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カテゴリー「南方熊楠」の152件の記事

2021/10/04

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(2)

 

[やぶちゃん注:底本はここの右ページ後ろから二行目からであるが、底本の経典引用に複数の致命的な誤字や、読点位置の不審が夥しくあったため、選集も参考にしつつ、サイト「SAT大蔵経DB」で原経典を確認の上、訂した。あまりに多く、五月蠅くなるだけなので、どこを校合して訂したかは指摘しない。万一、不審がある向きは、底本と比較しつつ、読まれたい。

 

 然しながら予は件の曾我物語に見えた修法成就の時渡り來て尊前に供へた物を動かす牛王を牛黃や牛王寶印の精靈と見るよりは、牛王てふ特別な鬼神と見るを一層實に近いと惟(おも)ふ。淸原君が言はれた通り(鄕土硏究三卷一九八頁)、牛の勝妙なる者乃ち牛群の首魁を牛王と云ふは諸經に屢々見え、例せば佛說生經四に、時水牛王、與衆眷屬、有所至湊、獨在其前、顏貌姝好、威神巍々、名徳超異、忍辱和雅、行止安詳[やぶちゃん注:選集版訓読文等を参考にしつつ、書き下してを試みる。「時に水牛王は、衆(おほ)くの眷屬と與(とも)に至り湊(あつ)まる所ありて、獨り其の前に在り。顏貌は姝好(しゆかう)にして、威神は巍々たり、名德は異(ほか)を超(ぬきん)でて、忍辱にして和雅、行止(たちゐ)は安詳(おちつき)たり」。]と、田邊中の藝妓どもが南方君を讃める樣に矢鱈に述べて有り、北凉譯大般涅槃經十二には、如轉輪王、主兵大臣、常在前導、王隨後行、亦如魚王蟻王䗍王牛王、商主在前行時如、是諸衆悉皆隨從、無捨離者、[やぶちゃん注:同前。「轉輪王の主兵・大臣、常に前導にあつて、王は後に隨ひて行くがごとく、亦、魚王・蟻王・䗍[やぶちゃん注:「螺」に同じ。]王・牛王、商主の前に在りて行く時のごとく、是くのごとく、諸衆、悉皆(ことごと)く隨從し、捨離する者なし。」。]と、吹く法螺から吼ゆる牛までもそれぞれ王有る由を說かれた。十誦律四十に、佛、芻摩國に在て五陰法を說いた時、諸比丘持鉢著露地、天魔變作大牛身、來向鉢、有一比丘、遙見牛來向鉢、語比座、比丘言。看此大牛來向我鉢、不破我鉢耶、佛語諸比丘、此非牛。是魔所作、欲壞汝等心、佛言、從今房舍中、應作安鉢處。[やぶちゃん注:同前。「諸比丘、鉢を持ちて露地に著(お)く。天魔、變じて、大牛の身と作(な)り、來たりて鉢に向かふ。一比丘有り、遙かに牛の來たりて鉢に向かふを見、比座(とな)れる比丘に語りて言(いは)く、『看よ、此の大牛、來たりて我が鉢に向かふ。我が鉢を破(わ)らずや。』と。佛、諸比丘に語りていはく、『此(こ)は牛にあらず。是(こ)は魔の作す所にして、汝等の心を壞(やぶ)らんと欲するなり。』と。佛、言く、『今より、房舍中に鉢を安(お)く處を作(な)すべし。』と」。]同律二一に佛在王舍城、是時諸鬪將婦、婿征行久、與非人通、是諸非人、形體不具。或象頭、馬頭、牛頭、獼猴頭、鹿頭、贅頭、平頭、頭七分現。生子亦如是、諸母愛故、養畜育長大、不能執作、驅棄諸子、詣天祠論議堂出家、舍是諸處、覓飮食遊行云々。[やぶちゃん注:同前。「佛、王舍城に在り。是の時、諸鬪將の婦、婿(をつと)の征行すること久しく、非人と通ず。この諸(もろもろ)の非人は、形體、不具にして、或いは象頭(ざうとう)・馬頭・牛頭・獼猴(びこう)[やぶちゃん注:猿。]頭・鹿頭・贅(ぜい)[やぶちゃん注:疣(いぼ)・瘤(こぶ)の意。]頭・平頭と、頭(かしら)七分(とほ)りに現ず。生まれし子も亦、是くのごとし。諸母の愛する故に、養ひ畜(か)ひて長大となりしも、執り作(あつか)ふこと、能はず、諸(これら)の子を驅棄(おひはら)ひて、天祠論議堂[やぶちゃん注:諸宗教の寺院の意であろう。]に詣(いた)りて出家せしめ、是れを諸處に舍(お)くに、飮食を覓(もと)めて遊行す。云々。」。]出征軍將の不在に其妻共が牛馬頭等の非人と通じて其樣な異體で遊び好きの子を生んだのだ。非人は英語アウト、キヤスト[やぶちゃん注:現代英語では、outcastであるから読点は不要。「社会からのけ者とされた人・見放された人」の意。所謂、「不可触賤民」。]の義で人類に齒(よはひ)せられぬ賤民で、人種も印度高等の人々と違ひ、頭が畜生諸種に似て居ただらう[やぶちゃん注:「をつただらう」。]。牛頭馬頭の鬼などいふも是等から出たらしい。佛在世既に天魔が大牛身を現じたと云ふから見ると、牛形の鬼類を信ずる事古く梵土に在つたので、それが佛敎に隨順せる者を牛王と云つたのだらう。今日も錫蘭(せいろん)では、牛群每に[やぶちゃん注:底本「牛群母に」。誤植と断じて訂した。「每(つね)に」と読む。選集はそうなっている。]一聖牛(ひじりのうし)有りて其繁榮を司どり、其角を羽束(はねたば)で飾り、又、小鈴を加ふる事有り。常に衆牛を牧場に導く。每朝牛舍を出る時、土人、聖牛に向かひ、必ず衆牛を監守し牸輩(めうしども)をして群に離れず最好(いとよ)き牧場に導いて乳汁多く生じしめ玉へと請ふ(Balfour, The Cyclopaedia of India, 1885, vol. i, p.512)。印度人が牛を最上の神獸として尊崇恭敬するは誰も知る所で、殊に之をシヴア大神の使い物とし、優待到らざる無き樣子と理由は A.de Gubenatis, ‘Zoological Mythology,1871, vol. i, pp. 1-89Dubois,  Hindu Manners, Customs and Ceremonies,1897, vol. ii, pp. 644-6  を見れば判る。既に之を神視するから、隨つて之を神同樣の役目に立つる事も多く、マヌの法典に牡牛を裁判の標識とし、諸神世間の法を濫す者をヴリシヤラ卽ち殺牡牛者と看做すと有り。今日もシヴァの騎る[やぶちゃん注:のる。]純白き[やぶちゃん注:「ましろき」。]牛(名はナンヂ)は裁判の標識と云ふ者有り(Balfour, vol. ii, p.1057)。予が曾て睹(み)た他人の地面を取り込む印度人を戒むる爲、其家内の婦女が牡牛に犯さるゝ所を彫つた石碑の事既に本誌に述べ置いた(鄕硏一卷六一四頁)。地面の境標を建る印度人の誓言には牛の生皮(なまがは)又は自分の忰を援(ひ)いて證とする。他に又、牛の尾を持て誓ふ事もある(Balfour, vol. iii, p.2)。シヴアは、卽ち佛經に所謂摩醯首羅(マヘスヴアラ)王、又、大自在天、又、大天で、佛敎諸他の敎に專奉する諸神を尊奉する所から、胎藏界曼荼羅にも入り、觀音廿八部衆中にも在れば、速疾立驗摩醯首羅天說阿尾奢法[やぶちゃん注:「そくしつりふけんまけしゆらてんせつあびしやほふ」。]などが一切經中にあり、爪哇[やぶちゃん注:「ジャワ」。]の佛迹は實に佛敎と大天敎[やぶちゃん注:部派仏教の一つである大衆部(だいしゅぶ)のことであろう。釈尊が没して百年後、摩訶提婆大天が出て、五事(最高の修行者たる阿羅漢も誘いによって不浄を漏らし、煩悩の汚れに染まらないものの、無知であり、ためらい疑うことがあり、悟ったことを自覚できない者があること、聖道は苦を叫ぶことによって生ずることなどを立項したもの)を提議し、これに賛同した比丘達が、従来の保守的な修行僧たちから分れて結成した部派(保守的な修行僧たちの部派を「上座部」と呼ぶ)。生死・涅槃は、結局のところ仮りの呼称であって、衆生の心性は、もともと清浄であるが、煩悩に穢されているという説を説いた。大乗仏教の萌芽をこの中に見ることが出来る。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。]の融和せしを示す。又佛敎にも印度敎[やぶちゃん注:ヒンドゥー教のことであろう。]にもある閻魔(ヤマ)王や、それから化成されたらしい瑜伽宗の大威德明王は、孰れも靑牛乃ち水牛に騎る。此二尊は屢ば西藏の佛畫に見るより推すと、衞藏圖識[やぶちゃん注:「ゑいざうずしき」。清の馬掲と盛縄祖が著わした地誌。二冊。序には一七九二年のクレジットがある。上冊では成都からチベットに至る道程が、下冊ではチベットの地誌が、地図や住民を描いた図とともに記されたもの。]に見えた牛魔王や吾邦の牛鬼の傳說は多少それに緣有るので無からう歟。日吉社神道祕密記[やぶちゃん注:安土桃山時代の天正一〇(一五八二)年に日吉大社の禰宜祝部行丸(はふりべゆきまる)が同社の伝承を纏めたもの。]に、一牛尊石〔八王子〕御殿之下牛尊石上ㇾ之と有つて、地圖に牛尊牽牛ナリ、寵御前[やぶちゃん注:不詳。]織女ナリと有るは牛王に關係無いが、序でに書き付けて置く。實は此解說は後日の附會で、其初は何尊かの使い物たる牛の像を石上に安じたのであらうと思ふ。西晉譯修行道地經六に、織女三星地獄に屬すと有れば、牽牛も閻魔の騎乘(のりもの)か。兎に角佛敎に混じて印度敎の事相も隨分多く本邦に傳はつたから、牛を裁判の標識として誓言の證據に立つる印度の風を傳へて、何尊かの使ひ物たる牛を牛王と稱し、其牛王の印を据ゑ若くは据ゑられたと信ずる物を、誓言にも引けば、門戶に貼つて辟邪の符[やぶちゃん注:「まもり」。]とも做(し)たのであらう。

 類聚名物考十三に垂加文集の跋より、御靈八所云々、當社者嘉(垂加の俗名嘉右衞門)之牛王神也と引けり。是は例の生土(うぶすな)を訛つて牛王と成つたといふ說に隨うたのか。又似た事ながら、誓文を書く時に牛王として名を援く[やぶちゃん注:「ひく」。]神と云ふ事か。

[やぶちゃん注:「Balfour, The Cyclopaedia of India, 1885, vol. i, p.512」エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)はスコットランドの外科医で東洋学者。インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した。彼はインドに関するCyclopaedia(百科全書)を出版し、その幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の原本のこちらの左ページ冒頭に当該内容が出る。

A.de Gubenatis, ‘Zoological Mythology,1871, vol. i, pp. 1-89本書電子化で複数回既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。残念ながら、「Internet archive」には第一巻がないので、確認出来なかった。

Dubois,  Hindu Manners, Customs and Ceremonies,1897, vol. ii, pp. 644-6 」作者はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)。「Internet archive」では後代の合巻しかないので、当該部を探すのは諦めた。

Balfour, vol. ii, p.1057同前でここの右ページ左部分の下方に出現する。

「予が曾て睹(み)た他人の地面を取り込む印度人を戒むる爲、其家内の婦女が牡牛に犯さるゝ所を彫つた石碑の事既に本誌に述べ置いた(鄕硏一卷六一四頁)」これは本書の後に載る「今昔物語の研究」の一節。短いので、そこだけ引く。但し、これはR指定だな。

   *

大英博物館宗敎部の祕所に、牡牛が裸女を犯す所を彫つた石碑が有つた。元と印度で田地の境界に立た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒だそうな。滅多に見せぬ物だが、予特許を得て、德川賴倫・前田正名・鎌田榮吉・野間口兼雄諸氏に見せた。十誦律六二に、佛比丘が、象・牛・馬・駱駝・驢・騾[やぶちゃん注:「らば」。]・猪・羊・犬・猿猴・麞[やぶちゃん注:「くじか」。]・鹿・鵝・雁・孔雀・鷄等に於る婬慾罪を判ち居る。西曆紀元頃「ヴァチア」梵士作色神經[やぶちゃん注:「カーマ・スートラ」のこと。](ラメインツス佛譯、一八九一年板、六七-八頁)に、根の大小に從ひ、男を兎・特[やぶちゃん注:「をうし」。]、駔[やぶちゃん注:「をうま」。]、女を麇・騲[やぶちゃん注:「めうま」。]・象と三等宛に別ち、交互配偶の優劣を論じ居るが、別に畜姦の事、見えず。本邦には上古、畜犯すを國津罪の一に算へ、今も外邦と同じく、頑疾の者、罕に[やぶちゃん注:「まれに」。]犬を犯す有るを聞けど、根岸鎭衞の「耳袋」初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる外に、大畜を犯せし者有るを聞かず、或書に人身御供に立たる素女[やぶちゃん注:「きむすめ」。]を、馬頭神、來り享[やぶちゃん注:「うけ」。]、終りて其女水に化せし由記したれど、其本據確かならず。但し、人が獸裝を成て姦を行ふ事は、羅馬のネロ帝を首め[やぶちゃん注:「はじめ」。]其例乏しからぬ(ヂユフワル卷二、頁三二二。十誦律卷五六。「ルヴユー・シアンチフヰク」一八八二年一月十四日號に載せたる「ラカツサニユ」動物罪惡論三八頁)。要するに、吾國に婦女が牛馬等と姦せし證左らしき者無ければ、偶ま夫の根、馬の大きさで常住せんことを願ひし話ありとも、本邦固有の者で無く、外より傳へたか、突然作り出したかだらう。   *

「牛の尾を持て誓ふ事もある(Balfour, vol. iii, p.2)」同前原本のこちらの左ページ中央やや下に出る。

「類聚名物考」江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻十三の「神祇部」の「御靈八所社」終りの方に出る。

「垂加文集」儒者で神道家として吉川神道を発展させた垂加神道を創始した山崎闇斎(元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年)の詩文集。]

2021/09/13

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)

 

[やぶちゃん注:本篇は、遠い昔、ネットを始めたばかりの二〇〇六年九月三日に平凡社「南方熊楠選集」を底本としてサイト版で電子化しているのだが、今回は全くの零から始めて、しかも詳注附きで改めて電子化に入る。長いので、幾つかの段落部分で分けて電子化注する。]

 

        牛王の名義と烏の俗信

 

       

 鄕土硏究に出た「守札考」の中に、淸原君は、牛王(ごわう)の名の起原を論じて「要するに牛王の符は、牛黃なる靈藥を密敎でその儀軌に收用し一種の加持を作成した事から起つた者であらう」と言はれた。乃ち舊說に牛王は牛玉で有て又牛黃牛寶とも稱し、牛膽の中から得る所の最も貴き藥である、之を印色として符の上に印するより牛王寶印と稱すと云ふに據つたものだ(鄕土硏究三卷四號一九七、一九九頁)。和漢三才圖會三七に、牛黃俗云宇之乃太末と有り、田邊附近下芳養(しもはや)村字ガケと云ふ部落の大將、予と年來相識の者の話に、牛の腹より極めて貴き黃色の物稀(まれ)に出で芬香比類無しゴーインと名くと云ふたのは牛王印の訛りだらう。東鑑に建保五年五月二十五日將軍實朝年來所持の牛玉を壽福寺の長老行勇律師に布施せし事を載す。格別上品で大きい牛黃だつた物か。又牛膽中より得る極て香しき牛黃の外に、韋皮(なめしがは)の樣な臭有る牛の毛玉(けだま)というものを膓から出す事有り。和漢三才圖會俗間有牛寶、形如玉石、外面有毛、蓋此如狗寶鮓荅之類、牛之病塊、與牛黃一類二種也、庸愚賣僧輩、爲靈物、或以重價索之、其惑甚哉と云へるは是だ。此邊で之を懷中すれば勝負事に運强いと云ふ。實朝が布施したのは此毛玉かとも思ふ。

[やぶちゃん注:『鄕土硏究に出た「守札考」』『郷土研究』に清原貞雄著「守札考(上)」(大正四(一九一五)年六月発行)及び同翌月号「守札考(下)」が載ることが国立国会図書館「レファレンス協同データベース」のこちらで確認出来た。「鄕土硏究三卷四號」とあるのは前者。

「牛王」清原氏の論文名から、ここは熊野神社・手向山八幡宮・京都八坂神社・高野山・東大寺・東寺・法隆寺などの諸社寺で出す厄難除けの護符「牛王(玉)宝印」(中世のものが「玉」が多い)のこと。図柄はそれぞれに異なるが、七十五羽の鴉を図案化した「熊野牛王」は有名(私は熊野三社総てのそれを書斎に配してある)。その裏は誓紙や起請文を書く際に神かけたものとするために用いた。

「和漢三才圖會三七に、牛黃俗云宇之乃太末」(うしのたま)「と有り」私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま) (ウシの結石など)」の原文・訓読及びオリジナル注を参照されたい。

「田邊附近下芳養(しもはや)村字ガケ」現在の和歌山県田辺市芳養町(はやちょう)のこの旧崖地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東鑑に建保五年五月二十五日將軍實朝年來所持の牛玉を壽福寺の長老行勇律師に布施せし事を載す」建保五(一二一七)年五月大の二十五日の条に、

   *

廿五日壬丑 於御持佛堂。被供養文殊像。導師壽福寺長老。而將軍以年來御所持牛玉爲御布施。廣元朝臣不可然之由。雖傾申。不能御許容云々。

(廿五日壬丑 御持佛堂に於いて、文殊像を供養せらる。導師は壽福寺長老[やぶちゃん注:退耕行勇。]。而うして、將軍、年來の御所持の牛玉(ぎうぎよく)を以つて御布施と爲すに、廣元朝臣、「然るべからざる」の由、傾(かたぶ)け申すと雖も、御許容に能はずと云々。)

   *

大江広元は畜生の体内から得た物を梵珠菩薩に供儀することを宜しくないと進言したのである。

「香しき」「かぐはしき」。

「和漢三才圖會俗間有牛寶……」先の私のリンク先を見られたいが、

   *

△按ずるに、俗間、牛寳(うしのたま)有り、形、玉石のごとく、外靣に毛あり。蓋し、此れ、狗寳(いぬのたま)[やぶちゃん注:「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)」を参照。]のごとくにして、「鮓荅(さとう)」の類ひなり。牛の病塊(びやうかい)たる牛黃とは、一類にして二種なり[やぶちゃん注:「別種のものである」の意。「牛黃」を特別視する習慣によるもの。]。傭愚(おろかもの)・賣僧(まいす)[やぶちゃん注:「まい」「す」ともに唐音。仏法を種に金品を不当に得る僧。禅宗から起こった語で、後に単に人を騙す者の意にも転じた。]の輩(やから)、靈物(れいもつ)と爲(な)し、或いは重き價(あたひ)を以つて之れを索(もと)む。其れ、惑(まどひ)の甚しきかな。

   *

で、寺島良安は効能を全く認めていないことが判る。なお、こうした「鮓荅(さとう)」(各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称したもの)については、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。]

 曾我物語卷七第八章、三井寺の智興大師重病の時、その弟子證空これに代り死なんとて晴明を請うて請じて祀り替へしむるところに、「晴明禮拜恭敬(らいはいくぎやう)して、云々、既に祭文に及びければ、牛王の渡(わた)ると見えて、種々のさんせん幣帛或は空に舞上がりて舞遊び、或は壇上を跳り廻る、繪像の大聖不動明王は利劒を振り給ひければ、其時晴明座を立て珠數を以て證空の頭を撫で、平等大慧一乘妙典と言ひければ、則ち上人の苦惱さめて證空に移りけり」と出づ。爰に牛王と云へるは牛黃では分らず、假令牛黃又牛王寶印とするも、文の前後より推すと牛黃又牛王寶印其物を指さずして其物の精靈乃ち牛黃神又牛王寶印神とも稱すべき者を意味し、修法成就の際右樣の神が渡り降る[やぶちゃん注:「くだる」。]と同時に供物が自ら動き出すこと、恰も今日の稻荷下げに彌よ神が降る時幣帛搖(ゆれ)廻る如くだつたのであらう。例せば、唐譯不空羂索神變眞言經に見えた藥精味神が、狀如天形、衆寶衣服備莊嚴、身手便執持俱延枝果、無垢藥精大毒威云々、力能人吸奪精氣。それを畏れずに、持眞言者が咒を誦し打ち伏せると藥精の身から甘露を出す。それを採つて眼と身に塗れば金色仙と成り得、又藥精の髮を取つて繩として腰に繫(かく)れば何處に行くも障礙無しと有り。芳賀博士も予も出處を見出だし得ぬが、今昔物語四に靂旦國王前に阿竭陀藥來る話あり(鄕硏究一卷六號三六四頁及九號五五二頁參照)。徒然草に大根が人と現じて人の急難を救ふ譚出で、歐州の曼陀羅花(マンドラゴラ)(A. de Gubernatis, “La Mythologie des Plantes,” 1882, tom. ii, p. 213 seqq.)、印度のツラシ草(同書同卷三六五頁)、チエロキー印甸人[やぶちゃん注:「インジアン」。インディアン。]の人參(Reports of the Bureau of American Ethnology, XIX, 425)等、何れも植物ながら人體に象れる根又全體を具し、靈妙の精神を有すと信ぜられ、それ程には無いが、熊野で疝氣等の妙藥と傳へらるゝ「つちあけび」(山の神の錫杖と方言で呼ぶ)も、之を見出だした卽時採らずに歸宅して復往くと隱れ去つて見えぬと言ふ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「曾我物語卷七第八章、三井寺の智興大師重病の時……」国立国会図書館デジタルコレクションの武笠三校訂「義経記・曽我物語」(昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊。貞享四(一六八七)年刊本が底本)で示すと、当該条は「八 泣不動(なきふどう)の事」であるが、前の「七 三井寺の智興大師の事」から読まないと判らない。軍記物によくある、ある事態やケースに対して同様の例を示すに、ずっと過去に遡った事例を引き合いに出して語るところの一種の「語りの脱線」的部分で、蘇我兄弟の仇討ちとは無関係である。この話は、「宝物集」(巻三)、「発心集」(巻六)、「義経記」(巻五)などにも見え、陰陽師のチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~ 寛弘二(一〇〇五)年)が登場するからか、かなりメジャーな話である。読んで戴ければ判るが、智興大師が重病に陥り、晴明を呼ぶが、助けるためには、身代わりとなる死者が必要と述べ、智興の弟子證空が名乗り出て、病いが證空に移るに(熊楠はここまでしか書いていない)、證空が持仏の不動尊に祈ったところ、絵像が血の涙を流して、「我、汝の身に代わらん。」と言い、智興も證空も無事であったという話である。

「智興大師」阿闍梨智興内供奉(ないぐぶ ?~安和三(九七〇)年)。平安初期の僧。「内供」は宮中の道場で天皇に奉仕して御斎会の読師や修法を勤めた僧職。

「さんせん」「散錢」であろう。私の所持する王堂本「曾我物語」では「きんせんさんぐ」で「金錢」(「さんぐ」は「散供」であろう)であるが、「散錢」でも問題ない。

「稻荷下げ」稲荷信仰の内でも民間の巫者は、稲荷神を守護神として祀り、「稲荷下げ」「稲荷降(おろ)し」と称される託宣を行うことが多い。

「不空羂索神變眞言經」不空羂索観音を説く経典。大小約六十種ほどの色々な儀軌から構成されており、「大日経」以前に成立したと推定されている初期密教経典で、七〇九年頃に菩提流志によって漢訳されたもの(こちらの木村秀明氏の論文「『不空羂索神変真言経』「護摩安穏品」所説の護摩儀軌」PDF・『印度學佛教學研究』平成一六(二〇〇四)年十二月)に拠った)。

「藥精味神」不詳。古代インドの薬を司る荒神か。

「狀如天形……」平凡社選集の訓読を参考(無批判には従わない)に読み下す。

狀(かたち)、天の形のごとく、衆寶の衣服、備(つぶ)さに莊嚴にして、身・手には便(すなは)ち、俱延枝果(ぐえんしくわ)を執り持ち、無垢なる藥精は大毒威ありて」云々、「力は能く人の精氣を吸ひ奪ふ」。

「金色仙」「こんしきせん」と読んでおく。道教の最上級の仙薬金丹を含んで不老不死の一切の傷を身に受けることのないフル・メタル。ジャケットみたような神仙となることか。

「芳賀博士」国文学者芳賀矢一(慶応三(一八六七)年~昭和二(一九二七)年)。越前国福井生まれ。父芳賀真咲も国学者であった。第一高等中学校から帝国大学文科大学を卒業。明治三一(一八九八)年に東京帝国大学助教授、翌年からドイツに留学し、文献学を学び、明治三四(一九〇一)年に帰国して東京帝国大学教授となった。二年後には文学博士を取得している。南方熊楠とは東京帝大予備門での同級生であり(熊楠は明治一八(一八八五)年十二月二九日に期末試験で代数一課目だけが合格点に達しなかったため、落第し、予備門を中退した)、「今昔物語集」の研究などで交流があった。

「今昔物語四に靂旦國王前に阿竭陀藥來る話あり」「今昔物語集」巻第四の「震旦國王前阿竭陀藥來語第三十二」(震旦(しんだん)の國王の前に阿竭陀藥(あかだやく)來たれる語(こと)第三十二)である(「新日本古典文学大系」版(第一巻・今野達校注・一九九九年)を参考に用い、漢字は正字化した。□は欠字)。

   *

 今は昔、震旦の□□代に國王、在(まし)ましけり。一人の皇子(わうじ)有り。形、端正にして、心□□也。然れば、□□□□父の王、此の皇子を悲しみ愛し給ふ事、限り無し。

 而るに、皇子、身に重き病ひを受けて、月來(つきごろ)經たるに、國王、此れを歎きて、天に仰ぎて、祈請し、藥を以つて療治すと云へども、煩ふ事、彌(いよい)よ增さりて、𡀍(い)ゆる事、無し。

 其の時に、大臣として、止む事無き醫師有り。而るに、國王、此の大臣と極めて、中、惡しくして、敵(かたき)の如し。然れば、此の皇子の病ひをも、此の大臣には、問はれず。

 然りと云へども、此の大臣、醫道に極めたるに依りて、國王、皇子の病い、問はむが爲に、年來(としごろ)の怨(あた)を思ひ、弱り給ひて、忽ちに大臣を召す。

 大臣、喜びを成して參りぬ。

 國王、大臣に出で會ひて、語りて宣はく、

「年來、互ひに怨を成して、親しまずと云へども、皇子、身に病ひを受けて煩ふに、諸(もろもろ)の醫師を召して、療治せしむるに、𡀍ゆる事、無し。然(さ)れば、年來の怨を忘れて、汝を呼ぶ。速かに、此の皇子の病ひを療治して𡀍(い)えしめよ。」

と。

 大臣、答へて云はく、

「實(まこと)に、年來、敕命を蒙(かうぶ)らず、暗夜(やみのよ)に向へるが如し。今、此の仰せを奉(うけたま)はる、夜の曉(あ)けたるが如し。然(さ)れば、速かに御子(みこ)の御病ひを見るべし。」

と云ふに隨ひて、大臣を呼び入れて、皇子の病ひを見しむ。

 大臣、皇子を見て云はく、

「速かに藥を以て療すべし。」

と云ひて、出でぬ。卽ち、藥を以つて、大臣、參りて云はく、

「此れを服(ぶく)せしめ給はば、御病ひ、卽ち、𡀍ゆべし。」

と。

 國王、此れを聞きて、喜び乍ら、此の藥を取りて、見て、宣はく、

「此の藥の名をば、何とか云ふ。」

と。早う、大臣の構へける樣(やう)[やぶちゃん注:事前に医師大臣が内心で企んで思ったことによれば。]、

『此れは、藥には非ずして、人、此れを服しつれば、忽ちに死ぬる毒を、「藥ぞ」と云ひて、此の次(つい)でに、年來の怨を酬いて、皇子を殺さむ。』

と思ひて、毒を持(も)て來たれるを、國王の、藥の名を問ひ給ふ時に、大臣、思ひ繚(あつか)ひて[やぶちゃん注:どきっとして、あれこれと思案に迷って。]、

『何が云はまし。』

と思ふに、只、何ともなく、

「此れなむ、『阿竭陀藥(あかだやく)』と申す。」

と。

 國王、「阿竭陀藥」と聞き給ひて、

「其の藥は、服する人、死ぬる事、無かんなり[やぶちゃん注:死ぬことはないそうだ。]。『皷に塗りて打つに、其の音を聞く人、皆、病ひを失ふ[やぶちゃん注:病が癒える。]事、疑ひ無し。』と聞く。況や、服せらむ人、何(な)どか病ひを𡀍ざらむ。」

と深く信じて、皇子に服せしめつ。

 其の後、皇子の病ひ、立ち所に𡀍ぬ。大臣は既に家に還りて、

『御子は、卽ち、死ぬらむ。』

と思ひ居たる間に、

「卽ち、𡀍ぬ。」

と聞きて、怪しび思ふ事、限り無し。

 國王は、大臣の德に依りて、皇子の病ひ𡀍ぬる事を、喜び思ひ給ふ。

 而る程に、日、晚(く)れぬ。夜に入りて、國王の居給へる傍らを、叩く者、有り。

 國王、怪しびで、

「何ぞの者の、かくは、叩くぞ。」

と問ひ給へば、

「阿竭陀藥の參れる也。」

と云ふ。

 國王、

『奇異也。』

と思ひ給ひ乍ら、叩く所を開(あ)けたれば、端正なる、若き男女(なんによ)、來たれり。

 國王の御前に居て、語りて云はく、

「我れは、此れ、阿竭陀藥也。今日、大臣の持て參りて服せしめつる藥は、極めたる毒也。服する人、忽ちに命を失ふ者也。大臣、御子を殺さむが爲に、毒を『藥ぞ。』と名付て、服せしめつるに、王の、『此の藥の名をば、何(いか)が云ふ。』と問はせ給つるに、大臣、申すべき方(はう)無きに依りて、只、心に非ず、『此れ、阿竭陀藥也。』と申しつるを、王、深く信じて、服せしめ給はむと爲(す)る程に、『阿竭陀藥ぞ。』と云ふ音(こゑ)の、髴(ほのか)に聞えつるに依りて、『然らば、阿竭陀藥を服する人は、忽ちに死ぬる也けりと知らしめされじ。』と思ふに依りて、我が、忽ちに來り、代はりて、服せられ奉る也。然れば、御病は立所に𡀍え給ひぬる也。此の事を申さむが爲に、我れ、來れる也。」

と云て、卽ち、失ぬ。

 國王、此の事を聞き給て、肝・心を碎くが如し。

 先づ大臣を召して、此の由を問はるるに、隱し得ずして顯れぬ。

 然(さ)れば、大臣の首を、斬られぬ。

 其の後(のち)、御子、身に病ひ無くして、久しく持(たも)ちけり。此れ、阿竭陀藥を服せるに依りて也。

 然れば、諸の事は、只、深く、信を成すべき也けり。信を成せるに依りて、病を𡀍やす事、此くの如くとなむ、語り傳へたるとや。

   *

「徒然草に大根が人と現じて人の急難を救ふ譚出で」同書第六十八段の大根好きの男の不思議な話。「怪談老の杖卷之一 杖の靈異」の私の注で電子化してあるので参照されたい。

「歐州の曼陀羅花(マンドラゴラ)」ナス目ナス科マンドラゴラ属 Mandragora の植物。マンドレイク(Mandrake)とも呼ぶ。別名その根は時に人形(ひとがた)を呈し、西洋の妖しげな呪術書によく出てくる。当該ウィキによれば、『古くから薬草として用いられたが、魔術や錬金術の原料として登場する。根茎が幾枝にも分かれ、個体によっては人型に似る。幻覚、幻聴を伴い』、『時には死に至る神経毒が根に含まれる』。『人のように動き、引き抜くと悲鳴を上げて』、その声を『まともに聞いた人間は発狂して死んでしまうという伝説がある。根茎の奇怪な形状と劇的な効能から、中世ヨーロッパを中心に、上記の伝説がつけ加えられ、魔術や錬金術を元にした作品中に、悲鳴を上げる植物としてしばしば登場する。絞首刑になった受刑者の男性が激痛から射精した精液から生まれたという伝承もあり』、『形状が男性器を彷彿とさせる』とも言う。『また』、『この植物のヘブライ語「ドゥダイーム」は、「女性からの愛」を指すヘブライ語「ドード」と関連すると考えられ』、『多産の象徴と見られた』。『南方熊楠は、周密などの書いた中国の文献に登場する「押不蘆」なる植物が、麻酔の効果らしき描写、犬によって抜くなどマンドレイクと類似している点、ペルシャ語ではマンドレイクを指して「ヤブルー」と言っている、また、パレスチナ辺で「ヤブローチャク」と言っている点から、これは恐らく宋代末期から漢代初期にかけての期間に、アラビア半島から伝播したマンドラゴラに関する記述であると指摘し』、『雑誌『ネイチャー』に、その自生地がメディナであると想定した文を発表し』ている。一方、『古代ギリシャでは「愛のリンゴ」と呼ばれ、ウェヌスへ捧げられ』、『また、ウェヌス神話における「黄金のリンゴ」がマンドレイクであるとする説もある』ともある。『マンドレイクは地中海地域から中国西部にかけてに自生する』『薬用としては』Mandragora officinarumMandragora autumnalis Mandragora caulescens の『三種が知られている。ともに根にヒヨスキアミン』(hyoscyamine)・『トロパンアルカロイド』(Tropane alkaloids)・『クスコヒグリン』(Cuscohygrine)『など数種のアルカロイドを含』み、『麻薬効果を持ち、古くは鎮痛薬、鎮静剤、瀉下薬(下剤・便秘薬)として使用されたが、毒性が強く、幻覚、幻聴、嘔吐、瞳孔拡大を伴い、場合によっては死に至るため』、『現在』じゃ『薬用にされることはほとんどない。複雑な根からは人型のようになるのもあり、非常に多く細かい根を張る事から』、『強引に抜く際には大変に力が必要で、根をちぎりながら抜くと』、実際に『かなりの音がする』とある。私はさんざん種々の本で読んできたので頗る既知である。より詳しくは、リンク先にまだ書かれているので読まれたい。

「A. de Gubernatis, “La Mythologie des Plantes,” 1882, tom. ii, p. 213 seqq.」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「植物の神話」。Internet archive」こちらで当該原文箇所が見られる。右ページ下方である。

「印度のツラシ草(同書同卷三六五頁)」同前のここ。右ページの中央附近に‘tulasi’という単語が盛んに見出される。これは「tulsi」とも綴り、そもそもがヒンディー語で「トゥルシー」、和名はカミメボウキ(神目箒)で、キク亜綱シソ目シソ科メボウキ属カミメボウキ Ocimum tenuiflorum 。アジア・オーストラリアの熱帯を原産とし、栽培品種や帰化植物として世界各地に広がった植物で、芳香を有する。英語では「ホーリーバジル」(holy basil:聖なるバジル)と呼ばれるようにバジルの一種。ヒンドゥー教では最も神聖な植物とされ、アーユルベーダの中心となる薬草で、古代から栽培されてきた。

「チエロキー印甸人の人參(Reports of the Bureau of American Ethnology, XIX, 425)」掲載誌はアメリカ合衆国スミソニアン研究所の『アメリカ民族学局紀要』のことと思われる。「Cherokee carrot」で検索してみたが、特殊な種なのかどうか、よく判らない。まあ、本邦産の人参も人形を呈することはままあることであり、ニンジンのそうしたものをチェロキー族が神聖なもの或いは呪的なものとして使用した可能性は大いにあろう。

「「つちあけび」(山の神の錫杖と方言で呼ぶ)」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科ツチアケビ属ツチアケビ Cyrtosia septentrionalis 。土木通。かなり強烈な赤い実(茎ともに)を熟す(私は見たことがない。人気のない山中でこれを見たら、ちょっと慄っとすると思う)。当該ウィキによれば、『森林内に生育するラン科』Orchidaceae『植物である』が、同科の植物としても、『腐生植物(菌従属栄養植物)としても』、『非常に草たけが高く、大きく赤い果実がつくことから』、『人目を引く。日本固有種。別名はヤマシャクジョウ(山錫杖)等』。なお、双子葉植物綱キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata とは何の関係もない植物である。『地上部には葉などは無く、地面から鮮やかな黄色の花茎が伸び、高さは』一『メートルに達する。秋になると』、『花茎の上部に果実がつき、熟すると長さが』十『センチメートルにもなり、茎を含めて全体が真っ赤になる』。纏まって『発生することがよくある』。『和名は地面から生えるアケビの意であると考えられるが、果実は熟しても裂開せず、形状以外は』、『さほど似ない。果実には糖分が含まれ』、『人間にも微かな甘味は感じられるが、タンニンが多量に含まれ、化学薬品のような強烈な異臭と苦味もあり、食用にはならない。民間では「土通草(どつうそう)」と呼ばれ、強壮・強精薬とされる。薬用酒の材料に用いられるが、薬用効果についての正式な報告はほとんどない。採集すると』、『時間の経過とともに黒変する。種子はラン科としては比較的大きく、肉眼で形状がわかる』。『光合成を行う葉を持たず、養分のすべてを共生菌に依存している』。茸のナラタケ(楢茸:菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ 亜種ナラタケ Armillaria mellea subsp. Nipponica )『とラン菌根を形成し、栄養的に寄生している。地下には太い地下茎があって、長く横に這う。地下茎には鱗片状の葉(鱗片葉)がついている』。『初夏に花茎を地上に伸ばす。花茎は高さが』五十センチメートルから一メートルに『達し、全体が黄色または濃いピンク色で、鱗片葉はほとんどみられない。あちこちに枝を出して複総状花序となり、枝の先端に花を咲かせる。花は』三『センチメートル近くになり、全体にクリーム色で肉厚である』。『果実は秋に成熟する。果実は楕円形、多肉質で、熟するにつれて重く垂れ下がり、多数のウインナーソーセージをぶら下げたような姿になる。果実は肉質の液果である。その点でバニラ』(ラン科バニラ属バニラ Vanilla planifolia )『などと共通しており、これらはやや近縁とも言われる』。『腐生ラン類は非常に生育環境が限定されるものが多いが、ツチアケビは森林内であれば比較的どこにでも出現し、スギやヒノキの人工林等でも見かけることがある』。『通常、ラン科植物は埃種子と呼ばれる非常に微小な種子を大量に風に乗せる種子散布を行っているが』、二〇一五『年の京都大学の研究により』、『ヒヨドリなどの鳥によるツチアケビの種子散布が明らかになった。これは世界で初めてのラン科植物における動物による種子散布の報告である』とある。]

2021/07/28

「南方隨筆」版「詛言に就て」(全オリジナル電子化注附き・PDF縦書版・2.02MB・26頁)一括版公開

昨日、分割終了した「南方隨筆」の「詛言に就て」の一括版(全オリジナル電子化注附き・PDF縦書版・2.02MB・26頁)をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

2021/07/27

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8) / 「詛言に就て」~了

 

 グリンムの獨逸童話篇に父が水汲みに往つた子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛び去つたと有り。Kirby, ‘The Hero of Esthonia,’ 1895, vol.ii, p. 45  seqq. に、エストニアの勇士カレヴヰデ醉て鍛工の子を殺し、鍛工恨んで前刻カレヴヰデに與へた名刀を援(ひい)て彼を詛ふと、後年果して其刀に兩膝以下を截られて此の世を去つたと出づ。羅馬法皇ジヤン廿一世の時、サキソン國の不信心の輩、一法師の持る尊像を禮せず。法師之を詛ひしより彼輩一年の間踊りて少しも輟得なんだ[やぶちゃん注:「やめえなんだ」。](Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879, tom. ii, p. 79)。北ウエールスのデムビシヤヤーのエリアン尊者の井近く尼樣の女住む。人を詛わんと欲する者少しの金を捧げると、其女被詛者の名を簿に注し、其名を呼乍ら留針一本井に落すと詛ひが利(きい)た。(Gomme, ‘Ethnologiy in Folklore,’ 1892, p. 87)。リグヴヱダには梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛ふべしと有り、ラーマーヤナムには、梵授王肉と魚を瞿曇仙人[やぶちゃん注:「くどんせんにん」。]に捧げ、仙人瞋つて王を詛ひ鵰(ヴルチユール)と化す譚有り、以上の諸例を稽へて[やぶちゃん注:「かんがえへて」。]、昔重大だつた呪詛術が今日輕々しく發する詛言と成たと知るべし。

  (大正四年四月、人類第三〇卷)  

[やぶちゃん注:「グリンムの獨逸童話篇に父が水汲みに往つた子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛び去つたと有り」「七羽のカラス」。多言語の対訳が載る「グリム童話」の卓抜なサイト「grimmstories.com」のこちらで読める。

「Kirby, ‘The Hero of Esthonia,’ 1895」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の同年出版の著作。「エストニア」はバルト三国では最も北にある現在のエストニア共和国(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人などとの混血の過程を経て』、十『世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった』。十三『世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し』、『海上交易で栄えた』。但し、『その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた』とある。一九〇五年版の原本をざっと見たが、どうも見当たらない。但し、以上の話に出るは、エストニアの巨人の英雄カルヴィデ(英語:Kalevide)である。英文ウィキの彼の「Kalevipoeg」を見ると、その「Synopsis」の条に、

   *

   Kalevipoeg travels to Finland in search of his kidnapped mother. During his travel he purchases a sword but kills the blacksmith's eldest son in an argument. The blacksmith places a curse on the sword and is thrown in the river. On returning to Estonia Kalevipoeg becomes king after defeating his brothers in a stone hurling competition. He constructs towns and forts and tills the land in Estonia. Kalevipoeg then journeys to the ends of the earth to expand his knowledge. He defeats Satan in a trial of strength and rescues three maidens from hell. War breaks out and destruction visits Estonia. Kalevipoeg's faithful comrades are killed, after which he hands the kingship to his brother Olev and withdraws to the forest, depressed. Crossing a river, the sword cursed by the Blacksmith and previously thrown in the river attacks and cuts off his legs. Kalevipoeg dies and goes to heaven. Taara, in consultation with the other gods, reanimates Kalevipoeg, places his legless body on a white steed, and sends him down to the gates of hell where he is ordered to strike the rock with his fist, thus entrapping it in the rock. So Kalevipoeg remains to guard the gates of hell.

   *

とあって、ここに記した話は含まれており、死んだ後に、神々によって蘇生させられ、足のない体を白い馬に乗せて、「地獄の門」に送られ、岩に閉じ込められたまま、今も彼はは「地獄の門」を守っている、とある。

「羅馬法皇ジヤン廿一世の時」「廿一世」を称するローマ教皇はヨハネスXXI世(Ioannes XXI 一二一五年~一二七七年:本名はペドロ・ジュリアォン(Pedro Julião))しかいない。しかも彼の教皇在位は一二七六年ペドロ九月十三日から亡くなった一二七七年五月二十日で、僅か八ヶ月であった。当該ウィキによれば、彼は『ヴィテルボにある別荘に新たな翼を付けさせた』が、『それは手抜き工事で』あっため、『彼が就寝していると』、『屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から』八『日後』『に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は』彼が『唯一』人『である』とあり、さらに『死後、「ヨハネス」XXI『世は魔法使いであったのだ」と噂が広まった』とある。また、『ダンテ・アリギエーリは』「神曲」の『中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空で』彼と『面会した話を書い』ているとある。まあ、ここでは彼が主人公なわけではないが。

「サキソン國」グレートブリテン島にあったサクソン人の王国群。

「Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879」アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:パリ生まれの古典学者・印刷業者。ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス(Henricus Stephanus)としても知られる。一五七八年に彼が出版した「プラトン全集」は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている。以上は当該ウィキに拠った)の「ヘロドトスの謝罪」。当該書の当該部はここだが、そんなことは書いてないように思われる。ページ数が違うか。

「北ウエールスのデムビシヤヤー」現在、ウェールズ北東部にデンビーシャー(英語:Denbighshire)州があるが、旧デンビーシャー地区の境界域とはかなり異なっている。

「エリアン尊者」不詳。

「Gomme, ‘Ethnologiy in Folklore,’ 1892」イギリスの民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の「民間伝承の民族学」。

「リグヴヱダ」「リグ・ヴェーダ」(英語:Rigveda)は古代インドの聖典であるヴェーダの一つ。サンスクリットの古形であるヴェーダ語で書かれている。全十巻で千二十八篇の讃歌(内十一篇は補遺)から成る。

「梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛ふべしと有り」フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群、或いは種としてフクロウ属フクロウ Strix uralensis がいる。まず、「ミネルヴァのフクロウ」のように総体が智や学問の象徴とされても、その鳴き声自体は汎世界的に不吉なものとされることが多いから、腑に落ちる。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を見られたい。

「ラーマーヤナム」「ラーマーヤナ」。「ラーマ王の物語」の意。インドの大叙事詩。全七編、二万四千頌(しょう)の詩句から成る。詩人バールミキの作。成立は二世紀末とされる。英雄ラーマが猿の勇士ハヌマンらと協力して魔王ラーバナと戦い、誘拐された妻シータを取り戻す物語。

「梵授王」梵天王(ブラフマー)から王位を正当に授かった国の王の意であろう。

「瞿曇仙人」「瞿曇」は釈迦の出家する前の本姓として知られるが、ここは同じ名で別人(「ゴータマ」の漢音写。サンスクリット語で「最上の牛」の意)。古いインドに於いて暦法を考えた人とされる。但し、完訳本を所持しないので、本シークエンスが「ラーマーヤナ」どこに書かれているのかは知らない。ウィキのラーマーヤナ」や、「ラーマーヤナの登場人物一覧」などを見、梗概を日本語訳した本もざっと見たが、判らない。悪しからず。

「鵰(ヴルチユール)」この漢字(音「チョウ」)は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae の鳥の中でも大形の個体や種群を指す漢字である。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」を参照されたい。私は熊楠がこの漢字に何故このルビを附したのかよく判らないが、この「ヴルチユール」は直ちに「ヴァルキューレ」(ドイツ語:Walküre)或いは「ヴァルキュリャ」(古ノルド語:valkyrja:「戦死者を選ぶも者」の意)を想起させ、北欧神話に於いて、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のそれ(この部分はウィキの「ワルキューレ」に拠った)を音写したものかと思う。但し、ドイツ語の Walküre には上記の意味だけで、いかにもかと思った「鷲」などの転訛した意味はない。なお本邦では「地獄の黙示録」以降、「ワルキューレ」の読みが跋扈しているが、ドイツ語では決してこうは発音しないそうである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (7)

 

 東歐州に有りと信ぜらるゝ吸血鬼(ヴアムパヤー)は、父母又は僧に詛言されし者死して成る所と云ふ(エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁)從つて葬式の誄(ダーヂ)に、子が母に詛はれて死ぬ所を悲しく作つたのも有る。マセドニアの妖巫は、印度のと同じく人を詛ふ時其人の後[やぶちゃん注:「うしろ」。]に灰を撒く又詛害を除く水を調へ之を詛ふた者に飮せ若くは其戶前に注ぐべしといふ。曾てサロニカの大僧正、怒つて一人を詛ひ、地汝を容れざれというた。此大僧正、後年基督敎を退き回敎に歸し其僧主となつた。以前詛はれた者死し三年經つて其墓を開くに尸壞れず。又埋めて三年して掘り見るに依然たり。死人の後家彼僧主を賴み僧主官許を得て、今は回敎僧だが昔取つた杵柄(きねづか)と丹誠を凝し、上帝に祈る事僅かに數分、爾時[やぶちゃん注:「じじ」。その時。]尸肉忽ち落ち失せ白骨のみ存(のこ)つた。又十五世紀にコンスタンチノプルの最初サルタン珍事を好む。基督敎の大僧正に詛はれた者は、地も其尸を壞らず[やぶちゃん注:「やぶらず」。]。數千年經るも太皷の如く膨れ色黑くて存するが、詛ひ一たび取り消ゆれば尸忽壞るを聞き、コ府の門跡をして實試せしむ。門跡衆僧と審議して漸く一人を得た。其は或僧の妻、妖麗他に優れ淫縱度無かつたので、門跡之を叱ると、汝も亦我と歡樂したでは無いかと反詰したので世評區々と起り、門跡大に困つて、止むを得ず大會式の場で其女を宗門放逐に處すと宣言した。頓て其女死して多年埋もれ居る故、恰好の試驗材料と云ふ事で掘出して見れば、髮落ちず肉骨と離れず今死たるが如し。之を聞てサルタン人を使はし見せしむるに報告に違はず。一先づ堂圓に封じ置き、定日サルタンの使到つて之を開き、門跡特に追善して赦罪の詞を讀むと尸の手脚の關節碎け始めた。再び封じ置きて三日歷て開いて見ると尸全く解けて埃塵のみ殘つちよつたので、サルタン流石に基督敎の眞の道たるに敬伏したさうぢや(G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903,pp. 195, 211, 212, 226)。古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず。黃色の油の如き水のみ漏出で、底に頭骨一寸許り殘る「好色の道罪深きことなれば跡迄も斯ぞ有ける。其女の母をも同時改葬しけるに、遙に先だち死たる者なれども其の體變らで續き乍らに有ける。」基督敎と反對に吾が佛敎では罪深い者の尸は葬後早く消失するとしたらしい。

[やぶちゃん注:「エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁」Internet archiveの原本のここの左ページ右の「VAMPIRE」の項の、そこの中央附近に、

The persons who turn vampires are generally wizards, witches, suicides and those who have come to a violent end or have been cursed by their parents or by the church.

という一文があり、引用で私が太字部にした部分が南方熊楠の言っている部分である。

「誄(ダーヂ)」「誄」(音「ルイ」)は「偲(しの)び言(ごと)」の意で、本邦で古くに「しのひこと」と訓じ、「死者を慕い、その霊にむかって生前の功徳などを述べる言葉・死者に対する哀悼の辞」を言う。「ダーヂ」は英語で、dirge。「葬送歌・哀歌・悲歌」の意。

「マセドニア」(英語:Macedonia)はバルカン半島中央部に当たる歴史的・地理的な地域でアレクサンドロス大王が君臨したマケドニア王国が知られる。ギリシャ人が多く住んでいた。

「サロニカ」ギリシャのエーゲ海サロニコス湾に浮かぶ諸島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淫縱度無かつた」「度無かつた」は「どなかった」と読むか。淫(みだ)らなる振舞いを、程度というものを知ることことなく、続けた、と言う意ではあろう。

「G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903」Internet archiveで原本を見ることができ、195」はここで、211」はここ212」はここ、最後の226」はここである。但し、ここで熊楠が述べている部分は「211」から「212」「213」(ここは見開き)にかけての部分である。

「古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず……」以下の「慶澄注記の伯母、好色によりて、死後、黃水(わうすい)となる事」。

   *

 山[やぶちゃん注:延暦寺。]に慶澄注記といふ僧ありけり。件(くだん)の僧が伯母にて侍りける女は、心すきずきしくて、好色甚だしかりけり。年比(としごろ)の男にも、少しも、うちとけたる形を見せず、事におきて[やぶちゃん注:何かにつけて常に。]、色深く情けありければ、心を動かす人多かりけり。

 病ひを受けて、命、終りける時、念佛を勸めけれども、申すに及ばず、枕なる棹(さを)[やぶちゃん注:竹製の衣紋懸け。]にかけたる物を取らんとするさまにて、手をあばきけるが、やがて、息絕えにけり。法性寺(ほふしやうじ)邊に土葬にしてけり。

 その後、二十餘年を經て、建長五年[やぶちゃん注:一二五三年。]の比、改葬せんとて、墓を掘りたりけるに、すべて、物、なし。

 なほ深く掘るに、黃色なる水の、油のごとくにきらめきたるぞ、涌き出でける。汲みほせども、干(ひ)ざりけり。その油の水を、五尺ばかり掘りたるに、なほ、物、なし。

 底に棺(ひつぎ)やらんと覺ゆる物、鋤(すき)に當たりければ、掘り出ださんとすれども、いかにもかなはざりければ、そのあたりを、手をいれて探るに、頭(かうべ)の骨、わづかに一寸ばかり、割れ殘りてありけり。

 好色の道、罪深きことなれば、跡までも、かくぞ、ありける。

 その女の母をも、同じ時、改葬しけるに、遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者なれども、その體、變らで、つづきながらぞ、ありける。

   *

「慶澄注記」人物は不詳。「注記」は延暦寺の六月会などに行われる豎義(じゅぎ:論議による学僧の資格試験)の際に筆記役を勤める僧を指す。さて、この話、最後の部分で何となく変な感じがあるのに気づく。「遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者」が、慶澄の母であるその女の母で、慶澄の伯母の母というのでは、何となく「ややこしや」で、違和感を感じるのである。だいたいが、改葬しているからには、親と慶澄の兄弟姉妹などの親族だけを分骨したと考えるべきであるからである。そこに伯母を入れ、さらにその伯母の母まで納めるというのは変だからである。ところが、本文及び注を参考にした「新潮日本古典集成」(昭和五八(一九八三)年刊)を見ると、実は別伝本では、最初の『件の僧の伯母』は『件の僧の伯女』となっており、この「伯女」とは慶澄の年上の姉と読めるのである。同書でも、『改葬を行った人物を慶澄と考えると、自分の長姉と』実『母との改葬をしたとみるのが自然なので』、冒頭の『「伯母」は「伯女」とあるべきかとも思われる』とあるのである。私もそれに無条件で賛同するものである。

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (6)

 

 南洋ヂユーク、オヴ、ヨーク島の人は、邪視(イヴルアイ)を怕れぬが、詛言は被詛者に禍ひすと信じ、多くのサモア島人は、今も詛言を懼れ、屢ば重病を受く。因て一人他人を犯し續いて數兒を亡なふ時は必定かの者に詛はれたと察し、其人に聞合せ、果して然らば其詛を取消下されと哀願す。彼輩は其所有の樹園で果蔬を盜む者を捕ふるも怒らず「お前はよい事をした。たんとお持ち下さい」と挨拶す。然るに、自分の不在中に盜まるゝと、大に瞋つて樹一本切り又椰子一顆打破る。是は盜人を詛ふのだといふ(George Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264)。中央メラネシアの或島民は、人殺しに往く前に自分の守護鬼の名を援(ひい)て敵手を詛ふ。ヂユーク、オヴ、ヨーク島で、有力家を葬るに、覡師[やぶちゃん注:「げきし」。呪術師。シャーマン。]來たつて樹葉に唾吐き、數多の毒物と俱に墓穴に投じ、死人を詛殺せし者を高聲に詛ひ、一たび去つて浴し返つて復た詛ふ。彼者從ひ[やぶちゃん注:「たとひ」。]第一詛を受ずとも、第二詛必ずよく彼を殺すと信じ、老覡敵を詛ふに其の父や伯叔父や兄弟の魂を喚び、敵の眼耳口を塞いで、庚申さんの猿其儘、見も聞きも叫びも出來ざらしめて、容易く[やぶちゃん注:「たやすく」。]詛はれ死なしむ(Frazer, ‘The Belief in Inmorality,’ 1913,vol.i, pp. 370, 403-404.)

[やぶちゃん注:「ヂユーク、オヴ、ヨーク島」パプア・ニュー・ギニアの東北海上にあるデューク・オブ・ヨーク諸島(Duke of York Islands)。ここ(グーグル・マップ・データ)。北西のビスマルク海を囲む形のビスマルク諸島の内、ニュー・ブリテン島とニュー・アイルランド島の間、南東のソロモン海との海峡に浮かぶ島嶼である。

「邪視(イヴルアイ)」南方熊楠 小兒と魔除 (1)」で既出既注。そこの『「視害(ナザル)」(しがい)「邪視(Evil Eye)」(じやし(じゃし))』の私の注を参照。

「サモア」ここ(グーグル・マップ・データ)。島嶼に居住する人々は総てポリネシア系人種。

「George Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264」ジョージ・ブラウン(一八三五年~一九一七年)はイギリスのメソジストの宣教師にして民族学者。若い頃は医師の助手などをしていたが、一八五五年三月にニュージーランドに移住し、説教者となり、一八五九年にフィジーへ宣教師として渡り、翌年、シドニーからサモアに向かった。一八六〇年十月三十日に到着してより一八七四年までサモアに住んだ(主にサバイイ島に居住)。布教の傍ら、サモアの言語・文化を学び、シドニーに戻り、その集大成として、後にメラネシア人とポリネシア人の生活史の概説と比較を試みたものが本書であった(英文の当該ウィキに拠った)。Internet archiveで同原本が読め、ページ240はここで、248」はここで、264」ここ

「中央メラネシア」メラネシア(Melanesia)は、オセアニアの海洋部の分類の一つで、概ね、赤道以南、東経一八〇度以西にある島々の総称。オーストラリア大陸より北及び北東に位置する島嶼群が含まれる(ギリシャ語で「メラス」(黒い)+「ネソス」(島)で、「肌の黒い人々が住む島々」の意)。西はニュー・ギニア、東はフィジー及びニュー・カレドニアまで。ミクロネシアの南、ポリネシアの西南方に当たる。

「庚申さんの猿」所謂、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿信仰。これは元々は庚申信仰とは無縁で、私は、庚申信仰が「塞の神」・「道祖神」・「青面金剛」などを習合する内に、「猿田彦」も混淆し、その「猿」からこれが芋蔓式に入り込んだものと考えている。

「Frazer, ‘The Belief in Inmorality,’ 1913」ご存知「金枝篇」の著者ジェームズ・フレイザーの著作「背徳の信念」。Internet archiveで原本が読め、370」はここで、403」はここ。死者の親族の霊をも援軍とするところがなかなかに面白い。]

2021/07/26

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (5)

 

 印度のトダ人水牛の牧場を移す式に司僧(パロール)の助手童(カルトモク)を詛ひ次に忽其詛を除く事有り。一寸爰に述べ得ぬから、Rivers, ‘The Todas,’ 1906, p. 140 に就いて讀め。同書一九四―六頁に、クヲテンの妻パールデンと通じ夫を愛せぬ故、クヲテン怒つて奸夫を殺さんとて逐ひ廻るを見て、クヲテンの母パールデン荊棘に鈎けられて留まれと詛ふと、果たして棘に留められたところをクヲテンが殺した。パールデンと同村の住民クヲテンを懼れ、皆立退き老夫婦一對のみ殘る。クヲテン襲ひ來るを見て詛ふと、クヲテンは蜂に螫殺され、其從類は石と成たと有る。スマトラのバツタス族は、子を生まぬのは他人に詛はれた故と信じ、所謂詛ひを飛去しむる式を行ふ。先づ子無き女「ばつた」三疋牛頭と水牛頭と馬頭に見ゆるものを神として牲を献じ、扨燕一羽を放つと同時に、詛ひが其燕に移つて鳥と共に飛去しめよと祈るのだ。(Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol. ii, p. 150)

[やぶちゃん注:底本では、ここでは、改行が施されてある。

「トダ人」Toda。トダ族。インド南西部カルナータカ州のマイアル川とバワニ川に挟まれたニルギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に住む少数民族。ドラビダ語系の言語を話すが、形質的には北方インド系で、皮膚は暗褐色、背が高く、がっしりしている。水牛と牛の放牧をして、粗放な酪農を行う。文化的にはきわめて保守的で、周辺民族と往来しながらも、同化されず、古来の習俗を保っている。彼らの社会は二つの内婚的集団から成り、各々が幾つかの外婚的父系氏族に分れる。幼児結婚が普通であり、一妻多夫婚がみられ、数人の男性、普通は兄弟が一人の妻を共有する。妻が妊娠すると、夫たちの一人が彼女に玩具の弓と矢を贈る。これが生れてくる子の父親の公示である。宗教は、水牛酪農の行事を中心とする特殊な儀礼を持っている。古くはイラン高原付近に居住したが、インド北部を経て、現住地へ移入してきたという説もある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。一時は人口が数百人に減少したが、文化政策で、現在は千七百人ほどに増加した。

「司僧(パロール)」原文 oalol (斜体表示)。

「助手童(カルトモク)」原文 kaltmokh (同前)。

「Rivers, ‘The Todas,’ 1906」イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで原本が読め、ここが「140」ページで、呪いの話は「143」まで続いている。しかし、当該原文を読んでも、原著者自身がこの呪詛をかけて、指定された小屋に禁足され、而してそれを解く理由は十全には理解されていないように読め、すぐ南方熊楠が具体に示すのを略したのはそのためかと思われる。私は一種の、古いこの地の生贄の習慣の名残、或いは、精霊を確かに呼び出すための方便(依代としてのそれ。助手の童子カルトモクというのはまさに親和性の強さを感じる)としての呪いのようには思われる。

「同書一九四―六頁」ここから。詛言部分の事実は眉唾だが、これはトダ族の一妻多夫制の中で生じる、男の嫉妬による「ペイバック」的な、半意識的な母子による殺人としての現実的興味の方にそそられるものが、私にはある。

「スマトラのバツタス族」現在の表記はBatak で、バタック族。但し、引用元のフレーザーの「金枝篇」では、Battasと綴ってある。インドネシアのスマトラ島北部のトバ湖周辺の高地に住むプロト・マレー系先住民。人口約 三百十万と推定される。バタック語はオーストロネシア語族の西インドネシア語派に属する。水稲・陸稲・ヤムイモ・サツマイモなどを作る農耕民で、水牛・牛・馬も飼育し、また、湖で漁労にも従事する。十九世紀までは比較的孤立していたが、まず、イスラム教が、次いでキリスト教が伝えられた。しかし、古くからインド文化の影響を受けてきたことは明らかである。バタック族は、現在、幾つかの下位集団(トバ・アンコラ・カロ・マンダイリン・パクパク・シマルングンなど)に分れており、アンコラ・マンダイリン・シマルングンにはイスラム教が普及しているが、トバ・カロ・パクパクでは十九世紀以降、キリスト教が信仰されてきている。以前は、トバの村は一つの外婚制父系親族集団から成立していた。母の兄弟の娘との婚姻が優先され、妻与者側と妻受者側の各リニージ(lineage:出自集団の一種で、成員間の系譜関係が相互に明確な場合のみを言う語)間に贈り物と祭宴が交換される。このような親族体系は、二元的世界観と結びついており、相続は父から息子になされ、長子と末子が優先される。祖先崇拝も行われ、女のシャーマンや男の呪医・祭司がいる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「スマトラのバツタス族は、子を生まぬのは他人に詛はれた故と信じ……」南方熊楠の示す当該年の「金枝篇」第二巻の同年版原本がInternet archiveで見つからないため、所持する岩波文庫の一九六七年改版の永橋卓介訳「金枝篇」の第四冊目から引用する。

   《引用開始》

 スマトラのバタク族は、「飛び去らせる呪詛」という一つの儀式を行なう。女に子が生まれない場合には、牛の頭、水牛の頭、馬の頭になぞらえて、三匹のキリギリスを供犠して[やぶちゃん注:形態相似の類感呪術であるとともに貴重な家畜を代替する意味があろう。]神々に供える。それから呪詛が島の上に落ちて一緒に飛び去るようにという祈禱と共に、一羽の燕を放してやるのである。ふつう人間の住まいに入って来てすまうことを求めない動物が、家の中へ入って来ることは凶兆だとマレー人は考えている。野鳥が人家へ飛びこんで来た時には、ていねいにそれを捕えて油を塗ってやり、ある言葉を繰り返しながら空へ放ってやらねばならぬとされているが、繰り返される言葉の中で家主の一切の不運と災厄を負うて飛び去れと命じるのである。古代ギリシアでも、女たちは家の中で捕えた燕を同様に取り扱ったらしい。すなわちそれに油を灌いで飛ばせてやるのであったが、明らかにその家庭から不幸を取り去るのが目的であった。カルパチアのフズル人[やぶちゃん注:ヨーロッパ東部のチェコ東端及びスロバキア北部から弧状に湾曲して、ルーマニア中部に至るカルパチア山脈に住む一族らしい。]は、湧き水で顔を洗いながら、「燕よ、燕よ。私のソバカスをとって健康な色の頰にしておくれ」と言えば、その春になって見る最初の燕にソバカスを移すことが出米ると信じている。

   《引用終了》]

2021/07/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (4)

 

 是ら何れも現存の人や物を詛ふのだが、回敎には死んだ人を詛ふのが有る。波斯(ペルシア)人は、每歲マホメツトの外孫フツサインが殺された當日追弔大會を修する前夜、彼を殺したオマー等の像を廣場で燒きながら、詛言を吐く(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 556) 蓋し回敎にシアとスンニの二大派有て、波斯等のシア派徒はアリと其子フツサインを正統の回主とするに、土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]阿非利加等のスンニ派徒はアリ父子の敵だつたオマー等を奉崇す、因て波斯人はオマーを、土耳其人はアリ父子を魔の如く忌み、波斯人惡人を訕る[やぶちゃん注:「そしる」。]に彼はオマーだ抔と言ひ、祈禱の終りに必ずオマーを詛ひ、オマーを一口詛ふは徹夜の誦經に勝るとし、スンニ派よりシア派に改宗する者に、アリの敵アブベツクルとオスマンとオマー三人を詛はしむ(Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811, tom. Ix, p.36)

[やぶちゃん注:「‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843」ローマの貴族で作家・音楽家にして旅行家であったピエトロ・デッラ・ヴァッレ(Pietro Della Valle 一五八六年~一六五二年)の旅行記。Internet archiveのイタリア語原本のこちらが指示ページであるが、どうもここに書かれた内容はそこにはない。ページが違うようである。幾つかの固有名詞で調べてみたが、よく判らない。なお、リンク先のタイトル、

‘Viaggi di Pietro della Valle, il pellegrino : descritti da lui medesimo in lettere familiari all'erudito suo amico Mario Schipano, divisi in tre parti cioè : La Truchia, La Persia, e l'India, colla vita dell'autore’

を機械翻訳を参考にすると、

「巡礼者ピエトロ・デッラ・ヴァッレの旅――学者にして親しい友人であったマリオ・スキパノに宛てた書簡で、著者の生涯とともに、トルキア・ペルシャ・インドの三部に分かれる。」

といった意味らしい。

「マホメツトの外孫フツサインが殺された」六八〇年十月十日に発生した、ウマイヤ朝軍のシーア派討伐「カルバラーの戦い」のこと。ウマイヤ朝カリフ(預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体・国家の指導者にして最高権威者の称号)・ヤズィードの派遣した軍勢と宗祖預言者ムハンマドの外孫フサイン・イブン・アリーの軍勢との戦いで、フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(六二六年~六八〇年:父はムハンマドの従兄弟で養子となったアリー・イブン・アビー・ターリブ(六〇〇年頃~六六一年:イスラム教第四代正統カリフ(在位六五六年~六六一年)でシーア派初代イマーム(イスラム教の公的に認定された「指導者」の意)で、母はムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー)が虐殺されたことを指す。

「追弔大會」アーシューラー(ペルシア語ラテン文字転写:Âshurâ)。これは本来はヒジュラ暦におけるムハッラム月(一年で最初の月)の十日目を指すが、そこから転じて、この日に行われる宗教行事を指す場合もある。ウィキの「アーシューラー」によれば、『シーア派の信徒の間でアーシューラーはイマーム・フサインが殉教した日として特に重要視されている』。『ムハンマドの死から』五十『年後、ヒジュラ暦』六一『年アーシューラーの日(ユリウス暦』六八〇年十月一日)『に、初代イマームアリーと預言者の娘ファーティマの次男であり、シーア派の人々から第』三『代イマームとみなされるフサインが、現在のイラク、カルバラー付近の戦場でウマイヤ朝の軍隊によって殺害された(カルバラーの戦い)。シーア派の説によれば、フサインは、彼を指導者として推戴することを望むシーア派の人々の求めに応じ、父アリーの旧本拠地クーファに向かう途上、これを阻止しようとするウマイヤ朝カリフのヤズィード』Ⅰ『世の手にかかって殺されたということになっている。このため』、『シーア派の人々は、フサインをウマイヤ朝の手にかけさせてしまったことを哀悼し、タアズィーヤと呼ばれる殉教追悼行事を行うようになった』。『アーシューラーのタアズィーヤでは、フサインの殉教を哀悼する詩の朗読や、殉教したときの様子を再現する宗教劇が上演され、人々はフサインの死を大声で喚き、涙を流して嘆き悲しむ。さらに、フサインの棺を模した神輿が担ぎ出されたり、人々が鎖で自分の体を鞭打って哀悼の意を表現するなど、熱狂的な儀礼が繰り広げられる』。『宗教的な感情が最高潮を迎えるアーシューラーの日は、シーア派社会のエネルギーが爆発する日であり、イラン革命においてもアーシューラーの日に行われたデモが大きな影響力を持った』とある。

「オマー」不詳。ウィキの「カルバラーの戦い」によれば、『ヤズィードはこの戦いが原因で全シーア派から凄まじい憎しみを浴びせられ、現在でもこの一件はシーア派とスンナ派の感情的しこりとなって残っている』とあるが、ヤズィードの名や別称にはオマーに似たものはない。

「Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811」フランスに生まれ、後にイギリスへ亡命した商人ジャン・シャルダン(Jean Chardin 一六四三年~一七一三年:フランスのパリに富裕な宝石商の息子。フランスでは少数派だったキリスト教プロテスタントのカルヴァン派に所属していたため、身の危険を感じて、イギリスに移住し、王宮付き宝石商となり、チャールズⅡ世によりナイトの爵位を得た)は、二度、ペルシアへ旅行しており、一度目は一六六四年で、リヨンの商人とともにインドとペルシアへ向い、滞在中にサファヴィー朝王アッバースⅡ世の死去とスレイマーンⅠ世の即位に際会している。一六七〇年にフランスに帰国すると、「ペルシア王スレイマーンの戴冠」を出版したが、フランスにいてもプロテスタントでは出世が望めぬことから、一六七一年、再度、ペルシアへ出発し、イスタンブール・グルジアを経由して、一六七三、年ペルシアに到着、その後も商売のため、インドとペルシアを行き来し、最終的には、一六八〇年に喜望峰経由でフランスに帰国した。十四年余り東方で過ごし、ダイヤモンドなどにより、大量の利益を上げた一方、ペルシア語なども習得していて、現地人との交流も深かった。二度目の旅行から帰った後、イギリスの東インド会社に多額の出資を行ったが、役員選挙では落選している。そのためか、弟と新会社を設立し、一方では東インド会社の代表者としてオランダに赴任したりしている。一六八二年には王立協会フェロー(Fellowship of the Royal Society:ロンドン王立協会のフェロー・シップ(会員資格))に選出されている。一六八六年には二度目のペルシア旅行に関する「旅行記」を出版し、一七一一年までに、残る部分の旅行記を刊行している。当時、殆んど知られていなかったペルシアに関する旅行記は、当時大きな反響を呼んだ(当該ウィキに拠った))のその旅行記。Internet archiveのこちらで原本が見られるが、指示ページはここだが、これまた、どうも違うような気がする。幾つかの単語で調べてみたが、よく判らない。なお、この旅行記は日本語サイト「シャルダン 17世紀ペルシア旅行記図録 デジタルアーカイブ(Atlas of Chardin's Voyages from 17th-Century Persia Digital Archiveとして、図版を見ることが出来る。画像が非常に大きく、しかも美麗である。是非、見られたい。

「アブベツクル」アブー・バクル・アッ=スィッディーク(五七三年~六三四年)のことであろう。初代正統カリフ(在位六三二年~六三四年)で、預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリム(アラビア語で「神に帰依する者」の意で「イスラム教信者」のこと)であり、「カリフ」、則ち、「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」を名乗った最初の人物。但し、当該ウィキによれば、『アブー・バクルはスンナ派では理想的なカリフの一人として賞賛されているが、シーア派では』、『本来』、『預言者ムハンマドの後継者であるべきだったアリーの地位を簒奪したとして、批判の対象となることもある』とある。

「オスマン」オスマン帝国のオスマン家。オスマン帝国は例えばイラクをスンニ派の住民を介して支配していたという。]

2021/07/19

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (3)



 古アツシリア人は、詛言が人を殺す事罕[やぶちゃん注:ママ。「羊」の誤字と推定する。後注参照。]を殺す如く容易也、其の言を除くは日神と海神の力を借る有るのみと信じ、太古グデアの代よりダリウスの時迄も石碑に詛詞を鐫て[やぶちゃん注:「ほりて」。]墓を犯す者を防いだ(C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175)。東トルキスタンの最大都會ヤルカンドの住民は、四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し、古傳に、サレー、ペイガムバール上人此所を通つた時、所の人其駱駝を盜みて喉を切り河岸に殘せしを、上人怒つて此所の民每に[やぶちゃん注:「つねに」。]此病に罹るべしと詛うたのが起りだと云ふ(Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.)。同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを、住民驕奢にして尊ばず。時に一阿羅漢有り來て[やぶちゃん注:「きたつて」。]之を拜せしを住民怒て砂に埋め其唇に達す。唯一人佛を奉ずる者有て密かに食を與ふ。阿羅漢脫れ去るに蒞み[やぶちゃん注:「のぞみ」。]、彼に語るらく、一週内に砂と土が降て全城を瘞め[やぶちゃん注:「うづめ」。]住民皆死ぬが、汝一人は助かるべしと。羅漢卽ち消えて見えず。彼人城に歸つて親族に語るに信ぜずして嘲笑す。因て獨り去て身を洞中に隱すと七日めの夜半から砂の雨が始つて全城を埋めたと載す。熊楠謂く是は昔全盛だつた市街が沙漠となつたに附會した佛說で、其原話は元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王[やぶちゃん注:「うだえんわう」。]の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず。遊びに出た歸路迦旃延[やぶちゃん注:「かせんねん」。]が坐禪するを見、群臣と共に之を埋む。一大臣佛を奉ずる者後に至つて土を除く、尊者言く、却後七日天土を雨して[やぶちゃん注:「あめふらして」。]土山城内に滿ち、王及び人民皆覆滅せんと。大臣之を王に白し[やぶちゃん注:「まうし」。]、又自ら地道を造り出て城外に向ふ。七日滿て天香花珍寶衣服[やぶちゃん注:「天、香花・珍寶・衣服」。]を雨らす。城内歡喜せぬ者無く、惡緣ある者、善瑞有りと聞き、皆來り集る。其時城の四門盡く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]鐵關下り逃るゝに地無し。天便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]土を雨らし、彼大臣一人の外悉く埋滅さると出づ。

[やぶちゃん注:「古アツシリア人」アツシリアはティグリス川中流域のアッシュール市から興ったセム人の国家。紀元前三千年紀後半から前六一〇年まで存続した。ティグリス・ユーフラテス川の流域地方をバビロニアと称するのに対し、その北の地方をアッシリアと称する場合がある。この地方は、本来、フルリ系住民が多数を占めていたと思われるが、アッシュールはシュメール人の植民都市として成立し、その後、セム系のアッカド人の都市になったと推測されている。都市名としてのアッシュールが文献に初めて現れるのはアッカド王朝時代(紀元前二三〇〇年頃)である。前二〇〇〇年頃はウル第三王朝治下にあった。アッシュールの君侯ザーリクムは、スーサの同名の君侯ザーリクムと同一人物と考えられ、彼は東方及び北方辺境の防備と通商路の確保を、ウルの王から任されていたと思われている。古アッシリアは紀元前二千年紀前半に当たり、この時期にアッシュールは独立した有力商業都市国家となり、アナトリアのカネシュに商業植民市を置いて、主に銅・錫の交易を活発に行っていた。機嫌前二千年紀初頭から西方セム語族に属するアモリ人が移動を開始し、バビロンなどの諸都市に王朝を建てた。王朝はアッシュールにも成立した。シャムシ・アダドⅠ世(在位紀元前一八一三年~紀元前一七八一年)は長子イシュメダガンを首都近くに配置し、アナトリアに通じる道の防衛とともに、エシュヌンナ王国に対抗させた。また、征服したマリ王国に次子を王として送り込んだ。こうした配置は、アナトリアとエラムを結ぶ通商路の確保と、その権益の擁護が主目的であったと思われる。しかし、このアッシリアもバビロン第一王朝のハムラビに屈し、独立国の地位を失ってしまった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。位置はウィキの「アッシリアにある、周囲との関連広域地図がよい。

「グデア」古代メソポタミアの都市国家ラガシュ第二王朝の王。在位は紀元前二一四四年頃~紀元前二一二四年頃か。シュメール時代の王中で最も名前の知られている人物の一人。「グデア」という名は「呼びかけられし者」の意(当該ウィキに拠った)。

「ダリウス」Ⅰ世であろう(在位:紀元前五二二年~紀元前四八六年)古代ペルシアのアケメネス朝の大王。国内の叛乱を鎮め、財政整備をし、中央集権を確立した。インドまで遠征して全オリエントを支配し、帝国の極盛期を築いた。ゾロアスター教を信じたが、被征服地の宗教には寛大で、バビロン捕囚から帰国したユダヤ人に好意を示し、エルサレム神殿再建を助けた。エジプトの叛乱を鎮めるために出征中、陣内で没した。ダレイオスとも表記する。マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅亡させられたアケメネス朝ペルシアの最後の王ダレイオスⅢ世まで含めるなら、彼の在位は紀元前三三六年から紀元前三三〇年である。

「C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175」イギリスの軍人で探検家クロード・レニエ・コンダー(Claude Reignier Conder  一八四八年~一九一〇年)の「人間の台頭」。彼はパレスチナを中心とした中東からエジプトに軍務で派遣される中、歴史的・民俗学的研究を多く残している(英文の彼のウィキを参照した)。Internet archive」のこちらで原本が見られるが、その指示ページに(右ページ下から三行目から次のページの頭。太字は私が附した問題個所)、

   *

   The power of a curse is the subject of another tablet — the curse of some one unintentionally wronged bringing misfortune — “ an evil cry cleaves to him ; the curse is a curse of sickness.  The curse slays a man like a sheep.  It makes his god punish his body.  His mother goddess makes him sad. The voice that cries cloaks him as a garment, and strangles him.”  It can only be removed through discovery of the cause, by intercession of the sun god with his all-wise father Ea.  The sun is called “the protecting hero,” and is described as the “ merciful one ” who “raises the dead alive" (in the other world) — a “saviour" from demons. From the earliest age (that of Gudea) down to the time of Darius curses were inscribed on monuments to preserve them from any future mutilation or alteration.

   *

とあるのが、南方熊楠の訳した部分である。これを読むに、

「罕」(音「カン」。「長い柄の附いた鳥を獲る」「柄の附いた旗」「稀れ・少ない・珍しい」)は、「羊」の誤字である

ことが判明した。推定だが、南方熊楠は「羊」の異体字のこれ(グリフィスウィキ)辺りを崩して原稿に書いたのを、植字工が「罕」と誤ったのではなかったか? それにしても、正直、発表から百六年も経った今まで、誰一人として原書を調べず、この「罕」のまま放置されて、補正注する者がなく、全集でさえ、ただのママ表記で済まされてきたことに、私は激しい驚きを隠せない。南方熊楠の研究者は一体、何をしてきたのだろう?

「東トルキスタンの最大都會ヤルカンド」現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区にあるヤルカンド県(ウイグル語カタカナ転写)。漢字では莎車(さしゃ)県。新疆西南部の崑崙山脈北麓、パミール高原南面のヤルカンド川沖積平野に位置する。平均海抜千二百三十一メートル、山地が三十九%、平原が約六十一%を占める。暖温帯大陸性気候。四季は分明で、気候は乾燥しており、日照時間は長い。年平均気温は摂氏十二・三度で、年平均降水量はわずか五十六・六ミリである。ヤルカンドは二千年あまりの歴史を有し、嘗て莎車国(前漢の時代)、渠沙国、ヤルカンド・ハン国を形成していた。

「四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し」河川水に何が含まれているのか、未詳。そもそもこれが一種の疾患なのかどうかも不詳。喉仏が民族的に大きいだけではないのか?

「サレー、ペイガムバール上人」以下の原本では綴りは‘Saleh Peygambär’。ネットを調べると、海外のものばかりで、はっきりとは言えないが、どうもイスラムの預言者としてはかなり有名な人物らしい。

「Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.」スウェーデンの地理学者にしてかの中央アジア探検で知られるスヴェン・アンダシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の中央アジア探検録の一巻。Internet archiveのこちらで原本当該部(右ページ上から三行目。古伝承)が読める。

「同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを……」同上のInternet archiveのここの左ページ下方の‘We also possess a legend about an image of Buddha,’で始まる次のページまで続く段落がこの話である。左ページ下から五行目に城の名‘Ho-lao-lo-kia’が出る。

「元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず……」これも同経の巻第「八」ではなく、巻第「十」にある。「大正蔵経」データベースのここの「T0203_.04.0494c24」の「優陀羨王縁」以下に、「T0203_.04.0495b20」以降で父を殺すシークエンスが出、「T0203_.04.0495c24」と次行で「而見尊者迦栴延。端坐靜處。坐禪入定。時王見之。便生惡心」とあり、「T0203_.04.0496a08」で、天が「香華珍寶衣服」を雨ふらして、「T0203_.04.0496a15」「此城。一日覆沒。雨土成山」というカタストロフが描かれている。]

2021/07/18

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (2)

 

 印度にも古く詛言を太く[やぶちゃん注:「いたく」。]怖れたは根本說一切有部毘奈耶雜事九に、惡生王[やぶちゃん注:「あくしやうわう」。]が苦母[やぶちゃん注:「くも」と読んでおく。]怖勸めにより[やぶちゃん注:後注参照。恐らく誤読。]、釋種の男子を殺盡し、五百釋女己れを罵るを瞋り悉く其手足を截らしめた時、佛其因緣を說て、迦葉佛の世に、此五百釋女、出家し乍ら常に諸他の尼輩に、手を截られよ足を截られよと罵詈したので、無量歲の間地獄で燒れ後人間に生れても五百年中常に手足を截らると言た。惡生王傳へ聞て極て憂ふ。苦母對ふらく、婆羅門輩が人家に物を乞ひて吳れぬ時は、其家に百千種の不祥事を生ぜしめんと欲す。況や沙門喬答摩(ゴータマ)(佛の事)其親族を王に誅盡されたから、其惡心のまゝにどんな深重の呪詛を爲るか知れぬとて、王を池中の一柱樓に住ませ避難せしめたと出るで分(わか)る。十九世紀にも印度人が瞋れば怖ろしい詛言を吐く風[やぶちゃん注:「ふう」。]盛んだと Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897 に見え、古印度仙人の詛言のいかに怖るべきものなりしは、西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れ、自ら王宮に詣り求めしに一人も應ぜず。王の最幼女王憂るを見兼ねて、請て自ら行しに、仙人其不妍[やぶちゃん注:「うるはしからざる」。]を見、怒て便ち惡呪し、王の九十九女一時腰曲り形毀れて誰も婚する者無かれと罵ると、忽ち其通り腰曲つたので、王當時住んだ花宮城を曲女城と改名したと有るを見て知るべし。

[やぶちゃん注:「根本說一切有部毘奈耶雜事九」「根本說一切有部毘奈耶」(こんぽんせついっさいうぶびなや:現代仮名遣)は仏教経典で全五十巻。初唐の七〇三年に義浄によって漢訳された。部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に教訓物語を挿入した大部なもの。「大正蔵」で調べると、「雜事九」ではなく、「雜事八」である。標題は「第二門第四子攝頌之餘【說勝光王信佛因緣及惡生誅釋種等事】」。「240」コマの「T1451_.24.0239b27」の『時惡生王納苦母諫……』(「苦母怖勸めにより」ではなく、「苦母が諫めを納れ」である)から、「241」『苦母對曰。大王如乞索婆羅門入舍乞求。不得物時欲令其家。生百千種不吉祥事。何況沙門喬答摩。所有親族被王誅盡。寧無深重怨恨之言。隨其惡心而爲呪咀。王若懼者於後園中池水之内。』(最後は「T1451_.24.0243c15」)までが当該する話と読める。私が太字にした部分が熊楠の示したかった箇所である。

「Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897」作者ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師。「Internet archive」のこちらで同年版原本が見られる。

「西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れて……」「大唐西域記」の「卷第五 六國」の「羯若鞠闍國」(カーニヤクブジャ:現在の北インドの都市カナウジ。この伝承通り、「カーニヤクブジャ」とは「傴(せむし)の娘たちの町」の意)の条の冒頭の「一 國號由來」に(「維基文庫」のこちらのものを参考に漢字を正字化した)、

   *

羯若鞠闍國人長壽時。其舊王城號拘蘇磨補邏【唐言「花宮」。】。王號梵授、福智宿資、文武允備、威懾贍部、聲震鄰國。具足千子、智勇弘毅、復有百女、儀貌妍雅。時有仙人居殑伽河側、棲神入定、經數萬歲、形如枯木、遊禽棲集、遺尼拘律果於仙人肩上、暑往寒來、垂蔭合拱。多歷年所、從定而起、欲去其樹、恐覆鳥巢、時人美其德、號大樹仙人。仙人寓目河濱、遊觀林薄、見王諸女相從嬉戲、欲界愛起、染著心生、便詣花宮、欲事禮請。王聞仙至、躬迎慰曰、「大仙棲情物外、何能輕舉。」。仙人曰、「我棲林藪、彌積歲時、出定遊覽、見王諸女、染愛心生、自遠來請。」。王聞其辭、計無所出、謂仙人曰、「今還所止、請俟嘉辰。」。仙人聞命、遂還林藪。王乃歷問諸女、無肯應娉。王懼仙威、憂愁毀悴。其幼稚女候王事隙、從容問曰、「父王千子具足、萬國慕化、何故憂愁、如有所懼。」。王曰、「大樹仙人幸顧求婚、而汝曹輩莫肯從命。仙有威力、能作災祥、倘不遂心、必起瞋怒、毀國滅祀、辱及先生。深惟此禍、誠有所懼。」。稚女謝曰、「遺此深憂、我曹罪也。願以微軀、得延國祚。」。王聞喜悅、命駕送歸。既至仙廬、謝仙人曰、「大仙俯方外之情、垂世間之顧、敢奉稚女、以供灑掃。」。仙人見而不悅、乃謂王曰、「輕吾老叟、配此不妍。」。王曰、「歷問諸女、無肯從命。唯此幼稚、願充給使。」。仙人懷怒、便惡咒曰、「九十九女、一時腰曲、形既毀弊、畢世無婚。」。王使往驗、果已背傴。從是以後、便名曲女城焉。

   *

にあるのが、それ。]

 

 支那にも古く詛言が盛んだつた。淵鑑類凾三一五に、厥口呪詛、言怨上也、子罕曰、宋國區々、有詛有兕、亂之本也、康煕字典に書無逸を引て、民否則厥心違怨、否則厥口詛祝、是等は惡政に堪ざる民が爲政者を詛ふので、詩に此出三物、以詛爾斯、また晏子曰、祝有益也、詛亦有損、雖其善祝、豈勝億兆人之詛者とも有る。范文子使祝宗祈死、曰愛我者惟呪我、使我速死、無及於難范氏之福、是は死ねと詛われて速に死なんと望んだのだ。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。以下は巻三百十五の「口咒・國詛」に連続した一文として出る。

「厥口呪詛……」「厥(そ)の口、呪詛すとは、上を怨むを言ふなり。子罕(しかん)曰く、『宋國、區々として詛あり。呪あるは亂の本なり。』と」。

「民否則厥心違怨……」まず、底本は「違怨」が「達」であるが、諸本と「書経」原本から訂した。「民、否とせば、則ち、厥の心、違怨し、否とせば、則ち、厥の口、詛祝(じゆしゆく)す。」。

「康煕字典に書無逸を引いて……」まず、「書無逸」は底本では「書無極」となっている。しかし、諸本及び以下に示す「康煕字典」を確認、これは「書経」の「無逸」の誤りであることが判明したので訂した。「康煕字典」のそれは、「口部」の「五」の「呪」の条である。「中國哲學書電子化計劃」のものを一部カットして加工した。

   *

呪 [やぶちゃん注:中略。]「廣韻」、『呪詛也。』。「戰國策」、『許綰爲我呪。』。「後漢・王忳傳」、『忳呪曰、有何枉狀。』。「關尹子・七釜篇」、『有誦呪者。』。又、「集韻」、『通作祝。』。「書・無逸」、『民否、則厥心違怨否、則厥口詛祝。』。「詩・大雅」、『侯作侯祝。』。「周禮・春官」、『有詛祝。』。「集韻」、『或作詶、亦作詋。』。

   *

「詩に出此三物……」「詩」は「詩経」。「此の三物を出だして、以つて爾(なんぢ)を詛ふ。」。

「晏子曰、祝有益也……」「晏子」に曰く、『祝は益する有るなり。詛も亦、損ふ有り。其れ、善く祝すと雖も、豈(あに)億兆人の詛ふ者に勝たんや。」。「晏子」は「晏子春秋」で、春秋時代の斉で霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)の、後代に作られた言行録。

「范文子使祝宗祈死……」まず、これは出典を示していないが、「春秋左氏伝」の「成公十七年(紀元前五七四年)で、「使我速死」は底本では「速」を「連」に誤っているので訂した(これは後の熊楠の謂いからもおかしいことが判る)。「范文子、祝宗をして死を祈らしめ、曰く、『我を愛する者は、惟(ただ)我を呪せ。我をして速やかに死せしめ、難に及ぶ無からしむれば、范氏の福なり。』と」。「范文子」は晋に仕えていた名臣士燮(し しょう ?~紀元前五七四年)の諡(おくりな)。「祝宗」は王の名ではなく、士燮の家で祈禱を掌った官。ウィキの「士燮」によれば(太字は私が附した)、紀元前五七五年に「鄢陵(えんりょう)の戦い」(同年、鄢陵(現在の河南省許昌市鄢陵県)で晋と楚が激突した戦い)が『起こって』楚との『講和は敗れてしまう。士燮は戦争を極力回避しようと働きかけるが、徒労に終わってしまう。更に、嫡子の士匄』(しかい)『が戦闘の開始を諸将に勧めるのを見るや、「国の存亡は天命であり、お前のような小僧に何が分かるか。しかも聞かれもしないのに勝手に発言するのは大罪である。必ず処刑されよう」と激怒し、戈を持って士匄を追い掛け回した』。『結局』、「鄢陵の戦い」は、『晋軍の勝利に終わったが、士燮は徳のない厲公が徳のある共王に勝ってしまったことをむしろ恐れ、家臣に自らを呪わせて死んだ』(☜)。『家督は士匄が継いだ。死後、恭謙な態度を生涯貫き通した事と、一時的ながら楚との和睦の大功を成した事から、諡号「文」を諡され、范文子と呼ばれる』とある。]

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