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カテゴリー「夏目漱石「こゝろ」」の254件の記事

2024/05/07

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(9)

○乳を小兒にかまれ、いたむには

 「やまめ」といふ魚の、黑燒を付(つけ)て、よし。

[やぶちゃん注:条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou 。本種は、サクラマスのうち、降海せず、一生を河川で過ごす陸封型個体を指す。北海道から九州までの河川の上流などの冷水域に棲息する。詳しくは、私の『フライング公開 畔田翠山「水族志」 ヤマベ (ヤマメ)』がよかろう。]

 

○乳の疵、なをる方。

 蛇退皮(へびのぬけがら[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。])を黑燒にして、胡麻の油にて付(つく)べし。十月比(ごろ)、澤山に、ある也。但(ただし)竈(へつつい)にて燒(やく)べからず。いかやうの新しき鍋釜にても、卽座に、わるゝ也。心すべし。

[やぶちゃん注:最後のそれは、五行思想の「相生」(そうじょう)に拠る謂いである。「鍋釜」の鉄は「金」であり、蛇は「水」である。相生では「金生水」(きんしょうすい・ごんしょうすい)で、金属の表面に凝結が生じると水が生まれ、破れるのである。]

 

○乳のすくなきを澤山にする方。

 かたくりの粉を、湯に、ほだてて、砂糖を少し加へて、每朝、空腹に一杯づつ飮(のむ)べし。一ケ月ほどをへて、乳、出(いづ)る也。

[やぶちゃん注:「ほだてて」「攪(ほだ)てて」。搔き混ぜて。]

 

○腹痛する時、用(もちゆ)る丸藥。

 楊梅皮(やうばいひ)【五匁。】・胡根(ここん)【一匁。】・胡黃連(こわうれん)【三匁。】。

 右、三味、丸藥にして用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:「楊梅皮」既出既注だが、再掲しておくと、山桃(ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra )の皮。本州中部以南・朝鮮半島・台湾・中国などに分布する。山中で多く実をつけることから、「山百々」と呼ばれ、それが和名になった。夏に果実の紅熟したものを「楊梅」(ヨウバイ)、七~八月頃に樹皮を剝いで、天日乾燥したものを「楊梅皮」と呼んで、孰れも生薬とする。

「胡根」生薬として居られる「柴胡」(さいこ)のこと。セリ目セリ科ミシマサイコ属(或いはホタルサイコ属)ミシマサイコ Bupleurum stenophyllum の根。解熱・鎮痛作用があり、多くの著名な漢方方剤に配合されている。

「胡黃連」高山性多年草の、シソ目ゴマノハグサ科コオウレン属コオウレン Picrorhiza kurrooa(ヒマラヤ西部からカシミールに分布)及びPicrorhiza scrophulariiflora(ネパール・チベット・雲南省・四川省に分布)の根茎を乾かしたもの。古代インドからの生薬で、健胃・解熱薬として用い、正倉院の薬物中にも見いだされる。根茎に苦味があり、配糖体ピクロリジン(picrorhizin)を含むものの、薬理効果は不明である。なお、「黃連」があるが、これは小型の多年生草本である、キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica 及び同属のトウオウレン Coptis chinensisCoptis deltoidea の根茎を乾燥させたもので、全く異なるものなので、注意が必要である。]

 

○腹のくだるとき、せんやく。

 蒼朮(さうじゆつ)・白朮(びやくじゆつ)・升麻(しやうま)・防風・干姜(かんきやう)・茯苓(ぶくりやう)

 右、六味、目方、各、等分。桂皮にても、肉桂にても、隨分、からきものを、右、六味、等分のめかたほど、加へ、甘草、少し加(くはふ)べし。

 右、八藥、二、三十貼(しやう)も用(もちゆ)べし。少々、服(ふくみ)候ては、功、なし。

[やぶちゃん注:「蒼朮」はキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、「啓脾湯」・「葛根加朮附湯」などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は9〜10月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。

「白朮」既出既注だが、再掲すると、キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。一般には、健胃・利尿効果があるとされる。

「升麻」同前で、「ショウマ」は漢方生薬。キンポウゲ目キンポウゲ科サラシナショウマ属サラシナショウマ Cimicifuga simplex の根茎を天日乾燥させたもの。ウィキの「サラシナショウマ」によれば、これは、『発汗、解熱、解毒、胃液・腸液の分泌を促して胃炎、腸炎、消化不良に効果があるとされ』、各種『漢方処方に配剤されている』とあり、さらに、『民間では』、一『日量』二『グラムの升麻を煎じて、うがいに用いられる』とする。さらに、『なお、本種に似たものや、混同されて生薬として用いられたものなど、幅広い植物にショウマの名が用いられている』とある。最後の部分は、ウィキの「ショウマ(植物の名)」も参照されたい。

「防風」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata 。但し、本種は中国原産で本邦には自生はしない。されば、ここはセリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis を指していよう。

「干姜」当時の漢方では、修治されていないものも、修治されているものも含めた乾燥させたショウガの根茎を指す。

「茯苓」既出既注だが、再掲しておくと、菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa の漢方名。中国では食用としても好まれる。詳しくは「三州奇談卷之二 切通の茯苓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

○又、一方。「せんき」のくすり、「香感散」、よろし。

[やぶちゃん注:「香感散」国立国会図書館本も同じで、底本には注もないが、こんな名の漢方配合剤は、ない。知られた似たものに「香蘇散」がある。而して、「蘇」の崩し字と、「感」のそれは、崩し方によっては、よく似ている。私は「蘇」の津村の誤判読ではないかと思われる。詳しくはサイト「漢方ライフ」のこちらに詳しいので、見られたい。]

 

○又、一方。

 「むし」のかぶるとき、「せんぶり」といふ草、湯に、ふり出(いだ)して、飮(のむ)べし。

[やぶちゃん注:「むし」疳の虫。

「せんぶり」双子葉植物綱リンドウ目リンドウ科センブリ属センブリ Swertia japonica 当該ウィキによれば、『ゲンノショウコ、ドクダミと共に日本の三大民間薬の一つとされていて』、『昔から苦味胃腸薬として使われてきた、最も身近な民間薬の一つである』とあり、また、『和名』『の由来は、全草が非常に苦く、植物体を煎じて「千回振出してもまだ苦い」ということから、「千度振り出し」が略されて名付けられたとされている』。『その由来の通り』、『非常に苦味が強く、最も苦い生薬(ハーブ)といわれる』。『別名は、トウヤク(当薬)、イシャダオシ(医者倒し)ともよばれる』。『別名の当薬(とうやく)は、試しに味見をした人が「当(まさ)に薬である」と言ったという伝説から生まれたとされる』とあった。私は飲んだことがないが、小学生中学年から知識としては、よく知っている。所謂、植物の学習漫画の中に、それが出てきたからである。]

 

○又、一方。

 「かいそう」といふ海に有(ある)草、せんじて、飮(のん)で、よし。

[やぶちゃん注:子どもの疳の虫に効くとするなら、回虫駆除薬として知られる紅藻植物門紅藻植物亜門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目フジマツモ科アルシディウム連マクリ属マクリDigenea simplex ではないかと推定する。同種は、別名を「カイニンソウ」(海人草)と言うからである。]

 

○又、一方。

 江戶小日向、本法寺、大丸藥、よし。一粒、三せんづつ也。右、「かなつち」[やぶちゃん注:ママ。金槌。]にて、くだきおき、少しづつ、用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:真宗大谷派高源山隨自意院本法寺。夏目漱石の実家の菩提寺として知られる。ここ漱石の「こゝろ」の「先生」の下宿先の一キロメートル西の直近位置である。漱石が、この周辺の土地勘があったことが、これで判る。

2021/12/09

夏目漱石の「こゝろ」を芥川龍之介はどのように受容したのか?――迂遠なる予告――

私は夏目漱石の「こゝろ」についての考証に於いて、「人後に落ちない」という自信は相応に、ある。それはサイト版の各章にマニアックな「やぶちゃんの摑み」を附したサイト版の「心」初出版で、一つの見解を示したつもりではある。

先生の遺書(一)~(三十六) ―― (単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート)

先生の遺書(三十七)~(五十四) ―― (単行本「こゝろ」「中 兩親と私」相当パート)

先生の遺書(五十五)~(百十) ―― (単行本「こゝろ」「上 先生と遺書」相当パート)

他にも、それ以前に、サイト版の、

「こゝろ」マニアックス

や、

ブログ・カテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』

でも、探究を続けてきたし、さらに古くは、

藪野唯至作「こゝろ佚文」

などというトンデモ贋作も、ものしている。

しかし、それでも私の憂鬱は完成されていないのだ。

それは何故か? それはとりもなおさず、強力な親和性のある自死を選んだ、夏目漱石の最晩年の弟子である芥川龍之介が、その「こゝろ」をどう受容し、且つ、どのような差別化の中で、芥川龍之介が敢えて自死を選んだのかという、芥川龍之介に特化した謎が解明されていないからである。

言及した論文などは、正直、私は全く以って満足していない。それは概ね、漱石「こゝろ」サイドからの、インキ臭い総合的受容史に過ぎないからである。

私は――その禁足地に足を踏み入れずには――最早――居られないのである。

ここでは、詳細は語らないけれも、

「そのヒントは芥川龍之介の書簡と、それに対する年譜的事実が、一つの突破口になるのでなはないか?」

と考えている。

私は、

『それを、もうそろそろ、やらねばならぬ!』

という瀬戸際に来ていることに、数年前から、気づいていた。

何時になるかは、分らぬ。

しかし、これは私の「こゝろ」の集大成として、唯一、やり残しているものであると考えていることを、ここに告白しておく。――――

2020/09/09

記憶して下さい

記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。

2020/08/11

今日――夏目漱石の「心」の連載は終わった / 謝辞――2020年の私の「心」シンクロニティにお附き合い戴いた少数の方に心より感謝申し上げる――

夏目漱石の「心」の連載は――今日――終わった――

初出と私の冗長な注は

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回

を見られたい。

さて。最後は「こゝろ」初版(大正三(一九二四)年九月二十日岩波書店発行)の「下 先生と遺書」の最終章(決定公刊稿)を以下に再現して終わりとする。底本は総ルビであるが、老婆心乍ら、若い読者が迷うかも知れぬと思う部分にのみに初出字だけに附した(ルビの一部に歴史的仮名遣の誤りがあるが、そこは特に載せなかった)。断っておくと、「私」は総て「わたくし」であり、「妻」は総て「さい」である。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字に直した。


   *
        五 十 六

 『私(わたくし)は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生(へいぜい)使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻(さい)の笑談(ぜうたん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積(つもり)だと答へました。私の答へも無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持(こゝろもち)がしたのです。
 それから約一箇月程經ちました。御大葬(ごたいさう)の夜(よ)私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木(のぎ)大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ殉死だと云ひました。
 私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪(と)られて以來、申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間(あひだ)死なう死なうと思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刃(やいば)を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。
 夫(それ)から二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有(も)つて生れた性格の相違と云つた方が確(たしか)かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の敍述で己(おの)れを盡(つく)した積です。
 私は妻を殘して行きます。私がゐなくなつても妻に衣食住の心配がないのは仕合(しあは)せです。私は妻に殘酷な驚怖(きやうふ)を與へる事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬ積です。妻の知らない間(ま)に、こつそり此世から居なくなるやうにします。私は死んだ後で、妻から頓死(とんし)したと思はれたいのです。氣が狂つたと思はれても滿足なのです。
 私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自叙傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却(かへつ)て其方が自分を判然(はつきり)描(ゑが)き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。私は醉興(すゐきよう)に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞(いつは)りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊華山は邯鄲(かんたん)といふ畫(ゑ)を描(か)くために、死期を一週間繰延(くりの)べたといふ話をつい先達(せんだつ)て聞きました。他(ひと)から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中(うち)にあるのだから已(やむ)むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果すためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
 然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません。此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう。妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間(あひだ)に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。
 私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何(なん)にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後(あと)でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞つて置いて下さい。」

 

こ ゝ ろ 終

   *

なお、私のサイトには、2010年に作成した、ブログ版の各章のマニアックな「やぶちゃんの摑み」を、よりブラッシュ・アップしたHTML横書の全三分割版の

心(大正3(1914)年『東京朝日新聞』連載初出版)

 先生の遺書 (一) ~(三十六)→(単行本「こゝろ」「上 先生と私」 相当パート)

 先生の遺書(三十七)~(五十四)→(単行本「こゝろ」「中 兩親と私」 相当パート)

 先生の遺書(五十五)~ (百十)→(単行本「こゝろ」「上 先生と遺書」相当パート)

を用意してある。取り分け――この荒んだ騒動の中――「こゝろ」の授業を受けることが出来なかった今の高校二年の多くの生徒諸君――或いは――「こゝろ」が教科書に載らなくなって、それどころか、おぞましいことに小説を授業で一つも学ばずに卒業してしまうことになる可能性が出来(しゅったい)しつつある未来の生徒諸君のために――拙劣ながらも、私のこれらを一抹の参考に供したい――と思うのである。私の生きている限り――ブログとサイトが残存している限りは――。

   *

因みに。今回のシンクロ公開中、ここに至って、最後に一つ、

「何故、今まで気がつかなかったのか!?!」

と激しく悔いる箇所があった。

第三段落目の、乃木大将の遺書の下りに出る、

『申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時』

『といふ意味の句』

の部分である。乃木の遺書は『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回の私の注で全文(非常に長い)電子化してあるが、当該部は冒頭部にある、

明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死處得度心掛候モ其機ヲ得ス皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候時モ無餘日候折柄

の下線部である。若い人のために読み下すと、

「其の後、死に處(どころ)得たく心掛け候ふも、其の機を得ず、皇恩の厚(こう)に浴し、今日まで、過分の御優遇を蒙(かうぶ)り、」

であろう。

私が何を言いたいか、もうお判りであろう。

Kの遺書の末尾に墨の余りで記されてあったと「先生」の言う、あの一文である(『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回を見よ)。

   *

後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。

   *

以前から執拗に述べている通り、これは『といふ意味の文句』なのであって、「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらう」という言葉そのままが書かれていたのではないのである。それは乃木の遺書のここでの叙述からも明白である。私はそれは漢文か漢文調の禪語のような雰囲気のものではなかったかと推理しているのだが、まさにそのヒントがこの乃木の遺書のそこに実は示唆されているのではないか? という遅過ぎた発見だったのである。

私は即座に相応しい文字列を作れぬが、拙を承知で示すなら、

   欲得死處 不得其機 憶恥今生

「死に處を得んと欲すれども得ず 其の機を得ず 憶ふ 今に生きんことを恥づと」といったようなものではなかったろうか? それは古武士のようなKの辞世に相応しいではないか!――

……しかも……先生、……これはKのまさに薄志弱行と断罪した自己自身の肉体への潔い決別の辞であり……それ以上でも、それ以下でもなく……ひいては皮肉や怨嗟なんぞでは……到底……これ、なかったのですよ……先生……先生の致命的な踏み違いの後半生は、この文句の誤訳に始まったのではありませんか?…………

いや……実はそんなことはどうでもいいのかも知れません……先生……あなたは本当に愛していた人を――「誰にも」――正直に言わなかった……あなたが本当にに愛していたのは――靜でもなければ――学生の「私」でもない――「K」――です――ね……しかも「K」というイニシャルは? それは先生のネガティヴなる――あなた――即ち――あなた自身のトリック・スターに他ならない。

「K」とは――やはり「夏目金之助」――金之助というあなたがペン・ネームで誤魔化し続けた、あなた自身だったのだ――と――今――私は確かに思うのです…………

 
 
 

2020/08/10

本日は「心」最終回の前日である――「記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。」……

 「死んだ積で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟(しげき)で躍り上がりました。然し私が何(ど)の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に

   *

ある声「お前は――何をする資格も――ない――男だ――」

   *

と抑へ付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其一言(げん)で直(すぐ)ぐたりと萎(しを)れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又締め付けられます。私は齒を食ひしばつて、

   *

先生 「何で他(ひと)の邪魔をするのか!」

   *

と怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな聲で笑ひます。

   *

ある声「自分で――よく――知つている癖に――」

   *

と云ひます。私は又ぐたりとなります。

 波瀾も曲折もない單調な生活を續けて來た私の内面には、常に斯(かう)した苦しい戰爭があつたものと思(おもつ)て下さい。妻(さい)が見て齒痒がる前に、私自身が何層倍齒痒い思ひを重ねて來たか知れない位(くらゐ)です。私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が何うしても出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番樂な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです。貴方は何故と云つて眼を睜(みは)るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに來るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を步いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。

 私は今日(こんにち)に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹(ひ)かされました。さうして其妻を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻に凡てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犧牲として、妻の天壽を奪ふなどゝいふ手荒な所作は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻(まは)り合せがあります。二人を一束(ひとたば)にして火に燻(く)べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした。

 同時に私だけが居なくなつた後(のち)の妻を想像して見ると如何にも不憫でした。母の死んだ時、是から世の中で賴りにするものは私より外になくなつたと云つた彼女の述懷を、私は膓(はらわた)に沁み込むやうに記憶させられてゐたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顏を見て、止して可かつたと思ふ事もありました。さうして又凝(ぢつ)と竦(すく)んで仕舞ひます。さうして妻から時々物足りなさうな眼で眺めらるのです。

 記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、噓を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。

   *

長い遺書の中で先生の回顧の時制が遺書を読む学生「私」との出会い以降の時制に完全に重なった叙述となって並走するようになるのは、実は上記の段落の部分が初めてである(遺書冒頭の遺書を送るに至った経過説明部分を除く)。

   *

 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。

   *

その時、私は『明治の精神が天皇に始まって天皇に終った』ような気がしました。

『最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは、必竟、時勢遅れだ』という感じが烈しく私の胸を打ちました。

   *

私は明白(あから)さまに妻にさう云ひました。

妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、

   *

靜 「では、殉死でもなさったらいいでしょう。」

   *

と調戯(からか)ひました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月10日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百九回の全文であるが、一部で歴史的仮名遣を現代的仮名遣に変えるなど、手を加えてある)

   *

――『私だけが居なくなつた後の妻を想像して見ると如何にも不憫』だと感じた先生が、何故、自殺を決行するのか?――この質問に読者は――必ず――答えねばならない義務がある………そうして――その秘蹟の鑰(かぎ)は靜の最後の台詞である…………

附けたりだ……

芥川龍之介はやはり夏目漱石に祟られたと言ってよい。……

私の芥川龍之介「闇中問答」を読み給え――

 

 

2020/08/09

今日――先生の義母(「奥さん」)が死ぬ / 靜のある述懐 / 先生を襲う恐るべき病的な強迫観念 / 「氣の毒」な靜

 母は死にました。私と妻はたつた二人ぎりになりました。妻は私に向つて、

   *

靜 「これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなった。」

   *

『と云ひました。自分自身さへ賴りにする事の出來ない私は、妻の顏を見て思はず淚ぐみました。さうして妻を不幸な女だと思ひました。又』

[やぶちゃん注:先生が涙を流すのが直に描かれるのは本作の中ではこの一箇所だけで特異点である。]

   *

先生「不幸な女だ。」

靜 「何故?」

 靜、泣く。そして、恨めしく言う。

靜 「あなたは普段からひねくれた考えで私を観察していらっしゃる。だから、そんなことをおっしゃるのだわ。」

   *

○ある日ある時

靜 「……男の心と女の心とは何(ど)うしてもぴたりと一つになれないものでしょうか……」

先生「……若い時なら……なれるだろうね。……」

 靜、何か自分の過去を振り返って眺めているような感じでぼんやりと視線を宙に彷徨(さまよ)わせている。
 やがて、微かな――溜息を――洩らす。……

   *

 私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃めきました。初めはそれが偶然外から襲つて來るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃めきに應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何うかしたのではなからうかと疑つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診て貰ふ氣にはなりませんでした。

 私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ每月行かせます。其感じが私に妻の母の看護をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭(むちう)たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起ります。私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました。

 私がさう決心してから今日(こんにち)迄何年になるでせう。私と妻とは元の通り仲好く暮して來ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。然し私の有つてゐる一點、私に取つては容易ならん此一點が、妻には常に暗黑に見えたらしいのです。それを思ふと、私は妻に對して非常に氣の毒な氣がします。

(以上、『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月9日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百八回を元に、引用とシナリオを扱き交ぜた)

   *

 この最終段落の謂いは「こゝろ」の中で――何か非常に奇体な激しい違和感を感じさせる――シンパシーを感じることに強い躊躇を感じさせる――先生の告白の特異点のように私には思われるのである。学生の「私」とのちぐはぐな応酬と同じ違和感を覚えるのだ。即ち、

「さう決心してから」もう「何年」にもなる
『それは具体的に何年ですか?』(私の推定では最大長でも十年である。私の『「こゝろ」マニアックス』の『●「先生」の時系列の推定年表 )』を参照)
   ↓
「私と妻とは元の通り仲好く暮して來「た」
『……はぁ……』
   ↓
「私と妻とは決して不幸では」なかった、いや、確かに「幸福で」あった
『……そうは思っております、が……』
   ↓
「然し私の有つてゐる一點、私に取つては容易ならん此一點が、妻には常に暗黑に見えたらしい」
『そ、それは当たり前でしょう?! 何です? その傍観者みたようなおっしゃり方は!
?!……』
   ↓
「それを思ふと、私は妻に對して非常に氣の毒な氣がします」
『何ですって!?! 抜け抜け抜け抜け、よく、
そう言う謂い方が使えますねえ!?! ボケるのもいいかげんして下さいよ! 先生!!!』(……と、青春の真っ直中の純真な読者の中には、ここで「こゝろ」の本を壁に投げつける者さえもいるかも知れない。それは当然のことだ。嘗ての若き日の私も、やはり、そう思ったことを覚えているからである)


――しかし……さても――しかし、だ!

――いいかね?! 間違えてはいけない!

――先生はこの時――「死んだ氣で生きて行かうと決心し」ている――のである!!

――この時に至っても――である!!!

 

★この時とは「心」の連載は、後、二回分しかないことを指す。
「……こ、これでは……この遺書は……自殺告白の漸近線でしか、ないのではないか!?!」
とイラついた読者が絶対にいたはずだ。
「……どこで一体、我々に納得可能な自決の理由を本当に示して呉れるんだ!?!」
と焦燥を感じ始めた新聞読者が有意にいたに決まっている。

そうしてその望みは、どうなったか?

それは「こゝろ」を初読した私や、あなた方の大多数のように――そこでは最早、ページをめくれば、後二回で終わることが知れるから不安は最も甚だしいものとなる――この長過ぎる遺書にとうに痺れを切らし、我慢が辛抱たまらなくなって、ずっと先(せん)に遺書の終わりのパートを見てしまった読者も多いだろう。実際、「こゝろ」の学生の「私」でさえ受け取った直後にそうしているのだし、私もそうだったから。

そうして、その不安は、結果して、その危惧通りとなってしまったと感じた読者が、やはり。過半を占めたであろう。

その自死の決断とその理由は――一見――やはり先生よろしく――「不得要領のもの」であり――『ちょっと待ってよ!』『何じゃ? こりゃあ!?』という、聊か「失望させられた」ものとなって――多くの読者の前に立ち現れることとなるからである。…………

 

2020/08/08

今日の先生の不吉な恐るべき魔の手の予覚

× Kのことを一時も忘れる事が出来ないという強迫観念を駆逐する手段①

読書に没頭して勉強をし、その結果を世間に公開する日の来るのを待とうとした。→既に頓挫

× Kのことを一時も忘れる事が出来ないという強迫観念を駆逐する手段②

『酒に魂を浸して、己れを忘れやうと試み』るも、『此淺薄な方便(はうべん)はしばらくするうちに私を猶厭世的にし』『た。私は爛醉(らんすゐ)の眞最中に不圖自分の位置に氣が付』き、『自分はわざと斯んな眞似をして己れを僞つてゐる愚物(ぐぶつ)だといふ事に氣が付く』のであった。『すると身振ひと共に眼も心も醒めてしまひ』、『時にはいくら飮んでも斯うした假裝狀態にさへ入り込めないで無暗に沈んで行く塲合も出て來』るようになってしまった。『其上技巧で愉快を買つた後(あと)には、屹度(きつと)沈鬱な反動がある』のであり、そうして『私は自分の最も愛してゐる妻と其母親に、何時でも其處を見せなければならなかつた』。→典型的なアルコール性精神病の疑似強迫神経症的病態の模範的症例

   *

静 「『何處が氣に入らないのか遠慮なく云つて』下さい」

静 「あなた『の未來のために酒を止め』て下さい」

静 「貴方は此頃人間が違つた」

静 「Kさんが生きてゐたら、貴方もそんなにはならなかつたでせう」

先生「左右かも知れない」

『と答へた事があ』つた『が、私の答へた意味と、妻の了解した意味とは全く違つてゐた』。だ『から、私は心のうちで悲しかつた』。『それでも私は妻に何事も說明する氣にはなれ』なかつた。『私は時々妻に詫(あや)ま』つ『た。それは多く酒に醉つて遲く歸つた翌日(あくるひ)の朝で』、そうすると『妻は笑』つ『た。或は默つてゐ』『た。たまにぽろ/\と淚を落す事もあ』つ『た。私は何方にしても自分が不愉快で堪まらなかつた』。『だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのと詰(つ)まり同じ事になる』のであると気づき、結果して『私はしまひに酒を止め』『た。妻の忠告で止めたといふより、自分で厭になつたから止めたと云つた方が適當で』ある。――

   *

酒は止めたけれども、何もする氣にはなりません。仕方がないから書物を讀みます。然し讀めば讀んだなりで、打ちやつて置きます。私は妻から何の爲に勉强するのかといふ質問を度々受けました。私はたゞ苦笑してゐました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益(ます/\)悲しかつたのです。私は寂寞(せきばく)でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな氣のした事も能くありました。

 同時に私はKの死因を繰返し/\考へたのです。其當座は頭がたゞ戀の一字で支配されてゐた所爲(せゐ)でもありませうが、私の觀察は寧ろ簡單でしかも直線的でした。Kは正しく失戀のために死んだものとすぐ極めてしまつたのです。しかし段々落ち付いた氣分で、同じ現象に向つて見ると、さう容易(たやす)くは解決が着かないやうに思はれて來ました。現實と理想の衝突、―それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決(しよけつ)したのではなからうかと疑ひ出しました。さうして又慄(ぞつ)としたのです。私もKの步いた路を、Kと同じやうに辿(たど)つてゐるのだといふ豫覺が、折々風のやうに私の胸を橫過(よこぎ)り始めたからです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月8日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百七回より。一部を加工して示した)

   *

「同時に私はKの死因を繰返し/\考へた」Kの死に対する私の解釈の変容過程が示される。以下、私の板書。

   *

△「失恋のため」

☆先生は『私の裏切りのため』とは言っていない点に注意!

↓(あの自死はそんな単純な理由では理
↓ 解出来るような行為ではない~「失
↓ 恋」を理由として排除したわけでは
↓ ない点に注意!)

○「現実と理想の衝突」

↓(この説明では不十分~「現実と理想
↓ の衝突」を理由として排除したわけ
↓ ではない点に注意!)

◎「Kが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうか」という結論に至る

↓(そうしてKの自死の場で感じたのと
↓ 同じように「また慄(ぞっ)とした」
↓ 何故なら)

「私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚」を持ってしまったから

   *

『――「Kが」「たつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果」、自死したように

――「今の私」も「たつた一人で淋しくつて仕方がな」い

――そしてその「結果」として、私も自死するしかないのではないか』

という、この先生の《絶対の孤独》の観念こそが《「心」の文字通りの――前・核「心」――》である。

――何故、前(ぜん)核心であるか?

本作の最後の先生は「淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果」として自決したのではないからである――

……余すところ……「心」は三回分である……

2020/08/07

今日の先生――透視幻覚2――そして「Kのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識」する先生――

以下、『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月7日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百六回より。一部の傍線太字を私が施した)


 「私の亡友に對する斯うした感じは何時迄も續きました。實は私も初からそれを恐れてゐたのです。年來の希望であつた結婚すら、不安のうちに式を擧げたと云へば云へない事もないでせう。然し自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによると或は是が私の心持を一轉して新らしい生涯に入る端緖(いとくち)になるかも知れないとも思つたのです。所が愈(いよ/\)夫として朝夕妻と顏を合せて見ると、私の果敢ない希望は手嚴しい現實のために脆くも破壞されてしまひました。私は妻と顏を合せてゐるうちに、卒然Kに脅(おびや)かされるのです。つまり妻が中間に立つて、Kと私を何處迄も結び付けて離さないやうにするのです。妻の何處にも不足を感じない私は、たゞ此一點に於て彼女を遠ざけたがりました。

   *

これはもう二人が結婚のかなり早い時期から、とうにセックスレスの関係にあったことの示唆に他ならないと私は考える。

「子供は何時迄經つたつて出來つこないよ」と先生が云つた。
 奧さんは默つてゐた。「何故です」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と云つて高く笑つた。

という「第八回」の、あの奇体におぞましい先生の異常な高笑いの声が響き返してくるのである。

   *

 私は一層(いつそ)思ひ切つて、有の儘を妻に打ち明けやうとした事もあります。然しいざといふ間際(まきは)になると自分以外のある力が不意に來て私を抑へ付けるのです。私を理解してくれる貴方の事だから、說明する必要もあるまいと思ひますが、話すべき筋だから話して置きます。其時分の私は妻に對して己(おのれ)を飾る氣は丸でなかつたのです。もし私が亡友(ぼういう)に對すると同じやうな善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し淚をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫(ひとしづく)の印氣(いんき)でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい。

   *

これらは先生の驚くべきエゴイスティクな理屈にならない理屈である。しかも、驚くべきことに、漱石は、これを、おぞましいエゴイズムとは微塵も感じていないのである。いやさ、確信犯だということなのである。それだけに先生=漱石の精神の疾患は救い難く重篤であると言える。

   *

然し私の動かなくなつた原因の主(おも)なものは、全く其處にはなかつたのです。叔父に欺むかれた當時の私は、他(ひと)の賴みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を惡く取る丈あつて、自分はまだ確な氣がしてゐました。世間は何うあらうとも此已(おれ)は立派な人間だといふ信念が何處かにあつたのです。それがKのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらぶらしました。他に愛想(あいそ)を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなつたのです。

   *

ここに至っても「Kのために美事に破壞されてしまつて」という表現を用いて、何らの自己矛盾や自己合理化を認知していない先生=漱石は、やはり恐ろしく変だ……いや……無論、俺もそうさ……しかし……どうだ?……お前も、あんたも、皆……実は――そうなんじゃないのか!?!…………

 

2020/08/06

今日、先生は靜と結婚する――そして……透視幻覚1

Kの葬式後……人々のK自死の謎への疑問に、先生の内なる「早く御前が殺したと白狀してしまへといふ聲」という声が聴こえる―― 

「奥さん」と靜と先生が転居し、そうして遂に先生と靜が結婚する……

   *

 卒業して半年も經たないうちに、私はとう/\御孃さんと結婚しました。

 外側から見れば、萬事が豫期通りに運んだのですから、目出度と云はなければなりません。

 奥さんも御孃さんも如何にも幸福らしく見えました。

 私も幸福だつたのです。

 けれども私の幸福には暗い影が隨(つ)いてゐました。

 私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました。

 結婚した時御孃(おじやう)さんが、―もう御孃(おちやう)さんではありませんから、妻(さい)と云ひます。

 ―妻が、何を思ひ出したのか、

「二人でKの墓參をしやう」

と云ひ出しました。

 私は意味もなく唯ぎよつとしました。

「何うしてそんな事を急に思ひ立つたのか」

と聞きました。妻は

「二人揃つて御參りをしたら、Kが嘸(さぞ)喜こぶだらう」

と云ふのです。

 私は何事も知らない妻の顏をしけじけ眺めてゐましたが、妻から

「何故そんな顏をするのか」

と問はれて始めて氣が付きました。

 私は妻の望み通り二人連れ立つて雜司ケ谷へ行きました。

 私は新らしいKの墓へ水をかけて洗つて遣りました。

 妻は其前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。

 妻は定めて私と一所になつた顚末(てんまつ)を述べてKに喜こんで貰ふ積でしたらう。

 私は腹の中で、たゞ

自分が惡かつた

と繰り返す丈でした。

 其時妻はKの墓を撫でゝ見て

「立派だ」

と評してゐました。其墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行つて見立たりした因緣があるので、妻はとくに左右云ひたかつたのでせう。

 私は

――其新らしい墓と、

――新らしい私の妻と、

それから

――地面の下に埋(うづ)められたKの新らしい白骨(はくこつ)とを思ひ比べて、運命の冷罵(れいば)を感ぜずにはゐられなかつたのです。

 私は其れ以後決して妻と一所にKの墓參りをしない事にしました。

 

(以上、『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月6日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百五回の一部を、改行と太字と記号を挿入して、オリジナルに示した

   *

考えて見給え!――先生の死後――Kの墓を参る者は誰か――誰もいないか?――いや――靜だけは、屹度、彼女の意志で参るであろう――それが残されて自立した靜の唯一の先生に反した行動であろう……しかし――学生の「私」はどうかね?――「K」というイニシャルでしか「私」に伝えることを拒否され、靜に事実を語るなという絶対禁足を考えれば――どうだ?――「私」も参ることはあり得ない……

靜の懊悩……学生「私」の懊悩……遂に先生は新しい犠牲者としての靜と学生の「私」を創り出しているのでは……あるまいか?…………

  

 

 

2020/08/03

今日――Kは自死する――(今日から三日分を一挙に連続で掲げて示す)

 何時(いじ)も東枕で寢る私が、其晩に限つて、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因緣かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風で不圖眼を覺したのです。見ると、何時も立て切つてあるKと私の室との仕切の襖が、此間の晩と同じ位開いてゐます。けれども此間のやうに、Kの黑い姿は其處には立つてゐません。私は暗示を受けた人のやうに、床の上に肱(ひぢ)を突いて起き上りながら、屹(きつ)とKの室を覗きました。洋燈(ランプ)が暗く點つてゐるのです。それで床も敷いてあるのです。然し掛蒲團は跳返(はねかへ)されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです。

 私はおいと云つて聲を掛けました。然し何の答もありません。おい何うかしたのかと私は又Kを呼びました。それでもKの身體は些(ちつ)とも動きません。私はすぐ起き上つて、敷居際(しきいきは)迄行きました。其所から彼の室の樣子を、暗い洋燈の光で見廻して見ました。

 其時私の受けた第一の感じは、Kから突然戀の自白を聞かされた時のそれと略(ほゞ)同じでした。私の眼は彼の室の中(なか)を一目見るや否や、恰も硝子(がらす)で作つた義眼のやうに、動く能力を失ひました。私は棒立に立竦(たちすく)みました。それが疾風(しつぷう)の如く私を通過したあとで、私は又あゝ失策(しま)つたと思ひました。もう取り返しが付かないといふ黑い光が、私の未來を貫ぬいて、一瞬間に私の前に橫はる全生涯を物凄く照らしました。さうして私はがた/\顫(ふる)へ出したのです。

 それでも私はついに私を忘れる事が出來ませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは豫期通り私の名宛になつてゐました。私は夢中で封を切りました。然し中には私の豫期したやうな事は何にも書いてありませんでした。私は私に取つて何んなに辛い文句が其中に書き列ねてあるだらうと豫期したのです。さうして、もし夫が奥さんや御孃さんの眼に觸れたら、何んなに輕蔑されるかも知れないといふ恐怖があつたのです。私は一寸眼を通した丈で、まづ助かつたと思ひました。(固(もと)より世間體(せんけんてい)の上丈で助かつたのですが、其世間體が此塲合、私にとつては非常な重大事件に見えたのです。)

 手紙の内容は簡單でした。さうして寧ろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するといふ丈なのです。それから今迄私に世話になつた禮が、極あつさりした文句で其後に付け加へてありました。世話序に死後の片付方も賴みたいといふ言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて濟まんから宜しく詫(わび)をして吳れといふ句もありました。國元へは私から知らせて貰ひたいといふ依賴もありました。必要な事はみんな一口(ひとくち)づゝ書いてある中(なか)に御孃さんの名前丈は何處にも見えませんでした、私は仕舞迄讀んで、すぐKがわざと回避したのだといふ事に氣が付きました。然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。

 私は顫へる手で、手紙を卷き收めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆(みん)なの眼に着くやうに、元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです。(ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回全文)

 「私は突然Kの頭を抱へるやうに兩手で少し持ち上げました。私はKの死顏が一目見たかつたのです。然し俯伏(うつぶし)になつてゐる彼の顏を、斯うして下から覗き込んだ時、私はすぐ其手を放してしまひました。慄(ぞつ)とした許(ばかり)ではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今觸つた冷たい耳と、平生に變らない五分刈の濃い髪の毛を少時(しばらく)眺めてゐました。私は少しも泣く氣にはなれませんでした。私はたゞ恐ろしかつたのです。さうして其恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺戟して起る單調な恐ろしさ許りではありません。私は忽然と冷たくなつた此友達によつて暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。

 私は何の分別もなくまた私の室に歸りました。さうして八疊の中をぐるぐる廻り始めました。私の頭は無意味でも當分さうして動いてゐろと私に命令するのです。私は何うかしなければならないと思ひました。同時にもう何うする事も出來ないのだと思ひました。座敷の中をぐる/\廻らなければゐられなくなつたのです。檻の中へ入れられた熊の樣の態度で。私は時々奧へ行つて奥さんを起さうといふ氣になります。けれども女に此恐ろしい有樣を見せては惡いといふ心持がすぐ私を遮ります。奥さんは兎に角、御孃さんを驚ろかす事は、とても出來ないといふ强い意志が私を抑えつけます。私はまたぐる/\廻り始めるのです。

 私は其間に自分の室の洋燈(ランプ)を點けました。それから時計を折々見ました。其時の時計程埒(らち)の明かない遲いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかつた事丈は明らかです。ぐる/\廻りながら、其夜明を待ち焦れた私は、永久に暗い夜が續くのではなからうかといふ思ひに惱まされました。

 我々は七時前に起きる習慣でした。學校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合ないのです。下女は其關係で六時頃に起きる譯(わけ)になつてゐました。然し其日(そのに)私が下女を起しに行つたのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云つて注意して吳れました。奥さんは私の足音で眼を覺したのです。私は奥さんに眼が覺めてゐるなら、一寸私の室迄來て吳れと賴みました。奥さんは寢卷の上へ不斷着の羽織を引掛て、私の後(あと)に跟(つ)いて來ました。私は室へ這入(はい)るや否や、今迄開いてゐた仕切の襖をすぐ立て切りました。さうして奥さんに飛んだ事が出來たと小聲で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は顋(あご)で隣の室を指すやうにして、「驚ろいちや不可(いけ)ません」と云ひました。奥さんは蒼い顏をしました。「奥さん、Kは自殺(しさつ)しました」と私がまた云ひました。奥さんは其所に居竦(ゐすく)まつたやうに、私の顏を見て默つてゐました。其時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「濟みません。私が惡かつたのです。あなたにも御孃さんにも濟まない事になりました」と詫(あや)まりました。私は奥さんと向ひ合ふ迄、そんな言葉を口にする氣は丸でなかつたのです。然し奥さんの顏を見た時不意に我とも知らず左右云つて仕舞つたのです。Kに詫まる事の出來ない私は、斯うして奥さんと御孃さんに詫(わ)びなければゐられなくなつたのだと思つて下さい。つまり私の自然が平生の私を出し拔いてふら/\と懺悔の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釋しなかつたのは私にとつて幸ひでした。蒼い顏をしながら、「不慮の出來事なら仕方がないぢやありませんか」と慰さめるやうに云つて吳れました。然し其顏には驚きと怖れとが、彫(ほ)り付けられたやうに、硬く筋肉を攫(つか)んでゐました。(ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月4日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百三回全文)

 「私は奥さんに氣の毒でしたけれども、また立つて今閉めたばかりの唐紙を開けました。其時Kの洋燈(ランプ)に油が盡きたと見えて、室の中(なか)は殆ど眞暗でした。私は引き返して自分の洋燈を手に持つた儘、入口に立つて奥さんを顧みました。奥さんは私の後(うしろ)から隱れるやうにして、四疊の中を覗き込みました。然し這入(はい)らうとはしません。其處は其儘にして置いて、雨戸を開けて吳れと私に云ひました。

 それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあつて要領を得てゐました。私は醫者の所へも行きました。又警察へも行きました。然しみんな奥さんに命令されて行つたのです。奥さんはさうした手續の濟む迄、誰もKの部屋へは入(い)れませんでした。

 Kは小さなナイフで頸動脈を切つて一息に死んで仕舞つたのです。外に創(きず)らしいものは何にもありませんでした。私が夢のやうな薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ばしつたものと知れました。私は日中の光で明らかに其迹を再び眺めました。さうして人間の血の勢といふものゝ劇しいのに驚ろきました。

 奥さんと私は出來る丈の手際と工夫を用ひて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸ひ彼の蒲團に吸收されてしまつたので、疊はそれ程汚れないで濟みましたから、後始末はまだ樂でした。二人は彼の死骸を私の室に入れて、不斷の通り寢てゐる體(てい)に橫にしました。私はそれから彼の實家へ電報を打ちに出たのです。

 私が歸つた時は、Kの枕元にもう線香が立てられてゐました。室へ這入るとすぐ佛臭(ほとけくさ)い烟(けむり)で鼻を撲(う)たれた私は、其烟の中に坐つてゐる女二人を認めました。私が御孃さんの顏を見たのは、昨夜來此時が始めてゞした。御孃さんは泣いてゐました。奥さんも眼を赤くしてゐました。事件が起つてからそれ迄泣く事を忘れてゐた私は、其時漸(やうや)く悲しい氣分に誘はれる事が出來たのです。私の胸はその悲しさのために、何の位(くらゐ)寬ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤(うるほひ)を與へてくれたものは、其時の悲しさでした。

 私は默つて二人の傍(そば)に坐つてゐました。奥さんは私にも線香を上げてやれと云ひます。私は線香を上げて又默つて坐つてゐました。御孃さんは私には何とも云ひません。たまに奥さんと一口二口(ふくち)言葉を換(かは)す事がありましたが、それは當座の用事に即(つ)いてのみでした。御孃さにはKの生前に就いて語る程の餘裕がまだ出て來なかつたのです。私はそれでも昨夜の物凄い有樣を見せずに濟んでまだ可かつたと心のうちで思ひました。若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、其爲に破壞されて仕舞ひさうで私は怖かつたのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端迄來た時ですら、私はその考を度外に置いて行動する事は出來ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄(みだ)りに鞭(むち)うつと同じやうな不快がそのうちに籠つてゐたのです。[やぶちゃん注:ここまでが自死当日のシークエンスとなる。]

 國元からKの父と兄が出て來た時、私はKの遺骨を何處へ埋(うめ)るかに就いて自分の意見を述べました。私は彼の生前に雜司ケ谷近邊(きんへん)をよく一所に散步した事があります。Kには其處が大變氣に入つてゐたのです。それで私は笑談(ぜうだん)半分に、そんなに好(すき)なら死んだら此處へ埋(うめ)て遣らうと約束した覺えがあるのです。私も今其約束通りKを雜司ケ谷へ葬つたところで、何の位の功德(くどく)になるものかとは思ひました。けれども私は私の生きてゐる限り、Kの墓の前に跪(ひざ)まづいて月々私の懺悔を新たにしたかつたのです。今迄構ひ付けなかつたKを、私が萬事世話をして來たといふ義理もあつたのでせう、Kの父も兄も私の云ふ事を聞いて吳れました。ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月5日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百四回全文)

   *

私の三回の細かなシーンへの偏執的な考察は、それぞれの回の私の「摑み」を読まれたい。

 

Kの霊のために――ここは――「靜」かに終わることとする――

 

 

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