を塗ってやり、ある言葉を繰り返しながら空へ放ってやらねばならぬとされているが、繰り返される言葉の中で家主の一切の不運と災厄を負うて飛び去れと命じるのである。古代ギリシアでも、女たちは家の中で捕えた燕を同様に取り扱ったらしい。すなわちそれに油を灌いで飛ばせてやるのであったが、明らかにその家庭から不幸を取り去るのが目的であった。カルパチアのフズル人[やぶちゃん注:ヨーロッパ東部のチェコ東端及びスロバキア北部から弧状に湾曲して、ルーマニア中部に至るカルパチア山脈に住む一族らしい。]は、湧き水で顔を洗いながら、「燕よ、燕よ。私のソバカスをとって健康な色の頰にしておくれ」と言えば、その春になって見る最初の燕にソバカスを移すことが出米ると信じている。

   《引用終了》]

2021/07/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (4)

 

 是ら何れも現存の人や物を詛ふのだが、回敎には死んだ人を詛ふのが有る。波斯(ペルシア)人は、每歲マホメツトの外孫フツサインが殺された當日追弔大會を修する前夜、彼を殺したオマー等の像を廣場で燒きながら、詛言を吐く(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 556) 蓋し回敎にシアとスンニの二大派有て、波斯等のシア派徒はアリと其子フツサインを正統の回主とするに、土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]阿非利加等のスンニ派徒はアリ父子の敵だつたオマー等を奉崇す、因て波斯人はオマーを、土耳其人はアリ父子を魔の如く忌み、波斯人惡人を訕る[やぶちゃん注:「そしる」。]に彼はオマーだ抔と言ひ、祈禱の終りに必ずオマーを詛ひ、オマーを一口詛ふは徹夜の誦經に勝るとし、スンニ派よりシア派に改宗する者に、アリの敵アブベツクルとオスマンとオマー三人を詛はしむ(Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811, tom. Ix, p.36)

[やぶちゃん注:「‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843」ローマの貴族で作家・音楽家にして旅行家であったピエトロ・デッラ・ヴァッレ(Pietro Della Valle 一五八六年~一六五二年)の旅行記。Internet archiveのイタリア語原本のこちらが指示ページであるが、どうもここに書かれた内容はそこにはない。ページが違うようである。幾つかの固有名詞で調べてみたが、よく判らない。なお、リンク先のタイトル、

‘Viaggi di Pietro della Valle, il pellegrino : descritti da lui medesimo in lettere familiari all'erudito suo amico Mario Schipano, divisi in tre parti cioè : La Truchia, La Persia, e l'India, colla vita dell'autore’

を機械翻訳を参考にすると、

「巡礼者ピエトロ・デッラ・ヴァッレの旅――学者にして親しい友人であったマリオ・スキパノに宛てた書簡で、著者の生涯とともに、トルキア・ペルシャ・インドの三部に分かれる。」

といった意味らしい。

「マホメツトの外孫フツサインが殺された」六八〇年十月十日に発生した、ウマイヤ朝軍のシーア派討伐「カルバラーの戦い」のこと。ウマイヤ朝カリフ(預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体・国家の指導者にして最高権威者の称号)・ヤズィードの派遣した軍勢と宗祖預言者ムハンマドの外孫フサイン・イブン・アリーの軍勢との戦いで、フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(六二六年~六八〇年:父はムハンマドの従兄弟で養子となったアリー・イブン・アビー・ターリブ(六〇〇年頃~六六一年:イスラム教第四代正統カリフ(在位六五六年~六六一年)でシーア派初代イマーム(イスラム教の公的に認定された「指導者」の意)で、母はムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー)が虐殺されたことを指す。

「追弔大會」アーシューラー(ペルシア語ラテン文字転写:Âshurâ)。これは本来はヒジュラ暦におけるムハッラム月(一年で最初の月)の十日目を指すが、そこから転じて、この日に行われる宗教行事を指す場合もある。ウィキの「アーシューラー」によれば、『シーア派の信徒の間でアーシューラーはイマーム・フサインが殉教した日として特に重要視されている』。『ムハンマドの死から』五十『年後、ヒジュラ暦』六一『年アーシューラーの日(ユリウス暦』六八〇年十月一日)『に、初代イマームアリーと預言者の娘ファーティマの次男であり、シーア派の人々から第』三『代イマームとみなされるフサインが、現在のイラク、カルバラー付近の戦場でウマイヤ朝の軍隊によって殺害された(カルバラーの戦い)。シーア派の説によれば、フサインは、彼を指導者として推戴することを望むシーア派の人々の求めに応じ、父アリーの旧本拠地クーファに向かう途上、これを阻止しようとするウマイヤ朝カリフのヤズィード』Ⅰ『世の手にかかって殺されたということになっている。このため』、『シーア派の人々は、フサインをウマイヤ朝の手にかけさせてしまったことを哀悼し、タアズィーヤと呼ばれる殉教追悼行事を行うようになった』。『アーシューラーのタアズィーヤでは、フサインの殉教を哀悼する詩の朗読や、殉教したときの様子を再現する宗教劇が上演され、人々はフサインの死を大声で喚き、涙を流して嘆き悲しむ。さらに、フサインの棺を模した神輿が担ぎ出されたり、人々が鎖で自分の体を鞭打って哀悼の意を表現するなど、熱狂的な儀礼が繰り広げられる』。『宗教的な感情が最高潮を迎えるアーシューラーの日は、シーア派社会のエネルギーが爆発する日であり、イラン革命においてもアーシューラーの日に行われたデモが大きな影響力を持った』とある。

「オマー」不詳。ウィキの「カルバラーの戦い」によれば、『ヤズィードはこの戦いが原因で全シーア派から凄まじい憎しみを浴びせられ、現在でもこの一件はシーア派とスンナ派の感情的しこりとなって残っている』とあるが、ヤズィードの名や別称にはオマーに似たものはない。

「Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811」フランスに生まれ、後にイギリスへ亡命した商人ジャン・シャルダン(Jean Chardin 一六四三年~一七一三年:フランスのパリに富裕な宝石商の息子。フランスでは少数派だったキリスト教プロテスタントのカルヴァン派に所属していたため、身の危険を感じて、イギリスに移住し、王宮付き宝石商となり、チャールズⅡ世によりナイトの爵位を得た)は、二度、ペルシアへ旅行しており、一度目は一六六四年で、リヨンの商人とともにインドとペルシアへ向い、滞在中にサファヴィー朝王アッバースⅡ世の死去とスレイマーンⅠ世の即位に際会している。一六七〇年にフランスに帰国すると、「ペルシア王スレイマーンの戴冠」を出版したが、フランスにいてもプロテスタントでは出世が望めぬことから、一六七一年、再度、ペルシアへ出発し、イスタンブール・グルジアを経由して、一六七三、年ペルシアに到着、その後も商売のため、インドとペルシアを行き来し、最終的には、一六八〇年に喜望峰経由でフランスに帰国した。十四年余り東方で過ごし、ダイヤモンドなどにより、大量の利益を上げた一方、ペルシア語なども習得していて、現地人との交流も深かった。二度目の旅行から帰った後、イギリスの東インド会社に多額の出資を行ったが、役員選挙では落選している。そのためか、弟と新会社を設立し、一方では東インド会社の代表者としてオランダに赴任したりしている。一六八二年には王立協会フェロー(Fellowship of the Royal Society:ロンドン王立協会のフェロー・シップ(会員資格))に選出されている。一六八六年には二度目のペルシア旅行に関する「旅行記」を出版し、一七一一年までに、残る部分の旅行記を刊行している。当時、殆んど知られていなかったペルシアに関する旅行記は、当時大きな反響を呼んだ(当該ウィキに拠った))のその旅行記。Internet archiveのこちらで原本が見られるが、指示ページはここだが、これまた、どうも違うような気がする。幾つかの単語で調べてみたが、よく判らない。なお、この旅行記は日本語サイト「シャルダン 17世紀ペルシア旅行記図録 デジタルアーカイブ(Atlas of Chardin's Voyages from 17th-Century Persia Digital Archiveとして、図版を見ることが出来る。画像が非常に大きく、しかも美麗である。是非、見られたい。

「アブベツクル」アブー・バクル・アッ=スィッディーク(五七三年~六三四年)のことであろう。初代正統カリフ(在位六三二年~六三四年)で、預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリム(アラビア語で「神に帰依する者」の意で「イスラム教信者」のこと)であり、「カリフ」、則ち、「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」を名乗った最初の人物。但し、当該ウィキによれば、『アブー・バクルはスンナ派では理想的なカリフの一人として賞賛されているが、シーア派では』、『本来』、『預言者ムハンマドの後継者であるべきだったアリーの地位を簒奪したとして、批判の対象となることもある』とある。

「オスマン」オスマン帝国のオスマン家。オスマン帝国は例えばイラクをスンニ派の住民を介して支配していたという。]

2021/07/19

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (3)



 古アツシリア人は、詛言が人を殺す事罕[やぶちゃん注:ママ。「羊」の誤字と推定する。後注参照。]を殺す如く容易也、其の言を除くは日神と海神の力を借る有るのみと信じ、太古グデアの代よりダリウスの時迄も石碑に詛詞を鐫て[やぶちゃん注:「ほりて」。]墓を犯す者を防いだ(C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175)。東トルキスタンの最大都會ヤルカンドの住民は、四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し、古傳に、サレー、ペイガムバール上人此所を通つた時、所の人其駱駝を盜みて喉を切り河岸に殘せしを、上人怒つて此所の民每に[やぶちゃん注:「つねに」。]此病に罹るべしと詛うたのが起りだと云ふ(Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.)。同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを、住民驕奢にして尊ばず。時に一阿羅漢有り來て[やぶちゃん注:「きたつて」。]之を拜せしを住民怒て砂に埋め其唇に達す。唯一人佛を奉ずる者有て密かに食を與ふ。阿羅漢脫れ去るに蒞み[やぶちゃん注:「のぞみ」。]、彼に語るらく、一週内に砂と土が降て全城を瘞め[やぶちゃん注:「うづめ」。]住民皆死ぬが、汝一人は助かるべしと。羅漢卽ち消えて見えず。彼人城に歸つて親族に語るに信ぜずして嘲笑す。因て獨り去て身を洞中に隱すと七日めの夜半から砂の雨が始つて全城を埋めたと載す。熊楠謂く是は昔全盛だつた市街が沙漠となつたに附會した佛說で、其原話は元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王[やぶちゃん注:「うだえんわう」。]の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず。遊びに出た歸路迦旃延[やぶちゃん注:「かせんねん」。]が坐禪するを見、群臣と共に之を埋む。一大臣佛を奉ずる者後に至つて土を除く、尊者言く、却後七日天土を雨して[やぶちゃん注:「あめふらして」。]土山城内に滿ち、王及び人民皆覆滅せんと。大臣之を王に白し[やぶちゃん注:「まうし」。]、又自ら地道を造り出て城外に向ふ。七日滿て天香花珍寶衣服[やぶちゃん注:「天、香花・珍寶・衣服」。]を雨らす。城内歡喜せぬ者無く、惡緣ある者、善瑞有りと聞き、皆來り集る。其時城の四門盡く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]鐵關下り逃るゝに地無し。天便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]土を雨らし、彼大臣一人の外悉く埋滅さると出づ。

[やぶちゃん注:「古アツシリア人」アツシリアはティグリス川中流域のアッシュール市から興ったセム人の国家。紀元前三千年紀後半から前六一〇年まで存続した。ティグリス・ユーフラテス川の流域地方をバビロニアと称するのに対し、その北の地方をアッシリアと称する場合がある。この地方は、本来、フルリ系住民が多数を占めていたと思われるが、アッシュールはシュメール人の植民都市として成立し、その後、セム系のアッカド人の都市になったと推測されている。都市名としてのアッシュールが文献に初めて現れるのはアッカド王朝時代(紀元前二三〇〇年頃)である。前二〇〇〇年頃はウル第三王朝治下にあった。アッシュールの君侯ザーリクムは、スーサの同名の君侯ザーリクムと同一人物と考えられ、彼は東方及び北方辺境の防備と通商路の確保を、ウルの王から任されていたと思われている。古アッシリアは紀元前二千年紀前半に当たり、この時期にアッシュールは独立した有力商業都市国家となり、アナトリアのカネシュに商業植民市を置いて、主に銅・錫の交易を活発に行っていた。機嫌前二千年紀初頭から西方セム語族に属するアモリ人が移動を開始し、バビロンなどの諸都市に王朝を建てた。王朝はアッシュールにも成立した。シャムシ・アダドⅠ世(在位紀元前一八一三年~紀元前一七八一年)は長子イシュメダガンを首都近くに配置し、アナトリアに通じる道の防衛とともに、エシュヌンナ王国に対抗させた。また、征服したマリ王国に次子を王として送り込んだ。こうした配置は、アナトリアとエラムを結ぶ通商路の確保と、その権益の擁護が主目的であったと思われる。しかし、このアッシリアもバビロン第一王朝のハムラビに屈し、独立国の地位を失ってしまった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。位置はウィキの「アッシリアにある、周囲との関連広域地図がよい。

「グデア」古代メソポタミアの都市国家ラガシュ第二王朝の王。在位は紀元前二一四四年頃~紀元前二一二四年頃か。シュメール時代の王中で最も名前の知られている人物の一人。「グデア」という名は「呼びかけられし者」の意(当該ウィキに拠った)。

「ダリウス」Ⅰ世であろう(在位:紀元前五二二年~紀元前四八六年)古代ペルシアのアケメネス朝の大王。国内の叛乱を鎮め、財政整備をし、中央集権を確立した。インドまで遠征して全オリエントを支配し、帝国の極盛期を築いた。ゾロアスター教を信じたが、被征服地の宗教には寛大で、バビロン捕囚から帰国したユダヤ人に好意を示し、エルサレム神殿再建を助けた。エジプトの叛乱を鎮めるために出征中、陣内で没した。ダレイオスとも表記する。マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅亡させられたアケメネス朝ペルシアの最後の王ダレイオスⅢ世まで含めるなら、彼の在位は紀元前三三六年から紀元前三三〇年である。

「C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175」イギリスの軍人で探検家クロード・レニエ・コンダー(Claude Reignier Conder  一八四八年~一九一〇年)の「人間の台頭」。彼はパレスチナを中心とした中東からエジプトに軍務で派遣される中、歴史的・民俗学的研究を多く残している(英文の彼のウィキを参照した)。Internet archive」のこちらで原本が見られるが、その指示ページに(右ページ下から三行目から次のページの頭。太字は私が附した問題個所)、

   *

   The power of a curse is the subject of another tablet — the curse of some one unintentionally wronged bringing misfortune — “ an evil cry cleaves to him ; the curse is a curse of sickness.  The curse slays a man like a sheep.  It makes his god punish his body.  His mother goddess makes him sad. The voice that cries cloaks him as a garment, and strangles him.”  It can only be removed through discovery of the cause, by intercession of the sun god with his all-wise father Ea.  The sun is called “the protecting hero,” and is described as the “ merciful one ” who “raises the dead alive" (in the other world) — a “saviour" from demons. From the earliest age (that of Gudea) down to the time of Darius curses were inscribed on monuments to preserve them from any future mutilation or alteration.

   *

とあるのが、南方熊楠の訳した部分である。これを読むに、

「罕」(音「カン」。「長い柄の附いた鳥を獲る」「柄の附いた旗」「稀れ・少ない・珍しい」)は、「羊」の誤字である

ことが判明した。推定だが、南方熊楠は「羊」の異体字のこれ(グリフィスウィキ)辺りを崩して原稿に書いたのを、植字工が「罕」と誤ったのではなかったか? それにしても、正直、発表から百六年も経った今まで、誰一人として原書を調べず、この「罕」のまま放置されて、補正注する者がなく、全集でさえ、ただのママ表記で済まされてきたことに、私は激しい驚きを隠せない。南方熊楠の研究者は一体、何をしてきたのだろう?

「東トルキスタンの最大都會ヤルカンド」現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区にあるヤルカンド県(ウイグル語カタカナ転写)。漢字では莎車(さしゃ)県。新疆西南部の崑崙山脈北麓、パミール高原南面のヤルカンド川沖積平野に位置する。平均海抜千二百三十一メートル、山地が三十九%、平原が約六十一%を占める。暖温帯大陸性気候。四季は分明で、気候は乾燥しており、日照時間は長い。年平均気温は摂氏十二・三度で、年平均降水量はわずか五十六・六ミリである。ヤルカンドは二千年あまりの歴史を有し、嘗て莎車国(前漢の時代)、渠沙国、ヤルカンド・ハン国を形成していた。

「四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し」河川水に何が含まれているのか、未詳。そもそもこれが一種の疾患なのかどうかも不詳。喉仏が民族的に大きいだけではないのか?

「サレー、ペイガムバール上人」以下の原本では綴りは‘Saleh Peygambär’。ネットを調べると、海外のものばかりで、はっきりとは言えないが、どうもイスラムの預言者としてはかなり有名な人物らしい。

「Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.」スウェーデンの地理学者にしてかの中央アジア探検で知られるスヴェン・アンダシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の中央アジア探検録の一巻。Internet archiveのこちらで原本当該部(右ページ上から三行目。古伝承)が読める。

「同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを……」同上のInternet archiveのここの左ページ下方の‘We also possess a legend about an image of Buddha,’で始まる次のページまで続く段落がこの話である。左ページ下から五行目に城の名‘Ho-lao-lo-kia’が出る。

「元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず……」これも同経の巻第「八」ではなく、巻第「十」にある。「大正蔵経」データベースのここの「T0203_.04.0494c24」の「優陀羨王縁」以下に、「T0203_.04.0495b20」以降で父を殺すシークエンスが出、「T0203_.04.0495c24」と次行で「而見尊者迦栴延。端坐靜處。坐禪入定。時王見之。便生惡心」とあり、「T0203_.04.0496a08」で、天が「香華珍寶衣服」を雨ふらして、「T0203_.04.0496a15」「此城。一日覆沒。雨土成山」というカタストロフが描かれている。]

2021/07/18

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (2)

 

 印度にも古く詛言を太く[やぶちゃん注:「いたく」。]怖れたは根本說一切有部毘奈耶雜事九に、惡生王[やぶちゃん注:「あくしやうわう」。]が苦母[やぶちゃん注:「くも」と読んでおく。]怖勸めにより[やぶちゃん注:後注参照。恐らく誤読。]、釋種の男子を殺盡し、五百釋女己れを罵るを瞋り悉く其手足を截らしめた時、佛其因緣を說て、迦葉佛の世に、此五百釋女、出家し乍ら常に諸他の尼輩に、手を截られよ足を截られよと罵詈したので、無量歲の間地獄で燒れ後人間に生れても五百年中常に手足を截らると言た。惡生王傳へ聞て極て憂ふ。苦母對ふらく、婆羅門輩が人家に物を乞ひて吳れぬ時は、其家に百千種の不祥事を生ぜしめんと欲す。況や沙門喬答摩(ゴータマ)(佛の事)其親族を王に誅盡されたから、其惡心のまゝにどんな深重の呪詛を爲るか知れぬとて、王を池中の一柱樓に住ませ避難せしめたと出るで分(わか)る。十九世紀にも印度人が瞋れば怖ろしい詛言を吐く風[やぶちゃん注:「ふう」。]盛んだと Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897 に見え、古印度仙人の詛言のいかに怖るべきものなりしは、西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れ、自ら王宮に詣り求めしに一人も應ぜず。王の最幼女王憂るを見兼ねて、請て自ら行しに、仙人其不妍[やぶちゃん注:「うるはしからざる」。]を見、怒て便ち惡呪し、王の九十九女一時腰曲り形毀れて誰も婚する者無かれと罵ると、忽ち其通り腰曲つたので、王當時住んだ花宮城を曲女城と改名したと有るを見て知るべし。

[やぶちゃん注:「根本說一切有部毘奈耶雜事九」「根本說一切有部毘奈耶」(こんぽんせついっさいうぶびなや:現代仮名遣)は仏教経典で全五十巻。初唐の七〇三年に義浄によって漢訳された。部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に教訓物語を挿入した大部なもの。「大正蔵」で調べると、「雜事九」ではなく、「雜事八」である。標題は「第二門第四子攝頌之餘【說勝光王信佛因緣及惡生誅釋種等事】」。「240」コマの「T1451_.24.0239b27」の『時惡生王納苦母諫……』(「苦母怖勸めにより」ではなく、「苦母が諫めを納れ」である)から、「241」『苦母對曰。大王如乞索婆羅門入舍乞求。不得物時欲令其家。生百千種不吉祥事。何況沙門喬答摩。所有親族被王誅盡。寧無深重怨恨之言。隨其惡心而爲呪咀。王若懼者於後園中池水之内。』(最後は「T1451_.24.0243c15」)までが当該する話と読める。私が太字にした部分が熊楠の示したかった箇所である。

「Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897」作者ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師。「Internet archive」のこちらで同年版原本が見られる。

「西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れて……」「大唐西域記」の「卷第五 六國」の「羯若鞠闍國」(カーニヤクブジャ:現在の北インドの都市カナウジ。この伝承通り、「カーニヤクブジャ」とは「傴(せむし)の娘たちの町」の意)の条の冒頭の「一 國號由來」に(「維基文庫」のこちらのものを参考に漢字を正字化した)、

   *

羯若鞠闍國人長壽時。其舊王城號拘蘇磨補邏【唐言「花宮」。】。王號梵授、福智宿資、文武允備、威懾贍部、聲震鄰國。具足千子、智勇弘毅、復有百女、儀貌妍雅。時有仙人居殑伽河側、棲神入定、經數萬歲、形如枯木、遊禽棲集、遺尼拘律果於仙人肩上、暑往寒來、垂蔭合拱。多歷年所、從定而起、欲去其樹、恐覆鳥巢、時人美其德、號大樹仙人。仙人寓目河濱、遊觀林薄、見王諸女相從嬉戲、欲界愛起、染著心生、便詣花宮、欲事禮請。王聞仙至、躬迎慰曰、「大仙棲情物外、何能輕舉。」。仙人曰、「我棲林藪、彌積歲時、出定遊覽、見王諸女、染愛心生、自遠來請。」。王聞其辭、計無所出、謂仙人曰、「今還所止、請俟嘉辰。」。仙人聞命、遂還林藪。王乃歷問諸女、無肯應娉。王懼仙威、憂愁毀悴。其幼稚女候王事隙、從容問曰、「父王千子具足、萬國慕化、何故憂愁、如有所懼。」。王曰、「大樹仙人幸顧求婚、而汝曹輩莫肯從命。仙有威力、能作災祥、倘不遂心、必起瞋怒、毀國滅祀、辱及先生。深惟此禍、誠有所懼。」。稚女謝曰、「遺此深憂、我曹罪也。願以微軀、得延國祚。」。王聞喜悅、命駕送歸。既至仙廬、謝仙人曰、「大仙俯方外之情、垂世間之顧、敢奉稚女、以供灑掃。」。仙人見而不悅、乃謂王曰、「輕吾老叟、配此不妍。」。王曰、「歷問諸女、無肯從命。唯此幼稚、願充給使。」。仙人懷怒、便惡咒曰、「九十九女、一時腰曲、形既毀弊、畢世無婚。」。王使往驗、果已背傴。從是以後、便名曲女城焉。

   *

にあるのが、それ。]

 

 支那にも古く詛言が盛んだつた。淵鑑類凾三一五に、厥口呪詛、言怨上也、子罕曰、宋國區々、有詛有兕、亂之本也、康煕字典に書無逸を引て、民否則厥心違怨、否則厥口詛祝、是等は惡政に堪ざる民が爲政者を詛ふので、詩に此出三物、以詛爾斯、また晏子曰、祝有益也、詛亦有損、雖其善祝、豈勝億兆人之詛者とも有る。范文子使祝宗祈死、曰愛我者惟呪我、使我速死、無及於難范氏之福、是は死ねと詛われて速に死なんと望んだのだ。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。以下は巻三百十五の「口咒・國詛」に連続した一文として出る。

「厥口呪詛……」「厥(そ)の口、呪詛すとは、上を怨むを言ふなり。子罕(しかん)曰く、『宋國、區々として詛あり。呪あるは亂の本なり。』と」。

「民否則厥心違怨……」まず、底本は「違怨」が「達」であるが、諸本と「書経」原本から訂した。「民、否とせば、則ち、厥の心、違怨し、否とせば、則ち、厥の口、詛祝(じゆしゆく)す。」。

「康煕字典に書無逸を引いて……」まず、「書無逸」は底本では「書無極」となっている。しかし、諸本及び以下に示す「康煕字典」を確認、これは「書経」の「無逸」の誤りであることが判明したので訂した。「康煕字典」のそれは、「口部」の「五」の「呪」の条である。「中國哲學書電子化計劃」のものを一部カットして加工した。

   *

呪 [やぶちゃん注:中略。]「廣韻」、『呪詛也。』。「戰國策」、『許綰爲我呪。』。「後漢・王忳傳」、『忳呪曰、有何枉狀。』。「關尹子・七釜篇」、『有誦呪者。』。又、「集韻」、『通作祝。』。「書・無逸」、『民否、則厥心違怨否、則厥口詛祝。』。「詩・大雅」、『侯作侯祝。』。「周禮・春官」、『有詛祝。』。「集韻」、『或作詶、亦作詋。』。

   *

「詩に出此三物……」「詩」は「詩経」。「此の三物を出だして、以つて爾(なんぢ)を詛ふ。」。

「晏子曰、祝有益也……」「晏子」に曰く、『祝は益する有るなり。詛も亦、損ふ有り。其れ、善く祝すと雖も、豈(あに)億兆人の詛ふ者に勝たんや。」。「晏子」は「晏子春秋」で、春秋時代の斉で霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)の、後代に作られた言行録。

「范文子使祝宗祈死……」まず、これは出典を示していないが、「春秋左氏伝」の「成公十七年(紀元前五七四年)で、「使我速死」は底本では「速」を「連」に誤っているので訂した(これは後の熊楠の謂いからもおかしいことが判る)。「范文子、祝宗をして死を祈らしめ、曰く、『我を愛する者は、惟(ただ)我を呪せ。我をして速やかに死せしめ、難に及ぶ無からしむれば、范氏の福なり。』と」。「范文子」は晋に仕えていた名臣士燮(し しょう ?~紀元前五七四年)の諡(おくりな)。「祝宗」は王の名ではなく、士燮の家で祈禱を掌った官。ウィキの「士燮」によれば(太字は私が附した)、紀元前五七五年に「鄢陵(えんりょう)の戦い」(同年、鄢陵(現在の河南省許昌市鄢陵県)で晋と楚が激突した戦い)が『起こって』楚との『講和は敗れてしまう。士燮は戦争を極力回避しようと働きかけるが、徒労に終わってしまう。更に、嫡子の士匄』(しかい)『が戦闘の開始を諸将に勧めるのを見るや、「国の存亡は天命であり、お前のような小僧に何が分かるか。しかも聞かれもしないのに勝手に発言するのは大罪である。必ず処刑されよう」と激怒し、戈を持って士匄を追い掛け回した』。『結局』、「鄢陵の戦い」は、『晋軍の勝利に終わったが、士燮は徳のない厲公が徳のある共王に勝ってしまったことをむしろ恐れ、家臣に自らを呪わせて死んだ』(☜)。『家督は士匄が継いだ。死後、恭謙な態度を生涯貫き通した事と、一時的ながら楚との和睦の大功を成した事から、諡号「文」を諡され、范文子と呼ばれる』とある。]

2021/07/15

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (1)

 

[やぶちゃん注:本篇初出は大正四(一九一五)年四月二十五日発行の『人類學雜誌』第三十卷四号。初出は「J-STAGE」のこちらで原本画像(PDF)で見られる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像を視認した。

 初出及び平凡社「選集」と校合し、不審な箇所は訂した。それはただ五月蠅くなるだけなので、原則、注していない。他にも漢籍などの引用で不審な箇所は可能な場合は引用古書(「古事記」「古事記傳」など)を調べて訂したが、これも、同前の理由で、原則、注していない。また、上代歴史的仮名遣文脈の引用部はほぼ返り点もない白文であり、甚だ読み難いので、可能な限り原本に当たって訓読した。しかし、それを本文内に入れると、熊楠の本文が甚だ読み難くなるので、今回は特異的に「選集」が恣意的に成形された段落(底本はベタで一段落も成形されていない)を参考に、仮に段落を作り、その直後に纏めて挿入して示し、そのソリッドな注の後は一行空けた。必要と考えた短い割注も入れてある。

 因みに、「詛言」は「そげん」で(和訓としては「古事記」で「とこひい」・「のろひごと」などの訓が試みられている。「とこいひ」「とこい」という語は、古くは「呪詛」と感じを当て、古神道に於いて、神に祈って他人に災禍を蒙らせようとするブラック・マジック、「呪(のろ)い」を指す。因みに、そのために使う物を「詛戶(とこひど)」とも言った。恐らくは本邦のもっと古い原始社会に於いて発生したもので、シャーマンの呪術に関わるものが淵源と思われる。]

 

     詛 言 に 就 て

 

 人類學雜誌二九卷十二號四九五―七頁に、誓言(英語で Swearing)の事を述べたが爰には詛言(英語で Curse)に就て少しく述よう。詛言とは他人が凶事に遭へと自分が望む由罵り言ふので、邦俗「早くくたばれ」「死んぢまへ[やぶちゃん注:ママ。]」抔いふのがそれだ。今日何の氣もなくそんな語を吐く人が有る樣だが、實は甚だ宜しくない。英米に最も盛んなゴツデム(神汝を罰す)又デム何某(罰當りの何某)抔は、嚴戒の神名を呼ぶ上に詛を兼ねた者故、極めて聞苦しい。是も彼方[やぶちゃん注:「あちら」。]で幼年から口癖になって止められぬ人が多いらしい。然し往古は詛言は必ず詛する人の望み通りの凶事を詛はれた[やぶちゃん注:「のろはれた」。]者に生ぜしむると信じ隨つて甚だ詛言を怖れた。例せば古事記に天若日子[やぶちゃん注:「あめのわかひこ」。]葦原中國[やぶちゃん注:「あしはらのなかつくに」。この地上世界の呼称。]に到て下照比賣[やぶちゃん注:「したてるひめ」。]を娶り八年に至るまで復奏[やぶちゃん注:「かへりごと」。高天原への報告の上奏。]せず。雉名鳴女[やぶちゃん注:「きぎしのなきめ」。キジの人神化。]天神の命を奉じ視に往しを天若日子射殺し、其矢天の安河[やぶちゃん注:「あまのやすのかは」。]の河原に達す。之を檢して[やぶちゃん注:「けみして」。]高木神[やぶちゃん注:「たかぎのかみ」。「高御產巢日神(たかみむすびのかみ)」の異名。]言く、是は天若日子に賜ひし矢也と。卽ち諸神に示し、今此矢を返し下さんに、若し天若日子命を違えず[やぶちゃん注:「たがえず」。ママ。]惡神を射し矢の來つるならば此矢彼れに中らじ。若し彼れ邪心あらば此矢に麻賀禮(まがれ)と言て、矢の穴から其矢を返すと天若日子の胸に中つて死んだと有る。本居宣長言く、「先づ萬づの吉善(よき)を直(なほ)と云に對ひて[やぶちゃん注:「つひて」。ママ。]萬の凶惡[やぶちゃん注:「あしき」。]を麻賀[やぶちゃん注:「まが」。]と云ふ。故に御祓の段に禍(まが)[やぶちゃん注:以上の「(まが)」はルビではなく、本文。]と書けり。扨其は體言なるを用言にしては麻賀流と云ふ。物の形の枉曲るも其中の一也。されば麻賀禮と云ふは、言は凶くなれ[やぶちゃん注:「ことはあしくなれ」。]と云ふ事にて、意は乃ち死ねと詔ふ也(麻賀禮、卽ち今の「くたばれ」だ)。書紀には其時天神乃取矢而呪之曰、若以惡心射者、則天稚彥必當遭害云々、此當遭害を「まじごれなむ」と訓るは[やぶちゃん注:「よめるは」。]御門祭詞に天能麻我都比登云神乃(あめのまがつびといふかみの)言武(いはむ)惡事爾(まがごとに)相麻自許理(あひまじこり)云々と有るに同じ。上に曰呪[やぶちゃん注:「呪(とこ)ひて曰はく」。]と有る呪は字書に詛也と有る意にて、俗に所謂麻自那布(まじなふ)なれば麻自許流(まじこる)はまじなはるゝ也。凶くまじなふを俗言にまじくると云も是也。さればかの當選害と此の麻賀禮とは、言は別なれども末は一つ意に落めり[やぶちゃん注:「おつめり」。]。故に當遭害と書かれたる字は麻賀禮に能く當れり(古事記傳十三)。

[やぶちゃん注:「人類學雜誌二九卷十二號四九五―七頁に」「誓言の事を述べた」これは「鼈と雷、附たり誓言に就て」という記事(初出は見ることが出来ない)。これは本書の後に出る「鼈と雷」の第「三 附たり誓言に就て」の本文である。先に読まれたい方は底本のここから読める。

「誓言(英語で Swearing)」スゥェリング。「誓い」の意もあるが、ここは「罵り・悪たれ口(ぐち)」の意。 

「詛言(英語で Curse)」カァース。「人などに災厄や不幸が降り懸かるようにと呪い、罵る」の意の動詞。

「ゴツデム(神汝を罰す)」goddamn。ガァデッム。「God」(神が)+「‎ damn」(人を永遠に罰する。地獄に堕とす)。

「デム何某(罰當りの何某)」Damn you!(「こん畜生め!」)・Damn it!(「クソ!」「いまいましい!」)等。

「天若日子……」以下の話はウィキの「あめのわかひこ」を、まず、参考に読むと、すっきり読み通すことが出来る。

「まじごれなむ」「古事記傳」では『麻自許禮那牟』の漢字に以上の読みがルビで振られてある。

「故に」「古事記伝」の原文での読みは「故れ」(かれ)である。これは「古事記」に多用される「そこで」「だから」の語である。

「古事記傳十三」以上は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五(一九三〇)年吉川弘文館刊の当該部(見開き中央の右ページの後ろから二行から)を見られたい。]

 

 又書紀卷二に、天津彥火瓊々杵尊、大山祇神の女木花開耶姬の美貌を見初め召れしに、大山祇其二女姊妹を進む。皇孫姊の方は醜くしとて妹木花開耶姬のみ幸し、一夜で孕ませ玉ひしかば姉磐長姬大慙而詛之曰、假使天孫不斥妾而御者、生兒永壽、有如磐石之常存、今既然、唯弟獨見御、故其兒必如木花移落、一云、磐長姬耻恨而唾泣曰、顯見蒼生者、如木花之俄遷轉、當衰去矣、此世人短折之緣也、古事記には此時大山祇神長女が納れられざりしを恥じて詛(のろ)うたので、今に至るまで天皇命等の御命長くまさゞる也と有る。

[やぶちゃん注:読みが五月蠅くなるばかりなので、煩を厭わず、訓読を以下に示す。昭和八(一九三三)年岩波書店刊の黒板勝美編「日本書紀 訓読 上巻」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像)を参考にしたが、必ずしもそれに従わずに判り易く変えてある。一部で送り仮名・句読点・記号を変更・追加した。

   *

 天津彥火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、大山祇神(おほやまつみのかみ)の女(むすめ)木花開耶姬(このはなさくやひめ)の美貌を見初め召れしに、大山祇、其の二女姊妹を進む。皇孫、「姊の方は醜くし」とて、妹木花開耶姬のみ、幸(みとあたへ/め)し、一夜で孕ませ玉ひしかば、姊の『磐長姬、大いに慙ぢて、之れを詛(とこ)ひて曰く、「假使(もし)天孫(あめみま)、妾(やつこ)を斥けずして御(め)さましかば、生めらむ兒は壽(いのち)永きこと、磐石之常存(ときはかきは)のごとくなりまし。今は既に然らず、唯、弟(いろと)のみ獨り御(め)せり。故(かれ)、其の生めらん兒、必ず、木の花の移(ち)り落つるがごとくならん。」と。

 一に曰く、『磐長姬、恥ぢ恨みて、唾(つば)泣(いざ)ちて曰く、「顯見蒼生(うつしきあをひとぐさ)は、木の花のごとく、俄かに遷轉(うつろ)ふがごとく、當に衰へ去るべし。」と。此れ、世人の短折(いのちみぢか)き緣(えにし)なり。』と。

   *]

 

 伊勢物語に、秋來れば逢はんと約せし女に逃げられた男、天の逆手を拍て呪(のろ)ふ事見ゆ。本居氏說に、上古は呪を行ふに吉事凶事共に天の逆手を打つたが、伊勢物語の頃は人を詛ふのみに用ひたらしいと(古事記傳十四)上古の呪ひには斯る作法も種々有ただらうが追々作法を廢して口許りで詛言を吐く事と成たは同じ物語に昔し男、宮の中にて或る御達(ごたち)の局の前を渡りけるに、何の仇にか思ひけん、よしや草葉のならんさが見んと云ひければ、男、「罪もなき人をうけひば忘れ草おのが上にぞおふと云なる」。是は一話一言十八に、童部の誓言に大誓文齒腐れ、親の頭に松三本と云るは、頭に松を生ずる事には非じ、墓の木の拱せるを云るなるべしと有る如く、自死し墓の上に忘れ草が茂れと詛ふためだろ、忘れ草を墓に栽えた話は今昔物語三一に出づ。それから大分後建長四年に成った十訓抄第七に「太宰大貳高遠の、物へおはしける道に、女房車をやりて過ける、牛飼童の、詛(のろ)ひ言(ごと)しけるを聞きて、彼車を止めて尋ね聞ければ、ある殿上人の車を女房達の借て物詣でしけるが、約束の程過て、道の遠くなるを腹立つなりけり。大貳言れけるは、女房に車貸す程の人なれば、主はよも左樣の情なき事は思はれじ己れが不當にこそ迚、牛飼をば縛らせて主の許へ遣けり云々」。是は今日歐米の車夫抔が客を侮り辱めて詛言する如く、吾邦にも中世下等人は動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば輕々しく詛言した證でも有れば、又歐米と等しく其頃は詛言者を犯罪として縛り罰し得た徵[やぶちゃん注:「しるし」。]でもある。

[やぶちゃん注:「伊勢物語に、秋來れば逢はんと約せし女に逃げられた男……」第九十六段の以下。

   *

 昔、男ありけり。女をとかく言ふこと、月日、經にけり。石木(いはき)にしあらねば、『心苦し』とや思ひけむ、やうやうあはれと思ひけり。

 その頃、水無月の望(もち)ばかりなりければ、女、身に、かさ、一つ二つ、いできにけり。女、いひおこせたりける。

「今はなにの心もなし。身にかさも一つ二ついでたり。時も、いと暑し。少し秋風吹きたちなむ時、かならずあはむ。」

と言へりけり。

 秋まつ頃ほひに、ここかしこより、「その人のもとへいなむずなり」とて、口舌(くぜつ)いできけり。さりければ、女の兄(せうと)、にはかに迎へ來たり。さればこの女、かへでの初紅葉(はつもみぢ)をひろはせて、歌をよみて、書きつけておこせたり。

  秋かけて言ひしながらもあらなくに

    木の葉ふりしくえにこそありけれ

と書きおきて、

「かしこより、人おこせば、これをやれ。」

とて、いぬ。

 さて、やがてのち、つひに今日まで知らず。良くてやあらむ、惡しくてやあらむ、往(い)にし所も知らず。

 かの男は、天(あま)の逆手(さかて)を打ちてなむ、のろひをるなる。

 むくつけきこと、人ののろひごとは、負ふものにやあらむ、負はぬものにやあらむ、「今こそは見め」とぞ言ふなる。

   *

「かさ」は汗疹(あせも)。『ここかしこより、「その人のもとへいなむずなり」とて、口舌(くぜつ)いできけり』「あちらこちらから、『例の男の所へ行こうとする女がいるらしい』という噂が立った」の意。「書きつけておこせたり」は後の「と書きおきて」の衍文であろう。「かの男は、天の逆手を打ちてなむ、のろひをるなる」「かの男の方はといえば、自身が訪ねなかったことを棚上げしておき、逆に、天の神に向かって普通と異なった尋常ではない方法で手を打っては(後述する)、この女のことを呪い続けて日を暮らしておるということである」の意。「むくつけきこと」何とも不気味で気持ちの悪い話。「今こそは見め」『「今に見ていろ! 呪いが効くぞ!」と、かの男は言うておるとのことである』の意。

 さて、ここで熊楠はこの「天の逆手」を出すために、これを出したわけだが、これの元はは「古事記」の「神代巻」中の、所謂、「国譲り」のシークエンスで、八重事代主神が、

   *

恐之。此國者立奉天神之御子。卽蹈傾其船而。天逆手矣。於靑柴垣打成而隱也。

   *

「恐(かしこ)し。この國は謹しんで天つ神の御子に獻(たてまつ)りたまへ。」といひて、その船を蹈み傾けて、天(あま)の逆手(さかて)を靑柴垣(あをふしがき)にうち成して、隱りたまひき。(武田祐吉氏の訓読に基づく)

   *

である。しかし、この場合の「天の逆手」は、少なくとも原型ではどうであったかは別問題として(私は容易に「国譲り」をするこの場面が恐ろしく奇体に思われ、本来の国つ神の原神話は全く違うものと考えている)、表面上・展開上では、ある対象を呪詛する言葉なんぞではなく、乗っている船を青柴垣に変じせしめるための呪文のように見える。しかし、考えて見れば、この「国譲り」という深刻な事態のなかで、たかが、船を青柴垣に変容させるために御大層な呪文や印が必要だったとは、これまた、さらさら思えない。これは私には非道な天つ神族の不当な強要・侵略・掠奪をした相手を呪詛した原神話と残存と読む方が何もかも腑に落ちるのである。話を戻す。そもそもが、この「古事記」のこの「天の逆手」がいかなるものであったかは、古くから異説が多く、現在でも定説がない。よく知られものが、本居宣長の「古事記伝」の十四で、まさにこの「伊勢物語」のこの部分を引き(以下は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五(一九三〇)年吉川弘文館刊の当該部を視認した)、

   *

天逆手(アマノサカデ)は、「伊勢物語」に、『天(アマ)の逆手(サカテ)を拍(ウチ)てなむのろひ居(ヲル)なるとあると、相照して思ふに、古に逆手を拍て、物を咒(カシ)る術(ワザ)【俗にいふ麻自那比(マジナヒ)なり、】のありしなり。さて彼物語なるは、人を詛(ノロ)ふとてしけるを、上代には、然(サ)る惡事(アシキコト)のみならず、吉善事(ヨキコト)にも渉(ワタリ)て爲(シ)けむこと、此(コヽ)の故事(フルコト)にて知れたり、此(コヽ)は船を柴垣(フシカキ)に變化(ナサ)むための呪術(カシリ)なり。さて逆手(サカデ)を拍(ウツ)と云ふ拍状(ウチザマ)は、先常に手を拍は、掌(タナウラ)をうつを、此は逆(サカサマ)に翻(ウチガヘ)して、掌を外(ト)になして拍を云ふか、又は常には兩(フタツ)の掌を同じさまに對(ムカ)へて拍を、此は左と右との上下を、逆(サカサマ)にやり違(チガ)へて拍を云か、此をか、此の間(アヒダ)今定めがたし。

   *

と記した後、さらに、僧契沖と賀茂真淵の両説を示しつつも、それらは誤りであるとし、結局は、具体的にどのような手の打ち方(手の打ち方なのかどうかも実は判らない)であるかは不詳とするのである(長いので、カットした。先のリンク先で以下を読まれたい)。ただ、呪詛として考えると、「後方手(しりへで)」は、手を後ろの方に回して、相手に判らぬように呪文を発することと私は同義ではないかと考えている。民俗学者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)の昭和五(一九三〇)年大岡山書店刊の「日本巫女史」の「第一篇 固有呪法時代」「第五章 巫女の作法と呪術の種類」「第一節 巫女の呪術的作法」(「巫研 Docs Wiki」の電子化)にある「一 逆手」でも最後に中山氏は、この「古事記」の「天の逆手」は『凶事にのみ用いる呪術の一作法と信ずるのである。後手に就いては、「日本書紀」の一書に、海神が彦火々出見尊に教えて『此の鈎を汝の兄に与へたまはん時に、即ち貧鈎(マチチ)、滅鈎(ホロビチ)、落薄鈎(オトロヘチ)と称へ、言ひ訖りて後手(シリヘデ)に投与へたまへ、向ひてな授けたまひそ』とあるように、これは呪術的の意味が明白に且つ濃厚に含まれていたことが知られる。「釈日本紀」巻八に『今世厭(マジナフ)物之時、必以後手也』と述べたのも、決して虚構だとは想われぬ。私は逆手は此の後手と同じほどの内容を有するものと信ずるのである』と述べておられる。

「同じ物語に昔し男、宮の中にて或る御達(ごたち)の局の前を渡りけるに……」「伊勢物語」第三十一段。

   *

 むかし、宮の内にて、ある御達の局(つぼね)の前を渡りけるに、なにのあたにか思ひけむ、

「よしや草葉よ、ならむさが見む。」

といふ。

 男、

  罪もなき人をうけへば忘れ草

    おのが上(うへ)にぞ生(を)ふと言ふなる

と言ふを、ねたむ女もありけり。

   *

「御達」普通の女房たちとはちょっと違った上位の別格の女房。「あた」仇。ここは他者に対して害を成す悪しき存在といった謂い。ここは局の前を通った「男」を指す。「よしや草葉よ、ならむさが見む。」「まあ、仕方がないわねぇ、今は見栄えもいいけれど、所詮、草花に過ぎぬもの、末はどうなるか、分からないわね、その哀れなそれを見届けてやるわ。」。但し、角川文庫の石田穰二訳注「新版 伊勢物語」(昭和五四(一九七九)年刊)の補注によれば、これは室町後期の三条西実隆の「伊勢物語直解」に、「続(しょく)万葉集」(「古今和歌集」の「真名序」に名が見える歌集。同和歌集の成立過程で諸家集や古歌を集めて献上されたもので、「古今集」編集の一材料であったかとされる。現存しない)の巻八にある、

 忘れ行くつらさはいかに命あらば

   よしや草葉よならさむを見む

の下句が元であるとされ、『歌意は、恋しい人を忘れようとするつらさはいかばかりであろうか、もしつらさに堪え切れずに死ぬおうなことがないならば、ままよ、たかが草葉に過ぎないことだ、自分の忘れ草がどのように生い繁るか、それを見届けよう、となる。したがって、この物語では、この歌の下句を借りて、(あなたは私を忘れたが)あなたの心の中の忘れ草がどのように生い繁るか、見届けましょうよ、の意となろう』とされ、そうした恨み節(呪詛)に対して「男」が詠んだ歌の意は(現代語訳部分から引用)、『罪もない人を呪うとわが身の上に負う』(太字は原文は傍点。以下同じ)『というではありませんか、忘れ草はあなたにこそ生える――生う――ことになりますよ』となり、「ねたむ女もありけり」は恨み言を鏡返しで『うまくしてやられたと思う女もいたことだった』と訳されてある。

「一話一言十八」「一話一言」は太田南畝の考証随筆。同書を調べたが、見出せない。

「親の頭に松三本」「中川木材産業株式会社」公式サイト内のこちらに、『親の頭に松が三本生えるようなことがあっても、決してうそは言わない、 あるいは、「親の頭に松三本」が生えようとも約束は守るという意』。『また、「親の頭に松が三本生える」と声に出していうことはタブーで、これ以上の悪いことはないという地方もあった。 親の死を意味する言葉であったからと言われている』とある。

「忘れ草を墓に栽えた話は今昔物語三一に出づ」これは巻第三十一第二十七話「兄弟二人殖萱草紫苑語第二十七」(兄弟二人、萱草(かんざう)・紫苑(しをに)を殖(う)うる語(こと)第二十七)。

   *

 今は昔、□□の國□□の郡(こほり)に住む人、有りけり。男子(をのこ)二人有りけるが、其の父、失せにければ、其の二人の子共、戀ひ悲しぶ事、年を經れども、忘る事、無かりけり。

 昔は、失せぬる人をば墓に納めければ[やぶちゃん注:土葬にしたことを指す。]、此れをも納めて、子共、祖(おや)の戀しき時には、打ち具して彼(か)の墓に行きて、淚(なむだ)を流して、我が身に有る憂へをも歎きをも、生きたる祖などに向ひて云はむ樣に、云ひつつぞ、返りける。

 而る間、漸く、年月積みて、此の子共、公けに仕へ、私(わたくし)を顧みるに堪へ難き事共有りければ[やぶちゃん注:公務が忙しく私事を顧みる余裕がなくなってしまったので。]、兄が思ひける樣、

「我れ、只にては、思ひ□べき樣無し[やぶちゃん注:欠字であるが、「このままでは自身の父への思いさえ慰められそうにもない」の意であろう。]。萱草と云ふ草こそ、其れを見る人、思ひをば忘るなれ。然(さ)れば、彼の萱草を墓の邊(ほと)りに殖ゑて見む。」

と思ひて、殖ゑてけり。

 其の後、弟、常に行きて、

「例(れい)の[やぶちゃん注:何時ものように。]墓へや參り給ふ。」

と兄に問ければ、兄、障りがちにのみ成りて、具せずのみ成りにけり。

 然れば、弟、兄を、

『糸(いと)心踈(こころう)し。』

と思ひて、

『我等二人して祖(おや)を戀ひつるに、懸(かか)りてこそ、日を暗(くら)し、夜を曙(あか)しつれ。兄は既に思ひ忘れぬれども、我は更に祖を戀ふる心、忘れじ。』

と思ひて、

「紫苑と云ふ草こそ、其れを見る人、心に思ゆる事は忘れざなれ。」

とて、紫苑を墓の邊りに殖ゑて、常に行きつつ見ければ、彌(いよい)よ、忘るる事、無かりけり。

 此樣(かやう)に年を經て行きける程に、墓の内に、音(こゑ)、有りて云はく、

「我れは汝が祖の骸(かばね)を守る鬼也。汝(なむ)ぢ、怖るる事、無かれ。我れ、亦、汝を守らむと思ふ。」

と。

 弟、此の音を聞くに、

『極めて怖ろし。』

と思ひ乍ら、答へも爲(せ)で聞き居たるに、鬼、亦、云はく、

「汝ぢ、祖を戀ふる事、年月を送ると云へども、替る事、無し。兄は同じく戀ひ悲みて見えしかども、思ひ忘るる草を殖ゑて、其れを見て、既に其の驗(しるし)を得たり。汝は亦、紫苑を殖ゑて、其れを見て、其の驗を得たり。然れば、我れ、祖を戀ふる志(こころざし)の懃(ねむご)ろなる事を哀れぶ。我れ、鬼の身を得たりと云へども、慈悲有るに依りて、物を哀れぶ心、深し。亦、日の内の善惡の事[やぶちゃん注:その日のうちに起こる吉事・凶事。]を知れる事、明らか也。然れば、我れ、汝が爲めに見えむ所有らむ。夢を以つて、必ず、示さむ。」

と云ひて、其の音、止みぬ。弟、泣々く喜ぶ事、限り無し。

 其の後(のち)は、日の中に有るべき事を夢に見る事、違(たが)ふ事、無かりけり。身の上の諸(もろもろ)の善惡の事を知る事、暗き事、無し。此れ、祖を戀ふる心の深き故也。然れば、

「喜き事、有らむ人は、紫苑を殖て、常に見るべし。憂へ有らむ人は、萱草を殖ゑて常に見るべし。」

となむ語り傳へたるとや。

   *

「萱草」単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva 。本邦にはヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso ・ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba ・ハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. littorea ・ニシノハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. auranntiaca ・アキノワスレグサ Hemerocallis fulva var. sempervirens が自生する。

「紫苑」双子葉植物綱キク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus

「建長四年」一二五二年。

『十訓抄第七に「太宰大貳高遠の、物へおはしける道に……』以下。

   *

 大宰大弐高遠の、ものへおはしける道に[やぶちゃん注:ある所へいらっしゃる途次。]、女房車をやりて過ぎける牛飼童部(うしかひのわらは)、のろひごとをしけるを聞きて、かの車をとどめて、尋ね聞きければ、ある殿上人の車を、女房たちの借りて、物詣でせられけるが、約束のほど過ぎて、道の遠くなるを、腹立つなりけり。

 大弐、言はれけるは、

「女房に車貸すほどの人なれば、主(あるじ)は、よも、さやうの情けなきことは思はれじ。おのれが不當にこそ。」

とて、牛飼を走らせて、主のもとへ、やりけり。

 さて、わが牛飼に、

「この女房の車を、いづくまでも、仰せられんにしたがひて、つかふまつれ。」

と下知せられける。

 すき人はかくこそあらめと、いみじくこそ思(おぼ)ゆれ。

 この人、はかなくなられてのち、ある人の夢に、

「『ふるさとへ行く人もがな告げやらん知らぬ山路に一人迷ふと』、ながめて居給へる。」

と、見えけり。

 いかなるところに生れたりけるにか[やぶちゃん注:転生したものか。]、あはれにおぼつかなし。

   *

「大宰大弐高遠」公卿・歌人で正三位・大宰大弐であった藤原高遠(天暦三(九四九)年~長和二(一〇一三)年)。中古三十六歌仙の一人で、笛の名手として知られる。享年六十五。]

2021/03/14

南方熊楠「四神と十二獸について」(オリジナル詳細注附)の縦書PDルビ版公開版・2.3MB・28頁) 

同前の南方熊楠「四神と十二獸について」(オリジナル詳細注附)の縦書PDルビ版もサイトの「心朽窩旧館」に公開した(2.3MB・28頁)。 

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