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カテゴリー「南方熊楠」の136件の記事

2021/02/26

出口米吉「厠神」(南方熊楠「厠神」を触発させた原論考)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「厠神」(かはやがみ)を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第二十九巻一号)に載った、出口米吉氏の「厠神」である。在野の民俗学研究者であった出口米吉については、私の『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』の冒頭注を参照されたい。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。【 】は底本では二行割注。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。]

 

    ○厠 神

              出 口 米 吉

 故坪井博士の「陸前名取郡地方に於ける見聞」【本誌二六七號[やぶちゃん注:「本誌」と言っているが、先行する『東京人類學雜誌』である。明治四一(一九〇八)年六月二十日発行で、知られた筆者民俗学者坪井正五郎である。「J-STAGE」のこちらで原本画像PDF)で見られる。以下の出口の引用は「三二五」ページ上段中央からの部分(PDF3コマ目)。]】の中に「休息中(道祖神社にて)畑中の便所へ行きましたが、其所で妙な物を見ました。便所内の妙な物とは、片隅に釣つた棚に並べて有る數個の土人形で有ります。これは閑所神(かんじよがみ)と云ふものださうで、仙臺地方の古風の家では、皆閑所即便所に置くと云ふ事であります。土人形は玩具と同じ樣に見えますが、特別に作られたものとの事で、其形には座つたのや、立つたのや、子供を背負つたの等の種類が有りまして、何れも女の樣に見受けられます。人形が直に神を表すのか、人形を神に供へるのか、多く置くのは何の故か、其邊の事は一向分りませんが、要するに便所を護る意味を以て置かれる樣子で有ります」とあり。便所の片隅に棚を設け、每日朔竪[やぶちゃん注:「ついたち」と訓じておく。]に燈明を其上に點じて厠神を祀ることは、作州津山にて行はると聞けり。大阪附近にては、便所内にて線香を立て、燈明を奉る所もありと云ふ。

 厠神を祀ることは、我國に於て古代より行はれたることありや否や明ならず。平田翁の玉手襁[やぶちゃん注:「たまだすき」。平田篤胤の主著の一つ「玉襷」。]八にては「厠を掌[やぶちゃん注:「つかさどり」]給ふ神の名は、古書に此者厠神と載傳たる文は無れど、世に卜家の神道また橘家の神道など傳ふる人々の說に、埴山毘賣神[やぶちゃん注:「はにやすひめのかみ」。]と水波能賣神[やぶちゃん注:「みづはのひめかみ」。]なりと云ふは、實に然も有べく覺ゆ。其は此二神は土神水神にて(世に井戸神とカウカ神と同じと云は水神の坐す故なるべし)伊弉那美神の御屎と御尿に成坐ればなり」と云へり。

 酣中淸話[やぶちゃん注:「かんちゆうせいわ」。江戸後期の小島知足の随筆。]上に曰く「今ノ世ニ後架神(コウカカミ)ト云フハ、白氏六帖ニ續幽怪錄ヲ引テ、厠神每月六巡トアリ。又柳宗元が文ヲ引テ厠鬼ト出セリ。皆ソノ事ナリ。サレド委シク知レガタキニ、玉燭寳典ニ劉升ガ異苑ヲ引テ、紫女本人家妾、爲大婦(シウトメ)所ㇾ妒、正月十五日感激而死、故世人作其形於厠、迎ㇾ之咒云、子胥【云是其夫】不在、曹夫以行【云是其姑】小姑可ㇾ出【南方多婦人爲ㇾ姑】トアリ。又俗云厠溷(カハヤ)之間、必須淸淨、然後能降紫女トモアリ。又白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ。雜五行書ヲ引タ後帝トアリテ、ソノ下ニ異苑ヲ引テ、陶偘如ㇾ厠、見ㇾ人自稱後帝、着單衣平上幘、謂ㇾ偘曰、君莫ㇾ說貴不ㇾ可ㇾ言、將後帝之靈馮紫姑見ㇾ女言也。ナド云フコトモ見エタリ。西土ニテモ古昔ハ專云ヒシコトニゾ有ケル。」

 靜軒痴談[やぶちゃん注:明治八(一八七五)年刊の寺門静軒の随筆。]二に曰く「佛家ニテ厠ノ神ヲ鳥瑟沙摩(ウスシヤマ)明王トイフ。不勤ノ化身ナリト云。佛說ニ修羅ト梵天帝釋ト戰ヒシ時、修羅ガ不動明王へ援ヲ乞フ。爾時帝釋ハカリ思フニ、佛ハ甚タ臭氣ヲキラヘバ、穢ヲ用テ防クベシト、糞ヲ以タ城ヲ築キイダセリ。明王少モ不潔ヲ忌ズ、其城ヲ一時ニ食ヒ盡シタリ。故ヲ以テ烏瑟沙摩明王ヲ厠ノ神トナスト云」と。玉手襁八には「俗には佛家の鳥芻瑟摩(ウスシマ)明王と云ふ物を厠の神なりと云ふは、密宗より出たる說なるが、谷川士淸も云る如く、謨りにて、信るに足らず。殊に此明王の穢をさけず功をなす由を記せる穢跡金剛法禁百變法門經、穢跡金剛說法術靈要門と云ふ物ありて、一切經に收めたれど、唐土の僧が玄家法術說をぬすみて僞作せること疑なき物なるをや。こは寂照堂谷響集[やぶちゃん注:運敞(うんしょう)著で元禄四(一六九一)年自序の仏教説話集。]にも早く其辯ありと所ㇾ思たり」と辨せり。

 厠神に對する祈願につきては、玉手襁八には、俗に流行目病は厠神に治癒を祈り、常に厠の穴に唾すれば眼を病むと云ひ、亦女は日々に厠を掃き淨めて、晦日每に燈明を献れば、腰より下の病を憂ひずと云ふといヘり。大阪持明院の本堂のほとりに厠ありて、其内に入りて離緣を祈れば必らず緣切れると云ひ、洛東淸水寺の本堂と奧の院との間にも同樣の厠あり、是は厠二個所並び建て、其一方の内には離緣を祈り、又一方に緣結びを祈るに功驗ありと傳ふるよし浪華百事談七に見ゆ。獄屋に入る者が厠室を祭りたることは類聚名物考に云へり。アイヌは厠神(ミンダルカムイ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]に人知れず咒咀の言葉を捧げて、人を殺すと本志[やぶちゃん注:「誌」の誤植か誤字。]二八卷六號吉田氏の文に記されたり[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年六月十日発行の『人類學會雜誌』の吉田巖の論考「アイヌの卜筮禁厭」。「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)の「三二七」ページ(14コマ目)に現われる。]。

 我國にて除夜燈を厠に點して厠神を祀ることは、支那より移りし風習なるべし。鹽尻十四に「世說故事苑云、異聞總錄云、京師風俗、每除夜、必明燈於厨厠等所、謂之照虛不※[やぶちゃん注:「※」=「卒」+「毛」。意味不明。]。趙林再といふもの。婢に命じて此燈を燃させけるが、此燈を見るに、麻油にして髮に塗に佳と思ひて、これを竊に陰し[やぶちゃん注:「かくし」。]、桐油を易て厠にともしけり。然して彼婢夜分に厠に行き、戶を排き見れば、長三尺五寸斗の婦人、披髮絳居[やぶちゃん注:後半、意味不明。]にして出で、小き箱に謳色所衣を盛て、携壁[やぶちゃん注:隔ての壁のことか。]の角にたゝずみ、衣を摺み[やぶちゃん注:「たたみ」か。「摑み」辺りでないと意味が判らぬ。]けるを、婢見て驚き叫ぶ。家内の人々往て見れば早失けり。此時油を易ふ者大に叫び、地に倒るゝ。衆人湯劑を以て扶還[やぶちゃん注:「たすけかへり」。]、甦即語曰、我輙桐膏易、以鬼之爲一ㇾ所ㇾ擊甚苦と云々」と云へり。昔は轉宅の時にも之を祀りしと見え、類聚雜要抄二に「康平六年[やぶちゃん注:一〇六三年。]七月三日壬寅内大臣(師實)移御花山院。(略)同移徙作法、(略)入ㇾ宅、明旦祀諸神、(諸神者門、戸、井、竃、堂、庭、厠等也)以甑内盛五穀祀ㇾ之、三日亦祀、以童女擊水火、炊釜内五穀祀ㇾ之、御移徙之後、三日之内(略)不ㇾ上ㇾ厠(下略)と云へり。

 

2021/02/24

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注(PDF縦書版)公開

『「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注』PDF縦書版をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:標題は「ペルーこくにへうちやくせるにほんじん」と読む。初出は大正元(一九一二)年十月発行の『人類學雜誌』第二十八巻十号で、初出は「J-Stage」のこちらで原雑誌のそれを読むことが出来る。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのここからである。これは「南方隨筆」の先の論文などが載る『東京人類學雜誌』が正しいのではないかと思われる方がいるかも知れぬので言っておくと、『東京人類學雜誌』は明治四四(一九一一)年に会誌名を『人類學雜誌』と改めており、編集方針も大きく変わっていた。]

 

      秘魯國に漂著せる日本人

 

 英譯 Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164 に、東西南半球間過去の交通を論じ、「日本と支那より西北亞米利加に漂著せる人あり。又米國の貨品が布哇[やぶちゃん注:「ハワイ」。]に漂著せる例あり。然れども南半球に至りては、高緯度に有て風と潮流が西より南米大陸に向ひ、赤道近くに隨ひ、風潮並びに南米より東方に赴き去り、凡て東半球と南米間に人類の彼此往來ありし確證實例なし。たゞ民俗相似の點多きより推して、曾て斯る交通有たるを知るのみ」と述たり。

[やぶちゃん注:「Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164」ドイツの地理学者・生物学者フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:当時、隆盛であった社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖でもある)の「民族学」(Völkerkunde:全三巻。一八八五年)の第一巻の英訳本。当該英訳原本を‘Internet archive’で読め、当該箇所はこちら(左ページ)である。

 以下の段落は底本では全体が一字下げである。]

 未開の民が、風と潮流に逆うて弘まり行きし例あるは、第二板「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁に、多島海人[やぶちゃん注:ポリネシア人。]、古へ航海に長じ、其邊の風と潮流主として東よりすれども、時に西よりする事有るを利用し、印度洋島より發程して、遂に遠く多島海諸島に移住せる由を言へり。Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv. に、南太平洋に太古今よりも遙かに島數多かりしが、漸々海底に沈みし由を論じ、多島海人が往昔航海術に長ぜる記述に及ぼし、人間が東半球より西半球に弘まりしは、第一に多島海より南米に移りて秘魯中米等の開化を建立し、第二に大西洋を經て西印度中米「ブラジル」等に及ぼし、第三に「ベーリング」海峽及び北太平洋諸島より北米に入りし者の如しと說きたり。

[やぶちゃん注:『「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁』一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家、航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。これもやはり、‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。

「Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv.」スコットランド生まれのカナダの考古学者・民族学者・作家ダニエル・ウィルソン(一八一六年~一八九二年)の「先史時代の人間」。一八六二年刊。原本は、やはり‘Internet archive’のこちらで読める。

 以下、本文位置へ戻る。]

 今東半球の赤道以北よりすら、甞て南米に漂著せる人の絕無ならざるを證する爲に、予の日記の一節を略ぼ原文の儘寫し出す事次の如し。

 明治二十六年七月十一日夕、龍動市「クラパム」區「トレマドク」街二十八番館主美津田(みつた)瀧次郞氏を訪ふ。此月六日、皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)の婚儀行列を見ん迚、「ビシヨプスゲイト」街、橫濱正金銀行支店に往し時相識と成し也。此人武州の產、四十餘歲、壯快なる氣質、足藝を業とし、每度水晶宮等にて演じ、今は活計豐足すと見ゆ。近日西班牙に赴き興行の後歸朝すべしと云ふ。子二人、實子は既に歸朝、養子のみ留り在り、其人日本料理を調へ饗せらる。主人明治四年十一月本邦出立支那印度等に旅する事數年、歸朝して三年間京濱間に興行し、再び北米を經て歐州各國より英國に來り、三年前より今の家に住すと云々。旅行中見聞の種々の奇談を聞く。西印度諸島等の事、大抵予が三四年前親く見し所に合り、氏秘魯國に住しは明治八年十二月にて、六週間計り留りし内奇事有り。平田某次郞と云ふ人、七十餘歲と見え、其甥三十餘と見えたり。此老人字は書けども、本朝の言語多く忘却しぬ。美津田氏一行本邦人十四人有て、每日話し相手に成し故、後には九分迄本邦の語を能する[やぶちゃん注:「よくする」。]に及び、此物彼品を日本にて何と言りや抔問たり。兵庫邊の海にて、風に遭ひ漂流しつ。卅一人乘たる船中三人死し、他は安全にて秘魯に著せり。甥なる男當時十一歲なりし。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。南方熊楠は明治一九(一八八六)年十二月二十二日に横浜港より渡米し(満十九歳)、六年後の一八九二(明治二十五)年九月にイギリスに渡った。この年には科学雑誌『ネイチャー』(NATURE)十月五日号に初めて論文‘The Constellations of the Far East’(「極東の星座」)を、同十月十二日号には‘Early Chinese Observations on Colour Adaptations’(「動物の保護色に関する中国人による先駆的観察」)を寄稿している。

「龍動」ロンドン」。

『「クラパム」區』Clapham。クラパム。南ロンドンの広域地区名。

「トレマドク」底本は「トレマドリ」。初出で訂した。Tremadoc。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に「トレマドック通り」がある。

「美津田(みつた)瀧次郞」ルビは底本では「みつだ」とあるが、初出及び「選集」は「みつた」であり、「南方熊楠 履歴書(その5) ロンドンにて(1)」(私の五年前の電子化注)でも「みつた」とルビするので特異的に訂した。そこで私は美津田瀧次郎(嘉永二(一八四九)年?~?)は足芸(あしげい:仰向いて寝て挙げた足だけで樽や盥などを回したりする曲芸)を得意としたサーカス芸人で、「南方熊楠コレクション」(河出文庫)の注によれば、南方熊楠の明治二六(一八九三)年『七月の日記に「美津田滝次郎を訪、色々の奇談をきく」とあるように、しばしば親交を結んだという注した後、本篇のこの前後を初出で電子化している。

『皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)』後のウィンザー朝初代君主イギリス国王ジョージⅤ世(George V 全名:ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート:George Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)。一八九三年七月六日にメアリー・オブ・テック(Mary of Teck 一八六七年~一九五三年:現女王エリザベスⅡ世の祖母)と結婚した。

「ビシヨプスゲイト」Bishopsgate。ロンドンのビショップスゲート地区。この通り

「橫濱正金」(しやうかね(しょうかね))「銀行支店」明治一三(一八八〇)年に「国立銀行条例」に基づいて設立された貿易金融専門銀行。資本金三百万円の三分の一は政府の出資。明治三〇(一八九七)年には「横浜正金銀行条例」により特殊銀行に改組され、「日露戦争」以後、満蒙で植民地銀行の役割も果たした。世界各地に支店を置き、昭和に入って政府の為替統制機関となった。ロンドン支店は明治一六(一八八四)年十二月一日開業。

「水晶宮」The Crystal Palace。原型は一八五一年にロンドンのハイド・パークで開かれた「第一回万国博覧会」の会場として建てられた建造物。造園家・建築家であったジョセフ・パクストン(Joseph Paxton  一八〇三年~一八六五年)の設計になり、鉄骨とガラスで作られた巨大な建物で、プレハブ建築物の先駆ともされる。パクストンの設計では長さ約五百六十三メートル、幅約百二十四メートルのであった(「水晶宮」という名称はイギリスの雑誌『パンチ』(PUNCH)御用達の投稿者であった劇作家で作家のダグラス・ウィリアム・ジェロルド(Douglas William Jerrold)が名づけた)。参考にしたウィキの「水晶宮」によれば、『万博終了後は一度解体されたものの』、一八五四年には『ロンドン南郊シデナムの丘において、さらに大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデン、コンサート・ホール、植物園、博物館、美術館、催事場などが入居した複合施設となり、多くの来客を集めていた』。しかし、一八七〇『年代頃から人気に陰りが見え始め』、一九〇九『年に破産し』、『その後は政府に買い取られ、第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用され、戦後』に『一般公開が再開されたが』、一九三六年十一月に『火事で全焼して』再建されなかったとある。

「活計豐足す」「かつけいほうそくす」。生活は満ち足りている。

「明治四年十一月」本邦では明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで太陰太陽暦(旧暦)を採用していたため、西暦とはズレが生じる。熊楠が換算している可能性は限りなく低いから、この月は旧暦十二月一日はグレゴリオ暦では一八七一年十二月十二日で、晦日(この年は小の月で十一月二十九日)は一八七二年一月九日である。

「平田某次郞」「某」はママ。こんな名は聴いたことがない。熊楠は正確な名をその場では聴いたが、覚えていなかったから、かく記したものかも知れない。]

 其後他は盡く歿し、二人のみ殘り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮し、甥は可なり奇麗なる古着商を營み居れりと。老人も、以前は手工を營みし由、健全長壽の相有て、西班牙人を妻れりと[やぶちゃん注:「めとれりと」。]、其乘來りし船は、美津田氏一行が著せし三年前迄、公園に由來を記して列し有りしが、遂に朽失せぬ。美津田氏一行出立に臨み、醵金して彼人に與へ、且つ手書して履歷を記せしめ、後桑港[やぶちゃん注:「サンフランシスコ」。]に著するに及び、領事館へ出せしに、秘魯政府に照會の上送還せしむべしと也。以後の事を聞き及ばずと云ふ。一行「リマ」市を立ち離るゝ時、老人も送り來り、名殘惜げに手巾を振り廻し居りしと、美津田氏ら桑港に著せし時、在留の邦人纔に三人、領事柳谷と云ふ人親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]旅館へ來訪されたり云々。

[やぶちゃん注:「醵金」「きよきん(きょきん)」。ある目的のために金を出し合うこと。

「領事柳谷」在サンフランシスコ日本領事館の開設は明治三(一八七〇)年の秋で、明治九(一八七六)年に最初の日本人領事柳谷謙太郎が着任している(その間はアメリカ人が代理を務めた。以上は「在サンフランシスコ日本国総領事館」公式サイト内の歴史記載に拠った)。

 以下の一段落は、底本では全体が一字半下げでポイント落ち。]

 美津田氏は、質直不文の人なれど[やぶちゃん注:「ど」は底本は「ば」であるが、初出で訂した。]、假名付の小說を能く讀みたり、其談話は一に記憶より出し故に、誤謬も多少有るべきと同時に、虛構潤色を加ること無しと知らる。又予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覺ゆるは、件の老人に歸國を勸めしに、最初中々承引せず。吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ずと言ひしとか。

[やぶちゃん注:「質直」「しつちよく(しっちょく)」は地味で真面目なさま。質朴。

「不文」正規の日本の教育を殆んど受けていなということ。

「吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ず」平田老人のこの言葉、何か私は頭が下がる思いがする。

 以下、本文に戻る。]

 件の美津田氏は、その後二子(共に養子也。日記右の文に一人は實子とせるは謬り也。)俱に違背して重き家累を生じ、自ら[やぶちゃん注:「おのづから」。]歸朝するを得ず。更に「もと」と名づくる一女(邦人と英婦の間種、芳紀十五六、中々の美人也)を養ひ、龍動に二三年留り居[やぶちゃん注:「をり」。]、予も一二囘訪しが、其後の事を知らず。右の日記に書留めたる外にも、種々平田父子の事を聞きたるも、予只今記憶惡く成て、一筆を留めざるは遺憾甚し。近頃柳田國男氏に問合せしに、柳谷謙太郞氏明治九年十月九日より十六年三月三十一日迄、桑港領事として留任せりと答へらる。因て考るに、美津田氏一行、九年正月中「リマ」を出立し、諸方を興行し廻り、其年十月後桑港に著きたるならん。「ブラジル」「アルゼンチン」等に到りし話も聞きたれば、斯く思はるゝ也。

[やぶちゃん注:南方熊楠は事実関係をしかり確認している。

「家累」(かるい)は家族内の悩み事。「違背」とあるから、犯罪に近い非行を働いてしまったものか。]

 序に述ぶ、右の日記二十六年七月二十二日の條に「美津田氏宅にて玉村仲吉(ちうきち)に面會す。埼玉縣邊[やぶちゃん注:「あたり」。]の人。少時足藝師の子分と成り、外遊中病で置去られ、阿弗利加沿岸の地諸所多く流寓、十七年の間、或は金剛石[やぶちゃん注:「ダイヤモンド」。]坑に働き、又「ペンキ」塗り抔を業とせし由、「ズールー」の戰爭に英軍に從ひ出で、賞牌三つ計り受用すと。予も其一を見たり。白蟻の大窠等の事話さる。日本語全く忘れしを、近頃日本人と往復し、少しく話す樣に成れりと。龍動の西南區に英人を妻とし棲み二年有りと也」と有り。所謂「ズールー」の戰爭は、明治十二年の事にて、「ナポレオン」三世の唯一子、廿三歲にて此軍中蠻民に襲はれ犬死せり。當時從軍の玉村氏廿歲計りの事と察せらる。日本人が早く南阿の軍に加はり、多少の功有りしも珍しければ附記す。明治二十四年頃、予西印度に在りし時京都の長谷川長次郞とて、十七八歲の足藝師、肺病にて「ジヤマイカ」島の病院にて單身呻吟し居たりし。斯る事猶ほ多からん。

         (大正元年十月人類二八卷)

[やぶちゃん注:「金剛石」ダイヤモンド。

『「ズールー」の戰爭』英語‘Anglo-Zulu War’は一八七九年にイギリス帝国と南部アフリカのズールー王国(インド洋の沿岸部に十九世紀に南アフリカ東海岸部に建国された君主国。十九世紀初め、ズールー族の王となったシャカが軍事組織と武器を改革し、周辺の部族を次々と統合して、一八二四年にはポート・ナタール(現在のダーバン)のイギリス人入植者と友好関係を結んで、鉄砲を入手し、それを使って、さらに王国の版図を広げた。一八二八年には異母弟のディンガネがシャカを殺して王位に就き、さらに領土の拡大を図った)との間で戦われた戦争。この戦争は幾つかの血生臭い戦闘と、南アフリカに於ける植民地支配の画期となったことで知られる。イギリス植民地当局の思惑により、本国政府の意向から離れて開戦したものの、英国軍は緒戦の「イサンドルワナの戦い」で、槍と盾が主兵装で火器を殆んど持たなかったズールー軍に大敗を喫し、思わぬ苦戦を強いられた。その後、帝国各地から大規模な増援部隊が送り込まれ、「ウルンディの戦い」で近代兵器を用いたイギリス軍が王都ウルンディを陥落させ、勝利し、ズールー国家の独立は失われた(以上はウィキの「ズールー戦争」に拠った)。

「大窠」(だいくわ(だいか))は大きな巣のこと。

『「ナポレオン」三世の唯一子』父ナポレオンⅢ世の嫡出子でフランス第二帝政時代の皇太子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(Napoléon Eugène Louis Bonaparte 一八五六年~一八七九年)。父ナポレオンⅢ世に溺愛されたという。「普仏」戦争の初期、フランス軍が各地で劣勢となり、ナポレオンⅢ世は捕虜となり、一八七〇年九月二日から四日までの二日間だけ、彼が表面上の政務を取り仕切ったが、その四日、パリで民衆の暴動が起こり、九月六日にイギリスへ亡命した。イギリスでは砲兵学校に入学し、好成績で卒業、ヴィクトリア女王に愛称の「ルル」で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどであった。イギリスへの恩返しとして「ズールー戦争」に従軍、ズールー族の襲撃を受けて戦死した。子はなく、ナポレオンⅢ世の直系は絶えた(以上は彼のウィキに拠った)。

「明治二十四年」一九〇一年。

「長谷川長次郞」詳細事績不詳。]

2021/02/15

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語(異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)――オリジナル電子化注一括縦書PDF版公開

南方熊楠の「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」のオリジナル電子化注一括縦書PDF版を公開した。

2021/02/13

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 8 / 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:以下の段落は前の「7」の補足で、底本では全体が一字下げとなっている。]

 吾邦の高僧、海外に名を馳せ乍ら、本國に知られざる例少なからず、之例[やぶちゃん注:「たとへば」。]、慈覺大師入唐求法巡禮行記に見えたる、日本國靈仙三藏如き、中々の學僧にて、淳和帝より學資を賜はりしが、支那にて毒殺され、異國の緇徒[やぶちゃん注:「しと」。僧衆の意。]その跡を弔ひしのみ、其詳傳は傳らず、茅亭客話(五代詩話卷八に引)に、瓦屋和尙、名能光、日本國人也、嗣洞山悟本禪師、天復年初入蜀、僞永泰軍節度使鹿虔扆、捨碧雞坊宅、爲禪院居之、至孟蜀長興年末遷化、時齒一百六十三、此僧德望高かりしのみならず、海外で二百歲近く迄長生とは、偏えに日本の面目也、迥か[やぶちゃん注:「はるか」。]降て十七世紀の初めに伊太利の旅行家「ピエトロ、デラ、ヷレ」が波斯國イスパハンで逢し日本の碩學、「ピエトロ、バオリノ、キベ」(木部か)如き、自在に拉丁語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]を使い、道を求てローマに留學したりと(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 492)、

[やぶちゃん注:「慈覺大師入唐求法巡禮行記」「につたうぐほふじゆんれいかうき(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」と読む(「法」は通常の歴史的仮名遣「はふ」であるが、仏教用語に限っては「ほふ」と読むのを通例としている)。最後に実施された遣唐使(承和五(八三八)年出発、翌年到着。この後、寛平六(八九四)年に、かの菅原道真を大使とし、絵巻で知られる紀長谷雄を副使とする遣唐使が立案されたが、唐国内の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議によって停止となった。その後、大使の任は解かれなかったが(但し、道真は失脚し、延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)に失意のうちに大宰府で没した)、その十三年後の九〇七年に唐が滅亡したため、遣唐使はそこで名実ともに廃止となった)における入唐請益僧(にっとうしょうやくそう:「更に教えを請う」の意で、本邦で既にそれぞれの学業を規定通りに身につけたとされる僧が、その業を深め、疑問を解決するために短期に留学する場合に用いられた呼称)であった慈覚大師円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年:下野国生まれ。出自は壬生氏。最澄に師事した天台僧で、後に「山門派」の祖となった。仁寿四(八五四)年六十一歳で第三代天台座主となった)の出発(当時、四十五歳)から帰国に至る九年六ヶ月に亙る日記。これより前の承和三年・四年と二回の渡航に失敗した後、承和五年六月十三日に博多津を出港した日から記し始め、博多津に到着して鴻臚館に入り(承和十四(八四七)年九月十九日の条)、朝廷から円仁を無事連れ帰ってきた新羅商人たちへの十分な報酬を命じた太政官符が発せられた同年十二月十四日で日記は終わっている。その間の波乱万丈の一部始終は彼のウィキを参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正一五(一九二六)年東洋文庫刊の写本本文(影印)全四冊と活字本の解説一冊が視認出来る。

「日本國靈仙三藏」平安前期の法相宗の僧霊仙(りょうせん 天平宝字三(七五九)年?~天長四(八二七)年?)。日本で唯一の三蔵法師(「三蔵法師」とは名前ではなく、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶を指す一般名詞で、後には転じて「訳経僧」を指すようになった)。当該ウィキによれば、『出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される』。『興福寺で学んだ後』、延暦二三(八〇四)年に第十八次『遣唐使の一人として入唐した』。『同期に最澄・空海・橘逸勢らがいる。長安で学び』、八一〇年には『醴泉寺(れいせんじ)にて、カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受』(経典を漢訳する際に梵語の口述を漢文で筆記する係の者)や『訳語(をさ)』(漢語・漢字に置き換える係。現代の翻訳に相当する)『を務めた』。八一一年に『「三蔵法師」の号を与えられ』た。『時の唐の皇帝・憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて、大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって、日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移』った。八二五年には『淳和天皇』(じゅんなてんのう:在位:弘仁一四(八二三)年~天長一〇(八三三)年。桓武天皇第七皇子)『から渤海の僧・貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利や経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に、阿波国の稲千束を支給するよう計らった。その後』、八二八年(中唐末期。本邦は天長五年)までの『間に没したようで、一説によれば』、『霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから』、『死ぬまで』、『日本の地を踏むことはなかった』。八四〇年に『霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧・霊仙の最期の様子を聞いている。また』、承和五(八三八)年に『円行・常暁が入唐した際には、霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという』とある。

「緇徒」「緇」は黒い色で墨染めの衣で「僧侶」の意となる。

「茅亭客話」(ぼうていかくわ:現代仮名遣)宋の黄休復の撰になる、五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもの。全十巻。私の「怪奇談集」「老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)」がある。その三巻(「漢籍リポジトリ」の完全電子データ)の「勾居士」に、

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勾居士名令𤣥蜀都人也宗嗣張平雲有學人問答隨機應響著火蓮集無相寶山論法印傳况道雜言百餘篇有敬禮瓦屋和尚塔偈曰大空無盡刼成塵𤣥步孤高物外人日本國來尋彼岸洞山林下過迷津流流法乳誰無分了了教知我最親一百六十三嵗後方於此塔葬全身瓦屋和尚名能光日本國人也嗣洞山悟本禪師天復年初入蜀僞永泰軍節度使禄䖍扆捨碧雞坊宅為禪院居之至孟蜀長興年末遷化時齒一百六十三故有是句

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とある(リンク先では影印本も見られる)。当該部のみの訓読を試みる(字体は熊楠のそれに従った)。

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瓦屋(ぐわをく)和尙、名は能光(のうくわう)、日本國の人なり。洞山悟本禪師を嗣ぐ。天復の年初、蜀に入る。僞(ぎ)永泰軍節度使鹿虔扆(ろくけんい)、碧雞坊(へきけいばう)の宅を捨(ほどこ)し、禪院として之(ここ)に居(きよ)せしむ。孟蜀(まうしよく)の長興(ちやうこう)年末に至りて遷化(せんげ)す。時に齒(よはひ)一百六十三なり。

   *

もし「能光」が正式な日本名の俗名であったなら「よしみつ」と読める。日本ではあり得ないが、中国での名乗りであるから、あり得ないとは言えない気がする。「天復」は唐の昭宗の治世に用いられた元号(九〇一年~九〇四年)。「僞永泰軍節度使鹿虔扆」唐滅亡後の五代まで及んだ官人で詩人のようである。「永泰軍節度使」は五代の旧唐の南を治めた官名であるから、その上の「僞」というのは甚だ不審であったので、調べてみると、「古今詞話七」(影印本。「中國哲學書電子化計劃」)の「鹿虔扆」を見ると、「鹿爲永泰節度使」とあった。鹿爲永泰節度使」とあった。何のことはない、「鹿、永泰節度使たり」じゃあねえか。阿呆臭! 「碧雞坊」鹿虔扆の所有していた道観の僧坊か或いは彼の別邸か? 「捨(ほどこ)し」喜捨し。「孟蜀」五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した後蜀(こうしょく 九三四年~九六五年)の別称国名。「長興」は五代の二番目の王朝であった後唐の明宗李嗣源(しげん)の治世に用いられた元号。九三〇年~九三三年。

「五代詩話」清の王阮亭の原編で、鄭方坤の刪補になる一七四八年序の詩話集成。

 以下、表記は本文レベルに戻る。冒頭の字下げがないのはママ。]

 

之を要するに、段氏決して全く虛構して酉陽雜俎を著したるに非ず、又況んや上に引ける葉限の物語は、往古南支那土俗の特色を寫せる點多く、之を談りし人の姓名迄も明記したれば、其里俗古話學上の價値は、優に、近時歐米又本邦に持囃さるゝ仙姑譚、御伽草紙が、多く後人任意の文飾脚色を加え含めるに駕する者と知るべし、

[やぶちゃん注:「持囃さるゝ」「もてはやさるる」。

「仙姑譚」女性の仙人の話群。なお、中国の代表的な女仙で、「八仙」(中国では仙人は実在の人物と考えられている)の唯一の女仙に何仙姑(か せんこ)がいる。因みにこの「八仙」が七福神の起源とする説があり、とすれば、弁天の原型ということにもなろう。

「駕する」他を凌(しの)ぐ。

 さて。以下は全体が一字下げで「附記」を除いて、本文は本篇のそれよりもポイント落ちである。しかし、これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」への附記ではなく、先に同じ『東京人類学雑誌』に載せた論考「本邦に於ける動物崇拜」(リンク先は私のPDF一括版)の追加記事である。本来なら、「南方随筆」として纏めた際には、それをその記事の後ろに配すべきものであった。私の以上の一括版やブログ版の最後では、そのように処理しておいた。さらに、熊楠が追加した「橘南谿の西遊記卷一」の「榎木の大虵(だいじや)」は、私のお節介で「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)」の注で既にして電子化してある(PDF版も同じ)ので、一切の注を必要としないのである。

 

 附記 人類學會雜誌二九一號に、予が載せたり野槌に似たる事、橘南谿の西遊記卷一に出づ、其略に云く、肥後の五日町、求摩川[やぶちゃん注:初出では「求麻川」とする。]端の大なる榎木の空洞に、年久しく大蛇住り、時々出で現はるゝを見れば病むとて、木の下を通る者必ず低頭す、太さ二三尺、總身白く、長さ纔に三尺餘、譬へば[やぶちゃん注:初出では「譬ば」である。]犬の足無き如く、又芋蟲に似たり、土俗之を一寸坊蛇と云ふ、[やぶちゃん注:初出では「下略、」とし、下方二字上げで「(完)」(これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」の論考の「完」の意)とする。]

    (明治四十四年三月、人類第二六卷)

 

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7

 

予現に參考書を缺くを以て、歐州「シンダレラ」物語の最古きは、何時代に記されたるを詳かにせず、隨て、此譚の早く筆せられしは、東西孰れに在るを斷ずる能はずと雖も、兎に角、千餘年前に成し酉陽雜俎に、此特色ある「シンダレラ」物語を書付たる、唐の太常卿、段成式の注意深かりしを感謝する者也、この人相國文昌の子、詩名高く、宏學博物、殆ど張華「プリニウス」の流也、(尉遲樞の南楚新聞に、今より千四十八年前、咸通四年六月、卒せる後、其靈書を友人溫庭因筠に贈る由載たり)、平素好んで書を藏し、又下問を耻ず[やぶちゃん注:「はぢず」。]、天上天下、方内方外の異譚奇事を錄して、酉陽雜俎二十卷、續集十卷を撰せり、唐代の事物、是れに據て初て見るべき者頗る多し、然るに楊愼の丹鉛總錄卷五、段成式好張虛大之言、其著酉陽雜俎、亦似郭子橫洞冥記、唐人杜陽雜編全構虛誑、殊無一實也[やぶちゃん注:「中國哲學書電子化計劃」の原本影印本の当該部を確認し、一部の漢字の誤りを訂した。]と評し、江村北海も亦雜俎を丸啌[やぶちゃん注:「まるうそ」。]也と排せり、こは後世支那人が、書籍の穿鑿のみに腐心して、實際に迂なると、吾邦の儒者が、世界の廣き事を知らざる僻言[やぶちゃん注:「まるうそ」に応じて「ひがごと」と読んでおく。]にて、成る程段氏の記述に怪異の事多きも、是れ却つて、當時唐土に行はれたる迷信、錯誤の實況を直筆せる者なれば、其頃支那に於る一汎人智の程度を察するに最も便利有る事、歐州にも、遠く「アリストテレス」「プリニウス」より、中頃天主敎諸大德を歷て、近く「ゲスネル」「アルドロヷンヅス」に至る迄、牛屍を埋れば蜜蜂に化し、人の脊髓死して蛇となり、露[やぶちゃん注:「つゆ」。]海に入て眞珠と變じ、航魚(タコフネ)[やぶちゃん注:底本は「タコウネ」。初出は「タコフ子」(「子」は「ネ」の漢字型表記)。初出に従い、「子」をカタカナ表示した。]を見れば凶事有り、印魚(コバンフネ)[やぶちゃん注:底本は「コバンネ」。初出は「コバンフ子」(「子」は「ネ」の漢字型表記)。初出に従い、同前の仕儀で示した。]は訴訟事件を長引かし、印度の象は每度龍と鬪て相討ちて果る、其外、人魚山男抔、呆れ返つた事共を飽く迄夥く書連ねたるに異ならず、段氏が智識を求る用意極て周到なりしは、卷十八に、諸外國の植物を載せたるに、啻に記文の詳きのみならず、多くは其本國名稱を添たり、紫鉚の眞臘名勒佉(ラツク)、波斯棗[やぶちゃん注:「ペルシアなつめ」。]のペルシア名窟莽(クルマ)、偏桃の波斯名婆淡(バダム)、無花果のペルシア名阿駔(アンジル)、拂林名底珍(「アラビヤ」名テイン)等也(De Candolle, ‘Origin of Cultivated Plants,’ 1890, passim.)、從來「エゴノキ」に宛てたる齊墩果如き、其記載の正確なるが上え[やぶちゃん注:ママ。]、雜俎に波斯名齊墩、拂林名齊虛[やぶちゃん注:「虛」は「選集」では「虛」に「厂」を懸けた字。]と擧げたるはペルシア語 seitun ヘブリウ語 sait に恰當[やぶちゃん注:「かふたう(こうとう)」。相当。]すれば、實は「オリヴ」樹の事也(明治四十年十二月、東洋學藝雜誌、拙文「オリヴ」樹の漢名に出)、其卷十九に見ゆる、梁の延香園の異園の如き、詳細の記載、明かに「コムソウダケ」の或種を眼前に想見せしむ、(予の “The Earliest Mention of Dictyophora,”  Nature, vol. 1, 1894) 其驗仙書、與威喜芝相類と云るは、偶ま、以て、支那の古道士輩が、自然に、窒素分多き菌類の、畜肉と等く滋養分に富るを覺て[やぶちゃん注:「さとりて」。]、之を嗜み重んじ、隨て菌類に就て智識廣かりしを、諒するに足れり(仙書に、上帝肉芝を某仙に賜ふと有るは、紀州抔に多き Fistulina hepatica ならん、形色牛肉に酷似し、且つ鮮血樣の紅液を瀝る[やぶちゃん注:「たれる」。]故、英語に牛肉蔬(ヴエジタブルビーフステーキ)と呼ぶ)同卷に見ゆる、昆明池水網藻の記は、支那人が歐人に前て[やぶちゃん注:「さきだちて」。]、「アミミドロ」(英語 waler Net)を識りしを證す、(予の ‘The Earliest Mention of Hydrodictyon,’ Nature, vol. lxx, 1904)、又松下見林の異稱日本傳卷上にも引る如く、雜俎三に[やぶちゃん注:以下の引用は「酉陽雑爼」及び「異称日本伝」を閲するに脱字があったので特異的に訂しておいた。]、國初、僧云玄奘往五印取經、西域敬之、成式見倭國僧金剛三昧、言甞至中天、寺中多畫玄奘麻屩及匙筯、以綵雲乘之、蓋西域所無者、每至齋日、輙膜拜焉と有り、見林之を評して、眞如親王羅越にて遷化し給ひけるを、師鍊賛して曰、自推古、至今七百歲、學者之事西遊也以千百數、而跂印度者、只如一人而已、蓋不考金剛三昧事也と言り、件の千餘年前に渡天の壯行を遂げたる日本僧は、其姓名すら本國に傳存せざれども、吾邦曾て斯る偉人を出せしを知り得るは、一に親しく之に遇せし話を、雜俎に載たる段氏の賜物也(予の ‘The Discovery of Japan,’ Nature, vol. lxvii, p. 611, 1903 參照)、

[やぶちゃん注:「太常卿」「たいじやうけい」。天子の宗廟の祭礼を職掌とした。

「張華」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)。彼の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻はよく知られる。

「プリニウス」古代ローマの将軍で博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二三年~七九年)。大百科全書「博物誌」三十七巻を編み、古代科学知識を集大成した。ベスビオ火山噴火の際、調査に行き、遭難死した。甥の政治家ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus 六二年頃~一一四年頃)と区別して「大プリニウス」と呼ばれる。

「尉遲樞の南楚新聞」底本は「南楚紀聞」であるが、調べたところ、誤字であることが判ったので、特異的に訂した。「尉遲樞」(生没年未詳)は晩唐の人で、この「新聞」とは「風聞」の意で、そうした南楚の風聞を記した随筆。完本は伝わらないようであるが、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで引用文の集成が読め、そこに「太平廣記」卷三百五十一からとして、

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○段成式

太常卿段成式、相國文昌子也、與舉子溫庭筠親善、咸通四年六月卒。庭筠居閒輦下、是歲十一月十三曰冬至、大雪、凌晨有扣門者、僕夫視之、乃隔扉授一竹筒、云、「段少常送書來。」庭筠初謂誤、發筒獲書、其上無字、開之、乃成式手札也。庭筠大驚、馳出戶、其人已滅矣。乃焚香再拜而讀、但不諭其理。辭曰、「慟發幽門、哀歸短數、平生已矣、後世何云。況複男紫悲黃、女靑懼綠、杜陵分絕、武子成卷君。自是井障流鸚、庭鐘舞鵠、交昆之故、永斷私情、慨慷所深、力占難盡。不具、荊州牧段成式頓首。」。自後寂無所聞。書云卷君字、字書所無、以意讀之、當作群字耳。溫段二家、皆傳其本。子安節、前沂王傅、乃庭筠婿也、自說之。

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とある。

「咸通四年」唐末期の八六三年。

「溫庭筠」(おんていいん 八一七年?~八六六年?)は晩唐の知られた詩人。娘は段成式の子の段安節の妻となり、宰相であった温彦博(びんはく)の末裔に当たる。晩唐を代表する詩人の一人で、同時代の妖艶にして唯美的な詩風で知られる李商隠(八一二年又は八一三年~八五八年)とともに「温・李」と並び称される。優れた才人であったが、彼のウィキによれば、『試験場で隣席の者のために詩を作ってやったり、遊里を飲み歩いて警官と喧嘩をしたりするなど、軽率な行為が多く、科挙には』結局、『及第出来なかった。宰相の令狐綯』(れいことう)『の家に寄食したが、令狐綯を馬鹿にしたので追い出された』。八五九年頃、『特に召し出されて試験を受けたが、長安で任官を待つ間、微行していた宣宗に会い、天子と知らずにからかったので、随県の県尉に流された。襄州刺史の徐商に招かれ、幕下に入ったこともあるが、満足せず、辞職して江東の地方を放浪し、最期は零落して死んだ』。『詩風は六朝時代の宮体詩に近く、同年代の李商隠に比べてやや退廃的。また、温庭筠の性格も相まって少々』、『軽薄な美しさがある。李商隠と共に、宋代初期の西崑体に強く影響を残している』。現在、「温飛卿詩集」九巻が残る、とある。

「楊愼の丹鉛總錄卷五、……」(一四八八年~一五五九年)は明の学者・文学者。一五一一 年に進士に及第して翰林修撰となった。後に世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について帝に反対したため激怒を買い、平民として雲南永昌衛に流され、約三十五年間を配所で過して、没した。神童の呼び名高く、十二歳の時に書いた「古戦場文」は人を驚かし、詩は政治家で詩壇の大物として一時期を作った李東陽に認められた。博学で、雲南にあって奔放な生活を送りながらも、多くの著述を残した。その研究は詩・戯曲・小説を含め甚だ多方面に亙るが、特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料となっている。著作は「升庵全集」全八十一巻に収められている。以下、訓読しておく。

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段成式、虛大の言を張るを好む。其の著「酉陽雜俎」、亦、郭子橫が「洞冥記」、唐人の「杜陽雜編」に似て、全く虛誑(きよきやう)を構へ、殊(とりわ)け、一つの實(じつ)も無きなり。

   *

この『郭子橫が「洞冥記」』は後漢の郭憲の撰になる道教系の志怪小説集。「杜陽雜編」は晩唐末期の進士蘇鶚(そがく)の撰になる伝奇小説集。

「江村北海」(えむらほっかい 正徳三(一七一三)年~天明八(一七八八)年)は江戸中期の儒者・漢詩人。彼のウィキによれば、福井藩の儒者伊藤竜洲の第二子であったが、『明石藩士であり母の兄にあたる河村家で生まれ、そこで養育された。はじめ学問には無関心だったが、北海の俳諧を見た梁田蛻巖に激励され』、『勉学に専念。父の友人である丹後宮津藩の儒者・江村毅庵の養子となる。藩主・青山幸道は北海に吏才があることに気づき』、『次第に重用』された。宝暦八(一七五八)年、『美濃郡上藩に移封の際、病を理由に辞任を願ったが許されず』、『郡上に同行』している。宝暦十三年には『許されて京都に帰ったが、その後も時々郡上に行』って『教授し、または藩の諮問に応じた』。安永四(一七七五)年、『幸道が隠居したのを機会に致仕し、京都の室町に対梢館を建て隠居』した。

「實際に迂なる」現実の事実に疎いこと。

「段氏の記述に怪異の事多きも、是れ却つて、當時唐土に行はれたる迷信、錯誤の實況を直筆せる者なれば、其頃支那に於る一汎人智の程度を察するに最も便利有る」私は「酉陽雜俎」の愛読者であり、博物学的民俗学的観点から熊楠に完全に同感である。

「ゲスネル」スイスの博物学者で書誌学者コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner 一五一六年~一五六五年)。医学・神学を始めとしてあらゆる分野に亙って博覧強記で、古典語を含めた多言語に通じ、それを活用して業績をあげた碩学。著書「動物誌」全五巻 (一五五一年~一五五八年)は、近代動物学の先駆けとされ、植物学にも長じた。また、書誌学の基礎を築いたとされる「世界書誌」(一五四五年~一五五五年)を著わし、「書誌学の父」とも呼ばれる。当該ウィキによれば、『世界的な博物学者である南方熊楠はゲスナーに感銘を受け』、『北米時代の日記に「吾れ欲くは日本のゲスネルとならん」と記している』とあるのは、熊楠ファンの間では有名なエピソードである。

「アルドロヷンヅス」イタリアの博物学者ウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi 一五二二年~一六〇五年)はである。「Aldrovandus」という名を用いることもある。、ボローニャ大学で医学と哲学を教授した。研究対象は多岐に渡り、昆虫・動物・植物・科学一般などあらゆる分野に精通した。ゲスナーの「動物誌」を参考にした「怪物誌」(Monstrorum historia)はそのモンストルム・ワールドの強烈な一冊である。

「航魚(タコウネ)」頭足綱八腕形上目タコ目アオイガイ上科アオイガイ科アオイガイ属タコブネ Argonauta hians の美しい貝殻様の卵保護の殻を成形する♀(♂は作らない)の異名。私はビーチ・コーミングで採取した三個を持っている。但し、同種は太平洋及び日本海の暖海域に分布するので、ここでは、西洋の古博物書を含むので、他に似た殻をやはり♀のみが持ち、分布も広汎(全世界の熱帯・暖海域。太平洋・インド洋・大西洋・地中海)の表層に棲息するアオイガイ属アオイガイ Argonauta argo も挙げておく必要がある。但し、以下のこれを「見れば凶事有り」という伝承は私は寡聞にして知らない。原拠が何か、非常に興味があるところだ。なお、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子」(ブログ版)や、サイト版の「栗氏千蟲譜 巻十(全) 栗本丹洲」の最後のそれ(画像多数。まず、失望させないと自負する)や、「和漢三才圖會卷第四十七 介貝部【蚌類 蛤類 螺類】」の「貝鮹(かひたこ たこふね)」もよろしければ、読まれたい。

「印魚(コバンフネ)」条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属 Echeneis のコバンザメ類のことであるが、「フネ」は不審。前の「タコフネ」に引かれて熊楠が誤った可能性が高い気がする。或いは紀州で「サメ」を「フネ」と呼ぶのだろうか?(形が舟に似てはいるけれど) 私の「栗本丹洲 魚譜 白のコバンザメ」を参照されたい。以下、「印魚」「は訴訟事件を長引かし」については、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 2魚類」(一九九四年平凡社刊)の「コバンザメ」の項の「博物誌」の最後に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『この魚をもっていると、裁判に勝つことができるという俗信がある。これは裁判を長びかせれば、結局勝つことができるという考えによるらしい(谷津直秀《動物分類表》)』(引用書は一九一四年刊)とある。これは、少し意味が判りにくいが、要はコバンザメのその吸着力を以って裁判相手から決して離れないで訴訟闘争を続けることで勝つという覚悟の意味が元であろうと私は解釈している(他意味があるとなれば、是非、お教え戴きたい)。私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(3)」も参照されたい。

「印度の象は每度龍と鬪て相討ちて果る」これも原拠が判らない。但し、インドでは蛇或いは大蛇が象の天敵とされてはいる。大蛇(ナーガ)は中国では龍とは成ったが、これも原拠が知りたいところ。

「段氏が智識を求る用意極て周到なりしは、卷十八に、諸外國の植物を載せたるに」「酉陽雜俎」の「卷十八」は「廣動植物之三」。

「紫鉚の眞臘名勒佉(ラツク)」「紫鉚」は「しりう(しりゅう)」と読んでおく。同字の音はネットで調べると、一応、呉音が「ル」で、漢音が「リュウ(リウ)」である。納得のゆく読みだが、しかし、所持する「東洋文庫」(一九九四年刊)の今井与志雄氏の訳注の中では「鉚」に『こう』とルビされておられ、また、サイト「和漢薬・生薬の読み方」のこちらでは『紫鉚(しきょう)』である。しかし現代の拼音では「liǔ」で、これは「リ(ォ)ウ」であるからして、私は最初の読みでゆく。さても「紫鉚」とは、マメ目マメ科マメ亜科インゲン連ブテア属ハナモツヤクノキ Butea monosperma (紫鉚樹・紫柳)或いは同じく紫鉚樹・馬鹿花と漢字表記する同属の別種 Butea suberecta を指す(これは植物では最も信頼のおけるサイト「跡見群芳譜」のこちらに拠った)。ブテア属はインドから東南アジアにかけて広く分布する。最初に示したハナモツヤクノキは、当該属のウィキによれば、『ラックカイガラムシの宿主としてしられる。ラックカイガラムシの分泌する樹脂を採取して、花没薬(はなもつやく)という生薬や染色の臙脂に用いられる』とある。虫体被覆物質と虫体内色素の両方を利用する Lac に代表されるラックカイガラムシ科 Kerriidae については、解説が非常に面倒なので、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」の私の注を参照して戴きたい。今村氏の「酉陽雑俎」の訳によれば、カンボジア(原本では「眞臘國」)に産出し、現地では『勒佉(ローキア)と呼んでいる』。『子(み)を結ばない』が、『濃霧、露および雨が樹の枝々にかかってぬらすと、その樹から、すぐ紫』鉚(原本自体で段成式が字を誤っている)『が出る』とある。まさにラックカイガラムシの体を覆う樹脂状の物質で、精製して塗料・接着剤などに現在も普通に用いられているところの「ラック」のことである。

「波斯棗のペルシア名窟莽(クルマ)」私は本文内で「ペルシアなつめ」と当て読みしたが、今村氏は「ペルシア『そう』」と読んでおられ、「窟莽」には「くつもう」とルビされる。訳によれば、『形は、バナナに似てい』て、『花に二つの甲があり、徐々に開花する。裂け目に十余、種子の房があ』って、『核が熟するとき、朱氏は黒である。形は乾した棗(なつめ)に似ている。味は甘く』、『食用になる』とあって、今井氏はこの「窟莽」について、『ナツメヤシ』『のペルシア名という』と注されておられる。ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera である。実はデーツ(Date)と呼ばれ、北アフリカや中東では現在も主要な食品の一つである。

「偏桃の波斯名婆淡(バダム)」「偏桃」はバラ目バラ科モモ亜科サクラ属ヘントウ Amygdalus dulcis で、ご存知、種子の殻を取り除いた仁の部分が生の「アーモンド」である。

「無花果のペルシア名阿駔(アンジル)」底本は「駔」の(つくり)が「貝」であるが、中文ウィキの「無花果」によって特異的に訂した。バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica 同ウィキにはペルシャ語のラテン文字表記で「anjir」と確かに出る。「酉陽雑俎」では第十八巻の最後に「阿驛」として登場する。

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阿驛、波斯國呼爲阿馹拂林呼爲底珍。樹長丈四五、枝葉繁茂。葉有五出、似椑卑麻。無花而實、實赤色、類椑卑子、味似甘柿、一月一熟。

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但し、今村氏の注で、「阿驛」については、『案ずるに、『本草綱目』三一「果」部「夷果類」の「無花果」』に『引』かれる『「阿駔」』と字注され、訳注では、その漢字表記について『新ペルシア語で、無花果を示す語は、anjir であるが、中国語の転写は、それとは無関係で、ペルシア語のより古い段階、中世ペルシア語とかかわりがあるらしい』と解説しておられる(今村氏の解説はもっと詳しい(もっと複雑である)ので、より詳しくは必ず引用書を参照されたい)。その「拂林」(アラビア)「名」が「底珍」「テイン」であるという点についても、今村は詳しい注を附しておられ、『アラビア語』では『tin, tine, rina』とある。

「De Candolle, ‘Origin of Cultivated Plants,’ 1890, passim.」フランス系のスイスの植物学者アルフォンス・ルイス・ピエール・ピラム・ドゥ・カンドール(Alphonse Louis Pierre Pyrame de Candolle 一八〇六年~一八九三年)。「国際藻類・菌類・植物命名規約」(ICBN)の制定に功績があった。この原本は一八八二年に刊行されたフランス語で書かれた「Origine des plantes cultivées 」(「栽培植物の起原」)である。

「エゴノキ」ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属エゴノキ Styrax japonica 。本邦で全国の雑木林に多く見られる落葉小高木であるが、果皮に有毒なエゴサポニンを多く含むことはあまり知られているとは思われない。それから果汁を絞ったりしたら、飲むどころか、触っただけでも炎症を起こすぞ(溶血作用もあるという)! 当該ウィキによれば、『「齊墩果」が漢名とされる場合があるが、これは本来はオリーブの漢名であ』り、『現代中国語では「野茉莉」と呼ぶ』とある。

「齊墩果」(さいとんくわ)「如き、其記載の正確なるが上え、雜俎に波斯名齊墩、拂林名齊虛[やぶちゃん注:「虛」は「選集」では「虛」に「厂」を懸けた字。ここで「※」としておく。]と擧げたる」これは、やはり、第十八にある、

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齊暾樹、出波斯國。亦出拂林國、拂林呼爲齊※【音「湯」兮「反」。】。樹長二三丈、皮靑白、花似柚、極芳香。子似楊桃、五月熟。西域人壓爲油以煮餅果、如中國之用巨勝也。

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である。この記載を見ても判る通り、これは明らかに、シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea である。

ペルシア語 seitun ヘブリウ語」(ヘブライ語に同じい)「sait」今村氏の「齊暾樹」の注に「齊暾」は『オリーヴ』で、『ペルシア語の zeitum の転写である』とされた後、熊楠が以下で挙げる、論文を引かれて詳述されておられる。その今村氏の熊楠の以下の論文の引用部を恣意的に正字化して以下に示しておく。

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其邊[やぶちゃん注:今村氏によって『東羅馬帝国の亜細亜領』とある。]の諸氏がオリーヴを呼ぶ名に、齊暾に合ひ又は近き者多し。ヘブリウの Sait 又は Zeit、波斯の Seitun、アラビヤの Zaitun、土耳其人[やぶちゃん注:「トルコじん」。]及びクリメヤ脫脫[やぶちゃん注:意味不明。クリミア半島に勢力を持った元のチンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配して興亡した遊牧政権の言語、或いはタタール語ということか?] Seitun、アラビアの Jit、ヒンスクニ[やぶちゃん注:ヒンズークスのことだろう。]の Zeitun 等なり……[やぶちゃん注:このは今村氏の中略であることを、サイト「私設万葉文庫」こちら(ここで当該論文は一応(表示文字に不全があるが)読める)で確認した。]因みに言ふ。古アラビヤ人はジェルサレムをオリーヴに因んで齊暾邑 Aaituni-yah と呼び、又、七八世紀の頃より、支那の泉州をも齊暾と呼り、當時の唐人が泉州府を楚桐城 Tseu-tung-ching と綽名せしをオリーヴのアラビヤ名と混じての事也

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『明治四十年』(一九〇七年)『十二月、東洋學藝雜誌、拙文「オリヴ」樹の漢名』こう表記しているが、国立国会図書館の書誌データの「目次」(本文画像は閲覧出来ないので御注意あれ)を見る限りでは、「オリーヴ樹の漢名」である。

「其卷十九」「酉陽雑俎」のそれは「廣動植之四」で「草類」が続く。

「梁の延香園の異園」梁の第二代皇帝簡文帝蕭綱(五〇三年~五五一年:武帝蕭衍の三男。土嚢を身体の上に積まれて圧殺された)の作った庭園名らしい。以下は、著者段成式の自分の屋敷の竹林を手入れしていたところ、不思議な菌(きのこ)が生えてきたことを記した後に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認した)、

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又、梁簡文延香園、大同十年、竹林吐一芝、長八寸、頭蓋似雞頭實、黑色。其柄似藕柄、内通幹空【一曰柄幹通空】、皮質皆純白、根下微紅。雞頭實處似竹節、脫之又得脫也。自節處別生一重、如結網羅、四面同【一曰周】、可五六寸、圓繞周匝、以罩柄上、相遠不相著也。其似結網衆目、輕巧可愛、其柄又得脫也。驗仙書、與威喜芝相類。

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と出るのを指す。今村氏の訳文を参考に訓読してみる。

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又、梁の簡文が延香園にて、大同十年[やぶちゃん注:五四四年。]、竹林、一つの芝(くさびら)を吐(はきい)だす。長(たけ)八寸、頭の蓋(かさ)は雞頭の實に似て、黑色たり。其の柄、藕(ぐう)[やぶちゃん注:蓮根。]の柄に似、内は幹に通じ、空(くう)たり【一つに曰はく、「柄幹は通空たり。」】。皮質、皆、純白にして、根の下、微かに紅(あか)し。雞頭の實のやうなる處は、竹の節に似て、之れを脫(は)がせば、又、脫(は)がすを得るなり[やぶちゃん注:同じようなものを剝さなくてはならない。]。節の處より、別に一重(ひとえ)のもの生ぜしに、網羅(まうら)を結べるがごときにて、四面、同じくして【一つに曰はく「周(まは)り」。】、五、六寸ばかり、圓(まる)く繞(ねう)して周匝(しうせう)し[やぶちゃん注:丸く纏わってぐるりと取り囲み。]、以つて柄の上を罩(おほ)ひて、相ひ遠(はな)れて相ひ著(つ)かざるなり。其れ、結べる網の衆(おほ)くの目に似て、輕く巧(たくみ)なること、愛すべく、其れ、柄と又(とも)に脫(は)がし得たりしなり。仙書を驗(けみ)するに、「威喜芝(いきし)」と相ひ類(たぐひ)せり。

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「仙書」は道教の仙術書。その代表作は以下にも語られる晋代の葛洪(二八三年~三四三年)の著「抱朴子」(ほうぼくし)である。「威喜芝」については、今村氏が、『案ずるに、『抱朴子』内篇一一「仙薬」でいう木威喜芝であろう。同書によると、「そもそも木芝とは、松柏(はく)の脂がしずんで地に入り、千年たつと茯苓(ぶくりょう)にかわる。茯苓が一万年たつと、その上に小さな木が生ずる。形は蓮(はす)の花に似ている。名づけて木威喜芝という。夜、みると、光がある。持つと、たいへん滑らかである。焼いてももえない。これを身に帯びると武器をよける。雞につけて、他の雞を十二羽まぜ、一緒に籠にいれて、十二歩離れたところから箭(や)を十二本射ると、他の雞はみな傷つくが、威喜芝をつけたのは、ついに傷つかないのである」。それであろう』とある。文中で「木」を外して「威喜芝」と言っているのは所持する原本でも確認した。これは恐らく、「霊芝」(レイシ Ganoderma lucidum )に代表される菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属 Ganoderma の茸類の仲間であろうとは推定される。なお、「森林微生物管理研究グループ」サイト内の「キヌガサタケとスッポンタケ」にここを簡略記載した記事が載る(脱字を補った)。

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 特異な形のため記録に残っている。唐代の随筆集である酉陽雑俎には、「梁の簡文帝の延香園では、大同十年(五四四年)、竹林からきのこが出た。長さは八寸、頭の傘は鶏頭に似て黒く、その柄は中空であった。皮質はみなとても白く、根の下は、わずかに紅色だった。鶏頭の実のところは竹の節に似ている。節のところから、別に一重に網のような物が生えていた。四面は周囲が五、六寸ばかり、円形にぐるりととりまき、柄の上にかぶさって、互いに付着していない。それは網の目を結ぶのに似ていて、軽く巧妙なことは愛らしく、柄とともにはずすことができた。」とあり、割合正確な描写をしている。著者の段成式は、竹林の手入れをして、病気で枯れた竹を伐ったところ、三年後(八三八年)の秋に枯根からキヌガサタケが発生した。高さは一尺余で、昼頃には黒ずんでしおれてしまったという。

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これは間違いなく、菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科キヌガサタケ属キヌガサタケ Phallus indusiatus である。私は偶然、京都嵐山の竹林を散歩している最中に実見した。まことに妖艶で美しいものであった。しかし、当初、――「熊楠にしてどうしたものか? 彼は『「コムソウダケ」の或種』と言っているが?」と甚だ腑に落ちなかったのだが? 菌蕈綱ハラタケ目フウセンタケ科フウセンタケ属ショウゲンジ Cortinarius caperatus という茸の異名として「コムソウ(ダケ)」が一般に知られていたからである。――しかし、以下の、「“The Earliest Mention of Dictyophora,”  Nature, vol. 1, 1894」(題は「デイクティオフォラ属に関する最古の言及」)については、幸いにして、「Internet archive」のこちらで原文を読むことが出来(左ページ右段の中央)、さらに私は邦訳された「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊)を持っていることから、苦労せずに熊楠の記している内容を理解出来た。しかも、そこでは、まさにこの「酉陽雑俎」を英訳して、これは「コムソウダケ」世界最古の記録ではないか? と述べているのである。而してやおら、Dictyophora」を調べると、キヌガサタケのシノニムに Dictyophora indusiata があったのであった。

「仙書に、上帝肉芝を某仙に賜ふと有る」出典不詳。「抱朴子」に無論「肉芝」は出るが、こうした内容は記されていない。

「Fistulina hepatica」真正担子菌綱ハラタケ目カンゾウタケ(肝臓茸)科カンゾウタケ属カンゾウタケ Fistulina hepatica である。当該ウィキによれば、『全世界に広く分布し、欧米では広く食用にされている。アメリカなどでは"Beefsteak Fungus"・「貧者のビーフステーキ」、フランスでは「牛の舌」(Langue de boeuf)と呼ばれている』。『梅雨期と秋に、スダジイ、マテバシイなど(欧米ではオークや栗の木、オーストラリアではユーカリ)の根元に生え、褐色腐朽を引き起こす。傘は舌状から扇型で、表面は微細な粒状で色は赤く、肝臓のように見える。裏はスポンジ状の管孔が密生し、この内面に胞子を形成する。他のヒダナシタケ類と異なり、この管孔はチューブ状に一本ずつ分離している』。『カンゾウタケ科に属するキノコは、世界中で数種類しかない小規模なグループを形成している。現在、カンゾウタケ属は本種を含む』八『種が命名されている』。本種は『近年の分子系統解析において』、同科の『ヌルデタケ』属 Porodisculus 『やスエヒロタケ科』Schizophyllaceae『の菌類と近縁であることが示されている』。『肉は、霜降り肉のような独特の色合いを呈しているうえ赤い液汁を含み、英名のBeefsteak Fungusの名の通りである。生ではわずかに酸味があるが、管孔を取った上で、生のまま、またはゆでて刺身や味噌汁にしたり、炒めて食べたりする』とある。

「ヴエジタブルビーフステーキ」Vegetable beefsteak。英文ウィキの「Fistulina hepaticaには「beefsteak fungus, also known as beefsteak polypore, ox tongue, or tongue mushroom」の異名が並ぶが、英文サイトのこちらには、「The Vegetable Beefsteak. The Beefsteak Mushroom. Fistulina Hepaticaがしっかりあった(太字は私が附した)。

「昆明池水網藻の記」「酉陽雑俎」の巻十九には、「昆明池」二箇所で出て、水草と水藻が語られてある。二つ並べて示す。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認した(前者がここ、後者がここ)。ここで熊楠が問題にしているのは後者であるが、私はヒシが大好きなので、敢えて挙げた。

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芰、一名水栗。一名薢茩。漢武昆明池中有浮根菱、根出水上、葉淪沒波下、亦曰靑水芰。玄都有菱碧色、狀如雞飛、名翻雞芰,仙人鳧伯子常採之。

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 芰(し)、一名、水栗(すいりつ)。一名、薢茩(かいこう)。漢の武が昆明池中に浮根菱(ふこんりやう)有り。根、水上に出で、葉、波下に淪沒す。亦、「靑水芰」と曰ふ。玄都に菱の碧色なる有り、狀(かたち)、雞の飛ぶがごとし。名づけて「翻雞芰」、仙人鳧伯子(ふはくし)、常に之れを採れり。

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水網藻、漢武昆明池中有水網藻、枝橫側水上、長八九尺、有似網目。鳧鴨入此草中、皆不得出、因名之。

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 水網藻(すいまうさう)。漢の武が昆明池中に水網藻有り、枝、水上に橫側(わうそく)し[やぶちゃん注:水面に突き出して水面上に広く広がっていて。]、長さ、八、九尺[やぶちゃん注:唐代の一尺は31.1㎝であるから、約2.49~2.80m。]にして、網の目に似たる有り。鳧鴨(のがも)、此の草中に入れば、皆、出づるを得ずと。因りて之之れに名づく。

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「アミミドロ」(英語 waler Net)」網深泥。緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目アミミドロ科アミミドロ属 Hydrodictyon 。種は当該ウィキによれば、Hydrodictyon africanumHydrodictyon indicumHydrodictyon patenaeformeHydrodictyon reticulatum の四種を挙げるものの、本文内では『種の同定にはやや疑問があるようである』と記す。以下、同ウィキから引用する。『淡水性の藻類で、網の目のような形をしている』。『大きいものは全体で30cmにもなり、淡水藻では大型の部類に属する。全体は細長い袋状で、五角形か六角形の網目構造からなっている。つまり、金網を円筒形の袋の形につなげたような形である。その長さは1cm足らずのものから前述のように大きなものまで様々である。ただし大きいものは全体の形が壊れてしまっている場合も多い。固着のための構造はなく、浅い水域で浮遊するか、何かに引っ掛かって固まっているだけである。色は鮮やかな黄緑』。『網目の各々の辺が1個の細胞からなっている。個々の細胞は円柱形。それぞれが当初は単核であるが、成長に伴って次第に多核になる』。『その姿に特にまとまりが感じられないこと、あまりに大きいことから、この藻類はアオミドロなどと同じように簡単ながらも』、『多細胞藻類であるように見えるが、実は違っている。アオミドロなど多細胞藻類は細胞分裂によって細胞を増やしながら、全体が成長して行くのであるが、アミミドロの場合、小さい藻体も大きい藻体も細胞数は変わらず、個々の細胞の大きさが異なるだけである。成長は、細胞それぞれが大きくなるだけであり、したがって、小さい藻体では網の目も細かく、大きい藻体では網の目は粗い』。『つまり、この藻類は非常に大柄ながら、クンショウモ』(アミミドロ科クンショウモ属 Pediastrum )『やボルボックス』(緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科ボルボックス属 Volvox )『と同様に、細胞群体である。群体全体の細胞数は一定で、細胞数が増えるのではなく、細胞が育つことだけで成長する。ただし、大きくなる間に破れるようにして藻体の形がくずれることがある。網が破れても細胞の壊れていない部分は生きているから、群体全体の形を止めない場合もままある』。『なお、細胞群体のことを別名を定数群体と言う。これは、群体を構成する細胞の数が一定(たいていは2の階乗、群体ができる時の細胞分裂回数による)なためであるが、アミミドロの場合、細胞数は約2万個で必ずしも一定しない』。『主として無性生殖で増える。暖かい時期には、大きく成長した群体において、細胞内がすべて鞭毛を持つ遊走子に分かれる。遊走子は泳ぎ回る余裕がないぐらい密生し、細胞内側の表面に並ぶ。やがてそれらが群体を構成する細胞に変わり、網目を形成する。やがて細胞壁が壊れると、新しい群体が放出される。つまり、親群体の個々の細胞から、それぞれ新しい群体が作られる。群体が円筒形をしているのは、もとの細胞の形を反映したものである』。『有性生殖は細胞内に多数の配偶子が形成され、それが泳ぎ出して接合することで行われる。配偶子は先端に2本の等長の鞭毛を持つ、同型配偶子である。接合子は発芽するとポリエドラ』(polyedra:藻類の生活環上の特定形態期の名)『となり、その内部に多数の遊走子を形成し、それが網状の群体を作る。接合核は発芽時に減数分裂を行う』。『ごく浅い、富栄養な水域に生育する。水田にもよく見られる。その他、河川のよどみのごく浅いところなどにも出現する』。『特に役に立つ場面はない。迷惑することもほとんどない。まれに増え過ぎて水路の邪魔になったり、金魚などの養魚場で増えて、小魚が藻体の網の目に引っ掛かって死ぬ、などという話がある程度である』。『アミミドロは細胞群体を形成することや、その繁殖法がクンショウモと同じで、これらは同じ群に属する』。『従来はクロロコックム目』Chlorococcales『とすることが多かったが、現在では、遺伝子解析などからヨコワミドロ目』Sphaeropleales『に分類されることが分かっている』とある。

「The Earliest Mention of Hydrodictyon,’ Nature, vol. lxx, 1904」標題は「アミミドロ属に関する最古の言及」。Internet archive」のこちらで原文が読める(左ページの左下段から)。見ると、先の「ネイチャー」への投稿と同じく、「酉陽雑俎」の「水網藻」のの英訳を示して、現在のアミミドロの生態を誇張して描写したものと思われるとし(但し、「長八九尺」という寸法は巨大に過ぎると退けている)、これはアミミドロに関する最古の記述であろうと記している。

「松下見林」(まつしたけんりん 寛永一四(一六三七)年~元禄一六(一七〇四)年)江戸前期の医師で儒者・国学者。本姓は橘、名は秀明・慶摂。大坂の医師松下見朴の養子。儒医古林見宜(けんぎ)に学び、京で医業の傍ら、「三代実録」を校訂し、ここに出る「異称日本伝」の外、「公事根源集釈」「習医規格」などを著わしている。後年、讃岐高松藩主松平頼常に仕えた。

「異稱日本傳」外交史書。全三巻。元禄元(一六八八)年に書き上げ、同七年に板行された。中国や朝鮮の歴史書から、日本関係の記事を抜粋し、これに見林が考証と批評を加えたもの。外交関係史としては日本初の試みである。国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧』」のここが当該部。「酉陽雑俎」の巻三「貝編」(ばいへん:仏教経典のこと。貝多羅樹(ばいたらじゅ:現在ではインドのそれは単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科パルミラヤシ属オウギヤシ Borassus flabellifer に同定されている)の葉に経典を書写したものの意である)訓読を試みる。

    *

國[やぶちゃん注:唐。]の初め、僧玄奘、五印[やぶちゃん注:天竺を東西南北と中に分けた五天竺全部でインドのこと。]に往きて經を取(もと)めたり。西域、之れを敬す。成式[やぶちゃん注:著者の自称。]、倭國の僧金剛三昧(こんがうざんまい)[やぶちゃん注:熊楠が述べる如く、現在も、この名の日本人僧が誰だったのか、全く判っていない。]に見(まみ)ゆるに、言はく、「甞(かつ)て中天[やぶちゃん注:上記の中天竺。中部インド。]に至りしに、寺中、多く、玄奘が麻の屩(くつ)及び匙(さじ)[やぶちゃん注:「異称日本伝」では「カイ」とルビ。]・筯(はし)[やぶちゃん注:音は「チヨ(チョ)」。箸。]、綵雲(さいうん)を以つて之れを乘せて畫(ゑが)けり。蓋し、西域には無き所の者なればなり。齋日(さいじつ)の至る每に、輙(すなは)ち、膜拜(もはい)す。」と。

   *

最後の「膜拜」は「跪いて両手を挙げて礼をすること」を指す。仏教に於ける最高無条件の礼式である。

「眞如親王」澁澤龍彥最後の名作で知られる高岳親王(たかおか 延暦一八(七九九)年~?(貞観七(八六五)年とも元慶五(八八一)年ともされるが不明))、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、「薬子の変に」より廃された。後に復権して四品となるが、出家し、僧侶とななったその法名が「眞如」であり、空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)の十大弟子の一人となり、仏法を求めて六十四という老齢で入唐を決意、貞観六(八六四)年に長安に到着して在唐三十余年になる留学僧円載の手配により、西明寺に迎えられた。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(「会昌の廃仏」)の影響により、仏教は衰退の極みにあったことから、親王は長安で優れた師を得ることが出来なかった。そこで、遂に天竺行を決意し、貞観七(八六五)年、皇帝の勅許を得て、従者三名とともに、広州より海路、天竺を目指して出発したが、その後、消息を絶った。なお、在原業平は甥に当たる。

「羅越」羅越国はマレー半島の南端にあったと推定されている国。ここで元慶五年に亡くなったというのは、「日本三代実録」の元慶五年十月十三日の条にある、当時、在唐していた留学僧中瓘(ちゅうかん)らの報告によるものである(前の注とここは概ね当該人物のウィキに拠った)。

「師鍊」不詳。「自推古、至今七百歲」という時代がまた訳が判らない。松下見林はどこかで空海が高岳親王の天竺行を讃嘆したという、トンデモ記事を読んだものか? にしても「七百歲」が合わない。空海は親王在日中に遷化しており、彼も看取っている。【同日夜削除・訂正追記】いつも御指摘を頂くT氏よりメールを頂戴し、私のトンデモない誤りであることが判った(「師鍊」とあるのを「師」のみで誤認した致命的なもの)。これは、鎌倉後期から南北朝時代にかけての臨済僧で五山文学の代表者の一人である虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)のこと。元亨二(一三二二)年に白河済北庵で優れた仏教史の史書「元亨釈書」を著したが、そのこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの永禄元(一五五八)年の写本の当該箇所の画像。左頁の後ろから三行目以下)に、この叙述が出ることを御指摘戴いた。いつも乍ら、T氏に心より御礼申し上げるものである。

「自推古、至今七百歲、學者之事西遊也以千百數、而跂印度者、只如一人而已。蓋不考金剛三昧事也」「推古より今に至るまで七百歲。學者の西遊を事(こと)とするや、千百を以つて數ふ。而れども、印度に跂(つまだちてむか)ふ者は、只、一人のみのごとし」。と、けだし、金剛三昧のことを考えざりしなり」

「‘The Discovery of Japan,’ Nature, vol. lxvii, p. 611, 1903」「日本の発見」。Internet archive」のこちらで原本が読め、その第二段落後半に以上の「酉陽雑俎」の内容が短く記されてある。]

2021/02/10

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。] 

 「ペドロソ」の葡萄牙里談、第二十四頗る之れに似たり、云く、鰥夫[やぶちゃん注:「やもめ」。]あり、三女を有せるが長女次女は衣裳飾りのみし、季女[やぶちゃん注:「すゑむすめ」。]は好んで厨事を務めけるを、兩姉嘲て竈猫[やぶちゃん注:「かまどねこ」。]と呼り[やぶちゃん注:「よべり」。]、一日、其父一魚を獲、季女に料理を命ぜしに、季女其魚の色黃に美なるを愛し、父に乞て之を自分の室に置き、水中に養ふ、夜に及び、魚女に向ひ、吾を井に放てと言しかば、起て之を井に投ず、翌日季女魚見んとて井に近くに[やぶちゃん注:「ちかづくに」。]、魚「娘子井に來れ」と連呼す、女大に惧れて去る、次日、二姉宴會に趣ける不在中、季女復た井に近けば、魚呼ぶ事昨日の如し、因て進で井に入しに、魚女の手を牽て[やぶちゃん注:「ひきて」。]、金玉の殿に導き、無比の美服を着、一雙の金履を踏せ[やぶちゃん注:「はかせ」。]、輅車[やぶちゃん注:「ろしや」。大きな車。]に乘て宴會に趨かしむ[やぶちゃん注:「おもむかしむ」。]、戒めて曰く、必ず二姉に先つて退き、此所に來て衣飾を脫せよと、宴會に趣くに及び、滿堂季女の美を驚嘆せざる無し、宴竟り[やぶちゃん注:「をはり」。]急ぎ去らんとせしに、履一を落し王に拾はる、王廼ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]國中に令し、此履の本主を娶ん[やぶちゃん注:「めとらん」。]といふ、季女家に還つて、井中の王殿に上り、衣を脫せる時、魚來て問ふ可き事有れば、今宵又來れと云ふ、二姉還りて、季女の厨事に急がしきを見、其日宴會で、無上の美人、金履を落し、王其持主を娶んと熱望する由を語る、又言く、吾等是より王宮に詣り、彼履を試みんに、一人の足必ず之を合ふ可ければ、后と爲し事必定也、爾時[やぶちゃん注:「そのとき」。]厨猫に一新衣を遣さんと、二姉出行くを見て、季女井に到るに、魚忽ち、「汝吾妻たるべし」と勸むる事甚だ力めければ[やぶちゃん注:「つとめければ」。]、遂に從ひぬ、其時魚即ち化して人となり言く、吾は當國王の子、久しく呪封されて此井に在り、吾れ今日、汝が履を落せるより、吾父令して履主を娶らんと望むを知る、汝直ちに王宮に趣き、妾既に婚を君の子に約せりと言へり、季女、井を出で家に入れば、二姉還りて、二人の足如何にするも彼履に適せざりしと嘆き、季女吾も行て試んと言ふを聞き、大に之を嘲る、季女王宮に詣り、履を試るに、合ふて寸分を差え[やぶちゃん注:ママ。「たがえ」。]ざりければ、王之を娶んと言ふ、季女因て王子の告げし儘に答て、之を辭せしに、王驚喜措く所を知ず、百官を遣して井より王子を迎へ、竈猫女を娶らしめければ、兩姉羨み嫉み、恐言[やぶちゃん注:ママ。「怨言」の誤りではないか?]を放て罰せらる、其後、王子父に嗣で立ち、竈猫は后たりと、按ずるに、古今魚類を崇め神とせる民族多し(F. Schultze, ‘Fetichism,’ trans., New York, 1885, p.79; Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol.ii, pp.118-122; Leo Frobenius, ‘The Childhood of Man,’ 1909, p.243  Seqq.) 例せば、鯉神變有り、山湖を飛越え、鱧[やぶちゃん注:「やつめうなぎ」。]夜北斗に朝し、之を殺さば罪を益す[やぶちゃん注:「ます」。増す。]等、支那に靈魚の談多し(淵鑑類凾卷四四一[やぶちゃん注:底本は「四四二」であるが、「選集」は「四四一」とし、原本を確かめたところ、後者が正しいので、特異的に訂した。])、本邦で魚を崇めし遺俗に就ては、本誌二八八及び二九一號を見よ[やぶちゃん注:これは既に既に電子化したもので、前者が山中笑の「本邦に於ける動物崇拜」であり、後者がそれを受けて熊楠が書いた「本邦に於ける動物崇拜」である。]、又古え鮪、鰹、目黑[やぶちゃん注:「めぐろ」。ウルメイワシの異名。節分に魔除けとして鰯を掲げることを想起せよ。]、鯛、鮒、「ヲコゼ」、「コノシロ」、鯖(玄同放言卷三)、鎌足(カマス)房前(ハゼ)(石野廣通著繪そら言)等、魚に資れる[やぶちゃん注:「よれる」。]人名多く、神佛が特種の魚を好惡する傳說頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]少なからざるは、今日迄蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]、愛爾蘭[やぶちゃん注:「アイルランド」。]に、地方に隨て魚を食ふに好惡ある(Gomme, op.cit., p. 290)に同く、古え「トテミズム」盛んなりし遺風と見ゆ、古歐州及び印度の諸神、魚形なりし例多く Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ p.329 seqq. に出づ、古埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]に、魚神「レミ」あり、又鰻鱺[やぶちゃん注:「うなぎ」。]等諸魚を神とし、(Budge, ‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol. i, p.303; vol.ii, p.382)、日神「ラア」は二魚「アブツ」「アント」を使ふ、(‘The Book of the Dead,’ trans. Budge, 1898, p. 4)、古カルデア人、無智にて禽獸と別無かりしを、智神「エア」、晝間のみ海を出で、上陸して、言語、農工、書畫萬般を敎えたり、此神は魚形也、其前後にも、斯る魚形神出で、民を開導せる事、佛敎に一佛・二佛有るが如し(Maspero, ‘The Dawn of civilization,’ London, 1894, p. 565, &c; Boscawen, ‘The First of Empires,’ 1903, pp. 67―68)而して、魚屬其他動物の骨を尊敬する民族屢ば有るは Frazaer, op.cit., pp.118―20, 122.  seqq. に其論有り、去ば雜俎、葉限、魚骨に祈て福を得し話は、支那南部に、舊く斯る崇拜迷信行れたる痕跡ならん歟、履を手懸りとして美女を求むる話は、「ストラボン」(耶蘇と殆ど同時)の書に出づ、西曆紀元前六百年頃の名妓「ロドペ」浴する間に、鷲其履を捉み去り、メムフヰスの王の前に落せしを、王拾つて、其履の美にして小さきに惚込み、履主を搜索して、遂にロドペを娶れりとなり。

[やぶちゃん注:『「ペドロソ」の葡萄牙里談』「5」で既出既注。

「第二十四」「Internet archive」の英訳版(ロンドン・一八八二年)の「XXIV. THE MAIDEN AND THE FISH.」

「F.Schultze, ‘Fetichism,’ trans., New York, 1885, p.79」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」で既出既注であるが、再掲すると、ドイツの哲学者フリッツ・シュッエ(Fritz Schultze 一八四六年~一九〇八年)の書いた「呪物崇拝」の一節。「Internet archive」で原本が見られる。ここ(右ページ左の中央)。直ぐ後にはミクロネシアでのウナギ崇拝の記事も続いている。

「Frazer, ‘The Golden Bough,’」イギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」(The Golden Bough)。私の愛読書の一つである。

「Leo Frobenius, ‘The Childhood of Man,’ 1909, p.243  Seqq.」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」で既出既注。

「鱧」漢籍のそれであるから、これはハモではなく、脊椎動物亜門無顎上綱(円口類=無顎類) 頭甲綱ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科 Petromyzontidaeに属する生物であるヤツメウナギ類である。体制が似ているために「ウナギ」の呼称がつくものの、生物学的には、タクソン上、魚上綱に含まれないため、魚ではないという見解があるが、では、その習性から、魚に付着して体液を吸引する魚類寄生虫とするのも、私には馴染まない気がする。複数種が知られるが、本邦の場合は食用有益種としては同科ヤツメウナギ目 Petromyzontiforme のカワヤツメ(ヤツメウナギ)Lampetra japonica 及びスナヤツメ Lethenteron reissneri である。両者はともに中国北部にも分布するので、これらに比定しても構わないだろうが、ヤツメウナギ類は実に世界で三科十属三十八種がいる(中国・日本に分布しない種も含む)ので、中国のそれは、他の種も含まれると考えた方が無難である。ヤツメウナギ類はウナギ類のレプトセファロス(Leptocephalus)同様に、幼生が成魚と大きく異なった形態をしており、アンモシーテス(Ammocoetes)と呼ばれる。幼生は目が皮下に埋没していて、無眼に見え(但し、負の走光性を示すので感覚器としては機能していると思われる)、口吻もロート状又は頭巾状(成魚は吸着吸引に特化した吸盤状)で、川床の泥中に四年間程(ある記載では一~七年と幅が広い)、底棲している。変態後(変態後は開眼する)は海に下り、魚類に吸着して体液を吸う(ヤツメウナギ目には降河しない種がおり、彼等は産卵まで餌を全くとらないという)、二~三年後(スナヤツメではこの期間が短く半年程度であるらしい)に産卵のために、再び、川に遡上する。その際にはもう摂餌をせず、目も消化管とともに退化してしまい、体長もアンモシーテス期より逆に小さくなるとも言う。再び盲(めし)い、飲まず食わずで身を細らせての皮つるみ、そして死――ドラキュラのごとく忌み嫌われる彼等も確かな生物の厳粛な営みの中にいる(後半のアンモシーテス幼生とライフ・サイクルについては幾つかの記載を総合的に参照した)。私の古い電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「鱧 やつめうなき」の項を参照されたいが、そこで李時珍の「本草綱目」を引いて、

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頭の斑點、七つ有り、北斗の象(かたち)を作(な)す。夜は、則ち、首を仰(あをむ)け、北に向ひて、北斗に朝す自然の禮、有る故、字、「禮」の省(はぶ)くに从(したが)ふ。蛇と氣を通じて、色、黑く、北方の魚なる故、「玄」・「黑」・「烏」の諸名有り。

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という、辛気臭い載道的生態行動解釈が載る。ヤツメウナギは体側の目のやや後方に七つの鰓孔を持つところから命名されているが、鰓孔は後部に向って体に平行に等間隔で開いており、北斗星の形などにはなっていないから、数の相同を牽強付会したに過ぎない。私は八目鰻を親しく観察したことはないから、確証を持っては言えないが、このような実際の生態行動はないであろう。北斗星は中国では古来より時刻・季節の推移を予兆する星として重要視され、後に道教の北斗神君などとして神格化され、寿命・禍福を司るものとして信仰された。また、この「朝す」とは「拜む・礼拝する」の意である。則ち、「八目鰻は夜になると、首を仰向けにして、常に北に向け、神聖な北斗神君のシンボルであるところの北斗星を『禮』拝し、自然の『礼』をとり行うが故に、その漢字は『禮』を省略して(「示」を「魚」に換えて)『鱧』という字に造るのである」というトンデモない意味なのである。なお、中国語では「大鰻(おおうなぎ)」の意が第一義にある。

「淵鑑類凾卷四四一」同書は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「中國哲學書電子化計劃」の四百四十一巻の「魚一」にごっそり書いてあるが、よく見ると、「鯉最爲魚中之主形既可愛又能神變乃至飛越山湖所以琴髙乘之」とあり、「雅俗稽言曰鱧俗呼烏魚又名火柴頭頭戴七星夜禮北斗道家謂之水厭忌食之養生家亦忌其膽臘月收取隂乾遇喉急痺少許㸃之卽愈白小銀魚也小於麵條鰣魚初夏有餘月無故謂之」とあるのが、熊楠のネタ元であることが判る。

「古え鮪、鰹、目黑、鯛、鮒、「ヲコゼ」、「コノシロ」、鯖(玄同放言卷三)」曲亭馬琴の随筆で琴嶺(馬琴の長男)・渡辺崋山画。文政元(一八一八)年から同三(一八二〇)年刊。天然・人事・動植物について和漢の書から引用して考証を加えたもの。「玄同」は「無差別」の意。当該部は巻三上の「第廿九」の「人事」にある「姓名稱奈謂」の一節。「KuroNetくずし字認識ビューア」のここの左頁二行目の「鯨」から始まる魚名を名前に持つ〈人名魚尽くし〉の箇所。以上を視認して訓読し、電子化する。表題は底本では囲み罫であるが、[ ]で挟み、目立つように太字にし、且つ、改行した。【 】は割注。一部に句読点・記号を添え、また、変更もした。なお、本来ならば、「鯖」までの引用で十分なのだが、今少し、魚類関連のものが続くので、このパートの最後まで電子化しておいた。

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[鯨【クジラ】]には、同名多かり。大伴の連(むらじ)鯨、【「書紀」廿三。舒明紀。】河内の直(きみ)鯨、【同廿七。天智紀。】民の直(きみ)鯨、【同廿八。天武紀。】廬(いほ)井の連(むらじ)鯨、【同紀。】粟田の朝臣鯨、【「續日本後紀」。十六。】大伴の宿祢鯨、【同―一一。】刑部造眞鯨(をさかべのみやつこまくじら)、【「三代實錄」七。淸和紀。】。

[鮪【シビ】]も亦三人あり。八口(やく)の采女鮪女(しびめ)、【「書紀」廿三。舒明紀。】物部の朴(えの)井の連鮪、【同廿五。齊明紀。】」吉士小鮪(きしこしび)、【同廿七。天智紀。】この他、「萬葉集」第十六に、土師(はじ)の宿祢水通(みゆき)、字(あさな)は志婢(しひ)麻呂、といふ者(ひと)見えたり、この志婢(しひ)も、鮪(しび)の假名にはあらぬか。考べし。

[堅魚【カツヲ】]をもて、名とせしは、石上(いそのかみ)の朝臣勝雄(かつを)、【「續紀」十一。聖武紀。】河原の毗登(ひと)堅魚、【同卅。孝謙後紀。】縣犬養(あがたいぬかい)の宿祢堅魚麻呂、【同卅七。桓武紀。】安倍の朝臣堅魚、【「殘缺後紀」廿二。嵯峨天皇紀。】大伴の宿祢雄(を)堅魚、【又、小堅魚に作る。「殘缺後紀」廿二。】伴(とも)の宿祢眞(ま)堅魚、【「類聚國史」九十九。天長中の人なり。】」この他、豐岡の宿祢眞黑(まくろ)麻呂、【「續後紀」二。】この眞黑麻呂の眞黑も、目黑(まくろ)堅魚の事ならんか。目黑堅魚の名目は、「東鑑」に見えたり。

[鯛]をもて、名とせしものは、凡(おほち)の直(きみ)鯛、【續紀廿九。孝謙後紀。】大中臣の朝臣鯛取、【「殘缺後紀」十七。平城天皇紀。】安倍の朝臣鯛繼(つぐ)、【「續後紀」七。】髙道の宿祢鯛釣、【同八。】この他、鯛身の命(みこと)、【「姓氏錄」十八。】小鯛王、【「萬葉集」十六。】又、仁明天皇嘉祥二年、十一月廿日、賣買家地の劵書(けんしよ)に、秦(はだ)の忌寸(いみき)鯛女【「好古目錄」上卷。】あり。

[鯽魚【フナ】]にも、亦、同名あり、吉備の品遲部(ひちべ)の雄鯽(をふな)、【「書紀」十。應神紀。】難波玉造部(つくりべ)の鯽魚女、【同十五。欽明紀。】鴨の朝臣子鯽(こふな)。【「續紀」十八。孝謙紀。】

[鰧【をこし】[やぶちゃん注:オコゼのこと。]]にも、亦。同名あり。物部尾輿(をこし)、【「書紀」十九。欽明紀。】蘇我の臣(おみ)興志(をこし)、【同廿五。孝德紀。】尾張の宿祢乎己志(をこし)、【「續紀」四。元明紀。】大神(おほみわ)の朝臣興志(をこし)、【同六、同紀。】凡(おほち)の連(むらじ)男事志(をこし)、【同九。元正紀。】これらの名すべて「䲍(をこし)」の假字(かな)なり。

[鯯魚【このしろ】]にも、亦、同名あり。鹽屋の鯯魚(このしろ)、【「書紀」廿五。孝德紀。分注に云はく、「鯯魚(このしろ)は、此に云ふ「挙能之盧(このしろ)」[やぶちゃん注:実際に魚の「コノシロ」にこの漢字四字を当てる。]。】堺部の宿祢鯯魚(このしろ)。【同廿九、天武紀。】」

[鯖【さば】]にも、亦、二人あり。紀の朝臣鯖(さば)麻呂、【「續紀」卅八。桓武紀。】田口の朝臣佐波主(さはぬし)、【「續後紀」四。】この他、林の宿禰娑婆(さば)【「殘缺後紀」五。桓武紀。】あり、こは娑婆國の娑婆なるべし。

 この餘(よ)、魚をもて名とせしもの、衆夥(あまた)なり。枚挙(かぞへあぐる)に遑(いとま)あらず。按ずるに、魚は陰中(いんちう)の陽(やう)なり。こゝをもて、むかし、百官の名に、多く取れるなるべし。

 「蠡海集(れいかいしふ)」[やぶちゃん注:宋の王逵(おうき)著。天文・地理・人身・庶物・暦数・気候・鬼神・事義類に分類した雑考。]に【庶物類。】曰はく、『水族(すいぞく)は、乃ち、陰中の陽なり。何を以つて其の然を[やぶちゃん注:「しかるを」。]知るか』云々(しかしか)、『魚、乃ち、陰物にして、陽氣を得ること多し。故に腹内、脬(はく)[やぶちゃん注:浮袋。]を生ず。是れを以つて、能く浮き躍(おど)る[やぶちゃん注:ママ。]。魚の目は、晝夜、瞑(ねふ)らず。因りて、其の、陰物、爲(たれ)ども、陽を得ること、多き者なるを知るなり』といへり。この「小」をもて「大」に譬(たとへ)ば、人主(みかど)は陽なり、庶民(たみ)は陰なり、百官(もゝのつかさ)は陰中の陽なり、之加(くはふるに)、諸魚、天神御子(あまつかみのみこ)に仕(つかへ)奉りし故事(ふること)あり。「古事記」【上卷。】に、天津日髙日子番能迩迩藝命(あまつひたかひこほのににぎのみこと)、天降(あまくだり)まして、竺紫(つくし)の日向之髙千穗(たかちほ)之久布流多氣(くふるのため)に座(ゐま)せしとき、底度久御魂(そことくみたま)、都夫多都御魂(つづたつみたま)、沫佐久御魂(あはさくみたま)等(たち)、猨田毗古古命(さるたひこのみこと)を送(おくり)て、還(かへ)り到(いた)る條下(くだり)に云はく、『乃(すなは)ち、悉(ことごと)く鰭廣物(はたのひろもの)・鰭挾物(はたのさもの)を追聚(よびつど)へて、以(も)て問へらく、「汝(いまし)は天神御子(あまつかみのみこ)に仕(つか)へ奉(まつ)らんや」と言ふ時に、諸(もろもろ)の魚(うを)、皆、「仕へ奉らん」と白(まう)すの中(なか)に』云々(しかしか)、後生(のち)の人臣、名(な)を鱗介(いろくづ)に取るものゝ多かりしも、これらに緣(より)ての事なるべし。

 又、按ずるに、同書【上卷。】に、大穴牟遲神(おほなむちのかみ)、欺(あざむか)れて、八十神(やそのかみ)に燒(やか)れ給ふ段に云はく、『神産巢日(かむみむすひ)之命(みこと)、時に乃ち、黑貝(いかひ)と蛤貝比賣命(おほかひひめのみこと)とに告(の)り訓(をし)て[やぶちゃん注:ママ。]作活(いけらしたまふ)』云云(しかしか)といへり。鱗介(いろくづ)をもて、名とすること、はやく、こゝに見えたり。

 又、按ずるに、都の宿祢腹赤【「類聚國史」九十九。弘仁十四年正月叙位。】と、粟(あは)の宿祢鱒(ます)麻呂【「三代實錄」六。】とは、その名を等類(とうるい)とせんか。一説に『「腹赤(はらか)」は「鱒(ます)」なり』と、いへり。今、俗は、「鮏(さけ)」の子を「腹赤子(はらゝこ)」といふなり。又、一説に、『「腹赤(はらか)」は地の名なり。肥後の國玉名の郡、長渚(ながはま)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]に、「腹赤濱(はらかはま)」あり。この海濱にて漁取(すなと)る魚を、「久尓倍(くにべ)」[やぶちゃん注:ニベのことではないか?。]といふ。「腹赤」は、卽(すなは)ち、「久尓倍(くにべ)」の事なり。その濱によりて、名を得たり』と、いへり。いまだ孰(いづれ)か是(よき)を、しらず。「江家次第」、【卷之一。元日節會。】腹赤の奏の條下(くだり)を考ふべし。

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「鎌足(カマス)房前(ハゼ)(石野廣通著繪そら言)」石野廣通(ひろみち 享保三(一七一八)年~寛政一二(一八〇〇)年)は旗本で歌人・国学者。本姓は中原。家禄三百石。従五位下・遠江守。「繪(ゑ)そら言(ごと)」寛政九(一七九七)年頃に成ったかなりくだけた調子の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読め、当該部はここ(左ページ八行目から。直前で藤原鎌足を出しておいて、

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「御存の通り愚臣が名はかますにて、むかし魚の名を付事がはやり物のやうににて、君の御骨折らせ打亡されし入鹿なども海豚といふ魚の名を付、鮪の大臣なども魚の名、蘇我の赤兄なども赤鱝といふ魚の名、鹽屋の連鯯(齊明御宇の頃の人)そのゝち廬井造(天武の御宇の人)、又愚臣が孫の房前などもふさゝきにてはなく、房はほう前はぜんにてはぜといふが實の義、すなはち鯊の名なるをとなへ誤れり、此外にも魚の名付たる人あまた也、もろこしにても伯魚といひ鯉といひ玄孫を禮鮒といふ、祝鮀といふも魚の名也、魚の名付侍る事大䳡鷯尊(仁德天皇)[やぶちゃん注:「䳡鷯」はミソサザイを指す。]木兎宿禰(武内)隼別王子(人德の弟)飯豐も(人德の曾孫)鳥の名也、其外、數々こゝにいひたつるに及ばず、臣が名をかますと申證據は足の字はそくともすうとも兩音にて、論語にも足恭をすうきやうとよむがが如く、足はすうの音にて鎌足と書ても鎌子と書てもかますなるを、子の字もつねに申金子などのすといふには心付ずして、鎌足一名は鎌子とぼへ大系圖などには大職冠鎌たり一名鎌子としるせり、入鹿退治の時かまをもつて打たるゆゑ名付て淨瑠璃にも大津眞島を宿禰兼道が鎌をもつては向ふ思ひ入、これは百姓すがたにやつして居れば相應によく取合せてつくりたれど、それがし何故帶劒を用ひずにも子麿等と同時劒をもつて入鹿をきることたしかにしるせり、其鎌をおさめた所を鎌倉山といふなふなどとよひかげんなうそを取つけいひなす義に候と申さるれば、しへいの大臣尊公にはしかなれども、後代までおろそかにはいはず、名武峰にある所の御像が明應七年にやぶれたる時も、國家に變ある時はいにしへより御廟鳴動し、御像やぶれさくるなどゝあがめ申さるゝ、誠に御本望の至り也、[やぶちゃん注:以下略。]

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てな感じで、何となくこの人、博識なんだろうが、どうも好きになれない文章だ。

「Gomme, op.cit., p. 290」前に出たイギリスの民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の一九〇八年の著作「歴史科学としての民間伝承」。ずっと後の版だが、「Internet archive」の原本のここで読める(左ページ)。

「Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ p.329 seqq.」「Gubernatis」はイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。この「動物に関する神話学」は「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が読める

『魚神「レミ」』「Budge, ‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol. i, p.303; vol.ii, p.382」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年:古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた)の原本の当該部は「Internet archive」で見られ、第一巻がこちらの右ページで、英文の「レミ」の綴りは「Remi」で、舌から六行目の頭にヒエログリフ(hieroglyph)が記され、そこにスズキ目ベラ亜目カワスズメ科 Cichlidae カワスズメ(ティラピア:Tilapia)を表わすそれが記されてあり、英文では「the Fish-god」とある。後者の第二巻のそれは同書の最後の部分で、「382」ではなく、「383」ページの一行目末から三行目にかけてに、

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The Phagrus, or eel, was worshipped in Upper Egypt, and mummied eels have been found in small, sepulchral boxes.

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と書かれてある。「Phagrus」とはスズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属ヨーロッパマダイ Pagrus pagrus である。しかし、この英文には、正直、ちょっと驚いた。ミイラ化されたウナギが墓の中の箱から発見されているとあるのである。これはもう、確かに神さまだわ!

「‘The Book of the Dead,’ trans. Budge, 1898, p. 4」Internet archive」の原本のここ。太陽神ラー(英文綴りは「Rā」)が使役する魚として「Ȧbțu」及び「Ȧnt」が記されてある。

「古カルデア人」ウィキの「カルデア」によれば、カルデア(Chaldea・Chaldæa)はメソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称で、紀元前十世紀以降に『この地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族はカルデア人と呼ばれるようになった。カルデア人は紀元前』七『世紀に新バビロニア王国を建国した』。『短命に終わったバビロン第』十一『王朝』(紀元前六世紀)『を、歴史家は慣習的にカルデア王朝、カルデア帝国、あるいは新バビロニア王国と呼ぶ。と言っても、この王朝の歴代の支配者のうち、カルデア人であると分かっているのは最初の』四『人だけである。最後の支配者ナボニドゥス(そしてその息子であった摂政ベルシャザル)の出自ははっきりしていないが、一説にはアッシリア出身とも言われる』。『カルデア人が定住した地域はバビロニア南部にあり、主にユーフラテス川の東岸沿いにあった。カルデアという名は一般にメソポタミア南部全域を指す言葉として使われるようになったが、本来のカルデアは実のところ、ユーフラテス川とチグリス川の堆積物によってメソポタミア南東端に形成された、この』二『つの川の流れに沿った長さ約』六百四十四キロメートル、幅およそ百六十一キロメートルに『広がる広大な平原であった』。『ヘブライ聖書ではカルデア人を指して』「カスディム」『という言葉が用いられており、七十人訳聖書ではこれをカルデア人と翻訳している。アブラハムの出身地もカスディムのウルと書かれている』。『古代ギリシア人がカルデア人』(カルダイオス)『と呼んだのは、バビロニアがアケメネス朝ペルシアの支配を受ける前のバビロニアの支配階級であった。現在ではカルデア人がバビロニアの最初の定住民であったとは考えられていないが、ヘレニズム期の歴史家シケリアのディオドロスは、カルデア人を最古のバビロニア人とした。古代世界においてカルデア人は天文学・占星術を発達させていたことで高名であり、「カルデア人の知恵」とは天文学・占星術のことであった』。『占星術を司るバビロニアの知識階級『乃至、『祭司階級を』単に『カルデア人と呼ぶようにもなった』。『カルデア人が使用した言語はアッカド語のバビロニア方言であった。これはアッシリア・アッカド語と同じセム語であるが、発音と文字に若干』、『変わったところがある。後期にはアッカド語のバビロニア方言もアッシリア方言も話されなくなり、メソポタミア中でアラム語がこれに取って代わった。アラム語は今日までイラクとその周辺国のアッシリア人と呼ばれるキリスト教徒(アッシリア東方教会やカルデア・カトリック教会』『の信徒)の母語であり続けている(アッシリア現代アラム語、カルデア現代アラム語)』とある。

「一佛・二佛」通常は釈迦如来と弥勒菩薩を指す。千仏という謂いもあり、これは過去・現在・未来の三劫 にそれぞれ現れるという千人の仏で、特に現在の賢劫の千人の仏を指し、釈迦はその四番目の仏とされる。

「Maspero, ‘The Dawn of civilization,’ London, 1894, p. 565」フランスの考古学者ガストン・カミーユ・シャルル・マスペロ(Gaston Camile Charles Maspero 一八四六年~一九一六年)。一八六九年から高等研究実習院でエジプト語を講義し、一八七四年にはコレージュ・ド・フランス(Collège de France:国立フランス教授機関)で、ロゼッタ・ストーン解読やヒエログリフ解明で知られる「古代エジプト学の父」ジャン=フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion 一七九〇年~一八三二年)の後継の地位に就いた。一八八〇年にエジプトへ派遣され、オギュスト・マリエット(Auguste-Ferdinand-François Mariette 一八二一年~一八八一年)の後を継いで、エジプト考古学庁最高責任者となった。また、政府の委託でカイロ考古学研究所を設立したことでも知られる。カイロ博物館の第二代館長でもあった(以上は彼のウィキに拠った)。当外原本は刊行年が異なるが(1897年)、ここでよかろう。カルデア人の記載が続き、尾鰭を持った半人半魚の二体の神像画が示されており、次の「566の十行目に「Ea」の神名を確認出来る。

「Boscawen, ‘The First of Empires,’ 1903, pp. 67―68)」筆者はアッシリア学者ウィリアム・セイント・チャド・ボスコーウェン(William Saint Chad Boscawen 一八五四年~一九一三年)。Internet archive」で原本が見られ、当該箇所はここ。左ページ下方から「Ea」の記載が始まる。

『「ストラボン」(耶蘇と殆ど同時)の書』古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者ストラボン(ラテン語文字転写:Strabo 紀元前六四か六三年~紀元後二四年頃の書いた全十七巻から成るギリシャ語で書かれた「地理誌」(同前:Geōgraphik:ゲオグラフィカ)であろう。この大著は当時の古代ローマ人の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。

『西曆紀元前六百年頃の名妓「ロドペ」浴する間に、鷲其履を捉み去り、メムフヰスの王の前に落せしを、王拾つて、其履の美にして小さきに惚込み、履主を搜索して、遂にロドペを娶れりとなり』「履物」の「履物と文化」の「西洋」の項に以下のようにある。「ロドペ」の伝承もさること乍ら、全体に本篇との親和性の高い内容なので、前の部分も含めて引く(コンマは読点に代えた)。

   《引用開始》

 片方の履物にまつわる多くの伝承がギリシア文化圏にはある。トゥキュディデスは、プラタイアイの兵士の一隊が片方のみはだしで城塞(じようさい)から脱出したことを伝え(《戦史》第3巻22章)、女怪ゴルゴンを退治したペルセウスはサンダルを片方しかはいておらず、片方のサンダルの男に注意せよとの神託を受けていたイオルコス王ペリアスの前に現れたイアソンはそのままの格好であったために、金羊皮を求めて旅に出ることになる。J. G.フレーザーは《金枝篇》で、はだしの右足を犠牲獣の皮の上に置いて行われるギリシアの宗教儀礼に言及しているが、履物の片方だけをはいたいわば異形の姿と、神の加護あるいは神意の顕現という観念には強い関連のあることが予想される。なお、ヘロドトスによれば、ペルセウス崇拝はエジプトにも及んでおり、ケンミスなる町にはその神殿があるが、ペルセウスはしばしばここを訪れ片方のサンダルを残していくという。そして、このサンダルの出現はエジプトの繁栄を約する吉兆であると信じられている(《歴史》第2巻91節)。

 またヒュギヌスによれば、ヘルメスには次のような伝説がある。すなわちヘルメスは美神アフロディテに恋したが拒まれ、これを哀れんだゼウスが鷲に変じてアフロディテのサンダルの片方を盗んで彼に与えたため愛はかなえられた。同趣向の伝説はストラボンも伝えており、鷲に盗まれたロドペ Rhodopē のサンダルの片方がエジプト王プサンメティコスの胸の上に落ち、王はその持主を国中に捜し求めたという。いずれも履物と愛の成就、後者はさらに身元確認の主題が結びついている点で、シンデレラの〈ガラスの靴〉などとの共通性や、履物の性的な象徴性を示唆しており興味深い。なお、履物が身元の証明の手だてとなる例はテセウスの伝説にも見られ、上記ペルセウス、ヘルメスはともに有翼のサンダルの持主として知られる。

   《引用終了》

熊楠の表記する「メムフヰスの王」は、この引用によれば、エジプト第二十六王朝初代ファラオ(在位:紀元前六六四年~紀元前六一〇年)のプサメティコス(「プサムテク」とも表記)Ⅰ世のことであろう。]

2021/02/08

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 5

 

「シンダレラ物語」は、何人も知らぬ者なき通り、歐米で最も盛んに行なわるる仙姑傳(フエヤリーテイル)也、「シンダレラ」、繼母に惡まれ、常に灰中に坐し、厮役厨務[やぶちゃん注:「しえきちゆうむ」。]に苦しめられ、生活全く、異母妹の盛飾遊食するに反せり、一旦仙姑の助けにより、貴公子に見初められしが、公子之を執へんとする每に、駛く[やぶちゃん注:「はやく」。]去て影を留めず、然るに或夕べ、例のごとく公子眼前に舞踏濟み、遁れ去んとして、仙姑が吳たる履を落す、公子之を拾ひ、衆女を試るに、「シンダレラ」の足のみ之に合ふ、公子因て意中の人を認め、之を娶る、此譚西洋に弘く行はるゝ丈け、其作り替えも多きは、例せば C. Pedroso, ‘Portuguese Folk-Tales’;London, 1882. 葡萄牙の古話三十を載たる中、「シンダレラ物語」に屬する者、三つ迄有るにて知るべし、偖[やぶちゃん注:「さて」。]予廿三年前在米の間、酉陽雜俎續集卷一に、支那の「シンダレラ」物語有るを見出し、備忘錄に記し置き其後土宜法龍師抔[やぶちゃん注:底本「杯」と誤字する。特定的に訂した。]に報ぜし事有り、英國の俚俗學會、曾て廣く諸國に存する「シンダレラ」物語の諸種を集め、出版せし一册あり、予在外中、好機會多かりしも、多事なりし爲め、遂に之を閱せざりしぞ遺憾なる、近日倫敦の學友を賴み、右の書に支那のシンダレラ譚有りやと調べ貰ひたるに、全く無しとの返事也、然し其人斯る事に趣味を持ざれば、實際は知れず、兎に角、自分折角、久しく取って置きの物を、其儘埋め去る事の惜しまるれば、爰に其文を載す、縱ひ既に學者間に知悉されし事なりとも、此物語を、歐州特有の物と思ひ居る人々の、耳目を廣むるの少益有りなんか、云く[やぶちゃん注:以下の底本の漢字表記には疑義があるので、「中國哲學書電子化計劃」の影印本画像を視認して一部を特異的に訂した。読点も不審な箇所があるので訂した。]、南人相傳、秦漢前有洞主吳氏、土人呼爲吳洞、娶兩妻、一妻卒、有女名葉限、少惠善鈎金、父愛之、末歲父卒、爲後母所苦、常令樵險汲深、時嘗得一鱗、二寸餘、赬伯鬐金目、遂潜養於盆水中、日長、易數器、大不能受、乃投於後池中、女所得餘食、輒沉以食之、女至池、魚必露首枕岸、他人至不復出。其母知之、每伺之、魚未嘗見也、因詐女曰、爾無勞乎、吾爲爾新其襦、乃易其弊衣、後令汲於他泉、計里數百也、母徐衣其女衣、袖利刃行向池、呼魚、魚卽出首、因斫殺之、魚已長丈餘、膳其肉、味倍常魚、藏其骨於鬱棲之下、逾日、女至向池、不復見魚矣、乃哭於野、忽有人被髮麄衣、自天而降、慰女曰、爾無哭、爾母殺爾魚矣、骨在糞下、爾歸、可取魚骨藏於室。所須第祈之、當隨爾也、女用其言、金璣衣食隨欲而具、及洞節、母往、令女守庭果、女伺母行遠、亦往、衣翠紡上衣、躡金履、母所生女認之、謂母曰、此甚似姊也、母亦疑之、女覺、遽反、遂遺一隻履、爲洞人所得、母歸、但見女抱庭樹眠、亦不之慮、其洞隣海島、島中有國名陀汗、兵强、王數十島、水界數千里、洞人遂貨其履於陀汗國國主得之、命其左右履之、足小者履減一寸、乃令一國婦人履之、竟無一稱者、其輕如毛、履石無聲、陀汗王意其洞人以非道得之、遂禁錮而栲掠之、竟不知所從來、乃以是履棄之於道旁、卽遍歷人家捕之、若有女履者、捕之以告、陀汗王怪之、乃搜其室、得葉限、令履之而信、葉限因衣翠紡衣、躡履而進、色若天人也、始具事於王、載魚骨與葉限俱還國、其母及女卽爲飛石擊死、洞人哀之、埋於石坑、命曰懊女塚、洞人以爲奠禖祀、求女必應、陀汗王至國、以葉限爲上婦、一年、王貪求、祈於魚骨、寶玉無限、逾年、不復應。王乃葬魚骨於海岸、用珠百斛藏之、以金爲際、至徵卒叛時、將發以贍軍、一夕、爲海潮所淪、成式舊家人李士元聽說、士元本邕州洞中人、多記得南中怪事。

[やぶちゃん注:「シンダレラ物語」平凡社「世界大百科事典」の「シンデレラ(Cinderella)」を引くが、意想外に記載が短い(コンマを読点に代えた)。『世界的に分布の広い継子話の女主人公の英語名。話の起源はオリエントと考えられている。フランスではシャルル・ペローが《昔々の物語ならびに教訓》』(一六九七年)『に〈サンドリヨン〉の名で、口伝えの再話作品をのせ、ドイツでは《グリム童話集》』二十一『番に〈灰かぶり〉がある。口伝えの類話にも多様な変化と組合せがあるが、ほぼ次のような骨格をもつと考えられる。継娘が継母とその実子に虐待されるが、親切な動物が食物や贈物をくれる。実子がそれを知り、継母が動物を殺す。シンデレラがその死体を埋葬すると、墓に上等な服がおいてある。王子が祝宴を開くことになると、継母は難題を与えてシンデレラを行かせまいとする。動物たちの援助で難題を片づけ、墓の上等な服を着てシンデレラが祝宴に行くと,王子は美しさに打たれて娘をひきとめるが』、二『度までは逃げられ』、三『度目に娘の靴だけを手に入れる。王子はその靴に合う足の娘を探し、ついにシンデレラを発見して結婚する。この話は他の継子話、《一つ目、二つ目、三つ目》や《千びき皮》などと混じりあいながら』、『多様な変化をして伝承されている。動物の墓は、しばしば実母の墓ともいわれ、そこに木が生えて美しい着物を出してくれるという。死霊が植物に化成するという古い宗教観念の反映と考えられる。日本の《米福糠福》もこの系統の話と考えられるし、《姥皮》もこの話の後半部分と関係がある』。ウィキの「シンデレラ」も熊楠の起源説探求としては引くに値しない。因みの英文表記の「Cinderella」とは「Cinder」(灰)に対象が女性や子供を表わす際の接尾語「-ella」が附された「灰だらけの汚い娘」という卑称の綽名である。

「仙姑傳(フエヤリーテイル)」fairy tale。原義は「妖精(精霊)についての物語」であるが、転じて「御伽話」「信じられないほど美しい話」の意。形容詞としても用いられる。

「厮役」召使い。

「C. Pedroso」ポルトガルの歴史家・民俗学者ゾフィモ・コンシグリエリ・ペデルゾ(Zófimo Consiglieri Pedroso 一八五一年~一九一〇年)。当該英訳書は「Internet archive」のこちらで読める

「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。本文は後掲する。

「土宜法龍」(どきほうりゅう 安政元(一八五四)年~ 大正一二(一九二三)年)真言僧で真言宗高野派管長。名古屋生まれ。本姓は臼井。四歳の時に伯母の貞月尼を通じて出家し、「法龍」と称した。明治二(一八六九)年に高野山に登って、真言・天台などの教義を学び、仏教教学の研究に努めた。明治二六(一八九三)年、アメリカのシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本仏教の代表の一人として参加した。その会議終了後、ヨーロッパに渡り、パリでは「ギメ博物館」仏教部の要請を受けて五ヶ月間、滞在しており、また、ロンドンでは、まさに滞欧中であった南方熊楠と出会い、互いに意気投合して、パリ滞在中にもロンドンの南方と書簡を交わすようになり、西域・チベットへの仏教探訪の旅を語り合ってもいる。また、南方が紀伊に帰ってからも、文通が頻繁に行われ、南方の宗教観、特に曼荼羅論・宇宙論に大きな影響を及ぼしている(この往復書簡は甚だ面白い)。明治三十九年に仁和寺門跡御室派管長、大正九(一九二〇)年に高野派管長となり、真言宗各派連合総裁・高野山大学総理などを兼任した。

「俚俗學會」民俗学会。

「酉陽雜俎續集卷一」の「支諾皋(しだくこう)上」の最初の方に出る。所持する「東洋文庫」(一九九四年刊)の今井与志雄氏の訳文を参考に訓読を試みる。今まで言っていないが、平凡社「選集」版は勝手に訓読したものが載るが、これが現代仮名遣で、しかも訓読者が漢籍に詳しい人物でないようで、甚だ不審に思う箇所が多く、殆んど参考にしていない(というか、ならない)ことをお断りしておく。

   *

 南人(なんじん)、相ひ傳ふ。

 秦・漢の前に洞主(どうしゆ)[やぶちゃん注:村長。]の吳氏あり、土人、呼んで「吳洞」となす。兩妻を娶る。一妻、卒(そつ)し、女(むすめ)有り、「葉限(せふげん)」[やぶちゃん注:現代仮名遣「しょうげん」。この名は中国南部の伝説の女性の名として知られる。]と名づく。少(をさ)なきより惠(さと)く、善(よ)く金を鈎(さぐ)る[やぶちゃん注:探し出した。]。父、之れを愛す。

 末歲(まつさい)[やぶちゃん注:ある年の末。]に、父、卒し、後母(ままはは)に苦しめらるる所と爲(な)る。常に險(けは)しきに樵(きこ)らせ、深きに汲(みづく)ましむ。時に、嘗て、一つの鱗(うを)を得たり。二寸餘りにして、赬(あか)き伯鬐(ひれ)、金の目たり。遂に潜(ひそ)かに盆水に養ふ。日(ひにひ)に長じ、數器を易(か)ふるも、大にして、受くる能はず。乃(すなは)ち、後ろの池中に投ず。女(むすめ)は、得させらるる所の餘食を、輒(すなは)ち、沉(しづ)めて以つて之れに食らはす。女、池に至れば、魚、必ず首を露はして岸に枕(まくら)す。他人の至るも、復たと出でず。其の母、之れを知りて、每(つね)に之れを伺ふも、魚、未だ嘗て見(あら)はれず。因りて、女に詐(いつは)りて曰はく、

「爾(なんぢ)、勞する無からんや[やぶちゃん注:疲れてはいないかい?]。吾、爾が爲めに其の襦(うはぎ)を新たにせん。」

と。

 乃ち、其の弊(やぶ)れし衣を易(か)へ、後(のち)、他(ほか)の泉に汲ましむ。里を計れば數百なり[やぶちゃん注:唐代の百里は約五百六十キロメートルで、あり得ない誇張である。]。母、徐(おもむ)ろに其の女の衣を衣(き)て、利(と)き刃(さすが)を袖にし、池に行きて向かひ、魚を呼ぶ。魚、卽ち、首を出だせり。因りて、之れを斫(き)り殺す。魚、已に、長さ丈餘、其の肉を膳(くら)ふに、味は常の魚に倍す。其の骨を鬱棲(うつせい)[やぶちゃん注:人糞・獣糞などを貯留して「肥え」にする場所。]の下に藏(かく)す。日を逾(こ)えて、女、至り、池に向かへども、復た、魚を見ず。乃ち、野に哭す。忽ち、人、有り。被髮・粗衣にして、天より降(くだ)り、女を慰めて曰く、

「爾、哭すなかれ。爾の母は爾の魚を殺せり。骨は糞の下に在り。爾、歸りて、魚の骨を取りて、室に藏(かく)すべし。須らく、第(つぎ)に、之れに祈らば、當に爾に隨ふべし。」

と。

 女、その言を用ひ、金璣(きんき)[やぶちゃん注:金と宝玉。]衣食、欲するに隨ひて、具(そな)はれり。

 洞の節(せつ)[やぶちゃん注:洞主であった父の命日。]に及び、母、往きて、女をして、庭の果(くだもの)を守らしむ。

 女、母の行くこと遠きを伺ひ、亦、往く。翠紡(すいばう)[やぶちゃん注:翡翠の羽で紡いだもの。]の上衣を衣(き)て、金の履(くつ)を躡(は)けり。

 母の生みし所の女、之れを認め、母に謂ひて曰はく、

「此れ、甚だ姊に似たり。」

と。母もまた、これを疑ふ。[やぶちゃん注:このシークエンスはタイム・ラグがあって少しおかしい。脱文或いは錯文が疑われる。]

 女、覺りて、遽(にはか)に反(かへ)り、遂に一隻(いつせき)[やぶちゃん注:片方。]の履を遺(のこ)し、洞人(むらびと)の得る所と爲る。

 母、歸りて、但(ただ)、女の庭樹を抱(いだ)きて眠れるを見、亦、之れを慮(おもんぱか)らず。

 其の洞、海の島に隣りし、島中に、國、有り、「陀汗(だかん)」と名づく。兵、强くして、數十の島と、水界數千里に王たり。

 洞人、遂に其の履を陀汗國に貨(う)り、國主、之れを得(え)、其の左右[やぶちゃん注:侍従。]に命じて、之れを履かしむるも、足の小なる者、履けども、一寸を減ず[やぶちゃん注:元の大きさより一寸小さくなって履けなかったのである。唐代の一寸は約三センチメートル。]。乃ち、一國の婦人をして、之れを履かしむるも、竟(つひ)に、一(ひとり)として稱(あ)ふ者、無し。

 其の輕(かろ)きこと、毛のごとく、石を履(ふ)むに、聲(おと)、なし。

 陀汗王、

「其の洞人、非道を以つて之れを得しか。」[やぶちゃん注:何か非人道的で怪しい手段で入手した呪物かと思ったのである。]

と意(おも)ひ、竟に禁錮して、之れを拷掠(かうりやう)[やぶちゃん注:拷問。]すれども、遂に從(よ)つて來たる所を、知らず。

 乃ち、この履を、以つて、是れを道旁(だうばう)に棄て[やぶちゃん注:この部分は文意が続かず、何らの錯文が疑われる。]、卽ち、人家を遍歷して之れを捕へんとし、若(も)し、女の履ける者有らば、之れを捕へ、以つて、告げさす。

 陀汗王、之れを怪しみ、乃ち、其の室を搜し、葉限を得たり。

 之れを履かしむるに信(しん)なり[やぶちゃん注:本人であった。]。

 葉限、因りて、翠紡の衣を衣(き)て、履を躡きて進むに、その色(しよく)[やぶちゃん注:姿。]や、天人のごとし。始めて、事を、王に具(まう)す。

 魚骨と葉限とを載せて、俱(とも)に國に還る[やぶちゃん注:主語は王。]。

 其の母及び女は、卽ち、「飛石(ひせき)」と爲し、擊たれて死す[やぶちゃん注:「石打ちの刑」に処せられて沢山の石を投げつけられて死んだ。穴を掘ってそこに罪人を立たせ、庶民に次々と石を投げつけさせて殺す刑罰がイスラム圏に現在もあるが(罪名は不貞で男女を問わない)、それと同様のものであろう。]。洞人、之れを哀れみ、石坑に埋(うづ)め、命(なづ)けて「懊女塚(わうぢよづか)」[やぶちゃん注:「懊」は「恨む・悩み悶える」の意。一種の本邦の御霊信仰と同じである。]と曰ふ。洞人、以つて禖祀(ばいし)[やぶちゃん注:祭祀。「禖」中国古代に於いて祀られた神の名。]をなし、女(むすめ)[やぶちゃん注:女の子の出生。]を求むれば、必ず、應ず、と。

 陀汗王、國に至り、葉限を以つて上婦[やぶちゃん注:正室。]と爲せり。

 一年、王、貪(むさぼ)り求めて、魚骨に祈れが、寶玉、限り無からんも、年を逾(こ)えれば、復たと應ぜず。

 王、乃ち、魚骨を海岸に葬り、珠(しゆ)[やぶちゃん注:真珠。]百斛(こく)[やぶちゃん注:唐代で五千九百リットル。]を用ひて之れを藏(かく)し、金を以つて際(へり)と爲せり。徵(ちやう)せし卒の叛(むほん)する時に至りて、將に發(あば)きて以つて軍を贍(たす)けんとするも、一夕(いちゆう)[やぶちゃん注:ある夜。]、海潮の爲に淪(しづ)めらる。

 成式[やぶちゃん注:作者。]の舊家人の李士元の說けるを聽けり。士元は、元(もと)、邕州(ようしう)の洞中(むらうち)の人にて、多く、南中の怪事を記し得たり[やぶちゃん注:記憶していた。]。

   *

「東洋文庫」の今井氏は、本篇の注で熊楠の本論考にも言及された後、以下のように述べておられる。少し長い引用となるが、熊楠の考証と原拠本篇を理解する上で非常に重要なので、引かさせて戴く。

   《引用開始》

 楊憲益(ヤンシェンイー)[やぶちゃん注:一九一五年生まれで二〇〇九年没。中国文学の英語翻訳者として著名。妻は同じ仕事を成したイギリス人グラディス・マーガレット・テイラー(Gladys Margaret Tayler:中国名:戴乃迭)。文化大革命中、夫婦は四年刊投獄されている。]の「中国の掃灰娘(サオホイニヤン)(Cinderella)譚」に、『酉陽雑俎』のこの話を全文抄録し、つぎのような案語[やぶちゃん注:中国語で「注釈」の意。]を加えている――この説話は、あきらかに、西方の掃灰娘(Cinderella)譚である。段成式は、西暦九世紀の人であり、この説話が、遅くとも九世紀、あるいは、八世紀にはすでに中国に伝わっていたことがあきらかである。篇末に、説話の語り手は邕州の人だという。邕州は、すなわち、いまの広西の南寧[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データでここ。]である。この説話が、東南アジア経由で中国に入ってきたことがわかる。イギリス人、コックス(Marian Rolfe Cox)[やぶちゃん注:マリアン・ロールフ・コックス (一八六〇年~一九一六年)はイギリスの民俗学者で、このシンデレラ伝承の研究家として知られる。]の考証によると、この説話は、ヨーロッパと近東で、合計、三四五種の大同小異の伝説がある。惜しいことに、この本はいま、さがすすべがない。ヨーロッパでもっとも流行した二種の伝説は、一七世紀(原文「七世紀」。十七世紀」の誤植であろう)のフランス人、ペロー Perrault の物語集と一九世紀のドイツ人、グリム Grimm 兄弟の説話集に見られる。グリムの伝説によると、この「掃灰娘」の Aschenbrödel, Aschen という名の意味は、「灰」であり、英語の Ashes である。アングロ・サクソン語 Aescen, サンスクリットの Asan である。もっとも面白いのは、中国語テキストである。その娘は、依然、葉限という名である。あきらかに Aschen あるいは、Asan の訳音である[やぶちゃん注:「葉限」は中国語カタカナ音写で「イエ・シィェン」である。]。通行の英語テキストは、フランス語テキストからの転訳である。そのなかで掃灰娘のはく鞋(くつ)は琉璃(ガラス)である。これはフランス語テキストでは、毛製の鞋(くつ)(Vair)で、イギリスの訳者が琉璃(verre)と誤認したからであろう。中国語テキストでは、金の履(くつ)というけれども、『毛のように軽く、石をふんでも音がしなかった』というから、多分、本来は、毛でつくったものなのであろう(揚憲益『零墨(れいぼく)新端』に収む。一九四七年二月、中華書局刊、上海)。

 ただ、楊憲益氏の指摘した、シンデレラの履いたくつが、ガラスか、それとも毛製のくつかという問題については、同氏の説明の仕方に疑問がある。シャルル・ぺロー(Charles Perrault(一六二八-一七〇三年)の説話集とは、hisutores ou contes du temps passé avec des moralities (in 1697) 、またの名、Contes de ma Mère Loya であるが、ペローの説話集(ペンギン叢書本)の英訳者G・ブレレトン氏 Geoffrey Brereton によると、シンデレーフ(ペローでは、フランス語風に、サンドリョンという)の履いたくつをガラス製としているのは、おびただしいシンデレラ説話のなかで、ペローとペロー以後の少数の版だけに見出されるという。最も古い版では、verre(ガラス)となっており、のちの版で、vair(白い毛皮)と改められているという。ガラスのくつに関しては、説話研究者の間で、かつてはげしい論争があったらしい。それは、別として、楊憲益氏の説明は、右の事実をとりちがえている。思うに、これは同氏の右論文執筆時期とかかわりがあるのかも知れない。同氏は、コックスの本は、「いま、さがすすべがない」という。動乱か、戦争による流亡の時期の執筆なのであろう。コックスの本とは、G・ブレレトン氏によると、つぎのとおりである――

 Marian Rolfe Coxs, Cinderella :Three Hundred and Forty-five Variants of Cinderellas, Catskin and Capo’ Rushes  (London. Folklore Society, 1893)

 なお、シンデレラ譚は、ペローのものの前には、イタリアのジアンバスティスタ・パジーレ Giambastista Basile(一五七五-ニ八三二年)の『ペンタメローネ』Pentamerone(1634‐6)に訳述されているという。くわしくは、つぎの英訳書の序説を見ていただきたい。

 Charles Perrault : Fairy Tales Translated with an Intoroduction by Geffrey Brereton (Penguin Books, 1957)

   《引用終了》]

2021/02/06

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 4

 

 晋朝に成る三輔故事には[やぶちゃん注:底本の以下の引用は、原影印本の当該部(「中國哲學書電子化計劃」)を見ると、ひどい不全があるので、特異的に訂した。これは編集時のミスで、初出はほぼ問題がない。]、漢の衞太子嶽鼻、太子來省疾、至甘泉宮、江充告太子、勿入、陛下有詔、惡太子嶽鼻、當㠯紙蔽其鼻、充語武帝曰、太子不欲聞天子膿臭、故蔽鼻、武帝怒太子、太子走還り遂に殺されし由言り、序でに述ぶ、「デカメロン」、第七日第六譚、武士の妻其夫の不在に、若き男と密會する處へ、平素此女を慕へる荒武者來り逼る、女已むを得ず、男を牀下に慝し、荒武者を引入る、俄かに其夫歸り來り、荒武者の馬を維ぎ[やぶちゃん注:「つなぎ」。]たるを見、大に怪む、妻頓智もて荒武者に訓え[やぶちゃん注:「をしへ」の誤り。「え」は熊楠の癖。]、拔刀して、「必ず何處で[やぶちゃん注:「いづこかで」。]思ひ知せん」と叫び乍ら出去しめ[やぶちゃん注:「いでさらしめ」。]、夫入り來るに先ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]寢室に退き、密夫に聞ゆる樣、高聲に夫に語りけるは、彼荒武者狂氣して、見知らぬ若き男を追ひ、其男忽ち此室に逃籠れりと、夫則ち彼男を搜し出し、飮食させ、その宅え送り屆けたりと、此話に多少似たる者、亦韓非子卷十に出づ、曰く[やぶちゃん注:底本の以下の引用は、原影印本の当該部(「中國哲學書電子化計劃」)を見ると不全があるので、特異的に訂した。]、燕人李季好遠出、其妻私有通於士、季突至、士在内中、妻患之、其室婦曰、令公子裸而解髮直出門、吾屬佯不見也、於是、公子從其計、疾走出門、季曰、是何人也、家室皆曰無有、季曰、吾見鬼乎、婦人曰然、爲之奈何、曰取五姓之矢浴之、季曰諾、乃浴以矢、(A. C. Lee, op. cit., p.184. 武士幽靈の體にて夫を紿き[やぶちゃん注:「あざむき」。]、妻に謝罪する譚參看すべし)、

[やぶちゃん注:「三輔故事」「さんぽこじ」。漢の趙岐らの撰になる首都長安の地誌とその関連故事を集めたもの。我流で訓読しておく。原文では最後に「」とあるのでそれを添えた。

   *

 漢の衞太子(ゑいたいし)は嶽鼻(がくび)たり。來たりて、疾ひを省(みま)ひて、甘泉宮に至る。江充、太子に告げて、

「入る勿(なか)れ。陛下より詔(せう)あり。『太子が嶽鼻を惡(にく)む』と。當(まさ)に紙を㠯(も)つて其の鼻を蔽ふべし。」

と。

 充、武帝に語りて曰はく、

「太子、天子の膿臭を聞(か)ぐを欲せず。故に鼻を蔽ふ。」

と。武帝、太子を怒り、太子、走り還れり。

   *

「衞太子」武帝の皇后衛子夫(えいしふ)の子ということであろうが、この佞臣江充(?~紀元前九一年:詳しくは彼のウィキを参照)と対立した武帝の長男で太子であった戾(れい)太子劉拠(紀元前一二八年~紀元前九一年)は逆に「巫蠱の禍(ふこのか)」の乱で江充を斬殺している(ウィキの「劉拠」を参照。但し、乱の直後に自身も誤解した武帝により自害している)。熊楠の「太子走還り遂に殺されし由言り」というのは、原本の略述部(改行して、衛太子の死を記してある)を勝手にそう解釈してしまったものと思われる。

「韓非子卷十に出づ、曰く……」我流で訓読しておく。

   *

 燕人(えんひと)李季、遠出を好む。其の妻、士に私(ひそか)に士に通ずる有り。突(にはか)に至る。士、内(へや)の中にあり、妻。之れを患(うれ)ふ。其の室婦[やぶちゃん注:下女。]曰はく、

「公子をして、裸となして、髮を解き、直ちに門より出でしめよ。吾が屬(ともがら)[やぶちゃん注:私達下女らは。]、『見えず』と佯(いつは)らん。」

と。

 是に於いて、公子、其の計に從ひ、疾走して門を出づ。

 季曰はく、

「是れ、何人(なんぴと)ぞや。」

と。家室、皆、曰はく、

「有る無し。」[やぶちゃん注:「何も見えませんが?」。]

と、季曰はく、

「吾、鬼(き)を見たるか。」

と。婦人曰はく、

「然(しか)り。」

と。

「之れを爲(な)すこと、奈何(いかん)。」[やぶちゃん注:「その厄を祓うにはどうすればよかろう?」。]

と。曰はく、

「五牲(ごせい)の矢(くそ)をとってこれに浴せよ。」[やぶちゃん注:「五牲」牛・羊・豚・犬・鶏。「矢」は「糞・屎」の意。]

と。季曰はく、

「諾(だく)。」

と。乃(すなは)ち、浴するに、矢(くそ)を以つてす。

   *

原本では流石に動物の糞尿を浴びるのが気が引けたか、最後に「一曰浴以蘭湯。」(一つに曰ふ、「蘭の湯を以つて浴す」と。)とあるのが面白い。

「A. C. Lee, op. cit., p.184. 武士幽靈の體にて夫を紿き、妻に謝罪する譚參看すべし」当該ページには見当たらない。]

2021/02/04

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 3

 

[やぶちゃん注:以下より、底本では、字下げの附記内容の二段を終えて、本文に戻って、新たに行最上部から始まっている。

 

次に、古話の同似せるものの記錄、東洋が西洋より古き二三の例を擧げんに、一五二五年頃初めて刊行され、殘缺本のみ現存せる英文‘A Hundred Merry Tales’ed. Hazlitt, London, 1881,pp. 123-124)に云く、「昔し倫敦に畫工有り、若き艷妻を持るが、用有て旅するに臨み、豫て其妻の心底を疑ひければ、其腹に羊を畫き、己が歸り來るまで、消失ぬ樣注意せよと命じて出行きぬ、不在中に、未だ妻を持ざる好色の若き商人來り、畫工の妻を說き落し、屢ば室に入て之と婬す、會し畢て[やぶちゃん注:「くわいしをはりて」。交接を終わって。]女の腹に復た羊を畫きける、夫在外一年許[やぶちゃん注:「ばかり」]して歸り來り、妻と同床し、件の所を覽て大に驚き言く[やぶちゃん注:「いはく」。]、豫が汝の腹に畫けるは角無き羊なりしに、今此羊に二角あり、必定予の不在中不貞の行ひぞ有つらめと、是に於て妻夫に向ひ短く」と有て、下文缺けたり、友人「エー、コリングウツド、リー」氏、予の囑托に應じ、此話に似たる伊佛獨諸國の譚を聚め、報じ來りしを見るに、何れも十六世紀より古きは無し、然るに、西曆十三世紀に筆せる、無住の砂石集[やぶちゃん注:ママ。]七卷、六章に、此話有るのみならず、其前後の結構、歐州の諸話に比して一層詳細なり、惟ふに根本は小乘佛典より出しならん、予目下多忙にて、藏經を調査する暇無ければ、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]無住の所筆を引んに云ふ、「遠江國、池田の邊に庄官有りけり、彼妻極めたる嫉妬心の者にて、男を取詰めて、あからさまにも差出さず、所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊けるに、見參の爲宿へ行かんとするを、例の許さず云々、如何見參せざらん、許せと言ふに、去ば印を附ん迚、陰れたる所に、すり粉を塗りてけり、扨宿へ行ぬ、地頭皆子細知て、いみじく女房に許されておはしたり、遊女呼で遊で給へと云に、人にも似ぬ者にて、六かしく候、しかも符を付けられて候と云て、云々と語りければ、冠者原に見せて、本の如く塗可しとて、遊で後、本の樣に違へず、摺粉を塗て家へ歸りぬ、妻云々、摺粉をこそげて甞めて見て、さればこそしてけり、我摺粉には鹽を加へたるに、是は鹽が無きとて、引伏せて縛りけり、心深き餘りに疎ましく覺えて、頓て打ち捨て鎌倉へ下りけり、近き事也、舊き物語りに、或男他行の時、間男持る妻を符附ん迚、隱れたる所に牛を描てけり、去程に、まめ男の來るに、斯る事なん有と語ければ、我も繪はかけば描くべしとて、去ば能々まみて、元の如くも描で[やぶちゃん注:「ゑがかで」。]、實の男は臥る牛を描るに、間男は立る牛を描きてけり、扨夫歸で見て、去ばこそ、間男の所爲にこそ、我描る牛は臥る牛なるに、是は立る牛なりと叱りければ、哀れやみ給へ、臥る牛は一生臥るかと云ければ、さもあらん迚許しつ、男の心は淺く大樣なる習ひにや、嗚呼がましき方も有れども、情量の淺き方は、罪も淺くや、池田の女人には事の外似ざりけり」委細は、予の ‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body,Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, pp. 261-262, 1910. に載せたり、又三年前刊行 G.L.Gomme, ‘Folklore as an Historical Science,’ p.67 Seqq. に、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]の古語出づ、云く、富る老翁、多くの子成長したるに畑地を分與たり[やぶちゃん注:「わけあたへたり」。]、老妻死しければ財產を悉諸子に分ち、自ら巡廻して諸子の家に客たり、諸子父を倦厭し、之を除き去んと謀る、老翁大に悲しみ、道傍に哭くを見て、舊友一人問て其故を知り、伴て自家に置き、黃金一鉢を授け、云々せよと敎ゆ、翁其言に從ひ、諸子寺へ詣で、孫共が留て塚上に遊べる所へ往き、日向で大石上に黃金を擴げ出し、呟て言く、「噫[やぶちゃん注:「ああ」。]黃金、汝は久く蓄へられて、黴が生へさうだ、どりや日に乾してやらう」と、孫共塚に上り之を窺ひ、走り來て問ふ、「ぢいさま何ぢや」と、翁應ふらく、「お前等の構ふ事で無い、こらこら觸れちあいけねー」と、言終りて黃金を大袋に盛り、舊友の許へ去る、諸子寺より還て、孫の報告に接し、何とか老翁の金を得んと、爭て機嫌を取る事甚だ勉む、老翁又友の訓えに由て、小作りな頑丈な箱を造り、常に隨身して步く、皆々その何たるやを尋ぬる每に翁唯「此箱を開く時が來たら自ら知れる」と答るのみ、扨兒孫の追從一方ならぬ中に、老翁沒しければ、一族爭ひ飭りて[やぶちゃん注:「かざりて」。]、善美を盡せる[やぶちゃん注:底本は「儘せる」であるが、初出で訂した。]葬式濟まして後、相會して其箱を開き見れば、茶碗の破片と、石數塊と、長柄の槌有るのみ、一同宛込み大外れ乍ら、槌の頭の銘を讀むに、

    この槌は、子に分け盡し、鵜の毛だに、

         身に添えぬ馬鹿の、頭をぞ打つ、

「ゴム」氏いわく、この話馬鹿氣たりと雖も、次の史實を包存せり、(一)古え諸國に、地面持ちの子供長ずる時、各に地面を分與し、子供別れ住み親は僅に一小地片を自有する風有し事、(二)父老ゆれば、財產を擧て子に讓る風有し事、(三)昔し此話の本國(蘇格蘭)には、同源の諸家一團に群立し、近傍の畑地を、諸家通じて共に耕せる風有し故に、老翁產を子供に分ち悉し[やぶちゃん注:「つくし」。]、巡廻して諸子に客たりしと言ふ也、(四)古え歐州の或部に、人老れば子に打殺さる俗ありし等是也と、熊楠按ずるに、史記陸賈傳に、呂后擅政[やぶちゃん注:「せんせい」。恣(ほしいまま)に政治を執ること。]の際、陸生、自度不能爭之、乃病免家居、以好畤田地善、可以家焉、有五男、廼出所使越得橐中裝、賣千金、分其子、子二百金、令爲生產、陸生常安車驢馬、從歌舞鼓琴瑟侍者十人、寶劒直百金、謂其子曰、與汝約、過汝、汝給吾人馬酒食、極欲十日而更、所死家、得寶劍車騎侍從者、一歲中、往來過他客、率不過再三過、數見不鮮、無久慁公爲也、予は是れ史實なるか小說なるかを知らず、又決して、俄に、蘇格蘭の古話が、支那の陸賈傳に基くと斷ぜずと雖も、子が成長して親を厭ふの情狀を敍せる此類の記錄は、東洋が西洋より早く、而して老父を槌殺せし風習の痕跡だに留めざる支那の德化が、迥に[やぶちゃん注:「はるかに」。]北歐より古く進めるを認む(予の“The Neglected Old Father: Chinese Parallel,” Notes and Queries, Aug. 20, 1910, p.145 に出)又伊國の大文豪「ボツカチオ」の「デカメロン」、第七日第九譚に、淫婦「リヂア」、老夫の氣力乏しきを嘆ち[やぶちゃん注:「かこち」。]、美少年「ピロ」に懸想し、幽情勃動、病んで死せんとするの狀を通じけるに、男三難題を出し、夫人能く悉く之を成就せば、戀を叶ふべしと答ふ、其第三の難題は、夫人須く其夫の齒を拔き、吾に贈るべしとあり、是於、「リヂア」計て[やぶちゃん注:「はかりて」。]、兩侍童に訓ゆらく[やぶちゃん注:「おしゆらく」。]、主翁汝等の口臭を忌む、汝等給侍する每に、顏を橫向けよと、兩童然くせしかば夫之を怪しむ、夫人進で說て言く、君の齒朽ち臭甚き故也と、輒ち爲に其齒を拔き、情人に遣る、[やぶちゃん注:初出で読点を補った。]「クラウストン」氏此類の譚を集めしに、歐州に十二世紀より前に之を記せし者無し、(W. A. Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol.ii, p.444 Seqq.; A. C. Lee, ’The Decameron, its Sources and Analogues,’ 1909, p.231 Seqq.)しかるに、予、韓非子(西曆紀元前三世紀の作)卷十に、是に似たる話有るを見出せり、云く、荆王所愛妾、有鄭袖者、荆王新得美女、鄭袖因敎之曰、王甚喜人之掩口也、爲近王、必掩口、美女入見近王、因掩口、王問其故、鄭袖曰、此固言、惡王之臭、及王與鄭袖美女三人坐、袖因先誡御者曰、王適有言、必亟[やぶちゃん注:底本は「丞」であるが、「韓非子」原本で訂した。また、次にくる読点位置も不全なので訂した。]聽從王言、美女前近王、甚數掩口、王勃然怒曰、劓之、御因揄刀而劓美人、因て之を譯し、Notes and Queries, Dec.24, 1904, p. 505 に揭げしに、「リー」氏評して、是れ此類の諸譚中最も古き者たり、古話の學する者、一齊に南方氏の發見を感謝すべしと言れたるは、不慮の過賞予慙汗三斗たらざるを得んや(A. C. Lee, “The Envied Favorite,” N. & Q., Jan. 28, 1905, pp.71-73 を見よ)、

 

[やぶちゃん注:「一五二五年」本邦では大永五年で戦国時代真っ只中。

「‘A Hundred Merry Tales’ed. Hazlitt, London, 1881,pp. 123-124)」著者はイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)。底本ではページが「pp. 23-4」となっているが、初出と「選集」で訂した。それらしき原本をネットで見つけたが、しかし、孰れのページにもそれらしい内容が書かれていない。不審。

「エー、コリングウツド、リー」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」に「A. C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か)と出た著者のアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であろう(詳細事績未詳)。

「砂石集」「沙石集」(しゃせきしゅう)が正しい。鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立(原本はカタカナ漢字交り)。当該話は、第七の「六 嫉妬の心無き人の事」。但し、これは複数話から成るオムニバス構成で、その中の二篇である。所持する一九四三年岩波文庫刊筑土鈴寛校訂本から引く。句読点を追加し、段落を成形した。底本は一部が伏字になっているので(呆れかえるほど馬鹿々々しい戦時下の自主規制コードの仕儀である)、所持する岩波の古典文学大系本の「拾遺」で補った。話の変わる箇所に「+」を挿入しておいた。

   *

 遠江國、池田の邊(ほとり)に、庄官ありけり。かの妻、きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて[やぶちゃん注:異常に思い入れて。]、あからさまにもさし出ださず。

 所の地頭代、鐮倉より上りて、池田の宿にて遊びけるに、

「見參のため、宿へ行かん。」

とするを、例の[やぶちゃん注:「例の通り」の意。]、ゆるさず。

「地頭代、知音なりければ、いかが見參せざらん。許せ。」

と言ふに、

「さらば、しるしをつけん。」

と、かくれたる所にすり粉(こ)を塗りてけり。

 さて、宿へゆきぬ。地頭、みな、子細知りて、

「いみじく女房に許されておはしたり。遊女呼びて、遊び給へ。」

と言ふに、

「人にも似ぬ者にて、むつかしく候ふ。しかも、符(しるし)付けられて候ふ。」

と言うて、

「しかじか。」

と語りければ、

「冠者ばらに見せて、本のごとく、塗るべし。」

とて、遊びて後、もとの樣にたがへず摺(すり)粉を塗りて、家へ歸りぬ。

 妻、

「いでいで、見ん。」

とて、摺粉をこそげて、なめてみて、

「さればこそ。してけり。わが摺粉には、塩をくはへたるに、これは、鹽が、なき。」

とて、ひきふせてしばりけり。

 心深さ、あまりにうとましく覺えて、頓(やが)てうち捨てて、鎌倉へ下りにけり。

 近きことなり。

   +

 舊き物語に、ある男、他行の時、まをとこ持てる妻を、

「しるしつけん。」

とて、かくれたる所に、牛をかきてけり。

 さるほどに、まめ男の來たるに、

「かかる事なん、あり。」

と語りければ、

「われも繪はかけば、かくべし。」とて、さらば、能々[やぶちゃん注:「よくよく」。]見て、もとのごとくもかかで、實[やぶちゃん注:「まこと」。]の男は、ふせる牛をかけるに、まをとこは、立てる牛をかきてけり。

 さて、夫、歸りて、見て、

「さればこそ、まをとこの所爲にこそ。わがかける牛はふせる牛なるに、これは、たてる牛なり。」

としかりければ、

「あはれ、やみ給へ。ふせる牛は、一生、ふせるか。」

と言ひければ、

「さもあるらん。」

とて、ゆるしつ。

 男の心は、あさく、おほやうなるならひにや。をこがましきかたもあれども、情量のあさきかたは、つみもあさくや。

 池田の女人には、事のほかに、似ざりけり。

   *

この「すり粉」(摺り粉)は、米を擂り鉢で擦り砕いて粉にしたもので、湯で溶いて乳児に母乳の代わりとして与えた。後の江戸時代には火にかけて汁飴(しるあめ)を加えて甘味をつけて吸わせたりもした。「人にも似ぬ者にて」とは妻の妬心が尋常でないことを言うものであろう。「いでいで」は感動詞。「さあ! さあ!」と、異様にせかしているのである。「ひきふせてしばりけり」となると、妬心の鬼と言うよりは、サディズムの性向さえ窺える。「情量」は仏教用語で、「凡夫に於ける妄想的な不全の分別」を指す。

「惟ふに根本は小乘佛典より出しならん」私は忙しくはないが、熊楠の代わりに、この原拠を探すために仏典を引っ繰り返す気は毛頭ない。悪しからず。

「予の ‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body,’ Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, pp. 261-262, 1910.」不詳。

G.L.Gomme, ‘Folklore as an Historical Science,’ p.67 Seqq.」イギリスを代表する民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の一九〇八年の著作「歴史科学としての民間伝承」。ずっと後の版だが、「Internet archive」の原本のこちらから読める。

「史記陸賈傳に……」「陸賈」(りくか 生没年未詳)は前漢初期の学者・政治家。楚の人。高祖劉邦に仕え、天下統一に貢献した。著に秦漢の興亡を述べた「新語」十二編がある。自然流で訓読を試みる。

   *

 陸生、自(みづか)ら之れと爭ふ能はざるを度(はか)りて、乃(すなは)ち、病ひもて、免ぜられて、家居す。以(おもへら)く、

「好畤(こうし)[やぶちゃん注:旧県名。現在の咸陽市乾県陽洪鎮好畤村一帯。]の田地、善(よ)ければ、以つて家とすべし。」

と。

 五男、有り、廼(すなは)ち、越(えつ)に使ひして得る所の橐中(たくちゆう)の裝(しやう)を出だし[やぶちゃん注:「橐」は中央に口があって両端に物を入れて担ぐ袋のこと。]、千金に賣りて、其の子に分かつこと、子ごとに二百金、生產を爲さしむ。陸生、常に安車・驢馬もて、歌舞して琴瑟を鼓(う)つ侍者十人を從へ、寶劒は直(あたひ)百金たり。其の子に謂ひて曰はく、

「汝(なんぢら)と約す。汝に過(たちよ)らば、汝、吾が人馬に酒食を給せ。欲を極むること、十日にして、更(か)へん。死する所の家は寶劍・車騎・侍從の者を得よ。一歲の中(うち)、往來して他に過(よぎ)りて客たらんとせば、率(おほむ)ね、再三、過ぐるに過ぎざるべし。數(しばしば)見(まみ)えんは、鮮(せん)ならず。久しく、公(きみら)を慁(みだ)すことを爲すは無からん。」

と。

   *

「予の“The Neglected Old Father: Chinese Parallel,” Notes and Queries, Aug. 20, 1910, p.145 に出)」「Internet archive」の原本のここから次のページにかけてがそれ。かなり長いが、幸いなことに、前に出たスコットランドの昔話も採録されているので、以下に電子化する。

   *

   THE NEGLECTED OLD FATHER :  CHINESE PARALLEL.― A Gaelic story is quoted as follows from J. F. Campbell in Mr. Gomme's ' Folk-lore as an Historical Science,* London, n.d., pp. 67-8 :

   "There was a man at some time or other who was well off, and had many children. When the family grew up the man gave a well-stocked farm to each of his children. When the man was old his wife died, and he divided all that he had amongst his children, and lived with them, turn about, in their houses. The sons got tired of him and ungrateful, and tried to get rid of him when he came to stay with them. At last an old friend found him sitting tearful by the wayside, and, learning the cause of his distress, took him home; there he gave him a bowl of gold and a lesson which the old man learned and acted. When all the ungrateful sons and daughters had gone to a preaching, the old man went to a green knoll where his grandchildren were at play, and, pretending to hide, he turned up a flat hearthstone in an old stance [ = standing-place], and went out of sight. He spread out his gold on a big stone in the sunlight, and he muttered, 'Ye are mouldy, ye are hoary, ye will be better for the sun.' The grandchildren came sneaking over the knoll, and when. they had seen and heard all that they were intended to see and hear, they came running up with, 'Grandfather, what have you got there?' ' That which concerns you not ; touch it not,' said the grandfather, and he swept his gold into a bag and took it home to his old friend. The grandchildren told what they had seen, and henceforth the children strove who should be kindest to the old grandfather. Still acting on the counsel of his sagacious old chum, he got a stout little black chest made, and carried it always with him. When any one questioned him as to its contents his answer was, ' That will be known when the chest is opened.' When he died he was buried with great honour and ceremony, and the chest was opened by the expectant heirs. In it were founa broken ; potsherds and bits of slate, and a long-handled white wooden mallet with this legend on its head :

    Here is the fair mall

    To give a knock on the skull

    To the man who keeps no gear for himself,

    But gives all to his bairn."

  Whether or not it has one and the same origin with this Scottish tale, a Chinese anecdote of a similar stamp is related, with all his characteristic eagerness, by Sze-ma Tsien, the greatest historian China has ever produced. It occurs in the ‘Life of Lu Kia’ in his ‘Shi-ki,’ written c. B.C. 97.  It tells us how in the year 196 B.C. the Emperor Hautsu sent Lu Kia, the great literate and diplomat, to Tchao To, the self-made monarch of Nang-yue, in order to subdue him without the use of arms (for the latter's life see Gamier, ‘Voyage d'Exploration en Indo-Chine,' Paris, 1873, torn. i. p. 469). The eloquent Lu Kia completely brought over Tchao To, so that the latter presented the former on his farewell with a bag containing valuables worth a thousand pieces of gold, to which he added another thousand for viaticum.

   After the Emperor Hiao-hui succeeded his father Hau-tsu (B.C. 194), the Dowager-Empress Lu was hankering to make kings of her own kindred, quite contrary to the will of her deceased husband. Well knowing his incompetence to stop this, Lu Kia pretended to be unwell, and retired to Hao-chi, there to live by keeping excellent farms.

   " As he had five sons," the narrative continues, " he took out of the bag the valuables Tchao-To had given him, and sold them for one thousand pieces of gold. These he divided amongst his sons, telling each to thrive with the fund of two hundred pieces. Lu Kia procured for himself a comfortable carriage drawn by four horses, ten attendants, all skilful in music and dancing, and a sword which cost him one hundred gold pieces. Then he spoke to his sons thus: ‘Now I covenant with you that whenever I come to any one of you, you shall supply me. my attendants, and my horses, with enough of food and drink, and I will go off after enjoying them for ten consecutive days. Should I happen to die in the house of any one of you, my sword, my carriage with horses, and my attendants, will all fall into his possession. But I will not visit any one of you more than twice or thrice a year, because to call on you more frequently would make you entertain me with less will, whilst a prolonged stay in one and the same house would inevitably be followed by your getting tired of me.' ……He died after enjoying longevity."

        KUMAGUSU MlNAKATA.

  Tanabe, Kii, Japan.

   *

機械翻訳でも、本文の内容と照らして十二分に理解出来る。

『「ボツカチオ」の「デカメロン」、第七日第九譚』多量の伏字があるが、国立国会図書館デジタルコレクションの河原万吉等訳「デカメロン」(昭和二(一九二七)年潮文閣刊)のここから読める。

『「クラウストン」氏此類の譚を集めしに、歐州に十二世紀より前に之を記せし者無し、(W. A. Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol.ii, p.444 Seqq.; A. C. Lee, ’The Decameron, its Sources and Analogues,’ 1909, p.231 Seqq.)』イギリスの民俗学者ウィリアム・アレキサンダー・クラウストン(William Alexander Clouston 一八四三年~一八九六年)。Internet archive」のこちらから原本当該部が読める。

「韓非子(西曆紀元前三世紀の作)卷十に、是に似たる話有るを見出せり、云く……」自然流で訓読を試みる。

   *

 荆王が愛する所の妾(せう)に、鄭袖(ていしう)なる者、有り。荆王、新たに美女を得たり。鄭袖、因りて之れに敎へて曰はく、

「王、甚だ人の口を掩(おほ)ふを口喜ぶなり。爲(も)し、王に近づかば、必ず、口を掩へ。」

と。

 美女、入りて見(まみ)え、王に近づくに、因りて、口を掩ふ。王、其の故を問ふ。鄭袖、曰はく、

「此れ、固(もと)より言へらく、王の臭(くさ)き惡(にく)む。」

と。王、鄭袖と美女と三人(みたり)坐ずるに及び、袖、因りて、先づ、御者(ぎよしや)[やぶちゃん注:侍従。]を誡(いまし)めて曰はく、

「王、適(たまた)ま言(げん)有らば、必ず亟(すみや)かに王が言に聽從せよ。」

と。美女、前(すす)みて王に近づくに、甚だ、數(しばし)ば、口を掩ふ。

 王、勃然として怒りて曰はく、

「之れ、劓(はなぎ)るべし。」

と。

 御(ぎよ)、因りて刀を揄(ひきぬ)きて、美人を劓る。

Notes and Queries, Dec.24, 1904, p. 505 に揭げし」「Internet archive」の原本のここの右ページ末から次のページで当該部が読める。

『「リー」氏評して、是れ此類の諸譚中最も古き者たり、古話の學する者、一齊に南方氏の發見を感謝すべしと言れたるは、不慮の過賞予慙汗三斗たらざるを得んや(A. C. Lee, “The Envied Favorite,” N. & Q., Jan. 28, 1905, pp.71-73 を見よ)』「リー氏」とは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」で「A. C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か。著者がアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であることしか判らない(生没年も検索で出てこない))と引いた人物。「Internet archive」の原本のここから。確かに冒頭で、

   *

   ALL students of folk-lore will be grateful to MR. KUMAGUSU MINAKATA for furnishing what is apparently the earliest version of the incident which may be termed ' The Foul Breath ' occurring in the above well-known story. The following references to various Eastern and Western sources I give from a collection of notes made for a work on the subject of the origin and diffusion of the tales in Boccaccio's ' Decameron,' which I hope may some day see the light, and which may perhaps be useful to the readers of ‘N. &Q.’

   *

と賛辞を掲げてある。]

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