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カテゴリー「南方熊楠」の434件の記事

2024/04/21

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現一括版・オリジナル注附き・PDF縦書ルビ版・5.68MB)を公開

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現一括版・オリジナル注附き・PDF縦書ルビ版・5.68MB)を父の逝去から一月の今日、公開した。

江の島は結婚前の私の父と母のデートの場所でもあったのだった(父の弟が写したもの)――

 

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江の島大橋の欄干は木製だったのだなぁ……

2024/04/20

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (8) / 「江ノ島記行」~完遂

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。なお、最後に配された「江島採集購收品」のリストは底本では全体が一字下げであるが、無視した。また、項目によっては、一行に別項目が続いているが、ブラウザの不具合を考え、総て独立条として改行した。字間も縮めた箇所が多い。頭の丸括弧数字は半角であるが、全角にした。部分が多くある学名を「〃」で示した箇所は判り難いので、文字化した。【 】は底本では二行割注。学名は斜体になっていない。既に既注の生物は注さない。]

 

  ○十九日快晴【但し朝の間島内に霧有り】

 朝六時起き頗る爽快、朝餐後島上に至り介類二十種ばかりを購收す。九時頃宿を出でゝ沙濱を徐步[やぶちゃん注:「じよほ」。静かにゆっくりと歩くこと。]し、片瀨村に至る。富嶽天に聳て密雲圍擁し、箱根足柄、翠のごとく黛の如く風景絕佳なり。藤澤驛中道を誤つて東すべきを西し、行く事一里許、之を人に問て初て其小田原街道たるを知り、步を却して後、藤澤に出で、こゝに腕車に乘り、戶塚に至る。道の左右松樹を列栽す。人家の屋上多く「イチハツ」を生せるを見る【此事曾て某書にて見たりき】。戶塚を過ぎて腕車を下り保土ケ谷に至る。それより神奈川に着しは四時三十分にして、四時五十一分急行列車に乘り歸京す。

[やぶちゃん注:「イチハツ」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum で、この情景は、所謂、「屋根菖蒲」である。明治期に本邦に来た外国人は、これに感動した。例えば、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 初めての一時間の汽車の旅」や、かの「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)」(まさに鎌倉・江ノ島である)を是非、読まれたい。私は二十一の時、鎌倉十二所の光触寺への参道沿いの左手にあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを、嘗ての恋人と一緒に見上げたのが、最後であった。

江島採集購收品  採集品へは△を附す[やぶちゃん注:これは、当該品の最初の一字に「△」が附されているものであるが、ここではその種名の全体を太字とした。

植   物 胡桃科 實核一個 江島海濱にて拾ふ

[やぶちゃん注:「胡桃科」ブナ目クルミ科 クルミ属 Juglans 。本邦に自生しているクルミの大半はクルミ属マンシュウグルミ変種オニグルミ Juglans mandshurica var. sachalinensis である。他に、近縁種のヒメグルミJuglans mandshurica var. cordiformisも見かける。]

動   物

  無脊髓動物 Invertebrata

   海綿類 Spongida

(一)海綿 Spongida sp.

(二)ホッスガイ Hyalonema Sieboldii

  射形動物Actinozoa

[やぶちゃん注:「射形動物Actinozoa」現行では花虫綱(かちゅうこう:Anthozoa)と和名する。刺胞動物門の分類群の一つで、イソギンチャクやサンゴを含む。]

(三)やぎ一種 Gorgonia sp.

(四) きんやぎ Gorgonia sp.

[やぶちゃん注:同定が正しいなら、花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石灰軸亜目キンヤギ科キンヤギ属 Chrysogorgia の一種である。]

(五)石芝ひらたけいし Fungia sp.

[やぶちゃん注:担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱Agaricomycetesタマチョレイタケ目マンネンタケ科 Ganodermataceaeのキノコか。]

(六)うみぼうき

[やぶちゃん注:不詳。この和名や異名は知らない。刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石灰軸亜目キンヤギ科 Chrysogorgiidae の一種か。]

(七)とくさいし Isis sp.

[やぶちゃん注:同前。イシスはIsididae科の深海性のタケサンゴ(竹珊瑚)の属名。]

  棘皮動物 Echinodermata

   (1) 海百合類 Crinoidea

(八)海百合【一種大なる者】

[やぶちゃん注: 棘皮動物門ウミユリ綱関節亜綱 Articulataのウミユリ類。孰れの種も深海性。]

(九)仝一種小なる者 江島海濱にて採る。

    (2) 海膽類 Echinoidea

(十)たこのまくらの類【案するに本草啓蒙に所謂きんつばならんか。】

[やぶちゃん注:棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目タコノマクラ科タコノマクラ属 Clypeaster の一種。タイプ種はタコノマクラ Clypeaster japonicus 。これは購入物であるが、生体でない殼なら、七里ガ浜でもよく拾える。

「本草啓蒙に所謂きんつばならんか」国立国会図書館デジタルコレクションの板本の小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」の「卷四十二」の「海燕」(タコノマクラの類)の項の、ここ(右丁七行目)に『豫州ニテ キンツバ云』とある。]

    (3) 海星類 Asteroidea

(十一)ヒトデ一種 Asterias sp.

(十二)ヒトデ一種 Asterias sp.

[やぶちゃん注:棘皮動物門ヒトデ(海星)綱Asteroideaのヒトデ類。]

    (4) くもひとで類 Ophiuroidea

(十三)くもひとで Ophiura sp.

[やぶちゃん注::棘皮動物門星形動物亜門クモヒトデ(蛇尾)綱Ophiuroidea。ヒトデのように移動に管足を使わないことが特徴で、一般にクモヒトデ類は、五本の細長い鞭状の腕を有する。これは購入物であるが、いてもおかしくないが、江ノ島では、私は見たことがない(岩礁帯を精査すれば見つかるだろうとは思う)。修学旅行の引率で行った沖縄では、ワンサカ、いた。観察に夢中になり、バス・ガイドに「早く、戻って下さい。」と注意された。]

 被殼動物 Crustacea

[やぶちゃん注:現在の甲殻類。]

    (1) 異足類 Amphipoda

[やぶちゃん注:現在の端脚類。]

(十四)トビムシ一種 七里濱にてとる

    (2) 十足類 Decapoda

(十五)イセエビ Panulirus japonicus

[やぶちゃん注: 節足動物門軟甲綱十脚目イセエビ科イセエビ属イセエビ Panulirus japonicus 。鎌倉・江ノ島附近では古くは「鎌倉海老」とも呼ばれた。]

(十六)ヒゲガニ【この種の小なる者先年紀州加太浦にて獲たり全體やゝ蜘蛛に似たり】

[やぶちゃん注:十脚目短尾下目Corystoidea上科ヒゲガニ(鬚蟹)科ヒゲガニ属ヒゲガニ Jonas distinctus 。和名は第二触覚や脚などに細かい鬚があることに拠る。、甲幅二・五センチメートルほどの楕円形を成す。私は七里ガ浜で死蟹を採取したことがある。]

(十七)大まんぢうがに

[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「まんぢゆうがに」が正しい。甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目オウギガニ上科オウギガニ科ウモレオウギガニ亜科マンジュウガニ属 Atergatis の一種か。「オオマンジュウガニ」という種はいないから、大型のそれである。有毒蟹として知られるマンジュウガニ属スベスベマンジュウガニ Atergatis floridus の大型個体の可能性がある。]

(十八)マンジュウガニ

(十九)同一種

(二十)同一種

(廿一)[やぶちゃん注:底本では、ヘッド番号だけで、底本には記載がない。属レベル或いはその上位タクソンで判らなかったために空欄としたものだろう。以下、空欄は同じ。]

(廿二)ちからがに Phylira sp.

[やぶちゃん注:「ちからがに」の和名は不詳。しかし、学名から、軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目コブシガニ上科コブシガニ科コブシガニ亜科マメコブシガニ属Philyra であることが判るが、私は生体の小さなヒラコブシ Philyra syndactylaを七里ガ浜で採取したことがある。形状から、この種群の孰れかであるというのは「ちからがに」の名では腑に落ちる。]

(廿三)ツトガニ

[やぶちゃん注:不詳。「苞蟹」か。それでも判らないが。]

(廿四)

(廿五)ショウジンガニ

(廿六)

(二七)[やぶちゃん注:ここは空欄だが、熊楠が採取した個体であることを示す『△』のみが附されてある。]

(廿八)

(廿九)イバラガニ PisaParamaijaspinigera

[やぶちゃん注:軟甲綱真軟綱亜綱エビ上目十脚目異尾下目タラバガニ科イバラガニ属イバラガニ Lithodes turritus 。]

(三十)セミガニ Lyreidus tridentatus, n. sp.

[やぶちゃん注:これは学名から、短尾下目アサヒガニ上科アサヒガニ科ビワガニ属ビワガニ Lyreidus tridentatus である。「n.」は「新種」を意味する略号である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクさせておく。]

(卅一)えびの一種

 六肢蟲類 lnsecta

[やぶちゃん注: 節足動物門六脚亜門昆虫綱 Insectaのこと。]

(卅二)瓢蟲(ななほしてんとうむし)Coccinella 7-punctata

[やぶちゃん注: 昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目テントウムシ科テントウムシ亜科テントウムシ族ナナホシテントウ Coccinella septempunctata 。]

(卅三)こがねの一種小なるもの

[やぶちゃん注: 鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ(多食)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科 Scarabaeidaeのコガネムシ類。狭義にはコガネムシ属コガネムシMimela splendens 。]

(卅四)地膽 Meloe sp.  この三蟲は藤澤近傍にて獲

[やぶちゃん注: 鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae のツチハンミョウ類。]

 蘚狀蟲類 Polyzoa

[やぶちゃん注: 現在の外肛動物門 Bryozoa の内の群体を成すコケムシ類。]

(卅五)

(卅六)

 臂足類 Brachiopoda

[やぶちゃん注:真正後生動物亜界冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda。底生無脊椎動物である、所謂、舌殻亜門舌殻綱舌殻目シャミセンガイ科シャミセンガイ(リンギュラ)属ドングリシャミセンガイ Lingula jaspidea(シノニム:Lingula rostrum )に代表される原始的な生物である。「御雇い外国人」で江ノ島に初めて海洋研究所を建てたE.S.モースの専門はシャミセンガイの研究であった。もう、江ノ島にはシャミセンガイはいない。私のブログ・カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】』をどうぞ!]

(卅七)ほゝづきがひ Terebratula

[やぶちゃん注:テレブラチュラ属。前記腕足動物門中の代表的な化石属名。殻の外形は円形に近く、蝶番(ちょうつがい)の線は、極めて短く、湾曲している。殻は有斑で、表面は平滑。強い肉茎によって他物に付着して生活ししていたが、茎孔は丸く、殻頂に位置する。腕骨は環状。三畳紀から現世まで分布するが,ジュラ紀以降に繁栄した。]

(卅八)同一種T.sp.

 平鰓類 Lamellibranchiata

[やぶちゃん注:和名は「弁鰓類」「弁鰓綱」で、所謂「斧足類」、則ち、二枚貝類Bivalviaを指す。]

(卅九)にしきがひ

[やぶちゃん注:軟体動物門二枚貝綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata 。]

(四十)つきひがひ Pecten japonicus Gmel.

[やぶちゃん注:軟体動物門二枚貝綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科ツキヒガイ亜科ツキヒガイ属ツキヒガイ Ylistrum japonicum 。]

 角貝類 Scaphopoda

[やぶちゃん注: 軟体動物門掘足綱ツノガイ目 Dentaliida・クチキレツノガイ目Gadilidaのツノガイ類。]

(四一)ツノガイ Dentalium octogonum, Lam.

[やぶちゃん注:ツノガイ目ゾウゲツノガイ科ゾウゲツノガイ属ヤカドツノガイ Dentalium octangulatum 。]

 腹足類 Gasteropoda

(四二)ぢいがぜ Chiton sp.

[やぶちゃん注: 熊楠は腹足類(巻貝類)に入れてしまっているが、これは軟体動物門多板綱 Polyplacophoraのヒザラガイ(膝皿貝)類して知られているそれで、誤りである。岩礁に扁平な体で貼りついていて、背面に一列に並んだ八枚の殻を持っている、あれである。ここは狭義の知られたウスヒザラガイ亜目クサズリガイ科 Chitonidaeヒザラガイ属ヒザラガイAcanthopleura japonica を挙げておく。]

(四三)鰒魚(とこぶし) Haliotis Tokobushi

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱古腹足目ミミガイ科ミミガイ属トコブシ Haliotis diversicolor 。]

(四四)Troghus sp. こしだかがんがら

[やぶちゃん注:所謂。「シタダミ」の流通通称で知られる、腹足綱前鰓亜綱古腹足亜綱ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科リュウテン科クボガイ亜科クボガイ属コシダカガンガラ Tegula rustica 。]

(四五)くまさかゞひ Xenophora pallidulla

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱盤足目クマサカガイ超科クマサカガイ科クマサカガイ属クマサカガイ Xenophora pallidula 。和名は義経伝説に登場する平安末期の大盗賊熊坂長範(くまさかちょうはん)に由来する。深海で見つかることが多く、ビーチ・コーミングでも、まず出逢うことはない。和名は、自分の殻表に死んだ他の貝殻や礫等を附着させて擬態する習性を盗人に擬えたものである。]

(四六)Conus sp.

[やぶちゃん注:腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属 Conus のイモガイ類。軟体部を殻の奥に縮めると、開口部から軟体部が見えなくなる種が多いことから、「ミナシガイ」の異名を持つ。捕食性で、歯舌が特化した神経毒の毒腺が附いている小さな銛で他の動物を刺し、麻痺させて摂餌する。毒は種によって異なるが、ヒトが刺されて死亡するケースもある。]

(四七)

(四八)

(四九)けりがい[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]

[やぶちゃん注:これは腹足綱前鰓亜綱笠形腹足上目ユキノカサガイ科シロガイ属カモガイ(鴨貝) Collisella dorsuosa である。笠形の貝で、別名「キクガモ」「ケリガイ」。北海道南部から日本全国、さらに台湾にかけて分布し、殻長径二センチメートル、殻幅一・七センチメートル、殻高一・七センチメートル。殻頂は前方に寄っており、幾らか鷲鼻状に曲がり、そこから、多少、顆粒状の放射肋が、二、三本ほど走る。殻の周縁は中央側縁で、やや凹む。殻内は白く、中央は褐色に彩られる。岩礁の波飛沫(なみしぶき)のかかる辺りにコロニーをつくり、冬は群れを解いて避寒し、春になると、元の着生場所に戻る習性がある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。サイト「微小貝データベース内」の同種のページで貝殻が確認出来る。]

(五〇)きせるがい

[やぶちゃん注:「煙管貝」で軟体動物門腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidaeの陸生巻貝である。]

(五一)えうらく Typhis sp.

[やぶちゃん注:「瓔珞」で腹足綱新生腹足亜綱新腹足目アクキガイ科クダヨウラク属の一種のようである。サイト「微小貝データベース内」の同種のページで貝殻が確認出来る。]

(五二)同一種 Typhis

(五三)ほしだから Cypraea sp.

[やぶちゃん注:実は学名は「Cypraeu」となっているが、誤植と断じ、特定的に訂した。後の(五四)から(五七)までの学名部は「〃」であるが、総てプリントした。これは、多くの土産物屋でお馴染みの、腹足綱吸腔目タカラガイ科Cypraeinae亜科Cypraeini族タカラガイ属ホシダカラCypraea tigris である。]

(五四)同一種 Cypraea sp.

(五五)たからがひ一種Cypraea sp

(五六)同一種Cypraea sp

(五七)同一種 Cypraea sp.

(五八)うづらがひ一種

[やぶちゃん注:「鶉貝」で、腹足綱ヤツシロガイ上科ヤツシロガイ科ヤツシロガイ属ヤツシロガイ Tonna luteostoma の異名である。私の好きな貝殻で、殻高さ十センチメートル超の大振りのそれを持っていたが、高校二年の時、秘かに憧れていた若い女性事務員(二歳年上であった)に赤いリボンを巻いてあげてしまった。]

(五九)[やぶちゃん注:ここは空欄だが、熊楠が採取した個体であることを示す『△』のみが附されてある。]

(六十)がんがら

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱古腹足亜綱ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科リュウテン科クボガイ亜科クボガイ属コシダカガンガラ Tegula rustica 。とても美味い。]

(六一)捘尾螺 小なるもの Triton sp.

[やぶちゃん注:「捘尾螺」はママ。これは熊楠の誤記か誤植で「梭尾螺」が正しい。「ほらがひ」で、腹足綱前鰓亜綱中腹足(盤足)目ヤツシロガイ超科フジツガイ科ホラガイ亜科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis のことである。「Triton」は属名ではなく、同種の英名「Triton's trumpet」を部分引用したものである。]

(六二)あみがさがひ

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱(始祖腹足類)カサガイ目ヨメガカサガイ科ヨメガカサガイ属アミガサガイ Cellana grata stearnsi 。]

(六三)くるまがひ

[やぶちゃん注:腹足綱低位異鰓目クルマガイ上科クルマガイ科クルマガイ属クルマガイArchitectonica trochlearis 。]

(六四)つとがい Ovulum volva

[やぶちゃん注: 腹足綱直腹足亜綱後生腹足下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ヒガイ属ヒガイ Volva volva habei 。フォルムが私のお気に入りの貝である。]

 魚類 Pisces

(六五)ねこざめCestracion philippi Lasepの齒【江島にて名荷貝と呼】及び緬[やぶちゃん注:「はらご」。]【方言なみまくら】

[やぶちゃん注:前者は「サザエワリ」(栄螺割)の異名を持つ、軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus 。同種の歯は前歯が棘状を成すが、後歯が臼歯状に広がる。グーグル画像検索「ネコザメの歯」をリンクさせておく。

「名荷貝」(みやうががひ)はネコザメの下顎の歯である。「南方熊楠記念館」の「熊楠のお宝これは何でしょう①」を見られたい。なお、全く同じ和名の節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱完胸上目有柄目Scalpellomorpha亜目ミョウガガイ科ミョウガガイ属ミョウガガイ Scalpellum stearnsii がいるので注意されたい。

「緬」「方言なみまくら」これはネコザメのスクリュー型の卵嚢を指す。グーグル画像検索「ネコザメ 卵嚢」をリンクさせておく。]

(六六)うみすゞめ

[やぶちゃん注:顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ系フグ目フグ亜目ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメ Lactoria diaphana 。眼上に棘が、腹側にも隆起棘が、また、隆起中央の後方にも棘があるので、一見して同種と見分けられる。]

(六七)たいむこのげんぱち Monocentris japonicus Hout【方言えびすだい[やぶちゃん注:ママ。]】介肆の主此魚の胸鰭或は開き或はたゝむとも毫も折損せずとて示したり。

[やぶちゃん注: 条鰭綱棘鰭上目キンメダイ目マツカサウオ科マツカサウオ属マツカサウオ Monocentris japonica 。「松毬魚」は硬い鱗に覆われて鎧のように見えること(「ヨロイウオ」の異名もある)、

また、下顎の前方に一対の米粒のような発光腺があり、この中に発光バクテリアが共生していて、本邦の海産魚類では珍しい発光する魚としても知られる。さらに、鰭を動かすときにパタパタと音を立てることから「パタパタウオ」と呼ぶ地方もある。]

(六八)海馬【りう[やぶちゃん注:ママ。]のこまと呼ぶ】

[やぶちゃん注:条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus のタツノオトシゴ類。多くの種がいる。]

 其他やぎにて作れる箸、指輪、車渠をもって作れる球、靑螺盃及球、石決明の珠、榮螺の盃、等をも購收せり。

[やぶちゃん注:「車渠」: 斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacnidae のシャコガイ類の殻。

「石決明の珠」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis のアワビ類が殻の内側の真珠層に混入した異物を核に天然真珠が出来る。

 一字下げの「江島採集購收品」リストはここで終わっている。なお、このリスト内には、手書き挿絵(手書きキャプション附き)がある。そこには、右端に、

   *

四月十六日

 七里濱所𫉬

   *

とあって、二つの図があり、右側のそれには、右手に「截面」、その下方に「裏」とあり、上部図外に判読不能の「■」(二字?)、同じく下部図外に判読不能の「■」(二字?)と、左手には「表」とあって、その図の左に表から描いたものらしい図がある。その右上図外には「コブ」と読めそうな文字があり、左上図外にも判読不能の「■」(二字?)がある。これは、採集地から、この後に書かれている「化石二つ及鐵砂を得たり。江島にて介細工中往々この沙もて黑色をなせり。七里濱邊に有り、取り來て水に晒し用ゆとぞ」とある化石の一つの絵と推定される。何の化石かは、私には判らない。識者の御教授を乞うものである。]

 化石二つ及鐵砂を得たり。江島にて介細工中往々この沙もて黑色をなせり。七里濱邊に有り、取り來て水に晒し用ゆとぞ。

[やぶちゃん注:七里ガ浜の稲村ヶ崎寄りでは、古くから砂鉄が採れる。]

 「ホツスガヒ」、同大にして價大に異なるものあり。之を問ふに、鹽氣を去れると去らざるとなり、鹽氣を去らざれば其綿脫落すといふ。その之を去るの法之を淨水に浸すこと數分時にして日光に晒し、幾回もかくするなりと。

 (附)餘が購し介種の中「ヒゲダイモク」郞君子(こまのつめ)等二十品ばかり、倉卒の際旅舍へおき忘れて出たり。今に至り悵憾詮方なし。[やぶちゃん注:この最後の附記はポイント落ち。]

右明治十八年五月二日記畢。           

[やぶちゃん注:「ヒゲダイモク」日蓮宗の「南無妙法蓮華經」の髭文字を貝細工で作ったものらしいが、私は見たことがないので、何を用いて造るのか、不詳。識者の御教授を乞う。髭は鯨ひげを使ったか? 因みに、御題目の内の「法」には、唯一、髭はない。「法」=「カルマ」は棘があってはいけないからである。

「郞君子(こまのつめ)」腹足綱前鰓亜綱古腹足目サザエ(リュウテンサザエ)科リュウテン亜科 Lunella 属スガイ(酢貝)Lunella correensis の硬質の厚い蓋のこと。「相思子」とも言う。これは、酢を入れた皿の中に入れると、くるくると回り出し、古く子どもの遊びとされた。御存知ない方は、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 相思螺・郎君子・酢貝(スガイ)・ガンガラ / スガイ及びその蓋』の私の注を参照されたい。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (7)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。なお、以下の「兒(ちご)か淵の由來」(「か」はママ)の部分は、底本では、全体が二字下げである。

 

兒(ちご)か淵の由來 往昔、建長寺廣德庵に自休藏主[やぶちゃん注:「じきうざうす」。]と云る沙門有り、陸奧國信夫の人にて、或時宿願有て江島に詣する山中にて美艶紅顏少年にあふ。藏主迷ひの心を生し戀慕止まず。伴ふ僕に問へば是なん雪の下相承院の白菊といふ兒なりと答ふ。爾後人づてに文もて云よれど更に隨ふ氣色なければ、月日を累ね切なる思ひを通じければ、白菊も其の情にや忍かねけむ扇に二首の和歌を記し、涉船人[やぶちゃん注:「わたしぶねびと」。]にわたし、吾を尋る人あらば之を與へよと言別れて入水せし名殘の歌に、「白菊としのぶの里の人とはゞおもひ入江の島とこたへよ」「うきことをおもひ入江のしまかげにすつるいのちは波のしたくさ」かく辭世して此淵に沈み終りしを藏主慕ひ來て此歌を見つゝ淚にむせびつゝ詩を賦す。曰く、懸崖嶮所捨生涯、十有餘霜在刹那、花質紅顏碎岩石、蛾眉翠黛接塵砂、衣襟只濕千行淚、[やぶちゃん注:読点がないが、誤植と断じ、打った。]扇子空澗(とゞむ)二首歌、相對無言愁思切、暮鐘爲孰促歸家、白菊の花の情のふかき海にともに入江の島ぞうれしき、と詠じて自休も共に此淵に身を投、死したり。【此事南畝莠言等に出づ】

[やぶちゃん注:ここで一字下げは終っている。最後の【 】は底本では、二行割注。

「懸崖嶮所捨生涯、……」訓読を示すが、一部の漢字に問題がある。私のブログ版の「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 12 兒が淵」で私が私のサイト版「新編鎌倉志卷之六」のそれとの異同を載せてあるが、その孰れとも異なる。而して、大田南畝の「南畝莠言」を、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十五巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)の当該部で見たところ、 熊楠は、そこに載る漢詩を概ね引いたものと判った。但し、取り敢えず、明らかな誤字或いは誤植としか読めない「扇子空澗(とゞむ)二首歌」の「澗」を「南畝莠言」の「留」に代えて「南畝莠言」での読みを参考に(一部に不審があり、そこは従っていない)訓読しておいた。

   *

懸崖 嶮(けは)しき所に生涯を捨つ

十有餘(いうよ) 霜(さう) 刹那に在り

花質(くわしつ)の紅顏(こうがん) 岩石に碎け

蛾眉翠黛(がびすいたい) 塵砂に接す

衣襟(いきん) 只だ濕ほす 千行(かう)の淚(なみだ)

扇子(せんす) 空しく留(とど)む 二首の歌

相ひ對して 言(こと)無し 愁思(しうし) 切(せつ)なり

暮鐘(ぼしよう) 孰(たれ)が爲めに 家に歸ることを促(うなが)す

   *]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (6)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 奧津宮以下を窟道と云ふ。店頭拳螺[やぶちゃん注:「さざえ」。]を燒き茶をすゝむるもの數軒、余一店に入り望遠鏡を以て南方を覘ふに、一岩傑然波上に兀出す[やぶちゃん注:「ごつしゆつす」。]。是れ烏帽子岩と名く。その距離三里なりといふ。此邊形勝頗る佳なり。其島の東南に斗出[やぶちゃん注:「としゆつ」。]せるの地、これを三崎となす。伊豆大島亦見るべし。稍下りて常夜燈の碑有り。又下りて海崖に至る。大磐平卧して擴布甚廣きものあり、まないた岩と呼ぶ。是よりさき、岩石突兀、行步注意を要す。遂に岩屋に入る、入る事一町許り人あり、神符を賣り又燈を具して人に貸す。こゝにて手を洗ひ燈を點して進行す。洞の大さ進むに從て漸く減じ、遂に頭を注意するを要するに至る。左右小祠多し。一々名を聞たれども悉く記せず。窟の衝く所に辨天祠有り、卽ち役小角乃祭る所にして此島の本神なり。入り口より此に至る二町二間[やぶちゃん注:二百二十一・八二メートル。]という。他の一道を經て出で手を洗し所に至り遂に洞口に出で歸る。漁夫五六人海に入て蝦を取るを觀よと勸む、余聽かず、蓋し彼ら豫め蝦を捕え[やぶちゃん注:ママ。]て筐籠[やぶちゃん注:「きやうろう」。箱や籠。]に盛り崖下におき、岩下を探るを似して[やぶちゃん注:「まねして」。]これを取出すなり。故に其蝦多くは活動跳躍せず。奧津宮前に來り、案内者に別れ、介肆數軒に入り、魚蝦蟹貝の屬數十品を買ふ。時既に正午に近きを以て、ひと先[やぶちゃん注:「まづ」。]足を回してかえる[やぶちゃん注:ママ。]。]

 午餐後、復出で[やぶちゃん注:「また、いで」。]、島の西岸に至る。漁戶あり、人皆網を乾し藻介を取る。此時天漸く晴れ海潮退き盡きて岩上靑苔滑らかに和風吹來て、松聲朗たり。步して崖岸を探れば蟹螺立ろに[やぶちゃん注:「たちどころに」。]拾ふべし。思はじ步する事數町、遂に辨天窟の前に至る。此邊處々に「シヤウジンガニ」を見る。「アカムシ」より少く[やぶちゃん注:「すこしく」。]大にして、沙中に群生し、捲曲動搖して其餌を資る[やぶちゃん注:「とる」。]あり。海菟葵[やぶちゃん注:「いそぎんちやく」。]多し、其一種腕形恰かも羽毛の如く褐色にして甚美なるものあり、又雨虎(あめらし[やぶちゃん注:ルビはママ。「あめふらし」の誤植。])多し。「カツタイガニ」多くみな脊上に靑苔を生じて、靑苔[やぶちゃん注:「あをのり」。]を生して[やぶちゃん注:「しやうじて」。]の靑苔中に棲む、これを識る事甚難し、而して多くは其足一二本缺けり、こゝに於て百方探索其足の全きものを取れり。其形を支離する者の益[やぶちゃん注:「ますます」。]其大なるかな。又步して兒(ちご)が淵に至る、岩屋此に至りて竭きたり。碧水潭々として怒浪奮擊し、苔藻の靡き動く有樣、恰かも喬木の大風に動くを上より見る心地せり。

[やぶちゃん注:「窟道」「いはやみち」。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「烏帽子岩」一般名称であるが、その方で専ら知られる。正しくは「姥島」(うばしま)で、「乳母島」とも書き、古くは「筆嶋」と呼んだ。ここ

「その距離三里なりといふ」誇張表現もトンデモで、実際には五キロメートル強しかない。

「其島の東南に斗出せるの地、これを三崎となす」これは烏帽子岩(=姥島)の烏帽子上に突出している箇所を、かく言っている。ストリートビューのここで、ここの一角、同岩礁帯の南部(東南ではない)だけが、特異的に屹立していることが判る。

「伊豆大島亦見るべし」はっきりとはしないが、大島の島影が江ノ島から見える。私は、昭和六一(一九八六)年十一月二十一日夕刻に始まった「三原山大噴火」のその日の夜、友人の車で江ノ島にドライヴに行ったが、吹き上がる火柱が三本ほど、確かに見えた。

「稍」(やや)「下りて常夜燈の碑有り」江ノ島の「稚児ヶ淵」の崖のここに「芭蕉句碑」と「石碑群」があり、「稚児ヶ淵」の岩礁上に常夜灯(同前のサイド・パネルの画像)がある。江戸時代の奉納のものである。

「擴布」面積の広さ。

「まないた岩」「『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島」の本文に『俎岩』と出る。因みに、芥川龍之介の「大導寺信輔の半生 ――或精神的風景畫――」(私のサイト版)のエンディング・ロケーションは、この「魚板岩」(まないたいわ)である。

「シヤウジンガニ」甲殻綱十脚(エビ)目エビ亜目カニ下目 Brachyura Grapsoidea上科イワガニ科ショウジンガニ(精進蟹)亜科ショウジンガニ属ショウジンガニ Plagusia dentipes 。大きさは六センチメートル。江ノ島に棲息する。グーグル画像検索「ショウジンガニ」をリンクさせておく。

「アカムシ」異名らしき「赤」からは、イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir である。大きさは三~五センチメートル前後だが、♂が♀より大きい。陸生に適応しているが、江ノ島にも棲息する(ショウジンガニとともに小学校六年生の時にヨット・ハーバーの防波堤の外の岩礁で視認している)。グーグル画像検索「アカテガニ」をリンクさせておく。

「海菟葵」刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目 Actiniaria 。「其一種腕形恰かも羽毛の如く褐色にして甚美なるものあり」とあるのは、イソギンチャク目尋常イソギンチャク亜目ウメボシイソギンチャク上科ウメボシイソギンチャク科ウメボシイソギンチャク属ウメボシイソギンチャク Actinia equina 、或いは、ウメボシイソギンチャク科 Epiactisコモチイソギンチャク Epiactis japonica であろう。リンクは学名のグーグル画像検索。後者も大きな個体或いは個体群では強い褐色を示すものがあるが、「羽毛の如く褐色にして甚美なるもの」という表現はウメボシイソギンチャクに遙かに分がある。二種とも先と同じ場所で現認している。

「雨虎」「あめふらし」腹足綱異鰓上目真後鰓目アメフラシ亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシAplysia kurodai 。私のサイト版「栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻八より)」「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」の「雨虎(海鹿)」を見られたい。

「カツタイガニ」「癩蟹」(「かったい」は「ハンセン病」の古語の差別名)であり、現在は使用してはならない。軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目クモガニ上科モガニ科ツノガニ亜科ヒラツノガニ属ヒラツノガニ Scyra compressipes のことである(リンクは同前の検索)。「平爪蟹」で、食用になる。肉量は多くないが、多量に漁獲されることがあり、出荷される。甲の輪郭が丸みを帯びていることから、漁業関係者の間では「マル」とか「キンチャクガニ」の名で呼ばれることが多い。甲面は前後左右に湾曲し、甲面中央部にH字状の深い溝がある他は甲域が不明瞭である。額に四本の突起が並んでいるように見える。甲の前側縁には三角形の突起が五つあり、それらの外縁は孰れも丸みを帯びている。鋏脚は強大で、掌部の下縁には二十本内外の短い稜が斜めに並んでおり、この部分を付根にある角質の稜で擦って音を発することが知られている。遊泳脚の先端部が平たいので「平爪」の名がある。生時は、黄褐色地に紫色の小点が密にある。本州・四国・九州の浅海の砂底に棲息し、中国南部まで分布する。ゴカイなどの小動物を食べる。夏に産卵する。嘗つては、世界的に分布すると考えられたが、現在は多くの種に分けられている。タコ釣りの餌としてよく使われる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。江ノ島で現行でも多量に漁獲された記事を確認出来た。

「靑苔」素直に読むなら、「あをのり」で、緑藻植物門アオサ藻綱アオサ目アオサ科Ulvaceae の種群、或いは、同科アオサ属スジアオノリ Ulva prolifera 、同科アオノリ属ウスバアオノリ Enteromorpha linza かも知れない。「大和本草卷之八 草之四 海藻類 海苔(アヲノリ)」の私の注を参照されたい。]

2024/04/19

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (5)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 濱と江の島の間、潮水之を遮る其間半町[やぶちゃん注:五十四・五五メートル。]に足ず、涉人、往來を辨す、島の北端は平沙濱をなせり。海鷗群飛して悲鳴す。海蝦の漁甚多し。鳥居を過て一丁ばかり人家對列す、旅舍多し、之を西の町と云ふ。輙ち惠比須屋茂八方に宿し出で島上に遊ぶ。介貝を賣る肆[やぶちゃん注:「みせ」。]多し。每肆皆なホツスガイを列示す、この島專有の名產なり。坊の衝く所石壇有り、上れは[やぶちゃん注:ママ。]正面に石碑あり。東都吉原妓家の建る所、書して曰く、最勝銘最勝無最勝匹至鈔匪名、起滅來去香味色聲事物蕭寂眞空崢嶸顯處漠々暗裡明々 明治甲申 原坦山撰とあり。此邊に案内者あり、乃一人を雇ひ伴ひ行く。邊津社は舊下の宮と稱し、建永元年僧良眞が源實朝の命を請て開く所なり。沖津社[やぶちゃん注:ママ。「中津社」が正しい。]は舊上の宮と號し、文德帝の時慈覺大師の創造する所なり。中津社より奧津宮に至る其間の道を山二つといふ。進て行けば介肆[やぶちゃん注:貝殻を売る店。]多し。奧津社舊岩屋本宮の御殿と云ふ。養和二年文覺が賴朝の祈願により龍窟の神を此に勸請せるなり。社前に酒井雅樂頭の眞向きの龜と號する畫額あり。但し余の見を以てすれば、寧ろ眞拔けの龜と稱するが佳ならん。

[やぶちゃん注:「濱と江の島の間、潮水之を遮る其間半町に足ず、涉人、往來を辨す」当時の江ノ島の様子は、私の『サイト「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動 / 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 1』以下の、同章を通読される(第五章は、カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】』で全二十二回)と、私がグダグダ解説するより、目から鱗である。例えば、当時はしっかり砂州があって(満潮や荒天時は切れる)、平時は陸繋島であった。例えば、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定」の私の注で引用した地図を見られたい。また、実は現在、江の島に初めて砂州の途中から桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とされているのだが、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 25 幻の桟橋」のモースの記載に明治一〇(一八七七)年夏の時点で、極めて脆弱ではあるが、「島から本土へかけた、一時的の歩橋」が、まさに砂州の途中から既に島に架かっていた事実が記されてあるのである!

「西の町」この呼称は現在知られていないので、貴重な当地での呼称として非常に貴重である。

「惠比須屋茂八」「恵比寿屋」として現存する(グーグル・マップ・データ)。「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 15 惠比壽樓」を参照されたい。

ホツスガイ」海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi 。私の毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 拂子貝(ホツスガイ)  / 海綿動物のホッスガイの致命的な海綿体本体部の欠損個体』を見られたい。私が小さな頃は、江ノ島のどこの土産物屋にも、不思議に美しい骨格J標本が売られていたものだが、最近はめっきり少なくなった。ちょっと寂しい。

「最勝銘無最勝匹、……」訓読を試みる。

   *

「最勝の銘」。「最勝、匹(たぐ)ひ無く、至妙、名に匪(あら)ず。起滅、來去(らいきよ)、香味、色聲(しきしやう)、事物は蕭寂(しせうじやく)、眞空(しんくう)は崢嶸(さうくわう)たり。顯處(けんしよ)は漠々、暗裡は明々たり。明治甲申 原擔山撰

   *

この「最勝」とは、仏教の教典の一つである「金光明最勝王經」のこと。「法華經」・「仁王經」(にんのうきょう)とともに、「国家鎮護」の「三部経」とされる経典である。「色聲」は字面上は同経典の有難い経文の美称であろうが、確信犯で吉原の妓女を通わせているに違いない。「眞空」は仏語で、一切は因縁によって生じ、我とか実体とか言ったものがなく、完全に空しいことを言う語である。「小乗」では、これを悟りの境地とするが、このように空と観ずることによって智慧が発現する際、その真空は、そのまま「妙有」(みょうう:真実の有。 相対的な有・無の対立を超えて初めて、その空の上にこそ存在の真実の姿が現れるとするもの)であり、それを「真空妙有」と呼ぶ。則ち、この「空」は、ただの「空」ではなく、「真如の理性の諸相を離れた姿」なのである。妓女を苦海から浄土へと導く引導としたものであろう。「明治甲申」は明治十七年(以下を参照のこと)。なお、この碑は江島神社の瑞心門の左手の無熱池の背後の崖の上に現存する。サイト「古今東西舎」のkokontouzai氏の『江の島(最勝銘碑)南方熊楠の「江島紀行」にも登場』に写真と解説があり、『新吉原の関係者が寄進した石碑』とあり、発起人として、『長崎屋、吉村屋、山口巴屋、尾張屋』の名が彫られてあり、『この石碑「最勝銘碑」は』、熊楠が訪れた前年の明治一七(一八八四)年に『建てられたもので、東京大学でインド哲学を教えた曹洞宗の僧の原担山の撰による文言が刻まれてい』るとあるから、実に、南方熊楠が訪れた前の年に建立された、出来たてホヤホヤのものであったことが判る。原担山(はらたんざん 文政二(一八一九)年~明治二五(一八九二)年)は磐城出身。初め、江戸の「昌平黌」で儒学を学び、また、医学を修めた。後に曹洞宗の僧となり,明治一二(一八七九)年に東京大学和漢文学科で仏典の講義を行い、これが同大学の印度哲学科の端緒となった。 明治二四(一八九一)年に曹洞宗大学林(現在の駒澤大学)総監に就任している。著作は「心識論」・「心性實驗錄」など、多数ある。吉原遊廓とインド哲学者の取り合わせがグーだね! 今度行ったら、じっくりと見たいものだ。

「邊津社」現在の江島神社辺津宮(へつのみや;グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。

「建永元年」一二〇六年。

「良眞」江の島の岩窟に籠もって修行した鶴岡八幡宮の供僧。サイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「聖天島~天女出現伝説:江の島~」を見られたい。

「沖津社」(✕)「中津社」(○)江島神社中津宮

「文德」(もんとく)「帝の時」在位は嘉祥三(八五〇)年~天安二(八五八)年。

「慈覺大師」円仁のこと。

「奧津宮」ここ

「山二つ」ここ

「介肆多し」ストリートビューで見たが、昔、嘗ての恋人にベニガイ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii )を買った店に併設されていた「世界の貝の博物館」(旧主人が貝類学者とも親しかった方で貝類研究家でもあった。何度か親しくお話を聴いたのを思い出す)も既に閉じていた……

「養和二年」一一八二年。

「酒井雅樂頭の眞向きの龜と號する畫額あり。但し余の見を以てすれば、寧ろ眞拔けの龜と稱するが佳ならん」。「酒井雅樂頭」江戸後期の絵師俳人酒井抱一(ほういつ 宝暦一一(一七六一)年~文政一一(一八二九)年:本名酒井忠因(ただなお))のことだが、彼は権大僧都ではあったが、「雅樂頭」(うたのかみ)ではない。彼の父親(抱一は次男)が、老中や大老にも任じられた酒井雅楽頭家の姫路藩世嗣酒井雅楽頭忠仰であったのを、誤認したものである。さて。「龜」の絵だが、「眞向きの龜」ではなく、「八方睨みの亀」(どこから見てもこっちを睨んでいるように見える)である。奥津宮拝殿天井に描かれてあった。私が先の恋人と見た時は、原画であったが、現在のものは、彩色された復原画になってしまっている。私は原画が大好きだ。熊楠には物言いを叫ぶ!【二〇二四年五月二十六日追記】

   *

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   *

父母の遺品を整理している内に、私が写した旧原画だった頃の写真を発見したので、ここにお披露目しておく。

 それよりまた步をかえす[やぶちゃん注:ママ。]に、潮水なほ未だ滿ち來らず、天氣朗晴にして相豆[やぶちゃん注:「さうづ」。相模・伊豆。]の形色悉く備はる。男は巖崕の上に踞して釣竿を斜にし、女は汀際に俯して藻介を覓む。兒童が蟹甲を剝て舟となし、𧶺蟲[やぶちゃん注:「ていちゆう」。ヤドカリの古名。]を客として水に浮べてなぐさむも亦目新らし。かくて旅舍へ歸りしに時なほ四時に早きを以てまた出でて山上に至り介肆に就て諸種の介蠏[やぶちゃん注:「かひ・かに」。後者はカニのこと。]數十個を購收せり。介又やぎを以て簪箸[やぶちゃん注:「かんざし・はし」。]など種々の細工をなす。美にして雅なり、頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]愛すべし。又店頭に印度、薩隅及北海道の所產をも列する事少なからず、之を問ふにこれみな此島所產を以て彼と交易するなりといへり。此夜一天片雲なく、星茫煌々として、金波爛揚[やぶちゃん注:「らんやう」。]、價値千兩とも謂つ可し。夜九時に臥す。

[やぶちゃん注:「やぎ」花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱亜綱ヤギ(海楊)目Gorgonaceaに属する多数の種群の総称。俗に「ソフトコーラル」と呼ばれる。黄色や赤など、様々な色彩に富み、美しい水中景観を作る。その群体の中心には、角質或いはそれに石灰質を膠着した骨軸を持っており、これが、加工されて土産物となっている。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (4)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

  ○十八日

 黎明天を望むに、漸く南方の白きを見る。午前八時宿を出で、西方に向かふ、長谷觀音の境内を過ぐ。この觀音は行基菩薩の開眼する所にして隨分大軀なりと聞しが、堂宇の小なるは實に驚くべし。此を過ぎて御靈神社有り、後三年の役に奮鬪せる平景政を祭る。建久五年正月、八田知家此社へ奉幣使をつとめたる事有といふ。それより切通坂を經て七里ヶ濱に出づ。道傍に蛞蝓[やぶちゃん注:「なめくじ」。]の交尾するを見る。雌雄圓狀をなして草葉の上にあり、白涎[やぶちゃん注:「はくぜん」。白い涎(よだれ)。]の如きものを出せり。七里濱は關東一里を以て計(かぞ)ふるものにして、南に大洋を眺め、西に江島を見る、風景稍喜ぶべし。サンドホッパーの屬多し。一箇の木塊の化石せるを得たり、長さ四寸幅三寸許り、杭頭の化せるものならん、木理[やぶちゃん注:「もくり」。]鮮明にして體重多し。濱の中途に小流あり、行合川と名づく。僧日蓮の刑に遭ふや、奇怪の事多きを以て、其狀を具するの使と時賴が赦免狀を持てる使者と此邊に行き合ひたるを以て此名を傳ふといふ。此邊「海綿」、「ウミヒバ」等多く打上られたり。又、雨虎(あめふらし)の多く死せる有り。七里濱の終る處腰越村なり、卽ち源廷尉が兄の爲に追反[やぶちゃん注:「おひかへ」。]されたる處にして、村内万福寺今なほ腰越狀の草案を藏すといふ。海邊に小嶴[やぶちゃん注:「しやうあう」(しょうおう)で「山の中の平地」。]あり、岩上の松常に搖く[やぶちゃん注:「ゆらぐ」と読んでおく。]を以て、これを小動[やぶちゃん注:「こゆるぎ」。]と名けたり。北條氏康の歌に、「きのふ立ちけふ小ゆるぎのいその波いそゐでゆかん夕ぐれのみち」と有る、是れなり。村を出て亦沙濱有り、爰に寄居蟲[やぶちゃん注:「やどかり」。]の大さ三四寸なる者數個を見る。思ふに、此邊かゝる種に富めるならん。

[やぶちゃん注:「御靈神社」ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。この神社は私の好きな場所で、いろいろな記事でこれに言及しているが、とりあえず、「『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」をリンクさせておく。「平」(鎌倉權五郞)「景政」や「八田知家」も注してある。

「切通坂」「極樂寺坂切通」

「サンドホッパーの屬」英名sand hopperである、甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridaeのハマトビムシ類の仲間と考えてよい。体は左右に扁平で、頭部のほか、それぞれほぼ同大の七胸節、六腹節からなる。二対の触角のうち、第一触角は短い。満潮線付近の砂中に棲息する種が多く、海岸に打ち上げられた海藻などに附着するバクテリアを摂餌する。全国各地の海岸で普通に見られる体長十五ミリメートルの一般種である、ハマトビムシ科ヒメハマトビムシ属ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis や、体長二十ミリメートルの大型種の、同科ヒメハマトビムシ属ホソハマトビムシ Paciforchestia pyatakovi を取り敢えず、挙げておく。

「行合川」(ゆきあひがは)は、この「行合橋」の架かる川。

「僧日蓮の刑に遭ふや、奇怪の事多きを以て、……」所謂、「龍ノ口の法難」である。文永八(一二七一)年、忍性や念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え、さらに、平頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕縛され、「腰越龍ノ口刑場」(現在の神奈川県藤沢市片瀬に日蓮宗龍口寺(りゅうこうじ)がある)で処刑されかけたが、奇瑞があって処刑を免れ、翌十月に佐渡へ流罪と変更された。但し、奇瑞なんぞは実際にはなく、執権北条時宗が死一等を減じたのは、この時に正妻(後の覚山尼)が懐妊していた(十二月に嫡男貞時を出産)ことが主たる理由(「比丘殺し」は部教信者には祟りが怖いのである)と私は踏んでいる。他に、幕閣内に日蓮に帰依している者が有意な数、いたことも大きい。「北條九代記 卷第九 日蓮上人宗門を開く」の私の注を参照されたい。

「海綿」海綿動物門普通海綿綱 Demospongiaeのカイメン類。

「ウミヒバ」「(2)」で既出既注

「雨虎(あめふらし)」腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai 。詳しくは、私の記事では、『畔田翠山「水族志」 (二四八) ウミシカ (アメフラシ)』が最も詳しい。なお、アメフラシが食べられることを御存知ない方が多いので、私の「隠岐日記4付録 ♪知夫里島のアメフラシの食べ方♪」もリンクさせておく。

「腰越村」神奈川県鎌倉市腰越

「源廷尉」源九郎義経のこと。「廷尉(ていゐ)」とは「検非違使の佐尉(さゐ:訓では「すけのじよう」)」を指す。彼は寿永三(一一八三)年八月に、平家追討の功により「左衛門少尉」に任じられ、「検非違使」に補せられたので、かく呼んだ。

「兄」異母兄源頼朝。

「万福寺」「滿福寺」の誤り。ここ

「腰越狀」「新編鎌倉志卷之六」の「滿福寺」の私渾身の「腰越狀」及び現代語訳、現在、満福寺に伝わる「腰越狀下書」と伝えられるもののテクスト化をご覧あれ。なお、これは私が三十四年前に満福寺を訪れた際に購入した縮刷された影印版を読み解いたものである。

「海邊に小嶴あり、岩上の松常に搖くを以て、これを小動と名けたり」現在の小動(こゆるぎ)神社(ここが平地となっている)のある「小動の鼻」(現行では「小動岬」と言う)のこと。

『北條氏康の歌に、「きのふ立ちけふ小ゆるぎのいその波いそゐでゆかん夕ぐれのみち」と有る』下句の表記に不審があったので、国立国会図書館デジタルコレクションの「相模國 こゆるぎ考」(呉文炳(くれふみあき:著名な経済学者であったが、「江の島」に関する浮世絵の収集家及び江の島・鎌倉の研究者としてもとみに知られる)・土屋憲二共著/昭和一七(一九四二)年邦光堂刊)の「第三章 散文・紀行にあらはれたこゆるぎ」のここを見ると、

   *

 きのふたちけふ小ゆるぎの磯の波いそぎて行かん夕暮のみち

   *

とあって、南方熊楠の引用の誤りであることが判った。因みに、この歌、私は、名将氏康は、この「小動の鼻」の磯辺に立って、ここを通って稲村ヶ崎の引き潮を受けて鎌倉攻めをし、幕府を滅ぼすことに成功した仁田義貞の面影を懐古したものと読む。

「村を出て亦沙濱有り」小動の鼻を東に超えた現在の腰越漁港、及び、その西に現在の「江の島大橋」まで続く藤沢市の片瀬海岸を指す。

「寄居蟲」「がうな」「かみな」或いは「やどかり」と読む。甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea に含まれる種群。サイト版「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「寄居蟲(かうな かみな) [ヤドカリ類]」があるが、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 寄居蟲(カミナ/ヤドカリ)」も、多少、参考になるか。]

2024/04/18

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (3)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

  ○十七日

 朝六時起て戶を開けば則一天曇陰、一𨻶[やぶちゃん注:「いちげき」。]の陽光り漏らすなし。十時草鞋を穿ちて[やぶちゃん注:「うがちて」。穿(は)いて。]出づ。道路膏[やぶちゃん注:「あぶら」。]の如く一步悉く意を注す。道傍に空地有り、石碑に刻して日蓮上人牢屋敷の跡という。北に向かひ行く事數町、佛頭の高く門上に聳へたるを見る。則知[やぶちゃん注:「すなはち、しる」。]其果して鎌倉大佛なるを。門に額を揭て大異山と書せり。門を入りて大佛の前に至り、仰瞻良久[やぶちゃん注:「あふぎみる。やや、ひさし」。]、右側の家に鎌倉地圖大佛寫眞等を賣るあり、乃就て地圖と寫眞とを購ふ。僧予を延て[やぶちゃん注:「ひきて」。]佛の體内に入り階[やぶちゃん注:「きざはし」。]を上りて三尊及觀音を見せしむ。此觀音像は德川家康の納進する所と云ふ、それより鶴岡八幡宮に詣す。宮は南に向て立てり。社殿美なりと雖も、頗る聞く所より小なり。百聞一見不如の言、洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]欺かざるなり。石壇を上りて之を見下て若宮を見る。若宮は本社の下右方に在り、又下の宮といふ。仁德天皇を奉祀す。靜女が袖を飜して「しづやしづ」の吟詠ありしは、この神前に於てせりといふ。此近傍に双枝の竹を栽[やぶちゃん注:「うゑ」。]たり。鶴岡の東方に賴朝の邸址あり。其地、方六町許瓦片[やぶちゃん注:「かはらけ」。]田圃の中に磊砢[やぶちゃん注:「らいら」。多く積み重なっているさま。]として、徒らに古色の日々古へを增すを致せり。北方の丘上に賴朝の墓有り。苔むし蘿[やぶちゃん注:「つた」。]纏ひ字々讀むべからず。其東に大江廣元・島津忠久の墓有り。二階堂村に至り鎌倉宮を見る。凡そ鎌倉の名所と稱する者、其數多しと雖も、其實一坪の墟禾麥箕子を泣かしめ、一个[やぶちゃん注:「いつこ」。]の穴、狐を棲しめ狸を息はしむるものに過ぎず。之を尋ね之を辨ずること、まことに難く、人をして識別に苦ましむ。名所か迷所か我れその何れか當れるを知らず。たとひ終日[やぶちゃん注:「ひねもす」。]杖を牽き足を痛ましむるも、其益を得る事實に少々ならん。且つ降雨益々盆を傾け、鞋損じ、衣霑ふを以て久しく止まる能はず、步を却して[やぶちゃん注:「かへして」。]宿に歸る。時已に二時なり。五六時の交に至り雨寖く[やぶちゃん注:「やうやく」。「漸」に同じ。]止む。しかれども、一天の陰闇少しも決𨻶[やぶちゃん注:隙間。ちょっとした一瞬の変化。]なし。夜九時に至り寢す。

[やぶちゃん注:「日蓮上人牢屋敷の跡」これは、移動の地理状況から、長谷寺の北西直近にある「光則寺」にある「日朗上人の土牢」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)の誤りである。

「若宮」これは鶴岡八幡宮本宮を下った、下に向かって左(東)にある「若宮」。但し、本来の「鶴岡八幡宮」が勧請された時の「若宮」は、ずっと海側の現在の材木座のここにある。ここの北西直近に藪野家の本家があった(昨年、父の兄は逝去)。因みに、その全く反対側の南東直近には、芥川龍之介が新婚時代に住んだ家があった。「辻の薬師」の横須賀線を挟んだ反対側である。私の偏愛する芥川龍之介との地理上の奇しき近き縁を知ったのは、遅蒔きながら、大学生の時であった。

「双枝の竹」如何なる竹なのか不詳。識者の御教授を乞う。

「賴朝の邸址」現在の「大倉幕府跡」

「賴朝の墓」「法華堂跡(源頼朝墓)」。但し、実際の法華堂(現行の頼朝の墳墓は島津氏が勝手にデッチアゲたものであり、頼朝は墓石ではなく、法華堂として存在した)は、「頼朝の墓」の登る手前の左にある「よりとも児童公園」がその跡地である。因みに、私が生まれる前後、私の父母は、この東にある荏柄天神の境内におり、母は老婆のやっていた「頼朝の墓」の右手にあった「よりとも茶屋」の女中をしていた。

「大江廣元・島津忠久の墓有り」Yahoo地図のここ。源頼朝墓の東側の山の中腹に三つの「やぐら」が並ぶが、その中央が大江広元の、左が、その子で毛利氏の祖となった毛利季光の、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓であるが、大江広元のそれは、毛利の後代のデッチアゲである。実際の「伝広元の墓」は、もっと東方の十二所に近い浄妙寺の山の尾根にあるが、まず、訪ねる人は少ない。

「鎌倉宮」大塔宮護良親王が軟禁されて殺された屋敷跡(土牢はウソっぱち)にあり、同親王を祀る。ここ。明治天皇が作った新しいものである。

「一坪の墟」(きよ)「禾麥」(くわばく)「箕子」(きし)「を泣かしめ」所謂、「麦秀の嘆」である。「史記」の「宋微子世家」に基づく「亡国の嘆き」を言う。殷の箕子(きし)が、滅びた殷の都の跡を通り過ぎ、麦畑となっているのを見て、悲しみのあまり「麥秀の歌」を作った故事に依るもの。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (2)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 道の左傍に旅宿あり、三橋與八と云ふ村の比較に取ては頗る壯美の家なり。一室に入りて茶を喫み婢に何時と問へば、則答へて五時過なりと云へり。每年今頃は京濱の士女續々と此邊へ出掛るなるに今年は陰雨の永へ[やぶちゃん注:「とこしへ」。]に續きて止さる[やぶちゃん注:ママ。]が爲めに、右幕府の故趾を訪ふの士も甚少しとみへ[やぶちゃん注:ママ。]、此宿舍の如きも寥々として各室槪ね人なし。未だ晚には早けれは[やぶちゃん注:ママ。]暫時其邊へ遊びに行んと宿を出で東に趣き由井濱に至る。此濱あまり長からず、又あまり廣からさる[やぶちゃん注:ママ。]やうに見受たり。渚沙の邊を緩步して何がな奇物をと探れども別に奇き[やぶちゃん注:「くしき」。]ものなし。たゞ一魚齒[やぶちゃん注:平凡社版には『(第二図)』とここにあるが、底本には、これも図も、ない。]及一二の介殼を拾へるのみ、「ウミヒバ」多く浪に打ち上られたり。又海星(シースタール)[やぶちゃん注:言わずもがな「sea star」で「ヒトデ」]。の屬を見る。濱の上邊にはハマヒルガオ、ハマビシ等生せり。六時頃宿に歸り晚餐を執る。其後、燈前に兀坐[やぶちゃん注:「こつざ」。凝っと座っていること。]し無聊爲す所なし。隣室に人多く集まり酒を飮て快談す。其音鴃舌[やぶちゃん注:「げきぜつ」。]とまでにはあらねども、なにやら一向解するに苦しみしが、靜かに之を詳悉[やぶちゃん注:「しやうしつ」。詳細に述べること。]するに、彼等の内五人は婦人にて一人は男なり。陸中の人なるが、今回東京を見おわり[やぶちゃん注:ママ。]ついでに此邊を見に來れるにて、五人の婦女一向東京語を曉らず[やぶちゃん注:「さとらず」。]、故に此男を雇ひ來りて通辯をなさしめ以て買物などを調へるなり。此男又國許に在し時、鎌倉節を習ひ、頗る熟せり。今鎌倉に來りて鎌倉節を謳ふは聲の所に應ずるなりなどいひて揚々と謳ひしに、衆婦皆笑ひのゝしれり。余是に於て亦婢を喚て酒三合を命し[やぶちゃん注:ママ。]、立ろ[やぶちゃん注:「たちどころ」。]に盡くす。乃ち傴臥[やぶちゃん注:「くが」。背を曲げて横になること。]して獨り浩々、夜半眼さめ、正に雨滴の石を打つを聞く。心之が爲めに呆然たり。

[やぶちゃん注:「道の左傍に旅宿あり、三橋與八と云ふ村の比較に取ては頗る壯美の家なり」旧「三橋旅館」。「『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島/旅舘」に、

   *

 三橋與八      長谷觀音前にあり。

   *

と出る。現存しないが、同旅館の蔵がここ(グーグル・マップ・データ)に残る。

「由井濱」この場合は、「坂ノ下海岸」にまずは出たものであろう。

「ウミヒバ」「海檜葉」で、刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石灰軸亜目オオキンヤギ科ウミヒバ属ウミヒバ Callogorgia flabellum 。インド洋から西太平洋及び中央アメリカ大西洋岸の数百メートルの深海底に産し、日本では相模湾に多い。群体は交互羽状分岐をし、一平面状に広がり、樹木のヒノキの小枝に似ている。骨軸は細く淡褐色で、骨片を含まず、節部を持たない。また、骨軸は石灰化して強い。ポリプは鱗片状の骨片に包まれ、共肉内に退縮することはない。ポリプは枝上に四個ずつ輪生し、軸方向に強く弧状に屈曲し、背側に約十個、腹側に一、二個の鱗片を備える。上端には八個の蓋鱗(がいりん)を備える。群体は高さ、幅ともに一メートルを越え、細枝は十~二十センチメートル、各ポリプは一・五~二ミリメートルの長さである。近似種オオキンヤギPrimnoa resedaeformis pacificaやマクカブトヤギArthrogorgia ijimaiは二叉状に分岐をし、ホソウミヒバThouarella hilgendorfiやトゲハネウチワPlumarella spinosaは交互羽状分岐をするが、ポリプは弱く屈曲するのみで、腹側に三、四個の鱗片を備える。これらの種は、ともに日本の太平洋沿岸の数百メートルに及ぶ深所から採集される(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った。この場合、最後に載った近似種を含むと考えてよかろう。

「ハマヒルガオ」私の好きな「濱晝顏」。ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科ヒルガオ科ヒルガオ属ハマヒルガオ Calystegia soldanella 

「ハマビシ」「濱菱」。中文名「蒺黎」(いつれい)。ハマビシ目ハマビシ科ハマビシ属ハマビシ Tribulus terrestris。本邦では温暖な地方の砂浜に生える海浜植物であるが、乾燥地帯では内陸にも植生する。現在のハーブとして健康食品などに入れられており、果実を乾燥したものは「疾黎子(しつりし)」という生薬名で利尿・消炎作用を効能としている。

「鴃舌」「モズの囀り」の意から、「意味の判らない言葉・外国人などの話す意味の不明の言葉を卑しめて言う語。

「鎌倉節」幕末から明治にかけての流行唄の一つ。「鎌倉の御所のお庭」という歌詞からの名。「木遣(きやり)音頭」から出たので「木遣くずし」とも称した。江戸の飴屋が歌い始めて流行した。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (1)

[やぶちゃん注:書かれたのは、最後のクレジットから明治一八(一八八五)年五月二日である。「記行」はママである。当時の南方熊楠は満十八歳で、この前年に大学予備門に入学しているが、当該ウィキによれば、『学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ』ていた。まさに、その一齣でもある。江の島へ行ったのは、同年四月のことであった。私が手掛ける南方熊楠のテクスト中、彼が最も若き日の記事である。

 底本は『南方熊楠全集』第五巻 「文集Ⅰ」(澁澤敬三編・一九五二年乾元社刊)の「江島記行」(目次のママ)に載るものを用いた。戦後のものだが、正字正仮名である。底本冒頭の「解說」(ここは正字(但し、新字体が多く混入)新仮名(但し、促音は小振りでない)によれば、この「江島記行」に続く「日光山記行」・「日高郡記行」の『紀行文三篇は一冊に纏められている和綴稿本「紀行卷一」に收められていて、細画が添えられている。「江島記行」は他の草稿と覺しき同様の書あつたが、「紀行卷一」の方に翁自身整理淨書されたものと考えて、この方に從つた。三篇中前二篇(江島記行と日光紀行[やぶちゃん注:ママ。本文では「日光記行」。])は明治十八年、大學豫備門時代の紀行であり、「日高紀行」は翌十九年、渡米前に帰省中の旅行記である』とある。なお、加工データとして「私設万葉文庫」の一九七三年平凡社刊『南方熊楠全集』第十巻『初期文集他』を用いた新字新仮名の電子化されたものを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本篇は紀行の性質から、文章がベタで続く箇所が殆んどであるが、注を施すのに、割注ばかりでは読者が不便極まりなくなるので、「私設万葉文庫」の平凡社版の改行を生かしておいた。また、長い文章ではないものの、語注や行動ルートの検証(熊楠の錯誤を含む)に、どうしても注が増えるため、分割してしめすこととした。

 本篇を電子化しようと思ったのは、ずっとオリジナル電子化注に携わっている南方熊楠の作品であること以外に、私自身がサイトとブログで鎌倉史を研究している関係上、「江の島」もその守備範囲内に完全に入っており、また、「江の島」は個人的に、青春の日の忘れ難い思い出の地でもあるからでもある。

 なお、本文に配された標題の「ノ」は、底本では右寄せ小振りである。本文中では「江島」である。本文の小振り右寄せは、総て下附きとした。]

 

     江  島 記 行

 

 予東京に來てより越二年、塵に吸ひ埃に喁し[やぶちゃん注:「ぎようし」。口をぱくぱくさせ。]足未だ一たび市外に出ざるなり。今年四月、大學、例により十數日の休業有り。予乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]此間を以て江島に一過せんと欲し、俄然行李を治す。不幸にして曇天雨天續て止まざるもの十數日、十六日に至り天漸く晴る。乃[やぶちゃん注:「すなはち」。]宿を出て新橋に至り、十一時發列車に搭して神奈川に至る途上、男女の海邊に徒步して蛤藻[やぶちゃん注:「がふさう」。]の屬を採るを觀る。神奈川より程ヶ谷へ行かんと思ひしに先日來の雨にて道路頗る泥濘なりと聞き、乃ち足を轉して橫濱に趣き、道を東南に取て進むこと二里餘日野に至る。此地橫濱鎌倉の中央に位すと云ふ。此邊道路狹窄泥濘甚だし。又迂廻にして步を浪費する事多し。既にして切通坂に至る道路の惡しきこと極れり。聞く往年橫濱の惡漢、是に於て車客に向て種〻の暴行を加えたりと。但それ寥落の地なるを以て方今と雖とも夫れ或は之有らん[やぶちゃん注:「方今」「はうこん」。現在只今。]。坂の下り口の左傍に土の崩れたるあり。近ついて之を案して一化石を得たり。第一圖に示すが如く靑白の土上に褐色の印痕あるものなり。

[やぶちゃん注:この化石の手書き図が底本に載るが、この画像は国立国会図書館デジタルコレクションの許諾を得ないと使用出来ないので、各人でアクセスして見て貰いたい。右端に手書きで、

   明治十八年四月十六日鎌倉所𫉬、

とあり、化石図の左上方に

  Fig.

とある。サンゴ虫類或いは海藻類の化石痕か。図が粗いので、特定不能である。なお、この採集地は「日野」と、次の「公田村」から、この中央附近の坂(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)であることが推定出来る。私は初任校が柏陽であったので、この辺りは何度も歩き(一番楽しかった横浜緑ケ丘時代には、大船の自宅から未明に出て、この坂を抜けて、長途を歩くこと、六回ほどやった)、聊か、土地勘があるのである。]

 坂を下りて往くこと數百步、公田村に至る。村内の老若、手に苞[やぶちゃん注:「つと」。]を持し、腕に數珠を掛けて囁喃步[やぶちゃん注:「せうなんぽ」。念仏或いは経文を呟きながら歩くこと。]し來る。之を問ふに、乃曰く圓覺寺、本日法會を修せるに詣せるなりと。山内村を通り行くに圓覺寺道路の衝[やぶちゃん注:「しよう」。突き当り。]に當れり。寺内を通りながら一見するに靑松蓊鬱[やぶちゃん注:「をううつ」。]として許由の瓢を鳴らして、堂宇甍を列べて徒らに蜂房[やぶちゃん注:「はうばう」。蜂の巢。アシナガバチのそれであろう。]を懸下せり。やがて寺門を通りぬけ進み行くに、當日法會の某所に在りし故にや僧徒數十人頭に笠を戴き、手に杖を鳴らしつゝ數十人列を成して步み來たれり。道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに道傍延胡索の屬小なる者甚だ多きを見る。行く事數町、道の左傍に小祠を見る。佐助稻荷と書せり。西南の山側小村落を見る。卽ち長谷なり。余是に於て旅舍の近きに在るを知り、步を早くして行く。道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、「夏艸やつはものどもが夢の跡」といふを刻せり。長谷村に入りて街道の右に小祠あり、甘繩神社といふ此村の鎭守にして天照大神を奉祀せり。往時文治の頃賴朝この祠に詣して幣を奉け[やぶちゃん注:ママ。]たりといふ。當時それ或は莊美の祠殿なりしや知らされとも[やぶちゃん注:総て清音はママ。]、現今は矮陋[やぶちゃん注:「わいらう」。]何の見所もなき小祠也。

[やぶちゃん注:「許由の瓢を鳴らして」「蒙求」(もうぎゅう)に載る、孔子が最も愛した弟子顔回の「顏囘簞瓢」と、三皇五帝時代の伝説の隠者許由の「許由一瓢」に出る話である。顔回は、一瓢を携え、陋巷で貧窮の中にあっても、その清貧を楽しんでいた。許由は、樹の枝に掛けておいた瓢簞が風に吹かれて鳴るのを「五月蠅い」と言って、それさえも捨て去ったという故事。禅の公案として知られるもの。

「道を右傍」(みぎかたはら)「に屈して坂路あり」一見すると、旧「巨福呂坂(こぶくろざか)切通」、現在の国道二十一号の「巨福呂坂切通」の北西の建長寺の前の、この中央附近から圓應寺の山側を南南西に尾根を登り、南東に進み、青梅聖天社へ下って、鶴岡八幡宮の北西の向かいの国道二十一号に出るルートでのように一見、見える(私が「鎌倉七切通」の内、唯一、完全踏破していないものである。私は鎌倉側から青梅聖天社を経て登り詰めが、人家を抜けないと行けないため、通行不能であった。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖」の内、こちらの図(画像)の中央附近に点線で記されてあるのがそれである)が、しかし、熊楠は建長寺を記述しておらず、しかも「道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに」とあることから、建長寺にさえ行っていないことが判り、熊楠は旧「巨福呂坂切通」を踏破したのではなく、その手前の「長壽寺」を右に折れて急坂の「龜ケ谷坂(かめがやつざか)」を下って「扇ケ谷」に出、さらに「海藏寺」手前から「化粧坂」(けわいざか)を登って、尾根伝いに「佐助稻荷」に至ったことが判明するのである。

「延胡索」「えんごさく」これは、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科キケマン属 Corydalis を指す。本邦には二十種近くが分布するので、花の色や形状が記されていないので、これだけでは種同定は出来ない。

『道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、「夏艸やつはものどもが夢の跡」といふを刻せり』これは、ずっと南南西に行った鎌倉市街地のここにある「六地蔵」(旧地名を「飢渇畠(けかちばたけ)」と言う。鎌倉時代、この先にあった問注所で、死罪を宣告された罪人が、近くの裁許橋を渡りここにあった処刑場で処されたことによる。刑場ゆえに耕作をしない更地であったことによる地名である)の背後にある。狭い中に建立されているため、調べたが、同句の碑の写真が見当たらない。私も何度も行ったが、異様に狭苦しい状態で、見難い。そもそも、場違いな句碑で、私は感心しない。これは、鎌倉雪ノ下住で芭蕉の弟子であった松尾百遊が芭蕉の没後九十二年に建てたものであった。嘗ては、ここを「芭蕉の辻」とも称したらしい。この周辺については、私の「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 巽荒神/人丸墓/興禅寺/無景寺谷/法性寺屋敷/千葉屋敷/諏訪屋敷/左介谷/裁許橋/天狗堂/七観音谷/飢渇畠/笹目谷/塔辻/盛久首座/甘繩明神」を見られたい。なお、叙述では、この六地蔵が「長谷村」の中にあるように書かれているが、ここは「大町」である。但し、この六地蔵を南西に行く「由比ガ浜通り」は長谷往還の道ではある。

「甘繩神社」ここ。正しくは「甘繩神明宮」。私は、この神域の裏山を幼少期から密かに愛している。]

2024/04/17

南方熊楠 蟹と蛇 (正規表現版・オリジナル注附き(指示された古文の電子化注を可能な限り行った結果、注が超長大になった))

[やぶちゃん注:これは大正一三(一九二四)年五月十五日発行の月刊『日本及日本人』の四十八号初出である。国立国会図書館デジタルコレクションで、初出が視認出来る(狭いところに注のように入っているのは、南方熊楠にはちょっと可哀そうな気がしたわい)。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷文集Ⅲ」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊・正字正仮名)の当該部を視認した。]

 

 嵯峨帝の世に出來た日本靈異記中に、蟹が報恩の爲めに蛇を殺して人を助けた話が二つ出て居る。一つは行基大德の信徒置染の臣鯛女が、山中で大蛇が大蝦蟆を食ふ處を見て、汝の妻となるから免せと云ふと蛇が蝦蟆を放つ。後ち蟹を持た老人に逢ひ衣裳を脫で贖ひ放つた。扨(さて)蛇が此女を妻らんと來た處を其蟹が切り殺したと云ふので 今一つは山城紀伊郡の女に同樣の事有つたといふ。[やぶちゃん注:句点はないが、補った。]日本法華驗記、今昔物語、元亨釋書、古今著聞集には、久世郡の女とし、是等諸書には蛇の死と蟹の苦を救ひ弔はんとて蟹滿寺を建てたとある。山州名蹟志には、此寺、相樂郡に在りと見ゆ。入江曉風氏の臺灣人生蕃物語に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買ふて放ちやり、又娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姬を求め來るを一旦辭し返すと、二三日立て蛇の姿のまゝ來り、娘が隱れた押入の戶を尾で敲く所を多くの蟹が現はれて切殺したとある。一九〇九年板ボムパス著サンタル・パルガナス俚談に較や似た話を出す。コラと名くる男、怠惰で兄弟に追出され土を掘て蟹を親友として持あるく。樹の下に宿ると、夜叉來り襲ふを、蟹が其喉を挾み切て殺す。王之を賞して其女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡つたコラを殺さんとするを蟹が挾み殺した。其報恩にコラ、其蟹を池に放ち每日其水に浴し相會ふたと有る。

(大正一三、五、十五、日本及日本人、四八號) 

[やぶちゃん注:「日本靈異記中に、蟹が報恩の爲めに蛇を殺して人を助けた話が二つ出て居る」正式には「日本國現報善惡靈異記」で平安初期に書かれた(序と本文の記述から弘仁一三(八二二)年とする説がある)現存する最古の說話集である。著者は奈良右京の薬師寺の僧景戒。原文はかなりクセのある日本漢文である。一般には「日本靈異記」(にほんりょういき)という略称で呼ぶことが多い。熊楠の指すそれは、「中卷」の「蟹(かに)蝦(かへる)の命を贖(あが)ひて放生し、現報を得る緣第八」と、同「中卷」の「蟹と蝦との命を贖ひて放生(はうじやう)し、現報を得て、蟹に助けらるる緣第十二」である。所持する角川文庫昭和五二(一九七七)年五版の板橋倫行(ともゆき)校註「日本霊異記」を元としつつ、疑問部分は別の抄録本を参考に補正して電子化する。但し、読み易さを考え、句読点を追加し、一部の読みは推定で歴史的仮名遣で附し、段落を成形した。

   *

   蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得る緣第八

 置染(おきそめ)の臣(おみ)鯛女(たひめ)は、奈良の京の富(とみ)の尼寺の上座の尼(あま)、法邇(ほふに)が女(むすめ)なりき。道心純熟(もはら)にして、初婬、犯さず[やぶちゃん注:世間の男との交渉を一切持たなかった。]。

 常に、懇(ねもころ)に菜を採りて、一目も闕(か)かず、行基大德に供侍(つか)へ奉る。

 山に入りて、菜を採りき。

 見れば、大蛇(おほへび)の、大蝦(おほがへる)を飮めり。

 大きなる蛇に誂(あと)へて[やぶちゃん注:頼み。]曰はく、

「是の蝦を、我に免(ゆる)せ。」

といふ。

 免さずして、なほ、飮む。

 亦、誂へて曰はく、

「我、汝が妻とならむ。故に、幸(さひはひ)に、吾に免せ。」

といふ。

 大きなる蛇、聞き、高く頭を捧(あ)げて、女(をみなの面(おも)を瞻(まは)り[やぶちゃん注:じっと見つめて。]、蝦を吐きて、放ちぬ。

 女、蛇に期(ちぎ)りて曰はく、

「今日より、七日を經て、來よ。」

といふ。

 然して、期りし日に到り、屋(や)を閉ぢ、穴を塞ぎ、身を堅めて、内に居(を)り。

 誠に期りしが如く來(きた)り、尾もて、壁を拍(う)つ。

 女、恐(おそ)りて、明くる日に大德に白(まう)す。大德、生馬(いこま)の山寺にあり。告げて言はく、

「汝、免(まぬか)るること、得じ。唯、堅く、戒(いむこと)を受けよ。」

といふ。

 乃(すなは)ち、三歸五戒を受持し、然して、還り來(きた)る。

 道に、知らざる老人(おきな)、大蟹(おほがに)をもちて逢ふ。

 問ふ。

「誰(た)が老(らう)ぞ。乞(ねが)はくは、蟹を吾に免(ゆる)せ。」

といふ。

 老、答ふらく、

「我は攝津(つ[やぶちゃん注:二字への読み。])國兎原(うなひ)郡の人、畫問(ゑどひ)の邇麻呂(にまろ)なり。年、七十八にして、子息(うまご)無く、活命(わたら)ふに、便(たより)無し。難波(あには)に往きて、たまたま、この蟹を得たり。ただ、期(ちぎ)りし人、有るが故に、汝に免さじ。」

といふ。

 女、衣を脫ぎて贖(あが)ふに、なほ、免可(ゆる)さず。

 また裳(も)を脫ぎて贖ふに、老、乃(すなは)ち、免しつ。

 然して、蟹を持ち、更に返りて、大德を勸請(くわんじやう)し、咒願(じゆぐわん)して放(はな)つ。

 大德、歎じて言はく、

「貴(とふと)きかな、善きかな。」

といふ。

 その八日の夜、又、蛇、來り、屋の頂(むね)に登り、草を拔きて入(い)る。

 女、悚(おそ)り慄(お)づ。

 ただ、床(とこ)の前に、跳(をど)り爆(はため)く音のみ、有り。

 明くる日に見れば、大きなる蟹、一つ、有り。

 而も、彼の大きなる蛇、條然(つたつた)に段切(き[やぶちゃん注:二字への読み。])れたり。

 乃(すなは)ち、知る、贖ひ放てる蟹の、恩を報いしなり。幷(ならば)せて、戒を受くる力なることを。

 虛實(まこといつはり)を知らむと欲(こ)ひ、耆老(おきな)の姓名を問へども、遂に無し。定めて委(し)る、耆(おきな)は、これ、聖(ひじり)の化(け)ならむことを。これ、奇異の事なり。

   *

「奈良の京の富(とみ)の尼寺」板橋氏の脚注に、『行基が天平三』(七三一)『年に大和國添下郡』(そへじものこほり)『登美村(今、奈良県生駒郡富雄村』(とみおむら:現在は奈良市富雄地区)『に立てた隆福尼院であらう。奈良の京とあるのは正確ではない』とある。確かにこの附近(グーグル・マップ・データ)で、平城京の西方の地で、「奈良の京」とは言えない。但し、現行では、この寺の旧地は明らかではない。「三歸五戒」は三宝に帰依することと、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒(おんじゅ)の五つを禁ずる誡しめ。

   *

 

     蟹蝦の命を購ひて放生し、現報を得て蟹に助けらるる緣第十二

 

 山背國紀伊郡の部内に、一(ひとり)の女人(をみな)あり。姓名、いまだ、詳(つまびらか)ならず。天年(ひととなり)慈の心ありて、ふかく因果を信(うべな)ひ、五戒と、十善とを、受持(うけも)ちて生物(いきもの)を殺さず。

 聖武天皇の代に、彼(そ)の里の牧牛(うしかひ)の村童(むらわらべ)、山川(やまかは)に、蟹を、八つ、取りて、燒き食はむとす。

 この女、見て、牧牛に勸めて曰はく、

「幸(さひはひ)に願はくは、此の蟹を我れに免(ゆる)せ。」

といふ。

 童男(わらべ)、辭(いな)みて、聽(ゆる)さずして曰はく、

「なほ、燒き瞰(く)はむ。」

といふ。

 慇(ねむごろ)に誂(あと)へ乞ひ、衣(ころも)を脫ぎて買ふ。

 童男等(わらべら)、すなはち、免(ゆる)しつ。

 義禪師(ぎぜんじ)[やぶちゃん注:臨時の頼んだ禅師の意か。]を勸請(くわんじやう)し、咒願(じゆぐわん)せしめて、放生す。

 然して後(のち)に、山に入りて見れば、大蛇(おほへび)の大蝦(おほかへる)を飮む。

 大蛇に眺へて言はく、

「この蝦を我れに免せ。多(あまた)の帛(みてぐら)を賂(まひ)し奉らむ[やぶちゃん注:御贈与を奉りましょう。]。」

といふ。

 蛇、聽(ゆる)さずして吞む。

 女、幣帛を募りて、禱(の)りて曰はく、

「汝を神として祀らむ。幸に乞(ねが)はくは、我れに免せ。」

といふ。

 聽さずして、なほ、飮む。

 また、蛇に語りて言はく、

「此の蝦に替ふるに、吾をもちて汝が妻とせよ。故に乞はくは、我に免せ。」

といふ。

 蛇、すなはち聽して、高く頭頸(くび)を棒(あ)げ、もちて、女の面を瞻(まはり)[やぶちゃん注:じっと見守り。]、蝦を吐きて放つ。

 女、蛇に期(ちぎ)りて言はく、

「今日より、七日を經て、來たれ。」

といふ。

 然して、父母に白(まう)して、具(つぶさ)に蛇の狀を陳(の)ぶ。

 父母(ぶも)、愁へて言はく、

「汝(いまし)や、たゞ了(つひ)の一子(ひとりご)、何に誑託(くる)へる[やぶちゃん注:如何なる霊(れい)がとり憑いた。]が故に、能(よ)くせざる語(こと)をなせる。」

といふ。

 時に行基大德(だいとこ)、紀伊の郡(こほり)の深長寺(ぢんちやうじ)にあり。往きて、事の狀を白す。

 大德、聞きて曰はく、

「ああ、量(はか)り難き語(こと)なり。ただ、能く三寶を信(う)けむのみ。」

といふ。

 敎(をしへ)を奉りて、家に歸り、期(ちぎ)りし日の夜に當り、屋(や)を閉ぢ、身を堅め、種々(しゆじゆ)、發願(ほつぎわん)して、三寶を信(う)く。

 蛇、屋を繞(めぐ)りて、婉轉(ゑんてん)腹行(ふくかう)し[やぶちゃん注:腹這いになって、しなやかに動き来たって。]、尾、もちて、壁を打ち、屋の頂(むね)に登り、草を咋(く)ひて、拔き開きて、女の前に落つ。

 然りといへども、蛇、女の身に就(つ)かず。

 ただ、爆(はため)く音あり。

 跳(をど)り䶩齧(か[やぶちゃん注:二字への読み。])むが如し。

 明くる日、見れば、大蟹、八つ、集(あつま)り、その蛇、條然𢶨段(つたつた)に切らる。

 すなはち、知る、贖(あが)ひ放ちし蟹の、恩に報いしことを。

 悟無(さとりな)き蟲だに、なほ恩を受くれば、返りて、恩に報ゆ。あに、人にして恩を忘るべしや。

 これより已後(のち[やぶちゃん注:二字への読み。])、山背の國にして、山川の大蟹を貴(たふと)み、善を爲して放生するたり。

   *

この「紀伊の郡の深長寺」は不詳。板橋氏の脚注に、『大秦廣隆寺の末寺に紀伊郡の法長寺が見え、深草寺ともいつたと見える。その寺か』とある。

「日本法華驗記」正しくは「大日本國法華驗記」(通称・異名は複数あり)。平安中期に書かれた仏教説話集。著者は比叡山の僧鎮源(伝不詳)。本文は変体日本漢文で拙い。これは同書の「下卷」の「第百廿三 山城國久世郡(くせのこほり)の女人」である。私は岩波書店の『日本思想体系新装版』の『続・日本仏教の思想――1』の「往生伝 法華験記」(注解・井上光貞/大曾根章介・一九九五年刊)を所持するが、漢字が新字であるので、恣意的に正字化して以下に示す。読点・記号・会話記号(改行)・読みの一部を推定して歴史的仮名遣で追加し、段落を成形した(底本も四段から成る)。

   *

    第百廿三 山城國久世郡の女人

 山城國久世郡に一の女人あり。年七歲より、「法華經觀音品」を誦して、每月(つきごと)の十八日に持齋して、觀音を念じ奉れり。十二歲に至りて、「法華經」一部を讀めり。深く善心ありて、一切を慈悲す。

 人ありて、蟹を捕へて、持ち行く。この女(むすめ)、問ひて云はく、

「何の料(れう)に充てむがために、この蟹は特ち行くぞ。」

といふ。答へて曰く、

「食(じき)に宛てむがためなり。」

といふ。女の言はく、

「この蟹、我に與へよ。我が家に、死にたる魚、多し。この蟹の代(しろ)に、汝に與へむ。」

と、いへり。

 卽ち、この蟹を得て、憐愍(れんみん)の心をもて、河の中に放ち入れり。

 その女人の父の翁(おきな)、田畠を耕作せり。

 一(いつ)の毒蛇あり、蝦蟇(かへる)を追ひ來りて、卽ち、これを吞まむ、と、せり。

 翁、不意(おもはず)して[やぶちゃん注:うっかりと。]曰く、

「汝、蛇、當(まさ)に蝦蟇を免(ゆる)すべし。もし、免し捨つれば、汝をもて聟(もこ)とせむ。」

と、いへり。

 蛇、このことを聞きて、頭(かしら)を擧げて、翁の面(おもて)を見、蝦蟇を吐き捨てて、還り走り、去りぬ。

 翁、後の時に、思念(おも[やぶちゃん注:二字へのルビ。])へらく、

『我、無益(むやく)の語(こと)を作(な)せり。この蛇、我を見て、蝦蟇を捨てて去りぬ。』

と、おもへり。

 心に歎き憂ふることを生じて、家に還りて食(じき)せずして、愁ひ歎げる形にて居(ゐ)たり。

 妻、及び、女(むすめ)の云はく、

「何等(なんら)のことに依りて、食せずして歎き居るぞや。」

といふ。

 翁、本緣(ほんえん)[やぶちゃん注:この嘆きの原因。]を說(と)けり。

 女の言はく、

「ただ早く食せられよ。歎息の念なかれ。」

と、いへり。

 翁、女の語に依りて、卽ち、食を用ゐ、了(を)へり。

 初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時から九時頃。]の時に臨みて、門を叩く人、あり。

 翁、

『この蛇の、來れり。』

と知りて、女(むすめ)に語るに、女の言はく、

「三日を過ぎて、來(きた)れ。約束を作(な)すべし。」

と、いへり。

 翁、門を開きて見れば、五位の形[やぶちゃん注:頭注に『緋衣を着ている』とある。]なる人の云はく、

「今朝(けさ)の語(こと)に依りて、參り來れるところなり。」

といふ。

 翁の云はく、

「三日を過ぎて來り坐(ましま)すべし。」

と、いへり。

 蛇、卽ち、還り了(を)へぬ。

 この女(むすめ)、厚き板をもて、藏代(くらしろ)[やぶちゃん注:臨時に即製した蔵様(よう)のもの。]を造らしめて、極めて堅固ならしむ。

 その日の夕(ゆふべ)に臨みて、藏代に入り居(ゐ)て、門を閉ぢて籠り畢(を)へぬ。

 初夜の時に至りて、前(さき)の五位、來れり。門を開きて、入り來り、女の藏代に籠りたるを見て、忿(いか)り恨める心を生(おこ)し、本(もと)の蛇の形を現じて、藏代を圍み卷き、尾をもて、これを叩く。

 父母(ぶも)、大きに驚怖せり。

 夜半(よなか)の時に至りて、蛇の尾の、叩く音、聞えず。

 ただ、蛇の鳴く音(こゑ)のみ、聞ゆ。

 その後、また、聞えず。

 明朝に及びて、これを見れば、大きなる蟹を上首として、千萬の蟹、集りて、この蛇を螫(さ)し殺せり。諸(もろもろ)の蟹、皆、還り去りぬ。

 女、顏の色、鮮白にして[やぶちゃん注:まことに白く美しくして。]、門を開きて出(いで)て來り、父母に語りて云はく、

「我、通夜、「觀音經」を誦するに、一尺計(ばかり)の觀音、告げて言はく、『汝、怖畏することなかれ。當(まさ)に『蚖蛇及蝮蝎(ぐわんじやふくかつ)、氣毒煙火燃(けどくえんくわねん)』等の文(もん)を誦すべし。』と、のたまふ。我、妙法・觀音の威力(ゐりき)に依りて、この害を免(まぬか)るることを得たり。」

と、いへり。

 この蛇の死骸(しにかばね)を、この地に穿(うが)ち埋(うづ)みて、蛇の苦、及び、多くの蟹の罪苦を救はむがために、その地に寺を建(たて)て、佛を造り、經を寫して、供養恭敬(くぎやう)せり。

 その寺を「蟹滿多寺(かにまたでら)」と名づけて、今にありて、失(う)せず。時の人、ただ、「紙幡寺(かみはたでら)」と云ひて、本の名を稱(い)はず。

   *

「蚖蛇及蝮蝎、氣毒煙火燃」「觀世音菩薩普門品」の「偈」。次に「念彼觀音力(ねんぴかんおんりき) 尋聲自剋去(じんしやうじえこ)」とあり、これで、『蚖(毒蛇の一種)や蛇、及び蝮(マムシ)と蝎(サソリ)の気の毒気が、煙火の如く燃えようとも、かの観音力を念じれば、声に続いて、自(おのずか)ら帰り去る。』の意。「蟹滿多寺」底本の頭注に『京都府相楽郡山城町にある。その地域は』「和名抄」『の山城国相楽郡蟹幡(加無波太)郷にあたる』「山城名勝志」『に「今有小堂一宇、号光明山懺悔堂本尊觀音立像、又有釋迦之像」と記す。釈迦像は白鳳時代のもの』とある。ある、とするのは、京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派普門山蟹満寺(かにまんじ)のこと。本尊は釈迦如来。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「今昔物語」「今昔物語集」の「卷第十六」の「山城國女人依觀音助遁蛇難語第十六」を指す。所持する小学館『日本古典文学全集』第二十二巻「今昔物語集 二」を参考に、前と同じ仕儀で示す。カタカナはひらがなにし、また、特に読みを減ずるために、読みの一部を多く送り仮名に出した。

   *

 山城の國の女人(によにん)觀音の助けに依りて蛇(へみ)の難を遁(のが)るる語(こと)第十六

今は昔、山城の國、久世(くぜ)の郡(こほり)に住みける人の娘、年七歲より、「觀音品」を受け習ひて讀誦しけり。

 月每(つきごと)の十八日には、精進にして、觀音を念じ奉りけり。

 十二歲に成るに、遂に「法花經」一部を習ひ畢(をは)んぬ。幼き心なりと云へども、慈悲深くして、人を哀(あは)れび、惡しき心、無し。

 而る間、此の女(をんな)、家を出でて遊び行く程に、人、蟹を捕へて、結びて持ち行く。

 此の女、此れを見て、問ひて云はく、

「其の蟹をば、何の料(れう)に持ち行くぞ。」

と。

 蟹持ち、答へて云はく、

「持(も)て行きて食(くら)はむずる也。」

と。

 女の云はく、

「其の蟹、我に得しめよ。食の料ならば、我が家(いへ)に死(しに)たる魚、多かり。其れを此の蟹の代(しろ)に與へむ。」

と。

 男(をのこ)、女の云ふに隨ひて蟹を得しめつ。

 女、蟹を得て、河に持(も)て行きて、放ち入れつ。

 其の後(のち)、女の父の翁(おきな)、田を作る間に、毒蛇(どくへみ)有りて、蝦(かへる)を吞まむが爲に追ひて來たる。

 翁、此れを見て、蝦を哀れびて、蛇に向ひて云はく、

「汝(なむ)ぢ、其の蝦を免(ゆる)せ。我が云はむに隨ひて免したらば、我れ、汝を聟(むこ)と爲(せ)む。」

と、意(おも)はず、騷ぎ云ひつ。

 蛇(へみ)、此れを聞きて、翁の顏を打ち見て、蝦を棄て、藪の中に這ひ入りぬ。

 翁、

『由無き事をも云ひてけるかな。』

と思ひて、家に返りて、此の事を歎きて、物を食はず。

 妻、幷びに、此の娘、父に問ひて云はく、

「何に依りて、物を食はずして歎きたる氣色(けしき)なるぞ。」

と。

 父の云はく、

「然々(しかじか)の事の有りつれば、我れ、不意(おもはぬ)に騷ぎて、然(し)か云ひつれば、其れを歎く也。」

と。

 娘の云はく、

「速かに、物、食ふべし。歎き給ふ事、無かれ。」

と。

 然(しか)れば、父、娘の云ふに隨ひて、物を食ひて、歎かず。

 而る間、其の夜の亥の時に臨むて、門を叩く人、有り。

 父、

『此(こ)の蛇の、來たるならむ。』

と心得て、娘に告ぐるに、娘の云はく、

「『今、三日を過ぎて來たれ。』と約し給へ。」

と。

 父、門(かど)を開(ひら)けて見れば、五位の姿なる人也。其の人の云はく、

「今朝の約に依りて、參り來れる也。」

と。

 父の云はく、

「今(いま)を、三日を過ぎて來給ふべし。」

と。

 五位、此の言を聞きて返りぬ。

 其の後(のち)、此の娘、厚き板を以つて、倉代(くらしろ)を造らしめて、𢌞(めぐり)を强く固め拈(したた)めて、三日と云ふ夕(ゆふべ)に、其の倉代に入居(いりゐ)て、戶を强く閉ぢて、父に云はく、

「今夜(こよひ)、彼(か)の蛇(へみ)、來りて、門(かど)を叩かば、速かに開くべし。我れ、偏へに觀音の加護を憑(たの)む也。」

と云ひ置きて、倉代に籠り居(ゐ)ぬ。

 初夜の時に至るに、前の五位、來たりて、門を叩くに、卽ち、門を開きつ。

 五位、入り來たりて、女の籠り居たる倉代を見て、大に怨(あた)の心を發して、本の蛇の形に現じて、倉代を圍み卷きて、尾を以つて、戶を叩く。父母(ぶも)、此れを聞きて、大きに驚き、恐るる事、限り無し。

 夜半許に成りて、此の叩きつる音、止みぬ。

 其の時に、蛇(へみ)の鳴く音(こゑ)、聞ゆ。

 亦、其の音も止みぬ。

 夜明けて見れば、大なる蟹を首(かしら)として、千萬の蟹、集まり來たりて、此の蛇を、螫(さ)し殺してけり。

 蟹共、皆、這ひ去りぬ。

 女、倉代を開きて、父ざまに[やぶちゃん注:父に向かって。]語りて云はく、

「今夜(こよひ)、我れ、終夜(よもすがら)、「觀音品(かんおむぼむ)」を誦し奉つるに、端正美麗の僧、來たりて、我に告げて云はく、

『汝ぢ、恐るべからず。只、「蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火」等(とう)の文(もん)を憑(たの)むべし。』

と敎へ給ひつ。此れ、偏へに、觀音の加護に依りて、此の難を免(まぬ)かれぬる也。」

と。

 父母(ぶも)、此れを聞きて、喜ぶ事、限り無し。

 其の後、蛇の苦を救ひ、多の蟹の罪報を助けむが爲に、其の地を握(つか)ねて、此の蛇の屍骸を埋(うづ)みて、其の上に寺を立てて、佛像を造り、經卷を寫(うつ)して供養しつ。

 其の寺の名を「蟹滿多寺(かにまたでら)」と云ふ。其の寺、今に有り。世の人、和(やはら)かに「紙幡寺(かみはたでら)」と云ふ也けり。本緣(ことのもと)を知らざる故(ゆゑ)也。

 此れを思ふに、彼の家の娘、絲(いと)、只者には非ずとぞ思ゆる。

「觀音の靈驗、不可思議也。」

とぞ、世の人、貴(たふと)びける、となむ語り傳へたるとや。

   *

「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)は史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史で、著者は知られた臨済宗の名僧虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)で、全三十巻。無論、全文漢文。私は同書を所持しないが、ネットを始めた初期に電子化テクストを毎日のように集めた中に、どこが提供していたか忘れたが、同書の全ベタ・データを入手している。而して、私のテクスト同様、Unicode以前のものであるため、正字不全があるが、そこは国立国会図書館デジタルコレクションの『國史大系』「第十四卷」の「百鍊抄 愚管抄 元亨釋書」経済雑誌社編明治三四(一九〇一)年刊)の当該部(左ページ後ろから六行目以降)で補正して、そこにある通りの訓点を附して原文を示す。当該話は「卷二十八」の掉尾にある。段落を成形した。漢文であるが、既に電子化した同話から、簡単に訓読出来るはずである。

   *

 蟹滿寺者。在山州久世郡。有郡民。合家慈善奉ㇾ佛。有女[やぶちゃん注:「むすめ」。]、七歲誦法華普門品。數月而終全部。一日出遊。村人捕ㇾ蟹持去。女問。捕ㇾ此何爲。答曰。充ㇾ飡[やぶちゃん注:「くらふにあつる」。]。女曰、以ㇾ蟹惠ㇾ我。我家有ㇾ魚。相報酬。村人與ㇾ之[やぶちゃん注:「これにくみして」。]。女得放河中。歸ㇾ家貺多乾魚。[やぶちゃん注:「貺」「給(たまふ)」に同じ。]

 其父耕田中。一蛇追蝦蟆而含ㇾ之。父憐而不意曰。汝捨蝦蟆。以汝爲ㇾ壻。蛇聞ㇾ言。擧ㇾ頭見ㇾ翁、吐ㇾ蝦而去。父歸ㇾ舍思念。誤發ㇾ言。恐失愛子。懊惱不ㇾ食。婦及女問曰、翁何有憂色而不ㇾ食。父告ㇾ實。女曰、莫ㇾ慮也。早飡焉[やぶちゃん注:「慮(おもんぱか)る莫(な)かれ。早や、飡(くら)ひ焉(をは)られよ。」。]。父悅受膳。

 初夜、有叩ㇾ門人。女曰。是虵[やぶちゃん注:「蛇」に同じ。]也。只言三日後來。父開ㇾ門。有衣冠人曰。依ㇾ約來。父隨女語曰、且待三日。冠人去。女語ㇾ父。擇良材固造小室。室成。女入ㇾ内閉居。三日後。冠人果來。見女屛室。生忿恨心。乃復本形。長[やぶちゃん注:「たけ」。]數丈。以ㇾ身纏ㇾ室。擧ㇾ尾敲ㇾ戶。父母大恐。不ㇾ得爭奈[やぶちゃん注:対抗して争う事は出来なかった。]。半夜後。叩聲息聞悲鳴聲。頃刻[やぶちゃん注:暫くして。]悲聲又止。

 明旦、父見ㇾ之。大螃蟹[やぶちゃん注:「ばうかい」。中国語で「カニ」の意。]百千、手足亂離。蛇又被瘡百餘所。并皆死。女開室出。顏色不變曰、我聞戸外、大小蟹千百、夾-殺此虵。大蟹多歸。小蟹死。今存者皆小蟹耳。然大於尋常。我通夜誦普門品。有一菩薩。長尺餘。語ㇾ我曰、無ㇾ怖也。我擁-護汝。父母大悅。便穿ㇾ土埋衆蟹及蛇。就其地營ㇾ寺。薦冥福。故號蟹滿寺。又曰紙幡寺

   *

「古今著聞集」当該部は「卷第二十 魚蟲禽獸」の現行のよく知られた通し番号「六八二」の通用される仮標題「山城國久世郡(くぜんこほり)の娘、觀音經の功德と蟹の報恩とにより、蛇の難をのがれ得たる事」である。所持する『新潮日本古典集成』(第七十六回)「古今著聞集 下」(西尾光一・小林安治校注)を参考に先と同じ仕儀で示す。

   *

 山城國久世郡に、人のむすめ、ありけり。をさなくより、觀音に仕へけり。慈悲深くして、ものをあはれぶに、人、かにを捕りて殺さんとしけるを見て、あはれみて、買ひ取りて放ちてけり。

 その父、田をすかす[やぶちゃん注:「掘り起こす」。]とて、田づらにいでたりける時、「くちなは」、「かへる」を飮みてありけるを、うちはなたんとすれども、はなたざりければ、こころみに、なほざりがてら、

「そのかへる、はなて。さらば、わがむこにとらん。」

と、いひかけたりける時、くちなは、このぬしが顏を、うち見て、のみかけたる「かへる」を、はき出だして、藪の中へはひ入りぬ。

『げには、よしなきことをもいひつるものかな。「くちなは」はさるものにてあるに。』

とくやしく思へど、かひなし。さて、家に歸りぬ。

 夜にも入りぬれば、

「いかが。」

と案じゐたるに、五位のすがたしたる男(をのこ)、いりきたれり。

「今朝の御(おん)やくそくによりて參りたる。」

よしを、いふ。

 さればこそ、いよいよ、あさましく悔しき事、限りなし。何と言ふべきかたなくて、

「今、兩三日を經て來たるべき。」

よしを、いひければ、則ち、歸りぬ。

 むすめ、このことを聞きて、おぢわななきて、寢どころなど、深く、かためて、隱れゐたり。

 兩三日をへて、きたり。

 このたびは、もとの「くちなは」のかたちなり。

 むすめの隱れゐたる所を知りて、そのあたりをはひめぐりて、尾をもちて、その戶を叩きけり。

 これを聞くに、いよいよおそろしきこと、せんかたなし。

 心をいたして、「觀音經」を讀み奉りて、ゐたり。

 かかるほどに、夜半ばかりにいたりて、百千のかに、あつまりきて、この蛇(くちなは)を、さんざんに、はさみきりて、かには見えず。

 この事、信力(しんりき)にこたへて、觀音、加護し給ふゆゑに、かに、また、恩を報じけるなり。

 その夜、「觀音經」をよみたてまつりて、他念なく念じ入りたりけるに、御たけ一尺ばかりなる觀音、現ぜさせ給ひて、

「汝、恐るる事、なかれ。」

と仰せられける、とぞ。

 このむすめ、七歲より「觀音經」をよみたてまつり、十八日ごとに持齋(ぢさい)をなん、しける。十二歲よりは、さらに「法華經」一部を讀み奉りてけり。

 法力(ほふりき)、誠に、空(むな)しからず。現當の望み[やぶちゃん注:現世と来世ゐでの無事安楽の願い。]、たれかうあたがひを、なさんや。

   *

「十八日ごとに持齋をなん、しける」底本の頭注によれば、『毎年正月十八日に仁寿殿または真言院で観音供(かんのんぐ)が行われたことにちなみ、一般にも十八日を観音供養の日とするならはしとなっていた』とあり、「持齋」については、『節食の持戒。具体的には、日中、正午前に一度だけ食事をするという戒律を守ること』とある。そもそも、仏教に於いては、僧は一日に午前中の一回の食事だけが許されていたのである。

   

 さて、実は、この同系説話は、以上だけではない。近世の焼き直し怪奇談集等まで含めると、実際には、かなりの改変物がある。取り敢えず、そこまで広げず、比較的知られる中古と中世から一本づつ、示しておくと、まずは、「三寶繪(詞)」である。永観二(九八四)年に成立した、二品尊子内親王ために学者源為憲が撰進したの仏教説話集である。その「中卷」に「置染郡臣鯛女(おきそめのこほりのおみたひめ)」を主人公としたものが、それである。所持する『新日本古典文学大系』の第三十一巻「三宝絵 注好選」(馬淵和夫・小泉弘校注/一九九七年刊)を同じき仕儀で以下に示す。底本は漢字・カタカナ混じりであるが、カタカナはひらがなに直した。

   *

 置染郡臣鯛女は、ならの尼寺の上座の尼の娘也。道心ふかくして、はじめより男(をとこ)、せず。つねに、花を、つみて、行基菩薩にたてまつる事、一日も不怠(おこたらず)。

 山に、いりて、花を擿(つ)むに、大なる蛇(くちなは)の、大蝦(おほかへる)を、のむを、みる。

 女(をんな)、かなしびて云はく、

「此蝦、我に、ゆるせ。」

といふに、猶(なほ)、のむ。深くかなしぶに、たへずして、「蛇は如此(かくのごとく)云ふになむ、ゆるすなる。」と云ひて[やぶちゃん注:一般に言われた俚諺を言ったもの。]、

「我、汝(なむじ)が妻と、ならむ。猶、ゆるせ。」

と云ふ時に、蛇、たかく、かしらを、もたげて、女を、まもりて、蝦を、はきいだして、ゆるしつ。女、

『あやし。』[やぶちゃん注:「怪しい」。]

と思ひて、日を、とをくなして[やぶちゃん注:再び逢う日(=婚姻の日)をわざと遠く隔てて。]、

「今(いま)、七日(なぬか)ありて、きたれ。」

と、たはぶれにいひて、さりぬ[やぶちゃん注:冗談に言って立ち去った。]。

 其夕(そのゆふべ)になりて、思ひいで、おそろしかりければ、「ねや」を、とぢ、「あな」を、ふたぎて、身をかためて、うちに、こもれり。

 蛇(くちなは)、來たりて、尾を、もちて、壁をたゝけども、いること、あたはずして、さりぬ。

 あくる朝に、いよいよ、をぢて、行基菩薩の山寺に居(ゐ)給へる所にゆきて、

「このことを、たすけよ。」

といふに、答へて云はく、

「汝、まぬかるゝことを、えじ。たゞ、かたく、戒を、うけよ。」

と云ひて、すなはち、三帰五戒を、うけて、女、歸るみちに、しらぬ「をきな」、あひて、大なる蟹を、もたり。

 女の云はく、

「汝、何人(なにびと)ぞ。この蟹、我に、ゆるせ。」

といふに、翁の云はく、

「我ハ攝津國宇原郡(うはらのこほり)に、すめり。姓名は某甲(しかいしか)と云ふ也。年、七十八に成りぬるに、一人(ひとり)の子、なし。よをふるに、たよりなければ、難波(なんば)のわたりにゆきて、たまたま、この蟹を、えたる也。人にとらせむと、ちぎれる[やぶちゃん注:約束した。]事あれば、こと人には、とらせがたし。」

と云ふ。

 女、きぬをぬぎて、かふに、ゆるさず。又、裳(も)をぬぎて、かふに、うりつ。

 女、蟹をもちて、寺に歸りて、行基菩薩して、呪願(しゆぐわん)せしめて、谷河に、はなつ。

 行基菩薩、ほめて云はく、

「善哉(よきかな)、貴哉(たふときかな)。」

と。

 女、家に歸りて、其夜、たのみ思ひて、ゐたるに、蛇(くちなは)、屋(や)上より、おりくだる。

 大(おほき)に、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、「とこ」をさりて、のがれ、かくれぬ。

 とこのまへを、きくに、踊り騒ぐ「こゑ」あり。

 あくる朝に、みれば、一つの大(おほき)なる蟹、ありて、蛇を、

「つだつだ」

と、きりをけり。

 即(すなはち)、しぬ。

「蟹の、我が恩を、むくひ、我が佛(ほとけ)の戒を、うけたる力(ちかr)なり。」

と。

「まこと、いつはりをしらむ。」

とて、人を攝津の國にやりて、翁(おきな)の家、尋ねとはするに、

「この郡里(こほりさと)に、さらに、なき人也。」

と云ふ。

 又、しりぬ。

「翁、變化(へんぐゑ[やぶちゃん注:ママ。])人也。」

と。

 「靈異記」に、みへ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

   *

 これは、珍しく、ちゃんと律儀にも最後に出典を明らかにしている。

 次に鎌倉後期に無住道暁(宇都宮頼綱の妻の甥。八宗兼学の学僧)の編した仮名交り文で書かれた仏教説話集「沙石集」(全十巻。弘安二(一二七九)年起筆、同六(一二八三)年成立。大きく分けても三系統の異なる伝本があり、話しの順列・標題も異なる)に載るものを示す。れは複数のカップリングの中の一つであるが、私は、この「沙石集」が好きで何度も読んでいる関係上、当該話を総て掲げることとする。底本は複数所持するもののうち、私が好んでいる正字正仮名の岩波文庫の筑土鈴寬(つくどれいかん)校訂本(一九四三年刊)を使用した。そこでは読みが殆んどないので、所持する岩波書店『日本古典文學大系』版をも参考に歴史的仮名遣で読みを振り、句読点・記号を変更・追加し、段落を成形した。

   *

      四 畜生の靈の事

 寬元年中のことにや、洛陽に騷ぐことありて、坂東の武士、馳せ上(のぼ)ること侍りき。相(あひ)知りたる武士、ひかせたる馬の中に、ことに憑(たの)みたる馬にむかひて、

「畜生も心あるものなれば、きけ。今度、自然(じねん)のこと[やぶちゃん注:変事。]もあらば、汝(なんぢ)を憑みて、君の御大事(おんだいじ)にあふべし。されば、餘の馬よりも、物を別にまして飼ふべし。返々(かへすがへす)不覺、すな。たのむぞよ。」

と言ひて、舍人(とねり)に云付(いひつ)けて、別に用途を下(くだ)したびけるを[やぶちゃん注:入用の費用を賜ったにも関わらず。]、此舍人、馬には、かはずして、私(わたくし)に用ひけり。

 さて、京へ上り着きぬ。

 此舍人、俄(にはか)に物に狂ひて、口ばしりていふやう、

「殿の仰せに、『汝をたのむなり。自然の大事もあらば、不覺、すな。』とて、別に物をそへて下したべば、『いかにも御勢[やぶちゃん注:元は「御前」か。]にあひ參らせん。』と思ふに、己(お)れが物を取り食(くら)ひて、我には、くれねば、力もあらばこそ、御大事にもあはめ、憎きやつなり。」

と云ひて、やうやうに狂ひけり。

 とかく、すかしこしらへて、治(なほ)りてけり。

 彼(か)の子息の物語なり。

 畜生なれども、かやうに心あるにこそ。みだりに狂惑(きやうわく)[やぶちゃん注:だましまどわすこと。]すべからず。

[やぶちゃん注:「寬元年中」一二四三年から一二四七年。鎌倉幕府執権は北条経時・北条時頼。

 以下が、本篇の同系話。

 むかし物語にも、或人の女(むすめ)、なさけ深く、慈悲ありて、よろづの者のあはれみけるに、遣水(やりみづ)の中に小き蟹のありけるを、常にやしなひけり。年ひさしく食物をあたへけるほどに、此むすめ、みめ・かたち、よろしかりけるを、蛇(じや)、思ひかけて、男に變じてきたりて、親にこひて、

「妻にすべき。」

よしを云ひつつ、隱す事なく、

「蛇なる。」

よしを云ふ。

 父、此事をなげきかなしみて、女に此やうを語る。

 女、心あるものにて、

「力及ばぬ、わが身の業報にてこそ候(さふらふ)らめ。『叶はじ。』と仰せらるるならば、それの御身も、我身も、徒(いたづ)らになりなんず。ただ、ゆるさせ給へ。この身をこそ、いたづらに、なさめ。かつは、孝養にこそ。」

と、打ちくどき、なくなく申しければ、父、かなしく思ひながら、理(ことわ)りにをれて、約束して、日どりしてけり。

 女、日比(ひごろ)養ひける蟹に、例の物食はせて、云ひけるは、

「年比、おのれを、哀れみ、やしなひつるに、今は、其日數(ひかず)、いくほどあるまじきこそ、あはれなれ。かかる不祥(ふしやう)にあひて、蛇(じや)に思ひかけられて、其日、われは何(いづ)くへか、とられて、ゆかんずらん。又もやしなはずして、やみなん事こそ、いとほしけれ。」

とて、さめざめと泣く。人と物語らん樣(やう)に、いひけるを聞きて、物も、くはで、はひさりぬ。

 その後(のち)、かの約束の日、蛇共(じやども)、大小、あまた、家の庭に、はひ來たる。

 恐しなんど、いふばかりなし。

 爰(ここ)に、山の方(かた)より、蟹、大小、いくらといふ數もしらず、はひ來たりて、此蛇(じや)を、皆、はさみ殺して、都(すべ)て、別のこと、なかりけり。

 恩を報ひけること、哀れにこそ、人は情(なさけ)あるべきにぞ。

 山陰の中納言の、河尻にて、海龜をかひて、はなたれける故に、其子の、海に、あやまちて落入(おちい)りてけるを、龜の、甲に乘せて、助けたる事、申し傳へたり。

 されば、八幡の御託宣にも、

「乞食・癩(らい)・蟻・螻(けら)までも、哀れむべし。慈悲、廣ければ、命、長し。」

と、のたまへり。蟹なんどの、恩を知るべしとも覺えねども、蟲類も、皆、佛性(ぶつしやう)あり、靈知あり。などか、心もなからむ。

[やぶちゃん注:当該話柄としては、ここまで。]

 ある澤の邊(ほとり)に、大・中・小の三つの蟹、ありけり。

 蛇(じや)をはさみけるに、蛇、木に登る。

 やがて、つづきて、大なると、中なる蟹、木に這ひ登りて、はさまんとするに、蛇、口より、白き水を、はきかく。

 蟹、是に、しじけて、はひおりて、力もなきてい[やぶちゃん注:「體」。]なり。

 小さき蟹、蕗(ふき)の葉をはさみきりて、うちかづき、木にのぼる。

 蛇、又、白き水を、はきかくれども、葉にかかりて、「かに」には、かからず。

 其時、葉をうちすてて、はひよりて、

「ひしひし」

とはさむ。

 蛇、たへずして、木よりおつ。

 二つの蟹、力、いできて、さしあはせて、はさみ殺しつ。

 さて、大なる「かに」、蛇を、三つにはさみきりて、頭(かしら)の方(かた)をば、我分(わがぶん)にし、中(なか)をば、中(ちゆう)の「かに」のまへに置き、尾の方をば、小蟹のまへにおくに、「小かに」、あわ[やぶちゃん注:ママ。「泡(あは)」。]をかみて、

「ふしふし」

として、うちしさりて、食はず。

『われこそ、奉公したれ。』

と言ふ心にや、と見えけり。

 其時、「大がに」、我分の頭の方を、「小かに」の前におき、尾の方を、我分にする時、「小がに」、食してけり。

 さも、ありぬべし。畜生も、心は、只人(ただびと)にかはらぬにや。

 遠州にも、「つばくらめ」[やぶちゃん注:「燕」。]の雌(めんどり)、死せり。

 雄(おんどり)、妻を尋ねて來たる。先(さき)の子、巢にありけるを、今の雌、「うばら」[やぶちゃん注:野茨(バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora )。同種の果実(偽果)にはマルチフロリン・クエルセチン・ラムノグルコシドなどのフラボノイド(フラボン配糖体)と、リコピンが含まれており、マルチフロチンは少量摂取しても緩下作用があり、ヒトでも腹痛や激しい下痢を引き起こすこともある。]の實を食はせて、皆、殺しつ。

 雄、これを見て、雌を食ひ殺してけり。

 嫉妬の心ありける人に、たがはず。是、たしかに見たる人の物語なり。

   *

因みに、最後の話は雌雄の誤りがあるが、事実である。ツバメは、子を出産後、別な雄が、前に産んだ子を巣から意図的に押し落して殺害して、その雌を略奪する行動が確認されている。嘘だと思うなら、サイト「ツバメ観察全国ネットワーク 子殺し」の動画を見られるがよい。実は、この話と以上の事実を、どうしても載せたかったので、私は全文を示したのである。

 さて。最後に、岩波書店の『日本思想体系新装版』の『続・日本仏教の思想――1』の「往生伝 法華験記」(注解・井上光貞/大曾根章介・一九九五年刊)の当該話の頭注の冒頭を引用して、本篇の同系話の纏めとしておく。『日本霊異記巻中八及び一二に類話があり、三宝絵巻中一二は前者による。この霊異記中八及び三宝絵の話は女を置染臣鯛女とし、本書とは別系統。霊異記巻中一二は本書と構成上類似しているが、女を山城国久世郡ではなく紀伊郡の一女人とし、観音信仰者でなく持戒者とし、観音信仰者でなく持戒者とし、

本人の父でなく、本人みずから蛇の妻となることを約すなどの違いがあり、本書の終りの蟹満多寺の一段もない。また本書は霊異記をみていないと認められるので』、『霊異記中一二に類似の話が変形して、たとえば蟹満多寺の縁起として伝えられ、本書にとりいれられたのであろう。今昔物語巻十六ノ一六・元亨釈書巻二十八、寺像志』(「元亨釈書」内のパート名)『の蟹満寺の話は、本書に類似する。本書によるか。古今著聞集巻二十・観音利益集『三十九(前後を欠く)』(説話集。成立年未詳で作者・編者も未詳。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「中世神佛說話」(『古典文庫』第三十八冊)近藤喜博校/一九五〇年刊(戦後のものだが、正字正仮名)のここから当該部が視認出来る。電子化しようとも思ったが、前後が欠損している断片なので、やめた)『は本書と同系統』とある。

「山州名蹟志には、此寺、相樂郡に在りと見ゆ」「山州名跡志」は全二十二巻二十五冊。釈白慧(坂内直頼)撰。成立は正徳元(一七一一)年で元禄一五(一七〇二)年の序がある。先に「山城四季物語」(六巻・延宝元(一六七三)年)を出した著者が、山城一国八郡三百八十六村を実地に踏査し、現状を片仮名混じりの和文で克明に描写している。旧本・古典籍のみに頼った大島武好の「山城名勝志」(同年)とは好対照をなしており、ともに山城研究の基本書とされる(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十六巻「山州名跡志」(第一・二/蘆田伊人編・昭四(一九二九)年~同六年・雄山閣)のこちらの「相樂郡」(そうらくぐん)の「○普門山蟹滿寺(フモンザンカニマンジ)」で視認出来る。その「緣起」(全漢文・返り点附き)に本篇の内容と同じ話が載る。以上の私の注引用を読まれた方は、すらすらと読めること、請け合う。

「入江曉風氏の臺灣人生蕃物語に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買ふて放ちやり、又娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姬を求め來るを一旦辭し返すと、二三日立て蛇の姿のまゝ來り、娘が隱れた押入の戶を尾で敲く所を多くの蟹が現はれて切殺したとある」「入江曉風」は「いりえぎょうふう」であるが、生没年未詳。本名は文太郎。「臺灣人生蕃物語」は大正九(一九二〇)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正十三年再版本を見つけた。当該部は、ここの『(二九)五位の蛇』だが、これ、どう考えても、本邦の原話が、台湾に日本人が意図的に輸入してデッチアゲたものとしか思われない。台湾で「五位」はないでショウ!

「一九〇九年板ボムパス著サンタル・パルガナス俚談に較や似た話を出す。コラと名くる男、怠惰で兄弟に追出され土を掘て蟹を親友として持あるく。樹の下に宿ると、夜叉來り襲ふを、蟹が其喉を挾み切て殺す。王之を賞して其女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡つたコラを殺さんとするを蟹が挾み殺した。其報恩にコラ、其蟹を池に放ち每日其水に浴し相會ふたと有る」イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名。ここ(グーグル・マップ・データ))。「Internet archive」のこちらで(そこでは書誌にボディングが共著者として記してある)同原本(一九〇九年版)が視認出来る。この際、探してみた。あった! この“XCL ANOTHER LAZY MAN.”がそれだ! 私の注の大団円じゃ!!

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